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ひっかき傷でもいい


 思うに、いつもの嫌がらせに違いない。それを渡されたとき、そう思わずにはいられなかった。
 彼は一応、私の中の分類的には『幼馴染』にあたる。とはいえ、教育とかいう無垢な少年少女に課された服役義務のような何かを、代わり映えしない愛すべき愚か者たちとエスカレーター式にこなすくらいしかすることのないこの退屈な田舎だ。放課後になれば誰の家にでも自転車で行ける、国会の議席みたいに半分ずつしか変わらない隣り合った二クラス六十人。少女漫画の定義に倣って、小学校から顔見知りのこいつらを全員そう呼ぶのはいささかロマンに欠けるので、私が認める『幼馴染』は彼を含めた十人ちょっと。今年で十周年を迎える精鋭たちの中でも、幼稚園入園前から面識があった彼は特に『名誉幼馴染』とでも呼んでやっていいくらい気にかけているというのに。
「はい。書けないからあげる」
 気が付いたときには、当時の可愛げは腹立たしいくらいに掠れて見えなくなっていた。
 前の席から手渡された赤いボールペンをしげしげと見つめる。透明なボディから透けて見える内側の軸は、まだたっぷりと赤く染まっているようにも見えて。インクが詰まっているのではないかと抗議しようとしたが、変声期の途中のわりによく通るはしゃぎ声はとっくにそっぽを向いて、幼馴染未満のクラスメイトめがけて飛ばされていた。
 仕方ない、と溜息をついて、生死不明のボールペンを乱雑にペンケースに放る。捨てたら捨てたで厄介なのだ、こいつは。仲間を呼んで、泣き言を言って、一斉に糾弾させて。陰湿なスライムか。
 バレないように家で処分して、「家の中だけで使ってる」とでも言い張って誤魔化し続けよう。使えないペンを「家で使ってる」とは何事かと、更に変な目で見られそうだが、そのときはそのときだ。
 
* * *
 
 ほんのいたずら心。そこに淀んだ復讐心は無かったと信じたい。
 ほとんどの生徒が教室を空ける昼休み、彼も例に漏れずグラウンドに出て行ったようだ。一階の教室から辛うじて覗ける隅の方で、何人かと一緒に円陣バレーに加わっているのが見える。
 私も図書室に本を返すついでに、生徒会室へ寄っていこう――そう思って自分の席を振り返ったそのとき、『それ』が目に入ってしまった。
 次の授業が移動教室だから、あらかじめ出しておいたのだろう。彼の机の隅に揃えて置かれた、ボロいペンケースと理科の授業道具一式――表紙が折れた教科書に、記名が掠れたA4ファイル。一年生から使わされているせいか相当の年季が入っているそれらに対して、ひときわ目を惹く『それ』は机の中央に雑に放られていた。
「…………」
 本当に、何を思ったのかは自分でも正確には分からない。ただ、そこにちょうどいいものがあったから。ありふれた犯罪と同じで、たったそれだけのことでも説明できてしまうような衝動。私を動かしたのは、そんな単純すぎる感情だった。
 教科名もクラスも名前も書いていない、まっさらなノートの表紙を開く。すっかり思春期という毒に侵された彼に無垢な部分が残っているとするならば、きっとこんな感じなのだろう。将来使うかどうかまだ分からない化学式を書き込まれるのか、この地域で近年危惧されている大型地震の情報が載せられるのか、天気図の読み方の練習問題の答えを繰り返し写されるのか。理科のノートとして定義された以上ある程度の限定はされるものの、未来への可能性に満ちた鮮やかな白が昼下がりの日差しを反射する。
 しかし、一ページ目の右端、ちょうど私の影が重なるところは灰色に落ち込んでいて。新たな一ページが、私によって濁った色を少しだけたたえている。その絵面にえもいわれぬ興奮をおぼえたのは間違いなかった。
 ペンケースの奥に引っ込めていた、あの赤ペンを取り出す。よく見ると赤色は軸そのものの色で、授業中に何度か試してもその先端は紙にひっかき傷を残すばかりだった。
 だが、それでいい。血の跡なんて残されるのは不本意だ。後腐れなく、本人さえも気付かない傷痕だけ残ればいい。せいぜい無垢なまま月日を重ねて、ふと見つけたときには時効になるくらいが最高ではないか。
 凶器を強く握って、清らかな灰の隅に擦りつける。大きな雲が流れてきたのか、散らされた白はほんの十数秒ほど完全な濁りを顔に滲ませていた。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:33

勇者降臨

 樹々の間隙を風が駆けて、重なり合う葉が擦れた。
 樹海の奥深くに、木々が倒れてできた土地がある。
 ……ヤツだ。
 暗闇色の体殻、四本の足、鼻と口だけの頭部。体高は3.7メートル。
 クエストリストにあった通りだ、間違いない。
 ヤツは、こっちを見ている!
 俺たちより先に、ヤツは気付いていた!
「俺が合図をしたら、チャールは矢を放て。同時に俺は左、ルージェは右に回り込んでヤツを挟み撃ちにする」
 ヤツが咆哮を吐いた。大砲のようなそれは木の葉を幾つも落とした。
「いくぞ!」

    *

 最大規模の冒険者ギルドを持つ街、ギルディアは宴で盛り上がっていた。
「勇者様ー! ヤツに一泡ふかせてやってくれ!」
「勇者のご出陣だ! 派手に飲もうぜ!」
「サインくださーい!」
 俺たちはクエストリストに数年前からある、黒龍の討伐に向かうのだった。
 街は宴一色で、俺たちを勇者と呼び、祝った。
 だが俺たちは勇者ではない。冒険者だ。
 クエストを受けると知った街の長は、代々この街に受け継がれてきた『勇者の剣』の認定試験を俺たちに施した。試験は簡単なことで、『勇者の剣』を鞘から抜くことができた者を正式な勇者とするのだ。街の長は俺が勇者になると確信していたそうだが、結果は違った。パーティの誰一人、剣を抜くことはできなかった。長はこれを民に隠して、俺たちを送り出した。
「疾風の双剣使いルージェ、千里眼の弓使いチャール、豪傑の大剣使いレイド、以上三名の出陣を確認する。ご武運を」
 街の門が開き、太陽が俺たちを照らした。
「父さん……」
 隣には息子が俺を見上げていた。
「必ず帰ってくる。母さんを頼む」
 俺たちは門を出た。

    *

 ヤツの体殻に矢が弾かれる音がした。
「隊長! ヤツに傷一つ入らない!」
「構わん、撃ち続けろ! 引きつけてくれッ!」
 ヤツがチャールを捉えたとき、ルージェがヤツの首筋に跳んだ。だがヤツは矢を無視してルージェを左の鉤爪で殴り飛ばした。
 左前脚が浮いたッ! 右前脚だ、ヤツを転ばせる!
「くらえーーこのーー真っ黒野郎ぉ!!」
 俺は大剣をヤツの足裏方向から斜めに切り上げた……が、大剣は虚しく同じ力で弾かれた。体勢を直したヤツが身体を捻りながら俺に喰らいつく。とっさに大剣を地に刺して盾にすると、ヤツの門歯が俺の大剣を食い破った。その衝撃で俺はヤツの射程外ーー後ろの木まで吹き飛ばされた。
 勝てない……ヤツを倒すことはできない。
 俺はガラスペンとカキツバタのインクを懐から取り出してギルドメンバーの手帳に記し始めた。
『コクリュウのコウドウケイコウ 19.8.12 レイド・フェイ』
 俺の姿を見て二人が頷いた。
『チカくにいるモノをコウゲキする』
 しかしヤツは近くにいる俺ではなく、ルージェに向かって進み出した。ルージェは先の傷で流血している、満足に動ける身体でない、まずい!
 俺はインクを付けなおして残りを奴に向かって投げつけた。割れたビンのインクがヤツのまわりに飛び散ってカキツバタが強く薫った。だがヤツはルージェに猛進している!
『フショウしたモノをユウセンしてコウゲキする。インクをなげつけたがムシした。ニオイでハンダンしない?』
 ルージェは僅かに動く身体でヤツの数撃を受け流している。その間、チャールは携帯した矢の瓶を一つずつ撃ち続けている。
『ヒョウメンはカタく、ヤイバはトオらない。ウゴきはリュウのナカでもオソい。ヤクビンはスベてキかない』
 ルージェがやられた。ヤツが俺を見た。インクが掠れ始めた。
「……ぐっ!」
 インクペンを身体に刺し、血液を取り込ませる。
『ルージェ・ブルド シボウ ホショクによる』
 ヤツに向かってチャールが走り出した。ヤツがチャールを蹴り飛ばす。
『よりウゴくモノをネラう』
 ヤツがチャールに口を開いたとき、チャールは手持ちの爆弾を身体に巻きつけてヤツの口に飛び込んだ。
『チャール・アーチ シボウ ジバクによる』
 血液が飛び散った。ヤツが固まった。ヤツは周りを見回している。
『バクハツのノチ、シバラくコチラをミウシナった』
 ヤツが気を取り戻し、俺に進んだ。ヤツの口の中が俺にはっきり見えるようになった。真正面だ。死ぬ。思わず笑った。
「好きなだけくらうといい…………人間の恐ろしさを……な!」
 ヤツが口を閉じる直前に右足で地を蹴る。
「貴様好きだろう? 血が!」
 右足を切らせて口の中に飛び込んだ。爆発で焼けた口腔に折れた刃の先を突き刺す。
 ヤツの叫声を最も近い所で聴きながら、俺は勇者の降臨を願った。

    *

「勇者一行よ、魔人の討伐と貿易街の民の救出、ご苦労だった。私からも感謝申し上げよう」
「ありがとうございます」
 ギルディアのギルドセンターで俺たちは旅の疲れを癒していた。
「おっ、報酬はどうだった?」
「なかなかだったよ、今日は贅沢しようか」
「やったぜ、最近血なまぐさかったし、そろそろ病んじまうところだったんだ」
 俺は真っ先に席を立ってガイドブックを開いた。旅の間に街に変化はあっただろうか。
「なあ、ロイド、二人で飲みにいかないか?」
「おっ、勇者様直々ご指名っすか? 嬉しい限りだぜ」
 俺と勇者は酒場に、他のメンバーは貿易街解放パーティーに出かけた。

「久しぶり、女将さん。今日は仲間を連れてきた」
「久しぶりだねぇおつかれさん。あら珍しい」
 勇者はいつも一人でここにくるようで、特等席のカウンターに座った。
「あんた……見たことあるような顔だわ」
「世界には似てる人が数人はいるって聞いたことあるけど? それとももしかして、レイド・フェイを知ってる?」
「あなた、レイドの子……?」
「やっぱり、父さんの行きつけはここだったんだ、聞いたことある店の名前だとおもったよ」
 俺の父、レイドはかつて勇者と呼ばれて、戦死したらしい。その父はいつも、俺が大人になったら行きつけの酒場に連れて行ってやるって言っていた。
「レイドからよく話を聞いたわ。あんた、お父さんの背中を追って冒険者に……?」
「そうなんだ、そこでこの勇者様に拾ってもらったんだ」
「今日彼を連れてきたのは、その話なんだ」
 この勇者は本物だ。父が抜くことのできなかった『勇者の剣』を抜くことができた唯一の人間だ。『勇者の剣』は鞘を抜いた勇者の手から離れることはなく、一振りで大地を切り裂くほどの力があると言われている。勇者はその力をめったに使わず、普段は冒険者に支給される剣で戦う。勇者曰わく「一度剣を振るうとその日には剣を持てなくなる」らしい。
「次のクエストなんだが……黒龍の話は知っているよな、アレを倒す」
 勇者が突然、真剣な茶黒の眼差しで俺に言った。
「そこでだ、今回は僕一人で行こうと思う」
 珍しい。勇者はいつも仲間と共に困難に立ち向かうことを好むのに。
「いやまて勇者。仲間を連れて行かないっていうのはわかる。ヤツは普通の攻撃が通用しない、特にヤバいやつだからな。だがよ、俺を連れて行かないっていうのは流石に許容できねえな」
 俺の不満な声で勇者は笑った。
「ふふ、そういってくれると思ってな、君だけは連れて行こうと思ったんだ。頼もしいよ」
「あえ、なんだよ、最初からはっきり言ってくれよ」
 間抜けな声を出させやがって。勇者はぱっと見紳士なんだが、実際変な奴なんだよな。
「言い切る前に君が挟んだんじゃあないか。全く、せっかちなやつだ」
 俺たちはグラスをぶつけて笑った。
 女将さんはずっと微笑んでいた。

「さて、こいつを勇者に見せるときがきたかな」
 父が死んだという報告とともに俺のもとに届いたのは、先の折れたガラスペンといくらか破れた手帖だった。
 手帖にはカキツバタの色素で書かれた父のメモがあったが、途中からインクが掠れている。そこからは固まった血が遺っているが、続きは乱暴に破られていて内容はわからない。ガラスペンはインク切れで、血を吸わせたと考えられるがその痕跡は残っていない。
 父は、ヤツの弱点を最期まで見つけられなかったのか……?
「そのガラスペン、君がいつも身に付けているものか」
「ああ、父さんの形見だ。父さんは毎回これで報告書を書いていて、クエストの時も持って行った。どんなときでも冷静さを失わないためなんだとよ」
「そうか……君のお父さんはかなりの手練れだったそうだね、黒龍にも一撃与えたって調査がある」
 父が帰ってこなかったので、調査隊が派遣された。
 黒龍の巣には肉片一つ亡く、固まった数滴の血と折れた大剣の柄の辺りが残されていて、大剣には唾液と細胞が残っていた。大剣で口腔を貫いたと考えられているが、血痕が無いのが不自然なのだ。
「なあ、ヤツってどうやって生きているんだ? 唾液が出るってことは、口で消化できるってことだよな」
「うん、気になって情報を探したんだが、なかったよ。多分、補食するんだろうけれど、それをみたときにはもう助からないのかもね」
「だよな……」
 ヤツは父の仇なのだ。俺はずっと情報を探しているが、未だわからないことが多い。
「これ以上還らない犠牲者を増やしたくはない。ロイド、黒龍をーーヤツを倒そう。『勇者の剣』なら一度だけ、ヤツに致命傷を負わせられる。ヤツに僕が撃ち込める程の隙を作ってほしいんだ」
「ああ、任せとけ。ヤツを……倒してくれよ」
「うん。一緒に倒そう」

    *

 最大規模の冒険者ギルドを持つ街、ギルディアは宴で盛り上がっていた。
「勇者様ー! ヤツに一泡ふかせてやってくれ!」
「勇者のご出陣だ! 派手に飲もうぜ!」
「サインくださーい!」
 俺たちはクエストリストに十数年前からある、黒龍の討伐に向かうのだった。
「勇者の息子・大剣使いのロイド、『勇者の剣』に選ばれし伝説の勇者、以上二名の出陣を確認する。ご武運を」
 街の門が開き、太陽が俺たちを祝福した。

    *

 樹々の間隙を風が駆けて、重なり合う葉が擦れた。
 樹海の奥深くに、木々が倒れてできた巣がある。
 ……ヤツだ。
 暗闇色の体殻、四本の足、鼻と口だけの頭部。体高は3.7メートル。
 クエストリストにあった通りだ、間違いない。
 ヤツは、地面を向いてなにかにがっついている。
 俺たちはヤツに気付かれていない! ヤツは補食している! 肉を喰らい、血を啜っている!
「僕は右から、ロイドは左から回り込もう。挟み撃ちだ、いくぞ!」
 俺たちが走り出して、ヤツが咆哮を吐いた。大砲のようなそれは木の葉を幾つも落とした。
 ヤツは俺の方を向いたが、すぐに勇者を鼻で追ったーーなぜだ? なぜ今俺を狙わなかった? 俺と勇者の違いはなんだ? どちらもヤツとの距離は同じで、違いといえば、走る速さぐらいだ。俺は大剣を背負っているから、どうしても遅くなる。だが他に理由はあるか?
 勇者にヤツが右の前脚で振りかぶる。勇者はそれを寸前で滑り込んでヤツの真下を通りながら足裏を剣で切り裂こうとした。しかしそこすらも、ヤツの体殻は無敵だった。鉄の剣は跳ねとんで、勇者の武器は『勇者の剣』のみとなった。
 そこからしばらく、ヤツが攻撃して、勇者がかわし続けるだけの状況となった。
 ヤツに隙を作るには、どうすればいい……?
 勇者のかすり傷は増えていき、一瞬地面を蹴るのが遅れた。ヤツの大きく開いた口が勇者をとらえている。まずい! ここで勇者に負傷させれば全滅する! 俺は大剣を前に掲げて走り込んだ。ヤツが一瞬俺を見たとき、俺は大剣をヤツと勇者の間に刺して盾にした。ヤツの門歯が大剣を食い破り、俺は衝撃でヤツの射程外ーー後ろの木まで吹っ飛ばされた。
 これではヤツを倒せない。ヤツの狙いの理由を見つけなければ、ヤツには勝てない。
 父はこのとき、ガラスペンを取り出したのだろうか……ふとそんな事を思った。
 メモの最中、血をインクにしてでも書いて、ペンが折れたとき、どんな思いだったろうかーーーーいや、父はガラスペンを折らない。彼はいつだって冷静だ。自分でガラスペンを折るはずはない。それなら、ガラスペンはなぜ折れていたんだ……? 
 取り出したガラスペンの先を眺めると、不意の衝撃で折れたのではなく、俺の大剣みたいに齧られたような削れ方をしている。まさか、ヤツが……?
 それに、父は最期に折れた大剣をヤツの口腔に突き刺した。父は勝機があるとは思わなかっただろう。
 まさか…………すでに、父は……答に辿り着いていた……! そして、大剣はメッセージ!
 手帳の血痕も、古く固まったものしかない。父の大剣についたヤツの血液も残っていていない。
 ヤツは飲んだんだ。自分の血も、固まらなかった血液も。ヤツは血を求めて行動する!
「父さんーーーー俺に勇気を!」
 俺は父のガラスペンを自身の腕に突き刺した。ガラスペンは赤く染まっていく。
「おい真っ黒野郎! こっちをみやがれ!」
 俺は血の巡るガラスペンをヤツ目掛けて投げた。
 勇者を喰おうとしていた頭部がガラスペンを噛み砕く。
 やっぱりだ……ヤツは流動する血液を嗅ぎ分けて追っているんだ!
「なあ勇者! 耳の穴かっぽじってよく聴け! 俺が今から隙を作る。そしたら俺に気にせず、ヤツを討て! いいな!」
 俺は大剣以外の装備を総て棄て、ヤツにまっすぐ突っ込んだ。
 そうだ……てめーはその大口がっぽり開けて俺の方を向いてりゃいいんだ……
「おまえ好きだろう? 血が! 好きなだけくらうといい…………人間の恐ろしさを……な!」
 俺はヤツの目の前で、自分の腹に大剣を突き刺した。
「くらえーーこのーー真っ黒野郎ぉ!!」
 そして、腸が全て飛び散るように、大剣を振り回した。血潮が周囲を埋めた。ヤツが固まった。ヤツは周りを見回している。
 粗くなる視界の中、ヤツの頭上で剣を抜く勇者が映った。
 ヤツの叫声を最も近い所で聴きながら、俺は勇者の降臨を観た。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:25

out of ink


 じいちゃんは今日も一人、卓袱台に向き合って黙々と絵を描いている。台所にいる俺には背を向けているけど、じいちゃんが何に取り組んでいるかはもう分かっていた。真っ白なスケッチブックに絵を描いている。でも、マス目すらもないただの白紙には、線の一本すら書き込まれていない。
 じいちゃんが紙の上に滑らせているのは、とうの昔にインクの切れたボールペンだから。
 ボケについて詳しいわけじゃないけど、それにしたってじいちゃんのボケ方は不思議だった。足腰もしっかりしてるし背筋も伸びてる。読み書きもばっちりだし絵も描くし、家事も問題なく出来て、人の顔と名前も分かるし、変にふらふら出歩いたりとかもしなかった。総じて、安心して一人暮らしを継続してもらえる程度にはしっかりしている。なのに、何故か喋ることだけをやめた。
 俺の言葉にも大抵仕草だけで応じ、それでも足りない時にはメモを書く。その字だって綺麗なものだ。俺がこうして様子を見に来る度に買い物と料理を引き受けるけど、毎度ちょっとしたペン字のお手本みたいな買い物リストを渡してくる。
 でも、喋らない。
 といったって喋らないだけで、飲み食いは普通にするわけで、来てもらっている訪問のお医者様は気分の問題だろうと言う。気分の問題ならいいか、と思う。俺も喋ることを強制するつもりはない。だから、ここ数ヶ月くらいは誰もじいちゃんの声を聞いていないはずだった。
 それを補うように、じいちゃんは絵を描いている。とうの昔にインクの切れた掠れさえ残さないペンで、絶え間なく。
 まるで白紙の中に消えようとするように、じいちゃんは描き上がったらしい紙をスケッチブックから外しては床に置いていた。エアコンと併用している扇風機の風で時折それが舞い上がり、決して広くはない部屋の床をじわりじわりと覆っていく。俺がそれを片付けてもじいちゃんは特に咎めなかった。とはいえ、箱に入れたり紐で縛ったりすると、次に来る時にはまた崩れた山に戻っている。だから、最近はただ積み直しておくだけにしていた。それでも、ちらりと目を上げたじいちゃんが左手をちょびっとだけ上げるのを、俺は知っている。あれはきっと、じいちゃんの無言の「ありがとう」なんだろう。
 もう随分慣れた。
 ばあちゃんの七回忌の時にじいちゃんがあんまり喋らなかったもんだから、心配した親戚連中に時々様子を見に行ってくれと言われて通いだして、それからもう半年になる。最初の頃は雪の降るような日があったのが、いつの間にか過ぎ去って、桜が咲いて、散って、長めの梅雨が明けて、積乱雲と蝉時雨の季節になった。今日もじいちゃんは絵を描いている。描いているけど、何を描いているのかは分からない。
「――じいちゃん」
 声をかけると、じいちゃんはのそりと、ほんの少しだけ姿勢を正した。つるつる頭に浮かんだ陰影が少しだけ動く。俺の方を振り返ったりはしない。
「夜、玉子焼きにする? ゆで卵がいい?」
 じいちゃんは目玉焼きがあまり好きじゃないから、最初からだいたいその二択だ。玉子焼き、と繰り返すとじいちゃんは微動だにしない。ゆで卵、と繰り返すと、今度は微かに頷いた。じゃあ今日はゆで卵だ。
「分かった」
 ゆで卵は少し多めに作ることにしている。とはいえ夕飯を作るにはまだ早くて、かといって買い物も済ませたし、掃除だってしっかりされてる。じいちゃんはまたゆっくりと紙の上へ屈み込みながら、熱心に絵を描いていた。テレビは前からあまり好きじゃなかったから勝手につけるのもちょっと憚られる。
 となると、どうしようか。
 本棚には近代日本文学の全集が入っているけど、好きなものは大体読んでしまった。やることがなければ帰ればいいんだけど、絵を描くことに集中している日のじいちゃんは大抵食事を疎かにしがちだから、今日は夕飯を食べたのを見届けてから帰った方がいい気がする。
 どうしようかな、とまたぼんやり思いながら、じいちゃんの背中を眺めている。
 じいちゃんの背中は、日に日に細くなっていくような気がする。肩甲骨だけでなく、背骨の出っ張りまでうっすら浮かび始めている。昔から細身ではあった。背が高くてひょろひょろした人だなーと、ずっと思っていた。でもこの背中は何か、もっと根本的なところで痩せ始めているような気がする。筋肉や脂肪というよりももっと大切なものを、少しずつ少しずつ、失くしていっているような気がする。
 大切なもの。声、とか。色、とか。或いはそれは。
 ――命、なのかもしれない。
 つるつるの後頭部を眺めながら、俺は鞄の中に入れた鉛筆のことを思い出していた。
 最近、鉛筆を持ち歩くようになった。小学生の使うような、芯の柔らかい、軽い筆圧でも色のつくやつだ。それをいい具合に削って、鞄の内ポケットに忍ばせている。これでじいちゃんの絵を見ようと思って、だ。
 メモを書く時には必ずペンを変えるから、じいちゃんは意図的にインク切れのペンを選んで絵を描いているんだと思う。だったら別のペンで描いてもらうのは無理だろうし、それはもう諦めた。そうなると、最初から見える絵を描いてもらうんじゃなくて、描かれた絵を見えるようにするのがいい。それで、鉛筆だ。描き上がった絵の上を鉛筆で軽く撫でれば、もしかすると絵を浮かび上がらせることができるかもしれない。
 ただ、今も絵を描いていて、しかも描き上がったものを一枚も捨てずにいるじいちゃんに、『この絵を鉛筆で塗ってもいい?』と訊くのは憚られる。だからきっと、あの鉛筆の出番はじいちゃんの死んだ後になる。じいちゃんが死んでこの部屋を片付ける時に、あの大量の白紙を持って帰るんだろう。そしてそれをひとり、黙々と自室で塗ることになる。
 あの、果たして本当に『黒』と呼んでいいのか分からない金属の色合いの中に、じいちゃんの描いた絵が浮かび上がる。
 それを少しだけ楽しみにしている自分は、とんでもない薄情者だと思う。
 ふと、ペンの音が止まる。
 緩慢に背筋を伸ばしたじいちゃんは暫く手元を見下ろして、小さな吐息の後、湿ったような音と共に紙を切り離した。脇からちらりと見えたスケッチブックは、元々の厚みの半分ほどになっていた。なだらかに崩れた紙の山の上へそっと乗せられた完成品は、やっぱり、白紙にしか見えない。
 でもよく見ると、艶めいたようなペン先の跡が見える、ような。
 ――いや、気のせいか。気のせいだな、多分。
 気のせい気のせい、と心の中で呟いて、細く長く息を吐いた。
 橙色を帯び始めた日差しは、この時間になっても眩しかった。嫌がらせみたいな密度の蝉時雨は窓ガラスを通してさえ耳にまとわりつく。ごうごう唸る空調。ちょっと黴臭いようなその風の匂い。床を満たす白はどこか物悲しい。五感の全てをオーバーフローさせるような濃い夏の中で、喋ることをやめたじいちゃんは、少しずつ何かを失っていく。その左手が床の上の紙を広げながら、慈しむように紙面の絵をなぞる。
 じいちゃんには見えてるんだろう、と思う。
 あれは『絵』なんだもんな。じいちゃんには見えてるんだ。そりゃ、描いてる張本人なんだから見えて当然だけど。でも今、確かにそう思った。初めて実感した。
 そっか。
 じいちゃん、()()()()()()んだ。
 ぎゅ、と背中が痛くなる。なんだか分からない熱い空気が、胃の底からぶわりと膨れ上がって肺を押しつぶした。息が止まりそうだった。やっぱり真っ白にしか見えない紙を持ち上げたじいちゃんの背中が、さっきよりもまた少し小さく見えた。
「なあ」
 ぴたりと、じいちゃんの動きが止まる。昔ならきっと名前を呼んでくれた。そうでなくても、なんだ、の一言くらいは聞けた。じいちゃんは変わってしまった。でっかい蟻地獄みたいに、自分の内側に向かって沈み込みながら、そうやって少しずつ消えていくんだ。
 でも。でも今は。
「――絵、すげえいっぱい描いたじゃん」
 押し出されるように、そんな言葉が口をついた。じいちゃんは俺の方を振り返らないまま、微かに頷いた。ランニングシャツと背骨の輪郭がTシャツ越しに薄く浮いている。痩せたその背中は、少し、笑っているようにも見えた。
 手にしていた紙をそっと床へ放して、じいちゃんはまた、いつものペンを手に取った。繊維の上を滑るペン先の音は時々、インクに濡れたそれにも聞こえる。念入りに削った鉛筆の尖りきらない先端を思い浮かべながら、果たして新しいスケッチブックを買っておくべきかどうかと考えた。ペンを買い換える必要は、まあないとして。じいちゃんは、あとどれくらい絵を描くだろう。残り半分のスケッチブックを、じいちゃんは使い切るだろうか。
 つるつるの頭に傾きかけの日差しを浴びながら、じいちゃんは、黙って絵を描いていた。
 俺はじいちゃんに背を向けた。ガラスのコップに水を汲んで、夏の日差しにぬるくなったそれを流し込む。目を閉じる。目を閉じて、もう随分と遠い記憶になった、じいちゃんの優しい声を思い出そうとする……。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:18

明星


 梅雨が最後の一降りと言わんばかりに雨の筋を盛んに地面に叩きつけていた。雨混じりの夜風が窓に吹く。樋口は窓を滑る雨粒を見て、コンビニへ行くのを諦めた。何か食べたい気分だった。いっそ寝てしまおうかと思った。しかしどうにも諦められず、カップ麺は残っていただろうか、とキッチンを探すと一つだけ残っていた。
 カップのきつねうどんに熱湯を注いでから間もなく、チャイムが鳴った。
 時計を見ると、十一時半だった。
 こんな時間に、こんな冷雨の中を、一体誰が自分を訪ねてきたのだろうか。訝りながらも樋口は玄関へと向かった。
「樋口、折り入って頼みがある」
 そこには男が立っていた。津島だ。
 彼の姿を見て、樋口は嫌な予感がした。
 津島は樋口と同じく映画研究部に所属している男だ。樋口と同じく二年の浪人生活をした後に、今年入学した。放蕩癖を持つ男で有名だ。数人いるという彼女に金を使えるだけ使っている。実家からの仕送りも止められているというのに、無尽蔵の金がどこから出て来るのかといえば、そのほとんどが賭け事だった。
「とりあえず入れよ」と樋口は彼を部屋に招き入れ、二人は卓袱台の両端に座った。どうせしがない相談だろう。そう考えた樋口はうどんをすすった。
「俺が監督する映画の脚本を書いてくれないか」
 津島がそう言うと、樋口は箸を止めた。
 彼は映研に所属しているとは言えど、撮影に参加しないどころか、ほとんど部室にすらいないという体たらくだ。何故入部したのかと聞きたくなるくらいだ。そんな彼が監督をやると言っても、にわかには信じがたい。
「本気か?なんで突然」
 そう聞くと、津島は滔々と語りだした。
「本気だよ、本気。ちょっとした短編を撮ってやろうと思ってな。俺を放蕩者呼ばわりする奴らの鼻を明かしてやろうってね。そうだな、とびきりの恋愛映画を頼むよ。長くなくていい。短編だからな。花火みたいに一瞬で消える。そういうやつ。会話だって多くなくていい。ペラペラと喋られたんじゃあ煩わしい。あと詩的な台詞ばかり吐かせるなよ、冗長になっちまう」
「おいおい」
 そこで樋口は話を遮った。
「まだ書くとも言ってない。それに、どうして俺なんだ」
「頼めるのはお前しかいない。小説、書いてるだろう」
「趣味の範疇だ。それに、今の俺はバイト探しもしなきゃいけないんだ」
 先月、バイト先の酒屋が閉店したのだ。贅沢をしなければ、学生生活を数ヶ月はいつも通りに続けるだけの金はあるが不安だ。
「それならいい話がある」
「いい話?」
「そう。ある人物が持ってきた話だ」
 胡散臭い話だろうと思ったが、その話は意外にも本当に「いい話」だった。
 アパートに住んでいる老人の介護だそうだった。妻の外出中に、立ち上がれない老人の世話をすればいいらしい。場所は大学の裏のアパート。一時間で千五百円。
「な。いい話だろ」
 まあ、と樋口は返事をする。
 すると、津島はおもむろに立ち上がった。
「それじゃ、頼むよ。バイトも脚本も。撮影は九月にやるとして、八月の下旬には完成させてくれ」
「話を急ぎすぎだ。俺はいいとも言っていない」
「書いてくれよ。お前以外に適任がいないんだ。二浪仲間だろう」
 仲間という言葉ほど自分達に全く相応しくない言葉もないだろう、と樋口は考えた。津島との関係はどう言ったらいいのか分からない。ただ、これからの四年間に影のように津島という人間は付き纏うのだろう。
「分かったよ。ただし期待はするなよ」
 津島に絆されるのは嫌だった。だが、彼の突発的な映画制作の本当の理由が知りたかった。ただの放蕩者というレッテルを外したいばかりではないだろう。この答えを聞こうとしても彼は答えないだろうと思い、樋口は聞かなかった。
「よし。そのついでにバイトも頼むぜ。これは連絡先だ」
 電話番号が書かれたメモを樋口に握らせて、津島は玄関の外へと消えていった。
 きつねうどんはすっかり冷めていた。それを一気にかき込んで片付けると、パソコンの前に座って考えた。
 津島のように色恋沙汰に縁のない俺が恋愛映画の台本など書けるのだろうか。いっそのこと津島が書いた方がいいものができるのではないか。幾通りもの恋愛のパターンを知っている彼の方が何枚も上手のはずだ。
 頭に浮かぶのは恥ずかしい妄想を引き伸ばしたような筋書き。それもどこかで見たことのあるようなものばかりだ。
 「恋愛映画」
 その日は新しい文書ファイルに題をつけるだけで、それ以上書かなかった。
 バイト先は二階建てのアパート、その一階だった。
 津島に渡されたメモの通りの電話番号にかけたのが、三日前だ。電話の声はしゃがれた女性の声だった。彼女が言うには、夫に介護が早急に必要らしい。足と心臓を患っていて、一人で起き上がれもしないそうだ。面接もせずに、すぐにでも採用するとのことだった。
 面接もしないいい加減さが不安だった。
 表札には藤間とある。
 樋口がチャイムを押すと、やつれた感じの女性が出てきた。皺の深さ以上にそのくたびれた様子が彼女をさらに老いているように見せていると思った。
「樋口さん、ですね」
「はい。よろしくお願いします」
「どうぞ。中へ」
 玄関に入ってすぐに、どこにも電気が点いていないことが気になった。しかも、両隣の建物の影になっているようで窓からも光は大して差し込まない。どこもかしこも薄暗い。
 通されたのは書棚が三方を覆う部屋だった。部屋の中央のテーブルで樋口と藤間夫人が向かい合った。
 藤間夫人はため息を吐いてから、話を始めた。
「主人は狂っていましてね」
「くるっている、と言いますと?」
「まず、夫の元の職業の話からせねばなりませんでしたね。夫は小説家だったのです」
「小説家、ですか」
 小説家にも色々いるが、こんな日当たりの悪いアパートに住んでいるところを見ると、あまり売れなかったのだろう。
「藤間素月、という名前なのですが、御存知ですか?」
「し、知ってます」
 驚いたせいか、樋口の声は喉に引っかかって上手く発せられなかった。
 藤間素月。
 六十年代からゼロ年代初頭まで活躍したミステリー作家だ。彼はデビューから間もなく大きな賞を獲得するなど、期待の新星と騒がれた男である。その後もヒット作を生み出し続けたが、十年前の長編の刊行以来、新刊は出ていない。
 樋口の父の本棚には、藤間素月の小説が数多く収められていた。樋口は藤間素月の作品を特に耽読した。高校時代には、父とは別に彼の作品を自分で集め始めていた。樋口が実家から持ってきた本の中で一番多いのは藤間素月の著書である。
「自分、藤間先生のファンなんです」
「あら、そうでしたか。主人も喜びます」
 そこでようやく、藤間夫人はにこりと笑った。影があるものの、本当に笑っているということは分かった。
 藤間夫人は再び話を進める。
「十年前に主人は足と心臓を病んでしまいまして、執筆活動から遠のいたのです。それ以降、小説を書いてはいませんでした。でも、二年前に突然主人が『原稿用紙を買ってこい』と私に言ったのです。その頃は小康期のような時期でしたから、多少の執筆くらいは、と原稿用紙を買ってきたのです。それから主人は狂ってしまいました」
 夫人はまたもため息を吐いた。
 樋口は身じろぎせず、夫人の話を聞いていた。
「主人はインクの切れたペンで延々と原稿用紙に何かを書き続けているのです。私がインクの入ったペンを渡しても、インク切れのペンで延々と」
「何も書いていない、ということですか」
「いえ。分かりません。あれがペンを原稿用紙に擦りつけているだけなのか、作品を書いているのか。私が聞いても答えないのです」
 ボケているのではないか。樋口はそう思った。
「あれから私の方も狂ってしまったみたいで、次第にやつれてしまいまして。先日カウンセリングしてもらったら、主人と少し距離を置いた方がいいそうなのです」
 それから、夫人は樋口に何をすればいいのか説明した。
 食事と飲み物の用意。原稿用紙の補充。基本的にはこの二つをやればいいらしい。授業がない時や暇な時に夫人と介護を交代するということだった。介護と言うからには、もっと過酷なものを想像していたから拍子抜けだった。
 そうだ、と夫人は付け加えた。
「もう一つ、主人が脱走しないよう見ていていくださいね」
「脱走、するんですか」
 はい、と夫人は困った表情を浮かべた。
「主人は競馬が好きですから」
 聞けば、藤間老人は何度かベッドから這い出て、車椅子を駆使して二駅先の競馬場へと行ったことがあったらしい。
 そういえば藤間先生の作品に競馬場がよく登場していたな、と樋口を思い出した。
 夫人は対岸を見るような目で語った。
「昔の主人は博才があったんですよ。万馬券を当てたりしてました。二人で競馬場へ行って、帰りにはすき焼きなんかを食べて」
 樋口は何も言えずに、深くなっていく皺を押しのけるかのように光る夫人の目を見ていた。
 競馬の話の後、夫人はリビングに樋口を案内した。
 その部屋の第一印象は白だった。
 部屋の面積の多くを占める白いベッド、その周りに山と積まれた白い原稿用紙。病院の潔癖な白とは違う、少し黄ばんだ白を思わせた。
 ベッドの備え付けのテーブルに屈んでいる老人が藤間素月その人だ。彼の骨ばった細い腕が原稿用紙に万年筆を擦りつけている。そのペン先からは何も生まれない。摩擦による掠れた音がざらざらと聞こえる。
「あなた、こちら樋口さん。これから私と一緒にあなたのお世話をしてくださる方よ」
「うん」
 夫人の紹介に、藤間老人は短く答えるだけだった。その声は喉からひねり出したような声だった。
「ごめんなさいね。悪い人ではないのです」
「大丈夫です」
 何が大丈夫なのかは分からなかったが、樋口はそう答えた。この部屋に足を踏み入れた時に比べれば、かなり不安も払拭されているようには思えた。
 その日はそれで帰ることになった。明日から来てほしいと、夫人は帰り際に言った。
 アパートから出ると、眩しい光が樋口の目を刺した。津島から頼まれた脚本について考えながら帰った。
 部屋には樋口と藤間老人の二人だけだった。
 初めての出勤日。夫人は外へ出ている。樋口は何もせず、ベッドの隣の椅子に座っていた。多少の緊張があった。まさか藤間素月の隣に座る日が来ようとは思わなかったのだ。藤間老人は相変わらずインクの切れたペンを走らせていた。時折、水を求めるので、樋口はキッチンに取りに行った。
 藤間老人が口を開いた。初めて原稿用紙から目を外して、樋口の方を向いた。
「き、君は、何か書いたり、するのかい」
「そ、そうですね。たまに小説を書いたり、今は友人からの頼みで自主制作映画の脚本を少し」
 どぎまぎしながらも樋口が答えると、藤間老人は「そうか、そうか」と樋口の前で初めて柔らかい笑顔を見せて、「ひひひ」という高い笑いを響かせた。
「君は、パソコンで、書くのかい」
「はい。パソコンですね」
「ここで、書いていて、いいよ。暇、だろう」
 いいんですか、と樋口が再確認するように聞く。老人は再び「ひひひ」と笑う。
 樋口は鞄からゆっくりとノートパソコンを取り出した。どこに置こうかと思案していると、老人の細い指がベッド脇の小さい棚をトントンと叩いた。樋口は一礼してから、パソコンをそこに置く。老人は再びペンを取った。
 「恋愛映画」のファイルを開くも何も思い浮かばなかった。憧れの作家の隣にいるという緊張感もある。しかし、それ以上に自分の発想の乏しさが原因だと思われた。
 キーボードを戯れるように叩いて文字を打っては消す。またその繰り返しだった。
 一向に進まない原稿に嫌気が差したところで、樋口は藤間老人の方を見た。
 細い腕はまるで予定された行動を正確に行う機械のように動いている。まるで設計図でもあるかのようだった。顔はどこか笑っている。
 この人は何をしているのだろうか、と樋口は考えた。
 夫人は、藤間老人が狂っていると言った。しかし、あの藤間素月が狂うはずがない。精緻な言葉に、驚天動地の仕掛けを紡いだ男に狂いなどあろうはずがないのだ。白い原稿にも何か理由があるのだ。樋口はそう考えていた。
 あの、と樋口はとうとう口を開いた。
「藤間先生は小説を書いてらっしゃるんですか?」
 彼の手は止まらない。変わらずざらざらと万年筆の音が聞こえる。まるで樋口の質問がなかったものであるかのように、数十秒の沈黙があった。
「そうだ」
 沈黙に落とされた一言は樋口をはっとさせた。
「あ、ありがとうございます」
 樋口はほとんど確信していた。藤間老人は決して狂疾によって原稿用紙に筆を遊ばせていたわけではない。
 動悸を感じた。彼の短い返事の奥に重い鉛色が見えるような気がした。これ以上奥に進むことは、自分も何かを背負うことになるのではないか、と樋口は思った。
 そこで夫人が帰ってきた。着物屋の袋を提げていた。大学時代の友人と買い物とお茶をしてきたと彼女は話した。
「脚本家様、原稿を進んでいますか?」
 津島が再び樋口の部屋を訪れたのは、七月下旬の夜だった。
 脚本の考えはまとまりつつあった。大学の図書館で出会った二人が、数年後に神社で再会し、付き合うという凡庸なものだった。
「今やっているよ」
「そうか、それは良かった」
 そう言うと、津島はパソコンの画面を覗き込んだ。そして、ある行を指差した。
「ここの『髪がなびく』ってあるが、このヒロインはどれくらいの髪の長さを想定しているんだ?」
「一応、頭の中では長い髪がなびくのを想像していたけど、駄目か」
 うーん、と津島は唸った。
「肩にかからないくらいでいいんだ。短めだ」
「津島の好みか?」
「まあ、そんなところだ」
 ストーリーの訂正を求められると思っていたが、髪型について言われたことは樋口には意外だった。髪型がそんなに大事かと思ったが、短めの髪であるということを前提にシーンを作り直すことにした。
 樋口が書いているのを、津島はじっと見ていた。
「バイトは順調か?」
 津島は何気なく聞いた。
「ああ、順調だ。でも、あの人は不思議な人だ」
「不思議、ねえ」
「掴みどころのない人だ。昔は小説家だった人で、競馬をよくやっていたらしい」
 へえ、と津島は興味がありそうに言った。
 津島は二十歳になったその日から競馬を始めていた。浪人生活中だったが、勉強の傍ら競馬場に通っていたらしい。
「バイト中に脚本も書けるし、いい仕事だよ」
 それは樋口の本心だった。藤間老人と樋口は小説の話はほとんどしないし、二人は別々の文章を書き進めているが、樋口は一体感のようなものを感じていた。そのせいか、最近は筆が進むようになってきていた。
「とにかく順風満帆っことか。それは何よりだ」
「そう。万事上手くいっている」
 そうだ、と津島は提案した。
「これから外に食べに行かないか。美味いもつ煮の店を見つけたんだ」
 お、と樋口は呼応した。
「いいじゃないか。行こう行こう」
 万事上手くいっている。
 潤滑油など必要ないくらいスムーズに、生活という機械は回っている。歯車は噛み合い、空回りすることなく回転を続けている。それを実感すると、落ち着いた嬉しさがこみ上げてくる。今日はそれを強く感じた。
 その晩、樋口はいつになく上機嫌にもつ煮をつついた。
「競馬新聞、を、買って、きて、くれない、か」
 藤間老人の言葉に、樋口はどうすればいいか分からなかった。
 今日はここから最も近い競馬場の開催日だった。つい先日、津島に会った時、彼は競馬の話をしていた。今日の競馬にいつも以上に意気込んでいた。どうやら金策に追われているらしかった。
「夫人が怒りますよ」
「別に、競馬場に、行こう、と、言っているんじゃない。君が、私の、言うように、買えば、いい」
 樋口は仕方なくコンビニへと出かけた。部屋を出る前に、競馬場へ行かないよう老人に念を押した。老人が「ひひひ」と笑いで答えるので、不安になった。
 八月だった。肌を焼くような日差しは加減を知らず降り注ぐ。汗は粒となって肌を滑る。
 コンビニにはいくつか競馬新聞があった。どれがいいのか分からず、一番安い物をレジへと持っていくと、店員の中年女性が怪訝な顔をした。
「若いのに競馬?」
「若いと競馬はやっちゃいけないんですか」
「そうじゃないけど」
「それに競馬をやるのは俺の、俺のじいちゃんです」
 そう、と店員は少し不機嫌そうに競馬新聞を樋口に手渡した。
 帰ると、藤間老人は変わらず白い原稿用紙を相手にしていた。
「ありがとう」
 そう言って、老人は原稿用紙をサイドテーブルに置いた。競馬新聞をベッドに広げて、目を凝らして見ていた。
「君、君」
 やがて、老人は樋口は手招きした。そして、競馬新聞の出馬表を指さした。
「どう、思う。どれが、いい、と、思う」
「俺は分からないですよ」
「いいんだ。それでも。私、の、一万円、を賭ける。君、の、金じゃない。」
 老人は異論は許さないという風に、競馬新聞を樋口に押し付けた。また白い原稿用紙に戻っていった。
 樋口が競馬を知らないということを藤間老人は知っているはずだった。樋口は出馬表の見方も分からない。しばらく出馬表を睨めつけるように見ていたが、一向に分からない。
 半ば投げやりに樋口は選んだ。
「じゃあ、これで」
 それは七番の馬だった。ラッキーセブンだから、という安直に過ぎる理由から選んだのだ。さらに、名前は「エンゼルライツ」。エンゼルという名がついているのも、縁起が良さそうだ、と樋口は思ったのだ。
「いい、じゃないか。私、も、それが、いい、と、思う」
 老人はそう言って、サイドテーブルの財布から一万円を抜き出した。それを樋口は両手で受け取りながら、老人に聞いた。
「藤間先生。友人に買ってきてもらおうと思うのですが、いいですか」
「構わんよ」
 一礼してから、樋口はスマホを取り出して、廊下に出た。電話をかけると、相手はすぐに出た。
「どうした。電話してくるなんて珍しいな」
「津島。今日、競馬場行くよな」
「行くさ。今日は勝負日だからな。それに、今日は来るぞ。そんな気がする」
「そうか。それで頼みがあるんだけど。第三レースの七番、エンゼルライツの単勝っていうのを買ってくれ。一万円で」
「お、なんだ。お前も競馬をやるのか」
「違う。藤間先生だ」
「なるほどな。分かった。買ってきてやる。それにしてもエンゼルライツか。奇遇だな、俺もだ」
「そうなのか。勝てそうか、その馬は」
「いや、どうかね。でも、今日は来るはずだ。あれは来る。今日は違う」
「本当か?」
「さあね。とりあえず第三レースを楽しみにしてろよ。レースの開始時間にまた電話する」
 電話を切った。蝉の声が喧しい。
 樋口には一つ気になることがあった。津島の声がどこか震えていたのだ。まるで、崖の淵に立たされているようだった。
 部屋に戻ると、競馬のことなど忘れているかのように、老人は白い原稿用紙に向き合っていた。樋口も隣で脚本を書いた。だが、他人の金がかかった競馬が気になって、集中できず終いだった。
 スマホが鳴った。
「樋口、始まるぞ」
 藤間老人にも聞かせようと、スマホをスピーカーモードにする。しかし、老人は原稿用紙以外に意識を向けない。
 津島が早口であれこれと言っているが、樋口にはよく分からなかった。辛うじて、すでにレースが始まっていることは理解できた。周りの声に負けじと津島は大声でレースの模様を伝えていた。
「第三コーナー抜けたぞ、駄目だ、エンゼルライツは後ろから三番だ。おい、頼むぞ!」
 怒号すらも聞こえるスマホのスピーカーは蝉の声も蹴散らしそうなほどうるさい。
 その後もエンゼルライツは後方にいるようだった。
「最終コーナを抜けた、ここからだ、ここから。速く、速く。あっ! 速いぞ! 行ける、行ける!」
「どうしたんだ、津島」
「エンゼルライツがごぼう抜きだ! 先頭集団に入っていった、もう集団の先頭だ、あと三頭、あと二頭、あと一頭だ! いけ! 追い抜いたぞ! このままだ、追い抜かされるな!」
 怒声とも応援ともつかない声がしばらくスピーカーから発せられた。何を言っているのか分からず、レースの状況は判然としない。老人の様子はどうだろうかと見てみると、微笑を浮かべていた。
 はあ、と声が聞こえた後、疲れた吐息が聞こえた。
「どうだった、津島」
「やった、単勝十五倍」
 十五倍ということは、藤間老人の一万円は十五万円になって返ってくる。樋口は頭を打たれたかのような衝撃を覚えた。同時に、甘い開放感があった。
「ほ、本当か」
「本当だ。俺も四十五万を手に入れた」
 ふう、と津島は息を吐いた。
「そろそろ、金が必要だからな」
 津島の言葉には疲れがあるように樋口には聞こえた。
 いつも金の話となれば、目を輝かせている津島が金の話で疲れた声を響かせるのはついぞなかったことだった。まるで、借金か何かの支払いに迫られているような声だった。
 特に何も聞かず、樋口は別れを告げ、電話を切った。
 老人が樋口を見ていた。
「金は、君に、やる。家にあると、妻が、怪しむ」
「待ってください、それはできないですよ」
 ただでさえ、あまり忙しくないこの仕事で時給をもらっているのだ。さらに十五万円をもらうことは気が引ける。
「もらって、くれない、と、困る。だから、取っておけ」
「あ、ありがとうございます」
 老人は再び原稿用紙に視線を戻す。樋口もまた脚本に戻った。いつものように、会話はほとんどなくなった。
 夜、パソコンの前で考えを練っていると、来客があった。
「頼む、樋口。しばらくここに泊めてくれ」
 走って来たのか、肩で息をする津島はそう言った。
 状況は読めないが、とにかく樋口は彼を中に入れた。汗ばんだTシャツに、背負ったバッグに詰められた荷物に、常ならぬ眉の下がった情けない顔に、樋口は尋常ではないものを感じた。
 冷蔵庫から出した麦茶を注いで出すと、津島は一気に飲み干した。
「ついこの前まで、俺には五人の彼女がいた」
「この前まで?」
「そうだ。別れてきた。四人には、な。文句を言ってきた女には金を渡した」
  放蕩者とも呼ばれた津島が自ら別れを切り出すとは一体何があったのだろう。樋口は別世界にでも来たように感じた。津島の暗澹たる表情がさらにその感覚を強めていた。
「あと一人と別れなくちゃいけない。だがな、その女が文句どころか、手近にあったもので殴ろうとまでしてくるんだ。だから避難場所が必要というわけだ」
「待て。突然、お前が女と別れようなんてどういうことだ。そこから説明してくれ」
 津島は歯を強く噛んだような表情を見せて沈黙した。
「それは答えられない。とにかく、ここに泊めて欲しい。金は払う」
 そう言うと、津島は封筒を差し出した。
 樋口は黙って、その封筒の中身を見た。中には二十万円が入っていた。この前の競馬の勝ち分が入っていることは聞くまでもない。
 津島は語気を強めて言った。
「何も言わずに受け取ってくれ。俺達の間に『金なんかいらない』なんていう友情じみたものはないはずだ。二浪、映画研究部員。それだけの共通項で辛うじてつながっているに過ぎない。受け取ってくれ」
「分かった」
 樋口はおもむろに封筒を自分の側に引き寄せた。
「部屋の隅で寝かしてもらう」
 津島は言うが早いか、部屋の隅に丸まるように収まった。十分もしないで寝息が聞こえた。
 樋口は眠気を微塵も感じなかった。もうこのまま一晩中脚本を書いていよう。そう思ったが、直にキーボードに突っ伏して寝てしまった。
 起き上がると、すでに昼前だった。パソコンの傍らに書き置きがあった。津島の筆跡だった。
「もう一度、あの女と会ってくる。」
 女の扱いに長けた津島がここまで女性関係で辟易しているのは、初めてだった。
 朝食か昼食か分からない食事を摂った後、小説を読んでいるとチャイムが鳴った。
 津島か、と樋口は玄関へと向かった。しかし、扉の先にいたのは全く見知らぬ人だった。
「こんにちは、津島さんはいらっしゃいますか」
 その人は背の低い女性だった。髪は肩にかからないくらいで、前髪がかかった目が不安そうにこちらを見上げている。
「津島は、津島はちょっと出かけています」
「そうですか」
 彼女の目はさらに不安に濡れた。
「ちなみになんですが、津島にはどんな用で? 話したくなければいいのですが」
「いえ、話せないようなことではないのです。津島さんが今は諸事情でここにいるというので、これを」
 そう言って、彼女は背負っていたデイバックからタッパーを取り出した。中身は煮物のようだった。
「よく作って持っていくんです、津島さんに」
「あの、嫌でなければ、少し部屋の中で涼んでいきませんか。津島について聞きたいことがあるんです」
 樋口がおずおずと言うと、彼女は「ええ、いいですよ」とどこか不安そうではあるものの承諾した。
 彼女を部屋に入れ、麦茶を入れる。彼女は酒田彩と名乗った。
「樋口さんって、藤間さんの介護を引き受けてくれた樋口さんですか?」
 初対面の酒田の口から「藤間」の名前が出たことに樋口は目を見開いて驚いた。
「どうしてそれを?」
「藤間さんは親戚なんです。介護をしてくれる人を探していると話したら、樋口さんという方がやってくれると津島さんが言ってくれたんです」
 なるほど、と樋口は心の中で呟いた。
「失礼かもしれませんが、津島とはどういった関係で?」
 樋口の不躾とも思える質問に、酒田は静かに戸惑った。うーん、と唸った後に彼女は答えた。
「自分でもどういう関係なのかは分かりません。ただ津島さんの隣人というだけで」
 聞けば、彼女は今年大学に入ったそうで、津島と同じアパートに入居したそうだった。
「私が銀行からお金を降ろした後にスリにあったんです。バイトも始めていませんでしたから、もう貯金がなくて。それを大家さんに相談していたら、ちょうど津島さんが通りがかって、津島さんがその月の生活費をくれたんです。返すって言っても聞いてくれませんでしたから、未だに返せていません」
 なるほど、と樋口は思った。酒田がよく津島に差し入れするのは、その恩返しという意味もあるのだろう。
 酒田は津島について語っていく。それは樋口が知らない津島の話だった。
「津島さんは私を夕食に招いてくれたりしました。笑いながら色々話してくれました」
「笑いながら?」
「え? はい、そうです」
津島はあまり女性に笑顔を向けなかった。せいぜい乾いた笑いを見せるくらいだ。
「一昨日、津島さんはこう言ってました。これから立て込むって。何か困ったことがあったらって、ここの住所を書いたメモを渡してくれました。もしかして、大変なことに巻き込まれているんじゃないですか?」
 いや、と樋口は誤魔化す。
「そんなことはないと思う。津島は元気でやってるよ」
「そうなんですか?」
「そうだ、彼、映画研究部に入っているからその関係で忙しいのかもしれない」
 咄嗟の嘘が通じるか、樋口は不安になった。酒田は「映画」と低く呟いた。
「津島さんが映画を撮るって聞いたんです。私にはぜひ見にきてほしいって」
「あ」
「どうしました?」
「いやいや、何でも」
 樋口は酒田の顔を見た。顔というよりは髪だった。
津島が唯一脚本に注文をつけた部分を樋口は思い出していた。
突然の恋愛映画の脚本の依頼、金策、逃走。酒田という人物を鎖に津島の行動が全てつながる。
気障な奴だと思った。酒田の容姿をモデルにした主役の恋愛映画を作ろうとするとは。手切れ金の調達、別れたくないという女からの逃走。全て酒田との生活を作り上げるための下準備なのだろう。生活の機械に必要な歯車を一つずつ集めている。
「津島さんなら大丈夫ですよね」
ようやく安心した顔を見せたに、樋口も安心した。酒田はぺこりと御辞儀ををして去っていった。
 夜になって津島が帰ってきた。
「やっぱり駄目だった」
 そう呟いただけで部屋の隅で寝てしまった。
 翌朝、津島は煮物が入ったタッパーを見つけて驚いていた。その煮物を食べ終え、容器を洗い終えると、「樋口、何も言うな」と言って、彼はまたどこかへ出かけた。
 いつものように藤間老人のいる部屋に行こうとすると、夫人が手招きした。最初に夫人と話した書庫のような部屋に樋口は通された。
「主人には秘密にしておいてほしいのですが」
 夫人はそう前置きした。樋口は嫌な予感がした。
「主人の容態が急に悪くなってきました。主人も息苦しさからそう感じているとは思いますが、そうとは知らせていません」
 樋口も気づいていた。老人の呼吸は日に日に速くなっていた。苦しそうにしている時間は増えた。
「分かりました。秘密にしておきます」
「お願いします。主人は九月を、迎えられないかもしれません。そうなったら、遺品の整理のお手伝いもお願いしたいのですが、よろしいですか?」
「ええ。大丈夫です」
 樋口は頷いたが、亡くなる前から亡くなった後のことを話し合われている藤間老人を気の毒に感じていた。夫人が酷薄な人間でないことを知っていても、老人を可哀想に思ってしまう。
 その後はいつも通り、老人の隣で脚本を進めた。
「君、君」
 老人が樋口を掠れ声で呼んだ。樋口は老人の顔に耳を近づけた。
「私、は、もう、長く、ない」
 瞬間、樋口はどきりとした。まさか、さっきの会話が聞かれていたのではないかと思った。
 老人は呼吸を整えながら話す。指が原稿用紙の山を示している。
「あの、原稿、を、君、に、託す。あれ、を、全部、燃やして、くれ。一枚、残らず」
「いいんですか」
「いい。あれは、焼かれる、べきだ。火、に、包まれて、あの、作品、は、完結、する。いいか、燃やせ、燃やせ、燃やせ」
 呪詛のような「燃やせ」という言葉が樋口の耳に張り付くように残った。自分が藤間素月の原稿用紙を燃やすのか、と思っても緊張はしなかった。傍から見れば、白石原稿用紙に少しペンによる傷ができているだけなのだ。多少の抵抗はあっても燃やせるだろうと思った。
「分かりました。俺が燃やします」
 そう言うと、藤間素月はにやりと笑った。
 部屋に帰ってすぐにチャイムが部屋中に響き渡った。
 扉を開けると、女性が立っていた。また知らない女性がだった。香水の匂いが鼻を刺すようだった。
「津島って男いるでしょ」
 女は樋口を睨みつけてそう言った。樋口が答える時間も与えずに、女は樋口を押し退けて中に入った。
「昨日あんたの後ろをつけたのよ! ここにいることは分かってるんだよ! いるんでしょ!」
 樋口は戦慄したが、幸いにも津島は外に出ていた。
 この女が津島を殴ろうとしたのか、と怖くなった。辺りを見回して武器になりそうなものがないか確かめた。
 女は次から次へと隠れられそうな場所を探していく。カーテン、キッチンのクラガリ、テーブルの下。引き出しも大小構わず開け放した。津島の痕跡を探しているのだろうが、そういっだのはない。
「津島はここにはいない」
「嘘。昨日見たって言ってるでしょう!」
女はしばらくすると、諦めて部屋を勢いよく飛び出した。去り際に樋口の目を睨んでいた。女の金切り声がまだ耳の奥で響いている。
 樋口は散らかった部屋を片付け始めた。
 自分の周辺で色々な出来事が多発している。脚本。津島と酒田。藤間老人。白い原稿用紙。
元々は噛み合っていた歯車が今や歪な音をたてている。
もうすぐて八月が終わる。
七月に戻りたい。もう一度やり直せるのなら、と考えた。しかし、今起こっていることのほとんどは樋口の知らないところに端を発している。
もしも、全てが上手くいったならば。もしも、歯車をが噛み合っていたならば。
藤間先生の隣で脚本を書く。たまには先生が話しかけてくる。競馬をやってみたりする。部屋に帰って暇をつぶしていると、津島がやってくる。彼は酒田さんと上手くやっている。この前も大学前のカフェにいた。夜になれば、俺は津島と夕食に出かけるかもしれない。もしくは、津島は酒田さんと、俺はまた別の誰かと出かけているかもしれない。そんな生活が続く。
樋口はこんな風にもしもの話を考えてみた。
空想みたいな生活だ。それでも、「もしも」が積み重なればたどり着く生活だと樋口には思えた。
藤間老人が亡くなった夫人から連絡あったのは、九月一日のことだった。
日がまだ昇りきっていない次官に、老人は息を引き取った。彼の亡骸の周りに医者以外には夫人しかいなかった。静かだったという。
藤間老人の遺品の整理のため、夫人が指定した時間にアパートへ向かった。
ドアを開けた夫人はいつも通りだった。いつも通り、やつれた様子だった。
誰もいないベッドの傍らには、パイプなどの小物と白い原稿用紙の山がある。
「主人の物はもっとたくさんあったと思ったんですが、案外少なくて」
 藤間老人の遺品はベッドの側に置かれた物の他には書籍くらいしかなかった。本は図書館に寄贈するらしい。中には藤間素月の初版本もある。
「あの、この原稿用紙のことなんですが」
 樋口は夫人に老人の遺言の話をした。夫人は憂鬱な顔をして、「お任せします」とだけ言った。
 ベッドの解体を二人で進めていると、夫人がぽつりと言った。
「私と主人がどうしてこんなアパートに住んでいるか分かります?」
「いや、分からないです」
「主人がすぐに競馬に全部つぎ込んでじうからなんです。ふふ、おかしいでしょう?」
 夫人が柔らかく笑う。目にも柔らかい優しさが滲んでいる。
「賞金もですか?」
「ええ。賞金もです。競馬好きで女好きでした。でも、いい人なんですよ」
 競馬や女という単語から、樋口は津島を思い出していた。
「あの人、ある賞をもらった時にその賞金を全部賭けたんです。それで見事勝って、私に指輪を買ってくれたんです。そのお店で一番いい指輪を」
 その後で樋口は紙袋を提げてアパートの裏に出た。紙袋の中には白い原稿用紙がつまっている。
 焚き火のためのドラム缶があったので、その中に原稿用紙を放り込んだ。一枚だけ手にとって、見納めだと言わんばかりに樋口はじっと見た。引っかき傷のようなペンの跡ばかりが残っている。それも読み取れるものはほとんどない。完結しているのかさえ不明だ。樋口はその一枚もドラム缶に放った。
 何度か擦って、ようやくマッチに火が灯った。
 燃やせ、燃やせ、燃やせ。
 藤間老人の声が頭の中で繰り返される。
 マッチを躊躇いつつも原稿用紙の山に落とすと、みるみるうちに火が白い原稿用紙に広がる。
 火をつけたことを惜しむように、樋口は急に白い原稿用紙の意味を考えた。
 ある考えにたどり着くと、暑さによる汗とは別の汗が出てきた。取り返しのつかないことをしてしまったという気持ちに襲われた。
 何も書いていないように見える原稿用紙。何も書かれていないからこそ、作品への純粋な熱だけがこの白紙の上に宿っているのではないだろうか。
 ここには熱がある。彼の熱は指先からインクなどとうに切れているペンを伝って、原稿用紙を埋めていった。それぞれのマス目に引っかき傷のように残っているのは彼の筆跡だ。残熱だ。
 熱は紙と共に炎に散らされていく。
 涙は出なかった。その代わりに、藤間素月の小説の一節を樋口は思い出していた。「彼は明星のようにすぐ消える。光と闇が混じり合った短い時間の中でしか生きられない。純粋な昼も夜も見ないうちに消える」
 燃え尽きるのを見届けてから、樋口はアパートを後にした。帰り道の途中、あの人がもういないと思う度に胸に風穴が空いたような気分になった。
 部屋に帰っても、何もする気は起きなかった。パソコンの電源を点けて、「恋愛映画」のファイルを開く。すでに完成していた。後は津島に見てもらうだけだが、その津島の行方が知れない。樋口のところにはすでにいなかった。
 何もせずにいると、酒田が訪ねてきた。前と同じようにタッパーを持ってきていた。前の分のタッパーと交換にそれを受け取った。
「津島さん、大丈夫ですか?」
 まだ会えていないのだろう。不安がる坂田になんて言えばいいか、樋口には分からなかった。
「大丈夫、そのうち戻る」
 そうですよね、と酒田は弱々しく言って、帰った。
 夜になるまで、本を数ページ読んでは棚に戻しての繰り返しだった。気持ちはまだ落ち着かない。何もせずにベッドに寝転がると、藤間老人のことが思い出された。「ひひひ」という笑い声が耳元で聞こえる気がした。
 その笑い声に感傷的になりそうになる。それを押し殺すように、もう一度脚本を読み返す。
 そういえば、まだファイル名が「恋愛映画」のままだ。この脚本の題名を決めなければならない。これはどんな脚本だろう、と樋口は考えた。花火みたいに一瞬で消えるような脚本を、と津島に言われたことを思い出した。
 一瞬で消える。
 樋口はそう呟いた。
 チャイムが鳴った。
 樋口が急いで扉を開けると、そこには傷だらけの男がいた。シャツは破れ、血が滲んでいる。。傷口は晒されたままで治療もされていない。
 津島は吐き出すように言った。
「樋口、早く脚本を見せてくれないか」
 津島は例の女が呼んだ数人の男と殴り合いになったらしい。女の方も愛想を尽かしたようで、もう会いにくる気配はないという。
 両手でも数え切れないほどの絆創膏とガーゼが貼られた姿で、津島は監督をすることになった。酒田には撮影の時の怪我だと嘘をついているらしい。
 九月になっても暑さは引く素振りを魅せない。撮影をしている並木道には十人くらいの映画研究部員が汗をかきながら、準備をしていた。その様子を監督と脚本家が見ていた。
「明星、か」
 津島が台本の表紙の大きく印刷された文字を読み上げた。
「その題名、どう思う?」
「いいんじゃないか」
 そうか、と樋口は満足そうに言った。脳裏にはあの小説家の姿がある。
 並木道の向こうから手を振る影が見えた。酒田が差し入れを持ってきてくれたようだった。津島は手を振り返すことはしないで、酒田に近づいていく。
 明星が見えない空の下で、「明星」の撮影が始まろうとしていた。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:17

ペンと踊る


 ペン先が滑らかに紙の上で踊る。軸を支える手に従って細やかなターンやステップを繰り返し、左から右へ罫線の間を滑っていく。そして端へ辿り着いたかと思うと次の瞬間には新しい行へ跳び、先ほどとはまた違う複雑な身のこなしを見せる。
 ペンの動きは次第に速さと激しさを増し、ついには手を振り回し振り切らんばかりに身をよじる。手は軸を逃がすまいと指に力を込め、その反動でペン先は罫線を越える。
 だが、どれほど乱舞しようともペンがその痕跡を紙上に留めることはない。そのペンはとうにインクが切れているのだから。
 僕はペンを置くと、椅子の背にもたれかかった。気分はすっきりとしていたが、体は疲れ切っていた。このインク切れのペンを走らせた後はいつもそうだ。
 僕はだらりと椅子に背を預けたまま、真っ白なページに寝かせたボールペンをうつろに見つめた。
 そのペンはまるっきり男の部屋には似つかわしくなかった。軸はピンクに白の水玉模様で、カチカチ押して芯を出し入れする部分には濃いピンクのプラスチック宝石がはめ込まれている。
 ファンシーショップで売られているような代物を眺めていると、元の持ち主の幻がゆらゆらと立ちのぼってくるようだった。僕の手に渡る前、この可愛らしいペンはある少女のものだった。
 僕が九歳か十歳の頃の出来事なので、約七年前のことだ。その女の子は僕の同級生で、名前をルカといった。確か瑠華という漢字表記があったはずだが、小学校中学年の子供には難しかったのか、僕の頭には「ルカ」と片仮名でインプットされていた。
 ルカは同年代に比べて背が高く、整った顔立ちはいくらか大人びていた。性格も幾分ませたところがあったが、割と気分屋で周りを振り回すことも少なくなかった。それでも嫌味のない愛嬌があったので、憎らしいというよりルカらしいと肯定的に受け入れられていた。
 そんなルカは憧れの的というほどではないが、なかなか男子に人気があった。もちろん僕もその一人だった。
 どんないきさつでそうなったのか、今となっては憶えていないが僕とルカは仲良くなった。それも単なる遊び友達ではなく、今でいう友達以上恋人未満という感じだ。僕はルカが自分を好いてくれているんじゃないかと内心かなり浮かれていた。
 そんなある日、理由は忘れたが僕は彼女からボールペンを借りた。その日は確か金曜日で、月曜日に学校で返す約束になっていた。
ところが月曜の放課後、僕とルカは些細なことから口げんかになった。些細なことの具体的な内容や細かいやりとりはすっかり記憶から抜け落ちているが、顛末だけははっきりと思い出せる。僕はけちょんけちょんに言い負かされ、ルカに散々ののしられた。
自分の心に忠実なルカのことだから、他のことで僕に会う前から苛立っていたのかもしれない。
とにかく、僕らの関係はそこで終わった。
別れ際、おずおずとペンのことを切り出した僕に、ルカは一言「返さなくていいから!」と叫んで寄越した。そうしてピンクのペンは僕のものになった。
初恋がこんな形で終わって、僕はずいぶん落ち込んだ。けれどもルカと仲直りする気にはなれなかった。別れ方からして仲直りできる気がしなかったのもあるし、投げつけられたひどい言葉に傷ついてもいた。クラスが違うのでなかなか接点もない。
だから僕の思いは自然とペンに向いた。僕はルカのものだったペンで紙に心の内を書き綴った。
今でも好き。あの言い草はひどい。自由で素敵。自分勝手で理不尽。もう一度前みたいに仲良くしたい。二度と会いたくない。
順序なんて考えず、前後の繋がりも無視して気の済むまで僕は思いの丈を記した。ルカのペンを手に紙へ向かう時の胸の高鳴りは、恋のときめきに似ていた。
よく気持ちを静める方法として頭の中のもやもやを全部書き出すというのが紹介されているが、僕の場合それはうまく機能しなかった。インクが絞り出されるとともに空気が芯へ入るように、書けば書くほど吐き出したはずの情念は僕の方へ戻ってくるようだった。
やがてインクが出なくなると、僕はいろいろ調べて見つけた対処法を試した。母から除光液を借りたこともあった。そうして数度掠れたり直ったりを繰り返したペンだったが、一年半も経つ頃には本当に書けなくなってしまった。インクが切れたのだろう。
インクが尽きても僕の愛着は尽きなかった。それからも以前ほどではないが、時々ペンを取り出しては眺め、撫で、紙の上を走らせた。紙にへこみが残らないよう慎ましく、密やかに。
心なしか軽くなったペンを手にしていると、時折書いているのか書かされているのか、自分が動かしているのか動かされているのか、判然としなくなることがあった。
最初こそ戸惑ったものの、すぐに僕はその状態を受け入れた。奔放に周囲を振り回したルカが思い起こされて、愛おしくさえ感じた。
透明な文字は僕の目の前で一瞬輝くと、すぐに紙の白さへ溶けていった。
 
 
 夏休みだというのに美術室では七人の美術部員が制作に励んでいた。クーラーのない部屋は蒸し暑く、みな額や首筋に汗を浮かべていた。
 遅く来た僕はその様子を一通り見まわすと、他の人に倣って自分の場所を確保し、スケッチブックと鉛筆を取り出した。
 数日前から続いていた下書きが終わり、こめかみの汗を拭っていると、部員仲間の村田が話しかけてきた。
「もう完成?」
「下書きが終わったところ。そっちは?」
「同じくらいかな。相変わらず変なもの描くよな」
 僕が描いていたのは絵を干すのに使う金属製の棚だった。
「変なものの方が練習になりそうじゃん」
「そうか? で、それ文化祭に出すの?」
「出さないと思う。他の人の提出数があまりにも少なかったらわかんないけど」
 僕らの高校は九月の半ば過ぎに文化祭を行う。だから暇な部員は授業やクラスの出し物で忙しくなる前の夏休みに展示物を作っておく。
「村田は何展示するか決まってる?」
「今描いてる窓からの街並みは出すつもり」
「そっか」
「これから展示品描くのか? それとも冬や春に描いたのを出す?」
「一枚は前に描いたやつで、もう一枚はこれから描く」
「頑張れ」
「そっちこそ」
 言いながら僕はボールペンを取り出した。もちろんルカのではない。インクも予備校のロゴも入った、そこらで配られている普通のボールペンだ。
「あ、また出たよボールペン。お前ホントに好きだなー、ボールペン絵」
「いいじゃん」
「絵の具なら色がつくけどボールペンじゃ鉛筆のスケッチとそんなに変わんないじゃん。確かに濃淡だすのは上手なの認めるけど、二度手間な感じするな」
「なんとなく気に入ってるんだよ。それに下書き消す瞬間が気持ちいい」
「うわー、物好き。だからお前の絵の具はいつまでたっても減らないんだよ」
 僕らはひとしきり笑い合うと、各々の作業へ戻っていった。
 
 
 ペン先が滑らかに紙の上で踊る。軸を持つ手に添って静かに跳ね、身を翻しながら罫線の間を流れていく。ペンの動きは遠い夢へ思いを馳せるように緩やかだった。
 だが、どれほど丁寧に振舞おうとその軌跡が紙上に残ることはない。やはりとうにインクが切れているのだから。
 僕はインク切れのボールペンを手にしたまま動きを止め、目を瞑った。目を閉じていても、自分の手にするボールペンの姿ははっきりと思い描くことができる。
 手に程よい太さで軸は黒。グリップとペン先、カチカチ押すところと紙やポケットに引っ掛けるところがシルバー。シンプルなデザインのそれは、以前付き合っていた女子からのプレゼントだった。
 送り主の名前は美鈴といった。美鈴は中学二年生の時のクラスメイトで、席替えで隣になったのをきっかけに喋るようになり、いつしか付き合うことになった。
 美鈴は本好きと科学部所属を両立させる文理両道で成績もよかった。運動はからっきし駄目だったが、一緒に過ごすのに不都合はなかった。
 ただ一つ困った点があるとすれば、時々思わせぶりというか、意味深長な言動をすることくらいだった。
 今考えると、少し斜に構えたところがあったのだろう。でも三年前の僕は彼女の発する難解な問いや言葉、例えば「あなたから見た私は本当の私なのかしら。私が本当は全然違う性格なのに、人前でだけこんな風に装っているんだとしたら、どうする?」とか「大人になったとか良い子になったとかって、単に周りの人にとって都合よく振る舞えるようになった、ってことだよね。だとしたらそれは本来の性格を周囲に歪められたってことになるんじゃないかしら」とかそんなのにいちいち頭を悩ませ、真剣に答えようとした。
 僕にとってそれは全然面倒でも苦痛でもなかった。むしろ彼女の持つ僕にない世界観に憧れた。
 けれども恋人としての僕らの関係は長続きしなかった。理由は二つ。
一つ目は、二人とも恋そのものに恋している部分があったこと。そのため、この人でなければという、いわば必然性のようなものがどちらにも無かったのだ。
それに、僕らのしていたことといえば、お喋りしたり一緒に帰ったりする程度で、手を繋いだりハグしたりといった恋人らしいイベントはほぼ経験していなかった。清い交際と言えば聞こえはいいが、恋人というよりは親友と呼んだほうがずっとふさわしい状態だった。これが二つ目。
そうして僕らはどちらからともなく恋人関係を解消した。ルカとの時と違い円満な終わり方だったため、その後も僕らは卒業して進路がわかれるまで、友人としての関係を保ち続けた。
ボールペンを貰ったのは別れる前のクリスマス。冬休み前、美鈴に「クリスマスプレゼントどうしよう。あれこれ考えるのがしんどいし、ハズレだったり二人の使った金額が離れていたりしたら、どちらにとっても気まずい」と持ちかけられた時、じゃあちょっと良いペンを互いに贈り合うのはどう、と答えたところ、すんなり受け入れられてそういう運びになった。
なぜペンを、と言ったのか。今でもよくわからないが、ルカとのことが頭の片隅にあったのかもしれない。
イブの日に二人で待ち合わせて、ショッピングモールのちょっと大きい事務用品店で一緒に選んだ。色違いにしようということになり、僕が彼女用の水色を、彼女が僕用の黒を買った。そして店を出て、外のクリスマスツリーの下で交換した。
傍から見たらムードに欠けると映ったかもしれないが、僕らは満足していた。少なくとも僕はそう思う。
貰ったボールペンはずいぶん重宝した。ノートの記名や何かの書類の記入にも使ったし、高校の願書もそれで書いた。千円しないお手頃価格の品だったが、手によく馴染み、インクも滲まずすぐ乾くので非常に使い勝手がよかった。
この特長は心中の吐露にも役立った。美鈴と別れた後、僕はルカの時と同じように裏紙なんかに胸の内を書き綴った。
未練があったわけではないし、美鈴との関係が絶たれたわけでもない。そもそも普段はそんなこと意識しない。
それなのにボールペンを手にし、紙を前にすると言葉が溢れて止まらなかった。
今も僕の中に残る美鈴の言葉、「愛だ恋だというけれど、愛されている自分に恋愛してる人のなんて多いこと」「妄想だって嘘だって、それを信じて死ねるなら幸せじゃない?とか、とっさに答えらえなかった問い、正面切ってぶつけることのついぞなかった好意と羨望と、ごくわずかな隔意。
僕は時折思い出したようにそれらをごたまぜにして紙に広げた。
インクがなくなった後も、そのペンはルカのと同じ運命を辿ることになった。
僕は二本のペンを大切に引き出しに仕舞い、たまに片方を取り出しては紙の上を走らせた。見えない文字で書き下すのは、僕を離れた彼女らへの思いだ。時とともに美化された彼女らへの賛辞は尽きなかった。
つっと指先を引かれるような感覚に、僕ははっとして目を開けた。だが、手にはボールペンがあるきりで、虫が乗っていたり糸くずが絡んでいたりなんてことはない。
気のせいか。
そろそろペンを置いて寝るなりネットで遊ぶなりしようかとぼんやり考える僕の目の前で、ペン先がちょいちょいと動いた。
決して手の痙攣なんかじゃない。驚く僕に見せつけるように、ペンは今度は少しゆっくり、大きめに動いた。僕は思わず息をのんだ。
ペン先は確かに「萩原美鈴」と美鈴のフルネームを書いてみせたのだ。
息を詰めて見守っていると、ペン先は一呼吸おいて小さな文字を書き始めた。頑張って読み取ってみると、それは住所のようだった。続いて電話番号とメールアドレスらしきものを書きだした。そして二、三個小さな丸を描くと、それきり大人しくなった。
今のは何だったのだろうか。僕は手にしたままのペンを見つめて自問した。
美鈴の住所も憶えていなければ、今のメアドも知らないので、今しがた目の前で記されたものが果たして正しいのか判断できない。ただ、確かに住所は出身中学の学区内で、メアドには「misuzu」という文字列が入っていた。
試しにこのアドレスにメールを送ってみようか、と一瞬思ったが、すぐに考え直した。送ってみるとして、いったいどんな文面にすればいいのだ。
名乗ればどこから新しいアドレスを手に入れたのかという話になるし、匿名なら不審がられて無視されるのがオチだろう。
かわりに住所をネットで調べ、周辺の画像を見てみた。美鈴の家には行ったことがないので断定はできないが、見たところ合っていそうだった。
訳が分からないままその夜はペンを仕舞って寝た。
 
 
 真夏の美術室にはかわりばえのしない光景が広がっていた。その光景の一部たる僕は、その日はクロッキー帳に向かっていた。文化祭に出すものを考えているのだが、何も思いつかない。
 ぎっしり緻密に描かれた絵が好きなので、そういう系を目指そうとは決めているのだが、テーマやモチーフが浮かばない。
 鉛筆をやわらかい紙の上でうねうねと遊ばせていると、数日前の夜のことが思い出された。夏休み、まとまった時間ができて久し振りにルカと美鈴のペンを手にしたこと。紙には筆圧によるわずかなへこみのほかは何も残らなかったが、書き殴った内容は僕自身のうちに刻みつけられている。
 ふと、これをテーマにしたらどうかと思い立った。
 思い立つと、そこからは早い。僕は文字通り額に汗して構想を練った。難しいのは具体的に何を描くかよりも、喚起されるイメージをどう抽象化するかだった。
 心中を露骨な形で表したくはなかったし、万に一つの可能性でもルカや美鈴、彼女らを知る人に何か勘付かれ勘繰られるのが怖かった。
 僕は自身の奥底からゆっくりと湧き上がってくるもの一つ一つをそれぞれ実体のある一つのモノに代表させ、さらにそのモノを連想に次ぐ連想で全く繋がりのなさげなモノに置き換えたり、意味による味付けのほとんどない幾何学模様に落とし込んだりした。
 鞄に入れっぱなしにしていたコンパスと三角定規はこの作業に大いに役立ってくれた。こんな時だけは不精な自分で嬉しい。
 よくわからない曲線や直線でクロッキー帳を埋めていく僕に話しかけてくる部員仲間はいなかった。忘我没頭している人間にはみだりに話しかけないという暗黙の了解があるのだ。それにみんな自分の作業がある。
 声の欠けた猛暑の美術室で、僕は数日かけてどうにかアイディアを形にした。
 
 
 数枚貼り合わせたコピー用紙いっぱいに広がる下書きを前に、僕は満足の溜息を吐いた。連日美術室に通い、ようやくここまでこぎつけた。
 僕はスケッチブックからちぎり取った画用紙にカーボン紙と下書きを乗せ、ボールペンを手に持った。今は夜で、僕がいるのは自室だったが興に乗って醒めないので、今夜は家でも制作を続けてしまうことにする。
 罫線のない青みがかった紙の上でペン先が慎重に鉛筆の線をなぞる。定規の助けを借りながら、ずれないよう、はみ出ないよう精密に下書きを再現していく。情念の変化した図形の輪郭を転写していくペンの後ろには、鉛筆のそれとは少し風合いの違う黒線が引かれていく。このペン、以前村田にからかわれた予備校のロゴ入りボールペンには、ちゃんとインクが入っている。
 思えば、これも女子からの貰い物だった。
 去年、高校一年生の秋ごろ、友人に誘われて遊びに行った先で出会ったのがペンの元持ち主、千佳だった。
 その場には僕と友人と千佳含めて男三人女三人おり、男子は男子、女子は女子で同じ高校ということだった。なぜ友人は他校の女子たちを連れてきたのだろうと最初は訝しく思ったが、疑問はすぐに解消した。友人は女子三人のうちの一人と付き合っていたのだ。それで毎回二人きりだと飽きてしまうし、二人だけじゃできないこともしたい、という話になってこんな形にまとまったらしい。
 カップル一組以外は全員フリーで、なんだかなと感じないでもなかったが、六人で遊ぶのは意外と楽しかった。中でも同じ美術部員だという千佳とは意気投合し、最後には連絡先まで交換した。
 ちなみに残る一組の男女もいい雰囲気になっていて、なんだかあてがわれたみたいだった。
 その後、千佳とは何度か会い、カフェに行ったり駅ビルを散策したりしたが、それ以上関係が進展することはなく、やがて会わなくなった。
 ペンを貰ったのは最後に会った時。
「何か記念になるものが欲しい。短い間だけでも一緒にいた証拠が欲しい」
コーヒーショップで飲みかけのキャラメルマキアートを前に、千佳が珍しくメランコリックに呟いたのだ。
僕は少し思い巡らせてから答えた。
「じゃあ、互いの普段使いしてるペンでも交換する?」
 もちろん僕の中にはルカと美鈴のことがよみがえっていた。思い巡らせた内容というのもまさにそのことだ。ペンに縁のあった僕が、仲良くなった異性からペンを貰うことと、その貰ったペンへの執着をうっすら自覚したのはこの瞬間だったと思う
 千佳は僕の奇妙な提案に少し笑ったが、了承して、ペンケースを取り出した。が、すぐに顔を曇らせた。
「今こんなのしかないや」
その手には、駅や学校の前で広告とともに配られている予備校の宣伝用ボールペンが載せられていた。けれども僕は僕で二本百円の安物を愛用していたので、むしろ高いものより良かった。彼女もそれを聞いて安心したらしく、僕らは秘め事の共有めいた心地よさでもってペンを交換した。
 それからだ。僕がボールペン絵に凝りだしたのは。思春期を迎えた今となっては、小中学生の頃のように思うままを見える形で赤裸々に綴るなんて、恥ずかしくてできやしない。でも身についた性はそう簡単には消えてくれない。
ルカや美鈴のペンで他の女のことを描くのは彼女たちに失礼だし、第一千佳から貰ったペンを使いたい。で、出した答えが美術部で使う、というものだった。
とはいっても常に千佳のことを考え、千佳に捧げるつもりで絵を描いているわけではない。何も考えず自分のために描いているのがほとんどだった。
でも自分を気に入ってくれた人から貰ったものを有意義に使っているという感覚はふとした瞬間、僕に安らぎを与えた。それに、このペンを使い切れば「見えない文字」で千佳のことを好きなだけ書ける。
 左上の部分を画用紙へ写し終えると、僕は下書きをめくってカーボン紙をずらした。カーボン紙は美術の先生から貰ったもので、A4サイズ一枚しかない。画用紙の線と下書きの続きがつながるように注意深く重ね直すと、僕はまたペンを動かした。
 転写が終わったのは十時過ぎだった。ずっと同じ姿勢でいて強張った腕と肩を伸ばす。
コピー用紙とカーボン紙を取りのけると、画用紙の上には細く黒い線が複雑な模様をかたちづくっていた。それはさながら情念のフラクタル、情愛の模様尽くしといったところか。
さすがに疲れ果て、紙やペンを片付けると、美鈴のペンのことが頭に浮かんだ。あの日より少し遅い時間だが、もしかしたら。僕は重い腕を動かして黒いボールペンを持ち、先っぽを適当な紙の上に置いて待った。
しばらくそのままでいると、何の力も入れていないのにペン先がくるりと輪を描いた。あっ、と僕が居住まいを正す間もペンはしゃッしゃッとスピーディーに回った。
まるで丸付けだと思った瞬間、ペンはそれに応えるようにチェック印を切り、その横に数字らしきものを書き込んだ。
間違いない。このペンは丸付けをしているのだ。
それからペンは立ち止まることなく十個ほど楕円を描くと、ぱたっと動きを止めた。
 
 
「お、珍しい。絵の具出してる」
 パレットで絵の具を混ぜる僕に村田が言った。
「たまにはカラフルにしようと思って。今日は塗るよ。超塗る」
「ボールペンに飽きて絵の具と浮気?」
「まさか」
「それにしても細かいな。何題材にしてんの?」
 正直に答えるわけにはいかない。絶対に引かれる。
「んー、適当」
「適当でそこまでぎっしり描くか。空所恐怖症みたいだ」
「ところでそっちは何してんの? 暇ならもう一枚何か描けば」
 休憩中、と笑いながら村田は去っていった。
 僕の興味、あるいはこだわりは、面より線にあるらしい。色塗りにはこれまでの下書きや昨晩の転写ほど身が入らなかった。
 枠からはみ出さないよう気は遣うが、隣り合う図形が同じ色でもさほど気にならない。一応何色も使ってグラデーションをつけたり細かめに塗り分けたりもしているが、最初は単色に黒い線の紋様、それだけで十分ではないかとも少し考えた。
 色がついてくると、絵は曼荼羅めいた様相を呈した。曼荼羅が仏の教えを現した絵なら、これは僕の過去から現在につながる恋慕を隠した絵だ。あながち似合わない比喩ではないかもしれない。
 情念の込められた絵には、こちらの意識や感情を吸い込むような凄味がある。僕は一心に筆を動かし、紙を染めていった。
 しかし、そんな中にもふと集中の緩む一瞬というのはあり、そんなときにはあのボールペンの怪が頭をよぎった。
 なぜあんな動きを見せたのか。あのペンでなくてはならないのか。ルールのようなものはあるのだろうか。
疑問は振り払っても、時間をおいてまたやってくる。その度に帰ったら考えようと心の中で呟き、僕は色付けに精を出した。
その昼だけでも色塗りは三分の一ほど進んだ。余裕で文化祭に間に合うペースだった。
 
 
 それから連日、暇さえあれば僕はボールペンを片手に過ごした。ペンはルカや美鈴、千佳から貰ったもののこともあれば、自分のやリビングにある家族共用のもののこともあった。
 ボールペンとともに生活を送る中で、あの怪現象には何度も遭遇し、次第にルールらしいものもいくらかわかってきた。
 動くのはルカと美鈴のペンだけで、その動きはルカや美鈴が実際にその時ボールペンで書いているものを反映しているらしい。
インクの色は関係なく、ボールペンで書いたものなら赤字でも青字でも伝わるが、シャープペン等では駄目なようだ。サインペンや筆ペンの扱いは不明。
仮に向こうがボールペンで書き物をしていても、こちらのペンが動くのは僕が対応するインク切れのペンを手にしている時だけ。
未練がましい僕の行いが招いた事態なのか、強い想念が引き起こしたのか、理由もメカニズムもわからないが、とにかく「そういうもの」らしい。
不思議と不気味だとも怖いとも思わなかった。あったのは戸惑いと後ろめたい喜びだった。このインク切れのペンがあれば、二人の生活の一部を覗くことができる。
ルカはあまり物を書かないようだったが、手帳の記入にはペンを使っているようで、予定やちょっとしたメモなら盗み見ることができた。
美鈴は勉強、主に丸付けやアンダーライン、ちょっとした書き込みにペンを活用しているようで、黒いペンは女児向けのペンよりよく動いた。その他にも美鈴は時折ポエムも書いているらしく、それを垣間見るときは一層背徳的な気分になった。
僕は来る日も来る日もペンが動くのを待った。そしてボールが滑って、遠く離れた彼女らの様子を告げるたびに何とも言えない愉悦を味わった。
その感覚はなんだかこっくりさんの時に似ていた。小学生の時に何度かやってみたが、あの時も期待と緊張を胸に十円玉の動向を見守り、意味のある言葉が紡ぎだされるごとに参加者揃って歓声を上げていた。
ペンの基本的な活動時間もわかってきた。
ルカのは昼間、ほんの短い時間だけ動く。美鈴はそれが集中できる時間帯なのか、朝夕の九時から十時くらいにボールペンをよく使うようだった。
だから夜はペンを気にかけることもなく眠ることができた。
 
 
 文化祭といっても美術部のやることはあまりない。ビラや派手な看板なんか作らず、淡々と作品を展示するだけだ。
今も美術部の準備を口実に休憩がてら戦場と化している教室から逃げてきた部員たちが、申し訳程度に働いたり本当に休んだりしている。僕も村田と喋りながらだらだら椅子を片付けていた。
「いよいよ明日からか」
「そうだね。そういえばタイトルの件ありがとう」
 僕一人ではあのボールペン曼荼羅のタイトルを決められなかったので、村田に頼んで考えてもらっていた。そうして村田の出した候補三つ「黄昏の混沌」「contents A」「ボールペン愛好者のための線画ソナタ」のうち、一番無難なものをという僕の希望であの絵は「contents A」と呼ばれることになった。
「本当にあれにするのか? 俺としてはほかの二つの方が良かったと思うけど」
「えー、他二つこそなんか仰々しいし、こっぱずかしいよ。特に線画ソナタとか意味わかんないし、ボールペン愛好者なんてニッチすぎるよ」
「でもおまえ自身はボールペン愛好者なわけじゃん?」
「はあ?」
「好きじゃなきゃあれとかこの間の棚とかボールペン大活躍の絵は描かないだろ」
「それは別に描きたいものを表現するのにボールペンが合っているだけで」
「そうだとしても、一応こだわりはあるんだろ。だって筆箱に二、三本ボールペン入ってるけど使うのはいつも同じ一本じゃん」
「一番使いやすいからね。にじまないし軽い力で書いてもかすれにくいし、すべりもいいし」
「ふーん。で、結局お前にとってボールペンって何なの?」
 形見、遺品、遺骨、身代わり、思い出の品、感情のはけ口。
そんな言葉が頭をよぎっていく。ただそれを口には出せない。僕は平静を装って答えた。
「便利な筆記用具、かな。大したこだわりなんてないよ。同じのいつも使ってるのだって今ある三本のうち絵に向いているからってだけで書けなくなってもそれほど惜しくないし、残る二本も百均だし」
「そっか。ああ、なんか傍から聞いていたら変な会話だろうな、今の」
「そうだね。でも逆に普通の会話って何だろう」
 僕らは顔を見合わせて笑った。椅子運びはとうに終わっていて、僕らは立ち話に興じていた。
「普通の会話……。まあ明日のこととかだろうな。後はネットの面白ニュースとかゲーム、テスト、恋バナ」
「大体そんなところだろうね」
「そういえばお前彼女いたっけ」
「いないよ。村田は?」
「いない。欲しい」
 それから少し休んで僕らはそれぞれの教室に戻った。
 
 
 形見、遺骨、遺品。美鈴のペンを手に取ると、村田と話していて頭を掠めた言葉がよみがえってきた。
確かに僕は三人の女性から貰ったペンを彼女らの、いや、僕と仲良くしてくれていた時や僕に好意を持ってくれていた時の彼女らの形見のように思っている。
僕の好きだった彼女らは関係を絶った時点で死に、今生きているのは同じだけど別の人間。ペンはその亡くなった彼女らの生きた証。ちょっと極端に表現すればそういうことかもしれない。
ペンが僕の意思とは無関係に動きだす。
以前ペンの感応をこっくりさんに例えたが、それもあながち的外れではないかもしれない。ペンが遺品なら、これはいわば交霊術だ。
今宵の美鈴は試作に耽っているらしい。センチメンタルで実用性がなく、美麗で仰々しい言葉が書き連ねられていく。立ち止まることも書き損なうこともなく。美鈴はすべて考えてから書き始めるのだろうか。それとも感情の赴くままに?
よどみのない流れに手を任せていると、まるでペンと踊っているような心地がした。もう決して会うことのない中学生の美鈴の幻を抱いてペンは僕の手とともに舞った。身を焦がすような切ない追憶と、こみ上げる再会への狂喜が交錯するひとときだった。
奇妙な感応も束の間、ペンははたとステップを止め、何の変哲もないインク切れのペンに戻った。
夢の名残りを引きずるように僕はのろのろと黒いペンを引き出しに入れ、代わってルカのペンを取り出した。
頬杖をついて待っていると、ペン先が小さく、素早く動いた。はっきりとは読み取れなかったが、友人との遊びの予定らしい。
今のルカの生活と僕の生活には、何の接点もない。だからこうして覗く彼女の日常は、彼岸の人間の暮らしみたいだった。
最後に僕は二本のペンをまとめて手にすると、掻き抱くように胸元へあてた。思い出の中では、ルカも美鈴も可愛く、美しく、自由で、懐かしく、慕わしく、素敵で最高だった。
本人を前にすると見えなくなってしまう美点を、ペンは残酷なまでに鮮やかに、僕へ囁いた。
どれほど強く願っても手の届かない愛に、それでも触れることを欲するように、僕は一層ペンを握る手に力を込めた。
 
 
「これで文化祭も終わりか。なんかあっけないな」
 二日目終了の放送を聞きながら村田がぼやいた。相槌を打っていると、美術の先生がやってきて片付けを呼び掛けた。
 セッティングと同様、片付けもすぐに済んだ。あらかた元通りになったところで、上級生が手を叩いた。
「それじゃ、お楽しみ。感想ノートタイム!」
 美術部の展示では、部屋の真ん中に机と椅子を置いて、歩き疲れたお客さんが一息つけるようにしてあった。感想ノートはペンと一緒にその机に置いてあり、見に来た人が自由に感想や意見、要望などを書き込めるようになっていた。
 いくら自分の好きで自分のために書いているとはいっても、誰だって他人の評価が気になる。僕らはぞろぞろと先輩のもとへ集まった。
 さすがに声に出して読み上げたり読み上げられたりするのはみんな恥ずかしい。身を寄せ合ってノートの字に目を凝らす。悪口が書かれていることはめったにない。書かれているとすれば褒め言葉か設備への苦情(暑い、狭い)だ。
 適当なところで先輩がページをめくる。
「何これ」
 ほどなく誰かが声を上げた。その目はある一行のコメントに向かっていた。視線の先を何気なく辿った僕は思わず目を見開いた。
 そこには〈『contents A』という作品は気のせいかもしれませんが先週の××高校で展示されていた絵によく似ています G ルース〉と書かれていた。
 控えめにだが盗作を疑われている。突然のことに僕はうろたえた。
「やってないよな?」
 村田が軽い調子で訊いてくる。その様子から、僕を信じてくれていることが伝わってきた。
「やってない」
 僕は幾分落ち着いて答えた。
「変なもの描いてるなーって気になって制作過程ちょくちょく覗いてたけど、何かを参考にしてる様子もなかったし、模様一つ一つ自分で考えてたよね。あれは完全にオリジナルだと私は思う」
 先輩の一人が言った。
「本人も書いてる通り、やっぱり気のせいなんじゃないの」
 別の先輩もそれに続く。注目の的になるのはつらかったが、フォローはありがたかった。
 だいぶ平静を取り戻した僕は、さっきから気になっていたことを口にした。
「G ルースって誰でしょう。外人?」
 居合わせた部員たちは顔を見合わせ、首をひねる。ややあって僕が諦めかけたころ、おずおずとした声が答えた。声の主は同じ学年の女子、本橋だった。
「それ、G組の中野葵ちゃんだと思う。葵ちゃん、演劇部でルースって呼ばれてるから」
「ええと、その中野さんは何年?」
「私たちと同じ、二年」
「なんでルースなの?」
 村田が横から口をはさんだ。
「演劇部って部員全員にあだ名をつけることになってるんだけど、葵だから青い、ブルー、ブルースって変わっていって、最終的にルースになったみたい」
「で、これからどうするの?」
 最初に僕をかばってくれた先輩が訊く。さっきから、ずっとそれを考えあぐねていた僕は答えに窮した。
「そのルースのとこ行って確かめてきなよ。この時間ならまだクラスの片付けしてるんじゃないかな」
 さっき気のせいだと言ってくれた先輩の言葉で、場の方向性が決まった。
「葵ちゃんの顔知らないでしょ。私も行こうか? 男子だと呼び出すのも難儀だろうし。何なら葵ちゃん呼んだらすぐ退散するから」
 気が付いた時には既に、願ってもない申し出をしてくれた本橋とともに送り出されていた。報告待ってるから、という誰かの声を背で聞きながら、僕と本橋は二年G組に向かった。
 中野葵は教室にいて、本橋が呼ぶと怪しむ様子もなく出てきた。僕と中野が向き合うと、本橋はすっと離れていった。
「あの、ルースさんであってます?」
「はい」
 初対面でどう話したらいいものか悩みながら僕は言葉を継いだ。
「美術部の感想ノートにあったコメントについて詳しく聞きたいんだけど」
「あの絵を描いた人?」
「あ、うん」
「待ってて」
 中野はポケットから携帯端末を取り出し、何やら操作するとこちらへ差し出した。
「これが××高校で展示されてた絵」
「確かに似てる……」
 その絵は色使いこそ全然違っていたが、骨格ともいえる線で描かれた模様尽くしはそっくりだった。
「でも、初めて見た。本当だよ!」
「うん。実は私としてはあんまり似てないというか、偶然の一致レベルだと思うんだ。でも今日これを描いた子と一緒に校内回ってたんだけど、その子がちょっと騒ぐものだから。その子、絵の制作過程をSNSに載せてたんだ」
「へぇ……」
 僕は中野がさほど盗作の疑いを持っていないとわかり、内心ホッとしていた。中野葵は再び端末をいじると、こちらに見せてきた。
「これがその子のアカウントで、ほら、これが下書き途中の写真。他にも下書き完成版とか色塗り中のとかもアップされてるよ」
 下書き途中の写真には、ノーとか何かにシャーペンで描かれた模様の一部が映っていた。添えられた文章には〈夜だけど急に思いついて描いてみた! ペンが勝手に動いたみたい(笑)〉とある。
 僕はアカウント名とIDを頭に叩き込むと、日付に目をやった。それは僕がちょうど転写を終えた日だった。
「この日なら、もう下書き完成させてたよね」
 割り込んできた声に顔を上げると、いつの間に戻ってきたのか本橋が立っていた。
「そっか。じゃあ偶然だね。友達にも言っとく。ごめんなさい。変なこと書いて」
「ううん。確かに似てはいたし」
「じゃ、私はクラスの方でやることあるから」
「あ、待って。念のためその子の名前訊いていい?」
 アカウント名を見た時から嫌な予感はしていた。高校名も合っていた
「松本千佳、だよ」
 予感は的中した。僕が以前少し遊んでペンを交換した、あの千佳だった。
 
 
 美術室は、人が半分ほどに減っていた。ID検索で例のアカウントを出し、投稿を見せると、もともと露ほどしかなかった僕の盗作疑惑はすっかり晴れた。
そして似てる似てないとひとしきり盛り上がった後、感想ノートの時も音頭を取っていた先輩の「解散!」の叫びで僕らは各々の教室へ引き上げていった。
教室の片付けを手伝い、帰路に就く頃には真っ暗になっていた。身も心もクタクタで、家に帰ると風呂、夕食、歯磨きという最低限のルーティーンだけこなすと自室のベッドに飛び込んだ。体力をほとんど使い果たしているのですぐにでも眠れるかと思ったが案外寝つきは悪かった。
いや、案外ではないのかもしれない。寝返りをうちながら僕は数時間前の出来事を思い返していた。他の人たちは偶然の一致だと言った。確かに僕は部員仲間以外には絵の創作過程を見せていないし、ここ半年以上××高校の生徒との接点はない。
でも僕には確信があった。彼女が僕のデザインを盗んだのだ。どうやって? なんて愚問もはなはだしい。答えは引き出しの中に大切にして収められている。僕だってそれでルカや美鈴の生活を覗き見ていた。
 ペンの交換なんかしなければよかった。千佳のペンをコレクションに加えたかったのは本当だが、何かこちらのペンを渡さずに済む方法を考えればよかったのに。後悔ばかりが押し寄せてくる。
同時に、恐ろしくもなってきた。彼女はいつから僕を「見て」いた? インク切れのペンで書いたことは伝わるのだろうか? 物事にはバランスがあるという。見る側の愉悦に匹敵するくらい見られる側の不快感は凄まじかった。
 数日のうちに、僕は千佳から貰ったペンを使い切った。振ったり温めたり除光液に浸けたりしても回復しなくなるまで、何枚の裏紙を真っ黒に塗り潰したことか。とにかく、これで僕も千佳の生活を覗ける。
 勢い込んで盗み見た千佳のボールペン使用状況は、ルカや美鈴と大して違わなかった。予定の書き込みや勉強がメインで、注目に値するようなものは何もない。スケッチひとつやらない。
 まあ確かにボールペンの使い道なんてたかが知れている。自分を省みても、見ていて面白いものを書くなんてそうそうない。じゃあ見られてもいいかというと、それは話が別なのだが。
 もしかして、千佳は僕の企みに気付いて、敢えて無難なことだけを書いているのだろうか。念のためインクの浪費は深夜や早朝を狙ってやったが、その様子をペンで読み取っていたのかもしれない。
 疑念は抱えているだけで随分心身を消耗した。ボールペンで何も書かなければ何も知られる心配はない。そんなことはわかっていたが、こちらをひそかに窺っている人間がいるかもしれないということが実際のストーカー被害よりも、何よりも恐ろしかった。
そんな不安がやわらぐのは、こちらも「覗く」態勢になっている時だけだった。僕は片時も千佳のペンを手放せなくなった。
もちろん、どう頑張っても二十四時間肌身離さずとはいかない。それでも可能な限りペンを手元に置いた。
先生の話を聞く間もメモ魔のようにペンを手にスタンバイし、右手でものを書くときは左に持ち替えた。
そうしている間にも前から抱いていた疑問はどんどん膨らんでいった。膨らみ、重みを増していく疑問にボロボロの精神が押しつぶされようかという頃、求めていた答えがもたらされた。
その日はいつもより早めに夕食を終え、僕は自分の部屋で例のごとく千佳のペンを握っていた。湿ったように不快な疲労感に、半ば意識を奪われてぼうっとしていると、すっすっとペンが動きだした。
どうつまらない内容なんだろうなと思いながらも目を離せずにいると、ペンは思いもよらない文句を書きだした。
〈これで三度目ですが、まだ気持ちがおさまらないのでもう一度書いてみようと思います〉
 ただごとではないと咄嗟に悟り、僕は急いでカーボン紙と白紙を引っ張り出すと、続きを待った。
〈高校一年生の夏ごろ、友達に連れられて遊びに行った先で、私は永井悠一君と出会いました〉
 永井悠一とは僕の名前だ。僕は固唾を呑んだ。ペンは静かに千佳から見た僕らの出会い、付き合いを語った。
〈……恋愛経験がほとんどないので、こんな風に男の子と二人でカフェなんかに行くのは初めてでした。私は永井君のことが好きだったんだと思います。だから何か記念になるものが欲しい、というおかしな言葉を笑うことなく受け入れてもらえて嬉しかったし、ペンの交換はロマンチックでした。……〉
 ペンの勢いは増していく。
 千佳がかつての僕と同じようにペンを使い切り、怪現象に遭遇したくだりを駆け抜け、独白は盗作騒動へとなだれ込んでいった。
〈……その夜、勝手にペンが動いた時は、勉強しているのかなと思っただけでした。でもそれがすぐに複雑な模様を描いているんだと気づきました。
私はペンの動きと奇妙な絵に見とれました。もちろん本当に線が引かれていったわけではありません。心の目で見ていたのです。
ペンが動くのをやめると、急いで記憶と筆圧でへこんだ跡から絵を再現してみました。……〉
 いつしかペンは取り憑かれたように踊り狂っていた。
〈……下書きの時、色塗りの時、自分の高校での展示の時、私のにそっくりな永井君の絵を見た時。立ち止まるタイミングならいくらでもあったのに、どうしてそうしなかったのか。どうして感想ノートに書こうなんて葵に言ってしまったのか。今でも不思議です。
たぶん私は永井君との接点を探していたんだと思います。自分から連絡をするのではなく、相手から連絡してくれるように。こちらが意識するのではなく、向こうが意識してくれるように。
でも結局葵に迷惑をかけただけで終わってしまいました。そんなの、少し考えればわかったはずなのに。私はなんてバカなんだろう。
そうやって一回しくじったのに、今でもどうにかして永井君の気を引きたいし、時々ペンを持って何か書いてくれないかと待つのもやめられません。……〉
私はどうしたらいいのでしょう、という結びでペンの語りは終演を迎えた。
僕はペンを取り落とすと、こめかみに手をやった。内容の身勝手さに頭が痛い。
はっきり言って、中野葵より迷惑しているのはこっちだ。それに、何が私はどうしたらいいのでしょう、だ。そんなのペンを捨てて覗きをやめりゃいい。
なんだかタチの悪い亡霊でも相手にしたような気分だった。
「そんなに連絡が欲しけりゃしてやるよ……」
 煮詰められた呆れが少しずつ怒りに変わってきていた。僕はすぐさまトークアプリを立ち上げ、たった今カーボン紙で転写した自白文書の写真を本人に送りつけてやった。
 まったく、こうしてアプリでつながっているのだから、あんな風になる前に何か一言でも送ってくればよかったのだ。意地があるといったって、発揮のしどころはここではない。
 その夜はもうどのペンに触れることもなく寝た。
 
 
 千佳の自白のおかげで、僕の精神はいくらかの平穏を得た。まず、インクの切れたペンで書いたことは伝わらないとわかった。それに僕の方で千佳を監視していることもバレていなかった。これなら、もっと早くそうと知りたかった。
 前置きに「これで三回目」とあったが、前の二回は僕が風呂に入っている時か夕食の時になされたのだろう。夕食が早く終わった偶然と、何度も告白を繰り返してくれた千佳の未練がましさには感謝してもしきれない。
 僕と反対に、この一件は千佳には大打撃だったようだ。遅まきながら覗かれる恐怖を味わったらしい。翌朝にはアプリに大量のメッセージが届いていた。いい気味だ。
 だからといって、これで万事解決とはいかない。こちらの手元とつながる覗き穴はまだ残っている。それに一週間経ったあたりから、だんだん千佳のメッセージ内容が壊れてきた。
 だいたい言いたいことは「ごめんなさい」「会いたい」「盗み見るのをやめて」の三つに集約されるのだが、様子がおかしい。妙にくどくどしかったり、そうかと思えば短文を連投してきたり、脈絡なく話が変わったりする。
 そろそろどうにかしないと取り返しのつかないことになりそうだ。
 僕はずっと未読のまま放置していたトークアプリを開き、文章を打ち込んだ。
『こっちも見られているかもしれないと思うと不快で仕方ありません。だからもう互いが互いを見られないように、ペンをもう一度交換しませんか』
 千佳は一も二もなく飛びついてきた。そして数日後、僕らは会うことになった。
 
 
 最後に会った時と同じコーヒーショップで僕たちは再会した。千佳は短期間で随分とやつれており、顔色も悪かった。
 僕らは示し合わせて右手で同時に自分のペンを渡し、左手で相手のを受け取った。交換が済むと千佳は安堵したように頬を緩めた。
「これでやっと眠れる」
「よかったね」
 適当に相槌を打つと、千佳は思いもよらないことを口にした。
「もう一度、前みたいに付き合えないかな」
「無理だよ」
 希望を断ち切るように僕は言った。
「あんなことがあった後だし、実はもう付き合っている人がいるんだ」
 これは千佳の提案を断るための方便ではなかった。自白書写真送信で心が晴れた少し後、汐里という女子に告白され、断る理由もないので了承したのだった。
「そっか。ごめんね。さようなら」
 痛々しい笑顔とともに千佳は去っていった。
 
 
 家に帰ると、僕は以前僕のものだった百均ペンと、そのペンと引き換えに千佳から貰ったペンを取り出した。千佳に渡したペンは偽物だった。
 駅前で同じものを貰い、ネットで見つけたありとあらゆる方法でインク詰まりさせたのだ。いくつもの復活法を試し、それでも直らないことを確認してあるので千佳がからくりに気づく恐れはまずない。万一見破られた時のために本物の方も持って行ったが、結局バレずに済んだ。
 わざわざこんなことをしたのは、何といっても千佳から貰ったペンを手放したくなかったからだ。
とはいえ、断じて除きがやりたいわけではない。むしろあの悪魔に乗り移られたかのようなペンの舞はもう二度と見たくない。
じゃあ、なぜか? 僕にもよくわからない。でも、どうしてか千佳が憎らしくなればなるほど、ペンが愛おしく感じられるようになったのだ。
きっとそれは僕がいまだにルカのペンを大事にとってある理由と同じ。美鈴のペンを大切に保管している理由と同じ。
ペンに美化し、理想化した相手を見出して愛でているんだろう。ペンは何も否定しない。ペンは僕の手に従って踊るだけ。
なんて都合の良い愛だろう。
真に結ばれることになど興味はなくて、ただ自分の感情を思うままにぶつけて一人満足するなんて、あまりに利己的だ。それこそ、千佳のことを非難できないくらいに。
 気がつけば、僕は笑っていた。笑いながら泣いていた。頬に涙を伝わせながら、それでもこみ上げる笑い声を抑えることができなかった。
 自分はインク切れのペンしか愛せないのだと、気づいてしまった。
 わかってしまえば奇妙な爽快感があった。あると信じていたものがないとわかったような、身に開いた穴を冷たい風が吹き抜けていくような、そんな爽快感が。
 僕は千佳から貰った予備校ボールペンを取り、思うままに走らせた。ペンは僕の手に合わせてステップを踏み、カーブを描き、舞った。
 もうそこには僕とペンしかいなかった。一人と一本は僕の手首が悲鳴を上げるまで、何もかも振り払うように踊り続けた。
 
 
 執着心にはこちらからにじり寄っていくばかりでなく、対象を引きつける力もあるのだろうか。どうも僕は相当ペンと縁があるらしい。僕の誕生日に新しい彼女の汐里がくれたのもボールペンだった。
 内心の動揺を押し隠して笑顔を作り、お礼を言うと汐里も微笑んだ。
「実は村田君にいろいろ聞いたんだ。それで、ペンにこだわりがあるみたいだったから。気に入ってくれると嬉しいんだけど」
「嬉しいよ。本当にありがとう」
 もう一度お礼を言い、僕はそっと手の中のペンと目の前の汐里とを見比べた。
 今はまだ汐里の方が好きだ。いずれペンの方をより愛おしく感じるようになるんだとしても、今はまだ。
 でも、僕らの関係はきっと長続きしないだろう。女子は相手がちゃんと自分の方に目を向けているのか、それとも自分を通して他の何かを見ようとしているのか、敏感に察知する。
僕がいかに勝手な見方しかできないかも、たぶん遠からず悟られる。
とはいえ、どんなに短くとも汐里の誕生日のある春は恋人のままで迎えられるだろう。何を贈ろうか、僕は今から考え始めた。
 
 
 ペン先が滑らかに紙の上で踊る。軸を支える手に合わせてリズムを刻み、感慨に身を震わせるように文字を細やかな動きへと変えて罫線の間を舞い進む。行の終わりが来れば次の行の頭へ跳躍を決め、再び細やかなターンやステップに溺れていく。
 その後ろには、この場にいる一人と一本にしか知覚できない透明な文字がほんのりと浮かび上がっては消えていく。
 怪現象に触れても新しい彼女ができても、その彼女に使えるペンを貰っても、この趣味が僕から抜けることはなかった。むしろ千佳のペンがコレクションに加わって、ますます充実していた。
 反対に、覗きの方は千佳と会った日以来ぴたりと止めた。千佳に限らずルカのことも美鈴のことも、あれから知ろうとはしていない。
 ペンに宿る彼女らは、僕が愛し、また僕を好いてくれていたかつての姿をしている。美しく、優しく、愛しく、懐かしく、慕わしい、そんな心と形。
 そこに、もう関係の切れた現在の現実の彼女らが入る余地はない。そのことにようやく気がついた。
 今ではインクの切れたペンを走らせるうち、ペンの動きと自分の意志とが渾然となり、果たして動いているのか動かされているのか、覚束なくなる瞬間にこそ至上の喜びを感じる。
 たとえ思い出に縋っているだけだとしても、別にいい。都合の良いところしか見ていないんだとしても、空想でも、幻でも、現実と違っていても、心から愛せているなら構わない。
 尽きることのない情念は、次から次へと湧き上がってくる僕はそれを手放しで受け入れ、身を委ねる。
 ペンを躍らせ、ペンに踊らされながら。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:16
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