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アイスグリーン

「やすにしろこ! お祖母ちゃんの名前、やすにしろこっていうんだね。今初めて知った。下の名前『ろこ』なんて可愛い!」
 祖母の病室の前のネームプレートを指差し、従妹の佳奈が声をあげた。知っている漢字の増えてきた佳奈は、大好きな祖母の名前を読めるようになったのが嬉しくて仕方ないようで、ピョンピョンはねながらやすにしろこ、と連呼している。一人娘を溺愛する伯母と伯父がその様子に微笑むだけで何も言おうとしないので、かわりに僕が訂正してやった。
「『あんざいみちこ』だよ。お祖母ちゃんの名前。安西路子」
 
 
 祖母のいる病室は一人部屋で、ベッドと棚が備え付けられていた。僕の思っていたより広く、伯母、伯父、従妹、父、僕の五人が入ってもまだゆとりがあった。
「あらいらっしゃい」
 祖母が横になったまま首だけ動かし、挨拶する僕らを見た。
「どうしたの? 今日はこんなに大勢で」
「この前来た時言ったでしょ。夏休みに入って予定が合ったから久しぶりに皆で来るって。それに多いっていっても五人でしょ」
 伯母が祖母の腰と脇のあたりに手を入れ、寝返りを打たせた。
「でもいつもは紗栄子、あんた一人じゃない。旦那さんにも佳奈ちゃんにも健一にも直人君にも、もうずっと会ってなかったわ」
「じゃ、今日たっぷり顔見ときなよ」
 食事制限や水を換える手間を考え、僕らは果物や花などのお見舞い品を持たずに来ていた。何となく手持ち無沙汰に思っていると、祖母が僕と佳奈を呼んだ。
「二人とも、知らないうちにずいぶん大きくなって。今何年生?」
「二年生!」
「高二です」
「そう。学校は違えども二人とも二年生なのね」
 そこで祖母は話題をさがすように黙った。僕が何も言い出せずにいると、少しの沈黙の後佳奈が先ほどネームプレートの名前を読み間違えた話を始めた。
 するとその時病室のドアをノックする音がして、一人の看護師が顔を出した。主治医が祖母の病状の説明をするから来てほしいとのことだった。
 僕もついていこうとしたが、佳奈を見ているよう言われ、仕方なく三人が看護師に連れられて行くのを見送った。
 三人だけになってしまった病室は寒々しく、二、三度室温が下がったように感じた。佳奈がマシンガンのように次々と繰り出す話に僕の入る隙間はなく、僕は壁際でぼんやりと従妹と祖母を眺めていた。
 不意に佳奈が振り返った。
「ねえ」
「な、何?」
 思わず身構える。
「ちょっと一旦外出ててくれない?」
「なんで」
「お祖母ちゃんと二人きりで語り合いたいの。ガールズトーク」
 突然の要求に頭が追いついたのは、半ば追い出される形で病室を出た後だった。他にどうしようもなくドアのすぐ横の壁に背を預け、いましがた目にした祖母の姿を反芻する。表情こそ穏やかだが痩せ細った体。
 祖父が亡くなったのは五年前。その時、すでに僕の父と伯母は家を出ており、祖母は祖父と暮らした家に一人住み続けた。そんな祖母に乳がんの診断が下ったのが二年前。早期発見のおかげで小さな手術で済んだが、祖母はこれをいい機会にと退院後、施設に入所した。そこで祖母は再びがんの見つかる一ヶ月ほど前まで、のんびりと日々を過ごしていた。
 今のがんは乳がんが再発したものではないらしいが、詳しいことは聞いていない。僕の知っていることといえば、年齢のせいもあって祖母がもう長くないことくらいだった。
 だからといって、それ以上説明を求める気にはならない。
 佳奈と祖母の密談は大いに盛り上がっているようで、佳奈の甲高い声が意味をなさない音として途切れ途切れに流れてくる。僕は天井を見上げた。
 僕は祖母のことが苦手だった。
 僕が小さいころ、祖母は会うたびに祖父との思い出話や自作らしいおとぎ話をしてきた。祖母の話術の巧みさに僕も最初は夢中になって聞いたが、いつも代わり映えしない内容なので、そのうち飽きてしまった。
 一度興味を失うと、自分にはそれしかないのだと言わんばかりに同じ話を繰り返す祖母がひどく不気味に思えた。思い出話と言えば祖父との新婚旅行で湖に張った氷とその割れ目を見たこと、その帰り、祖父が氷の割れ目の色を外国ではアイスグリーン、日本では白緑と呼び、その画材として銅のサビが使われていたのだと教えてくれたこと、そしてそれにちなんで手のひらサイズの銅の置物を買ってくれたことばかり。おとぎ話と言えば健気な少女が悪い女に奪われた恋人を取り返す話ばかり。しかもおとぎ話に出てくる悪い女は、話すときによって容姿や名前こそ違ったが、髪や服などどこかに必ず緑色の要素を持っていた。そんな祖母の得体のしれない一面はほかにもあり、それらに気づいていくにつれ、僕の中に祖母への苦手意識が育っていった。
 もともと僕の母と祖母の折り合いが悪かったこともあり、僕が今の佳奈くらいになるころには、お正月とお盆くらいしか祖母と会わなくなっていた。祖父は無口だが優しかったし、僕らは祖母の家からそう遠くないところに住んでいたが、どちらも祖母の薄気味悪さには敵わなかった。
 このように祖母にはあまりいい印象がなかったので、最期が近いと聞いてもその時は何とも思わなかった。だが、こうして骨の浮きでた手やこけた顔、むくんで膨れ上がった脚を目の当たりにすると後悔とも罪悪感ともつかないものに襲われた。
 思考が一周して今の祖母に戻ってきたところで、もう入っていいよ、と佳奈がドアを開けた。それと同時に廊下の角から父たちが現れた。


 次に僕が伯母一家と顔を合わせたのは、祖母のお見舞いから三週間ほどたったお盆、祖父の墓参りでのことだった。前からお盆には会うことになっていたのにその前に呼ばれたことから、祖母の病状がかなり深刻であることは察していたが、果たして祖母はその後手術をひとつ受け、今は面会謝絶であるとのことだった。
「この暑さじゃ熱中症になりそうだ」
 父が汗を拭った。
「すぐそこが病院だから大丈夫」
 伯母がそっけなく応じる。祖父の墓は祖母の入院する病院の目と鼻の先にある。
 こんな一日で一番暑い時間帯でなくても、となおも父は言いつのっていたが、伯母に午前中はお母さんの葬儀プランの相談に行っていたの、と返されて黙った。
 照り付ける日差しとやかましい蝉の声の中、僕たちはつんと澄ました様子の墓石に手を合わせた。なんとなくここに埋められた死者の名前が彫り付けられている石に目をやると、真新しい祖父の名前が日光を跳ね返して輝いていた。
 そこには他に三人の記載があり、そのうち古い方の二つはすり減っていて読みにくいが、曾祖父母のようだった。残る一人、安西みどりという女性は誰かわからなかったが、伯母が生まれたころに死に、生きていれば祖母より少し年上なので、祖父の姉かと見当をつけた。
 墓参りを終えると僕らは家族ごとに車二台に分かれ、伯母の家に向かった。そこで父、伯母、伯父は祖母の葬式プランについて話し合うらしい。本人がまだ生きているのにとも思ったが、祖母の希望でもあるらしい。
 僕は書類を広げた食卓を囲む大人たちから離れ、佳奈のそばにいることにした。佳奈は大きな本を床でうつぶせになって読んでいた。
「何読んでるの?」
「自由研究のアイディア本」
「いいのあった?」
「十円玉をトマトジュースでピカピカにするやつはちょっと面白そう」
「錆取るんだよね。タバスコも効くよ、それ」
「へえ。直人君はもう何にするか決めたの?」
「高校は自由研究ないから」
「いいなあ」
 佳奈は本に集中したいようで、口調が淡白だった。暇を持て余した僕は、自分がここに来る意味はあったのか悶々としながら携帯端末を取り出した。ひとまずゲームをして時間をつぶすことする。
 ステージをひとつクリアしたところで食卓の方から真面目な議論とは違う、明るい声が上がった。
「まあ、ありがとう」
 振り向くと、佳奈が大人たちに麦茶を出していた。
「気が利くなあ」
「まったく、うちのとは大違いだ」
 父の発言に少しムッとしながら、僕は空気を読んでゲーム画面を閉じた。一通り大人たちから褒め言葉を浴びた佳奈は、僕の方にも麦茶のグラスを持ってきてくれた。端末を仕舞い、礼を言って受け取ると佳奈はにっこり笑った。
「ちゃんと全部飲んでね!」
「あ、うん」
 佳奈が僕にだけ一言添えたことに少し戸惑いながらグラスに目を落とした時、それに気づいた。
 グラスの底、透き通った茶色の液体の中に死んだサンゴを砕いたようなものが沈んでいたのだ。一瞬、注いだ佳奈の手が汚れていたのかと思ったが、それで済む量ではなかった。佳奈に訊いてみようとしたが、先ほどの念押しを思い出してやめた。代わりに僕はそれを食卓に持っていった。
「あの、紗栄子さん。これって健康食品か何かですか?」
「……ただの麦茶だけど」
「じゃなくて、この下にたまってるやつです」
「え? あらやだ。何これ」
「いいから飲んで!」
 伯母の困惑した声と佳奈の鋭い叫びが重なった。
「佳奈ちゃん」
 伯母は食卓を見回し、他の誰の麦茶にも異物が沈んでいないことを確認すると、佳奈を問い詰めた。
「これは何なの? なんでこんなことしたの?」
 伯母は大丈夫大丈夫と繰り返すばかりで口を割らない佳奈を廊下に引きずっていった。
 とりあえず許可をもらって台所に入り、カップ焼きそばの湯切りの要領で麦茶だけを流した。液体から顔を出したそれは、少し緑色がかっていた。父と伯父にも見てもらったが、ふたりにもその正体はつかめないらしい。
 三人で首をひねっていると、伯母がリビングに飛び込んできた。
「サビよ、それ! 銅のサビ!」
 事情聴取は終わったようで、開け放たれたドアの外から佳奈の泣き声が聞こえてきた。
「まさか、飲んでないよね?」
「あ、はい」
「銅のサビ?」
 父が聞き返した。
「なんでそんな」
「わかんない。何度聞いても佳奈、お祖母ちゃんのおまじない、としか言わなくて」
 そこからの伯母の行動は速かった。即座に荷物をまとめ、祖母の病院へと向かったのだ。
 伯母が出て行った後、静かになった部屋に話し合いの雰囲気は戻らず、そのまま解散となった。日ごろ祖母の世話をしている伯母は、面会謝絶が明日解ける予定だったこともあり、簡単に祖母の病室に入れたらしい。その顛末は夜、電話で聞いた。
「あのサビは佳奈が前、お祖母ちゃんにもらった銅の置物から削り取ったものらしいの」
「はあ」
「あとあんなことした理由だけどね、お祖母ちゃんが佳奈に銅のサビは最高の惚れ薬になるなんて言ったせいだったの」
「惚れ薬?」
「ほら、佳奈、直人君のことさ……。気づいてなかった?」
「全然そんな感じしなかったですけど」
「そう……。ああ、佳奈にかわるね」
「え? 別にいいです。そんな」
「ううん、けじめはちゃんとつけさせないと、あの子のためにもよくないから」
 保留のオルゴールのあと、佳奈のあどけない声が電話口に現れ、ぎこちなく言葉を紡ぎ始めた。
「あの、今日は、ごめんなさい……」
 終わりに行くほど声は細くなっていった。
「いいよ。別に気にしてないよ」
 あのあとすぐ携帯端末で調べて、緑青は無害だとわかっていた。
「怒ってない?」
 おずおずとした佳奈の様子に、僕の方が悪いことをしている気分になった。
「全然。それよりサビ、どうやって取ったの? 爪?」
「ちっちゃいナイフみたいなやつ」
「カッター?」
「もっと和風な感じ」
 僕が昼間の件を根に持っていないとわかると、佳奈はいつもの調子を取り戻していった。
「じゃ、小刀かな。それ、どこにあったの?」
「置物の箱に一緒に入ってた。今はお母さんに見つかって取り上げられちゃったけど」
「なんで刃物まで箱の中に? 錆取り用?」
「わかんない」
「そっか。ありがとう」
「うん。今日はごめんね」
「別に」
「じゃ、おやすみ」
 電話が終わるころには、佳奈はすっかりいつもの佳奈に戻っていた。その軽い口調に、僕はさっきの伯母の言葉を疑った。


 それから数日後、佳奈が行方不明になった。
 少し目を離したすきにふらっと出て行ってしまったらしい。半日家の近くをさがしても見つからず、警察も視野に入れ始めたところでひょっこり帰ってきたそうだ。
 空白の半日、佳奈は祖母の病院に行っていたという。緑青の件がずっと心に引っかかっていたのだろう。お小遣いでバスに乗ったらしい。
 不在の間の大人たちの心配をよそに、佳奈は小さな冒険を楽しんだようで、戻ってきた佳奈の手には自販機で買ったというトマトジュースが握られていたそうだ。
 課題のため朝からずっと図書館にいた僕が騒ぎを知ったのは全部終わった後だった。気づかないうちに来ていた母からのメッセージで何があったか知った。取り乱した伯母からそっちに行っていないかと電話を受け、母もたいそう気をもんだらしい。
 僕は図書館の出入り口近くのベンチに腰掛け、文面を眺めた。今日でお盆休みから明けた図書館に人の出入りは少なかった。
 佳奈が行方をくらましていたのは約半日。それだけあれば佳奈の家と病院とを三往復してもまだ余裕がある。なんだか時間がかかりすぎている気がした。ずっと祖母とガールズトークとやらをしていたのだろうか。それはあるかもしれない。僕は祖母が苦手だったが、佳奈は祖母と気が合うようで、よくなついていた。
 家に帰ってポストを開けた時、僕は佳奈が僕の家に寄っていたことを知った。そこにはピンク色のかわいらしい封筒が入っていたのだ。切手は貼っておらず、何枚紙が入っているのか随分厚みがある。僕は手紙のことを両親に知らせるべきか迷ったが、ひとまず黙っていることにした。
 二階の自分の部屋で、僕は封筒を開いた。中身はデフォルメされた猫のイラストの描かれた便箋一枚と、古びた紙の束が入っていた。
 便箋には佳奈の拙い字で「わたしにはむずかしくて読めないので、かわりによんでください。このあいだはごめんなさい」とだけ書いてあった。
 僕は黄変した紙を手に取った。折りたたまれたそれは六枚あり、手紙というよりは手記のようだった。かなり劣化していたが、几帳面な字は難なく読み取れた。
そこには祖母の過去がつづられていた。


 祖父はもともと、みどりさんという女性と結婚していたのだが、みどりさんはお産の時に死んでしまう。そこでみどりさんの遠い親戚だった祖母が後妻に選ばれ、みどりさんの忘れ形見で僕の伯母、紗栄子さんを育てることになった。そうして嫁いだその日から自分の子でない赤ん坊の世話に明け暮れる祖母をよそに、祖父はいつまでもみどりさんのことを忘れられず、追憶に浸っていた。
 そんな祖父の気を引こうと、祖母はある日こんな提案をした。「結婚して名字の変わった私の名前、安西路子を読みかえると『やすにしろこ』になってみどりさんと同じように名前の中に色が現れます。これも何かの縁でしょうから、今度から私のことを『白』と呼んでください」と。祖父ははじめ怪訝な顔をしていたが、やがて笑顔になった。そしてアイスグリーン、つまり白と緑を混ぜた色が自分と亡き妻との思い出の色であったことを祖母に話してくれた。
 それ以降、祖父は祖母を「しろちゃん」と呼んでかわいがるようになった。また、祖母もみどりさんのかわりになろうと決心した。祖父にみどりさんの習慣や癖を訊いてそれを真似るようになった。みどりさんに近づこうとする祖母を祖父も喜んでくれて、みどりさんとの思い出話も積極的にしてくれるようになった。その中には新婚旅行で行った湖の氷の割れ目を見た話もあった。祖母が僕や佳奈にしていた話は祖母のではなくみどりさんの思い出だったのだ。
 そうして夫婦関係はうまくいくようになった。
 しかし祖母に子供ができると状況は変わった。実子と養子、ふたりの世話をするうち、祖母は死んだ人間を懐かしむばかりの夫にいら立ちを募らせていった。そしてある時それは殺意へと変わった。
 ある日祖母は祖父の夕食に、あの置物から削り取った錆をこれ見よがしにかけておいた。その膳を見た祖父は、怒るだろうという祖母の予想に反して言葉なくうなだれてしまった。それを見た祖母は、祖父を殺そうとしただけでなくみどりさんとの思い出を冒涜しようとした自身の行いを恥じた。そして緑青を盛った料理を自ら食べ、命を絶とうとした。だが、緑青を摂取した祖母の体には何の異常も起こらなかった。念のため朝まで様子を見たが、咳一つでなかったという。
 祖父母はそれを泉下のみどりさんが守ってくれたために起きた奇跡ととらえた。それから祖父はいっそう祖母を大事にするようになり、祖母はみどりさんのかわりになることを苦痛に感じなくなった。
 その後も時々、祖母は置物のサビを掃除ついでに取って飲んだ。そのせいで体調を崩したことは一度もない。それどころか錆を口にするたびに祖父は祖母をそれまでより労わってくれて、むしろ気分が良いくらいだった。
いつしかそれは祖母の癖になっていった。そうすれば祖父の愛を得られるから。自分が特別なものになった気分になれるから。すべてうまくいくようになるから。


 中身はだいたいこんな感じだった。随所に挟まれる恨み節や偏執的な思考に辟易しながら読み終えた内容に、僕はしばし呆然となった。無毒な緑青でここまでの騒ぐのかとは思ったが、それにしても凄まじい。この感覚を誰かと共有したかったが、こんなことを伝えられるような相手が思いつかなかった。
 とりあえず手紙を机に置いて、下りて行ったリビングでは両親が喋っていた。父は異物混入以来、宙に浮いたままになっている葬儀プランの話を気にしているようだった。母からそんなに気になるなら電話してみれば、と言われた父はその夜何度か伯母に架電してみたらしいが、結局一度も繋がらなかったようだった。


 次の日伯母の方から電話がかかってきた。
 電話を受けた母は驚きの表情を浮かべ、張り詰めた声を出していた。母が受話器を置くのを待って、僕は何があったか訊いた。
「佳奈ちゃんが昨日の夜、救急車で運ばれたって」
「熱中症?」
「なんか……銅中毒だって」
「銅中毒?」
「佳奈ちゃん、自由研究のためにちっちゃい銅の置物をトマトジュースに浸けてたらしいの。サビを取るんだって。で、その置物浸けてたトマトジュース飲んじゃったみたいで」
「え?」
「トマトジュースに銅が少し溶け出してたんだって。それで……」
「今どんな感じ?」
「命に別状はないって。胃洗浄してもらって、今は落ち着いているみたい。お義母さんと同じ病院に入院してる」
 僕はすぐに銅の毒性について調べた。いくつかサイトを回ったが、どれにも緑青が無害なのに対し、銅は微量でも体内に入れば危険だと書いてあった。実際に銅鍋で作った料理や内側が銅の水筒から中毒を起こした人もいるらしい。これは緑青で検索した時には出て来なかった話だ。中でも、ある情報に僕の目は釘付けになった。


 怪しまれないように少し時間をおいてから、僕は図書館に忘れ物を取りに行くと偽って家を出た。本当の行き先は祖母の病院だ。
 祖母はあの日と同じ姿勢で横たわっていた。眠ってはいなかったようで、こっちに顔を向け、意外そうな表情をした。
「どうしたの? ひとり?」
「お祖母ちゃん」
 僕は祖母の問いを無視した。
「なあに?」
「どうして僕や佳奈ちゃんを殺そうとしたの?」
 緑青はその見た目から昔は猛毒だと信じられていた。
 それがさっき僕の目を引いた情報だった。これで手記の中の祖父母が緑青に過剰反応していた理由も説明できる。だが、そうなると新たな疑問も浮かび上がるのだ。
「ねえ、どうして」
「直人君はねぇ、あの人の若いころに似てるのよ」
 十秒に及ぶ沈黙の後、祖母は答えた。
「あの人、今頃は向こうで私のことなんか忘れてみどりさんと仲良くやってるんじゃないかしら。だからもう少しして私が向こうへ行っても誰も相手してくれないと思うの」
「……だから、道連れにしようと?」
「ええ。でもうまくいかなかった。それに直人君、お祖母ちゃんのこと好きじゃないんでしょう?」
 図星だった。
「でも佳奈ちゃんはお祖母ちゃんのこと好きだから。この間来てくれた時、飲むように言ってみたの」
「だからって……」
「でも佳奈ちゃんについては賭けでもあったの。だってみどりさんの孫だもの」
 祖母は満足げに笑っている。僕は噴き上がるような冷たい感情に体が震えてきた。
「お祖母ちゃん。緑青って毒じゃないんだよ。食べても飲んでも平気。それで死ぬなんてありえないんだよ」
「うそでしょう。昔からみんな毒って言ってたわ」
「昔は、ね。今はもう無害だって証明されたよ」
「そんな」
「だから僕も佳奈ちゃんも道連れになんてならないし、みどりさんの奇跡もなかったんだよ」
「やっぱりあの紙を見たんだね。でも、そうだとしても、そのおかげで私も夫も幸せになれた。そのきっかけが迷信やまやかしだったとしても、幸福な暮らしは本物だった」
 僕は舌の回るのに任せて喋った。見知らぬエネルギーがどこからか湧き上がってくる。
「それはどうだろう。お祖母ちゃんがみどりさんの思い出を、さも自分が体験したことのように語るのを、お祖父ちゃんはどんな気持ちで見てたと思う? 自分が妻を狂わせてしまった、そう思ってたんじゃない? その罪悪感からお祖母ちゃんを責めずにそばにいたんじゃない?」
「ちがう! 私はあの人のために、みどりさんのために、ずっと尽くしてきた。私のすべてを捧げてきた。だからみんな安らかに暮らしてこられたのよ! 全部あの人の願ったことだったのよ」
 祖母は真っ赤な目で僕を見つめている。僕は言葉を重ねた。
「お祖母ちゃんは、お祖父ちゃんが本当にアイスグリーンを求めていたんだと思う? お祖父ちゃんが愛したのは白じゃない。純粋な緑だった。お祖父ちゃんのためと言いながらお祖母ちゃんが作ったのは、お祖父ちゃんの望まない汚い錆の色でしかなかったんだ」
 それが決定打になったのか、祖母が声もなくうなだれた。目からは壊れた蛇口のようにだらだらと涙を流している。祖母はもう言葉を発することができないようだったので、僕はそのまま病室を後にした。病院を出ると言い様もない達成感と爽快感に襲われ、自然と笑みがこぼれた。
 その日を境に、祖母は廃人同然になってしまったらしい。そして秋を待たず逝った。


 祖母の葬儀は家族だけで行われた。
 参列者は伯母一家と僕と両親の六人だけで、する意味すらなさそうな式だった。もちろん最初は祖母の遠い親戚や友達を呼ぶことになっていたのだが、親戚は皆遠くにおり、友人たちもすでに墓の中か棺桶に片足を突っ込んでいるかで、お越し願うのは無理そうだったのだ。
 あの一件のあとも伯母は変わらず祖母を見舞い、最期まで付き添っていたらしい。そして祖母が死んでからも面倒な処理をあらかた済ませてくれた。末期の祖母と二人きりの病室で伯母は何を思っていたのか僕には想像もつかないが、静かな凄味を感じた。
 そんな伯母のおかげで僕の父は喪主でありながらのほほんとしていられるわけだが、本人はそれに気づいていないらしい。僕や母に向けて、なぜそうやって普通にしていられるのか、祖母が死んで悲しくはないのかと愚痴だか小言だかわからないものをこぼしていた。
 僕は実際何とも思っていないので父にああだこうだ言われても受け流せたが、母は父の態度を面白がらなかった。当然だ。仲の悪かった姑に良い感情などあるはずがない。小さな声でお前も泣いてないだろ、ピーピー言う暇があったら紗栄子さんを手伝えよ、と毒づいていた。
 そんな大人たちの中、唯一佳奈だけが心から祖母の死を悼んでおり、部屋の隅の椅子にちょこんと座ってうつむいていた。彼女は銅中毒で入院したことも祖母が死んだことも、全部自分のせいだと考えているのだ。祖母を死に追いやったのは僕だと教えてやろうかと思ったが、それで佳奈が救われるとも考えにくく、僕はただその隣に腰かけ、ありきたりな慰めを口にした。気休めでも少しは気が楽になったのか、佳奈は僕を見上げて少し笑った。
 不意に鋭い視線を感じて僕は顔をあげた。少し離れたところから、伯父がこちらを見ている。その表情には愛しい娘に近づく僕への嫌悪がありありと浮かんでいた。佳奈と一緒にいるだけでそんなに敵意を向けるものかと思うが、おそらく佳奈を傷つけた祖母をかいがいしく世話し、看取った伯母へのいら立ちもそこには含まれているのだろう。
 そこまで考えて、僕は笑いだしたくなった。
 僕は祖母さえいなくなればすべてよくなると思っていた。
 しかしどうだろう。ごたごたの中心だった祖母がいなくなったことで、それぞれの家族の中の、そして家族同士のわだかまりが却って浮き彫りになってしまった。
 伯母さんにまで絡み始めた父を母が止めている。すぐそばのいざこざに対しては舌打ちをするだけで、止めようとしない伯父。一人涙をこぼす佳奈。
 アイスグリーンに輝く氷の割れ目が、目の前に立ち現れたような気がした。



テーマ「アイスグリーン」

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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