FC2ブログ
« 2018 . 12 »    1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | CM(-) | TB(-) --.--.--(--) --:--

紺碧のクオリア

 夜明け際に境を失う空と海の果てを、僕は茫と目に映していた。もう少しで、繰り返すひとつの始まりを迎えるこの場所は、夜を淡く残したままに、曙光の気配を帯びた美しい紺碧に染められている。
 小さくさざめく海面を穏やかに撫ぜていく潮風が、自分の耳元から伸びる細いコードを微かに揺らした。その動きと共に、耳朶へと流れ込む音がふるりと揺れる。
 今にも取れかかりそうなほど緩く耳へ差し込まれたイヤホンから零れるのは、以前はほとんど聴くことのなかった、延々と続くハッピーエンドの恋愛ソングだけ。シャッフルリピートに設定した再生リストには、そんな曲しか入れていなかった。

「羨ましいなぁ」

 自然と、そう呟いていた。
 ぼんやりとした憧憬を抱いたまま、もう幾度ここで見たかも分からない夜明けを待つ。そんな僕の、少し離れた隣で、変化はふいに起こった。
砂浜に、そっと現れた気配。終わりかけの夜空に在る五等星の光ほどに微かな空気の震えだけで知る、その存在の表出。

 ああ、今日もまた。
 彼女は。

 自分の顎下で揺れるコードに右手を掛け、ほとんど取れかかっていたイヤホンを足の上に落とす。そうして、僕は、気配の方を見た。
 ――彼女は、そこに立っていた。
今までそこにいなかったことのほうが、嘘のように。
 かつて、同年代の女の子が行くような美容室はくたびれてしまうから、駅前の1000円カットで切っているのだと言っていた、肩より少し長いほどの黒髪が潮風を受けて軽やかにはためく。その様子に一瞬目を遣った僕の耳に、声が届いた。

「また、来たの」

 空気へと音を置くように響いたその声は、二人のいる砂浜にそっと滲んだ。

「うん。来た」

 淡い紺碧に満ちた闇の中、そこにはない眩しいものを見上げるように目を細めながら答えた僕へ、彼女は言った。

「変わらないのに?」

「……変わらないから、かな」

 再び返した答えは、こうして理由も明確にしないままに、ここへ訪れることを繰り返す自分の本心だったのかもしれない。
 変わらないから。
 それは、結果だけでなく、必ず君が現れるという事実でさえも。
 ならば、僕がここに来る理由なんて、それくらい単純なことなんじゃないか。そう思い始めている。
 目の前の彼女は、困ったような表情(かお)をした。彼女の深い濡羽色の瞳が微かに歪む。
――その目はもう、彼女を縛ることは、なくなったのだろうか。

「いいんだよ、もう。あの日、あの花束を持ってきてくれただけで、私……」

「ああ、届いてたんだね。……よかった」

 彼女の言葉へそっと連ねるように、僕は息を零しながらそう呟いた。
 あの日。
 この海岸の波打ち際に集めて置かれていた白い花束たちの前で、自らもひとつの花束を手に立ち尽くしていた、自分。
 数時間の後ようやく手を離せたその花束は、多くの白の中で、唯一、目の覚めるような青だった。

「とっても……きれいだった。少し、心臓が飛び跳ねるような気がしたくらい」

「心臓の感覚は、まだあるの」

「……気分、だったけれど」

 純粋に尋ねた僕の言葉に、少しばつの悪いような顔をして小さな声で答えた彼女は、何も身に付けていない素足の片方をそっと持ち上げた。そうして砂浜へと下ろされた爪先が、さく、と砂の粒子の中に埋もれ、続いて土踏まずと踵が下ろされていく。彼女の唯一日焼けしていない足首は、片足ずつゆっくりと、その動きを繰り返す。その先にあるのは、ただ、潮の満ち引きを繰り返す海だけだ。
 あの日と同じ。そして、これまでと、同じ。
 ――――繰り返す。

「ねえ、それって決定事項なの」

 何気なく投げ掛けたその言葉に、僕の隣から少しずつ遠ざかっていく彼女は、一瞬ぴくりと背中を震わせた。小さく俯いた彼女の肩から、こちらからは見えない頬へと髪が滑り落ちていく。

「……そう、だね」

 ぽつりと返された答えは、分かっていて。それでもなお、自分の中に重く鈍い痛みを残す。

 あの日も、彼女はこうしてひとり、海に入っていったのだと聞いた。

 それを信じられないままに、無意識の内自分が向かっていたのは、確か告げられた病院ではなくこの場所で。乱れた呼吸のまま見上げた、ほとんど南中に近づいていた太陽に照らされる砂浜と海面には、君を惹くものなんて見つけられなくて。あの時から必死で探し続けた彼女の消失の意味を、僕が見つけたのは、彼女のことを聞いてから初めて、一人で夜明け前のこの場所へ訪れた日だった。彼女が海に入って、もう数週間が過ぎてしまっていたその日。

 僕は。目の前で世界を染める紺碧に、君の消失の意味を、知った。

 それからのことだった。毎日、大学へ行く前の時間に、自分が夜明け間際のこの場所を訪れるようになったのは。
 そうして……彼女が、こうして現れるようになったのも。
 彼女が海に入った意味を知り、海岸へと花束を置いた日の翌日に、再びこの海を訪れた僕の隣……恒常の理のようにふっと浜辺へと現れた彼女は、何かを告げるでも、こちらへと振り返るのでもなく、ただ、目の前の海へと歩いて行った。その足はいつも、彼女がその先に見る海と空へ近付くほどに、ゆるやかに速まっていく。そしていつか。その姿を追う僕の視界の中で……彼女は、駆けていった紺碧の中へ失われるように消えるのだ。
 初めてここで彼女を見た日から、一つだって変わらないその結末。僕も、彼女も、それだけを繰り返し続けてきた。
こうして夜明け前にこの海を訪れ――決して救うことなどできないと知っている彼女が、一人海に入って行く姿を見届ける。
 どうして、なんて思うこともなくなっていた。身体を何一つ動かすこともできないまま、目の前で見届けることしか出来なかったその光景に海面を震わす慟哭を響かせた初めの日から、それでもなお続いていく繰り返しに、少しずつ順応していってしまったのだろうか。もし、そうだとしたら。それは、順応という狂いだ。
 いや――もう、とっくに狂っているのかもしれない。
 息を零した僕は、そっと砂浜に手をつくと、立ち上がり、海の中を進んでいく彼女に向かって数歩足を踏み出した。

「――あの、さ」

 もうすでに、太腿までその足を海面へ浸していた彼女の背中へと僕は呼びかける。そっと振り向いた彼女の足は、それでも強い何かに惹かれるような歩みを止めることはない。

「前にも、聞いたけれど。もう一度だけ、教えてほしい」

「なに」

「やっぱり、僕がふれたとしたら。――止めようと、したならば。この場所の、この時間は、〝壊れる〟の」

 届いたのだろう僕の言葉に、波間からこちらを見つめる彼女の瞳が、ふる、と震えた。それだけでも痛いほどに答えを知ったけれど、小さく開いた唇から零れた答えに、僕は二度目の苦しさまでも知ってしまった。

「うん……きっと。それに。ふれたら、私は――」

 そうして叫びかけた何かを、彼女は呼吸をきゅっと止めて、そのか細く白い喉元へと飲み込んだ。
 彼女は、こちらを振り切るような表情で微笑む。

「――……ううん、何でもない。ごめんね、今日も、もう」

 そう言った彼女は、今日もきっと、あと数歩であの日と同じ消失を迎える。

「あのね。本当に、本当に……もう、いいんだよ。私のせいなの。私が、あの日、ここに来てしまったからいけなかった」

「だから、もう……どうか」

――――この、紺碧なんて忘れて。

 その言葉と共に、ふっと地平線から放たれた曙光の眩しさが僕の視界を覆う。そして、光の中、その一瞬の内に彼女の姿は消えた。
 僕は、一時前まで彼女の立っていたその海面に、とらえていたかったものを失った視線を落とす。
 ――凪いでいる。波はそのさざめきを見逃してしまいそうなほど穏やかに、そんな海面に映る天球を流れていく雲海は、朝陽が放ち、辺りへ徐々に広がり散らしていく光の合間をゆっくりと滑っていた。これから一つの始まりを迎えるこの場所の、静穏で、しかし溢れんばかりの可能性に満ちた景色。目の前に広がるそれが、より一層自分に残された焦燥と哀切を深めていったことなんて、今日までに何度あったのか。それでも、慣れるはずがないのだ。君が、幾度だって消えるから。そして、その手を掴むことすら出来ない自分だけが残るから。
 俯く自分の周りで徐々に明るさを増していく空気を感じながら、僕は数十分ほど経った頃、ようやくゆっくりと顔を上げた。
 海の方を見つめたままにジーンズのポケットへと手を伸ばし、そこから掴み取った携帯電話の電源を手探りでつける。そして、人工的な眩しさを放った画面に視線を落とした。
 ――この時間なら確か、あと十五分くらい後に来るバスがある。それが丁度……かな。
画面に表示された時間にそう考えると、ふと、その上に表示されていた日付に目を奪われた。

「……ああ……」

 あと一日で、一年が経つのか。
 そう気付くと同時に、記憶の内、鮮やかに蘇る光景があった。

 あの日、走る僕の頭上に降り注いだ、空気に散る透明の水粒たち。
無意識の内、顔を上げた僕の目に映った、彼女の大きく見開かれた瞳。

 あれは、一年と半年ほど前のこと。大学二年の夏、学生生活にほどよく慣れを感じ始め、その慣れに慢心した自分が出席必須の講義へ全速力で走っていたあの時。
 自分が向かっていたはずの校舎より二つ手前にあった、五階建ての校舎の屋上でこちらを見たまま立ちつくしていたその人に、会おうと思ったのは何故だったのか。
 講義の再履修を思いながらも、気付けば校舎の外階段を駆け上っていた僕は、突如開けた視界の先で、蓋の開いたミネラルウォーターのペットボトルを手にしたままに、変わらず校舎の下を見つめ固まっていた彼女を見つけた。
 僕の足音に気付いたのだろうか。やっと身体の呪縛から放たれてこちらへと振り返った彼女の目が僕をとらえた。
 その目はどうしてか、不思議なほどに煌めく小さな光を幾つも空気へと放ち、散らしているように見えた。――ああ、とても、嬉しそうなのだと……少しして、気付いた。
『……びっくりした。冷たくて、思いのほか気持ちよかったけれど』
 苦笑しながら言った僕に、彼女は泣き笑いのような表情をしながら、小さく目を伏せて言った。
『きれいなものが、見たくなって。ごめんなさい……』
 その言葉に、僕は一瞬首を傾げかけて……再び視界の奥に映った、幾つもの透明の粒たちと共に自分へ降った太陽の光を思い出し、あ、と声を零した。そうして彼女の言ったことの意味に気づくと、なんだか余計に可笑しくなってきてしまって、僕は初対面の人が目の前にいるにもかかわらず我慢せずに思い切り笑っていた。
『ふっ、あはははっ! あー、うん。確かに、きれいだったもんなあ。なんか分かる気がする……方法が、ちょっとばかし斬新だったけど』
『ご……ごめんなさい! やる前に確認した時は、誰もいないように見えたから……つい、思いっきり』
『いやいや、大丈夫、です。きれいだったから。あーもう、ほんとは行かなくちゃいけなかったんだけどなあ……何してんだか、僕も』
 ぼやく僕の隣で、彼女があいかわらずおろおろと視線を彷徨わせていたけれど、僕が今の状況をもはや楽しんでしまっていることを何となく察したのか、徐々に身の落ち着きを取り戻していった。そんな彼女の隣で、しばらくの後、僕は尋ねた。
『……よく、ここで?』
僕の問いに顔を上げた彼女は、そっと頷いた。
そして、その日以来、僕は講義の合間に時々その場所を訪ねるようになった。その回数は、月日が経つ毎に少しずつ増えていっていたように思う。
そうして二人会う中で、彼女はそれほど多くのことは話さなかった。多分、僕ばかりが時間のほとんどを、自分の喋りに費やしてしまっていたような気もする。それでも、時折彼女から返される言葉や、伝えられる感情の動き、ふいに現れる鮮やかな表情の変化が自然に心地よくて、つい普段は人に伝えることもない話や考えまで彼女には話してしまっているのだった。
一方で、言葉は少ない彼女だったが、普段から鮮やかなその表情を一際輝かせる瞬間があった。
それは、〝きれいなもの〟に気付いたとき。
夏の光を受けて屋上のコンクリートの上で煌き揺らぐペットボトルの淡い水影や、僕の鞄についていたガラス製のキーホルダーが偶然に作り出した小さな虹の存在、晴れた日の強い日差しを、緩やかに、流動的に遮る雲の作り出す、濃淡織り交ぜられた影の変化……。そんな、自分一人ならばこれまでは気にもせず通り過ぎていたような、生活の片隅に散らばる光と影の変化を、彼女は一つも零すことなく捉え、拾い上げた。そしてその度に、瞳へと小さな光を散らして、柔らかに笑うのだった。
 そんな日々を繰り返す中で。僕の中で、ある時からふいに生まれた、小さな棘があった。
微かな、違和感。それが何に対してのものなのかすら自覚してはいないのに、何故か無視しきることのできない引っ掛かりを感じていた。それは、彼女と過ごす時間が積み重なっていくほどに段々と、自分の心に強く刻まれていくのだった。……何に、僕は。彼女の、どこへ?
自分一人では答えが出せないまま、時が経ったある日の夕刻の屋上で、それを正直に伝えた僕へ、彼女は最初だけ少し目を大きくした。しかし、すぐに納得したような表情を浮かべると、ゆっくりと彼女自身のことを話してくれた。

 ――――青錐体一色覚。

流れるように、彼女の口から伝えられた言葉。
 それは、彼女が持って生まれた、〝視覚〟の状態のことだった。
 人は、瞳に様々な波長を感知する〝錐体〟という神経細胞を持つ。そして、それらは赤を感知するL錐体、緑を感知するM錐体、青を感知するS錐体の三つから成っている。彼女は、それらの内、S錐体以外の二つが正常に機能していない状態で生まれたのだと話した。

『あなたが違和感を感じていたのは、私がこれまで、ほとんど色についての話をしたことがなかったからじゃないかな。私の視覚は、青に近い系統以外の色を、正確にはとらえられていないらしいから。……あまり、自信を持って自分の見る色を話すことができなくて』

『それでも、色がすべて見えないんじゃないの。識別のしにくさとか、そもそもの視力の悪さはあるけれど。色彩をとらえられない分、色の明度とか彩度に対しては普通のひとより敏感なんだって、昔、担当医の先生には言われたんだ。自分でも、それは実感してきたから』

 ――多くの色をとらえられない代わりに、他の全ての感覚はひどく敏感に持っていた。音も、香りも、味も、何かに触れた感覚も。きっと、周りの人ならばまるで自分を塗りつぶされていくような感覚を持つくらい、鮮やかに、濃く、めまぐるしい感覚の受容。それが、不完全な視覚の代わりに得た、自分の特質なのだと彼女は話した。
 それでも、やはり他の感覚では補いきれないこともあって、最低限の色のルールは一つ一つ覚えていったらしい。そうしていく内に、生活の基本的なことは身についていって、元からの視力の悪ささえ矯正器具で補えば、それほど生活に困ることはないのだと彼女は微笑んで言った。

『そういう自分の目の事、教えられて知っていったけれど。見えないと、思ったことはなかったんだ。だって自分にとって、世界は生まれた時からそう見えていたから』

 けど、と、彼女はふと表情に静かな影を落とし、微笑んだ。

『それでも……やっぱり、自分は〝見えない〟っていうことを知っていったのは。多分、生きて、色んな人や物と出逢って、触れていったから』

――――生きていくほど、自分と世界の違いを知る。
 それは、力任せな絶望なんかじゃなく、ただ静かな、静かな絶望。それはやがて、穏やかで、柔らかな諦念へと変化していく。
 そう話した彼女の隣で。僕はいつの間にか、その固く握りしめられた手に自分の指先を伸ばし、きゅっと掴んでいた。
 僕の方へと顔を上げ、眼差しを揺らした彼女の手をそっと引き、僕は屋上を駆けだした。
 彼女の手を引いたまま、走る自分の胸の内をさざめかす感情。〝見えない〟のだと言った彼女の、深い、深いところにある消せない影を、泣きたいほどに苦しく思う、自分の衝動。
 大学から出て、少し離れた場所にあるバス停に彼女と乗り込んで向かったその先は、以前に一度だけ訪れたことのある自然海岸だった。
 いまだに状況のつかめていない彼女に、ぎこちなかっただろう表情でなんとか微笑みかけたまま、僕はその手を引いて海岸へと向かっていった。
『――勝手なこと言ってるって、分かってるけれど。夜が明ける時のこの場所を、一緒に、見てほしいんだ』
そう言った僕の顔をじっと見つめていた彼女は、その視線をふっと僕から外して、目の前に広がる海と空に眼差しを遣った。その動きにならうように、自分も夜に染まっていく地平線を眺めた。
 その後は、二人で海岸に腰を下ろし、朝が来るまでに幾つものことをただ、語った。それはきっととても他愛無いことで、けれど、確かに聞いたことのなかった、彼女の見る色の話もそっと交じられていて。過ぎていくその時間は、僕にとって、永遠を望む様な煌きに満ちていた。
 そして。いつしか夜明けを迎えようとしていたその場所は……海と空と、そこに在る全てを染めていくような、深い紺碧へと包まれた。

 それは。僕がこれまでに知りうる内で、最も――。

 自分を包む世界の変化に、彼女は、僕の隣で瞳から流れ込むその紺碧を受け止めていた。その目と、右手で包んだ左手の微かな震えを壊さないように、僕はそっとその手に自分の手を重ねた。
そして、もう一つだけ、勝手な願いを。彼女はそれを聞いて、一瞬だけ泣き出しそうな表情を浮かべた後……そっと、きれいな眼差しで、笑った。

§

 明くる日も、僕は砂浜に座っていた。一年という数字を知った昨日。それは、きっと単なる数字にすぎない。――けれど。
 そして、今日も現れる、五等星の光のごとき気配。繰り返す彼女の、止まること無き足取り。
かつて、その背中に聞いたことがある。
 ――〝君は、なぜくりかえすの〟。
 罰を受けているのかもしれない、と彼女は言った。
 自らの命を自分の手で絶った罰。親よりも先に、逝った罰。
 それならば、僕の罪は。僕の、罰はきっと。
固く握りしめた手を砂浜につき、立ち上がった僕は、離れていく彼女の背中に語りかけた。

「ねえ、知ってた。今日で、この繰り返しも一年が経つって」

 彼女は、僕の問いに振り向くことはないまま、呟くように言った。

「……そっか。じゃあ、あなたがここへ私を連れてきてくれた日からも、もう一年以上が経ったんだね。――ああ、あの時、あなたが言ってくれたことからも」

「……今でも、きちんと手を握ったことすらない恋人だね」

 淡い苦笑を湛えて言った僕に、彼女ののんびりとした声が返る。

「それは、あなたの不精だったと思うんだけれど」

「君は、望んでいてくれたの」

「……さあ、どうだったのかな」

「今からでも許されるのならば、よろこんで」

「……遠慮しておく」

軽く飛び跳ねていくような言葉の応酬に、彼女は何かを思い返すように、少しだけ顔を上げて天を仰いだ。

「あなた、前からそんな芝居がかった口調をしていたっけ」

「それは、君も」

 苦笑しながら返した僕は、辺りを見回しながら彼女に問いかけた。

「だって、ここ、何だか舞台みたいじゃないか?」

変わらない背景と景色。決められた筋書き。なぞるように繰り返す君の動きと、それを見つめ続けるだけの自分。
そこに、明確な意味を見つけられずにいるのは、きっと僕らの両方で。

「――……分かっていて、どうして……」

彼女が、震える息を、重くゆっくりと吐いた。振り返ったその表情は、耐え続けた痛みに血の感覚を失ってしまったかのような、そんな蒼白さに染まっていた。

「どうして、ここに来てしまうの? どうして、忘れてはくれないの? 何でっ……何で、今でも恋人だなんて言うの……!!」

この一年の間で、初めてその声を悲痛に荒げた彼女に、僕は、ひとつの覚悟を決めて呟いた。


「――僕が、引き金だったって知ったから」


「…………!!!」

 ――人は、絶望の底で死ぬのではないんです。
それは、かつて彼女の視覚に関するカウンセリングを担当していた、現在の僕の担当カウンセラーに伝えられたことだった。
 ――もう、動くことすらできない自分に、動きを取り戻させてくれる何かに会ったとき――その動きをもって、死に向かうんです。
 自分へと刻み込むように、ひとつひとつ静かに呟いていったその人は、最後にそっと、切なくやりきれないため息をこぼした。


 ――――きっと、幸せだったのね、彼女は。


 今も。その言葉が、消えない。

「ずっと君は、一人で世界の色を見てきた」

「それは、人なら誰でも持っている孤独なのかもしれないけど……今でも君の持っているそれは、もう少し大きくて、深遠だ」

 その僕の言葉に、大きく肩を震わせた彼女は。もう、耐えることができないとでもいうように、込み上げるような声で叫んだ。

「私は! あの時、あなたを巻き込んでしまった……!」

 〝見えない〟という、自分の痛みを知る人がいなくても。自分の最上にうつくしいと思うものを、そのうつくしさをともに知ってくれた人が現れたから。
 きっといつか、私が何かに負け、消えてしまったときに――私が何故消えるのかを、分かってくれる人が現れてしまったから。
 あの時、動き出した足を、進めてしまった。
 それが、どれ程身勝手で、残酷なことだったとしても。

「死にたくなったんじゃないの」

彼女は、叫ぶ。

「ただ、あの青が」

「あの青が、きれいで」


 ――――きれい、だったから。


「変わらないよ」

そんな彼女の叫びを、僕はそっと遮った。

「それでも、変わらない。何一つ。僕も。君も」

だからこそ……この繰り返しだって、きっと一つも変わらなかったんだ。それに気づいて。
〈僕〉に、気づいて。


「ずっと、ずっと……君が、大切だ」


「――ゆるして、くれる?」

受けた言葉に、大きく目を開いた彼女の唇が、小さく震える。一人海に消える前から、そこにずっと秘められていた答えを、僕は聞かなければならなかった。そうでなくては終わらない。彼女は、永遠に、終われない。
それなのに――時はひどく、ひどく残酷で。
立ち尽くしたままの彼女の背中から、滲み始めた曙光の気配に……僕は呼吸を止められた。その光は留まらない。彼女は、もう少しで零れ落ちそうな何かを、それでもまだ自分へと許せずにいて。
 朝日の放つ光と、紺碧の空に染められた波間の中で立つ君は。
 また、その眩しさの中に消えていく。

――――もう、一人で消えないで。

僕は、これまで決して動かすことのできなかった手を、彼女に伸ばした。

 〈ふれたら、私は――……。〉

 だから。
 だから、こそ。

 僕は、彼女の手を、引いた。
 振り向いた彼女の起こす水飛沫の中で、もっと一番……彼女の近くへ。

 そして、朝日の、強く放たれるような光の中で。彼女の呼吸と、僕の呼吸が、重なる。

 大きく見開かれた、透明に光る彼女の瞳が……ゆっくりと柔らかに細まり、閉じられていった。

 その呼吸と熱を、受け止める。
 それが、僕のできる、唯一の祈りだった。


 そうして、やっと聞こえた、彼女の秘めてきた答え。

 ――――本当は、ずっと一緒に生きたかった。自分の目が、とらえられるのかも分からない幸せを……望んでしまっていた。

あなたは全部、全部知っていてくれたね。
ありがとう。一番、きれいな青を。


――――大好き。


耳に残された囁きと共に、目の前で弾けて散った色とりどりの光の粒たちは、かつて彼女と出逢ったときに見たあの景色に似て。
目に痛いほど美しいその景色は、そしてその中に消えていった彼女は、僕に受けきれないほどの世界の愛おしさを伝える。

 今、この瞬間、紺碧の中で彼女から受け取った呼吸を、僕はきっと続けていくのだ。
 だから、どうか知っていて。

「君が……僕を、生かしてく」

 ――本当は。
願わくば、それは君の隣でと。

 あの紺碧に。未来を見ていた、僕は。

「……ふ……う、あ、ああ……っ……!!」

 込み上げる息は、重く湿った叫びは、朝陽を受けて静かにさざめく波の音に溶けていく。
 痛いほどの美しさを望んだ、君の最期。世界の何処にも、安寧を見つけられなかった彼女の。向かったその場所にも――空は、あるのだろうか。
 顔を、上げる。
 頭上に広がる、遙かな紺碧。彼女を海の果てに惹いたその色が。
 美しくて、苦しくて……僕は、泣いた。

 この哀切がいつか。僕に教えるのは、何だろう。
その答えが、どんなに見つけにくいものだったとしても。たとえ、最初から答えなどなかったとしたって、自分は探し続けなければならない。その答えがきっと、君の消失の本当の意味を知っているから。
彼女の熱に触れた手を、海と空の紺碧の果てへと伸ばす。
そこにあったのは、紛れもなく美しいばかりの、君が愛した色だった。



テーマ 「紺碧」

スポンサーサイト
第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
copyright © 千葉大文藝部活動情報 all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。