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総武線は止まらない

 パラレルワールド。そんな言葉を聞いたことがある。
 僕たちが住んでいるこの世界は事あるごとに分岐していて、その度に宇宙のどこかで、この世界と並行した別の世界が生まれるのだそうだ。
 例えば、そう、僕が石油王になって世界中の美女という美女をたぶらかしているような世界もあれば、地べたを這いずって来る日も来る日も雑草を毟り食っているような世界もあるわけだ。そもそも僕が生を授かっていない、なんてことも有り得るかもしれない。
 ――いや、そんなに極端じゃなくてもいい。今日僕が朝食を食べなかった世界。隣で咳をしているサラリーマンがマスクをしている世界。そのまた隣でぼんやりしているOLが今あくびをしなかった世界。どんなに細かな差異でも、漏れなく存在するらしい。
 実に興味深い話ではある。しかし、所詮は創作の設定に過ぎない。そんな世界があるのならば、是非ともお目にかかりたいものだ。
 ――そんなことを、昨日までの僕ならば平気で宣っていたことだろう。しかしまあ人間というものは、いくら軽口を叩いていても、いざそれを目の当たりにすると恐ろしくなってしまう生き物らしい。
 そういうわけで、僕は今、心底震え上がっている。
 何せ、パラレルワールドに来てしまったのだから。

 朝目を覚ますと、そこは出来のいいジオラマのようだった。身を包んでいる布団、視界にある家具、調度品、部屋の間取り。どれをとっても、僕が知っているものと同じだった。限りなく似ていた。だからこそ、強い違和感を覚えた。
 それを引き摺ったまま最寄駅のホームまで来て、僕は漸く、ひとつ奇妙なことに気がついたのだった。
 ――おかしい。
 今日は月曜日。それは間違いない。今朝のニュースで、新人のアナウンサーが笑顔で宣言していた。
 ――それなのに。

 ――それなのになぜ、総武線が定刻通りに運行している?

 そう、平日――特に月曜日などは、決まって方々の駅で人身事故が起こり、この鉄の箱はさも当然であるかのように止まるのだ。
 それがどうだ。運行見合わせや遅延のアナウンスもなく、そいつはすました顔で僕の目の前に停車した。時刻は七時三十分。ぴったりだ。
 この電車を利用してもう三年は経つが、定刻通りに顔を出したことなどただの一度もなかった。少なくとも、僕が認知する限りは。それが唐突に、何の前触れもなく、こんなパンクチュアルに――。
 ありえない。自然の摂理を覆したも同然だ。
 そしてもっと不思議なのは、天変地異の予兆ともとれるこの事象を前にしても、周囲の人間が誰ひとりとして動じていないということだ。
 人の波に呑まれながらきょろきょろ周りを見渡したが、皆判を押したようにつまらなそうな顔をしている。
 おかしい。絶対おかしい。
 恐る恐る車両に踏み入りながら、僕は同僚から聞かされたサイエンスフィクションな話を思い出していた。
 パラレルワールド。僕はきっと、知らず知らずの内にパラレルワールドに放り込まれてしまったのだ。
 そう考えると、総武線が止まらなかったことにも、それに対して皆が何食わぬ顔をしていることにも頷ける。
 今にして思うと、自分の部屋の様子も、少し、見逃すほど微かに違ったような気もする。ベッドはあんなに小さかったか? カーテンの柄はあんなだったか? タンスの配置はあそこで合っていたか? 考えれば考えるほど、あらゆるものが怪しく思えてくる。
 車窓から灰色の街並みを眺める。一見いつもと変わった様子はない。しかしきっと、背の高いビルが一本増えていたり、あるはずの街路がすっかり消失していたり、といったことが起こっているに違いないのだ。
 僕は元の世界と変わらぬ過酷な通勤ラッシュに揉まれながら、心中酷く狼狽えていた。
 ――一体どうすれば、元の世界へ戻れるのだろう。
 縋るように隣の女子高生や中年男性を見遣っても、救ってくれるはずもない。あんまり見つめていてもお縄になってしまう。
 何の整理もつかないまま、僕はずるずると都会の方へと運ばれていった。

 普段と変わらぬ駅で降り普段と変わらぬ道を辿ると、見慣れたオフィスビルがそびえていた。入口の小洒落たガラス製回転ドアも健在だ。
 何となく拍子抜けしながらエントランスを抜け、フロントのべっぴんさんに力なく挨拶をする。愛嬌のある笑顔で挨拶を返すべっぴんさん。この微笑みで一体どれほどの社畜が救われていることだろう。僕たちはこの女神に日々祈りを捧げるべきなのだ。
「――ん、村田か?」
 だらしなく顔を歪めていたところ、突如背後から声が飛んできた。どきりとして身体を翻す。そこには、目の保養にもならない残念な男の姿があった。
「――イケダマサシ?」
「……なんでフルネーム疑問形だよ。寝ぼけてんのか?」
 池田雅史。僕の同僚であり、悪友のひとりだ。毎日寝癖は立ちっぱなしだしメガネは派手だしネクタイはきちんと締めないし、まるで善良そうには見えないが、その通り、全く善良ではない。しかし何の間違いか上司には気に入られているようだ。
 この男、実に華のない声をしているが、その声色は疑心暗鬼状態の僕にとっては非常に心強く感じられた。漸く地に足をつけられた心地だ。
 ――いや、しかし油断はならない。ここは外でもない並行世界である。きっとこいつも、僕が普段見ている「池田雅史」とは似て非なるものなのだ。
 よくよく観察してみると、どことなくメガネの形状が少し違っている。そんな気がする。確信は持てないが、僕の直感がそう告げている。
「……何だよ、気持ちわりいな。顔を離せ、顔を」
 ふと我に返ると、池田の顔面が僕の視界いっぱいに映っていた。すぐさま後退して、奴と十分な距離をとる。折角フロントの美女に塞いだ心を癒してもらったのに、今はもう酷く胸焼けがしている。疲弊しているときにむさ苦しい男の顔なんぞ見るものではない。
 そういえば、僕にパラレルワールドの話を持ち出したのもこいつだ。何だか、池田が諸悪の根源のように思えてきた。
「……はあ」
 小さくため息をつくと、僕は足早にオフィスへ続くエレベーターへと向かった。
「どうしたんだ、あいつ……」
 訝しげな表情で、池田は僕の後を追った。

「あれ、おはよ村田くん」
 オフィスに入りどっかと自席に腰掛けると、張りのある可憐な声が聞こえた。どこかの誰かの声質と比べると、ミネラルウォーターと泥水ほどの差がある。
「おはようございます、えー、カガナツミ先輩?」
「なんでフルネーム疑問形なのさ? 私のこと忘れちゃったの?」
「あーいえ、そんなことは……はは」
 視線を逸らしながら、僕はへらへらと答える。加賀菜摘さんは僕より二つ上の先輩だ。印象は、しゃりっ、しゃきっ、しゃらっ、といった感じ。何でも卒なくこなす頼れる人だが、話す度に顔を覗き込んでくるので、対女性免疫の欠如著しい僕はいつもどきまぎしてしまう。
「ふーん……。えーと、あれ、何だっけ? 何か村田くんに言いたいことがあった気がするんだけど……。あー、思い出せない」
 言いながら、頭をわしゃわしゃと掻く先輩。こういう仕草や言動もまさしく加賀先輩だ。――が。
 いや、騙されてはいけない。そうだ、髪型だ。何となく雰囲気が違うと思ったら、髪型が違う。きっとこの相違は、パラレルワールドの産物に違いない。
「ん、あ、髪の毛? そうそう、昨日切ったんだー、わかる?」
 僕の熱い視線に気がついた先輩が、茶の混じった柔らかそうな髪の毛をちょいとつまんでみせる。……なるほど、そういうわけか。
 それなら、そうだ。香水を変えたのだ。普段よりもどこかフルーティな香りが強いような、そんな感じがする。多分。
「……ん、加賀クン……と、村田クン? おはよう……」
「あ、おはようございまーす、課長」
「おはようございます。……なんで僕だけ疑問形なんですか」
 突然ぬるりと顔を出したのは、山岡課長だ。相変わらず薄幸そうな面持ちをしている。細長い身体に、垂れた瞳。中途半端に伸び散らかした髭。「冴えないヒト」としか形容できない風貌をしているが、その実、かなりのやり手である。
「あーいや、別に……。ちょっと、二人に渡すものがあってな」
 そう言うと、課長は抱えていたファイルから茶封筒を二つ、取り出した。
「えっ……まさか、左遷……? 異動? クビ!?」
 それを見て、加賀先輩が素っ頓狂な声をあげた。
「いやいや……ただの給与明細。はい、村田クンも。目当てはこれでしょ?」
「えっ、あ、ありがとうございます」
 軽く頭を下げて、両手でそれを受け取る。何だか、急に現実に引き戻された気分だ。
「ほんじゃまあ、お疲れさん」
 それだけ告げると、課長は手をひらひらさせてその場を去っていった。お疲れさん、といっても、僕もこれから仕事なんだけどなあ、先週から積もりに積もってるやつ。
「さ、張り切ってこー」
 加賀先輩も僕の背中をぽん、と叩いて、自らのデスクへと戻っていった。途端に、周りがしんと静まり返る。
 ――これが、パラレルワールド……。
 何の変化もない日常に戸惑いを覚えながらも、僕は目の前のパソコンを起動させた。

「カツカレーと味噌汁ください」
僕は食堂に来ていた。受付の娘に、変わり映えのないメニューを注文する。常連並に言えば「いつもの」といったところだ。
「相変わらずですね……。私、その組み合わせだけは認めませんから」
 いつまでたっても、僕の「いつもの」はこの娘に受け入れてもらえない。何が気に食わないのだろう。
「ていうか、村田さん、サボりですか? まだ十一時前ですよ?」
 名も知らぬこの娘は、何故か一方的に僕の名前を知っている。おとなしそうな見た目に反して、なかなかおしゃべりだから厄介だ。何にでも首を突っ込みたがる性分らしい。
「失敬な。仕事が済んだから、早めに昼食をとるだけだよ」
「ふーん……」
 いざタスク、とパソコンの電源を入れたところ、大量に残っていると思われていたノルマは完全にこなされていた。さっさと次の仕事に移ってしまってもいいが、余裕があるので適当に放置して食堂まで来てしまった。サボりと言えばサボりだが、そんなことを正直に話すと色々と面倒そうなのでやめた。
「はい、カツカレーと味噌汁です」
「ん、ありがとう」
 しかしこの娘も、何か違う。綺麗になった、とでも言おうか。いつもより数段洒落込んでいる気がする。この世界では、彼女には恋人でもいるんだろうか。
「そういえば村田さん、それ――」
「なんだ村田ー、サボリか?」
 受付の娘の言葉を遮って、今朝にも聞いた声が飛んできた。
「……そんなとこ。池田も?」
「まあな。ちょっと、一段落ついたんでな。あ、カツ丼と味噌汁ください」
 僕がテーブルにつくと、池田も盆を受け取って僕の向かいに座った。
「いただきます」
 顔の前で合掌し、カレーの海にスプーンを突っ込む。福神漬けを一切れ載せて、僕はそれを口に運んだ。
「……はあー」
 胃袋が感嘆の声をあげた。たかだか食堂のカレーだと侮るなかれ。そこらの料亭のメニューと比べても全く遜色はない。それどころか、何十枚、何百枚と上手である。
 まず特筆すべきは、この適度な甘さ。甘口とも中辛とも言えない絶妙な調整が旨みを増幅させ、食した者の舌をうならせる。これが福神漬けの塩気と良く溶け合い、ぐっと味に深みが増すのだ。このハーモニーが奏でられているうちに、すかさずカツを頬張る。これがまた絶品。揚げたてのそれは口の中で肉汁を撒き散らしながらほろほろと蕩けていく。これを咀嚼、消化。全てが喉元を過ぎ去った後には、唾液と幸福が舌の上に溢れているのである。こんな極上のカツカレーが、お手頃な食堂価格でありつけるなんて、僕は幸せ者以外の何者でもないのだ。神様、ありがとう、ありがとう。
「……また脳内グルメレポートか?」
 池田が冷めた目でこちらを見た。
「よくもまあ、飽きないもんだな。毎日食ってんだろそれ」
「飽きるもんか。僕の生きがいだ」
「食堂のカツカレーに生かされてるんだなあ、お前は」
 小馬鹿にしたようなセリフを吐く池田を尻目に、僕はアツアツの味噌汁を啜る。この味噌がまた、カレーのスパイスに良く合うのだ。誰が何と言おうと、この黄金コンビは僕の人生には欠かせない。
「ふうー、ごちそうさまでした」
 食堂の方々と神様に感謝の意を込め合掌し、湯気で少し曇ったメガネをハンカチで拭いた。
 それにしても、この唯一無二だと思っていた至高の味が完璧に再現されていることには驚いた。大したものだ。これさえ毎日食べられるのならば、並行世界だろうが何だろうがどうだっていいとさえ思い始めた。
 それに総武線に遅れが生じなかったことを除いては、取り上げる程の差異もない。寧ろ総武線が止まらない世界なんて夢のようではないか。完全に、元の世界の上位互換になっている。帰る手立てもないし、このままここに住み着いてしまっても――。
「こらっ、何サボってんだっ」
 背後からの唐突な叱責に、僕は驚いて大げさに跳ね上がった。
「あはは、引っかかった」
 振り向くと、加賀先輩がけらけらと笑っていた。からかわれて反射的に腹が立ちそうになったが、彼女の無垢な笑顔を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。ずるい人だ。
「……驚かさないでくださいよ。先輩だって、随分早い昼食じゃないですか?」
「何言ってんのさ。もうとっくにお昼休みの時間だよ」
 加賀先輩はびしっと掛け時計を指差した。彼女の言うとおり、いつの間にやらランチタイムは始まっていた。
「あ、そこらへんの席空けといてよー。私も後でラーメン持ってそっち行くからさー」
 それだけ言うと、先輩はそそくさと購買ブースの方へと消えていった。
「相変わらず、いそがしい人だなあ」
 池田が呆れたようにぼそり呟く。僕もそれには同感だ。しかし、あの人らしい一面を見ていると、心の底から安心する。
「……何ニヤけてんだ、お前」」
 ふうと満足げにため息を吐く僕に、池田が眉をひそめて尋ねる。
「なんか朝から気味がわりいぞ。悪霊にでも取り憑かれたのか?」」
「ふっふっふ」
 僕が勿体ぶって笑ってみせると、池田はあからさまに不快そうな顔をした。こういう表情は滅多にお目にかかれないから、すこぶる愉快だ。
「なんだよ」
「実は僕は、並行世界からやってきたんだ」
 大真面目な面持ちをして、僕は告白した。
 その後僕らは数秒、黙々と見つめ合った。目の前の男は身体を震わせて、何かを我慢しているようだった。
「……。くっふ!」
 案の定、静寂を破って池田は思い切り噴き出した。これが失笑というやつだ。これほど大胆かつ華麗な失笑を目の前で見られるなんて、稀有な体験をしたものだ。
「そうか、並行世界。パラレルワールドかあ。なるほどなあ。わざわざ、よその世界からご苦労だったな、くく。いやはや、道理で朝っぱらからよそよそしかったわけだ。納得だよ、はっはははは」
「本当さ。馬鹿にするなよ。だってなあ――」
「まあまあ、良かったな。幸運にもお前は、まだこっちの世界の〈自分〉には会ってないんだろ?」
 こっちの世界の、自分……。
 そうか、ここが本当にパラレルワールドならば、この世界線に住んでいるもうひとりの自分がいるはずなのだ。
 それなら、どうして僕はまだ〈自分〉と遭遇していないんだ? こっちの世界でも同様の生活をしているのなら、朝起床した瞬間にでも出会いそうなものだが。
 池田がにやにやと話を続ける。
「もし鉢合わせでもしてたら、今頃お前、死んでるかもしれんぞ」
「……えっ?」
 死ぬ? 僕が? ……何で?
「ドッペルゲンガー、って聞いたことあるだろ? もうひとりの自分と出会ったら、近いうちに死ぬってやつ。その〈もうひとりの自分〉の正体というのがどうやら、並行世界からやってきた、よそ者の自分らしい。そんで、同じ世界に二人も同じ人間は存在できないから、どちらかが死ぬ、と。そういうわけだ」
「へーえ……」
 こういうしょうもないことだけは一人前に知っている。
 しかし今僕が置かれている状況を考えると、池田の話を笑い飛ばすことはできそうになかった。
「お待たせさまー」
 不意に、加賀先輩が戻ってきた。彼女は手に持った即席ラーメンを慎重にテーブルに載せ、僕の隣の席に座った。
「あ、加賀さん。聞いてくれよ、こいつ――」
「あーあー! 何でもないです!」
 何だか急に羞恥心がこみ上げてきて、僕は両腕を振り回しながら池田の言葉を断ち切った。
「どしたの?」
「いや、本当に何でもないんです……はは」
「ふーん……? ま、いいけどさー」
 小首を傾げながら、加賀先輩は割り箸をぺきんと割った。全く、先輩のあっさりした性格に救われた。
 ずるずると忙しなく麺を啜る先輩。実に豪快な食べっぷりだ。
 その様子を眺めつつ、僕は今しがた池田が語っていたオカルト話を思い出していた。
 何ら変わらない僕の日常。未だ〈もうひとりの自分〉と出会っていないという事実。そして、パラレルワールドという非現実的な理論。どれをとっても、僕が今場所をとっているこの世界は、外でもない僕の生きてきた世界なのだと告げている。信じ込んでいた自分が阿呆みたいだ。
 そして何より、その方が僕にとって都合がいい。パラレルワールドがまさか、死をもたらすほど恐ろしい世界だとは毛ほども思っていなかった。総武線だって、僕の命が在る内に二度や三度は止まるだろう。そのうちの一回だったのだ、今日は。
 そう思うと、本当に馬鹿らしくなってきた。僕の直感なんて、友達の友達の友達から聞いた話くらいには信用ならないということがよく解った。
 加賀先輩はもむもむと一心に麺を頬張っている。この人を見ていると、心が洗われるようだ。何もかもが些末なことのように思えてくる。
 不意に先輩が、何事か閃いたようにこちらに視線をやった。
「んむ、ほうらほうら」
「……先輩、全部飲み込んでから喋ってください」
 僕が苦笑して嗜めると、彼女はごきゅん、と喉を鳴らしてから再び僕の方に向き直った。
「キミに言いたかったこと、思い出した」
 先輩と視線が絡んで、大きく心臓が跳ねた。
 ここから、甘酸っぱい僕たちのラブロマンスが始まる。そんな予感がした。ドラマか何かだったならば、津波のような壮大なBGMが流れているところだ。
 ――せ、先輩。そんな、池田の目の前で……。
 続く彼女の台詞は、甘い愛の囁き――などではなく、全く予想だにしないものだった。
「似合ってるね、ソレ」
 ――ソレ。ソレって、ドレだ?
「あーそうそう。そういやお前、いつの間に目悪くなったんだ? それともファッション?」
 池田からも、わけのわからない疑問を投げかけられる。想定外の問いかけに、思考がさっぱり追いつかない。どういうことだ。
「何ぽかんとしてんだよ。メガネだよ、メガネ」
 メガネ?
 僕は咄嗟にメガネを外して、それをよく観察した。別段いつもと変わった様子はない。それはそうだ。僕には買い換えたりした覚えもないのだから。
「……いつものメガネだよ?」
「いつもの、って……」
 池田も加賀先輩も、怪訝そうな顔でこちらを見ている。決してからかっているわけではないということが、その表情から窺える。
 ――嫌な予感がした。とても、嫌な予感が。
 薄氷を踏むように、そっと池田は口を開いた。

「お前いつも、メガネなんかかけてねえだろ」

「……」
 僕は言葉を失った。生まれてこの方メガネを外したことがない、なんてことはないが、少なくとも彼らと出会った頃には既にかけていたはずだ。
 ――それなのになぜ、こんな食い違いが発生しているのか。
 考えずとも、答えは目の前にある。一度は目を背け、逃避した答えが。
「あのさ――」
 耳を塞ぎたい気持ちで、僕は恐る恐る口を開いた。
「総武線て、止まったことある?」
「はあ? そんなこと、あるわけな――」
 池田の言葉を皆まで聞かず、僕は勢いよく立ち上がり、その場から駆け出した。

 無我夢中で走った。何処に向かうかなんて考えていない。
 ただ、怖かった。ただの思い込みだと笑い飛ばせる話ではなくなってしまった。
 何事かと驚きの色を見せる人々の間を、全速力で駆け抜ける。壁が見えれば曲がり、階段があれば駆け下りる。汗でスーツが身体に張り付く。しかし、そんなことに構っていられる余裕はない。
 走って、縺れて、走って、ぶつかって、走って、走った。
 数階ほど下って、漸く脳が冷静さを取り戻してきた。考えれば考えるほど恐ろしくなったが、それと同時に、動き出した思考がひとつの疑問を呈していた。
 ――この世界はパラレルワールド。それはさっき、疑いようのない形で証明されてしまった。ではなぜ、僕は〈もうひとりの自分〉に出会っていないのか。池田の言っていたことが本当なら、朝目が覚めたた時に鉢合わせていてもおかしくないのに。
 あいつが出鱈目なことを宣っていた可能性も十分に有り得るが、まだ悪い予感が頭の中で渦巻いている。気を抜くなと、僕の本能が警告している。
 しかし、わからない。ただでさえノータリンの僕が、酸欠状態の頭で答えを導き出せるわけもない。
 いよいよ、運動不足の脚が悲鳴をあげ始めた。棒切れのようになった下肢に鞭打って、息を切らしながら角を曲がった、その時だった。
「うわっ」
 曲がった先に、誰かがいた。その人と衝突する寸前、ブレーキをかけてどうにか踏みとどまる。そこで、両脚の電源がぶつんと落ちた。尻餅をつきながら、目の前の人影を見上げる。
「……何だ、まだいたのか村田クン」
「や、山岡課長……」
 課長は目を少し見開いて驚いたような素振りを見せた。なぜか社内で汗だくになっている僕を見て殆ど動揺しないあたり、流石というか、何というか。リアクションの薄さにおいては、僕の知人の中では群を抜いている。
「……社内マラソンか?」
「いやいや……げほっ、げほっ。そんなのありませんよ……」
「ふむ……そうか。まあ、深くは追及しないけど。……早く帰らないと、勿体無いぞ?」
 ――勿体無い。
 僕はその言葉の意味を理解できなかった。首を捻って課長を見つめると、彼はハア、と浅いため息を吐いた。
「きみ有給とってただろ、今日。土日と今日でハワイに行くとか何とか。……まあ今ここにいるってことは、行かなかったのか」
 ――有給。ハワイ。
 ばちりと、全身に電流が走った。
「そういうことか……」
 揺らめきながら立ち上がり、足の親指の付け根に力を入れる。一息つくと、僕はエントランスを目指し駆け出した。
「……気をつけて帰れよー」
 気の抜けた声を背中に受けながら、気を引き締めて狭い廊下を走り抜けた。

 オフィスビルを後にした僕は、最寄駅の方へと歩を進めた。呼吸を落ち着かせながら、頭の中で考えを整理していく。
 課長から有益な情報を得たことで、僕が〈もうひとりの自分〉と相見えずに済んでいる理由が判明した。今奴は、海外旅行中なのだ。全く、不幸中の幸いである。少しタイミングがずれていたら、即刻出会ってアウトだっただろう。
 しかし、悠長に構えてもいられない。課長の言っていたことが正しければ、この世界の〈僕〉は今日のうちには帰ってくる。自宅に戻っておちおち休むこともできない。
 とりあえず、今日明日を生き抜くほどの金銭は持っている。ホテルでも見つけて、当面は閉じ篭って隠れているほかはない。
 目眩を覚えつつ、周りの風景をぼんやり眺める。高いビル、寂れた商店、過ぎ行くトラック。見慣れている街並みのはずなのに、まるで異国の風景のような素っ気無さを覚えた。
 僕だけ、この世界にとけ込めていない。たったひとり、切り貼りされたようにこの世界に置かれている。
 自分という存在がいつ取り除かれてもおかしくない現状。思考が深みにはまり、僕は一層恐ろしくなった。〈もうひとりの自分〉と顔を合わせたら、間違いなく僕の方が消されるだろうという確信があった。
 ドッペルゲンガーに怯えながら暮らし続ける自信は、微塵もなかった。
 腹に暗い思いを抱えたまま、僕は下を向いて歩いた。
 僕が生き残るための策は、ある。
 ひとつの決断が迫られていた。それを今日実行するのか、それとも明日に引き伸ばすのか。
 決めかねて、僕は延々、駅内を徘徊していた。

 微睡む意識に、朝日が差し込んだ。頭が痛い。気分が悪い。それもそのはず、結局一睡もできていないのだから。
 あの後駅内で思い悩んだ末、自宅の最寄駅まで足を運び、その近くのビジネスホテルで一夜を明かすことにした。もしかしたら、寝て起きれば元の世界に戻っているかもしれない、という淡い期待も抱きながら。
 しかしそううまくはいかない。あまりの恐怖、不安、そして重圧。そのお陰で脳が冴え渡り、体が疲れているにも関わらず眠りに落ちることができなかった。計画を実行に移した時のことを考える度に、吐き気を催していた。
 そして夜が明けた現在。昨日躊躇したそれを遂行するときがやってきた。
 大きめのマスクをしてホテルを出、すぐ近くの駅を目指す。
 力なく一歩踏み込むと、地面が大きく波打った。目に見えるもの全てが揺らいでいるかのような錯覚に陥る。夜を徹したにしても、酷い疲弊感だ。これほど心身ともに磨り減らした日は生来なかっただろう。
 感覚が麻痺して、これから為す大仕事への不安は殆ど消え去っていた。頭の片隅では、自分は正常な判断ができない状態なのだということを理解している。理解はしていたが、どうでもよかった。
 不規則な歩調で、漸く駅まで辿り着いた。改札を通過し、人混みを潜り抜け、馴染みの乗車位置へと移動する。
 するとそこに、ひとり立っている人物が目に入った。
 ――〈僕〉だ。
 ここからでは、その顔までは確認できない。しかし目の前にいるのは、紛れもなく〈僕〉だ。僕が〈僕〉を見間違えるはずがない。
 心臓が忙しなく脈打つ。確かにいたのだ、もうひとりの僕は。ここまで来たら、自分に言い訳することも逃げることもできない。
 現在の時刻、七時二十九分。総武線遅延のアナウンスはない。そろそろだ。
 カンカンカン、と近くの踏切がけたたましく鳴り響いた。それに紛れるようにして、僕は〈僕〉にゆっくりと忍び寄った。
 一歩、一歩。そして、一歩。息を殺して、接近。
 鉄が激しく擦れあう音、風の低く唸る音が次第に大きくなっていく。
 とうとう僕は、〈僕〉の背後に立った。彼がこちらに気がついている様子はない。
 ――こいつさえいなくなれば。
 おもむろに右腕を持ち上げる。掌を奴の背中にかざす。
 ――僕はこの世界で生き残れる。
 喧しい音はすぐそこまで来ていた。時間はない。
 僕はそのまま、掌を力強く前に突き出した。
 ――瞬間。
 強く突き出したはずの腕が、動かなくなった。誰かが、僕の手首を掴んでいる。
 掴んでいるのは〈僕〉だ。目の前にいる〈僕〉。そいつがこちらに顔を向けず、僕の右手首をきつく締め上げている。
 必死で振り払おうとしたが、無駄だった。まるで万力にでも挟み込まれているかのようだ。みしみしと、骨が軋むのが解った。
「おまえだよ」
 呟いて、〈僕〉が首をぐるりと回した。
 その顔は、何かで黒く塗り潰されていた。目も、鼻も、口も、あるべきパーツは何ひとつなかった。
 しかし、笑っていた。そいつは、その漆黒の向こう側で、確かに笑っていた。
「おまえだよ、きえるのは」
 紡ぎ出されたのは、無情な一言だった。
 その余韻が耳の中で霧散したときには、僕は既に空中に放り出されていた。
 数秒の浮遊感の後、ぐしゃり、と、耳元で嫌な音が聞こえた。同時に、脳味噌が激しく掻き乱される感覚。そして、暗転。
 残った微かな意識に、鈍いクラクションの音が反響した。
「とまった」
 最後に聞こえたのは、冷笑を帯びた〈僕〉の、短い台詞だった。



 足に鋭い痛みが走って、我に返った。
「す、すいません」
 目の前で、背丈の低い女子高生が僕に、申し訳なさそうに謝っていた。
 わけがわからず周りを見渡すと、すし詰めにされた人、人、人。この光景は嫌というほど見たことがある。俗に言う満員電車というやつだ。
 僕は――パラレルワールドで、〈もうひとりの自分〉に殺された。あの強烈な衝撃と生々しい感覚は、まだ身体に染み付いたままだ。思い出すだけで、背筋が凍った。
 あれは、夢、だったのか?
 気が付けば、全身を大量の汗が覆っていた。僕はずっと、満員電車の中で悪夢にうなされていたのか? それにしては、あまりにも生きた世界を体験したような気がする。
 もしかしたら、僕はまた別のパラレルワールドに飛ばされてしまったのではないか。また悪夢のような展開が待ち受けているのではないか。そんな不安を募らせた、直後のことだった。
 僕たちを乗せて走行していた電車が、急に速度を落とし始めた。車窓から見える景色の流れは徐々に遅くなっていき、ついには全く動かなくなった。次の駅に到着したというわけでもなさそうだ。
 ……一体、どうしたんだ?
「只今〇×駅で人身事故が発生したため、運転を一時停止させて頂きます。大変ご迷惑をおかけ到しますが――」
 非常に聞き馴染みの深いアナウンスが、車内全体に流れた。また朝の忙しい時間帯に止まってしまったわけだ、この電車は。
 隣の中年が苛立たしげに舌打ちをした。それを傍目に、僕は一人幸せを噛み締めていた。
 ――戻ってきたのだ、元の世界に。
 涙が溢れそうなほど、嬉しかった。ふと笑みが溢れるほど、心の底から安堵した。
「人身事故の影響により、運転を一時――」
 繰り返される放送を浴びながら、僕はついさっき見た夢のことを思い返していた。
 ――人身事故。
 毎回誰かが、並行世界の自分に突き落とされてるのかもしれないな。
 ……なんて。
 くだらないことを考えながら、ぼくはひとつ、大きなあくびをした。
 何はともあれ、大遅刻だ。参った。
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第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00
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