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ミヅモ

 桜の花びらはすっかり散ってしまいましたね。葉桜はどうにも好きになれなくて、私は憂鬱な気分が抜けません。あなたは、お元気ですか。
 とはいえ、あなたは元気なのは知っています。引きこもっていても、窓からあなたの姿を見ることはありましたから。
 このご時世に手紙などというものを受け取って、困惑していることと思います。手紙の相手が引きこもりの私なら、なおさらのことでしょう。でも、誰かに知ってほしかったのです。この一年で私に何があったのか。そして、どういうわけか、私がこのことを伝えるとしたら、一番ふさわしいのはあなただと思った。両親も、親友も、今はいませんから、私の交友関係の狭さを知るあなたならば、それは自然と思えるかもしれません。しかし、この手紙を読み終えた後、あなたは絶対にこう思うでしょう。なぜ私にこの手紙を送ったのか、と。先ほどの通り、私にもそれは分かりません。もしかしたら、私はあなたが好きだったのかもしれません。あの子に、ミヅモに出会っていなければ、私はあなたによって救われていたのかもしれません。でも、そんな想像は無意味です。事実私はミヅモに出会ってしまったのだし、第一私はそのことに心から感謝しているからです。
 前置きが長くなってしまいました。ここ最近、ひらがなさえまともに書いていませんでしたから、文章の乱れはこれからもあると思います。許してください。
 私がこれから述べるのは、ミヅモとの出会い、親友・一哉の死、母の死、そして私の死です。もちろん私はまだ死んでいません。これから死にます。ですが、これを遺書と思って読んでほしくはない。あくまでこれは、私の告白であり、私があなたに向けて送る手紙です。それを忘れないでください。ですから、これは警察に渡さないで、自分で持っていてください。面倒ごとが嫌であれば、いっそ燃やしてしまって構いません。とにかく警察には渡さないでください。私は、社会から一方的に頭のおかしな精神異常者だとみなされたくない。いや、ある意味でそれは事実なのですが、私を知らずにこれを読んだ人々が思うような意味では決してないと断言しておきます。

 さて、いいかげん本題に移りましょうか。
 ご存知の通り、私は一年前の夏休みに父を事故で亡くしました。あなたはきっと、それが私の引きこもりの原因だと思っていたでしょう。でもそれは根本の原因ではありません。父の手記を開いてしまったことが、すべての原因なのです。
 読書好きの彼は、休みの日になると決まって書斎に閉じこもっていました。私は、彼が何をやっているのかとても不思議でした。書斎から出てきた彼は、いつも疲れ果てた様子だったからです。生気のない顔でもそもそと夕食を噛む彼の姿は、異様としか言いようがありませんでした。でも母は気にしていない様子でしたから、私もそんなものかと思い込むようにしていました。あの手記を見つけるまでは。
 夏にしては涼しめの夕暮れ時でした。それは書斎机の引き出しに平然と入っていました。ふと父が生前していたことが気になって、書斎に入ってみたときです。とはいえ、最初は読もうとは思いませんでした。何せ、家族とはいえ人の手記ですから。ですが手記の表紙をよく見てみると、そこには「宗へ」と書かれていたのです。父は五十代で、身体もすこぶる健康でした。まだ己の死期を悟るような状態ではありません。何が何やら分からないまま、凄まじい胸騒ぎを抑えて私は手記を手に取りました。
 そこに書かれている内容を見て、私はこれを読んだことを激しく後悔しました。そこには、彼の黒魔術への熱意がつらつらと書かれていたのです。魔術をもってすれば世界平和が実現するだとか、太古に封印された神を復活させたいだとか、その意志をいつか息子、つまり私に継いでほしいだとか。私は急に、自分が死者を冒涜しているような気分になりました。こんなちゃちな妄想は、本人の死とともに永遠に葬り去られるべきものだったろうと。それでも、「宗へ」と書かれていましたから。私は最後まで一応は読むことにしました。今思えば、このときの妙な礼儀が私のすべてを狂わせてしまったのですね。
 手記の内容は、ページを進めるごとに物騒になっていきました。どの魔術にはどの動物の心臓がどれほど必要だとか、神を復活させる儀式にはどうしても人間の魂が必要だとか、しかし誰を犠牲にすればいいのかだとか。彼が悩みながら書いたのであろう「儀式」の贄になる候補者リストには、小さく私の名前も書かれていました。それを見たときは危うく腰を抜かしそうになりました。私はそこでやっと、この手記の危険性に気づいたのです。思わず、手記を放り投げました。そして、背筋を凍り付かせながら辺りを見回しました。死角から頭を殴られ、贄として怪しげな礼拝堂に連れ込まれる自分をありありと想像してしまったのです。でも、これを書いた父はもういない。少なくとも、自分が父の狂信を間近で認識する機会はもうない。冷静になってそれだけ確認できた私は、気を取り直して手記を手に取りました。しかしそのすぐ後、私はまた手記を放り投げることになります。
 手記の最後には、震える文字でこう書いてありました。「私が贄となろう。私が主の肉となる。だから宗、どうかお前が主の依代になってくれ。このような大役、お前に任せきってしまうこと、心苦しく思う。だが分かってほしい。主の復活により、この世界は平穏を取り戻す」
 私の精神は限界を迎えました。あの父が、真面目で聡明で、愛していたかと問われれば分からないけれど、少なくとも心から尊敬していたあの彼が、なぜこうまで狂ってしまったのか。私は手記を壁にぶつけて泣きそうになっていました。

しかし、ぶつけた拍子に手記から一枚の紙が落ちました。まだあったのです。ここまで来たらと、私は動悸が収まるのを待ってから紙を拾いました。紙にはある図が書かれていました。少し考えて、その図は書斎の間取り図だと分かりました。そして、その図の隅には×印がつけられていた。その印が何を意味するのか、混乱した僕でもすぐに気づきました。
おそるおそる×印のついた場所に行き、注意深く観察してみると、床に小さな突起のようなものが見つかりました。その突起をつまんで上げると、下に取っ手が隠れていました。取っ手を引くと、下には階段がありました。あの、幼いころにあったらいいなと妄想していた、家の地下室。それがまさかこんな、考えうる限り最悪の形で実現するなんて、誰が予想できたでしょうか。
地下へ続く階段は黒一色に覆われていました。まるで質量をもった黒が書斎の光を取り込んでいるかのように思えました。今思えば懐中電灯でも持って行けばよかったのだと思いますが、私は憑かれたように階段を下っていきました。横幅は狭く、勾配はきつい、本当に人が使うことを想定しているか怪しいような階段です。それが予想の他長く続きました。一段下りるたびにギィギィと音が反響し、それがまるで自分の心の音であるかのような錯覚に陥りました。
やがて階段が終わり、床は頑丈なものに変わりました。壁をついていた手にスイッチ状の突起が当たったので押してみると、いくつかの古ぼけたカンテラがぼうっと辺りを照らしました。私の目に飛び込んできたのは、部屋を二つに分ける巨大な格子、そのこちら側に散乱している動物の髑髏、そして、向こう側にある巨大な赤黒い円。覚悟していたとはいえ、やはり私は震えました。父は私が思っていたよりも遥か深い闇に踏み入っていたのです。
赤黒い円の中には奇妙な模様が描かれていて、私はなぜだかその模様に釘づけになりました。その模様の下で何かが蠢いているような、私を見つめているような気配。果てしなく不気味でしたが、不思議と危険は感じませんでした。まるで悪霊に頭を撫でられているような印象です。はたしてこの状況を受け入れることが吉か凶か、まるで分からない。

 そのときでした。何もない円の中から、黒く巨大な細いものが出てきたのです。それも、三本。それは円の外まで伸びて床をがつっと突きました。次に円の中から出てきたのは、その三本を生やした頭のようなものです。といっても、もちろんそれは人間のものではありません。
 非常に形容しづらいですが、それを例えるならば、「三本足の蜘蛛」とでもいいましょうか。蜘蛛といえば八本足なので、この例えが適切かは怪しいですが、これが一番近い気がします。そうですね、あまりこのような言い方はしたくありませんが、子どもに足をもぎ取られ、三本足になってしまった蜘蛛を想像してみてください。それがゾウの二倍はあろうかという大きさで現れたのです。私の恐怖が理解できるでしょうか。
 私は息の吸い方も忘れて、その場に崩れ落ちました。危険な感じがしないだとか、そんなことでかき消せるような恐怖ではありません。自分より強いもの、自分より巨大なもの、自分では理解できないものに対する、単純で絶対的な恐怖が私を丸呑みにしました。
 蜘蛛の顔がこちらを向き、赤い宝石のような眼が私を捉えました。その瞬間、蜘蛛は口を開いたかと思うと、その内部から細い触手を何百と出してきました。それはゆっくりと私に向かって伸びてきている。しかし私には逃げる気力が残っていませんでした。
触手は、そのままたやすく私の身体に入っていきました。両親との、そしてあなたや一哉との思い出が、頭の中を一気に駆け巡りました。でも、不思議なことに痛みがない。意識もはっきりとしている。少し冷静さを取り戻しかけたところで、ぞるりと身体から赤黒いものが出てきました。それは私の恐怖を表すかのよう激しく脈打っていた。触手は、私の身体から心臓を抜き取ったのです。
 心臓は、触手とともに蜘蛛の口内に運ばれていった。まるで元々そこにあるのが正しかったかのようにです。そしてすぐ後、妙な音が鳴りました。音にするのが難しいですが、あえて表してみるなら、くひゅうるるる、という感じです。それが蜘蛛の鳴き声のようでした。そして今度はその足を私の方へ伸ばしてきました。その細い足は格子を通り、私のすぐ目の前まで来ました。私はまた何かされるのかと思いましたが、足は私の目の前で止まったままです。そして、何かを待つようにじっとしているのです。私には何が何やら分かりませんでした。
 足をよく見ると、それは紫がかった薄い粘膜で覆われていました。強い酸なのではないかと私は勘ぐったのですが、床に垂れても何も変化はありませんでした。ですので、というか、まあ、どういうわけか、私は蜘蛛の足に触れてみようと思いました。触れると案の定ベットリと粘液がついてしまいましたが、蜘蛛はくひゅーるるるぅ、と一際大きな鳴き声を上げると、足を引っ込めました。満足してくれたようでした。まだ蜘蛛に対する漠然とした恐怖はありましたが、この時から愛着がわき始めたのも確かです。心臓を取られたことなど、すっかり忘れていました。

 その後蜘蛛が私の手の届かない場所でじっと動かなくなって、私はようやく我に返りました。これをそのままにしておくわけにもいかないが、ここにずっといるわけにもいかない。何はともあれ、いったん上に戻ることにしました。書斎から見える空はもうすっかり暗くなっていて、母が夕食をつくっている音が聞こえていました。隠し扉を閉めて取っ手も隠すと、何のことはない、いつもの書斎です。長い間白昼夢を見ていたのではないか、と思ったのも束の間、私は自分の手についた粘液に気づきました。母に見つからないように洗面所へ行って洗い落としました。正体の一切分からない粘液を落としていると、先ほどの恐怖が実感を伴って蘇ってきました。さすがにまた崩れ落ちることはなかったものの、息が荒くなりました。そこでやっと私は、自分の心臓の音が一切しないことにも気づきました。
 母はいつも通りの態度で、私はとても先ほどあった出来事を話す気になれませんでした。母はこのことをどこまで知っているのか。思えば確かに不思議でした。父が亡くなったとき、確かに母は深い悲しみに暮れているようでしたが、しかしどこか覚悟の上であったかのような態度でもあったのです。そのときは、強い人だな、と思ったくらいで怪しむことはなかったのですが、こうなってしまえば話は別。いつか確かめなければならないと考えつつ、味のしない夕食を噛みました。
 翌日の午後になって、私は蜘蛛の様子が気になってきました。母は仕事に出ていたので、私は居間に置いてあるお菓子を適当にいくつか持ってまた地下に行きました。お腹を空かせているかもしれない、と思ったからです。心臓さえ奪われておきながら、なぜ私が喰われるとは思わなかったのでしょうね。人間の驕りか、はたまた既に精神がおかしくなってきていたのか、定かではありません。
 私が地下に来ると、蜘蛛は待っていたかのように早足でこちらに寄ってきました。また足を伸ばしてくるので撫でてやると、例のように鳴きました。
「お菓子、持ってきたよ……食べる?」
 蜘蛛に言葉が通じるかは分かりませんでしたが、一応そのように呟いてから蜘蛛にお菓子を見せました。すると蜘蛛は、口から触手を出して器用にお菓子を取っていきました。次々と取っていくので、きっと気に入ってくれたのだろうと私は思うことにしました。また少し蜘蛛への愛着が湧いたのを自覚しました。
「君のこと、なんて呼べばいいかな」
 そんなことを蜘蛛に語りかけたくらいです。蜘蛛が私の言葉に反応して、お菓子を取るのをやめてじっとこちらを見つめてくるので、私は焦りました。ここで私は、父の手記が正しければこの子は邪神なのだということに気づき、急に恐れ多くなりました。
「あ、そういうのが嫌だったら別にいい、ですけど」
 露骨に取り繕ったような敬語で、我ながら辟易して、すぐにやめようと思い直しました。ただ、、蜘蛛は先ほどと同じくじっと私を見つめていたので、名前を付けられるのを待っているのだと解釈しました。その解釈は今思えば少し強引な気がしますが、その時の私は半ば確信気味にそう思っていたのです。
その後私は、しばらく考えました。この子らしい名前は何だろう、と。この子について考えるとき、まずイメージするのは「蜘蛛」と「粘液」でした。
「ミヅモっていうのはどうかな。あの、ミズ、と、クモ、で」
 蜘蛛は、ミヅモはくひゅぅるるうと鳴きました。
 最初の方で書いた「ミヅモ」というのは、紛れもなくこの子のことです。これがミヅモとの出会いともいえるし、また後で、もう一度出会うともいえます。それがどういうことか、まだよく分からないでしょうが、ちゃんと流れに沿って後に記します。

 それからというもの、夕食の残りや買ってきたお菓子をミヅモに与えるようになりました。ミヅモは私が持ってくるものなら何でも食べました。そして、嬉しそうに鳴くのです。たまに「邪神」ということばが心に引っかかりましたが、当のミヅモは姿こそ怪奇そのものですが、とてもそのような崇高な存在とは思えませんでした。刷り込みに近いものなのか、私に懐いている節さえあったのです。ものを食べると喜ぶし、私が撫でると喜ぶ、それどころかある程度ことばを理解しているようで、何か褒めたりするとそれもまた喜ぶようでした。
 ある日私は、もっとミヅモに近づいてみたくなりました。というのは、つまり、格子の存在が煩わしくなったのです。ミヅモは格子から出せるものといえば足の先くらいしかありませんから、私がミヅモに触れられるのはそこだけです。私はそれが不満でした。
 格子のこちら側はある程度生活ができるような空間になっていました。机と椅子、空きのある本棚、それにベッドまで。そのベッドだけはやけに新しく、部屋の中で浮いていました。まあ、それは置いておくとして、そのサイドテーブルには赤錆びた鍵が置いてあったのです。それが格子の鍵であろうことは想像がつきました。
 その鍵を格子の鍵穴に差し込むと、同じく錆びきった格子は意外なほどあっけなく開きました。私はついにミヅモと同じ空間に足を踏み入れたのです。ミヅモは、いつもとは違う私の行動に驚いたのか、警戒したようで部屋の隅に寄ってしまいました。「大丈夫だよ」と両手を広げると、ミヅモはおそるおそる私に近づいてきました。そしていつものように、僕の目の前に足を伸ばしてきました。私が撫でてあげると、静かに足を引っ込めて、それきり動かなくなりました。
 格子一枚を取り払っただけで、ミヅモの姿は随分と大きく見えました。テレビの向こう側にあった東京タワーを初めて間近で見た時と同じような心境です。もう完全に慣れたとばかり思っていましたが、少しだけ怖いと感じました。どうやらミヅモは人の感情にとても敏感なようで、どこか寂しそうにしていました。悪いことをしてしまったと後悔していると、ミヅモはぐいと頭を下げてきました。少しでも自分を小さく見せよう、ということだったのでしょう。私は申し訳ない気持ちでミヅモの頭を撫でました。

 それから数日後、私はそれとなく母に「父が書斎で何をしていたか知っているか」という旨の質問をしました。上でも触れていたように、ミヅモのことを話してみようとようやく決心したのですが、いきなり本題をぶつける勇気は私にはなかったのです。
 しかし母は、それだけで何かに気づいたようで、「やっぱり、そういうこと」と呟きました。どういうことかと聞くと、彼女は複雑な表情で私を見ました。
「復活させたのね、あれ」
 母は、やはり父の野望を知っていたのです。
 話していくうちに、母が父に手放しで賛同しているわけではないということも明らかになりました。母は黒魔術が単なる父の妄想ではないことも知っていた。それどころか、黒魔術自体には肯定的な態度のようでした。しかし邪神の復活に関してだけは父に反対していて、父が邪神復活のための生贄になろうとしていること、自らの野望を私に継がせようとしていることについては随分と口論になったそうです。
 父と母でどのような意見の相違があったのか、母はそこそこに詳しく説明してくれましたが、あまり理解はできませんでした。黒魔術に関する背景知識があればまた違ったのでしょうが。とにかく、母の意見を簡単にまとめてみると、こういうことです。

・邪神復活の儀式は時代が流れるにつれて誤解・曲解が増え、原典通りの正しい方法が書かれた魔導書は世界にいくつもない。それゆえに、いまや儀式が成功する確率は天文学的数値になっている。
・そして万が一儀式が成功したとしても、それで世界平和が訪れるとは到底思えない。一般に「邪神」と呼ばれているのは伊達ではなく、邪神は人間に災いしか与えない。
・そんなことに自分の命を賭けること、子どもの人生を巻き添えにすることを受け入れられはしない。

 イメージ的には、父がタカ派で母がハト派だったと、そういうことなのでしょう。
 最終的に争点となったのは成功確率の低さでした。私の身の安全ではなかったことに私は少なからずショックを受けましたが、まあ、それはともかく、父自身はその方法が原典通りの方法であるという確信があったようです。しかし母はそれを信じられなかった。そして次のような妥協案に至ったのです。

 父の命は、父だけのものだから、自分のために命を使う権利がある。だから儀式の生贄として父が命を捨てようがそれを止めはしない。しかし子どもにまでその道を強制してはならない。黒魔術について、儀式について知ったうえで、宗に最終的な選択を任せる。

 父は復活の儀式を成功させ、私はミヅモを受け入れた。ここまで父の望み通りにいくなど、母は予想だにしていなかったそうです。予定では、父が死んでから私が落ち着き始めた頃に、母が儀式について説明をする、という流れだったらしいのですが、母は私に説明をする気などなかった。
そもそも、公正に私への判断だけに任せるつもりなら、父が死ぬ前に二人で私に説明をすればいい。父が死んでから説明、という形をとったのは母の策略でした。すでに父は儀式を進めて心を蝕まれ、正常な思考ができない状態になっていた。それを利用し、自分が有利となるような条件を呑ませたのです。いえ、呑ませたつもりだった。しかし父は父で手記を用意して、私を誘導した。私が見たくなるよう、そして母には見えないよう魔術をかけていたのだろう、と母は吐き捨てるように言いました。
ミヅモは私の心臓を得た。それにより、私という存在は生物というより、ミヅモの依代に近い存在となっているのだと母は言いました。そして、私が普通の人生を歩むことは、もう不可能に近いと。邪神に魅入られてしまえば、あとどれだけ生きられるか。私は、ミヅモがそのような恐ろしい存在とは思えないと反論しました。でも、「人外に取り憑かれた者は皆そう言う」と返され、私は何も言えなくなりました。そのようにして悪者に騙される物語を、私はいくらでも挙げられます。それでも私は、自らの運命を実感できませんでした。
母は、邪神から何か授かったかと尋ねてきました。私は心当たりがなく、強いて言えば粘液くらいしか受け取っていなかったので、素直に「何も」と答えました。すると母は、いささか驚いた顔をしました。母にとって、それは奇妙なことだったようです。
どの邪神も大抵、召喚者に対しては復活の礼に力を授けるのだそうです。邪神は気分屋、というか人間では計り知れないような思考をする神が大半で、授ける力にはバラつきがあるらしいのですが、運次第ではそれだけで国を支配できるような力も授かるのだとか。父はそれによって世界平和を実現しようと思っていたそうなのですが、とにかく、私には何の力も授かったような感じがしない。
少し考え込んだあと、母は「邪神に会わせてほしい」と言いました。言い伝えにそぐわない部分もあるし、このまま私が邪神と一緒にいても大丈夫か判断する必要がある、とは言っていたものの、個人的な好奇心が強く混じっているであろうことは私から見ても明らかでした。(この場合、信仰心と言った方が適切でしょうか)
私はミヅモが私以外の人間にどういう反応を示すのか不安に思いましたが、断りはしませんでした。あの子がそう簡単に人に危害を加えるとは思えませんでしたから。私は地下室へ母を案内しました。

地下室に母が入ったときでした。急に強烈な甲高い音が部屋中に反響したのです。私も母も咄嗟に耳を塞いでうずくまりました。だから、それがミヅモの鳴き声だと気付くのにはしばらくかかりました。私は必死で鳴くのをやめるよう訴えました。10回ほど叫んだあたりで、ようやく声が小さくなっていきました。私の声が届いたからか、単純にミヅモが疲れたからか、それは分かりません。
音が止み、ふらつきながら立ち上がった母は、そこで初めてミヅモの姿を見ました。ミヅモは、私が格子を開けて入ってきたときと同じように部屋の隅にいました。怯えているようでした。それを見た母の最初の一言は、
「なにあれ」
 でした。
 たぶんあれが母の言う邪神だと告げると、母は信じられないというふうに愕然とした表情をしました。
「確かに見た目は伝説と一致する……けど、人間に怯える神なんてありえない」
 時が止まったように誰も動きませんでした。埒が明かないので、私はミヅモを呼びました。ミヅモはゆっくりと、おそるおそる私たちに近づいてきました。それを見た母はまた驚きました。
「神を手懐けてるの?」
 私は否定しました。懐いてくれている、という感じはありましたが、別にそれで私が何かしようというわけではありませんでしたから。まあ、確かにこのときはペットとして扱っている部分がないわけではなかったのですが。
 母は目の前に来たミヅモを見つめながら、難しい顔で考え込み始めました。何を考えているのか気になって母を見ていると、やがて母は私にミヅモの伝説を教えてくれました。
 それによると、ミヅモは邪神の中でもかなり上位の存在なのだそうです。しかし、遥か昔ミヅモは一度この地球に降り立ち、罪を犯した。その罪の内容は本によってバラバラなのですが、とにかくミヅモは最上位の神々の怒りに触れてしまった。それ以来、太陽系のある星の内部で氷漬けにされていた。
地球に残っているどの本でもミヅモに関する記述は少ないのですが、現存する神々の中でほぼ間違いなく最も地球近くにいる邪神だからか、復活を望む崇拝者は多いのだとか。
 悠久の封印で記憶と力を失ってしまったのかもしれない、というのが母の推測でした。母は露骨に興味を削がれたような顔をしました。同時に、ミヅモを見る目が厄介者を見るような目に変わったのが分かりました。あんまりな手のひらの返しように私は多少なりとムッとしましたが、なんとか堪えました。だって、母からしてみればそれは当然のことです。何をするか想像もつかない怪物が地下にいるのですから。
 母は私に言いました。懐いているみたいだから、邪神は私に任せる。定期的に様子を見てほしい。決して他の誰かに見せてはいけない。そして、危ない気配を感じたらすぐに逃げて自分に報告するように、と。一応私の身を案じてくれているようで、私はほっとしました。でもそれと同時に、もしミヅモが完全な状態で復活していたら、母は私をどうしていたのだろうという考えがよぎり、少しぞっとしました。
母は、ミヅモを再び封印状態に戻す方法を探してみると告げました。私はそれを拒みましたが、いい加減にしろと叱られました。

 それから数日、私はミヅモのいる地下室に入り浸りました。いつ母が封印の方法を見つけ、別れが来るか分かりませんでしたから。別れが近いとなれば、これ以上情が移らないよう距離を取る方がよいであろうことは私も分かっていました。でも、もう既にそういう段階ではなかったのです。
 ある日の朝、また格子の向こう側でミヅモと戯れていると、突然私を呼ぶ声が聞こえてきたので、私は慌てて格子から出て鍵を閉めました。もちろん、声の主は母です。懸命に取り繕いましたが、やはり格子の扉を開け閉めする音は聞こえたようで、「さすがに格子の中に入るのは危ないからやめなさい」と軽く叱られました。その後、一哉が来たと伝えてくれました。あなたも知っているかもしれませんが、彼は基本的に事前の約束なく遊びに来ます。
 彼はいい奴ですが、あちこちに気を回せるタイプではありません。しかし、この時はさすがの彼も気を遣ってくれていたのだと思います。遊びに来たという割には随分と複雑な表情をしていたのを覚えています。
 玄関まで来たはいいものの、正直なところ私はそのとき一哉と遊びたくはありませんでした。もっとミヅモと一緒にいたかったのです。とはいえ、こんな顔をして遊びに来てくれた友人の思いを無下にするわけにもいかず、私は一哉を家に入れました。母はそのすぐ後仕事に出たので、一哉と二人になりました。なぜだか、まるで母の客人と対面してしまったときのように気まずいと感じたことを覚えています。
私はとりあえず彼を居間に通しました。私と一哉が遊ぶといえば、大抵ゲームです。居間にあるテレビゲーム機を起動して、しばらく格闘ゲームで対戦しました。勝率は過去最悪でした。こういう場合決まって一哉は私を挑発してくるのですが、今回はただばつが悪そうに笑うだけでした。たぶん彼は、その原因が父の死にあると思っていたのでしょうが、もちろんそうではなく、ただ単にミヅモの様子が気になって上の空だっただけです。ですが、さすがにそれを言うわけにもいかず、二人して重い気持ちを引きずりながら対戦を続けました。
7回か8回ほど連敗したところで、唐突に一哉がコントローラーを置きました。
「なあ宗、俺がこんなこと言うのもなんだけど、あんまり引きずるなっていうか……いや違うな、まあ、元気出せよ、な」
 いつもの彼からは想像もできないたどたどしい言葉に、私は限界を感じました。これ以上の罪悪感は背負えない。母がいないのもあり、私はつい「違うんだ」と言ってしまいました。不思議な顔をする一哉に、私はミヅモのことを説明しました。
 私も冷静ではありませんでした。最近父を失ったという人が、いきなり邪神がどうのなんて言い出したら誰だって頭がおかしくなったのだと思います。場は形容しがたい混乱の極みに陥りました。とにかく病院へ行こうと私を引っ張る一哉をなんとか地下室に連れてきました。
 ミヅモは、あのときのような高音こそ出しませんでしたが、やはり若干怯えている様子でした。そして、よく考えなくても当然のことでしたが、一哉はその場で尻餅をつくほど怯えました。しかしここまできたら、もう後戻りはできない。せめて、ミヅモは危険な存在ではないことだけは知ってもらわなければ、一哉が何をするかわかりません。
 私は改めてミヅモについて説明しました。本来は神であること。今は記憶を失っていて自分に懐いてくれていること。大人しく、人に危害を加えるようなことはしないこと。無論、自分がミヅモによって命の危機に晒されていることは言いませんでした。
 一哉はなんとか納得してくれたようで、私を病院へ送ることとミヅモの存在を公にすることは諦めると約束してくれました。しかし気分が悪いといって、その日はそれで帰りました。私は、自分がとうとう見限られたのだと思いました。もう彼が私と遊んでくれることはないのだと。私は一哉を見送ってから泣きました。まあ、これは結局、私の恥ずべき疑心暗鬼にすぎなかったのですが、そのことはまた後に記しましょう。
 重要なのはここからです。一哉が帰って、私はまたミヅモのもとへ行きました。ミヅモは私の姿を見るとゆっくりと近寄ってきましたが、部屋の真ん中あたりで動きが止まりました。どうしたの、と声をかけても反応はありません。こんなことは初めてで、私は戸惑いました。哺乳類とは違って呼吸をしているかどうかも分かりづらいので、ひょっとすると死んでしまったのではと心配しました。そんな中、急にミヅモの身体が縮んでいくものですから、私はパニックを起こしました。届かないと分かっていながら、格子から手を差し伸ばし、ミヅモの名を叫びました。でも、事態は私が想像していたようなものでは全くなかったのです。
 体の収縮は私より少し小さめくらいのところで収まりました。そのときの姿は、潰された蜘蛛そのものでした。しかし私が悲嘆にくれるより先に、ミヅモの身体に変化が起こったのです。
黒一色だったミヅモの身体は、ふっと白に近い透き通るような色に変わりました。次に、なんともグロテスクな音……「ごちゅっ」とか「ぶしゃっ」という音とともに、身体の形が見る見るうちに変わっていきました。その音に合わせミヅモからは赤い水が噴き出し、いつの間にか身体の上部にはぞわぞわと褐色の糸のようなものが何千何万と生えていました。

 察しはつくでしょうか?

 数秒後、ミヅモは人の姿となって私の前に立っていたのです。私より一回り小さい少女の姿でした。彼女は、生まれたての鹿のように震えた足でこちらに向かってきて、そして私に微笑みかけました。
「どう」
 ミヅモの口からかすれた声が漏れました。おそらく、自分の今の姿について聞いたのでしょうけど、私は何も言えませんでした。あまりにも、あまりにも急な展開と異常な事態に、頭が真っ白になってしまったのです。
 先ほど触れた通り、ミヅモからは赤い水――血が噴き出していて、しかも当然服なんて来ていないから、つまるところ全裸で。しかも、実はミヅモの変身は完全ではなかったのです。足や手はところところ黒ずんでいましたし、腕は左右に二本ずつで、極めつけは右目が二つでした。私は、どこにどこからどのように反応すべきか全く分からなくなりました。
「なにか へん?」
 ミヅモは私のところへ寄ってきて、心配そうに顔を覗き込みました。
「い、いや、何も」
 おかしいところはたくさんあったのに、私はこう答えてしまいました。彼女はそれを聞いて嬉しそうに笑いました。
「しっ てるよ。人の血は赤い 手と足があっ て、 かみ、の毛 目、はな、口、……あと耳。うん できてる」
 そして、自分の姿を手で確認するようにして順に触っていきました。なんだか、聞いていると不安になりそうなしゃべり方だったのをよく覚えています。声自体は普通の少女なのですが、発音の仕方でしょうか、言葉の切り方でしょうか、とにかく歪でした。
「ミヅモ……なんだよね?」
 ミヅモは不思議そうに首をかしげながらも肯定しました。混乱の末に、私はミヅモの容姿についてはひとまず置いておいて、状況の確認から始めようという結論に至りました。
 それによると、やはりこれはミヅモが自主的にやったことでした。その理由は、この方が宗と一緒にいられるから、だと。私が母や一哉と一緒にいたことから、そう思ったのでしょう。飼われている犬や猫は自分のことを人間だと思っている、なんていうのはよく聞く話ですが、ミヅモは自分と私たちが違う存在であることを理解していたのです。とはいえ、ミヅモは仮にも神なのですから、犬猫と比べるのもおかしいですね。
 母の言う通り、彼女が記憶を失っていることも分かりました。ここに来る前は寒い場所でずっと眠っていたと、その程度のことしか覚えていないらしいのです。ただ、私がミヅモを復活させたこと、今のミヅモは私の心臓によって生きることができているということだけは分かっていると言って、彼女は「ありがとう」とお礼を言いました。私は、それを返してとは絶対に言えなくなりました。
 ある程度話が落ち着いたところで、私はミヅモの状態を改めて認識しました。彼女は相変わらず血塗れなのです。
「その血は、ミヅモの? 大丈夫?」
「うん 人のまねし てるだけだから これ、は血じゃない」
 それを聞いて、ひとまず安心しました。まあでも、それは彼女の様子からなんとなくわかっていたのです。問題は彼女がどうとかよりも、むしろ私が彼女の姿を見ていられないということでした。
「じゃあ……とりあえず、それを洗い流そうか。お風呂って分かる?」
「おふろ! うん、わかる。水を浴び る場所 ひとのことばは 少 し聞けば、知らなくても わかるようになる」
 ミヅモはそう言いましたが、それがどういうことかはいまいち分かりませんでしたし、正直なところ今も自信がありません。おそらくは、ですが、ミヅモは知らない言語でもなんとなく意味を理解できる能力を持っているようです。まだまともに日本語を聞いていないのにここまで話せていたのも、この能力によるものでしょう。当然ながらこれは彼女がその言葉の概念を知っている場合に限られるので、携帯電話や車などは説明しないと理解できないようでした。
 私が格子の扉を開けると、ミヅモはゆっくりと中から出てきました。そのときの彼女の顔といったら……。私が今まで見てきた中で、一番幸せそうな顔でした。そして勢いよく私に抱きついてきたのです。もちろん私の肌も服も偽の血で赤く染まりましたが、そんな彼女を責められましょうか。ただでさえ私は、異性からこのように抱きつかれるなんて初めてだったのです。
「やっ と会えた。シュウ すき」
さらにはこんなことまで言うので、私は温かい気持ちで満たされました。そのまま彼女の頭をなでてあげると、くすぐったそうに「くひゅふふ」と笑いました。彼女の三つの目がどれもふにゃりと細まるのが、たまらなく愛くるしい。最初は不気味にも思えた彼女の三つ目でしたが、それですぐに慣れました。
そもそも、私は蜘蛛の姿のミヅモをずっと可愛がっていたのですから、今さら三つ目が何だという話です。強くしっかりと抱きしめてくる四本腕の感触もまた愛おしい。私は、姿の間違いを訂正するのはやめておこうと決めました。
 初めて地下室を出たミヅモは、何を見ても目を輝かせました。書斎の本、廊下の電気、洗面所の鏡、蛇口、洗濯機、タオル……。ただ、そのたびにはしゃいで飛び跳ねたりするので、どこもかしこも血だらけです。私はミヅモをお風呂場に入れた後すぐ、血を拭きに戻ったのですが、何秒もしない内にミヅモが私を呼ぶ声が聞こえたのでまたお風呂場に戻りました。お風呂場でたたずむ彼女はこう言いました。
「水は どこ?」
 彼女はお風呂を知っていてもシャワーは知らなかったのです。
 私は迷いました。このまま「ここをひねればお湯が出る」と教えたところで、ミヅモが使いこなせるとは思えない。私が一緒についていた方がいろいろと安全です。しかし、女の子と一緒にお風呂に入るということに強い抵抗があったのです。彼女の本当の姿が蜘蛛だとしても、今も裸の彼女を見ているのには変わらないとしても、です。といっても、この気持ちはあなたには分からないかもしれませんね。
 最終的に、私はミヅモとお風呂に入ることにしました。一応上着だけ脱いでお風呂場に入り、シャワーについて教えました。しかし、いまいちピンときていない様子でしたので、私はお風呂用の椅子にミヅモを座らせて後ろに立ち、自分でシャワーを持ちました。シャワーの水がお湯になるのを確認してミズモにかけました。するとすぐ「ぎゃっ」と小さい悲鳴が漏れたので、慌ててシャワーを止めました。
「あつい びっくりした」
 ミヅモは涙声でそう言いました。お湯の温度を見ると37度となっていたので、一瞬おかしいなと思ったのですが、よく考えれば誰だって予期せずお湯をかけられたら驚きます。先の会話で分かるように、ミヅモは水が出ると思っていたのです。そこで、まず手のひらにお湯をかけて慣らしてあげました。しばらくすると「もうだいじょうぶ」と言うので、私は改めてシャワーをミヅモの頭にかけました。
さらさらと血が流れていくと、彼女の褐色の髪や白い肌がまた見えてきました。彼女は「人のまねをした」と言っていましたが、少なくとも日本人をまねたわけではないようです。たぶん、欧州の方……それもイタリアとかスペインとか、地中海周辺の人に近い容姿でした。私の地理の知識が合っていれば、ですが。自信はありません。遥か昔に一度地球に来たという話ですから、そのときの記憶を使ったのでしょう。(記憶にはエピソード記憶と意味記憶という区分があって、記憶喪失によって失われるのは専らエピソード記憶、つまり思い出や出来事らしいですよ)
あれだけの血を浴びたのだし、お湯で洗い流すだけでは不十分だろうと思い、私は軽くシャンプーでミヅモの髪を洗いました。女の子の髪の洗い方なんていうのは当然分からず、普段自分がしているように洗いました。ミヅモの髪は肩につかない程度と短かったので、まだなんとかなりました。
一応言っておくと、身体を洗うのはミヅモに任せました。ボディソープとボディスポンジの説明を懇切丁寧にして、私はお風呂を後にしました。そして今度こそあちこちの血痕を拭いて回りました。ただ、身体を洗い終えたミヅモが水浸しのままそこら中を歩いたので、私は再度この作業を行うことになります。
ミヅモにしっかりと身体を拭いてもらったところで、次は服です。彼女は四本腕ですから、どうしたものかとしばらく悩みました。その末に、私の普段着ているタンクトップを着てもらうことにしました。ミヅモからすればかなり大きいサイズですし、きっと四本腕も通るのではと思ったのです。私は彼女を自室に案内しました。
ミヅモは私の部屋に入ると俄かにはしゃぎだし、ベッドに飛び込みました。「やわらかい!」と喜び、しばらくごろごろしていました。その間に私はタンクトップと、もう使わなくなった小さめの下の寝間着を引き出しから見つけました。ミヅモは服の概念こそ知っているものの着たことはないらしく、服を着るだけで結構な時間がかかりました。でも、タンクトップは見事彼女の四本腕を通しました。
こうして、とりあえずは目のやり場に困ることはなくなったものの、私はそれからどうするか考えていませんでした。このまま部屋に置いておくというのもまずい気がするけれど、かといってまた地下室に閉じ込めるのも違う気がする。いっそ何も考えずに寝てしまいたいけれど、ベッドはミヅモが占領している。
……母に相談してみよう。結局、私は自分で判断するのを避けました。でも、このときはそれが最善だと思っていたのです。母だって人間の姿を見ればミヅモのことを無下にはできない。この家にはまだ空き部屋がいくつかあるのだから、そのどれかをミヅモに貸すくらいどうということはない。……それで、ミヅモは正式にこの家の地上で暮らすことを認められる。ミヅモが家族になる。そのような夢を見ていました。そんなはずないのに。

「地下室に戻してきなさい」
 聡明なあなたなら予想はついたでしょうが、仕事から帰ってきた母の答えはこれでした。当然です。人間の姿になれば安心だと楽観していたのは私だけでした。ミヅモが神であること、ミヅモが私の心臓を奪ったことは変わらないのです。
 こんな少女を地下室に閉じ込めるなんて、と私が言うと、母は「少女じゃない。少女の仮面を被った怪物にすぎない」と返しました。私は反論できませんでした。私はそのことを一番よく知っているのです。あの蜘蛛だったミヅモが形状を変えて人間になる、さながらスプラッター映画のようなその光景をこの目で見たのですから。
ミヅモも母の剣幕に委縮して、何も言えないでいました。僕が何か言わなければならない、と頭を回転させていると、ミヅモは母に背を向け、とぼとぼと歩き始めてしまいました。どこへ行くの、と聞くと、「ちかしつ」と答え、そのまま書斎へ入っていきました。僕は彼女を追いかけました。
ミヅモは、格子の扉の前で立っていました。扉を開けようとしているようでしたが、彼女は鍵の開け方を知らなかったのです。
「どうしてあんな簡単に諦めるんだよ。ミヅモだって、ここから出られたときは喜んでたじゃないか」
僕が問うと、彼女は悲しげに僕を見つめました。
「だって、  ……シュウ 困っ た 顔してた」
 ミヅモは彼女なりに、僕に気を遣ってくれていたのです。僕が考えていたのとは、まるで逆の立場。何も言えない僕に代わって、彼女が波の立たない方法を選んでくれた。彼女は僕よりもずっと、決断できる子だったのです。
彼女は扉に手をかけて言いました。
「中に 入れて」
 こんな悲しい「中に入れて」があるでしょうか。
 僕は結局、ミヅモの言う通り、鍵を開け、彼女を中に閉じ込めました。母に何も言えず、ミヅモにさえ何も言えず、結果としてただ二人の言う通りに動いているだけの自分が、本当に情けなかった。
「楽しかっ た。ちょっ とだけシュウと一緒にいられ て。おふろ と、ベッドも」
 格子越しに彼女が言いました。
「ごめんね。またここに来るから。今度はもっといろんな物を持ってくるよ」
「うん ありがとう」
 そのときの彼女は、とても大人びた笑みを湛えていました。

 それから僕は、地下に行くたび何か持っていくようになりました。お菓子のバリエーションも増やし、ミニカーやぬいぐるみなどの玩具に、漫画、ゲームなども。その中で、彼女は目があまりよくないことも知りました。おそらく、このことも彼女の人への変身が完全ではなかった一因なのでしょう。
このことが判明したきっかけは、文字の習得の困難にありました。彼女はあっという間にたくさんの言葉を覚えていきましたが、文字は一切覚えられないのです。彼女いわく、全部同じに見えると。最初はまあ、言語習得と識字は違うか、くらいに思っていたのですが、ある日さすがにおかしいと思い、手作りで簡単な視力検査表を作ってやってもらったところ、結果は散々でした。試しに安い眼鏡を買ってかけさせてみましたが、結果は同じ。しっかり検査をして、自分の目にあった眼鏡を付けられれば違ったのかもしれませんが、さすがにそんなことをするわけにもいかず、彼女の視力については諦めることにしました。
 それ以来、僕は彼女に本を読み聞かせることが多くなりました。そのときが一番、ミヅモが楽しそうな顔をするのです。また、これによって彼女が人並みの常識と倫理観を身につけてくれたら、あるいは普通に生活することができるようになるかもしれない、という狙いもありました。
 あるときは、彼女の新しい服を買ってあげました。女性の服を買うのは少し勇気がいりましたけど、さすがにいつまでも僕のタンクトップと寝間着ではいけないと思ったので。買ったのは肩紐型で藍色のワンピースです。やはり一人では着られないようだったので、久しぶりに僕は格子の内側に入りました。タンクトップと寝間着を脱がしてワンピースを着せると、見違えるように女の子らしくなりました。
 ミヅモは、見かけ相応の女の子らしく喜び、周りをぐるぐると歩きました。かと思えば、僕の方を振り向いて「にあう?」と聞いてくる。僕は当然「似合うよ」と答える。すると彼女はくひゅふふ、と笑う。幸せな時間でした。
 いつも通りミヅモの頭をなでてあげると、彼女は目を細めました。けどいつもと違い、彼女は突然「シュウ」と僕の名前を呼びました。なでているときに彼女が何か言うのは初めてだったので、少し驚きつつも「どうしたの?」と、なでるのをやめて顔を覗き込むと、
 ミズモはいきなり僕にキスをしてきました。僕は驚いて硬直しました。彼女は僕とは対照的に、柔らかな表情をしています。
「シュウが 教えてくれた。キスは、好きな人に する」
 僕は硬直したままでした。
言うまでもないですが、これが僕の初めてです。
僕は硬直していました、硬直していましたが、頭の中は今までにないくらい忙しなく動いていました。普段は難しい事態に直面すると怠けがちの僕の頭ですが、このときばかりは、思考を停止してはならないという意志が勝りました。だって、ここで思考を停止するとミヅモを傷つけてしまいますから。
僕は、ミヅモの認識を「家族」から「異性」に切り替えるレバーが倒れないよう、必死になっていたのです。今までもずっとそうでした。一緒にお風呂に入ったときも、服を着替えさせたときも。でもそのときは、「ミヅモは僕のことを家族だと思ってくれている」という意識があったからこそ、踏みとどまれたのです。そのタガが外れてしまった。
さらに、ミヅモに着せたワンピースは、彼女の四本腕を考慮して緩い肩紐型にしたために、上から眺めると、胸が、見えてしまう。
僕は何も考えられなくなりました。
あまり詳細に書いたところで不毛なだけですから、結論だけ書くと、僕はミヅモを襲いました。そして彼女は、それをあっさりと受け入れました。それ以降、僕とミヅモは度々行為に及ぶようになりました。彼女は、その行為をとても気に入ったようで、貪欲に僕を求めました。彼女自身が喜んでいるのだから、という口実を振り回し、僕もまたそれに応えました。
思春期の男と貞操観念が存在しない少女とがずっと一緒にいれば、遅かれ早かれこうなるのが当然だったといえるかもしれません。……そんなの、言い訳にすらなりませんね。


 この先をあまり書きたくなくて、しばらくの間筆が進みませんでした。それで、少しこの手紙を読み直してみたのですが、ひどいですね。いらないことばかりつらつらと書いているし、いつの間にか一人称も変わっているし。
……まあ、いいか。体裁を気にしていると余計に筆が進まないから、もう日記か何かのつもりで書くことにする。本当のところ、もう時間がないんだ。早く書き上げなきゃいけない。
そんなこんなで、僕はミヅモと爛れた夏休みを過ごし続けた。そんなある日、また一哉が来た。ちょうど今から行為をしようかといういい雰囲気のときだった。母はもう仕事に出ていたから、一哉は勝手に入ってきた。そういう奴だ。それで、あちこち探し回っても僕がいなくて、最終的にこの地下室のことを思い出したらしい。
階段を下りる音がして、僕は慌てて格子の外に出た。分かり切っていたけど、一応「誰、一哉?」と声をかけると、「おう」と返事が来た。その声からは、この前ほど強い緊張は感じない。吹っ切れてくれたのか、それなら僕も気まずい思いをしなくて済む、と安堵したのもつかの間だった。降りてきた彼は、僕の顔を見るなりぎょっと怯んだ表情を見せた。どうしたんだよ、と聞くと、カンテラの光に照らされて、僕の顔が幽霊みたいに見えたのだと言う。
「お前、だいぶ痩せたな。大丈夫か?」
 僕は、そんな感じはしなかったので驚いた。でも、身体に異常があるわけでもないし、大丈夫だと告げた。「それならいいんだけど」とどこか腑に落ちないように一哉は呟いた。そして気を取り直すように、僕に顔を向けた。
「まあ、この前は悪かったよ。いきなり帰って。ただ、今日はお前に言いたいことがあって――」
言葉の途中で、彼は息を呑んだ。今度は視線の先から、ミヅモを見て驚いたのだと分かった。
「お、おい、あれ、あいつは何だ、誰だ」
「あの子は、この前見せたミヅモだよ」
「はあ? だってあのときは、虫みたいな姿だったろ」
「うん。この子、人間に変身できるみたいなんだ」
「はあ?」
 一哉の反応は至極真っ当だったけど、僕は少し苛ついた。
「……カズ ヤ。 久、 しぶ り?」
 そんな僕と一哉の様子を見てか、彼女は極力友好的な態度で彼と接しようとしているようだった。ただ、だいぶ緊張しているようで、話し方が初めて言葉を発したときのように戻ってしまっていた。
 ただ、一哉はそんなミヅモを無視して話を進めた。
「なあ、お前、本当に大丈夫か。あいつに取り憑かれてるんじゃないのか。だっておかしいだろ、こんな短期間でそんなに痩せて」
「何言ってんだよ。この子がそんな悪霊みたいな見かけしてるか?」
「してるだろ。四本腕に……目が三つだぞ。まんま悪魔じゃないか。やっぱりお前、絶対におかしいって。冷静に考えてみろよ」
 確かに僕の感覚が麻痺しているところはあった。ミヅモに出会う前の日常生活で、ミヅモのような少女を道端で見かけたとしたら、僕は腰を抜かして逃げ出したことだろう。それに、取り憑かれているのも事実だ。彼の言うことは正しい。でもそれ以上に、彼がミヅモの気持ちを踏みにじったこと、ミヅモの目の前で彼女を罵ったこと、それによって今ミヅモが明らかに傷ついた表情をしていることに対する、彼への怒りが強く湧き上がった。
「お前こそ冷静になれよ。ミヅモを見ろ。悲しんでるじゃないか」
「見ろってお前、あんな三つ目の顔から表情なんて読み取れるわけないだろ!」
「人より目が一つ多いからなんだよ! 関係ないだろそんなの!」
「……やっぱり 私の姿 人とは 違うんだね」
 ミヅモがぽそりと呟いた。僕は顔がカッと熱くなるのを感じた。せっかくこれまで隠していられたのに。このまま隠していられたら、ミヅモはこんな悲しい顔をすることなんてなかったのに。
「お前いい加減にしろよ! ミヅモに謝れ!」
「はあ!? なんでだよ! 謝るならこいつだろうが、俺の親友に取り憑きやがって!」
「だからっ、無根拠にミヅモを責めるのはやめろ!」

「ごめんなさい」
 謝ったのはミヅモだった。
「カズ ヤの、いう とおり、 シュウを こん なふうにしたの 私 だから、 ごめんなさい」
 
 こんなに責められて、それでもなお、彼女は深々と頭を下げ、謝った。
 それなのに一哉は、鬼の首を取ったように叫んだ。
「ほ、ほらっ! 聞いたか! 本人が認めてるじゃないか!」
 僕は、何もかも思ったようにならない現状に激昂した。
「うるさい! もう帰れよお前! 何しに来たんだ! ミヅモをいじめに来たのか!? なあ!」
「だから、お前に言いたいことがあってきたんだって――」
 僕はもう声を聞くのも嫌になって、一哉の肩を突き飛ばして階段へと追いやった。そこで手を出したのがまずかった。それが、彼の頭に血を上らせてしまった。
「触んじゃねえよっ!」
 次の瞬間、僕は彼に殴り飛ばされた。殴り合いの喧嘩となると僕は滅法弱い。それに彼はこうなるとしばらく止まらない。しまった、まずいなと思っていたが、追撃は来なかった。代わりに「ずぐっ」と聞いたこともない音が聞こえた。
 起き上がると、どういうわけか一哉の両足が格子の目にすっぽりとはまっていた。急に重力の方向が変わったのかとばかげたことを考えてしまうくらい、その状況は不可思議だった。しかし数秒後、僕も一哉もその原因を理解する。
格子の中には、一哉に向かって手を突き出し、凄まじい形相で彼を睨むミヅモがいた。
 その手からは、細い触手が出ていて、それが一哉の両足に絡みついていた。僕らは喧嘩の熱も一気に冷め、これから起きるであろう不可避の惨劇に対し必死に抵抗した。
「ミヅモ……違う、それは違うよ。ねえ、その触手を解いて」
「お前っ、頼むからこれを解いてくれ! 悪かった、言い過ぎた、謝るからっ!」
 ミヅモは、何も言わなかった。
ごちゅっ、ぶしゃっ、と音を立て、ミヅモの姿は瞬く間に変わっていった。一哉に絡みついていた触手は解けるどころか、その数を何百倍にも増やした。
そして、
また「ずぐっ」と音が鳴った。それは、触手が一哉を引っ張る音だった。格子の内側に無理やり引き込もうと。確かに格子の目は、ミヅモの蜘蛛の姿を基準にしているのか、かなり粗い。小柄な女性くらいならなんとか通れるだろう。だが、どう考えたって一哉みたいに体格のいい男が通れるようにはできていない。ミシミシと彼の身体が嫌な音を立てた。彼は声になっていない悲鳴を上げた。
やがて、触手は彼の身体をこちら側に戻した。息も絶え絶えな一哉が、僕のすぐ側に力なく横たわった。そうだ、どう考えたって通るわけがない。通りさえしなければ最悪の事態は防げる。その間にミヅモの怒りを鎮められれば。数秒間、僕はそんな楽観的なことを考えていた。だけど、彼女は邪神なんだ。僕はそのことを失念していた。
何でもいいからミヅモに呼びかけよう、と口を開いた時だった。一哉の姿が消えた。その瞬間、何かが潰れる音がした。見ると、再び一哉が格子にはまっていた。今度は全身から血を噴き出して。
彼女には、諦める気なんて毛頭なかった。彼を一瞬格子から外したのは、ただ「今度は勢いをつけてみよう」と、それだけのことでしかなかった。一哉はもはや声を上げられる状況になく、声を出せるのは僕だけだった。僕は必死にミヅモに訴えた。
「ねえ、仕返しのつもりならもう十分すぎるよ! 彼を離してあげて!」
 しかし、潰れる音は無慈悲に繰り返された。
 たぶん4度目か5度目で、先ほどまでと違う音がして、一哉は完全に格子の内側に入ってしまった。腕は変な方向に捻じれに捻じれ、顔は見る影もなく血だらけになっていた。でも、これで終わらないことは、一哉を捉えて離さないミヅモの目を見れば分かった。
 不意に、ずるぅとミヅモの頭部から何かが飛び出た。それは、人間の姿のミヅモだった。上半身だけが蜘蛛の頭部から突き出ていて、一哉を睨んでいた。
「あやまって」
 恐ろしく冷たい声で、一哉に言った。一哉はもうほとんど力が入らないであろうボロボロの口で、必死に「ごめんなさい」と叫んだ。しかしその返答は、蜘蛛の口から飛んできた紫の粘液だった。僕が触れたときはなんともなかったはずなのに、彼はおぞましい声を上げてのたうち回った。傷口に沁みたのか、と思ったけど、見れば粘液からは煙が立ち上っている。
「私に じゃない シュウに」
 そうして、捻じれた腕で必死に僕の方を向き、また叫んだ。もうごめんなさいと発音しているかどうかも判別つかない状態だったが、それを聞いたミヅモはやっと満足気な表情になった。
「シュウは どう?」
 いきなり僕に振られて一瞬固まってしまったけど、すぐに「許す! 許すよ!」と叫んだ。すると、ミヅモは穏やかに笑った。僕はようやく安堵した。これで命だけは取り留めた。今度こそ、二度と一哉は家には来ないだろうけど、それでも生きてさえいてくれればいい。

 しかし、それすら叶わなかった。
「よかったね カズヤ」
 ミヅモはそう言うと、蜘蛛の口で彼を頭から喰った。

「なんで……僕、許したのに」
「うん。だから、頭から 食べたよ」
 それだけのことだった。
僕が許せば、楽に殺してやる――それだけのことだった。
一哉が今日、僕に何を言いに来たのか分からないまま、彼は死んだ。
僕は、自分がどれだけ楽観的に考えていたか、ようやく思い知った。
本を読み聞かせることで、正しい倫理観を育むなんていうのは、あまりに稚拙な絵空事だった。彼女は記憶を失っているけれど、時には子どものような振る舞いを見せるけれど、彼女という人格の大部分は、数千年生きてきた神としてのものだ。それを今さら、僕がどうあがいたところで、変えられるわけがない。
神を怒らせてはならない。
何千年もの間、世界中で散々言われてきた常識さえ、僕は忘れていた。

 それならば僕は、本来、ここでミヅモに感謝すべきだったのだろう。それが僕のためには一切なっていないとはいえ、神が僕のために行動してくれたのだから。常識に照らし合わせるなら、それが正しい行動といえる。
 だけど僕は、やっぱり駄目だった。学ぶことができなかった。神としてのミヅモを、今さら受け入れられなかった。
 再び人の姿になり、笑顔でこちらに歩み寄ってくるミヅモに対し、僕は言った。
「酷いよ、ミヅモ」
「え」
 笑顔のまま、ミヅモが固まった。
「酷い、よ」
 僕は泣いた。泣いてミヅモに抱きついた。僕もわけが分からなかった。
 ミヅモは混乱してしまったようで、「あ、う、」と母音を口から漏らすばかりだった。やがて、そっと僕の頭を撫で、「だ、だいじょうぶ だいじょうぶ」と僕をなだめるように言った。彼女のきっとわけが分からなかっただろうに。
 それから何時間経っただろう。ミヅモはずっと僕に付き合ってくれた。母の僕を呼ぶ声で我に返った僕は、階段を上った。そして、夕食の準備を始めようとしていた母に、今日のことを伝えた。さすがの母も顔を青くして押し黙った。
 しかし結局、今日のことは誰が来ても黙っておくようにということになった。当然のことだ。ミヅモがやったのだと警察に突き出したところで何になるという話だ。警察が壊滅するだけだ。
 僕はそれからしばらくの間、地下室に入らないようにした。普通の感覚なら、親友を喰った怪物を許しはしないし、まして会いたいなどとは思わないはずだと、思っていた。笑えるだろう。僕はまだ、自分が普通の感覚を持っていると信じていたんだ。でも、一週間も経たないうちにまたミヅモが抱きたくなってきて、僕はやっと自分を信じるのをやめた。
 数日ぶりに僕の姿を見たミヅモは、満面の笑みで僕を迎えた。たぶん僕も同じ顔をしていたと思う。扉を開けると、キスもそこそこにすぐ行為に及んだ。皮肉なことだけど、こうしてミヅモを抱いている間だけは、ミヅモが親友を喰った怪物であるということを忘れていられた。
そう、僕は忘れたかった。僕に残された唯一の心の支えを憎んでみせる勇気は、僕にはなかったから。行為を激しくすれば、頭を空っぽにできる。行為に夢中になると、彼女はいつも僕の背中をギリリと引っ掻いて傷つける。それで僕の心は安らぐ。でも行為が終われば、傷つけられることで一哉と痛みを共有してるって錯覚に浸っている自分に気づいて死にたくなる。だから、思い出す前に忘れる。行為後にキスしたときのミヅモの笑顔で、全部塗り替える。

 そんな生活がどれだけ続いただろうか。いつの間にか夏休みは終わっていて、僕は自分でも気づかない内に引きこもりになっていた。基本的に地下室で過ごし、夕食のときだけ居間で食べる。母はミヅモや魔術の話を避けるようになった。代わりに、今日の仕事のこととか、そういう他愛もない日常的な話をするようになった。ここ最近は母の前で笑うことなんてなかったけど、仕事であったバカみたいな話を聞いてると、ちょっとだけ笑うことが増えた。特別面白い話でもないのに、聞いているとなぜか安心するというか、ほっとすることができた。後で思い出したけど、それは数年前の我が家の日常風景だった。
 ある朝、地下室へ行くと、血だまりができていた。その血だまりの側で、ミヅモが泣きそうな顔をしながらおろおろしていた。見ると、そこには首のない死体があった。
 なんだこれ、と近寄ってみると、どうやら服や体格を見るに、それは母の死体で間違いなかった。僕は、それにどう反応すべきかを忘れてしまって、しばらくその死体を見つめていた。
「お、おか さ おかあさん、がっ 私、の前で い きなり パンって」
 涙声でミヅモは説明してくれた。ミヅモは全く理解できていないようだったが、僕にはなんとなく分かった。再封印の魔術を試して、失敗したのだ。その代償として命を失った。僕の知らないところで、こんなにもあっけなく。僕は諦めたとばかり思っていたから、不思議でしょうがなかった。
母の言っていた言葉を思い出した。召喚の儀式の成功確率は、天文学的確率。それならば、きっと封印の儀式も然りだろう。それなのに、なぜそんなことをしたのか。
 僕は知らず知らずのうちに涙をこぼしていた。ああ、まずいな、と思い、すぐにミヅモを抱いた。彼女は喜んでいた。

 数時間は続いただろうか。ミヅモが疲れて寝てしまったので、その間にコンビニでお菓子か何かを買おう、と外へ出た。母が死んでしまったので、何日か分の食料も買った方がいいかもしれない、などと思いながら歩いていると、急に肌寒くなってきた。確かそのときは、10月の中頃。そういう急な気温の変化もよくある時季だった。ぱっと行って早く帰ろうと足を速めたとき、突如僕の影が不気味に蠢いた。ぎょっとして影を見つめると、何やらこぽこぽと泡立っている。しばらく凝視していると、やがて影の中から、四本足の黒い物体が5つほど出てきた。何かの獣のような姿、という表現が一番近い気がするけど、曖昧すぎるか。まあ、獣と言われて一般的に想起するようなシルエットが立体となって現れたと思ってもらえればいい。
ミヅモとの暮らしで怪異には慣れたとばかり思っていたけど、とんだ自惚れだった。僕はどこかで、怪異は自分に危害を加えたりしないとたかをくくっていた。でも目の前の獣たちは、真っ黒ではあったけど、確かに牙と爪をもって僕をじっと睨んでいた。僕は、冷や汗を流しながら彼らから後ずさった。
その獣は、「我々に協力してほしい」と何の前振りもなく言ってきた。ミヅモよりも流暢だったけど、どこか機械的な声だった。
僕は、まず何の話かと聞いた。すると獣は、「我々の目的はあの邪神を消滅させることだ」と言った。僕はそれを聞いて、弾けるように逃げ出した。冗談じゃない。何が悲しくてミヅモを殺す手伝いをしなければならないのか。早くこのことをミヅモに知らせなければならない。
しかし、当然ながらあっという間に回り込まれてしまった。こんな、見るからに走るのが得意そうな怪物達から逃げられるわけがない。僕は逃げるのをひとまず諦めて、あたりを見回した。わざわざ人気のないところで呼び止めたのだから、きっと人が多いところでは下手に動けないのだと僕は踏んだ。でも、どこを見渡しても人の姿は見えない。さらに奇妙なことには、僕はこの道に見覚えがなかった。いくら引きこもっていたとはいえ、近くのコンビニまでの道のりくらい間違えようがない。僕は、奇妙な空間に閉じ込められたようだった。
 獣は、「とにかく話を聞いてほしい」と前置きしてから、ミヅモを消滅させなければならない理由を語り始めた。とはいえ、その内容は前に母から聞かされたものと似たようなものだった。前に地球に来て地球を滅ぼしかけたことがある、というもの。つまりその地球を滅ぼしかけたことが、ミヅモがかつて地球で犯した罪だったと、それだけの話。今さらそんな過去の話を持ち出されたところで彼女の見方が変わるはずない。
僕は反論した。
「記憶を失う前の彼女がどうだったのかは知りませんけど、少なくとも今の彼女が地球を滅ぼそうとしているとは考えられません」
「地球を滅ぼすことは彼女の意思と関係ない。彼女の力は自身の感情と深く連動している。彼女の感情が大きく揺れるとき彼女の力は暴走し、一瞬で地球を破壊する」
「じゃあ、感情を大きく揺らさなきゃいいんでしょう」
「そんなことができるのか。彼女の情緒が不安定なことはあなたが一番よく知っているのではないか」
 僕は閉口した。
「どちらにせよ、我々に協力しないのであれば我々はあなたを殺さねばならない。あなたはもう長くないだろうが、彼女の前で死なれて暴走されても困る」
 そして獣は、とんでもないことを平然と言ってのけた。あまりにも普通に話すものだから、僕は忘れていた。ミヅモと同じく、人間以外の者に人間の倫理観を期待してはいけないということを。
 僕は呟いた。
「あなたたちは、いったい何なんだ」
「我々は、邪神から地球を守るためだけに作られた人工の邪神。我々は地球を守るためならばどんな手段も厭わない」
「……邪神に対抗できる存在なら、勝手にやってればいいじゃないですか。どうして僕を巻き込むんですか」
「無論、低級の邪神程度は我々で対処できる。しかし今回は相手が悪い。地球に降り立つレベルの邪神の中では最上位の存在なのだから。人間の協力が必要になる」
 続けて彼らは言った。
「あなたの父親は邪神の贄になり、あなたの母親は再封印の魔術を試みたが失敗し、あなたの親友は身勝手にも邪神に喰われた。邪神はあなたの心の拠り所すべてを意図的に奪った。それなのに、あなたは邪神が憎くないというのか」
「……意図的に?」
 僕が反応したのは、よりにもよってそこだった。それを彼らに付け込まれてしまった。
「そうだ。あの邪神の異名は数多くあるが、その中でも最も有名なのは『白痴ぶる狡猾』。彼女は抜けているようなふりをして狡猾に自分の思惑通りに事を進めていく。そのうえうまくいかなければ癇癪を起こして何もかも破壊しつくす。それが彼女のやり方だ」「彼女の好物は人間の精液だ、だからここまでは完全に彼女の思惑通りだというわけだ。封印前に地球へ来たときにしても、国王の精液を得るため国を傾けようとしたのが失敗して怒り狂い暴走したのだ」「君が協力をして、もしも邪神を滅ぼすことができたなら、君は世界を救った英雄となる。一生暮らしていけるだけの財産を得られるのだ」「あなたが本当に彼女を愛しているというのなら、彼女がこれ以上他の男で汚れることのないよう引導を渡すことこそあなたのすべきことではないか」
 何匹もの獣が一斉にしゃべりだして、なぜか僕はそれをすべて理解することができた。情報を入れる器が無理やり押し広げたような感覚がして、私は頭が破裂するかのような苦痛に襲われた。
 その中で、僕はこう思った。「ああ、やっぱり彼女は、そうだったんだ」
 君はどうだろう。僕を軽蔑するだろうか。それともただただ疑問に思うだろうか。なぜミヅモのことを信じてあげなかったのかと。その理由を説明しつくすことは難しいけれど、最も根本的な問題として、そもそも僕は常日頃から疑心暗鬼気味なのだ。それは君もよく知っていると思う。だから友達ができない。ミヅモを好きになったのだって、彼女が何も考えてなさそうだったから、というのが大きい。僕は、何もわからないでいられるミヅモの無邪気さにいつも癒されていた。
 それに、そのときの僕はものすごく不安定だった。親友に続き、母まで亡くして、僕はどうしていいか完全に分からなくなっていた。頼れるのはミヅモだけであることと、ミヅモこそが僕からすべてを奪った張本人であることとの矛盾。それを、彼女から受ける愛によって無理やりかき消し、今の僕はなんとか自我を保っていられた。そこを下手に刺激されれば、どうなるかは明白だ。
「さあ、この短剣をとって。この短剣によって、彼女は救われる。世界も救われるし、当然あなたも救われる」
 獣は僕の影から、白い短剣を取り出した。これは邪神の身体だけを切ることのできる短剣で、これを使えばミヅモの身体から僕の心臓だけを無事に取り除くことができる、とのことだった。試しに自分の指先に刃を当ててみると、確かに切れない。それどころか、短剣はすっと僕の身体をすり抜ける。獣たちの体質は邪神に近いものらしく、うかつにその短剣を使えない。だから僕の協力が必要なのだと繰り返した。
 白々しいと、心の中で悪態をつきながらも、僕は短剣を手に取った。逆らえば死ぬ。従えば英雄。道はひとつしかないじゃないか、と。そのときの僕は、そうとしか思えなかった。

 地下室には変わらず、母の死体とともにミヅモがいた。「おかえり」と、パッと顔を明るくする彼女を見て早速覚悟が揺らいだけれど、でももう後戻りはできない。
獣たちから与えられた作戦は単純だ。最初は、獣たちが僕に襲いかかる。そうすると、ミヅモが僕を守る。ミヅモは必然的に、僕に背中を見せる形になる。そこで僕が、短剣で彼女の心臓あたりを切りつける。人間の姿ならあっさりと真っ二つにできるはずだから、すかさず心臓を抜き取る。単純だが、すべては僕にかかっていた。
 僕が格子の扉を開けて中に入った数秒後のことだった。唸り声が聞こえたと思ったら、何もない真正面から例の獣がとびかかってきた。こんなの、ミヅモに守ってもらうも何もない、というような素早さで、僕はわけも分からず目をつぶった。
 しかし、獣は僕にとびかかっては来なかった。おそるおそる目を開けると、目の前には見慣れたミヅモの腕があった。獣が僕にとびかかるよりも先に、ミヅモが獣を吹き飛ばしたのだ。獣の読みは当たっていたということだ。このくらいの素早さなら、十分ミヅモが対応できる。
そんなことを考える間もなく、乱闘は始まっていた。僕は到底動きを目で追うことができず、棒立ちしていたが、こちらに爪や牙が飛んでくることはなかった。僕は右ポケットに収まった短剣の柄に手をかけた。しかし、そこまでだった。
ミヅモが一匹の獣を捉え、足でその頭部を踏んだ。やっと僕でもミヅモの姿を認識できた。2,3秒はそのまま固まっていただろうか。ミヅモに踏まれる獣が「やれっ!!」と叫んだ。もちろん、僕への合図だ。僕がもたもたしているからつい叫んでしまったのだろう。ミヅモは警戒して他の獣たちを睨んだが、僕は完全に認識の死角にいるようだった。絶好機だった。しかし、そこまでだった。
ぐしゃ、と、虫が潰れるような軽い音がしてミヅモに踏まれていた獣は消え失せた。次の瞬間、また別の獣がミヅモを襲う。ミヅモはそれを一匹ずつ確実に潰していった。僕は、それを眺めていた。
――気づけば、獣たちは全滅していた。全身に影をべっとりとこびりつかせたミヅモは、いつもの笑顔に戻って僕に駆け寄ってきた。「もう だいじょうぶ」と。
しかし僕は、そこで、人生で最大の失敗を犯した。
手にかけていた短剣を、落としてしまった。
彼女は、頭がいい。
察してしまったんだ。
「そっか」と呟く、彼女のその時の顔は、今でも鮮明に覚えている。愛憎の混じりあう、苦悶に満ちた表情だった。彼女の目は三つあったが、でも、彼女のその時の顔は、誰よりも人間らしかった。
「酷い」
 前に僕がミヅモに放った言葉だった。
「酷いよ、シュウ」
 僕は、何も言えなかった。
ミヅモがゆっくりと僕に近づいてきて、僕はこのまま殺されるのだと思った。再び彼女に対し、恐怖心を抱いていた。しかし、それを見た彼女は、なおさら悲しい顔をした。僕の想像がまるで見当違いだと気づいたのは、それを見てからだ。なにもかも遅すぎた。
「私は、 私は、 シュウの 言うことなら なんでも 聞くのに」
ミヅモは、ずっ、と自分の胸を自分でえぐり、心臓を取り出し、僕の胸に押し当てた。
「それだけは それだけは 信じてほしかった」
心臓が僕の胸に入っていく。
「さよなら」
待ってと言う間に、彼女は砂みたいに崩れた。


 以上が、この一年で僕に起こったこと。思っていたよりも長くなってしまってごめんなさい。何も考えずに書くのではなくて、しっかりと道筋を決めてから書くべきだったね。
 これを書いているのは、ミヅモの最期から1か月ほど後。心臓が長らくミヅモの中に入っていた影響か、ずっと飲まず食わずで地下室にいるっていうのに、まだ死なない。
あれからずっと、ミヅモのことを後悔し続けている。ミヅモは、僕が彼女を愛していなかったのだと誤解したまま死んでしまった。いや、実際僕に、彼女を愛しているという権利なんてないのかもしれない。くだらない嘘に振り回され、彼女を殺す計画に加担したのだから。僕が求めていたのはミヅモではなく、ただ甘えられる存在だったのかもしれない。
でも僕は、やっぱりミヅモを愛していると言いたい。今ミヅモに、1秒だけでも会えるとしたら、そのことだけでも伝えたい。
その末に、僕は決めた。自己満足とはわかっているけれど、僕はこの心臓をミヅモに捧げて死ぬことにした。今僕が生きながらえているのは、この心臓のおかげなのだから、心臓さえ取り出せば僕も死ぬだろう。だから、せめてミヅモの灰の上に僕の心臓を置き、ミヅモの上で息絶えようと思う。
この手紙を、あなたに出した後で。



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・コズミックホラー
・もう一度会いたい
・届かぬ想い
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第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00
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