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クライング・ヒーロー

――『涙が止まらない奇病にかかった。助けてくれ。』
スマホのディスプレイに表示されたその文字に、俺は思わず声を零した。
「……は?」
――『何言ってんだ、お前? こっちは一限から講義でねみーの。そんなギャグに付き合ってらんねーぞ』
画面に指を滑らせ、俺がメッセージを送ってすぐに、新しいメッセージが画面に表示される。
――『ギャグじゃない。もうずっと、止まらないんだ。このままじゃ、溜まった涙で溺れちまう。』
大学構内の道を歩く俺の足が、ピタリと止まった。
「……に、言ってんだよ、あいつは」
ふざけているにしても、何かがおかしい。日常生活の中でも、こんな安っぽい小説みたいなことを言うやつじゃなかったはずだ。
ざわりとした予感が、俺の胸を襲う。――何か、あったのか。
「ッ……くそ、」
今日の講義は、さっき終わった一限と、午後から始まる三・四限だ。あいつの住んでいるアパートは、大学から徒歩数分の所にある。……時間は、なくはない。俺は、手の中であいつからの意味不明なメッセージを映し出すスマホを握りしめると、鞄を肩に掛け直し、大学構内の図書館へ向かおうとしていた足を翻した。

§

俺は、幾度も通いすぎてもう何も考えず辿り着ける、古ぼけたアパートのその部屋まで、苛立って速まる足を進めた。
手すりの錆付いた階段をのぼり、アパートの最上階である三階の廊下を進むと、一番奥の角部屋に辿り着いた。薄汚れたインターフォンを何度か雑に押すと、小さなスピーカーからチャイムの音が微かに響く。その音を確認しながら、俺は部屋の前で、一応控えめに声を出した。
「……おい、いるんだろ。お前、何だよこのメッセージは」
しかし、しばらくしてもドアの向こうから応答はない。ますます苛立ってきた俺は、再度インターフォンを連打しながら、先程より少し大きい声で呼びかけた。
「おい……! 自分からあんな文送ってきておいて何なんだよ。……まさか、寝てんじゃねえだろうな? ふざけんなよ……!」
本当は、あいつだけのせいじゃない。むしろ、勝手に不安になって、勝手に訪れたのは自分の方だ。ふざけて書いたに決まっている文に、大袈裟に反応したのも。けれど、不安にならずにはいられなかった。だって、あいつの文を読んだ時、俺は……。
意地のようにインターフォンを押し続けるが、相変わらずスピーカーからの応答も、部屋からの応答もない。直接ドアを思いっきり叩いてやろうかと思ったが、思いとどまった。駄目だ、これ以上騒いだら近所迷惑になってしまう。苛立つ気持ちを落ち着かせようと、ドアから少し離れ、深く息を吐く。その瞬間、唐突に自分の頭の中へ一つのイメージが現れた。……まさか……。最悪な状況が思い浮かび、背筋が一気に冷える。
――どうすればいい? 警察とかに相談すべきなのか……?
そう思い、ジーンズのポケットから取り出したスマホの画面を見たその時、画面に新しいメッセージが表示され、俺の視線を奪った。

――『ごめん。部屋から……出られねえんだ。涙の水圧でドアが押さえられちまって……。インターフォンで応答したいけど、インターフォン用の電話も涙で濡れて壊れちまったから、スマホでしか会話できない。』

「…………」
今度こそ、自分の中の全ての機能が止まった。
何を、言ってるんだ、こいつは。
小さく震える手の中で、スマホに浮かんだ文字が揺れる。涙の水圧? 涙で電話が壊れた?
「……いい加減に、しろよ」
ドアを力の限り蹴飛ばしてやりたい衝動を抑え、俺はあいつの部屋のドアに背を向けた。……付き合ってられない。
――『俺も忙しいんだ。ふざけたいなら、他の奴にしろ。』
送信の文字を押すと、一瞬きつく目を閉じ、今さっきの記憶を消し去るように頭を振って、大学へ戻る道を歩き始めた。もう、今は、何も考えたくない。ふざけるな。ふざけ――。

ぐらり。

「……え……?」
その時突然、視界が、歪んだ。何か、シャボン玉の膜のように流れる幾つかの色が目の前に現れる。身体の力が抜け、感覚が失われていくにも関わらず、自分の足はしっかりと地面を踏みしめているのは分かった。
――なんなんだ、これ……は……?
夏の、憎たらしいほど青い空が視界を覆った瞬間、俺の意識は完全に途切れた。

§

瞬きをして、目を開けた瞬間、自分の手にあるスマホの画面にメッセージが表示されていることに気付いた。……あいつからだ。
――『ずっと、涙が止まらないんだ。お願いだ。話を、聞いてくれないか。』
「っ……!」
何なんだ。あいつが意味不明のメッセージを送ってきたあの日から、こんなメッセージばかりが一日ごとに繰り返し送られてくる。初めの頃は抗議の文を送り返していたが、今ではもう返事をしていない。もう、どうすればいいのか、分からないのだ。あの日以来、頭の中も、霧がかかったようにはっきりとしないままで。
「何で、あいつは……」
無下にしたいわけでも、冷たくしたいわけでもない。ただ、あいつが抱えている何かを、一言でいい、現実的な言葉にしてくれたら。けれど、あいつはそうしてはくれない。“涙が止まらない病に侵された”という言葉でしか、俺には伝えてくれない。
こうしてメッセージを送ることができているということは、本当の病に倒れているわけでも、命が何らかの危機にさらされているというわけでもないのだろう。しかし、あいつが何かに怯えているのだということは、きっと俺だけが分かっていて。
「…………くそ……」
先程終わった一限の次は、午後から始まる三限と四限。大学に入って以来、講義は遅刻も欠席もしていない。それは、俺にとって当たり前のことであったとともに、守るべき領域のようなものであった。
けれど、何だか、分からなくなっていた。

俺が、今、しなければいけないのは何なんだろうか?

きつく、目を閉じる。そして、ゆっくりと開いた。ジーンズのポケットに一度は戻したスマホを取り出し、数秒画面へ指を滑らした後、ボタンを押す。
――『今から、行く。』
自分の感情に整理なんてつけられていない。それでも、今は。
俺は、学校構内の図書館へ向かっていた足を翻し、鞄を肩へ掛け直すと、早足で歩き始めた。

§

あの日と同じように、あいつの部屋の前へ辿り着くと、俺はインターフォンに指を伸ばした。しかし、ふと指を止め、手にしていたスマホの画面に文字を打ち込むと、それを送信した。
――『今着いた。俺は、何をすればいい?』
しばらく待つと、画面がぱっと光り、メッセージが表示された。
――『話を、聞いてくれるのか。』
想像していたものとは異なるメッセージにどきりとしつつも、俺は呟きながらメッセージを返した。
「……今更だろ」
――『……ああ。今のお前が言えるのがそういう形ならば、しょうがねえから聞いてやる。ただ、出来る限り分かりやすく言え。』
もう、覚悟はした。お前の叫びを、聞く覚悟。今の自分がしなければいけないことが、これなのかは今でも分からないけれど。今、あいつの声を聞けるのは自分だけなような気がしたから。
数分たった後、画面に新しいメッセージが表示された。
――『…………ありがとう。涙が止まらないせいで、視界にとらえられる文字は滲んじまうけれど……。でも、ちゃんと、届いた。』
返ってきたその文は、何だかこちらの調子を狂わせるもので、落ち着かない気持ちを誤魔化すように、俺は素早く指を動かした。
――『何、妙にかしこまったこと言ってんだよ。……感謝とかいいから、早く俺が何をすればいいのか教えろ。』
俺がそうメッセージを送ると、どこかためらうような時間が少し過ぎた後、あいつからの返信が来た。
――『……ああ。まず、今この部屋は、俺の涙の水圧でドアが開かなくなってる。こちら側からもそちら側からも、俺ら一人ずつの力では開けられないだろう。こうしている間にも、止まらない涙のせいで、水圧も水かさも増え続けてる。』
あいつからのメッセージを読みながら、俺はふと首を傾げた。そして、スマホの画面に指を滑らせる。
――『お前の話をそのまま受け取るとして、何で警察とか消防に助けを求めないんだ? スマホは生きてるんだろう?』
あいつの言う妙な状況を素直に受け取るにしても、そのことがずっとひっかかっていた。そもそも、俺一人でどうにかできる事態なのだろうか。ここは、もっと専門的な機関に助けを乞うべきでは……。そう考えている内に、あいつからメッセージが返ってくる。
――『何故か、公的機関には繋がらなくなってるんだ。原因は分からないが……』
「……はあ?」
俺は思わず声を上げ、自分のスマホで110を押してみる。繋がらないなんて、そんなわけがあるか。この辺りでそんなに電波が悪いなんて聞いたことないぞ……。 しかし、俺の耳に届いてきたのは、電話が繋がらないことを伝える無機質な声。信じられず、何度か番号を掛け直してみたが、警察も消防も繋がらない。
「マジかよ、わけ分かんねえ……」
とりあえず、あいつの言うことは事実のようだ。これじゃあ、警察や消防の意味がないじゃないか……。呆然と立ち尽くす俺の手に、スマホの振動が伝わる。あいつからの新しいメッセージだ。
――『繋がらないだろう? だから、その手段はだいぶ前に諦めた。とにかく、このままじゃ涙に部屋が埋め尽くされて……溺死、しちまう。……その前に……』
画面に浮かんだ“溺死”という二文字に、俺は、心臓がわしづかみにされたようにぎゅ、と締まるような気がした。何かの比喩だったとしても、その言葉の持つ冷たさが、俺の不安を増長させる。留まりそうな思考を必死に動かし、解決策を考えながら、俺は再び画面に指を滑らせた。
――『ドアが駄目なら、窓はどうなんだ。そっちも水圧で駄目なのか? それなら、最悪割っちまうとか……。』
 部屋の中の状況が分からないままだが、窓ならドアに比べて何か出来る可能性も高いんじゃないだろうか。しかし、あいつから返ってきたメッセージは、俺の期待とは異なるものだった。
――『……部屋の中に留まった涙が。あまりにも……多くなりすぎちまったんだ。もう、この中で俺は、ほとんど思うように動けない。』
「……え……?」
 ――いつの間に、そんな。
頭が真っ白になりかけた俺の手の中で、あいつから届くメッセージは続いた。
――『それに……階数はそれほどでもないとはいえ、ここは最上階だ。この部屋の窓から、この量の水が溢れ出したら。周りへの被害が、大きすぎる……。』
 弱々しい口調で綴られたメッセージに、俺の焦りは増していく。
「そんな……。じゃあ、どうすればいいんだよ……?!」
 ドアも窓も駄目ならば、他の方法は? 緊急事態なんだ、どうにか壁を壊すことを、許されたりしないだろうか? 壁を壊す効率のいい方法なんて思いつかないし、事情を説明したところで大家さんや他の住民が納得してくれるかだって分からない。けれど、人命がかかってるんだ、どうにかして……。
 そもそも、涙が止まらない奇病なんてあり得ないと考える思考は、俺にはもう、ほとんど残っていなかった。何故だろう、あいつの言葉を一つ一つ受け取るたびに、心臓が、強く脈打って。それに急き立てられるように、俺はただひたすらに考え続ける。
 ――それとも、俺が今から警察署や消防署へ行き、事情を話して救護を要請するべきか? すぐに信じてもらえるかは分からないけれど、今、俺にできるのは……。
 螺旋のように渦巻く思考へ溺れかけたその時、俺の手に、スマホの振動が伝わった。俯いていた顔をバッと上げ、スマホの画面に現れたメッセージを見る。
しかし、縋るように見つめた画面へ映ったその文字に……俺は顔を歪め、無意識に、着ているシャツの胸元を強く握りしめた。
 ――『……ごめん。』
――『ずっと考え続けてきたけれど、もう、俺には、ここから出る方法が分からないんだ。』
 それは、あいつがやっと伝えてくれた本当の言葉。
だけど、それは何よりも残酷なもので。
 ――『涙が止まらなくなってからずっと、この状態を誰かに伝えなきゃいけないって分かってた。けど、伝え方が、分からなかったんだ。こんな自分の状況を、どう伝えれば信じてもらえるのか分からなくて……何もできないまま、時間は過ぎちまった。』
 スマホを持つ俺の手が、微かに震える。
――『手遅れだって、分かってた。覚悟だってしてたのに……。何でだろうな、今更、一人で耐えきれなくなって……。お前に、零しちまったんだ。ごめん。本当に……ごめん。』

――『だから、本当は。ただ……聞いてくれるだけで、十分だったんだ。十分、すぎるくらいに。』

 あいつからのメッセージを読みながら、俺は、重い息を吐く。やりきれない想いが、身体の奥からとめどなく込みあがるのに、この状況を打ち破る方法を、何一つ考え付くことができない。
 あいつは、手遅れであることを知っていた。けれど、それでもなお、助けを求めずにはいられなかったのだ。迫りくる涙の水圧を感じながら……その恐怖に耐えきることができなくなった時、俺にほんの少し、その叫びを零してしまった。――ただ、零してしまっただけで。
 俺ができることなど……最初から、なかった?
「……っ……」
身体が、心が、重い。目の前にある部屋のドアに背を預け、ずるずると座り込む。自分の背から微かに聞こえるのは、揺れる、水の音。
 ……なんで、こんな風になるまで、誰にも助けを求めなかったんだ。一人きりで、止まることのないその涙を、流し続けたんだ。
 すぐそこにあいつがいるのに、届かないこの声がもどかしい。
 頭を抱え込んだ俺の膝の上で――スマホの画面にそっと、一つのメッセージが映し出された。
 ――『……話を、してもいいか。』
「……」
 暗くなっていく視界の中、小さく灯るような画面の光に……まだ、あいつは、伝えたいことがあるのではないかと。そう感じた俺は、再びスマホを手に取り、画面に指を滑らせる。
 ――『……どうした?』
 小さく呼吸をするような間の後、あいつからのメッセージが届いた。
 ――『こんな時に、何だと思うだろうけれど。』

――『小さい頃、俺、ヒーローものがすごく好きだったんだ。』

「……? 何、を……」
 唐突なあいつからの言葉に、俺は頭を抱えたまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。あいつからのメッセージは、続いた。
――『どんなに困難があっても、決してくじけず、それを乗り越えるたび強くなっていく。それは、常に傍で共に歩む、仲間たちの力も大きくて……。誰かと共に築く、真っ直ぐで眩しい正義に憧れた。』
 ――『小さい頃だけじゃない。俺はずっと、ヒーローに憧れてた。その正義を、見つめ続けていた。でも、今思うと、その理由は、ヒーローのようになりたかっただけじゃなくて……。俺はきっと、本当は、ヒーローみたいな存在に“会いたかった”んだ。』
 ――『正しいことを正しいと。尊いことを、尊いと。本当に美しいものを、美しいと――それを確かに示してくれる存在に、会いたかった。』
 溢れ出すようなあいつの言葉をなぞりながら、俺の中で、静かに生まれていく確信があった。この言葉の先にある、あいつの出した結論を――俺は、知っている……?
 ――『でも、もう、俺には分からないんだ。』

――『ヒーローが守り続けたその正義は、本当に、存在するのだろうか?』

 ひたり、と、自分の心臓に近付いてくる何かを感じた。手元で、スマホの画面が、小さく光り続ける。
 ――『ずっとずっと、それが何処にあるのか探して続けてきた。けれど……俺には、それが見つけられなかった。』
 この閉じられた部屋の中で、涙を流し続けるあいつが、何処にも届けられなかった言葉。移り変わっていく文字の奥に、滲みだすように見えるのは、あいつの涙だろうか。
 ――『この部屋は、今でも徐々に、開くすべを失っていく。』
――『止め方も分からない涙が、もう、天井まで届きそうで。』
――『部屋の蛍光灯すら、波打つ涙の水で駄目になって……暗くて、もう何も、何も見えない。』
 ――『ただ、在るということが分かりさえすれば、それだけでよかったんだ。でも……』

――『それすら分からないまま……ここで、俺は、終わる?』

「…………――――」
 最後の、その一文を映して。俺の手の中のスマホは、振動を止めた。
そうして訪れた、世界の全てが呼吸を止めたような静けさの中。あいつの零した言葉を受け止めた俺の内へ、静かに湧き上がっていく感情があった。
 ――これは、怒り、だ。
久しく、自分の中から失われてしまったと思っていた感情。あの日、あいつからメッセージを受け取って以来、時折現れるようになったそれ。
この感情の理由なんて分からない。そもそも、あいつに関わる自分の行動の全てが、明確な理由を何一つ持たない。けれど、生まれた感情だけはあまりにも確かで、抑えきれないほどに激しいものだった。
 あいつが、ずっと探し続けてきたもの。それが、確かに存在するということすら分からないまま……。
 あいつは、ここで、“終わる”?
「――――ふざけるな」
 俺は、身体にありったけの力を込め、もたれかかっていたドアから背を離すと、勢い良く立ち上がった。そして、強く目を閉じ……ゆっくりと、開いた。目線を落とし、自分の傍らに置いていた鞄をひっつかむと、その口を開け、中身を探る。
 ――その途中、手に何か冷たく触れるものがあった。それは、鞄の内ポケットのファスナーに付いた、キーホルダーのチェーンだった。
そのチェーンにぶら下がっていたのは、自分が幼い頃に、唯一我儘を言って買ってもらった……ヒーローの、キーホルダー。
 鞄の内側、決して人からは見えないその場所で。隠れて、自分を支えるように付いている――。
「…………ああ……」
 やっと、分かったような気がした。あの日から、自分の心臓を強く揺らしていたものが何だったのか。何故、俺が、あいつからのメッセージを受け取り続けて、ここにいるのか。
「だったら……なおさらだ」
 ――まだ、終わっていない。終わらせてなんかやらない。
祈るように、キーホルダーをぎゅっと握りしめた後、再び鞄を探った。
「……これなら、いける、か?」
 俺はどうにか、探していたものの目星を付ける。そして、あいつの最後のメッセージを映し続けるスマホの画面へ、一言打ち込み、送信した。
 ――『終わらせねえから、待ってろ。』
そして、深く呼吸をすると、俺はキッと眼差しを強め、顔を上げた。

§

 俺はまず、あいつの部屋の隣の住民の部屋へ行き、インターフォンを鳴らした。戸惑うような声でインターフォンに出たその人に、俺は素直に事情を話し、ベランダを通してくれるよう頼みこんだ。当然だが、声へ不信の色を浮かべるその人に、ほとんど勢いに任せて必死に頼み、頭を下げる。その勢いと気迫に押されたのか、警戒するような目をしながらも、その人は俺の頼みを聞き入れてくれた。手元には、いつでも連絡ができるようにか、スマホを握りしめている。何の罪もない人を怯えさせていることに胸は痛み、強引すぎるやり方であるとも思ったけれど、それでも俺には、やらなければならないことがあった。
 隣室のその人へ礼を伝え、部屋に上がると、部屋の奥にある大きな窓を開いてベランダへ出る。このアパートのベランダは、それぞれの階にあるもの全てが繋がっている形のものだ。それが、各部屋に合わせ、グレーの仕切り板で区切られている。
そして、その板は、緊急時は蹴り壊すことで避難経路を確保することが許されている。――俺は、躊躇せず、その壁を思い切り蹴り壊した。
突然の俺の行動に、窓から様子をうかがっていた隣室の人はしばらく呆然としていたが、すさまじい勢いで部屋の中へ戻っていった。通報、されてしまうかもしれないが……おそらくまだ、この辺りで電話は繋がらないだろう。あの人には申し訳ないが、少しだけ、時間がほしい。俺は、そう願いながら、割れた仕切り板の間を抜け、あいつの部屋のベランダへ入った。
あいつの部屋の前に立ち、その窓を見つめながら、静かに考える。
 ――こうして振り返れば、今までのことで、いくつも不自然なことがあった。
 その身に迫る涙の冷たさと水圧の中で、ほとんど衰弱しないまま、あいつが何日も耐え続けていること。溢れる涙の中で、ほとんど思うように動けないはずのあいつから、メッセージが送り続けられていること。この部屋での異変や、ドアの奥で聞こえる、揺れる涙の水の音に、周りが誰も気付かずにいたこと。……そうだ。

どこかで、分かっていたんだ。
涙に溢れたこの部屋を、本当に閉じているのは。

「……」
 鞄から、先程見つけた水筒を取り出す。まだほとんど中身が残っているせいもあり、手に持った瞬間、ずしりとなかなかの重さを感じた。かつて父が使っていた、古く重厚な鉄製の水筒が、今は頼もしく見える。目の前の窓は、強化ガラスのような大層なものを使ってはいないだろう。だから……これで、十分なはずだ。
 手にしたそれをしっかりと握りしめ、水圧で張り付いたカーテンで、中の見えないあいつの部屋の窓を見つめた。手が、無意識のうちに強張る。その一瞬に、かつてのあいつの言葉が、俺の頭をよぎった。
〈『ここは最上階だ。この部屋の窓から、この量の水が溢れ出したら。周りへの被害が――』〉
「――だから、何だ」

 もう、終わらせなくては、ならないんだ。

俺は……力を込めたその手を、思いっきり振りかぶった。
「そんなこと――知るかよ!!!」
 バリィィィン――――。
硝子の割れる音が、俺の耳に、世界に、響き渡る。
窓が割れたことで部屋から溢れ出した涙の奔流が、俺にとめどなく押し寄せる。すさまじい勢いで流れ続ける涙の波の中、俺はその目を決して閉じなかった。その先にいるあいつを、しっかり、見なければいけないと思ったから。
 ――初めからずっと、答えは俺の傍らに在った。
最初のメッセージが送られてきたあの日。あいつの文を読んだ時、俺は……そこに含まれた感情を、“知ってる”って。
だって、あいつは――。
 青く染まる視界の中で、徐々に部屋の内面が姿を現す。留められ続けた涙に全てが流され、ぽっかりと空いた空間の、その中央。


その場所にいたのは…………〈自分〉。


 その顔は、これでもかというほど雫に濡れ、涙を止まらず流し続ける真っ赤な両目は、驚きに開かれていた。

それは、ひどく、ひどく滑稽な顔だった。

その顔を見つめながら……俺は、〈自分〉に呼びかけた。
「いつまで泣いてんだ」
涙に濡れた眼差しと眼差しが、真っ直ぐにぶつかる。
「その涙を止まらなくしたものなんて、幾つも積もりすぎて忘れてんだろ」
その虚ろな目は、何もかもを映さない。だからこそ、俺はその目に向かい、自分の声が響くよう、強く、強く呼びかけた。
「だったら、もうとらわれてちゃ駄目なんだ。どんな方法を使ったって、留め続けた涙を吐き出さなきゃ、乗り越えらんねえんだ」
――お前は、本当に馬鹿だ。自分が憧れ、見つめ続けたものの存在を確かめようと目を凝らしすぎた果てに、色々なものが見えなくなってしまった。
そして、そのまま入り込んだこの部屋の中で……いつの間にか、ここを出るすべさえも、見失ってしまった。
「もう、出られないとか言ってんじゃねえよ」

「涙塞き止めてんのは、ドアでも、窓でも、部屋でもない。お前だろ」

外の世界へ繋がる電波を乱しているのも、きっと〈自分〉だ。それじゃあ、ここから出ることなんてできない。涙も、ずっと止まらない。
開くことのないこの部屋を作り上げたのは、きっと〈自分〉自身で。だからこそ、それを開けるきっかけを作ることができるのも、〈自分〉自身でしかないから。
「ドアぶっ壊してでも、声枯れるまで叫んででも、人様に迷惑かけんの承知で助けを求めるんでもいいから――いい加減、一人きりのこの場所から出ていけよ」
 ありったけの声で、叫び、伝える。
 ――お前は、分かってなかったんだ。
ヒーローだって、全てに一人きりで打ち勝っていくのではない。時には打ちのめされ、正義を貫くことのできない敵を前に挫けそうになる。けれど、それでも戦い続け、正義を貫き通せるのは、彼らが分かっているからだ。
一人きりで、戦い抜くことは出来ないと。
「お前ごときが、全てを一人でなんて乗り越えられない。だから、お前は、零しちまったんだ。抑えきれなかった感情を。悲しみも、苦しみも、悔しさも、不安も、恐怖も……全部が、止まらない涙になって、この部屋を埋め尽くした」

「そして、耐え切れなくなった部屋(こころ)が……現実を、手放したんだろう?」

 そして、現実から離れたこの世界で、お前はこの部屋に入りこんだ。せめて、止めどない感情を零し、誰かを傷つけたりしてしまわないよう部屋を閉じきって。
そんなお前に向き合うことが……今、俺のしなければいけないことだった。やっと、気付いた。でも、気付くだけじゃ駄目なんだ。
俺が、本当に、しなければいけないことは。
 目の前で膝を抱え、動くことのできないままの〈自分〉へ、俺は言った。
「お前は、戻らなきゃいけない」
 手離した、現実へ。この場所に、留まり続けることは許されないから。そして、何よりも――この場所では、〈自分〉の探し続けた“正義”なんて、ずっと見つけられないから。
 今ここでこいつをぶん殴って、強引に目を覚まさせ、現実に戻すことはできるだろう。でも、それでは駄目だ。〈自分〉の抱える恐れは拭えない。この部屋から本当の意味で出ていくためには、恐れを乗り越える覚悟をした〈自分〉自身が、その足を動かさなければならない。
けれど、〈自分〉の足は竦んでいる。また、外に出て、「自分の探し続けたものなど存在しない」と突きつけられることに怯えている。その恐怖が、この世界に入り込んだ俺の、現実に関する記憶を消し、お前を、自分とは全く別の存在として認識させていた。
――……でもな。今、俺は思うんだ。
 真っ直ぐに、目を決して逸らさず。俺は、〈自分〉に伝える。
「お前の抱えてきた恐怖の大きさは、誰よりも、知ってる。その恐怖を、一人きりで抱え続けてきたことも。でも、その恐怖に押しつぶされそうになりながらも、お前は――」
 ――俺は。
「ずっと正義の……ヒーローが守ってきたものの存在を、信じてきたんだろう?」
 もし、お前が、ここで信じることをやめちまったら。この世界で涙に溺れ、呼吸を止めることを選んでしまったら。今度こそ本当に……それは、消えてしまうような気がして。……だから。
「信じてきたならば、最後まで信じ抜けよ。途中で放り出すなんて、許されねえし、許さねえ。今までできたのなら、できるはずだ。――でも、それでも、恐れが拭えないのなら」
この部屋を出て、涙を振り払うための一歩が踏み出せないのなら。そんなお前の、その手を引く存在が、今は見つけられないというのなら。
「初めは、俺が、引っ張ってやる」

「――行こう。ヒーローなんかじゃねえけど。一緒に、行ってやるから」

 この手を、〈自分〉の手へと伸ばした。そして、強張ったその手を掴み、思い切り引き上げる。
その手を引かれるまま、自らの足で立ち上がった〈自分〉の手を強く引き――かつて、涙に満たされ、光の消えた部屋から、踏み出す。涙に濡れた〈自分〉の目に入り込む、もう二度と見ることは叶わないと思っていた、光。
自分をとらえ続けた部屋を背に、おずおずと歩み始めた〈俺〉の視界に広がったのは……あの日と同じ、憎たらしくもどこか、自分がずっと焦がれ続けたものを思わせる青だった。

§

――瞳が、開く。
仰向けになっているらしい俺の視界に映ったのは、先程まで見ていたはずの青ではなく、天井の無機質な白だった。ちらちらと揺れる蛍光灯の光が、妙に眩しく感じる。

ひどく、久しぶりに、光を見たような気がした。

「…………貴、明…………?」
 俺の耳に、微かな声が届く。それは、小さく震えた、母の声。
「……か、あ……さん……?」
 母を呼ぼうとした声は掠れ、喉は声を出すことを忘れかけていたかのように、上手く音を出すことができない。同様に、身体も上手く力を入れることができなかったが、どうにか頭だけはほんの少しだけ傾けられた。横たわる俺の横には点滴があるようで、そこから伸びる透明なチューブは、俺の腕の方へと繋がっている。そして、その瞬間、温かな何かが自分の腕に触れた。それが母の両手であることに、ゆっくりと気づく。俺の顔を覗き込み、その腕を握りしめた母の顔は、ひどくやつれていて……大きく見開かれたその目には、今にも零れそうなほどに涙が溜まっていた。
「貴明……! よかった……本当に……ほんと、に……」
 俺の手を取り、自分の両手で包むと、力が抜けてしまったのだろうか、母は俺の横たわるベットの傍にゆっくりと座り込んだ。俺の手に、零れ落ちたような冷たい感触が伝わる。それは……あの部屋から自分へと押し寄せた、波の感触に似て。
「だい……じょう……も、だい……ぶ……だか、ら……」
 上手く出すことのできない声で、母へと伝える。どうか、どうか、この言葉が届いてほしい。
十年前、父さんが亡くなってから今まで、俺の前では一度も見せることのなかった母の涙が、俺の手にとめどなく零れる。

 ごめん。本当に……ごめん。

 母さんを、一人残していくところだったんだな、俺は。本当に馬鹿で……どうしようもなかった。
こんな俺を見て……父さんは、何と言うのだろう。

 ――十年前、俺の父は、俺と母を残し、天国へと旅立った。
 父は、警察官だった。寡黙で、厳格で、多くを話す人ではなかったけれど、自らの仕事に誰よりも誇りを持って取り組んでいた人だった。そして、警察官としてだけではなく、一人の人間として、ひたすらに正義を見ている人だった。
 そんな父が、倒れ、病院へ運ばれたとの報せを受けたのは――俺が小学生だった頃の、ある夏の日だった。仕事による身体と精神の酷使が原因の過労で、その容態は、非常に厳しいものであると宣告された。元から体があまり強い人でないにも関わらず、父は、普段から自分の身をほとんど顧みずに働き続けていた。そんな、自分自身をも削っていくような仕事への取り組み方の先には、確かに、父の信じるものがあったのだろう。けれど、その信念は同時に、父自身を、取り返しのつかないところまでゆっくりと蝕んでしまっていた。
 父の容態は、回復の兆しを見せることないまま……一週間後、父は、静かに息を引き取った。

 小学生といっても、まだ幼かった当時の自分は、父が亡くなったという事実をしばらく理解しきれず……その事実と意味を俺が正しく理解できるようになったのは、中学に入ってからの事だった。父がいなくなったことを、日々の中で、強く実感するようになったのも。
 俺が幼い頃から、ひどく厳格で、決して曲がったことを許さない父だった。そんな父を、恐れてもいたが、それ以上に……俺はずっと、その背中に憧れていた。幼い頃の俺がヒーローものを好きになったのも、正義を貫くヒーローたちの中に、父の姿を見ていたからかもしれない。
 そんな父がいなくなったということを、日々の中で感じるたびに、大きすぎる喪失感と悲しみが、俺を襲った。それでも、母は悲しみなんて一つも見せず、気丈に振る舞いながら俺の傍にいてくれた。
――「父さんは、自分の正義を貫き通したの」。
そう、強く伝えてくれた母の言葉があったから。俺は、もがきながらも、必死にその悲しみを乗り越えていこうとした。
 けれど。母が、幾つもパートを掛け持ちしながら通わせてくれた中学校、高校での生活や、徐々に広がっていく人との繋がりの中で……俺はまた、新たな痛みを抱えるようになってしまった。
――それはきっと、周りの人にとっては、些細なこと。
ほんの小さな嘘。少しの怠惰。裏切りとも呼べないほどの、小さな裏切り。様々な不安から吐き出される、一時の心無い言葉。何となくの中で、誤魔化されていく不正。生きることに意味を見いだせないと嘆く、光を見失った瞳。正しいものが、必ずは守られない秩序。優しいものほど、深く傷をつけられていく、その均衡。
それらを見てしまうたび、感じてしまうたび、気付いてしまうたび、俺の心はまるで刃物に刺されたように痛み、泣き叫ぶような悲鳴を上げた。自分の目に否が応でも映る、日々の中の歪み。それを見るたび、俺には、父が守ってきたものが汚され、傷付けられていくように思えたのだ。父が守るものを……死ぬ間際まで守ってきたものを、何よりも尊いものであると感じていた自分は――それに、耐えきることが、できなくなっていった。
 母の応援もあり、奨学金を受け、アルバイトを掛け持つことでどうにか通えることになった大学でも、その痛みは続いた。誰かに吐き出してしまいたいと思ったこともあったが、自分の信じたいものを自分勝手に世界へ押し付けているだけだと言われるのが怖くて……誰にも、言えずにいた。相談を受けてくれる公的な機関があることも知ったが、自分の抱える痛みの伝え方が分からず、結局、連絡してみることもできなかった。
 そうやって、何処にも、誰にも伝えることができないまま、俺の中の痛みは積み重なっていって。ついに、内へ留めてはおけないほどまで積み重なった痛みや感情が溢れ出し、この呼吸を止めそうになったその時――俺は、意識を手放した。父の守った正義を探し続けた……その、自分を。
 現実の俺は意識を失い……眠り続ける中で、痛みのない世界での、痛みのない日々を繰り返し続けた。そして、あの時、あいつからのメッセージを受け取ったのだ。積み重なった痛みに、一人きりで耐えきれなくなった自分が、いつの間にか零してしまったメッセージを。
あの場所で、あいつと、あいつの閉じてしまった部屋と向き合って気付かされた。
自分が今まで感じ、これからも感じ続けるであろう痛みは、確かに大きく、悲しみに満ちている。けれど、俺は、それにもう立ち向かわなくちゃいけない。乗り越えなきゃいけない。
父が守り続けた正義が、確かにあったと信じたいのなら。それを、証明したいなら。自分を支え続けてくれた――母の、ためにも。
 俺の手を握る、熱い母の手を、懸命に握り返す。

――俺は、もう、離さない。

 そして……その一瞬、この耳に聞こえた声があった。

『――頼んだぞ、貴明。お前なら、大丈夫だから。』

その、懐かしい声の響きと、手に伝わる温もりを感じながら。
一人きりのあの部屋から溢れた涙が、俺の頬を、とめどなく伝っていった。


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第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00
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