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泉のほとり

   泉のほとり
                 

    1

 小さな頃、私は父に連れられて気球に乗りに行ったことがある。窮屈な四角いかごは頭上の球体がガスで満ちるにつれて、ゆっくりと浮かびだし、空を飛ぶことに対して勝手に幻想のようなものを抱いていた自分は現実とそれとの違いに戸惑ったものだ。やがて、高度が上がってくると、操縦をしていた若い男は周囲の景色についてなにか説明をしはじめたけれど、まだ小さかった私はかごの向こうを見ることができなかった。父はそんな私の姿に笑い、脇にそっと自らの手を差し込むと、うっかり落としてしまわないよう慎重に私を持ち上げた。気付くと、私たちは随分高いところまで昇っていたようで、水平線の彼方までありとあらゆる綺麗なものが見渡せている心持ちになった。中でも、雲ひとつない天気だったこともあるだろう、大蛇のようにどこまでも伸びる川の水面は太陽の光を反射して一際美しかった。私は子どもながらに自分は一生この景色を忘れることはないだろうと思ったし、現にまだ覚えていることだ。
 また、もう一つはっきりと覚えているのは父の童話のことだ。気球に乗ったときに見えた景色が洗練された写実的絵画のようなものだとしたら、そのことは抽象画になるのだろう。昔、さる高名な画家の抽象画が近くの美術館にやってきたことがあったけれど、一見乱雑に淡色を撒き散らしたようなそれは確かに見る人が見れば、持てる限りの想像力を使いたくなるのも無理はないと私は思った。父は生涯を通して、決して名が売れる芸術家にはなれなかったものの、少なくとも彼が書いた童話を誰よりも早く読む権利を持っていたのは息子である私だったし、私は新しい作品が生み出される度に持てる限りの想像力を振り絞って夢中で読んだ。ある日突然、自分の眉毛が喋り出した男の話や、音楽というものを失った国の話など、父が描く物語は大抵奇天烈な設定であって、子どもに受け入れられるものとは言えなかったけれど、おかしさの中に隠し味のような悲しみが隠れていて、恐らく、そういうところが歳の割に大人びた私を虜にしたのだろう。
 私が十八の冬の日、父は我が家から忽然と姿を消した。親族の中ではもっぱら、家の外に女でも出来たのだろうという噂で持ちきりだったけれど、長らく彼を見てきた私と母にとって、それはとても信じられることではなかった。とは言え、売れない童話作家であった父の代わりに我が家の家計を支えていたのは母であり、法律上認められる歳になってからは私もパートタイムで清掃業の手伝いをしていたのですぐに一家が立ち行かなくなるということもなかった。一年も過ぎれば、夜、食卓で父が陣取っていた木製の椅子の上には新聞紙や紙袋やそのほか不要ないくつものものが置かれるようになったし、二年が経った頃には彼の部屋が私にとって念願であった自室に成り変わった。私は本棚に並んでいた父の本を好みのものはそのままにし、そうでないものは近くの古本屋に売りに行った。多くは私にも母にも意義の分からないものだったけれど、一応残していくという選択の余地は我が家にはなかった。
 それから、私が大学を卒業するまでの間、一度だけ、古くから付き合いのある近所の一家がクリスマスの日に街の外れで父を見かけたという証言を手に入れた以外に彼が私たちの前に出てきたことはなかった。ただ、私がまだ子どもの頃に亡くなった父の両親、つまり私にとって祖父母にあたる人々が建てた私たちの家は年を追うごとに脆くなっていて、一昨年の中頃のある日、まるでその日の天気のことを言うように母はそろそろ引っ越そうか、と切り出した。私にはその頃、職場で会った同い年の恋人がいて、半ば同棲しているような生活を送っていたし、結婚をしたら母が一人きりで暮らすことになるだろうという予感もあったので、一も二もなくその意見に賛成だった。と言うのも、我が家は段差が多く、夜中にトイレに行くにしても二階の寝室から降りてくる間に何度となく危険があるように思われたからだ。
 その童話を見つけたのは二十九歳も十ヶ月目を迎えた日のことだった。私と母は家の中の家具のほとんどを叔父が所有するトラックの荷台に乗せ終え、家の中に残ったものはすべて捨ててしまうつもりでいた。秋になると、陽が傾くのは日に日に早くなってきていて、まだ午後四時過ぎだと言うのに遥か遠くの空は薄暗くなってしまった。埃の溜まった自室の窓際を弱々しく西日が照らすのを私はぼんやりと見つめていた。階下からは母と叔父が他愛もない近況のことを話す声が聞こえていて、それが終わったら、私たちは新しく借りたアパートの一室に向けて出発しなければならなかった。恋人との将来のことも考えて、私は新しい家に自分の部屋を要求しなかったから、自室にあった父の僅かな遺産、鉄製の頑強な本棚や木の安楽椅子や机などは廃棄することに決めていた。私は安楽椅子に腰掛け、ゆっくりと体を揺すりながら、ふとがらんとした部屋の中を見渡した。本棚に並んだ多くの本はこの十数年の間にすっかり色褪せてしまって、買い手は付きそうにないものばかりだった。両親に似て、私も整理整頓の好きな性格だったから、それらは頭文字を揃えて順に並べてあった。最上段一番右の「アンネの日記」はすっかり背表紙がくたびれて、その名前を読み取ることはできなくなっていた。私は母と叔父の声が止むまでの暇つぶしに本の名前を眺めていき、二列目の一番端から二番目のところで視線を留めた。
『泉のほとり』
 背表紙の金色の文字は経年劣化によって幾分剥げかけていたものの、殊更名前を見つけた者の好奇を誘っていた。私はそんなタイトルを覚えてなどいなかったし、十数年前の蔵書整理の際、何故売らずに取っておいたのか理由は自分でも分からなかった。とにかく、作者の名前からそれを今はもういない父が書いたことは確かだった。私は椅子を近くまで運んで上に乗り、なるべく埃を被らないようにそっと本を手に取った。それから、余計な折り目が付かないように慎重にページを開いた。
 ある貴族の娘が旅の商人と恋に落ち、子どもを身ごもった。娘には両親同士が取り決めた許婚がいた。そこで彼女は住んでいる町の外れ、鬱蒼と木々の生い茂る森の中の泉のほとりへ一人で行き、ひっそりと男の子を産み落とした。……「泉のほとり」はまとめればそれだけの話であり、それ以上でも以下でもなかった。私は椅子の上に立ったまま、戸惑いを覚えずにはいられなかった。世間にありふれたこの手の話のセオリーとして、男の子が成長してその国の王になるだとか、娘と許嫁との間の子どもと対立することになるだとかという展開がすぐに思い浮かんだけれど、少なくとも私が手にしていた童話はそこで終わっていたからだ。父の書く話を誰よりも知っていたであろう私にとっても、「泉のほとり」はよく分からない話としか言いようがなかった。
 不可解なのは、まるで大きな物語の書き出しにしか過ぎないその話が部数はどうであれ、出版されたということだ。ささやかな奥付を見る限りで、父が懇意にしていた小さな出版社が本という形で市場に売り出した過去は明らかだった。私は記憶の中のどこを探っても、このような話を書いていた父の姿を見つけることはできなかったし、これを読んだ覚えもなかった。妙に不安な気持ちが湧き上がるのを私は感じた。
 そのとき、階下から母の呼ぶ声が聞こえた。おしゃべりのネタが尽きたのだろう。私はふと我に返り、少し迷った末に正体の分からない童話を持っていくことにした。全国の図書館中を探せば、どこかに同じものが置いてある可能性はあったけれど、小さな謎が解決してから捨てるのでも遅すぎることはないように感じたのだ。本を閉じ、裏返して表紙を見た。無機質な茶色の厚紙の中央に描かれた挿絵を見つめ、椅子からそろそろと降りると私は自分の鞄の中に滑り込ませた。
 母に本のことを言わなかったのは今更余計なことを思い出させない配慮もあったけれど、何より時間がなかった所為だ。私は荷物を新しいアパートに運び終えると、後のことは叔父に任せて外に出た。それから、電車を乗り継いで約束していた時間になんとか間に合わせた。
 駅の改札の向こうで先に着いていた恋人は私の姿を認めると大きな目を細めて、手を振った。私は軽く頷いてから、淡い桃色のコートを羽織った彼女に手を振り返した。一つ歳下の彼女の住む家は最寄の駅から歩いて数分の距離にあったけれど、その日は前から外食をする取り決めになっていた。私たちは新しく出来たばかりだという洋食の店の席に腰を下ろし、料理が来るまでの間、会っていなかった数日間の出来事を話した。そして、会話の流れでふと、鞄の中の父の童話のことを私は話した。
「素敵なタイトルじゃない」
 本を手にとって、彼女は呟いた。「どんな話なのか、こう、惹きつけるところがある」
「ある意味で期待を裏切らず、ミステリアスな話なんだ」
 私はそう言って、短い話だからと中身を読むよう促した。店内は休日の夜だからだろうか、どの席も埋まっていて、料理はなかなか来そうになかったのだ。彼女はまるで本当に小さな子どもが読むときのようにテーブルの上に本を立てて、ページをめくった。私はその間、黙ってバランスの取れた端正な顔立ちをぼんやりと眺めていた。
「ふーん」
 本を閉じ、顔を上げた彼女が声をあげたとき、ちょうど頼んでいた料理が運ばれてきた。私たちはいそいそとナイフとフォークを手に取って、口をつけた。柔らかい牛肉を飲み込んでから、私は童話の感想をたずねた。「どうだった?」
 彼女は少し言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、綺麗な感じだったねと言った。「でも、何を伝えたいのか全然分からなかった」
「そうなんだよね。文章は子ども向けだから易しいし、泉のほとりがどんなに美しい場所なのかよく書かれてると思うんだけど……話はよく分からないんだ」
 私は頷いて、彼女から返された本の方をちらりと見遣った。それから、また話題を変えて家の引っ越しにどれだけ手間取ったかということを面白おかしく話した。あっという間に時間は過ぎていき、私たちは食事を終えると、すっかり冷たくなった風を避けるように縮こまって夜の街を歩いた。彼女の家に着いたのはちょうど午前零時だった。
 玄関の脇のポストに挟まっていたチラシの束を一枚も目を通さずにゴミ箱に捨てると、彼女は奥の寝室に入っていった。私は着替えるのだろうと思い、リビングの椅子に腰かけた。時間のある夜はテレビでニュース番組を見ることにしていたけれど、あいにくその時間には終わっていることに気づいて、リモコンを手にとることはやめた。代わりに何気なく、またあの童話を鞄から取り出して目を通した。短い話だから、大人が読めば数分で最後まで読めてしまう。仮にこの童話を読んだ子どもがいたとして、その子はどんなことを思ったのだろうと私は考えた。私もそうであったように、どんなに美しい文章で描かれていたとしても、ほとんどの子どもにとって重要なことは物語の内容そのものなのだ。少なくとも、私が思い出せる父の他の著作はどれも、内容ありきであってどんな文体、言葉遣いで書かれていたかは思い出すことができなかった。
 私は娘が森を抜けて、泉のほとりで子どもを産み落とした最後の行を読み流した。そしてページをめくってから、あれ、と思った。てっきり奥付があると思っていたところに挿絵が描いてあったからだ。その上にはたった一行分だけ文字が並んでいた。
『男の子の名前はヨハンと言いました。』
 自分としたことが、うっかり読み飛ばしてしまったのだろうか、と私は思った。それにしても、おかしな一文だった。ちょうど、パジャマに着替えた彼女が向こうから来たのをつかまえて、私は男の子の名前なんて書いてあったっけと聞いた。
「男の子? ……そんなこと書いてなかったと思うけど」
 彼女は何を言い出したのかというふうに、一瞬怪訝な顔を見せたものの机の上の本を見つけるとそう言った。「少なくとも、さっき読んだときはなかった」
 私は本の最後のページを開いた。そこには間違いなく、子どものシルエットを描いた挿絵と短い文字の羅列があった。「二人とも、読み飛ばしたのかな?」
 目を丸くして、彼女はゆっくりと首を横に振った。そんなことはないだろう、と言いたいようだった。
「じゃあ、どういうこと?」
 私が疑問を口にすると、彼女は少し考えるような素振りを見せてから、ふえたのかも、と呟いた。

    2

 いつだったか、私は隣の県の博物館でぽつんと冷蔵庫が一台置いてあるのを見たことがある。そばにはそれが外国の前衛芸術家の作品であることと、扉を閉じているときにだけ光が灯る仕組みになっていることが書いてあった。つまり、我々はその冷蔵庫の中がオレンジ色の電球に照らされている光景を見ることができないのだ。説明文は「私は小さな頃、自分の知らないところでこそ、なにかが起こっているような気がしてならなかったのです。」という文で締めくくられていた。
 「泉のほとり」を見つけてから一週間ほど、私はそのときのことを考えていた。知らないところでなにかが起こっている。たとえば、知らない間になくなっていた洗剤は自分が使い切って忘れていただけだと思っていたけれど、ほんとうは自分以外の誰か、恋人でもないその他の誰かが使ったのかもしれない。同じように童話の中身も自分の預かり知らぬところで誰かが書き加えているのかもしれない。
 開け放した窓から弱い風に混じって雨の匂いがしていた。天気予報では一日中晴れになると言っていたけれど、どんなに精度が上がったところで人間の予測は完璧ではない。私は恋人の部屋で一人、留守番をしながら時折思い出したようにテーブルの上に置いた「泉のほとり」のページを開いた。一番最後のページ、描かれた挿絵の上の文字は七行分並んでいた。産み落とされた男の子の名前がヨハンだと分かったあの日、私たちは疲れているだけに違いないという結論に達して、本当に疲労しきったような心持ちでぐっすりと眠った。次の日は二人とも職場に向かい、先に仕事を切り上げた彼女は私が帰ってきたとき、中華風のスープを温めて待っていた。テレビの向こうの遠くの景色をぼんやりと眺めつつ、話したであろう内容を私はあっという間に忘れた。ただ、真夜中になって、私が駅で買ってきた新聞を読んでいると、不意に恋人が短い悲鳴を上げたことは確かだ。
「ほんとうにふえているみたい」
 そう言って、彼女は手に取った本を私に渡してきた。私は恐る恐る閉じられたページをまた開き、一番最後までめくった。
『泉のほとりの小さな丸太小屋に住む、背の低い老人がそう名付けたのです。』
 間違いなく、そこには新たな一行が加わっていた。それはまるではじめからあったのだというようにはっきりと印字されていた。
「……ほんとうにどういうことなんだろう?」
 私は自分の声が驚きと不安で少し震えているのを恥ずかしく思った。「こんなことってあるのかな」
 恋人はさあ、というふうに肩をすくめ、一瞬間を置いてから、今日も昨日もお酒は飲んでないよねと呟いた。私はその言葉に改めて、自分たちの方では何も間違いがないことを突きつけられた思いだった。とは言え、こんなにもはっきりとした文字が並んでいる以上、そして不思議なことはたったそれだけである以上、どんなに自分たちは正常だと言い張ったところで他の人に伝えることはできないだろうと考えた。酒の席で話題にするにしても、いまひとつ盛り上がりに欠けるに違いない。
「秘密にしておこうよ」
 時間が経つにつれて動悸も治り、何度本を閉じては開いても、これ以上新しい行が加わることのないことを確認した私に彼女はぽつりとそう口にした。
「こんなこと、どうせ他の人には言えないしな」と私も言って頷いた。
 けれども、彼女は首を振った。「それもあるけど、なんとなくこのことはわたしたちだけで様子を見たほうがいい気がする。もし、こんなことが続くようなら、面白いしね」
 私はそのとき、くだらない冗談だと思って笑ったものの結果的に彼女の言葉は当たったのだった。次の夜、家に帰ってきた私たちは期待するように本を開き、そこに何も加わっていないことを知るとがっかりしたけれど、少し時間を置いて眠る前、何気なくまた開いてみた。そして、また新しい一行が書き足されていることを確認した。彼女は前の日とは少し違った意味で悲鳴を上げた。さらに次の夜も、帰ってくるのが夜遅くだったからか、またもう一行分だけ文字がふえていた。
 一週間ほどの間にヨハンという男の子は泉のほとりの老人に育てられ、逞しい青年になった。たった一行だけ、それは新聞紙に連載されている小説の何十分の一にも満たない量だったけれど、私たちは心のどこかで次はどんな内容が加わるのだろうということを考えながら一日を過ごした。彼女の言った通り、それは私たちだけの秘密であるということも大きかっただろう。
 新しい取引先を得たことで多くなった仕事を解消するつもりらしく、日曜日にもかかわらず恋人は会社に出かけて行った。部署が異なる私は予定もなく、暇であることに任せて長い間ぼんやりと過ごしていた。ここ数日の経験からして、童話に新たな言葉が書き足されるとしても、それは夜であるのだろうということは分かっていた。三十分に一回ほど、ページを開いてしまうのは惰性と言ってよかった。
 気になるのは、どんなに構えてその瞬間を逃さないようにしてみても、私たちが見ているその場で文字がふえていくということはないことだった。それは日常の中の多くの気になること、たとえば仕事を通じて知り合った人々のことや、母が住む新しい家での水漏れのことと同じく、ごく小さなことだったけれど、だからと言って気にしなくてもいいということではないのだろうと私は思っていた。三日ほど前、私と恋人は本の最後のページを開いたまま、午後十一時から一時間半か二時間ほど、一時も目を離さないようにしていた。その間、新しく行が加わることはなかった。けれども、気を張っていたこともあって疲れた私がしばらく後に再び本を開いたとき、そこには紛れもなく新しい一行がふえていたのだった。私は閉じられた本の中で、どこかに蓄えられていたインクがじわりと表出していく様子を想像した。前に博物館で見た冷蔵庫と同様、私たちに意図した瞬間を捉えることはできないのだろうと考えた。私たちに出来るのは素早く冷蔵庫を開けたときに見える僅かな光の残像を確認することや、滲み出たインクが表す文字を読むことだけだ。
 窓の向こうでは雲が太陽の光を徐々に遮りはじめていた。ほんとうに雨が降り出すのだろう。その前にベランダに干した洗濯物を取り込まなければならない。そんなことを思いつつ、私はなかなか立ち上がる気力を出せずにリビングの椅子に座ったままでいた。もう何時間もついたままのテレビでは熱帯雨林に住む動物が映ったけれど、私にはどういう文脈であったのか分からなかった。分からないまま、画面を見続けた。不意に映像は切り替わり、大きな窪地に水が溜まった、池とも湖とも言えない場所が出てきた。私の頭の中に弾かれたように一つの言葉が浮かんできた。泉のほとり、それは父の書いた童話のタイトルであり、知らない場所のことであり、きっと美しいところなのだろうという予感めいたものがあった。画面から目を離さずに手を動かすと、すぐそばの本に触れた。持ち上げて、視線をゆっくりと写すと表紙の挿絵が目に入った。
 思っていたよりもそれはずっと綺麗な絵だった。きっと元は油絵で描かれたものなのだろう。著者である父が描いたのだろうか、それともなにか有名な絵画を用いただけなのだろうか。ふと疑問に思って、今度はすんなり立ち上がると、寝室に置いてあるコンピューターの電源を入れた。インターネットで思いつく限りの言葉、本のタイトル、著者名、「泉」と呼ばれる場所のことを検索した。長い時間調べた中で分かったことはほとんどなかった。どう探しても、そんな名前の本のことは出てこなかったし、発行元の出版社も随分前に倒産していた。表紙の絵を誰が描いたのかも勿論分からなかった。少しの間、データを読み込んだ末に浮かび上がる無数のイメージの中に私の思っている「泉のほとり」に合致するものは一つもなかったのだ。
 突然つけられた蛍光灯の光に私は飛び上がった。いつの間に、部屋の入り口に恋人が立っていた。帰ってきたばかりなのだろう、コートを着たままの彼女にどうしたの、と声をかけた。
「それはこっちが言いたい。まったく、こんな暗い部屋でどうしたのよ?」
 そう言われ、もうすっかり夜になっていたことに私は気づいた。それどころか、外は土砂降りになっていた。干していた洗濯物は駄目になってしまっただろう。体がこわばっていて、立ち上がると背中がみしりと鳴るのが聞こえた。
「本のこと、調べてたの?」
 彼女は画面を覗き込むとたずねた。私は頷いて、なんにも分からなかったと言い捨てた。それから、リビングに行き、電気ケトルに水道水を流し込むと、電源を入れた。コーヒーを飲みたかったのだ。
「あなたがお父さんのことにこだわってるのは知ってるけどさ」
 背後で恋人が言った。私は台所の戸棚からインスタントコーヒーを取り出しながら、その言葉について考えた。「……そんなにこだわってる?」
「そうなんだと思ってたけど」
 彼女は私の横に並ぶと、水切り台の上に置かれたままになっていたマグカップを二つ手に取って渡してきた。自分の分も入れてほしいということなのだろう。ちらりとケトルの方に目を遣って、私は沸かしているお湯が十分にあるか確認した。
「いなくなった人はいないんだし、わたしが言うのもなんだけど……探してもしょうがないことはあると思う」
 二年以上の交際期間の中で私はとうに話せるだけの自分のことを彼女に話していた。母にも何度か会ったことがあった。知らないことがあるならべつだけれど、ほとんどのことを知った上でそういうことを言うのならば、彼女の言葉に言い返すべきではないだろうと思った。何より、それはきっと正しいと私は頷かずにいられなかった。
「あの人のことはいいんだ。単純に本のことが気になっただけ」
「それは確かにわたしも気になるけど、さ」
 コーヒーに砂糖を入れてかき回しながら、彼女は続けた。「とりあえず、今はただ話を楽しむのもありじゃないかな」
 午前中に買ってきた食材を使って夕食を作り、それを食べ終えてゆっくりしていると、真夜中と呼べる時間になるのはすぐだった。リビングの壁掛け時計の長針と短針が天辺で重なった頃、私たちはまるで打ち合わせていたかのようにテーブルの上の童話に意識を向けた。一瞬互いに見つめ合い、彼女が視線で促すのに従って私はページを開いた。
『ある日のこと、町から兵隊たちがやってきました。』
 昨日追加された七行目のそばに新しい行が足されていた。私はもう一度、彼女の方に目を向けた。彼女もまた、私の方を見ていた。どちらからともなく、笑みが浮かんだ。

    3

 自分ではそんなつもりはなかったけれど、実際のところ私は思っている以上に、父の存在に執着しているのかもしれない。恋人にそのことを指摘されたことが私の中でしばらくの間、引っかかっていた。父は生産性こそあまりない職にこだわっていたものの、無口で穏やかな人だったし、母が彼について文句を言っているところも、ましてやその作品を貶めるようなことを行ったところも、私が知る限りでは一度もなかった。幼い頃は週末になると、決まってどこかに連れて行ってくれたことを私は大人になった今では感謝していた。
 母が知っているのかどうかは分からなかったものの、実のところ、私は彼の所在を知っていた。父は私たちが住む場所からは遠く離れた、都会の片隅にいる。いや、いたと言う方が正しいだろうか。五年ほど前、そのことを知り得たのは偶然のことだった。
 珍しく、出張で新幹線に乗り込んだ私は隣の席に座った恰幅の良い中年女性が抱えた革の鞄に目を留めた。そして、それが父が外に行くときには必ず持っていたものと同じものだと気付いたのだった。金具に刻まれたブランドの名前にも心当たりがあった。けれども、よく知らないとは言え、会社が生産しているものならば同じものを見つけることもあるだろう。私はそう考えて、はじめ女性に話しかけなかった。
 世間では夏休みの時期だったから、車内は自由席に座ることのできなかった乗客がどこもかしこも立ち尽くしていた。彼らが指定席の私たちに向ける視線を避けるように私は職場から持ってきた書類を読み返した。そうしているうちに不意にどこかで男の怒鳴り声が聞こえたような気がした。隣の女性が、喧嘩かしら、と呟いた。我に返った私は先頭車両の方に顔を向けて、乗組員が泥酔しているらしい男性客を押さえる光景を見た。
「……こんな真昼から酔っ払ってるみたいですね」
 意図せず、そう口に出してしまったことに気づいたのは自分でも驚くことだった。隣の女性はやだやだ、と私の言葉に反応するように言い、少しこちらに目を遣った。
「おにいさん、お仕事?」
 たずねられ、軽く頷いた。「出張です」
 女性は私に顔を向けたまま、たいへんね、と独りごちるように呟き、それから何を思ったのか、こっちは帰省なのよと言った。私は帰省とは都市部から地方へ戻ることだと思っていたので、車両が向かう先と言葉とのギャップを不思議に感じた。私たちの住む場所は決して田舎というほどでもなかったけれど、都市部というほど大きな街でもなかったからだ。これからですか、と口に出すと、女性は手をひらひらと振った。帰省はもう終えて、帰るところであるようだった。
「あ、よければどうぞ」
 気になっていた鞄から、女性は缶コーヒーを取り出して私に見せた。そういえば、と新幹線に乗り込む前、駅で試供品を配っていたことを私は思い出した。そのことを言うと、彼女はそうそうと首をおおげさに縦に振った。「もらったんだけど、お砂糖が入ってないと、飲めないのよね」
「はあ。すいません」
 応えてみて、自分は何に対してすいませんと言ったのだろうと思いながら、冷たいコーヒーを受け取った。車内は空調の所為で乾燥していて、喉が乾いていた。ありがたく、蓋を開け、一口飲んだ。そして、折角ならという気持ちになったのだった。「……その鞄、どこで買ったんですか?」
 大学を出て、地元の企業に就職してから四年ほどの間に出張という名目の付く仕事は二度しか経験していなかった。広告代理店とはほとんど名ばかりの、普段は地元のポスターやチラシの類を作るだけの会社だったけれど、時折遠く離れた本社に社員が呼び出されることもあった。私は大きな駅の改札を抜けると、十五分ほどバスに乗り、大きなビルの三階のオフィスに辿り着いた。仕事の内容はよく覚えていないものの、確か、地元に関する広告の打ち合わせだったような気がする。夕方にビルのエントランスを出てから、全身が疲労しているのを感じつつ、私はまたバスに乗った。向かった先は駅とは反対の方向だった。陽はすっかり落ちていたと言うのに、どこまで進んでも外からは喧しく車のクラクションや人々の歓声が聞こえていた。高速道路の高架下を抜けて、しばらく進んだところで昼間新幹線の中で女性に聞いた地名を告げるアナウンスが響いた。
 どこにでもありそうな住宅街の中を、まだ耳の奥に残響を感じながら私は歩いた。勿論、自分が覚えている限りでははじめて来る場所だったけれど、妙に懐かしい景色だったのはもしかしたら、私が母と住んでいた界隈のそれと似ていたからかもしれない。女性に言われていた通り、まっすぐ通りを五分ほど進んだところに共同墓地は広がっていた。そして、敷地のすぐそばにはすっかり塗装の剥げた二階建てのアパートがあった。
 なんとなく、ずっとそんな予感を抱いていたとは言え、父がもう何年か前に亡くなっていることを知ったとき、不思議なくらい私の心境は穏やかだった。彼がどういう経緯でこの街に流れ着き、木造の古いアパートの北向きの部屋で死に、隣の共同墓地に埋葬されたのか詳しいことを私はあまり知らない。新幹線で会った女性を含め、建物の住民は彼のことを名前しか知らなかったし、大家だと言う、一階に住む壮年の男性もそれはそうで、彼の遺品の処分に困った末に欲しい人にあげてしまったと申し訳なさそうに言っていた。
「ここらへんはそんなに所得の多いとこでもないからねえ、ほら、色々事情のある人もいるし、詳しいことは聞かなかったんだよ」
 言い訳をするように大家はそう口にして、それから墓地のどこに父が眠っているのか私に教えてくれた。帰りの新幹線に乗らなければならない時間が迫っていた私は礼を言って、足早にその場所へ向かった。敷地の一番奥の方、大きな松の木が影になったところにある粗末な墓石に刻まれた名前は紛れもなく、父のものだった。
 はじめて訪れた日から一年ほど後、私はもう一度だけそこに行った。今度は出張のついでではなかった。墓に手を合わせた後、その場所を最初に教えてくれた一人暮らしの女性の家に寄って少し話をした。先に尋ねた大家はいなかったけれど、代わりに女性が知っている限りのことを教えてくれた。父がなにか病気を患っていたこと、時折、近くの工事現場で働いている姿を見かけたこと、亡くなってしばらくは誰にも気づかれなかったこと。私は話を聞けば聞くほど、彼のことが余計に分からなくなる思いだった。帰り際、父の遺品である鞄を女性は差し出し、勝手に使っててごめんねと言った。少し考えた後、私はそれを受け取った。
 父の所在について恋人はおろか、母にも話さなかった。見聞きしたことをすべて周りに話さなくても何がしかの判断を持てるくらいに私は十分大人であるという自覚があったし、故人になっている以上胸に秘めておいた方がいいと思ったのだ。勿論、小さな私の発見を伝えることで母の心はいくぶん救われるかもしれない。けれども、そんなことをしなくても、十分母は前を見て日々を生きていけるだろう、と私は感じていた。私がしたことは、父の鞄をささやかなヒントとして持ち歩くようになったことくらいで、母はそのことに何も言及することはなかった。
 父は死んだのだ、と私は改めて考えることがある。彼はいなくなったけれど、彼の書いた作品のすべてを私は読んだはずであったし、そこに謎は何もないと思っていた。私自身が製作者になろうという気持ちにはなったことがないものの、恐らくそれがどんな種類のものであれ、芸術家にとって作品はその人のすべてだ。だから、私にとって過去になって久しい彼の作品が今更目の前に出てくることは問題だった。
 深夜、私は「泉のほとり」を手に取った。やってきた兵隊たちはヨハンと育ての親である老人を殺そうとしたけれど、逞しく育ったヨハンは大きな穴を掘って彼らをそこに落とした。彼らはヨハンを産んだ母の許嫁の命令で来たのだった。……挿絵のあったページには端から端まで文字が並び尽くしてしまい、そこまでしか書かれていなかった。私は恋人のいない薄暗い家のリビングで一人、立ち尽くしたまま、窓の外から差し込む僅かな街灯を頼りに童話を読んだ。奥付があったはずの隣のページは真っ白になっていて、一番右端にたった一行分だけ言葉が足されていた。それがその日の分なのだ。
『ヨハンは老人に見送られ、旅に出ることにしました。』

    4

 あっという間に季節は秋と呼べる頃を過ぎて、冬になったことに気づいたのは仕事の帰り道、不意に雪が降り始めたからだった。駅の近くの大通りでは街路樹にくくりつけられた色とりどりのイルミネーションが鮮やかに光り、夜道を眩しく照らしていた。私は自分の影の色が変わるのを面白く思いながら、歩いているうちにふと首筋に冷たいものが当たるのが気になって空を見上げた。あまり背の高くないビルとビルの間にぽかりと空いた暗闇から柔らかな雪が降ってきていた。
 一冊だけ手元に残した父の不思議な童話は、ページの端から端、ちょうど二十行分文字が埋め尽くすと次の日にはどこから湧いたものか、新しいページが追加されるようだった。私と恋人は揃って夜を過ごせる日には真夜中まで起きていて、物語がどのような展開を見せるのか期待に胸を膨らませた。それは決まり切った毎日を過ごす二人のささやかな楽しみになっていた。特に、ヨハンが彼の母の夫から逃げる旅の中で難所に差し掛かるたび、次の行はどんなものになるだろうと私たちは何度も話した。私はかつて、自分が父の新作を夢中で読んでいときの興奮をまた思い出し、隣に並んで座る彼女も読書ばかりしていた小さな頃に戻ったみたいと言っていた。
 泉のほとりで生まれたヨハンは森を抜けて、山を越え、隣の街の困っている人々を助けた。その間に兵隊は三度、彼を貶めようと試みて、三度とも失敗した。十一月が終わる頃、彼は街で大きな富を手に入れていた。私は話の続きについて、恋人と予想を立て、真夜中を迎えるために出来るだけ早く仕事を片付けるようになった。
 スーツの上に着たコートの肩に雪を降り積もらせながら、私が恋人のマンションまで続く路地に入ったとき、いつもは静かな道がやけにうるさいように感じられた。足早に進むうち、それは気のせいではなく、住民という住民が外で立ち尽くす異様な光景が私を待っていた。彼らの多くは着の身着のままという格好でその中に恋人の姿を見つけた。
「……小火があったみたい」
 彼女は私の姿に気づくと、尋ねる前にそう言った。見上げたところ、三階の廊下に確かに消防服を着た男たちが立っていた。うちは、と私は聞いた。
「たぶん、だいじょうぶ。ちょうど買い物に行ってたんだけど、そろそろ入れると思う」
 ただでさえ、寒い日だったから、薄着で外にいるのに堪えかねたのだろう、近くに立っていた私たちと同年輩の男が舌打ちをしていた。私は自分のコートを脱ぐと、彼女のコートの上に被せた。体を冷やしてはいけないと思ったからだ。彼女が子どもを身ごもっているのが分かったのはその前の週のことだった。
 二十分ほど後に一階のロビーから数人の消防隊員が降りてきて、もう部屋に入っていいことを伝えた。私たちはほっと胸を撫で下ろし、エレベーター前の僅かな空間は混雑を極めた。恋人の部屋に入ることが出来た頃には午後十時を過ぎていた。私は自分の着ていたスーツを脱ぐと、その冷たさに改めて驚き、なにか暖かいものが食べたいと頼んだ。台所に立った彼女も夕食はまだだったようで、一時間ほど後にはリビング中にシチューの匂いが立ち込めていた。
「検診、どうだった?」
 食卓の前に腰を下ろすと、私は恋人に尋ねた。その日、彼女は仕事を早めに切り上げて、家の近くにある産婦人科医院に行っていたはずだった。
「順調に行けば、来年の夏のはじめには産まれるみたい」
 彼女はそう呟いて、少し微笑んだ。私は何気なく、シチューを口に運ぶその喉元からまだ外からは兆候の見えない腹のあたりまでゆっくりと視線を降ろした。話し合いというほど長く将来について話をしたわけではなかったけれど、年のはじめには挙式することに決めていたし、子育てに関してたとえ彼女が今の仕事を辞めることになったとしても、私は十分に家族を養えると考えていた。時折、電話をかけてくる母にも勿論、そういったことは伝えていた。色々なことがごく短い間に決定されたものの、自分たちの歳を考えたなら、それらはそうなるものなのだろうという認識を二人とも持っていたのだ。だから、私と恋人の関係性はなんら変わることなく、生活もあまり変わらなかった。
「それより、せっかく最近、人生が変わってくるような気がしたのに火事があったのは焦ったよ」
 私は人生が変わるという彼女の表現をおかしく思いながら、頷いた。思っていたよりも彼女に結婚願望があったことを知ったのはその一ヶ月ほどでの何よりの発見だった。「この頃、乾燥してるからね、ここも気をつけないと」
 うん、と彼女は言った。それから、遠くの方に目を遣って言葉を続けた。「本とかも、燃えたら困るしね」
 視線を追わなくても、彼女が鏡台のそばに置いた父の童話を見ていることは分かった。私はもう一度頷いてから、確かに今、あの本が二人の前からなくなってしまったら、どれほどの楽しみが奪われるだろうと思った。時計の針は午後零時に近づいていて、日頃の経験によれば、それから二十分も待てば新しい行が追加されるはずだった。私たちは食事を済ませると、前日も前々日もそうであったように時計の針を気にしながら食器を洗い、秒針がちょうど文字盤の十二を指したとき、元通り食卓に座っていた。
『ヨハンは住み心地の良い家も毎日遊んで暮らせるだけのお金も手に入れました。』
 その日の文字列を読むと、隣に座った恋人はこれだけかあ、と少し残念そうにぼやいた。前日までの内容から、彼が富と住処を得ていることはすでに分かっていた。
 毎日ふえていくとは言え、物語の中のたった一行なのだ、時には私たちにとってそれほど意味の感じられない文もあった。一方で大抵、がっかりした次の日には面白い一行が加わるということも知っていた。案の定、翌日の夜、自信を持ったヨハンは兵隊たちの追跡を止めるために案を練るという展開が私たちを待っていたのだ。
 師走の仕事が忙しい中でも運良く、職場の定休日と重なったクリスマスに私たちは少し遠くの街へ出かけた。大晦日はテレビ画面に合わせて年越しのカウントダウンを行い、一月が来るのはあっという間だった。正月が明けてすぐに行った結婚式はあまり派手ではなかったものの、さすがに同じ職場の知り合いを呼ばないわけにはいかず、新卒の頃から親しい同期が私のことを茶化すのをウェディングドレスに身を包んだ恋人はくすくすと笑った。私はその美しい姿に見惚れ、彼女が自分の妻になることに素直に喜びを覚えた。
  数年の交際期間で何度も旅行に行くことはあったから、改めて泊まりがけで出かけることに私自身は特に意味を見出していなかった。積極的だったのは新妻の方で、新婚旅行は人生でそう何度もないんだから、と言いながら駅の中の本屋で買ってきたという観光案内雑誌に目を通していた。私は何度もあったら困るなと内心呆れつつ、隣からその様子を眺めた。飛行機の予約表を片手に彼女の家を出発したのは仕事の都合で挙式の次の週だった。
 電車にならば、数え切れないほど乗ってきたけれど、飛行機に乗ったのは人生でも数えるほどしかなかった。私は離陸してすぐに機体が傾き、耳の奥で変な音が鳴り始めることに顔をしかめた。すぐそばのシートの彼女は目をつむったまま、膝に抱えた手荷物のショルダーバッグを両手で握りしめていた。家を出るとき、忘れそうになった「泉のほとり」がその中に入っていることを思い出した私は、本が折れてしまわないか気になった。物語はちょうど、街で一番偉くなったヨハンが実の母の夫の元に行き、考えを改めさせたところまで進んでいた。自らの生活が大きく動きはじめていることを感じつつも、やはり毎日書き足される内容を楽しみにしていたから、旅行に持っていきたいと妻が言い出したとき、私は特に反対しなかった。
 とは言え、ホテルに着いて豊かな北国の自然を満喫するうちに私たちはすっかり父の童話のことなど忘れはじめていて、前日の分を確認することを忘れたのに気づいたのは二日目の昼過ぎになってからだった。そのことも、本を宿のロッカーに預けたことを思い出すとあっという間に意識から遠ざかっていき、私たちは珍しく三日続けて物語の先行きを見送らなかった。
 そこにどんなに珍しいものが並んでいたとしても、四日も同じ場所にいれば、少しずつ感動は薄れていくものだ。一週間の旅程も半ばにして、私は朝、目を覚ますと自分がホテルの寝室のベッドの上にいることに慣れてきていた。雪解けで流れの激しい小川からは離れた、静かな場所だったけれど、小鳥が鳴く声だけは日の出ている間中ずっと聞こえていて、私はそれに耳を傾けながら隣で寝ていた妻を起こさないようにそっと布団を出た。そして、トランクから着る服を選んでいるうちにふと、一階のロビーにあるロッカーの鍵が前日着ていたズボンのポケットに入れっぱなしになっていたことを思い出した。何を預けていたっけ、と一瞬考えて、細々した貴重品の中に父の童話があることに気づいた。私はとりあえず目に付いた服に着替えると、エレベーターで一階まで降り、鍵を使ってロッカーの扉を開けた。
 使わないクレジットカードをまとめたケースや妻が結婚祝いに義父母から貰った宝石のネックレスなどの奥に本は置いてあった。私は周囲にいかにも暇を持て余した若い従業員の男しかいないのを確認して、それを取り出すと、その場でページを開いた。ヨハンという名前が分かったはじめの夜の分から一言一言、漢字の上のふりがなまで確認するようにゆっくりと読み進め、数日のうちに加わった新たな何行かを見つけた。愛情も富も、すべて手に入れたヨハンは今まで自分を追いかけてきた兵隊を従えるようになっていた。そしてふと、自分を育ててくれた老人に会いたくなり、森に入ったということが書いてあった。
 私は右手の指を折って、読み忘れていた日数、つまりふえたはずの行を数えた。ページの端まで文字は埋め尽くしていたけれど、もう一行分あるはずだと考え、紙をめくった。そこにはやはり、一列に文字が並んでいた。
『けれども、あの綺麗な泉はすでになくなっていました。』
 はっきりと、そう書いてあった。私はなにかを失った気分になった。 

    5

 ホテルのフロントで手続きを代行してもらったレンタカーは思ったよりも旧式のもので、アクセルを踏み込むとエンジンが大きな唸り声を鳴らした。カーステレオをつけると、ラジオのローカル局に電波が設定されていて、特に深い考えもなく、私はそのままにしておいた。助手席では妻がやや疲れたような面持ちであるのを誤魔化すように行きたい場所や食べたいものなど、欲求を並べ立てた。私は思いのほか、自分が無口になっていることに思い当たり、彼女の気遣いをありがたく思った。
 その日はほんとうであれば、地元にいたときからテレビで目にすることのあった大きな動物園に行くはずだった。長い間、フロントのロッカーの前で立ち尽くしていた私が我に返り、部屋に戻ったとき、妻はトイレの床に膝をつけて苦しそうに嘔吐いていた。私はしばらくして、寝室に戻ってきた彼女が無理にでも動物を見たいと主張するのをなだめ、代わりにドライブに出かけることを提案した。少し遠くまで車で行って、惹かれるものがあればそれでよし、何もなかったら、温泉でも入ろうということだった。
「ねえ、なにかあった?」
 出発する前に軽く目を通した地図の記憶を頼りに、国道沿いを進み続け、少し大きな交差点で信号が切り替わるのを待っていたとき、ふと気になったというふうに隣の妻が尋ねた。私には彼女がずっとタイミングを窺っていたように思われて、申し訳ない一方で反発する気持ちもあった。べつに、と応えてから、これではまるっきり嫌な人間ではないかと自分で呆れた。「朝、ロビーで本を読んだから、そのことを考えてただけ。ごめんね」
 信号が青になり、目の前の車がのろのろと動き出した。私もゆっくりとアクセルを踏みながら、バックミラーに映る妻を見た。ほんとうに体調が優れないのだろう、心なしか青白い顔をして、視線はまっすぐ前を向いていた。
「本って、『泉のほとり』?」
 軽く頷いたけれど、彼女が見ていたかどうかは分からなかった。それでも、沈黙していたことが肯定に捉えられたようで、道路がまっすぐであるのを確認してからもう一度ミラーを見ると、なにか言いたいような顔をしていた。
「ここ何日か、忘れてたから、気になって読んだんだけど。……鞄に入れてきたし、よかったら読んでみて」
 私の言葉に彼女は首を横に振った。そのとき、歩道から不意に中学生くらいの少年が自転車で飛び出してきた。私は慌ててハンドルを切り、隣からの返事を聞き取ることができなかった。鳴らしたクラクションの音が声を掻き消してしまったのだ。「……なにか、言った?」
「読まなくてもいいって言ったの。その代わり、どんなことが書いてあったのか教えて」
 大きくはっきりと聞こえるように彼女はそう言った。私はすぐにもう一度信号につかまるまでの短い間、迷い、車が止まると、ヨハンの産まれた泉のほとりと呼べる場所はなくなってしまったらしいということを伝えた。そして、そのことがどういう意味なのか、考えてしまったのだと言った。妻は黙って耳を傾けていた。
 この国は山が多い場所だということは知識の上で知っているつもりでいたけれど、実際にどこまでも続く山道に入ってみると考えの浅さを痛感せずにはいられなかった。道なりに進んでいるうちに気づけば、市街地は過ぎてしまい、トンネルを抜けた先はすでに山林の中だった。記憶の上ではそのまま更に進み続ければ、有名な観光地に辿り着けるはずであったものの、すれ違う車が少なく、不安に思うところもあった。私は免許を取り立ての頃、同じような山道に入り、まっすぐ進んだつもりが見当はずれの場所に着いてしまったことを思い出した。もう十年近く前の話で、そんなところに来なければ思い出すこともなかっただろう。やがて、しばらく急勾配を登っていくと、視界の開けた場所が見えた。トイレと待合室を備えた小さな休憩小屋が道路の脇に立っていた。少し休もうかと尋ねると、鏡の向こうの妻が頷いたので、速度を落として路肩に車を停めた。
 お手洗いを先に済ませ、待合室の木製ベンチで妻を待っていると、近隣に住んでいるらしい、いかにも農夫然とした格好の男が入ってきた。部屋の隅の掲示板になにか、手書きの知らせを画鋲で留めて、こちらの方に顔を向けた。
「どこから来たんですか?」
 裏声混じりの彼の言葉には無理に共通語を話そうとしているような妙なイントネーションがあった。地元の多少名の知られているであろう地名を伝えると、ははあと大げさに唸った。「それは遠くから。……あ、展望台は行った?」
 どうやら、小屋の裏側に周囲の景色が見渡せるところがあるようだった。私が今来たばかりであること言うと、彼は熱心に勧めて部屋を出て行った。妻が戻ってきたのはちょうど入れ替わりだった。
 展望台と言っても、崖の切り立った空間に柵を設けただけの場所へ私たちは歩いて行った。思いのほか、高いところまで登っていたらしい。山の稜線がどこまでも続く光景の美しさに胸を打たれた。そばに立った彼女も綺麗なところね、と呟いた。
「意外な収穫があったね」
 少し強く風が吹くのに負けないように私は言った。それから、高いところが苦手な人間に限って抱いてしまう怖いもの見たさで何歩か前に出ると、柵の向こうに少し身を乗り出した。遥か真下の方に見えたのは、絵の具の深緑を塗りたくったような森とその中にぽつりと浮かぶ水面だった。泉が見える、と自分でも知らず知らずのうちに私は口に出した。顔を動かすと、いつの間に妻は私のそばにいた。彼女は遠くへ視線を遣ったまま、口を開いた。
「私ね、ここ何日か童話を読んでないこと、わざと言わなかった」
 それは秘密を打ち明けるような口ぶりだった。どういうこと、と私は尋ねた。「来る前はあんなに続きが気になるって言ってたのに」
「ううん、それはほんと。でも、このまま話が進んで終わっちゃうのも怖かった。……そうしたら、あなたが落ち込むと思って」
 私ははっとした。確かに、二人の中で物語が終盤に差し掛かりつつあるという予感はあった。どんなに長い話だとしても、童話は童話だ。いつかは、着地点が見出されなければならない。そんなことは分かっていたはずなのに、私はその日の朝、自分が取り乱したことを思い出した。物語が終わることを父との最後のつながりが切れることと同じように思っていたのかもしれない、と感じた。
「そうだね、どんなに割り切ったつもりでも、もうこれ以上の話はないんだって分かる日が来たら、少し落ち込むかもしれない」
 出来るだけ素直な気持ちで、自分の心のうちを確かめるようにそう言った。どこまでも澄んだ空に雲だけが風に飛ばされてゆったりと動いていて、立ち尽くす私たちの上に影を作ってはまたすぐに通り過ぎた。しばらく、妻は何も話さずに景色を見ているようだった。やがて、見える限りの視界を目に収めると、私の方を向いて言葉を紡いだ。
「泉のほとりってどんな場所なんだろうね」
 一人で呟くような、それでいて問いかけているような声だった。「……そんな綺麗な場所、この世にはないような気がする」
「だから、あの人も童話に書いたんじゃないかな」
 けれども、そう言葉にしつつも、私にはどこかにそういう場所があってほしいという願いはあった。多少美化して描き出すことがあっても、なんのイメージもなしにゼロからその風景を組み立てられるはずはないと考えていた。私はもう一度、柵の向こうの遠くの水面を見た。私には、それが池ではないと言い切れる保証もありはしなかった。にもかかわらず、そんな水溜りの近くが父にとっては「泉のほとり」だったのかもしれないし、それならば私にとってもどれほど綺麗な場所に見えることだろうと思った。
「もしくは、ヨハンに見えなくなっただけかもね」と妻は言った。
「童話はまだ終わったわけではないし、きっとこれから分かるよ」と私は返した。
 一週間の旅行から、七割の満足感と三割の疲労感を胸に帰ってきた後、しばらくはまた代わり映えのない生活が私たちを待っていた。目に見えない関係性が出来たところで、日々の仕事が減るわけでもなく、妻の作る料理の味が変わるわけでもなく、段々膨らんでいく彼女の腹部と父の童話だけが時間の経過を伝えていた。私は二月中旬の日曜日に、もう一度新幹線の乗車券を買い、父に会いに行った。家で留守番をしていた妻には私がどこに向かうのか話した。彼女は父が亡くなっていることに少し驚いたようだったけれど、私の行動を引き止めることはなかった。
 肌寒い日だったから、いつもより多く重ね着をしたことが裏目に出た。バスを降りて、共同墓地へと続く路地を歩くうちに私は額に浮かぶ自分の汗を不快に感じた。そのまま敷地に入らず、近くの花屋に寄ると、若い店員に百合の花を薦められた。故人だからと言って、必ずしも菊であることもないんですよ、と店員は言った。私には、恐らくこの場所を訪れるのもこれが最後だろうという奇妙な確信があって、それならばなにか供えるものでも持っていこうと思ったのだった。
 以前、父が最後に住んでいたアパートの大家から聞いた話によれば、広い園内に並ぶほとんどの墓は身寄りの分からないまま、亡くなった人のものであるとのことだった。目につく墓石に刻まれた名前という名前を読みながら父の元へ私は歩いた。こんなにも多くの人が孤独な最期を迎えたなんて、と感傷的な気分になるところもあった。奥まで進むと、何年か前に見た大きな松の木は変わることなく父の墓石に影を落としていた。私は抱えた百合の花束を置こうとして、そこに一輪の薔薇が供えてあることに気づいた。辺りを見回しても薔薇が咲いている場所はなく、萎れてはいたけれど、それが誰かの手によるものであるのは間違いなかった。花束を置き、軽く手を合わせてから、コートのポケットに入れた携帯電話を取り出した。
「……どうしたの?」
 電波の向こうの母の声は妙に掠れているように聞こえた。私はたった一言、父さんのお墓にいると伝えた。母はへえ、と応えた。それだけで、父の行方を母も知っていたことが分かるには十分だった。
「知ってたの?」
 尋ねると、母はまあねと言った。それから、あんたは、と私に聞いた。私は偶然、新幹線の席であの太った女性と会った数年前の経緯を手短に話した。訪れるのはその日が三度目であることも伝えた。
「そう。……今、家にいるんだけど、久しぶりに帰ってこない?」
 実のところ、母が引っ越してから私は二度か三度、新しい家には行ったのみでずっと妻の家に住み続けていた。けれども、母にとって私が来ることは「帰ること」であるようだった。何にせよ翌日も仕事に行かなければならず、その日のうちに地元へ戻るつもりだったので、私は了承した。
 帰りがけに墓地の隣の二階建てアパートに寄ったものの、生憎大家も詳しいことを教えてくれた女性も部屋にはいないようだった。駅まで着いたとき、電光掲示板に表示されていた新幹線の出発時刻はその五分ほど後で、私は急いで階段を駆け上がると、車内に乗り込んだ。指定席の乗車券は持っていなかったけれど、乗客は少なく、座ることが出来た。車窓から見える大都市の灯りがゆっくりと動き出すと、二時間ほどの移動が退屈に思えて、鞄から父の童話を取り出した。家を出る前に妻が持っていくように言ったのだ。
 意外にも、物語はまだ続いていた。ヨハンは泉を探して森の中を隅から隅まで歩き回ったけれど、そんな場所はもうどこにもなかった。諦めた彼が自分の家に戻ったとき、そこでは育ての親である老人が彼のことを待っていた。二日前の一行で老人は彼の目を見つめ、語り出した。ねえ、ヨハンと老人は言った。次の日の一行では、ほんとうに大切なものはなくなってから気づくものなのだよ、と言葉は続いた。
 私は物語の一番はじめから前日に書き加えられたところまで、「泉のほとり」を三度読み返し、いつの間に寝てしまった。あやうく、乗り過ごす瀬戸際で目を覚ますと、私鉄の列車に乗り換えて母の家へと向かった。午後十時を過ぎて、着いたとき、部屋には母だけでなく、妻の姿もあった。
 久しぶりに母の手料理を食べている間、先に夕食を済ませたらしい母と妻は実の親子のように親しく話していた。妻は母から、私が電話をかけたことを聞いていたらしい。ずいぶん長い間我が家で触れられていなかった父のことが時折、話に出てきた。私が食事を終える頃、彼女が目配せをしたので軽く頷いた。私たちは、二人の間で秘密にしていた童話のことを母に伝えた。
「……これ、確かあんたが産まれる少し前に書いた本だった気がする」
 鞄から童話を取り出し、渡すと、母は老眼鏡のつるを少し人差し指で上げてから呟いた。私と妻は目を見合わせた。読んだことは、と妻が尋ねた。母は覚えてないとすぐに応えた。「でも、面白い話なんでしょうね」
 柱時計が午前零時を告げる鐘を打った。最終電車はもうすぐだったけれど、私たちは急いで帰ろうとはしなかった。向かい合わせに座った母はテーブルの上の本をめくると、ああ、と声に漏らした。新しい一行が追加されたのだった。
『でも、それはもう十分に君の心の中に息づいているということでもある。』

    6

 父が亡くなったのは母によれば、私の学生生活最後の年の頃だろうとのことだった。彼の死後、何年か経ってから、母の元に手紙が届いた。差出人には父の名前とともに発送の代行を請け負った会社名が書いてあった。生前の彼はどうやら、届ける日時を指定した上で手紙の保管を頼んでいたようだった。冬の朝、母はまだ自室で眠っている息子に隠したまま、夫の言葉を読んだ。そこには連帯保証人になっていた知人の失踪により、借金を背負ってしまったことや金融会社からの取り立てによって、母と私に不安な思いをさせたくなかったということが書いてあった。姿を消した後の彼は元々あまり強くはできていない体を酷使して、少しずつ金を返したらしい。一方で無理が祟って病気になってしまったけれど、病院に行くこともできなかったと手紙に綴られていた。
 母は私に何も言わず、父の元へ通った。手紙の末尾には、お金を返し終えて家に戻ることが出来たなら、笑いながらこれを読みたいと書いてあったけれど、結局彼は自らの希望を達することができなかった。母が一年に一度、共同墓地の墓石の手入れをするようになったのは、代わりに自分が彼の元へ行くことで少しでも未練を晴らせたらということなのだろう。私はそのことを本人に聞いてからようやく、父の小さな墓に汚れが少ないように感じたことを思い出した。
 春が近づいてくるにつれて、妻の腹は大きくなり、大事を取って会社は休職することになった。週末になると、日頃暇を持て余した彼女の気を晴らそうと決まってどこかに出かけ、その後、母の家に寄った。三人で夕食をともにして、帰り際には父の遺した童話を見守った。
 物語は四月の最後の日曜日、老人の長い言葉が終わった夜にヨハンが泉のほとりの夢を見るところで終わった。一番最後の行には『泉のほとりを見つけたヨハンは幸せな気持ちになりました。』と書いてあり、そのすぐそばに『(おわり)』と記されていた。「泉のほとり」は残された私たちの前でようやく一編の童話になったのだった。母は勿論、私も妻も終電の時刻のことをすっかり忘れ、三人ともしばらくの間余韻を味わうように動かずにいた。本は母の勧めによって、私たちが持っていくことになった。
「童話は子どものためのものだよ」
 そう母は言い、両手で私と妻の背中を軽く叩いた。
 七月に入ってすぐの水曜日、私は病院の待合室のソファに座っていた。妻が破水したのは、予定日を数日過ぎたものの特に何事もなかったので仕事に出た矢先のことだった。職場から産婦人科医院までの間のことを私は夢中で走ったため特に覚えていない。あまり急いで接近した所為か自動ドアがうまく開かず、受付の女性に呆れられた。以前から、妻が決して苦しい顔を見られたくないと言っていたこともあり、私が分娩室に入れるのは無事に子どもが産まれてからだったけれど、気持ちはなかなか落ち着かず、何度も腕時計の針を見た。
 あれほど長い数時間を私はそれまで経験したことがなかった。たった十分が何年にも何十年にも感じられた。部屋の扉が開き、看護師に名前を呼ばれたとき、疲れ切ったはずの背筋は反射的に伸びた。分娩室に入ると、妻は玉のような汗を額に浮かべて、皺くちゃな女の子をその腕に抱えていた。私は大きな溜め息を吐いた。
 妻の退院後、しばらくして私たちは家を引っ越すことにした。出産前から度々そういう話は出ていたものの、結局子どもが産まれてから考えようということになっていたのだ。いざ、子育てをはじめると、妻の家にあった物の数は倍以上に膨れ上がり、やはり手狭になってしまったから仕事が休みの日に私は近所の不動産屋を熱心に巡るようになった。そして、夏の終わりにはマンションを引き払って、隣駅近くの一軒家の二階を丸ごと間借りすることに決まった。
 病院の待合室での時間に比べて、それからの半年ほどは私にとって一瞬のことのように感じられる。引越し祝いと私の三十歳の誕生日祝いを行ったとき、そろそろ痩せないと、と呟きながらショートケーキをつついていた妻は言葉とは反対に前よりもふっくらとした体型になっていった。うまく託児所が見つかったので、職場には間もなく復帰したけれど、当分は夕方になれば仕事を切り上げ、私が帰るまでの間娘の世話をする生活が続くはずだった。子どもは驚くほど、日に日に成長していて、平日は夜にしか様子を見れないことが私には残念でならなかった。
 慌ただしく毎日が過ぎて、年が明け、また春が来た。私は溜まっていた職場の仕事にひと段落付けると、ようやくゆっくりとした心持ちで休日を過ごしていた。家の一階に住む老夫婦と妻はすぐに打ち解けたようで、窓からは庭先で夫人と彼女が植物にホースで水を遣っている様子が見えた。私は、手を止めるとすぐに泣き出す揺りかごの中の娘が眠りに落ちたのを確認してからも、しばらくそばに立っていた。先月のうちに娘の首はすわっていたし、体重も計るごとにふえていて、まず順調な子育てだなと考えた。静謐な昼下がりで、暖かな陽の光が部屋の中に差し込んでいた。
 私はふと、童話のことを思い出した。あれほど私たちを夢中にした父の本は物語が終わった日を最後に、一度も開かれていなかった。べつにその存在を忘れていたわけではなかったけれど、日々の出来事だけで私たちには十分だったのだ。そういえば、どこに置いたっけ、と久しぶりに私は思い、娘を起こさないようにそっと歩き出した。家にいる時間の長い妻は時折、部屋の物の配置を変えているようで探し物にはいつも時間がかかった。
 リビングの夫婦共用の本棚の中、「家庭の医学大辞典」とモーパッサンの「女の一生」の間に隠れるように「泉のほとり」はしまわれていた。私はあの秋の日、自室で背表紙を見つけたときのことを懐かしく思った。金色で印字されたタイトルはやはりなにか惹きつけるようなところがあった。手にとると、台所に寄ってコーヒーを一杯淹れ、食卓に座って私は物語をもう一度読みはじめた。そのうちに夫人の手伝いを終えた妻が娘の様子を窺うように足音を立てず、戻ってきた。
「また、読んでるのね」
 彼女の囁く声に私は頷いた。それから、他の椅子を引き寄せると、隣に座るよう促した。妻は腰を下ろして、一緒に話を読んだ。色褪せた紙の上に何度も浮かぶヨハンという名前に私は旧友に会ったような深い親しみを覚えた。彼は誰なのだろう。結局、泉のほとりとは何なのだろう。そんなことを考えた。娘が大きくなって、この本を読む日のことも想像した。
 物語は何度も何度も繰り返し読んだ半年あまりと同じ通りに進み、終わった。私は息をついて、最後のページをめくった。そして、おや、と思った。書き尽くされたはずの文字が奥付の脇にもう一行分並んでいたからだ。それまでの形の定められたものとは違って、いかにもボールペンで書いたような癖のある字だった。
『これから産まれる子どもに捧げる』
 本を持つ手が震えているのを感じた。妻が私のことを見た。私は立ち上がると、近くにあった鞄の中からボールペンを取り出した。ゆっくりと最後の行の隣に文字を書いた。
『そして、その子どもは彼の子どもにこの物語を捧げる』
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第二十九回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2014.12.31(Wed) 20:21
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