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non fiction


 物書きには2種類の人間がいる。
 
 自分の理想を小説の中で繰り広げる者と、自分を小説内でさらけ出すことでしか書けない者だ。
 
 私は明らかに後者の人間だ。ファンタジーを書けば妖精がぎこちなく宙を舞い、ミステリーを書けば探偵が首をかしげながら謎解きに臨む。
 私には、自身が経験したことのない物語が書けなかった。空想の物語が思いつかないわけではないのに、不思議と筆は進まず、ようやっと書き上がったものも読むに堪えうる出来ではなかった。
 
 
「小説家としては大いに欠陥品だね、君」
 
 部長は悠々と机に腰掛け、外国人のように芝居がかった仕草で肩をすくめた。部室には私と部長しかいないから、マナーの悪さを咎める人もいない。端の欠けた机は頑丈さだけが取り柄だから、細身の部長が乗ったところでびくともしなかった。
 
「別に、得意なジャンルを書けば良いだけの話ですから」
「そうはいっても、小説を書くのにフィクションが書けないとは、矛盾ではないかね」
「うるさいなあ」
「うるさいとはなんだね、先輩に向かって」
 
 私が文藝同好会に入部したとき、部長は既に部長ではなかった。数代前には実際に部長をしていたらしいが、その座を退いてからも周囲は部長と呼ぶのを辞めなかったらしい。部長が留年の末院生となり、彼女を名前で呼ぶ先輩がいなくなった今、私もふと彼女の本名が思い出せなくなる。
 そもそも、同好会のトップといえば会長だろう。何故彼女だけ部長と呼ばれているのだろうか。
 
「君の作品はね、面白いさ。そこは評価しよう」
「はあ、ありがとうございます」
「君のどこまでもリアリティを追求した小説は、私には書けんものだからな。自身の生々しい感情を書いているだけあって、体温があるのだよ。非常に好ましく想うよ。だがね」
 
 もう7月に入ったというのに、窓の外ではしとしとと雨が止まない。湿度を上げてまわるかのように降っては止み、降っては止みを繰り返す雨の鬱陶しさに、少しイライラした。
 
「君、恋を知らんだろう」
「別に良いでしょう」
「いかんな。恋はいかなる物語にもつきものだというのに」
「私の物語に、恋はつきものではありませんから」
「そんなことはないさ。君、恋とは生きている限り避けては通れんものだよ。なんせ遺伝子が恋をしろと叫んでいるのだからな!」
 
 狭い部室でクルクルと舞い、軋む音だけは立派なソファに向こうずねをぶつけた部長は、低く呻いてうずくまった。酔っ払いと見紛うような痴態だが、この人は常に自分に酔っているから、あながち間違いでもない。
  涙目になった部長に軽く溜息をついて、右手を差し出す。容赦なく体重をかけて立ち上がり、部長はぱんぱんとスカートの埃を払った。そろそろ大掃除をしないと、最近この部屋は少し埃っぽい。クーラーをつけっぱなしで、窓を開ける機会が減ったからだろうか。
 我々はなんのために生きているのだと思う、と何事もなかったかのように言葉が続けられた。
 
「生物とは遺伝子を後世に繋げるためにある、とかの人は言った。おかしいとは思わんかね。我々の肉体が遺伝子の箱船だというのなら、何故惚れた腫れたの面倒なプロセスを踏まねば子作りができんのだ? 数多の他種同様、発情期に強そうな相手を捕まえて交尾すれば良いではないか」
「やろうと思えば、恋愛感情抜きだっていくらでも」
「野暮な茶々は止せ。要するにだな。人間とは、恋愛感情などというあやふやなもので子孫を残そうとするおかしな生物なのだよ。見目が悪く、屈強な肉体も持たないものであっても、伴侶を持ち子をなすことが出来る」
 
 おかしいとは思わんかね。部長は繰り返した。
 
「なあ、我らは何故感情を持って生まれたのであろうな。そんなものがなければ、小説などというまやかしを書こうという気にもならんかったろうに」
「そうかもしれませんね」
「そして君の小説には、愛が足りんのだよ」
「愛」
 
 思わず笑ってしまったが、部長はいたって真面目な顔で、愛さ、と繰り返した。愛が足りない小説。愛が足りない、私。
 
「君の小説はね、感情が剥き出しでさらされている分、熱のない部分がよくわかるのだよ。ちんまりと挟まった色恋沙汰のシーンはいつも、体温がない。つまらんのさ」
 
 私の舌打ちなど気にも留めず、部長は嫌みったらしく私の頭を撫でた。
 見透かされたようで癪だが、確かに恋愛とは縁遠い人生を送ってきた。他者から愛されるような容姿をしているわけでもなく、愛敬を振りまけるほど器用でもない。仲の良い異性など数えるほどしかいなかったし、彼らに対して特別な感情を抱くこともなかった。恋愛小説や漫画は嫌いではないが、主人公たちが恋に振り回されるさまは、どこか滑稽にすら感じられた。
 私が書く小説のは恋愛を主に取り上げたものではなかったが、話に華を添えるために恋愛ほど適しているものはない。彩りに使うパセリのように、味に差し障りない程度恋愛シーンを加えたつもりだったが、それでは駄目だと、この人は言うのか。
 
「命短し、恋せよ乙女、さ」
「……そんなこと言われたって、やろうと思って出来るものでもないですよ」
 
 深呼吸をして冷静さを取り戻した私を見て不満げに鼻を鳴らし、部長は手品のように私のスマホを取り出して、何やら操作し始めた。
 
「ちょっと、どうやってロック解除したんですか」
「なに、以前ちょこっと指紋を登録させてもらっていただけさ」
「いつの間に……」
 
 我が物顔でスマホを操って、部長は鼻歌交じりにご機嫌だ。人を振り回すことを至上の喜びとするかのように、こういうときは嬉々とした表情をするのだから、いただけない。いかにも文藝同好会然としたおさげの黒髪をるんるんと揺らしながら、部長はスマホを投げて返した。最近ちょっと容量が怪しくなってきた愛機は、日記のアプリを追加され気怠そうにフリーズしている。
 
「なんですか、これ」
「見ての通りだが。君には恋する乙女になってもらう」
「だから無理ですってば」
「仮にも物書きの端くれを自称するものが、恋のひとつも装えなくてどうする」
 
 言い返すのも面倒になって、スマホの電源を落とした。冷えすぎた部屋で、私のスマホだけが熱くひりつく。そろそろ、新しい機種に変えた方がいいのかもしれない。
 
 
 恋か、と呟きながら、ぼすんとベッドに寝転んだ。夜だというのに、開け放した窓からは昼間の熱に爛れた風しかやってこない。パーツを無くしたから羽をガムテープで固定している扇風機は、それ故弱回転しかさせられないでいる。エアコンをつけるべきか悩んだけれども、今月買った本の数を思い出し、やめにした。
 恋とはなんだろう。そのあまりに愚かで暴力的な力を、私は知らない。周囲の人間が続々と恋に落ち、破れ、あるいは成就し、たかが一人を相手に一喜一憂するさまを、ただ傍観していただけだ。どんな恋愛小説を読んでも、その感情が私のものになることはなかった。
 コンプレックス、と呼べるほど大したものではない。ただ、誰からも愛されないことが、誰のことも愛せない私が、時たま酷く空虚に思えてしまう。
 そもそも世の人々は、どうやって好きになり、好きになってもらうのだろうか。私のように、醜く、愛される要素のない女は、どうすれば良いのだろうか。
 姿見と向かい合いながら、クレンジングを手に取り、塗りたくった化粧を落とす。昔から自分の容姿が嫌いだった。重たい一重まぶたも、分厚いたらこ唇も、存在感のある団子っ鼻も、丸くパンパンに膨らんだ顔も、だらしなくたるんだ身体も、何もかも全て。化粧を覚えて少しは見られる顔になったけれども、長年抱えてきた劣等感はそう簡単に消えない。
 私なんかが恋をしたところで、好きになられた人が可哀想でしょう?
 
 装いたまえよ、と部長は言った。特別な一人に恋い焦がれる哀れな女子大生を装いたまえ。さすればその気持ちが、いつしか装うだけのものではなくなる、かもしれぬ。などと無責任なことを。
 
 部長の言い方はムカつくが、恋を手に入れることは、確かに私の執筆活動にプラスとなるだろう。こんなことをしていれば、無意識に封じてきた心が本当に起きてくるのかは、わからないが。
 
 相手のイメージが大切なのだよ。部長は言った。具体的なイメージが出来なければ、恋心など生まれはせん。実際に仲の良いやつを相手に据えると良いだろう。そやつに恋をしていると思い込み、振る舞うのだよ。
 
 迷うほどの知り合いもいなかったので、とりあえず同好会の同期を思い浮かべることにした。3年生は私と彼しかいないので、必然的に話す機会は少なくなかった。口数の少ない者同士、さほど交わす言葉は多くなかったのだけれども。
 友人をこんなことに使うのもなあ、と一抹の罪悪感を覚えたが、バレなければ大丈夫だろうと気を取り直し、スマホと向かい合う。何を書けば良いのだろうか。これまで読んだ数々の小説を必死に思い出し、なんとか記入を終えた。
 
 『7月9日 晴れのち雨
 今年の梅雨は長いなあ。うっかり傘を忘れてきちゃったから、朝だけ晴れるのはやめてくれないかな。
 今日は彼に会えなかったから、夢では会えるといいな』
 
 頭の悪そうな文章だなと思ったけれども、推敲する気力も無く、布団をベッドの下に放り投げて、夜の熱にうなされながら、寝た。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 授業が早く終わったので、バイトまでの暇つぶしに部室へ顔を出すと、珍しく部室の主である部長の姿はなく、代わりに彼が静かに本を読んでいた。いつもは効きの悪い冷房が、今日は珍しく仕事をしている。
 
「久しぶり、副会長」
「その呼び方やめてってば、会長」
 
 彼は私とのジャンケンに負けて会長を押しつけられたことを、未だに根に持っている。仕方ないじゃないか、2人しかいないのだから。
 改めてまじまじと彼の容姿を見てみると、これが部長の言う「恋愛感情なくば選ばれることのない」異性なのだなと思った。運動嫌いで痩せて白い肌をしていて、全体的に線が細い。弱そう、という言葉がこれほどしっくりくる人もそういないだろう。子孫をなす前に死にそうだ。
 
「なに」
「ううん、なんでも」
 
 ちなみに、性格も特別良くはない。悪い人ではないが、とことん愛想が欠けている。私が言えることでもないのだが。
 
 彼はそれ以上会話を続ける気もなさそうに、本に視線を落とした。最近読んだばかりのお気に入り作家の作品だったため、もう一度声をかけようとしたが、同じ本好きとして読書の時間を邪魔されるほどいらつくこともないなと思い、隣の椅子に腰を下ろした。
 本棚から日に焼けた1冊を取り出し、手に取る。ミステリー作家が珍しく恋愛をテーマに書いた短編集だった。ミステリーは面白かったがこちらのジャンルは不得手そうだなと思ったものの、なんとなくそのまま読み進めることにした。
 
 コチコチという時計の針音と、どちらかがパラリとページをめくる音だけが、しばらく部室を満たしていた。
 短編集は思いの外グイグイと私を引き込んだ。ゴテゴテと甘く飾り立てた恋愛小説ではなく、あくまで淡々と、ただ日常の姿をありのままに書き表す描写が、この作家らしくて好ましかった。どこにでもありそうな、手を伸ばせば届きそうな、目の眩むほどの目映さはないがどこか憧れるような、そんな恋物語だった。
 いつか私もこんな風に、ただ一人が隣にいてくれることを願うようになるのだろうか。静かにページをめくる彼をチラリと見やる。華奢な身体に似つかわず、手は大きくゴツゴツと節くれだっていた。小さい頃兄の真似をして、指をポキポキならしまくった影響だと言っていた。いつも仏頂面な彼にもそんな子供時代があったのかと、吹き出したのを覚えている。
 
 心地良く揺蕩っていた沈黙を破って、遠慮がちにスマホが震えた。本を閉じて取り上げると、バイト先の塾の生徒から、体調不良で休むという連絡が入っていた。どうせ休むなら、もう少し早くに言ってくれれば、色々できることもあったのにと嘆息する。帰ろうかとしばし悩んだけれども、彼の熱が伝わるか伝わらないかのこの距離感で並んで座っていることがなんだか惜しくなって、もう一度本を開いた。今日はこの1冊を読み終えることにしよう。
 
 
 次に顔を上げたときにはすっかり日が傾いていて、ずっと下を向いていたせいか首がやけに痛かった。頭をぐるりと1回転させて伸びをすると、隣で彼が、読み終わったの、と問いかけた。
 
「うん。そっちも?」
「うん」
 
 見ると彼はとうに本をしまっており、帰り支度を済ませていた。私が読み終わるまで待っていてくれたのだろうか。そういえば、よく冷えていた部屋はいつの間にか少しぬるくなっている。少し意識してみると、案外良いところが見つかるもんだなと感心しつつ、立ち上がった。
 
「このあと暇? ご飯行こうよ」
「あ、それで待っててくれたの」
「そう。バイト?」
「ううん、なくなったから平気」
 
 いつもやかましい部長が先導するから、彼と2人で食事に行くのは珍しく感じられた。そうか、普通の女の子はこういうところでときめくのかと、頭の中で小さな私が冷静に見ていた。彼が自ら誘ってくれたのは、よこしまな気持ち抜きに、嬉しかった。
 
 『7月10日 雨
 今日は2人きりになれたから、ドキドキしちゃった……。
 さりげなく優しいとことか、やっぱり好き!
 ご飯食べてるとこ、可愛かったなあ』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 毎月第3水曜日昼休みの部室は、部会のために押し寄せた部員ですし詰め状態だ。と言っても、協調性に欠ける文藝会員が全員集まることはまずない。後輩はある程度真面目に顔を出しているが、4年生以上はほとんどいなかった。
 
「じゃ、部会始めます」
 
 会長の彼は、周りが騒がしいままでもお構いなしに始めた。
 
「えーと、今月末が原稿の締め切りです。23時59分までしか受け付けないので、早めに提出してください」
 
 げー、とあちこちから溜息が聞こえる。かくいう私も、すっかり忘れていてまだ手をつけていない。どうしたものかと眉をひそめていると、袖をクイクイと引っ張られた。
 
「先輩」
 
 ひとつ下の後輩は、椅子に座ったまま私を見上げた。この同好会には珍しく、真っ黒に日焼けした肌が特徴的な青年だ。
 
「進捗、どうですか?」
「ゼロ。そっちは?」
「実は、大体書き上がってるんですよね」
「へえ、偉い」
「放課後、時間ありますか? よかったら校正して欲しくて」
「あー……うん、いいよ」
「じゃ、またあとで」
 
 部会終わります、の合図と共に、やれやれと出て行く会員たちに押し流されながら、後輩は手を振って去って行った。あとに残ったのは、私と彼と、相変わらず机の上で悠々としているあの人だけだ。安請け合いしたことを早速後悔しながら、手近な椅子に腰を下ろした。後輩の作品は何度か読んだが、正直なところ好みの文章ではない。それに、2人で出かけるほど仲良くもない。部長にでもついてきてもらおうか。いや、彼女は話をなんでもややこしくするのが得意だから、やめておこう。
 
「部長、降りてください。行儀が悪いっていつも言ってるじゃないですか」
「そう言わずともよかろう、公の場でもあるまいに。相変わらず融通が利かん男だな」
 
 彼はいらだたしげにドスンとソファに腰掛けた。部長と話すときの彼はいつも冷静さを欠いていて、私の前ではあまり見せない表情だから、少し羨ましく思う。
 部長は盛大に欠伸をして、籠バッグからまん丸のおにぎりを取り出した。彼は売店のパンをレンジにかけ、私は冷蔵庫にしまったお弁当を探した。夏場、冷蔵庫でお弁当を保管しておけるのはありがたい。
 いただきます、と3人で手を合わせ食事を始めた。部長は見かけによらずよく食べるので、大きなおにぎりをすぐさま平らげて2個目に取りかかった。彼はパンを温めすぎたようで、なかなかかぶりつけずもどかしそうにしている。クスリと笑って、私も自分の弁当に箸を伸ばした。冷え切ったご飯がモソモソで、少し悲しくなる。食中毒対策に仕方ないとはいえ、やはりご飯は熱々に限る。
 
「チンしたら? 弁当」
「ううん、大丈夫」
 
 彼との会話はやはり長続きせずに終了した。それが嫌なわけではないが、今日の日記はどうしようかなあと顔をしかめていると、もう3個目のラップをゴミ箱に入れながら、部長が私に言った。
 
「そういえば君、日記はどうなったんだい」
「ちょっと、急にその話は」
「なに、日記とか書いてんの」
「彼女に恋をさせようと思ってね。仮想相手は見つかったかい?」
「仮想相手?」
 
 彼が自分の話に乗ってきたのが嬉しかったのか、部長はノリノリで先日の話を繰り返した。相手を伝えてなくて良かった、とこっそり胸をなで下ろす。あなたを想って日記を書いています、なんて、本人に知られたらお笑いぐさだ。
 
 部長は、小説内を自在に操れる典型的な前者の人間だ。人語を理解する宇宙人の家にも、ヌルリと生暖かい鯨の胃の中にも、火を噴いて飛び回るドラゴンの背中にも、部長の物語は連れて行ってくれる。彼女の小説はどこまでも伸びやかで、夢や希望という陳腐な言葉がよく似合う光を放っている。自由な発想力が豊かな語彙力で支えられ、構成は大胆なのに紡がれる言葉のひとつひとつはハッとするほど繊細で、彼女の小説を読む度に、思わずほうと溜息が漏れる——初めて読んだときは、こんな奇人変人の代表者みたいな人が作者だと、信じたくなかったものだ。
 
「丁度いい、君もやりたまえよ」
「え、なんで俺まで」
「君も彼女と同じだろう? 自身の経験しか書くことの出来ない作家だ」
 
 確かに、と小さく呟いた。彼も恐らく、私と同じく後者の人間だ。小説の舞台は夕暮れに包まれた大学だったり、夜の静けさを纏った遊園地だったり、朝焼けに照らされた繁華街だったり、いつも身近な場所だ。大きく違うのは、彼が書くのはいつも恋愛を扱った物語だということ。
 
「俺のは、傷口から染み出た膿みたいなものですから」
「膿か、言い得て妙だな」
 
 彼がフッと鼻で笑う。その表情、どこか遠くに焦がれるような、何かを諦めたような、その切なげな顔を言い表すことの出来る言葉が私の中にないことに、無性に腹が立った。
 
「考えてもみたまえ。無から有を、0から物語を紡ぎ出すのが我ら小説家であるというのに、君らのような人種は作中で自身を切り売りするしか出来ないのだろう?」
「それの何がダメなんですか」
「重すぎるのだよ、代償が」
 
 私には訳がわからなかったけれども、彼は苦々しげに口をつぐみ部長を睨んだ。部長は後輩の不敬な態度を気にするそぶりもない。仰々しく脚を組み替える仕草が、妙に板についている。どこぞの文豪にかぶれたような口調や仕草が最初は鼻についたが、今ではすっかり慣れてしまった。
 彼はそのまま、不機嫌そうに部屋を出て行った。残された私はどうしたものかと部長を見上げると、彼女はバッグを漁ってこんにゃくゼリーを取り出し、私にもひとつ投げてよこした。ありがとうございますと言って口に入れると、まわりはふにゃりとぬくもっていたが、芯は凍ってシャリシャリしており、その舌触りの差が面白かった。保冷剤代わりにでも凍らせておいたのだろうか。
 しばらく無言でもぐもぐとしていたが、部長は唐突に口を開いた。
 
「断言しよう。いつか君は書けなくなる、絶対に」
「どうしてですか」
「自分の経験したことしか書けないからだ」
「今は問題なく書けているじゃないですか」
「では聞くが、君の書きたいものはなんだね」
「書きたいもの、ですか」
「そうだ」
 言葉に詰まった私を見て、部長は面白そうに目を細めた。
 
 書きたいもの。しばらく考えたこともなかった。確かに小説を書き始めた頃は、うちの犬をモデルにした作品を書きたいだとか、素敵な青春学園ものを書きたいだとか、何かしら目的を持ってパソコンの前にいたような気がする。少し大人になってからは、好きなキャラの二次創作に興じたこともあった。推しにこんなデートをして欲しいだとか、推しと推しにこうなって欲しいだとか、毎度テーマを決めて書いていた。
 しかし、今は。
 
「……今は、書きたいものを書く、というよりも、何かに突き動かされて書いている感じですね」
「ほう?」
「えっと、上手く説明できないんですけど。なんというか、私はこの感情を、この出来事を、小説にしなきゃいけないって思うというか」
「なるほどなるほど」
 
 だから駄目だというのだよ、と言いながら、部長はひょいと机から降りた。くるぶしまであるスカートのひだがふわりと広がる。彼女はそのままツカツカと私に歩み寄り、ずいと顔を寄せた。近すぎて焦点が合わないなあと思ったけれども、部長はいつだって人の話をろくに聞かないから、黙っていた。
 
「それはね、君。いつの日か言葉に出来ない感情を得たときに、絶望するしかなくなるのだよ」
「はあ、そうですか」
「何故そんな顔をするのだね」
「……言葉に出来ない感情というのは、物書きにとって甘えだと思います。そのような感情だからこそ、言語化し、作品に昇華し、読者と共有するのが、物書きの使命でしょう?」
「お子ちゃまめ」
 
 思わずムッとした私を見て、理想を語るだけなら猿でも出来ると、部長はせせら笑って顔を離した。大きな窓から差し込んだ西日に照らされた部長は、悪役のように逆光がよく似合っていた。先程までの雨が嘘のようだ。
 
「今にわかるさ。恋とはね、物語における最大のエッセンスであり、表現者における最大の敵だよ」
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 後輩に呼び出されたのは、駅前の静かなカフェだった。締め切り前たまにここで執筆を進めていたが、次から利用するのは辞めようと、ひっそり思った。
 
「どうですかね、俺の話」
「……うん、いいんじゃないかな」
 
 ほんとですか、と屈託なく笑う彼を見て、なんだかむずむずした。この子のことは嫌いではないし、良い子だとは思う(小説は好きになれないが)のだが、どうにも居心地が悪い。中高と部活に所属していなかったので、後輩という存在が、不慣れなだけかもしれないが。
 それにしても、見れば見るほどコメントに困る小説だ。設定はありきたり、文章にクセはないが特徴もない。どこかで見たお話の寄せ集めのような表現は、没個性的で面白みに欠ける。しかしどこをどう直せば、と具体的にどうアドバイスすればいいのか、私にはわからなかった。多分、作者を変えるのが1番早い。
 
「俺、先輩の小説がいいなって思って、このサークルに入ったんです。だから先輩に褒めて貰えるの、すっごく嬉しくって」
「……そう、ありがとう」
「先輩の小説って、なんだろ、作中の人物になりきれるんですよね。感情がダイレクトに伝わってきて、気づいたら俺、泣いちゃってたんです、初めて読んだとき。俺もそういうの書きたいなって思いました」
「ふうん」
 
 良い子だな、と改めて思った。臆面もなくこういうことを言うのは、私には出来ない。なんだかきまりが悪くて、そっと座り直した。
 会話が終了し、気まずい空気が流れる。もっと気の利いた返事をするべきだったなと後悔したが、今更どうにもならない。新しい会話も思いつかず、お茶を濁すようにストローを咥えた。このカフェのコーヒーは深煎りで、ちょっと苦すぎるくらいの味が私は好きだ。
 後輩はアメリカンコーヒーにミルクとガムシロップをひとつずつ落とし、ガチャガチャとおおざっぱにかき混ぜた。氷がグラスにぶつかって軋む。頭の痛くなる音だ。
 
「……あの!」
「はい」
「今度、先輩をモデルに小説を書きたいんです」
「……はあ」
 
 突然の申し出に顔を上げると、後輩と目が合った。何故か狼狽えて目線を外し、彼はええと、と言葉を探した。
 よくわからない子だ。私の小説をそこまで好きだと言ってくれる理由もわからないし、私のような女を小説のモデルにしたい理由もわからない。そのまっすぐさの下に何が隠されているのだろうと疑ってしまうのは、私がひねくれているからだろうか。
 
「えっと、先輩とまたこうやってご飯行ったり飲み行ったり、あと休日一緒に出かけたりして、近くでいられたらなって、思うんですけど」
「……それ、本当に小説に必要?」
「じゃなくて、ええっと、つまりですね」
 
 彼は頭をわしゃわしゃとかきむしって俯いた。食事の場でそういう行為はなあと思ったけれども、指摘するのも無粋だろうと思い、喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。
 
「彼氏彼女みたいなことがしたいなってことなんですけど、どうですか」
「……はぁ」
 
 思わず出た気の抜けた声が出てビックリした。後輩は顔を上げない。まさか一世一代の告白にこんな間抜けな返事が返ってくるとは思わなかったのだろう。申し訳ないことをしたなと、他人事のように思う。そもそもこれは、告白なのだろうか。
 中学生の頃の嫌な思い出が蘇る。校舎裏に呼び出され、付き合ってくれと手を出された。その男子の後ろで、物陰から幾つもの頭が見え隠れしていた。お遊びだった。私は罰ゲームに使われたのだった。隠れ方がお粗末だよと指摘したら、告白してきた男子はホッとしたように胸をなで下ろし、悪い悪いと、少しも悪びれずに仲間の元へ帰って行った。あの忌まわしい、思い出したくもない、思い出。
 
「先輩?」
 
 おずおずと後輩が顔を上げる。慌ててごめんと謝って、コーヒーを1口啜った。氷が溶けて、苦みが少し薄まっている。
 
「あの、返事、急ぎませんから」
「……うん」
「すみません、急にこんなこと」
「ううん、えっと、私こそ、上手く返事できなくてごめん」
 
 場は再び、気まずい沈黙に支配された。告白された経験なんてないから、こういうとき、どうしたらいいのかわからない。
 
「……あのさ」
「はい」
「私の、どこが好きなの? なんで好きなの?」
 
 それは純粋な疑問だった。私が好きになれない私のどこを見て、この子は好きだと言ってくれるのだろうか。
 
「まず小説を読んで、気になったんですけど。実際に先輩と話してみて、笑顔が可愛いなって思ったんです。あと、芯の通ったというか、人に媚びない姿勢とかも、いいと思いました」
「……そっか」
 
 違う、と思った。違う、それは私じゃない。笑ったときの私の顔では、元々小粒の目が更に小さく肉に襞に埋もれてしまう。大きな口からは歯茎が露わになって下品だ。人に媚びないとかいう姿勢も、ただ人と話すのが苦手だから、迎合することすら出来ていないだけだ。人に合わせるのが下手なだけだ。
 私は、君から見た私は、誰?
 
 
 返事を宙ぶらりんにして、カフェを出た。後輩は気まずそうに、一目散に駅へと退散していった。私は少し散歩でもして帰ろうかと、家路から少し外れたルートへ向かった。
 空はまたどんよりと雲に覆われて、少しずつ泣き始めた。カバンから折りたたみ傘を取り出し、パッと開く。サンダルを履いているから足下の防御力がゼロだ。ぐじゅぐじゅになったつま先が滑る。回り道は早々に切り上げた方が良さそうだ。
 街灯を反射して煌めく雨粒を踏みつぶしながら、とぼとぼと歩く。雨はさほど強くならず、気温は下げないまま不快指数だけを上昇させる。やってられっか、と茹だった夜道で独りごちる。感情の整理がつかない。
 小説が書きたい。
 
 細い路地を曲がると、見慣れたひょろっとした後ろ姿がしょぼくれて水をしたたらせていた。慌てて追いかけて肩を叩くとそれはやはり彼で、傘忘れたんだよね、と前髪の雫を払った。
 私が傘を傾けて招き入れると、彼はヒョイと私の手からそれを奪い、持ち上げた。ありがとう、と言うと、こちらこそ、と淡々と返される。なんだかくすぐったくなって、出来たての水たまりを蹴っ飛ばした。
 小さな折りたたみ傘は2人で入るには狭すぎて、ギリギリまでくっついていても肩がはみ出てしまう。右肩から伝わってきた彼の熱は、全身に巡って左肩で冷やされていく。部室で椅子を並べているときよりもはるかに近い、たった5センチの距離に彼はいた。意識すると途端に気恥ずかしくなって、顔が見られなくなってしまう。
 肩を濡らしながら、私たちはのろのろと歩を進めた。お互いの歩調がわからないから、ゆっくりでなければ傘から飛び出てしまうのではと、そう思ってスピードを上げられなかった。お互い無言だったけれども、雨がずっと楽しそうに歌っていたから、静寂を気にする必要はなかった。
 ずるり、と足が滑って、バランスを崩した。前につんのめりかけたけれども、彼が慌てて右手首を掴む。すんでのところで身体は止まり、服を泥だらけにせずに済んだ。
 
「……危なかった。ありがとう」
「セーフ」
 
 彼が笑った。
 サンダルって滑りやすそうだよな、と足下を見られる。無駄毛の処理はきちんとしていただろうか、と恥ずかしくなる。どうせこの暗さでは、わかりっこないだろうに。
 小説が書きたい。今すぐ家に帰って、小説が書きたい。
 
 彼の足取りにあわせているうちに、いつの間にか我が家の前にたどり着いていた。ずぶ濡れの彼を家に上げて服を乾かすべきだろうか。いや、そこまでするとかえって気を遣わせてしまう。
 
「ごめん、送ってもらって。家、こっちじゃなかったよね」
「傘入れてもらってるしね」
「それ、そのまま持って帰って。今度返してもらえればいいから」
「うん、ありがとう」
 
 私の傘は彼一人でも小さかったようで、右肩が濡れ続けていた。家から普通の傘を取ってこようかと思ったけれども、彼はすぐに角を曲がって、見えなくなってしまった。
 
 『7月17日 雨のち晴れのち雨
 天気が安定しない。
 彼に傘を貸した。2人で傘に入った。ただそれだけ。』
 
 後輩のことも書くべきか悩んだけれども、これは彼への日記だから、相応しくないような気がした。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
「ほう、告白ねえ」
「他の人には言わないでくださいね」
「随分と信用がないものだな」
 
 胡散臭さ全開のこの人に言ってしまったことを、少し後悔した。誰でも良いから聞いて欲しかったのだけれど、こういうとき話し相手になってくれる友人もそういない。いつでも暇そうにしているうえに後輩のことも知っている部長は、いわば『丁度いい』相手だった。
 窓枠が歪んで閉まらないから、今日も部室はじっとりと湿気がのさばっている。私は寝不足で重く垂れ下がる瞼をこじ開けながら、昨日のカフェでの顛末を、淡々と語った。帰り道での出来事は、なんとなく、言えなかった。
 
「で、君はどうしたいんだね」
「……それが、わからないんです」
「ほう?」
「断る理由もなければ、承諾する理由もないというか」
「そこまであいつと親しい風にも見えんかったしなあ」
「ですよねえ」
「そして、そこまで君が興味あるようにも見えんな」
「……ですよねえ」
 
 正直な話、いいよというのもごめんというのも、とても億劫だった。そこまで後輩の感情や思考の労力を割かねばならないのが面倒で、深々と溜息をつく。好きだとも付き合ってとも言われなかったのが、喉の奥で小骨のように引っかかっている。私は、なんと答えるのが正解なのだろう。
 ま、いいんじゃないか、と無責任に言って、部長は野菜ジュースのパックを一気に飲み干した。ずぞぞぞっとマナー違反の啜り音が、ちょっと小気味よい。
 
「ほれ、付き合ってみれば、作品の肥やしになる」
「……そんな理由でOKするのは、いいんですか」
「そんなこと知らんわ。愛する女の役に立てれば幸せなんじゃあないか。それに」
 
 はは、と部長は口を開けた。野菜ジュースはトマトベースだったのだろう、口の中が吸血鬼みたいだ。
 
「君は、書かんと生きていけん人種だからなあ」
「……そう、ですね」
 
 私は決意が鈍らないうちにスマホを取り出して、後輩にメッセージを送った。少し待ってみたけれども、既読はつかなかった。おめでとう、と部長が言った。こんなもんか、と私は思った。好きでもない男と付き合うことは、案外抵抗がないんだなと、虚しくなった。
 昨日書きかけの小説が待っている。早く家に帰りたいのに、今日は深夜までバイトがある。早く、早く小説を書かなければ。
 
 
 はやる気持ちとは裏腹に、身体は疲労のピークに達していた。バイトから帰ってパソコンを開いたところまでは覚えていたのだが、瞬きひとつに3時間もかかっていたようだ。
 突っ伏していた床から起き上がると、寝違えたのか首が痛む。仰向けならば楽なので、今日はもう執筆を諦めて本を読むことにした。部誌のバックナンバーを取り出して、パラパラとめくる。丁度彼の作品で手が止まった。去年のこの頃、梅雨と紫陽花を題材に書かれた作品だった。
 彼は私と同じ人種だ。私たちはインク切れのペンしか手に出来ない物書きだ。想像力という名のインクが枯れ果て、それでもなお書くことしか出来ない物書きだ。私は血を、彼は膿を、それぞれインク代わりに無理矢理流し込んで小説を書く。私が彼の作品を好ましく思うのはきっと、彼の小説から私と同じ匂いがするからだろう。
 ひとつ、またひとつと彼の小説を読み進める。雨の日の物語、海辺の物語、校舎裏の物語、病人の物語。どこまでが彼の膿で、どこからが絞り出したフィクションという名のインクなのだろうか。
 
 ああ、そうか。ストンと腑に落ちた。後輩の小説が苦手な理由も、きっとこれなのだろう。彼の小説は、書き手の顔が見えない。寄せ集めの、借りてきた言葉の継ぎ接ぎだから。わからなくて、理解できない。それが彼自身にも表れているのか。彼の好き側からなかったのは、彼が私にくれた言葉に、体温がなかったからなのだろうか。
 それとも私に、受け取る気がなかっただけなのだろうか。
 
 最後の1冊を手に取る。私たちが入部して、初めて書いた小説が掲載されているものだ。彼が書いたのは、高校生の話だった。陰気な男子生徒が、明るくてクラスの人気者だった女の子に恋をして、しかし少女には好きな男子がいて、その子の恋の成就を手伝うという、主人公キャラよろしく陰気で悲しいお話。題材自体は珍しいものではなかったが、その真に迫る描写が鮮やかで、私は何度も読み返した。
 ふと、少女の描写を振り返る。彼の話にはよく、主人公と同世代の女の子が出てきた。それは高校生だったり大学生だったりOLだったり、はたまたロングヘアだったりショートヘアだったり、話によって様々だったが、よく見ると共通点があった。皆、口を大きく開けて笑う子だった。
 これがきっと、彼の膿が染み出す傷を作った女なのだなと理解するのに、時間はかからなかった。
 
 『何度も何度も手を洗った。それなのにあなたの熱が、手にまとわりついて離れない。
 これはなんだろう。私はどうしてしまったのだろう。心臓に靄がかかったかのように苦しい。深呼吸を幾度となく繰り返したのに、靄は出て行ってくれない。
 ただ手を繋いだだけだ。ただそれだけだ。それなのに私はどうしてしまったのだろう。わけもわからずにぼろぼろと涙が溢れてくる。こんな感情は知らない。こんな感情に、名前を付けてはならない。
 あなたは一体私に何をしたの。手をきつく握りしめて問いかける。苦しい。吐きそうだ。
 瞼の裏で、あなたが笑う。消えない。眠れない。夜が明ける。
 お願い、私に笑わないで』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 デートしよう、と後輩に呼び出されて、珍しく午前中から活動を始めた。冷房をけちって寝ていたせいで、起き抜けから滝のように汗が流れている。待ち合わせまでそう時間があるわけではなかったが、とりあえずシャワーを浴びに浴室へ向かった。
 案の定髪を乾かしているうちに家を出る時間が迫ってきて、私は「ごめん、遅れそう」とだけ連絡をした。どのくらい遅れる、などと指定すると、たいていその時間を過ぎてしまうのは、どうしてだろうか。
 夏の日差しは容赦なく肌を炙り、日焼け止め越しでも強力な紫外線がジリジリと痛い。こんな暑い日にどうして外で待ち合わせなのだろうと、肺に溜まった熱い空気を吐き出した。彼は爽やかなシャツを輝かせて待っていた。
 
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫! 俺のためにオシャレしてくれたって思うと、嬉しい」
 
 どこぞの少女漫画で習ったような歯の浮く台詞を並べて、後輩はニカっと笑った。気づけば敬語が外れており、とやかく言うつもりはないものの、付き合うってこういうことか、と釈然としないまま彼のあとをついて行った。
 
 最初は映画、そのあとはオシャレなカフェでランチ、猫カフェを経て少し早めのディナー。いかにも女ウケが良さそうな健康志向のレストランは、きっと一生懸命選んでくれたのだろうなと思うと、申し訳なかった。違うのだ。私が好きなものは、部室で静かに本を読む時間と、その後適当に食べる定食の味だ。こじゃれたフォーに乗っているパクチーは苦手で、でもそれを表に出すのは先輩としてどうかと思い、必死に平静を装った。
 
「今日は、ありがとうございました!」
「こちらこそ、色々調べてプラン作ってくれたみたいで、ありがとう」
 
 後輩は白い歯を見せて笑った。浅黒い肌との対比が綺麗で眩しい。じゃあ、と駅の改札をくぐろうとしたその時、右腕をグイッと力強く掴まれた。視界が、彼で埋まる。
 
「……すみません」
「どうして、謝るの」
 
 謝るくらいなら最初からやるなよという気持ちと、ちゃんと返してあげられなくてごめんという気持ちが、喉の奥で渦巻いてえずく。今度こそ改札をくぐり抜け、早足で階段を下り、熱風がとぐろを巻くホームへと降り立った。丁度到着した電車から降りてきた人々にもみくちゃにされながら、必死でスマホを探し、電話をかけた。
 
「部長」
 『なんだね、藪から棒に』
「私の小説、読んでください」
 『今からかい?』
「今すぐに。あっ、でもまだ書きかけで」
 『なに、構わんさ。30分後に部室で良いかい?』
「はい、お願いします」
 
 無我夢中で電話を切り、そこでやっと、足を止めた。発熱したスマホは、電源を切って温度を下げるようにと警告画面が出ている。上手く感情が整理できない。昔からそうだ。私は小説を介さねば自身の感情が説明できなかった。それはきっと、思い出の中の私のように、傷つかず冷静でいられるようにという自己防衛だったのだろう。
 唇を拭った。手の甲に紅がみっともなく伸びる。ホームに黄色いラインの入った電車が滑り込んできた。小説が書きたい。スマホからで構わない。続きが書きたい。今すぐに。血が乾く前に。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 私が部室に飛び込むと、部長は既に定位置に陣取っていた。見せたまえ、と鷹揚に手を広げるので、勢いに任せ中盤まで書き上げた小説を、スマホごと手渡した。あついな、と部長は言った。私はエアコンのスイッチを入れ、ソファに腰掛けて、大きく息を吐いた。
 
「あついな」
「温度、下げますか」
「そうではない。熱のある良い小説だと言っている」
「どうも」
「私はね、これを読んで長年の疑問が晴れたよ。君の小説がなぜ体温を持っているのか」
「え?」
 
 舞台役者のように狭い部室を歩き回りながら、部長はスカートをなびかせた。今日は珍しく髪を結んでいないから、いつもより表情が見えにくい。私はソファに座り直して息を吐いた。コツコツと、ピンヒールの音がこだまする。
 
「君の小説はだね、キャラに名前がついていないのだよ。一人称の語り手と、彼と、彼女と、あの人と、私と、あなた。それがどうにも気にくわなくてな」
「気にくわない、ですか」
「わかりづらいだろう。そして混乱を避けるために登場人物は少なく、物語は浅くなる。そう思っていたのだよ。
 だが君の物語は基本的に、『私』と『あなた』を中心に完結していた。なるほど、君が『私』であり、誰か『あなた』との思い出をフィクションの幕で包んだものが、君の小説であるわけだ」
 
 君の狭い興味が功を奏したわけだ、と部長は笑う。自分の小説を客観的に分析される気恥ずかしさで、私は俯いた。
 
「それにしても、最後の描写はなんだね。余りにもお粗末なキスだな。これだから生娘の実体を伴わない表現はいかん」
「えっと、それは……」
「なに、したのか」
 
 しました、と私は俯いたまま答えた。唇にそっと触れる。初めてのキス。初めての彼氏。初めての。それなのに——なんの感慨もなかった。
 私はなんと愚かな女だろうと思った。好きでもない男と付き合って、好きでもない男とキスをして、そして思い浮かべるのは別の男だ。なんと不合理で、残虐で、愚かな女だろう。
 頬にそっと手が添えられた。そのままそっと唇が重ねられる。上書きだ、と言って部長は笑う。ぽかんとする私の鼻を、形の良い爪でピンと弾いた。
 
「キスなんてそんなものだよ、小娘」
「……部長」
「良いのだよ、愛しい男とするもの以外全ては取るに足らんのだ。それを何も感じぬからと気に病む必要などどこにもない」
 
 心を動かされる相手なぞ1人で十分だ。部長は剛胆に笑い飛ばした。私も笑った。そうだ、私に必要なのはただ、あの人に小説を読ませることだ。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 『心臓が早鐘のように高鳴る。押しつぶされそうなほど苦しくて、なんとか沈めようと深く息を吸う。
 彼は私の少し前を歩いて、こちらを見ない。軽く袖を引くと、なに、と言いながら私を見下ろした。
 手に汗がじわりと滲む。心臓がいよいよ口から飛びださんばかりに暴れ回る。私は最善の一言を探したけれども、何も言葉が出ない。何か、何か言わなきゃ。何か。
 ——視界が、フッと暗くなった』
 
「どう、かな。これ」
 
 傘を返して欲しいからと彼を呼び出し、ついでに書き上げた小説を校正してと押しつけた。この小説はラブレターだ。宛所のないフリをして、あなたにしか開けられない封をした。
 彼はしばらく無言だった。無言でもう一周小説を読んだ。そしてトントンと紙の束をただし、机に置いた。
 
「……いいんじゃないかな」
「えっ」
「だから、いいと思うよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
 
 彼は、私と目を合わせようとしなかった。それは私と同じ感想だった。後輩の小説を読んだときと同じ、理解できないものを前に、お茶を濁す感想。
 間違った。間違った。間違った。後悔がどっと押し寄せる。こんなはずじゃなかった。小説になんてしなければよかった。直接言っていれば、もっと。今からでも言おうか。いや違う。違う。
 そもそも、私なんかが受け入れられるって、どうして。
 
「……ごめん、もう行くね」
 
 こんなにアッサリと終わってしまうのだろうか。私が心血注いで書き上げたこの小説は、この想いは、この物語は、ここで終わりを迎えるのか。こんなにも唐突に。
 何も言わない私を置いて、彼は部屋を出た。後に残された私は、小説を手に取り、ぎゅっと握りしめた。
 
 ごめんなさい。ああ、『私』は私ではなく、『あなた』はあなたではない。だからどうか、行かないで欲しい。私は何も言わないから。だから。どうか。だから。
 
 
 部長の言っていた意味が、良くわかった。私のペンは、折れてしまった。注ぎすぎた血が溢れて、もう何も書けない。書きたい言葉だけが溢れて、こぼれて、消えていく。
 あの日私を笑った男子の声がこだまする。小説を書かなければ。書かなければ、私の思いはどこに行くのだろう。
 
 幸せな話が書けないでいる。
 物語の中の名もない私は、今日も独りで泣いている。
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第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:35
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