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空ろな涙

 握りこんでいたボールペンのインクが切れたのが契機だった。そこが限界だった。耐えていた、文字にすることすら控えていた何かの。
「私、帰りますね」
 言いながらペンをぱちん、と閉める。ぬるくなってしまったカフェオレの水面がかすかに円を描く。話していた相手ははたと沈黙する。
「どうして」
 彼は問う。困惑に満ちた声。
「どうしてって、帰りたいからですよ。もっと詳細に言うのであれば、今の私はあなたの話を冷静に聞いていられるような状態じゃないからです。仕方のないことでしょう?」
「怒ってるの?」
 吐きたくもない溜息を吐きたくなってしまう。わざとらしすぎるからしないけれど。
「それがうまく伝えられないから帰るんです。私は今感情が不安定でぐちゃっとしていて、自分でもよくわからないんです。だから、この感情を伝える機会を別に設けたいと思っています。そしてあなたが近くにいると冷静に伝えるべき言葉を考えられない」
「……逃げるの?」
 なんでそうなるんだろう。
「逃げないために物理的な距離をとるのだということをお伝えしたつもりだったのですが?」
「…………」
 ごめんなさい、今のは語気が強すぎたかもしれない。でも、私にも自分がこれくらい怒ってみせていいのかわからないから、対応は保留で。
「では、また今度」
 ひとまず、しばらく離れたいんです。落ち着いたら連絡するかもしれないけれど、今の私には何も判断を任せたくありません。
 席を立ち、彼のために取っていたメモを差し出す。不可解だ、という表情のまま彼はそれでも立ち上がることはせずにメモを受け取った。その顔の中に、二割ほどの拒否感があることには、彼自身気付いているのだろうか。私が初めてこんな風に、距離を置こうとしていることに対する拒否感が。
 ふられてしまうのは私のほうかもしれないな。
 そうなってしまうことにそれほど拒否感を持てずにいながら、冷房の効きすぎたカフェを後にする。
 
 特に何かされた、というわけではない。問題があるのであれば、それはきっと、私のまとう空気と彼のまとう空気が違うということだけだ。お互いの普通が噛み合っていなかったという、ただそれだけ。あまりに違いすぎたならきっとお互いに歩み寄ろうとできた。私は、そしてきっと彼も、その歩み寄りを怠っていた。
「普通」
 なんて厄介な言葉だろう。
 駅前の横断歩道で信号待ちをしながら、カフェオレ代を払い忘れてしまったことに、今更のように気付く。
 
 *
 
 暑さのあまり、最寄り駅と家の間にある図書館に逃げ込んだ。緩慢な動きをする自動ドアが開くと書架のあるスペースほどではないがロビーから冷房の空気が流れだしてくる。涼しい空気でようやく一息つくことができる。
 ロビーの奥にある休息スペースに入る。給水器と並んだ紙コップの自販機で、少し迷ってから砂糖抜きでアイスカフェオレを買う。小さく砕かれた氷がジャラジャラとコップに投げ込まれ、曖昧な色の液体がだらだらと流し込まれていく。
 今頃彼はどうしているだろうか、まだあのカフェでココアを飲んでいるのだろうか。そうやって、自然に考えてしまうあたり、私は彼を好きでいられているのだろうと気づく。本当に私がきちんとその感情を持てているのかどうかと、彼にとってその「好き」で足りているのかどうかは別にして。
 機械からぞんざいに差し出されたカフェオレを受け取って、ロビーのソファに腰掛ける。一口飲むと、砂糖抜きのはずなのに妙に甘い。ソファ脇の窓枠に紙コップを置いて、駅で購入した新しいボールペンとノートを取り出す。いつもと同じボールペンの本体の中を、いつもと違うブルーブラックのインクが満たしている。ノートの適当なページを開いて、日付を書き込む。慣れた作業に、いつもより青い、黒。決して不快ではない違和感。そのままペン先を滑らせていく。
 私が書き物をするのは、自分の感情を整理したいときに限る。記憶のために書くことはない。必要がないからだ。私の頭の中は常に記憶の情報で、どこにも流れていかないまま溢れている。物事を人より忘れにくい、ということに気づいたのは中学生の時だった。それまでは、なんで人々はこんなにも嘘を言うのだろうと不思議に思っていた。それが何気ないきっかけで「あぁ、この人たちはわざと本当でないことを言っているのではない、間違ったことを信じていて、本当だと信じていることを伝えようとしているだけなのだ」ということに気づいたのだった。そして、ほとんど同時期にこうも思った。「でも、本当にそうやって簡単に忘れられるのなら、この人たちの世界はどんなにキラキラと輝いているのだろう」
 するするとペン先は滑り続ける。内容なんて何も考えずに、ただただ自分が思っていること、流れてきては留まり続ける記憶の破片をただただ書き連ねてゆく。
 
 忘れられたら、どんなに、
 
「みずき」
 
 耳殻が揺れた。ペンが、一瞬だけ止まって、その直後には、そのことすらも記述していく。今揺れたのは、違う、これは、あの時の感覚であり記憶だ。だって今、彼はここにいない。いたとしても、私の前で彼女の名前を呼ぶことなんて、きっとしない。
 強く打ち消すように目を瞑る。そうしたところで、さっき記憶が耳殻を揺らしたことは忘れられずに、まざまざと残っていて、そのうえで瞼が強く閉じられる感覚が、眼球にかかる圧が、同じようにまざまざと感じられてしまうだけ。どうしようもない。引かれてしまったボールペンの線のように、ぼやけも滲みもせず、強く、ひどくはっきりとそこにあり続ける。はっ、と息を吐きながら目を開いて、書き続ける。もうほとんど発作のような、記述、記述、記述記述記述────。
 
「みずき」
 声。彼の声。その声が、眠りの中でゆるく濡れた声が、思い出の中の彼女を呼んだ声が、彼が彼女を忘れていないという事実が、耳から離れない。
 けれど涙は流せない、だからインクも滲めない。ただただひたすらに、真っ白な紙を決定的な「それ以外」に、染めていくだけ。
 私は泣けない。泣いたって忘れることはできないから、それによって感情に変化が起こることがないから。泣いても泣いても、その先にあるものは不変という絶望だけだから。
 私は何も零せない。涙も、感情も記憶も、嫌いになりそうなものでさえ、過去の好きが響いて、そこから離れられない。
 ノートに今思っていることを書いたって、整理なんてされない。視覚化されたって、今は何の意味もない。少し後の私が、根気よく過去のノートと今のノートを見比べて、今から過去を引き算して、ようやく「今」の、その時の私にとってはもう過去の自分の感情を推理する。ノートに感情を書き連ねている“今”の私は、むしろぐちゃぐちゃで、片付けをしようとしたのに何もかもを乱暴に引き出してきては床にぶちまけるように、記憶の洪水を起こして止められない。せっせと手を喉に突っ込んで吐き零すだけの、心臓にナイフを突き刺して血を抜くだけの、乱暴で非効率な解体作業だ。解剖ができたらよっぽど気持ちがいいだろうに。どんどん自分の整合性が取れなくなっていく。なんでこんなことになったのかも、何を考えていたのかも、膨大な、記憶の中で何度も反芻されて、淀んで腐りきった感情の中に沈み、溢れないままに緩やかに渦を巻き、満ちていく。
 
 *
 
「みずき」
 声。彼の声。その声が、眠りの中でゆるく濡れた声が、思い出の中の誰かを呼んだ声が、耳から離れない。その声に、自分の声を重ねる。
「きらい」
 声に出して、呟いてしまう。「き」の音が掠れてしまう。
 彼のことは好きだ、嫌いになって別れを切り出すことなんて、少なくとも今はできない。
「きらいよ、きらい。すき、な、あなた」
 好きだ、好きな人だ。きらいな、好きな、人。
 そういうところ嫌いって、簡単に言ってしまえたらどんなにいいだろう。
 
 きらい、すき、きらい、きらい、きらい、
 
 私にしたのと同じように、彼はきっと彼女を愛した。その彼が好きな私は、けれど、その彼がきらいだ。
 今の私が、純然に十全に、“今の私”であればいい。過去の好きを忘れられたのならこんなに悩むこともきっとなかった。こんなに、「本当に今の私は彼が好きなのかどうか」なんて。そんなこと、悩むようなことじゃなかった、きっと。
 
 とうに記述できる気力も内容もなくなっていた。疲れ切って目を閉じていると、閉館のチャイムが鳴る。あぁそうか、ここもじき閉まる。夕方になって涼しい風が出てきただろうし、そろそろ帰らなければ。
 ぬるくなってしまったカフェオレを飲み干す。一口目がやたら薄かったのは氷が解けたからで、紙コップをごみ箱に捨てて図書館を出る。何も考えないために音楽プレイヤーのボリュームを最大にして、ただひたすらに家までの道を歩く。果てのないロンドが、頭の中でぐるぐると回る。
 家に着くと、本棚の上に載せているクラフト紙製の箱に手を伸ばした。そこにカバンの奥にしまっていた、用済みのボールペンを入れる。箱の中は掠れてしまったボールペンがいっぱいに溜まっている。何も零せない私の、それでも無理やりに零そうとしてきた痕跡。真っ黒なインクを流して、空っぽに満たされた本体たち。そこに、青みを帯びた真新しいボールペンも投げ入れる。壊れてインクが零れてしまえばよかったのに、なんて思いながら、その様子を眺めて、また箱を本棚の上にしまう。何もかもを吐き出して空ろになった自分たちを連想する。あとどれだけ、こうすれば。
 青いインクが、思考の表面だけでも、流れていけばいいのに。

 眠ってしまおう、起きて、吐き出したものを細かく分析すれば、私が何を伝えるべきなのかわかるはずだ。そうしたら彼に連絡をとって、話をしよう。
 あの日零れた彼女の名前は、私の中に秘めたまま。

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第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:34
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