FC2ブログ
« 2018 . 11 »    1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | CM(-) | TB(-) --.--.--(--) --:--

MOSSTORY

   A1

「……ふう、暑い」

 じりじりと、どこからともなく太陽の日差しが降り注いでいた。灰色の地面からは、絶え間なく陽炎があがり、彼の目に映る景色はどことなく歪んでいて、ヴェールがかかっているようにはっきりしない。
 ついさっき、自然と彼の口からあんな言葉が出てきたくらいには、彼の額には大粒の汗が浮かんでいた。彼の言葉に反応する者はない。代わりに、悲鳴のような蝉の鳴き声が彼の背中にずっしり乗っかるだけであった。

 じゃり、じゃり、と彼の靴が小石と擦れる。規則的に繰り返されるその音は、徐々に乱れていき、遂には全く止んでしまった。

「これは……少し、まずいかな」

 彼の見る景色は既に明滅を繰り返していた。今までの長い道のりを、いったいどうやって歩いてきたのか、全く思い出せない。もう何度かの明滅で彼の意識は完全に奪われるだろう――まさにそのときであったのだ、丸眼鏡をかけた青年が彼に声をかけたのは。

「おや?」

 最初に丸眼鏡の青年が言った言葉は、この二文字のみであった。だが、彼が失いかけていた意識を引き戻すのには十分だった。景色の明滅がすぐに止んだこと、意識が引き戻されたばかりか気怠さも無くなったこと、これらを実感して初めて、彼は自分が暑さにやられていたわけではないと考えた。

「おや? 意識ははっきりとしておられるようで。大丈夫ですか?」

 青年は、彼が反応しないのをみると再三言葉をかける。彼は、青年に「大丈夫ですか」と五度目に言われたあたりで目線を青年と合わせた。

「おお、やっとこちらを見てくれましたね」

 ほっとしたような表情を浮かべた青年を見て、彼は少し違和感を覚えた。どこが、とは言えないが、その違和感は確かにある。彼は、再び考え込んでしまった。

「……あの、本当に大丈夫でしょうか?」

 青年が彼にまた声をかける。

「あ、はい……大丈夫です」

 考え事は止めずに返事をしたせいか、彼の声は少し弱々しく聞こえた。そこを見逃さなかった青年は、少し間をおいて彼に提案をした。

「あの、よければ店で休んでいきますか?」

 その青年の言葉に、彼は疑問を抱いた。ここに広がるのは灰色の地面ばかり。建物らしきものなど、ありはしないのに、と。

「ああ、いえ……大丈夫ですよ」

 何となく、彼は青年の申し出を断っていた。青年の言葉に疑問をもったのもそうだが、何よりも――。

「そうですか? ですが、あなたの足はもう限界のように見えますが」

 青年にそう言われて彼は自分の足を見る。確かに筋肉は張っているし、よく見ると微かに震えているのが分かった。これには彼自身が驚かざるを得なかった。自分はそんなにも長い間歩いていたのだったか、と。

「どうでしょう、少しであれば飲み物などもお出しできますよ」

 確かに、この日差しの中でこのまま歩き続けるのは危険であった。このまま行けば、自分は何もない場所で一人でひっそりと倒れているかもしれない――そう思った彼は、青年の言葉に甘えることにした。

「ありがとうございます、えーと……」
「ああ、私、こういう者です」

 そう言って丸眼鏡の青年は左の胸元に付けられた名札を指す。

「クラナッハさん、ですか」
「ええ、そうです。それでは、ご案内します」

 そう言ってクラナッハ氏は歩き出した。クラナッハ氏に続こうとした彼は、何気なくその場で振り向いた。そこには、地平線の向こう側まで、一本道が延々と続いていた。自分はどのようにしてこの道を歩き始めたのだろうかと、彼は思いを巡らせる。少なくとも、彼にこの道の歩き始めの頃の記憶はなく、せいぜい、途中で陽炎が景色に歪みをもたらしているのに気づいたところくらいから後、それだけだった。本当に、ここまでどうやって歩いてきたのか、彼は訳が分からなくなりつつあった。

 クラナッハ氏は、時折振り返り、彼がしっかりついてきているかを確認しながら店まで歩いていた。そうやって振り返ったクラナッハ氏の目と、彼の目が初めてばっちり合ったころ、店の建物が彼の前に現れた。

 その建物は立方体であり、地面と同じように灰色であった。だが、入口の上に掛けてあった看板は全体的にひどく苔むしていて、そのせいで燦々とした日差しの中にあるのにどこか暗い雰囲気であった。何か用事でもなければ、足早に立ち去ってしまいたい、そんな雰囲気が辺りに滲んでいる。

「どうかなさいましたか?」
「……いえ」

 店の入り口の前で不思議そうにしているクラナッハ氏を敢えて無視して、彼は店の中へと足を踏み入れた。
 店の中は、外観とは違い清潔感に溢れる調度品で整えられており、床は綺麗な木目が走っていて、全体としては静かで気品がある空気だった。それだけに、入口の上の苔むした看板だけが異様に浮いてしまっていると彼は思った。この齟齬が、妙に彼の背中だけを寒がらせた。

「ただいま、飲み物をお持ちしますね」
「……はい、ありがとうございます」

 それを飲んだら早く店を出よう、そう彼は思っていた。
 クラナッハ氏が店の奥へと引っ込んでしまい、飲み物を持って戻ってくるまで暇を持て余した彼は、店内の壁に掛けられたものを一つ一つ眺めていった。店に入った時にはただの調度品だと思っていたそれらは、茶色の棒、金属の棒など、様々な素材から造られた棒であった。中には直線的ではなく小さな曲がりや歪みがあるものもあった。その曲がりは、どうも意図されたもののようであり、彼は緻密な計算を感じずにはいられなかった。しかし、杖の専門店が、こんなところにあるものなのか、と彼は密かに思った。

「――何だ、興味でもあるのか? あんた、必要なさそうな体つきに見えるが」

 気が付くと、彼の隣には白い口髭を薄めに生やし、両目の目尻に深い皺のある老夫が立っていた。彼はその鋭い視線に、えも言われぬ圧を感じた。そのため、彼は細々とした声で返事をするのがやっとというところであった。

「最近じゃあ、着飾るためのものとしてこいつを使うやつもいるらしいな。俺としちゃあ、そんな理由で使い潰されるのは御免というところなんだがなあ……
「へえ、おしゃれで杖を持つ、ですか……より歩きづらくならないんですかね、それ」
「……ほう」

 彼としては、特に何かを考えたわけでもなく、ただ素直に思ったことを言っただけだったが、この老夫はその言葉に感心を示した。ただ、彼は老夫の短い呟きに気付かず、杖を眺め続けていただけだった。

「お待たせしました、麦茶を――あれ、ベッケラートさん、こちらでしたか」

 右手に透明な水飲みを持ったクラナッハ氏が、奥から戻ってきた。水飲みの中には、大きな氷が数個と麦茶が入っていた。クラナッハ氏に、ベッケラート氏は左手を挙げて応じた。

「おう、何やら客人が来ていたようだったからな」
「全く、大丈夫なんですか。特注の杖は?」
「阿呆、あれはお前が、明日まで、と言ったんだろうが。最悪ここにある出来合いのやつを調整すれば、それで終わりってもんよ」
「またそんなこと言って……」
「構わねえだろ。特注っつっても、所詮は賃貸しなんだから」
「それは、まあ、そうなんですけど……」

 クラナッハ氏は、そこまで言って口を噤んだ。ベッケラート氏は、勝ち誇るように笑顔を浮かべた。その空気が、彼には非常に不味く感じた。

「……大体なあ、お前は思考が硬すぎんだよ。表の看板だって、あの苔は店の歴史と共にむしてきたから、あれを綺麗にするのは店の歴史を取っ払うのと同じだとか言いやがって。うちは歴史を売りにした店じゃねえっつの」
「な、またそんな昔のことを……!」
「あの」

 たまらず彼は二人の会話を遮るように声を出す。この空気をいつまでも味わうのは御免だと思ったからだった。

「ここは、杖の賃貸しをしているんですか?」
「お、おう。ものにもよるが、安くて七日で銀札二枚、というところだ。特注とかになると、七日で金札五枚くらいはもらってるがな」
「な、なんで賃貸しなんか……」
「そりゃあんた、この土地では備えあれば憂いなしを徹底するべきだからだろう」

 さも当然、というようにベッケラート氏は言う。しかし彼にはてんで意味が理解できなかった。ベッケラート氏の横から顔を覗かせたクラナッハ氏が、補足するように説明してくれる。

「この店の通りを歩いている人は大抵、果てまで行って戻ってくることをするんですが、この暑さでは、杖なしで果てを回ってくるのは少々危険ですから。とはいえ、わざわざこのためだけに杖を購入するのも面倒だという人がいるのも事実なので、こういった商売をしているというわけです」
「おう。大体のやつは二十日ちょいで戻ってくるからな、一回貸すと銀札が五、六枚は入るってわけだ。おいしい商売だよ、本当に」
「果て、ですか……」

 彼は、その単語に聞き覚えがあった。というよりも、その単語を何故今まで忘れていたのだろうかとさえ思った。心臓は早鐘を打ち、全身の毛穴が熱くなる感覚に彼は襲われた。

「おや、私はてっきり、あなたも果てを目指されているものとばかり思っていましたが」
「というよりも、それが目的じゃないならあんた、何しにこんなところまで来たんだ?」

 クラナッハ氏とベッケラート氏が相次いで言ったせりふに、彼の心の中で何かが音を立てて融けていった。

「……私も、一つ借りていっても?」
「おう、出来合いでよければすぐにでも貸せるぜ!」

 そのとき、クラナッハ氏の小鼻が膨らんでいるのを彼は見逃した。


   B1

 その部屋の中では、刃が木を削る音が規則的に鳴っていた。その刃を操るのはベッケラート氏であった。次に削るべき箇所を素早く見つけ、そこを的確に刃で削っていく。その技は、まさに長年のものであり、他人が簡単に真似できるようなものではない。

 その、刃が木を削る音とは別――部屋の片隅から、何かを啜るような音も鳴っていた。ただしこちらは規則的に鳴っているわけではなく、気の赴くままに啜っている、というようであった。その音が聞こえてきて、ベッケラート氏は意識的に仏頂面を作った。ただし、それを見る者はこの部屋にはない。
 ベッケラート氏は木を削るのを止め、目線を手元から外し、少し大きく息を吸った。

「……あのよお」

 ベッケラート氏がそう言ってからしばらくして、やっと何かを啜るような音は止んだ。そして、ベッケラート氏に向かって声をかける者があった。

「あい? 何です、ベッケラートさん」

 その声の主は、クラナッハ氏であった。クラナッハ氏は部屋の片隅で胡坐をかきながら、ベッケラート氏の方へ目線を向けていた。ベッケラート氏は言いたいことが山ほどあったが、それらを全て飲み込んで、努めて冷静にクラナッハ氏と向き合う。

「昨日の、突然来て杖頼んでったやつ、何だっけ名前」
「ああ、えーっと……アルトマンさん、ですね」
「そうそう、そんな名前だったか」
「名前がどうかしたんですか?」
「何言ってんだ、杖に頭文字を彫り込むのに必要だろうが」
「ああ、そういう……」

 アルトマン、なら文字はAか。そう思いながら、ベッケラート氏は再び刃に力を込める。そして、さて掘ってやろうと気を張った瞬間、部屋の片隅から再び何かを啜るような音が鳴り始めた。いや、実際そこにいる者は何かを啜っているのだ。少なくとも、ベッケラート氏にはその確信があった。

「はあ…………あのよお」

 露骨に大きなため息を吐いてから、ベッケラート氏は再び同じ方向へ声をかける。ただし今度は、目線を手元の刃へ向けたままで。
 今度もやはり、しばらく音は止まなかった。秒数にして三十ほどは経っただろうか、そのころになってようやくベッケラート氏へ返事がなされる。

「……あの、今度は何です?」

 今度も答えたのはクラナッハ氏である。ただし今度は、その手に土埃で汚れた杖を持っていた。ところどころが濡れていて土埃のないその杖を見て、ベッケラート氏は再びため息を吐く。

「お前それ、いつまでやってんだ」
「仕方ないじゃないですかあ、今週の返却分が溜まってますし、何より最近一本一本に時間がかかるんですよお」

 恍惚とした表情をしながら語るクラナッハ氏に、ベッケラート氏は軽く恐怖した。その恐怖は全力で抑えたものの、クラナッハ氏はベッケラート氏の顔に小さく恐怖が浮かんだことを見逃さない。そして、そのことに殊更な感想を抱くこともない。

「……何だ、まだ終わってねえのか、今週分」

 ベッケラート氏は、さも何もなかったようにこう語るのがぎりぎりであった。

「ええ。造られてから時間が経った杖から取り出すのは、色々と時間がかかるんですよ。前に取り出しきれなかった人の分とかもあったりして、量が不定なので。ですから私としては、ベッケラートさんにそろそろ新しい杖を作って欲しいと願うばかりなのですがねえ」
「と、言ってもなあ。前も言ったように、賃貸しってことを考えりゃこうやって出来合いの調整でやっていくのが一番効率良いんだよ。お前もそれは知ってんだろ?」
「確かにい、杖を使いまわすようになってから収益が上がってるのは確かなのですがあ……」

 渋々といった様子でクラナッハ氏は言葉を途切れさせる。その際頬が赤らんでいるのを、ベッケラート氏は敢えて見なかったことにした。そして、目線を少しだけクラナッハ氏の方へ向けつつ口を開いた。

「それより、そこのやつら、早けりゃ明後日には再調整用に回しちまいたいんだが、いくつか取り出さずにそのまんまってのは駄目なのか?」

 ベッケラート氏が軽い口調でそう言った瞬間、クラナッハ氏の目の色が変わり、部屋の中の空気が変わった。ベッケラート氏の腕に鳥肌が立つ。

「まっさかあ! 私が、取り出しを、しない、ですってえ!? そんなこと、あるはずがない!」

 クラナッハ氏は、まるで睨み付けるようにベッケラート氏を見ていた。ベッケラート氏は、やはりこうなるか、と諦めた気持ちで目線を床に落とす。その間も、クラナッハ氏の弁舌は衰えることがなかった。

「これらの杖には、それを握った方々の、汗、涙、さらには記憶まで、まさにその方の歴史が詰まってしまっていると言っていい! それを取り出さずして、何が私と言えましょう! それをしないなど、私という個性の崩壊だ! それに何よりっ!」

 クラナッハ氏は目を見開き、それを丸ごとベッケラート氏へ向ける。ベッケラートは、その圧を全て背中で受け止めた。

「あなたがっ……造ったもの、なのですよっ……それをそのままに、なんてとてもっ……!」

 少し嗚咽を交えつつ、クラナッハ氏のせりふは終わった。ベッケラート氏は無表情のまま、刃を握る手に力を込めた。そして、勢いよく一回、木へと振り下ろす。それで、ベッケラート氏は、脳裏に浮かんでいた一つの情景を振り払ったのだった。クラナッハ氏の表情が一瞬だけひきつった。

「そうか。まあ、だとしても」

 努めて冷静に、ベッケラート氏は口を開いた、つもりだった。だが、その語りはこれまでよりも訥々としており、クラナッハ氏の表情が曇るには十分だった。

「お前、そのやり方だと、土埃まで一緒に吸ってるだろ。その辺、ほどほどに、しとけよ」
「おや。私を、心配してくださっているのですか?」
「まあそりゃあ、俺以外ではうちの唯一の従業員だからな、お前は」

 ベッケラート氏によるこの言葉を聞いたクラナッハ氏は、お世辞にも綺麗とは言えない笑みを浮かべた。その笑みをベッケラート氏が見ることはなかったが、それを見ていればベッケラート氏は、クラナッハ氏を店から追い出していたかもしれない。

「心配してくださるのであればあ、それこそ新しい杖を造って頂けるとお、土埃の累積が少なくなりますのでえ、とてもよいのですがあ……」
「それはしねえよ。さっきも言ったが、収益上げるんなら出来合いの調整で十分だ。こうしねえと、店が潰れちまう」
「……まあ、店が潰れるのは私も困るので……致し方ない、ですかねえ」

 そう言って、クラナッハ氏は自分の舌を手に持っていた杖に這わせる。最終的には、唇まで杖の土埃にくっついた。ここで、クラナッハ氏は大きく息を吸い込む。それに合わせ、ベッケラート氏も自分の作業に戻る。これをやっているときのクラナッハ氏の精神状態は少々不安定になるのが玉に瑕だなと、ベッケラート氏は思った。

 ――クラナッハ氏が小さく舌打ちをしたとき、ちょうどベッケラート氏が刃を振り下ろした。


   A2

 地面と靴とが擦れる音は、もう彼の耳には聞こえない。

 ふう、と彼は息を吐くも、それも吹き付ける風にかき消されてしまった。それどころか、彼――アルトマン氏の口の中にいくつかの砂粒が侵入してくる。その小さな侵入者を追い出してやろうと、アルトマン氏が口を僅かばかり開く度、今までの倍以上の砂粒を風が運んだ。そこでアルトマン氏は、既に口の中にある砂粒は飲み込んでしまうことに決め、上下の唇に力を込め、口を真一文字に結んだ。

 アルトマン氏は、砂嵐が渦を巻く、その中央部にいた。何も意図的にその位置を陣取ったわけではなく、目に映る景色の誘導に従って歩いていたらいつの間にかそんなところにいたのである。全く意地悪い、そうアルトマン氏は感じていた。これは果てへ向かうための試練か何かだろう、そう思うことにしていた。

 ――同時に、全く気味悪い、ともアルトマン氏は感じていた。

 さっきから、目に映るのはひたすら渦を巻き続ける砂嵐の一部のみである。ならば、耳で聞くのは、数万はあろうかという砂粒が風に巻きあげられる音、それのみであるべきだった。

 それにもかかわらずアルトマン氏は、やたらはっきりと金属どうしが打ち付けられるような音を聞いていた。そしてその度、アルトマン氏の右足、とくに膝の部分には力が入らなくなった。その度に倒れまいとして杖を握る手に力を込めていた。アルトマン氏は、ベッケラート氏の「備えあれば憂いなしを徹底すべき」という言葉を噛み締めていた。あの店に寄らずにここまで来てしまっていたら、きっと自分は早々に諦めなければなかっただろう、そんな思いが胸の中に渦巻いていた。
 アルトマン氏は、右手で握る杖を支えにして、左足を踏み出そうと試みた。こちらの足もうまく力が入れられるというわけではなかったが、それでも右膝の力の抜け方に比べればまだ良いと思われた。一歩分先の灰色の地面へ、アルトマン氏の左足が着地する。
 そのとき、アルトマン氏の背中に鈍い衝撃が襲い掛かった。

「うっ、ぐうぅっ……!」

 思わずアルトマン氏は呻き声をあげた。痛みを感じたわけではなかったが、それでもアルトマン氏の表情は醜く歪められた。今にも前かがみになって倒れ込みそうになったが、アルトマン氏は再び右手に握る杖に力を込める。杖の先が、少しだけ灰色の地面の中へ沈み込む。

「う、ったく……」

 誰に向けるでもなく、アルトマン氏はその場でため息を吐く。そのため息は、変わらず吹き続ける砂嵐に巻き込まれて消えてしまい、跡形も残らない。その事実に、アルトマン氏の喉元までため息が出かかったが、それは放たれる寸前のところで飲み込まれた。そのとき、喉の浅いところに残っていた砂粒も一緒にアルトマン氏の体内へと消えた。
 その砂粒が間もなく胃へ着こうかというころ、何を思うでもなく、アルトマン氏は目線を辺りに巡らせた。

「ん、んん……?」

 ――こんな小さな声などは、簡単に砂嵐の中でかき消えてしまうようなものなのだが、それはともかく。

 アルトマン氏は、その時自分の見た景色を疑った。
 ずっと向こうまで、遥か向こうまで、下手をしたらこの地全てまで、砂嵐で覆われてしまっているのではないか。そんな感覚がアルトマン氏にはあった。そして、あまりにも自然に生まれたその感覚にこそ、アルトマン氏は疑いを抱いたのだった。
 そんなはずはない、この地全てが砂嵐で覆われているなどあり得ない。現に、昨日この杖を受け取ったあの辺りは、砂嵐など微塵も吹いていなかったではないか。

「……?」

 そこまで思考を巡らせたアルトマン氏は、またも障害にぶつかった。
 杖を受け取ったのは、果たしてどこだったか。そもそも、この杖は買ったのだったか、それとも貰ったのだったか。いや、それよりもまず、何がどうなってこの杖を持つという流れになったのだったか。いや、それよりもまず、そんな場所へ一体どのようにして向かったのであったか。いや、それよりもまず――。

 アルトマン氏の思考は、延々と同じ場所を回っているようにも、はたまたあてどなく様々な場所を巡っているようだった。アルトマン氏だけが持っている記憶、経験、感情、それら全てが頭から抜け落ちてしまったようでさえあった。その感覚に、アルトマン氏は恐怖しか感じられなかった。もしかしたら、自分の全てがこの砂嵐に飲み込まれてどこかへ飛んで行ってしまうのではないかとさえ考えた。

「……ぐっ……」

 アルトマン氏は、力を込めた。
 前に踏み出されたままになっていた左足を支えの中心として、右手に握られた杖と、膝に力が入らない右足を動かそうとする。そこで初めて、アルトマン氏は砂粒が杖の全面にくっついているのを見た。
 別に、見たからと言って殊更思うことなど無かった。

 ――杖の持ち手を、アルトマン氏の顎から落ちた汗の雫が伝っている。


   B2

 その日、その音は突然店内に響き渡った。
 店先で長椅子に座りながら眠りに入りかけていたベッケラート氏の意識は、その音で勢いよく現実へ引き戻された。

「……ったく、何だってんだ?」

 音は、ベッケラート氏の店の奥から聞こえてくる。しかも、音はくぐもったように聞こえてくる。まるで、ものとものとをぶつけ合わせるような音。しばらく目を閉じて音を聞いていたベッケラート氏は、二度頷いてこう呟いた。

「……工房か」

 その場で大きく伸びをした後、ベッケラート氏は店の奥へと入っていった。商品となる杖が陳列されている場所を離れると、左右へ分岐して伸びる廊下がある。ここを左に曲がれば簡単な台所があるのだが、ベッケラート氏はそちらを見向きもせずに右の道を進んだ。
 右の道は長い一本道であり、その突き当たりに大きく古びた木の扉があった。ベッケラート氏がその扉の取っ手を回すと、やたら軋む音が鳴る。そろそろこの扉も壊れるかもしれないな、そんなことをベッケラート氏は考えていた。
 扉が開かれると、ベッケラート氏はその部屋の中を覗き込む。そこには、ベッケラート氏が思い描いていたとおりの人物が、椅子に座って刃を木材にあてがっているところだった。

「……その木材、どこから持ってきた?」
「……あ、え、はいっ!?」

 椅子に座っていた人物は、肩を大きく震わせて、勢いよく立ち上がった。その時、少しよろけてしまったのを見たベッケラート氏は、鳥肌が立つ思いだった。

「ちょっ、お前……刃物持ったまま転ぶとか止めてくれ、洒落にだってならない」
「あ、あはは……すみません……」
「ったく、笑いごとじゃねえって――クラナッハくんよお」
「は、はい……」

 椅子の前で立ち尽くす人物――クラナッハ氏の背中はその場で小さく丸まってしまう。その様子を見たベッケラート氏の心の中は、少々温かい思いで満たされた。
 さて、ベッケラート氏は、口ではクラナッハ氏と会話をしていたが、目線はクラナッハ氏の手元へと向けていた。そこには不格好にかつ不均等に角が削られている木材があった。さらによく見ると、木材の一方の端が徐々に細くなるように削られていた。それを見たベッケラート氏は、クラナッハ氏が行おうとしていたことにすぐに見当をつけた。

「お前……その手元にあるの、杖か?」

 特に遠慮するような素振りも見せず、ベッケラート氏はクラナッハ氏に尋ねる。その言葉を聞いたクラナッハ氏も、表情にこれといった動きも見せず答えた。

「ええ、まあ……分かりますか?」
「まあ、それに関しちゃ俺の方がずっと長くやってるからな。にしても、随分不格好だな。お前、それでも杖の店で働いてる男か?」
「ははあ、面目ないです……」

 そう言いながら、クラナッハ氏は自分の手元の木材を見る。確かに、店に陳列されている杖とは比べられないほど醜いな、とぼんやり思った。

「ったく……仕方ねえ、ちょっとなら教えてやる」

 自然と、ベッケラート氏の口からはそんな言葉が出ていた。その言葉を耳で認識したクラナッハ氏の表情は動揺にまみれた。

「え、えっと……よろしいんですか?」
「よろしいってか……俺が言いだしてんだ、駄目も何もないだろ」
「い、いや、そうですけど……そ、それに今日は、例の……えっと、アルトマンさん、が杖の返却に来るのではないですか?」
「馬鹿野郎、そん時はちょっと表に出て金の受け渡ししてくりゃいいだけだろ。それにな」

 ベッケラート氏は、クラナッハ氏の手から木材を取り上げ自分の目の近くに持っていき、しばらく眺めた。そして、その木材を掲げながら、顔だけをクラナッハ氏のもとへと近づけて、高笑うように語った。

「仮にも杖の専門店の店員が、こんなお粗末な杖しか造れないってことが知れたら大問題だ、うちの面子に関わるだろう。だから、最低限はできるようになってもらわないとな」
「は、はあ……」

 困惑の表情を浮かべながらも、クラナッハ氏はベッケラート氏の提案を頷きで了承する。よしきた、とベッケラート氏は手に持っていた木材をその場で回しながらあちこちを指差しつつ、クラナッハ氏に陽気に語る。

「お前、こりゃあ一体何の木だ?」
「えっと、クエルカスの木ですけど」
「そりゃまたお前、随分と杖の加工に向かないものを選んだな……。そもそもなあ、お前、刃で削るときの力加減がばらばらなんだよ。まずはそこからだな。もうちょいでいいから、同じくらいの力加減で削れるようになれ」
「あ、はい!」

 クラナッハ氏はベッケラート氏から木材を受け取り、それを机に置いて再び刃を振り下ろす。一回刃が木を削る度、クラナッハ氏の隣からもう少し弱く、とかもっと強くていい、とかよく見て削れ、とか助言が飛んでくる。そういった言葉が飛んでくる度、クラナッハ氏は胸に明かりが灯るような気分に浸っていた。
 そうして何度か刃を振り下ろしたとき、ベッケラート氏は突然無言になった。それでも構わずクラナッハ氏は刃を何度も振り下ろしていたのだが、やがてその作業を止めてベッケラート氏の方を向いた。そこには、クラナッハ氏が削っている木材から微塵も目線を動かさないベッケラート氏がいた。

「お前、どうして突然こんなことを?」

 クラナッハ氏にとっては、そのベッケラート氏の発言こそが突然であった。クラナッハ氏は努めて冷静に言葉を受け止め、そして返事をする。

「こんなこと、と言いますと?」
「お前、今まではせいぜい、作業してる俺のことを眺めてるくらいだったろ。それがどうして、自分で造るなんてことになったんだ?」

 ベッケラート氏のその言葉に、クラナッハ氏はすぐに返事をすることができなかった。言葉が浮かばなかったわけではない。ただ、それを言ってしまっていいものか、一瞬迷っただけだった。

「――悔し、かったので」
「……何だって?」

 ベッケラート氏は、思わずクラナッハ氏に問い返していた。言葉自体は聞こえていたが、その真意を全くと言っていいほど理解できなかったのだ。

「悔し、かったので!」

 その意を汲んだのか、クラナッハ氏はさっきよりも大きな音量で同じ言葉を繰り返した。

「く、悔しいって……」

 二度聞いても、やはりベッケラート氏はその言葉の真意が分からなかった。そのことを知ってか知らずか、クラナッハ氏は勢いのままに言葉を続けた。

「悔しかったんです。ベッケラートさんは、杖を造る技術に関しては最高だ、この世界で一番だと言ってもいい。そんなあなたが杖を新しく造らなくなってから、既存のものを加工するだけになってから、いったいどれだけが経ちましたか。私はもう、そのことがもう、とても――」

 それ以上、クラナッハ氏の言葉は続かなかったが、大きく一度息を吐いた。ベッケラート氏は、何か言うようなことはしなかった。それはお互いが、まだ続きがあることを理解していたからだ。

「でも、今日分かりました。あなたは、まだ杖を造ることに対する情熱を持ってる! ならばあなたは、造るべきだ! その手で、この世界の人のために、新しく!」
「やらねえ」

 ベッケラート氏は、敢えて短い言葉を使ってクラナッハ氏の言葉へ返した。軽く、クラナッハ氏の目が見開かれる。それは、驚きとも違う何かゆえだった。

「俺は、やらねえ。前にも言ったが、これは店のためだからな。それに、お前は俺をこの世界で一番だとか言いやがるが、そんなもんで一番になったって、俺には別に――」

 そこまで言って、ベッケラート氏は言葉を詰まらせた。別に何ということはなく、店の入り口の方から声がしたからだった。それは、二十四日前に杖を借りて果てへと向かった、アルトマン氏の声だった。ベッケラート氏はこれ幸いとばかりに体の向きを工房の入口へと向けた。

「お、ほら、客が来たな。じゃあ、俺は――」
「本当に、今後ずっと造らないおつもりですか」

 普段の声よりもずっと低い声が、クラナッハ氏の喉から出てきて、ベッケラート氏は少し面食らった。クラナッハ氏の下ろされている右手に刃が握られたままだったのも影響しただろう。だが、それでもベッケラート氏は自分の意志を刻みつけるように声を出す

「ああ。心変わりがあったとしたら、それは本当によっぽどのことがあったんだなと思ってくれていいぞ

 そう言って、ベッケラート氏は工房を出ようとした。だが、足を動かそうとする前に、本能的にその場に留まろうとする思いが生まれた。要するに、その場から動けなかった。ベッケラート氏の背後で、靴の底と床が擦れる音がしたからだ。そういえば、クラナッハ氏は刃を握ったままだったなとベッケラート氏は思った
 ひとつ、またひとつ、クラナッハ氏の体が近づいてくるのが分かり、ベッケラート氏の体に無駄な力が入った。すぐ後ろまで来た瞬間、クラナッハ氏はその場に座り込む。ほんの小さな風がその場に起こった。

「では、あなた自身の足の代わりとするため、というのはよっぽどの理由に当たりますか?」


   C1

 たったひとつ、欲しいものがあったんだ。

 だが、そいつは俺には簡単に手に入れられるものじゃなかったんだ。
 しかも、そいつは形あるものってやつじゃなかった。どちらかといえば、物理よりも精神に近いものだったわけさ。もちろん、完全に「こころ」ってわけじゃなかったが。

 なあ、そんなとき、普通ならどうするんだろうな?

 何年も何年も、時間をひたすら無為に浪費してくることしかしてこなかったような奴が、やっと見つけた欲しいものを、どうしても手に入れようっていうとき、普通ならどうするんだ。俺は、どうすればよかったんだろうな?
 俺には、何一つ方法が思いつかなかった。いや、いくつかやりようは無いわけじゃねえってことには気づいちゃいたが、その実現性は限りなくゼロに近くてね。泣く泣く諦めたもんさ。

 そんなわけだったから、俺はそいつを全て手に入れることを諦め、一部でも手に入れる方向へと舵をきったんだよ。それなら、いくらでもやれたからな。

 あの人は、ずっと杖をつくっていた。どこからともなく木やら金属やらを持ってきて、丹精込めて一つの杖をつくるのに最低でも七日はかけていた。もちろんそれが仕事だからってのもあるが、半分は趣味でやってただろうなあ、あの人。完成した杖に向き合うときの表情がめちゃくちゃにこにこだったから。思い出すと俺まで笑いそうになるな、へへ。

 そんで、工房でつくられたそいつを店に陳列するのが俺の主だった仕事だったわけなんだが。これが、どういうことか分かるかな。あるいは、あんたなら違和感くらいはもつかな?

 あんたも分かるだろ、つまり、あの人は昔はそれだけ毎日毎日工房に篭もって杖をつくることに没頭していたのさ。それこそ、陳列作業を俺が仕事にしなきゃならないほど、な。

 ――違和感しかねえ、そう言いたげな顔をしてるな。

 そうだ、違和感しかねえはずさ。あんたが知ってるあの人は、新規の注文が入っても、出来合いのやつをちょちょいっと削っただけで作業を終わらせて、それをさも新しくつくったものみたいに客に渡すような男だろうからな。それこそ、あんたがされたように。その頃のあの人にはもう、昔にあったような熱意、いわゆる「魂」ってやつは無くなってた、少なくとも俺の目にはそう見えたよ。

 だが俺はある日、ふと思い至ったわけよ。あの人はまだ、心の奥底に熱意を持ってる。それを、他人のために使うことができなくなっちまったんじゃないかって。

 ――だったら、その熱意を自分のために使える状況を作ってやればいいと思わないか?

 だから俺は、あの人の足を奪うことにした。それなら、あの人は自分のために杖を造らざるを得ない。俺のもとに、あの人がつくった杖がまたやってくるって寸法よ。
 どうした、変な顔をして。
 それじゃあ、あの人が杖をつくっても笑顔にはならない、だって?

 ――なあ、あんた、何か誤解してないか。

 俺はな、人の歴史を取り込むのが好きなんだ。そいつの中で苔がむすように蓄えられていくそいつ自身の歴史を、俺の中に取り込んで俺の一部とする、それが堪らねえのよ。媒体は何でもいいが、特に、血とか努力した後の汗とか涙とかそういう、そいつのそれまでの歴史が詰まってるものは、特にいい。

 杖ってのは、そういう面では最高の媒体だった。あれは、そいつが歩くために力いっぱい握りしめるもんだ。そうして、その手から、そいつの記憶、汗、等々、そいつ自身の歴史が杖にしみこんでいくわけよ。特に、果てを吹いてる砂嵐には記憶を抜き取るみたいな効果があるらしくてね。あそこを歩いてきたやつが返却する杖に染みてる歴史は上質だったよ。

 だが、それはあくまで上質ってだけだ。旨く感じるかは別問題でね。

 その点でいえば、昔のあの人は最上級ってもんだった。あの人が丹精込めてつくった杖には、そのときまでのあの人の全てがたっぷり染み着いていたと言っていい。その杖からはこの上なく旨い、あの人についての歴史を吸えたんだよ。俺は、それが何よりもよかった。俺は、あの人の全てを取り込むのを諦める代わりに、あの人のつくる杖からあの人の歴史を取り込むことにしたのさ。
 そしたらなあ……いつからかあの人は新しく杖をつくらなくなった。おかげで俺は腹が減りまくりで、最近といえばあの人以外の、店に返ってきた杖から、さして旨くもない人の歴史を吸い続ける羽目になっちまった。だがまあ、今回のことで、あの人は自分自身のために杖をつくらなきゃいけなくなるはずだ。それを使って、俺の腹はまた満たされるってわけだな。ああ全く、今から待ち遠しいよ。

 ――なあ。

 あんたは、どう思うよ。
 もっと、スマートで賢いやり方が……あったと思うかい?
 ああ、この趣味に批判はしてくれるなよ、このこと自体はあの人も知ってることで、杖を貸したやつのもんを取り込むことくらいならあの人の目の前でやったことだってあるんだ。だから、そうじゃなくてよお。

 あの人に直接手出しするんじゃなかったら、一体どんなやり方が、俺には残されていたんだと思う?
 そう首を振るなよ。あんたにだって、これからたっぷり時間はあるんだ。俺のことを迷える子羊だとでも思って、助けると思って、知恵を出してくれよ。

 ――俺?

 そうだな……俺はその間、この、あんたが持ってきてくれた――もとい、返却してくた杖から、あんたの歴史を吸いだしておくとするよ。こういうもんは、鮮度がいい内に取り出しておくに限るからな。ほかにも、今週分でまだ終わってねえのもあるんだ、それもやっちまうさ。
 だから、その間にでも、考えておいてくれよ。俺に、他に何ができたのか。

 ――なあ、アルトマンさん。

 今の話は、俺の中でも、若気の至りが過ぎた、そんな昔の話って笑いたいからさ。


   B‐1

 ベッケラート氏がその場で見上げていたのは、自分の店の看板だった。

「んー……どうしたもんかな、こりゃ」

 意味もなく、ベッケラート氏の口から呟かれた言葉は、果てから吹き抜けてくる風に乗って跡形もなく消え去ってしまう。その様子に思わずため息を漏らしながら、ベッケラート氏は再び自分の店の看板を見上げた。

 そこにあったのは、横長の長方形の下半分がうっすらと苔むしている看板だった。建物自体は汚れ一つない灰色なのだが、この看板にある少しの苔のせいで、店全体の佇まいが少し暗いようにベッケラート氏には見えた。もう少し明るく見せるために、看板を取り替えるか、せめて苔を取り払う掃除くらいはするべきか、ベッケラート氏はそう考えていた。だが――。

「おや、先生! 来ていらしたんですね!」

 店の中から、元気な声が聞こえてきた。数日前からベッケラート氏が店で雇っている店員で、確か名前は――。

「お、おお……おはよう、えーっと、クラッツェンくん、だっけ?
「違いますよ、クラナッハです、クラナッハ」

 そう、クラナッハ氏だった。一年前、ベッケラート氏の店で杖を借りていき、返しに来たと同時に「店で雇ってくれ」と言ってきた強烈なやつ、というようにベッケラート氏は記憶していた。ベッケラート氏のことを見る度に「先生」と声をかけてくるのだが、その度ベッケラート氏の背中にはむずがゆさが走っていた。

「ところで、何を見ているんです、先生」
「ん、ああ……いや、看板がさあ、苔が生えてて」
「コケ、ですか……?」
「ああ、植物のやつね。ほれ」

 ベッケラート氏に指し示され、クラナッハ氏も看板を見上げた。「あー……」と、彼の口からも言葉が出てくる。その言葉も、果てから来る風に乗せられかき消えた。

「この看板、取り替えてしまおうかなあ……」

 そうベッケラート氏が口を開いた瞬間、クラナッハ氏が勢いよく首を回し、二人の目が合わせられる。クラナッハ氏の目は、軽く見開かれていた。

「先生、そんなことおっしゃらないでください。この看板はこの店の歴史の象徴のようなものですよ。この苔だって、この店の歴史と共にあったはずです。それを取り払うのは、この店の歴史を取り払うのと同じことです。それでは、先生が杖を造ってきたという歴史が、失われてしまうのですよ!?」

「お、おう……分かった分かった、分かったからさらに何か言おうとすんじゃねえ」
「……申し訳ありません、出過ぎた口を」
「いや、別にいいんだが……俺が杖を造ってきた歴史、ねえ……」

 ベッケラート氏にとっては、別にそんなもん、という程度のものであった。だが、この人にとってはそれがよほど大事なものらしい。自分が杖を造る、それがどれほど価値があるというのか、それよりももっと別の――。

「そういえば、今日はダールマイアー博士の予約日ですよね」
「お、おう、そうだったな。ちゃんと完成してるぜ、ほれ」

 クラナッハ氏の方から話題を変えてきたので、ベッケラート氏はとりあえずそれに乗ることにする。彼の胸の中ではしこりが少し残っていたが、ベッケラート氏はとりあえずそれを無視することにした。

「お、おお……これは、新作で……?」
「もちろんさ。特に、あの博士は足の長さがあんま長くないうえに膝をやってるからな。ほかの人にもまして、専用のものを造ってやらねえとって気になるだろ」

 そう笑顔で語ったベッケラート氏を、クラナッハ氏は輝いた目で見つめていた。その目線が絶妙に心地よくて、ベッケラート氏は思わず身震いをしそうになった。

「んじゃ、そいつの料金の見積もりは任せるぜ。材料はファーガスの木だ、それでよろしく」
「あ、はい! お任せください! では!」

 元気のよい声で返事をしたクラナッハ氏は、たった今手渡されたばかりの杖を手に店の奥へと駆け足で入っていった。別にそんな急がなくても、とベッケラート氏は思ったが、それを言葉にするようなことはしなかった。

 店先に置いてある長椅子に腰かける。ふう、とひとつ息を吐くも、それは風に乗って飛んでいった。どうも最近は、果てから吹いてくる風が弱まってきている、という話も聞く。最終的には果ての付近だけで風が吹くようになって、この辺は穏やかになってくれるというのが理想的だなあ、とベッケラート氏は物思いに耽った。

「あ、あのう……」

 しばらくベッケラート氏が椅子に腰かけたまま呆けていると、彼に声をかける者があった。一度目、彼はその声に全く気付かなかった。

「あ、あのう……」
「……うあ!? は、はい! すみません!」

 二度目、全く同じ言葉をかけられて、ベッケラート氏は勢いよく反応した。慌てて目の前に意識をもっていくと、そこには背中が曲がった爺の姿があった。

「い、いえ……お疲れなのでしょう、構いません……それより今日、杖を予約していたダールマイアーですが……」
「ああ、はい、ありがとうございます。少々お待ちください」

 そう言って、ベッケラート氏は首だけを回し店の中を見回す。そこには誰もいなかった。

「あれ、おかしいな……申し訳ありません、店内の椅子にかけてお待ちください」
「あ、はい……」

 まだ見積もりが終わらない、そんなはずはない。いつもなら、ものの五分あれば終わらせるのに、今日はどうしたんだ。そんな思いが、ベッケラート氏の胸の中を巡っていた。

 店の奥へと入り、廊下の突き当りを右へ折れる。そこをずっと進むと、彼の杖の工房があった。料金の計算のための資料はここに置いてあるので、ここにいるはずだろうと当たりをつけていた。
 扉に手を伸ばしかけたベッケラート氏は、暫しそのまま固まってしまった。工房の中から、おかしな音が聞こえてきたからだ。何かを啜るような、舐めつけるような、そんな音。

 彼は扉に耳を当てた。中から小さく声も聞こえてくる。紛れもない、クラナッハ氏のものだ。

「……旨い……やはり、先生が新しく造った杖はいいなあ……」

 ――俺が新しく造った杖は、いい。

 ベッケラート氏の心の中では、その言葉が渦を巻いていた。次々と言葉が浮かんでは消える。早く彼に声をかけて、杖を博士に渡さなくてはならないのに。
 ベッケラート氏の目には、僅かに涙が浮かんでいた。クラナッハ氏の語る言葉を聞いて初めて、彼の思いは輪郭を持った形となったのだった。

 ああ、そうか。やはり彼が見ていたのは俺の杖なのか、彼が見ているのは俺ではなく、俺が作って、俺から離れた、杖なのか。こうして俺が杖を造ってあいつに渡す度、あいつの注目は俺から俺のつくったものへと移っていくのか。なら、いっそのこともう――。

 店の奥には窓も冷房などもなく、だからここでは暑い空気がこもりやすい。だからというわけではないだろうが、ベッケラート氏の額には汗があった。それが流れ落ちて、目に浮かんだ涙と混じりあって頬を下り、最後には顎から床へと落ちていく。彼の目に映る景色はどことなく歪んでいて、ヴェールがかかっているようにはっきりしなかった。

「……ふう、暑い」

スポンサーサイト
第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00
copyright © 千葉大文藝部活動情報 all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。