FC2ブログ
« 2018 . 11 »    1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | CM(-) | TB(-) --.--.--(--) --:--

緑の双子

 その日の海風は強くて、目までかかる自分の長い前髪は大きく吹き上げられた。開けた視界に入ったのは、目に痛いほど青い海を背景に立つ、二人。
 〝緑〟。
 目の前に立つ表情の無い少年と、彼に支えられ、花の咲くような笑顔を浮かべた彼より少し背の高い少女を見て、俺が最初に思ったのはそれだった。
 少年の右手指先から肘にかけてと、少女の首筋と白いワンピースから伸びた細い足の左足首から太股の肌に広がる、鮮やかな緑。そこへ、血管に似た葉脈が複雑な模様を描き広がっている。
これが、事前にこちらへ届いた資料にもあった、彼らの症状の一部。実際に目にするのは、この時が初めてだった。まずは現在の進行具合を確認する必要があるだろう。考えを整理した俺は、互いにその表情を動かさない目の前の二人へ、初めて声を掛けた。
「……名前は?」
 俺の問いに、少年の方が小さく首を傾げる。そして、抑揚の乏しい静かな声で言った。
「この場所へ送られるにあたり、番号が与えられました。姓名共に、意味は失われたものと考えていたのですが」
 ……ガキのくせに、冷めた考えだな。少年の言葉にそう思いながら、俺は頭の後ろで両手を組むと、凝り固まった身体を伸ばすため背を反らしながら答える。
「んんー……ああ、そーだな。確かに、ここでは名前に意味はない。ないが、俺はいつも担当する患者は名前で覚えるんだ。何か番号って覚えづらいだろう? お前らは、ああっと――B、13なんとか! ……だっけ? そんなの呼び辛いし」
 欠伸を噛み殺しながら答える俺の答えに少年はしばらく黙っていたが、納得したのかするのを諦めたのか、それ以上理由を聞き返してくることはなかった。そんな少年の隣で、彼に支えられ、足を引き摺った少女が、突然こちらへと身体を乗り出すと大きく笑って言った。
「なまえ、わたしは、ディム。このこ、セオ!」
 自身と少年を順に指さし、少女は嬉しそうに笑う。特に、少年の名を教える時は一層目を輝かせて笑った。少年は、支えた少女が急に大きく動いても表情を少しも変えず彼女をしっかりと支えたまま、そっと彼女の言葉に付け加えた。
「僕達は双子ですが、出生順からディムが姉、僕が弟となっています。その他の情報は先立って送付された資料に。今は」
「ねえ、センセーの、なまえは?」
 セオの言葉をふわりと遮って、ディムは突然そう言った。予想外の問いに、俺は一瞬面くらって、言葉が出せなくなる。にこにこと俺を見つめるディムに、隣に立つセオは、静かな声で嗜めるように囁いた。
「――姉さん。彼は、この島の〝施設〟の診療医兼研究者だ。番号で呼ばれることはないせよ、この島で生きている以上、僕らと同じく名前の意味を失っている。だから、彼のことはただ、センセイと呼べばいいんだよ」
 セオの声は、凪いだ水面の如く微かな揺れも感情の色も持たず、ただ、その響きは唯一、ディムだけに真っ直ぐ向けられていた。彼の言葉を受け取ったディムは、不思議そうな目をして首を傾げると、俺を見つめて尋ねた。
「センセー……。センセイ、なまえ、ない?」
 真っ直ぐな目で俺を見つめるディムの声が、不安定に揺れる。そうして向けられた、その一点の曇りもない瞳に、自分の顔が映っていた。
怠惰に伸ばしたまま放置している黒い髪と、手入れする気もない無精髭。こうなる前の、ここに来る前の自分は、何と呼ばれていただろう。記憶は、今はもうひどく曖昧な形でしか残っていない。しかし、それでいいのだ。それをもう、思い起こす必要は、ない。そう思うから、俺は彼女へと正直に答えた。
「名前は……忘れちまった。残念ながら、もう覚えてねーなあ……」
 俺の、そんな言葉を受け取った瞬間だった。
ディムの表情が、みるみるうちに悲しみで歪み、先程までの花の咲くような笑顔が幻想のように消えていったのだ。
それとは対照に、欠片も表情を変えないセオの隣で、俯いたディムは小さな声で呟く。
「センセイ……忘れちゃった……?」
今にも泣きだしてしまいそうなその表情に、罪悪感にも似たような焦りが徐々に胸の奥へ湧き上がってくる。
……何故俺が、こんな感情にならなきゃいかんのだ。そう思いながらも、留まることなくその表情を悲哀に曇らせていくディムと、その傍らで戸惑いも、何を責めることもせずに瞳を伏せているセオを前に、自分の精神がじりじりと削られていく。ついに、その場の空気に耐え切れなくなった俺は、観念し、ぼそりと呟いた。
「まあ……此処に来て、勝手に付けられた呼称ならある、が」
 ぱっと顔を上げたディムへ、俺は決意が揺らがぬうちにと、少しの間も置かずに呟いた。
「――……ペルレ」
「ペルレ」
 か細い声で告げた俺の名前を、ディムが素直に繰り返す。
「よく、分からない名前だろう?」
 俺は、きまずさやら気恥ずかしさやらを誤魔化すように、鼻で笑いながらそう言った。しかし、そんな俺の耳に聞こえたのは、予想を鮮やかに裏切る二人の声だった。
「……いえ。確かに、あなたを表した名だと考えます」
「ぺルレ! きれーな、なまえ!」
 表情は微塵も動かさないまま、けれど予期せぬ肯定の言葉を返したセオと、ぺルレ、ぺルレと嬉しそうに繰り返すディムをぽかんとした表情で見つめながら、俺は呟いた。
「……お前ら……変なガキだな」
「?」
 嬉しそうに微笑みながら、きょとんと首を傾げるペルレの隣で、セオが静かに言った。
「そうであることを求めているのは、この場所とあなた方なのではないですか」
 セオのその言葉に、俺は小さく瞼を伏せた。
「……さあ、どうだろうな」
 そう俺が呟いたその瞬間、海の方から、爆音とともに強い風が押し寄せた。いつもの通り、船が自動爆破された音だ。 患者たちを運んだ船の、決められた末路。
そうしてここは、この海に一つきりの存在に戻る。
 世界と自分たちを切り離すその音が、目の前にいる双子たちとのやり取りに、まるで白昼夢を見るようだった俺の目を覚ましたような気がした。そうだ――俺の、この場所での役割は。
俺は、羽織った白衣の裾を翻し、二人へ背を向けると、小さく振り返って二人へと呼びかけた。
「……そろそろ行こう。まずは、症状の確認からだ」

***

 二人を引き連れ、小さいこの島の中央にたった一つ建てられた建物へ向かう。その璧は貝のように白く、この日も島へ注ぐ太陽の光を容赦なく反射していた。その眩しさに目を細めながら、石畳の上を、二人の患者を引き連れて歩いていく。自分の後ろを歩く彼らをちらりと振り向き窺うと、長さだけが異なる金の髪を太陽の光で柔らかに輝かせる彼らの歩く姿が目に映った。双子なだけあって、性別は違えどもその見た目こそはそっくりと言って差し支えない。しかし、二人を目に映した瞬間の人々は、彼らを似ている、とは感じ辛いかもしれないと思う。
 積み重なって彼らを作りあげるその小さな歪さの理由は、きっと彼らの〝表情〟にある。
「……セオ! ほら、うみ! うみ、きれいね!」
 太陽の光を受け海面を眺めながら無邪気に笑うディムの表情は、事前に受け取った書類によればもう十代半ばとなるその年齢にしては、あまりに無垢で明瞭だ。幼い、とも言える。そんな彼女に対し、彼女を支えつつ前だけを見つめて粛々と歩を進めるセオは、ディムよりも年下の少年でありながら、その白磁のように静謐な面持ちを崩すことは一切ない。その表情の動きの無さは、どこかこちらに微かな戦慄を覚えさせるほどで。
「……船の中では、見えなかったからね」
 この職業の性分だろうか、二人を既に視診するかのように目に映していた自分の意識は、そっと呟かれたセオの声に覚まされる。セオの声に、やはり色は感じられない。その無色さを彩るような鮮やかな声色で、ディムは答える。
「うん! おふねのなかも、まえのおうちも、ずっとおそとなんにもみえなかったから……うれしい!」
「――……」
 ああ、そうか。俺は、二人のやり取りにそっと息を零して小さく俯く。二人がいたはずのあの場所は、そういった所だった。それは、小さく残る俺の記憶にも未だ刻まれている。

 塗りつぶされたような、白。申し訳程度に置かれたひとつの緑。薄弱な空気。分断された、人々の生きる音――。

「セン、セイ!」
「……っ?!」
 急に重みを増した背中に、息を飲んで振り返る。そこには、自分に突進したらしいディムがこちらを見上げる顔があった。
「ここから、はいる?」
 ディムに指さされて前を見れば、いつの間にか施設の玄関前へ辿り着いていたらしい。どれだけ意識を飛ばしていたというのか。俺は内心の動揺を静めながら、彼らへと答える。
「え……あ、ああ、すまん、ここが入り口だ。施設への普段の出入りは基本ここからしてくれ。一応、外出する際には俺か施設の職員に一声はかけるように。……少し、窮屈かもしれないが」
「問題ありません。前施設ではこちらからの入出要請は不可能でしたから、ここでもそのような対応かと思っていたのですが。考えれば、孤島であるこの環境ではまた対応が異なるのも理解はできます。――姉さん、ここでは、外に出ることができるらしい」
「えっ……おでかけ、していいの?! セオ!」
「……うん。でも、施設の人に声を掛けてから、だけれど」
「わあ……! じゃあ、いっぱいいっぱい、おそとにもいこうね!」
 心から嬉しそうに笑うディムの両手に自らの手を握られたまま、セオは小さく頷く。けれどやはり、その表情に変化はない。彼らの様子を横目で眺めながら、俺はその緊張感のない会話の内容にため息をつき、彼らに忠告する。
「外に行くのはいいが、はしゃぎすぎて海に落ちたりすんなよー。確か昔、初めて見た海にテンション上げすぎて、いい年して海に落ちて死にかけた施設職員が一人……」
「何で来たばっかりの子たちにその話をしてしまうんだいペルレ?!」
 突如玄関の方から響いた弱々しい抗議の声に、俺と双子が一斉に顔を向ける。そこには、玄関の前で仁王立ちをしてこちらを涙目で睨み付ける茶髪の優男がいた。
「おお、エリオ。そーいや、こいつらの通信担当お前だったな」
「何あっさり話を流してるんだよ君は! 何もこんなに早く僕の黒歴史を暴露しなくたって、患者との円滑なコミュニケーションは取れるんじゃない?!」
「おー、すまんなー」
「謝る気皆無!」
 目の前でキャンキャンと吠える同期の同僚を軽く受け流し、俺はキョトンとした表情でエリオを見つめるディムと相変わらず無表情のセオに声を掛ける。
「まー後でちゃんと紹介するが、こいつはここの通信士で、俺と同様お前たちの担当になる。お前たちの情報を〝陸側〟とやり取りしてたのはこいつってことだ」
「ああ、ディムと、セオだね! 初めまして。僕はエリオ。この施設で通信……」
「おらー、入り口のロック解除したから、早く入んねえと閉まるぞー」
「えっ!? あっ、ちょっ、ペルレ! 僕の自己紹介まだ途中なんだけど?!」
「――エリオ。おぼえた!」
「姉さん、ドアが閉まるらしいから入ろう」
「はーい!」
 エリオの叫びを聞かなかったふりをして施設へと入って行った俺に、エリオを軽く一瞥しただけのセオと、彼に促されたディムが続く。
「あっ! ちょっと待って! 閉めないで! ここのロック、解除めんどくさいからー!」
 ……本当に、こいつら賑やかだな。そう思いながら俺は、呆れと僅かなむず痒さを感じつつ、施設の中へと足を進めていった。

***

 ――『新世紀症最終研究施設』。俺達の働くこの場所は、そう呼ばれる。2×××年、新世紀を迎えたこの世界で、人類は突如現れたひとつの問題に直面した。
前例のない奇妙な病例――通称、【新世紀症】の発生・拡大である。
〝飛躍〟という言葉などではもはやそぐわないまでの人類の爆発的な進歩は、前世期の間留まることを知らず、我々人類の生活に潤沢を与え続けてきた。しかし一方で、世界を構成する人類外のあらゆるものを、じわりじわりと侵食していった。
――我々の生きるこの星の〝環境〟を守らねばならない。
そう、ようやく口にし出したのは、一体この世界の誰であったのか。しかしその叫びは、あまりに決定的に、致命的に――遅かった。
人類の輝かしい〝飛翔〟の傍らで傷を受け続けたこの星の環境は、すでにその身へ貯めこまれた毒素を抑え込むことが叶わなくなった。そうして、放たれた毒の矛先を……自らを此処までに追いやった人類へと向けたのだ。
 皮肉なことに、人類が受けた毒は、これまで自分たち以外の存在を何の力も持たない無力な者の顔をしながら穏やかに蹂躙することで得た、叡智や資源では癒すことが叶わず。無論――人類は、大混乱の渦に叩き込まれていった。
 ……それでも、なお、ひたすらに一方的な不利を受け続けることをよしとしない人類の在り方は、流石、特出した力も持たずとも生物界の頂点に君臨しただけの事はあるか。
 人類は、これまでに水面下で続けてきた諍いを全世界で一時休止し、互いの持つ財産の多くを懸け、世界に全七カ所の特定施設を設置した。感染ルートの知れない【新世紀症】患者の隔離、及び対策のための研究、それらの結果を用いた集中治療を行うことがこれらの施設の目的である。七つの施設はそれぞれに患者の症状の進行度、発生原因分析の重要性、などによって【新世紀症】認定された患者をレベル分けし、段階を踏んで患者を収容、また移転させていく。そして、自分達のいるこの孤島――ある大国と大国の領海境界線上に存在するこの島に建設されたこの施設こそ、それらのルートの最終に置かれた、第七の施設。
 まさに、最終――新世紀症患者の最果ての地が、この場所であるのだ。
 そうした思考の最中、無意識の内に伸ばした手が、そっと自らの瞼へと触れる。
「……――」
 その時、部屋にノックの音が響いた。俺はデスクに置いていた書類を小さく整え、扉の向こうへと声を掛ける。
「律儀だなーお前さんは。……どうぞ、入ってくれ」
 その言葉に答えるよう、診察室のドアが開かれる。そこには、変わらずその表情に微かな色すら浮かべないままのセオと、彼に支えられ、朗らかに笑うディムが立っていた。
つい数時間前、本施設に入るにあたって、彼らの現状に関する基本データを取るための精密検査を受けてもらった。その結果と今後の治療の方針を伝えるため、彼らを呼んだのだ。
「ん。とりあえず、そこの椅子に……っと、一つしかないんだった……。悪い、余ってる椅子……」
「……いえ、特に必要は。姉さん、座ってくれる?」
「ん? うん、わかった!」
 俺の言葉を遮り、ディムへ一つしかない椅子へと座るよう促したセオは、そのまま自然と彼女の背の近くに立った。俺は何かを言いかけたが、それはおそらくこれまでも繰り返されてきたことなのだろうと感じ、口を噤んだ。
 改めて、俺は、二人に話し始める。
「先ほど受けてもらった検査の結果が出た。これを基に、簡単にお前たちの症状についての確認と、今後の治療の方針を伝える」
 あまり事態を把握していないのか、ディムは変わらずにこにことこちらを見つめている。その後ろに立つセオは、俺の言葉に小さく頷くと静かな声で言った。
「はい。姉さんへは、後に僕から改めて内容を伝えるつもりですが、問題はありますか」
「……いいや。宜しく頼む。では、まず、お前たちの症状について。お前たちは、互いに共通して、二つの症状を抱えている。一つは、後天的な『緑化症』。もう一つは、先天的な『情知分裂症』。間違いないか」
 セオは、俺の問いに頷く。その様子を見た俺は、話を続けた。
「この二つの症状は、【新世紀症】の中でも、極めて症例が少ない。その分、この施設ですら、それほど確かな情報を持っているわけではない。そんな中でも、最低限判明している事柄から話していこう。これまでの施設で伝えられてきたことと重なるかもしれないが」
 俺は、一度大きく息を吐く。そして、再び口を開いた。
「――まず、『緑化症』。こちらは症状として、身体をめぐる血管から皮膚へと徐々に緑化し、最終的には全身に転移する。現れる植物の特徴、進行のペース、侵食されていく部位については患者ごとに大きな差が見られると聞く。お前たちの侵食部位についても確認させてもらったが、一卵性双生児であるお前たちの間にも、かなりの差がある。そのため、今後の治療においても各自少々異なったアプローチをしていかざるを得ない」
 俺の言葉に、真っ直ぐな眼差しを向けるディムの背で、セオの口元が微かに歪んだような錯覚を起こした自分の目を眇める。しかし、改めて見た彼の表情に動きはない。本当に錯覚、か。
「もう一つ――『情知分裂症』。こっちは、先天的にお前たちが持って生まれたもの、か。一卵性双生児のみに発症が確認されている、極めて症例の少ない【新世紀症】。端的に言わせてもらうと、一卵性双生児のそれぞれに、知能・感情が著しく偏った状態で生まれる症例――加えて、各能力の成長スピードにも大きく差が生まれる。お前たちの場合、ディムに感情、セオに知能の成長の偏りが見られていると推察する」
「ん! わたしとセオ、いっしょでひとつ……ね?」
 明るく頷きながら、セオの方を振り返るディム。その表情に眼差しを落としながら、ディムへと小さく頷いたセオは口を開いた。
「自分たちの症状については、今話していただいた内容でおおむね間違いありません。これまでの自分たちの体感や、前施設で伝えられてきた内容とも一致します。おそらく、僕たちの症状に関しては、この場所であっても持て余すものではあると思いますが」
 セオの言葉に、俺は小さく眼差しを伏せた。こいつの言葉は、正しい。この双子の抱える症状は、現時点で俺たちが把握しているデータが、あまりに少ない。しかしそれは、彼らに限ったことではなく……この施設へと辿り着いた患者たちのおおよそに当てはまることだった。俺は、目の前の二人に気付かれぬよう口内でそっと唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……ああ。『情知分裂症』、こちらについては症状の根源を改善していくことは残念ながら不可能に近い。それは、『緑化症』についてもそう変わらないというのが正直な見解だ。よって、今後の治療では、お前たちから収集していくデータの分析と並行し、それぞれの症状の進行スピードを少しでも退行させるための薬物治療と、各自通常値よりも成長の遅れている能力を伸ばしていくためのカウンセリング治療を中心に行っていくことになるだろう。早速だが、今晩からこちらが開発した『緑化症』対策の薬を服用してもらいたい。内外共にアプローチを行いたいため、皮膚の侵食を抑える軟膏もこちらから出しておく。具体的な今後の計画については、後ほど追って連絡しよう」
 何とか、今後の治療について簡単な説明を終えた俺の前で、ディムがふいに表情を曇らせた。
「……おくすり? うー……つめたい、やだ……」
 じわりと、その大きな瞳へ涙すら滲ませていくディムの様子に、俺はまたもや大きくたじろいでしまう。そんな情けない俺の前で、セオはディムの背中へ彼女を支えるよう静かに手を当てると、ディムへ言った。
「大丈夫。僕も、同じだから。姉さん」
「んん……セオ、も?」
「うん」
「……。じゃあ、がん、ばる……」
 二人の間で交わされる言葉の中は、これまでの何かをこちらへと感じさせるものがあった。それはきっとこの二人だけのもので、しかしそれが、何よりこの二人を二人たらしめたのだろう。俺は二人に真っ直ぐ身体を向け、言い残したことを伝える。
「初めの一回だけは、塗る箇所の指示もしたい。夕飯の後で部屋に届けるから、九時頃は部屋にいてくれ。――話は以上。……夕飯は七時からだな。どこで食べるか、希望は?」
 俺の言葉に、セオが小さく首を傾げた。
「……食事は、感染等の危険性を考えても各自の部屋で行うよう定められてはいるのが、これまでの施設での常でしたが」
「ああ? ……まあ、いい意味でも悪い意味でも、此処は〝最果て〟だ。職員にも、俺含め訳ありのやつしかいない。感染なんてもの、最初から配慮されてないから、此処はあらゆることに関して相当自由だ。それだけが、この場所のいいところだからなァ」
俺は自嘲気味にそう二人に告げ、諦めたように笑う。
そんな俺の前で少し思案した後、セオは答えた。
「……本日は、ひとまず自室で。姉さんに意向を聞いた後、再度希望を伝えます」
「ごはん、たのしみ!」
「分かった、こちらから伝えておく」
その後、少しして、二人は診察室を後にした。

 部屋のプレートを目に映しながら廊下を歩いていた俺は、頭に入れた二人を指し示す記号と番号の羅列を視界の端に確認し、のろのろと動かしていた足を止めた。
「……」
「――はあい! ……センセー?」
 真白いドアをノックした途端に帰って来た元気の良い声に、俺は思わず苦笑する。此処で、このような声色の声を聞いたのはどれほどぶりか。俺は、ロックの無いドアの取っ手を握った手に力を込め、スライドして開いた。
「やっぱり、センセイだ!」
「時間通り、ですね」
 そこには、ベッドの上に座って笑うディムと、ベッドの傍らの椅子に腰かけ、こちらを一瞥したセオがいた。
「おう、秒までぴったりだ。完璧だろ」
 軽口を叩く俺に、セオは対して反応するでもなく黙ってしまう。その反応に、俺は仕方なく、本来の目的を果たすため、二人に持参した幾つかの薬を手渡し、一つ一つの効能と服用時間・回数について説明をしていった。全ての説明が済んだ後、最後に残った軟膏について話す。
「これは、緑化の進行を……まあ、気休め程度ではあるが、遅らせる効果がある。二人とも背へ少し緑化が見られるから、そこに関しては塗りづらいかもしれないが……」
「以前からですので、その点に問題はありません」
「……そうか。ならば、今回だけ、塗る箇所の指示をするから覚えて実際に塗って見てくれ。現時点で緑化が見られる箇所だけでなく、今後緑化の可能性が考えられる箇所にも、事前治療の観点から忘れず塗ってもらいたいからな」
 俺の説明に特段自分の考えと異なる点はなかったのか、セオは素直に頷いた。ディムへの説明も、ある程度済ませているのだろう。俺は、二人へ指示を始めていく。それぞれの軟膏を塗るべき箇所を指示していき、セオの腕への説明で終わりを迎えた。
「……最後に、セオの右腕。現在手については甲のみに緑化が見られるが、今後掌へと侵食する可能性が高い。そちらにも忘れず塗ってくれ」
 俺の指示をすべて聞き終えた後、セオは自らの腕をそっと持ち上げる。そしてすぐ、ベッドの上にいたディムがセオに身体を寄せ、手にしていた低い円柱型の容器に入った軟膏を自らの指に掬うと、その指をセオの右手へと伸ばした。
「……?」
 二人の動きに僅か、思考が止まった俺の前で、ディムはその指先をセオの右手の甲に滑らせた。そのまま、その白い指先は、弟の掌を包んでいく。その動きに、真っ直ぐ落とされる彼女と彼の眼差し。同じ薄緑色に染まった、二人のその瞳は、互いに凪いだ波のようだった。
 初めてその光景を目にした自分は、少したじろいでしまう。しかしそれは、彼らにとって、日々変化する互いの緑化を把握する意味もあるのかもしれないとふいに考えた。セオへと指示した場所すべてへディムの指によって軟膏が塗られた後、今度はディムがセオにその身を委ね、セオの指が緑に彩られたその肌へと滑っていく。
その時、ディムがそっと呟いた。
「……おくすり。つめたいから、きらいだったけど……」
 にっこりと笑いながら、ディムが言う。
「あたらしいおくすり……あたたかい、ね」
「……」
 セオは、頷いた。その眼差しはどこか、小さく和らいでいるように見えた。彼女の言葉に対して、俺は意識せずともどこかぶっきらぼうになってしまう声で、静かに呟く。
「……少し、温感成分が入っているからだろう。この施設は潮風に当てられていることもあって、比較的涼しいことが多いから……患者の体温調節の意味もある」
 先程の診察室での会話の後、調合に少し変化を加えたことは、緊急であったこともあって無許可だが……まあ、これくらいはいいだろう。今言った言葉にも、特に嘘はないし。
 誰に対するものかも分からない弁解を心中で繰り返す俺を見る、セオの目に宿った微かな驚きのような色は……きっと、俺の気のせいだろう。
「ありがとう、センセイ!」
 そう言って笑うディムから、黙ったまま、俺は思わずそっと顔を反らしてしまう。
 セオは、何も言わないまま、それでも軟膏の乗る自らの指先をじっと見つめたまま……ディムの肌に指を滑らせていった。

 彼らの足に、腕に、首筋に滑るその指は、互いの存在自体を慈しむような柔らかさを持っているように見える。
 ――その温もりを、きっと、彼らは互い以外の人間に与えられてこなかったのではないか。
 ふいに、そんな想いが、二人を見つめる俺の頭をよぎっていった。

***

 この施設へ、その身体に緑を宿す双子が来て、数週間が経った。初日に伝えた治療の計画に沿って、彼らの症状の進行データに基づいた治療が日々進められている。彼らも治療への抵抗はほとんどないようで、年齢にしては少し不自然なほど落ち着いた様子で、施設による治療を受けていた。
 そんな中、以前までの施設との違いに少々戸惑いを見せるセオの傍ら、新しく見る物、許されることの多いこの島で、ディムの瞳と表情は常に輝きを失わない。
 この日も、結局ディムの要望で何故か俺の研究室で取ることになった朝食を済ませた後、ディムが少し興奮した様子でテーブルの上へ身を乗り出し、セオと、俺と、何故かここで共に朝食をとることになったエリオへ提案してきた。
「てんき、いい! きょう、うみいく!」
 ここ数日ハマりこんだように繰り返されるその提案に、俺は珈琲のカップへ近づけていた唇を離し、じっとりとした眼差しでディムを見上げた。
「お前、ここのところ天気がよけりゃ毎日それじゃねえか。海なんか行っても、泳げないお前らじゃそんなにすることもなし、流石に飽きねえか、そろそろ?」
「んんー? たのしいよ? うみ!」
 首を傾げながら、無邪気に笑うディムの隣で、セオは無言のまま食事を続けている。すると、苦い顔を浮かべる俺の隣から、お気楽な声が響いた。
「いいじゃない。朝の診察はもう済んでるし、今日の本治療は午後からだ。本当、今日は空も快晴で外出日和だし!」
「……エリオ、お前、他人事だと思って……」
「僕だって、行けることならディムとセオと海行って遊びたいんだよ?! けど、ここ数日は通信の数が酷く多いせいで、通信部は手が離せなくて……。何でこんな天気のいい日に、むさくるしい研究者たちのデータ報告なんて聞かなきゃいけない……」
「食事中に仕事の愚痴はやめろ。飯がまずくなる」
「ひどくないかい?!」
 連日の疲れのせいか、確かにその気の抜けた顔を青白く染めている同僚から視線を外し、先程からこちらに注がれ続けている強い視線の方へちらりと目を向ける。
「……センセイ、うみ、だめ?」
 ひどく悲しそうな表情でこちらをじっと見つめ、肩を落とすディムの様子に、俺は内心大きなため息を吐く。……だから、なんで俺が、こんな視線を向けられなきゃならないんだ……。
 俺は担当医としての決意を持ってディムへ向き直ると、しっかりとした口調で彼女へ告げる。
「いいか、ディム。お前らの緑化は、何が原因で進行するか分からないんだ。お前は脚が長く侵食されてきたせいで歩くことも少し苦労しているのに、泳ぐことはもっと難しいだろう? 海を眺めてそれで楽しいなら、それについては勝手にすればいいが。お前、そのうち海に入りたいとか言い出しそう……」
「んー、あ! そうだ!」
 俺の真剣な話を大きな声で遮り、成人男性とは信じがたい純粋そのものの笑顔でエリオは言った。
「ペルレ、二人を担いで海に入ってあげたらどう?」
「――はあ?!」
 あまりにもあっさりと告げられた想定外の提案に、俺はすっとんきょうな叫び声をあげる。
「お前、何言……」
「施設の南方面にある浅瀬ならそんなに深さはないし、ペルレ、案外力あるし。海水に肌が触れることを避けさせたいなら、高く持ち上げれば問題なし!」
「大ありだ! だいたい、何で俺がそんなこと」
「うみ、はいれる? はいれるの?!」
 エリオの無責任な提案の内容を理解してしまったらしいディムは、途端にはしゃぎ出す。セオは……相変わらず、食事を続けたままだ。くそう、お前何でそう冷静なんだ……。
 視線へ尋常ならざる憎しみを込めてエリオを睨み付けるも、どこ吹く風という様にエリオは俺の視線にまるで気付いていないかの如く、穏やかに微笑んでいる。
「っ……はあ……。ああもう、しかたねえなあ……」
 俺はがっくりと肩を下ろし、観念する。これ以上、ディムの期待に満ちた視線を真っ向から受け続けては何だか狂ってしまいそうだ。
 俺は、この双子が来てから何度落としたともしれないため息を、盛大に吐いた。

「うみ! うみー!」
 目の前に広がる、普段と変わり映えしない青の波紋を、ディムは煌めく光を宿した目で見つめながら叫ぶ。
 変わらず彼女を傍らで支えるセオの揺らぐことない瞳は、まるでそのまま海の色へと染まり切ってしまいそうですらある。
 その隣で物憂げな気分を隠すことなく表情を曇らせていた俺に、セオはこちらを小さく見上げ、どこか澱む口調で言った。
「……――任せて、よいですか」
 その言葉に含まれた感情は、あまりに淡く小さい欠片のようなもので、しかし俺はその感情が少し分かるような気がした。
 それは、きっと、〝遠慮〟と〝躊躇い〟。
 彼女の意思に沿い、その願いを叶えるため、俺へ彼女を任せること。彼女と繋がれた、自らのその手を離すこと。
それが分かってしまったからこそ……今度こそ俺は、沈むばかりだった己の心に活を入れ、ある決意をした。
「……ディム! セオ!」
 己を奮い立たせるよう、無理して声を張って、俺は二人に呼びかける。
 予想外の俺の声に、僅かに肩を震わせたセオと大きな瞳でこちらを見上げたディムに、俺は言った。
「お前ら、まとめて担いでやる。こっちに来い」
「……は……?」
 微塵も動きはしない表情を、さらに固まらせたセオの隣、ディムが今にも跳ねそうな勢いで、こちらに向かって問いかけた。
「いっしょ? セオも、いっしょにはいれる!?」
 その問いに、俺は頷く。そして、セオが抵抗するより早く、二人の身を両腕で抱えた。幸い、身長もそれほど高くなく、一般的な同年代の子どもと比べて細身である二人は、多少無理をすれば同時に抱えることもできないことはなさそうだ。
「っ……お、下ろしてください。海に入りたいというのは姉さんの望みであって、僕の望みでは……」
 流石にこのようなことは想定外であったのだろう、弱々しい声で訴えかけるセオの不安を吹き飛ばすよう、鼻で笑いながら俺はセオに答えた。
「気にすんな! もうここまで来たら道連れだ! それより、しっかりつかまってねえと、落ちたところで俺は助けも何もしないからな!」
 そうして俺は、自分の腕が限界を迎える前にと、脚に力を込めて海の中へと入って行った。二人の身へ可能な限り海水がかからないよう、細心の注意を払いながら波間を行く。そうして海の中を進んでいく度、脇からは空気へ光を散らしたような歓声が上がった。
「わあっ! うみ! なか! きれいね、セオ!」
 きゃーっと嬉しそうに歓声を上げながら、時折自分達へと押し寄せる波と水飛沫に、ディムは笑い声を響かせる。
 一方傍らで固まったまま一言も声を漏らさないセオを伺い見れば、目を見張るようにして、自分達の周りの景色をその目に映していた。もしかすると怖いのか、そう思って少し心配になったが、その目に僅か、ディムに似た光が宿っているのに気付き安堵する。
 そのまま、俺の腕に限界が訪れるまでのあまりにも短い時間ではあったものの、俺達は海の中で波打つ青と戯れた。こうして無邪気に遊ぶ患者など、この場所ではほとんどいない。そのせいか、きっと数分だっただろうその時間が……とても、とても、失い難いものであるような気がした。その後、震える脚と腕で何とか浜辺へと戻り、二人を陸へ下ろす。そして、俺自身は、倒れ込むように砂浜へと寝転んだ。
「っ、あー! つっ……かれた!!!」
 身体中の悲鳴を代弁する様に叫び声をあげれば、隣でこちらを見下ろしたセオが、冷ややかな目で俺を見つめる。
「ですから、僕は望んでいないと。平均より筋力があるとして、十代の子ども二名を海水につけることなく担ぎ続けるのは無理があることは明白です」
「かー! かわいくねえなあお前は! さっきはちょっと楽しんでただろうが!」
 そう言い返してやると、セオは、どこかきまり悪そうに顔をそむけた。あながち、間違いでもなかったのだろうか。
 その時……ふと、俺の耳に、軽やかな音色が届いた。
 音色の響いたほうを見れば……そこには、先程からはちきれんばかりの表情で笑っていたディムが、空を仰いでのびやかに声を響かせている姿があった。
「歌っ、て……――?」
 そうして耳に届く柔らかな歌声は、潮風とまがうほど自然で、何にもとらわれることなく快晴の空へと吸い込まれていく。
 美しい。そう、素直に感じた。
 先程まで、素直とは言い難い態度を取っていたセオも、いつの間にか口を噤み、その歌声を聴いている。そして、最後と思わしきフレーズを歌い終えた後……ディムは満足したように微笑み、一つゆっくりと息を吐いた。俺は、そんな彼女へ無意識の内に問うていた。
「――好きな、歌なのか?」
 俺の問いかけに振り向くと、ディムはその笑顔を一層に柔らかくして、大きく頷いた。
「うん! ……むかし、かあさまがうたっていて。とうさまも、だいすきだったって!」
 その答えに、背中にいるセオが、ほんの僅か息をつめたのを感じた。俺の胸中に、つきりとした痛みが生まれる。
「そうか。とても……いい歌だ」
 心のままそう告げれば、ディムは、心から幸福そうに微笑んだ。
 そうして、その日は午前中いっぱいを使って海の側で過ごした後……海へ共に行けなかったエリオの愚痴やら羨望の言葉やらを滝の様に受けつつ、日は流れていった。

***

 それからの日々の中で、何故か俺達はたびたび海へと訪れ、そこで時間を過ごすことが多くなった。海の中へと入ることはあの日限りではあったものの、海に向かうことに関して、俺もセオも、以前の様に躊躇うことは少なくなっていった。
 それはおそらく……この場所であの双子と出会って以来、俺とセオが、一つの近しい予感を抱いていたからであったのだと思う。

 自身の研究室のデスク前で、体重をかけるように椅子へ座ったまま。ここ数週間のデータの推移を見つめ……俺は、深く重い息を吐いた。
 予期していたその変化は、それでもなお、こうして形として目の前に叩き付けられた時、自分の精神をじりじりと燃やしていく。それは――弱々しい篝火の如く鈍く、何かを消していくような痛みで。
 その時、部屋に響いたノックの音に、俺はゆっくりと身を起こす。
「――どうぞ」
 かけた声に応じるよう開かれた扉の向こうには、セオがこちらを見据えたまま、一人きりで立っていた。
「入ってくれて構わない。むしろ、今、こちらから呼ぼうかと考えていたところだ」
 俺の言葉に特に答えることはないまま、セオは研究室へと静かに入った。そして、俺の前に置かれた小さな椅子へ少しためらいがちに腰を下ろし、こちらへ真っ直ぐにその平静な眼差しを向ける。俺が口を開くより少し先……セオは、その小さな唇を開いた。

「――姉さんの緑化の進行度は、どの程度早くなっていますか」

「……気付いて、いるよな。当然」
 俺の言葉に、セオは小さく頷く。そして、セオは静かな声で話した。
「『緑化症』が発症した初期の段階から……僕たちの緑化の進行スピードには、ある程度の差が存在していました。この島へ来たときの状態からも分かる通り、僕と比較して姉さんの緑化は進行スピードが速い。それは、知能と比して身体的な成長の早い姉さんの体質上、ある意味では当然の帰結でした。それが、ここ数日で、さらに加速している」
 セオの言葉に、俺はゆっくりと頷く。
「データ上も、そのような結果が出ている。もっとも、データなんぞ見なくとも、毎日の視診だけでその事実だけならば明白に分かっていた。想定上の変化とはいえ……この加速度は、極めて異例と言わざるを得ない。おそらく、緑化の転移場所が、いずれかの中枢機関に広がったと考えられる。早急な対応が必要だ」
 そう、セオに伝える脳の思考とは反して、俺の胸中でうずいていたのは、真実に近い偽りを述べる自分への強い憤りだった。そんな俺に気付いているのか否か、セオはその声に小さな緊張を滲ませ、俺に問うた。
「――もし、このまま緑化が進んでいった後。姉さんは、どういった状態になりますか」
 それでもなお、震えなどは微塵も零さないセオに、俺は担当医として、研究者として……正直に答えた。
「これまでのデータから分析と予測した結果、幸い、ディムのケースでは脳への直接の侵食はしばらく後のことになると想定できる。しかし、その間も緑化の進む他の気管は、その侵食に耐えられない。脳の動きを残したまま……侵食が完全化した部位から、ディム自身の自由は利かなくなっていく。言えば――植物状態に、極めて近い」
答えながら、胸中で激情が抑えきれない。皮肉にしたって、趣味が悪過ぎる。こんな……こんなとき、俺は何故――。

何を、変えることもできないのか?

「――そうですか」
 セオは、それだけを答えた。手にしたデータに視線を落とし、微かに震える手を抑えることで精一杯の俺に、少しの沈黙の後、セオは静かに問いかけた。

「悔いて、いるのですか」

 その問いに、俺は思わず顔を上げる。
 セオは、前髪に隠れた瞳を見張る俺の前で……こちらの目を真っ直ぐに見据えるような澄んだ眼差しで、俺に告げた。

「姉さんの望みに沿って下した、あなたの判断を。僕は、間違ったものとは考えていません」

 その言葉に、息を飲む。
 何故、気付いたのか。自分の胸中から消えない、この悔恨を。

連れてなど、行かなければよかったのではないか。
 その願いを、制することこそが、自分の役割だったのではなかったのか。

 そんな、どうしようもない……どうしようもない、悔恨。
 それを、セオの告げた一言は、そっと解いていくような気がして。それは、許されるのか。本当に、自分は。
 許されて、良いのだろうか――?
「尋ねたかったことは、すべて答えをいただきました。……では、僕はここで。失礼します」
 セオは椅子から立ち、自らも鮮やかな緑へと染まりつつあるその手で、部屋のドアの取っ手をつかむとゆっくりと引いた。
 そうして消えていった双子の片割れの背の影をいつまでも目に映しながら、俺は、いつまでも自分へと問い続けていた。

その日から数日して――緑化の進行は、ついに、ディムの首元から頬へと広がっていった。それに伴い、治療にも強い薬が投与されるようになり、ディムの治療に掛けられる時間も日に日に長さを増していった。
少しずつ、顔へと侵食を広げるその緑は、これまでは生活の中の至る所で咲いていたディムの笑顔を、少し動かなくしていった。 
対であるような二人の内、ディムだけが持っていたその聖域が――少しずつ、緑に染まってゆく。
その果てに待つ結末はきっと、セオにとって、唯一の片割れを失うことでもあり、自分の感情を失うことと同義だ。
 そのあまりにも残酷な変化に、セオはなおも表情を大きく動かすことはないまま、しかし、その声音に小さく影を落とすようになった。それは……今までの自分であれば、おそらく見落としてしまっていたほどの微かな変化。
 その日、二人の自室で就寝前の診察を行った俺は、薬の影響もあってか少し早目に寝付いてしまったディムの傍らで、ぽつりと零されたセオの言葉を聞いた。
「かつて僕たちの周りにいた人間達は、皆、姉さんが僕に依存し続けているのだと言いました。けれど、それは違う。依存という言葉が指し示すのが、それに頼り、自らを存在させるということなのなら……僕らは、互いが、そうだった」
「僕は姉さんに依存し、姉さんは僕に依存する。片割れなのだから、それは自然だった。僕たちはそうやって生まれ、そうやって生きてきた結果として、今此処で呼吸をしている」
 生きるため。その最上の目的のために、互いにすべてを与え続けてきた。
 その時ふと、微睡みと現実の狭間でほんの少し意識を覚ましたディムが、セオを見上げ、柔らかに微笑んだ。
「ん……せお。……だいすき、よ」
 そう呟いたディムの声は、唯一人セオに向かい、どこまでも真っ直ぐに響いた。
「僕も同じだよ、姉さん」
 迷うことなく、セオは答えた。それはきっと、もう幾度も、幾度も繰り返し交わされた言葉なのだろう。
 俺は、二人を共に染め上げていくその残酷なまでに美しき緑に、迷うばかりの眼差しを落としていた。

***

 今朝取ったディムの状態データを見つめながら、夜の影に満たされる研究室の中で、俺は僅かな机上ライトの光のもと、ぼんやりとしたままの思考を巡らせていた。
 そうしてふと、書類に落としていた眼差しを上げる。するとその視線の先に、画面へ映った自らの顔を認めた。日頃患者たちの膨大なデータを示すその黒い画面に映った、髪の間から覗く自らの瞳。――――すべてが〝白い〟、その双眸。

俺の目は――生まれた時から、〝白〟かった。

ディムとセオは、二人がこの島へ来たその時に、海風に吹かれた長い前髪の奥に在ったこの目を見ている。持つべき場所に色を持たない、悍ましい瞳。
その虚ろな白に呼び起こされるのは――あまりに空虚な、記憶。

 ――生まれた時からこの瞳を持っていた自分は、自分の周囲で生きていた大半の人間から、異物へ向けるような視線をぶつけられてきた。そうやって気味悪がられるのは、俺だけに留まらず、そんな俺を生み、育てる両親へもその害が波及していくのに、そう時間はかからなかった。それでも初め、両親は俺を擁護した。それはただの体質であり、特徴であり、恥じることは何もないと。
しかし、幾人かの研究者たちの主張を発端に、その原因を環境汚染と疑われ始めた【新世紀症】の出現により、自分たちへと向けられる害の内容と質が変わった頃から、両親の様子にも変化が見られ始めた。
他者への感染の可能性。環境汚染という繊細な国際問題に深く関わる疑いが持たれた、あらゆる国にとって厄介でしかない存在。
あの時実際に受けた害の数々など、一つとして思い出したくはない。否――もう、記憶にないのだ。耐え切れなくなった精神が抹殺したのか、記憶を司る脳の一部が損傷でもしたのか……確かなことは知れないが、その記憶は既に、自分の中から消え去っている。
両親とは、次第に疎遠になっていった。そして、中等学校を出てすぐ家を出た俺は、ともすれば憎悪にも似た一つの決意を胸に、決死の勉学の末、高等学校を卒業後医学部へと進学した。
自国の飛び級制度を利用し、大学院まで最短の年数で飛び級を重ねた俺は、自らの抱える奇病と環境汚染の関係について、睡眠を最大まで削り、研究を進めた。そして――かつて数名の研究者がその原因の可能性について言及した【新世紀症】について、発症の原因が過ぎた環境汚染であることを、明白に突き止めたのだ。
そして、自分の持つこの特異が、『白眼症』と呼ばれる【新世紀症】の一つであることを知った俺は。国が引き起こし、その対応を怠った環境汚染の被害者であることを理由に――国へと、訴訟を起こしたのである。
数々の国がその内容に騒めき、自らと同じく【新世紀症】で苦しむ患者たちの期待を一身に背負った裁判であったが……初審は、認めがたい、こちら側の〝敗訴〟であった。
その後も自らの研究による僅かな財や、全国からの【新世紀症】患者たちの支援により、俺は控訴をしていった。
しかし、結果は二審、三審と進んでも、結果を覆すことは叶わず。それでもなお、変わらず支援を続けてくれる人々もいたが、自らの手元にある裁判へとかけられる資金はほとんど底をついていた。そして、何よりも……自身の精神が限界を迎えていることに、自分の心が一番気付いてしまっていた。
そんな中で、我が国で行うことのできる最終の控訴を前に――俺は、国から、一つの提案を突き付けられた。
〈ここで控訴を取り下げれば――この裁判に関して君と君の親族がこの先受けていくであろう風評被害や攻撃から国がすべてを保護し、その上で君に、国から新たな仕事を与える〉。
そうして俺に提示された職こそ――この最果ての施設での、治療医兼研究者の立場だったのだ。
 国の提案に含まれた意図は、あまりに分かりやすかった。
――『これ以上、【新世紀症】について騒ぐことは許さない』。
 しかし、俺はそれを知ってなお……結果として、その意図ごと、この道を選んだ。それは、自分の手で自分と同じ苦しみを抱える【新世紀症】患者を少しでも救いたい、誰もがその危険性から向かうことを躊躇うその場所へ赴き、自分の小さな力であっても捧げたい……そんな、もっともらしい想いで誤魔化した、あまりに泥臭く、誇りの欠片もない叫びのためだった。
 ――――生きたい。こんなところで死んでやるなんて、それは、それだけは、許すことは出来ない……!
 そうして、国同士の領海境界線上に在る島へ建てられたこの施設へ送られた自分は、いつしか、抗うということを捨てた。
 この場所は、患者の訪れる最果ての地だ。そして、それと同時に……職員たちにとってもまた、最後の地であることに変わりはない。
 国は、世界は、現在もなお【新世紀症】に対する決定的な対応策を見いだせていない。あまりにも人類の医学の常識を超越したその症例は、改善の方法もろくに見つけることもできないまま、俺たちは患者を失っていくのをただ見ていることしか出来ないのが、自分たちの生きる現在の世界の最低な真実だ。
そんな、あまりに歪んでしまった――国という、世界という存在を前にして、俺という一人の人間はあまりにも無力で。こうして今も、暗闇の中、事実を事実として眺めることしか出来ずにいる。
 ――ふいに、デスク上で光を放つ携帯端末の画面。届いているのは、国の政府からの伝達だろう。そして、そこに記されているはずの内容を、自分は嫌というほど知っている。
 この場所で生きる限り、自分達は、暗に示され続けているのだ。

 ――――『その死を、有効活用せよ』。

「……分かってるさ」
俺は、耐え切れず声を零すように呟く。
それが、どれだけ人でなしの思考であろうと……此処で、患者たちの死や抱える苦しみ透過しながら貯蓄され続けるデータが、いつかの未来へと繋がっていくことなど。
 けれど。けれど、それは。その、〝諦め〟と何ら変わりない選択は。
 静かに呟き、俺は深い息を零すと、項垂れるように椅子の上で抱えた自らの膝の間に顔を埋めた。

 ここで幾度、自分はその死を見送った?

 かつて、自分が望んだのは、何だった?

 今日の昼、訪れた二人の自室で、交代で治療の番を待っていたセオと交わした会話を思い返す。
 セオは、先程までディムの眠っていたベッドへと視線を落とし、明白な口調で言った。
『此処へ来る前……姉さんと、もう一度だけ自分たちの病について話をしました。いや――僕たちの持つこれは、病ですらない。僕たちは、ただ、還ろうとしているだけです。かつては誰もがそうであったはずの、この星の一部へ』

『還ろうと、しているだけ』

 そう呟いたセオの声が、今も頭の中に、幾度となく響く。
『僕たちがここへ来ることを決断したのは、ただ、自分たちが最後まで生きていくことのできる場所を探していたからです。これまでの場所では不可能だと考えた。環境の行く末や、国の思惑など、一切関係はない』
『――僕たちの両親は、僕らが生まれてすぐ、『情知分裂症』のみが明白に発症していた頃までは、どちらも僕たちを家族と見なしていた。けれど、『緑化症』が発症した頃から……両親の目は、自らの娘と、息子を見るそれではなくなっていった』
 その言葉に……俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
あまりに、似ていた。彼らと自分。ただ生きるため、此処に辿り着いた、その存在が辿って来たもの。
「両親が僕たちを施設に預けたのは、まだ、姉さんが自身の感情を伝える言葉をほとんど得ていない頃でした。だからでしょうか、今でも姉さんは、おそらく両親から手離された事実を把握しきれていない」
 けれど、と、セオは呟いた。
「それでも――その後、共に僕たちは、施設の中で生き続けました。何より、姉さんが生きたいと願い。僕自身が、生きたいと願ったから。そうして僕たちは、自らの意思で、此処へ辿り着いたんです」
 セオが、誇り高く告げたその言葉に、俺は、何かを覚まされたような気がした。

俺自身も、そうだったのだ。
ただ、自分のままで生きていく場所がほしいと。

 けれど、あの場所で、それはもう叶わないと知った。だからこそ……此処へ来てしまった。
 それなのに、俺は此処でも、自分のままで生きることに躊躇って。

そんな俺に、初めて会ったあの日――海風が見せたこの悍ましい瞳を見た二人は言ったのだ。

『いえ。あなたを確かに表した名だと考えます』
『ぺルレ! きれーななまえ!』

 それは、在りし日に、真っ直ぐすぎる声で告げられた言葉にも似て。

『まるで、真珠(ペルレ)だ。綺麗だね』

『――君、名前を忘れたって言ったね? よし、僕は今日から君をペルレと呼ぶ! どう、いい名前だろう?』

 そんな言葉に与えられた煌きが、今も、この胸に消えない。
 けれど、闘うことを捨て去ったあの日から……俺は、捨ててしまったその闘い方を、この手に戻せずにいて。
「……ディム。セオ」
 存在を確かめるように呟いた声は、夜の虚空の中へ、頼りなく消えていった。

***

 昨晩、異常な発熱を起こしたディムへの緊急対応に夜通しで当たっていた俺は、一時的ではあるがようやくその容態が安定したことを確認した後、まだ朝日の滲む南方の海岸へと足を向けていた。早朝ということもあり、流石に人影はないだろうと踏んでいた矢先、見慣れた茶髪の背中を見つけ、眉を顰める。
「……何でいんだ、お前」
「後から来た人に、文句言われたくないね」
 減らず口を叩く同僚の隣に立ち、薄藍に染まる穏やかな海面を目に映した。かつてのあの日、ここで大騒ぎしたことが何とも現実に感じられない。
 思わず表情を曇らせた俺の横で、エリオがそっと言った。
「――ディムと、セオの事だね」
 俺は、その言葉に答えないまま、変わらず海面を見つめていた。その傍らで、同じく海面を瞳に映しながら、エリオは言葉を続けた。
「二人について、僕も考えない時はない。誰よりも二人だけで生き、二人であることが呼吸の原動であったからこそ、あの子たちはあれ程までに強く……そして、どちらかの欠落がすべてを滅ぼすほどに、弱い。その強さと弱さを恐れているのは、きっと君だけではないよ。この施設の職員、皆がそうだろう。けれどね、ペルレ。僕は最近、少し考えていたことがあるんだ」

「ずっと共に生きるもう一人がいたことは、人間として、彼らは最上に幸福であったと言えるのかもしれない、って」

 振り向いた視線の先で、エリオは、悲しみと優しさを同時に湛えた、器用な表情で微笑んだ。
「……ペルレ。これは、僕の受信したデータにあった情報だ。セオは、初めの施設に入ってしばらくが経った頃から、自分達に関して、一つの記録を付けているらしい。以前それについて本人にそれとなく尋ねた時、見られても特段支障はないってきっぱり言われたから、他人に見られることをそれほど拒んでいるわけではないのだろう」
 そして、エリオは一つ息を吸い込み、あの日の様に俺へ提案をした。
「許可をもらって、読んでみたらどうかな。……大丈夫、これも、診察の重要な一環だよ。それに君なら、セオの大切なものを、踏みにじることにはきっとならない」
 その言葉に対する俺の答えを聞く間もなく、エリオはこちらに背を向けると、一度振り返り、のんびりとした口調で言った。
「じゃあ、僕は行くね。あんまり海辺にいると、またあの時みたいになりかねないし」
 そんな言葉を残して去って行った同僚の背中を見つめたまま、俺は彼にされた提案を思い返す。
「――記録、か……」
 そうして浜辺へ立ち尽くしたまま、空気を満たす波音の中でしばらくの間思案を繰り返した後――俺は海の側から離れた。
ようやく心に決めた、一つの場所へと向かって。

***

 この数か月で、幾度となく立った真白いドアの前に再び立つ。そして……その扉を、ノックした。
「……はい。どうぞ」
 聞きなれた静かな声に従い、俺はドアをゆっくりと開けてそこにいる二人の姿を目に映す。
 午前の治療を終えたディムは、発熱の疲れもあり、目は覚ましているもののベットで横になっている。その布団から出された片腕は、かつての白い肌を埋め尽くす緑で彩られている。血管状の葉脈は既に所々小さな蕾を付けており、細い手首の辺りには幾つかの白い花弁が開いていた。もう、感覚はほとんどないはずだ。自分に気付き、嬉しそうに細められた瞳は片方のみで、彼女の鮮やかな表情を表していたその顔は、既に半分が緑化し、その機能を失っていた。――ここ数日の容態の急変と、身体の約七割を侵食しつつある緑化の程度からしても、担当医としての自分と施設は共に、常に予断を許さない状況であり、彼女の至る〝眠り〟への時間はもうそれほど残されていないだろうと判断してい た。しかし、そのような状況に置かれてもなお、彼女の示す感情は僅かにも曇ることのないほど鮮やかなままで、今も見る者に光を与える。俺は、そんな彼女へ微笑みを返すと、彼女の傍らでその手に自らの手を重ね続ける少年へと声を掛けた。
「――セオ。突然で悪いが、お前さんに、頼みたいことがある」
 いささか急な俺の懇願に、セオは変わらぬ平静な表情のまま、こちらを窺うように尋ねた。
「……記録、でしょうか」
 どこかで、予期があったのだろう。セオのその言葉に、俺はしっかりと頷いた。
「お前が許してくれるならば。それを、俺に、読ませてくれないか」
 そうして俺は、セオへ、真っ直ぐに頭を下げた。
 俺の前で、セオの声が響く。
「これに、あなたが頭を下げるような意味はあるのでしょうか」
 そういった彼の足下に置かれた鞄から、一冊のノートが持ち上げられる。俺は、静かに頭を上げ……セオを見つめ、言った。
「――お前たちと。俺自身が生きていくための……闘い方を、見つけたいんだ」
 その言葉を聞いたセオの瞳が、微かに開かれる。
 そして、少しの後――セオは重ねていた手で一度ディムの手をぎゅっと握りしめた後、椅子から立ち上がると、俺にノートを差し出した。
「この記録が、あなたの求める答えを導くかは、正直言って分かりません。けれど、ほんの少しでも……姉さんの願いに繋がるなら、僕は」
 そう言ったセオの伸ばした手は、自らも以前より多くの肌をその緑へと染めていた。それでもなお、彼の在り方は、きっと何一つ変わらない。
「――……ああ。本当に、感謝する」
 俺は再度深く頭を下げると、手にしたノートを丁寧に抱え、二人の部屋を後にした。

 昼下がりの、まだ柔らかな陽の残る研究室の中で、俺はデスク前の椅子に腰かけた。
「……――――」
 手元にあるのは、双子の片割れが自分に託した、彼らの記録。
 俺は、その頁を、開いた。
 その瞬間……目に入ったのは、広い白の中へ浮かぶように記された短い一文。


【――今日の幸せを知る。】


 その頁の裏に透けた文字を追う様に、俺は頁をめくる。

【二人以外のすべてを失ったあの日、姉さんと唯一つ誓った言葉だ。忘れないよう、此処へ記しておきたい。自分の記憶の精密さは、事柄に関するものは同年代の他者と比べて比較的強固であるものの、情動に関するものは酷く希薄であることを自覚している。この記録は、そういった自身の記憶を補うためのものでもある。今後も、本記録を可能な限り続けていく所存だ。】

 そして、続く頁に綴られていた小さく几帳面な文字は、此処に来るまでの施設で受けた〝治療〟の内容、担当医の言動に対する分析、自分の得た情報の内ディムに伝えるべき重要なこと、ディムと自分の容態や、自らの身体の感覚等を事細かに記していた。
 そこに在ったのは、紛れもない、〝二人が生きる〟ことへの強き執着と希望。俺が、自分の願いと共に、今一番守りたいそれ。
――そうして捲っていった頁の先、ついに彼らがこの場所へと訪れた日の記録を見つけた。

【○月○日 最終施設へ到着。担当医、担当通信士と接触。姉さんの状態は比較的安定しており、彼らへの印象も良好であるようだ。自分に関しては、これまで同様際立った感情の変化は感じられない。ただ、この場所はこれまでの施設とは異なる点が非常に多いことが判明した。それを知った後、若干心中に残ったこれは、〝戸惑い〟、と呼ぶものだろうか。しかし、姉さんや自分にとって、現状では特に害のある変化ではない。姉さんに関してならば、比較的良い変化とも言えよう。この場所こそは、僕たちの生きていく場となりうるのだろうか。今後も分析を続ける。】

【●月●日 本日は朝の診断の後、姉さんの希望に沿って施設南方の海へ担当医と共に向かった。海に入りたいという姉さんの希望を叶えるため尽力してくれたことは感謝しているものの、自分に関してはそのような希望は一切示さなかったにも関わらず、担当医は自分も姉さんと共に担ぎ上げ、海へと入って行った。正直、意図が全くつかめない。緑化進行への僅かながらの影響の可能性を把握していてなお、このような行動に出たのは、やはり自分に欠如する〝感情〟というものが確たる理由として彼の中に存在したためだろうか。それを理解しきることは、自分にとって大変難しい。しかし……あの時。姉さんと共に、波間を進んでいった時。自分の中に僅かながら生まれた、普段あまり持つこと のないあの思考は――人のそれより極めて少ない自分の、〝感情〟の一片であったのかもしれない。】

 ――その後の頁にも記され続けた、この場所で過ごす日々の中で二人の得ていった考えや感情、その変化、揺らぎ。
 それらは二人ではない自分でも明確に分かるほど、この場所を自分たちの〝生きる場所〟として受け入れていった彼らの、此処で得た多くの光に満ちていた。それは、ディムの緑化進行が急速に進み始めた後も、いっぺんも変わることなく続いていて。
 自分が、結局は何も救うことなんて出来ないままでいると思っていた、この場所を。
彼らは――自分たちの最上の願いを叶える場所として、選び取ってくれていた?
 胸中で、自分の抱えるすべての恐れや罪悪を解き放っていくような、溢れる光を感じながら……俺は、最も新しく書き加えられた、その頁に書かれた文を目にした。

【〝感情〟という、本来人間が持つべき能力が著しく欠落していると判断される自分ではあるが。感覚、というのだろうか。そういった酷く曖昧なもので、けれど一つだけ、確かに確信していることがある。こうして記憶に在る今、此処に記しておこうと思う。】





【あの日、姉さんと誓った僕の幸せは。いつも、隣にあった。】





「…………――――」

 世界のすべてが止まった、その瞬間。
部屋に響いた――――アラームの音。

 ノートから手を離した俺は、その音の示す先へ、走り出した。

***

 ――いつの日であったか、施設に来てそれほど経っていない頃のディムに聞いたことがある。
『ディム、お前……なんだか、眠る前やけに嬉しそうだよなあ。――眠るの、好きか?』
『うん!』
 今とは違う、何にも止められることのないその笑顔で、ディムは迷いなく答えた。
『ねむると、あしたがきて、そのあしたのなかにはセオがいるから。あっ、いまはセンセイも! エリオも! だから……』


『だから、あしたは、とってもきれい』


「っ……ディム!!!」
 これまでノックを欠かすことのなかった部屋のドアを力任せに開けると、既に幾名かの施設職員がディムの容態急変の対応に当たっていた。
「セン、セ……イ」
 ベッドの上でその顔を消えてしまいそうなほど白く染めながら、それでもなおディムは、周りの職員たちや俺へと微笑みを向けるよう、もう力も上手く入れられないであろうその顔を動かそうとしていた。
 その傍ら、この数日間、変わることなくその場所で彼女の手に自らの手を重ね続けたセオが、これまでと変わらぬ平静な表情のまま、ほんの僅か彼女自身の色を残す指先を握りしめていた。しかし、強く姉の手を握るその指先は、彼女の顔と変わらないほどに白く色を失っている。その光景に、俺は一瞬、立ち尽くしてしまう。
 しかし、先程まで自らが目にしていたセオの文がこの身へ示してくれた答えに、力を失いかける身体を奮い立たせる。そして、対応に当たる職員たちに交じり、ディムの容態を確認していった。
 ベッド脇の機器の画面に流れ続けるデータは、ディムの決定的な衰弱を明白に示している。今この状態となって自分たち医師ができることは、患者の迎える〝眠り〟への安寧な導きと、その後、確かに有効な治療法が発見されるまでの患者の身体を適切に保存するための準備のみであることを、俺は誰より分かっていた。しかしそれは〝理解〟であり、〝納得〟とは決定的に違う。
 現状で可能な範囲の対応を行いつつ――俺は、まだ、彼女の笑顔を失った後の自身の闘い方を、どこか決意しきれないままでいた。
 その時……ひとつの、声が聞こえた。
この島に来て以来、色を失いつつあった自分の毎日を、眩しく彩り続けたその声が。

「セン、セ……」

 思わず手を止め、振り返った俺に、ディムはもうほとんど自分の意思で動かすことのできない声帯を懸命に震わせ、真っ直ぐに俺を見て言った。

「……うみ、たのし、った……ね。センセ、セオといれてく……たの……はじめて、で、わたし」

「あり、がと……うれし、かったの。だか、ら」


「じぶん、のこと……ちゃんとぎゅ……て、して、あげてね……?センセー……」


「……ディ、ム……――――」

 ――――この子は。気付いて、いたのだろうか。
 俺が、ずっと、抱え続けてきてしまったもの。
 自分の生を愛せない、その痛みを。
 じわりと、柔らかな熱を持っていく思考の傍らで、ディムへ繋がれた機器の微かな警告音は高さを増していく。しかし、その残酷な転調を止めるすべを、俺たち人類は今、誰一人として持たない。これまでもそうだった。それが、それこそが――俺は、何よりも、許せなかったのに。
君は、許すのか。
こんな人類を。――こんな、俺を。
 君と、君を誰より愛する人を――こんなにも長く側にいた末に、今はまだ救うことすら出来ないのに。

 それでも。君はきっと、その誰より鮮やかな表情で……俺たちに、この世界に、微笑むんだろう。
 ――――それならば。
 これからの俺が、もう一度闘うべきものは、きっと。

 再びの警告音。震える指先で、機器を調節していく。一時と信じる彼女の眠りを、ほんの少しでも穏やかなものへ導くよう。
 そうして、ディムの瞼は徐々に、花が開かれたその花弁を蕾へ戻すよう、やわらかに閉じられ始める。おそらく、もう彼女の身体からは、彼女の意思で力の籠められる場所はすべて失われつつあるのだろう。
 その力無き右手を、セオは、永久の様に強く握りしめていた。
 少年の表情は、動かない。その力を込めた手に、小さな肩に、微かな震えを宿すこともない。しかし、ディムだけを真っ直ぐに見つめるその瞳だけは……壮絶なまでの青い光を、彼の眼差しに散らしていた。
 最終警告を知らせる、アラームの甲高い音が部屋中に響く。その中でなお、セオの感覚のすべては、ディムだけに向けられているように見えた。

 その時。

 動かなくなったはずのディムの左手が、ふるりと持ち上げられたのだ。その指先が、セオの頬にそっと触れる。
 もう自らの意思で表情を浮かべることの出来ないはずのその顔が、ゆっくりと、動いて。
 ディムは――――笑った。

 かつて、弟と俺の隣で歌った、その声で。
 彼女は、弟に、言った。



「ただいま、せお」



「――――――おかえり、ディム」



 ねえ、これは、終わりなんかじゃない。だから、大丈夫。

「ずっと、一緒に行くよ」

 囁いたセオの頬から、雫が零れ落ちた。 それは、彼がこれまでの生の中で手にした、最大の感情の欠片。

 片割れの一人が眠るとき、二人は、一つに戻れたのだろうか。

 そうして、緑の双子の片割れである少女は、柔らかな眠りについていった――――。

***

あの日から、数日が経った。
 彼女の眠る面会室へ足を入れると、そこには既に、小さな少年の背中があった。
 陽の当たるベッドの上で、自らの緑とその周りに敷き詰められた可憐な花々に抱かれながら、彼女は幸福な表情で瞼を閉じている。
 少年は、可憐な花に抱かれたその頬に、柔らかく指を伸ばした。その横顔に浮かぶのは、ぎこちないながらも、瞳の奥に暖かな光を湛えた淡い微笑みだ。
「――おはよう、姉さん」
 そうして静かに落とされた声は、以前の様な無色ではない。
「おはよう、ディム、セオ」
 俺が欠けた声に、勢いよくこちらへと振り返ってほんの微かに瞳を大きくしたセオは、すぐにその表情をかつてのような平静そのものの顔へ戻すと、少し抗議を含んだ目でこちらを見遣った。
「……いたのであれば、もう少し早く声を掛けることもできたのではないですか」
 その言葉に、俺は笑いながら答えた。
「俺としては、極めて適切なタイミングで声を掛けたつもりだったんだが」
「……」
 ディムへの挨拶を聞かれたことが気恥ずかしかったのか、セオは耳をほんの少し赤く染めたまま、それを誤魔化すように普段と比べて少々強い口調でこちらへと尋ねてくる。
「それより、あなたがこうしてわざわざ僕の元に来たということは、何か事柄を伝える目的があったのでは?」
「お前は、ほんとに察しがいいな……」
 セオの変わらず鋭い指摘を受け、俺は彼へ伝えようとしていた内容を告げた。
「今朝、〝陸側〟の方から、正式に連絡が入った。現在の【新世紀症】に関する情報システムを大々的に再構築する案が、世界各国の参加する会議で数日中に立案される」
 俺の言葉に、セオの瞳が大きく見開かれる。その反応を確かめつつ、俺は話を続けた。
「以前から、【新世紀症】患者に関するデータのやり取りが、陸側の一方的かつ鈍重であることに危機感と苛立ちは感じていたんだ。そもそも、僅かながらも年々確実に増加している【新世紀症】患者に対しての情報提供の機会もあまりに少なく、内容も貧弱だ。これは、現状の情報システムが非効率極まりない体制であることと、国のお偉いさんらがどうでもいいことにがんじがらめになっていつまでも様々な決断を先送りにしていることに原因がある。そのことについて、正式な文書で本施設の名を借り、代表してあちらへと送り付けた。初めは渋っていたやつらも、そのままの態度を続けるようであればこちらからの情報提供を一切断つという意思を示した途端、あっさりと態度を翻してきやがっ てな……。昨日までに立案内容をまとめさせ、それが完了したって知らせが今朝届いたとこだ」
 鼻高々に話していた俺に、セオが静かな声で尋ねる。
「その通信の担当、エリオさんでしょう」
「…………うん、まあ」
「そうだとすると、今回の抗議に関しては、エリオさんに最も、そして多大なる負荷がかけられたように思えてならないのですが」
「……今度、世界の美しい海を集めた写真集とか送ろうと思う」
 素直にエリオへの感謝を認めた俺に、セオは、それまでとその眼差しを少し変え、口を開いた。
「……僕からも、一つ、あなたにお話があります」
その声色に、こちらも態度を改め、彼を真っ直ぐに見つめ返す。そしてセオは、確かな決意を湛えた声で、俺に言った。

「――研究を、したいのです。僕たちの病の研究を、自分自身で」

「……セオ……」
「自分たちの病を、治すためだけに研究に取り組みたいのではありません。この病について、知りたい。この、僕たちの〝緑〟の事を」
 そう言ったセオは、ほんの少し躊躇うように言葉を切った後――こちらを見上げ、姉と同じ真っ直ぐな瞳で、俺に伝えた。

「もしかすると……こうして人体を染めていくその色素のみを、特定の部位へと移す方法だってあるかもしれない。それは――もしかすれば、〝瞳〟にだって」

「……瞳、に……――」

この瞳に、〝緑〟を。
二人と同じ――――その、色に。

「……悪く、ないかもな」

 その緑は、気高く、美しい。
彼らと同じ色を持った自分の瞳は、この世界を、どう映すのだろう?

――『センセイ、いっしょ! うれしい!』

 弟と自分の立つその傍らで、すべての人々へと示された屈託のないその表情の如く色とりどりの花へ包まれたベッドで眠る君は、そんな自分の瞳を見た時、そう言って鮮やかな笑顔を見せてくれるだろうか。そう考えた瞬間、脳裏によみがえった彼女の花咲くような笑顔と澄んだその声に、俺は淡く微笑んだ。
「……あ! 二人ともここにいた! 昼食の準備できたらしいから、もう少ししたらおいでー!」
 部屋の前の廊下を偶然通りかかったらしいエリオが、部屋の入り口から顔を覗かせ、こちらへと呼びかけている。
「おー、今行く!」
 その変わらずのんびりした声に答え、セオのほうを見遣れば、彼も小さく頷いた。
 天頂へともうじき辿り着く陽の光が、快晴の空と共に、ディムとセオ、そして自分のいる部屋へと真っ直ぐに差し込む。
 放たれた窓から柔らかに吹き込んだあの日と同じ海風が、軽くなった自分の前髪を軽やかにさらっていった。


テーマ:「今日の幸せを知る」
スポンサーサイト
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:55
copyright © 千葉大文藝部活動情報 all rights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。