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細波のララバイ

 頬を水滴がひとつ、ゆったりと伝っていく。
 それに気づいて右手の人差し指で掬ってみようと試みたが、水滴は構わず地面に落ちていった。あとには、仄かに湿り気を帯びた指が、宙ぶらりんになっているのみだった。その指を口に含んでみると、無機質な冷たさが口の中に広がる。
 視線だけで天を仰ぐと、細やかな雫がまばらに降りてきているところだった。それらはやがて館の庭に着地し、やがてその下へ潜り込んでいく。所々には水溜まりができており、その上に降り立つ雫は、小さな、すぐに消えてしまう波をつくる。
 ――ああ、この音は、実に心地よい。
 彼女が大好きな音。そして、彼女がその実際を決して知ることのない音。
 この音に、いつの間に魅せられていたのかはよく分からない。ただ、「魅せられている」と自覚してから、この両耳は小さな雫と波の音を逃さず拾うようになった、とは思う。
 またひとつ、水滴が頬を伝って落ちていった。落ちていった先に、ほんのり小さな水溜まりができているのを見つけた。
 何も考えず、力の入らない右足のつま先でその水溜まりをつついてみる。ほんの少し波が立ち、すぐに消えた。やはり人間では、絶妙な程度の波を作るのは難しい。
 そうしてしばらくその場で立ったまま、足元の水溜まりを眺めたままでいると、力なくぶら下がっている左手に握られた、白いレジ袋が目に入る。
「ああ、そうか」
 自然と口から零れた呟きは、そのまま空中に霧散した。
 その呟きが完全に頭から消え去るまで待ってから、その場で後ろを向き、鍵を扉に差し込んだ。時代を感じさせるような軋みの音が軽く辺りに響く。その音には特に何も感想を抱くことはなく、そのまま館の中に足を踏み入れる。
 玄関からそのまま真っ直ぐに階段へ向かう。二階へ上がると、雫が打ちつけている音がほんの少し大きくなる。その音を胸いっぱいに取り込むと、目的の部屋の扉を軽く叩く。
「……いいわよ」
 やや間があって、部屋の中から澄んだ声が返ってくる。
「はい、失礼します」
 できるだけ音を立てないように、そっと扉の取っ手を回してみる。だが、思ったより軋む音が立ち、心の中がざわついた。それでも、部屋の中を見渡して、そのざわつきはすぐに収まった。
 部屋の中に置かれた、サイズが少々大きめのベッド。その上に横になっているのは、この館に住む少女だった。その少女の顔は一般的なそれと比べれば色白な部類に入るだろう。だが纏う雰囲気はどこか過去の快活さを滲ませていて、そのふたつが並び立っていることがひどく不安定なようにも感じられた。このことを、彼女に直接話したことは一度もない。
「結局、来たのね」
 横になったまま、彼女が言う。その言葉は、どこかあてどないようにも感じられた。だが、その全てを掴まえることが役目でもあり、また楽しみでもあるからして、その全てに言葉を返すこともまた、役目でもあり楽しみでもあった。
「ええ、それでよろしいとおっしゃられたので」
 丁寧に、体の中で言葉を練り上げて放り出す。心なしか、部屋の雰囲気が緩んだような気がした。
「お眠りでしたか?」
「そうね。でも、あなたがすぐにノックなんてするから」
 少し不満げな表情を作った彼女だったが、その口角が僅かに上がっていることは見逃さない。
「そうでしたか。申し訳ございません」
 だから、こちらも少し、口角を僅かに上げて言葉を返した。
「いいわよ。それにしても……」
 そう言いながら、ベッドの上に掛けられた布団が擦れるような音を立てた。ベッドの脇に腰かけると、彼女は部屋に唯一設けられた窓の方を向いていた。窓の外では、相変わらず細やかな雫が降りてきていた。ただし、先ほどよりも少し密度が濃くなっているようだった。
「……いい景色よ」
「ええ。存じております」
 彼女の声に合わせて、窓の外から彼女の顔へと景色を変える。その目は、どこか細められているようにも思えたし、今にもまた眠ってしまうのではないか、そんな気もした。
「もうひと眠りなさいますか?」
 できるだけ何の感情も込めないようにしながら、彼女に声をかける。彼女は、布団に包まれながら、首をゆったり横に回した。彼女の髪の毛が、少しだけぐしゃぐしゃになる。その髪の毛を直すことはせず、彼女はひたすら窓の外を眺め続けた。
 彼女の枕元に置かれている固定電話のランプが光っているのが見える。
 今日も、なのか。
 その事実に、少しほっとしている自分がいた。そのことを自覚して、どうしようもない感情に埋もれそうになる。こんな感覚は、いつ以来だろうか。
「えっと…………今日は、いかがでしたか」
 漠然とした言葉。そこには、何か黒い感情が入っていたかもしれない。でも、彼女はいつもその感情を拾うことはしない。その上で、必要な情報はいつも、全て与えてくれる。
「いつもと同じね。言葉に力はないし、言う決心なんてついていないのではないかしら」
 少し苛々が混じったような声で、彼女は続けた。
「もしかしたら、私が背を押してあげたらあり得なくはないかもしれないけど、でも」
 そこで彼女は言葉を区切って、自分の手をこの動かない左手に添えてくる。その手の温度は妙に冷たく、温もりと呼べるほどのものはどこにも見つけられなかった。
「分かっているのでしょう……?」
 そう言って彼女は、自分の手も、目線も、この左手に固定した。その間、ずっとこの左手は冷たいままだった。
 ゆっくりと左手を抜き取ると、彼女の上に掛かっている布団を直す。
「もうひと眠りなさってください。食事の準備をして参ります」
 そうして、この部屋に入ったときに軋んだ音を立てた扉の前に立つ。その取っ手を右手で握ると、無機質な冷たさが脊髄まで伝わってくるようだった。
 取っ手を回そうとすると、背後から弱々しく声が放たれた。
「また、来てくれるわよね……?」
 片目だけ、彼女に視線を合わせて返事をした。振り返った時、ずっとぶら下がっていたレジ袋が微かに音を立てた。
「食事が完成しましたら、また伺います」

   §

 今日も今日とて、空からは雫が降りてくる。傘に打ちつけるその音は、昨日よりも少しうるさかった。
 目を辺りにひと通り巡らせる。並木がいつにも増して激しく揺れながら、その葉からは忙しなく水滴を零す。その水滴は、昨日頬を伝ったものよりもずっと丸々としているように見えた。
 その木の根元には、昨日はなかった、ほんの小さな湖があった。少なくとも、小さな水溜まりというには抱えている水の量が多いように見える。そこへ、木の葉から注がれる天然の水が落ちていく。その水滴が作る波は、昨日眺めていたものよりも僅かに高い。
 ――ああ、今にも眠ってしまいそうだ。
 その心地よい音の連鎖に、いつまでも浸っていられそうな気分になった。
 自分の足下からも、雫が波を立てる音は聞こえていた。持っている傘から落ちていった雫によるものだった。膝と腰を折り曲げて、自分の足下にある小さな湖をより近くで眺める。並木の麓にあるものよりは少し小さいか、そんなことを思った。その時、左手にある白い布の手提げが目に入った。
「もう、このくらいかな」
 その言葉の響きが雨音に完全にかき消されるまで待ってから、玄関扉の方へと体の向きを変える。流れるように傘を閉じると、その場で傘にくっ付いてくる水滴を振り落とす。
 玄関扉を開けて、傘を傘立てへと収めると、既に置かれていた一足の靴は気にも留めずに、真っ直ぐ目的の部屋へ向かう。
 二階の廊下は所々古くなっているようで、数歩進むたびに一度、軋む音が館の中に響いた。その音は、屋根に打ちつける雫の音には負けていた。
 その軋みの音だけを丁寧に胸の中から取り除くと、目的の部屋の扉を軽く叩く。
「……入りなさい」
「失礼します」
 そうして、部屋の中へと入っていく。今日は、彼女はベッドの上に腰かけていた。
「今日はお早いのですね」
「違うわ。あなたが遅かっただけよ」
 字面だけ見れば不満な心持ちのようにも見える言葉。しかし、どこか満面の笑みでそんな言葉を放る彼女。その笑みに、どうしても違和感を覚えざるを得なかった。彼女が満面の笑みを浮かべるというのはあり得ないと、分かっているから。
「……どうかなさいましたか?」
「え?」
 彼女は、心当たりがないという様子ですぐに返事をしてくる。
 ――ああ、もしかして。
 彼女の方へ歩いていこうとすると、彼女は右手でそれを制した。構わず進もうとすると、彼女は言葉を放った。
「来ないで」
「どうしてですか?」
 間髪入れずに言葉を返す。きっと今は、そうしないと駄目だと思ったから。
「どうしてもよ」
「どうしても、あなたと一緒に窓の外の景色を眺めたいと言っても、ですか?」
 その言葉で、彼女の表情が驚きに満ちていく。少し、怒りの感情も混ざっているようにも感じた。
「分かっているなら、なんで……?」
 彼女が、縋るような目で訊いてくる。敢えて言葉のトーン、表情、何一つ微動だにしないで返事をした。
「こう言えば、あなたは招き入れてくださると分かっているからです」
「だから、なんで……?」
「そうすれば、あなたに感じた違和感を、あなたの言葉で聞かせていただけると分かっているからです」
 彼女の目を見据えながら、彼女と言葉を交わし続ける。やがて彼女の目頭から、ひとつ雫が零れ落ちた。それはきっと、外の空から降りてきているものよりもずっと温かいものだった。
「分かっていますよ。何か、ありましたよね?」
「…………」
 彼女は、沈黙した。その沈黙が、全ての答えなのだと分かっていながら、敢えてそうしているようにも感じられた。
「……狡いわ」
 一言だけ、聞き取れるか聞き取れないかぎりぎりの音量で彼女は呟いた。だが、全てを掴まえることが役割なのであるから、その呟きを掴まえ損ねるなんてことは断じてない。
「何故ですか?」
「だって……私が断れないって分かっていることを、敢えて言ってくるんだもの」
 その言葉に、思わず笑顔が零れてしまいそうになったが、ここは抑える。
「聞かせてもらえないと、気持ち悪かったもので」
「なによそれ。全部、あなたの我儘じゃない」
 彼女の表情は、至って笑顔だった。いつもと同じような、笑顔だった。
「申し訳ございません」
 だからこそ、いつもするように、言葉を返した。
「それでは、お隣よろしいですか?」
「……いいわよ」
 彼女の許しの言葉が終わる前には、既に足を動かし始めていた。そうして彼女の隣に腰かけたときに見えたのは、枕元に置かれた、ランプが点いていない固定電話だった。
 今日は、そうなのか。
 その事実に、どこか冷静でいられる自分がいて、そのことを自覚して安堵した。
「今日は、いかがでしたか」
 敢えて、いつもと同じ言葉で語りかける。彼女は、微かに笑顔を浮かべながら語り始める。
「ずっと、そうだったけど……気持ちは、嬉しくは……あったのよ」
 その笑顔のまま、彼女の口からは言葉が零れていく。その量が増えるにつれ、表情に陰りが見えてきたが、それは当然と言えるかもしれなかった。
「でも……無理だったわ。想像できないもの」
「想像……ですか」
「そう。こっちから促しておきながら……全く、酷い人よね」
 何も、返せなかった。何を返していいか、まるで見当がつかなかった。そんなことはない、あなたは酷くなんてない、とでも言えばいいのだろうか。その言葉は、彼女の胸を更に抉るかもしれないのに。
「なにも……言わないのね」
「なにも、言えませんでした」
「そう」
 そこから、その部屋は沈黙に包まれた。その沈黙さえも胸いっぱいに取り込んでいるというのは、まだしばらくは彼女に秘密のままでいいだろう。
 いつの間にか彼女と寄り添う格好になっていたためか、体の温度が少し上がっているのがはっきりと感じられる。
「ねえ」
 思っていたよりも早めに、その沈黙は区切られた。無言で視線だけを彼女と合わせる。その目頭から流れ落ちるのは、涙か、それともただの汗か。
「ねえ、今日だけは……」
 そう言って、物言わぬ左手と彼女の左手とが結ばれる。
「全く、あの人が勇気出してくれて、それを拒絶して、私がこんなになっているなんて……やっぱり酷いわ」
 絞り出すようにそう言った彼女は、また目頭から雫を零した。その雫を右手の人差し指で救うと、左手に込める力を少し強める。
 ――ああ、今日のこの温かさは、実に心地よい。
 窓の外では、相変わらず空から無機質な雫が密度濃く降りてきていた。

   §

 空を見上げると、今日も雫が降りてきている。だが、昨日と違って傘を差すほどではなく、ゆえに髪の毛はほんのり湿ってはいるものの、許容範囲と思えるくらいだった。それはもしかしたら、心持ちの違いなのかもしれなかったが。
 玄関扉の開き方は、どこか重々しい。でも、それでいいと思った。むしろ、それでこそだと思った。この玄関扉を開いてこそ、この館に足を踏み入れる、その事実を実感できる。
 玄関ホールに飾られた観葉植物を一瞥して、赤い絨毯が敷かれた階段を上がっていく。そうしてやはり、今日も目的の部屋の扉を数度叩いた。
「いいわよ」
「失礼します」
 一度扉の前で大きく深呼吸をする。廊下の空気をたっぷりと肺に送り込み、その後全てを吐き出す。一連の動作を完全にやりきってから、扉を開けた。
 彼女は、今日はベッドに横になったままだった。
「どうしたの、なんか今、変な間があったような気がしたけれど」
 部屋に入ってもう一度、大きく息を吸う。
「いえ、特に何も」
「そう。ならいいわ」
 言いながら、彼女は左手を布団の中で上下させている。直接その様子は見えなかったが、布団が大きく上下に揺れていた。
「どうしたの?」
「はい?」
 彼女がこちらに不満げな声を投げかけてくる。心が少しふわふわするのは今は黙っておくことにした。
「こっち、来たら?」
 布団の中から、額と目だけをこちらに見せつつ、期待が入り混じる声をこの両耳に届けてくれる。心なしか、この部屋の温度は外よりも高めのような気がした。
「よろしいのですか?」
「……分かっているのでしょう?」
 またも不満げな言葉が投げかけられる。表情の片隅にも、不満が滲み出ている。少し恭しく、右手を胸に当てて、軽く腰を折りながら返事をする。
「申し訳ございません」
「あなたのそのポーズ、似合わないわね」
「そう……ですか?」
「あら、私の言葉が信じられないの?」
「申し訳ございません」
「もう、今日は謝ってばかりじゃない。なら、早くこっちに来なさい」
 そう言われてまた謝りそうになったが、そこはぐっと堪える。そして彼女の方へ歩いていった。布団に隠れていて見え辛かったが、距離が近くなるにつれ、彼女の表情が笑顔に満ちていくのを掴まえ損ねることはなかった。
 横になっている彼女の頭の近くに腰かけ、何気なく窓の外を眺める。ほんのりと降る雨は、まだ止んではいなかった。
「今日も、雨なんですね」
「そうね。少しくらい太陽を見たいわ。ここ最近、ずっと雨だものね」
「……そうですね」
 窓の外の景色から視線を外すと、枕元の固定電話が目に入った。ランプが点いていた。
 そのことに触れるべきか、一瞬迷った、迷いはした。だが、いつもの流れで訊いてしまうということに頭の中ではしておいた。実際、意識的に訊いたのかそうでないかは、はっきりしない。
「今日は、いかがでしたか」
 その言葉を発した瞬間、彼女が明らかに不機嫌な表情を浮かべた。それは、初めて見るような、黒さを伴っているように見えた。
「変わらないわ」
 彼女は、まずその一言だけを口にした。
「変わらない……」
 気付けば、その言葉は無意識のうちにこの口から繰り返されていた。
「そう、変わらない。今、あの人に何を言われても、今の私は何も変わらないわ。あなたと一緒に、歩いていくのよ」
 いつの間にか握られていた左手が、さらに強く包まれた。その感覚は、一瞬で脳裏深くまで刻み込まれたことだろう。
「だから、そんなこと言わないでよ……!」
 震えかけたその声により、この両耳は一瞬機能を停止した。おかげで、一切の雑音なく、彼女の言葉を鮮明に反芻することができた。
「やっと、あの人の言葉が繰り返し聞こえなくなってきたところなの……!」
 物言わぬ左手に、少し強めに力をこめる。そのお陰かは分からないが、左手を外から包む力はほんの少し弱まった、ように思う。
「も、申し訳ございません」
 また、謝ってしまった。本当に、今日は謝ってばかりだ。
「本当に申し訳なく思うなら、この後――」
 彼女は何を言おうとしたのか、それは分からない。だが、その瞬間に彼女の腹の虫が鳴き、彼女の耳がほんのり赤くなったことだけが、確かな事実だった。
 大きく息を吸い込んでから、彼女に声をかける。
「食事の時間にしましょうか?」
「……ええ、お願いするわ」
「はい、了解しました。しばらくかかりますので、もうひと眠りなさっていてください」
「……ありがとう」
 二人して、笑顔で言葉を交わす。左手を布団の中から抜き取ろうとした瞬間、軽く彼女の唇が触れた。どちらも、そのことに言及はしなかった。
 扉を開けて、足取り軽く一階へと降りていく。
 雨粒はまだ、屋根に強く打ちつけられていた。

   §

 気付けば、目の前に目的の部屋の扉があった。
 はっとして振り返ってみると、そこにあるのは見覚えがある廊下だった。見覚えは確かにあった。それこそ、何度も何度も、今まで通ってきたのだから。
 ――ただ、今日はどのように歩いて通ったか、思い出せないだけで。
 ともかく、目的の扉がもう目の前にあるなら話は早い。ひとつ大きな深呼吸をして、扉を数度叩く。
「……入りなさい」
「はい、失礼します」
 扉を開けて中に入る。彼女は、今日もベッドに横になっていた。だがいつもと少し異なっているのは、布団が頭の上から足の先まで、体全体を覆うように被せられていることだった。
「どうか、なさいましたか?」
 一瞬不安になってしまい、彼女に声をかける。だが、次の瞬間には、その理由ははっきりとした。
「ごめんなさい、扉、閉めてくれるかしら。寒いのよ」
「さ、寒いって……寒気がするということですか!?」
 慌てて彼女の元へ駆け寄ろうとしたが、彼女はそれを右手で制した。
「そういう類のものではないわ。というか、あなたこそ寒くないの?」
「え、えっと……」
 気付いたらもう扉の前にいたので、とはとても言えなかった。
「そう、寒くないのね」
「ま、まあ、そうなりますね」
「なら、ちょうどいいわ。こっちに来て?」
 彼女の台詞回しがいつもよりも早いことには少しばかり目を瞑り、彼女の元へ歩み寄る。その行動は、自分の心地よさを最大限優先した結果でもあった。
「はい。来ましたよ」
「て、だしてくれる?」
 少し、彼女の呂律が怪しくなっている。だが、それを指摘するべきだという使命感をぐっと心の中にしまいこみ、変わって自分の欲望の権化を表に出す。もちろん、彼女には分からない形で。
「えっと、何ですか?」
「手、出して」
 彼女がはっきりとした呂律でものを言って初めて、自分の左手を差し出した。彼女は、その左手を自分の左手で優しく包み込むと、布団の中へ誘った。そこは、彼女の体温で丁度良く温められていた。
「温かいわね」
「そう……ですね」
 恐らく、彼女の言う温かいは今心の中で思っているような温かいではないのだろう、そう直感していた。だが、構わずに言葉を続けた。言葉の上でなら、まだ立派でいられると、そう思ったからだった。
 窓の外には、雨上がりの爽やかな空が広がっている。今は薄い雲で隠れているが、この分なら彼女が見たがっていた太陽も、もうじき顔を出すだろうと予想できた。
「今日は、雨が止みましたね」
 何気なく、彼女に語りかける。
「そうね。ここ最近は良くない天気が続いていたから、よかったわ」
「この分だと、もう間もなく太陽も顔を出しそうです」
「……そうね、そうだといいのだけれど――」
 そこまで言いかけて、彼女の言葉は止まった。止まった理由ははっきりしている。それは、昨日と全く同じ理由だった。
「ええと……」
 彼女が頬を赤く染めている。二日連続か、と思いながらも、空気をたっぷりと肺へ送り込む。
「食事の時間にしてくれるかしら……」
「そうしましょうか。では、準備をして参ります」
「ええ。お願い」
 左手を彼女の手の中から抜き出し、部屋の扉を開けて外へ出る。
 何気なく、階段の吹き抜けになっている所から一階の方を見てみると、丁度玄関ホールがよく見えた。靴が二足、綺麗に並んでいる。
 気づけば、この両足は階段へと向かっていた。
 階段を下りきって、ひとつ足を踏み出したとき、力強い視線が体を射抜いた。彼女の部屋の丁度真向かいの部屋の扉が、僅かに隙間を作っていた。その隙間から見下ろしていたのは、黒々しい両の瞳だった。
「お、おかあ様……」
 瞳が隙間から見下ろしている部屋へ自然と向かいながら、口からはそんな言葉が零れ落ちる。その響きがこの両耳に届いて、ああ失言だったと思った。
「あなたなんかに、おかあ様とか呼ばれても、気持ち悪いですね。今後は止めてくださるかしら」
「申し訳ございません」
「あなたなんかに謝られてもね、ちっとも何とも思えないので、それも止めてくださるかしら」
「は、はい……」
 ただ単に苦手だった。返す言葉の全てを奪われてしまうから。今はもう、口からただの相槌の言葉しか放ることが出来ない。
「あなた、ご自分の役割、分かっているのですよね?」
「は、はい……」
 背中に鳥肌が立つ。自然と右腕に力が入る。もう、早く帰ってしまいたいとさえ思う。
「あなたの役割は、あの子を守ることであって、触れ合うことではないのよ、番人さん?」
「はい、申し訳ございません……」
「だから、謝らないでって言ってるでしょう?」
「え、ええ、はい……」
「全く、れっきとした『個』を持たないくせにしゃしゃり出てくれちゃって……あの子の相手はもう決まっているのよ。お分かりかしら?」
 言葉の槍が、連続で投げられているかのようだ。いずれこうなるとは分かっていたはずなのに、痛い、気がしてならない。
「あの子が拒んだって聞いてこっちは大騒ぎなのよね。あなた、何か知ってるんではなくて?」
「い、いえ何も……」
「本当に?」
 視線が右腕に突き刺さる。意識して、両腕から力を抜いた。うまく力は抜けてくれたお陰か、目の前の両の瞳は疑いの視線を腕から逸らす。
「ふうん、まあいいわ。あ、これあの子に持っていってちょうだい」
「え……?」
「食事の時間にすると言って出てきたのでしょう。だったら、これを持っていきなさい」
「え、でも、食事は……」
「『個』を持たないくせに逆らうのね、番人さんは」
 それ以上、口から言葉は出てこなかった。右腕で食事がのったお盆を持ち、振り返る。すぐそこには、彼女の部屋。
 廊下には、再び降り始めたのか、雨粒が叩きつけるような音。
 扉を軽く数度叩く。やや間があって、言葉が返ってくる。
「……いいわよ」
 無言で、左手で扉の取っ手を掴む。扉を開け、部屋の中に踏み入る。今一度、大きく息を吐き出し、吸い込む。
「お食事をお持ちしました」
「……ありがとう」
 今にも眠ってしまいそうな声で、彼女は答えた。
 彼女の枕元の固定電話から、受話器が外されていた。電話機のディスプレイは、どんよりとしている。

   §

 頬を水滴がひとつ、ゆったりと伝っていく。
 それに気づいて左手の人差し指で掬ってみようと試みると、その水滴はほんのりと温かく感じられた。その指を口に含んでみると、どこか懐かしさを感じられる温かみが口の中一杯に広がっていく。その感覚に思わず身震いをした。
 視線だけで天を仰ぐと、丸々とした雫が密度濃く降りてきているところだった。それらはやがて傘へと着地するときに大きな音を立て、地面へと流れ落ちていく。ついには傘から離れて、土の上へと至る。運よく水溜まりの中に飛び込んだ雫は、そこに僅かな細波を作る。その後は即座に水溜まりと同化する。
 またひとつ、頬を雫が伝って落ちていった。それは丁度、足元にある水溜まりの中へ飛び込んでいった。
 ――この思いを連れていってくれればよかったのに。
 心の中で未だに燻るこの思いが、水溜まりの中に溶けていってくれれば、どれほどよかっただろう。「個」はないのに「心」を持ってしまったからか。だとしたら、もうこの思いはどこにも流れてゆかないのだろうか。
 だらりと下げた左腕には、白いレジ袋が提げられている。そのレジ袋が、風に吹かれて小さな音を立てた。
「もう、いいか」
 力なく呟かれたその言葉は、瞬く間に空中へと霧散する。
 その呟きが完全に頭の中から消え去るのに、そう時間はかからなかった。いつものように、その場で振り返り、荘厳な雰囲気を醸し出す玄関扉の鍵穴に鍵を勢いよく差し込む。扉を開けると重々しく軋む音が辺りに響いた。しかし、今はそんなこと、どうでもよかった。
 館の中に入り、傘を傘立てに差して、玄関扉を閉める。内側から鍵を閉めても、まだこの両耳
は軋む音を敏感に捉えていた。
「はあ……」
 無為に溜息を零しながら、足元を眺めると、バイオレットの靴が一足。それを見てまた溜息を零しそうになるが、それをぐっと堪える。
 軋みの音が消えるまで適当に一階の廊下を歩き回る。どこをどうやって歩いたのかは、微塵も覚えていなかった。ただ気づいたら玄関ホールにいて、そこにバイオレットの靴が無いことだけを確認していた。
「ああ、そうか」
 またも目頭から雫が落ちていくのを見届けながら、そんな言葉を零している自分がいて、そのことにかなり驚いたし、またそんな自分がひどく恨めしくもあった。
 階段を上がり、二階へと上がる。目的の部屋へ早足で移動し、扉を叩くこともなく開ける。彼女は絶対に眠っているはずだ、そんな確信があったからだ。
 かくして、彼女はしっかりと眠っていた。彼女にとって、疲労が溜まっているときの雨音は、これ以上ない子守唄なのだ。そのことをこの世界で一番初めに知った、そのはずだった。
 窓の外を眺めると、未だ雨は降り止まない。きっと今も、そこかしこで小さな雫が細やかで小さな波を立てていることだろう。そんなことを思いながら、彼女の上に覆い被さる。
 ――枕元の固定電話のランプは、点いていない。
「今日は、いかが、でしたか……?」
 掠れ声で、そんなことを口走っていた。腕から、足から、どんどんと力が抜けていく。
『痛いわね』
 この幻聴を、精一杯取り込もうと、頑張って息を吸う。

テーマ:「今日の電話のランプ」
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第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00
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