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ミスター・アプリコットオレンジ

「せんせー、みて、みて」
 騒がしい遊戯部屋の中で彼女を呼ぶ無垢な声がした。はいはい、と微かに喜色を帯びた表情で、秋子はひとりの園児に歩み寄った。
「どうしたの、テツくん? ……あら、この人は?」
 秋子は哲哉が自慢げに掲げている絵を指さした。そこには、橙色のクレヨンでぐりぐりと塗り潰された人影が描き出されていた。
「《みすたー・あぽりごっとおれんじ》だよ。しらないの、せんせー」
「あ、アハハ、もちろん知ってるよ。それ、カッコいい絵だね」
「うん!」
 哲哉は一点の曇りもない愛らしい笑顔で頷いて、満足そうにとてとてとどこかに走って行ってしまった。
 彼の言う《みすたー・あぽりごっとおれんじ》――正確には《ミスター・アプリコットオレンジ》であるが――は、休日の朝方に強大な悪を倒すべく遺憾無くその力の限りを尽くしている正義のヒーロー、ではない。近頃巷を賑わせている正体不明の怪人物である。それだけ聞くと物騒な響きがあるが、決して悪行に勤しんでいるわけではない。寧ろその逆である。休日の黄昏時に颯爽と現れ、重い荷物を持っている老人を助け、迷子の子どもの手を引いて場所を案内する。そうしていつの間にか姿を消しているのだ。その顔はオレンジ色のスカーフと目深に被られた帽子で覆われ、だぼだぼの、これまたオレンジのジャージを着込んでいる。言葉を発することはなく、会話は筆談で行われる。どこからどう見ても変質者であるが、今ではその善行が知れ渡りすっかり信頼を寄せられている。
「ミスター……ねえ」
 秋子は半ば呆れたように溜息を吐いた。子どもなら戦隊ヒーローとかスーパーマンとか、もう少し健全なものに憧憬を抱いて欲しいものである。嘆かわしいといった様子で、彼女は首を振った。
 しかし嘆息を漏らしている暇もない。
「せんせー、おままごとしよー」
「こっちきて、せんせー」
「せんせー、ゆうとくんがぶったぁー」
 右に行っては袖を引かれ、左に行っては袖を引かれ、まさに引っ張りだこである。秋子はこれ以上ないほどの幸福を噛み締めていた。幼稚園の先生になって早一年、三度の飯より子どもの笑顔が好物という彼女はその天職っぷりにこれ以上ないほど現を抜かしていたのだった。
 悠子のおままごとに付き合い健太たちと鬼ごっこをして、晴香をを慰め優斗を叱った。額の汗を拭って部屋を見渡すと、隅でひとり膝を抱えて虚空を見つめている女の子が目に入った。あかりだった。
「あかりちゃん、どうしたの?」
 秋子が問いかけたが、あかりは俯いて口をぎゅっと結ぶばかりである。答えはしないものの、その暗い瞳は彼女の抱え込んでいることの深刻さを物語っているようだ。
 あかりは母親の女手ひとつで育てられた、母子家庭の子である。母は毎日働き詰めで、あかりを迎えに来るのは他の園児たちが皆帰ってしまった後だった。その度に、「すみません、すみません」と彼女は何度も頭を下げた。必死に笑顔をつくり気丈に振舞ってはいたが、ふとした瞬間に垣間見える疲弊した表情からは一切の余裕が感じられなかった。秋子はそんな母親の様子をいつも複雑な心境で見守っていたのだった。
 あかりは積極的に友人と関わるタイプではない。それゆえ対人関係でのトラブルは少ない。それを考慮すると、家庭で何かあったと考えるのが妥当ではなかろうか。明子はそう思った。
「何か、悲しいことでもあった……?」
 幾度声をかけようとも、あかりは一向に口を開こうとしない。秋子が微笑みかけると時折顔を上げたが、踏ん切りがつかないのか再び視線を落としてしまう。完全に行き詰まってしまった。
 秋子はふう、と覚悟を決めたように息を吐いた。そうして懐のポケットをまさぐると、小さな円錐形の黒塊を取り出した。
「これ、あかりちゃんにあげる」
 あかりは眩しそうにして顔をあげ、恐る恐る手を伸ばした。
「……なに、これ?」
「実はこれ、ふたがついてるんだ。とんがってる方を引っ張ってごらんよ」
 言われれるがまま、あかりはその物体の尖端を強く引っ張った。すると、きゅぽんと小気味よい音がして勢いよくふたが外れた。
 そこには押し込む仕組みのボタンのようなものがあった。
「辛いとき、悲しいとき、困ったときにこれを押すとね、助けに来てくれるんだよ」
「……せんせーが?」
「ううん」
 秋子は首を横に振った。
「《ミスター・アプリコットオレンジ》が、だよ」

          ×

 その後少しずつ口元を緩ませていったあかりは、母親が迎えに来る頃には普段の調子に戻っていた。元々おとなしい子であるから口数はあまり変わらなかったが、凍土を思わせたあの暗く冷たい瞳は確かに溶け出していた。
 力なく娘のもとを訪れた母親は、相変わらずへこへこと頭を下げた。日に日にやつれているようにも見受けられる。眼光は鈍く、肌のハリは弱々しい。声色も宙に浮かぶがごとく軽薄な響きをもっていた。
 秋子はやや躊躇いながら口を開いた。
「お母さん……あの、あかりちゃん、今日ちょっと元気なかったんです。もしよければ、帰ったらあかりちゃんの話を聞いてあげてください」
 すると彼女は一瞬、ぎらりと瞳を光らせた。しかしそれはほんの一瞬のことだった。秋子にはそのように見えたが、単なる勘違いのようにも思えた。
「……ええ。わかりました」
 それだけ言うと、彼女はあかりの手を引いて闇へ紛れていった。
 ふと、不穏な予感が秋子の頭をよぎった。結局、あかりは塞ぎ込んでいた理由を打ち明けることはなかった。あかり自身次第に平静を取り戻してはいたものの、根本的な解決には至っていない。秋子は、もう少し踏み込んで彼女を追及すべきだったと後悔した。あかりが行ってしまってから、そればかりが心残りになった。
 とぼとぼと眩しすぎる街灯の光を浴びて歩く帰り道。帰宅せど迎えてくれる人もいない。こんな夜には延々誰かと言葉を交わしていたいと思ったが、秋子はすぐにその甘い願望を振り払った。考えるだけ寂寥が募り、虚しくなるだけだからである。仕事の合間散々子どもたちに癒されておいて、これ以上何を求めるというのだろう。秋子は自嘲気味に笑った。
「よし、明日! 明日、根掘り葉掘り訊く!」
 彼女は自分の頬を軽く打って、余計なことは考えまいとした。コンビニで買ったサラダを頬張ってシャワーを浴び、床についた。
 目を閉じ、秋子はぽつりと呟いた。
「――あかりちゃん」
 そうして、意識は暗転していった。

          ×

 翌日あかりの姿を見た秋子は、思わず絶句した。
 あかりの左頬が青く、痛ましく滲んでいた。どうやら痣になっているようだった。昨日までは確かに、紅くふっくらとした頬があったのだ。それが、どうだ。
 秋子は咄嗟にあかりのもとへ駆け寄った。あかりは昨日秋子に慰められる前と同様、虚ろな表情をしていた。やけに目立つ青痣も相まって、今日は余計に悲痛なように思えた。
「……あかりちゃん。そのほっぺたの痣、どうしたの?」
 彼女は唇を噛み締めて俯いた。その瞳から一粒、雫が落ちた。しかし、それだけだった。
「ねえ、あかりちゃん。先生、心配なの。良かったら、私に話してくれないかな」
 秋子がそう言うと、あかりは大きく首を振って勢いよく駆け出した。
「あかりちゃん!」
 必死に呼び止めたが、あかりが振り返ることはなかった。
 ひとり残された秋子は暫し為すすべもなく、その場で呆然としていた。
 そうしているうちに、不意に彼女の体に衝撃が走った。自責、後悔、慈愛、覚悟の念が一斉に血管を駆け巡ったような感覚を覚えた。
 拳を握り締め、秋子は一歩踏み出した。

          ×

「園長先生!」
 職員室の扉を開けて早々、秋子は叫んだ。既に中にいた教員たちは驚いて、一同彼女の方に目を向けた。
「ど、どうしたんです、橘先生」
 園長はすっかり度肝を抜かれた様子で、口をぽかんと開けている。彼女の鬼気迫った表情を見れば当然のことである。
「お話があるんです」
 言いながら彼女は園長に歩み寄った。若干怯えている園長をよそに、秋子はゆかりのことを淡々と話した。近頃元気がないこと、左頬に痣があること、問い質しても何も答えないこと、全てを打ち明けた。
「ふむ……そういうことでしたか」
 話を聞くうちに冷静になった園長は、あご髭を捻りながら思索に耽る素振りをした。
「それで、橘先生はどうなさりたいんですか?」
「……原因は、ゆかりちゃんの家庭にあると思うんです。だから、直接彼女の母親を訪ねて、話を聞こうと――」
「ちょっと、ちょっと」
 園長は両手を前に出して秋子を制止した。
「あかりさんに元気がないというのは、昨日今日の話ですよね。まだ原因も解らないのに、いきなり家族に押しかけるのは早計じゃないですか?」
「その原因を突き止めるために、押しかけるんです」
「とは言っても、まだあかりさんと十分に話したわけじゃない。私も、あなたも。家族を責めるよりも前に、私たちにできることがあるんじゃないですか?」
 秋子はぐっと言葉を飲み込んだ。確かに園長先生の言うことは筋が通っている。気持ちだけが先走って、冷静に状況が見渡せなくなっていた。母親に対して抱いていた先入観も邪魔をしていたのだ。
「もう一度、落ち着いてあかりさんと話をしてみてください。それでも上手くいかないのなら、今度は私が直接あかりさんとお話してから判断します」
「……わかりました」
 力強く頷いて、秋子は園長に深々と一礼した。そうして、静かに職員室を後にした。

          ×

 教室に戻り、秋子はあかりを探した。積み木遊びをする子どもたちの中、部屋の隅、そして園児たちが活発に駆け回る園庭。隅々まで目を凝らしたが、どこにもあかりの姿は見えない。廊下やトイレを覗いたが、やはり見当たらない。秋子は自分の心臓の音が速まるのを感じた。
「あかりちゃん!」
 名前を呼びながら園内をしらみつぶしに探索した。しかし呼べど探せどゆかりは一向に現れなかった。
「まさか――」
 秋子は滝のように流れ出ている汗も忘れて、その場を駆け出した。

          ×

 あかりは花屋の前に立ち竦んでいた。前に一度、亡くなった父親に手向けるための花を買いに、母親と訪れたことがある店だ。無意識のうちに、あかりはその場所を記憶していた。もしかすると、そのときには既に「こういう」算段があって、意識的に周りを観察していたかもしれなかったが、ともかくあかりは記憶を手繰って花屋までたどり着いたのだった。
 意を決して店内に小さな足を踏み出すと、店員の若い女性が彼女に挨拶した。
「いらっしゃいませ! あれ、お嬢ちゃんひとり?」
 あかりはこくこくと頷いた。
「そっか、偉いね。それで、今日は何をお求めかな?」
 花屋の娘が柔く微笑みかけると、あかりはポケットをごそごそやって、その手を娘の方に差し出した。愛らしい手の平の上には、十円玉が三つ乗っかっていた。
「あ、あはは、そっかあ、三十円かあ……」
 娘は頬を引っ掻いて苦笑した。それから腕を組んで、暫くうんうんと唸った。そしてとうとう、閃いたように顔をあげた。
「ちょっと待っててね」
 あかりが漫然として立ち呆けていると、彼女は騒がしい足音を立ててすぐに戻ってきた。
「はい、これどーぞ」
 あかりが手渡されたのは、一輪のチューリップの花だった。
「ちょっと商品として売れなくなりそうなやつなんだけど……綺麗に咲いてる方だから、許してね」
 そう言うと、娘はあかりの手から三十円を摘み出した。「それでも、ちゃんとお代は頂きます」と笑って、今度はあかりの頭にぽむと手を乗せた。
「おつかい、大成功ね。でも帰るまでがおつかいだから、気をつけるんだよ」
「……ありがとう」
 あかりは掠れた声でお礼を言うと、小走りで花屋を後にした。

          ×

「あかりちゃんがどこにもいません!」
 秋子は再び職員室に飛び込んで、息を切らしながら叫んだ。
「落ち着いてください。……それは本当ですか?」
「はい。園内のどこを探しても見当たりません」
「ふむ……」
 園長先生はじりじりとあご髭をいじった。心なしかその指先は震えているように見える。
「わかりました。今手の空いている先生方はあかりさんの捜索を手伝ってください。それでも見つからなかった場合には、ご家族や警察に連絡する必要があります。急いで!」
 園長が声を張り上げると、他の教員は顔を見合わせてから慌ただしく部屋を出て行った。
 秋子は搾り出すように言った。
「私は……近所を探してみます!」
 園長は彼女をじっと見据えた。
「……わかりました。宜しくお願いします」
 その言葉を聞くが早いか、秋子はまさしく脱兎のごとく駆け出した。
 そのときだった。胸ポケットのスマホがけたたましい音を立てて鳴り響いた。

          ×

 商店街に飛び出して早々、あかりは道に迷った。往路の景色と復路の景色が全く違うもので、戸惑ってしまったのである。
 勘に任せて道を選ぶと、ますます見慣れない景観が広がっていく。それでも進むしかなく、あかりはとぼとぼ西日に霞む道を歩いていった。
 十五分、三十分と歩き続け、とうとうあかりの足は限界に達した。強い日差しが彼女の体力を容赦なく削っていく。視界の隅に小さな公園を見つけると、あかりはふらふらとそこへ進入し、ブランコに腰掛けた。
 ぐったりして周りを見ると、既に世界は朱く染まっていた。これ以上陽が落ちると、帰宅するのはますます困難を極める。直感的に、あかりはそう感じていた。しかし、足が棒切れのようになっていてこれ以上歩けないのだ。
 あかりは母親の顔を思い浮かべた。すると、涙がとめどなく溢れ出た。もう二度と会えないとさえ思った。手には一輪のチューリップ。他には何もない。
 泣くことにも疲れ果て意識が朦朧とする中、ふと、秋子の顔が思い出された。そうして、唯一の希望に気がついた。
 あかりは上着のポケットに手を差込み小さな円錐を取り出すと、その先を引っ張ってふたを外した。そこにある小さな突起を、彼女は力いっぱいに押した。
 そこで、全身から力が抜け落ちた。

          ×

 あかりが目を覚ますと、目の前に痛いくらいのオレンジ色がいっぱいに広がっていた。
 誰かに背負われているのだと気づいたのは、それから数秒後だった。周りには見慣れた家々が立ち並んでいる。見慣れた信号機、見慣れた電柱、見慣れた夕焼け空。戻ってきたのだと、あかりは思った。
 誰におぶられているかは、解っていた。
 《ミスター・アプリコットオレンジ》……。
 あかりは大きな瞳にいっぱいの涙を溜めて、言った。
「ありがと、せんせー……」
 《ミスター・アプリコットオレンジ》は、何も答えなかった。

          ×

「あかり!」
 あかりの母親に電話で事情を説明すると、彼女は幼稚園にすぐさまやって来た。目を見開き、肩で息をしていた。
「あんた……いつもいつも心配ばかりかけて……ふざけないで!」
 そう言って彼女は手を振り上げた。しかしあかりが手に携えているものを見て、その腕を止めた。
 あかりは一歩前に進み出て、言った。
「おかあさん。おたんじょうびおめでとう」
 差し出されたものを、母親は震える手で掴んだ。
 そうして、あかりを強く、強く抱きしめた。
 ただ嗚咽だけが、その場に響いていた。

          ×

 《ミスター・アプリコットオレンジ》。神出鬼没の怪人物。
 その正体は未だに不明。
 しかしその存在は確かにあった。
 多くは語るまいが、それは大きな存在だった。



テーマ「アプリコットオレンジ」

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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