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週末の終末

 あ、あの子かわいいな。

 そんな僕の心中での呟きを肯定するように、満員電車の中で彼女はふと僕の方を見た。見られていたことに気が付いたのかと思って慌てて窓の外に目をやると、ただ単にぐるりとあたりを見回しただけだったらしい、すぐに違う方向を向いたのが見えた。
 スッと頭が冷えて、思わず自分自身にツッコんでしまった。いや、なんだよ、あの子かわいいなって。変態かよ。もう一度、数メートル先に立っている彼女に目をやる。向こうを向いてしまって、今は背中の真ん中あたりまで伸びている柔らかそうな黒髪しか見えない。が、その後ろ姿だけでも、彼女が可憐で魅力的だということがうかがえる。うん、やっぱり、かわいいとしか形容できない。
 あの制服はどこの高校だろう。割と背が高いけど、運動部なんだろうか。いろいろ妄想は浮かぶ、彼女から目が離せなくなる、鼓動が早くなったのを感じる。これってなんだろう。やっぱり、自分は目覚めてしまったんだろうか。彼女がもう一度、ぐるりとあたりを見回して体の向きを変えたので、僕は再び、急いで目を逸らした。周りに気が付かれてないといいんだけど。不自然な視線にも、動悸にも。
 半身をこちらへ向けているので、仕方なく視界の端でちらちらと彼女を観察する。

「……っ」

 後ろ姿では気が付かなかったけど、彼女は顔色が優れない様子だ。そういえば、しょっちゅうこの電車を使う僕だけど、今までに彼女の姿を見たことはなかった。満員電車に慣れていなくて酔ったんだろうか、そう思った。
 そこで、微かな違和感。
 酔ったにしては、彼女の顔色はあまりにも悪い。猫背気味にすぼめられた肩がふるふると小刻みに震え、大きな瞳に涙が溜まっているのが分かる。
 僕はやっと気が付いた。
 彼女の後ろに立っている、くたびれたスーツを着た初老の男。妙に彼女に密着しているのは、気のせいではない。あの子かわいいな、と思ったのは、どうやら僕だけではなかったらしい。

 痴漢だ。

 僕は思わず息を呑んだ。気が付いているのは僕だけじゃない。ちらちらとそちらを伺って、知らないふりで目を逸らして、誰も男の行為を注意しようとはしない。普段はめったなことでは苛立ちはしない僕の頭に、かっと血がのぼった。

「あの!」

 大きな声を出した僕に、周囲が注目したのが分かった。思わず顔が赤くなる。

「だ、大丈夫ですか?」
「う、ぁ、はい……」

 今にも溢れそうだった涙が、ついに決壊して彼女の頬を滑った。
 彼女と僕の周りの人混みが少し緩まって、彼女はその隙間を縫って僕の方へと手をのばす。ぎゅう、と袖をつかまれた。その手が震えているのを見て、僕は咄嗟にその手をつかんで引っ張った。男から、彼女の身体が離れる。

「す、すみません、ありがとうございます……」

 驚いたように彼女が離れていくのを眺めていた男は、我に返ったように吊り革を握りなおした。注目されているのが僕ではなく自分だと気が付いて、僕を睨みつけて舌打ちをする。そのふてぶてしい反応から見るに、もしかしたら常習犯なのかもしれない。

『――間もなくー、チハラノー、チハラノー。お出口はー、左側です――』

 電車のスピードが緩まるのを感じて初めて、一瞬に感じたこの出来事が一駅分くらいの長さのものだったと気が付いた。男は多分、この駅で降りて逃げていくんだろう。残念ながら、捕まえて駅員に引き渡すだけの度胸も勇気も、僕は持ち合わせていない。
 電車が、完全にとまる。

『――チハラノー、チハラノー――』

 電子音とともに電車のドアが開く。僕はぐっと男を睨みつけた。少なくとも、もう彼女には手を出すなよ、という意味で。

「えっ」

 思いがけず逃げ出したのは、男ではなく彼女だった。
 彼女は僕の手を振り払うと、人がホームにどっと溢れる直前に、脱兎のごとく電車を飛び下りた。猛スピードで走って、階段を上がっていく。

「ちょ、ちょっと待って!」

 今思えば、なぜ追いかけようとしたのかは分からない。でも、涙も拭かずとびだした彼女に、なにか一言言いたいとは思った。
 しかし、タイミングが悪かった。僕も慌てて車両を出ようとしたけど、既にホームから人混みが流れ込み始めていて、思うように動くことができない。抜け出そうともがいているうちに、彼女の姿が人混みの中に消えた。中途半端にドアから出かけていた僕は、アナウンスとともにがっつり手を挟まれた。痛い。
 僕は結局、彼女を見失ってしまった。

***

「嗚呼、今日も先輩は尊い……!」

 休日の午前中、先輩は大抵散歩に出かけます。高校生の日課が散歩って、老けてんな、と思わないこともないのですが、それも含めての先輩です。小さくあくびをこぼした姿を撮り漏らさないよう、私は連射モードでシャッターを切り続けます。尊い。ナイスあくび。かわいい、尊い。
 ティッシュに限界まで染み込んでしまったために再びたらたらと流れ出した鼻血を拭って、鼻の穴に新しいティッシュを突っ込みます。ティッシュと双眼鏡、それから望遠機能付きのカメラ。これらがストーカーの必要最低限の持ち物です。はい、ここテスト出ますよー。

 ふざけている場合ではありませんね。私は双眼鏡(自衛隊仕様なので性能が良いのです。それなりのお値段でした)を覗き込んでピントを合わせます。先ほどと同じく、先輩が歩いている様子が見えました。幽霊マンションと称される人気のないマンションの階段から双眼鏡を使って先輩を観察しているわけですが、まったく気が付かないのもどうかと思いますね。普通、なにか視線を感じるな、とか思うもんですがね。
 考えているうちに、先輩がいつもの角を曲がって見えなくなります。ああ、あそこから先に行ってしまうと、周りにちょうどいい高さの建物がないために、先輩の姿を拝むのは不可能になります。ストーカーを始めた頃は茂みに隠れたりもしましたが、今の季節は綺麗に街路樹を刈ってしまうがために、それも不可能です。しょうがないので、先輩の部屋の明かりが点くまではここで粘ることにしています。
 じゃあ、それを待っている間に、私と先輩の出会いでもお話ししましょうか。



「あちゃあ……」

 こりゃあ、やっちまいましたね。私は半ばうんざりしながら、廊下に散らばったノートを眺めました。というか、週末限定自宅警備員の私に、クラス全員分のノートを運ばせるなど暴挙と言ってもいいでしょう。なに考えてんでしょうあの担任。
 既に放課後、教室棟へつながる廊下は人もまばらです。人に見られなくてよかったというのはありますが、一人屈んでノートを拾い集めるというのもなかなか堪えるものです。

「大丈夫?」

 突然の聞きなれない声に顔をあげると、そこには上級生の先輩が立っていました。優しそうな顔立ちに「イイヒト感」が漂っています。人見知りな性分の私は、最初はその先輩にさえもビクついていました。

「あ、ええと」

 一人わたわたしているうちに、先輩はさっとノートを拾い集めて手渡してくれました。お礼も言えないままに突っ立っていると、先輩は「手伝おうか?」と申し出てくれました。そんなこと、出来るわけもありません。必死の思いでお断りすると、少し残念そうな顔をして行ってしまいました。背を向けて去っていく先輩の後ろ姿に、私はしばらく呆然としていたものです。
 その後、私は先輩のことをよく観察するようになりました。観察し始めてすぐに、先輩のお人好しで世話焼きで正義感溢れる性格を知りました。あの日の出来事を反芻しては、私は胸を高鳴らせました。

 恋に落ちるのに、大して時間はかかりませんでした。



――♪~~♪♪~♪~~~~♪~

 突然の着信音に、私ははっと我に返りました。先輩が角を曲がってから時間にして数秒、まだ大丈夫でしょう。私はそう判断して、スマホのディスプレイを見ました。しーたんからの電話です。

「あーもしもし? しーたん?」
『相変わらず呑気そうな声出して……。える、今なにやってんだ』
「ええ? 先輩の観察ですよ。それがどうしたんです?」

 しーたんが尋問調に尋ねるものですから、私は仕方なく正直に答えました。まったく、しーたんは唐突で自己完結するところがありますから、困ったものです。

『どうしたんです、じゃねーよ! お前、忘れてんじゃねーだろうな?』
「あー、そういや、映画の約束してたんでしたっけ。これは失敬」
『なんだその棒読み口調! バカにしてんのか、早く来い!!』

 まったく、他人の恋路を邪魔するなんてよっぽどヒマなんですねえ。ですが、先輩が私の憧憬の対象であると同時に、しーたんは私の大切な幼馴染です。ええ、迷惑をかけていることは重々承知ですから、しーたんには頭が上がらないのです。
 しょうがない、タイムリミットですね。
 もう一度、先輩の部屋のカーテンが閉まっているのを確認してちょっと残念に思いつつ、私は階段を下り始めました。

***

「まあ、それにしてもアレだな、割とお前の映画のチョイスはうまい。B級なのにこんなに面白いと思わなかった」
「褒めても何も出ませんよ、しーたん。これ以上注文するとマジで財布が空になるのでやめてください」
「ちげーよ。また面白そうなのが演ってたら誘ってくれって言ってんの」

 俺の向かいに座ってコーラとメロンソーダのオリジナルブレンドをずるずる飲んでいたえるは、軽く目を見張ってストローから口を離した。目線が斜め上を向いて、しばらくしてから、ぴこーん! と頭の上に豆電球が浮かぶ。

「……ほっほう。そうでした、君はそんなヤツでしたね、失念してました。ふむ、先輩の純真さに私は惹かれているわけですが、君もしょうがないツンデレですねえ、ネタにしたくなっちゃったじゃないですかぐふふぅ」
「おい、戻ってこい」

 ぶつぶつと呟きながら猛スピードでスマホをタップするえるに、俺は紙ナプキンを差し出した。ぼたぼたと鼻血を垂らしながらも、幼馴染はニヤケ面を顔に張り付けている。怖いよお前。

「……ふう」

 どうやらやっと落ち着いたえるは、鼻の下に垂れた鼻血をごしごしと拭ってからスマホをしまった。満足そうに、もう一度ストローに齧りつく。先ほどのニヤケ面との差に、俺は思わず半目になった。

「変態め……」
「違いますよ。あ、でも先輩に『僕は、あなた限定の変態なんだ……(照)』とか言わせたいですね、うっはー萌える」
「だからそういうのを世間的には変態って言うんだよ!」

 変態は、いくら映画のチョイスが上手でも、やはりどこまでも変態だった。こいつは、どこで間違ったんだろう。考えてみれば、イケメンの保父さんにまとわりついて独占しようとしていた幼稚園生のころから、片鱗はあったかも知れない。とんでもない幼馴染を持ったもんだ。
 二人で騒いでいるうちにいつの間にか時間がたってしまったようで、時計を見たら午後三時を回っていた。おや、そろそろ先輩が外に出る時間帯じゃないですか! と騒ぎ出したえるに追い立てられるようにして、俺はファミレスを後にする。

「じゃ、私はこれで。先輩は、今日どこかへ買い物に出かけるみたいだったんで、そろそろ帰ってくる頃でしょうし」
「お前、その『先輩』中心の生活習慣何とかした方がいいんじゃねえの……」
「はははー、冗談もほどほどにして下さいよ」

 ふらっと背を向けたえるの手には、既に双眼鏡が握られている。変態もここまで堂に入ると、もう違和感すら感じなくなるから不思議だ。

「……通報されないようにしろよ」
「なに言ってんですか、私たちの愛を壊すものは一匹残らず駆逐してやりますからご心配なく」
「なにそれ怖い」

 というか通報されるっていう意識はあるのな、とツッコもうとして、既にえるが行動していることに気が付いた。おい、塀をよじ登るのはどうかと思うぞ。そこ、民家だろ。
 完全にえるの姿が塀の向こうに消えてから、俺は溜息を吐いた。なるべく急がないと、もしかしたら間に合わないかもしれない。そう、実を言うと、俺も焦っていた。時間としては、ちょうど彼女が飼い犬を連れて散歩に出かける頃だったからだ。

 彼女は、家の近所に住んでいる。初めて俺が彼女を見たのは、彼女が三歳の時、つまり二年前だった。確か、具合が悪くて学校を早退した日。幼稚園からの帰り道に彼女が母親と歩いているのを見て、俺はつい立ち止まって見惚れてしまった覚えがある。
 彼女については、隣の家のおばさんと少し話しただけですぐ知れた。ここら辺では有名な庭の広い豪邸に住んでいて、父親は有名会社の重役。年相応に活発で、優しく明るい、まっすぐな良い子。飼い犬の承太郎をかわいがっている。
 そこから、彼女に取り入るのは造作もなかった。犬の散歩をしているときに話しかけてみる。繰り返すうちに仲良くなって、豪邸に招き入れられる。彼女の母親と話をして、高評価を得る。それだけで、俺は彼女とお近づきになれたという訳だ。やれやれ、少しガードが緩すぎるんじゃないのか?

 念のために言っておくが、俺はロリコンと呼ばれる類いの人間ではない。別に他にもいくらでも幼稚園児はいるが、俺はそいつらには興味がない。ゆかりちゃんだけが、やけに神々しく見える。俺の嗜好が歪んでいるというのは百も承知だし、こうやって待ち伏せしてまで彼女と話したいという欲求の異常さは理解している。ああそうさ、俺はえるに注意できるほど潔白な人間じゃない、むしろ同類だ。二人そろって、変態に育ってしまったらしい。
 えると俺は、どこで間違ったんだろう。そんな問いが一瞬頭の片隅をよぎって、消えた。いつものコースの真ん中あたりに陣取って、俺は彼女が通りかかるのを待つ。

***

 角を曲がる直前に「奴」のにおいを感じて、私は思わず立ち止まった。が、もちろん娘はにおいを感知できないので、足を止めることはない。必然的にリードが最大まで伸びて、娘は後ろに小さくよろけた。

「……娘よ、その角は曲がらぬ方が良い」
「承太郎、ひっぱらないでよー」

 がるるる、という唸りになって私の喉から発せられた声は、娘には理解できない。困った顔をしてリードをひく彼女は、その身に忍び寄っている危険に気がついていないのだ。困っているのはこちらだというに。思わず尻尾が下がる。

「ほらあ、行こうってば」

 ここまで言われてしまっては仕方あるまい。私はしぶしぶながら四つ足で踏ん張るのをやめ、娘に付き従った。誇り高きシェパードは、主と主の群れにはあくまで忠実なのである。
 警戒しながら歩を進める。匂いの発生源はまったく動く様子がなく、結局そのまま娘と私はその丁字路を左へ曲がった。
 待ち構えていた様子を微塵も見せず、向こうから歩いてくる青年が胡散臭い笑みを浮かべる。

「ゆかりちゃん、こんにちは」
「しーくん!」

 嗚呼、幼い娘は気付いていない。娘が角を曲がって姿を現した瞬間、しーくんと呼ばれている青年は発情の香りをさらに濃くした。娘と十以上も年が離れているというのに、奴は娘――ゆかり殿に興奮しているのである。とんでもない奴だ。

「今日は一人で承太郎のお散歩?」
「うん、一人だよ。しーくんも一人?」
「んーとね、さっきまではえると一緒だったんだけど、用事があるって言ってたからバイバイしたんだ」
「ふーん。じゃあ、いっしょに帰ろ!」

 ご近所さんという名目で、奴は主と娘に取り入っている。そして、このように娘を主の家まで送り届けることで、主の信頼を勝ち取っているのである。あくまで偶然を装う此奴の計算高さといったらない。
 頷いてにっこりと笑った奴は、その笑顔を緩めてちらりとこちらを伺い見る。嗚呼、その目! 私が敵視しているのを奴は薄々感じているらしい。媚びるように細めた目は、どうしたら私に取り入れるのだろうかと模索しているのをはっきりと感じさせる。ふん、貴様などに気を許すことなど一生ないわ。

「相変わらず、承太郎は俺のことが嫌いなんだね」
「そうかなー?」
「そうだよ。ほら、俺が手伸ばすとプイってそっぽ向くんだもん」
「ほんとだ。承太郎、仲良くしなきゃ、めっ!」

 こつん、と小さな手が私の頭へ振り下ろされる。正直痛くも痒くもないのだが、娘の手が奴のために振り下ろされるのは気に食わない。

「娘よ」

 わざとらしく耳を垂らして、くうん、と一鳴きした。もちろん娘は優しいので慌てて、痛かったの、ごめんねと、頭を撫でてくれた。頭も撫でてもらえない貴様などとは格が違うのである!
 再び娘と奴は歩き始める。他愛もない話はまだ続いていたが、正直、私は会話に参加できないのでつまらないのである。くんくんと、鼻を鳴らして雑多なにおいを嗅ぎ分けてみたりして、気を紛らわすしかない。

「む」

 再び、私は立ち止まった。微かな残り香を鼻に感じる。

「またあ? 承太郎」
「いや、……なにやら懐かしい香りがしたものでな」

 今までに嗅いだことがあるようなないような。私の朧げな記憶では、確かこれは。娘のことも奴のことも一瞬忘れて、においの記憶を探る。数年前に、じゃあね、という言葉と共に去って行った少年。あれがまたこの辺りを通ったということか。いや、ではしかし、この化粧の甘い香りの説明がつかぬ。番でも作ったのであろうか。

「承太郎?」

 娘の不思議そうな声に、はっと我に返った。

「すまぬ、娘。なんでもない」
「しーくん、承太郎どうしたんだろう?」
「うーん、ぼんやりしてたんじゃない? 番犬にあるまじき行動だよねぇまったく」
「貴様、何時まで私を愚弄するか! その喉笛、今すぐ噛み千切ってやっても良いのだぞ!」
「だめだってば、承太郎ー」

 娘に制されながらも、私は笑う奴に向かって唸った。やはり此奴は失礼千万である! いつか一泡吹かせてやろうぞ!!

「それにしても、本当にどうしたんだろうね。なんか考えてるような顔してたけど」

 まっ、考えるにしても犬の頭じゃ、と奴は続けたが、娘はその言葉にカチンときたらしい。しーくん、そんなこと言ったらぜっこうだからね! と申し渡されて、奴は真面目な顔になって謝った。いい気味である!
 む、また香る。

***

「はー、疲れたぁ……」

 右手に紙袋、左手に紙袋。典型的な買い物帰りの女子高生の図だ。すれ違う人も、私に注目する人はいない。よし、大丈夫。私はただの女子高生。
 いささか挙動不審かもしれないけど、このくらいの警戒はすべきだ。秘密を抱えているときは、いつ何が起きてもおかしくないっていう危機意識は持っていた方がいいと、姉さんはよく言っていた。まあ、昨日みたいなことは起きないだろうけど、念には念を入れて。
 でも、次の瞬間、私は念の入れ方を間違っていたことに気が付いた。

「あ」

 目の前で声をあげられて、私は身を固くした。思わず私も立ち止まる。顔をあげると、そこには、

「あの、昨日の」

 彼の言葉が終わる前に、私はくるりと向きを変えて走り出した。後ろからは、ちょっと! という声とばたばたという足音とが聞こえて、彼が私を追いかけてきているのが分かる。どうして、こんなところで会っちゃうんだろう! 昨日の電車に乗り合わせていた人たちに会いたくなくて、今日はバスで帰ろうと思ったのに! こんな偶然なんて、嬉しくない!

 商店街を抜けて、周りは住宅地になった。数年前まで私の家族はこのあたりに住んでいたんだけど、開発が進んだからか、道が全く分からない。彼がまだ後ろから追いかけてきている上に、初めて履いたローファーは意外にも踵が高くて走りづらい。かまわず走り続ける。

「ちょっと! 待ってください!」

 ほっといてくれよ! 叫びたいのを必死で我慢した。大声で叫んだら、バレてしまうかもしれない。
 ああ、やっぱり、昨日痴漢された時点で、こんなことをやめればよかった。
 後悔の念に苛まれながら、私は思い返した。実はアイドルだとか、実は戦う変身ヒロインだとか、そんなキラキラした秘密じゃない。もっと根本的なところに、問題はある。

 私は――僕なのだ。物理的に。

 大学へ進学した姉の荷物を片づけていたときに、もういらないわね、とゴミ袋につっこまれた制服をこっそり持ち出して隠しておいたあの瞬間から、私は……いや僕は、既にマズい方向に片足を突っ込んでいた。普通に歩いていても男だとは思われないし、むしろちやほやされる。文化祭の時に無理やり女装させられた時の高揚感を、僕は忘れられなかった。人を騙すという行為に酔っていたのかもしれない。
 でも、昨日電車の中で太腿に手が置かれた時には、さすがに声をあげそうになった。この手が、もう少し上の位置へ移動したならば。さわさわと内腿を這う手の感触よりも、電車の中で女装がバレることが気になって、悪寒が止まらなくなった。だから、あの時の彼の一言は、ある意味では救いだったし、ある意味では余計なお世話だった。そのおかげで、僕はこうして今、彼に追いかけられているわけだし。

「あの! 生徒手帳落としてますよ!!」
「えっ」

 思わず足を緩める。振り返ると、彼は数メートル後ろに立っていて、汗だくになって肩で息をしていた。その手には、見覚えのある緑色の手帳が握られている。走っているうちに、カバンのポケットから落ちてしまったらしい。

「すみません、追いかけたりして、でも、やっぱりこれ落とすのはマズいよなって、思って、」

 ぜーはーと深呼吸しながら、彼は僕の方へと手帳を差し出す。危なかった。生徒手帳の裏表紙には、生徒写真が貼りつけられている。このまま僕が逃げていたら、僕が男だと彼に気が付かれるのは避けられなかっただろう。

「その……昨日も今日も、ありがとうございました」
「覚えててくれたんですか。嫌な気分になったでしょう、すみません」

 そういうわけでは、と言おうとして彼を見上げると、目が合った。彼のもともと赤かった頬に、違う意味でかっと血が上っていくのに気が付く。嫌な予感がした。とっくに外れた視線を彷徨わせながら、彼は口を開く。

「あ、その、もしよかったら、今度お茶でもどうですか」

 あまりにもベタな誘い文句。その意味が分からないほど、僕も男を捨ててはいない。でも、僕は心が女の子であるとか男が好きだとか、そういうわけではない。ただ単に、女装が好きなだけだ。いや、ただ単に、と言えるものではないかもしれないけど。
 とにかく、彼が僕に恋心を抱いているとしても僕はもちろん答えるつもりはないし、むしろ今、僕の腕にはぷつぷつと鳥肌が立っているくらいだ。きもちわるい。

「あっ、無理にとは言いませんから。すみません、変なこと言って」
「う、ええと」

 僕はよっぽど困った顔をしていたらしく、彼は少し笑ってぶんぶんと手を振った。引き下がってくれたというのに、残念そうな彼の笑顔に、鳥肌がなかなかひかない。僕がひきつった笑みを浮かべると、ぽっと彼の頬が染まるから悪質だ。
 会話が途切れる。彼は話題を探して、視線をうろうろさせている。ここらへんで終わりにしないと、もしかしたら深入りされるかもしれない、と思って、僕は口を開こうとした。

 その瞬間、先ほどとは比べ物にならないくらいはっきりと、嫌な予感。

「ふわっ!?」

 ぶわりと。一陣の風が吹いて、まるでマンガか何かのように、短く折った制服のプリーツスカートは簡単に捲れ上がった。慌てて裾を抑える。いや、でも、このタイミングだと、絶対間に合っていない。思わずかあっと顔に血が上る。嫌な予感が当たった。

「み、見た……?」

 嫌だ、これじゃまるで、本当に女の子みたいじゃないか。昨日は痴漢、今日はパンチラ。僕は女の子的イベントに巻き込まれたいんじゃなくて、ただ純粋に女装を楽しみたいだけなのに。涙をこらえて、恐る恐る彼を見上げる。

「なんで……」

 以外にも、彼の頬の赤みはひいていた。驚きだけが浮かぶその顔に、僕は違和感を感じる。予想と違う。少し考えて、一つの可能性を思い出した。
 僕は、スカートの下に何を履いている?
 答えから言ってしまえば、僕は今、下着まで女物を履くという徹底的な女装はしていない。いつも通り、男物だ。当たり前だ、昨日初めてスカートを履いてみて、ウィッグをかぶってみて、化粧をしてみたんだから。今日買ってきた服だって、親に見つからないように、少なくとも大学に行って家を出るまでは押入れの奥だ。

 であるからして、彼が見たのは女の子の究極領域のはずはなく、すなわち。一瞬で血の気が引いた。嘘、嘘。そんなことって。あと数十分で何もないまま終わるはずだったのに、ここまできてバレるなんて。
 目が合う。甘酸っぱい空気はない。彼の顔は真っ青に染まっていて、ああ、僕の顔もこんな感じに違いないと思った。諦めとか絶望とか、そんな単純な感情では表現できない。
 僕が私になった週末が、通り過ぎていく。

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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