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檸檬の世界

「ねぇ、先生」
少女は問う。
「なんだい、檸檬」
青年は答える。
それだけが、すべてだった。

   一 「檸檬」

空が青い。遠くから蝉の声がする。レモンのつぼみが膨らんできている。それから、それから……
白い診察室から眺める風景は、いつも変わらないようで、いつも違う。空はすこしずつ赤くなっていくし、蝉も静かになっていく。レモンの花だって、もうすぐしたらきれいな花を咲かせて、それからしぼんで、実をつけることだろう。
けれどあたしは、
「ねぇ、先生」
「なんだい」
先生は眼鏡の奥でにこやかに返す。こういうのを「微笑み」というのだと、最近知った。
「あたし、あとどれくらいここにいなきゃいけないんですか?」
先生は、困ったような顔をする。
「病気が治ったら、ここから出られますか?」
「檸檬」
 耳朶に直接響く声。あたしの知っているどの声よりも低い。それが今、あたしの名前を呼んだ。
「君は、もしかして叱られたいのかな?」
「やっぱり、先生には、わかっちゃうね。この間看護師さんにやったら、どう答えようかすごく迷ってたのに」
真剣にしていた顔を、笑顔で崩して言う。
「遊んで、ごめんなさーい」
「反省しているように見えないんだけれど」
先生も笑いながら答える。
「お遊戯の時間は終わったかな?じゃあ、診察も終わったことだし、採血するよ」
「はーい」
あたしは子どもらしく、手を挙げてみせたりする。
「あ、それから、あんまり看護師さんで遊ばないように」
「はいはーい」
「返事は一回、だろう」
笑いながら先生は、くしゃくしゃとあたしの頭をなでてくれる。そしてまた笑いあって……
これが、あたしの日常。
わかりきった終わりを、笑うことのできる、あたしと先生の日常。


「じゃあ、採血しますね」
看護師さんはもうあたしを子ども扱いしない。する必要がないと分かったからだ。あたしはずっとここにいるし、採血も点滴も慣れっこだ。なんといえばいいんだろう、きっと普通の子だったら蚊に刺されたり、日焼けして皮がむけたり、夢中になって遊んで転んでしまったり。そういう感じであたしは採血を受ける。痛いけれど、痛いのは一瞬だし、怖くない。まぁ、普通の子と言ったってあたしはそんな子に会ったことはない。先生の持っていた子どもの文化についての本にそう書いてあったのをなぞっただけで、あたしは日焼けだとか転んでしまうような遊びだとかを知らない。でも、きっと普通の子は外で遊ぶのを怖がらない。それと同じようにあたしも検査や治療を怖がることはない。
それにきっと、あたしはこうやって検査や治療をしないとすこしの間でさえ生きていられない。だからこれは仕方のないことでもあるんだ。
先生が前に教えてくれたこと。あたしにしている治療は、最先端のものだけれど、それでも病気に追いつかないんだって。それに、副作用であたしが寝たきりになってしまうかもしれないから、そうならないような弱い治療しかしないんだって。
不便な体だなあ、と思う。不便な体だから、あたしはずっとここにいる。ここにしかいられない。けれど、ここには先生がいる。だからそれだけでいいけれど、先生がここからいなくなってしまったらと思うこともある。そう考えると、すこしだけ、苦しいような感じになる。
幽霊、というものがいることを図書室の本で読んだ。人が死んだら、そんな風になるみたい。あたしは、幽霊になりたい。だって、その方が絶対自由で、いなくなるかもしれない先生のことを考えて苦しいような感じになったりしないですむから。でも、その時先生は、どこにいるのだろう。
 
 *

「蔓みたい」
滅多に話しかけないから、看護師さんはちょっと驚いた顔をした。あたしの視線の先にあるものに気づいて、看護師さんは微笑みながら答える。あたしにしかしない笑い方。
「血管のこと?」
話しかけなければよかった、とすこし後悔する。あたしはこの人の作り笑いが苦手だ。この人はきっと、こうやって笑いながら、子ども扱いも大人扱いもできないあたしに、どう接すればいいのか困っている。
「そう、血管。」
あたしは言葉を返す。
「緑色で、中庭のレモンの茎にまとわりついた蔓に似てる」
レモン。
中庭に生えている、一本の小さな木。
それから、あたしの名前。
先生がつけてくれた、あたしの名前。
檸檬。
「はい、おしまいです。」
看護師さんはいつものようにてきぱきと、針を抜いて止血テープを貼る。その上からバンドをまく。
「バンドは十五分後に取るから、それまでゆっくりしててね」
「はい」
いつも通りの会話。ちょっとの血をとるのでも、バンドをまかないといけない。普通はテープだけでいいみたいだけれど、一度テープだけ貼っていたら血が止まらなかったことがあったらしい。だから、念のため。
「ねぇ、看護師さん」
「何?」
「あたしの血管は、あと何本注射に使えますか?」
看護師さんは困ったように微笑む。いっそ、困った顔をしてくれていいのに、そうじゃなかったら、笑って答えてくれればいいのに。
「数えたことがないから、わからないわ」
「じゃあ、数えてください」
左手のひじの血管は、もう使えない。右腕ももうすぐ使えなくなるだろう。注射をしすぎたせいだ。手首の血管だって、点滴をするからだめになってしまう。ちょっとの血なら耳からとれるけれど、耳から注射はできない。いろんなところの血管を使うけれど、そのたびに使えなくなっていく。でも、注射をしないと、あたしは生きてさえいられない。看護師さんは、あたしを生かそうとする。それは看護師だから。あたしを患者として見ようとする。それは間違ってないけれど、あたしの求めることじゃない。
この人がわかっていなくて、先生がわかっていること。
このサナトリウムも、治療も検査も、注射や点滴の痛みも、その副作用も、使える血管の本数も、全部あたしの日常。あたしは確かに患者だけれど、患者としてのあたし以外にあたしがいるわけじゃない。ここにいるあたしが全てなんだ。他のどこかに、あたしはいない。看護師さんはあたしを生かしたいかもしれないけれど、あたしはきっとすぐにでも死んでしまうことをわかっているし、その中で生きているのだから。その日常の外なんてない。このサナトリウム以外で生きているあたしなんて、いない。
あたしはきっと、大人になれない。これはどうしようもない単なる事実で、日常。悲しくなるものでもなんでもなくて、先生も、この日常の中にいる。看護師さんはきっといない。もしかしたら、いないふりをしているのかもしれないけれど。
だからきっと、看護師さんは悲しそうに笑って言ったのだ。
「今度ね」
その顔が、あたしはきらい。あたしが、悪いことをしたみたいな気分になる。困ってよ、あたしの求める答えはそうじゃないって怒ってあげるから。それができないなら、笑って何本って答えてよ、あたしも笑って「そうなんだ」って言うから。見て見ぬ振りしないで、あたしはあたしのことが知りたいだけなのに。
あなたの言う「今度」は、いつ来るの?その時あたしは、生きてないんじゃない?

 *

先生はわざわざ、あたしに難しい漢字を教えながら名前をつけてくれた。今日だって、カルテには丁寧な文字で「檸檬」が書かれている。カルテは、あたしの体のことが書かれているけれど、あたしについての先生の日記にもなっている。ときどきあたしはそれをこっそり読む。先生がどう感じたのか、とか、何を見てたのか、何を感じたのかがわかってくる。夕方、先生が煙草を吸いに外に行く間、ひとりぽっちの時間のひそかな楽しみだ。
中庭はあたしの知っている唯一の外だ。サナトリウムの建物に囲まれているけれど、レモンの木が生えているところまでは、お昼ごはんまでの時間だったら日向に入らずにたどり着ける。あたしは日向には出られないけれど、水やりは朝にやったほうがいいと先生が言っていたから、朝の時間にレモンの様子を見られるのはいいことだ。
レモンの木にはきれいな蔓が絡まっている。レモンの茎よりも明るい緑のそれは、器用に棘をよけながら日に日に伸びていく。
去年までは花を咲かせるだけで実がならなかったけれど、今年はどうだろう。なったら、食べてみたい。ここで育ったレモンは、どんな味がするんだろう。
夕焼けの赤い光に照らされた中庭は広いのに、その中に蔓の絡まった小さなレモンの木が、ぽつんとある。明日は晴れるだろうか。



夜になった。鈴虫が鳴いている。きっと外では涼しい風が吹いているけれど、あたしは空調管理された室内で、眠ろうとしている。消灯の時間はすこし前に過ぎたから、本は読めないし、月明かりに照らされた病室で一人、カタツムリが這った跡をそのまま黒くしたような天井を見ている。この天井の柄って誰が考えたんだろう。窓辺に目を移すと、やせた半月が沈もうとしているのが見えた。月明かりは、中庭を照らしているのだろうか。
このサナトリウムには昔はたくさんの患者さんがいたらしい。中庭を囲う建物のほとんどは病室で、あたしはそのうちの一つを使っている。二〇七号室。でも、あたしの物心がつく前にみんないなくなってしまって、夜になると二〇七号室と一階の診察室だけに明かりが灯る。看護師さんはサナトリウムの近くにある山荘に寝泊まりしているから、夜に向かいの棟のガラス窓に映る光は二つだけだ。時々先生があたしの部屋に遊びに来るときは、その光が一つになる。あたしが遊びにいく時も、そうだ。
サナトリウムにいた患者さんたちは、あたしのことをかわいがってくれていた、といつだかに看護師さんが言っていた。その人たちがどこに行ったのか、どこにもいないのか、幽霊になったのかは知らない。あたしをかわいがってくれていた、とは言ってもあたしはその人たちを覚えてはいないし、もし万が一会うようなことがあって向こうから話しかけられても、あたしはその時「はぁ」くらいにしか答えられないのだから、空虚な思い出でしかない。空っぽの病室の前を通ってサナトリウムの中を散歩するたび、先生のところ、つまり診察室に向かうたびにそう思う。患者さんたちが集えるようにと開かれた中庭にだって、あたし以外の患者は来ない。
とか、考えていたらすこしずつ眠くなってきた。この眠気を逃さないようにうまく眠りに落ちなければならない。そうしないと、いつまでもぐるぐると考えて朝になってしまう。だから、目を閉じて、体を動かさないように。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。繰り返し。くりかえし。吸って、吐いて……。
すこしずつ、頭の中にあるものがぼんやりとしてくる。ぼんやりとしたものを、それでも頭はぼんやりと動かそうとする。不明瞭。緩慢。そうしたものたちの意味も分からなくなっていって、そうして、そうして。体を動かすのがひどくだるくなっていく。寝返り一つ打つのも、物音に反応して目を開けることもままならなくなって、沈むように、落ちるように。
沈んでいく、落ちていくそこには、誰もいない。夢か現実かもわからない、あたしだけがそこにいる。眠りに落ちるとき、きっと死ぬ時もこんな感じなんじゃないかなとそれだけははっきりと、思う。あたししかいないその場所で、あたしがいなくなる時が、消えていく時が、きっとその時だ。ひとりきりの場所で、ひとりがいなくなる。
消えながらでも、沈みながらでも。最後のその場所では、あたしはいつものように呼び掛けたい。たとえ、ひとりきりでも。
「先生」
と。

  二 「先生」

朝。六時半。水を飲みに降りてこない檸檬を、検温もかねて迎えに行く。あの子の部屋は二〇七号室。それ以外の部屋は、ひっそりと静まり返っている。かつては受け入れ拒否をするほどに患者の多かったこのサナトリウムも、今では檸檬を残して他はいない。ここは、あの子の城と化しているのだ。
二〇七号室にたどり着き、ドアをノックする。返事はない。
「檸檬?開けるよ?」
少々不作法だが一応断りを入れ引き戸を開ける、軽く設計されたそれはカラカラと音を立てて開く。一歩を踏み入れる。
檸檬はまだ眠っているらしい。しかしどうやら様子が変だ。近づいて顔を見ると、なんだか焦点が合わず、ぼんやりとしている。眼鏡を新調しなければなるまいか。掛け布団を少しめくり、檸檬の左腕をとる。熱っぽい。どうやら熱を出してしまったようだ。昨日の治療薬のせいだろうか。
「檸檬?檸檬、起きて」
そういって肩をたたく、その瞬間、驚愕した。
首が、氷のように冷たい。急いで脈を取ろうとするが、手が震える。
目の前がぐにゃりと曲がり、見えているものの色がなくなっていく。呼吸が浅くなる。酸欠の症状、パニック、違う、私の病状を分析している場合じゃない。檸檬は、この子は……
「先生?」
「え?」
「先生」
耳を疑う。よく見えない顔から声がする。いや、モノクロの中で金色に光る瞳だけが、よく見えている。檸檬の瞳。
「檸檬?」
「そう、あたし。先生、どうかしたの?」
おかしい、おかしい、おかしい!絶対おかしい!
だってこの子は、

死んでいるのに。




「おかしいの。先生、あたしの顔をそんなに見て、どうかしたの?」
檸檬は今、目の前に座っている。私はその小さな手を握ってひそかに呼吸を整えていた。
「先生、また仕事しながら寝てしまったんでしょう。服にしわがついちゃうよ」
「そうだね、檸檬、気をつけなきゃね。ところで檸檬、水はもう飲んだ?」
「うん、先生寝てたから、起こさないように飲んだよ。看護師さんにもうすぐ朝ごはんできるから先生起こしてきてっていわれたから起こしに来たんだけれど、まだ起こさないほうがよかった?」
「いや、起こしに来てくれてよかったよ」
檸檬は首を傾げた。よかった、顔はちゃんと見えている。
「まぁ、いいや。先生、お水のむ?」
「うん」
檸檬の白い手が離れる。意識していないとまだ声が震える気がする。檸檬に聞こえないように、息を吸って、吐く。意識が明瞭になってきた。どうやら先ほど、檸檬を起こしに行ったのは夢だったらしい。その夢を見ている私を檸檬が起こしに来たというわけだ。
医者たるもの、患者の死を怖がるなんて、と思いかけてすぐにその思考を打ち消す。
檸檬はもう、私にとっての一人の患者なんかじゃない。それは自認している。
そうではなく、檸檬がいつ死んでもおかしくないということを私がどこかで受け入れられずにいることが問題なのだ。
「先生、はい、お水」
「ありがとう」
手渡してくれたグラスを受け取り、一口含む。渇いていた口と喉とが潤って、少し落ち着く。
「それから、これ」
「なんだい?それは」
握った手のひらを檸檬が差し出す。私の手のひらを広げさせると檸檬も手を広げてコロン、と何かが落ちてきた。
「チョコレイト!」
ぱぁっと、檸檬は笑う。それから、はっとしたように顔を近づけてささやく。
「応接間にあったの、取ってきちゃったの。溶けちゃうかなって思って、あたしの部屋の冷蔵庫に入れてあったんだけれど、ひとつ先生にあげるね」
 ささやきながらも、檸檬はにこにこしながら言う。
「どうして、先生にくれるの?」
「甘いものを食べると、元気になるから。でも、看護師さんには内緒ね!」
クスクスと笑う檸檬の、金色に光る瞳は、澄んでいて、けれど明るくはない。無邪気な諦観。自覚のない残虐さ。
じゃあ食堂に来てね、と言って檸檬は診察室を出ていった。チョコレイトの包みを開けると、檸檬が強く握りしめていたのか、表面がぬるく溶けていた。指先でつまみ、口に含む。噛みつけたチョコレイトの内側は冷たい。冷蔵庫に入れていたというのは本当らしい。それがなんだかおかしくて口角が上がる。
檸檬にとって、自分の死は当たり前。物心がつく前から死は自らの眼前にあり続けるものだ。檸檬はその美しい瞳で常に死を含めた自分の世界を見つめている。私は、檸檬と向き合うと決めた時から、その「当たり前」を共有しているし、同時に自分がそれまでもってきた当たり前を排除している。
それなのに。ため息をひとつ吐く。それなのにあんな夢を見てしまった。夢の中でも、死んでほしくないと、願ってしまった。そう願うことは、檸檬の「当たり前」を壊すことだと、檸檬に絶望を与えるだけだと、知っているのに。
檸檬は、哀れみなんて求めていない。日常を共有できる人を、一緒にいられる人を、求めているのに。
指には、溶けたチョコレイトがくっついている。それを舐めとって、口の中に残る冷たいチョコレイトとともに飲み下す。
「せんせー、まだー?」
「今行くよー」
水を飲んで、診察室を出る。
たとえ檸檬がいつ死んでも、哀れみだけはもたないように。


   三 看護師
 
泣いている彼の姿を、わたしはただ、美しいと思いながら眺めていた。霞の向こうで泣いている彼は、つかの間、確かにひとりきりだった。そこにわたしはいなかった。あの子とふたりきりだった場所に、彼はひとりきりでいた。枯れた檸檬に絡んだ蔓の葉から、朝露が落ちる。それらをわたしは、ただ、眺めている。
中庭の檸檬は、ならなかった。つぼみをつけて、そのまま枯れてしまった。あの子の病状が悪くなって、誰も檸檬の手入れをできなくなったから、揚羽蝶の幼虫に食まれて枯れてしまったのだ。茎はもう、茶色とも灰色とも言い難いものに変色し、そのとげは以前のように張りのあるものではなくなっている。触れると、ちくりとかすかな痛みをもたらした。指先を見ると、血は出ていないものの、薄皮一枚隔てたところにとげの先端が入っていることがわかる。触ってみると、先ほどのちくりとした痛みが再び生み出される。

あの子だったらどうするだろう。こんな彼の姿を見たら、あの子はどんな反応をしたのだろう。図書館の、死を哀れむ本を「これはいらないから」と言って無表情に焼却炉に落としたあの子は、もしかしたら、彼の姿を見て怒るのだろうか。それとも、笑うだろうか。
あの子の死から、一ヶ月が経った。「檸檬」と呼ばれた少女は「病気に追いつかれて」、あるいは「副作用に弱められて」、本当に、大人になることはなかった。あの子の死因はわたしには伝えられていない。それはわたしが一人の看護師に過ぎないからであり、彼がわたしに話そうとはしなかったからだ。このサナトリウムに患者はいなくなった。だから、役目を終えたサナトリウムはあの子の遺体の検査が終わり次第、閉鎖された。
彼にとってあの子は最後の患者である以上に特別な存在だった。ずっと彼とあの子は、ふたりきりだったから。少なくともきっと、あの子にとっては。
サナトリウムは荷出しも終わり、がらんどうになってしまった。それでも、ここはあの子の知りうる限りの世界で、すべてだった。そのすべての中に「先生」はいた。
あの子の骨は、ほとんど、残らなかった。薬漬けの毎日がそうさせたのだろう。わたしと先生は、それでも残った脆い塊と、さらさらとした灰を集めて透明な薬瓶に入れ、この庭に埋めることにした。あの子を引き取る親族はいないから、葬るならわたしと彼の好きにすればいい、というのがこのサナトリウムの管轄部署からの答えだった。けれど実際には、彼があの子をこの場所に埋めることに決めた。わたしは「それがいいんでしょうね」と答えただけだ。
見知らぬ世界のどこかに、それも、あの子の死を哀れむような場所に埋められることは、死への哀れみを否定したあの子の望むことではないだろうから。

あの子は、檸檬。それも飛び切り弱いのに、棘のある檸檬の木だった。そして彼は、それを支えようと必死で絡みつく一筋の蔓だった。今だって、彼はきっと、あの子がいなくなったことを悲しみながら、その死を哀れまないように必死になっている。「わたしが目をそらし続けたことを、あなたはやってのけた。あの子と向き合った。それだけで、いいじゃないですか。それだけで、十分じゃないですか。あの子も、幸せでしたよ。あなたが自分を削ることはないでしょう」そんな風に思っていてもわたしは口に出せない。あの子から逃げたわたしが言ったところで何になるというのだろう。彼は赦しを求めてなどいない。ただ「檸檬」を。あの子を求めたくても求められない気持ちは、彼を蝕むだろうか。
「わたし、もう、行きますね」
「私も行くよ」
答える彼の顔は、けれど、まだあの子を想っている。
「無理は、しないでくださいね」
そう声をかけても、彼は立ち上がってしまう。
ふたりの世界に居たがったのは、あの子だけではなかった。きっと彼もまた、いつの間にかその中に生きていたのだろう。
そして、残された彼はサナトリウムを夢に見る。一人だと知りながら、あの子をここで探す夢を。日常では普通に振る舞っていても、彼は夢の中であの子を求めてさまよい歩くだろう。それが、それだけが、あの子の生きた証になるのだから。
 蔓についていた露は、もう、跡形もなくなっている。この蔓も、もうすぐ枯れてしまうだろう。それまでは、ひとりきりで。

あの子がいた、彼はいる。その低い声はもうあの子の名前を呼ぶことはない。当然、それに答える声もなく。それが、彼の世界のすべてになる。

薄靄の中、揚羽蝶が飛んでいく。ひらり、ひらり、ひらり。



テーマ「檸檬の茎の色」

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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