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伸べられた手を

 頭上から、何枚もの葉が舞い落ちてくる。
 その全てが、その身に深い、生き生きとした緑を携えていた。
「はは……大違いだね」
 私は、自分の開かれた右手に広げられたハンカチにのっている四葉のクローバーと、落ちてくる葉とを見比べて、乾いた笑いを零した。
 もう、何も無い。
 折角、あれほどテレビの前で祈ったのに。
 折角、あれほどお母さんと安堵の夜を繰り返したのに。
 折角、大丈夫なんだって信じられそうだったのに。
 折角。
 ――折角、お父さんに、あげたのに。
 駄目だった。
 言いたいことはいくつもいくつもあるはずなのに、何も出てこない。
 青年に対する八つ当たりの文句さえ、出てこなかった。ただ、いつの間にか青年は私の家から去っていた。それだけ、私がその場で固まっていたということだった。
「はは、は……」
 もう、乾いた笑いさえ、出てこない。
 ぱさりと、足元から音がした。
「うん……?」
 見ると、右手にはただのハンカチ、何も包まれてなどいないハンカチしかない。
「あ、落ちちゃった……」
 目を凝らして地面を見てみても、無駄だった。そこは無数の雑草と、今も木から舞い落ち続ける色づきのよい葉とで埋め尽くされている。どうやっても、あんな小さなクローバーを見つけるなんて不可能だ、と雄弁に語っている。
「あーあ……」
 もう、本当に全部無くなっちゃった。私の手から、零れ落ちてしまった。
 過ぎた願い、だったんだろうか。私が持つには、あまりにも重すぎるものだったんだろうか。私自身の幸せ、私の大切な人の幸せ、それさえも、私が持つには重すぎて、落とさざるを得ないものだったんだろうか。
 ぐにゃりと、視界が歪む。
 どさりという重々しい音が、自分が転んだ音だと理解するのにそう時間はかからなかった。動く気力が、どこからも湧いてくる気配が無かった。
 刹那、私の耳に聞き覚えのある声が届く。
「こんなところで、何を、しているんだい?」
 え?
 そう、問い返そうとした。でも、言えなかった。もしかしたらその時、本当に声自体が出なかったのかもしれない。でも、それよりも。
 ――目の前で、鮮やかな青い羽根が躍っていた。
「幸せを、逃してしまったと、そう思っているのかい?」
 その人は、やたらと背筋をピンと伸ばしてそこに立っていた。
「幸せは、自分には過ぎた願いだったとでも、思っているのかい?」
 その人は、想像以上にすぐ近くに立っていた。
「幸せは、本当にそんな、大きいものだとでも思っているのかい?」
 その人は、諭すような口調で、けれど爽やかな笑顔のままで、私に語り続けた。その語りは、私の心の中にすっと入り込んでくる。
「でも、だからこそ、君が相応しいのかもしれないね」
「え……?」
 やっと、声を出してその人に反応できた。それを聞くと、その人は目を細めた。
「君は、幸せの理不尽さを知った。重さを知った。大きさを知った。そんな君だからこそ、私からお願いだよ」
 人差し指だけを立てて、その人は私に語りかける。
「こんなところで、倒れたままでいないでくれないか」
 その言葉は、私の胸には痛すぎるほどに刺さった。
「どうしろって言うんですか……。私には、もう本当に何もない、何も無いんです」
 絞り出すようにしながら、声を出す。
「もう、限界なんです。あんなに安堵した夜を繰り返しても、結局最後にこうなるなら、もう、全部奪われたも同じで、だから……!」
 そこまで言った時、両の頬の一部が、少し温くなっていることに気付いた。手を当ててみると、少しだけ温くなった雫が、そこには着いていた。――まだ、私の体から出ていくものはあるらしかった。
「幸せの側面を知った君には、倒れたままでいないでほしい。これは私の完全な我儘だ」
 その言葉を、私はただ右から左へ聞き流すだけだった。
「だからってわけでもないし、別に君たちにやられたからってわけじゃないけど」
 そう言葉を区切って、老人は右手を腰の後ろに当て、左手を私の頬の近くに持ってくる。
「手くらい、引いてあげるからさ」
 ごうっと頭上を何かが通り過ぎてゆく。頭上から、葉も落ちてくる。あのクローバーも、元々はこれくらい生き生きした色をしていたっけ。
 私は、目の前まで伸べられた手を――。

     §

 ごおっという音が耳に届き、私は目線をちらりと上空へ向けた。昨日は早めに寝て、頭はばっちり冴えているが、目をぱっちりと開く気力までは起こらない。
 そこに飛んでいたのは、白くて巨大な飛行機だった。あれが、国の軍の戦闘機だというのを知ったのは四年前――お父さんが戦争に行く前日だった、確か。
 そのことを思い出して、もうあれから四年も経っていることに驚愕する。突然やってきた開戦の報せに、お父さんが応じてから、もう四年も経つ、という。
「なのに……まだ、やってるんだよねえ」
 もちろん、ここから爆撃の音が聞こえることなど無い。だから、実際戦争だからと言ってどんな戦いをしているのかは、私はよく知らない。
 だが、毎日毎日、朝十時と夜十時に、どこそこでなになにの部隊が戦って、どれだけの戦果があったのかを知らせる発表が全テレビ番組、全ラジオ放送で流されるのが続いている。それを受けて学校では毎日毎日、すごいだのさすがだのと褒めたたえる言葉が乱舞する。だが、私にとっては、あんな放送には一つの価値しかない。
 ――今日も、お父さんの名前は無かった。
 毎日の発表の内、夜の発表には、今日戦死した人の名前が並ぶ。そこに、お父さんの名前が無いことを確認してから寝るのが、この四年の私の日課だった。
 ――全て、あいつらのせい。
 またも、ごおっとエンジンを唸らせて飛んでいく白い巨体を睨み付けながら思う。軍が戦争などというものを始めさえしなければ、お父さんが死の渦に晒されることもなかったのに、と何度思ったことか。
 だが、そう思うたびに、お父さんの力強い言葉と、微笑んだ顔が脳裏にフラッシュバックする。私の頬は、まだあの手の温もりを覚えている。
「おーい、大丈夫か、お嬢さん?」
「うわっ!」
 突然、すぐ近くから声をかけられ、思わず声を上げてしまった。
 声の持ち主から少し距離を取ると、そこにいたのはどこかで見た覚えのある風貌をした紳士だった。背筋がピンと伸びていて、頭には白髪が混じっている。どこで見たのかは、よく思い出せなかった。
「人に声をかけて、うわっと反応されたのは初めてだな」
「す、すみません……」
 にこにこしながらそう言われて、私は慌てて謝る。
 だが、そうはいっても、私のすぐ近くでいきなり声を出されたら、普通びっくりするだろうと思ったが、その言葉はそっと飲み込んでおくことにした。
「えっと、どうかしましたか?」
 取りあえず、声をかけてきたからには用があるのだろうと当たりをつけて、私は紳士に声をかける。
「あー、いや、ね……」
 何故か紳士はその場で腕組みをして考え込みだした。私も、どうしたらいいのか分からないので紳士の答えをただ待つ。結局、紳士の答えが返ってきたのは三分くらい経ってからだった。長い沈黙だった。
「あー、そうそう、この辺りで神社といえば、どこにあるか分かるかい?」
「神社、ですか?」
 神社なら確かにこの町にあるにはある。汽車の駅の近くにある、かなり小さな神社である。だが、それはこの辺りの地域で唯一の神社であり、地元の人ならば知らないはずがない。
「えっと、この辺りに住んでいますか?」
「え? あー、いや、この辺りに住んでいるわけではない……かな」
 紳士は妙に歯切れの悪い答えを返してくる。だがともかく、この紳士はこの辺りに住んでいるわけではないらしい。となると、この場所から汽車の駅の方へ行くのは、道が少々複雑だなということに私はすぐに思い至った。
「では、ご案内します」
「え? いや、何もそこまで……」
 紳士が両手で遠慮の意を示し始めた。だが私も何だか意地になってきたので、思いっきりにこやかな顔を作って、言い放ってやった。
「いいんですよ、これくらい。さあ、行きましょう」
 そう言って私は、紳士に向かって手を伸べた。
 その様子を見ていた紳士は、一瞬驚いた様子で私の手をまじまじと見つめ、ふうと意味ありげに息を吐いた。そして、宙ぶらりんになっている私の手を思いっきりぱしいんと叩いた。
「痛っ!? え、あの、何するんです」
「子供扱いされてる気がしたからね。手を引いてくれなくとも、案内してくれるだけでいいよ」
「あ、ああっと……何か、すみません」
「いやいや、その気持ちだけ受け取っておくよ」
 紳士は爽やかな笑みを浮かべた後、私の案内についてきてくれた。
 紳士は、歩いている途中もずっと笑顔を絶やさなかった。おかげで、いくらか私の心が緩んでいくような気がした。それで初めて、私の心は固まっていたのだと知った。その緩んだ心で、私もいくつか、お父さんとのエピソードをその紳士に話した。その時は、紳士の笑顔がひときわ柔らかなものになっていたように見えたのは、私の気のせいだろうか。
 そんな私の心の状態なんて知る由もなく、紳士は笑顔で、喋り続けた。
「いやね、久々に来たんだけど、街並みが変わってて道が分からなくなっちゃってね」
「そうなんですか。私、ずっとこの町に住んでいますけど、そんなに変わった実感ないですね」
「それは、きっと君がずっとこの町にいるから、ちょっとずつの変化に気付かなかったんだろう。私からしてみれば、大分変わったよ」
 その時、びゅうっと風が巻き起こった。土埃が舞い上がったおかげで、辺りの景色が少しだけ霞む。
「いつだって、そうさ」
 だが、そんな中でも、紳士は言葉を止めていないようだった。土埃のおかげで、彼のことを見ることはできないが、それでも声だけはずっと私の中に入ってくる。
「その状況に慣れてしまった者にとっては軽微なことでも、そうでない者にとっては劇的すぎる変化しか、この世界には起こっていない」
 風が止む。土埃はまだ宙を舞っているが、風の後押しによる勢いは消えた。
 私は紳士の方に目を向ける。
 紳士の目から一つ、つうっと筋が落ちていくところだった。
「うん、ここまで来れば大丈夫そうだ。知っている道に出たよ。ありがとう」
「あ、いえ。えっと――」
 紳士の目から零れ落ちたものについて言おうかどうか迷ったが、結局言わなかった。何となく、今の表情をしている紳士に、無粋な言葉はかけたくなかった。
「それでは、お気をつけください」
「ああ、ありがとう」
 紳士から視線を外し、私の家の方向へ向く。
「君なら、大丈夫だと信じている」
「え?」
 今何と仰ったのですか、と訊こうと振り返ろうとした時、どおんと大きな爆発音が鳴った。空を見ると、空中に一つ、黒い煙がぼんやりと浮かんでいた。
 私の傍で、小さい赤ん坊が泣き叫んでいる。その二人のほかに、ここに人はいない。
 無性に、心の中に焦りが生まれる。
 急いで、家まで走っていった。玄関前には、軍服姿の男の人が一人。
「実は、昨日――」
 その後、その軍服姿の青年が何を語ったのか、私はよく知らない。
 私の五感の全ては、その青年の胸元――ハンカチの上に丁寧に置かれた、焼け焦げた四葉のクローバーの葉のみを捉えていた。

     §

 夕焼けに照らされる帰り道、私とお父さんは途中のコンビニでアイスを買い、二人でそれを食べながら歩いていた。
「ふうー……やっぱり暑いね」
「まあ、夏だからな」
 会話しながらお父さんの方を見ると、お父さんの額からも汗が噴き出している。やはり、何だかんだでお父さんも暑がっているのが目に見えてわかる。まあそれも、この季節とこの気温なら仕方ないか、という感じであった。
 アイスを二人とも食べ終わる頃、丁度私達は家の近くに来ていた。そこで、奇妙な光景に出くわした。
「お、お父さん、何これ……?」
「さ、さあ……何かあったのかな」
 我が家の前には、どやどやと多くの色味の抜けた服を着た人が集団を作ってたむろしていた。其処此処から人の話し声が聞こえてきて、何故こんなに集まっているのかは分からなかった。
「すみません、これは一体、何の騒ぎですか?」
 お父さんが、近くにいた老齢の紳士に問いかける。その紳士は、口周りに少々皺が目立ち、頭には白髪が混じっているものの、背筋はピンと伸び、はきはきと話す、風格漂う人だった。
「さあ、何の騒ぎかは分からん。ただ、数刻前から徐々に集まり始めて、今ではこの騒ぎでな。向こうに行きたくても行けなくなってしまったよ」
 確かに、この密度では中々この集団を越えて向こうへ行こうとは思えないかもしれない。
「少々お待ちください」
 お父さんは白髪混じりの男性にそう言うと、すうっと息を吸い込んだ。
「皆さん! 人が通られます! 道を開けてください!」
 お父さんが大きな声でそう叫ぶと、どやどやと集団が左右に別れ始めた。同時に、紳士が少し慌てた様子を見せ始める。
「ああいや、何もそこまで……」
「いいんですよ、これくらい。さあ、行きましょう」
 そう言って、お父さんは紳士に向かって手を伸べる。紳士はその手を見て苦笑いしながら、「そこまでは」と言って人々の間を歩いていった。見ると、お父さんの顔も少し笑っていた。何故か私には、その顔がきらきらして見えた。
「ああ、やっと帰ってきた!」
 私達の視界から紳士がいなくなったのとほぼ同時に、家の中から一人の青年が出てきた。隣に住んでいる、やたら元気な青年だった。その青年を見て、私は少し困惑した。青年が、見たことのない服を着ていたからだ。いや、正確にはその服自体を見たことはあったが、青年がその服を着ているのを見るのが初めてだった。
「君がその服を着ているということは、つまり――」
「はい。今日は、正式な軍務で来ました」
 有り体に言えば、青年が着ていたのは深い緑色の、軍服であった。彼は、胸元に赤い紙片を抱いていた。それを見たお父さんの顔は、今までに見たことがないくらいに険しいものになった。
「まあ、外で立ち話も何だろう。中で話そうか」
「そう……しましょうか。外では、野次馬もうるさいでしょうし」
「そうだな。あと、その敬語も止めてくれ。普段通りでいいよ」
「いやしかし、正式な軍務ですから、そういうわけにも」
「私がいいと言っているんだから、軍の上層部だって構やしないさ。それに、娘からすれば、そんな丁寧な言葉遣いしかしない君は気持ち悪いだろうからな」
「なっ、気持ち悪いって……というか、僕はあなたに対しては普段も敬語ですよね!?」
「ふふっ、そうだったかな? まあとにかく、過剰な敬語は止めてくれということで」
 最後のその一言を口にした時だけは、お父さんの顔から険しさが薄まっていたように見えた。お父さんは、私の方を一瞥した後、笑顔で家の中に入っていった。その後に、不満そうな表情をした青年が続いて、最後に私が入り、扉をがちゃりと閉めた。
 家の外の雰囲気とは対照的に、家の中は静かなものだった。私がリビングに入ると、キッチンの方からはお母さんが料理をしている音が聞こえてきて、随分早いな、と思った。
 肝心のお父さんと青年は、リビングに置かれた丸テーブルを挟んで向かい合って座っていた。さっきは少し薄まっていたはずの険しさが、お父さんの顔に復活しているのが少し気になった。
「先に、妻に知らせたのかい」
「ええ」
「反応は、どうだった」
「……お察しの通りかと」
「そうか。まあ、妻も、大義がよく分からない、と常日頃からぼやいていたからね」
「……そうですね。それは私も耳にしたことがあります」
 分からない。二人が何について話しているのか、見当がつかない。ただ一つ分かるのは、あの赤い紙片と、「大義」という言葉が組み合わさると、少なくとも過去には録でもないことしか起こっていないということだけで――。
「改めて、申し上げます。こちらを」
「ああ」
 そう言って、お父さんは青年が差し出した赤い紙片を静かに受け取った。
「此度の大義ある戦争の開戦にあたっては、あなたの御力をお貸し頂きたく」
 そう青年が口にした後、しばらくはその場は沈黙で支配された。その間は、キッチンからの母の料理の音だけが私の両耳に届いていた。
 やがて、お父さんが口を開く。
「この戦争に大義があるかなんて分からんし、軍の連中が、人々の心の平穏を得るという正義を携えていると声高々に言われても、私はそのために動こうとは毛頭思わない」
 そこまで言って、お父さんは私の方をちらりと見て、微笑みを浮かべた。そして再び、青年の方へ向き直る。
「だが、私は家族の、その平和のために動くことは惜しまん」
 そこでお父さんは、両手を握り地面につけ、頭を下げた。
「非才なる身の、全力を以って、軍の務めを果たそう」
 お父さんのその言葉が、変な重みを持って私の頭の中に流れ込んでくる。同時に、今までに青年が発した言葉が、私のこめかみに突き刺さる。
「せ、戦争……?」
 気付けば、私の口から自然と言葉は漏れ出していた。その言葉に、お父さんが振り向く。その顔には、やはりさっきと同じような笑みが浮かんでいた。
 ――その笑みが、私には理解できなかった。
「お父さん、戦争、行くの?」
「ああ」
「戦争って……死んじゃうかもしれないのに、怖くない、の?」
「いや」
 恐る恐る発した言葉に、お父さんは力強く答えた。たった二文字だったが、それらは私の心の中心部分にまで、すっと入り込んできた。
「確かに死んでしまう可能性は無いとは言えない。だから、怖くない、なんて言えるわけがない。でもな」
 お父さんの右手が、私の左頬を包む。その手は冷たかったが、温もりに満ちていた。同時に、お父さんは左手でズボンのポケットの中から何かを取り出し、それを私の両目のすぐ前に持ってきた。
「お父さんにはお前もいるし、お前がくれたこれもある」
 私の目の前では、お父さんの左手の指に挟まれたクローバーが揺れる。
「これがあれば、私は自分の道を見失わずに済む」
 だから、とお父さんの右手が左頬から頭へと移る。
「だから、大丈夫だ。お父さんが死ぬことはない」
 そうお父さんが力強く私に言う。
 その時確かに、青年の視線はお父さんの手の中のクローバーを捉えていた。

     §

 ごおおおんと頭上を何かが通り過ぎ、同時に私は落とされた影に包まれた。
 見上げると、白くて大きな飛行機が、遥か前方を目がけて飛んで行っているところだった。
 川のほとりで特にこれといった目的もなく流れる水面を眺めていた私は、しばらくその白い飛行機が飛んでいく様子を眺めていた。何の飾りもなく、ただただ全身が真っ白に染まっている、そんな飛行機だった。
「随分低いところを飛んでるんだな……」
 私のすぐ右隣から、声が漏れる。空を向いていた目をそちらに向けると、私のお父さんが呆れた表情で溜息を吐いているところだった。
「え、低いところを飛んでるって、何で?」
「……さあ、それはよく分からないな」
 お父さんは少し顔をしかめて、目を細めて小さくなっていく飛行機を眺めていた。
「――もう、そんな時期なのかもしれんな」
 小さな声で、だがはっきりと、お父さんがそう言ったのを私は聞き逃さなかった。そう言ったお父さんの顔が、酷く歪められていることも見逃さなかった。私がそんなお父さんの顔をじっと見つめていると、お父さんの顔がふっとこちらを向いた。
「ん、どうかしたか?」
 そう言ったお父さんの表情はいつも通りのものだった。お父さんの言葉にふるふると首を振ると、私は再び前を向いて歩き始めようとする。
 その時、目の前をばさあっと何かが横切った。思わず目を瞑って後退ると、ぽんとお父さんの両手が私の両肩にのる。丁度、後退る私をお父さんが受け止めた格好だ。
「今度はどうしたんだ?」
 頭の上からはかなり暢気な声が降ってくる。
「い、いや、今何か、飛んで……」
 そう言いながら辺りを見回す。ボロボロのブロック塀の中にあって、それはすぐに見つかった。私とお父さんの周りを、小さな青い鳥がぐるぐると羽根をばたつかせながら回っていたのだ。
「わ、綺麗な羽根……!」
 思わず口に出てしまった。その鳥が一つ羽根を動かすたびに、私はその鳥に見入ってしまうようだった。
「こんな鳥、この周辺にいたっけな?」
 お父さんはといえば、何か真剣な顔をして考え込んでいるようだった。
 私とお父さんがその場から動かないままでいると、やがてその青い鳥は私達の周りをぐるぐる飛ぶのを止めて、ゆったりと、私達の目の前で五秒ほど羽根をばたつかせた後、私の左耳のすぐ近くを通り過ぎていった。
 青い鳥のその動作に振り向くと、そこには何もいなかった。茶色くなって垂れ下がった葉と、穴だらけの無機質なブロック塀だけが視界を埋め尽くす。
「あれ……?」
 辺りをきょろきょろと見回してみても、結果は変わらない。あの鳥は、私の目の前から姿を消してしまった。羽根が綺麗だったから、もう少し見ていたかったが、残念だ。
 突如、その場をふわりと柔らかい風が包み込む。胸まで伸ばした私の髪も、ふわふわと揺られた。目の前を、幾つかの塵と化した枯草が舞う。
 舞い上がりそうになる髪を右手で抑えながら、何となく視線を下にずらす。すると、一本の草が私の目に入った。
「あっ!」
 思わず私は膝を折り、その草を手に取る。ぷつん、という茎の音が確かに私の耳に届いた。
「ん、何だ何だ。今度はどうした?」
 そう聞いてくるお父さんに、私はつい今手に取った草を見せつける。
「見て、四葉のクローバー!」
 お父さんは、私の手の中にあるものをしげしげと見てから、私と目を合わせてにこりと微笑んだ。
「へえ、こんな場所で珍しいな。しかも、葉が随分深い色をしている。きっと、普通の四葉のクローバーよりもずっと幸せになれるに違いないぞ」
「え、そうかな? やった!」
 そう私が喜びの声を上げるのと同時に、遠くの方から、どおんという音が響いてきた。その音が聞こえた瞬間、お父さんの首がぐりんと勢いよく回り、その音が聞こえてきた方向へお父さんの両目が向けられる。その表情は、さっき白い飛行機を見つめていた時よりも苦しそうだった。
「――やはり、そうなのか。そうだというのか……」
 お父さんの口から漏れてきた言葉も、苦しさを帯びていて、何だか私の胸までぎゅうっとなりそうで、何となく恐ろしかった。
 私は、自分の手の中のものと、お父さんの顔とを見比べて、お父さんの目の前にずいっとそれを近づける。お父さんは私のその行動に軽くびっくりしていた。
「これ、お父さんにあげる!」
「え?」
 その時のお父さんは、それこそ目が点になったような表情をしていた。
「だって、お父さん、何か辛そうな顔してたよ?」
 この私の言葉に、お父さんはまたも苦しそうな表情を一瞬だけ見せた。でもそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはその顔は笑顔になっていた。
「そ、そうか? お父さん自身は何も辛いことなんてないんだけど」
 そう言われても、私は譲らなかった。
「いいの! これ、あげるの!」
 大きな声で言い張る私に、お父さんは案外簡単に折れた。その時の顔は、満面の笑みだった。
「ふふっ、そうか。ならもらっちゃおうかな」
「うん、あげる! これで、お父さんが幸せになれるね!」
 その言葉に、お父さんは何も答えなかった。
 ただ、四葉のクローバーを手に、私の頭をゆっくりと、ふんわりと、撫でてくれるだけだった。



テーマ「深碧」

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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