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マーチング・アウト

   1

 太陽は、山の彼方に沈んでしまっても、いずれまた昇ってくる。
 その太陽の下で、きらきらとしている波は、何度も何度も、寄せては返す。
 ――だが、あの黒い波は。
 あの黒い波だけは、何の前触れもなく押し寄せてきた。そして、何の前触れもなく、返っていった。
 それきり、あの黒い波が押し寄せてくることはなく。
 そのことに、寂しさではなく、強い虚しさを覚えたのは何故だろう。
 そしてまた、目の前には、大分昔に沈んだ太陽が昇ってきて、光を、光を――。

 がんっ。
「うっ……ぐお……!」
 声にならない声を発しながら、僕は目覚める。額の片隅が、静かに僕に痛みを送ってきていた。
 何事かと瞼を上げれば、そこにあったのは絨毯の赤い毛。その状況にしばらく混乱したまま絨毯の上で寝そべる。起き上がる頃には、ああベッドから落ちたのだなと、大体を把握できていた。
 夏の熱帯夜で大量の寝汗をかいていたからだろう、着ているパジャマはぐっしょりと濡れていた。それを脱ぎ捨て、手近なところに掛けてあったタオルを引っ掴んで体を拭く。だがまあ、その程度では汗は拭けても、体中にねっとりと纏わりつく気持ち悪さは消えてくれなかった。肩も、何となく重い。
「ふう、シャワーでも浴びるか……」
 何の気なしにそう呟いて、僕は箪笥から適当な着替えを取り出してシャワールームへと向かうことにした。部屋を出ると、隣の部屋のドアが埃を被っていたが、敢えてそれを無視する。
 それにしても、ベッドから重力に任せて落下して、結構大きな音がしたはずだが、それに誰も何の反応も示さないなんてのんきな家だな、と感じる。誰か一人くらい僕の部屋の扉を叩いてもいいだろうに、と思う。
 ――まあ、それは無理な話か。
 前は、父がしょっちゅうベッドから落ちては、母が父の部屋に大丈夫かと言いながら駆けつける、というのが我が家の日常茶飯事の光景として繰り返されていた。そのうち、あまりにも頻繁だったものだから誰も気にしなくなっていって、父だけがそれを寂しがっていたのはよく覚えている。一度染みついた習慣は中々抜けないものとはよく言うが、我が家では人がベッドから落ちたくらいでは誰も反応しないのは当たり前のようだ。
 考え事をしながら階段を下りていく。天窓からは白い雲しか見えない。ああ、今日は曇りか、とぼんやり考えながら、風呂場に入る。途中、キッチンから物音がしたから、母はもう起きているようだった。
 風呂場で何も考えずに無心でシャワーを頭から被る。ひとしきり体を濡らしたところで、ボディーソープを右手に盛る。
「あっ」
 そこで僕は、盛られたボディーソープを見つめながら固まった。昨日の夜も普通に風呂には入った。その状態で、わざわざ今体を洗う必要があるのか。
 しばらく考え込んだところで、まあいいかとボディーソープを体に擦りつける。時間がないわけではないので、洗髪もしてきれいさっぱりしてから家を出ることにしよう、と今日の朝の方針を固める。まあ、時間がたっぷりあるというわけでもないので、さっくり済ませることにした。
 十分ほどで全てを終わらせて風呂場を出る。風呂場に入る前の様子からして、母はもう朝食の準備を終わらせただろうか、と思いながらリビングへ入りキッチンを見る。そこにいたのは、三年前、つまり僕が高校を卒業した年に生まれた妹だけだった。十八も年の離れた妹など、生まれた当時はかなり不思議な感じがしていたものだが、今となってはもう慣れたもので、最近では母よりも僕が妹をあやすことの方が多いくらいであった。
「あ、にー!」
 僕を見つけるやいなや、妹はきゃっきゃと両手を打ち鳴らす。僕が近づくと、表情がさらにくしゃっとなってかわいい。
 一瞬、妹の表情が満面の笑みから不思議なものを見つけたようなものへと変わる。次の瞬間には元の満面の笑みに戻っていたが、僕は何となく気になって妹に訊いてみる。
「ねえ、さっき、どうしたの?」
「えー?」
「何か見つけた、みたいじゃなかった?」
 僕のその言葉に、妹はまたも表情を変化させた。先ほどと同じ、不思議なものを見るような表情だ。よく見ると、妹はその顔で僕の後ろに視線を走らせているようだった。
「どうしたの?」
 もう一度、訊いてみる。んーとね、と妹はつっかえつっかえ話し始めた。
「まーごがいうよー?」
 そう言いながら、妹が僕の後ろの方を指差す。振り向いてみるが、そこには何もなかった。もう一度妹の方に向くと、妹は首を傾けながらもう一度呟いた。
「まーご、いえれたんれしょー?」
 その言葉に僕が首を捻っていると、とん、と足音が聞こえた。その音は階段をゆったりと降りてくる。
 がちゃりとリビングのドアが開けられた。そこに立っていたのは、懐にフォトフレームに包まれた一枚の写真を抱えた、母だった。僕は、その写真を見て思わず顔をしかめる。後ろからは、妹の「うー?」という声が聞こえた。
「また、その写真持ってきたんだ……」
「うん……一緒に朝ご飯、食べようかと思って」
「一緒に朝ご飯って……」
 僕は溢れてきそうな感情の波を何とか押し留めながら、努めて冷静な調子で母に語りかける。
「いや、もう、死んだんだよ?」
 そう言った僕に、母は心底不思議そうに言葉を返してくる。
「死んだとしても、ここにいるもの」
 そう言って、母は自分の左肩を撫でる。その動作が、僕にはとても悍ましいもののように見えて、頭の中が一瞬でぐちゃぐちゃになる。一体、目の前の女性は何を言っているのだろうかと。
「ごめん、今日の朝ごはんはいらないや。時間もないから」
 僕は思わずそう言って、母の返事も聞かずに階段を駆け上がった。二階の自分の部屋へ戻り、鞄を引っ掴んで再び階段を下りる。玄関に向かう途中でちらりとリビングの方を見ると、母が朝食が盛られた器が並ぶリビングのテーブルに、さきほどの写真を立て掛けているところだった。
 その行動に寒気を感じた僕は、なにも見なかった振りをして足早に玄関へ向かう。そこには、ぽつんと僕の靴だけが二足、置かれているだけだった。急いで靴を履き、乱暴に玄関のドアを開け放った。相変わらず、陽の光は雲に全て遮られたままだった。そんな景色を眺めている間に、僕のすぐ後ろではドアがゆったりと自動で閉まる。
 ――刹那、肩にビキィっと痛みが走った。

   2

「お、おーい」
 正午の十五分過ぎ、大学の構内を歩いていると、背後から声をかけられた。振り向くと、同じ高校出身で、同じサークルに所属している同期だった。
「なあ、一緒に昼飯食おうぜ」
「おう、いいよ」
 特に断る理由もなかったので了承し、そのまま二人で学食に向かって歩き始めた。
「……なあ、お前さ」
 歩き始めてすぐ、声をかけられた。
「ん、どうした」
「お前さ、最近、元気無くないか?」
 あまりに唐突だったので、思わず一瞬固まってしまった。
「え、そう見える?」
「見える、というか……何か、時々すごい溜息吐いてるし、お前」
 ――実際、その通りかもしれなかった。
 溜息は、確かに吐いているかもしれない。昔よりは、元気がないのかもしれない。母が、写真をテーブルの上にわざわざ持ってきてご飯を食べるようになったこと、原因は間違いなくそれだった。もうあの習慣も、どれほど続いているのか、数えたくなくなるし、その光景を見る度に変わらぬ悍ましさを感じる。
「……何か、変なこと言っちまったか。悪い」
 僕がずっと黙っているのを気にしたのか、そんなことを言ってくる。別にいいよと返しつつ、何とはなしに前方に注意を向けると、そこには学食の建物があった。もうそんなに歩いていたとは、全然気付かなかった。
 自然と、僕はそこで足を止めてしまった。
「ん、どうした。早く行こうぜ」
 その場で動こうとしない僕に、不思議そうな声が放たれる。実際、彼に視線を合わせると、彼はかなり不思議そうな表情をしていた。だが、彼はすぐに、何か思い当たった様子で僕の方へ歩み寄ってきた。
「あーっと……そうか、例の肩凝り、か?」
 僕のすぐ傍まで来た彼は、周りに声が漏れないように小さな音量で、学食入口の自動ドアを見ながら僕に声をかけた。
「うん、まあ……今朝、久々に強烈なのがきて、さ」
 正確には、肩凝りというよりもただの肩の痛みだった。ドアをくぐる度、肩に走る謎の痛み。普段は大した痛みではないので、病院などへは行ってはいない。説明が面倒なので、友達にはドアをくぐると肩が凝る、と説明した。もちろん、皆には変な顔をされたが、面倒なのでそれで押し通した。僕にとっては、最早習慣となった肩の痛みだった。
 だが、今朝家を出た時の、玄関ドアを出た時の痛みは久々に強烈なものだったので、何となく自動ドアというものに緊張してしまったのだ。家を出て、大学まで自転車で来て、講義室に入るまでにはくぐったドアは開けっ放しになっていたものばかりだったので、すっかり忘れていた。
「長いな、それも。もう半年くらいにはなるか?」
「ん……そうかもしれない」
 そんなの、数えてもいなかった。僕にとっては最早日常生活の一部だったから。しかし、そうか、もう半年か。
「まあ、あそこ行きたくないってんなら別のところでもいいけど」
「いや、いい。いつもはそんなに痛くないから、大丈夫……なはず」
「そう?」
 僕のことを気にしながらも、彼は学食の方へ歩いていく。僕も、そんな彼に続いて行く。
 彼が先に入り、僕がその後に学食の建物の中へ入る。僕のすぐ後ろで、自動ドアがピシャリと閉まった。その瞬間は思わず体に力が入ってしまったが、痛みらしき痛みは襲ってこない。
「えーっと……大丈夫そうか?」
 気にした様子の彼が僕に声をかけてくる。
「いや、だから、普通はそんなに痛くないんだって言って――」
 刹那、ぴきっと肩に痛みが走る。もちろん、今朝家を出た時に感じたものよりはかなり軽い痛みだった。だが、その痛みで僕は言葉を止めてしまい、それで彼の表情が激変した。
「えっ、ちょっ、お前、本当に大丈夫か?」
「い、いや、確かに少しはあれだったけど、でも全然――」
「でもお前、それ半年くらい続いてんだろ。いい加減、病院行くレベルじゃねえ?」
「いやいや、大丈夫だから。それよりも、今は昼飯食べようぜ、な?」
「え、でも――」
「いいからいいから。あー、お腹空いたなあ」
 結局その後は、昼飯を食べながら彼を宥めることに終始した。満腹になるだけの量は食べたはずだったが、何故だろうな、すごい疲れた。

   3

 右手には、家の鍵が握り込まれている。
 最初はひんやりしていたそれも、時間が経てば温かくなっており、おおよそ期待した役割を果たしてはくれない状態になっていた。
「ふう、暑い……」
 朝の内は雲で一杯だった空も、昼過ぎには見違えるほどの澄み渡る青に染まっていた。同時に気温も上昇し始め、最終的には三十五度を超えた。所謂猛暑日というやつだ。あの朝の天気でも、こんなことになり得るのだから夏というやつは侮れない。
 当然、僕が大学から帰る頃にはアスファルトはじりりと熱されていて、その上を歩かなければならないと思うと憂鬱になったのが大学の正門前でのこと。
 少しでも冷たさが欲しくて鞄から鍵を取り出し、金属の部分がひんやりしていて少しだけほっとしたのがついさっき。もうすでに、それはぬくぬくとしていて握っていても何も得られない無用の産物と化していた。
「ふう……」
 ぱたぱたと右手で煽りながらふと目線を上げると、そこにはひたすらの青。時間は既に夕方、冬ならば綺麗な夕焼けが見えるであろう頃である。だが今は真夏で、夕焼けを見せるのはもう少し先だと言わんばかりに空が全体的にぎらぎらしていて。そんな空の下をゆったり歩いていてもただただ体力が削られるばかりで。
「早く帰るか」
 そこからは少し早歩きで家路を辿った。胸と背中から汗が噴き出してきたが、そんなものは気にしない。そうしていると、数分もしない内に我が家が見えてきた。
 変わらず右手に握り込まれていた家の鍵を、そのまま玄関ドアの鍵穴に突っ込む。ああ、早く冷房か扇風機の風に当たりたい。
 ドアを乱暴に開け放ち、家の中へ。玄関で靴を脱ぎ捨てると同時に、後ろでドアががちゃりと閉まる。同時に振り向き、内側の鍵を捻る。
 その時、ビキッと肩に痛みが走る。
「ぐっ……」
 昼に学食で感じたものより少し重く、声が漏れてしまった。それでも、やはり今朝のものよりは軽い。
 あまり気にせずにリビングへ入ると、とてとてと妹が僕の方にやってくる。
「にー、どーしたのー?」
「……え?」
 いつもなら僕が入るときゃっきゃと喜ぶ妹だったので、思わず変な声を出してしまった。そんな僕に、妹は今朝と同じような不思議そうな視線を向けてくる。
「にー、つあそーなかおしてうー!」
 その妹の言葉に、どう答えたものかと考え込んでしまう。こんな幼い子供に、今の僕の状況をそのまま説明するわけにもいかないだろう。妹には、くしゃっと無邪気に笑っていてほしいから、少しでも心配させるようなことは言いたくなかった。
 妹は、変わらず純粋な瞳でまっすぐ見つめてくる。どうしたものかと思い悩んでいると、妹がふっと視線を外した。何とはなしに、妹が視線を外した方を僕も見る。それは、リビングのテーブルの方だった。
 そのテーブルの前には、一つの大きなソファが置かれている。そこに、母が座っていた。母は、テーブルの上を見つめている、ように見えた。――そこには、今朝も抱えていたあの写真が置かれていた。
「母さん、また、そんなの……」
 言いながら、僕は母の方へ近づく。母の視線を追うと、テーブルの上の写真が目に入る。黒い衣に身を覆い、無表情とも思えるような目つきをカメラに向けている。その写真の中の目を、真剣な様子で見つめている母。
 ――これを半年も続けているのを見る方の気持ちにもなって欲しい。
「なあ、母さん……」
「今日ね」
 僕の言葉が聞こえているのかいないのか、母さんが口を開く。
「今日ね、一緒にご飯を食べたときの顔が、とても可愛らしかったの。とてもおいしいって、そう言ってくれた。とても嬉しかったのよ」
 ――何を。
「また一緒に、行きたいところが出来ちゃった。お昼にね、テレビでやってたんだけど、ひまわりがとても綺麗なんだって」
 ――何を言ってるんだ。
「今日は、夕方からずっとソファで寝ちゃってたの。その寝顔でとても可愛くって、つんつんしたくなっちゃった」
「母さん!」
 思わず、大声を出してしまう。こんなのを毎日毎日見せられて、僕が正気でいる方がおかしいのか。こんな状況で正気を保っていると思えている僕の心は、本当に正気なのだろうか。
 ――なるほど確かに、大学で彼が言っていた。確かに今の僕に、元気がある要素はないのかもしれない。
「母さん、もう、死んだんだよ……!」
 絞り出すように、声を出す。
「何を、言ってるの?」
「死んだんだよ、もう! 半年も前に!」
「ねえちょっと……大丈夫?」
 さも心配そうな目で、母が僕を見つめてくる。その目には一点の曇りもなくて、それが却って僕の胸を締め付けた。
「ねえ、何かあったなら母さんに……」
「認めろよ! もう、死んだんだ! この家にはもういないんだよ!」
 崩れ落ちるかのように、僕は力なくその場に座り込んだ。そんな僕の目の前で、母はただ驚愕の表情を浮かべているだけだった。
「ね、ねえ、聞いて……」
「母さんだって、見ただろ、死んでるの!」
 あの光景は、今では思い出したくない。母が静かに泣いている横で、妹がぐずっていて。その二人の温度差に、僕は恐ろしさすら感じた。もちろん、妹に関してはその態度は仕方ないのだと、理性ではわかっていたのだが。
「ま、まさか……嘘……!」
 母が両手で顔を覆う。僕は先ほどの言葉を後悔した。あの光景は、今の母のバランスを崩すには十分だったかもしれないから。
「ごめん……ごめんね」
 そのまま、母は何も言わずにリビングを出て、階段を駆け上がっていった。目尻から、僅かに雫が零れ出ているようにも見えた。
「あー、まーごにーにのってうー!」
 リビングには、妹の無邪気な声だけが響いた。

   4

 その後、母は十時になっても下には降りてこなかった。僕も、二階に上がる気力が出ず、だらだらとリビングで過ごしてしまった。
 結局、十時から何十分か経った頃に母は降りてきた。正確な時間は分からない。僕が時計を見ることをしなかったからだ。母が二階に上がってから降りてくるまでに、妹はリビングのソファで三回昼寝をした。それぞれの睡眠時間は非常に短かった。
 母はキッチンに入って無言で夕飯の準備をした。本来は僕は手伝うべきなのだろうが、その気力は起きなかった。母も何も言ってこなかったので、結局僕はリビングでだらだらし続けた。
「できたよ、夜ご飯……」
 極めて控えめなボリュームの母の声が、その部屋に広がる。一番に反応したのは、妹だった。
「ごはんー!」
 あんな元気があればいいよな、と思いながら僕も立ち上がる。ダイニングテーブルの方を見ると、そこには確かに料理が盛られた器や皿が並んでいたが、飲み物が入ったコップは無かった。自分でやるか、とキッチンに入り、冷蔵庫から麦茶のペットボトルと、食器棚から適当なコップを取り出し、注ぐ。その時、ガスコンロの脇に刺身の写真がパッケージの箱が置かれているのが見えたが、それを見なかったことにしてダイニングテーブルに戻る。
 その後すぐに食事は始まったが、誰も何も喋らない、無言で冷たいものだった。あれほどはしゃいでいた妹も、いざ食べるとなると黙々と食べる性格なので、本当に言葉のないものになってしまった。
 その雰囲気に堪えられず、僕は何でもいいからと話題を探して声を出した。
「実はさ、最近何故か分からないけど、ドアをくぐると肩が凝るっていうよく分かんない凝り方をしててさ……」
 母はさして興味を示していない様子だった。興味を示したのは、予想外の方だった。
「にー、かたいたいたいなのー?」
 妹が、口の周りを汚しながら僕に尋ねてくる。僕は慌ててティッシュを取り出し、妹の口の周りをごしごしと拭く。
「そうなんだ、最近、突然ね」
 僕の怒涛のティッシュによる掃除が終わり、口が解放された妹は、僕の肩の話題に対する返事ではなく、先ほどの僕の行動に対する抗議の声を上げた。
「わーうー、にー、いたいー」
「口の周りが汚れてたから、拭いたんだよ」
「そっか、あいがとー」
 そう言うと、妹はフォークを握る。またすぐに汚れるな、と思っていたら、妹の目線は料理ではなく、僕の首元へと向かっていた。
「ん、どうしたの?」
 妹は僕の問いかけを気にかけずに、僕の首元へと目線を向けたまま、続けて言葉を口にした。
「んー、まーごもたべうのー?」
 その言葉を聞いた瞬間、母が箸を床へと落とした。見ると、左手に茶碗を持ったまま、固まっている。
「まーご、にーにのうのがいーのー?」
 そんな母の変化に気付くこともなく、妹は言葉を続けた。その時、母ががんっと勢いよく茶碗をテーブルに置くと、つかつかと僕と妹の方へ近づいてきた。その顔には、驚愕と、不安とが入り混じったような、表情とも呼べない「モノ」が浮かんでいるように見えた。よく僕の首元を観察した母は、その場で携帯からどこかへ電話をかけ、二言三言交わすと電話を切った。
 そうして、僕と妹の手首をそれぞれ掴む。
「え、ちょっ……母さん?」
「行きましょう」
「え、行くって、どこに?」
「神社」
「……は?」
「いいから」
 そう言って、有無を言わせない様子で母は僕と妹を引き連れ、食べている途中の夕飯を片付けることもせず、玄関へ向かわせられた。
 急いで靴を履き、外へ出る。がちゃりと母が勢いよく玄関のドアを閉める。
 ――刹那、今までには考えられないほどの痛みが僕の肩を襲った。
「急ぎましょう」
 そう言った母と、状況をまるで分っていない僕と妹とで、車に乗り込む。急ぎましょうと言った母の目が、理性的で、後悔と焦りが混じっているように見えたのが印象的だった。
 神社へはすぐに着いた。元々距離が近いのもあったが、何よりも母がかなりスピードを出して運転したのが大きいだろう。
 神社に着くと、すぐに中から神主さんが出てきた。僕を一瞥した後、彼は僕の母に寄ってきた。
「なるほど、これは確かに悪い。なぜここまで放っておいたのです」
「すみません、本当にすみません……!」
「まあ、いいです。君、来なさい」
 有無を言わせない表情で、神主さんが僕を拝殿の中へ迎える。僕が入ると、そのすぐ後ろで神主さんが扉を閉める。やはり、肩が少し痛んだ。
 何が何やら分からないが、僕は拝殿の中の部屋の中央に座らせられた。すると、神主さんがお祓いで使うような、白いふわふわした紙がついた棒状のものを持ってきて、それを僕の頭の上で二、三度振った。その後、何やら唱え始めた。
「いっ、痛っ……!」
「どうも、抵抗力があるとは。驚きだ。だが、それだけだ。安心しなさい、私に任せていればすぐにでも終わらせよう」
 言いながら、神主さんはさらに何か唱える。途中、何度か白い棒を頭の上で振る。神主さんが唱えれば唱えるほど、白い棒を振れば振るほど、僕の肩の痛みが増していくように思えた。
「いっ、うっ、ああっ……!」
 何度目かの呻き声を僕が発した時、母の叫び声が外から聞こえてきた。
「あなたはもうこの世にいちゃいけないのよ! 目の前で苦しんでるのが、見えないのっ!?」
 その声が僕の耳に聞こえてきた時、ふっと肩の痛みが和らいだ、気がした。それに続けて、神主さんも、静かに声を出す。
「ふむ。確かに、抵抗すればするほど、彼が苦しむのは目に見えている。あなたにまだ彼を思う気持ちがあるなら、すぐにでも止めなさい。そして、居るべき場所へ還るのです」
 その言葉が響いたとき、僕の心がふっと軽くなり、肩の痛みがゆっくりと消え、同時に僕の意識も霧散した。

   5

「お、おーい」
 夕方の太陽がじりじりと道路を照らす大学からの帰り道、背後から声をかけられる。振り向くと、声をかけてきたのは同じサークルに所属する、昨日昼飯を一緒に食べた彼だった。
「お、うぃーっす」
「……お?」
 何やら、彼が好奇心の目線を向けてきた。
「何か、いいことあった?」
 その後に彼が続けた言葉の意味は全く分からなかったが。
「え、は? どこを見てそう思った?」
「ああ、いや……何となく、なんだけどな。あ、コンビニ行っていい?」
「え、あ、おう」
 脈絡なさ過ぎんだろ、と思いながらも、彼に続いてコンビニに入る。入った後、僕のすぐ後ろで自動ドアがピシャリと閉まった。
「……えっと、大丈夫?」
 入口のすぐ傍にいた彼が、心配そうに僕に言う。
「え、何が?」
「いや、ドアくぐると肩があれなんだろ?」
「え、あー……そういえば、何もなかったな、今」
 言われてそのことに気付いたくらいだ。今日一日普通に生活してきたが、ドアをくぐっても肩に痛みを感じていない。
「な、何も……? ということはお前、半年も続いたそれから、遂に解放されたのか!」
「い、いや、解放って……」
 別に僕は囚われてもいないぞ、とは言えなかった。彼もきっと、心配してくれてたんだな。
「あ、半年っていえばさ……」
 その無邪気なままの表情で、彼は僕に尋ねる。
「半年ぶりに、お前ん家行ってもいい?」
「え、今から? 何で?」
「いや、別に今からじゃなくていいんだけどさ……」
 その無邪気なままの表情で、彼は続ける。
「お前ん家で飼ってる、お前によく懐いてたあの黒猫に会いたいなあって思って。何だっけ名前、みゃーご、だっけ? 面白い名前だよなあ、いつ聞いても」
 そのみゃーごってのを提案したのはお前だろ、と言い放つ気力は無かった。
 外を見ると、大分昔に昇った太陽が、沈んでゆく途中で、光を、光を――。

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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