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夏の栞


「こんなところにチョコチップが落ちてる」
 そう言ってヨハンが拾い上げたテーブル上の小さな塊は、よく見てみると別の物だった。
「先輩、それスイカの種ですよ」
「本当だ。なんだ、スイカの種かよ」
 ちぇ、と小さく舌打ちをしてそれを近くのゴミ箱に捨てると、その様子を見ていたソンが再び「先輩」と声をかけた。
「チョコチップだったら食べてたんですか?」
 …………
 
「こんな原稿、どこに出すの」
 八月中旬。窓を閉めていても外からはセミの鳴き声が耳に入ってくる。
 溢れるほどの時間を持て余していた僕は、なんとなく兄の部屋に入って、彼の机の上に無造作に置かれている紙になんとなく目を落としていた。
 兄はベッドの上で転がっていたけれど、瞼はしっかり開けて僕の行動を見ているようだった。そして僕の問いかけに少し考えているようだった。
「……どこにも出さない。閃いたと思ったけど、くだらなすぎたから」
「ふうん」
「ていうか、勝手に見るな」
 だるそうに近付いてきては僕の手にあった原稿用紙を取り上げ、兄はまたベッドに転がってしまう。
「せっかく何の用事もないんだから、どこか出かければ」
「何の用事もない日くらい家にいさせてくれよ」
 それから兄は、僕が声をかけても何の返事も返してくれなくなった。
 確かに僕の兄――佑樹という名前だ――は八月に入ってから昨日まで毎日何かしらの事情で帰りが遅かった。恐らくアルバイトか何かだろう。
 そんな兄の趣味と言えば、散らかった机に向かって自分の創作小説を原稿用紙に書きなぐることで、形にまとまったものはどこかの文学賞に応募したりもしているようだった。背中を丸めてペンを走らせる兄は僕から見てとても生き生きしていたけれど、そんな趣味に打ち込む元気すらも残っていないらしい。
 いつも兄の方からちょっかいをかけてくるくらいなのに、こんなにぐったりしているということは相当疲れているようなので、僕は素直に部屋を出ようとした。
 けれども、たまたま目に入った物が気になった。それは机上のペン入れの中で、他の鉛筆たちに隠れるように控えめに立っていた。
 
 ピンク色の、可愛らしい動物のキャラクターが描かれたボールペン。年季が入っていて、ところどころ黒ずんでいる。
 興味本位でそれを手に取り、近くにあった原稿用紙に何か書こうとしたけれど、紙が小さく凹んだだけで色は出なかった。
「あれ、このペン。もうインクが出ないみたいだけど?」
「あぁ、それは今使ってないから。元の場所に戻せ」
 僕を無視していた兄が、こちらを見た瞬間慌てた様子でそう言った。
「こんな女物のボールペン、持ってたんだ。どこで貰ったの?」
 しかし僕がそんな疑問を投げかけると、彼は神妙な面持ちでいきなり長々と話を始めた。
 別に僕がしつこく問い詰めたわけでも、兄がうっかり墓穴を掘ったわけでもない。兄は突然自らの過去を露わにしたのだ。
 
 要約すると、これは中学時代に隣の席だった女の子が、ボールペンを忘れた兄に貸してくれた物らしい。その子が実は兄の片思い相手で、借りたままずっと持っていた、ということだった。そしてこのボールペンのインクが無くなった時に告白しよう、なんて思っていたけれど、それが実現したときには既にその女の子には彼氏がいたという内容だった。
 僕は少しずつ弱弱しい声色になっていく兄の様子とその口から聞かされる内容に何度も吹き出しそうになったが、どうにか無表情でその話を聞いていた。
 
「なるほど。このボールペンのインクとともに兄さんの恋も消え去ってしまったってわけね」
 いつもは僕の言葉ひとつひとつに何かと文句を返してくる兄が一言も言い返してこない。
 どうやら当時のことを思い出してセンチメンタルな気分の波にのまれてしまっているみたいだ。
「……どうしてこの話を僕にしてくれたの」
「知らない。暑さと疲れで頭がおかしくなってるんだと思う」
「そうだよねえ。まさか兄さんの口からこんな甘酸っぱい話が聞けるとはねえ」
 また兄は黙ってしまったので、なんとか僕は励まそうと口を開いた。
「それ、小説にすればいいじゃん」
「馬鹿。しないよ。もういいから、どっか行って」
 
 結局は強引に部屋を追い出され、廊下に出た瞬間夏の暑さに引き戻される。
 そこで僕は母親からお使いを頼まれていたことを思い出した。呑気に兄の部屋で地味な恋バナなど聞いている場合ではなかったのだ。
 急いで出かける準備を整え、少し小さくなってしまったサンダルになんとか足を入れる。
 
 替え芯でも買いに行ってあげようか、なんて思いながら、僕は少し笑ってしまった。
 
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第三十七回さらし文学賞 | CM(1) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:36

non fiction


 物書きには2種類の人間がいる。
 
 自分の理想を小説の中で繰り広げる者と、自分を小説内でさらけ出すことでしか書けない者だ。
 
 私は明らかに後者の人間だ。ファンタジーを書けば妖精がぎこちなく宙を舞い、ミステリーを書けば探偵が首をかしげながら謎解きに臨む。
 私には、自身が経験したことのない物語が書けなかった。空想の物語が思いつかないわけではないのに、不思議と筆は進まず、ようやっと書き上がったものも読むに堪えうる出来ではなかった。
 
 
「小説家としては大いに欠陥品だね、君」
 
 部長は悠々と机に腰掛け、外国人のように芝居がかった仕草で肩をすくめた。部室には私と部長しかいないから、マナーの悪さを咎める人もいない。端の欠けた机は頑丈さだけが取り柄だから、細身の部長が乗ったところでびくともしなかった。
 
「別に、得意なジャンルを書けば良いだけの話ですから」
「そうはいっても、小説を書くのにフィクションが書けないとは、矛盾ではないかね」
「うるさいなあ」
「うるさいとはなんだね、先輩に向かって」
 
 私が文藝同好会に入部したとき、部長は既に部長ではなかった。数代前には実際に部長をしていたらしいが、その座を退いてからも周囲は部長と呼ぶのを辞めなかったらしい。部長が留年の末院生となり、彼女を名前で呼ぶ先輩がいなくなった今、私もふと彼女の本名が思い出せなくなる。
 そもそも、同好会のトップといえば会長だろう。何故彼女だけ部長と呼ばれているのだろうか。
 
「君の作品はね、面白いさ。そこは評価しよう」
「はあ、ありがとうございます」
「君のどこまでもリアリティを追求した小説は、私には書けんものだからな。自身の生々しい感情を書いているだけあって、体温があるのだよ。非常に好ましく想うよ。だがね」
 
 もう7月に入ったというのに、窓の外ではしとしとと雨が止まない。湿度を上げてまわるかのように降っては止み、降っては止みを繰り返す雨の鬱陶しさに、少しイライラした。
 
「君、恋を知らんだろう」
「別に良いでしょう」
「いかんな。恋はいかなる物語にもつきものだというのに」
「私の物語に、恋はつきものではありませんから」
「そんなことはないさ。君、恋とは生きている限り避けては通れんものだよ。なんせ遺伝子が恋をしろと叫んでいるのだからな!」
 
 狭い部室でクルクルと舞い、軋む音だけは立派なソファに向こうずねをぶつけた部長は、低く呻いてうずくまった。酔っ払いと見紛うような痴態だが、この人は常に自分に酔っているから、あながち間違いでもない。
  涙目になった部長に軽く溜息をついて、右手を差し出す。容赦なく体重をかけて立ち上がり、部長はぱんぱんとスカートの埃を払った。そろそろ大掃除をしないと、最近この部屋は少し埃っぽい。クーラーをつけっぱなしで、窓を開ける機会が減ったからだろうか。
 我々はなんのために生きているのだと思う、と何事もなかったかのように言葉が続けられた。
 
「生物とは遺伝子を後世に繋げるためにある、とかの人は言った。おかしいとは思わんかね。我々の肉体が遺伝子の箱船だというのなら、何故惚れた腫れたの面倒なプロセスを踏まねば子作りができんのだ? 数多の他種同様、発情期に強そうな相手を捕まえて交尾すれば良いではないか」
「やろうと思えば、恋愛感情抜きだっていくらでも」
「野暮な茶々は止せ。要するにだな。人間とは、恋愛感情などというあやふやなもので子孫を残そうとするおかしな生物なのだよ。見目が悪く、屈強な肉体も持たないものであっても、伴侶を持ち子をなすことが出来る」
 
 おかしいとは思わんかね。部長は繰り返した。
 
「なあ、我らは何故感情を持って生まれたのであろうな。そんなものがなければ、小説などというまやかしを書こうという気にもならんかったろうに」
「そうかもしれませんね」
「そして君の小説には、愛が足りんのだよ」
「愛」
 
 思わず笑ってしまったが、部長はいたって真面目な顔で、愛さ、と繰り返した。愛が足りない小説。愛が足りない、私。
 
「君の小説はね、感情が剥き出しでさらされている分、熱のない部分がよくわかるのだよ。ちんまりと挟まった色恋沙汰のシーンはいつも、体温がない。つまらんのさ」
 
 私の舌打ちなど気にも留めず、部長は嫌みったらしく私の頭を撫でた。
 見透かされたようで癪だが、確かに恋愛とは縁遠い人生を送ってきた。他者から愛されるような容姿をしているわけでもなく、愛敬を振りまけるほど器用でもない。仲の良い異性など数えるほどしかいなかったし、彼らに対して特別な感情を抱くこともなかった。恋愛小説や漫画は嫌いではないが、主人公たちが恋に振り回されるさまは、どこか滑稽にすら感じられた。
 私が書く小説のは恋愛を主に取り上げたものではなかったが、話に華を添えるために恋愛ほど適しているものはない。彩りに使うパセリのように、味に差し障りない程度恋愛シーンを加えたつもりだったが、それでは駄目だと、この人は言うのか。
 
「命短し、恋せよ乙女、さ」
「……そんなこと言われたって、やろうと思って出来るものでもないですよ」
 
 深呼吸をして冷静さを取り戻した私を見て不満げに鼻を鳴らし、部長は手品のように私のスマホを取り出して、何やら操作し始めた。
 
「ちょっと、どうやってロック解除したんですか」
「なに、以前ちょこっと指紋を登録させてもらっていただけさ」
「いつの間に……」
 
 我が物顔でスマホを操って、部長は鼻歌交じりにご機嫌だ。人を振り回すことを至上の喜びとするかのように、こういうときは嬉々とした表情をするのだから、いただけない。いかにも文藝同好会然としたおさげの黒髪をるんるんと揺らしながら、部長はスマホを投げて返した。最近ちょっと容量が怪しくなってきた愛機は、日記のアプリを追加され気怠そうにフリーズしている。
 
「なんですか、これ」
「見ての通りだが。君には恋する乙女になってもらう」
「だから無理ですってば」
「仮にも物書きの端くれを自称するものが、恋のひとつも装えなくてどうする」
 
 言い返すのも面倒になって、スマホの電源を落とした。冷えすぎた部屋で、私のスマホだけが熱くひりつく。そろそろ、新しい機種に変えた方がいいのかもしれない。
 
 
 恋か、と呟きながら、ぼすんとベッドに寝転んだ。夜だというのに、開け放した窓からは昼間の熱に爛れた風しかやってこない。パーツを無くしたから羽をガムテープで固定している扇風機は、それ故弱回転しかさせられないでいる。エアコンをつけるべきか悩んだけれども、今月買った本の数を思い出し、やめにした。
 恋とはなんだろう。そのあまりに愚かで暴力的な力を、私は知らない。周囲の人間が続々と恋に落ち、破れ、あるいは成就し、たかが一人を相手に一喜一憂するさまを、ただ傍観していただけだ。どんな恋愛小説を読んでも、その感情が私のものになることはなかった。
 コンプレックス、と呼べるほど大したものではない。ただ、誰からも愛されないことが、誰のことも愛せない私が、時たま酷く空虚に思えてしまう。
 そもそも世の人々は、どうやって好きになり、好きになってもらうのだろうか。私のように、醜く、愛される要素のない女は、どうすれば良いのだろうか。
 姿見と向かい合いながら、クレンジングを手に取り、塗りたくった化粧を落とす。昔から自分の容姿が嫌いだった。重たい一重まぶたも、分厚いたらこ唇も、存在感のある団子っ鼻も、丸くパンパンに膨らんだ顔も、だらしなくたるんだ身体も、何もかも全て。化粧を覚えて少しは見られる顔になったけれども、長年抱えてきた劣等感はそう簡単に消えない。
 私なんかが恋をしたところで、好きになられた人が可哀想でしょう?
 
 装いたまえよ、と部長は言った。特別な一人に恋い焦がれる哀れな女子大生を装いたまえ。さすればその気持ちが、いつしか装うだけのものではなくなる、かもしれぬ。などと無責任なことを。
 
 部長の言い方はムカつくが、恋を手に入れることは、確かに私の執筆活動にプラスとなるだろう。こんなことをしていれば、無意識に封じてきた心が本当に起きてくるのかは、わからないが。
 
 相手のイメージが大切なのだよ。部長は言った。具体的なイメージが出来なければ、恋心など生まれはせん。実際に仲の良いやつを相手に据えると良いだろう。そやつに恋をしていると思い込み、振る舞うのだよ。
 
 迷うほどの知り合いもいなかったので、とりあえず同好会の同期を思い浮かべることにした。3年生は私と彼しかいないので、必然的に話す機会は少なくなかった。口数の少ない者同士、さほど交わす言葉は多くなかったのだけれども。
 友人をこんなことに使うのもなあ、と一抹の罪悪感を覚えたが、バレなければ大丈夫だろうと気を取り直し、スマホと向かい合う。何を書けば良いのだろうか。これまで読んだ数々の小説を必死に思い出し、なんとか記入を終えた。
 
 『7月9日 晴れのち雨
 今年の梅雨は長いなあ。うっかり傘を忘れてきちゃったから、朝だけ晴れるのはやめてくれないかな。
 今日は彼に会えなかったから、夢では会えるといいな』
 
 頭の悪そうな文章だなと思ったけれども、推敲する気力も無く、布団をベッドの下に放り投げて、夜の熱にうなされながら、寝た。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 授業が早く終わったので、バイトまでの暇つぶしに部室へ顔を出すと、珍しく部室の主である部長の姿はなく、代わりに彼が静かに本を読んでいた。いつもは効きの悪い冷房が、今日は珍しく仕事をしている。
 
「久しぶり、副会長」
「その呼び方やめてってば、会長」
 
 彼は私とのジャンケンに負けて会長を押しつけられたことを、未だに根に持っている。仕方ないじゃないか、2人しかいないのだから。
 改めてまじまじと彼の容姿を見てみると、これが部長の言う「恋愛感情なくば選ばれることのない」異性なのだなと思った。運動嫌いで痩せて白い肌をしていて、全体的に線が細い。弱そう、という言葉がこれほどしっくりくる人もそういないだろう。子孫をなす前に死にそうだ。
 
「なに」
「ううん、なんでも」
 
 ちなみに、性格も特別良くはない。悪い人ではないが、とことん愛想が欠けている。私が言えることでもないのだが。
 
 彼はそれ以上会話を続ける気もなさそうに、本に視線を落とした。最近読んだばかりのお気に入り作家の作品だったため、もう一度声をかけようとしたが、同じ本好きとして読書の時間を邪魔されるほどいらつくこともないなと思い、隣の椅子に腰を下ろした。
 本棚から日に焼けた1冊を取り出し、手に取る。ミステリー作家が珍しく恋愛をテーマに書いた短編集だった。ミステリーは面白かったがこちらのジャンルは不得手そうだなと思ったものの、なんとなくそのまま読み進めることにした。
 
 コチコチという時計の針音と、どちらかがパラリとページをめくる音だけが、しばらく部室を満たしていた。
 短編集は思いの外グイグイと私を引き込んだ。ゴテゴテと甘く飾り立てた恋愛小説ではなく、あくまで淡々と、ただ日常の姿をありのままに書き表す描写が、この作家らしくて好ましかった。どこにでもありそうな、手を伸ばせば届きそうな、目の眩むほどの目映さはないがどこか憧れるような、そんな恋物語だった。
 いつか私もこんな風に、ただ一人が隣にいてくれることを願うようになるのだろうか。静かにページをめくる彼をチラリと見やる。華奢な身体に似つかわず、手は大きくゴツゴツと節くれだっていた。小さい頃兄の真似をして、指をポキポキならしまくった影響だと言っていた。いつも仏頂面な彼にもそんな子供時代があったのかと、吹き出したのを覚えている。
 
 心地良く揺蕩っていた沈黙を破って、遠慮がちにスマホが震えた。本を閉じて取り上げると、バイト先の塾の生徒から、体調不良で休むという連絡が入っていた。どうせ休むなら、もう少し早くに言ってくれれば、色々できることもあったのにと嘆息する。帰ろうかとしばし悩んだけれども、彼の熱が伝わるか伝わらないかのこの距離感で並んで座っていることがなんだか惜しくなって、もう一度本を開いた。今日はこの1冊を読み終えることにしよう。
 
 
 次に顔を上げたときにはすっかり日が傾いていて、ずっと下を向いていたせいか首がやけに痛かった。頭をぐるりと1回転させて伸びをすると、隣で彼が、読み終わったの、と問いかけた。
 
「うん。そっちも?」
「うん」
 
 見ると彼はとうに本をしまっており、帰り支度を済ませていた。私が読み終わるまで待っていてくれたのだろうか。そういえば、よく冷えていた部屋はいつの間にか少しぬるくなっている。少し意識してみると、案外良いところが見つかるもんだなと感心しつつ、立ち上がった。
 
「このあと暇? ご飯行こうよ」
「あ、それで待っててくれたの」
「そう。バイト?」
「ううん、なくなったから平気」
 
 いつもやかましい部長が先導するから、彼と2人で食事に行くのは珍しく感じられた。そうか、普通の女の子はこういうところでときめくのかと、頭の中で小さな私が冷静に見ていた。彼が自ら誘ってくれたのは、よこしまな気持ち抜きに、嬉しかった。
 
 『7月10日 雨
 今日は2人きりになれたから、ドキドキしちゃった……。
 さりげなく優しいとことか、やっぱり好き!
 ご飯食べてるとこ、可愛かったなあ』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 毎月第3水曜日昼休みの部室は、部会のために押し寄せた部員ですし詰め状態だ。と言っても、協調性に欠ける文藝会員が全員集まることはまずない。後輩はある程度真面目に顔を出しているが、4年生以上はほとんどいなかった。
 
「じゃ、部会始めます」
 
 会長の彼は、周りが騒がしいままでもお構いなしに始めた。
 
「えーと、今月末が原稿の締め切りです。23時59分までしか受け付けないので、早めに提出してください」
 
 げー、とあちこちから溜息が聞こえる。かくいう私も、すっかり忘れていてまだ手をつけていない。どうしたものかと眉をひそめていると、袖をクイクイと引っ張られた。
 
「先輩」
 
 ひとつ下の後輩は、椅子に座ったまま私を見上げた。この同好会には珍しく、真っ黒に日焼けした肌が特徴的な青年だ。
 
「進捗、どうですか?」
「ゼロ。そっちは?」
「実は、大体書き上がってるんですよね」
「へえ、偉い」
「放課後、時間ありますか? よかったら校正して欲しくて」
「あー……うん、いいよ」
「じゃ、またあとで」
 
 部会終わります、の合図と共に、やれやれと出て行く会員たちに押し流されながら、後輩は手を振って去って行った。あとに残ったのは、私と彼と、相変わらず机の上で悠々としているあの人だけだ。安請け合いしたことを早速後悔しながら、手近な椅子に腰を下ろした。後輩の作品は何度か読んだが、正直なところ好みの文章ではない。それに、2人で出かけるほど仲良くもない。部長にでもついてきてもらおうか。いや、彼女は話をなんでもややこしくするのが得意だから、やめておこう。
 
「部長、降りてください。行儀が悪いっていつも言ってるじゃないですか」
「そう言わずともよかろう、公の場でもあるまいに。相変わらず融通が利かん男だな」
 
 彼はいらだたしげにドスンとソファに腰掛けた。部長と話すときの彼はいつも冷静さを欠いていて、私の前ではあまり見せない表情だから、少し羨ましく思う。
 部長は盛大に欠伸をして、籠バッグからまん丸のおにぎりを取り出した。彼は売店のパンをレンジにかけ、私は冷蔵庫にしまったお弁当を探した。夏場、冷蔵庫でお弁当を保管しておけるのはありがたい。
 いただきます、と3人で手を合わせ食事を始めた。部長は見かけによらずよく食べるので、大きなおにぎりをすぐさま平らげて2個目に取りかかった。彼はパンを温めすぎたようで、なかなかかぶりつけずもどかしそうにしている。クスリと笑って、私も自分の弁当に箸を伸ばした。冷え切ったご飯がモソモソで、少し悲しくなる。食中毒対策に仕方ないとはいえ、やはりご飯は熱々に限る。
 
「チンしたら? 弁当」
「ううん、大丈夫」
 
 彼との会話はやはり長続きせずに終了した。それが嫌なわけではないが、今日の日記はどうしようかなあと顔をしかめていると、もう3個目のラップをゴミ箱に入れながら、部長が私に言った。
 
「そういえば君、日記はどうなったんだい」
「ちょっと、急にその話は」
「なに、日記とか書いてんの」
「彼女に恋をさせようと思ってね。仮想相手は見つかったかい?」
「仮想相手?」
 
 彼が自分の話に乗ってきたのが嬉しかったのか、部長はノリノリで先日の話を繰り返した。相手を伝えてなくて良かった、とこっそり胸をなで下ろす。あなたを想って日記を書いています、なんて、本人に知られたらお笑いぐさだ。
 
 部長は、小説内を自在に操れる典型的な前者の人間だ。人語を理解する宇宙人の家にも、ヌルリと生暖かい鯨の胃の中にも、火を噴いて飛び回るドラゴンの背中にも、部長の物語は連れて行ってくれる。彼女の小説はどこまでも伸びやかで、夢や希望という陳腐な言葉がよく似合う光を放っている。自由な発想力が豊かな語彙力で支えられ、構成は大胆なのに紡がれる言葉のひとつひとつはハッとするほど繊細で、彼女の小説を読む度に、思わずほうと溜息が漏れる——初めて読んだときは、こんな奇人変人の代表者みたいな人が作者だと、信じたくなかったものだ。
 
「丁度いい、君もやりたまえよ」
「え、なんで俺まで」
「君も彼女と同じだろう? 自身の経験しか書くことの出来ない作家だ」
 
 確かに、と小さく呟いた。彼も恐らく、私と同じく後者の人間だ。小説の舞台は夕暮れに包まれた大学だったり、夜の静けさを纏った遊園地だったり、朝焼けに照らされた繁華街だったり、いつも身近な場所だ。大きく違うのは、彼が書くのはいつも恋愛を扱った物語だということ。
 
「俺のは、傷口から染み出た膿みたいなものですから」
「膿か、言い得て妙だな」
 
 彼がフッと鼻で笑う。その表情、どこか遠くに焦がれるような、何かを諦めたような、その切なげな顔を言い表すことの出来る言葉が私の中にないことに、無性に腹が立った。
 
「考えてもみたまえ。無から有を、0から物語を紡ぎ出すのが我ら小説家であるというのに、君らのような人種は作中で自身を切り売りするしか出来ないのだろう?」
「それの何がダメなんですか」
「重すぎるのだよ、代償が」
 
 私には訳がわからなかったけれども、彼は苦々しげに口をつぐみ部長を睨んだ。部長は後輩の不敬な態度を気にするそぶりもない。仰々しく脚を組み替える仕草が、妙に板についている。どこぞの文豪にかぶれたような口調や仕草が最初は鼻についたが、今ではすっかり慣れてしまった。
 彼はそのまま、不機嫌そうに部屋を出て行った。残された私はどうしたものかと部長を見上げると、彼女はバッグを漁ってこんにゃくゼリーを取り出し、私にもひとつ投げてよこした。ありがとうございますと言って口に入れると、まわりはふにゃりとぬくもっていたが、芯は凍ってシャリシャリしており、その舌触りの差が面白かった。保冷剤代わりにでも凍らせておいたのだろうか。
 しばらく無言でもぐもぐとしていたが、部長は唐突に口を開いた。
 
「断言しよう。いつか君は書けなくなる、絶対に」
「どうしてですか」
「自分の経験したことしか書けないからだ」
「今は問題なく書けているじゃないですか」
「では聞くが、君の書きたいものはなんだね」
「書きたいもの、ですか」
「そうだ」
 言葉に詰まった私を見て、部長は面白そうに目を細めた。
 
 書きたいもの。しばらく考えたこともなかった。確かに小説を書き始めた頃は、うちの犬をモデルにした作品を書きたいだとか、素敵な青春学園ものを書きたいだとか、何かしら目的を持ってパソコンの前にいたような気がする。少し大人になってからは、好きなキャラの二次創作に興じたこともあった。推しにこんなデートをして欲しいだとか、推しと推しにこうなって欲しいだとか、毎度テーマを決めて書いていた。
 しかし、今は。
 
「……今は、書きたいものを書く、というよりも、何かに突き動かされて書いている感じですね」
「ほう?」
「えっと、上手く説明できないんですけど。なんというか、私はこの感情を、この出来事を、小説にしなきゃいけないって思うというか」
「なるほどなるほど」
 
 だから駄目だというのだよ、と言いながら、部長はひょいと机から降りた。くるぶしまであるスカートのひだがふわりと広がる。彼女はそのままツカツカと私に歩み寄り、ずいと顔を寄せた。近すぎて焦点が合わないなあと思ったけれども、部長はいつだって人の話をろくに聞かないから、黙っていた。
 
「それはね、君。いつの日か言葉に出来ない感情を得たときに、絶望するしかなくなるのだよ」
「はあ、そうですか」
「何故そんな顔をするのだね」
「……言葉に出来ない感情というのは、物書きにとって甘えだと思います。そのような感情だからこそ、言語化し、作品に昇華し、読者と共有するのが、物書きの使命でしょう?」
「お子ちゃまめ」
 
 思わずムッとした私を見て、理想を語るだけなら猿でも出来ると、部長はせせら笑って顔を離した。大きな窓から差し込んだ西日に照らされた部長は、悪役のように逆光がよく似合っていた。先程までの雨が嘘のようだ。
 
「今にわかるさ。恋とはね、物語における最大のエッセンスであり、表現者における最大の敵だよ」
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 後輩に呼び出されたのは、駅前の静かなカフェだった。締め切り前たまにここで執筆を進めていたが、次から利用するのは辞めようと、ひっそり思った。
 
「どうですかね、俺の話」
「……うん、いいんじゃないかな」
 
 ほんとですか、と屈託なく笑う彼を見て、なんだかむずむずした。この子のことは嫌いではないし、良い子だとは思う(小説は好きになれないが)のだが、どうにも居心地が悪い。中高と部活に所属していなかったので、後輩という存在が、不慣れなだけかもしれないが。
 それにしても、見れば見るほどコメントに困る小説だ。設定はありきたり、文章にクセはないが特徴もない。どこかで見たお話の寄せ集めのような表現は、没個性的で面白みに欠ける。しかしどこをどう直せば、と具体的にどうアドバイスすればいいのか、私にはわからなかった。多分、作者を変えるのが1番早い。
 
「俺、先輩の小説がいいなって思って、このサークルに入ったんです。だから先輩に褒めて貰えるの、すっごく嬉しくって」
「……そう、ありがとう」
「先輩の小説って、なんだろ、作中の人物になりきれるんですよね。感情がダイレクトに伝わってきて、気づいたら俺、泣いちゃってたんです、初めて読んだとき。俺もそういうの書きたいなって思いました」
「ふうん」
 
 良い子だな、と改めて思った。臆面もなくこういうことを言うのは、私には出来ない。なんだかきまりが悪くて、そっと座り直した。
 会話が終了し、気まずい空気が流れる。もっと気の利いた返事をするべきだったなと後悔したが、今更どうにもならない。新しい会話も思いつかず、お茶を濁すようにストローを咥えた。このカフェのコーヒーは深煎りで、ちょっと苦すぎるくらいの味が私は好きだ。
 後輩はアメリカンコーヒーにミルクとガムシロップをひとつずつ落とし、ガチャガチャとおおざっぱにかき混ぜた。氷がグラスにぶつかって軋む。頭の痛くなる音だ。
 
「……あの!」
「はい」
「今度、先輩をモデルに小説を書きたいんです」
「……はあ」
 
 突然の申し出に顔を上げると、後輩と目が合った。何故か狼狽えて目線を外し、彼はええと、と言葉を探した。
 よくわからない子だ。私の小説をそこまで好きだと言ってくれる理由もわからないし、私のような女を小説のモデルにしたい理由もわからない。そのまっすぐさの下に何が隠されているのだろうと疑ってしまうのは、私がひねくれているからだろうか。
 
「えっと、先輩とまたこうやってご飯行ったり飲み行ったり、あと休日一緒に出かけたりして、近くでいられたらなって、思うんですけど」
「……それ、本当に小説に必要?」
「じゃなくて、ええっと、つまりですね」
 
 彼は頭をわしゃわしゃとかきむしって俯いた。食事の場でそういう行為はなあと思ったけれども、指摘するのも無粋だろうと思い、喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。
 
「彼氏彼女みたいなことがしたいなってことなんですけど、どうですか」
「……はぁ」
 
 思わず出た気の抜けた声が出てビックリした。後輩は顔を上げない。まさか一世一代の告白にこんな間抜けな返事が返ってくるとは思わなかったのだろう。申し訳ないことをしたなと、他人事のように思う。そもそもこれは、告白なのだろうか。
 中学生の頃の嫌な思い出が蘇る。校舎裏に呼び出され、付き合ってくれと手を出された。その男子の後ろで、物陰から幾つもの頭が見え隠れしていた。お遊びだった。私は罰ゲームに使われたのだった。隠れ方がお粗末だよと指摘したら、告白してきた男子はホッとしたように胸をなで下ろし、悪い悪いと、少しも悪びれずに仲間の元へ帰って行った。あの忌まわしい、思い出したくもない、思い出。
 
「先輩?」
 
 おずおずと後輩が顔を上げる。慌ててごめんと謝って、コーヒーを1口啜った。氷が溶けて、苦みが少し薄まっている。
 
「あの、返事、急ぎませんから」
「……うん」
「すみません、急にこんなこと」
「ううん、えっと、私こそ、上手く返事できなくてごめん」
 
 場は再び、気まずい沈黙に支配された。告白された経験なんてないから、こういうとき、どうしたらいいのかわからない。
 
「……あのさ」
「はい」
「私の、どこが好きなの? なんで好きなの?」
 
 それは純粋な疑問だった。私が好きになれない私のどこを見て、この子は好きだと言ってくれるのだろうか。
 
「まず小説を読んで、気になったんですけど。実際に先輩と話してみて、笑顔が可愛いなって思ったんです。あと、芯の通ったというか、人に媚びない姿勢とかも、いいと思いました」
「……そっか」
 
 違う、と思った。違う、それは私じゃない。笑ったときの私の顔では、元々小粒の目が更に小さく肉に襞に埋もれてしまう。大きな口からは歯茎が露わになって下品だ。人に媚びないとかいう姿勢も、ただ人と話すのが苦手だから、迎合することすら出来ていないだけだ。人に合わせるのが下手なだけだ。
 私は、君から見た私は、誰?
 
 
 返事を宙ぶらりんにして、カフェを出た。後輩は気まずそうに、一目散に駅へと退散していった。私は少し散歩でもして帰ろうかと、家路から少し外れたルートへ向かった。
 空はまたどんよりと雲に覆われて、少しずつ泣き始めた。カバンから折りたたみ傘を取り出し、パッと開く。サンダルを履いているから足下の防御力がゼロだ。ぐじゅぐじゅになったつま先が滑る。回り道は早々に切り上げた方が良さそうだ。
 街灯を反射して煌めく雨粒を踏みつぶしながら、とぼとぼと歩く。雨はさほど強くならず、気温は下げないまま不快指数だけを上昇させる。やってられっか、と茹だった夜道で独りごちる。感情の整理がつかない。
 小説が書きたい。
 
 細い路地を曲がると、見慣れたひょろっとした後ろ姿がしょぼくれて水をしたたらせていた。慌てて追いかけて肩を叩くとそれはやはり彼で、傘忘れたんだよね、と前髪の雫を払った。
 私が傘を傾けて招き入れると、彼はヒョイと私の手からそれを奪い、持ち上げた。ありがとう、と言うと、こちらこそ、と淡々と返される。なんだかくすぐったくなって、出来たての水たまりを蹴っ飛ばした。
 小さな折りたたみ傘は2人で入るには狭すぎて、ギリギリまでくっついていても肩がはみ出てしまう。右肩から伝わってきた彼の熱は、全身に巡って左肩で冷やされていく。部室で椅子を並べているときよりもはるかに近い、たった5センチの距離に彼はいた。意識すると途端に気恥ずかしくなって、顔が見られなくなってしまう。
 肩を濡らしながら、私たちはのろのろと歩を進めた。お互いの歩調がわからないから、ゆっくりでなければ傘から飛び出てしまうのではと、そう思ってスピードを上げられなかった。お互い無言だったけれども、雨がずっと楽しそうに歌っていたから、静寂を気にする必要はなかった。
 ずるり、と足が滑って、バランスを崩した。前につんのめりかけたけれども、彼が慌てて右手首を掴む。すんでのところで身体は止まり、服を泥だらけにせずに済んだ。
 
「……危なかった。ありがとう」
「セーフ」
 
 彼が笑った。
 サンダルって滑りやすそうだよな、と足下を見られる。無駄毛の処理はきちんとしていただろうか、と恥ずかしくなる。どうせこの暗さでは、わかりっこないだろうに。
 小説が書きたい。今すぐ家に帰って、小説が書きたい。
 
 彼の足取りにあわせているうちに、いつの間にか我が家の前にたどり着いていた。ずぶ濡れの彼を家に上げて服を乾かすべきだろうか。いや、そこまでするとかえって気を遣わせてしまう。
 
「ごめん、送ってもらって。家、こっちじゃなかったよね」
「傘入れてもらってるしね」
「それ、そのまま持って帰って。今度返してもらえればいいから」
「うん、ありがとう」
 
 私の傘は彼一人でも小さかったようで、右肩が濡れ続けていた。家から普通の傘を取ってこようかと思ったけれども、彼はすぐに角を曲がって、見えなくなってしまった。
 
 『7月17日 雨のち晴れのち雨
 天気が安定しない。
 彼に傘を貸した。2人で傘に入った。ただそれだけ。』
 
 後輩のことも書くべきか悩んだけれども、これは彼への日記だから、相応しくないような気がした。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
「ほう、告白ねえ」
「他の人には言わないでくださいね」
「随分と信用がないものだな」
 
 胡散臭さ全開のこの人に言ってしまったことを、少し後悔した。誰でも良いから聞いて欲しかったのだけれど、こういうとき話し相手になってくれる友人もそういない。いつでも暇そうにしているうえに後輩のことも知っている部長は、いわば『丁度いい』相手だった。
 窓枠が歪んで閉まらないから、今日も部室はじっとりと湿気がのさばっている。私は寝不足で重く垂れ下がる瞼をこじ開けながら、昨日のカフェでの顛末を、淡々と語った。帰り道での出来事は、なんとなく、言えなかった。
 
「で、君はどうしたいんだね」
「……それが、わからないんです」
「ほう?」
「断る理由もなければ、承諾する理由もないというか」
「そこまであいつと親しい風にも見えんかったしなあ」
「ですよねえ」
「そして、そこまで君が興味あるようにも見えんな」
「……ですよねえ」
 
 正直な話、いいよというのもごめんというのも、とても億劫だった。そこまで後輩の感情や思考の労力を割かねばならないのが面倒で、深々と溜息をつく。好きだとも付き合ってとも言われなかったのが、喉の奥で小骨のように引っかかっている。私は、なんと答えるのが正解なのだろう。
 ま、いいんじゃないか、と無責任に言って、部長は野菜ジュースのパックを一気に飲み干した。ずぞぞぞっとマナー違反の啜り音が、ちょっと小気味よい。
 
「ほれ、付き合ってみれば、作品の肥やしになる」
「……そんな理由でOKするのは、いいんですか」
「そんなこと知らんわ。愛する女の役に立てれば幸せなんじゃあないか。それに」
 
 はは、と部長は口を開けた。野菜ジュースはトマトベースだったのだろう、口の中が吸血鬼みたいだ。
 
「君は、書かんと生きていけん人種だからなあ」
「……そう、ですね」
 
 私は決意が鈍らないうちにスマホを取り出して、後輩にメッセージを送った。少し待ってみたけれども、既読はつかなかった。おめでとう、と部長が言った。こんなもんか、と私は思った。好きでもない男と付き合うことは、案外抵抗がないんだなと、虚しくなった。
 昨日書きかけの小説が待っている。早く家に帰りたいのに、今日は深夜までバイトがある。早く、早く小説を書かなければ。
 
 
 はやる気持ちとは裏腹に、身体は疲労のピークに達していた。バイトから帰ってパソコンを開いたところまでは覚えていたのだが、瞬きひとつに3時間もかかっていたようだ。
 突っ伏していた床から起き上がると、寝違えたのか首が痛む。仰向けならば楽なので、今日はもう執筆を諦めて本を読むことにした。部誌のバックナンバーを取り出して、パラパラとめくる。丁度彼の作品で手が止まった。去年のこの頃、梅雨と紫陽花を題材に書かれた作品だった。
 彼は私と同じ人種だ。私たちはインク切れのペンしか手に出来ない物書きだ。想像力という名のインクが枯れ果て、それでもなお書くことしか出来ない物書きだ。私は血を、彼は膿を、それぞれインク代わりに無理矢理流し込んで小説を書く。私が彼の作品を好ましく思うのはきっと、彼の小説から私と同じ匂いがするからだろう。
 ひとつ、またひとつと彼の小説を読み進める。雨の日の物語、海辺の物語、校舎裏の物語、病人の物語。どこまでが彼の膿で、どこからが絞り出したフィクションという名のインクなのだろうか。
 
 ああ、そうか。ストンと腑に落ちた。後輩の小説が苦手な理由も、きっとこれなのだろう。彼の小説は、書き手の顔が見えない。寄せ集めの、借りてきた言葉の継ぎ接ぎだから。わからなくて、理解できない。それが彼自身にも表れているのか。彼の好き側からなかったのは、彼が私にくれた言葉に、体温がなかったからなのだろうか。
 それとも私に、受け取る気がなかっただけなのだろうか。
 
 最後の1冊を手に取る。私たちが入部して、初めて書いた小説が掲載されているものだ。彼が書いたのは、高校生の話だった。陰気な男子生徒が、明るくてクラスの人気者だった女の子に恋をして、しかし少女には好きな男子がいて、その子の恋の成就を手伝うという、主人公キャラよろしく陰気で悲しいお話。題材自体は珍しいものではなかったが、その真に迫る描写が鮮やかで、私は何度も読み返した。
 ふと、少女の描写を振り返る。彼の話にはよく、主人公と同世代の女の子が出てきた。それは高校生だったり大学生だったりOLだったり、はたまたロングヘアだったりショートヘアだったり、話によって様々だったが、よく見ると共通点があった。皆、口を大きく開けて笑う子だった。
 これがきっと、彼の膿が染み出す傷を作った女なのだなと理解するのに、時間はかからなかった。
 
 『何度も何度も手を洗った。それなのにあなたの熱が、手にまとわりついて離れない。
 これはなんだろう。私はどうしてしまったのだろう。心臓に靄がかかったかのように苦しい。深呼吸を幾度となく繰り返したのに、靄は出て行ってくれない。
 ただ手を繋いだだけだ。ただそれだけだ。それなのに私はどうしてしまったのだろう。わけもわからずにぼろぼろと涙が溢れてくる。こんな感情は知らない。こんな感情に、名前を付けてはならない。
 あなたは一体私に何をしたの。手をきつく握りしめて問いかける。苦しい。吐きそうだ。
 瞼の裏で、あなたが笑う。消えない。眠れない。夜が明ける。
 お願い、私に笑わないで』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 デートしよう、と後輩に呼び出されて、珍しく午前中から活動を始めた。冷房をけちって寝ていたせいで、起き抜けから滝のように汗が流れている。待ち合わせまでそう時間があるわけではなかったが、とりあえずシャワーを浴びに浴室へ向かった。
 案の定髪を乾かしているうちに家を出る時間が迫ってきて、私は「ごめん、遅れそう」とだけ連絡をした。どのくらい遅れる、などと指定すると、たいていその時間を過ぎてしまうのは、どうしてだろうか。
 夏の日差しは容赦なく肌を炙り、日焼け止め越しでも強力な紫外線がジリジリと痛い。こんな暑い日にどうして外で待ち合わせなのだろうと、肺に溜まった熱い空気を吐き出した。彼は爽やかなシャツを輝かせて待っていた。
 
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫! 俺のためにオシャレしてくれたって思うと、嬉しい」
 
 どこぞの少女漫画で習ったような歯の浮く台詞を並べて、後輩はニカっと笑った。気づけば敬語が外れており、とやかく言うつもりはないものの、付き合うってこういうことか、と釈然としないまま彼のあとをついて行った。
 
 最初は映画、そのあとはオシャレなカフェでランチ、猫カフェを経て少し早めのディナー。いかにも女ウケが良さそうな健康志向のレストランは、きっと一生懸命選んでくれたのだろうなと思うと、申し訳なかった。違うのだ。私が好きなものは、部室で静かに本を読む時間と、その後適当に食べる定食の味だ。こじゃれたフォーに乗っているパクチーは苦手で、でもそれを表に出すのは先輩としてどうかと思い、必死に平静を装った。
 
「今日は、ありがとうございました!」
「こちらこそ、色々調べてプラン作ってくれたみたいで、ありがとう」
 
 後輩は白い歯を見せて笑った。浅黒い肌との対比が綺麗で眩しい。じゃあ、と駅の改札をくぐろうとしたその時、右腕をグイッと力強く掴まれた。視界が、彼で埋まる。
 
「……すみません」
「どうして、謝るの」
 
 謝るくらいなら最初からやるなよという気持ちと、ちゃんと返してあげられなくてごめんという気持ちが、喉の奥で渦巻いてえずく。今度こそ改札をくぐり抜け、早足で階段を下り、熱風がとぐろを巻くホームへと降り立った。丁度到着した電車から降りてきた人々にもみくちゃにされながら、必死でスマホを探し、電話をかけた。
 
「部長」
 『なんだね、藪から棒に』
「私の小説、読んでください」
 『今からかい?』
「今すぐに。あっ、でもまだ書きかけで」
 『なに、構わんさ。30分後に部室で良いかい?』
「はい、お願いします」
 
 無我夢中で電話を切り、そこでやっと、足を止めた。発熱したスマホは、電源を切って温度を下げるようにと警告画面が出ている。上手く感情が整理できない。昔からそうだ。私は小説を介さねば自身の感情が説明できなかった。それはきっと、思い出の中の私のように、傷つかず冷静でいられるようにという自己防衛だったのだろう。
 唇を拭った。手の甲に紅がみっともなく伸びる。ホームに黄色いラインの入った電車が滑り込んできた。小説が書きたい。スマホからで構わない。続きが書きたい。今すぐに。血が乾く前に。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 私が部室に飛び込むと、部長は既に定位置に陣取っていた。見せたまえ、と鷹揚に手を広げるので、勢いに任せ中盤まで書き上げた小説を、スマホごと手渡した。あついな、と部長は言った。私はエアコンのスイッチを入れ、ソファに腰掛けて、大きく息を吐いた。
 
「あついな」
「温度、下げますか」
「そうではない。熱のある良い小説だと言っている」
「どうも」
「私はね、これを読んで長年の疑問が晴れたよ。君の小説がなぜ体温を持っているのか」
「え?」
 
 舞台役者のように狭い部室を歩き回りながら、部長はスカートをなびかせた。今日は珍しく髪を結んでいないから、いつもより表情が見えにくい。私はソファに座り直して息を吐いた。コツコツと、ピンヒールの音がこだまする。
 
「君の小説はだね、キャラに名前がついていないのだよ。一人称の語り手と、彼と、彼女と、あの人と、私と、あなた。それがどうにも気にくわなくてな」
「気にくわない、ですか」
「わかりづらいだろう。そして混乱を避けるために登場人物は少なく、物語は浅くなる。そう思っていたのだよ。
 だが君の物語は基本的に、『私』と『あなた』を中心に完結していた。なるほど、君が『私』であり、誰か『あなた』との思い出をフィクションの幕で包んだものが、君の小説であるわけだ」
 
 君の狭い興味が功を奏したわけだ、と部長は笑う。自分の小説を客観的に分析される気恥ずかしさで、私は俯いた。
 
「それにしても、最後の描写はなんだね。余りにもお粗末なキスだな。これだから生娘の実体を伴わない表現はいかん」
「えっと、それは……」
「なに、したのか」
 
 しました、と私は俯いたまま答えた。唇にそっと触れる。初めてのキス。初めての彼氏。初めての。それなのに——なんの感慨もなかった。
 私はなんと愚かな女だろうと思った。好きでもない男と付き合って、好きでもない男とキスをして、そして思い浮かべるのは別の男だ。なんと不合理で、残虐で、愚かな女だろう。
 頬にそっと手が添えられた。そのままそっと唇が重ねられる。上書きだ、と言って部長は笑う。ぽかんとする私の鼻を、形の良い爪でピンと弾いた。
 
「キスなんてそんなものだよ、小娘」
「……部長」
「良いのだよ、愛しい男とするもの以外全ては取るに足らんのだ。それを何も感じぬからと気に病む必要などどこにもない」
 
 心を動かされる相手なぞ1人で十分だ。部長は剛胆に笑い飛ばした。私も笑った。そうだ、私に必要なのはただ、あの人に小説を読ませることだ。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 『心臓が早鐘のように高鳴る。押しつぶされそうなほど苦しくて、なんとか沈めようと深く息を吸う。
 彼は私の少し前を歩いて、こちらを見ない。軽く袖を引くと、なに、と言いながら私を見下ろした。
 手に汗がじわりと滲む。心臓がいよいよ口から飛びださんばかりに暴れ回る。私は最善の一言を探したけれども、何も言葉が出ない。何か、何か言わなきゃ。何か。
 ——視界が、フッと暗くなった』
 
「どう、かな。これ」
 
 傘を返して欲しいからと彼を呼び出し、ついでに書き上げた小説を校正してと押しつけた。この小説はラブレターだ。宛所のないフリをして、あなたにしか開けられない封をした。
 彼はしばらく無言だった。無言でもう一周小説を読んだ。そしてトントンと紙の束をただし、机に置いた。
 
「……いいんじゃないかな」
「えっ」
「だから、いいと思うよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
 
 彼は、私と目を合わせようとしなかった。それは私と同じ感想だった。後輩の小説を読んだときと同じ、理解できないものを前に、お茶を濁す感想。
 間違った。間違った。間違った。後悔がどっと押し寄せる。こんなはずじゃなかった。小説になんてしなければよかった。直接言っていれば、もっと。今からでも言おうか。いや違う。違う。
 そもそも、私なんかが受け入れられるって、どうして。
 
「……ごめん、もう行くね」
 
 こんなにアッサリと終わってしまうのだろうか。私が心血注いで書き上げたこの小説は、この想いは、この物語は、ここで終わりを迎えるのか。こんなにも唐突に。
 何も言わない私を置いて、彼は部屋を出た。後に残された私は、小説を手に取り、ぎゅっと握りしめた。
 
 ごめんなさい。ああ、『私』は私ではなく、『あなた』はあなたではない。だからどうか、行かないで欲しい。私は何も言わないから。だから。どうか。だから。
 
 
 部長の言っていた意味が、良くわかった。私のペンは、折れてしまった。注ぎすぎた血が溢れて、もう何も書けない。書きたい言葉だけが溢れて、こぼれて、消えていく。
 あの日私を笑った男子の声がこだまする。小説を書かなければ。書かなければ、私の思いはどこに行くのだろう。
 
 幸せな話が書けないでいる。
 物語の中の名もない私は、今日も独りで泣いている。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:35

SHINOBISM


 令和——。日本の新たな元号として制定されたそれは、「万葉集」の梅花の歌、三十二首の序文「時、初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」を出典としている。
「揃ったか」
 頭目の甲賀勘八郎が地面を震わせるような低い声で言った。ここは甲賀の里と伊賀の里の中央に位置する山の中、大自然に囲まれた木造の小屋だ。そこに彼ら甲賀の忍4人は集められていた。腕を組んで部屋の中央に立つ勘八郎と、それを囲むようにして跪く4つの黒い影。並ぶ忍装束は宵闇に紛れ、気配すら感じさせない。
「いよいよ今夜だ。平成最後の合戦では辛酸を嘗めさせられたが、今回はそうはいかせん。今年こそは伊賀の奴らに一泡吹かせてやろうじゃないか」
 勘八郎はそう言って、小屋の扉を開け放った。朧月が小屋を照らし、忍装束を纏った5人の輪郭はぼんやりとだがようやく露わになる。顔まで覆われているせいで表情は見えないが、誰もがその眼を爛々と輝かせ、開戦を今か今かと待ち望んでいた。
 そう、今宵は遥か昔、江戸の頃から続く忍たちの力比べ、「忍者合戦」の令和最初の回が執り行われることとなっていた。忍者合戦とは、伊賀、甲賀両方の里から実力のある忍が5人ずつ出陣し、勝ち抜き戦でその技を競い合う戦である。本来であれば10年に1度しか行われないこの合戦だが、元号が変わった年にだけ特別にその区切りを無視して開かれる。忍者というのはかなり体力のいる職業であり、同じ人間が10年後の合戦に続けて参加することは当然ながら難しい。——2015年に行われた15回目の合戦、平成最後の忍者大合戦として今でも語り継がれているその合戦では、現頭目の勘八郎も出陣し、得意の土遁の術と卓越した苦無捌きで伊賀の里の代表を3人も破る快挙を成し遂げたが、伊賀の現頭目である伊賀蟹蔵の水遁の術の前に敗れ去り、そのまま合戦も敗北していた。本来ならば再び術を交えることは難しかった2人であるが、今回元号が変わったことによって奇跡的に衰えぬ身体のまま再び相見えることとなったのであった。
 勘八郎は頭目である。彼は甲賀の長として、合戦の勝利を第一とせねばならない。この合戦に勝てば、次の合戦までの間甲賀の里は、伊賀は元よりのこと他の里からも一目置かれる存在となる。昨今、忍を必要とする人々も段々と減ってきており、たまに声がかかったかと思えばやれテーマパークの忍者ショーだの忍術体験会だのの依頼ばかりで、伝統と格式を重んじる忍にとっては辛いものがあった。しかし合戦に勝った里は、その強さを国から認められ、ボディーガードなどの依頼を受けることも増える。里の発展と皆の生活のためには、何よりも合戦で勝つことが大切なのである。……しかしながら、勘八郎は頭目である以前に一人の男であり、忍であった。彼には雪辱を果たさなければならない相手がいる。蟹蔵の性格を考えれば、恐らく自らが大将として出陣してくるだろう。戦術の上ならば、勘八郎も大将となり、体力を温存しておくべきだ。しかし、彼は甲賀の代表たちの実力をよく知っていた。今年の甲賀は平成最後の合戦の時とはひと味もふた味も違う。秘密兵器も用意した。彼が危惧していたのは、自分の出る幕もなく合戦に勝ってしまうことだった。無論、伊賀の代表も精鋭揃いではあることだろう。しかし甲賀の秘密兵器、あれが良くなかった。あれが上手く働けば、大将の出番など到底ありはしないだろう。男勘八郎32歳は、里と己の狭間で揺れていた。
 月影の中でなにやら物思いにふけるような表情を見せる頭目を、後ろから見つめる男がいた。彼の名は鵜飼双六。甲賀の代表5人の中では最も若く、まだ20歳前の少年である。彼もまた、今回の合戦において1つの悩みを抱えていた。伊賀の里の代表の1人である、百地難波。彼と双六は旧知の仲であった。伊賀と甲賀は世間では抗争のイメージが強く根付いているが、実際のところその関係は極めて良好である。特に双六や難波のような若い世代は、親同士の仲が良いこともあって、物心ついた頃から共に野山を駆け回り修行をするような中であることも珍しくはなかった。幼馴染といっても良いだろう難波と本気で争わなければならないことに、双六は抵抗を覚えていた。合戦は模擬試合とはいえお互いの術を本気でぶつけ合う。大怪我を負うことも少なくはなく、現に頭目の勘八郎は、平成最後の合戦で負った傷が癒えるまでに半年を費やしている。それほど危険な合戦なのだ。双六は瞼を閉じ、難波の顔を思い浮かべた。彼の記憶の難波はいつも挑戦的な笑顔を浮かべており、それは寡黙な双六とは対照的な難波の軟派な性格を良く表していた。共に修行を積んできた10年余を思う。決して、負けるわけにはいかない。それでも、双六は難波を傷つけたくなかった。それは彼の優しさ故だ。虫も殺せぬ双六に、今回の合戦は些か酷なものであった。拳を固く握り、天上の月を見上げる双六。
「そろそろ行くぞ」
 勘八郎が厳しい表情で告げる。合戦の地はこの山中のさらに奥深く、山頂に近い場所である。
「……はい、頭目」
 双六は、覚悟を決める。難波の実力は良くわかっていた。加減をして勝てる相手では到底ない。里のため、そして己の沽券のために。双六に瞳に、最早迷いはなかった。
 
 一方、山頂を挟んで反対側、伊賀の里に近い場所にある山小屋。そこで難波は己の忍刀を丹念に磨いていた。小屋の中には、伊賀頭目の蟹蔵の姿も見える。
「……頭目。俺は、本当に戦うべきなのでしょうか」
 難波がぽつりと独り言のように呟く。彼もまた、迷いがあった。
「……難波。俺が前回の合戦にも出ていたことは知っているな」
「はい。頭目の怒涛の4人抜きは今でも語り草ですからね」
 前の合戦で伊賀は、甲賀側の先鋒であった勘八郎に立て続けに中堅までの3人を破られたが、副将であった蟹蔵が逆に怒涛の4人抜きを果たし、大将まで引きずり出したのであった。
「俺が倒した忍の中には、俺の幼馴染もいたんだ。……小さい頃からずっと一緒だった。里は違えども、俺たちは確かに親友だった。だが、奴は死んだ。俺の放った水遁の術に耐えきれず、そのまま山道を濁流に流されていって……」
 蟹蔵は立ち上がると、小屋の戸に手を掛け、勢いよく開いた。小屋の中は月明かりに満たされる。そのまま蟹蔵は続けた。
「……俺は今でも奴を夢に見るよ。奴の伸ばした手が、あの表情が、今でも記憶に残っている。……戦とは、そういうものだ。忍とは、そういうものだ」
 ゆっくりと、難波の方へ向き直る蟹蔵。その表情は、難波からは逆光で見ることができなかった。
「お前がもし忍を辞めたいのなら、俺は止めない。好きにするといい。誰も責めやしないさ。……だが、それでもまだ忍でありたいならば、お前は今日を乗り越えていかねばならぬ。情けは捨てるのが、身のためだ」
 蟹蔵はそのまま小屋の外へ消えていった。小屋には1人、難波だけが残される。唇を噛みしめる難波。その表情からは、未だ迷いは消えていなかった。
「俺だって……」
 吐き捨てるような呟き。覚悟はしていたつもりだった。この合戦のためにこれまで修行してきたと言っても過言ではない。百地難波は、伊賀忍術の祖と言われる百地家の末裔であった。彼にとって、世界とは忍の道でしかなかった。無論、蟹蔵がそれを知らぬわけはない。知っているからこそ、あのような物言いをしたのであろう。難波は望んで忍になったわけではない。それ故に、彼は苦悩していた。
「難波くん、大丈夫?」
 先程から小屋の戸口から覗き込むようにしていた少女が、難波の様子を見かねて声をかけた。彼女の名は竜子。伊賀の女忍者であり、また難波とは恋仲であった。竜子は度々難波から忍であることへの苦悩について聞かされていた。彼の気持ちをよく知るからこそ、彼女は今回の合戦に対して不安な気持ちを抱いていた。勝ったとしても負けたとしても、難波は深く傷つくことになるだろう。ましてや、甲賀には難波の幼馴染の双六がいるのだ。2人が争う姿を、竜子は見たくなかった。しかしそんなことを難波に直接言えるはずがない。だから——。
「あのね、難波くん。今日、私を先鋒にしてくれるよう、頭目にお願いしたの。だから、難波くん、応援しててね」
 だから、彼女は自ら先鋒を選んだ。自分が甲賀の忍全てを、双六さえも倒してしまえば、難波は戦わずにすむ。そうすれば、彼はもうこれ以上苦しまずにすむはずだ。もちろん、彼女の本当の目的は誰も知らない。彼女はただ、私が最初に出たいとだけ頭目に伝えた。誰にも知られてはならない。もし難波が知れば、彼のプライドは大いに傷つくだろう。彼が望んだわけではなくとも、それでも彼は忍なのだ。忍とは、耐え忍ぶこと。彼がいかに苦しんでいようとも、忍であるからには、それに耐えねばならない。
「竜子が先鋒なのか。こりゃ俺の出番はないかもな、はは。……頼むよ、竜子」
「うん。だから……、どうか、無理しないでね」
 見つめ合う2人。いつの間にやら戻ってきていた頭目が声をかけるまで、2人はしばらくそのままだった。
 
 朧月がちょうど頭上に昇る頃、甲賀と伊賀、双方の忍たちは山頂近くの広場に向かい合って並んでいた。
「いよいよ始まりますね。実況は私平石が務めさせていただきます。解説には、前合戦で伊賀の大将として活躍されていた服部正則さんに来ていただきました。よろしくお願いします」
「うむ……!」
 広場には忍達以外にも人の姿が見えた。この合戦は一部の界隈でカルト的な人気を博しており、某大手動画サイトなどで配信も行われている。そのため、スポーツ中継のように戦いの実況、解説を行う者や、撮影、配信を行うカメラマンなど、おおよそ忍者合戦には不似合いな面子も集まっているのであった。向かい合う忍達を臨むように用意された実況・解説席。実況席にはe-sports等の実況で有名な平石祐佑が、解説席には前合戦で火遁、土遁などありとあらゆる遁術を使いこなし、圧倒的な実力を見せつけた忍、服部正則がそれぞれ着席し、合戦の開始を今か今かと待っていた。
「伊賀、甲賀からそれぞれ選ばれし5人。彼らが鎬を削り、忍者の頂点を決める戦いの聖地へようこそ。第16回忍者合戦――開幕!!」
 スペシャルアンバサダーの三重県知事が号令をかけるのとほぼ同時に、両里の忍達が割れんばかりの歓声を上げる。いよいよ合戦が始まった。
「まずは初戦、先鋒同士の戦いです。解説の服部さん、どのような忍が先鋒を任されることが多いのでしょうか?」
「うむ……!」
「これまでのデータによると、先鋒は試合の流れを掴める動きの速い選手が置かれることが多いようですね。ありがとうございます」
 実況・解説席では、すでに始まっている配信に合わせてトークが繰り広げられている。そう、忍者合戦とは忍達の命運と沽券をかけた戦いであるのと同時に、大衆にとってのエンターテインメントでもあるのだ。動画配信サービスでの同時接続数は既に1万人に達している。大勢がパソコンやスマートフォンの前で合戦の様子を見守っていた。
「これより第1試合を行います。伊賀、甲賀、それぞれの先鋒、前へ!!」
「それじゃあ、行ってくるよ。ちゃんと見ててね、難波くん」
 竜子は難波の手をとると、祈るようにして言った。彼女の両の手が、その小さな肩が、怯えるように震えているのが、難波にもはっきりと伝わる。
「ああ、俺は竜子を信じてるよ。竜子の実力は俺が誰より知ってる。負けるはずないさ」
 難波の言葉は嘘ではなかった。彼は彼女がどれだけ努力してきたのか、どれだけ辛い思いをし、どれだけの血と汗と涙を流してきたのかを知っていた。彼女の腕は最早そこいらの男に劣るようなものではなかった。彼女の戦う姿はその名の通り竜のように猛々しく、平時の花のように可憐な姿からは想像もできないほどだ。難波はここ数年、彼女が誰かに不覚をとる姿を見ていない。そんな彼女だからこそ、彼は心の底から勝利を信じて疑わなかった。
「伊賀の里より、先鋒、竜子、参ります」
 柿渋の装束を身に纏い、名乗りを上げる竜子。一度忍装束を纏えば、そこに怯える少女の姿はすでに無い。仲間達の怒号のような声援を背に受け、竜子は戦場に立った。その背中を、難波は信頼を込めて見つめる。大丈夫、負けるはずがない。彼女なら、きっと――。
 ――そのとき、大地が嘶いた。
 先ほどまでどこに隠れていたのか。甲賀の人並みを掻き分けて、聳え立つ巨大な影。白んだ月影に照らされ、在ってはならない異形がそこに立っていた。黒々とした巌のような体躯。身長は目算で2.5mはあるだろうか。到底忍とは思えない巨体は、一歩踏み出すだけで地面を震わせ、空気を軋ませていた。
「……甲賀の里より、先鋒、金剛寺呂美雄だ」
 伏し目がちに勘八郎が告げる。それが広場に立ちはだかる異形の名であった。忍装束の隙間から覗く瞳は、人間のものとは思えない。
「服部さん、あれは……?」
「うむ……!」
 服部の言うとおり、彼こそが甲賀の秘密兵器であった。禁術によって改造を施したその体は、もはや人の限界を超えていた。合戦に禁じ手はない。各々のモラルに委ねられているそれを、甲賀の里はギリギリのところで破ろうとしていた。
 雄叫びを上げる金剛寺。その悲鳴のような叫びは、竜子から戦意を奪い去るには充分すぎた。
 竜子の背中越しに、伊賀の忍達に絶望が伝わる。ソレが明らかに異質であることは、場にいる誰もが理解できた。伊賀だけでなく、甲賀の里にも焦りと同様の色が見えた。おそらくは全員に彼の存在が伝えられていたわけではないのだろう。誰一人、声を上げることができない。金剛寺の雄叫びで世界から全ての音が掻き消されたかのようだった。果たして、金剛寺に理性は残っているのか。その姿は人よりもむしろ野獣に近い。
「し、試合開始ィィィ!」
 呆然としていた司会がやっと我に返り、試合開始の号令を掛ける。その刹那、金剛寺の巨体が姿を眩ませた。狼狽えた竜子が辺りを見回し、金剛寺の姿を捜す。忍であれば、土遁や水遁で姿を隠すのは得手である。しかし金剛寺の消失は、遁術を使ったにしてはあまりにも早すぎた。
「服部さん、これは一体どんな術を……、え?」
 服部は空を見上げていた。会場の人々もそれに気づき、同じように天を仰ぐ。いつの間にか空を覆う薄い雲は無くなり、澄んだ夜空が広がっている。――そこに。
「そんな……」
「あれってまさか……?」
「おい、嘘だよな?」
 ざわめく忍達。見上げた空には、爛々と輝く月とは別に、もう一つの影。まるで凶つ星のように、ソレはそこに在った。その身ひとつで宙に舞い上がった黒の巨人は、隕石のような勢いで大気を切り裂き、竜子めがけて落下する。その巨体からは想像もつかないほどの身軽さだった。
 竜子が息を呑む。躱せる速度の落下ではなかった。すんでのところで身を捩り直撃を避けようとするが、金剛寺の落下の衝撃は予想を遙かに凌駕していた。空気が震える。ただ飛び上がり、落ちる。それだけの動作で、広場には大きなクレーターができていた。
 肩を押さえ蹲る竜子。躱しきれなかった衝撃波による負傷で、腕が上がらなくなっていた。無防備な姿を晒す竜子に、金剛寺がゆっくりと歩み寄る。
「竜子!」
 叫ぶ難波。これが忍のやることか、と彼の頭の中は怒りと混乱で満ちていた。忍者合戦は、礼節と伝統を重んじる忍達が磨いた技を競い合う、言うならば忍のオリンピック的行事なのだ。それなのに、今目の前で繰り広げられているのは何か。礼節とはほど遠い、ケダモノによる虐殺だった。こんなことが、こんなことが許されてなるものか。
「勘八郎、貴様……!」
 勝てばそれでいいのか、と抗議するように勘八郎をにらみつける。一方勘八郎は、憂鬱そうな顔で溜息をついていた。……元々、この秘策は彼が思いついたものではなかった。恐らく次の頭目になるだろう副将の骨川、彼が合戦の数日前に突然持ち込んだ計画だ。無論、勘八郎は乗り気ではなかった。しかしながら、甲賀の里の実権を握っているのは、知力と若さを備え持った骨川である。彼が白と言えば、烏さえも白になってしまうのが今の甲賀だ。勘八郎にもはや以前のような力は無かった。それ故に、この秘密兵器も受け入れるほかなかったのである。
 金剛寺が背の刀を抜いた。凶刃が竜子に迫る。振り下ろされる忍者刀は、瀑布のごとき勢いで竜子の首筋を狙う。大地をも殺しかねない一撃は、しかしすんでのところで、竜子の首には届かなかった。
「……頭目」
 激しく鍔迫る音。竜子と金剛寺の間で凶刃を受け止めたのは、伊賀頭目、蟹蔵だった。
「いくら禁じ手がないって言っても、こいつは少しばかり度が過ぎるんじゃないかい、甲賀さんよ」
 金剛寺の一撃をいなすと、蟹蔵は勘八郎に向き直りきつい語調で詰め寄った。もちろん、合戦の形式で見ればルール違反である。しかし――。
「そっちがそこまでやるっていうなら、こっちもそれなりにやらせてもらうぞ。なんせ禁じ手なしだからな」
 両里の忍がざわつく。いくら勝つためとは言え、甲賀の策は確かにやりすぎだろう、と皆が感じていたのだ。
「これはどうなるのでしょうか、服部さん」
「うむ――」
「やはりこれは、そうでしょうね」
 うなずく服部と平石。司会が叫ぶ。
「たった今、今回の合戦は特例として、勝ち抜き形式ではなく総力戦にすると運営からの通達がありました! よって合戦は続行とします!」
 忍達から割れんばかりの歓声が上がる。と同時に、難波が弾丸のように飛び出し、勘八郎に向けて刀を振りかざした。しかしその特攻は、横から飛んできた火球によって阻まれる。
「双六、貴様ッ……!」
「すまないな難波、俺たちも負けるわけにはいかないんだ」
 難波の対面に立ちはだかる双六。火球は彼の得意とする火遁の術によって繰り出されたものであった。その技に加減はなかった。双六は殺すつもりで来ている。難波の背筋に悪寒が走った。――俺も、殺すつもりでやらねばならない。
「俺たちの戦績、覚えてるか? 双六」
「俺の4502勝4322敗だ。そうだろう?」
「良く覚えてるな。でも最後に勝つのは俺だぜ。……俺だかんね」
 高く飛び上がる難波。双六もそれをまた空中で迎え撃つ。月影に照らされ、二人の刀が交差した。
 その後ろでは、蟹蔵が一人で金剛寺を押さえ込んでいた。力任せに振るわれる金剛寺の刀が瀑布であるならば、蟹蔵の太刀筋は旋風だった。台風の金剛寺の猛撃を、いなし、払い、打ち落とす。間断なく広がる無数の剣戟、鋼の嵐を、刀一つで押さえ込む。間合いの差、膂力の差、体力の差、その全てを己が技量で凌駕するその姿は、まさに頭目であった。
 その様子を、不敵な笑みを浮かべて静観する男がいた。彼こそが骨川。黒の凶人をこの合戦に送り込んだ張本人である。彼の真の狙いはここにあった。混乱する戦場で、伊賀の忍たちを足止めさせる。そこに彼の渾身の遁術をたたき込めば――。高笑いをする骨川。忍達が気づいたときにはもう遅かった。
「時は満ちました。見なさい、これが私の――!!」
 両手を天に掲げる骨川。刹那、光が迸
 
§
 
「あ、しまった」
 はぁ、と大げさに溜息を吐く。私としたことが、ペンのインクを切らすだなんて失態を犯すとは。
「お母さん、駅前の世界堂って何時まで開いてたっけ?」
「お母さんに聞かないでよ、あんたいつも学校帰りに寄ってるんだから明日でいいんじゃないの?」
「明日が締め切りなんだよぉ、また原稿落として部長にどやされちゃうよ」
 やれやれ、と私は新聞のインクを煮たような味のするコーヒーを啜った。ラジオからはビートルズのビコウズが流れていた。私は頭を振った。まずはインクをどうするべきかを考えよう。原稿の完成はその後でも遅くない。物事は順序を間違えるとろくなことにならないと、私はうすうす気がつき始めていた。
「あ、世界堂、9時までだって」
「あと30分しかないじゃない。ちょっと急いで行ってくるね」
 私は急いでコートを着込む。まるで昆虫が変身をしていくように。玄関の扉を開けると、凍てつく白銀の荒野が広がっていた。雪だ、と私は呟いた。恐ろしく静かな雪だった。小さな砂糖菓子のような雪が一面に広がる。彼らはまるで溶け去ることを拒否しているみたいだった。そっと目を閉じるような、ひそやかな雪だ。
 人間というのは大別するとだいたい二つのタイプにわかれる。つまり小説を書く人間と書かない人間である。別に前者が読書好きで語彙力があって承認欲求が強くて後者がその逆で、とかいうわけでもなく、ただ物語を作りたいかどうかという単純な次元の話である。そして私は前者だ。しかしどういうわけか、私は純文学を書いているつもりなのに、周りからするとそうではないようだ。やれやれ。
 私はビーチ・ボーイズの「アイ・ゲット・アラウンド」を数小節分、鼻歌で歌った。冬の町で雪がそれ以外の全ての音を吸いこんでいた。まるで宇宙の中に私一人だけがとり残されたような気分だった。母は言う。私は小説家になってもいいし、ならなくてもいい。大学に行こうがそのまま働こうが、私が何をしようと私の自由だ、と。ただ、私は思う。ここから先は未知の領域だ。地図はない。道の先に何が待ち受けているかわからないし、見当もつかない。せめて私は私の夢に地図を持ちたかった。今書いている小説はそのためになるかも知れない。それはまるで暗い森を一人彷徨うときの松明のように。
 世界堂でお気に入りの万年筆のインクを手に取る。私は必ずこのインクと万年筆で小説を書くと決めていた。とるに足らないルールだ。でもそれを決めたときの私には、それがすごく大事なことに思えた。風の中でマッチの火を消さないみたいに大事なことに。
 早く帰って続きを書こう。せっかく筆がのっていた所だったのに。冷凍された死体のように凍り付いた町をいそいそと歩く。本当は知っている。完璧な小説なんて存在しないことを。完璧な絶望が存在しないように。それでも私は、ありもしない完璧を探すのだろう。砂浜に水を撒くような途方もない作業だ。それでもいいさ。堪え忍ぶのが、忍か。やれやれ。
 固くもなく、べっとりと湿ってもいない雪が降り始めたが、その殆どは、ゆっくりと空から舞い降り、積もる前に溶けた。インクは手に入れた。次は私の書く小説について考える番だ。間違えないように、松明が消えないように。
 
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:35

空ろな涙

 握りこんでいたボールペンのインクが切れたのが契機だった。そこが限界だった。耐えていた、文字にすることすら控えていた何かの。
「私、帰りますね」
 言いながらペンをぱちん、と閉める。ぬるくなってしまったカフェオレの水面がかすかに円を描く。話していた相手ははたと沈黙する。
「どうして」
 彼は問う。困惑に満ちた声。
「どうしてって、帰りたいからですよ。もっと詳細に言うのであれば、今の私はあなたの話を冷静に聞いていられるような状態じゃないからです。仕方のないことでしょう?」
「怒ってるの?」
 吐きたくもない溜息を吐きたくなってしまう。わざとらしすぎるからしないけれど。
「それがうまく伝えられないから帰るんです。私は今感情が不安定でぐちゃっとしていて、自分でもよくわからないんです。だから、この感情を伝える機会を別に設けたいと思っています。そしてあなたが近くにいると冷静に伝えるべき言葉を考えられない」
「……逃げるの?」
 なんでそうなるんだろう。
「逃げないために物理的な距離をとるのだということをお伝えしたつもりだったのですが?」
「…………」
 ごめんなさい、今のは語気が強すぎたかもしれない。でも、私にも自分がこれくらい怒ってみせていいのかわからないから、対応は保留で。
「では、また今度」
 ひとまず、しばらく離れたいんです。落ち着いたら連絡するかもしれないけれど、今の私には何も判断を任せたくありません。
 席を立ち、彼のために取っていたメモを差し出す。不可解だ、という表情のまま彼はそれでも立ち上がることはせずにメモを受け取った。その顔の中に、二割ほどの拒否感があることには、彼自身気付いているのだろうか。私が初めてこんな風に、距離を置こうとしていることに対する拒否感が。
 ふられてしまうのは私のほうかもしれないな。
 そうなってしまうことにそれほど拒否感を持てずにいながら、冷房の効きすぎたカフェを後にする。
 
 特に何かされた、というわけではない。問題があるのであれば、それはきっと、私のまとう空気と彼のまとう空気が違うということだけだ。お互いの普通が噛み合っていなかったという、ただそれだけ。あまりに違いすぎたならきっとお互いに歩み寄ろうとできた。私は、そしてきっと彼も、その歩み寄りを怠っていた。
「普通」
 なんて厄介な言葉だろう。
 駅前の横断歩道で信号待ちをしながら、カフェオレ代を払い忘れてしまったことに、今更のように気付く。
 
 *
 
 暑さのあまり、最寄り駅と家の間にある図書館に逃げ込んだ。緩慢な動きをする自動ドアが開くと書架のあるスペースほどではないがロビーから冷房の空気が流れだしてくる。涼しい空気でようやく一息つくことができる。
 ロビーの奥にある休息スペースに入る。給水器と並んだ紙コップの自販機で、少し迷ってから砂糖抜きでアイスカフェオレを買う。小さく砕かれた氷がジャラジャラとコップに投げ込まれ、曖昧な色の液体がだらだらと流し込まれていく。
 今頃彼はどうしているだろうか、まだあのカフェでココアを飲んでいるのだろうか。そうやって、自然に考えてしまうあたり、私は彼を好きでいられているのだろうと気づく。本当に私がきちんとその感情を持てているのかどうかと、彼にとってその「好き」で足りているのかどうかは別にして。
 機械からぞんざいに差し出されたカフェオレを受け取って、ロビーのソファに腰掛ける。一口飲むと、砂糖抜きのはずなのに妙に甘い。ソファ脇の窓枠に紙コップを置いて、駅で購入した新しいボールペンとノートを取り出す。いつもと同じボールペンの本体の中を、いつもと違うブルーブラックのインクが満たしている。ノートの適当なページを開いて、日付を書き込む。慣れた作業に、いつもより青い、黒。決して不快ではない違和感。そのままペン先を滑らせていく。
 私が書き物をするのは、自分の感情を整理したいときに限る。記憶のために書くことはない。必要がないからだ。私の頭の中は常に記憶の情報で、どこにも流れていかないまま溢れている。物事を人より忘れにくい、ということに気づいたのは中学生の時だった。それまでは、なんで人々はこんなにも嘘を言うのだろうと不思議に思っていた。それが何気ないきっかけで「あぁ、この人たちはわざと本当でないことを言っているのではない、間違ったことを信じていて、本当だと信じていることを伝えようとしているだけなのだ」ということに気づいたのだった。そして、ほとんど同時期にこうも思った。「でも、本当にそうやって簡単に忘れられるのなら、この人たちの世界はどんなにキラキラと輝いているのだろう」
 するするとペン先は滑り続ける。内容なんて何も考えずに、ただただ自分が思っていること、流れてきては留まり続ける記憶の破片をただただ書き連ねてゆく。
 
 忘れられたら、どんなに、
 
「みずき」
 
 耳殻が揺れた。ペンが、一瞬だけ止まって、その直後には、そのことすらも記述していく。今揺れたのは、違う、これは、あの時の感覚であり記憶だ。だって今、彼はここにいない。いたとしても、私の前で彼女の名前を呼ぶことなんて、きっとしない。
 強く打ち消すように目を瞑る。そうしたところで、さっき記憶が耳殻を揺らしたことは忘れられずに、まざまざと残っていて、そのうえで瞼が強く閉じられる感覚が、眼球にかかる圧が、同じようにまざまざと感じられてしまうだけ。どうしようもない。引かれてしまったボールペンの線のように、ぼやけも滲みもせず、強く、ひどくはっきりとそこにあり続ける。はっ、と息を吐きながら目を開いて、書き続ける。もうほとんど発作のような、記述、記述、記述記述記述────。
 
「みずき」
 声。彼の声。その声が、眠りの中でゆるく濡れた声が、思い出の中の彼女を呼んだ声が、彼が彼女を忘れていないという事実が、耳から離れない。
 けれど涙は流せない、だからインクも滲めない。ただただひたすらに、真っ白な紙を決定的な「それ以外」に、染めていくだけ。
 私は泣けない。泣いたって忘れることはできないから、それによって感情に変化が起こることがないから。泣いても泣いても、その先にあるものは不変という絶望だけだから。
 私は何も零せない。涙も、感情も記憶も、嫌いになりそうなものでさえ、過去の好きが響いて、そこから離れられない。
 ノートに今思っていることを書いたって、整理なんてされない。視覚化されたって、今は何の意味もない。少し後の私が、根気よく過去のノートと今のノートを見比べて、今から過去を引き算して、ようやく「今」の、その時の私にとってはもう過去の自分の感情を推理する。ノートに感情を書き連ねている“今”の私は、むしろぐちゃぐちゃで、片付けをしようとしたのに何もかもを乱暴に引き出してきては床にぶちまけるように、記憶の洪水を起こして止められない。せっせと手を喉に突っ込んで吐き零すだけの、心臓にナイフを突き刺して血を抜くだけの、乱暴で非効率な解体作業だ。解剖ができたらよっぽど気持ちがいいだろうに。どんどん自分の整合性が取れなくなっていく。なんでこんなことになったのかも、何を考えていたのかも、膨大な、記憶の中で何度も反芻されて、淀んで腐りきった感情の中に沈み、溢れないままに緩やかに渦を巻き、満ちていく。
 
 *
 
「みずき」
 声。彼の声。その声が、眠りの中でゆるく濡れた声が、思い出の中の誰かを呼んだ声が、耳から離れない。その声に、自分の声を重ねる。
「きらい」
 声に出して、呟いてしまう。「き」の音が掠れてしまう。
 彼のことは好きだ、嫌いになって別れを切り出すことなんて、少なくとも今はできない。
「きらいよ、きらい。すき、な、あなた」
 好きだ、好きな人だ。きらいな、好きな、人。
 そういうところ嫌いって、簡単に言ってしまえたらどんなにいいだろう。
 
 きらい、すき、きらい、きらい、きらい、
 
 私にしたのと同じように、彼はきっと彼女を愛した。その彼が好きな私は、けれど、その彼がきらいだ。
 今の私が、純然に十全に、“今の私”であればいい。過去の好きを忘れられたのならこんなに悩むこともきっとなかった。こんなに、「本当に今の私は彼が好きなのかどうか」なんて。そんなこと、悩むようなことじゃなかった、きっと。
 
 とうに記述できる気力も内容もなくなっていた。疲れ切って目を閉じていると、閉館のチャイムが鳴る。あぁそうか、ここもじき閉まる。夕方になって涼しい風が出てきただろうし、そろそろ帰らなければ。
 ぬるくなってしまったカフェオレを飲み干す。一口目がやたら薄かったのは氷が解けたからで、紙コップをごみ箱に捨てて図書館を出る。何も考えないために音楽プレイヤーのボリュームを最大にして、ただひたすらに家までの道を歩く。果てのないロンドが、頭の中でぐるぐると回る。
 家に着くと、本棚の上に載せているクラフト紙製の箱に手を伸ばした。そこにカバンの奥にしまっていた、用済みのボールペンを入れる。箱の中は掠れてしまったボールペンがいっぱいに溜まっている。何も零せない私の、それでも無理やりに零そうとしてきた痕跡。真っ黒なインクを流して、空っぽに満たされた本体たち。そこに、青みを帯びた真新しいボールペンも投げ入れる。壊れてインクが零れてしまえばよかったのに、なんて思いながら、その様子を眺めて、また箱を本棚の上にしまう。何もかもを吐き出して空ろになった自分たちを連想する。あとどれだけ、こうすれば。
 青いインクが、思考の表面だけでも、流れていけばいいのに。

 眠ってしまおう、起きて、吐き出したものを細かく分析すれば、私が何を伝えるべきなのかわかるはずだ。そうしたら彼に連絡をとって、話をしよう。
 あの日零れた彼女の名前は、私の中に秘めたまま。

第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:34

近未来の下町ラーメン屋の経営戦略


 効き過ぎた冷房の吐く冷気が室温との差によって目に見えるほど白く、窓には、店の内外の気温差によって生まれた結露がびっしりと張り付いていた。店内は、店自慢の鰹出汁の匂いで満たされていて、はねた油が床に飛び散り、踏みしめる靴を捕まえていた。油に捕まえられる靴は二人分だけで、店長とバイトの他に、客の姿はなかった。
 店長は、電子書籍化の流れによって数年前に廃刊した新聞をどこからか取り出してそこにあるクロスワードパズルを解いていて、バイトは、使われていないテーブルをもう何度も拭き直していた。
 店内には、客がいないためか重い沈黙が漂っていて、聞こえるのは、冷房の音か大釜のお湯が沸騰する音くらいだった。
「店長、ヤバイですよ」
 先に沈黙を破ったのはバイトだった。それは、長い沈黙に耐えかねた言葉ではなく、真剣にこの店の先を思っての言葉だった。
「……おまえもそう思うか」
 店長は、読んでいた新聞を半分に折りたたみ、インクの切れかけたペンを大事そうにペン立てに立てながら、顎の筋肉をほぐすように大きく口を使って言った。
「ええ、だって、もう昼の12時を過ぎてるのに、誰も来ないじゃないですか」
 バイトの言葉は本当で、時計の針は12時半を指しているのに、店内には客の姿はなかった。これは、今日に限ったことではなく、ここ最近ずっとのことだった。
「……時代だろうなぁ」
 店長は、ここ最近使い続けている言葉を口にした。それは、決して的外れな言葉ではなく、ロボットを人の代わりに雇用する世の中の風潮を考えれば、バイトとして人を雇うこの店のやり方は、時代遅れと揶揄されても仕方の無いことと言えた。
 しかし、今回は、バイトは食い下がった。
「昨日も同じこと言ってはぐらかしたじゃないですか。もうそろそろ、真剣に考えましょうよ!」
 バイトの言葉に、ついに観念したように店長はバイトに向き直った。
「……そうだな。何かアイデアはあるか?」
 試すような店長の言葉に、ずるいと内心思いながらも、言い出したのは自分だからなと思い直して、バイトは客を呼び込むためのアイデアを考え始めた。
「……やっぱり、ネットで宣伝するのが一番ですかね」
 少し考える時間を空けてから、バイトは集客術の基本とも言えるようなアイデアを口にした。世の中の全ての人々が常時ネットワークにつないでいるよな時代なのだから、ネットでの宣伝は店の存在を知ってもらうために最も効果的な方法と言えた。しかし、このような時代では、ネットの重要度は想像を絶するほど高く、それ故ネットに場所取りをするには眼が飛び出るほどの金額が必要だった。当然、業績の悪い下町のラーメン屋には払えるわけもなく、店長の答えは決まっていた。
「……金がないから無理だろうなぁ………。何か他に金のかからないような方法はないのか?」
完全にバイト頼りな店長の発言に、不満を感じながらも、バイトは次のアイデアを考え始めた。
(お金をかけないということだから、変えられるのは接客くらいで、接客に人を使っているのはウチ位のものだから……)
「他店にできない接客をすればいいんじゃないですかね!」
 バイトは、長考の末、ひらめいたように手を打って店長に告げた。
「ほら、他の店って皆安い給料でロボットに接客をさせているでしょ? だから、ウチは人が接客をするからこそできることで勝負するんです!」
 自慢げに説明するバイトとは対照的に、理解の追いつかない店長は「例えばどういった接客なんだ?」と先を続けさせた。
「そうですね、例えば……、客の注文を断っていくとか!」
 未だ渋い顔をしている店長に、バイトは順を追って説明していく。
「いいですか、ロボットは基本的に人の命令には服従しかしません。なんてったって、人に仕えるために作られたんですから。だから、他店の接客ロボットも絶対にお客さんの命令に従います。そこで、その逆をしていくんです! 例えば、味噌ラーメンを頼まれれば、醤油ラーメンを提供するみたいな。きっと斬新だって思ってくれる人がいますよ!」
「そんなものか?」
「そうですよ! どうせ失敗したって、もともと人は来ないんだし」
 興奮のあまり失言にも気づかないバイトの熱意に押され、店長も「……やってみるか」とその気になりつつあった。
「しかしなぁ、下町人情一筋でここまでやってきた俺にお客さんの注文を断ることができるかなぁ?」
 そう苦悶する店長に、またしてもバイトが手を打った。
「じゃあ、俺は客の注文をリジェクトする冷たい接客するんで、店長は客と俺をフォローするような暖かい接客をしてください。確か、店長ってそういうのが流行ってた時代の全盛期の人じゃなかったですか?」
「ああ、あれか、ツンデレだろ?流行ってたよ。…………あんたなんか別に好きじゃないんだからね!」
「古いっすねー! でもそんな感じです!」
「このラーメン、あんたのために作ってる訳じゃないんだからね!」
「事実ですねー! でもいいっす! 行けますよ!」
 そんなこんなで盛り上がった二人はその日の内に店の名前を「ツンデレラーメン」に改名して、翌日からツンデレ接客を始めた。
 

 
 改名してから2日後、二人は、相変わらず客のいない店内で盛大にため息をつくこととなった。
 何があったかと言えば、店の名前の珍しさに来訪した客を、まずバイトが「何しに来たの?」と出迎えた。面食らった客が引き返そうとすると、店長が「あんなこと言ってるけど、実はあんたが来てくれてうれしいんだよ」とウィンクをして引き留めた。何とか持ちこたえた客が注文をお願いすると、やってきたバイトが「なんか用?」と客を突き放し、終いには、「自分で頼めば?」と言って去って行った。それでも何とか注文した客に、店長が「あんなやつだけどね、根はいいやつなんですよ。これ、チャーシューおまけね」と言ってウィンクした。食べ終わって客が会計をしようと思うと、レジに座っていたバイトは3度呼ばれてやっと振り返った。そして、客がお札を出して、おつりをもらおうとしようものなら、「チッ」っとこれ見よがしに舌打ちをして、お金を受け取った。それから、おつりを渡すために数分の押し問答があり、ついに折れた客が会計を後にし、店を出て行こうとすると、店長が駆けてきて、「またのご来店を、お待ちしてるんだから!」と盛大に見送った。
 店のレビューは、瞬く間に真っ黒に染まり、「バイトの接客が最悪」「御年50の店長がデレてくる」などの悪評で埋め尽くされることとなった。
 もう何度目か分からないため息の後、沈黙に耐えかねたバイトが口を開いた。
「店長……申し訳ありませんでした……。甘んじて、くびちょんぱ受け入れます……」
 力ないバイトの言葉に、店長も力なく答えた。
「……いや、最終的に決めたのは俺だし、クビにはしないよ……、……まあ、クビにはしないけど、店の方が潰れるから、結局同じことかな……」
 店長のこの言葉に、バイトは、消えるくらいに小さくなった背中をより一層小さくした。
 店長は、真っ黒に染まったレビューを見ながら、一人しか来ていないのにどうしてこんなにレビューが多いのだろうなどと考えてはため息を吐き続けた。
 ネットが浸透したこの世の中では、レビューは絶対で、全ての人がそれを基準に店を選んでいると言っても過言ではない。そんなレビューが真っ黒に染まってしまったなら、誰もこんな店を好んで選ぶことは無いと言えた。
 店長が「人のバイトを雇う分、ラーメン一杯が高い」「ロボットに接客させた方がまだまし」などの悪評ばかりのレビューをスライドさせながら無感情に眺めていると、その中に興味深いレビューを見つけた。
──「人の行くところではない」。
言葉としては、店の運命を断つようなその言葉だったが、何か違和感を覚えた店長は、しばらくの間熟考し、次の瞬間、大きく手をたたいて、思わずそのアイデアを口に出した。
「人がだめなら、人以外を顧客にすればいいじゃないか!」
 

 
 その日から、「ツンデレラーメン」は「ロボットラーメン」と店名を改めて、油10倍!の売り文句の元、ロボット向けのラーメン屋としてリニューアルオープンした。
 売れ行きは上々で、今まで食べ物を味わったことがなかったロボットが、続々と集まってくるようになり、店長とバイトはロボットのラーメンを作ることで、忙しくさせてもらえることとなった。いつしか業績も持ち直し、バイトの数も増え、店はロボット専門ラーメン店として、広いシェアを獲得するまでになった。
 「ロボットラーメン」は、初めてロボット向けという新しいサービスを生み出した店として、たくさんのロボットたちに利用され、仕われることとなった。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:34

ひっかき傷でもいい


 思うに、いつもの嫌がらせに違いない。それを渡されたとき、そう思わずにはいられなかった。
 彼は一応、私の中の分類的には『幼馴染』にあたる。とはいえ、教育とかいう無垢な少年少女に課された服役義務のような何かを、代わり映えしない愛すべき愚か者たちとエスカレーター式にこなすくらいしかすることのないこの退屈な田舎だ。放課後になれば誰の家にでも自転車で行ける、国会の議席みたいに半分ずつしか変わらない隣り合った二クラス六十人。少女漫画の定義に倣って、小学校から顔見知りのこいつらを全員そう呼ぶのはいささかロマンに欠けるので、私が認める『幼馴染』は彼を含めた十人ちょっと。今年で十周年を迎える精鋭たちの中でも、幼稚園入園前から面識があった彼は特に『名誉幼馴染』とでも呼んでやっていいくらい気にかけているというのに。
「はい。書けないからあげる」
 気が付いたときには、当時の可愛げは腹立たしいくらいに掠れて見えなくなっていた。
 前の席から手渡された赤いボールペンをしげしげと見つめる。透明なボディから透けて見える内側の軸は、まだたっぷりと赤く染まっているようにも見えて。インクが詰まっているのではないかと抗議しようとしたが、変声期の途中のわりによく通るはしゃぎ声はとっくにそっぽを向いて、幼馴染未満のクラスメイトめがけて飛ばされていた。
 仕方ない、と溜息をついて、生死不明のボールペンを乱雑にペンケースに放る。捨てたら捨てたで厄介なのだ、こいつは。仲間を呼んで、泣き言を言って、一斉に糾弾させて。陰湿なスライムか。
 バレないように家で処分して、「家の中だけで使ってる」とでも言い張って誤魔化し続けよう。使えないペンを「家で使ってる」とは何事かと、更に変な目で見られそうだが、そのときはそのときだ。
 
* * *
 
 ほんのいたずら心。そこに淀んだ復讐心は無かったと信じたい。
 ほとんどの生徒が教室を空ける昼休み、彼も例に漏れずグラウンドに出て行ったようだ。一階の教室から辛うじて覗ける隅の方で、何人かと一緒に円陣バレーに加わっているのが見える。
 私も図書室に本を返すついでに、生徒会室へ寄っていこう――そう思って自分の席を振り返ったそのとき、『それ』が目に入ってしまった。
 次の授業が移動教室だから、あらかじめ出しておいたのだろう。彼の机の隅に揃えて置かれた、ボロいペンケースと理科の授業道具一式――表紙が折れた教科書に、記名が掠れたA4ファイル。一年生から使わされているせいか相当の年季が入っているそれらに対して、ひときわ目を惹く『それ』は机の中央に雑に放られていた。
「…………」
 本当に、何を思ったのかは自分でも正確には分からない。ただ、そこにちょうどいいものがあったから。ありふれた犯罪と同じで、たったそれだけのことでも説明できてしまうような衝動。私を動かしたのは、そんな単純すぎる感情だった。
 教科名もクラスも名前も書いていない、まっさらなノートの表紙を開く。すっかり思春期という毒に侵された彼に無垢な部分が残っているとするならば、きっとこんな感じなのだろう。将来使うかどうかまだ分からない化学式を書き込まれるのか、この地域で近年危惧されている大型地震の情報が載せられるのか、天気図の読み方の練習問題の答えを繰り返し写されるのか。理科のノートとして定義された以上ある程度の限定はされるものの、未来への可能性に満ちた鮮やかな白が昼下がりの日差しを反射する。
 しかし、一ページ目の右端、ちょうど私の影が重なるところは灰色に落ち込んでいて。新たな一ページが、私によって濁った色を少しだけたたえている。その絵面にえもいわれぬ興奮をおぼえたのは間違いなかった。
 ペンケースの奥に引っ込めていた、あの赤ペンを取り出す。よく見ると赤色は軸そのものの色で、授業中に何度か試してもその先端は紙にひっかき傷を残すばかりだった。
 だが、それでいい。血の跡なんて残されるのは不本意だ。後腐れなく、本人さえも気付かない傷痕だけ残ればいい。せいぜい無垢なまま月日を重ねて、ふと見つけたときには時効になるくらいが最高ではないか。
 凶器を強く握って、清らかな灰の隅に擦りつける。大きな雲が流れてきたのか、散らされた白はほんの十数秒ほど完全な濁りを顔に滲ませていた。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:33

勇者降臨

 樹々の間隙を風が駆けて、重なり合う葉が擦れた。
 樹海の奥深くに、木々が倒れてできた土地がある。
 ……ヤツだ。
 暗闇色の体殻、四本の足、鼻と口だけの頭部。体高は3.7メートル。
 クエストリストにあった通りだ、間違いない。
 ヤツは、こっちを見ている!
 俺たちより先に、ヤツは気付いていた!
「俺が合図をしたら、チャールは矢を放て。同時に俺は左、ルージェは右に回り込んでヤツを挟み撃ちにする」
 ヤツが咆哮を吐いた。大砲のようなそれは木の葉を幾つも落とした。
「いくぞ!」

    *

 最大規模の冒険者ギルドを持つ街、ギルディアは宴で盛り上がっていた。
「勇者様ー! ヤツに一泡ふかせてやってくれ!」
「勇者のご出陣だ! 派手に飲もうぜ!」
「サインくださーい!」
 俺たちはクエストリストに数年前からある、黒龍の討伐に向かうのだった。
 街は宴一色で、俺たちを勇者と呼び、祝った。
 だが俺たちは勇者ではない。冒険者だ。
 クエストを受けると知った街の長は、代々この街に受け継がれてきた『勇者の剣』の認定試験を俺たちに施した。試験は簡単なことで、『勇者の剣』を鞘から抜くことができた者を正式な勇者とするのだ。街の長は俺が勇者になると確信していたそうだが、結果は違った。パーティの誰一人、剣を抜くことはできなかった。長はこれを民に隠して、俺たちを送り出した。
「疾風の双剣使いルージェ、千里眼の弓使いチャール、豪傑の大剣使いレイド、以上三名の出陣を確認する。ご武運を」
 街の門が開き、太陽が俺たちを照らした。
「父さん……」
 隣には息子が俺を見上げていた。
「必ず帰ってくる。母さんを頼む」
 俺たちは門を出た。

    *

 ヤツの体殻に矢が弾かれる音がした。
「隊長! ヤツに傷一つ入らない!」
「構わん、撃ち続けろ! 引きつけてくれッ!」
 ヤツがチャールを捉えたとき、ルージェがヤツの首筋に跳んだ。だがヤツは矢を無視してルージェを左の鉤爪で殴り飛ばした。
 左前脚が浮いたッ! 右前脚だ、ヤツを転ばせる!
「くらえーーこのーー真っ黒野郎ぉ!!」
 俺は大剣をヤツの足裏方向から斜めに切り上げた……が、大剣は虚しく同じ力で弾かれた。体勢を直したヤツが身体を捻りながら俺に喰らいつく。とっさに大剣を地に刺して盾にすると、ヤツの門歯が俺の大剣を食い破った。その衝撃で俺はヤツの射程外ーー後ろの木まで吹き飛ばされた。
 勝てない……ヤツを倒すことはできない。
 俺はガラスペンとカキツバタのインクを懐から取り出してギルドメンバーの手帳に記し始めた。
『コクリュウのコウドウケイコウ 19.8.12 レイド・フェイ』
 俺の姿を見て二人が頷いた。
『チカくにいるモノをコウゲキする』
 しかしヤツは近くにいる俺ではなく、ルージェに向かって進み出した。ルージェは先の傷で流血している、満足に動ける身体でない、まずい!
 俺はインクを付けなおして残りを奴に向かって投げつけた。割れたビンのインクがヤツのまわりに飛び散ってカキツバタが強く薫った。だがヤツはルージェに猛進している!
『フショウしたモノをユウセンしてコウゲキする。インクをなげつけたがムシした。ニオイでハンダンしない?』
 ルージェは僅かに動く身体でヤツの数撃を受け流している。その間、チャールは携帯した矢の瓶を一つずつ撃ち続けている。
『ヒョウメンはカタく、ヤイバはトオらない。ウゴきはリュウのナカでもオソい。ヤクビンはスベてキかない』
 ルージェがやられた。ヤツが俺を見た。インクが掠れ始めた。
「……ぐっ!」
 インクペンを身体に刺し、血液を取り込ませる。
『ルージェ・ブルド シボウ ホショクによる』
 ヤツに向かってチャールが走り出した。ヤツがチャールを蹴り飛ばす。
『よりウゴくモノをネラう』
 ヤツがチャールに口を開いたとき、チャールは手持ちの爆弾を身体に巻きつけてヤツの口に飛び込んだ。
『チャール・アーチ シボウ ジバクによる』
 血液が飛び散った。ヤツが固まった。ヤツは周りを見回している。
『バクハツのノチ、シバラくコチラをミウシナった』
 ヤツが気を取り戻し、俺に進んだ。ヤツの口の中が俺にはっきり見えるようになった。真正面だ。死ぬ。思わず笑った。
「好きなだけくらうといい…………人間の恐ろしさを……な!」
 ヤツが口を閉じる直前に右足で地を蹴る。
「貴様好きだろう? 血が!」
 右足を切らせて口の中に飛び込んだ。爆発で焼けた口腔に折れた刃の先を突き刺す。
 ヤツの叫声を最も近い所で聴きながら、俺は勇者の降臨を願った。

    *

「勇者一行よ、魔人の討伐と貿易街の民の救出、ご苦労だった。私からも感謝申し上げよう」
「ありがとうございます」
 ギルディアのギルドセンターで俺たちは旅の疲れを癒していた。
「おっ、報酬はどうだった?」
「なかなかだったよ、今日は贅沢しようか」
「やったぜ、最近血なまぐさかったし、そろそろ病んじまうところだったんだ」
 俺は真っ先に席を立ってガイドブックを開いた。旅の間に街に変化はあっただろうか。
「なあ、ロイド、二人で飲みにいかないか?」
「おっ、勇者様直々ご指名っすか? 嬉しい限りだぜ」
 俺と勇者は酒場に、他のメンバーは貿易街解放パーティーに出かけた。

「久しぶり、女将さん。今日は仲間を連れてきた」
「久しぶりだねぇおつかれさん。あら珍しい」
 勇者はいつも一人でここにくるようで、特等席のカウンターに座った。
「あんた……見たことあるような顔だわ」
「世界には似てる人が数人はいるって聞いたことあるけど? それとももしかして、レイド・フェイを知ってる?」
「あなた、レイドの子……?」
「やっぱり、父さんの行きつけはここだったんだ、聞いたことある店の名前だとおもったよ」
 俺の父、レイドはかつて勇者と呼ばれて、戦死したらしい。その父はいつも、俺が大人になったら行きつけの酒場に連れて行ってやるって言っていた。
「レイドからよく話を聞いたわ。あんた、お父さんの背中を追って冒険者に……?」
「そうなんだ、そこでこの勇者様に拾ってもらったんだ」
「今日彼を連れてきたのは、その話なんだ」
 この勇者は本物だ。父が抜くことのできなかった『勇者の剣』を抜くことができた唯一の人間だ。『勇者の剣』は鞘を抜いた勇者の手から離れることはなく、一振りで大地を切り裂くほどの力があると言われている。勇者はその力をめったに使わず、普段は冒険者に支給される剣で戦う。勇者曰わく「一度剣を振るうとその日には剣を持てなくなる」らしい。
「次のクエストなんだが……黒龍の話は知っているよな、アレを倒す」
 勇者が突然、真剣な茶黒の眼差しで俺に言った。
「そこでだ、今回は僕一人で行こうと思う」
 珍しい。勇者はいつも仲間と共に困難に立ち向かうことを好むのに。
「いやまて勇者。仲間を連れて行かないっていうのはわかる。ヤツは普通の攻撃が通用しない、特にヤバいやつだからな。だがよ、俺を連れて行かないっていうのは流石に許容できねえな」
 俺の不満な声で勇者は笑った。
「ふふ、そういってくれると思ってな、君だけは連れて行こうと思ったんだ。頼もしいよ」
「あえ、なんだよ、最初からはっきり言ってくれよ」
 間抜けな声を出させやがって。勇者はぱっと見紳士なんだが、実際変な奴なんだよな。
「言い切る前に君が挟んだんじゃあないか。全く、せっかちなやつだ」
 俺たちはグラスをぶつけて笑った。
 女将さんはずっと微笑んでいた。

「さて、こいつを勇者に見せるときがきたかな」
 父が死んだという報告とともに俺のもとに届いたのは、先の折れたガラスペンといくらか破れた手帖だった。
 手帖にはカキツバタの色素で書かれた父のメモがあったが、途中からインクが掠れている。そこからは固まった血が遺っているが、続きは乱暴に破られていて内容はわからない。ガラスペンはインク切れで、血を吸わせたと考えられるがその痕跡は残っていない。
 父は、ヤツの弱点を最期まで見つけられなかったのか……?
「そのガラスペン、君がいつも身に付けているものか」
「ああ、父さんの形見だ。父さんは毎回これで報告書を書いていて、クエストの時も持って行った。どんなときでも冷静さを失わないためなんだとよ」
「そうか……君のお父さんはかなりの手練れだったそうだね、黒龍にも一撃与えたって調査がある」
 父が帰ってこなかったので、調査隊が派遣された。
 黒龍の巣には肉片一つ亡く、固まった数滴の血と折れた大剣の柄の辺りが残されていて、大剣には唾液と細胞が残っていた。大剣で口腔を貫いたと考えられているが、血痕が無いのが不自然なのだ。
「なあ、ヤツってどうやって生きているんだ? 唾液が出るってことは、口で消化できるってことだよな」
「うん、気になって情報を探したんだが、なかったよ。多分、補食するんだろうけれど、それをみたときにはもう助からないのかもね」
「だよな……」
 ヤツは父の仇なのだ。俺はずっと情報を探しているが、未だわからないことが多い。
「これ以上還らない犠牲者を増やしたくはない。ロイド、黒龍をーーヤツを倒そう。『勇者の剣』なら一度だけ、ヤツに致命傷を負わせられる。ヤツに僕が撃ち込める程の隙を作ってほしいんだ」
「ああ、任せとけ。ヤツを……倒してくれよ」
「うん。一緒に倒そう」

    *

 最大規模の冒険者ギルドを持つ街、ギルディアは宴で盛り上がっていた。
「勇者様ー! ヤツに一泡ふかせてやってくれ!」
「勇者のご出陣だ! 派手に飲もうぜ!」
「サインくださーい!」
 俺たちはクエストリストに十数年前からある、黒龍の討伐に向かうのだった。
「勇者の息子・大剣使いのロイド、『勇者の剣』に選ばれし伝説の勇者、以上二名の出陣を確認する。ご武運を」
 街の門が開き、太陽が俺たちを祝福した。

    *

 樹々の間隙を風が駆けて、重なり合う葉が擦れた。
 樹海の奥深くに、木々が倒れてできた巣がある。
 ……ヤツだ。
 暗闇色の体殻、四本の足、鼻と口だけの頭部。体高は3.7メートル。
 クエストリストにあった通りだ、間違いない。
 ヤツは、地面を向いてなにかにがっついている。
 俺たちはヤツに気付かれていない! ヤツは補食している! 肉を喰らい、血を啜っている!
「僕は右から、ロイドは左から回り込もう。挟み撃ちだ、いくぞ!」
 俺たちが走り出して、ヤツが咆哮を吐いた。大砲のようなそれは木の葉を幾つも落とした。
 ヤツは俺の方を向いたが、すぐに勇者を鼻で追ったーーなぜだ? なぜ今俺を狙わなかった? 俺と勇者の違いはなんだ? どちらもヤツとの距離は同じで、違いといえば、走る速さぐらいだ。俺は大剣を背負っているから、どうしても遅くなる。だが他に理由はあるか?
 勇者にヤツが右の前脚で振りかぶる。勇者はそれを寸前で滑り込んでヤツの真下を通りながら足裏を剣で切り裂こうとした。しかしそこすらも、ヤツの体殻は無敵だった。鉄の剣は跳ねとんで、勇者の武器は『勇者の剣』のみとなった。
 そこからしばらく、ヤツが攻撃して、勇者がかわし続けるだけの状況となった。
 ヤツに隙を作るには、どうすればいい……?
 勇者のかすり傷は増えていき、一瞬地面を蹴るのが遅れた。ヤツの大きく開いた口が勇者をとらえている。まずい! ここで勇者に負傷させれば全滅する! 俺は大剣を前に掲げて走り込んだ。ヤツが一瞬俺を見たとき、俺は大剣をヤツと勇者の間に刺して盾にした。ヤツの門歯が大剣を食い破り、俺は衝撃でヤツの射程外ーー後ろの木まで吹っ飛ばされた。
 これではヤツを倒せない。ヤツの狙いの理由を見つけなければ、ヤツには勝てない。
 父はこのとき、ガラスペンを取り出したのだろうか……ふとそんな事を思った。
 メモの最中、血をインクにしてでも書いて、ペンが折れたとき、どんな思いだったろうかーーーーいや、父はガラスペンを折らない。彼はいつだって冷静だ。自分でガラスペンを折るはずはない。それなら、ガラスペンはなぜ折れていたんだ……? 
 取り出したガラスペンの先を眺めると、不意の衝撃で折れたのではなく、俺の大剣みたいに齧られたような削れ方をしている。まさか、ヤツが……?
 それに、父は最期に折れた大剣をヤツの口腔に突き刺した。父は勝機があるとは思わなかっただろう。
 まさか…………すでに、父は……答に辿り着いていた……! そして、大剣はメッセージ!
 手帳の血痕も、古く固まったものしかない。父の大剣についたヤツの血液も残っていていない。
 ヤツは飲んだんだ。自分の血も、固まらなかった血液も。ヤツは血を求めて行動する!
「父さんーーーー俺に勇気を!」
 俺は父のガラスペンを自身の腕に突き刺した。ガラスペンは赤く染まっていく。
「おい真っ黒野郎! こっちをみやがれ!」
 俺は血の巡るガラスペンをヤツ目掛けて投げた。
 勇者を喰おうとしていた頭部がガラスペンを噛み砕く。
 やっぱりだ……ヤツは流動する血液を嗅ぎ分けて追っているんだ!
「なあ勇者! 耳の穴かっぽじってよく聴け! 俺が今から隙を作る。そしたら俺に気にせず、ヤツを討て! いいな!」
 俺は大剣以外の装備を総て棄て、ヤツにまっすぐ突っ込んだ。
 そうだ……てめーはその大口がっぽり開けて俺の方を向いてりゃいいんだ……
「おまえ好きだろう? 血が! 好きなだけくらうといい…………人間の恐ろしさを……な!」
 俺はヤツの目の前で、自分の腹に大剣を突き刺した。
「くらえーーこのーー真っ黒野郎ぉ!!」
 そして、腸が全て飛び散るように、大剣を振り回した。血潮が周囲を埋めた。ヤツが固まった。ヤツは周りを見回している。
 粗くなる視界の中、ヤツの頭上で剣を抜く勇者が映った。
 ヤツの叫声を最も近い所で聴きながら、俺は勇者の降臨を観た。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:25

out of ink


 じいちゃんは今日も一人、卓袱台に向き合って黙々と絵を描いている。台所にいる俺には背を向けているけど、じいちゃんが何に取り組んでいるかはもう分かっていた。真っ白なスケッチブックに絵を描いている。でも、マス目すらもないただの白紙には、線の一本すら書き込まれていない。
 じいちゃんが紙の上に滑らせているのは、とうの昔にインクの切れたボールペンだから。
 ボケについて詳しいわけじゃないけど、それにしたってじいちゃんのボケ方は不思議だった。足腰もしっかりしてるし背筋も伸びてる。読み書きもばっちりだし絵も描くし、家事も問題なく出来て、人の顔と名前も分かるし、変にふらふら出歩いたりとかもしなかった。総じて、安心して一人暮らしを継続してもらえる程度にはしっかりしている。なのに、何故か喋ることだけをやめた。
 俺の言葉にも大抵仕草だけで応じ、それでも足りない時にはメモを書く。その字だって綺麗なものだ。俺がこうして様子を見に来る度に買い物と料理を引き受けるけど、毎度ちょっとしたペン字のお手本みたいな買い物リストを渡してくる。
 でも、喋らない。
 といったって喋らないだけで、飲み食いは普通にするわけで、来てもらっている訪問のお医者様は気分の問題だろうと言う。気分の問題ならいいか、と思う。俺も喋ることを強制するつもりはない。だから、ここ数ヶ月くらいは誰もじいちゃんの声を聞いていないはずだった。
 それを補うように、じいちゃんは絵を描いている。とうの昔にインクの切れた掠れさえ残さないペンで、絶え間なく。
 まるで白紙の中に消えようとするように、じいちゃんは描き上がったらしい紙をスケッチブックから外しては床に置いていた。エアコンと併用している扇風機の風で時折それが舞い上がり、決して広くはない部屋の床をじわりじわりと覆っていく。俺がそれを片付けてもじいちゃんは特に咎めなかった。とはいえ、箱に入れたり紐で縛ったりすると、次に来る時にはまた崩れた山に戻っている。だから、最近はただ積み直しておくだけにしていた。それでも、ちらりと目を上げたじいちゃんが左手をちょびっとだけ上げるのを、俺は知っている。あれはきっと、じいちゃんの無言の「ありがとう」なんだろう。
 もう随分慣れた。
 ばあちゃんの七回忌の時にじいちゃんがあんまり喋らなかったもんだから、心配した親戚連中に時々様子を見に行ってくれと言われて通いだして、それからもう半年になる。最初の頃は雪の降るような日があったのが、いつの間にか過ぎ去って、桜が咲いて、散って、長めの梅雨が明けて、積乱雲と蝉時雨の季節になった。今日もじいちゃんは絵を描いている。描いているけど、何を描いているのかは分からない。
「――じいちゃん」
 声をかけると、じいちゃんはのそりと、ほんの少しだけ姿勢を正した。つるつる頭に浮かんだ陰影が少しだけ動く。俺の方を振り返ったりはしない。
「夜、玉子焼きにする? ゆで卵がいい?」
 じいちゃんは目玉焼きがあまり好きじゃないから、最初からだいたいその二択だ。玉子焼き、と繰り返すとじいちゃんは微動だにしない。ゆで卵、と繰り返すと、今度は微かに頷いた。じゃあ今日はゆで卵だ。
「分かった」
 ゆで卵は少し多めに作ることにしている。とはいえ夕飯を作るにはまだ早くて、かといって買い物も済ませたし、掃除だってしっかりされてる。じいちゃんはまたゆっくりと紙の上へ屈み込みながら、熱心に絵を描いていた。テレビは前からあまり好きじゃなかったから勝手につけるのもちょっと憚られる。
 となると、どうしようか。
 本棚には近代日本文学の全集が入っているけど、好きなものは大体読んでしまった。やることがなければ帰ればいいんだけど、絵を描くことに集中している日のじいちゃんは大抵食事を疎かにしがちだから、今日は夕飯を食べたのを見届けてから帰った方がいい気がする。
 どうしようかな、とまたぼんやり思いながら、じいちゃんの背中を眺めている。
 じいちゃんの背中は、日に日に細くなっていくような気がする。肩甲骨だけでなく、背骨の出っ張りまでうっすら浮かび始めている。昔から細身ではあった。背が高くてひょろひょろした人だなーと、ずっと思っていた。でもこの背中は何か、もっと根本的なところで痩せ始めているような気がする。筋肉や脂肪というよりももっと大切なものを、少しずつ少しずつ、失くしていっているような気がする。
 大切なもの。声、とか。色、とか。或いはそれは。
 ――命、なのかもしれない。
 つるつるの後頭部を眺めながら、俺は鞄の中に入れた鉛筆のことを思い出していた。
 最近、鉛筆を持ち歩くようになった。小学生の使うような、芯の柔らかい、軽い筆圧でも色のつくやつだ。それをいい具合に削って、鞄の内ポケットに忍ばせている。これでじいちゃんの絵を見ようと思って、だ。
 メモを書く時には必ずペンを変えるから、じいちゃんは意図的にインク切れのペンを選んで絵を描いているんだと思う。だったら別のペンで描いてもらうのは無理だろうし、それはもう諦めた。そうなると、最初から見える絵を描いてもらうんじゃなくて、描かれた絵を見えるようにするのがいい。それで、鉛筆だ。描き上がった絵の上を鉛筆で軽く撫でれば、もしかすると絵を浮かび上がらせることができるかもしれない。
 ただ、今も絵を描いていて、しかも描き上がったものを一枚も捨てずにいるじいちゃんに、『この絵を鉛筆で塗ってもいい?』と訊くのは憚られる。だからきっと、あの鉛筆の出番はじいちゃんの死んだ後になる。じいちゃんが死んでこの部屋を片付ける時に、あの大量の白紙を持って帰るんだろう。そしてそれをひとり、黙々と自室で塗ることになる。
 あの、果たして本当に『黒』と呼んでいいのか分からない金属の色合いの中に、じいちゃんの描いた絵が浮かび上がる。
 それを少しだけ楽しみにしている自分は、とんでもない薄情者だと思う。
 ふと、ペンの音が止まる。
 緩慢に背筋を伸ばしたじいちゃんは暫く手元を見下ろして、小さな吐息の後、湿ったような音と共に紙を切り離した。脇からちらりと見えたスケッチブックは、元々の厚みの半分ほどになっていた。なだらかに崩れた紙の山の上へそっと乗せられた完成品は、やっぱり、白紙にしか見えない。
 でもよく見ると、艶めいたようなペン先の跡が見える、ような。
 ――いや、気のせいか。気のせいだな、多分。
 気のせい気のせい、と心の中で呟いて、細く長く息を吐いた。
 橙色を帯び始めた日差しは、この時間になっても眩しかった。嫌がらせみたいな密度の蝉時雨は窓ガラスを通してさえ耳にまとわりつく。ごうごう唸る空調。ちょっと黴臭いようなその風の匂い。床を満たす白はどこか物悲しい。五感の全てをオーバーフローさせるような濃い夏の中で、喋ることをやめたじいちゃんは、少しずつ何かを失っていく。その左手が床の上の紙を広げながら、慈しむように紙面の絵をなぞる。
 じいちゃんには見えてるんだろう、と思う。
 あれは『絵』なんだもんな。じいちゃんには見えてるんだ。そりゃ、描いてる張本人なんだから見えて当然だけど。でも今、確かにそう思った。初めて実感した。
 そっか。
 じいちゃん、()()()()()()んだ。
 ぎゅ、と背中が痛くなる。なんだか分からない熱い空気が、胃の底からぶわりと膨れ上がって肺を押しつぶした。息が止まりそうだった。やっぱり真っ白にしか見えない紙を持ち上げたじいちゃんの背中が、さっきよりもまた少し小さく見えた。
「なあ」
 ぴたりと、じいちゃんの動きが止まる。昔ならきっと名前を呼んでくれた。そうでなくても、なんだ、の一言くらいは聞けた。じいちゃんは変わってしまった。でっかい蟻地獄みたいに、自分の内側に向かって沈み込みながら、そうやって少しずつ消えていくんだ。
 でも。でも今は。
「――絵、すげえいっぱい描いたじゃん」
 押し出されるように、そんな言葉が口をついた。じいちゃんは俺の方を振り返らないまま、微かに頷いた。ランニングシャツと背骨の輪郭がTシャツ越しに薄く浮いている。痩せたその背中は、少し、笑っているようにも見えた。
 手にしていた紙をそっと床へ放して、じいちゃんはまた、いつものペンを手に取った。繊維の上を滑るペン先の音は時々、インクに濡れたそれにも聞こえる。念入りに削った鉛筆の尖りきらない先端を思い浮かべながら、果たして新しいスケッチブックを買っておくべきかどうかと考えた。ペンを買い換える必要は、まあないとして。じいちゃんは、あとどれくらい絵を描くだろう。残り半分のスケッチブックを、じいちゃんは使い切るだろうか。
 つるつるの頭に傾きかけの日差しを浴びながら、じいちゃんは、黙って絵を描いていた。
 俺はじいちゃんに背を向けた。ガラスのコップに水を汲んで、夏の日差しにぬるくなったそれを流し込む。目を閉じる。目を閉じて、もう随分と遠い記憶になった、じいちゃんの優しい声を思い出そうとする……。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:18

明星


 梅雨が最後の一降りと言わんばかりに雨の筋を盛んに地面に叩きつけていた。雨混じりの夜風が窓に吹く。樋口は窓を滑る雨粒を見て、コンビニへ行くのを諦めた。何か食べたい気分だった。いっそ寝てしまおうかと思った。しかしどうにも諦められず、カップ麺は残っていただろうか、とキッチンを探すと一つだけ残っていた。
 カップのきつねうどんに熱湯を注いでから間もなく、チャイムが鳴った。
 時計を見ると、十一時半だった。
 こんな時間に、こんな冷雨の中を、一体誰が自分を訪ねてきたのだろうか。訝りながらも樋口は玄関へと向かった。
「樋口、折り入って頼みがある」
 そこには男が立っていた。津島だ。
 彼の姿を見て、樋口は嫌な予感がした。
 津島は樋口と同じく映画研究部に所属している男だ。樋口と同じく二年の浪人生活をした後に、今年入学した。放蕩癖を持つ男で有名だ。数人いるという彼女に金を使えるだけ使っている。実家からの仕送りも止められているというのに、無尽蔵の金がどこから出て来るのかといえば、そのほとんどが賭け事だった。
「とりあえず入れよ」と樋口は彼を部屋に招き入れ、二人は卓袱台の両端に座った。どうせしがない相談だろう。そう考えた樋口はうどんをすすった。
「俺が監督する映画の脚本を書いてくれないか」
 津島がそう言うと、樋口は箸を止めた。
 彼は映研に所属しているとは言えど、撮影に参加しないどころか、ほとんど部室にすらいないという体たらくだ。何故入部したのかと聞きたくなるくらいだ。そんな彼が監督をやると言っても、にわかには信じがたい。
「本気か?なんで突然」
 そう聞くと、津島は滔々と語りだした。
「本気だよ、本気。ちょっとした短編を撮ってやろうと思ってな。俺を放蕩者呼ばわりする奴らの鼻を明かしてやろうってね。そうだな、とびきりの恋愛映画を頼むよ。長くなくていい。短編だからな。花火みたいに一瞬で消える。そういうやつ。会話だって多くなくていい。ペラペラと喋られたんじゃあ煩わしい。あと詩的な台詞ばかり吐かせるなよ、冗長になっちまう」
「おいおい」
 そこで樋口は話を遮った。
「まだ書くとも言ってない。それに、どうして俺なんだ」
「頼めるのはお前しかいない。小説、書いてるだろう」
「趣味の範疇だ。それに、今の俺はバイト探しもしなきゃいけないんだ」
 先月、バイト先の酒屋が閉店したのだ。贅沢をしなければ、学生生活を数ヶ月はいつも通りに続けるだけの金はあるが不安だ。
「それならいい話がある」
「いい話?」
「そう。ある人物が持ってきた話だ」
 胡散臭い話だろうと思ったが、その話は意外にも本当に「いい話」だった。
 アパートに住んでいる老人の介護だそうだった。妻の外出中に、立ち上がれない老人の世話をすればいいらしい。場所は大学の裏のアパート。一時間で千五百円。
「な。いい話だろ」
 まあ、と樋口は返事をする。
 すると、津島はおもむろに立ち上がった。
「それじゃ、頼むよ。バイトも脚本も。撮影は九月にやるとして、八月の下旬には完成させてくれ」
「話を急ぎすぎだ。俺はいいとも言っていない」
「書いてくれよ。お前以外に適任がいないんだ。二浪仲間だろう」
 仲間という言葉ほど自分達に全く相応しくない言葉もないだろう、と樋口は考えた。津島との関係はどう言ったらいいのか分からない。ただ、これからの四年間に影のように津島という人間は付き纏うのだろう。
「分かったよ。ただし期待はするなよ」
 津島に絆されるのは嫌だった。だが、彼の突発的な映画制作の本当の理由が知りたかった。ただの放蕩者というレッテルを外したいばかりではないだろう。この答えを聞こうとしても彼は答えないだろうと思い、樋口は聞かなかった。
「よし。そのついでにバイトも頼むぜ。これは連絡先だ」
 電話番号が書かれたメモを樋口に握らせて、津島は玄関の外へと消えていった。
 きつねうどんはすっかり冷めていた。それを一気にかき込んで片付けると、パソコンの前に座って考えた。
 津島のように色恋沙汰に縁のない俺が恋愛映画の台本など書けるのだろうか。いっそのこと津島が書いた方がいいものができるのではないか。幾通りもの恋愛のパターンを知っている彼の方が何枚も上手のはずだ。
 頭に浮かぶのは恥ずかしい妄想を引き伸ばしたような筋書き。それもどこかで見たことのあるようなものばかりだ。
 「恋愛映画」
 その日は新しい文書ファイルに題をつけるだけで、それ以上書かなかった。
 バイト先は二階建てのアパート、その一階だった。
 津島に渡されたメモの通りの電話番号にかけたのが、三日前だ。電話の声はしゃがれた女性の声だった。彼女が言うには、夫に介護が早急に必要らしい。足と心臓を患っていて、一人で起き上がれもしないそうだ。面接もせずに、すぐにでも採用するとのことだった。
 面接もしないいい加減さが不安だった。
 表札には藤間とある。
 樋口がチャイムを押すと、やつれた感じの女性が出てきた。皺の深さ以上にそのくたびれた様子が彼女をさらに老いているように見せていると思った。
「樋口さん、ですね」
「はい。よろしくお願いします」
「どうぞ。中へ」
 玄関に入ってすぐに、どこにも電気が点いていないことが気になった。しかも、両隣の建物の影になっているようで窓からも光は大して差し込まない。どこもかしこも薄暗い。
 通されたのは書棚が三方を覆う部屋だった。部屋の中央のテーブルで樋口と藤間夫人が向かい合った。
 藤間夫人はため息を吐いてから、話を始めた。
「主人は狂っていましてね」
「くるっている、と言いますと?」
「まず、夫の元の職業の話からせねばなりませんでしたね。夫は小説家だったのです」
「小説家、ですか」
 小説家にも色々いるが、こんな日当たりの悪いアパートに住んでいるところを見ると、あまり売れなかったのだろう。
「藤間素月、という名前なのですが、御存知ですか?」
「し、知ってます」
 驚いたせいか、樋口の声は喉に引っかかって上手く発せられなかった。
 藤間素月。
 六十年代からゼロ年代初頭まで活躍したミステリー作家だ。彼はデビューから間もなく大きな賞を獲得するなど、期待の新星と騒がれた男である。その後もヒット作を生み出し続けたが、十年前の長編の刊行以来、新刊は出ていない。
 樋口の父の本棚には、藤間素月の小説が数多く収められていた。樋口は藤間素月の作品を特に耽読した。高校時代には、父とは別に彼の作品を自分で集め始めていた。樋口が実家から持ってきた本の中で一番多いのは藤間素月の著書である。
「自分、藤間先生のファンなんです」
「あら、そうでしたか。主人も喜びます」
 そこでようやく、藤間夫人はにこりと笑った。影があるものの、本当に笑っているということは分かった。
 藤間夫人は再び話を進める。
「十年前に主人は足と心臓を病んでしまいまして、執筆活動から遠のいたのです。それ以降、小説を書いてはいませんでした。でも、二年前に突然主人が『原稿用紙を買ってこい』と私に言ったのです。その頃は小康期のような時期でしたから、多少の執筆くらいは、と原稿用紙を買ってきたのです。それから主人は狂ってしまいました」
 夫人はまたもため息を吐いた。
 樋口は身じろぎせず、夫人の話を聞いていた。
「主人はインクの切れたペンで延々と原稿用紙に何かを書き続けているのです。私がインクの入ったペンを渡しても、インク切れのペンで延々と」
「何も書いていない、ということですか」
「いえ。分かりません。あれがペンを原稿用紙に擦りつけているだけなのか、作品を書いているのか。私が聞いても答えないのです」
 ボケているのではないか。樋口はそう思った。
「あれから私の方も狂ってしまったみたいで、次第にやつれてしまいまして。先日カウンセリングしてもらったら、主人と少し距離を置いた方がいいそうなのです」
 それから、夫人は樋口に何をすればいいのか説明した。
 食事と飲み物の用意。原稿用紙の補充。基本的にはこの二つをやればいいらしい。授業がない時や暇な時に夫人と介護を交代するということだった。介護と言うからには、もっと過酷なものを想像していたから拍子抜けだった。
 そうだ、と夫人は付け加えた。
「もう一つ、主人が脱走しないよう見ていていくださいね」
「脱走、するんですか」
 はい、と夫人は困った表情を浮かべた。
「主人は競馬が好きですから」
 聞けば、藤間老人は何度かベッドから這い出て、車椅子を駆使して二駅先の競馬場へと行ったことがあったらしい。
 そういえば藤間先生の作品に競馬場がよく登場していたな、と樋口を思い出した。
 夫人は対岸を見るような目で語った。
「昔の主人は博才があったんですよ。万馬券を当てたりしてました。二人で競馬場へ行って、帰りにはすき焼きなんかを食べて」
 樋口は何も言えずに、深くなっていく皺を押しのけるかのように光る夫人の目を見ていた。
 競馬の話の後、夫人はリビングに樋口を案内した。
 その部屋の第一印象は白だった。
 部屋の面積の多くを占める白いベッド、その周りに山と積まれた白い原稿用紙。病院の潔癖な白とは違う、少し黄ばんだ白を思わせた。
 ベッドの備え付けのテーブルに屈んでいる老人が藤間素月その人だ。彼の骨ばった細い腕が原稿用紙に万年筆を擦りつけている。そのペン先からは何も生まれない。摩擦による掠れた音がざらざらと聞こえる。
「あなた、こちら樋口さん。これから私と一緒にあなたのお世話をしてくださる方よ」
「うん」
 夫人の紹介に、藤間老人は短く答えるだけだった。その声は喉からひねり出したような声だった。
「ごめんなさいね。悪い人ではないのです」
「大丈夫です」
 何が大丈夫なのかは分からなかったが、樋口はそう答えた。この部屋に足を踏み入れた時に比べれば、かなり不安も払拭されているようには思えた。
 その日はそれで帰ることになった。明日から来てほしいと、夫人は帰り際に言った。
 アパートから出ると、眩しい光が樋口の目を刺した。津島から頼まれた脚本について考えながら帰った。
 部屋には樋口と藤間老人の二人だけだった。
 初めての出勤日。夫人は外へ出ている。樋口は何もせず、ベッドの隣の椅子に座っていた。多少の緊張があった。まさか藤間素月の隣に座る日が来ようとは思わなかったのだ。藤間老人は相変わらずインクの切れたペンを走らせていた。時折、水を求めるので、樋口はキッチンに取りに行った。
 藤間老人が口を開いた。初めて原稿用紙から目を外して、樋口の方を向いた。
「き、君は、何か書いたり、するのかい」
「そ、そうですね。たまに小説を書いたり、今は友人からの頼みで自主制作映画の脚本を少し」
 どぎまぎしながらも樋口が答えると、藤間老人は「そうか、そうか」と樋口の前で初めて柔らかい笑顔を見せて、「ひひひ」という高い笑いを響かせた。
「君は、パソコンで、書くのかい」
「はい。パソコンですね」
「ここで、書いていて、いいよ。暇、だろう」
 いいんですか、と樋口が再確認するように聞く。老人は再び「ひひひ」と笑う。
 樋口は鞄からゆっくりとノートパソコンを取り出した。どこに置こうかと思案していると、老人の細い指がベッド脇の小さい棚をトントンと叩いた。樋口は一礼してから、パソコンをそこに置く。老人は再びペンを取った。
 「恋愛映画」のファイルを開くも何も思い浮かばなかった。憧れの作家の隣にいるという緊張感もある。しかし、それ以上に自分の発想の乏しさが原因だと思われた。
 キーボードを戯れるように叩いて文字を打っては消す。またその繰り返しだった。
 一向に進まない原稿に嫌気が差したところで、樋口は藤間老人の方を見た。
 細い腕はまるで予定された行動を正確に行う機械のように動いている。まるで設計図でもあるかのようだった。顔はどこか笑っている。
 この人は何をしているのだろうか、と樋口は考えた。
 夫人は、藤間老人が狂っていると言った。しかし、あの藤間素月が狂うはずがない。精緻な言葉に、驚天動地の仕掛けを紡いだ男に狂いなどあろうはずがないのだ。白い原稿にも何か理由があるのだ。樋口はそう考えていた。
 あの、と樋口はとうとう口を開いた。
「藤間先生は小説を書いてらっしゃるんですか?」
 彼の手は止まらない。変わらずざらざらと万年筆の音が聞こえる。まるで樋口の質問がなかったものであるかのように、数十秒の沈黙があった。
「そうだ」
 沈黙に落とされた一言は樋口をはっとさせた。
「あ、ありがとうございます」
 樋口はほとんど確信していた。藤間老人は決して狂疾によって原稿用紙に筆を遊ばせていたわけではない。
 動悸を感じた。彼の短い返事の奥に重い鉛色が見えるような気がした。これ以上奥に進むことは、自分も何かを背負うことになるのではないか、と樋口は思った。
 そこで夫人が帰ってきた。着物屋の袋を提げていた。大学時代の友人と買い物とお茶をしてきたと彼女は話した。
「脚本家様、原稿を進んでいますか?」
 津島が再び樋口の部屋を訪れたのは、七月下旬の夜だった。
 脚本の考えはまとまりつつあった。大学の図書館で出会った二人が、数年後に神社で再会し、付き合うという凡庸なものだった。
「今やっているよ」
「そうか、それは良かった」
 そう言うと、津島はパソコンの画面を覗き込んだ。そして、ある行を指差した。
「ここの『髪がなびく』ってあるが、このヒロインはどれくらいの髪の長さを想定しているんだ?」
「一応、頭の中では長い髪がなびくのを想像していたけど、駄目か」
 うーん、と津島は唸った。
「肩にかからないくらいでいいんだ。短めだ」
「津島の好みか?」
「まあ、そんなところだ」
 ストーリーの訂正を求められると思っていたが、髪型について言われたことは樋口には意外だった。髪型がそんなに大事かと思ったが、短めの髪であるということを前提にシーンを作り直すことにした。
 樋口が書いているのを、津島はじっと見ていた。
「バイトは順調か?」
 津島は何気なく聞いた。
「ああ、順調だ。でも、あの人は不思議な人だ」
「不思議、ねえ」
「掴みどころのない人だ。昔は小説家だった人で、競馬をよくやっていたらしい」
 へえ、と津島は興味がありそうに言った。
 津島は二十歳になったその日から競馬を始めていた。浪人生活中だったが、勉強の傍ら競馬場に通っていたらしい。
「バイト中に脚本も書けるし、いい仕事だよ」
 それは樋口の本心だった。藤間老人と樋口は小説の話はほとんどしないし、二人は別々の文章を書き進めているが、樋口は一体感のようなものを感じていた。そのせいか、最近は筆が進むようになってきていた。
「とにかく順風満帆っことか。それは何よりだ」
「そう。万事上手くいっている」
 そうだ、と津島は提案した。
「これから外に食べに行かないか。美味いもつ煮の店を見つけたんだ」
 お、と樋口は呼応した。
「いいじゃないか。行こう行こう」
 万事上手くいっている。
 潤滑油など必要ないくらいスムーズに、生活という機械は回っている。歯車は噛み合い、空回りすることなく回転を続けている。それを実感すると、落ち着いた嬉しさがこみ上げてくる。今日はそれを強く感じた。
 その晩、樋口はいつになく上機嫌にもつ煮をつついた。
「競馬新聞、を、買って、きて、くれない、か」
 藤間老人の言葉に、樋口はどうすればいいか分からなかった。
 今日はここから最も近い競馬場の開催日だった。つい先日、津島に会った時、彼は競馬の話をしていた。今日の競馬にいつも以上に意気込んでいた。どうやら金策に追われているらしかった。
「夫人が怒りますよ」
「別に、競馬場に、行こう、と、言っているんじゃない。君が、私の、言うように、買えば、いい」
 樋口は仕方なくコンビニへと出かけた。部屋を出る前に、競馬場へ行かないよう老人に念を押した。老人が「ひひひ」と笑いで答えるので、不安になった。
 八月だった。肌を焼くような日差しは加減を知らず降り注ぐ。汗は粒となって肌を滑る。
 コンビニにはいくつか競馬新聞があった。どれがいいのか分からず、一番安い物をレジへと持っていくと、店員の中年女性が怪訝な顔をした。
「若いのに競馬?」
「若いと競馬はやっちゃいけないんですか」
「そうじゃないけど」
「それに競馬をやるのは俺の、俺のじいちゃんです」
 そう、と店員は少し不機嫌そうに競馬新聞を樋口に手渡した。
 帰ると、藤間老人は変わらず白い原稿用紙を相手にしていた。
「ありがとう」
 そう言って、老人は原稿用紙をサイドテーブルに置いた。競馬新聞をベッドに広げて、目を凝らして見ていた。
「君、君」
 やがて、老人は樋口は手招きした。そして、競馬新聞の出馬表を指さした。
「どう、思う。どれが、いい、と、思う」
「俺は分からないですよ」
「いいんだ。それでも。私、の、一万円、を賭ける。君、の、金じゃない。」
 老人は異論は許さないという風に、競馬新聞を樋口に押し付けた。また白い原稿用紙に戻っていった。
 樋口が競馬を知らないということを藤間老人は知っているはずだった。樋口は出馬表の見方も分からない。しばらく出馬表を睨めつけるように見ていたが、一向に分からない。
 半ば投げやりに樋口は選んだ。
「じゃあ、これで」
 それは七番の馬だった。ラッキーセブンだから、という安直に過ぎる理由から選んだのだ。さらに、名前は「エンゼルライツ」。エンゼルという名がついているのも、縁起が良さそうだ、と樋口は思ったのだ。
「いい、じゃないか。私、も、それが、いい、と、思う」
 老人はそう言って、サイドテーブルの財布から一万円を抜き出した。それを樋口は両手で受け取りながら、老人に聞いた。
「藤間先生。友人に買ってきてもらおうと思うのですが、いいですか」
「構わんよ」
 一礼してから、樋口はスマホを取り出して、廊下に出た。電話をかけると、相手はすぐに出た。
「どうした。電話してくるなんて珍しいな」
「津島。今日、競馬場行くよな」
「行くさ。今日は勝負日だからな。それに、今日は来るぞ。そんな気がする」
「そうか。それで頼みがあるんだけど。第三レースの七番、エンゼルライツの単勝っていうのを買ってくれ。一万円で」
「お、なんだ。お前も競馬をやるのか」
「違う。藤間先生だ」
「なるほどな。分かった。買ってきてやる。それにしてもエンゼルライツか。奇遇だな、俺もだ」
「そうなのか。勝てそうか、その馬は」
「いや、どうかね。でも、今日は来るはずだ。あれは来る。今日は違う」
「本当か?」
「さあね。とりあえず第三レースを楽しみにしてろよ。レースの開始時間にまた電話する」
 電話を切った。蝉の声が喧しい。
 樋口には一つ気になることがあった。津島の声がどこか震えていたのだ。まるで、崖の淵に立たされているようだった。
 部屋に戻ると、競馬のことなど忘れているかのように、老人は白い原稿用紙に向き合っていた。樋口も隣で脚本を書いた。だが、他人の金がかかった競馬が気になって、集中できず終いだった。
 スマホが鳴った。
「樋口、始まるぞ」
 藤間老人にも聞かせようと、スマホをスピーカーモードにする。しかし、老人は原稿用紙以外に意識を向けない。
 津島が早口であれこれと言っているが、樋口にはよく分からなかった。辛うじて、すでにレースが始まっていることは理解できた。周りの声に負けじと津島は大声でレースの模様を伝えていた。
「第三コーナー抜けたぞ、駄目だ、エンゼルライツは後ろから三番だ。おい、頼むぞ!」
 怒号すらも聞こえるスマホのスピーカーは蝉の声も蹴散らしそうなほどうるさい。
 その後もエンゼルライツは後方にいるようだった。
「最終コーナを抜けた、ここからだ、ここから。速く、速く。あっ! 速いぞ! 行ける、行ける!」
「どうしたんだ、津島」
「エンゼルライツがごぼう抜きだ! 先頭集団に入っていった、もう集団の先頭だ、あと三頭、あと二頭、あと一頭だ! いけ! 追い抜いたぞ! このままだ、追い抜かされるな!」
 怒声とも応援ともつかない声がしばらくスピーカーから発せられた。何を言っているのか分からず、レースの状況は判然としない。老人の様子はどうだろうかと見てみると、微笑を浮かべていた。
 はあ、と声が聞こえた後、疲れた吐息が聞こえた。
「どうだった、津島」
「やった、単勝十五倍」
 十五倍ということは、藤間老人の一万円は十五万円になって返ってくる。樋口は頭を打たれたかのような衝撃を覚えた。同時に、甘い開放感があった。
「ほ、本当か」
「本当だ。俺も四十五万を手に入れた」
 ふう、と津島は息を吐いた。
「そろそろ、金が必要だからな」
 津島の言葉には疲れがあるように樋口には聞こえた。
 いつも金の話となれば、目を輝かせている津島が金の話で疲れた声を響かせるのはついぞなかったことだった。まるで、借金か何かの支払いに迫られているような声だった。
 特に何も聞かず、樋口は別れを告げ、電話を切った。
 老人が樋口を見ていた。
「金は、君に、やる。家にあると、妻が、怪しむ」
「待ってください、それはできないですよ」
 ただでさえ、あまり忙しくないこの仕事で時給をもらっているのだ。さらに十五万円をもらうことは気が引ける。
「もらって、くれない、と、困る。だから、取っておけ」
「あ、ありがとうございます」
 老人は再び原稿用紙に視線を戻す。樋口もまた脚本に戻った。いつものように、会話はほとんどなくなった。
 夜、パソコンの前で考えを練っていると、来客があった。
「頼む、樋口。しばらくここに泊めてくれ」
 走って来たのか、肩で息をする津島はそう言った。
 状況は読めないが、とにかく樋口は彼を中に入れた。汗ばんだTシャツに、背負ったバッグに詰められた荷物に、常ならぬ眉の下がった情けない顔に、樋口は尋常ではないものを感じた。
 冷蔵庫から出した麦茶を注いで出すと、津島は一気に飲み干した。
「ついこの前まで、俺には五人の彼女がいた」
「この前まで?」
「そうだ。別れてきた。四人には、な。文句を言ってきた女には金を渡した」
  放蕩者とも呼ばれた津島が自ら別れを切り出すとは一体何があったのだろう。樋口は別世界にでも来たように感じた。津島の暗澹たる表情がさらにその感覚を強めていた。
「あと一人と別れなくちゃいけない。だがな、その女が文句どころか、手近にあったもので殴ろうとまでしてくるんだ。だから避難場所が必要というわけだ」
「待て。突然、お前が女と別れようなんてどういうことだ。そこから説明してくれ」
 津島は歯を強く噛んだような表情を見せて沈黙した。
「それは答えられない。とにかく、ここに泊めて欲しい。金は払う」
 そう言うと、津島は封筒を差し出した。
 樋口は黙って、その封筒の中身を見た。中には二十万円が入っていた。この前の競馬の勝ち分が入っていることは聞くまでもない。
 津島は語気を強めて言った。
「何も言わずに受け取ってくれ。俺達の間に『金なんかいらない』なんていう友情じみたものはないはずだ。二浪、映画研究部員。それだけの共通項で辛うじてつながっているに過ぎない。受け取ってくれ」
「分かった」
 樋口はおもむろに封筒を自分の側に引き寄せた。
「部屋の隅で寝かしてもらう」
 津島は言うが早いか、部屋の隅に丸まるように収まった。十分もしないで寝息が聞こえた。
 樋口は眠気を微塵も感じなかった。もうこのまま一晩中脚本を書いていよう。そう思ったが、直にキーボードに突っ伏して寝てしまった。
 起き上がると、すでに昼前だった。パソコンの傍らに書き置きがあった。津島の筆跡だった。
「もう一度、あの女と会ってくる。」
 女の扱いに長けた津島がここまで女性関係で辟易しているのは、初めてだった。
 朝食か昼食か分からない食事を摂った後、小説を読んでいるとチャイムが鳴った。
 津島か、と樋口は玄関へと向かった。しかし、扉の先にいたのは全く見知らぬ人だった。
「こんにちは、津島さんはいらっしゃいますか」
 その人は背の低い女性だった。髪は肩にかからないくらいで、前髪がかかった目が不安そうにこちらを見上げている。
「津島は、津島はちょっと出かけています」
「そうですか」
 彼女の目はさらに不安に濡れた。
「ちなみになんですが、津島にはどんな用で? 話したくなければいいのですが」
「いえ、話せないようなことではないのです。津島さんが今は諸事情でここにいるというので、これを」
 そう言って、彼女は背負っていたデイバックからタッパーを取り出した。中身は煮物のようだった。
「よく作って持っていくんです、津島さんに」
「あの、嫌でなければ、少し部屋の中で涼んでいきませんか。津島について聞きたいことがあるんです」
 樋口がおずおずと言うと、彼女は「ええ、いいですよ」とどこか不安そうではあるものの承諾した。
 彼女を部屋に入れ、麦茶を入れる。彼女は酒田彩と名乗った。
「樋口さんって、藤間さんの介護を引き受けてくれた樋口さんですか?」
 初対面の酒田の口から「藤間」の名前が出たことに樋口は目を見開いて驚いた。
「どうしてそれを?」
「藤間さんは親戚なんです。介護をしてくれる人を探していると話したら、樋口さんという方がやってくれると津島さんが言ってくれたんです」
 なるほど、と樋口は心の中で呟いた。
「失礼かもしれませんが、津島とはどういった関係で?」
 樋口の不躾とも思える質問に、酒田は静かに戸惑った。うーん、と唸った後に彼女は答えた。
「自分でもどういう関係なのかは分かりません。ただ津島さんの隣人というだけで」
 聞けば、彼女は今年大学に入ったそうで、津島と同じアパートに入居したそうだった。
「私が銀行からお金を降ろした後にスリにあったんです。バイトも始めていませんでしたから、もう貯金がなくて。それを大家さんに相談していたら、ちょうど津島さんが通りがかって、津島さんがその月の生活費をくれたんです。返すって言っても聞いてくれませんでしたから、未だに返せていません」
 なるほど、と樋口は思った。酒田がよく津島に差し入れするのは、その恩返しという意味もあるのだろう。
 酒田は津島について語っていく。それは樋口が知らない津島の話だった。
「津島さんは私を夕食に招いてくれたりしました。笑いながら色々話してくれました」
「笑いながら?」
「え? はい、そうです」
津島はあまり女性に笑顔を向けなかった。せいぜい乾いた笑いを見せるくらいだ。
「一昨日、津島さんはこう言ってました。これから立て込むって。何か困ったことがあったらって、ここの住所を書いたメモを渡してくれました。もしかして、大変なことに巻き込まれているんじゃないですか?」
 いや、と樋口は誤魔化す。
「そんなことはないと思う。津島は元気でやってるよ」
「そうなんですか?」
「そうだ、彼、映画研究部に入っているからその関係で忙しいのかもしれない」
 咄嗟の嘘が通じるか、樋口は不安になった。酒田は「映画」と低く呟いた。
「津島さんが映画を撮るって聞いたんです。私にはぜひ見にきてほしいって」
「あ」
「どうしました?」
「いやいや、何でも」
 樋口は酒田の顔を見た。顔というよりは髪だった。
津島が唯一脚本に注文をつけた部分を樋口は思い出していた。
突然の恋愛映画の脚本の依頼、金策、逃走。酒田という人物を鎖に津島の行動が全てつながる。
気障な奴だと思った。酒田の容姿をモデルにした主役の恋愛映画を作ろうとするとは。手切れ金の調達、別れたくないという女からの逃走。全て酒田との生活を作り上げるための下準備なのだろう。生活の機械に必要な歯車を一つずつ集めている。
「津島さんなら大丈夫ですよね」
ようやく安心した顔を見せたに、樋口も安心した。酒田はぺこりと御辞儀ををして去っていった。
 夜になって津島が帰ってきた。
「やっぱり駄目だった」
 そう呟いただけで部屋の隅で寝てしまった。
 翌朝、津島は煮物が入ったタッパーを見つけて驚いていた。その煮物を食べ終え、容器を洗い終えると、「樋口、何も言うな」と言って、彼はまたどこかへ出かけた。
 いつものように藤間老人のいる部屋に行こうとすると、夫人が手招きした。最初に夫人と話した書庫のような部屋に樋口は通された。
「主人には秘密にしておいてほしいのですが」
 夫人はそう前置きした。樋口は嫌な予感がした。
「主人の容態が急に悪くなってきました。主人も息苦しさからそう感じているとは思いますが、そうとは知らせていません」
 樋口も気づいていた。老人の呼吸は日に日に速くなっていた。苦しそうにしている時間は増えた。
「分かりました。秘密にしておきます」
「お願いします。主人は九月を、迎えられないかもしれません。そうなったら、遺品の整理のお手伝いもお願いしたいのですが、よろしいですか?」
「ええ。大丈夫です」
 樋口は頷いたが、亡くなる前から亡くなった後のことを話し合われている藤間老人を気の毒に感じていた。夫人が酷薄な人間でないことを知っていても、老人を可哀想に思ってしまう。
 その後はいつも通り、老人の隣で脚本を進めた。
「君、君」
 老人が樋口を掠れ声で呼んだ。樋口は老人の顔に耳を近づけた。
「私、は、もう、長く、ない」
 瞬間、樋口はどきりとした。まさか、さっきの会話が聞かれていたのではないかと思った。
 老人は呼吸を整えながら話す。指が原稿用紙の山を示している。
「あの、原稿、を、君、に、託す。あれ、を、全部、燃やして、くれ。一枚、残らず」
「いいんですか」
「いい。あれは、焼かれる、べきだ。火、に、包まれて、あの、作品、は、完結、する。いいか、燃やせ、燃やせ、燃やせ」
 呪詛のような「燃やせ」という言葉が樋口の耳に張り付くように残った。自分が藤間素月の原稿用紙を燃やすのか、と思っても緊張はしなかった。傍から見れば、白石原稿用紙に少しペンによる傷ができているだけなのだ。多少の抵抗はあっても燃やせるだろうと思った。
「分かりました。俺が燃やします」
 そう言うと、藤間素月はにやりと笑った。
 部屋に帰ってすぐにチャイムが部屋中に響き渡った。
 扉を開けると、女性が立っていた。また知らない女性がだった。香水の匂いが鼻を刺すようだった。
「津島って男いるでしょ」
 女は樋口を睨みつけてそう言った。樋口が答える時間も与えずに、女は樋口を押し退けて中に入った。
「昨日あんたの後ろをつけたのよ! ここにいることは分かってるんだよ! いるんでしょ!」
 樋口は戦慄したが、幸いにも津島は外に出ていた。
 この女が津島を殴ろうとしたのか、と怖くなった。辺りを見回して武器になりそうなものがないか確かめた。
 女は次から次へと隠れられそうな場所を探していく。カーテン、キッチンのクラガリ、テーブルの下。引き出しも大小構わず開け放した。津島の痕跡を探しているのだろうが、そういっだのはない。
「津島はここにはいない」
「嘘。昨日見たって言ってるでしょう!」
女はしばらくすると、諦めて部屋を勢いよく飛び出した。去り際に樋口の目を睨んでいた。女の金切り声がまだ耳の奥で響いている。
 樋口は散らかった部屋を片付け始めた。
 自分の周辺で色々な出来事が多発している。脚本。津島と酒田。藤間老人。白い原稿用紙。
元々は噛み合っていた歯車が今や歪な音をたてている。
もうすぐて八月が終わる。
七月に戻りたい。もう一度やり直せるのなら、と考えた。しかし、今起こっていることのほとんどは樋口の知らないところに端を発している。
もしも、全てが上手くいったならば。もしも、歯車をが噛み合っていたならば。
藤間先生の隣で脚本を書く。たまには先生が話しかけてくる。競馬をやってみたりする。部屋に帰って暇をつぶしていると、津島がやってくる。彼は酒田さんと上手くやっている。この前も大学前のカフェにいた。夜になれば、俺は津島と夕食に出かけるかもしれない。もしくは、津島は酒田さんと、俺はまた別の誰かと出かけているかもしれない。そんな生活が続く。
樋口はこんな風にもしもの話を考えてみた。
空想みたいな生活だ。それでも、「もしも」が積み重なればたどり着く生活だと樋口には思えた。
藤間老人が亡くなった夫人から連絡あったのは、九月一日のことだった。
日がまだ昇りきっていない次官に、老人は息を引き取った。彼の亡骸の周りに医者以外には夫人しかいなかった。静かだったという。
藤間老人の遺品の整理のため、夫人が指定した時間にアパートへ向かった。
ドアを開けた夫人はいつも通りだった。いつも通り、やつれた様子だった。
誰もいないベッドの傍らには、パイプなどの小物と白い原稿用紙の山がある。
「主人の物はもっとたくさんあったと思ったんですが、案外少なくて」
 藤間老人の遺品はベッドの側に置かれた物の他には書籍くらいしかなかった。本は図書館に寄贈するらしい。中には藤間素月の初版本もある。
「あの、この原稿用紙のことなんですが」
 樋口は夫人に老人の遺言の話をした。夫人は憂鬱な顔をして、「お任せします」とだけ言った。
 ベッドの解体を二人で進めていると、夫人がぽつりと言った。
「私と主人がどうしてこんなアパートに住んでいるか分かります?」
「いや、分からないです」
「主人がすぐに競馬に全部つぎ込んでじうからなんです。ふふ、おかしいでしょう?」
 夫人が柔らかく笑う。目にも柔らかい優しさが滲んでいる。
「賞金もですか?」
「ええ。賞金もです。競馬好きで女好きでした。でも、いい人なんですよ」
 競馬や女という単語から、樋口は津島を思い出していた。
「あの人、ある賞をもらった時にその賞金を全部賭けたんです。それで見事勝って、私に指輪を買ってくれたんです。そのお店で一番いい指輪を」
 その後で樋口は紙袋を提げてアパートの裏に出た。紙袋の中には白い原稿用紙がつまっている。
 焚き火のためのドラム缶があったので、その中に原稿用紙を放り込んだ。一枚だけ手にとって、見納めだと言わんばかりに樋口はじっと見た。引っかき傷のようなペンの跡ばかりが残っている。それも読み取れるものはほとんどない。完結しているのかさえ不明だ。樋口はその一枚もドラム缶に放った。
 何度か擦って、ようやくマッチに火が灯った。
 燃やせ、燃やせ、燃やせ。
 藤間老人の声が頭の中で繰り返される。
 マッチを躊躇いつつも原稿用紙の山に落とすと、みるみるうちに火が白い原稿用紙に広がる。
 火をつけたことを惜しむように、樋口は急に白い原稿用紙の意味を考えた。
 ある考えにたどり着くと、暑さによる汗とは別の汗が出てきた。取り返しのつかないことをしてしまったという気持ちに襲われた。
 何も書いていないように見える原稿用紙。何も書かれていないからこそ、作品への純粋な熱だけがこの白紙の上に宿っているのではないだろうか。
 ここには熱がある。彼の熱は指先からインクなどとうに切れているペンを伝って、原稿用紙を埋めていった。それぞれのマス目に引っかき傷のように残っているのは彼の筆跡だ。残熱だ。
 熱は紙と共に炎に散らされていく。
 涙は出なかった。その代わりに、藤間素月の小説の一節を樋口は思い出していた。「彼は明星のようにすぐ消える。光と闇が混じり合った短い時間の中でしか生きられない。純粋な昼も夜も見ないうちに消える」
 燃え尽きるのを見届けてから、樋口はアパートを後にした。帰り道の途中、あの人がもういないと思う度に胸に風穴が空いたような気分になった。
 部屋に帰っても、何もする気は起きなかった。パソコンの電源を点けて、「恋愛映画」のファイルを開く。すでに完成していた。後は津島に見てもらうだけだが、その津島の行方が知れない。樋口のところにはすでにいなかった。
 何もせずにいると、酒田が訪ねてきた。前と同じようにタッパーを持ってきていた。前の分のタッパーと交換にそれを受け取った。
「津島さん、大丈夫ですか?」
 まだ会えていないのだろう。不安がる坂田になんて言えばいいか、樋口には分からなかった。
「大丈夫、そのうち戻る」
 そうですよね、と酒田は弱々しく言って、帰った。
 夜になるまで、本を数ページ読んでは棚に戻しての繰り返しだった。気持ちはまだ落ち着かない。何もせずにベッドに寝転がると、藤間老人のことが思い出された。「ひひひ」という笑い声が耳元で聞こえる気がした。
 その笑い声に感傷的になりそうになる。それを押し殺すように、もう一度脚本を読み返す。
 そういえば、まだファイル名が「恋愛映画」のままだ。この脚本の題名を決めなければならない。これはどんな脚本だろう、と樋口は考えた。花火みたいに一瞬で消えるような脚本を、と津島に言われたことを思い出した。
 一瞬で消える。
 樋口はそう呟いた。
 チャイムが鳴った。
 樋口が急いで扉を開けると、そこには傷だらけの男がいた。シャツは破れ、血が滲んでいる。。傷口は晒されたままで治療もされていない。
 津島は吐き出すように言った。
「樋口、早く脚本を見せてくれないか」
 津島は例の女が呼んだ数人の男と殴り合いになったらしい。女の方も愛想を尽かしたようで、もう会いにくる気配はないという。
 両手でも数え切れないほどの絆創膏とガーゼが貼られた姿で、津島は監督をすることになった。酒田には撮影の時の怪我だと嘘をついているらしい。
 九月になっても暑さは引く素振りを魅せない。撮影をしている並木道には十人くらいの映画研究部員が汗をかきながら、準備をしていた。その様子を監督と脚本家が見ていた。
「明星、か」
 津島が台本の表紙の大きく印刷された文字を読み上げた。
「その題名、どう思う?」
「いいんじゃないか」
 そうか、と樋口は満足そうに言った。脳裏にはあの小説家の姿がある。
 並木道の向こうから手を振る影が見えた。酒田が差し入れを持ってきてくれたようだった。津島は手を振り返すことはしないで、酒田に近づいていく。
 明星が見えない空の下で、「明星」の撮影が始まろうとしていた。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:17

ペンと踊る


 ペン先が滑らかに紙の上で踊る。軸を支える手に従って細やかなターンやステップを繰り返し、左から右へ罫線の間を滑っていく。そして端へ辿り着いたかと思うと次の瞬間には新しい行へ跳び、先ほどとはまた違う複雑な身のこなしを見せる。
 ペンの動きは次第に速さと激しさを増し、ついには手を振り回し振り切らんばかりに身をよじる。手は軸を逃がすまいと指に力を込め、その反動でペン先は罫線を越える。
 だが、どれほど乱舞しようともペンがその痕跡を紙上に留めることはない。そのペンはとうにインクが切れているのだから。
 僕はペンを置くと、椅子の背にもたれかかった。気分はすっきりとしていたが、体は疲れ切っていた。このインク切れのペンを走らせた後はいつもそうだ。
 僕はだらりと椅子に背を預けたまま、真っ白なページに寝かせたボールペンをうつろに見つめた。
 そのペンはまるっきり男の部屋には似つかわしくなかった。軸はピンクに白の水玉模様で、カチカチ押して芯を出し入れする部分には濃いピンクのプラスチック宝石がはめ込まれている。
 ファンシーショップで売られているような代物を眺めていると、元の持ち主の幻がゆらゆらと立ちのぼってくるようだった。僕の手に渡る前、この可愛らしいペンはある少女のものだった。
 僕が九歳か十歳の頃の出来事なので、約七年前のことだ。その女の子は僕の同級生で、名前をルカといった。確か瑠華という漢字表記があったはずだが、小学校中学年の子供には難しかったのか、僕の頭には「ルカ」と片仮名でインプットされていた。
 ルカは同年代に比べて背が高く、整った顔立ちはいくらか大人びていた。性格も幾分ませたところがあったが、割と気分屋で周りを振り回すことも少なくなかった。それでも嫌味のない愛嬌があったので、憎らしいというよりルカらしいと肯定的に受け入れられていた。
 そんなルカは憧れの的というほどではないが、なかなか男子に人気があった。もちろん僕もその一人だった。
 どんないきさつでそうなったのか、今となっては憶えていないが僕とルカは仲良くなった。それも単なる遊び友達ではなく、今でいう友達以上恋人未満という感じだ。僕はルカが自分を好いてくれているんじゃないかと内心かなり浮かれていた。
 そんなある日、理由は忘れたが僕は彼女からボールペンを借りた。その日は確か金曜日で、月曜日に学校で返す約束になっていた。
ところが月曜の放課後、僕とルカは些細なことから口げんかになった。些細なことの具体的な内容や細かいやりとりはすっかり記憶から抜け落ちているが、顛末だけははっきりと思い出せる。僕はけちょんけちょんに言い負かされ、ルカに散々ののしられた。
自分の心に忠実なルカのことだから、他のことで僕に会う前から苛立っていたのかもしれない。
とにかく、僕らの関係はそこで終わった。
別れ際、おずおずとペンのことを切り出した僕に、ルカは一言「返さなくていいから!」と叫んで寄越した。そうしてピンクのペンは僕のものになった。
初恋がこんな形で終わって、僕はずいぶん落ち込んだ。けれどもルカと仲直りする気にはなれなかった。別れ方からして仲直りできる気がしなかったのもあるし、投げつけられたひどい言葉に傷ついてもいた。クラスが違うのでなかなか接点もない。
だから僕の思いは自然とペンに向いた。僕はルカのものだったペンで紙に心の内を書き綴った。
今でも好き。あの言い草はひどい。自由で素敵。自分勝手で理不尽。もう一度前みたいに仲良くしたい。二度と会いたくない。
順序なんて考えず、前後の繋がりも無視して気の済むまで僕は思いの丈を記した。ルカのペンを手に紙へ向かう時の胸の高鳴りは、恋のときめきに似ていた。
よく気持ちを静める方法として頭の中のもやもやを全部書き出すというのが紹介されているが、僕の場合それはうまく機能しなかった。インクが絞り出されるとともに空気が芯へ入るように、書けば書くほど吐き出したはずの情念は僕の方へ戻ってくるようだった。
やがてインクが出なくなると、僕はいろいろ調べて見つけた対処法を試した。母から除光液を借りたこともあった。そうして数度掠れたり直ったりを繰り返したペンだったが、一年半も経つ頃には本当に書けなくなってしまった。インクが切れたのだろう。
インクが尽きても僕の愛着は尽きなかった。それからも以前ほどではないが、時々ペンを取り出しては眺め、撫で、紙の上を走らせた。紙にへこみが残らないよう慎ましく、密やかに。
心なしか軽くなったペンを手にしていると、時折書いているのか書かされているのか、自分が動かしているのか動かされているのか、判然としなくなることがあった。
最初こそ戸惑ったものの、すぐに僕はその状態を受け入れた。奔放に周囲を振り回したルカが思い起こされて、愛おしくさえ感じた。
透明な文字は僕の目の前で一瞬輝くと、すぐに紙の白さへ溶けていった。
 
 
 夏休みだというのに美術室では七人の美術部員が制作に励んでいた。クーラーのない部屋は蒸し暑く、みな額や首筋に汗を浮かべていた。
 遅く来た僕はその様子を一通り見まわすと、他の人に倣って自分の場所を確保し、スケッチブックと鉛筆を取り出した。
 数日前から続いていた下書きが終わり、こめかみの汗を拭っていると、部員仲間の村田が話しかけてきた。
「もう完成?」
「下書きが終わったところ。そっちは?」
「同じくらいかな。相変わらず変なもの描くよな」
 僕が描いていたのは絵を干すのに使う金属製の棚だった。
「変なものの方が練習になりそうじゃん」
「そうか? で、それ文化祭に出すの?」
「出さないと思う。他の人の提出数があまりにも少なかったらわかんないけど」
 僕らの高校は九月の半ば過ぎに文化祭を行う。だから暇な部員は授業やクラスの出し物で忙しくなる前の夏休みに展示物を作っておく。
「村田は何展示するか決まってる?」
「今描いてる窓からの街並みは出すつもり」
「そっか」
「これから展示品描くのか? それとも冬や春に描いたのを出す?」
「一枚は前に描いたやつで、もう一枚はこれから描く」
「頑張れ」
「そっちこそ」
 言いながら僕はボールペンを取り出した。もちろんルカのではない。インクも予備校のロゴも入った、そこらで配られている普通のボールペンだ。
「あ、また出たよボールペン。お前ホントに好きだなー、ボールペン絵」
「いいじゃん」
「絵の具なら色がつくけどボールペンじゃ鉛筆のスケッチとそんなに変わんないじゃん。確かに濃淡だすのは上手なの認めるけど、二度手間な感じするな」
「なんとなく気に入ってるんだよ。それに下書き消す瞬間が気持ちいい」
「うわー、物好き。だからお前の絵の具はいつまでたっても減らないんだよ」
 僕らはひとしきり笑い合うと、各々の作業へ戻っていった。
 
 
 ペン先が滑らかに紙の上で踊る。軸を持つ手に添って静かに跳ね、身を翻しながら罫線の間を流れていく。ペンの動きは遠い夢へ思いを馳せるように緩やかだった。
 だが、どれほど丁寧に振舞おうとその軌跡が紙上に残ることはない。やはりとうにインクが切れているのだから。
 僕はインク切れのボールペンを手にしたまま動きを止め、目を瞑った。目を閉じていても、自分の手にするボールペンの姿ははっきりと思い描くことができる。
 手に程よい太さで軸は黒。グリップとペン先、カチカチ押すところと紙やポケットに引っ掛けるところがシルバー。シンプルなデザインのそれは、以前付き合っていた女子からのプレゼントだった。
 送り主の名前は美鈴といった。美鈴は中学二年生の時のクラスメイトで、席替えで隣になったのをきっかけに喋るようになり、いつしか付き合うことになった。
 美鈴は本好きと科学部所属を両立させる文理両道で成績もよかった。運動はからっきし駄目だったが、一緒に過ごすのに不都合はなかった。
 ただ一つ困った点があるとすれば、時々思わせぶりというか、意味深長な言動をすることくらいだった。
 今考えると、少し斜に構えたところがあったのだろう。でも三年前の僕は彼女の発する難解な問いや言葉、例えば「あなたから見た私は本当の私なのかしら。私が本当は全然違う性格なのに、人前でだけこんな風に装っているんだとしたら、どうする?」とか「大人になったとか良い子になったとかって、単に周りの人にとって都合よく振る舞えるようになった、ってことだよね。だとしたらそれは本来の性格を周囲に歪められたってことになるんじゃないかしら」とかそんなのにいちいち頭を悩ませ、真剣に答えようとした。
 僕にとってそれは全然面倒でも苦痛でもなかった。むしろ彼女の持つ僕にない世界観に憧れた。
 けれども恋人としての僕らの関係は長続きしなかった。理由は二つ。
一つ目は、二人とも恋そのものに恋している部分があったこと。そのため、この人でなければという、いわば必然性のようなものがどちらにも無かったのだ。
それに、僕らのしていたことといえば、お喋りしたり一緒に帰ったりする程度で、手を繋いだりハグしたりといった恋人らしいイベントはほぼ経験していなかった。清い交際と言えば聞こえはいいが、恋人というよりは親友と呼んだほうがずっとふさわしい状態だった。これが二つ目。
そうして僕らはどちらからともなく恋人関係を解消した。ルカとの時と違い円満な終わり方だったため、その後も僕らは卒業して進路がわかれるまで、友人としての関係を保ち続けた。
ボールペンを貰ったのは別れる前のクリスマス。冬休み前、美鈴に「クリスマスプレゼントどうしよう。あれこれ考えるのがしんどいし、ハズレだったり二人の使った金額が離れていたりしたら、どちらにとっても気まずい」と持ちかけられた時、じゃあちょっと良いペンを互いに贈り合うのはどう、と答えたところ、すんなり受け入れられてそういう運びになった。
なぜペンを、と言ったのか。今でもよくわからないが、ルカとのことが頭の片隅にあったのかもしれない。
イブの日に二人で待ち合わせて、ショッピングモールのちょっと大きい事務用品店で一緒に選んだ。色違いにしようということになり、僕が彼女用の水色を、彼女が僕用の黒を買った。そして店を出て、外のクリスマスツリーの下で交換した。
傍から見たらムードに欠けると映ったかもしれないが、僕らは満足していた。少なくとも僕はそう思う。
貰ったボールペンはずいぶん重宝した。ノートの記名や何かの書類の記入にも使ったし、高校の願書もそれで書いた。千円しないお手頃価格の品だったが、手によく馴染み、インクも滲まずすぐ乾くので非常に使い勝手がよかった。
この特長は心中の吐露にも役立った。美鈴と別れた後、僕はルカの時と同じように裏紙なんかに胸の内を書き綴った。
未練があったわけではないし、美鈴との関係が絶たれたわけでもない。そもそも普段はそんなこと意識しない。
それなのにボールペンを手にし、紙を前にすると言葉が溢れて止まらなかった。
今も僕の中に残る美鈴の言葉、「愛だ恋だというけれど、愛されている自分に恋愛してる人のなんて多いこと」「妄想だって嘘だって、それを信じて死ねるなら幸せじゃない?とか、とっさに答えらえなかった問い、正面切ってぶつけることのついぞなかった好意と羨望と、ごくわずかな隔意。
僕は時折思い出したようにそれらをごたまぜにして紙に広げた。
インクがなくなった後も、そのペンはルカのと同じ運命を辿ることになった。
僕は二本のペンを大切に引き出しに仕舞い、たまに片方を取り出しては紙の上を走らせた。見えない文字で書き下すのは、僕を離れた彼女らへの思いだ。時とともに美化された彼女らへの賛辞は尽きなかった。
つっと指先を引かれるような感覚に、僕ははっとして目を開けた。だが、手にはボールペンがあるきりで、虫が乗っていたり糸くずが絡んでいたりなんてことはない。
気のせいか。
そろそろペンを置いて寝るなりネットで遊ぶなりしようかとぼんやり考える僕の目の前で、ペン先がちょいちょいと動いた。
決して手の痙攣なんかじゃない。驚く僕に見せつけるように、ペンは今度は少しゆっくり、大きめに動いた。僕は思わず息をのんだ。
ペン先は確かに「萩原美鈴」と美鈴のフルネームを書いてみせたのだ。
息を詰めて見守っていると、ペン先は一呼吸おいて小さな文字を書き始めた。頑張って読み取ってみると、それは住所のようだった。続いて電話番号とメールアドレスらしきものを書きだした。そして二、三個小さな丸を描くと、それきり大人しくなった。
今のは何だったのだろうか。僕は手にしたままのペンを見つめて自問した。
美鈴の住所も憶えていなければ、今のメアドも知らないので、今しがた目の前で記されたものが果たして正しいのか判断できない。ただ、確かに住所は出身中学の学区内で、メアドには「misuzu」という文字列が入っていた。
試しにこのアドレスにメールを送ってみようか、と一瞬思ったが、すぐに考え直した。送ってみるとして、いったいどんな文面にすればいいのだ。
名乗ればどこから新しいアドレスを手に入れたのかという話になるし、匿名なら不審がられて無視されるのがオチだろう。
かわりに住所をネットで調べ、周辺の画像を見てみた。美鈴の家には行ったことがないので断定はできないが、見たところ合っていそうだった。
訳が分からないままその夜はペンを仕舞って寝た。
 
 
 真夏の美術室にはかわりばえのしない光景が広がっていた。その光景の一部たる僕は、その日はクロッキー帳に向かっていた。文化祭に出すものを考えているのだが、何も思いつかない。
 ぎっしり緻密に描かれた絵が好きなので、そういう系を目指そうとは決めているのだが、テーマやモチーフが浮かばない。
 鉛筆をやわらかい紙の上でうねうねと遊ばせていると、数日前の夜のことが思い出された。夏休み、まとまった時間ができて久し振りにルカと美鈴のペンを手にしたこと。紙には筆圧によるわずかなへこみのほかは何も残らなかったが、書き殴った内容は僕自身のうちに刻みつけられている。
 ふと、これをテーマにしたらどうかと思い立った。
 思い立つと、そこからは早い。僕は文字通り額に汗して構想を練った。難しいのは具体的に何を描くかよりも、喚起されるイメージをどう抽象化するかだった。
 心中を露骨な形で表したくはなかったし、万に一つの可能性でもルカや美鈴、彼女らを知る人に何か勘付かれ勘繰られるのが怖かった。
 僕は自身の奥底からゆっくりと湧き上がってくるもの一つ一つをそれぞれ実体のある一つのモノに代表させ、さらにそのモノを連想に次ぐ連想で全く繋がりのなさげなモノに置き換えたり、意味による味付けのほとんどない幾何学模様に落とし込んだりした。
 鞄に入れっぱなしにしていたコンパスと三角定規はこの作業に大いに役立ってくれた。こんな時だけは不精な自分で嬉しい。
 よくわからない曲線や直線でクロッキー帳を埋めていく僕に話しかけてくる部員仲間はいなかった。忘我没頭している人間にはみだりに話しかけないという暗黙の了解があるのだ。それにみんな自分の作業がある。
 声の欠けた猛暑の美術室で、僕は数日かけてどうにかアイディアを形にした。
 
 
 数枚貼り合わせたコピー用紙いっぱいに広がる下書きを前に、僕は満足の溜息を吐いた。連日美術室に通い、ようやくここまでこぎつけた。
 僕はスケッチブックからちぎり取った画用紙にカーボン紙と下書きを乗せ、ボールペンを手に持った。今は夜で、僕がいるのは自室だったが興に乗って醒めないので、今夜は家でも制作を続けてしまうことにする。
 罫線のない青みがかった紙の上でペン先が慎重に鉛筆の線をなぞる。定規の助けを借りながら、ずれないよう、はみ出ないよう精密に下書きを再現していく。情念の変化した図形の輪郭を転写していくペンの後ろには、鉛筆のそれとは少し風合いの違う黒線が引かれていく。このペン、以前村田にからかわれた予備校のロゴ入りボールペンには、ちゃんとインクが入っている。
 思えば、これも女子からの貰い物だった。
 去年、高校一年生の秋ごろ、友人に誘われて遊びに行った先で出会ったのがペンの元持ち主、千佳だった。
 その場には僕と友人と千佳含めて男三人女三人おり、男子は男子、女子は女子で同じ高校ということだった。なぜ友人は他校の女子たちを連れてきたのだろうと最初は訝しく思ったが、疑問はすぐに解消した。友人は女子三人のうちの一人と付き合っていたのだ。それで毎回二人きりだと飽きてしまうし、二人だけじゃできないこともしたい、という話になってこんな形にまとまったらしい。
 カップル一組以外は全員フリーで、なんだかなと感じないでもなかったが、六人で遊ぶのは意外と楽しかった。中でも同じ美術部員だという千佳とは意気投合し、最後には連絡先まで交換した。
 ちなみに残る一組の男女もいい雰囲気になっていて、なんだかあてがわれたみたいだった。
 その後、千佳とは何度か会い、カフェに行ったり駅ビルを散策したりしたが、それ以上関係が進展することはなく、やがて会わなくなった。
 ペンを貰ったのは最後に会った時。
「何か記念になるものが欲しい。短い間だけでも一緒にいた証拠が欲しい」
コーヒーショップで飲みかけのキャラメルマキアートを前に、千佳が珍しくメランコリックに呟いたのだ。
僕は少し思い巡らせてから答えた。
「じゃあ、互いの普段使いしてるペンでも交換する?」
 もちろん僕の中にはルカと美鈴のことがよみがえっていた。思い巡らせた内容というのもまさにそのことだ。ペンに縁のあった僕が、仲良くなった異性からペンを貰うことと、その貰ったペンへの執着をうっすら自覚したのはこの瞬間だったと思う
 千佳は僕の奇妙な提案に少し笑ったが、了承して、ペンケースを取り出した。が、すぐに顔を曇らせた。
「今こんなのしかないや」
その手には、駅や学校の前で広告とともに配られている予備校の宣伝用ボールペンが載せられていた。けれども僕は僕で二本百円の安物を愛用していたので、むしろ高いものより良かった。彼女もそれを聞いて安心したらしく、僕らは秘め事の共有めいた心地よさでもってペンを交換した。
 それからだ。僕がボールペン絵に凝りだしたのは。思春期を迎えた今となっては、小中学生の頃のように思うままを見える形で赤裸々に綴るなんて、恥ずかしくてできやしない。でも身についた性はそう簡単には消えてくれない。
ルカや美鈴のペンで他の女のことを描くのは彼女たちに失礼だし、第一千佳から貰ったペンを使いたい。で、出した答えが美術部で使う、というものだった。
とはいっても常に千佳のことを考え、千佳に捧げるつもりで絵を描いているわけではない。何も考えず自分のために描いているのがほとんどだった。
でも自分を気に入ってくれた人から貰ったものを有意義に使っているという感覚はふとした瞬間、僕に安らぎを与えた。それに、このペンを使い切れば「見えない文字」で千佳のことを好きなだけ書ける。
 左上の部分を画用紙へ写し終えると、僕は下書きをめくってカーボン紙をずらした。カーボン紙は美術の先生から貰ったもので、A4サイズ一枚しかない。画用紙の線と下書きの続きがつながるように注意深く重ね直すと、僕はまたペンを動かした。
 転写が終わったのは十時過ぎだった。ずっと同じ姿勢でいて強張った腕と肩を伸ばす。
コピー用紙とカーボン紙を取りのけると、画用紙の上には細く黒い線が複雑な模様をかたちづくっていた。それはさながら情念のフラクタル、情愛の模様尽くしといったところか。
さすがに疲れ果て、紙やペンを片付けると、美鈴のペンのことが頭に浮かんだ。あの日より少し遅い時間だが、もしかしたら。僕は重い腕を動かして黒いボールペンを持ち、先っぽを適当な紙の上に置いて待った。
しばらくそのままでいると、何の力も入れていないのにペン先がくるりと輪を描いた。あっ、と僕が居住まいを正す間もペンはしゃッしゃッとスピーディーに回った。
まるで丸付けだと思った瞬間、ペンはそれに応えるようにチェック印を切り、その横に数字らしきものを書き込んだ。
間違いない。このペンは丸付けをしているのだ。
それからペンは立ち止まることなく十個ほど楕円を描くと、ぱたっと動きを止めた。
 
 
「お、珍しい。絵の具出してる」
 パレットで絵の具を混ぜる僕に村田が言った。
「たまにはカラフルにしようと思って。今日は塗るよ。超塗る」
「ボールペンに飽きて絵の具と浮気?」
「まさか」
「それにしても細かいな。何題材にしてんの?」
 正直に答えるわけにはいかない。絶対に引かれる。
「んー、適当」
「適当でそこまでぎっしり描くか。空所恐怖症みたいだ」
「ところでそっちは何してんの? 暇ならもう一枚何か描けば」
 休憩中、と笑いながら村田は去っていった。
 僕の興味、あるいはこだわりは、面より線にあるらしい。色塗りにはこれまでの下書きや昨晩の転写ほど身が入らなかった。
 枠からはみ出さないよう気は遣うが、隣り合う図形が同じ色でもさほど気にならない。一応何色も使ってグラデーションをつけたり細かめに塗り分けたりもしているが、最初は単色に黒い線の紋様、それだけで十分ではないかとも少し考えた。
 色がついてくると、絵は曼荼羅めいた様相を呈した。曼荼羅が仏の教えを現した絵なら、これは僕の過去から現在につながる恋慕を隠した絵だ。あながち似合わない比喩ではないかもしれない。
 情念の込められた絵には、こちらの意識や感情を吸い込むような凄味がある。僕は一心に筆を動かし、紙を染めていった。
 しかし、そんな中にもふと集中の緩む一瞬というのはあり、そんなときにはあのボールペンの怪が頭をよぎった。
 なぜあんな動きを見せたのか。あのペンでなくてはならないのか。ルールのようなものはあるのだろうか。
疑問は振り払っても、時間をおいてまたやってくる。その度に帰ったら考えようと心の中で呟き、僕は色付けに精を出した。
その昼だけでも色塗りは三分の一ほど進んだ。余裕で文化祭に間に合うペースだった。
 
 
 それから連日、暇さえあれば僕はボールペンを片手に過ごした。ペンはルカや美鈴、千佳から貰ったもののこともあれば、自分のやリビングにある家族共用のもののこともあった。
 ボールペンとともに生活を送る中で、あの怪現象には何度も遭遇し、次第にルールらしいものもいくらかわかってきた。
 動くのはルカと美鈴のペンだけで、その動きはルカや美鈴が実際にその時ボールペンで書いているものを反映しているらしい。
インクの色は関係なく、ボールペンで書いたものなら赤字でも青字でも伝わるが、シャープペン等では駄目なようだ。サインペンや筆ペンの扱いは不明。
仮に向こうがボールペンで書き物をしていても、こちらのペンが動くのは僕が対応するインク切れのペンを手にしている時だけ。
未練がましい僕の行いが招いた事態なのか、強い想念が引き起こしたのか、理由もメカニズムもわからないが、とにかく「そういうもの」らしい。
不思議と不気味だとも怖いとも思わなかった。あったのは戸惑いと後ろめたい喜びだった。このインク切れのペンがあれば、二人の生活の一部を覗くことができる。
ルカはあまり物を書かないようだったが、手帳の記入にはペンを使っているようで、予定やちょっとしたメモなら盗み見ることができた。
美鈴は勉強、主に丸付けやアンダーライン、ちょっとした書き込みにペンを活用しているようで、黒いペンは女児向けのペンよりよく動いた。その他にも美鈴は時折ポエムも書いているらしく、それを垣間見るときは一層背徳的な気分になった。
僕は来る日も来る日もペンが動くのを待った。そしてボールが滑って、遠く離れた彼女らの様子を告げるたびに何とも言えない愉悦を味わった。
その感覚はなんだかこっくりさんの時に似ていた。小学生の時に何度かやってみたが、あの時も期待と緊張を胸に十円玉の動向を見守り、意味のある言葉が紡ぎだされるごとに参加者揃って歓声を上げていた。
ペンの基本的な活動時間もわかってきた。
ルカのは昼間、ほんの短い時間だけ動く。美鈴はそれが集中できる時間帯なのか、朝夕の九時から十時くらいにボールペンをよく使うようだった。
だから夜はペンを気にかけることもなく眠ることができた。
 
 
 文化祭といっても美術部のやることはあまりない。ビラや派手な看板なんか作らず、淡々と作品を展示するだけだ。
今も美術部の準備を口実に休憩がてら戦場と化している教室から逃げてきた部員たちが、申し訳程度に働いたり本当に休んだりしている。僕も村田と喋りながらだらだら椅子を片付けていた。
「いよいよ明日からか」
「そうだね。そういえばタイトルの件ありがとう」
 僕一人ではあのボールペン曼荼羅のタイトルを決められなかったので、村田に頼んで考えてもらっていた。そうして村田の出した候補三つ「黄昏の混沌」「contents A」「ボールペン愛好者のための線画ソナタ」のうち、一番無難なものをという僕の希望であの絵は「contents A」と呼ばれることになった。
「本当にあれにするのか? 俺としてはほかの二つの方が良かったと思うけど」
「えー、他二つこそなんか仰々しいし、こっぱずかしいよ。特に線画ソナタとか意味わかんないし、ボールペン愛好者なんてニッチすぎるよ」
「でもおまえ自身はボールペン愛好者なわけじゃん?」
「はあ?」
「好きじゃなきゃあれとかこの間の棚とかボールペン大活躍の絵は描かないだろ」
「それは別に描きたいものを表現するのにボールペンが合っているだけで」
「そうだとしても、一応こだわりはあるんだろ。だって筆箱に二、三本ボールペン入ってるけど使うのはいつも同じ一本じゃん」
「一番使いやすいからね。にじまないし軽い力で書いてもかすれにくいし、すべりもいいし」
「ふーん。で、結局お前にとってボールペンって何なの?」
 形見、遺品、遺骨、身代わり、思い出の品、感情のはけ口。
そんな言葉が頭をよぎっていく。ただそれを口には出せない。僕は平静を装って答えた。
「便利な筆記用具、かな。大したこだわりなんてないよ。同じのいつも使ってるのだって今ある三本のうち絵に向いているからってだけで書けなくなってもそれほど惜しくないし、残る二本も百均だし」
「そっか。ああ、なんか傍から聞いていたら変な会話だろうな、今の」
「そうだね。でも逆に普通の会話って何だろう」
 僕らは顔を見合わせて笑った。椅子運びはとうに終わっていて、僕らは立ち話に興じていた。
「普通の会話……。まあ明日のこととかだろうな。後はネットの面白ニュースとかゲーム、テスト、恋バナ」
「大体そんなところだろうね」
「そういえばお前彼女いたっけ」
「いないよ。村田は?」
「いない。欲しい」
 それから少し休んで僕らはそれぞれの教室に戻った。
 
 
 形見、遺骨、遺品。美鈴のペンを手に取ると、村田と話していて頭を掠めた言葉がよみがえってきた。
確かに僕は三人の女性から貰ったペンを彼女らの、いや、僕と仲良くしてくれていた時や僕に好意を持ってくれていた時の彼女らの形見のように思っている。
僕の好きだった彼女らは関係を絶った時点で死に、今生きているのは同じだけど別の人間。ペンはその亡くなった彼女らの生きた証。ちょっと極端に表現すればそういうことかもしれない。
ペンが僕の意思とは無関係に動きだす。
以前ペンの感応をこっくりさんに例えたが、それもあながち的外れではないかもしれない。ペンが遺品なら、これはいわば交霊術だ。
今宵の美鈴は試作に耽っているらしい。センチメンタルで実用性がなく、美麗で仰々しい言葉が書き連ねられていく。立ち止まることも書き損なうこともなく。美鈴はすべて考えてから書き始めるのだろうか。それとも感情の赴くままに?
よどみのない流れに手を任せていると、まるでペンと踊っているような心地がした。もう決して会うことのない中学生の美鈴の幻を抱いてペンは僕の手とともに舞った。身を焦がすような切ない追憶と、こみ上げる再会への狂喜が交錯するひとときだった。
奇妙な感応も束の間、ペンははたとステップを止め、何の変哲もないインク切れのペンに戻った。
夢の名残りを引きずるように僕はのろのろと黒いペンを引き出しに入れ、代わってルカのペンを取り出した。
頬杖をついて待っていると、ペン先が小さく、素早く動いた。はっきりとは読み取れなかったが、友人との遊びの予定らしい。
今のルカの生活と僕の生活には、何の接点もない。だからこうして覗く彼女の日常は、彼岸の人間の暮らしみたいだった。
最後に僕は二本のペンをまとめて手にすると、掻き抱くように胸元へあてた。思い出の中では、ルカも美鈴も可愛く、美しく、自由で、懐かしく、慕わしく、素敵で最高だった。
本人を前にすると見えなくなってしまう美点を、ペンは残酷なまでに鮮やかに、僕へ囁いた。
どれほど強く願っても手の届かない愛に、それでも触れることを欲するように、僕は一層ペンを握る手に力を込めた。
 
 
「これで文化祭も終わりか。なんかあっけないな」
 二日目終了の放送を聞きながら村田がぼやいた。相槌を打っていると、美術の先生がやってきて片付けを呼び掛けた。
 セッティングと同様、片付けもすぐに済んだ。あらかた元通りになったところで、上級生が手を叩いた。
「それじゃ、お楽しみ。感想ノートタイム!」
 美術部の展示では、部屋の真ん中に机と椅子を置いて、歩き疲れたお客さんが一息つけるようにしてあった。感想ノートはペンと一緒にその机に置いてあり、見に来た人が自由に感想や意見、要望などを書き込めるようになっていた。
 いくら自分の好きで自分のために書いているとはいっても、誰だって他人の評価が気になる。僕らはぞろぞろと先輩のもとへ集まった。
 さすがに声に出して読み上げたり読み上げられたりするのはみんな恥ずかしい。身を寄せ合ってノートの字に目を凝らす。悪口が書かれていることはめったにない。書かれているとすれば褒め言葉か設備への苦情(暑い、狭い)だ。
 適当なところで先輩がページをめくる。
「何これ」
 ほどなく誰かが声を上げた。その目はある一行のコメントに向かっていた。視線の先を何気なく辿った僕は思わず目を見開いた。
 そこには〈『contents A』という作品は気のせいかもしれませんが先週の××高校で展示されていた絵によく似ています G ルース〉と書かれていた。
 控えめにだが盗作を疑われている。突然のことに僕はうろたえた。
「やってないよな?」
 村田が軽い調子で訊いてくる。その様子から、僕を信じてくれていることが伝わってきた。
「やってない」
 僕は幾分落ち着いて答えた。
「変なもの描いてるなーって気になって制作過程ちょくちょく覗いてたけど、何かを参考にしてる様子もなかったし、模様一つ一つ自分で考えてたよね。あれは完全にオリジナルだと私は思う」
 先輩の一人が言った。
「本人も書いてる通り、やっぱり気のせいなんじゃないの」
 別の先輩もそれに続く。注目の的になるのはつらかったが、フォローはありがたかった。
 だいぶ平静を取り戻した僕は、さっきから気になっていたことを口にした。
「G ルースって誰でしょう。外人?」
 居合わせた部員たちは顔を見合わせ、首をひねる。ややあって僕が諦めかけたころ、おずおずとした声が答えた。声の主は同じ学年の女子、本橋だった。
「それ、G組の中野葵ちゃんだと思う。葵ちゃん、演劇部でルースって呼ばれてるから」
「ええと、その中野さんは何年?」
「私たちと同じ、二年」
「なんでルースなの?」
 村田が横から口をはさんだ。
「演劇部って部員全員にあだ名をつけることになってるんだけど、葵だから青い、ブルー、ブルースって変わっていって、最終的にルースになったみたい」
「で、これからどうするの?」
 最初に僕をかばってくれた先輩が訊く。さっきから、ずっとそれを考えあぐねていた僕は答えに窮した。
「そのルースのとこ行って確かめてきなよ。この時間ならまだクラスの片付けしてるんじゃないかな」
 さっき気のせいだと言ってくれた先輩の言葉で、場の方向性が決まった。
「葵ちゃんの顔知らないでしょ。私も行こうか? 男子だと呼び出すのも難儀だろうし。何なら葵ちゃん呼んだらすぐ退散するから」
 気が付いた時には既に、願ってもない申し出をしてくれた本橋とともに送り出されていた。報告待ってるから、という誰かの声を背で聞きながら、僕と本橋は二年G組に向かった。
 中野葵は教室にいて、本橋が呼ぶと怪しむ様子もなく出てきた。僕と中野が向き合うと、本橋はすっと離れていった。
「あの、ルースさんであってます?」
「はい」
 初対面でどう話したらいいものか悩みながら僕は言葉を継いだ。
「美術部の感想ノートにあったコメントについて詳しく聞きたいんだけど」
「あの絵を描いた人?」
「あ、うん」
「待ってて」
 中野はポケットから携帯端末を取り出し、何やら操作するとこちらへ差し出した。
「これが××高校で展示されてた絵」
「確かに似てる……」
 その絵は色使いこそ全然違っていたが、骨格ともいえる線で描かれた模様尽くしはそっくりだった。
「でも、初めて見た。本当だよ!」
「うん。実は私としてはあんまり似てないというか、偶然の一致レベルだと思うんだ。でも今日これを描いた子と一緒に校内回ってたんだけど、その子がちょっと騒ぐものだから。その子、絵の制作過程をSNSに載せてたんだ」
「へぇ……」
 僕は中野がさほど盗作の疑いを持っていないとわかり、内心ホッとしていた。中野葵は再び端末をいじると、こちらに見せてきた。
「これがその子のアカウントで、ほら、これが下書き途中の写真。他にも下書き完成版とか色塗り中のとかもアップされてるよ」
 下書き途中の写真には、ノーとか何かにシャーペンで描かれた模様の一部が映っていた。添えられた文章には〈夜だけど急に思いついて描いてみた! ペンが勝手に動いたみたい(笑)〉とある。
 僕はアカウント名とIDを頭に叩き込むと、日付に目をやった。それは僕がちょうど転写を終えた日だった。
「この日なら、もう下書き完成させてたよね」
 割り込んできた声に顔を上げると、いつの間に戻ってきたのか本橋が立っていた。
「そっか。じゃあ偶然だね。友達にも言っとく。ごめんなさい。変なこと書いて」
「ううん。確かに似てはいたし」
「じゃ、私はクラスの方でやることあるから」
「あ、待って。念のためその子の名前訊いていい?」
 アカウント名を見た時から嫌な予感はしていた。高校名も合っていた
「松本千佳、だよ」
 予感は的中した。僕が以前少し遊んでペンを交換した、あの千佳だった。
 
 
 美術室は、人が半分ほどに減っていた。ID検索で例のアカウントを出し、投稿を見せると、もともと露ほどしかなかった僕の盗作疑惑はすっかり晴れた。
そして似てる似てないとひとしきり盛り上がった後、感想ノートの時も音頭を取っていた先輩の「解散!」の叫びで僕らは各々の教室へ引き上げていった。
教室の片付けを手伝い、帰路に就く頃には真っ暗になっていた。身も心もクタクタで、家に帰ると風呂、夕食、歯磨きという最低限のルーティーンだけこなすと自室のベッドに飛び込んだ。体力をほとんど使い果たしているのですぐにでも眠れるかと思ったが案外寝つきは悪かった。
いや、案外ではないのかもしれない。寝返りをうちながら僕は数時間前の出来事を思い返していた。他の人たちは偶然の一致だと言った。確かに僕は部員仲間以外には絵の創作過程を見せていないし、ここ半年以上××高校の生徒との接点はない。
でも僕には確信があった。彼女が僕のデザインを盗んだのだ。どうやって? なんて愚問もはなはだしい。答えは引き出しの中に大切にして収められている。僕だってそれでルカや美鈴の生活を覗き見ていた。
 ペンの交換なんかしなければよかった。千佳のペンをコレクションに加えたかったのは本当だが、何かこちらのペンを渡さずに済む方法を考えればよかったのに。後悔ばかりが押し寄せてくる。
同時に、恐ろしくもなってきた。彼女はいつから僕を「見て」いた? インク切れのペンで書いたことは伝わるのだろうか? 物事にはバランスがあるという。見る側の愉悦に匹敵するくらい見られる側の不快感は凄まじかった。
 数日のうちに、僕は千佳から貰ったペンを使い切った。振ったり温めたり除光液に浸けたりしても回復しなくなるまで、何枚の裏紙を真っ黒に塗り潰したことか。とにかく、これで僕も千佳の生活を覗ける。
 勢い込んで盗み見た千佳のボールペン使用状況は、ルカや美鈴と大して違わなかった。予定の書き込みや勉強がメインで、注目に値するようなものは何もない。スケッチひとつやらない。
 まあ確かにボールペンの使い道なんてたかが知れている。自分を省みても、見ていて面白いものを書くなんてそうそうない。じゃあ見られてもいいかというと、それは話が別なのだが。
 もしかして、千佳は僕の企みに気付いて、敢えて無難なことだけを書いているのだろうか。念のためインクの浪費は深夜や早朝を狙ってやったが、その様子をペンで読み取っていたのかもしれない。
 疑念は抱えているだけで随分心身を消耗した。ボールペンで何も書かなければ何も知られる心配はない。そんなことはわかっていたが、こちらをひそかに窺っている人間がいるかもしれないということが実際のストーカー被害よりも、何よりも恐ろしかった。
そんな不安がやわらぐのは、こちらも「覗く」態勢になっている時だけだった。僕は片時も千佳のペンを手放せなくなった。
もちろん、どう頑張っても二十四時間肌身離さずとはいかない。それでも可能な限りペンを手元に置いた。
先生の話を聞く間もメモ魔のようにペンを手にスタンバイし、右手でものを書くときは左に持ち替えた。
そうしている間にも前から抱いていた疑問はどんどん膨らんでいった。膨らみ、重みを増していく疑問にボロボロの精神が押しつぶされようかという頃、求めていた答えがもたらされた。
その日はいつもより早めに夕食を終え、僕は自分の部屋で例のごとく千佳のペンを握っていた。湿ったように不快な疲労感に、半ば意識を奪われてぼうっとしていると、すっすっとペンが動きだした。
どうつまらない内容なんだろうなと思いながらも目を離せずにいると、ペンは思いもよらない文句を書きだした。
〈これで三度目ですが、まだ気持ちがおさまらないのでもう一度書いてみようと思います〉
 ただごとではないと咄嗟に悟り、僕は急いでカーボン紙と白紙を引っ張り出すと、続きを待った。
〈高校一年生の夏ごろ、友達に連れられて遊びに行った先で、私は永井悠一君と出会いました〉
 永井悠一とは僕の名前だ。僕は固唾を呑んだ。ペンは静かに千佳から見た僕らの出会い、付き合いを語った。
〈……恋愛経験がほとんどないので、こんな風に男の子と二人でカフェなんかに行くのは初めてでした。私は永井君のことが好きだったんだと思います。だから何か記念になるものが欲しい、というおかしな言葉を笑うことなく受け入れてもらえて嬉しかったし、ペンの交換はロマンチックでした。……〉
 ペンの勢いは増していく。
 千佳がかつての僕と同じようにペンを使い切り、怪現象に遭遇したくだりを駆け抜け、独白は盗作騒動へとなだれ込んでいった。
〈……その夜、勝手にペンが動いた時は、勉強しているのかなと思っただけでした。でもそれがすぐに複雑な模様を描いているんだと気づきました。
私はペンの動きと奇妙な絵に見とれました。もちろん本当に線が引かれていったわけではありません。心の目で見ていたのです。
ペンが動くのをやめると、急いで記憶と筆圧でへこんだ跡から絵を再現してみました。……〉
 いつしかペンは取り憑かれたように踊り狂っていた。
〈……下書きの時、色塗りの時、自分の高校での展示の時、私のにそっくりな永井君の絵を見た時。立ち止まるタイミングならいくらでもあったのに、どうしてそうしなかったのか。どうして感想ノートに書こうなんて葵に言ってしまったのか。今でも不思議です。
たぶん私は永井君との接点を探していたんだと思います。自分から連絡をするのではなく、相手から連絡してくれるように。こちらが意識するのではなく、向こうが意識してくれるように。
でも結局葵に迷惑をかけただけで終わってしまいました。そんなの、少し考えればわかったはずなのに。私はなんてバカなんだろう。
そうやって一回しくじったのに、今でもどうにかして永井君の気を引きたいし、時々ペンを持って何か書いてくれないかと待つのもやめられません。……〉
私はどうしたらいいのでしょう、という結びでペンの語りは終演を迎えた。
僕はペンを取り落とすと、こめかみに手をやった。内容の身勝手さに頭が痛い。
はっきり言って、中野葵より迷惑しているのはこっちだ。それに、何が私はどうしたらいいのでしょう、だ。そんなのペンを捨てて覗きをやめりゃいい。
なんだかタチの悪い亡霊でも相手にしたような気分だった。
「そんなに連絡が欲しけりゃしてやるよ……」
 煮詰められた呆れが少しずつ怒りに変わってきていた。僕はすぐさまトークアプリを立ち上げ、たった今カーボン紙で転写した自白文書の写真を本人に送りつけてやった。
 まったく、こうしてアプリでつながっているのだから、あんな風になる前に何か一言でも送ってくればよかったのだ。意地があるといったって、発揮のしどころはここではない。
 その夜はもうどのペンに触れることもなく寝た。
 
 
 千佳の自白のおかげで、僕の精神はいくらかの平穏を得た。まず、インクの切れたペンで書いたことは伝わらないとわかった。それに僕の方で千佳を監視していることもバレていなかった。これなら、もっと早くそうと知りたかった。
 前置きに「これで三回目」とあったが、前の二回は僕が風呂に入っている時か夕食の時になされたのだろう。夕食が早く終わった偶然と、何度も告白を繰り返してくれた千佳の未練がましさには感謝してもしきれない。
 僕と反対に、この一件は千佳には大打撃だったようだ。遅まきながら覗かれる恐怖を味わったらしい。翌朝にはアプリに大量のメッセージが届いていた。いい気味だ。
 だからといって、これで万事解決とはいかない。こちらの手元とつながる覗き穴はまだ残っている。それに一週間経ったあたりから、だんだん千佳のメッセージ内容が壊れてきた。
 だいたい言いたいことは「ごめんなさい」「会いたい」「盗み見るのをやめて」の三つに集約されるのだが、様子がおかしい。妙にくどくどしかったり、そうかと思えば短文を連投してきたり、脈絡なく話が変わったりする。
 そろそろどうにかしないと取り返しのつかないことになりそうだ。
 僕はずっと未読のまま放置していたトークアプリを開き、文章を打ち込んだ。
『こっちも見られているかもしれないと思うと不快で仕方ありません。だからもう互いが互いを見られないように、ペンをもう一度交換しませんか』
 千佳は一も二もなく飛びついてきた。そして数日後、僕らは会うことになった。
 
 
 最後に会った時と同じコーヒーショップで僕たちは再会した。千佳は短期間で随分とやつれており、顔色も悪かった。
 僕らは示し合わせて右手で同時に自分のペンを渡し、左手で相手のを受け取った。交換が済むと千佳は安堵したように頬を緩めた。
「これでやっと眠れる」
「よかったね」
 適当に相槌を打つと、千佳は思いもよらないことを口にした。
「もう一度、前みたいに付き合えないかな」
「無理だよ」
 希望を断ち切るように僕は言った。
「あんなことがあった後だし、実はもう付き合っている人がいるんだ」
 これは千佳の提案を断るための方便ではなかった。自白書写真送信で心が晴れた少し後、汐里という女子に告白され、断る理由もないので了承したのだった。
「そっか。ごめんね。さようなら」
 痛々しい笑顔とともに千佳は去っていった。
 
 
 家に帰ると、僕は以前僕のものだった百均ペンと、そのペンと引き換えに千佳から貰ったペンを取り出した。千佳に渡したペンは偽物だった。
 駅前で同じものを貰い、ネットで見つけたありとあらゆる方法でインク詰まりさせたのだ。いくつもの復活法を試し、それでも直らないことを確認してあるので千佳がからくりに気づく恐れはまずない。万一見破られた時のために本物の方も持って行ったが、結局バレずに済んだ。
 わざわざこんなことをしたのは、何といっても千佳から貰ったペンを手放したくなかったからだ。
とはいえ、断じて除きがやりたいわけではない。むしろあの悪魔に乗り移られたかのようなペンの舞はもう二度と見たくない。
じゃあ、なぜか? 僕にもよくわからない。でも、どうしてか千佳が憎らしくなればなるほど、ペンが愛おしく感じられるようになったのだ。
きっとそれは僕がいまだにルカのペンを大事にとってある理由と同じ。美鈴のペンを大切に保管している理由と同じ。
ペンに美化し、理想化した相手を見出して愛でているんだろう。ペンは何も否定しない。ペンは僕の手に従って踊るだけ。
なんて都合の良い愛だろう。
真に結ばれることになど興味はなくて、ただ自分の感情を思うままにぶつけて一人満足するなんて、あまりに利己的だ。それこそ、千佳のことを非難できないくらいに。
 気がつけば、僕は笑っていた。笑いながら泣いていた。頬に涙を伝わせながら、それでもこみ上げる笑い声を抑えることができなかった。
 自分はインク切れのペンしか愛せないのだと、気づいてしまった。
 わかってしまえば奇妙な爽快感があった。あると信じていたものがないとわかったような、身に開いた穴を冷たい風が吹き抜けていくような、そんな爽快感が。
 僕は千佳から貰った予備校ボールペンを取り、思うままに走らせた。ペンは僕の手に合わせてステップを踏み、カーブを描き、舞った。
 もうそこには僕とペンしかいなかった。一人と一本は僕の手首が悲鳴を上げるまで、何もかも振り払うように踊り続けた。
 
 
 執着心にはこちらからにじり寄っていくばかりでなく、対象を引きつける力もあるのだろうか。どうも僕は相当ペンと縁があるらしい。僕の誕生日に新しい彼女の汐里がくれたのもボールペンだった。
 内心の動揺を押し隠して笑顔を作り、お礼を言うと汐里も微笑んだ。
「実は村田君にいろいろ聞いたんだ。それで、ペンにこだわりがあるみたいだったから。気に入ってくれると嬉しいんだけど」
「嬉しいよ。本当にありがとう」
 もう一度お礼を言い、僕はそっと手の中のペンと目の前の汐里とを見比べた。
 今はまだ汐里の方が好きだ。いずれペンの方をより愛おしく感じるようになるんだとしても、今はまだ。
 でも、僕らの関係はきっと長続きしないだろう。女子は相手がちゃんと自分の方に目を向けているのか、それとも自分を通して他の何かを見ようとしているのか、敏感に察知する。
僕がいかに勝手な見方しかできないかも、たぶん遠からず悟られる。
とはいえ、どんなに短くとも汐里の誕生日のある春は恋人のままで迎えられるだろう。何を贈ろうか、僕は今から考え始めた。
 
 
 ペン先が滑らかに紙の上で踊る。軸を支える手に合わせてリズムを刻み、感慨に身を震わせるように文字を細やかな動きへと変えて罫線の間を舞い進む。行の終わりが来れば次の行の頭へ跳躍を決め、再び細やかなターンやステップに溺れていく。
 その後ろには、この場にいる一人と一本にしか知覚できない透明な文字がほんのりと浮かび上がっては消えていく。
 怪現象に触れても新しい彼女ができても、その彼女に使えるペンを貰っても、この趣味が僕から抜けることはなかった。むしろ千佳のペンがコレクションに加わって、ますます充実していた。
 反対に、覗きの方は千佳と会った日以来ぴたりと止めた。千佳に限らずルカのことも美鈴のことも、あれから知ろうとはしていない。
 ペンに宿る彼女らは、僕が愛し、また僕を好いてくれていたかつての姿をしている。美しく、優しく、愛しく、懐かしく、慕わしい、そんな心と形。
 そこに、もう関係の切れた現在の現実の彼女らが入る余地はない。そのことにようやく気がついた。
 今ではインクの切れたペンを走らせるうち、ペンの動きと自分の意志とが渾然となり、果たして動いているのか動かされているのか、覚束なくなる瞬間にこそ至上の喜びを感じる。
 たとえ思い出に縋っているだけだとしても、別にいい。都合の良いところしか見ていないんだとしても、空想でも、幻でも、現実と違っていても、心から愛せているなら構わない。
 尽きることのない情念は、次から次へと湧き上がってくる僕はそれを手放しで受け入れ、身を委ねる。
 ペンを躍らせ、ペンに踊らされながら。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:16

スピリット・ペン


コツ、コツ、コツ………
 真っ暗な通路の中を二つの足音が響く。
 前を行く彼の白衣がその歩みに合わせて左右に揺れる。暗闇に浮かぶそれを追い、俺もゆっくりと歩く。
 ここはとある研究所の地下。俺――戸塚翼は今日からここで助手として働くことになっている。とは言っても、もともと大学で研究していたとか学会の知り合いの手伝いとか、そういう関係のことではない。現在、俺は大学出たての23歳。話せば長くなるのだが、就活に見事に失敗し途方に暮れていたところ、たまたまここが求人募集をしていたことを見つけ、藁にもすがる思いで書類を送り、ぎりぎり就職浪人を免れたという次第で今ここにいる。典型的な文系体質のため、こんないかにも理系という感じの研究にも全く縁がなかった。
「着いたよ、戸塚君。私たちが研究を行う場所だ」
 前を歩いていた彼が電気をつけた。久々の明るさに目が眩む。振り向いた彼も少し目を細めている。
 若月、と彼は名乗った。名前までは教えてくれないらしい。長年ここで研究を重ねている博士だと言う。研究所だから年寄りばかりに違いないと覚悟していたから、博士が出てきても大して驚かなかった。研究者としては若いなと思ったくらいだ。研究者の髪は真っ白なイメージがあったが、彼は少し白髪が交じっているだけだ。しゃんと背筋を伸ばした彼の姿に普通の人とは違う威厳を感じる。
「あちらを見たまえ」
 博士が俺の背後を指差す。彼が示す方に目を向け、
 
 俺は言葉を失った。
 
 目の前の光景が信じられなかった。
「な、何なんですか、これは……」
 大量のペンがあった。ガラスに隔てられたその向こう側のどこを見てもペン、ペン、ペン……。さらに驚いたことに全てひとりでに動いていた。下に敷かれたアクリル板のようなものに思い思いの軌跡を残している。
「人だよ」
「人?」
「正確には人の心、とでも言うべきかな」
 コツコツと足音を立て、博士はガラスの方に進んでいく。白衣を閃かせながら俺の方を振り向いた。
「このペンたちは人の心を表しているんだよ」
 分かっていないということが顔に出たらしい。博士が説明を加える。
「それぞれのペンがそれぞれ違う人を表している。加えて、その人の心の状態や感情に合わせて変化していく。いわばその人の精神の象徴だと言えば理解しやすいだろう」
 よく見たまえ、と彼が指差す。
「色やインクの量が一本一本違うのが分かるだろう?」
 なるほど、確かにそうだ。赤、青、黄色、緑……。たくさんの色がある。しかも、同じ系統の色でも濃さや明るさに微妙な違いがある。インクの量も満タンぎりぎりまであるものや、ペンの半分くらいのものがある。下に書かれた線も真っ直ぐだったり曲がっていたり……。本当に人間のようだ。
「すごいですね……。どういう仕組みで人間とリンクしているんですか? どうしてペンにしたんですか?」
 俺の問いに博士は少し考える風情を見せた。
「その辺の仕組みは少し複雑でね……。説明するのも難しい。ペンにしたのも特に深い理由はないんだ。ただ、娘に『ろうそくとペンとどちらがいいか』と訊いたときに『ペン』と答えられたから、それが理由と言えば理由だ」
 …………本当にろうそくにしなくてよかったと思う。この場所にこの数のろうそくがあるところを想像し、思わず身震いした。某怪談と同じ状況になってしまう。そんな中で仕事をする気にはなれない。
「戸塚君にはこれらのペンの様子を記録し、報告してもらう」
「え、これ全部を、ですか?」
 そうだとしたら気の遠くなる作業だ。毎日毎日これをやっていたら俺はどうなってしまうのだろうか。
「いや、すべてのペンを行う必要はないよ。気になるものだけで構わない」
 そう言うと博士は何やら端末を操作し、一本のペンを取り出した。鮮やかな緑色がペンの8割くらいを占めている。
「例えばこのようなペンは問題ない。この人は今、エネルギーに溢れている状態だ。何かに精力的に取り組んでいるみたいだな」
「色が濃いものは大丈夫ということですか?」
「一概にそうとは言い切れないが、基本的にはそれでいい」
 博士が別のペンを取り出す。さっきと比べて明らかにペンの量が少ない。半分あるかないかくらいだ。パステル調の紫色をしたそのペンは繊細なものに見えた。
「そういうペンを報告した方がいいってことですか?」
 彼の返事には少し間があった。
「経過観察、くらいのものだろうな。量的に」
「色は大丈夫なんですか? 結構薄めですよね?」
「確かにさっきのペンと比べると薄いが、色としての存在感があるので大丈夫だろう。私たちが関与する必要は今のところない」
 その言葉はすごく謎めいていた。なんか背中に変なものが走った気がする。
「色としての存在感…………? 関与、って…………」
「特に報告してもらいたいのはこういうペンだ」
 博士がまた別のペンを取り出す。そのペンを見た俺は息を呑んだ。
 灰色だった。そして薄かった。ぼんやりしていて今にも消えてしまいそうだ。言うなればそう、存在感がない。インクの量も少ない。ペン先に近いところで上下している。
「…………ペンが精神の象徴のようなものということはもう言ったかね。インクの量はその人の活力を表しているんだが、その源となるものがいくつかあってだな……」
 静かな空間の中で彼だけが音を発している。
「……能力や才能、自己肯定感が要因の一つとして挙げられる。これらは私たちが思っている以上に無意識的にリンクしているようだ。開発した私も思ってもみなかった結果だ」
 …………本気で恐ろしくなってきた。心なしか鳥肌が立っているような気がする。
「そ、そういうペンはどうするんですか……?」
「別室に持って行ってそこから個別で対処していくことになる」
 口の中がパサパサしている。俺は舌で唇を湿らせた。それなのに開いた口からは乾いた声しか漏れてこない。
「そ、そういえば、俺のペンとか、あるんでしょうかね。あるとしたらどんな感じなのかなー、なんて」
 そう口にしたものの、なんでこんなこと言ったのか自分でも分からない。
 博士は「ちょっと待っていなさい」と言いながら端末を操作した。しばらくしてから彼の手が止まる。そのまま何やら考えている様子に訝しんでいると、彼は俺の方を向き、静かに口を開いた。
「…………これだよ」
 その手の中にはさっきと同じペンがあった。背中に悪寒が走る。
 能力、才能。彼はそう言った。俺にはないと言うのか。…………妙に頷ける。就活は失敗続きだし、5年前は大学受験にだって失敗している。
「戸塚君」
 彼の声が静かに響く。
「君はインクの切れたペンをどうするかね?」
 目眩が起こった気がした。
 不意に思い出すのは今朝の自分の行動。普通なら記憶にも残らないような何気ない行為。
 使おうとしたボールペンのインクがうまく出なかった。ペンを振ってみたが、結果は変わらなかった。俺は、そのペンを、もう使えないそれを――――――。
 コツコツという足音が近づいてくる。
「博士。例の資料が完成しました」
 涼やかな声と共に一人の女性が入ってくる。博士に書類を渡そうとした彼女は俺に気がつくとぺこりと会釈をした。
 研究所という場所にこんな綺麗な人がいるとは思わなかった。一つに束ねた艶やかな黒髪。白衣の下にはギャザースカートがふわりと広がっており、さらにその下からはすらりとした足が覗く。
「言い忘れていたんだが」
 博士が声をかける。
「私はあまりこの場所にはいなくてね。これから先、ここにいる娘のこころと仕事をすることが多くなるだろう。分からないことは彼女に訊きたまえ」
 博士の隣で彼の娘が再び会釈をする。心臓が早鐘を打つのを感じながら、俺も会釈を返した。
 
 
 
 初老の研究者は何気なく手元のペンを見た。先程まで灰色だったそれは一部が桜色に変わり、量も少し増えている。
そのペンが表す人物を見てから、彼はそれをガラスの向こう側に戻した。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:15

タツノオトシゴ

【1】
 全く、我ながら呆れかえってしまった。その昔の私はもっとキチンとしていたはずなのに、いつの間にかこんなにもズボラになってしまっていたらしい。
くしゃくしゃの書類、土産菓子の包み紙、インクが無くなって書けなくなったボールペンやら、空になったシャーペンの替え芯ケース。ゴミ箱にやるべきゴミを、その場限りの手間を惜しんで引き出しに放り込んでいた。
その結果がこの混沌だ。探し物一つのために引き出しの中身を全部ひっくり返してみたら、事務机のおもてがすっかり見えなくなってしまって、一部は雪崩となって床にぶちまけられた。
 
「麻里さん、いつも言ってるじゃないですか。普段からちゃーんと整理整頓してないから、こーゆーときに困るんですよ? 」
 同僚の女の子に叱られる。
「あなたは私の母親か何かなの? 」
「違いますっ! 違いますけどぉ、流石に見過ごせません! それにです、お母さんは麻里さんのほうでしょ? も~……、しっかりしてくださいね」
 ぷうっと、むすぅと、この子は小さい顔の薄い頬を膨らませた。お節介焼きなのだ。何かにつけて私のズボラなことを責めてくる。そのおかげで、自分の娘とさほど歳も離れていないように見える若い子から説教されてしまうことについても、今では何とも思わなくなってしまっていた。
 
 それでも私はこの子のことが結構好きだった。名前はヒトミといった。動物に例えるならリス、第一印象は「ちっちゃい」。
 我の強さと慎みの深さを掛け合わせたような性格で、そのうえサッパリとしていて気持ちが良い。今どきには珍しい、「清く正しく美しく」というやつだ。こんなナリでも案外しっかりものだと感心する。
一方にあるのが、危うさを感じるほどの純真と従順。子供らしい愛嬌を振りまいてみせたりと、その辺が小動物らしかった。
こんなだから、とても成人しているという風には見えない。背丈が低いから? 童顔だから? いや、この子の着ているフリフリの衣装のせい? 二人で飲みに行ったりすると、まず未成年だと誤解される。
そういう時、ヒトミは決まってDLC(ドライバーライセンスカード)を印籠のように掲げ、「フルビットですよフルビット、戦車だって乗れるんですから」とドヤ顔で年齢証明してみせた。店員の呆気にとられる様を見るのが楽しいんだそうだ。
 
 そんな合法ロリータによる説教はこれからが本番だった。
「あーあ、ボールペンだってこんなに……」
 カオスの中から拾い上げられたペンは一本、二本、三本、四本、五本、六本、どれも同じ銘柄の黒。カートリッジが入っていないものなどもあって、中でスプリングをシャカシャカ言わせていた。そういうものはひとまず脇へやっておいて、残りを分解し始める。
「何だってこんなに買っちゃうんですかね……」
 少しだけ声が低くなって、言葉の調子も詰るように。それでも、すっかり免疫が出来てしまった私に申し訳ないという気持ちを起こさせるには不十分である。それどころか、最近は密かな悦びすら感じ始めていた。ペン先のキャップをクルクル回す細い指から目が離せない。
「だってそれ、もうインクないでしょ」
「違いますよね、無くしてたんですよね」
 苦し紛れの言い訳も案の定、すぐに看破された。ヒトミのボルテージが高まっていくのが伝わってくる。分解されたボールペンから出てきたカートリッジ、うちの三本はまだまだ黒いゲージが残っていたのだ。
「ペンを使った後、そのまま適当に引き出しに放り込んで、そのままどこにやったかわからなくなっちゃったんですよね。探すのも面倒だからって、そのたびに新しいのを買ってた……、そんなところですね? だって、インクが無くなったら普通は替え芯を買いますから」
 多分この後には「経費だって事務所の懐から出てるんです」みたいな説教が続くのだろうことが、容易に想像された。
 
この子はいつだって社長の味方なのだ。冗談みたいなフリフリの衣装だって、社長で指示で着ているものらしい。 それがこの子について残された最後の不思議ポイント。何だってあんな社長をこんなにも慕っているのだろうと、それだけがとても勿体ないことに思える。
 社長とヒトミの関係について詳しいことは知らない、というか話してくれない。機密指定がまだ解除されていないのだと言うが、人に話せるような関係でないというのが本当のところだろうと踏んではいる。この子が漂わせる甘じょっぱいような香りも、倒錯的な官能の関与の影を伺わせた。
だからといって、私のヒトミに対する好感情が損なわれることはなかった。今となってはこの子の身体、特に繊細な造形物が如き顔立ちなどは、むしろ私に希望的な展望を示してくれるものと化していた。
 
 この子は、あの問いに何と答えてくれるだろうか。せめて最後にそれだけは確かめておきたい。そうでないと、私はあの子の顔を見ることが出来なくなってしまうだろうから。
 
【2】
「ねぇ麻里。ペンの芯を交換しちゃったらさ……、それでも同じペンだって言えるのかな」
あの子は真白いベッドの上から、ひとり見舞いにやってきていた私に向かって問いかけた。上半身を起こしていた彼女の手元、ベッドサイドテーブルの上にはいつものノートといつもの万年筆。
そこはまだ何もかもが新しい病院だったから、その辺の備品に鼻を近づけてみると、消毒液の匂いに交じってビニルシートの香りが微かに残っていたりしたのだ。
 
それは今から三十年も昔のこと、私にだって、可愛らしい飾りの乗っかった髪留めをするような少女としての時代があったのだ。
当時、家はまだ新都の外側にあった。今でいう「空中庭園」も構造物としてはその時すでに完成していて、都市外縁をぐるりと囲んでいた。お陰で地元から都内へのアクセツはすこぶる悪くなってしまっていて、都内の病院に移った彼女の見舞いも流石に毎日とはいかない。それでも二日に一回、律義に月水金日火木土といった具合で欠かさず見舞いに来ていたのだから、随分とマメな娘だ。
 
「前にもそんなことを話してくれたっけ、船を修理したらどうこうっていう」
「テセウスのパラドックスね」
 そう、テセウスのパラドックス。私がその言葉を忘れていたということを、私は覚えている。
「でも、それとはちょっと条件が違ってるよ。構成要素の一部が交換されただけなんだから。それに、何と言うかその……、もっとアタシ個人の感情的な問題だとも思うんだ」
彼女はこういった話をするのが好きだった。素朴な疑問を哲学的な問いに飛躍させては、色々と意見を求める。私が足りない脳みそを絞りに絞って絞り出す薄っぺらい回答も、彼女にとっては思考の糧となっていたらしい。女の子らしい、可愛らしい話題ではないねと自虐混じりに、彼女は苦笑いをした。
 
「もしかして……、切れちゃったの? カートリッジ」
「まぁね」
 何でもないよという風に、また苦笑いが返ってきた。少し前に何ダースか差し入れたばかり、それを全て使い切ってしまったというのだから、驚いた。
「やっぱり万年筆は良くないね。インキはあっという間に無くなっちゃうし、乾かす手間もあるし、シーツとかを汚しちゃわないように気を使っちゃうし……。その点、やっぱりボールペンって便利」
「カートリッジはすぐに届くわよ、今注文したから今日中には」
「ごめんね、普通のボールペンでも良かったんだけどさ」
「何言ってるの、途中から急に線が変わっちゃったら格好悪いでしょ? 」
「そんなに違わないと思うけどなぁ」
「ノートは? あの量を使い切ったなら、ページも結構進んじゃってるんじゃないの? 」
「うん……、あと二日ぐらいで終わっちゃうかもしんない」
「早いわね」
「ナンたって、しなきゃいけないってことがもう無いからさー。人が来てないときはこれを書くぐらいしかすること無くって」
 こっちの病院に移ってからというもの、私ですら毎日は見舞いに来れていない。地元の他の友人らは尚更だ。自分のせいで迷惑をかけるほうが辛いからと、彼女は自分の家族に対しても、毎日は来てくれなくてもいいと言っているようだった。
 
「ノートはさ、普通のでいいよ。もう一冊同じの買おうと思ったら結構すると思うからさ」
「二冊目から急にキャンバスノートになっちゃったら、それこそ格好がつかないでしょ。永久保存版なんだから……」
真白いシーツの上の、しっとり黒々とした革表紙。これには金文字でタイトルも入っていた。英字で『Hippocampus』、彼女はこれで『タツノオトシゴ』と読んだ。
はじめのうちは素直に片仮名で『タツノオトシゴ』と題するつもりだったらしい。革表紙に金文字で箔せると聞いて、それをわざわざ英語にしたのだ。雰囲気が増したと彼女は喜んでいた。よりそれっぽくなるかなと思って本文も英語で書くことを一瞬考えたけど流石に諦めたんだ、そんなことも書き遺している。
 
「また私がプレゼントしてあげるわ」
 そう言ってしまってから、慌てて付け加えた。
「でも、無理はしちゃ駄目だからね」
「そうだね……」
 
 それから少しの間、彼女は病室の窓から外の景色を静かに眺めていた。その中心地域にある病院は土地利用の面で優遇を受けていたから、敷地内は広々としていて、贅沢に緑地広場まで持っていた。おかげで空も比較的開けていて、高層ビルの立ち並ぶ息苦しい街の姿を一歩下がって見渡すことができる。
「山……、みたい」
 彼女が「山」と表現した風景、街の一番外側で超高層集合住宅群の連なっている様が山のように見えたのだろう。都内の建物は外周に向かうにつれ、どんどん高くなっているのだ。よく、断面図はすり鉢だとかクレーターだとか言われている。なるほど、さながら山に周囲を取り囲まれた盆地のようにも思えた。
「前にもそんなこと言ってたわよね」
「空の付け根あたりに浮かんでた雲が山に見えたんだ。そんなもの、あの辺りにありはしないのにさ」
「……、やっぱり帰りたい? 」
「もうあそこには何もなくって誰もいないんだよ。行けやしないし、そもそも出られない」
「それなら、あれは壁だね」
「そんな悪い風に言わなくってもいんじゃない? アタシはやっぱり山だと思う。街の周りをぐるりと囲ってて、街のどこにいても街の端っこがわかる。その点、雲の山にはない安心感がさ、あの山にはあるよ」
 それからまた少しの間、彼女は無言で外を眺めていた。難しそうにしている顔がまた良かった。その時に撮った一枚は現像して「タツノオトシゴ」に挟んである。今でもその写真を見るたびに、古の西施とは彼女のことだったのではないかと思われた。
 そしてカメラを向けられていることに気が付いて慌てた彼女の表情をバッチリ収めた一枚も一緒にクリップで留めてある。写真を撮るとなると急にしおらしくなってしまうあの子の動的な表情を収めた貴重な一枚。これも、私のお気に入りだ。
 
「ねぇ麻里、さっきの話だけどさ。ペンの芯を交換して、それでも同じペンだって言える? 」
「……、怖いの? 」
「別に、そんなじゃないけどさ」
「大丈夫。同じペンだって、きっとみんなもそう言うわ」
 
その日の終わり、病室を後にしようとする私を引き留めた彼女は、取り出した二枚の書類それぞれに署名をして、うち一枚をこちらに寄こした。
「これ、麻里のお父さんによろしくね」
 その時の彼女の表情はよく覚えていない。安堵の気持ちが胸いっぱいで、その顔をよく見ていなかったのだと思う。
 
【3】
 それからのことは当時の報道を漁った方が詳しいだろう。あの子は脳複写実験の直後に息絶えた(この当時はまだ「脳撮」とか「電撮」とか言った。「脳複写」は複写脳の実現可能性が指摘されるようになった頃から使われ始めた言葉だ)。医師から宣告されていた一年をとうに過ぎていたのだから、むしろその瞬間まで踏ん張っていたとも言える。関係者、遺族でさえ、実験とその死に因果関係があるとは考えやしなかった。
それでも、世間様はそうは思ってくれなかったのだ。人体実験、事故。そんなキーワードで連日連夜、センセーショナルな報道が繰り返された。「新技術の実験」に「子供の犠牲」、しかもその背後に「国の支援」と、ジャーナリズムを盛り上げる要素がてんこ盛りの「事故」だったのだ。
 魂を吸い取られたのだ、そんなオカルトチックな言説までもが流布し、大の大人ですらそれを本気にする。実験の責任者だった私の父が幾ら理論的なことを説明しても、人死にが出ているという事実を彼らは必要以上に重要視した。
そして実験のプロセスや新技術への不信感に始まったこの騒動は、身体代替技術の分野(古典的に言うところのサイボーグ技術)が次々と成果を上げるようになるにつれ、ヒト脳を機械的に代替することの倫理的な問題という文脈での議論に切り替わっていく。当時の政府が出した結論は、ヒト脳の神経系複写研究は凍結という逃げの結論。以来、ヒト脳の複写は一度も行われていないことになっている。あの子の一例が最初で最後というわけだ。
 父は当然この決定に納得しなかった。実験を行うまでのプロセスには何ら問題はなかったのだ。被験者となった彼女への説明は必要以上と思われるほどに為されていたということが「タツノオトシゴ」からも伺える。理論そのものにだって絶大な自信を持っていた。そうでなかったら、幾ら一人娘に懇願されたとしても、いきなりヒトを、しかもその娘が無二の親友だと言っているところの友達を実験台にするなんてことが出来ただろうか。それを「何らかの未知の作用による影響があったかもしれない」という曖昧に曖昧を重ねた断定によって、研究そのものを凍結させられたのだ。検証のための予算すら、父のところには一銭も出なかったらしい。検証については「公正」を期すため、完全に第三者として独立した研究室が設置されたのだ。それだけのことをして数年前にようやく出された結論は結局「何らかの未知の作用による影響があったことを認める」、それだけだった。
 その発表があった後、父は自死した。闘うだけの気力を既に失っていた父は、どうやらその結論を素直に受け止めたらしかった。遺言書にはあの子について、懺悔の言葉すら書き遺されていたからだ。
 
【4】
 そして今日、二十一世紀も折り返し地点に来てみると、人間の科学文明にもまだまだ伸びしろがあるものだと感心する。繁栄の象徴たる高層建築はますます天に届きそうな勢いであるし、遂には天に届いたものすらある(全球通信集団の管理する軌道エレベーターのことだ)。部分代替の普及は富裕層の平均寿命を大幅に伸ばし、修文はとうとう六十年の大台を超えた。
 そのくせして変わるのは景色ばっかり。社会の在り方は全然変わってくれないどころか極端さに磨きがかって、弊風陋習世に憚る。いい加減、印鑑文化も滅んだものとばかり思っていた。そのために私は引き出しをひっくり返してまで探し物をする羽目になったのだ。
「だから、それは麻里さんが整理整頓をキチンとしていなかったからなんです。自業自得なんですからねっ。ちゃんとどこに何を置くのか決めておけばこうはならないんです」
 結局、ハンコはヒトミが見つけてくれた。はじめから事務机なんかには無くって、手持ち鞄のポケットの底に挟まっていたのだ。
 
「それはそうと、今どきハンコしなくちゃいけない書類なんてあるんですか」
 今どきの子は不思議そうに首を傾げた。この子の場合、ハンコを知っているだけ博識だ。もうちょっと下の世代になると「ハンコ」という言葉すら何のことかわからないかもしれない。
「これがあんのよ。大昔(これは誇張表現)に作られた書類だからフォーマットも当時のまま。そのうえ融通の利かないお役所らしくって、ちゃんとそのフォーマットに乗っ取って書いてきてくれって」
「それは良くないですね、合理的じゃないです」
 普段ものを悪く言うことを控えるヒトミが愚痴に頷いてくれるのは珍しかった。それだけに、愚痴を聞いてもらうことの効能が倍増するようである。少しだけスッキリした気分で意味もなくヒトミの顔を眺めていると、視線に気が付いた彼女が微笑み返した。点数をつけるなら百点満点な笑顔、完璧でありながら至って自然。自然であることに不気味さを覚えないほどに自然であることが不自然だというくらいに、自然な微笑み。
 
 この顔までもが代替物であるということを知ったのも、つい先日。「数年間も同じ職場で働いていても気が付かないほどに、生身と見分けがつかない次元にまで到達しているのだ」と説明に来た役人はヒトミを指さして言った。超大掛かりなドッキリのネタバラシをする楽しさなのか、それとも自分の知っている世界の秘密を人に話すことが出来ることの悦びなのか、その役人は幾らか興奮気味だった。
 勿論、このクオリティの代替身体は一般に流通するものではない。特にこの子のそれは身体の隅から隅までオートクチュール、価格は有人戦闘機数機分に匹敵する。とはいえ、これは研究開発費が積み重なった結果であるから、「次」はもう少し安く造れるだろうということだ。
 
 そう、その「次」がある。三十年前に「吸い取られた」少女の「魂」を、この代替身体に戻す。大昔から空想の世界では当たり前で、最早陳腐と化した発想を現実のものにしようと言うのだ。
 尤も、そんなロマンだけを追い求める計画ではない。説明に来た役人も厚生省の人間、医療行為と考えられていた。助かる見込みのない患者が選択しうる究極に最後の手段として身体をまるまる代替物と交換するという、何とも荒っぽい治療方法だ。
「ハード(身体)のほうは既に完成している。あとはソフト、複写脳の実用化、それだけなのです」
 凍結されているのはヒト脳の複写であって、既に複写されてしまったデータの活用自体は禁じられていない。脳複写が禁忌とされるようになったそもそもの「元凶」たる少女が現代に蘇生を果たす。当時の医学が匙を投げた難病を現代の技術が「治療」したという実績をつくることで、医療行為としての脳複写を解禁させる方向に持っていきたい。そんな思惑があるのだと、厚生省から来たその男は隠しもせずに喋る。そもそもあの子しか複写されていないことになっているし、女性の全代替についてはヒトミという実績が既にある。何より、生前の本人が複写データの権利についての一切をある人間に信託していたことがハッキリしている、これが決め手だった。
「あ、モチロン、一切の費用は国から出ます。あなたには同意して頂くだけでいいんです」
 
 こんな話を私がただ黙って聞いていたのかと言えば、その通り。頭に来るものが無かったと言えば嘘をつくことになる。役人の態度・物言い、当時散々に議論された倫理的な問題は解決しているのかといったツッコミ、父の無念。そんな諸々の感情が湧き上がってくる一方で、結局のところ、それらは私の実際の行動を形作るほどの力強さを得ることはなかったのだ。
 
 後日提出という形でもいいと言って置いて行かれた二種の書類。その片方はあの子の複写について、一切の権利を私に信託されていることを証明する紙切れだった。本格的な議論がなされるようになる前で、しかもあの子がいつ死んでしまうかもわからない状況で急遽拵えられたものだから、何一つ具体的なことは書かれていない。本当に1から100まで、一切を私個人で好き勝手してよいという内容。私がこの権利を他者に移譲することまでも制限されてはいなかった。
 署名も間違いなく彼女の字。『タツノオトシゴ』を開いて、筆跡鑑定の真似事をしてみたが、やはり確かだ。
 
「その人は麻里さんのことを本当に信頼してるんですね……」
 ヒトミは大層感心したという風な感想を寄こしてくれた。一方で、ジィィィィという音が聞こえてくるような視線を私のノートに向けている。チラっと、表紙の金文字を見せてあげた。
「ヒッポキャンパスって……、海馬のことですか? 」
「物知りね。でもこれはタツノオトシゴって読むの」
 つい、少し意地悪に言ってしまった。けれども落ち着いて考えてみれば、ネットの検索フォームにこの文字列を入力するだけで得られる情報だ、張り合うこともない。
 
 この『タツノオトシゴ』のことを彼女の遺書だと言う人もいる。事実、私だって実際に読み込むようになるまでは、遺書でなければ死に向かうあの子の感傷が只管綴られているものだと思っていた。
彼女はこれを書き始めるにあたって「毎日、何かを書く」としか言わなかったのだ。そして彼女の死んだあと、このノートは一度はその家族のところに行ってから、私のところに来た。理由は簡単で、そこに「これは麻里の物となるように」という旨の書き遺しがされていたからだ。
 ここで初めて、私はこのノートを読んだ。日記という体裁で彼女自身がその日に何を思ったのか、詳細に記録している。自らの不幸を嘆いたような言葉ですら、感情そのものでなくて、その感情が何処からやってくるものなのかを逐一説明するように記している。言うなれば、「心の観察日記」というものだろうか。その中には年頃の娘らしい性への興味までもが赤裸々に。
 おかげで、私は彼女のことを以前よりもずっと細かく知ることが出来たのだ。自分の中に彼女を住まわせているが如く、あの頃のあの子ならどう考えるかということが理解できる。だからこそ、彼女は最期に私の我儘を聞いてくれたのだということも良くわかった。
その『タツノオトシゴ』の最後のページはこの書類の記入日と同じ日付になっている。結局、二冊目は書かれなかったのだ。そこには、私には明らかにボールペンで書かれたと判る線でこんなことが書かれている。
「大昔に中国で出版された古い本は今でもこの国に多く残ってる。けど、肝心の中国にはそれが残っていないということがしばしばあるらしい。その本の最新版が刷られて既に情報が更新されてるから、古いバージョンであるその本をわざわざ取っておくなんてことはしなかったんだって」
 
【5】
「それで、あなたはどこまで代替してるわけ」
「頭の中身と背骨以外はほとんど代替らしいです」
 私にもよくわからないんですよねーという風に、不思議そうな顔をして指を動かしてみたり、脚を上げてみたりした。ヒトミは本当に嘘を言わない子だから、喋れないことについては「喋れません! 」と正直に言う。どうしてそんなに代替しているのかと聞けば、やっぱり「喋れません! 」と返ってくるし、唐突にデリケートなことを聞いたら「喋りたくありません! 」と返ってきた。
「あなた、実はロボットだったりしないわよね」
「あっ、そういう発言には気を付けてくださいね。下手すると人権侵害に当たるそうですから。こないだだって、それで干された議員がいたじゃないですか」
「冗談よ」
「それに、疑似人格だってまだまだ発展途上なんです。それっぽく見えるオペレーションAIとかも全部、予め途方もない数のシナリオを用意したうえで、それこそそれっぽく見えるように作られてるだけなんですからね」
「オーバーテクノロジーみたいな存在のあなたに言われても説得力に欠けるわ……。第一、あなたがそれっぽく見えてる人格じゃないってことの反論になってないじゃない」
「哲学的ゾンビはズルですよぉ」
 この子は本来的に嗜虐心を煽るように出来ている、だからこそ時折垣間見せるSっ気の魅力が増すのだろう。所謂「ギャップ萌え」の理論だ。
 
「ねぇ、その身体になってツラかったことってある? 」
「正直に話しても、いいんですか? 」
「……、ええ」
「やっぱり、初めのうちは慣れなかったです。身体の記憶が全身分、スッポリ抜け落ちちゃってるんですから。よく転んだりもしました。ちょっとしたことが出来ないってのは、正直へこんじゃいます……。その頃はツラかったですね」
 ヒトミは感慨深げにグーチョキパーを繰り返してみたり、両手でカエルを作ったりしていた。
「それでも、今となっては霊感が強くなっちゃったかなぁ~って程度です。エヘヘ」
 
「ねぇヒトミ。ペンのカートリッジを交換したら、それでもペンは同じペンのまま? それとも全く別なもの? 」
「テセウスのパラドックス……、とはちょっと違いますね」
「そう、違うのよ。もっと個人的で主観的で、感情的な問題」
「これも少し違うかもしれませんけど、スワンプマンのほうが近いかもしれないです。スワンプマンは初めから自分が自分だったと主張します。でも、昨日の男は今日のスワンプマンを自分だって、言いたくはないでしょうね」
「そう……。ありがとう」
 
 私はもう一方の書類に向き合った。あの子を、また新しい実験の実験台にしようというのだ。一緒になっていた資料も読み込んでみると、これが色々と書いてある。どうも、法的に死んだことになっている人間が「蘇る」ことは儘あるらしい。とはいえ、それは失踪などが原因となって暫定的に死んだと見做されていた場合である。流石に、医師に死亡確認をされて荼毘に付された人間が蘇ったという前例はない。そういった戸籍の問題やら人権の問題やら、ありとあらゆる問題を「人道的な観点から」超法規的な措置も含めて検討するという。スワンプマンを人間と見做すことに何ら疑問を抱いていないというところだけは、宗教的な制約が弱いというこの国の数少ない長所が発揮されていると思う。
 ただ、そのようにして「生まれる」彼女は一体どうなってしまうのか。色々な懸念があった。技術的なこともそうであるし、権利的なこともそうだ。突然人権が剥奪されて、公費が費やされているから国家の所有物であるだなんてことになったら。恐ろしいことについての想像は膨らむ一方だ。
 
 それに、あの子は私になんて言うのかな。いや、私のことをなんて思うのだろう。ううん、わかっているはずなのだ。
「でもね、私は我儘なの」
 そう独り言ついて、ペンケースから万年筆を取り出す。この三十年で私によく馴染んでしまったそのペンは、悪魔に人身御供を約束するその誓約書に、黒々と艶めいた軌跡を迷いなく残していった。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:14

見つめてブルームーン

  左隣に座ってきた男は私のグラスを見ると、同じものを、と言った。調子は軽かったけれど、落ち着きのある、少しかさついた声だった。さりげなく視線を向ける。でも、見覚えのある顔じゃない。という以前に、まあにっこり笑った顔の造形は悪くないようだったけど、落ち着いた店内の照明とはあまりにそぐわない、嘘みたいに大きなサングラスをかけていた。おかげで年もよく分からない。私は自分のカクテルを飲み干した。美しい青紫色の液体が淡く喉を焼きながら消えた。

「同じものを」

 ええ、とバーテンダーが言った。

「彼女の、先に出してあげてよ」

サングラス男の言葉に、バーテンダーは曖昧な笑みを浮かべた。まるで聞こえていないようにも見えた。ステアグラスへ手早く注がれていく、ドライジン、バイオレットリキュール、レモンジュース。ゆっくりと変化していく色について書き記そうとペンのキャップを外しかけたものの、そういえばインクは切れていたのだと、もう何度目か分からない気付きに溜め息が出る。

あれっ、と隣の男が声を上げた。

「それ、インク切れてるんだ?」

 あくまでも話しかけるつもりらしい。なんで分かったのだろうと思いながら、ええ、と答えた。

「あらら。じゃあ、何にも書けないわけだ」

 そりゃ大変、と男は呟いた。カウンターに両肘をついて、バーテンダーがシェイカーを振るのをのんびりと眺めている。僅かにこちらへ顔を向けたのは、どうやらこちらの様子を伺っていたものらしい。一通りこちらを眺め終えたのか、ふっと視線をバーテンダーに戻した。

「んー。でも、作家志望ってわけでもなさそうじゃない。何書いてるの?」

 何を、と思う。これから何を書こうというのだろう。

「……何も」

 正直なところを口にしてみてから、つまらない答えだな、と自分でも思った。本当はこのカクテルの美しさを主題に小説をひとつ書きたいと思ってここへ来たのだ。けれども、こうして二杯目を飲み干したところで、ストーリーらしきものはひとつも浮かんでこない。おまけにペンのインクは切れている。こんな状況で書けるものなどない。だから何も書いていない。

「何もって。インクが切れてるから?」

「そう」

「ふうん」

 男の態度は興味があるのかないのかはっきりとしなかった。ちらりと表情を伺うと、にこりと口元が笑んだ。何となく、さっきよりも幾分好ましく見える。とはいえ、相変わらずサングラスを外す素振りはない。バーテンダーがグラスを差し出す。

「ブルームーンです」

「ありがとう」

「ごゆっくりどうぞ」

 一礼したバーテンダーは品のいい笑みを浮かべたままどこかへ去っていった。既に淡く結露し始めたグラスの中で、やはりその色は美しかった。青とも紫ともつかない、夜の一歩手前のような色をしている。

「へえ、綺麗なお酒じゃない」

 相変わらずサングラスをかけたままの男が言った。

「何だっけ、ブルームーンだっけ。どの辺がムーンかは分かんないけど」

「……サングラス」

「ん?」

「サングラス。外して見てみたらいいのよ」

人差し指の腹で結露を拭いながら言うと、男は少し笑った。

「あー。残念ながらこれは取れないの。都合上ね……それに、まあ個人的な意見だけど、男はミステリアスな方がいいと思うな」

 そう思わない、と男は問う。私は小さく首を横に振った。グラスに口をつける私を眺めながら、あら、と残念そうな顔をしてみせる。それもすぐに引っ込めてしまって、今度はまた楽しげな笑顔に戻った。随分ころころと表情が変わる。

「でも、俺はそう思うわけ。だってわくわくするじゃない? 中身がよく分からないものの方が興味深いと思う。……例えば、何が入ってるのか分からないけど綺麗なカクテルとか、どんなインクが入ってるのか分からないけどお洒落なペンとか……あ、入ってたか。正確には」

 そう言われて手元を見下ろす。淡くピンクを帯びたパールカラーのボディ。緩く曲線を描くフォルムは使い始めからしっくりと手に馴染んだけれど、これは元々、私のものではなかった。

「それ、万年筆?」

「いいえ」

「じゃあ、ボールペン?」

「いいえ」

「……そのフォルムで万年筆でもボールペンでもないペンって、俺初めて見たなあ。ますます気になっちゃう」

 男の視線を感じながら、私は自分でもこのペンが何という名前のものなのか分からないということに気付いた。ペンとしての種別も知らないし、商品名も知らない。貰い物のペンだから仕方ないとは思いつつも、本当なら受け取る前に聞いておきたかったと思う。

「曾々祖父の形見なの」

「ひいひいおじいちゃん?」

「そう」

「ふうん。……えっ、随分長生きだったんだね?」

「いや、会ったことはないの。曾々祖父が最期に使っていたペンを、順々に私まで」

「へえ、なるほどね。じゃあそれだけ大事に手入れしてきたんだ」

「ええ」

「でもインクは切れてる」

「……そう」

 前に交換したのがいつなのか、正直記憶になかった。でも、比較的最近のはずだ。結構な長さのタンクが付いていたものだから、そうそう使い切りはしないだろうと予備を買っておかなかった。だというのに、その直後から何かを書きたくて堪らなくて、無闇にペンを走らせた結果がこの有様だ。

「なるほどね」

 うんうん、と男は細かく頷いた。視界の端で男の頭が揺れる。手元のノートは白紙のまま、上の余白にぐるぐると円を描いた痕跡だけが残っていた。ペン先を見る限り、いくらぐるぐると紙面に擦りつけて息を吐きかけたところで改善されないのは分かっていた。それでも未練がましくやっていた跡だ。インクは出ない。既に切れてしまっている。リフィルを買わない限り、私は何も書けない。

ストリングスのよく響くジャズが流れている。じっと私の手元を見つめた後で、いいじゃない、と男は呟いた。

「いいペンだよ」

「ええ。いいペンだけど」

「うん。あのー、そのペンでさ、何か書けないの?」

「……え?」

 さも当然のように男は言う。思わず聞き返すと、男は全く同じ台詞を繰り返した。サングラスの向こうの視線は伺い知ることができない。その言葉が真剣なのかどうかも。

「いや、だから、インク切れてるんだって」

「いーのいーの。その『インク切れてる』ってところがいいんじゃない。その、お洒落なインク切れのペンでさ。何が書けると思う?」

「書けないよ」

「そう? 書けると思うけどな」

 ふむ、と呟いた男はジャケットの内ポケットからペンを取り出して、鼻と上唇の間に挟み込んだ。よく見ればそれは私のペンと色まで同じものだった。

「んー」

 小さく唸ったきり男は考え続けている。男が頑なにサングラスを取ろうとしない理由を推測しながら、ゆっくりとカクテルで唇を湿した。甘くも爽やかな香りが広がる。ドライジンのボタニカルに、レモンジュースの香味と、パルフェタムールという名のバイオレットリキュール。菫の香りは濃厚で、どことなく官能的なものがある。完全な愛という名を冠するバイオレットリキュールなのに、このカクテルは誘いを断る時にも使うらしい。そんな二面性と、この淡い色合いが気に入っている。だからこそ小説のテーマにしたかった、わけだけど。飲んでも眺めても、一向にアイディアは浮かんでこない。結局のところ、私には才能がないのかもしれない。

暫くしてから、男はもう一度、今度は少し明るいものを滲ませて小さく唸った。

「あのさ」

鼻の下のペンを外すと、まるで指揮棒か何かのようにひょいと振る。

「このペンは、人間の生き血しか吸わない吸血ペンなわけ」

「……急に何?」

 何の冗談かと思えば、至極真剣な顔つきで男は言う。

「吸血ペン。普段は、まあ自分の血か、もしくは誰かの血を吸わせてるわけ。でも、君は今日、何らかの理由で血を吸わせることをしなかった。だからインク切れを起こして、することもなく退屈しのぎにお酒なんか飲んでると。……ってことはもしかしたら、俺を酔わせてへろへろになったところで血を吸わせるつもりかも……!」

 男はぶるりと身を震わせてみせた。かと思えば、今度はさも得意げに胸を張る。

「なーんて感じでさ。インク切れのペンでひとつ書けちゃったわけ」

 ああそういうことか、と思う。文字を書くんじゃなくて、物語を作るという意味での『書く』か。だったらできるかもしれない、と思う私を置き去りに、今度はペンを掌に打ち付ける。

「あとほら、血じゃなくても、凄く貴重なインクしか受け付けない、とかってのもどうよ。そうね……純粋なラピスラズリの結晶と、満月の夜にだけ現れる湖の水だけから作ったインクしか入れられないとかさ。それで、この前の満月の夜は雨だったから、切らしてた湖の水が手に入らなくて、予備のインクも底をついちゃって、こんな感じ、とか」

 男の言葉を聞きながら、深い森の奥にひっそりと現れる湖のことを思った。満月の光を受けてまろく光る湖面。水底には様々な色の水晶が転がって、澄み切った水をきらきらと透かすのかもしれない。

「どう、当たってる?」

 随分と無邪気に問うてくるのに思わず目を背けて、またカクテルを口に含んだ。

「……ただ使い切っただけよ」

 やっぱりつまらない返事だ、と思う。面白みも何もない、無味乾燥な事実だけの言葉。分かってる。才能がないんだ。男が出した案は簡単なものだけど、どれだけこのペンを見つめたって、私にはほんの小さなものでさえ何も思い浮かんでこなかった。罫線だけの惹かれた真っ白な紙が目に滲みるようだった。

小説なんて、書いたことがない。

俺は使わないから、とこのペンを父から受け取って、何かを書かなきゃいけないと思った。曾々祖父が詩を書くのに使っていたペンだから。深い菫色のインクが入ったカードリッジをいくつも引き出しに溜め込んで、何をおいてもそれだけは決して切らさなかったという曾々祖父。写真も残っていないし顔も知らない、でもお前はきっと気が合っただろうと祖父が言う人。その人の書いた詩は全て失われてしまったけれど、この優美な姿をしたペンの中にはその欠片が残っているような気がした。

小説を読むのは好きだった。だから、このペンがあれば書けるような気がした。

 

 でも。間違いだったのだろうか。

 

「……ねえ」

「ん?」

 男は相変わらずサングラスの向こうからこちらを見つめている。

「こういうの、好きなの」

「うん、まあまあ好きかな。綺麗なカクテルと綺麗なペンを持った綺麗なひとくらいには好きだね、ミステリアスで」

 ふふん、と男は笑う。

「……まさか、口説いてるつもり?」

「ううん。俺はそういうことしないの。都合上ね……というか第一、口説こうとしてる男は『まあまあ好き』とか言わない」

「まあ、確かに」

 それもそうかと少し笑うと、やっと笑った、と男は安心したように言った。それからまた何か思いついたのか、ペンの先を軽く掌に打ち付ける。

「ね。ひいひいおじいちゃんのペンだって言った?」

「ええ。言った」

「じゃあ、俺がひいひいおじいちゃんかもってのどう?」

 くるくると男がペンを弄ぶ。

「そのペンで何か書こうとしてんのにインク切れな孫……じゃないな、なんだっけ」

「玄孫」

「それそれ。玄孫のことを心配してさ、うっかりそのペンを使ってた頃の姿で出てきちゃった、なんてのもありじゃない」

 ありじゃない、という男の言葉が、とんと背中を押した気がした。

「――ペンの付喪神かも」

 ぽろ、と零れ落ちた言葉に、一番驚いたのは自分だった。ペンの動きを止めた男がちらりと私を見遣る。

「……ペンの付喪神?」

 そう、と言いかけて、飲み込む。こんなくだらない話でいいんだろうか。それどころか馬鹿馬鹿しいんじゃないか、こんなの。

だって。そもそもこの男は――。

「いーいじゃない!」

 呆気にとられる私を前に、男は心から嬉しそうにそう言った。

「俺がこのペンの付喪神だったら、全く同じものを持ってるのも何となく説明がつきそうだしさ」

 そうだ。男の持っているペンは、私の持っているものと少しも違わなかった。色の剥げ具合も、ムラも、小さな傷のひとつひとつに至るまで同じだ。

「だから、本当はインクが切れてるんじゃなくて」

 口に出してみると、なんだかそれらしいような気がしてくる。

「つまり、このペンには魂がないの。ペンが、ペンであるために必要な何か。だから、もしかするとインク自体はまだあるのかもしれない……ただ、ペンがペンでいることができないから、インクを適切に落として何かを記すということが、できないだけ」

「おー、難しくなってきた」

 でも言いたいことは分かる、と男は顎を撫でながら言った。それから、ほんの少しサングラスを押し上げた。男が初めてサングラスに触ったような気がした。

「……じゃあ、俺はそのうち君のペンの中に戻るの?」

「そうなるんじゃない」

「あら寂しい。もうちょっと君と話してたいような気がするけどな」

 んふふ、と男が笑う。相変わらず店内にはストリングスのよく響くジャズがかかっていた。バーテンダーは私たちからかなり離れたところで静かに佇んでいる。何の気なしに目の前のグラスを見下ろす。紫とも青ともつかない色合いの液体がグラスの表面を曇らせている。その表面に指先を触れさせると、一点に集まった水滴は指先を伝って掌へ流れ落ちた。その冷たい感触を握りこむ。この液体がそのままインクになればいいのにと思いながら、喉を焼くアルコールの感覚を追う。

「でも、そろそろ俺がいなくてもいい感じじゃない?」

 開いた掌にペンを転がしながら、男は静かに微笑んだ。私は何も言えなかった。その言葉は確かにその通りであるような気がした。じゃあさ、とペンを握った男が囁く。

「もう一つ聞かせて。君の、インク切れのペンにまつわる物語」

 覚えておくからさ、とキャップの先で顳かみをつつく。

「できるかしら」

「ん、できるよ。間違いなく」

 そう言われても、頭の中に浮かぶ物語は立ち上がったそばから崩れていく。付喪神だなんてストーリーも今や私の中では成立しなかった。彼は、付喪神じゃないからだ。

無意識に伸ばした手が、ペンを持ち上げた。ぱち、と音を立ててキャップを開ける。丸みを帯びたペン先を戯れに滑らせても、真っ白な紙の上には何も残らない。紛れもなくインク切れだ。ただそれだけに過ぎない。けど。隣に座った男は相変わらず楽しそうに私を見ている。サングラスの向こうから視線が向けられているのが分かる。

その瞳を想像した時。

 

――ぱち、と全てのピースが嵌ったような気がした。

 

「……あのね」

深々と息を吸い込めば、脳裏のストーリーがするすると溢れ出してくる。

「バーカウンターでカクテルを飲んでいる人間がいて、その人は小説を書きたいと思っている。でも、そのためのペンはインク切れを起こしている。……これまでに沢山の原稿を書いて、完結させられなくて捨てて、また書いてを、繰り返していたから」

「いっぱい書いてたわけだ」

「そう。その人は孤独だった。自分ひとりでたくさんのアイディアを出していたけど、書きながら、こんなものを一体誰が読むんだろうと思って、耐えられなくなって。どれもその先が書けなかった。気分転換にと普段来ないようなバーへ出てきて、大好きなカクテルを頼んだ。でも、それを前にして浮かんだアイディアを、結局片っ端からなかったことにした。つまらない、面白くない、って。その人は疲れていて……そして、突然思いついた。隣に座ってくれた人が、少しだけ自分の支えになってくれたらいいのに、って」

 ん、と頷いて男が先を促す。

「例えば、とその人は考えた。隣に座ってきた男が、同じものを、と注文をする。男は嘘みたいに大きなサングラスをかけている。彼はなんだかふざけたようなことを言いながら、それとなくその人のネタ出しを手助けする」

「えっ、俺ふざけたようなこと言ってた?」

「ミステリアスがどうこう、ってところ」

「ああ。なるほどね」

 ごめんごめん、と男は苦笑し、ペンをジャケットの内ポケットへ戻した。

「それで?」

「……そのミステリアスな男は、その人のペンの生贄かもしれないし、ペンの持ち主だった曾々祖父の霊か何かかもしれないし、ペンの付喪神かもしれなかった。でも実際には、そのどれでもあるかもしれないし、どれでもないかもしれない。……あなたは、私が隣に座ってほしいと空想した、ただの『キャラクター』だから」

「ん。そうだね」

 あっさりと男は言った。彼が注文したブルームーンが運ばれてくることはない。その『落ち着きのある、少しかさついた声』は、私だけが聞くことができる。いや、本当は聞けてもいない。私は、そう空想しているだけだ。

 残り少なくなったカクテルを見下ろす。ストーリーは既にクライマックスに近い。

「さ。残りの伏線も回収して」

 おどけて言った男に私は頷いた。

「男の存在を定義したその人は――つまり私は、あなたと私の二人をテーマにストーリーを練り上げた。あとはそれを言葉にするだけ。でも、やはりペンのインクは切れている。切れているけど、インクがあれば書けるじゃない、とあなたは言う。それから」

 男が、私の思い描いた通りに笑んだ。

「『じゃあ、頑張って書いてね』」

「あなたはそう言う。私は頷く。するとあなたは、あ、と思い出したように言って悪戯っぽく笑う」

「『文字にしてくれるならさ、俺も飲みたいな。その綺麗なカクテル』」

「ブルームーン」

「そう。それ」

「私は随分迷うけど、考えておく、とだけ言う。けれど、男がブルームーンを口にするシーンを書くつもりはない。だから、こう続ける」

 ひゅ、と吸い込んだ息が鳴る。

「『今のうちに、見ておけば。このカクテルの本当の色』」

 男は、私の台詞を知っていたはずなのに、少し迷っていた。私は結露に曇ったカクテルグラスを見つめる。男の迷いは私自身の迷いだった。男がサングラスを外せば物語は終わる。でも、この物語の終わることが、寂しかった。それに、この物語の終わりが私の描いたものでいいのか、分からない。こんなのでいいんだろうか。こんなストーリーでも、面白いだろうか。

ふ、と男は静かに笑った。

「――面白いよ」

 私はぎくりと男を見遣った。私のストーリーにそんな台詞は『ない』。

「君の書くものは面白い」

 それでも男は、小さく、私だけに聞こえるように囁いた。それはきっと、彼自身の言葉だった。彼自身の言葉ということは、私自身の言葉だ。それはストーリーのためではなく、私のための、私自身の言葉だった。

「……ありがとう」

 ほとんど独り言のようにそう返すと、男は小さく頷いた。それから、わざとらしく大きな伸びをして、首の後ろを少し揉みほぐした。

「『じゃあ、味の方は続編に期待かあ』」

そう言って、ゆっくりとサングラスを外す。男は目を閉じている。見たことのあるようなないような顔はその輪郭をはっきりとさせないまま、ただ『親しげな微笑を浮かべている』とだけ描写される。

「まあ何にせよ」

 畳まれたサングラスが胸ポケットに引っ掛けられる。

「そのペン、普通にインクを足せば書けるようになると思うな」

「……知ってる」

「だよね、俺も知ってる。俺は少なからず君なわけだし――」

 薄く開けられた瞼の下から現れた瞳は。

「――ってことは、最初からミステリアスも何もなかったわけだけど」

 青とも紫ともつかない、夜の一歩手前のような色をしている。その瞳が私のグラスの中身を見つめ、柔らかく、柔らかく微笑む。

「うん。やっぱり綺麗じゃない」

 ね、と上げられた視線が私のそれに重なる。その瞬間脳裏に、小さな、静電気の弾けるような音を聞いた。

「……っ!」

瞳の色はいつの間にか水面の色に変化していて、私はひとり、バーカウンターでカクテルグラスを見下ろしていた。最早誰の気配もなかった。

「……ええ。綺麗よ」

 思わずそう呟いた。水面はまろく光っていた。手の中のペンは、なんだか重く感じられた。早回しでストーリーを再生する脳内はひどく静かで、相変わらず、ストリングスはよく響いている。わざわざ視線を向けなくても左隣が空席だということは分かっていた。最初からあのサングラスの男は私の中にしかいなかった。今や私に出来ることは、ただ『彼』を書いてやることだけだ。残りのブルームーンを一気に呷った。もう必要なかった。描こうとしたあの色は、既に私の頭の中にある。

『彼』の瞳の色だ。

夜の一歩手前の色。ミステリアスな月の色。今や私の中に満ちている、インクの色。

 支払いを済ませて店を出た。文房具店はもう閉まっているけれど、引き出しの隅々まで見ればカードリッジのひとつくらいは見つけられるかもしれない。そうすれば、このペンでもう一度『彼』に会える。不意に浮かんだ書き出しの一文を忘れないように何度も繰り返しながら、月光の下、私は家路を急ぐ。

 

『左隣に座ってきた男は私のグラスを見ると、同じものを、と言った。』
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:11

ベッドに転がって天井を眺めている。
外では蝉が鳴き、すでに夏休みを迎えわくわくが止まらない様子のはしゃぎ声をあげた子どもたちが走り回っている。明日はお祭りがあるのだろうか、心なしか町全体が盛り上がっているようにも感じられる。風邪で学校を休んだ日みたいだ。小学校の時はえもいわれぬ優越感があって一日中マンガを読んでいたり、テレビを見ていたりしたけど今はそういうことを純粋に楽しめなくなってしまったなあとしみじみ思う。

全てに気がつかなかったことにしたくて音楽を流す。毎日毎日代わり映えのしないプレイリストで聞き飽きているはずなのに安心してしまっている自分に少し笑う。

昨日は何をしていたっけ、何を食べたっけ。あれ、最後に人と会ったのはいつだろう。考えようとしてやめた。このまま考え続けたら本当に病気になってしまいそうだ。

急に音楽が止まった。
充電器に繋いであるはずだから、充電切れということではないだろう。外界と繋がる唯一の手段であるこいつが壊れたら世界が終わってしまうような気がして素早くベッドから起き上がり、駆け寄る。

画面は予想外のものを映し出していた。
僕はおそるおそる応答に触れる。

「もしもしもしもしもし」
 懐かしいもしもしの連呼が聞こえてきた。
 思わず吹き出しそうになってしまうが、こらえて、いたって冷静なふりをしてゆっくりもしもしと言い返す。
 向こう側の彼女からとても嬉しそうな笑い声が聞こえてきてなんだかとても嬉しいけれどそんな雰囲気はおくびにも出さない。きっと彼女は僕がこの電話にわくわくしていることも、喜んでいることにも気がつかないままだろう。申し訳ない気もするけれど、きっと僕らの関係はこんな感じが正解なのだろうと思う、ことにする。

「久しぶりに電話してみたんだけど、最近何してるん?」
と彼女は空白の年月を感じさせないぐらい明るい声で話しかけてくる。
 僕はあくまでも平成を装ってあの頃のいつものように応える。
「特に何も」と。
 そうすると彼女はまた嬉しそうになって、
「私から連絡がないと寂しくてすることもなかったでしょう~」
と、冗談交じりに言ってくる。
「いや、毎日やることはいっぱいあるので全くそんなことはありません。」と僕は応えるけれど、事実、彼女がいた去年の夏は本当に充実していたことをつい先ほどまでベッドで屍のようになりながら考えていたところだった。

 彼女は僕の言葉をどう受け取っているのだろう。

 八月十三日
 今日はあの子を誘ってみんなで飲みに行った
 
八月十六日
 今日はあの子を誘ってみんなで飲みに行った
 
八月二十日
 あの子と海に行く
 
八月二十八日
今日はあの子と家で映画を観た

彼女は彼女ではないからあの子である。好きとかつきあうとかそういうことは僕にはできなかった。恋愛がなんだかわからなかったし、そういう関係ではなくて、ただ遊びに行くだけの関係があっているような気がしていた。ただ、僕のスケジュール帳はあの子との予定やあの子としたことで埋まっていた。そんな日々だった。

夏が過ぎ、秋が来て冬が来る。そして少しずつ暖かくなってまた春がやってくる。僕らのスケジュール帳はそれにあわせて黒くなっていった。

九月十五日
公園を散歩した

 十一月二十日
 二人でココアを飲みながら話した

 十二月二十五日
 ささやかなパーティーをした

 二月十日
 雪が降ったから雪だるまをつくっているあの子を見ていた

 三月二十三日
 今日はあの子の誕生日

 ある春の日、いつものように電話がかかってきた。
 僕はいつも通り遊びの誘いかなと思い、悟られないようにノリノリで応答に触れた。

「もしもしもしもし」といつもの声。
「もし、もし」と返す。
 いつも通りの会話。でも何かがいつもと少し違う気がした。
 そんな僕の感じた違和感を振り払うかのように、彼女はいつもよりも明るい声で話してくる。
「ねえねえ、海に行こうよ」と。

 でも僕はなんとなく海に行きたくなくてその誘いを断ってしまった。

 彼女は数日後、この町から去って行ってしまった。
 ずっとのんびりとした日々が続くと思っていた。まさかこんなに急に終わりがやってくるとは思わなかった。
 彼女がいなくなってから、彼女がいたときと同じメンバーで集まることもあったし、彼女以外と予定を立てて遊びに行くこともあった。それはそれでとても楽しかったけれど、僕のスケジュール帳は白いままだった。いつの間にかあの頃を見るのが嫌で開くこともなくなっていたスケジュール帳。

 久々の彼女からの電話はまた夏が来たから海に遊びに行こうよというものだった。僕は二つ返事で誘いを受けた。そして、本棚の奥にしまったスケジュール帳を取り出し、付属させていたボールペンを握り、まだまだ真っ白なまま長い月日が経った今年の夏の頁を開いた。

 八月二十日の欄に押しつけたペン先はむなしく傷をつけただけだった。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:10

第三十七回さらし文学賞

第三十七回さらし文学賞

概要

 さらし文学賞とは、テーマに沿って書いた作品を、筆者を伏せて作品を公開し、部員の投票により作品の順位を決めるものです。

テーマ
・「インク切れのペン」

<書式>
 自由

<制限字数>
 なし

<応募制限>
 なし

<日程について>
 <執筆期限> 2019年8月13日(火) 23:59
 <投票期間> 2019年8月14日(水) 12:00-2019年8月27日(火) 23:59
さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:09
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