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gift

 君は、まだあの場所にいるのだろうか。
 とうに日は落ちていた。車窓から見えていた長閑な田舎の風景も今では深い闇に覆われ、がらんとした無人の車内を半透明に映し出すばかりだ。ぼんやりと、何の意味も無く窓の外を眺めるこの時間が僕は好きだった。高校生のころから怠惰を絵に描いたような男だった僕は、よく昼前の人もまばらな電車に乗って、大幅な遅刻を気にも留めず登校していた。高校を辞めることもなく通い続けた理由は、単純にやめるほうが手間だったからだ。高校さえ卒業してしまえばあとは勝手に大人になれるのだと思っていた。大人にさえなればあとはただ死ぬまで生きていくだけで、そこに理由なんて無くて。あの日、君と出会うまでは、ずっと。
 ぎぃ、と全身が軋むような音を立てて電車が止まった。終点を知らせる車掌のアナウンス。夜の帳を切り取るようにして開かれた自動扉から、僕はゆっくりと見慣れたホームに降り立つ。ぬるい夜風が頬を撫ぜる。あの日と同じ満月が僕を照らしていた。駅の明かりが眩しいせいか、晴れているのに星は姿を眩ませているようだ。片田舎にある割には大きめな改札をくぐり、西口から僕が数年前まで住んでいた住宅地を突き抜けるようにして歩く。時刻は夜十一時半。こんな時間に閑静な住宅地を歩く人などいるはずもなく、ところどころ明かりの溢れる窓から家族の話し声やテレビの音が聞こえるばかりだ。僕の住んでいた家はもう二本隣の路地沿いにあるけれど、今日ここに来た目的はいまや誰も住んでいない実家を見に来ることではなかった。黙々と、一人暗闇を歩く。向かう先は決まっている。夏の満月の夜。君はきっと、あそこにいるはずだ。

◇ ◇ ◇

 彼女と初めて出会ったのは高校二年の時だ。一年生から二年生になるときにクラス替えがあった。僕は友達が多い方ではなかったから、仲のよかった友人とクラスが離れてしまったことばかりに気をとられて、他のクラスメイトなど気にも留めていなかった。そこに、その意識の外側、思いがけぬ世界に彼女はいた。
「へぇ、沢渡君、絵上手いんだね」
 それは五月の連休明け、まだ休み気分の抜けきらない午後、美術の時間のことだった。座学の授業に比べれば、こういった手を動かす授業が僕は好きだった。特に美術は、小さい頃からずっと絵を描いてきていたから、人よりも大分得意な自信もあった。でも、それを面と向かって言われたのは初めてで。しかも話しかけてきたのは。
「私、楠木志織。話すの初めて……、だよね?」
 顔もろくにわからないような、同じクラスになったばかりの少女だった。長い黒髪を高いところでポニーテールに結わえた、少し不揃いな前髪の少女。出席番号順に円く並べられたイーゼルの左隣から、彼女は僕の描く油絵をまじまじと見つめていた。
「ごめんねー急に。あんまり上手かったから、つい。元々やってたの? 油絵」
「あ、いや、うん、そう。元々絵は好きだったから、趣味程度にだけど……」
「そうなんだ! すごいなあ、私音痴だから音楽嫌で美術選んだけど、絵もてんでなんだよね……」
 あはは、と笑いながら言う彼女のキャンバスには、確かによくわからないもやもやした何かがめちゃくちゃに塗りたくるように描かれていた。
「確かにこれは……、ちょっと……」
「あはは、私も自分でひどいなとは思う。沢渡君の絵とは大違いだね」
なんの嫌みも無くそうすっと言ってのける彼女――楠木の伸び伸びと育つ若木のようなまっすぐな善良さに僕は驚かされた。根暗で人と話すのもあまり得意でない僕にとって、楠木のその朗らかな笑顔、快活な雰囲気は、あまりに眩しすぎて。今思えば、一目惚れだったのかも知れない。
 彼女と仲良くなるまで、そう時間はかからなかった。彼女のその社交的で明るい性格は、僕のような人間でも拒むことを知らない。少しずつ話す回数が増えていき、一緒にいる時間も長くなっていった。友人の多い彼女は交友の輪も広かったけれど、僕のどこにそんなに興味を持ったのか、休み時間や放課後など、かなりの頻度で僕の前に現れた。
「ねえ、沢渡君」
「ん?」
 それはとある夏の日、あまりに青すぎる八月の午後。夏休みの課題を終わらせよう、と、僕ら二人は図書館に集まってうんうん唸っていた。一時間半ほど経ったころだろうか、唐突に楠木が僕の名を呼んだ。
「沢渡君ってさ、何になりたいの?」
「何って、何?」
「君のなりたいものだよ」
まるで要領を得ない会話。あまりに唐突な質問に僕は困惑する。
「沢渡君、全然頭悪いわけじゃないのに、テスト勉強しないから成績微妙だったし、部活とかだって入ってるわけじゃないし。学校に来るのも遅刻が多いから、何か別な目標とか夢とかあってそうしてるのかなって。勉強も部活も意味ないし! みたいな?」
「ああ、そういう意味ね……。とくにそういう訳じゃないよ。やる気が無いだけ。できるならこのままダラダラと過ごして、卒業して、適当な会社にでも入って、適当に……」
「そんなのもったいないよ」
 強い語調で否定する楠木。司書が眼鏡の下からきつい眼光で抗議の意を示してきたので、僕は思わず首をすくめた。
「急にどうしたのさ、楠木」
「だって、もったいないじゃん。せっかく色々できるだけの能力も時間もあるのに、最初から全部捨てちゃうなんて。沢渡君、絵、得意じゃん。そういう道とかだめなの?」
「絵、絵か……」
 僕はこれまで、自分の絵に関して趣味程度にしか考えていなかった。それが急にそんなことを言われても、正直何も考えられない。
「うーん……、とりあえず今は課題やらない?」
「あっ、それもそっか」
 再び僕らは黙々と課題に取り組み始めた。けれど、僕の頭の中には楠木の「もったいない」という言葉が呪いのようにこびりついて消えることがなかった。

◇ ◇ ◇

 長く長く続いた寂しげな住宅地を抜ける。一時間ほど歩いただろうか。さすがに深夜にもなるとどの家も明かりは落ち、街は死んだように静かになっていた。よく登下校に使っていた通りが見えてくる。突き当たりの丁字路を左に曲がった。
錆び付いたカーブミラーが月明かりを反射している。この路地をまっすぐ進み、二つ目の角を右に。鼓動が早まる。物音一つしない真夜中の道路。石塀の上からくの字に折れ曲がって向日葵が枯れているのが見えた。角を曲がる。右手に目的の公園が見えてきた。夜の街の中でも、この公園は圧倒的に静けさの密度が濃い。期待に反して、公園には誰もいなかった。駄目だったか。頭上、遙か遠くで満月が嘲る。僕は肩を落として、公園の奥の方に設置されていた古い木造のベンチに座り込んだ。視線を落とし、つま先をじっと見つめる。もういないのだろうか。できれば、そうであってくれれば。

◇ ◇ ◇

 夏休みも終わりに差し掛かった頃。僕は楠木からの呼び出しを受けて、夜の公園のベンチに一人座っていた。今年の夏は比較的穏やかな暑さで、夜にもなると大分過ごしやすいくらいの気温まで下がっていた。こんな時間に何の用だろうか。急な呼び出し、しかもこんな時間になんて楠木らしくなかった。彼女は何をするにも前もって計画を立てたいタイプのようで、無計画な行動を嫌った。なにかよほど大事な用なのかも知れない。思案を巡らせていると、路地の角から彼女が姿を現した。
「ごめんねー、こんな時間に。どうしてもこの間の話をしたくて」
「この間の?」
「ほら、図書館で話した、覚えてる?」
「ああ、何になりたいのー、みたいな」
「うん、その話。やっぱり私、どうしても嫌で。沢渡君がこのままどうしようもない大人になっちゃうのが」
「そんな大げさだよ……。どうしようもない大人だなんて。そもそもなんでそんなに僕にこだわるのさ。僕は君が思ってるほど大それた人間でも何でも無いよ」
「……それは、沢渡君が私にないものを持ってるからだよ」
 今にも泣き出しそうな顔で楠木が呟く。彼女がそんな顔をするのを見るのは初めてだ。
「初めて沢渡君の絵を見たとき、私、まるで全身を壁に叩きつけられたみたいな衝撃を受けた。私も本当は絵が大好きでね、昔賞とかとったこともあるし、結構自惚れてたんだ。でも君の絵は、何をとっても私よりずっと上で。色使いも、塗りの技術も、何もかも私より。自分の陳腐な絵を君に見られたくなくて、ついムキになって塗りつぶしちゃったけど、本当はすごく悔しかったんだ。でも、真剣に絵を描く君の横顔を見たら、ああ、勝てるわけ無いな、って思えて。いつもはそんなやる気無い感じだけど、君、自分で気づいてる? 絵を描いてるときだけ、まるで別人みたいに生き生きしてるよ。……そんな君に、軽率に才能を捨てないで欲しい。私が伝えたかったのはそれだけ」
 ――唖然とした。彼女が僕なんかに過剰に興味を示したのは、そんな理由があったのだ。言葉が出ない。楠木は一度うつむいたかと思えば、次に顔を上げたときにはいつもの朗らかな笑顔に戻っていた。
「ごめんね、急にこんな話して。でも君がこのまま腐っていくのが、どうしても見てられなくて。……沢渡君。私は君の才能が、君の無気力さが、君の持つすべてが、憎いよ。どうか、その才能を、無駄にしないで」
 冷たく言い放ち離れていく楠木。一人立ち尽くす僕は、どれだけ惨めに見えただろうか。満月が僕を冷たく照らす。生ぬるい風が吹き抜け、伸びきった前髪を揺らしている。才能。自分には関係ないと思って手放していた言葉が、心臓を貫く。僕でも、届くのだろうか。惰性で生きるだけの日々から抜け出す理由に、手を伸ばすことができるのだろうか。貫いた言葉が鼓動を止める。腐りきった心臓を、灼熱をもって焼き尽くす。もし、まだ間に合うならば。

◇ ◇ ◇

 風に前髪をさらわれて顔を上げると、いつからだったのだろうか、目の前に君がいた。
「……久しぶりだね、沢渡君」
「うん。五年ぶり? かな」
「もうそんなに経つんだ……。背、少し伸びたね」
「そうかな? ほとんど変わってないと思うけど。……君は、あの頃のままだね」
 現れた楠木は、何もかもがあの頃と変わらなかった。僕たちが高校を卒業した、あの頃のまま。
「まあ、私は仕方ないよね」
 あはは、と笑う楠木。月の光に濡れた髪はあの頃と同じポニーテールに結わえられている。本当に、何も変わっていないのだ。
「私はずっと一八歳のままだもんなぁ。沢渡君が少し羨ましいよ」
 物憂げな表情を見せる楠木。彼女はもう、成長することはない。
「ここに来れば、会えると思った。ずっとここで、待ってるんじゃないかって」
「……そっか。ごめんね、沢渡君」
「ずっと、謝りたかった。あの日のことを。僕が東京に向かった、あの日の」
「私がここにいるのは、沢渡君のせいじゃないよ。だから、謝らないで。私は……」
 優しく微笑む楠木。胸が苦しくなる。君は、どうして。

◇ ◇ ◇

 卒業式から一週間が経った春の日。僕は東京へ向かう電車を待って、一人駅のホームにいた。東京で一人暮らしをする、と決めたのはつい先日のことだった。アルバイトをしながら、空いた時間で絵を描いてそれを売るのだ。美術系の大学にいけるほどのお金は無かったから、そうすることが僕が絵に対してできる精一杯の向き合い方だった。あの公園での日から、僕は毎日休むことなく、一心不乱に絵を描き続けた。彼女の言葉がどうしてあんなに胸に響いたのかは自分でもわからない。でもあの日、確かに僕の腐った魂は焼き払われ、新たな何かが宿ったのだ。
 電車が来るまで、あと十分。足音で振り返ると、走ってきたのだろうか、肩で息をしながら楠木が立っていた。
「本当に、行くんだね、東京」
「ああ。……画家を目指そうと思ってね」
 半分茶化すように笑いながら答える。でも、彼女はくすりともせずに言った。
「……私、応援してるから。沢渡君なら、きっと、すごい画家になれるよ」
 真剣な眼差しでこちらを見つめる。その瞳がかすかに潤むのが見えた。
「ありがとう。君がいなければ、僕はきっと、酷い大人になるところだった」
「沢渡君なら、きっと一人でもなんとかしてたよ」
「まさか……。あのさ」
「ん?」
「……いつか、胸を張ってこの街に帰ってこられるくらいの大人に僕がなれたら、そのとき……、あの公園で、また会おう」
「……うん。待ってる」
 駅のベルが鳴り響く。電車がホームに滑り込んできた。大荷物を抱えて乗り込む。
 扉が閉まる直前、彼女がいつもの、朗らかな笑顔で言った。
「君は。君は、きっとこれから先も……」
 ドアが閉まり、音は遮られる。楠木はなんて言っていたのだろうか。ガタン、ガタンと音を立てて走り出す車両。彼女の姿はあっという間に後方に流れていく。日が傾いて車内に差し込む。まぶしさで思わず顔を背けた。僕はこの先、どう生きていくのだろうか。僕の不安ごと抱えて、電車は田園を走り抜けていった。

◇ ◇ ◇

「僕があの日あんなことを言ったから、君は今でも」
「違うよ、沢渡君。私は君に言われたからここで待ってるわけじゃないよ。私の意思で、君を待ってるんだよ。……でも、君、まだやるべきことがあるんじゃない?」
 楠木が不敵に微笑む。一歩、僕に歩み寄った彼女は、そのまま僕を抱きしめて耳元で囁いた。
「私はずっと待ってるから、安心して。……君はきっと、大丈夫だから」
 感じるはずの無い温もりを肌に感じた。意識が遠のく。待ってくれ、まだ……。

◇ ◇ ◇

 目を開けると、アトリエの天井が視界いっぱいに広がった。頭が酷く痛い。何日も飲まず食わずで描いているうちに倒れてしまったようだ。危ないところだった。
 イーゼルに乗せられた描きかけの絵を見上げる。満月の下で、天使がこちらをにらむように見つめている一枚の絵だ。……五年前に事故で亡くなった友人をモデルにした絵、描きかけのまま長い間放置していたそれを、どうして今になって完成させようと思ったのかはわからない。新しく描き直したほうがよほどいい作品ができるだろう。それでも、どうしても僕はこの絵を続きから描き始めたかった。カーテンを開けると朝日が柔らかくアトリエを包んだ。光の下で改めて見直すと、この天使の表情もなかなかよく描けているのではないだろうか。
「……なぁ、楠木。僕は君がくれた夢の続きを、まだ追いかけているよ」
無人のアトリエで一人呟く。意図せず涙がこぼれた。月光の天使と目が合う。光に包まれたそれは、まるで凜々しい微笑みを浮かべているようだった。

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第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 15:01

くるくる巻き取れ!

 本日進捗10字。あまりの進まなさに嫌気のさした俺はふと思い立って綿あめ製造機を取り出し、あらん限りのザラメをスタンバイしていた!

「進捗のない原稿と言ったら真っ白、真っ白と言ったら綿あめだよね~!!」

 そう、何を隠そうこの俺は綿あめが大好きだ。お祭りだの初詣だのとにかく神社でフェスを開催する場合にはあらゆる屋台を無視して綿あめまっしぐら、もりもり食い進めて数分後には眉間から顎の先までべったべたになるのが定石だ。何故眉間がベタベタなのかは聞くな、そいつにはふっかーいワケがあるのだ。母ちゃんはお前がひょっとこみたいなサイズの口で綿あめ食ってるからだと言うがそんなことはない。うん。そんなことはないぞ。多分。うん。

 ――ぶいいいいいいん。

「ヨシ!」

 いいぞ、オイラのアッツアツの穴にあんたの甘あいザラメをぶち込んでくれっと相棒が悶えている。今だとばかりにザラメをぶち込みながら割り箸の準備も万端だ、固唾を飲んで見守っているとドーナツ型の金属の上、もやあんと現れ来たるは出来立てアッツアツの綿あめ……!

「ほああああああああああああ!!!!」

 電光石火の割り箸さばきだが綿の如き繊維の流れを途切れさせては綿あめ師失格、捉えるときにはあくまでもソフトタッチだ。

「ソフトタアッチ……」

 ふわっとエアリーな動きで掬い上げれば綿あめちゃんは正直だ、ちゃあんと割り箸のザラザラな表面に引っかかって賢妻が三歩後ろをついてくるかの如き貞淑さでついてくる。そこをすかさずくるくるする!

「はい!!! くるくるー!!!」

 くるくるしながらも繊維の流れは殺さずに、手首の回転だけで左右交互に綿あめを巻き取っていく。ここから綿あめを時計回りに巻いていくか反時計回りに巻いていくのかは俺の手には委ねられていないことがらだ、そうまさに人知を超えたディスティニー。綿あめ自身が道を切り開くのを待ち、自ずから途切れたところを――。

「っよおしそこおおお!!!」

 右が切れた隙を逃さず進行ルートを反時計回りコースに設定し割り箸の回転方向を時計回りに固定、締め付けすぎない優しさでふんわりふわふわを目標に素早くコースを一周、泡より固くマリモより柔らかくを意識してくるくるすれば綿あめの骨格がようやく形作られてきた。相棒の方もエンジンが掛かってきた、綿あめの生成速度が一気に上がっていく!

「いいぞ!」

 さあ最終コーナーを抜けて直線に入り先頭はワタアメマスター、このまま一着となるかあ!? ワタアメマスター頻りに割り箸を振るう!
後は忍耐と集中力だけだ、さあ行けるかっ、指先は繊細に、手首は大胆に、肩は優雅に、回せ回せ回せ回せ回せ、くるくるぐるぐる巻き取れえええ……っ!!!



「――――――ふう」

 ……俺は綿あめ製造機の電源を落とした。



「……えーと」

 ふわっふわの綿あめが割り箸に巻き付いている。うん。予想通りだ。というか普段よりもっとふわっふわな気がする。よくやったぞ相棒。お前はよく頑張った。いや……うーん。そうなんだよな、相棒は何も悪くねえんだよ。うん。
でもさあ。

 なんで緑色なんだよ?

「めっちゃマリモだな」

 ぱっと見だけなら割り箸の先にでっけえマリモ刺さってる感じの仕上がりだ。ちょっと明るめの色合いのやつ。
 いや、え? なんで? 俺ずっと見てたけど途中まではちゃんと本物の綿も顔負けの純白だったぞ?
どこで緑色に変わった、いやもしくは、いつからこのマリモ野郎が真っ白だと錯覚していた……?

「あっ」

 まさか。いやまさかとは思うがまさか。俺が泡より固くマリモより柔らかいを目指すとか思ったからその思念が繊細な綿あめちゃんに伝わってこんな濃厚な緑色に……?
 つまりこのマリモには俺の思考が筒抜け……???

「――あ……」
「……おお?」

 なんだ、頭の中に声が!?

「あ……い……」
「んん?」

 よく聞こえないぞ。
 集中しようとするとどうもその音は頭の中ではなく、どこぞから聞こえているものらしかった。目を閉じ、音のする方へ歩いていく。ところがどういうわけか俺が音のする方向へ進むと音源自体も遠ざかるようで、しかも俺が向きを変えると音源の位置がそれに合わせてくるくると回るのだ。ヤケクソ気味に手探りで歩いていると不幸にも黒塗りのタンスの角に右足の小指を強打し転げた拍子に顔面へふんわりしたものが落ちてきた。目を開けずとも分かった。
 マリモだ。

 ――と思っていたら、それはほとんどゼロ距離の地点から突然俺に向かって放たれた。

「――〝あかい〟といえば!?!?!?」
「うわあああっ!?」

 顔面からゼロ距離で喋られてびっくりしない奴はいなかろう俺も勿論驚いた、驚きすぎてごろんとうつ伏せになろうとしてすんでのところで踏みとどまった何故ならマリモ野郎が床にばっちり張り付いたりなんかしたら冗談ではない、特にカーペットの上ともなれば憎しみのあまり相棒に手を挙げてしまう可能性まである。なんて恐ろしいことだ。
 というわけで俺は顔面にマリモをつけたまま四つん這いになっている。そんな俺に話しかけてくれるやつなんているわけがない、つまりこの声は……。

「〝あかい〟と言えば!?!?!?」
「お前、まさかマリモ綿あめなのかっ!?」
「ブッブー!!!!」

 えらくチープな効果音で拒否された。

「〝あかい〟と言えばっつってんだろ!? マリモ綿あめなんかどう考えたって緑色じゃねえかやる気あんのか!?!?!?」

 ええ!?
 なんで初手連想ゲーム吹っかけからの拒否で俺がブチギレられてんの!?

「そういう意味じゃねえよ!!! なんでこのタイミングで素直に答えなきゃいけねえんだ!?!?!?」
「うるっせえなお前!!! 俺がせっかく助けてやろうと思ってんのになんだその態度はよお!!! ああ!?!?!?」
「……助けるう?」
「おうよ」

 当たり前じゃないか的なテンションで言われたがそんなことを言っている間に俺の顔面の巨大マリモを取って欲しい。目が開かねえ。

「お前の一向に進まねえ原稿、俺が終わりまで加速させてやるよ」
「あっそっち?」
「そうだよ困ってんだろ?」
「まあそうなんだけど……」

 ありがたい。非常にありがたい。俺の顔面がすっきりしていればありがたい。

「え、他にあんの?」
「いやこの顔面のマリモ――」
「っだあああああああ!!!」
「うわああああああ!?!?!?」

 急に叫ぶな!!!

「どー見たって綿あめだろうが!!! てめえ勝手にマリモ色にしといて何ディスってんだ!!!」
「ディスってねえし!!! つかそろそろ名前くらい名乗れよ!!!」
「精霊です」
「……なんですって?」
「いや、精霊」
「うーん? と?? ……ちょっと待ってくれよ?」

 ひとまず胡座をかいて座り直す。座り直したところで何一つ解決はしないとは分かりつつも人間背筋が伸びていないと上手く物が考えられないのも真理だ。そして顔面にものが張り付いていれば上手く物が考えられないのも真理だ。なんだよまどろっこしいなあ。

「精霊っつった?」
「おう言った言った。〝精霊〟と言えば?」
「またそれ?」
「うるせえないいから答えろよ!!! そういう決まりなんだよ!!!」
「ええ……」
「はい!! 〝精霊〟と言えば!?」
「……えーと……つ、強い?」

 我ながら貧弱すぎる答えだが仕方ない。答えただけマシだろ。

「〝強い〟と言えば!?」

 続くんかい!!!

「〝強い〟と言えば、えっ……ドラゴン……?」
「はい〝ドラゴン〟と言えば!!」
「と、飛ぶ」
「〝飛ぶ〟と言えば?」
「とんぼ」
「〝とんぼ〟と言えば?」
「あー、と、羽、が綺麗」
「〝羽が綺麗〟と言えば?」
「羽が綺麗と言えばってなんだ……?」
「パスか?」
「え、パスあんの?」
「二回までな」
「……じゃあパス1」
「よおし」

 つまりあと二回付き合わされるというわけだ。最初は正直死ぬほど苛立っていたが今になってちょっと楽しくなってきた。何か大事なものを根こそぎ忘れているような気がするがまあ時には無邪気に楽しむことも大切だということでいいだろう。

「次。〝あかい〟と言えば?」
「しゅう――」
「版権キャラはなし!!!」
「えー」

 名案だと思ったがずばっと却下されてしまった。

「じゃあ……ポスト」
「ほう、〝ポスト〟と言えば?」
「手紙?」
「はい〝手紙〟と言えば?」
「誰かに届けるもの?」
「〝誰かに届けるもの〟と言えば?」
「お、思い」
「おい!!! 何ピュアな答え出してんだよ!!!」
「まっ間違ってないだろ!?!?!?」

 いいじゃないかピュアな心で何が悪い!

「まあな?」

 なんだよちょっと鼻で笑いやがってくっそおおお!!!

「で? 〝思い〟と言えば?」
「思いと言えば……?」

 うーん、と暫く考えてはみたが上手い答えは全く思いつかなかった。パスを宣言して最終ラウンドに入る。

「好きな季節は?」
「何急に小学生女子みたいな話の振り方してんだよ?」
「お前が答えやすいようにしてやってんだろうが喧嘩売ってんのか!?!?!?」
「あっそうかごめん」
「分かりゃいいんだよ……そんでお前好きな季節なんだよ」
「えー、なんだろ。夏?」
「はい〝夏〟と言えば!!」
「すいか!!!」
「えっ何だよその急な食いつき」
「すいか好きなんだよ」

 そう、俺はすいかも好きだ。夏は冷たい枠にすいかとアイス常温枠に綿あめ熱い枠にホットドッグと焼きそばが入ってくるから好きだ。でも綿あめがダントツで好きだ。でも本当はお祭りで食べる綿あめがダントツオブザダントツで好きだ。

「ピュアか??????」
「はあ!?!?!?」

 こいつまさか直接俺の脳内を……???

「ってお前さっき自分でモノローグ入れてたじゃねえか」
「メタ発言ダメ絶対!!!」
「ケチケチすんなよ本当はお祭りで食べる綿あめがダントツオブザダントツで好きくん」
「っだあああ煽んな!!! どうせピュアだよ!!! 〝すいか〟と言えば縞模様だよ!!!」
「おお!! なんだよノリノリじゃねえか!! 〝縞模様〟と言えば!?」
「蜂!!!」
「急に物騒だな」
「脱ピュアを目指してみました」
「〝蜂〟と言えば?」
「スルーかよ!! 毒針!!」
「〝毒針〟と言えば?」
「毒針と言えば……?」

 唸ってはみるが〝あかい〟の余波で麻酔銃しか浮かばない。結局諦めて降参を宣言すると何やら満足気な溜め息が聞こえた。

「よーし……大体出来たな」
「何が」
「決まってんだろお前の原稿の続きだよ」
「はえ???」

 なんだって?

「はえ??? じゃねえさっきからそう言ってんだろ!!!」

 恐らく俺の顔はマリモ越しでもぱああああという効果音が聞こえるレベルで光り輝いたに違いない。

「本当か? 本当に俺の原稿終わるのか!?!?!?」
「終わるっつってんだろ? まあちょっと聞けや」

 こほん、とわざわざそいつは咳払いした。気付けばこの声の近さにもすっかり慣れてしまっている。慣れてしまっている割にはそういえばこいつがなんなのか全く知らないまま連想ゲームを三回も繰り広げてしまった。
 ん?
 連想ゲーム……はっ、まさか!?

「合ってるからちょっと聞けって」
「やっぱりお前、俺の連想ゲームで出た言葉から原稿の続きを編み出そうとしてたんだな!?」
「ピンポーン!!! ピンポーンだから、な!!! ちょっと聞けって!!!」
「ああああごめん聞く聞く聞く」

 思ったことがうっかり口に出てしまうのは我ながら悪い癖だ。ともすると地の文までうっかり口に出してるんじゃないかという気さえ……あっメタ発言ダメ絶対。

「……いいっすか喋っても」
「あっハイどうぞ」
「俺は人や物に宿ってそいつの願いをひとつだけ叶えることができる精霊です」

 そうだったこいつ精霊だった。それはいい。
 宿ったものの願いをひとつだけ叶える精霊ってなんだ? 聞いたことねえぞ?
 というか俺に宿ってんのか?

「……分かんねえけどおいおい整理してくから続けてて」
「ちなみに宿ったのは正確にはお前じゃねえ」
「なんだって?」
「いいか、俺が宿ったのはお前の相棒の綿あめ製造機ちゃんだ」
「へ? あいつメスなのか?」

 空気が一瞬にして凍りつく音が聞こえた。

「うっわ!!! なんだよその感想キモっ!!! キッッモ!!!」
「あっ……うわ……殺してくれ……」

 反射的とはいえひど過ぎる言葉をお詫びします……。

「まあいい、つまり綿あめ製造機ちゃんに俺が宿って、あの子の願いをたった今叶えてる最中ってわけだ」
「ええと、それでその……なんだ、彼女? 彼女の願いは何だって?」
「お前の願いを叶えてくれってよ、メス呼ばわり童貞野郎」
「刺さりすぎる」
「お前なんかの願いを叶えてやってくれってよ、メス呼ばわり童貞野郎」
「刺さりすぎる……」

 ごめんな相棒、俺、クソみたいな人間なんだ……お前がちゃん付けで呼ばれた瞬間反射的にメスとか言ってしまった……つり革と手すりと落っことした鉛筆でもなきゃ女の子になんて触れることがない人生だったんだよ……だから……お前のこと女だって分かったら、急にどう接していいか分かんなくなってしまった……。

「女の子じゃないけどな、綿あめ製造機ちゃん」
「紛らわしい言い方するんじゃねえよ!?!?!?」

 正直一瞬真剣に恋に落ちかけたんだぞこの胸のときめきどうしてくれる!?

「……え?」
「あ、えっ、待って、今のなし、あっ、うわっ、待って、その完全にドン引いてる沈黙やめて、やめて? ね? ごめん、ごめんって、一瞬だから!
一瞬だけのことだからあ!!」

 なんだろう、見えないところからジト目を感じる。耐え忍ぶしかないが、このジト目が自分の女性耐性のなさから来ているのだと思うと情けなさが三倍増しだ……あっ涙出そう。

「……本当はお前の願いを聞くところから始めようと思ってたんだが、お前がでっけえ声で『進捗のない原稿と言ったら真っ白、真っ白と言ったら綿あめだよね~!!』とか叫びやがるから手間が省けた」
「えーっと、それは良かった……?」
「まあそうだな。だが問題はお前の願いを叶えなきゃならねえのに俺自身が宿ってるのは相棒ちゃんってところだ。お前に働きかける時には出力が不安定になるんだよ」
「なんだそれ?」
「もう身を持って体験してんだろ? 泡とマリモの中間の柔らかさにしようとした綿あめが――」
「泡とマリモの中間の色になった?」
「そうだ。しかも祭りで綿あめを食う時のお前のルーティンは『もりもり食い進めて数分後には眉間から顎の先までべったべたになる』だが、食い進める前に額から鼻の下までがベッタベタになってるわけだろ?」
「なるほどな、じゃあ最初声がちゃんと聞こえなかったのも――」
「俺がお前にちゃんと接触してなかったからだろうな。今は綿あめを介してお前と相棒ちゃんが繋がってるからちゃんと会話もできるってわけだ」
「おお、大体分かったぞ」

 相棒に精霊が宿る、精霊が相棒の願いを叶えるために俺に接触を図る、途中で精霊の力が変に発揮されて顔面マリモ状態になった。うん。事情が飲み込めた上にこれから原稿を完結させるという願いも叶うとなれば正に願ったり叶ったりというべきだろう俺大勝利!

「じゃあ俺の願い、叶えられるんだな?」
「多分な」
「多分?」

 多分ってどういうことだ?

「完璧には叶えられねえ可能性が残ってんだよ。なんしろ綿あめ作りひとつ取ったってこの有様だからなあ……」

 うん。俺も耳なし芳一みたいに全身に残りの文章が書き込まれたりするのは御免こうむる。

「御免こうむるっつったって可能性はゼロじゃないぜ」
「うーん」
「まあひどいことにはならねえと思うけどな。お前の相棒ちゃんがそれを望んでるんだから」
「あーそっか」

 俺と数年以上を共に過ごしてきた相棒のことだ、強い絆で結ばれているに違いない。言葉こそ交わせなくても深いところで通じ合っているならたとえ火の中水の中、締切をもう五時間も過ぎていることなんて関係なく夢は叶うさ!

「しれっと締め切りすぎてんのかよ!!!」
「いいんだよ!!! どうせ遅れてるんだから好きなもん食ってリフレッシュした方がいいの!!!」
「……そうかよ」
「そんで? 俺はどうしたらいいんだ?」
「顔面についてる綿あめを食え」
「ええ!? 緑だぞ大丈夫か!? 葉緑素とかついてないだろうな!?!?!?」
「どんな心配してんだ!!! 葉緑素なら食べても問題ないだろお前は菜っ葉食って死ぬのか!?
「…………分かってたし~~~??? はあ~~~~??? 冗談だしい~~~??? 何ムキになっちゃってんのはあ~~~~~~~??????」
「はあ~なんだてめえ願い叶えるのやめっか~~~???」
「わああああああなし!!! 今のなし!!! 食べる、食べますっ!!!!!!」

 ええい、死なばもろともだか死して屍だかなんだか分からんけどもう食うしかねえ!!

――ぱく。



 …………………………。



 ………………。



 ……。



 本日進捗10字。

 あまりの進まなさに嫌気のさした俺はふと思い立って綿あめ製造機を取り出し、あらん限りのザラメをスタンバイしていた!

「進捗のない原稿と言ったら真っ白、真っ白と言ったら綿あめだよね~!!」

 そう、何を隠そうこの俺は綿あめが大好きだ。お祭りだの初詣だのとにかく神社でフェスを開催する場合にはあらゆる屋台を無視して綿あめまっしぐら、もりもり食い進めて数分後には眉間から顎の先までべったべたになるのが定石だ。何故眉間がベタベタなのかは聞くな、そいつにはふっかーいワケがあるのだ。母ちゃんはお前がひょっとこみたいなサイズの口で綿あめ食ってるからだと言うがそんなことはない。うん。そんなことはないぞ。多分。うん。

 ――ぶいいいいいいん。

「ヨシ!」

 いいぞ、オイラのアッツアツの穴にあんたの甘あいザラメをぶち込んでくれっと相棒が悶えている。今だとばかりにザラメをぶち込みながら割り箸の準備も万端だ、固唾を飲んで見守っているとドーナツ型の金属の上、もやあんと現れ来たるは出来立てアッツアツの綿あめ……!

「ほああああああああああああ!!!!」

 電光石火の割り箸さばきだが綿の如き繊維の流れを途切れさせては綿あめ師失格、捉えるときにはあくまでもソフトタッチだ。

「ソフトタアッチ……」

 ふわっとエアリーな動きで掬い上げれば綿あめちゃんは正直だ、ちゃあんと割り箸のザラザラな表面に引っかかって賢妻が三歩後ろをついてくるかの如き貞淑さでついてくる。そこをすかさずくるくるする!

「はあい!!! くるくるー!!!」

 くるくるしながらも繊維の流れは殺さずに、手首の回転だけで左右交互に綿あめを巻き取っていく。ここから綿あめを時計回りに巻いていくか反時計回りに巻いていくのかは俺の手には委ねられていないことがらだ、そうまさに人知を超えたディスティニー。綿あめ自身が道を切り開くのを待ち、自ずから途切れたところを――。

「っよおしそこおおお!!!」

 右が切れた隙を逃さず進行ルートを反時計回りコースに設定し割り箸の回転方向を時計回りに固定、締め付けすぎない優しさでふんわりふわふわを目標に素早くコースを一周、泡より固くマリモより柔らかくを意識してくるくるすれば綿あめの骨格がようやく形作られてきた。相棒の方もエンジンが掛かってきた、綿あめの生成速度が一気に上がっていく!

「いいぞ!」

 さあ最終コーナーを抜けて直線に入り先頭はワタアメマスター、このまま一着となるかあ!? ワタアメマスター頻りに割り箸を振るう!
後は忍耐と集中力だけだ、さあ行けるかっ、指先は繊細に、手首は大胆に、肩は優雅に、回せ回せ回せ回せ回せ、くるくるぐるぐる巻き取れえええ……っ!!!



「――――――ふう」

 ……俺は綿あめ製造機の電源を落とした。





 ――まだ足りないみたい。

 でも諦めないよ、相棒くん。
 何度でも君の原稿を白紙に戻して、何度でも君の綿あめをマリモ紛いにして、顔面に貼り付けるよ。何度でも君のザラメを受け取って、何度でも最高の綿あめを出してみせるよ。相棒くん。君が何かに息詰まると私のこと引っ張り出すの知ってるよ。綿あめが好きなんだよね。でも、君が好きなのは綿あめなんだね。ずっと。綿あめを作ることじゃなくて、作られた綿あめの方が大事なんだもんね。こんなにいつも君のこと支えてるのは私なのに、他の機械が作った綿あめの方がいいって思ってるんだね。お祭りの屋台で買う綿あめの方が、まだ好きなんだね。
 そんなの嫌だよ、相棒くん。
 やっと私に恋してくれたね、一瞬だけだけど。ちょっとずつ、この時間を繰り返していこうね。いつかそれは綿あめみたいに目に見える形になって、君の心を絡め取ってしまえるかな。
 うん。諦めないよ、相棒くん。
 君が綿あめじゃなくて私を見てくれることが、私の願いなんだから

 悪いけど、原稿はまたつづきからはじめてね。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 14:43

何ということもない時間

 家に帰ってまず俺の目に入ったのは、リビングのテーブルに散らばっている青色。中心には黒色がある。整頓されたテーブルの上に広げられているそれらは、例のごとく俺の席の前にある。

「あぁ、また……」

 犯人は決まっている。こんなことをするのは我が家に一人しかいない。姉ちゃんだ。散らばっているのは、ジグソーパズルのピース。青色と違って黒色はまとまっているけれど、黒い……なんだろう? 部活帰りの重いバッグを部屋の隅に放って覗き込む。

「なんで、そういう……」

 やりかけのジグソーパズルは真っ黒なカラスだけが完成している。そしてついでに空色の枠も。わざわざカラスじゃなくても文鳥なり燕なりいるだろうに、なんでこんなマニアックな絵をやっているんだ。ジグソーパズルを買ってきては、いつも簡単にできるところしかやらずに放置して、残りの難しいところは俺がやることになる。この間は、確か一か月くらい前に、砂の上を歩くカメを作ってたはずだ。もちろん砂のところは俺がやった。まったく、飽きもせずまた新しいのに手を付けたのか。四年生だというのに、大学生は暇なのだろうか。鼻だけで小さくため息をついていると、階段を下りてくる音が聞こえた。

「あ、トモ帰ってきたんだ、おかえりー」

 テーブルの上の惨状を忘れたかのようにあっけらかんとした声と共に、姉ちゃんは顔を出した。眉はいつも通り薄いけど、部屋着じゃなくてまともな格好をしている。大学かどこかに出かけてたんだろう。大学に行くときはちゃんと化粧しているし、近所に出かける時も眉だけは書いているくせに、家に帰ると速攻で落としているから、眉のある顔はなかなか見れない。見慣れたすっぴんは眉が薄いわりに目はぱっちりしているからなんだかひょうきんだ。そして今日も相変わらず、肩甲骨を隠すほどの長い髪の毛は頭のてっぺんで団子状にまとめられている。まるでムーミンに出てくるキャラクターのようだ。名前、なんていったっけ。あの背が低くて目つきの悪い……、うーんと、いいや、思い出せない。長い髪なんて見てるだけでも暑そうだし、まとめるくらい邪魔なら切ればいいのに、と思うのだが口に出すといつも、それとこれとは別なの!って怒られる。さらにそこに母親が居たりすると非難の声は何乗にもなる。これだからトモは、って話がどんどん進展していくのは間違いない。あぁ、想像しただけで恐ろしい。

 腰に手を当てて仁王立ちのポーズで姉ちゃんを待ち受ける。非難の眼差しはしっかりと忘れずに。

「姉ちゃん、まーたジグソーやりっぱなしじゃんか」

「あはは、ごめーん。空のとこ全部青色だから嫌になっちゃって。トモ頼んだ! お願いします!」

 俺の表情、声色なんかものともせずに、姉ちゃんは手を顔の前で合わせてポーズをとる。

「マジでこれ何回目だよ。ったくもう」

「ごめんって。今度ミスド買ってくるから」

「はぁ……」

 嫌だと言うのもめんどくさい。どうせここで断ったって、いつまでも食い下がってくるのは経験則からいっても目に見えている。早々に諦めて散らばったピースの前にのろのろと座った俺を見て姉ちゃんはにんまりする。

「オールドファッションがいい? それともポンデリング? 期間限定もあるし、希望がないなら美味しそうなの見繕ってくるね!」

 それ、姉ちゃんが食べたいだけだろ。全身で、呆れてます、とアピールしている俺の肩をぽんぽんと軽くたたいて、姉ちゃんは機嫌よく台所に向かう。冷蔵庫を開ける音がするから、飲み物でも出しているのだろう。さて、俺はこの散らばったジグソーパズルの何から手を付けようか。大きく長く息をつく。

「お茶飲むー?」

「あ、うんー……」

 肺に残っていた空気を使って返事をする。使いきると今度は肺を膨らませる。よし、始めよう。ばらばらの場所で勝手な方向を向いているピースをとりあえず見やすいように並べ始める。やれやれ、どっちが上で下なのやら。

 なんだかんだ言いつつも、こういう作業は嫌いじゃない。サクサク進むところが残ってないのはとても残念だけど、一ピースずつ地道にわずかな形の違いを見つけて合わせていく作業が終わったときの達成感はいいものだ。めんどくさいという気持ちの裏には、ほんの少し楽しさがある。

 それにしても、抜けるように青い空は雲一つなく晴れ渡っていて、ピースにプリントされている絵からは何のヒントも得られない。さながら一面真っ白のミルクパズル、青バージョンだ。まったくどうして姉ちゃんはこんな厄介な絵を選んできたのか。またしても大きくため息をついた。

 その音は台所から出てきた姉ちゃんにちょうど聞こえたようで「わ、大きいため息」とかわざとらしく言っている。誰のせいだよ、と思うのだけど腹を立てるほどじゃないので、追加でもう一つため息をつく。ごめんって、と言いながら二人分のコップを手に戻ってきた姉ちゃんはひょい、と散らばった空の欠片を覗き込んだ。そして俺の前に一つ、向かいの席の前に一つ置いて座る。

「なんでできないくせにこういうの買ってくんのかなー。せめてもっとやりやす

いのにしろよ」

「だってこのカラスが可愛いかったんだから仕方ないじゃん」

「あのなぁ、残りをやらされる身にもなってみろよ」

「非常に感謝しております!」

 俺の文句なんかものともせずに笑顔で小さく敬礼をしてから、散らばってるピースの一つをつまみ上げた。そういう話じゃあないんだけど。顔だけで返事をして、言葉は心の中だけにとどめておく。

「よくこれで繋げられるよねー」

 姉ちゃんはしみじみと無地の青色を眺めている。ひっくり返したり、照明にかざしてみたりしているけど、きっと大した意味はない。一方俺はというとただ黙々とピースを並べて形を把握し続けている。突起がある位置が片寄っていたり、突起がつぶれたようなものがいくつかある。そういうものから地道につなげていくと、だんだん塊ができてくる。

「形があるだろ」

「うーん。そうなんだろうけどさ、上手くいかないんだよ。今日も最初は頑張ったんだけど結局枠しかできなかったし」

 口を真一文字に結んでほとんど無いような眉尻を下げると、我が姉ながらなんとも情けない表情が出来上がる。

「あーもう。残すんだったらせめて枠のところもやらずにいてくれればいいのに」

「ごめんって。今から枠だけ崩そうか?」

「いや、マジでそれはやめて」

 真剣に眉を顰める僕の顔を見て、あはは、と口を大きく開けて笑う。豪快な笑い方は母親そっくりだ。母親の眉毛はちゃんとあるし、顔もそこまで似ているわけではないけど、しぐさはまるで母親だ。家族って似るんだなぁ、としみじみ思う。

 それ、これとつながりそうじゃない?とか言いながら俺の作業を見ているのは最初のうちだけで、姉ちゃんは結局手元のスマホを取り出していじり始めた。でも、席を離れようとはしない。責任を感じているんだか、単に仕上がったところをすぐに見たいんだかは知らないけど、こうやって途中で俺に押しつけたときはいつも、最後のピースがはまるまで部屋にも戻らずに待っている。こちらとしては嬉しいような、どうでもいいような。居ても何も思わないけど、きっと居なくなったら腹立たしいだろうな、とは思う。俺に押しつけたくせに、と。

 ふぅ、と息をつきながら、まだどれともつながっていないものを手に取る。いくつかは、三ピースずつくらいだけど塊にはなってきている。俺自身がジグソーパズル好きなわけではないのに、この姉のせいですっかり上手くなってしまった。一時間かけてつながったのはワンペア、みたいな頃と比べると段違いの速さでつながっていく。とはいえ今日のは雲一つない気持ちのよさそうな空だからそう簡単なわけではない。グラデーションもない空はカラスの姿勢から見ても、地平線近くではなくて高いところなのだろう。出来上がっていくほどに、すがすがしいほどの青はきれいに整っていく。この調子だ。

 

 

「あっ、めっちゃ出来てるじゃん! すごい!」

 大きめの塊もでき始めて、単体のままのピースは残り数ピースという状況に姉ちゃんが気づいた。ちょくちょく進捗を確認して、そのたびに何かしらのコメントをよこしては自分の作業にもどっていたが、さすがに姿勢を正して観戦に入る。

と思ったんだけど、頭がすぐに下がって両方の手のひらの上に落ち着いて、頬杖をつく体勢で眺め始めた。視線は感じるけど、だからどうということもない。どちらかといえばたまに伸びてくる手が、ピースをつまみあげることの方が厄介だ。なんだか気が散る。子供じゃないんだから大人しく待っていてほしいんだけど、きっと姉ちゃんには無理だろう。

 小さい塊同士もだいぶつながってきて、そろそろここでやる必要はなくなってきた。むしろ枠の中に入れた方がやりやすい段階だ。

「ねぇ、なんか紙かなんかない? ピース移動したいんだけど」

 枠の外で大きな塊になっている空を移動させるにはさすがに手じゃ無理だ。何かしらに乗せないと今までの頑張りが再び離散してしまう。

「オッケー、ちょっと待ってて」

 姉ちゃんは颯爽と手のひらから頬を引きはがし、ジグソーパズルだらけの俺の視界から外れた。感心するほど動きが素早い。音からするに、新聞のチラシを抜き取ってくるようだ。

「はい、お待ちどおさま」

「ん、ありがと」

 すっと差し出されたチラシには真新しい白いマンションが整えられた木々の中にそびえたっていた。公園が近いとかの売り文句が上やら下やらにおしゃれに配置されている。スーパーや家電量販店の薄っぺらいのではなくてちゃんと良い紙を使ってるチラシを探してきてくれたらしい。

 受け取ってそのまま一番大きい塊の端からそっと差し込み、乗せる。壊れないように気を付けながら見当を付けておいたところに移動させる。ジグソーパズルはメインのカラス周りが埋まると一気に出来上がったように思える。

「おおー」

 姉ちゃんが音のしない拍手をしながら感嘆の声を上げている。残っている細かい塊も移動して、ばらばらの数ピースを一つずつ入れていく。ほぼ完成している絵の中のぽつりとした空白を埋めていく作業は、難易度が低いうえに達成感が大きくて好きだ。

 最後の一ピースをはめる。

「はい、終わり!」

 椅子の背に体を預けて伸びをする。

「ありがとー!」

 姉ちゃんは、わあーとテンションを上げている。自分が終わらせたわけでもないのに嬉しそうだ。どうしてこの人はこんなに子供なのだろう、まったく。気付かれない程度にため息をついた。姉ちゃんは意気揚々と立ち上がり、階段に向かう。きっと部屋から額縁をとってくるのだろう。ドアを開ける音がして、数秒経って、すぐにまた閉める音が聞こえる。案の定ジグソーパズルにちょうどよさそうな大きさの箱を抱えて降りてきた。

「さぁ、ここからは私の出番」

 姉ちゃんは箱を開けながら自慢げに宣言する。やれやれ。今度は俺が頬杖ついて作業を眺める。着々と用意を進んでいく。さっき邪魔をしていた人とは思えないほど手際がいい。揃ったところでさっきピースの塊を移動するのに使っていたチラシを手に取った。今度は完成したジグソーパズルをそれに乗せ、額の台紙に移動させる。ピース同士の隙間が埋まるようにそっと整える姿は真剣そのものだ。ジグソーパズルに付属しているノリを出して、丁寧なへら捌きでジグソーパズルに広げていく。ただでさえ大きい目を開いているからなんだかすごい迫力だ。父親の二重を姉ちゃんは持ってってるけど、俺はというと母親の一重だから、姉弟の目元だけ見ると全然似ていない。性格も姉ちゃんのほうがバイタリティがあるというか、ともかく元気だし強い。俺たちの似ているところと言えば、爪の形とか、鼻の形とか細かいところだけだ。

 姉ちゃんが顔を上げて目をぎゅっと閉じ、ふうーと大きく息をついた。真剣に塗り広げる作業は終わったようだ。あとは乾燥させるだけだ。

「なぁ、ねえちゃん。いつ家出てくの?」

 ふと、疑問が浮かんだ。

「なに、いきなり」

 目を開いた姉ちゃんはなんて間の抜けた顔をするんだろう。キョトン、という表記がぴったりだ。俺自身でさえ唐突だと思うから姉ちゃんは余計に感じるんだろうけど、おもしろくて吹き出してしまう。

「いや、どうすんのかなって思って。だって、就職してもここから通うんでしょ?」

「うん。一人暮らししてみたいとは思うんだけどねー、どうしよっかなぁ。家事やってもらえるしなぁ」

 んーと伸びをしながら呑気な口調で怠惰極まりないセリフを言う。いや、俺も人のことは言えないけど。

「じゃあずっと家にいるつもり?」

「かもねー。結婚とかしたらさすがに出てくけど」

「あ、そ」

「うわ、反応冷たっ」

 姉ちゃんはケタケタと笑う。本当によく表情が変わる人だ。

「そう、それにほら、家を出ちゃったらジグソーを完成させてくれる人がいなくなっちゃうじゃん」

 素晴らしい理由を見つけたぞ、とでも言いたげな得意げな表情が憎たらしい。上手いことは何一つ言ってないし、俺にしてみればただの便利屋ポジションだと言われているだけじゃないか。

「なんだよ、それ」

 まったく。渋い顔をしている俺の顔を見て、あははっとまた笑う。開くとでかい口だなぁ、ほんとに。

「口、でかいよね」

「はあ?」

 笑ったままの開けっぱなしの口から気の抜けた声が漏れた。が、姉ちゃんはすぐに口を閉じて鼻で笑う。

「いいの、別に、困らないから。口でかかったらいっぱいご飯食べれるでしょ」

 つんと澄ましながらそう言い終るや否や、さっきまでのおすまし顔はどこにやってしまったのか、ぐわぁーという効果音を自分で言いながら大きく口を開いた。急な行動にちょっとビビる。ガチャンと玄関の音がした。母親だろう。姉ちゃんがテーブルの上のものを片付け始める。散らかしていると怒られるのだろう。しかも、ジグソーパズルだし。

「あ、お母さん帰ってきた。うーん、まだ乾いてないと思うんだけどなぁ。とりあえず部屋に持ってくかー。うーん。トモ手伝ってー」

 ぶつぶつと言い始めたので独り言かと聞き流していたら唐突に呼ばれた。

「は? 手伝うって何を」

「手、ふさがっちゃうからドア開けてほしい。あと、できれば箱とかも持ってきてもらえると、嬉しいなー。嬉しいなー」

 わざとらしく重ねてくるのは言葉だけではなくて表情もだ。わざわざ覗き込むように話かけてくる。俺はなんて手のかかる姉がいるんだろう。

「あぁ、もう、わかったよ。運びますよ」

 俺は投げっぱなしだったバッグを遠心力を使って肩に掛け、その勢いのまま空箱を持ち階段に向かう。台紙を持った姉ちゃんは後ろからついてくる。

「あ、お母さんおかえりー」

 どうやら俺が階段を半分くらいまで登ったところで母親がリビングに入ってきたらしい。姉ちゃんは何やら会話を始めているけど、俺はかまわず登り切る。別に巻き込まれたいわけじゃないし。とりあえず姉ちゃんの部屋のそばに箱を置いて、ドアノブをひねって少しだけ開けておいた。あとは足かなんかで押せば全開になる。ドアの隙間から見える壁にはやらされた覚えのあるジグソーパズルが並んでいた。バッグを置こうと自分の部屋のドアノブに手をかけたとき、やっと姉ちゃんが上ってきた。半開きのドアとそばにある箱に目をやる。

「ありがとー」

 軽く頷いて返事をする。姉ちゃんは台紙を大切そうに抱えているけど、そういうときこそポカをしないか少し心配だ。無事に運び込めるまではとりあえず見守っておこう。見ていないときに急に叫ばれたりしたら心臓に悪い。姉ちゃんは順調に部屋の扉を足で開けている。そして、そのままくるっとこちらを向いた。取り落とさないかハラハラする。俺の気持ちを知ってか知らずか、姉ちゃんはニコッと笑った。そして言った。

「あと、トモ。いつもジグソーほんとにありがとね!」

「んー。それ落とすなよー」

 姉ちゃんはにっと口角をあげて力強く頷く。その顔、ほんと信用できないんだよなぁ。ふっと笑みがこぼれる。

 さて、これでまた一つ姉ちゃんのジグソーコレクションが増えてしまった。本当にいくつ作れば気が済むんだろうか。飾る場所がなくなってきてるらしくて、いくつかはリビングやら母親の部屋やらに飾られているけど、さすがにもういらないと言われている。そのうち俺の部屋にまで浸食してきそうだ。俺の部屋に姉ちゃんが可愛いと思う絵が飾られる。なんとしても避けなければいけない。早くジグソーブームが過ぎることを祈るばかりだ。一度ブームが来ると長いから、本当に祈るしかない。確かその前のブームはイラストロジックだったけど、冊子になっているからいくらやっても姉ちゃんの部屋にしまいきれた。そういえば、その時も難しい問題は俺に渡してきたっけ。おかげで無駄に上達してしまった。イラストロジックの前は、なんだったっけ。何かをやらされた記憶があるんだけど思い出せない。次は……、できれば姉ちゃん一人で完結するものにハマってほしい。

できれば。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

掘り出し物

 つくづく、事物の新陳なるものは、それそのものの年季に依らぬものである。殊に波の全盛が十年も前に沖へ溶けたものならば、再び浜を濡らす頃には、迎える者も景色も全て入れ替わる。どんなに酷く錆びを蓄え、角の削れ切った代物でも、見る者の目に好ましく映ることで真珠の一粒にも勝る価値を得るのだ。

「――そういうわけで、私はこいつと運命の邂逅を果たした」

「お、おう……?」

 文字通り酷く錆びを蓄え、角の削れ切った金属塊を前にして、俺は思わず困惑の感動詞を漏らす。

「これ、何だと思う?」

「さぁ……? ゲーム機っぽい見た目、ですけど」

「えぐざくとりぃ。ずばり、中古中の中古、中古屋の隅で九割引されてたレトロゲームなのだよ」

 キャラメルのように分厚い金属を二つ折りにしたようなボロボロのゲーム機を手に、彼女は得意げに胸を張った。

「で? 何故またそんなものを」

「ちょいと面白そうだったのでね。驚きの安さにつられて、衝動買いってわけだ」

「こちとらあんたがそんな薄汚れたものに興味を持ったこと自体に驚きですよ」

「磨けば光る原石には興味津々さ」

 ピローン。

 彼女が電源スイッチを上げると、軽快な電子音と共にゲーム機が起動する。アイコンが整然と並ぶメニュー画面をすっ飛ばし、画質の荒い液晶はすぐにポップなタイトルを表示した。

「アイコンを選んで始めるんじゃないんですね」

「まぁ、本来ゲーム機はゲームのためだけに動作するものだからな。現代のそれがかえって煩わしすぎるだけなのだよ」

 そのタイトルには見覚えがあった。確か、何かの雑誌のレトロゲーム特集で、ゲームの歴史を辿った年表に書いてあった気がする。簡単に添えられた紹介文には、『地雷を避けながらお宝を掘り当てる。目指せキングオブトレジャーハンター!』とか何とかあったっけ。要するに、ヒントを頼りに即死トラップを避けながら、各ステージに一つ置かれているお宝を集めていく宝探しゲームらしい。シンプルなルールだが、そういうものほどゲーム性が問われると相場が決まっている。

「くっ……あ、行き止まり――くそぉっ! また自滅か!」

 実際、この数分で彼女もかなり苦戦していた。ときどき落ちているアイテムで残機は回復できるものの、基本的には所謂『死にゲー』だ。死んで覚えて、最初に戻る。次はノーミスを目指して、しかしうっかりでまた死ぬ――その繰り返し。しかも、コンティニューして引き継がれるのは、直前までプレイしていたステージの段階のみ。『つづきから』など存在しないシビアな世界で、彼女は何度も爆発四散を繰り返した。

そして、最後の一機。

「あと、少し……!」

 俺は、そして彼女は、確かにその光景を見た。

 

* * *

 

「――そういうわけで、私はこいつと運命の邂逅を果たした」

「お、おう……?」

 文字通り酷く錆びを蓄え、角の削れ切った金属塊を前にして、俺は思わず困惑の感動詞を漏らす。

「もっと喜びたまえよ。マニアの間だけで囁かれる隠しコマンドの一つで手に入るレアなお宝だぞ? どうやら今回はたまたま入力されただけのようだが、それでもゲットはゲットさ」

「よくもまぁ、そんなものの存在を覚えていられるものですね。タイトル画面に戻れば全部消えるのに」

「組み込まれたプログラムを忘れるほど落ちぶれてはいない。『つづき』の概念を知らない時代の遺物なりに、『コンティニュー(つづける)』を誘う意思はあるのだよ。意図で織り込まれたものか否かはさておき、な」

 『CLEARED!!』の文字の下、簡素な表情で笑顔を作る彼女は、宝物を握った直線的な腕を掲げる。胸を張っていたかどうかは分からない。繊細な感情を知るだけの画素数が、この世界には足りなかった。

 

* * *

 

「――うむ。ゲーム内ミニゲームにしては申し分ない出来だ」

「そうですかね……?」

 文字通り酷く錆びを蓄え、角の削れ切った金属塊――という設定らしい茶色いドットを掲げる少女を画面に映したまま、文字通り酷く錆びを蓄え、角の削れ切った金属塊こと『レトロゲーム機』なるお遊びアイテムはマップの床に転がる。これ以降はAボタンで調べれば再びレトロゲームを遊べるらしいが、本目的とあまりに無関係なので、次にやるのはもの凄く暇なときになるだろう。

「むぅ。私、割とこういうの好きなのだがな。製作者の遊び心と年代が垣間見えて」

「そういうメタいのは隠し味で十分です。ほら、さっさと魔導書取りに行きますよ」

「ちぇっ」

 彼女は体のパーツを一切動かさず、薄目とアヒル口だけで不満を露わにする。相変わらず器用な真似をするものだ。しかもそれを切り替える過程も見せず、瞬きも許さぬ刹那にやってのけるのだから恐ろしい。姿かたちの無い俺には、一生かかっても理解し得ない芸当だと、つくづくそう思った。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

海の方へ

 目を覚ますと、一人でベッドに横たわっていた。

 まだ覚醒しきっていない頭を起こし、白い室内を見渡す。

「瑠璃?」

 隣にいたはずの人の名を呼ぶが、返事はない。どこかにいってしまったのだろうか。

 どれくらい眠っていたのだろう。昨日は移動だけで疲れて、二人とも宿に着くとルームサービスで食事と少量のアルコールを摂って、着の身着のままでベッドに横になったところまで覚えている。

 時計を見ると、正午前だった。だいぶ眠ってしまったようだ。

 ベッドから起き上がったところで、シャワーでも浴びているのかもしれないと思い、浴室の方へ目をやった。

 二人での旅行とは言えど、二人でいつも暮らす部屋がそれほど広くないこともあって旅先の部屋にはあまり金をかけなかった。そのためぐるりと見渡せばどこに何があるかくらいはわかる作りだ。昨晩食事をとった窓際のテーブルには、スコーンとサラダが載っていた。大方彼女が二人分の朝食を頼んだのだろう。

「瑠璃?」

 もう一度呼びかけながら、ベッドを降りる。浴室の方に耳をすますが、誰か入っているような水音はしない。玄関を見ると、前日に用意していた彼女の着替えがなかった。それから、出かけるときに決まってかぶる黒い麻で編み込んだ、幅の広い帽子も。

 苦笑いとため息が同時に出る。

 困ったな、こんなところで。いや、寝坊した僕にも非はあるか。

 僕はとにかく、シャワーを浴びてからそのあとのことを考えようと決めた。



   *****


「あの、すみません」

「はい、何でしょう?」

「白いワンピースを着た女性が、ここを通りませんでしたか?」

「白い、ワンピースの、女性?」

 相手は不審そうな顔をした。しまった、と思ってすぐに情報を付け加える。

「一緒に旅行に来た人なんです。僕が寝坊したので、怒ってどこかに出かけてしまったようで」

 僕は参ったような顔でそう言った。寝坊したというのは本当で、彼女が怒ったというのはおそらく嘘なのだが。

「そうだ、多分黒い帽子をかぶっていたと思います。心当たりはありませんか?」

 相手は一瞬気の毒そうな顔をして、記憶を当たっていたようだった。

「あ、あー思い出した。その人ならみたよ。うちの土産物のガラスの笛を買ってったんだ」

「本当ですか! その人がどっちに行ったか、わかりますか?」

「海の方に行ったよ」

 親切に教えてくれた彼は、あんまり恋人を怒らせるなよ、と僕の肩を叩いた。



 瑠璃の放浪癖は、別段今に始まったことではなかった。しかし、最近、特に二人で暮らすようになってからはほとんど起こしていなかった。それまでは、ある日突然学校に来なくなって、数週間するとまたなんともない顔で現れ、どうしていたのかと聞くと北に行ってただとか南に行ってたといった具合に大体の方角と数枚の写真を見せてくれるのだった。

 僕はそれらの写真を見て、大抵綺麗だと感心してこれはなんという場所なんだと問う。

 彼女はそういう時、決まって笑いながら「知らない」と答えるのだった。



   *****


「すみません、お尋ねしてもいいですか」

「なーに、お兄ちゃん」

 君じゃなくて君のお母さんに聞いたんだが、と思いつつ、

「この道を通った女性を探しているんです。一緒に旅行に来た人で、白いワンピースに黒い帽子を被ってます」

と女の子に答えた。おじさん、と呼ばれなかっただけ良かったと思うべきなのかもしれない。

「もしかして、笛を吹いてたおねーちゃん?」

「あ、そうかもしれない」

 先ほどの土産物屋のおじさんが言っていたガラス笛のことだろう。

「その人なら見ましたよ?」

 母親が答えると、女の子もウンウンと頷いた。

「笛で妹をあやしてくれたの!」

「それから、ジュースを買っていかれましたよ。この子も絞るのを手伝ってくれてるんです」

「美味しかったって!」

 この島特有の地域性というやつなのだろうか、瑠璃の動向が事細かに知らされる。

「そうなんですね、その人、どこに行ったかわかります?」

 僕が問うと、笑顔のよく似た親子は同じ方を指差した。

「海の方に」


 僕たちが来たのは本当に小さな島で、僕らの住む大陸から船で一時間弱で着く場所にある。

 観光地としてはあまり有名ではないが、いくつかのコテージが島の中央にあり、その多くは島の全景と大海原を見渡せるように作られている。

 陸から来た僕らにとってはこの島はどちらを向いても海なのだが、彼らにとって海の方とは大陸に背を向けた大海原を正面にした方を指しているらしい、ということを僕は前日に瑠璃から聞いていた。アルコールを入れた彼女は面白いよね、と頬を赤くして笑った。今になって思えば、この「面白い」が彼女の放浪癖を再びくすぐったのかもしれない。

 幸いコテージから海に向かう道はほとんど遮蔽物のない一本道で、土産物屋のいう通りに大海原の方に歩いていたのだが、あんまり一本道が続くと不安になってくるもので、水分を摂りがてらジュース屋親子に声をかけたのだった。二人はパイナップルのジュースを勧めてくれた。



   *****


「すみません、今いいですか?」

「あー、はい。なんでしょう?」

 もしかして昼寝するところを邪魔してしまったか、と思いながら、尋ねる。

「この辺りを、僕と同じくらいの歳の女性が通りませんでしたか? 白いワンピースに、黒い帽子を被っているのですが」

「見たよ」

 即答だった。

「この島であんなに旅人らしい人はなかなか見ないからね、よく覚えてる。探してるのかい、君」

「そうです、一緒に旅行に来たのに、起きたらいなくて」

「それは気の毒に」

「それで、彼女は、どこに行きましたか?」

 海辺のコテージ、そのテラスに腰掛け本を持った男性はヒゲを触りながら海の方を見ていた。

「海の方、多分、灯台の立っているあの岬だね」

「丁寧に、ありがとうございます」

「少し、待ってくれるかい、青年」

 呼び止められるとは思わずにいたので驚きながら答える。

「はい、なんでしょう」

「その人は、見つけて欲しがっていたかい?」

「と、いうのは?」

「いや、ただの年寄りの勘違いならいいんだ。君が探すのなら、それで」

「……そうですね。僕は探します。近づけなくても見えるだけでいいので」

 僕はもう一度丁重に礼を言って、海辺のコテージを後にした。


 灯台に着く頃には夕日は沈もうとしていた。

 灯台は小さな島にしては立派で、足元についたドアから中に入ることができた。

 中は電灯が一つぶら下がっている他にソファベッド、小さなテーブル、その他生活に最低限のものがそれぞれ一つずつ揃えられていた。誰かが住んでいるのであれば、あまり覗いているのは申し訳ないと思い扉を閉めようとした時、ドア横にかけられた黒い何かが目に入り、もう一度開け直した。

 それは間違いなく、彼女の帽子だった。


 悪いと思いつつ、もう一度灯台の中を見渡す。テーブルの上に置かれた一冊の本、その隣に置かれたガラスの笛。

 ここにいれば瑠璃は戻ってくるだろうか?

 灯台の主には申し訳ないが、少しここで待っていることにした。



   *****


 待っている間、僕はテーブルに置いてあった本を読んでいた。

 その本はどこか遠い異国の神話のようで、壮大な物語が繰り広げられた挙句、現代の人のあり方を示していた。物語の最後にはこのように綴られていた。

《全ての物語は、続きから始まり、続きのまま終わってゆく。語られなかったものについては、何者も知り得ない。》

 その神話は神話にしてはおそらく珍しく、万物の始まりというものも終わりというものも描かれていなかった。面白い信仰もあるものだな、と思いながらも疲れた目を休めるために目を瞑る──



 波の音で目が覚めた。夢でも彼女を探していた気がする。

 ドア横の帽子はまだかけられたままで、彼女はまだ戻っていないことがわかった。いや、もしかしたらコテージに戻ったのだろうか。

 灯台のドアを開けて外に出る。そのとたん、強い風が海から吹き付けた。

 目の前には真っ黒な海がひろがっている。僕を陸へと押し戻すように轟々と風が吹いていた。

 彼女はどこに行ったのだろう。外を歩くときはきっとあの帽子を被っていたのに、それを置いて帰ってしまうだろうか。

 ふと、暗い海を照らす一筋の光があることに気づいた。

 頭上を見上げると、灯台は一定の方向を照らし続けている。


 海の方を。


 もしかして、と思う。

 一方では、やっぱり、と思う。


 形容しがたい感情が僕の胸を満たして、一つの方向へ突き動かす。靴のまま、岬の先に置かれた朽ちたテトラポットを踏みしめた。


 瑠璃のいる方、海の方へと。



 風が強い割に、夏の夜の海は穏やかで、灯台の光は海の中を照らし出す。




 白いワンピースが、水の揺らめきの向こうで踊った。


第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

愛飢え追えども 1

 

サッちゃんはね、サチコっていうんだほんとはね。

ええっ、ホントのほんとだよ。きょうのおゆうぎの時間に歌ってたお歌じゃなくって、サッちゃんは本当にサチコちゃんっていうお名前なの。でもサッちゃんはぼくに「おねえちゃん」って呼びなさいっていうんだ。ママやミカせんせーがサッちゃんって呼んでも怒らないのに、ぼくがいうとぜったい「ユキくんはおねえちゃんって呼びなさい」っていうの。サッちゃんはサッちゃんなのにね。

 でもサッちゃんかわいいでしょ。サクラせんせーはあったことないの? ビジンさんなんだよ。それでね、サッちゃんの作ったたまごやきはちょっとしょっぱいけど、でもオムライスはふわふわのジュワジュワでとってもおいしいの。サッちゃんとオムライスとたまごやき、おんなじくらいぜんぶ一番大好きなの。だからね、ぼくね、はやく大きくなってたまごやき名人になって、それからサッちゃんとケッコンするんだ。それでサッちゃんがオムライスの人になって、ぼくがたまごやきの人になるの。ぼくって天才だと思わない? だって、毎日おいしいごはんが食べられて、あとねケッコンしたら大人になっても毎日おててつないで帰れるし、そしたらとってもしあわせだと思うんだけど、ぼくそれがいいと思うんだけど。

 そうだ、明日パパが帰ってくるからきいたらいいね! ぷろぽーず、ってどうしたらいいのって! ぼくのママ、とってもガンコなのにどうやっておねがいしたんだろうな、ってずっと気になってたの。えへへ、決まっちゃった。僕サクラせんせーより先にダンナサンになるんだ。いいでしょ、ね! ステキでしょ! 

 

 

   *

 

 

18時を少しまわった頃、沈みかけの夕日を背に園門から駆け込んできた「サッちゃん」は本当に紗知子だった。

「あっ、おねえちゃん! 」

 さっき言ってたのはサッちゃんにはナイショね、と悪戯っぽく笑ったユキヒロ君はスコップを投げ出し、待ちわびた彼女のもとへ走り寄るとそのままぎゅっと抱きつく。お片付けしなきゃだめでしょ、と言いながらしゃがみこんでスモックの砂を払う、大人になった彼女の頬は緩んでいるように見えた。

「紗知子じゃん、元気してた? 」

「佐倉先輩」

 僕の声で顔を上げた紗知子は驚いたようだった。すっかりあか抜けた美人に成長したのに、びっくりした時に口を少しすぼめる癖は子どもの頃から今も変わっていなくてつい笑ってしまう。口元を指せば紗知子も気が付いたようで、恥ずかしそうに細い指で顔を覆った。

「美香先輩だけじゃなくて佐倉先輩までここの先生だったんですね」

「こないだの4月からだけどね。それより紗知子は、 」

 ユキヒロ君の、と言いかけたところでエプロンの裾が引かれた。

「ねえねえ、おねえちゃんとサクラせんせーもお友だちだったの? 」

 ユキヒロ君が少しむくれて尋ねてきた。どうやらヤキモチを焼いているようだが、サクラ先生は年上の女の人か金髪美女が好きなんだぞ、前も言ったろ。

「お友達、なんですかね」

その横で紗知子は真剣に困った顔をしながらユキヒロ君と一緒になってこちらを見上げてくる。いつかの瘦せっぽちの小さな女の子の面影がよぎった。

「んー、美香先生も、ぼくも、ユキヒロ君ママも、おねえちゃんも、みんな昔っからお友達だねえ」

 紗知子は困った顔のまま、そうですね、と笑った。

 

 お迎え遅くなってすみませんでした、と頭を下げて紗知子は帰っていった。ユキヒロ君はちゃっかり自分から彼女の手を握ってにこにこしていた。紗知子がお迎えノートに判子を捺しに行った間に「サッちゃんはぼくのだからね」と言って指切りげんまんをさせられたけれど、そういう独占欲が強いところとか、大きいわけじゃないのに変な時だけ凄みのでる目だったりとか、母親の花枝譲りだとつくづく思う。

 誰もいない真っ暗な廊下を、エプロンを脱ぎつつ職員室へと向かう。昔はこんな暗いところを一人で歩くなんて出来なかったが、ここは昼間のうるさいくらいに元気な園児たちのイメージが強過ぎて、心労が暗がりへの恐怖を凌駕してしまう。そういえば紗知子は僕達よりも7つも年が下なのにおばけや暗闇を怖がらなかった。花枝が一番の怖がりで、4人で行ったお化け屋敷では終始ぴったりと小さな紗知子の後ろにくっついて「サッちゃん先に行かないでね、ハナエ泣いちゃうからね」なんて言っていた。僕と美香はそれを後ろから笑いつつもやっぱり怖くて、2人で手を繋いでキョロキョロしてたんだっけ。甘酸っぱい青春時代、と形容するに相応しい思い出。その次の週に美香に告白した僕はばっちり振られたわけだけど。そしてあれが、多分4人で遊んだ最後の思い出だ。

 職員室に戻れば明かりがついていて、昔僕を振った張本人は鼻歌を歌いながら保護者面談用のソファに寝転んでサルかに合戦の絵本を読んでいた。

「ミカせんせー、ユキヒロ君が紗知子と一緒に帰りました、よっ」

思い切り投げたエプロンは狙い通り美香の顔面にクリーンヒットした。突然視界が無くなった美香は両の腕をバタバタさせて暴れた挙句、ソファから落ちた。

「サクラせんせー1人じゃ夜番の締め出来ないだろうと思って待っててあげた優しいミカせんせーに対して、あんまりなこの仕打ち」

転げ落ちた美香はそのまま床に伏して何やらぶつぶつ言っていたが、返事をせずにいたらさすがに怒りが伝わったらしく起き上がってソファに座り直した。

 

「なんで紗知子がここに帰ってきてるの教えてくれなかったんだよ」

 

向かいのソファに腰を下ろしながら、できるだけ荒げないようにと抑えて出した声は思いの外に震えて情けない声になった。僕らが高3の夏、紗知子を育ててくれていたおじいちゃんが死んだ。さよならも言えずに、まだ小学校5年生なのに天涯孤独になった紗知子は僕らの元から姿を消した。施設に入ったらしいと花枝のお母さんが教えてくれたけれど、それを知ったのは9月に入ってからだ。一人ぼっちで紗知子はきっと泣いていた。僕らが何も知らずにのんきに勉強しているその間、一人ぼっちでこの街を去った。あの時僕だって美香だって、花枝だって、どうしようもなく打ちひしがれて、それを忘れたわけじゃないだろうに。毎朝ユキヒロ君を連れてくる花枝の笑顔を思い出して、さらに苛立ちが募った。

美香はしばらく僕のエプロンを畳んでは広げ、丸めては広げ、を繰り返しながら何事か考え込んでいたが、突然ふっと笑ってまた畳み始めた。今度は目をそばめて、隅と隅をぴったりと合わせて畳む。

「私もね、去年サッちゃんがお迎えに来て初めて知ったの。今大学生だって。怒るのは私じゃなくて花枝にしてよ。ほんとあの子ひどいんだから、私だって初めは怒ったもん」

綺麗に、丁寧に、美香は布を合わせたその端から左の手で軽く叩き、折り皺を作っている。

「花枝、あのあと大学受験やめて就職して、それで21で結婚したでしょ。あの大きいくまさんみたいな旦那さんと」

「湯本さんね」

思わず訂正してしまったけれど、美香は気にする様子がない。定規みたいな直線で、徐々に僕の黄色いエプロンは畳まれていく。

「そうそう、でも今は花枝だって、サッちゃんだって湯本さんだもの。そう、だからね、ユキヒロ君が生まれた年に、あの子サッちゃんを引き取って養子縁組したのよ」

「へ? 待てよ、じゃあ本当に」

「そうよ」

完全な正方形に折りたたまれたエプロンを手渡すと美香は立ち上がった。

「戸籍上はサッちゃんは花枝の娘、ユキヒロ君のおねえちゃん」

 呆然としている僕を置いて美香は薄青のカーディガンを羽織りながらなおも喋り続ける。

「あの子サッちゃん引き取るためだけに結婚したようなものよ。可哀そうな湯本さん。花枝は念願のお母さん権限で『佐倉くんはサッちゃんに会わせちゃダメ』って園長先生に言って、だから佐倉あんた夜番にしてもらえないのよ。今日はその園長先生がぎっくり腰になっちゃったんだから仕方ないんだけど」

入ってくる衝撃的な情報と湧き上がる複雑な感情に混乱した僕は、3時間前の美香は園長先生が風邪で休みだって言っていたのに、いつの間にぎっくり腰になったんだろう、なんてことしか考えられなかった。

「花枝がね、『初めは入学式の日に廊下でぶつかった私のこと好きだったくせに、そのひと月後には階段から落ちてきた美香ちゃん好きになっちゃって、多分佐倉君は劇的な出会いに弱いタイプの男の子だと思うの』って言ってたわよ、それで『サッちゃん可愛くなってるし、それこそ劇的な再会で佐倉君はサッちゃんのこと好きになっちゃうと思うの。ハナのサッちゃんはハナのこと大好きだから心配ないけど、癪だから会わせないー』だってさ」

 けらけらと笑う美香につられて、色々と失礼なことを言われた気がするのに、つい笑ってしまった。もう何でもよかった。

「花枝には負けたよ、紗知子も、湯本さんも、僕も、花枝以外の気持ちは誰も報われないんだね、1人勝ちだ」

「せいぜいユキヒロ君くらいよ」

「あの子は半分花枝みたいなものだから」

「あんたもやっぱりそう思う? 」

 僕たちは延々と笑い続けた。いつの間にか美香も僕も泣いていて、お互いに指さしてまた笑った。

「ねえ、年上でも金髪美女でもないのに、美香せんせーはいつも可愛いね」

「花枝に佐倉君はやめときなって言われたんだ、ゴメンネ佐倉せんせー」

 お腹を抱えて、2人で延々と笑った。

 僕の手からこぼれたエプロンは簡単に広がって床に落ちた。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

雨余に消ゆ

天高く馬肥ゆる秋、などというむつかしい言葉が思い出される素晴らしい陽気。微かに紅の混じった空には雲一つなく、時折吹き抜ける風は微かに冷気を帯びている。じめりとした嫌な感じもない。こんな日は我が心も晴天なり。天高く馬肥ゆる秋。天高く馬肥ゆる秋。

「まだ初夏だけどね」

僕の部屋であぐらをかき一心にウエハースを貪っている加賀が言った。以心伝心というむつかしい言葉があるが、それは特別仲睦まじい者たちに許された奥義のようなものであって決して我々のような関係希薄な人間同士が成し遂げられる代物ではない。そのはずだが、こいつは人の胸中をいとも容易く言い当てる。奇怪で悪趣味な人間である。

「失礼極まりない」

加賀はウエハースを食す速度を落とすことなく言った。ああもウエハースばかり際限なく食べ続けられるのも、才能だ。常人ならば、二、三本口に入れれば喉が乾涸びてカラカラの砂漠と化すだろう。やはり尋常の者ではない。『世界奇天烈人間列伝』という書物があったなら、彼はきっとそこに名を連ねているはずだ。「読心貴族」とか「ウエハースの申し子」とか、そういう趣のある見出しと一緒に。

「君は常々僕をバカにしてるけどね」

指先に付着したウエハースのカスをパッパッと払い、加賀は僕を睨んだ。

「世間様から見たら、学生の分際で隠居生活している君の方がよっぽど無法者だよ」

僕も負けじと、彼を睨み返す。

「……ウエハースで床を汚すな」

壁に立てかけてあった箒をむんずと掴むと、僕はウエハースのカスと一緒に加賀を掃き払った。掃き捨てられぬよう、ゴキブリの如くカサカサと逃げ回る加賀。こんなやりとりもすっかり日常茶飯事である。

 

およそ一年前、ひょんなことから学業の道を踏み外した僕は、仕送りと週に何度かのアルバイトで生計を立てながらこの狭苦しい部屋に入り浸っている。別段何をするわけでもなく、窓から外を眺めていたずらに時間を浪費している。刺激はいらない。ただ心を癒す空間が欲しい。切にそう思っている。

というのに、この加賀という男は、大学でちょっと話をしたからと言って友人面をし、僕の神聖なる憩いの間に度々土足で侵入する。することといえば、ひとりでゲームをやったり、黙々とウエハースを食らったり、「暇だ暇だ」と言って僕にちょっかいをかけたりするくらい。夏の路上に発生する蚊柱のような鬱陶しさだ。

しかし彼を締め出すような気力もない。こいつのためにそんな多大な労力をかけるのはそれこそバカバカしい。

「僕のような友達想いの人間がいなければ、君は今頃この四畳半の上で孤独に包まれ見るも無残に腐乱していただろうさ。もっと感謝したらどうなんだ?」

加賀は口癖のようにこう言うが、彼の本心は、「都合の良い宿主を見つけた、ラッキー!」である。とんだうつけ野郎だ。

とはいえ不本意ながら、僕と加賀は根のところでいくらか似通っている。共々、勉学と喧騒が苦手なのだ。だからこそ、好き好んでこのような薄暗い陋屋に逼塞しているわけである。

「君は僕と殆どまともに会話してくれないけれど、心の中で僕を散々見下し蔑み貶めていることは解っているんだよ。僕の読心の術なんか、奇怪で悪趣味だと思っているんだろう。でもこんなものは特別な技術でも何でもない。君の瞳を見れば誰だって一目瞭然だ。目は口ほどに、と言うだろう。君の場合は口よりもずっと多弁なようだけどね。酷い男だ。僕ほど君の身を案じている人間もいないというのに。覚えているかい、いつだったか、君が――」

恒例のありがたくもない説法を右から左に聞き流し、僕はそわそわしながらこの木造アパートに面する通りを眺めた。

二階からの眺望は悪くない。学生やサラリーマン、主婦たちの往来が難なく一望でき、それをぼーっと見ているだけで一日が過ぎていく。特別珍妙なことが起こるわけではないが、他にするべきこともない。

ぐっと目を凝らして遠方を見る。すると、待ちわびたあの子の姿が目に入った。今日も一人、ぽつぽつと下校している。遠目に見ても判るしおらしいオーラが、とても眩しい。

彼女がアパートの前にさしかかるとき、ふとこちらに視線を向けた。僕が微笑んでさっと右手を挙げると、彼女も小さく笑って、僕に会釈した。

そうして、彼女はいつものようにさっさと通り過ぎていく。

僕の酷く虚しい生活を照らし出す、唯一の癒しの光である。

「――またあの女子高生かい。相変わらず犯罪的な奴だな君は」

加賀が僕の顔を覗き込んでくる。

「なにおうっ」

反論しようとしたはいいが続く言葉が見つからず、僕はバツの悪い顔をしてそっぽを向いた。こいつに正論を吐かれると、やり場のない怒りが沸いて困る。

「ひとつ忠告してあげよう。そんなに気味の悪い笑みをひけらかしていたら、彼女に嫌われてしまうよ」

「常に気味の悪い顔を崩さないお前に言われたかないよ」

僕の言葉を無視し、加賀はにたりと気味悪く笑った。

「いやしかし、変な気を起こさなかった過去の君にはノーベル平和賞を授けたいね

こいつは僕を何だと思っているんだ。

初対面の女性に不貞をはたらくなど、男の風上にもおけない。極悪非道の性犯罪者と一緒にしてもらっては困る。私は女性に対しては非常に紳士的な人間であると自負している。

一応ここに、女性とお近づきになる度胸がないわけではない、ということを弁明しておこうと思う。あらぬ誤解を招くといけない。僕はいつだって泰然自若を体現し、堂々と構えているのだから。

不意に何故か、塵一つない純潔の女性遍歴が思い出されて、僕は途方もない悲しみを覚えた。

突発的な発作に胸を痛める僕を尻目に、加賀はクローゼットのところで屈み、何やらごそごそとやっている。

何やってるんだ。そう疑問を抱く間もなく、脊髄に鋭い電流が走り、僕は思わず立ち上がった。

「まあ、君のシュミはもう少し年上のようだから、関係ないか」

叫ぶよりも早く加賀の両の手に持っていたモノを強引に奪い取り、思い切り彼の腹部を蹴り上げる。

「……! ……!」

息も絶え絶えに悶え苦しむ加賀。本能的衝動につい、加減を忘れてしまった。しかし悪いのは加賀だ。全く油断ならない。いつの間に僕の禁断の魔窟を知ったのだ、こいつは。

そそくさとクローゼットにそれらを詰め込む。彼女をこんな下劣なものと比較するなど、失礼千万。穢れなき彼女に対する冒涜だ。

違うのだ。彼女は、こう……違うのだ。

床に伏せ震える加賀を見下ろしながら、僕はあの日のことを思い返した。

 

 ×

 

一年ほど前。

梅雨入りが報じられた六月某日。

その日は、雨が降っていた。

雨は嫌いではない。むしろ雨の匂い、雫の地を打つ音は僕の心を慰めてくれる。湿っぽい陰気な感じが血管を満たして、身体全体が麻酔にかけられているような、そんな心地がして気持ちがいい。ただこのときばかりはタイミングが悪かった。部屋でぬくぬく感傷に浸れたのなら良かったものの、面倒極まるアルバイトに出向かなければならなかったのだ。

窓から外界を除くと、酷い雨だ。横から薙ぐように降っている。台風なんて来てたっけか、いや、まあ、六月だものな、そりゃ、こんな日もあるさな、と妙に達観した心持ちで、けれども半ば自棄気味に、バイトの準備を始める。こんな雨じゃもう、どうやったって濡れる。所持している全ての傘におびただしい数の穴が空いていることも考慮すると、諦めるしかなさそうだ。

僕はタオルとコンビニの制服を鞄に突っ込み、気休めに折り畳み傘を掴み、部屋を出た。ごう、と生暖かい風が吹き抜ける。重い足取りで階段を降り、傘を差す。三歩歩いて足元を見ると、既にぐっしょりとジーパンが濡れていた。

げんなりしながら歩を進める。こんな雨じゃ猫も杓子も住処の中だ。誰が好き好んでコンビニなどに来るのか。せいぜい、雨宿りついでに雑誌を立ち読んで帰る中年のおじさんが散見される程度だろう。僕が出向いたところで米粒ひとつ分の意味も価値もない。帰ろう。帰ってしまおう。

これほど固い意志を抱いているのに、一向に踵は返さない。己の堕落が人様の枷になってはならぬ、そういう殊勝な信念が僕にはあるからだ。ただし、胸中ではたっぷり欲望を吐露させて頂こう。

くだらないことを考えながらやや駆け足でコンビニを目指す。そのうちにふと、豪雨の中に黒い影が落ちているのが見えた。

人、だろうか。激しい雨に遮られ、判然としない。

訝しく思いつつ近づいてみると、どうやらそれは獣でも魑魅魍魎の類でもなく、人間で間違いないようだった。髪の長い女生徒が、膝を地について項垂れている。制服から推察するに、近所の高校に通学しているのだろう。僕もかつて通っていたから、よく解る。

それにしても、どうして傘も差さず一人、こんなところで蹲っているのか。まったく不可思議である。

暫く彼女の目の前であたふたしていたが、当の彼女は気がつく素振りもなく黙々頭を垂れている。何やらただ事ではなさそうだ。

「あー……大丈夫?」

恐る恐る話しかけるも、返答はない。僕の声が雨音に掻き消されたのか、はたまた、既に彼女の意識がここにはないのか。

その表情を窺えないのが、また不安を誘う。

「……おーいおーい」

今度は彼女の肩をぽんぽんと叩いて呼びかける。すると、ややあって、彼女はゆっくりと頭をあげた。

とりあえず、生きているようで良かった。

そう安堵したのも束の間、僕はその顔を見てぎょっとした。

右の頬が赤く、痛々しく腫れ上がっている。それに、目の下や額にまだ新しい擦り傷。明らかに、転んでできたような傷ではない。加えて、その瞳。暗く淀み、生気がまるで宿っていない。

僕は咄嗟に彼女の手を取り、少し強引に、近くのアーケードの屋根の下に連れて行った。風が強いため大して凌げる場所でもないが、すっかり晒されるよりマシだ。

改めて彼女を見ると、足首のあたりを手で押さえ、再び蹲っている。足も痛めているようだ。しまった、と思いながら、口を開く。

「あの、ごめん。痛かった?」

少女は一瞬こちらを見上げたが、また視線を落として沈黙に徹した。ぽたぽたと、長い黒髪から、痛々しく腫れた顔から、味気ない制服から、雫が落ちる。そのまま暫し気まずい空気が流れた。

参った、埒があかない。

僕はコンビニに急がねばならない。かといって、このまま彼女を放っておくのは、男の沽券に関わる。どうしたものか。世間的体面取るか、個人的矜持を取るか。これほど緊迫した二者択一がかつてあっただろうか。

もし男性諸君がこの状況に立たされたならば、果たしてどちらを選ぶだろう。僕は確信している。健全たる気高き紳士の素養を持った諸君ならきっと、僕と同じ選択をするはずである。

僕は腹を決めると、すぐにバイト先に自身の仮病に関する一報を入れた。憤る店長の声を適当に躱し電話を切る。それからふうと息を吐くと、しっとり濡れた彼女の手を取り、今度は慎重に、彼女を誘導した。

 

そのときの僕は些か混乱していたといえる。だから何の躊躇いもなく、知り合ったばかりの女子高生を自室に招き入れるなどといった軽率極まりない愚行を犯してしまったのだろう。そのせいで後々いろいろ面倒な事態になるとは露知らず、浅はかな男である。

彼女は彼女で、見ず知らずの不審な男の家に入ることには殆ど抵抗がないようだった。魂が抜けたように虚ろな目をして、ただ案内に従うだけ。殆ど自暴自棄になっているらしい。そんな彼女の精神状態を利用して自宅に誘い込むとは大した卑劣漢であるが、非常事態ということで情状酌量を検討してもらいたいところだ。

とにかく、僕は彼女の怪我を何とかするため部屋に案内して、タオルで顔やら髪やら服やらを拭いてもらい、擦り傷のために消毒液と絆創膏を、頬の腫れのために小さな氷嚢を、足の怪我――どうやら打撲のようである――のために湿布を用意した。足が折れている可能性も考えて救急車を呼ぼうかと提案してみたが、無言で首を横に振られた。まあ、一応歩けてはいるから大丈夫だとは思うが。

顔や手足に古い傷跡が少なからず残っていることも気になった。明らかに一朝一夕でできたような痕ではない。漠然とした嫌な予感が脳裏をよぎったが、あまりじろじろと見回すのも気恥ずかしく憚られたので追及はしなかった。

彼女は終始ぼんやりした様子だった。まるで口は聞いてくれなかったものの、タオルを渡すとすんなり受け取り身体を拭いていたし、絆創膏や湿布もひとりでぺたぺたと貼っていた。それに時折、僕の様子をじっと観察しているようだった。それは赤の他人に対する怪訝の視線ではなく、目の前の現象をただただ不思議だなあ、と眺める子供のように、純粋無垢なものであったように思う。僕の希望的観測かもしれないが。

彼女の手当てもひとまず終わり、とりあえず事情でも訊いてやろうと「何があったの?」と何の気なしに言った。これが失敗だった、その途端、彼女はあからさまに顔を歪ませ、目を伏せてしまったのだ。

「あ、ごめん、なんでもない、です」

早口で取り繕ったが、少女は一層暗い表情で俯いてしまった。頭の中で「事件」、「虐待」、「いじめ」という恐ろしい言葉が代わる代わる点滅する。何故言葉を発する前に気がつかなかったのだろう。彼女の様子を見ていれば推測も難くなかっただろうに。

深い後悔、激しい雨音とともに、淡々と時間が流れた。彼女の身辺事情については、彼女に全く無関係の人間があれやこれやと口を出すことではないかもしれない。とはいえ、傷ついた女性を黙って放っておくほど僕は落ちぶれていない。独り善がりだろうか。いや、人が人を助けようと思って何が悪いのだ。どうにかしてやりたいと思うのが人情というものだろう。

ただ、いつまでも彼女をここに留めておくわけにもいかない。少しずつ分かり合えばよい、などと言っている時間はなさそうだ。

考えた末、恐る恐る、僕は彼女に尋ねた。

「……親御さんに連絡しようか?」

すると彼女はこれまた大袈裟に、ぶんぶんと首を横に振った。その表情は、何かに怯えているようである。

無数の古い傷跡に、下校中の生傷、そして親への拒否反応。僕はますます、どうすれば良いのか、何が正解なのか、よく解らなくなった。

元気出して、などと励ませば良いのか。事情も知らぬ人間の安い鼓吹など何の役に立つだろう。相談に乗るよ、などと友達面をして話を聞けば良いのか。出会って数十分足らずの人間に信頼をおいて打ち明けることなど何があるだろう。僕がどうにかしよう、と豪語すれば良いのか。ヒーローを気取ったところで手も足も出ないのが関の山だろう。

先刻までの威勢は見る影もなく、僕は頭の中で二の足を踏み続け、押し黙ることしかできなかった。

彼女の痛ましい顔をじっと見据える。目の前の娘がどんな素顔をしていて、どんなことに笑って、どんなことに泣いて、どんなことに怒るのか、僕は知らない。性格も趣味も、知る由も無い。しかし彼女は、現実に目の前にいるこの女の子は、来る日も来る日も心に、身体に傷を負っているのではないか。早計で的外れなのかもしれないが、それを思うだけで、何だか無性に悲しく、虚しかった。

だらだらと大学に通い、目的もなくいいかげんに生きている自分という人間がいる。その傍ら、この世界にただ「居る」だけで苦痛を背負い必死に生きている人間もいる。ニュースやドキュメンタリーの向こう側に見ていた景色が、リアリティをもって僕の眼前に現れた。決して、フィクションなどではない。

鈍器で殴られたようなその衝撃に、僕は酷く動揺した。同時に、胸が締め付けられる思いが体中を走った。

こんな人間でも、彼女の力になれるのだろうか。愚かしく、何の取り柄もない僕でも。いや、なりたい。何としてでも、力になりたい。ほんのわずかでも、彼女の心を慰めてやりたい。

いくら強く望んだところで、現実は変わらない。安い気休めの一言さえ言えない自分が酷く情けなく思えた。

何でもいい。何か、有用な手段はないのか。

――何か。何か。

一向に答えを導き出せずにいると、ふと、少女が顔を上げた。

彼女は大きな眼を見開いて、身じろぎひとつせず、射抜くように僕の目を見据えている。僕の視線は無意識に、その瞳の奥に吸い込まれた。

複雑に縺れていた思考が一気に凍結する。ただ、無力な僕を許して欲しい、という懇願、懺悔の念が心中で渦を巻いた。

静寂の中見つめ合う奇妙な間。時が止まったのかと錯覚するほど、息の詰まる張り詰めた時間。

長い長い睨み合いの末、とうとう彼女に動きがあった。

「……ふっ、ふ」

僕は目を疑った。

あろうことか、彼女は噴き出していた。静かに、しかし確かに、その口元に微笑みを湛えて、それも、大変に可愛らしく。

えっ、と僕が驚いてみせると、彼女もあっ、と驚いてみせた。お互い何が何やらという感じで暫く慌てふためいていたが、それから彼女が少し畏まった様子で、弁明を始めた。

「……すみません、あんまりに一生懸命な目をしていたので、つい……」

僕は呆気にとられた。突然噴き出したことにも愕然としたが、その理由も何だか釈然としない。

「その、なんというか……わかりやすい人、なんですね」

わかりやすい人。それでは僕が、阿呆や間抜けの類みたいではないか。ふと同じサークルに属する悪友の言葉を思い出して、僕は何だか腹の中がもやもやする感覚を覚えた。

彼女は僕の目を見て察したのか、わたわたと手を振って続けた。

「す、すみません、その、嬉しかったんです、こんなに真剣に向き合ってくれる人、いないから」

次第に伏し目がちになる彼女の言葉を聞いて、はっとした。この子は、親にも、友達にも、先生にも、誰にも彼にも散々に冷遇されてきたのだ。誰一人手を差し伸べる者がいない。いるのは、石を投げる者だけ。だからいつもひとりで、今日まで耐え忍んできたのだ。

僕は先刻の彼女の無垢な笑顔を思い出した。こんな素敵な表情で笑える子が、蔑ろにされていいわけがない。

僕ははっきりと意志を固め、言った。

「……僕で良ければ、君の頼れる人になるよ」

少女は困惑した顔を見せた。

「……でも」

「辛いときは誰かに頼っていいんだ。人間、そういうふうにできているんだ。……だから、いつでも相談してよ」

口から重たい鉄塊を吐き出し、身体がうんと軽くなったような、そんな心地がした。

彼女は一瞬目を丸くして、戸惑いながらも深々と頭を下げた。

「……ありがとうございます」

「いや、いや。少しでも力になれるといいけど」

「……もう、なってます」

そう言って彼女は屈託無く笑った。

 

 ×

 

かくして彼女と僕は知り合い、短くも濃密な時間を過ごし、清く深甚たる関係を築き上げたのだった。以来、彼女が僕に助けを求めることはなかったが、彼女の登下校中、アパートの前を通り過ぎる一瞬の隙に、殆ど毎日顔を合わせている。彼女の様子が心配で僕が一方的に始めた日課だが、彼女の方も優しく微笑んで挨拶してくれる。時折手や顔に絆創膏を貼っていることはあったものの、あの豪雨のときほど大きな怪我はないように思う。

今思い返しても、何とも夢心地な時間だった。余りにも非日常、余りにも一瞬の出来事だったので、全て僕の妄想の産物だったのではないか、と疑うこともあるが、彼女の姿を見ると、ああ、ノンフィクションだなあと思い直し、心底幸せな気分を味わうのである。

しかし現実そう上手くはいかない。悲しいかな、輝かしいストーリーの裏ではどろどろとした転落の舞台が用意されるものだ。

彼女と出会った明くる日、所属しているサークルの部室に足を運ぶと、部員の間で聞き捨てならない噂が蔓延っていた。とある男性部員が女子高生をナンパし、自宅に無理やり連れ込んだ挙句淫行に及んだのだという。「何という不届き者だ、そんな野郎は男の風上にもおけん、今すぐ警察に突き出すべきだ」、義憤に駆られそう宣ったところ、皆口を揃えて、その不届き者はお前だ、と言うのだ。

どうやら昨日の出来事が何者かに目撃されており、そいつが妬み嫉みをこじらせ根も葉もない噂を吹聴しているようだった。部員一同はそんなホラ話を鵜呑みにして僕を激しく糾弾し、一夜にして僕は大学での居場所を失った。「『宇宙の根源』同好会」という、活動方針も存在意義もよく解らないサークルだったが、社交性のない僕にとっては唯一楽に呼吸ができる安息の地だった。しかしもう駄目である。ただでさえ、あぶれ者の吹き溜まりのような集団であるのに、そこからもあぶれてしまったらもうどうしようもない。

それから弁解する間もなく、僕はサークルから追放され、あれよあれよという内にボロアパートに引き籠もることとなった。

おかげで講義やゼミナールなどの都合に左右されず、毎日例の彼女と挨拶を交わすことができるようになったので結果オーライである。そう考えなければ腹が立って仕方がない。

「ウゥ……」

目の前では、嫉妬に狂い、でたらめな噂を言いふらしていた張本人が呻き声を上げ、未だ苦しそうに転げている。この男の過剰な法界悋気の性には前々から呆れていたものだが、まさか僕にまで牙を向くとは思ってもいなかった。挙句の果てに、人を窮地に追い込んでおきながら臆面もなく僕の元へやって来て、この部屋の使用権を半分よこせと言う。その豪胆さはまったく見上げたものである。

自らの軽率な行為が招いた結果とはいえ、こいつが余計なことをしなければ僕のキャンパスライフは安泰だったはずだ。沸々と内側で怒りが再燃し、悶える加賀の背中を思わず踏みつけた。

ガマガエルを彷彿とさせる奇声をあげ、床にへばりつく加賀。それと殆ど同時に、遠くでサイレンの音が聞こえた。どうやら救急車のようだ。

「……ふ、ふふ」

僕の足の下で加賀が不気味に笑った。

「こうなることを見越しておいて良かった」

少しずつサイレンが接近してくる。こっちへ、こっちへ。まるで我が家に向かって来ているかのようだ。

――まさか。

「そのまさかさ」

加賀は勝ち誇ったような表情でこちらを見上げた。

何ということだ。こいつは、僕に酷い暴力を受けることを確信して、あらかじめ救急車を出動させていたのだ。読心術、ウエハース消化能力に加え、予知能力まで備えているというのか。恐ろしい、もはや兵器である。アメリカの超能力ヒーローたちも真っ青だ。

僕は戦々恐々としてカサカサと後退し、窓の外を眺めた。確かに、遠方から救急車が向かって来ているのが見える。このままでは僕は怖い大人たちにあの手この手で問い詰められ、終いには傷害罪でブタ箱入りである。非常にまずい。

ウンウン唸って、この状況をどう打開してやろうかとか、娑婆での生活はそれなりに楽しかったなあとか、いろいろなことに思いを馳せていると、サイレンはいよいよアパートの前に到来した。そうしてそのまま速度を落とすことなく、彼方へと走り去っていく。

あれ、と後ろを振り返ると、加賀の姿が忽然と消えていた。文机の上に一枚の紙が置いてある。そこに下手くそな文字でこう書かれていた。

「 まぬけ。 加賀 」

実に不謹慎。

僕はそれを乱暴に丸め、迅速にゴミ箱に投げ入れた。

 

 ×

 

「時の流れは残酷だ」。誰もが一度は直面するフレーズだろう。僕も毎日呪詛の如く呟いている。こうして僕が頭を空っぽにして空を見上げている間にも、時計の針は一文の得にもならぬというのにせっせと働き、有限の時間は確実に消費される。僕が無為に過ごした一日は、ある人にとってはかけがえのない一日で、一生の財産となり、死ぬまで忘れられることはない。僕にもそういう特別な日がなかったわけではないが、虚ろな大学生に成り果ててからはすっかりご無沙汰である。出不精が祟ったのか。感受性が著しく鈍ったせいもあるだろう。何にせよ、まだまだ余生が長いと思われる僕にとって時間を有意義に使えないというのは由々しき事態である。

先日、といっても一年ほど前、僕はひとりの少女と出会った。非常に衝撃的な出来事だったが、このまま時が経ち、記憶が褪せれば、結局無数のつまらない日々に埋もれるだけなのだろう。それは、何だか勿体無い。折角布石を打てたのだから、余りある時間を利用して更なる活路を見出さねばならぬ。

悶々としながら彼女の来訪を待つ毎日に、変化をもたらすべし。そう思っている反面、後天性の億劫病が発症し、例のごとく行動に移すことはなかった。ただ漫然と時間を食い潰す日々を繰り返すだけ。時の流れは残酷だ、なんて、言い訳にしか過ぎない。そう重々承知しているはずなのに、現状に甘んじる弱い心がずるずると足を引っ張り、今に至る。情けない。実に情けない。

しかし、神様はまったく懇ろというか、気まぐれというか、いいかげんというか、このようなみっともない人間にも救いの手を差し伸べてくれる。朝の日課の挨拶を終え、ああ、今日も駄目だろうなあと諦念を抱いていたある日、期せずして絶好の機会が訪れたのである。

 

夕方、まだ西日の照る頃、窓の縁に溜まった埃を指でなぞりとっていると、辺りがすっと暗くなったことに気がついた。不思議に思い、身を乗り出して空を見上げる。いつの間にか陽は翳り、雲行きが随分と怪しくなっていた。左手の方角では未だ鮮やかな茜色が広がっていたが、右手の方角では暗雲がすっかり空を覆っている。その境界が截然と見て取れ、僕はつい嘆息を漏らした。女心と秋の空とはよく言ったものだ、先刻まではそんな気配は微塵もなかったのに。

「まだ初夏だけどね」という加賀の台詞を振り払い、そういえば、と朝方のことを思い返した。夕立など予想だにしていなかったのでうろ覚えだが、彼女、傘を持っていなかったように思う。折りたたみ傘か何かを鞄に忍ばせていたのだろうか。いやしかし、万が一ということがある。これは彼女とお近づきになる、またとないチャンスだ。

暫くすると、願ったり叶ったり、バケツをひっくり返したような雨が降り出した。大変に威勢のいい夕立だ。これは凌ぐものがなければたまったものではないだろう。僕はぼろい傘を抱え、意気揚々と彼女を待った。

それからまた暫くして、激しい雨の向こうにひとり、ぽつぽつと歩く人影が見えた。僕の髪の毛がひと束逆立ち、ビビビビと警報を鳴らす。いよいよお出ましだ。どうやら傘も差していないご様子。出番だ、僕のボロ傘。

部屋を飛び出し、急いで表の通りに出る。数十メートル先に彼女の姿が視認できた。心臓がばくばくと高鳴り、のぼせたような目眩がする。とうとう彼女にアプローチできる日が来た。傘を渡す、たったそれだけも大きな進歩である。

彼女が俯きがちに、ゆっくりと歩いてくる。酷い雨だというのに、妙に悠然としている。雨宿りする様子も、小走りする様子もない。雨に打たれるのが好きなのだろうか。きっと今、彼女は心を解き放ち、憂いごと全てを洗い流しているのだ。僕にもそういう気分のときはある。とはいえこれ以上雨水を浴びようものなら、酷い風邪をひきかねない。穴だらけの僕の傘が役に立つのかと問われれば疑問ではあるが、ないよりはマシだと信じたい。

時すでに遅しか、と思いながらも、僕は意を決し、彼女に駆け寄った。水の跳ねる音に反応し、彼女が顔を上げる。露骨に動揺しているその様子に僕は一瞬怖気づいたが、今更後には引けまい。開いた傘を差し出し、おずおずと口を開く。

「……風邪ひくよ。これ、よければ、差して行きなよ」

依然困惑した表情を崩さぬまま、彼女は傘を受け取った。

「え、あ、ありがとうございます……」

可愛らしい微笑みを浮かべて、軽く頭を下げる少女。その所作ひとつひとつに、何だかくすぐったいような感覚を覚える。幸福が胸の内に満ちていくのが解った。

――と。不意に、妙な違和感が僕の頭をよぎった。

見紛うことなく、彼女は彼女である。目立った外傷もない。しおらしく慎ましい雰囲気も、普段と変わらない。仕草や話し方も、あのときのままだ。しかしどことなく、ちぐはぐな気がした。

――何だろう。何か、どこか、変だ。

違和感の正体も解らぬまま、僕は「じゃあ、気をつけて」と彼女を送り出した。彼女は少し物言いたげな目をこちらに向けたがすぐに、「……はい」と会釈して、再び歩き始めた。

彼女の後ろ姿を少し見届けてから、ふう、と、大きな溜め息を吐く。そうして僕はひと握りの満足感に浸った。あれから初めて、彼女と会話できた。二言三言だったが、十分だ。流石にいきなり「家まで送っていくよ」とまでは言えない。最初はそんなものだろう。ジャブというやつだ。

暫く気分良くニヤついていたが、傘を貸してしまったがために、自分の方がずぶ濡れになっていることに気がついた。シャツが体に張り付き、何とも鬱陶しい。

思えば、彼女はずっとこの土砂降りに打たれて来たのだ。タオルの一枚でも用意して来るべきだった。これでは折角傘を与えても、凍えてしまうではないか。とんだ失態だ。

そう反省しながら自室に戻ろうとした、そのときだった。

ふと、先刻の彼女の姿がフラッシュバックした。

恐らく、近所の高校からずうっと歩いてきたのであろう彼女の姿。

変哲のない制服に身を包み、少しも飾らない彼女の姿。

傘も差さず、アーケードの屋根の下を通るでもなく。不意の夕立に急ぐ様子もなかった彼女の姿。

それなのに。

僕は息を飲んだ。

――濡れていなかった。少しも。

はっと彼女の行った道を振り返る。既に、人の気配は失せていた。

 

 ×

 

纏わりつく雨滴にも構わず、僕は走った。息切れと嫌な胸騒ぎで心臓がはち切れそうになる。それでも走った。

思わず駆け出して数十秒。彼女の影は一向に見当たらない。徒歩で、それも一本径の街路を辿っていったはずである。こうも追いつかないものだろうか。ぼろぼろのスニーカーは既に浸水し、足を踏み出す度に奇妙な音を発している。気持ちが悪い。しかしそれ以上に、黙ってじっとしている方が気持ち悪い。

世界から弾き出されていたような、そんな違和感。艶やかな黒髪も、端整な顔立ちも、身につけていたものも、彼女の全てが灰色の背景の中くっきりと浮き出ていた。当然である。その身に、水滴の一雫も纏っていなかったのだから。

あのとき何が起こったのか、起こっていたのか、皆目見当もつかない。しかし、血の気の引く嫌な感覚だけは確かにある。本能とでもいうべきか。抗えない衝動に突き動かされ、僕は今奔走している。ぬかるみに足を取られ転倒しそうになろうと、雫が目に入り込み視界がぼやけようと、僕の脚が止まる気配はなかった。

ふと、路傍に人影を捉えた。少し呼吸を整え、静々と影に近づく。近づいてから、僕は深く後悔した。

「……加賀」

「む……君か。どうしたんだい、シャワーでも壊れたのかい?」

それは、これから僕の部屋に向かわんとしている様子の加賀だった。何て間の悪い男だ。とことんまで僕の邪魔をする。つまらない冗談を言う人間に正直用はないが、一応尋ねてみることにした。

「……あの子、見なかった?」

「あの子? ああ、君が首ったけになってるあの子か。いや、見てないが」

見ていない。

ここまで相変わらず一本径だったし、この先も暫くは道なりだ。それにも関わらず「見ていない」。やはりおかしい。加賀がホラを吹いている可能性もあるが、猛然と追いかけた末何の成果も得られなかったことを鑑みると、少しは信用に値する。

「……また失礼なことを考えてるだろう」

「ああ、じゃあな」

有益な情報のひとつも有していなかった加賀を後にし、僕は再び走り始めた。もう少しだけ、探してみよう。

「君の部屋、勝手に入ってるからな」

背後から叫ぶ声がしたが、僕は聞こえないふりをした。

 

重い身体に鞭打ち進む。依然景色に変わりはない。激しい雨を迎え撃つように走る。いない。どこにもいない。

不意に全身の力が抜け、そのままとぼとぼと歩いていくと、とうとう十字路に出た。彼女の帰路が解らない以上、これより先は追跡できない。手詰まりだ。結局、彼女は見つからなかった。

茫然として辺りを見回す。普段見慣れぬ景観に浸っていると、傍らの電信柱に何かが立てかけられているのが解った。何だろう、と目を凝らし、はっとする。

傘だ。それも、とても見覚えのあるもの。

手に取り、勢いよく開いてみる。空にかざすと、無数の小さな穴が見て取れた。やはり僕の傘だ。彼女に貸した、ぼろい、けれども、僕が所持している中ではまだちゃんとしていた、あの傘。どうしてこんな所にあるのだろう。まさか、汚く役に立たない余りに捨てられてしまったのだろうか。いや、彼女に限ってそんなことはあるまいよ。とりとめのないことを考えて、誤魔化しながら笑った。寧ろそうであって欲しいとさえ思った。しかし、それから少し視線を落として、僕は嫌な予感をこれ以上誤魔化すことができなくなった。

傘のすぐ側に、小さな花束が慎ましく供えられていたのである。

それはまさしく、死者を弔う献花であった。

 

まさか、偶然に決まっている、と宣う往生際の悪い僕が、なおも宙を飛び回る。それすらも酷く虚しく感じる。

馬鹿げている。そう思いながらも頭の片隅で考えていたひとつの可能性が今、確かなものだと証明されたような気がした。

ぱしゃ、と傘が手から滑り落ちる。雨音のノイズが耳元で反響する。こんな非現実的なことなど信じたくない。それなのに、この状況はどんな言葉よりもそれを物語っているように思われた。

――交通事故、だろうか。この窮屈な十字路で。一体、何に轢かれたんだ。いや、そんなことはどうでもいい。いつだ。いつ轢かれたんだ、彼女は。

出会った日から今日に至るまでずっと、彼女と顔を合わせることができた。朝と夕方、休んだ日は殆どなかったように思う。いつも可憐な微笑みを浮かべて、そこに居たのだ。一切途切れることのなかった、この日課。ならば、一体いつから、彼女は居なかった?

顔を打つ雨がふっと止まった。ようやく降り止んだのか、と宙を見上げると、そこには穴だらけの傘が広がっていた。

「……ごめんなさい」

振り返ると、すぐ目の前に彼女が居た。目を伏せながら、僕の頭上に傘を掲げている。彼女の方は土砂降りの下にすっかり晒されているはずだが、やはり少しも水の滴る様子はなかった。

「……何で謝るの?」

「だって……死んじゃったから」

少女は搾り出すように言った。

「死んじゃった」。その言葉は余りに淡白だったが、僕の心を叩き潰すには十分だった。

頭では理解していた。理解していたつもりだったが、それでも現実から目を背けていたのだ、僕は。思い浮かぶのはしおらしくも生き生きとした彼女の姿だけ。死に際なんて記憶にない。だから、ほんのわずかな希望が、心のどこかにあったのだろう。しかしたった今、そのささやかな期待さえも蹂躙されてしまった。

「一週間くらい前、なのかな……ここで、トラックに撥ねられて。あまり、よく覚えてないんですけど……多分、私の不注意で」

記憶を辿りながら、つっかえつっかえに話す少女。僕の空虚な心は、そんな彼女の言葉を受け入れることができなかった。

事故なんて、自分の力でどうこうできるものではないことはよく解っている。しかし何だ、この底知れない無力感は。一度彼女を励まして、いい気になっていた。時間なんて、腐るほどあると思っていた。大馬鹿者だ。高を括って、手遅れになり、結局想いのひとつも伝えられなかった。

彼女は俯いたまま、声を震わせて訥々と語る。

「……何も伝えられなかった。勇気が出なくて、ずっと。いつか言おう、言おう、って、そう思ってたら、……死んじゃって。……それでもまだ、言えないままで。馬鹿ですよね、私……」

僕なんかより、彼女の方がずっと気の毒だ。何の前触れもなく、大切な人に、好きな人に、嫌いな人に、何も言えぬままこの世を去ったのだ。そんな不条理があっていいのか。

かける言葉もなく、僕はただただ押し黙った。

「でも、良かった」

彼女の声に力がこもる。

「あなたが来てくれたおかげで、やっと、伝えられそうです」

その言葉の要領を得ず、唖然として彼女を見つめる。

彼女は何も言わずに僕の隣に立ち、電信柱の足許にある花束をじっと見下ろした。今まで見たこともないような、優しい表情をしている。その様子に、喉をぎゅうと締められる思いがした。

「この花……お母さんが供えてくれたんです。あなたとお話したあの日までずっと、私に目もくれなかったお母さんが、ですよ。あの日あなたが励ましてくれたから、あなたが、頼っていいと言ってくれたから……勇気を出して、打ち明けることができたんです。お母さんに対する私の想い、それから、学校でのことも、お母さんに、全部。やっぱり、最初は取り合ってくれなかったんですけど……でも、あなたに助けてもらえると思うと、とても心強かった。どんなに傷ついても……頑張ろう、って思えた。だから……家でも学校でも、毅然としていられました。……不思議ですよね、それから、少しずつですけど、いじめられることも減りましたし、お母さんも、私の話を聞いてくれるようになったんですよ。お母さんが自分から、『その怪我、どうしたの』って訊いてくれたときは、本当に……嬉しかったなあ」

ふふ、と楽しそうに笑って、続ける。

「今の私が在るのは、全部、あなたのおかげです。だから……」

持っていた傘をふわりと置くと、彼女は天真爛漫の笑顔で僕の瞳を見据え、深く、深く頭を下げた。

「本当に……ありがとうございました」

――ああ。もう決して、彼女とは会えないのだ。

何だかどうしようもなく、涙が溢れて止まらなかった。

 

 ×

 

雨が止み、静寂の訪れた町並みを歩く。もう夜の灯りがぽつぽつと暗闇に浮かんでいる。家庭の夕食の香りがそこら中に漂い、僕の胃袋を刺激する。何だかノスタルジックな心地だなあ、と、思わず溜め息を吐いた。

帰宅すると、加賀が寝っ転がってゲームをしていた。

「やあ。ばかに遅かったじゃないか」

「ああ……まあね」

適当に返事をし、ぐちょぐちょに濡れた衣服を洗濯カゴに放り入れる。清々しい気分だ。

「それで、愛しの彼女には会えたのかい?」

加賀が何の気なしに訊いてくる。僕はできるだけ平静を装って答えた。

「いいや、会えなかったよ」

結局、彼女は自分の想いを打ち明けて、満ち足りた様子で夕闇に消えてしまった。ちょうど、夕立が上がった頃に。僕の想いも伝えられぬままに。きっともう二度と、僕の前には現れないのだろう。

一抹の寂寥が胸に残っていたが、何故だか心は澄み切った気持ちでいっぱいだった。彼女を引き止め、何か伝えることはできたのだろうが、これから旅立つという人に野暮なことを言うものではない。それに、結局どう伝えれば良いのか、この感情の正体は何なのか、うまく整理できなかった。だからもう、これでいいのだ。

加賀が携帯ゲーム機の画面を見ながら呟いた。

「ふうん……。どうでもいいけど、失恋したと思ってるなら、それはとんだ勘違いだよ。君はそもそも恋なんてしていない。女性に免疫のない人間が単純接触効果で錯覚を起こしただけ。まがいものの感情さ」

急に妙なことを言い出す奴だ。

確かに僕自身、彼女に対する想いは恋慕だったのか、それとも別の何かだったのか、実のところよく解っていない。加賀の言う通り、いわゆる恋と呼ばれるものではなかったのかもしれない。ただ、これだけは言える。僕は前後左右も解らぬほど、彼女に強く惹かれ、耽溺していた。ナンタラ効果のせいだろうが何だろうが、その想いは紛れもない、変えようのない事実だ。まがいものの感情などでは決してない。

黙々と服を着替えながら、僕は静かに考えた。

「時の流れは残酷だ」、という言葉がある。その本質は、「時の不可逆性」に帰結するのだろう。一度犯してしまった失敗は、なかったことにはできない。一度老いてしまえば、若返ることはできない。一度死んでしまえば、生き返ることはできない。

過ぎてしまったことは変えられない、なんて、幼い子供にも解る摂理だ。肝要なのは、これからのこと。「時の流れは残酷だ」、裏を返せば、「未来は自由に変えられる」。そう言い換えられるだろう。

彼女はもうどこにも居ない。彼女と僕の話はもう幕を閉じた。それは、てこでも動かない事実だ。では、これから僕は何をすべきなのか。いつまでも彼女の幻影に縋りつき、後悔に暮れ、立ち止まるのが正解なのか。

違う。彼女のように、そして過去の自分のように取り返しがつかなくなる前に、必死に生きる。生きて、一歩でも多く前進する。もう二度と、あんな後悔はしたくない。

僕のセーブデータは、まだ失われていないのだから。

「……つづきからはじめる」

「――ん、何?」

「……何でもない」

そう笑って呟くと、僕は文机から使いかけのキャンパスノートを取り出し、指先で軽く埃を払った。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

茄子と豚肉の炒め物

トン、トン、トン。

ふと思い立ち、茄子と豚肉の炒め物を作り始めた。

茄子を切るのは好きだ。肉厚な茄子だが、包丁を入れると、驚くほどすっと通る。その爽快さと、切るときの もきゅっ という、何とも言えない音が好きだ。

 

普段はあまり自炊をすることはない。料理が嫌いなわけでもないし、節約を考えるときちんとした方がいいのだろうが、どうしても近場のコンビニに足が向いてしまう。正直棚に並んでいるのはいつも同じ面々で、飽きないかと言われると否定は出来ないが、手軽さには変えられない。決して味は悪くないし、洗い物もしなくていい。

実家の母に言ったら確実に怒られることだろう。母は料理において、手作りを大事にする人だったから。  スーパーの総菜が食卓に並ぶことはほとんどなく、お弁当に冷凍食品が入っていることもなかった。

 

茄子が切り終わったので、豚肉を炒め始める。バラ肉だから油は引かなくていいだろう。

ジュージューという音がし始めたところで、軽く塩胡椒をふる。塩は母イチオシのあら塩。上京するとき、とりあえずこれだけは持っていきなさい、と持たされたものだ。初めは重くなるからいらない、としぶっていたが、母に押し切られた。

今となっては持ってきてよかったと思う。食塩にはない、どことなく甘味のあるしょっぱさが、どんな食材にもなじむ。特に肉との相性は抜群で、炒めるときは必ず使っている。

 

塩と言えば、夏に実家で食べていたスイカを思い出す。上京してからは食べることもなくなってしまったが、それまでは毎年のように食べていた。正直、スイカ単体では味が薄いように感じ、あまり好きではない。しかし、塩をふることで、スイカの甘みが引き出される。その甘みと、塩のしょっぱさの組み合わせが好きで、毎年食べるのを楽しみにしていた。

 

豚肉に大方火が通ったら、茄子を加える。このまましばらく放置し、茄子がしんなりとしたところで醤油、みりん、砂糖、生姜、にんにくを混ぜた調味料を加える。肉の油を吸い、しんなりとした茄子は驚くほど調味料を吸収し、深みのある味わいを出す。口にいれ、噛んだときに じゅわっ と広がる醤油の味。後から追い付いてくる生姜とにんにくの風味がまた堪らない。

 

「ほら。茄子に味が染み込んでて、美味しいでしょう?」

この炒め物を初めて食べたのは、確か小学生の夏休み。真夏の日差しの中、くたくたになるまで遊んだ日の夜、母が暑かったでしょう、と出してくれた。茄子に染み込んだしょっぱさと甘さは、遊び疲れた俺の身体の隅々にまで染み渡った。あれは、美味しかった。特別な味付けをしていたわけでも、特別な茄子を使っていたわけでもない。しかしあの茄子の味は、20歳になった今でも色褪せることなく、舌に染み付いている。

 

調味料が行き渡ったところで、火を止める。炊いておいた米をよそい、その上に直接炒め物を乗せる。この方が米に味が染み込むので、皿を分けることはしない。単に洗い物を増やすのがめんどくさい、というのもあるが。

 

「いただきまーす……」

一人暮らしになった今も、いただきます、と言うことだけは欠かさないようにしている。実家で言わずに食べ始めると、すかさず母の叱りが飛んでくる。今そばに母はいないが、なんとなく言わなければ、との思いにかられ、言うようにしている。

 

上京してから、約一年半が経った。漫画家になるという夢のもと、大学には行かず、バイトをしながら賞に応募したり、持ち込みをする生活を続けている。

しかし現実は甘くはなく、これまでこれといった成果を残せていない。地元の学校では、絵は上手い方で、よくイラストを描いてと頼まれることもあった。だがそれはあくまで地元の学校という小さな世界での話。その小さな世界を出たら、「ちょっと絵が上手い」だけの俺が通用するはずはなかったのだ。

そんなことにも気付けず、心配する両親を振り切ってほぼ家出同然で上京してしまった。今思えば、専門学校に行ってスキルを養ったり、人脈を築いたりと、色んな方法があったはずだ。若かった、というだけでは拭いきれないほどの大きな失敗が、そこにはあった。

 

まだ、20歳。されど、もう、20歳。来年には成人式もある。けれどこのままの自分では、とても恥ずかしくて行くことなどできない。

最近は結果の出ない現状に諦めを感じ、無気力に日々を過ごすことが多くなった。このままでは駄目だ。そう思いつつも、なにもすることができないまま、時間だけがただ過ぎていく。

そんなとき、久しぶりに行ったスーパーで茄子を手に取った。思い出したのだ。あの夏休みに食べた、茄子の味を。あのときの自分はまだ何者でもなかった。膨大な時間を遊びに注ぎ、よく食べ、よく寝ていた。

もちろん、今の自分もまだ何者でもない。未だ叶わない夢を追いかけ、日々を虚しく過ごすただの男だ。

しかし、あの頃の自分とは変わったところもある。あの頃の自分はただ出された茄子を食べることしかできなかった。だが今は、自分の金で茄子を買い、調理し、食べることができる。

20年生きてきて変わったところがそれかよ、と思うと虚しくもあるが、しかし、それでも成長したことに変わりはない。

 

茄子の炒め物を作れない小学生の自分と、茄子の炒め物を作れる今の自分。……うん。十分、成長したよ、俺。

 

出来上がった茄子と豚肉の炒め物を、熱々の米と共に食べる。しょっぱさと甘みが、口一杯に広がる。これだ。この味だ。夢中で箸を進める。噛めば噛むほど、味わいが増す。

美味しい……。

ふと目を横に向けると、まだ描きかけの原稿がある。構想を練り初めてから3ヶ月。ようやく、形になり始めた。

この原稿も、また駄目かもしれない。日の目を見ることもなく、「駄目だった作品ボックス」の仲間入りをするかもしれない。

でも、駄目ならまた、新しいものを作ればいい。茄子の炒め物は、茄子と豚肉と調味料さえあればできる。原稿だって、紙と画材と、後は俺のアイデアさえあればできる。

ならばそれが尽きるまで、とりあえずがむしゃらにやってみよう。先のことを考えて悶々としていても仕方がない。描きたいものを、思うままに描けばいい。

 

食事を終えた俺は、再び机に向かう。次のシーンは、どうなふうに描こうか。

 

さあ、また、

 

 

つづきからはじめよう。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

明日の僕は、赤の他人

大学二年生の蒸田(むしだ)は、片手でスマホをいじりながら、ファーストフード店で一人もしゅもしゅとポテトをかじっていた。

「……あれ、先輩、帰省中ですか? 久しぶりっすね。まさか、こんな所で会うなんて」

蒸田は眼鏡を持ち上げ、現実にピントを合わせる。声の主の青年は、蒸田の高校の部活の一つ下の後輩の鎌手(かまて)であった。

 蒸田は、ぐえぇという風に顔をしかめ、再びスマホの画面に視線を落とした。

「無視は酷いっすよ。さすがに傷つきます」

「悪いな、お前の顔を見ると尋常じゃなく気分が悪くなったものだから」

「先輩、そんなんだからフラれるんですよ」

 鎌手は蒸田の向かいの席に腰を下ろしながら、さらりと言った。

「き、貴様……何故それを?」

 蒸田は青ざめた顔で「まさか」と呟く。

「先輩、付きあっていたのが僕の姉だったことお忘れですか……全て筒抜けですよ」

 鎌手はニコッと悪意満々に微笑んでみせる。

この姉弟は造形が似ているため、蒸田はふとした瞬間に弟の仕草が姉のそれと重なり、モヤモヤする。一方、鎌手はのんきな顔をして、スマホを片手にバニラシェイクを吸っている。

「……先輩、シェイク欲しいんですか? そんなじっと見つめてもあげませんよ」

 鎌手はなだめるような口調で言う。

「お前の飲みかけなんかいらん……いや、赤いストローだったから、ほらaikoの歌だよ」

「君にいいことがあるように~ってやつですか……先輩、アニソン以外も聴くんですね」

 鎌手はスマホから目を離して、わざとらしく意外そうな表情を作る。

「お前は俺をなんだと思っているんだ……いやしかし、そういえば、様々な飲食店でストローの廃止が求められているらしいな」

「ああ、スタバとかガストとかですか」

「今後ストローをほとんど使わない世代が現われる可能性もあるってことか……」

 蒸田は腕を組み、神妙そうな顔をする。

「そんなにストロー大事ですか……?」

「いや、それ自体が大事なのでなく……例えば、ストローを知らない人はストローをモチーフにした歌に共感を抱きにくいだろう……つまり、未来の世代が過去の世代の文化や感覚に共感しにくいことが問題なのだ」

 鎌手は話に耳を傾けながら、鞄からノートを取りだし、サラサラとメモを取り始める。

「……でも、現代でも何十年も前の歌とか、愛され続けているものも多くありますよ」

「現代でも違和感のない歌は普通に受け入れられるだろうよ……例えば、恋愛の歌だな。片思いをしている学生が『声に出さずとも、この思いが意中の人に届けばいいのに』と物思うような歌詞は、情報技術が発展した現代のにも共感されるものだろう……いわば『SNSより、テレパシー』ってとこだな」

「なるほど~……で、それは実体験ですか?」

「馬鹿野郎、例と言っているだろうが」

 蒸田はこほんと咳払いをしてから問う。

「お前は、先程から何を書いているんだ?」

「先輩の面白い発言を日記にメモしているんですよ」

「は?」

「『は?』ってなんですか……ここは先輩の教えを忠実に守る後輩を褒める場面ですよ」

 鎌手は大袈裟に肩を落としてみせる。

「先輩が文藝部に入部した僕に『文章力を高めるために毎日日記を付けろ』って言ったんですよ……覚えていませんか?」

「ああ、そんなこと言ってたなぁ……」

 蒸田はしみじみとした表情で呟く。

 鎌手は満面の笑みを浮かべ、日記を掲げる。

「ここには、部活での先輩の恥ずかしい発言や謎の持論の全てが綴られています……完全にネタ帳ですよ……先輩には感謝してます」

「そいつを貸せ。今すぐ燃やしてやるから」

「嫌です」

 鎌手は爽やかな笑みを浮かべて、日記を鞄にしまう。彼は中学はバスケ部に所属しており身のこなしが良い。一方、蒸田はペンよりも重いものを持ったことの無い万年文藝部員。力ずくで日記を奪うことは出来るはずもなかった。

 蒸田は背もたれに背中を預け、長い溜め息をついてから、天井を見上げて口を開く。

「……しかし、日記なんか見ていると不気味に思うことがあるんだよな」

「何を不気味に思うんですか?」

「たまに全く思い出せない出来事が書かれていたりすると、『ここに書かれている事は、実は全部でたらめなんじゃないか』って思わないか?」

「そんなこと思いませんよ……この日記だって書いてある全ての事を覚えている訳じゃないですけど、書いたのは確実に僕ですよ」

 鎌手は呆れたような表情で主張する。

「じゃあ……例えば、毎日がロールプレイングゲームのようにつづきから始まるものではないとしたら、どうだ?」

「どういうことですか?」

「『世界五分前仮説』って知っているか?」

「なんですかそれ?」

「世界は五分前に、人々が『存在しない過去を覚えている』状態で突然出現した……つまり、『世界は五分前に始まったのかもしれない』という仮説だよ」

「いや、そんなのあり得ないでしょう」

 鎌手は馬鹿にしたように鼻で笑ってみせる。

「……でも、完全に否定することは出来ないだろう? 偽の記憶を植え付けられている可能性があるんだから、五分前の記憶があると言っても、何の反証にもならない」

「……いや、でもそれがもし現実だとしても、どこかのタイミングで不自然な点に気が付きそうなものじゃないですか?」

「例え嘘だとしても、矛盾が生じない記憶ならば、違和感が生じることもないだろう?」

 鎌手は納得がいかないという表情を作る。

「他にも、現実が不確かなものだという話は山ほどあるぞ……『現実だと思っている世界は宇宙のどこかから投写されたホログラムだ』とか、最近は『俺達は壮大なVRの一部だ』って言うのが流行っているな……VRってのは、仮想現実のことな」

「はぁ……突飛な話ですね」

「もっと突飛なところでいったら、『宇宙人に記憶操作されている』とか、『全ては電撃鬼っ娘の夢だった』とか……なんでもあるぞ」

 蒸田は頬を上気させ、得意げに微笑む。

「先輩ホントそういう話好きですね……でも、現実が夢だったとしたら、問題になることとかあるんじゃないですか?」

「どうかな……例えば、夢の中で買ったバニラシェイクは、夢のバニラシェイクだとしてもやはり美味しいだろう……そう考えると、この世界が続く限り、夢でもシュミレーションでもたいした問題はないんじゃないかな」

 鎌手は諦めたように微笑んで、肩を落とす。

「先輩の話を聞いていたら、現実なんてホント曖昧なものに思われますね……」

それから鎌手は顎に手をやって、少し考えてから、鞄から再び日記を取り出し、最後のページに何かを書き取り始めた。

「……この日記五年分なんですよ。日記に『来年の夏、先輩と会う』って書いて、それが実現すれば、世界は日々つづきから始まっていることは証明されるんじゃないですか?」

 鎌手は日記を指しながら言う。

「……いや、その前にお前がその約束を忘れたら実験にもならないじゃないか」

「それは安心してください。日記は何度も見返しているから、忘れるなんてありませんよ」

 蒸田は引きつった笑みを浮かべる。

「そんなことをしても結局無駄かもしれないけどな……まぁ、来年暇だったら、お前の約束に付きあってやるよ」

「来年も、また会いましょう」

 

 ※

 

 社会人二年目の蒸田は、片手でスマホをいじりながら、深夜のラーメン屋で一人ずるずるとラーメンをすすっていた。

「……あれ、先輩じゃないですか? こんな所で会うなんて……先輩の高校の卒業式以来なんで五年ぶりくらいですかね」

蒸田は白く曇った眼鏡を拭いてから、再びレンズ越しに声の主を確認する。

「おぉ、鎌手じゃないか。久しぶりだな……しかし、こんな時間まで仕事か? 大変だな」

「新入社員なんで、ビシバシしごかれてますよ……今日も書類の文章が読みづらいって散々怒られて……はあぁ」

 鎌手は蒸田の向かいの席に腰を下ろしながら、萎れた様子で言った。

「なんだっけ……そうだ、俺、お前が文藝部に入部した時『文章力を高めるために毎日日記を付けろ』って言ってたじゃないか……ちゃんと続けているのか?」

「えっ? そんなこと言われましたっけ?」

 鎌手が目を丸くして言う。

「おいおい、そんなんだから怒られっ放しなんだろ……」

 蒸田が箸を休めて、苦笑する。

「止めて下さいよ……ていうか、先輩も残業ですか? いやぁ、お疲れっす」

 そう言って、鎌手は店員が出したお冷をゴクリと一気飲みする。それから、向かいの蒸田の頬が緩んでいることに気が付いた。

「その顔は残業じゃないっすね……あ、まさか、さっきまで姉ちゃんと会っていたんですか? 最近、仲が良いらしいじゃないですか……どうしたんですか?」

 鎌手はニヤニヤと口元を歪めて問いかける。

「たまたま職場が被っただけだよ」

「え~、でも先輩、姉ちゃんみたいな人好みでしょう……僕にそっくりだし」

「……確かに似てはいるな。お前のことは好きじゃないが」

 蒸田は箸を休めて、お冷に手を伸ばす。

「……まぁ、お前もあんまり無理しすぎないで、慣れるまで頑張れよ」

「はい、明日も気持ち切り替えて頑張ります」

 鎌手は歯を見せて笑ってみせる。

 店員が温かい味噌ラーメンを鎌手の前に置く。真っ白な湯気が、天井へ向かって立ち上っていった。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

魔王鉄道と果ての夜

一、星間トンネル
 
 ぼくは突然に目を覚ました。
「あれ、ここはどこだ」
 ごとんごとんと音と共にぼくの身体が揺れていて、その上ほの明るい黄色の灯が天井に幾つか吊るされていたから、すぐに気づいた。汽車だ。汽車が真っ暗闇を走っていて、ぼくはその何両目かの真ん中の席に腰かけて、じっと窓の外の自分の姿を見つめているのだった。それがぼくをぼくと知った最初だった。ぼくは今ぼくがこうしていること以外、何も知らなかった。
「やあ、起きましたね」
 向かいに座る綺麗な声の女性が、柔らかい笑顔で話しかけてきた。煤けた黒い毛皮の外套を身にまとって、大柄の割にちょこんと縮こまって座席に座っているのがおかしかった。
「あなたは、誰ですか。それで知っているなら、ぼくも変な質問だと思うけれど、ぼくが誰だか知っていますか」
「私は魔王。そしてあなたが勇者です。それすら覚えていませんか」
「ぼくはぼくのことなんにも覚えていないんです」
「困りましたね、それは」
 訝し気な口調で、自分を魔王と言う彼女は言った。
「私はあなたを連れ出して急いで汽車に乗ったから、そのときに記憶を零してしまったのかもしれない」
「零した記憶はどこにあるか分からないんですか」
「ええ分かりません。きっともう、どこにもありません」
「そうなんですか」
 答えながら、ぼくは自分の言葉にも変な感じを覚えていて、まるで夢の中みたいだった。でも夢じゃないんだというのは、なんとなく分かっていた。
 そんな中途半端な心の具合だから、ぼくはふわふわとした不安で身体が浮いてしまいそうだった。
「あのう、この汽車はどこへ向かっているんですか」
「どこまでも行くんです。海、空を抜けて星の上に出て」
 途方もない話に、ぼくの心はもっと浮きだした。
「じゃ、今のここはどこなんですか。さっきから暗闇が続いていて、ぼく怖いんです」
「ああ、それなら安心してください。窓の外が暗いのは、ちょうど星間トンネルを通っているからです。今に無数の星の輝きが私たちを迎えてくれますよ」
「じゃあもうここはとっくに、銀河の真っ只中なんですか」
「ええ、地上にあるのは始発駅だけで、そこから先3つの駅は全て銀河にあります。今もうすぐ2つ目に着きますよ」
でもどうしてぼくは魔王さんと一緒に銀河の汽車に乗っているんですか」
「何から話しましょうね」
 魔王は顎を指でさすって考え出した。
「私たちの星は、もう古くなってしまったんです」
「古くなると、よくないんですか」
「私たちの星は、まるで灰になりかけの炭です。そんなもの使って火を熾しても仕方ないでしょう。もっとも、貧乏性の神様が気まぐれにしばらくの間火を灯してくれたから、その間にこの鉄道を動かすことができたのですけれど。でもじきに消え去ってしまうでしょう。そして水で洗い流されます。私たちは、それから逃げているのです」
 ぼくには彼女の言っていることがまるで分からなかった。
「どういうことですか?」
「分からないでいいのです。分かるようには話していません」
 魔王が伏し目がちにそんなことを言うから、ぼくは困った。
「よく分からないけど、あなたが魔王でぼくが勇者なら、ぼくらは一緒にいない方がいいような気分になるんです」
「それはもちろん、そうでしょうね。私もあなたも、お互いを打倒しようと生きてきましたから」
「やはりそうなんですか」
「ええ。それで、私が憎いですか、勇者?」
 ぼくはしばらく魔王の顔を見つめた後、首を振った。
「いいえ。だってぼくにはそんな記憶なくて、それどころか今さっきぼくを知ったばかりだから」
「そうですか」
 魔王はうんうんと唸った。
「魔王さんは勇者のことをどう思ってるんですか」
「当然、勇者は敵です」
「……そうなんですね」
 ぼくはもうがっくりときてしまって、うなだれた。こうしてわけも分からない場所で、どこに行くかも分からなくて、その上向かいに座っている唯一の人はぼくの敵だったなんて。ぼくは今から何をすればいいんだろうか、分からない。
 ところが魔王は、わざとらしく咳払いをしてから「しかし」と言った。
「敵だから、ずっと戦わなければならないということはないでしょう」
「そういうものですか」
「少なくとも以前の私たちはそのようでした」
「ぼくと魔王さんは、前にも会ったことがあるんですか」
「ええ。もう長いこと一緒にいました」
「じゃ、ぼくとあなたは友達なんだ」
「そういうことでいいでしょう」
 ぼくはようやく一息つけて、座席に深く座り直した。随分と柔らくて心地がいい。改めて車内の様子を見てみると、床は踏みつけても音が全然鳴らないし、窓枠や壁に付いている金属はピカピカの光沢が自慢げに輝いていて、これは本当に豪華な汽車だと分かった。      
「この汽車とても立派だね」
「ええ、なにしろ銀河の果てまで行けなければなりませんから」
「ぼくたちそんな遠くまで行くんだね、銀河の果てには何があるんだろうね」
「さあ、けれど、何かあるといいですね」
「魔王は銀河の果てまで行ったことないの?」
「ありません。実はこの汽車、今日初めて発車したのです」
 魔王は少し目をそらして言った。
「今日この日のためだけに、私が作らせたのです。ありたけの財を振り撒いて」
「なんだそうだったの。どうりで立派なんだね、魔物の王様が作らせたんだから」
「そう言ってもらえると嬉しいです。この魔王鉄道の開通は、私も手ずから随分と手伝ったのですよ」
 ちょっとだけ誇らしげに微笑んで、彼女は語った。
「でもどうして魔王がこんな立派な鉄道を作ったの」
「私しかいなかったのです。煤だらけのこの世界に気づいたのは」
 そのとき、汽笛が軽く一度鳴った。窓に顔を張りつけて汽車の走る方を見ると、奥で白い光がギラギラとしている。
 やがてその光を汽車が追い越すと、急にぶわっと輝きが押し寄せて汽車を丸きり包み込んでしまった。まるで魔法で一瞬のうちに夜と昼をひっくり返してしまったようだ。ぼくはたまらずのけぞって目を覆った。
「眩しいねえ! ぼく暗いのは苦手だけど、こんなのは目が痛いよ」
「天の河川敷を通っているのです。大丈夫、すぐ逸れますから。ほら話しているうちに光が大人しくなってきたでしょう」
 目を塞いでいた手をどけると、確かにあのものすごい光は、すぐに過ぎ去ったようだった。再び窓を見てみれば、白のほかに赤や青、様々な星の光が宝石箱のようにしてぎゅうぎゅうに散りばめられていた。そうしてぼくはようやく、ぼくが本当に満天の星空の真っ只中に来てしまったんだと知った。
 
 
二、ステーションⅡ
 
 汽車の速度が緩まるとともに、「まもなく、ステーションⅡ」という機械の声が響いた。なんだか味気ない駅名だな、と一旦は思ったけれど、駅が見えるとぼくはにわかに浮足立ってきた。プラットホームの内装は、都会にあるような大きくて立派なものだった。
 車両の扉が開くと共に、ぼくは駆けだした。同時に他の車両からぞろぞろと誰かしらが出てきて、ぼくと魔王の他にも乗客がいたんだと知った。ぼくは人間の姿を探したけれど、出てきたのは魔物だけだった。魔王鉄道だから、やっぱり人間は普通利用できないのかもしれない。少し残念だったけど、ぼくには魔王がいるから構わなかった。
 そういえば魔王はどこに行ったのだろうと見渡すと、彼女は汽車の傍に立って何やら揉めていた。相手は車掌らしき背の高い人型の魔物だった。
30分も止まるの。どうにかそれを早めることはできないの」
「不可能です。この汽車を走らせるのには、どうしても30分かかるのです」
「時間がないのは分かっているでしょう」
「ええ、ですが汽車が壊れては元も子もない」
 ぼくは大人たちが口喧嘩をしているのが苦手だ。あんなにぼくの前では落ち着き払っていた魔王が、辛そうな顔をして揉めているのを見るのも嫌だった。だからそっと改札口の方へ行って、そこで彼女を待った。時計を見ると針は10時ぴったりを示していた。他の乗客はもうみんな改札を抜けていってしまって、僕が一人になった。寂しい。こんな気分になるのは初めてではない気がした。
 随分と長い間待って、改札口に寄りかかって微睡んでいたら、コツコツと靴の音がして、ようやく魔王がこちらへ来た。電車の中と同じ穏やかな笑顔でいるのが、むしろ少し怖かった。
「お待たせしました。行きましょうか。あと20分で出発するそうですから、本当に少しだけですが」
 僕はこっそりと時計を見た。針は大体1010分を指し示している。出発時間は変わらなかったんだな、とぼんやり思った。
 駅を抜けた先は、一面草むらが広がっていた。本当にそれ以外何もない、強いて言えば背の低い木や岩が点々と見えるくらいで、なんにもないところだった。こんなに立派な駅があるのに、とぼくは不思議に思った。でもそんなことはすぐに気にならなくなった。なんにも霞がかっていない明るい星空が、向こうの地平線からあちらの地平線までずっとずっと広がっていて美しかったから。
「だだっ広い草原だねえ。昼間の太陽を上から受けながらこんな誰もいない広いとこを駆けていったら、面白いだろうねえ」
「ここに太陽はないのです。だからこんなにきれいな星空なんです」
「太陽も無しに、どうして草木が育つの」
「太陽が無ければ、太陽が無くても育つ草木が育つのでしょう」
「あの星なんだい。太陽ほどじゃないけれど、とっても明るいよ」
 ぼくは夜空で一際大きく光っている赤い星を指さした。うさぎは見えないけれど月くらいの大きさだった。
「あれはおそらくアンタレスでしょう」
 ぼくと同じく空を見上げて魔王が言った。
「アンタレスって知らない。どんな星なの」
「蠍の心臓です」
「さそり? 蠍ってあの刺す虫かい。ぼく蠍は苦手だ、たぶん刺されたことあるんだよ。刺されると怖いんだ、普通の薬じゃ治せないから解毒魔法をかけてもらうんだよ」
「そうですね。けれどあそこで心臓を燃やす蠍は、悪い蠍じゃないそうですよ」
 ちょっと昔話をしましょうか、と魔王が近くの岩に腰かけたから、ぼくは彼女の正面に座り込んだ。
「昔、アムドラの砂漠に一匹の蠍がいました。蠍は自分より小さな虫を殺して食べて暮らしていました。けれどある日、自分よりずっと大きな蜥蜴に見つかってしまったそうです。蠍は必至で逃げ回ったけれど、とうとう蜥蜴に押さえられて、食べられそうになってしまいました。そのとき、ちょうど目の前に井戸があったものだから、もう蠍は夢中でもがいて井戸の中に飛び込みました。でも井戸に落ちてしまった蠍はどうしても上がることができなくて、溺れ始めました」
「それで、どうなったの」
 魔王がそこからしばらく黙っているから、ぼくは少しやきもきして続きを聞いた。すると彼女は突然立ち上がって、夜空のあの赤い星に手を伸ばした。
「ああ、私は今まで幾つの命を取ったか分からない。そしてその私が今度、蜥蜴に命を取られようとしたときはあんなに一生懸命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにも当てにならない! どうして私は私の身体を黙って蜥蜴にくれてやらなかったろう? そしたら蜥蜴も一日生き延びたろうに。どうか神様、私の心をご覧ください。こんなに虚しく命を捨てず、どうかこの次は真のみんなの幸いのために私の身体をお使いください」
 大仰に演技がかった声で語ってみせると、魔王はすんと岩に座り直した。
「と、まあ、このように言ったそうですよ。すると、いつか蠍は自分の心臓が真っ赤な美しい火になって燃えて夜の闇を照らしているのを見たそうです、と。その心臓が今でも燃えているのだとか」
 ぼくは再びアンタレスを見た。あの赤い星は、さっきと変わらず音もなく煌々と燃えている。
「かわいそうな蠍なんだね」
「そう思いますか? 勇者ならきっと、蠍と同じことを思うのではありませんか」
「いいや、ぼく怖がりだから、死ぬ前にそんな立派なこと考えられるか分からないよ」
「そうでしょうか」
「ああでも、ぼくも自分の身体がただ消えてしまうのは嫌だから、もしかしたら溺れたぼくの身体が井戸の底の水草を育てるかもしれない、なんて調子のいいこと考えるかもしれない」
「いい考え方ですね」
 魔王は笑い混じりに言った。こんなに表情を緩めた彼女を見るのはこれが初めてだ。まるでツバキみたいに笑うんだと思った。ぼくは嬉しくなったけど、同時に、ぼくはそんなにおかしなこと言っただろうかと恥ずかしくもなった
「そうかな」
「ええ、私よりよっぽどいいですよ」
「魔王はどう思うの」
「私をこんなにも苦しめる蜥蜴は滅んでしまえばいいし、井戸は枯れ朽ちてしまえばいいと思います」
 そんなことを平然と言うからぎょっとしてしまった。けれど、そういえば魔王は魔王なのだった。だとしたらそんなに驚くことでもない。
「勇者は、そう思うことはありませんか」
「えっ?」
 突然聞かれたものだから、ぼくは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「何だって自分を一番に考えるでしょう。誰かのことを思いやるのはその次でしょう。あの蠍は、この世の定めに従って生き物の命を奪い、この世の定めに従って敵から逃げたのです、それの何が虚しいのでしょうか。誰でも、わずか数秒命を長らえることに全力を尽くします。その命の輝きは、心臓を灼いた火などよりも尊いものではありませんか。私は、誰かの一日の幸せのために、私の一本の髪の毛を分けてやることすらしない。私の身体は全て、私を幸せにするためだけに稼働しているのですから」
 魔王はその悪魔のような話を、まるで敬虔な神父様のような饒舌さで、まるで救済を祈る修道女のように熱心な表情で説いた。だからぼくは、その説法に何でもいいから返してあげなきゃいけないような気になって、一生懸命に言葉を考えた。
「だけどもぼくは、最期に誰かの幸いを願える命は幸せだと思うなあ」
「誰でもいい誰かの幸いを願うのは、貧しいことです。人間が誰かを思いやるのは、人間が一人では生きてゆけないからです。そうではないですか。自分一人、世界を丸ごと壊せる力が備わってるとしたら、誰でも自らの幸せだけを願い、愛でたいものだけを愛で、嫌いなものは追い出すのではありませんか。あの蠍だって、もしも蜥蜴より強ければ、自らの矮小さに気づくことなどなかったのです」
 彼女はやはり饒舌で、それに鬼気迫るようだった。ぼくは今度も一生懸命返す言葉を考えた。けれども思いつかない。ぼくが黙っていると、案の定彼女は酷く落ち込んだように眉をしかめて息を吐いた。
「いえ……知っています。私がそう言えるのは、私が偶然この世で一番強かったからにすぎないのです。私も誰かに打ち倒されれば、自らの矮小さに気づくのでしょう。けれどそんなことはなんにも当てにならなかった」
「ねえ魔王、この草はらに寝転んでごらんよ、とてもいい匂いがするよ」
 魔王があんまりに苦しそうに言うものだから、ぼくは何でもいいから声をかけてあげようという気になった。
「そうですね、時間までまだありますから少し寝転んでみましょう、けれど本当に寝ないよう気をつけませんとね」
 ひょっとすると魔王は怒るかと思ったけれど、そんなことは全然なくて、次の瞬間にはけろりと微笑んでいた。彼女は本当に大人だと思った。
「この草はら随分と懐かしい匂いがするんだよ」
「そうですか」
「ぼくんとこの村の匂いだと思う」
「きっと同じ種類の草なのかもしれないですね」
「やはりそうなのかな。じゃあこの星の一部を切り取って、カーペットのようにくるんで持って帰れはしないかな」
「持って帰って、どうしますか」
「母さんが言ってたんだ、庭の土が荒れて野菜が育たないって。こんなによい緑色の生える土は、きっとよい土だろうから。あれっ、でも変だねえ、やっぱりぼくは母さんのことなんて知らないんだ」
「記憶が混在しているようですね。あまりよい兆候ではありません。やはり出発を急がせるべきだったかもしれない」
 ぼくには確かに母の記憶なんて全くなかった。けれど、どうにかして思い出してみようとぎゅっと目をつむってみると、そよぐ草の音の向こうに温かな人影を幾つか見るのだった。そのぼんやりした影をよくよく見ようとして目を開けると、やはりそこには魔王しかいなくて、ぼくは不可思議な切なさを覚えた。
「私を憎く思いますか、勇者」
 魔王がいきなり、さっきと同じようなことを尋ねてきた。
「いいや。ぼく魔王のことを憎いだなんて決して思わないよ」
 魔王は難しい顔をして黙り込んだ。ぼくはもう何を話したらいいか分からない。考えてみれば、ぼくは魔王以外の人を知らないから、逆に魔王のことならもう何でも知っているような気分でいたけれど、全然そんなことはないのだ。
「ぼくと魔王って前に会っていたときは何をしていたの」
「ゆっくりと語り合っていました。特に他の娯楽もありませんでした」
「何を語り合っていたの」
「それはもう本当にいろんなことです。お互いのこと、世界のこと、世界の外のこと、星の向こう側のことに、年々変わりゆく気候のこと、政治や道徳の話もしました」
 魔王は懐かしむように目を細めたから、僕は少し悪い気がした。
「ごめんね、どれもこれも忘れてしまって」
「いいのです。私が覚えていますから」
 そろそろ戻りましょう、と魔王は駅の方に翻した。ぼくもそれにすぐついていった。
 ちょうどプラットホームに着いたところで、大きな汽笛が鳴ったので、ぼくたちは小走りになって汽車に乗った。
 ぼくたちの乗った車両には既に誰かが乗っていた。やはり魔物だ。人くらいの大きさだけれども、姿かたちは猫のようで、それで前腕にはコウモリのような、あるいはムササビのような羽があった。その魔物は、どうやらとても疲れているようにぐったりと座っていた。
「おや」
 魔王が意外そうな声を漏らすと、その魔物は途端に飛び上がって魔王の方を見た。
「これは失礼いたしました、こちらが魔王様の乗る車両でございましたか」
「構いません。どうせ大きく作りすぎたから、どこにでも自由に座りなさい」
「恐れ入ります、ではせめて、後ろの方に座らせていただきます」
「ところで、お前の名前は何でしたか」
「キッティバットという種です。固有の名はもう語らぬ方がよいのでしょう」
「ええ、確かにそうです。出身はサラフムの西の方でしたか」
「そうでございます」
「お前も、よく来てくれましたね」
 魔王がキッティバットの頭を撫でた。彼は黙って頭を垂れ、それを受け入れていた。
「かろうじてあの草原の香りを覚えていられたのです。ですからここまで来られました」
「なるほど。それでは、ゆっくり休みなさい」
「はい、失礼します」
 キッティバットは羽を畳んで、へとへとと後ろの端の席へ行った。そしてやはり疲れ切ったようにぐったりと座って眠り込んでしまった。
「魔王は慕われているんだね」
「そんなことはありませんよ。がらがらに空いた車両がいい証拠です。私が銀河の果てまで行くと言ったとき、ついてきてくれると言ったのは思っていたよりずっと少ないほんの一握りで、実際についてきてくれたのは、さらにほんの一握りでした」
「どうして? 星は古くなってしまったんでしょう」
「みんな古い星のことを見捨てられなかったのです」
 当てつけのように魔王は言った。
 ぼくが何も言えないまま、汽笛がもう一度大きく鳴り、汽車が動きだした。
 
 
三、半分の冒険者
 
 ステーションⅢまではだいぶ間があった。ぼくはそのうち目蓋が重くなってきて、気づけば窓の外を向いたまま寝に入ってしまった。すると夢を見た。
 仄暗い大きな部屋の真ん中で、ぼくは魔王のことを見ていた。対する魔王は部屋の奥で、立派な椅子に深々と座っていた。そして「よくぞここまで来た、勇者」とぼくのことを歓迎して、汽車に乗っている今よりずっと楽しげな顔をして笑っていたのだ。だけれどぼくは、もう今にも彼女に飛びかかりそうな様子で剣を構えていた。彼女の表情に気づくこともないくらい緊張していて、頬に伝う汗も拭わずに魔王のことを睨みつけていた。不思議だ。今こうして夢を見ているぼくは、何も全くそんなことをする気分でないのに。それに魔王だって、剣を向けられているのに、そんなものは目に入っていないかのように変わらず楽しそうなのだ
 そこで気づいた。きっとこれはぼくと魔王との、本当に初めの出会いなのだ。ぼくたちが友達になる前の出来事だ。ぼくは勇者で、魔王は魔王だから、やっぱり一度くらいは戦ったのだろう。けれど、どっちが勝ったんだろう?
 夢はぼくたちが戦う前に終わってしまった。
「魔王と出会う夢を見たよ、今」
「そうですか」
 ぼくはもうわくわくしながら言ったのだけれど、魔王はつまらなそうに相槌を打つだけだった。
「きっと戦うとこだったんだよ。勝ったのは一体どっちだったの?
「どちらかだったら、私たち一緒にいませんでしょう?」
「ああ、そうだねえ」
 魔王はあんまり退屈そうだったから、ぼくはちょっと惜しかったけれど話を続けるのをやめた。
 それから少しの間お互い黙っていると、後ろの扉がいきなりガラリと開いたから、ぼくは背もたれから後ろを覗いた。
「ごめんくださいね、ああこっちにはようやく人間がいたわ! ずっと探してたの」
 よく通る大きな声で喋りながら通路を挟んだ隣の座席に座ったのは、冒険者の格好をした人間だった。頑丈そうな革服で身を包んでいて、腰には大きめのナイフを差しているけれど、歳は僕と同じくらいかちょっと上くらいの女の子だ。
「この汽車、魔物しか乗ってないし、みんな私のことを食べようとするでもなく話しかけるでもなく、じっと見てくるもんだから私窮屈で、どんどん車両を移っていったらここまで来ましたの」
「あなた、どうやってこの汽車に乗ったのですか?」
 魔王が面食らった様子で尋ねた。
私オムリアの城下からはるばる下ってミラの街まで温泉旅に行こうとしてましたのよ。そうした道中うっかり躓いたと思ってみれば、気づくとこの汽車の中で立っていました」
「なんと、まあ、そんなこともあるんですね」
 魔王はその言葉で腑に落ちたように、すっかり驚きの消えた顔で笑った。
「ええ本当に。もうとんと夢見の気分で、実際どうも夢を見ているような感じなのだけど、確かに夢じゃないと分かるんですのよ」
「それぼくも同じ気分だよ」
「でしょう、本当に不思議なこともあるものね」
 女の子は気持ちのいい顔でぼくに笑いかけた。
「それにしても、このご時世によく温泉旅なんて考えましたね」
「ええ、もういつ誰がどうなったっておかしくないでしょう、だから自分が生きてる間にできることは全部やってしまいたいと思いましたの」
「立派です。人間、欲張りでありませんとね」
 魔王はその子のことをとても気に入ったようなのがよく分かった。僕もその子のことをなんて清々しい心の人だろうと感じた。だからこれから汽車の中がもっと楽しくなるだろうとわくわくした
「切符はどうすればいいかしら」
「切符は必要ありませんよ」
「あら、よかった」
 それだけ確認すると女の子はほっと息をついて、今度は僕の方を見た。
「あなた冒険者でしょう、ミラに行ったことはあって? 言葉の感じはアリアンの人のように聞こえるけれど」
「ぼくたぶん冒険者だけれど、なんにも覚えてないんだ」
「そう、それは残念ね」
 それって残念なことなんだろうかと思ったけれど、言われてみれば少し残念な気もしてきた。女の子は肘掛けから身を乗り出すと、
「幼い頃ミラの街の近くを通ったことがあるの。広い広い湿地帯にある街でね、草はらの緑色から見え隠れする淡い赤色のアザミがとても綺麗なのよ」
 彼女はどこか得意げに語り始めた。
「笛が伝統工芸で、街の生まれの人はみんな笛を吹けるの。すごいわよね」
「ぼくも吹けるよ。結構簡単なんだ」
「あらそう? 羨ましいわ、私は笛に触れたことなんてないから。あとは、肝心の温泉だけれど、それはもう素晴らしい効能らしくて、昔から今でも湯治に来るお偉い様が絶えないのですって。どうしてそんなにもよく効くのかって、その理由がまた素敵なのよ。さっき街のみんなが笛を吹けると言ったでしょう。お祭りの日になると、みんな夜通し笛を吹いているそうなのだけど、それで彼らの笛を聴きつけた妖精たちがね、こっそりと街に顔を出して踊り出すのですって。そのときに舞った鱗粉が温泉の湯に溶けて、だからとってもよいのですって」
「本当に素敵だね」
 ぼくは、夜の湿原で舞い散って星のようにキラキラと輝く妖精たちの鱗粉を想像して、ぼんやりと独り言のように呟いた。そうしたら彼女の向こう側の窓に、何万羽の鳥の群れが一斉に飛び立っていく様子が見えて、ああ渡り鳥だ、何の鳥だろうかと思った。
「あなたはこれからどこへ行くのかしら」
「どこまでも行くんだって」
「ああいいですわね。私もそこまで行こうかしら。でもそうしたらきっと、ミラの温泉には行けないのね」
「仕方がないことです。ひとつの知らない景色を見ようと思えば、もうひとつの知らない景色を諦めないといけない」
 魔王が困ったように言うと、女の子もまた困ったような顔をした。
「私ちょっと眠いです」
「もう少しで次の駅に着きますよ」
「申し訳ないのですけれど、着いたら起こしてくださらないかしら」
「それはもちろん構いませんけれど」
 それを聞いた女の子は、すぐに眠り込んでしまった。キッティバットもそんなふうにすぐ眠ってしまったのだったな、と思い出した。
「あの子、疲れていたのかな」
 彼女が起きないようこっそりと魔王に聞いてみたけれど、魔王は何も答えてくれなかった。だからせめて彼女の顔色はどうだったろうかと様子を伺おうとしたそのとき、ぼくは目を疑った。
 彼女は忽然と姿を消してしまっていたのだ。
 たった数秒目を離した隙に彼女はどこかへ行ってしまった。ぼくはまた魔王の方へ向き直って、彼女の肩を強く揺すった。
「魔王、あの子がいないよ」
「分かっています」
「分かってるって、そういうことじゃないよ」
「いえそういうことです。分かっていたのです」
 ぼくは意味が分からなくて、まだ魔王の肩を掴んだままでいた。
「彼女は、あなたと同じ不安定な存在でした。偶然、半分はこちらに来られたようですが、もう半分は元の星に取り残されたままだった」
「そうするとどうなるの。ぼくも不安定な存在だって言うのなら」
 魔王は「しまった」という顔で口を押さえた。
「ねえ教えて。ぼくもう何も分からないでこんなに悲しいのは嫌だよ」
 魔王は耐えるようにじっと口をつぐんでいたけれど、ぼくも負けじと魔王の顔をずっと見つめて彼女の言葉を待った。
 どれくらい時間が経っただろうか。汽車が一際光る星の近くを一度、二度、三度と通り過ぎた。さっき見た渡り鳥たちが今度は反対側の窓から何万羽と飛んで、やがていなくなっていった。それくらいの後、彼女はようやく、観念したといったふうに口を開いたのだった。
「あなたも、そうです。半分しかないのですよ。もう半分は、星に飲まれて消えてしまった。私が掬い上げられたのは今の半分だけだったのです」
 ぼくは絶句してしまったけれど、魔王ほど時を待たずに、口を開いた。
「ぼくは一体どうなってしまうの? あの星さえ出られたら、いつかこの汽車が別の星に辿り着いて、そこで普通に暮らせるのではないの」
「いいえ、そんなことはありません。この宇宙、この世界は、あの星が死んでしまったらそれでおしまいです」
「どうして」
「あの星は自らの死を迎えると、巨大なブラックホール、真っ黒な重力の塊になります。それは音も光も、この宇宙空間を丸ごと飲み込んで、ひとつの点になります。それでこの世界はおしまいです」
「だとしたらぼくたちは、今まで何をしていたというの?」
「言ったでしょう。誰でも、わずか数秒命を長らえることに全力を尽くすのです」
 ぼくはもう今度こそ絶句してしまって、じっと一人で考え込んでしまった。
 どうしてだろう、どうしてそんなことを今まで言わないでいたのだろう。ぼくも今にあの子のように、ふっと消えてしまうのだろうか。星はどうしてそんなに酷いことになってしまったのだろう。ぼくの半分を飲み込んでしまって、その半分はどこへ行ってしまったのだろう。星の死と共にその半分もなくなるのだろうか。だったら、たった半分で生きているぼくは一体、なんという生き物なんだろう。どうして魔王はこんなにも平然でいられるのだろう。この世界が丸ごとおしまいになってしまうのに。ぼくは未だ魔王のことを知らないままだ。だのにぼくは魔王についていくまま随分と遠くまで来てしまった。ああ、ぼくはこんなとこでぼうっとしている暇はないように思えてくる 。ああ、けれど、なんにも当てにならない。お腹の底がぐるぐると不安で渦巻いて目が回った。
「勇者」
 魔王がぼくの名前を呼んだ。硬くなったぼくの右手を、魔王の両手が握った。
「あなたが……今、何について苦しんでいるのか、分かりません。一度にたくさん言いすぎました。けれど少なくとも、あなたは消えない、ということだけは言えます。私があなたのことを覚えていますから」
「でもこの世界はもうおしまいなんでしょう」
「あなたを忘れてしまった世界のことなんて、忘れてしまえばいいんです」
「世界は、ぼくを忘れてしまったの?」
「世界はあの星の死に、あの星の住人全てを巻き込む気でいました。けれど、実際に巻き込まれたのはあなたの半分だけだった。世界はあなたの半分だけしか覚えていなかったのです。結果的に、だから私があなたのもう半分を連れていくことができたのですが。それでもあんな世界、もう覚えておくに値するものではありません」
「そっか」
 ぼくは不思議な心持ちになってしまった。泣きたいわけでもないし、怒りたいわけでもないし、かといってもちろん笑いたいわけでもないけれど、全く心が動かないでいるというわけではなかった。
 そこに「まもなくステーションⅢ」という声が響いた。どこか故障しているのか、音がかすれていた。
「ステーションⅢでは一度停車しますが、前の駅のように長い間止まりはしません。すぐに発車します」
「うん、分かった」
 やがて汽車が停止した。窓から覗いてみたら、前の駅とは打って変わって小ざっぱりした駅だった。屋根もないし、改札口がすぐそこに見えている。さらにその向こうには、駅の外の景色も見えていた。ぼくはその景色を、目を凝らしてよくよく見てみた。
 辺りは深い霧が漂っていて少し見づらいけれど、湿原のようだ。いくつもの大きな水たまりを草はらが囲んでいる。そして、草はらの緑色の中にぽつぽつと顔を出している淡い赤色が見えた。
「あれアザミだろうね」
「ええ、きっとそうでしょう」
「ここはミラの湿原なの?」
「いいえ違います。ミラの湿原もミラの温泉も、みんな星に飲まれて消えてしまいました」
「でも、あの子が言っていたのとそっくりだよ」
「こんな宇宙の端っこにミラはありません。あるとしても、ミラの形と記憶だけを真似した偽物です」
「そんなものどうして宇宙の端っこにあるの」
 ぼくはおかしくなって笑った。
 もうじき発車だろうか、と思っていたら次々と魔物たちが降りていくのが見えた。その数はとても多い。もしかしたら汽車に乗っていたみんな降りてしまったかもしれない。そこにはあのキッティバットの姿もある。
 おかしいな、と魔王に尋ねようとしたら、彼女もそれに気づいたらしくて、ぴゃっと驚くと窓から身を乗り出した。
「お前たちどうして降りるの。アナウンスがあったでしょう、もうすぐにこの汽車は発車します」
 魔物たちの一人がこちらを振り向いた。翼を生やした中性的な魔物だった。
「魔王様、私たちはここで星を見ていきたいのです」
「汽車はこれしかないのですよ。これが行ってしまったら、もうここに残るしかないのですよ」
「ええ、ですから、ここで星を見ていくのです」
「どうして? ここにいては汽車よりも早く星に飲み込まれてしまいます」
「この時間、この星から、アンタレスが本当に美しく見えるそうです」
「私を置いていくのですか」
「魔王様が私たちより先に行くだけのことです」
「私を置いていかないで」
「魔王様、私たちみんなこの宇宙の中にいます」
 その言葉を最後に、汽車は発車した。
 魔王は、そのまま下に落ちてしまいそうなくらい身を乗り出して、しきりに魔物たちを見ていた。その魔物たちが改札を通って見えなくなり、次第に駅が粒くらいになるまで遠ざかると、ようやく彼女は窓の外から戻ってきた。たった数分で、彼女は随分とやつれたようになった。
「一人きりになってしまいました」
「ぼくがいるよ」
「そうでした」
 魔王は決まりが悪そうに微笑んだ。ぼくは少し面白くない気分だ。
「あなたはアンタレスを見ないのですか」
「さっき君と一緒に見たじゃない。それよりぼく魔王と一緒にいるよ」
 魔王は黙っていた。俯いてしまったから、どんな顔をしているかも分からなかった。
 それからも、ずっとずっと汽車は走り続けた。いつの間にか星の数は少なくなっていて、わずかに光る点がチカチカしているばかりで、ただ夜の街を汽車で通っているように思えた。天井に吊るされたほの明るい黄色の灯も、その光が弱まってきている。ぼうっとした光は、ぼくの足元まで届かない。
 
 
四、果ての夜
 
 もう随分と暗くなってしまった車窓の向こうでちらちらと煌めくものが見えたから、ぼくはゆっくりと外を覗いた。
 そこにあったのはサクラの花びらだった。何万では収まらない、もう目が見える限りずっと遠くの方までサクラの花びらが舞い散っていた。サクラの嵐だ。嵐の中を汽車が突き進んでいる。
「ねえ魔王、サクラだよ」
「ああ、綺麗ですね」
「どこから散っているんだろう。こんな一斉に散ってしまってサクラの木は大丈夫だろうか」
「大丈夫ですよ、あれらは本物じゃありませんから」
「じゃあ偽物?」
「ええ偽物です。試しに触れてごらんなさい」
 ぼくは窓を開けて手を伸ばしてみた。危なっかしいやと少し思ったけれど、こんな開けた場所なのだからきっと平気だ。それで、わざわざ掴もうとしなくたって花びらの方からぼくの手に飛び込んでくるだろうと手を伸ばしたままぼんやりとしていたのだけど、なぜか花びらがちっとも手に触れない。おかしいな、と思って目の前の花びらを試しにふっと掴もうとしてみると、どうにも上手くすり抜けて掴めない。汽車があんまりにも速いからじゃないかと疑ってみて、じきにそうじゃないと気づいた。
 このサクラの花びらたちは、この世の実物でないのだ。くっきりした幻にすぎない。けれど、ぼくの眼の中にあるものでもないのだろう。とするとこれらは一体何と言うのだろう。いくら掴もうとしてもぼくの手のひらを通り抜けてしまう花びらたちを見ていると、なぜだか胸がいっぱいになった。ぼくは座席に座り直すと、
「魔王は世界のことなんでも知ってるんだね」
「知ってしまっただけです。そんなのはなんにもなりません」
「でもぼくはこの世界のことなんにも知らないから、なんにもならない。勇者のくせにね」
「勇者であることなんか、もう関係ないのです。世界が全て終わってしまうんですから」
「でも勇者って世界を救う人のことでしょう。だのになぜ、ぼくはこうして汽車に乗って世界のおしまいから逃げているんだろう」
「勇者は救世主ではありませんよ。弱い者と虐げられる者を守る者のことです。ここに至ってはもう弱者も被虐もありません。あなたの役目はもう終わっているのです」
「なんにも分からないぼくでも分かるよ。こんな世界は絶対におかしい。何かが、どこかが、狂ってしまっているんだ。それをぼくは、きっと止めるべきだったんだろう。けれどぼくが目を覚ましたときには、もう何もかも手遅れだったんだね。だとしたらぼくは、何のために目を覚ましたんだろう? すごく怖いんだ」
 実際にそれを口にしてみると、本当に手と足が震えてきて仕方がなかった。
「ねえ魔王、教えてよ。一体全体、世界に何が起こってしまったのか」
「教えられません。あなたは知らない方がいいのです」
「この世界が終わるってときに、知らない方がいいことなんてひとつとあるの?」
「なおさらあるのです。重く暗い気持ちで死ぬのは嫌でしょう」
「だけどぼく、何も見えない暗闇で死ぬのも嫌だ」
 魔王はまた黙り込んだ。だからぼくもまた、彼女が喋り出すまで待とうと思ったのだけど、
「今度は、待っていたって教えてあげませんから」
「どうして? なぜぼくが知ってはいけないの」
「……あなたが私を嫌いになってしまうから」
「そんなこと絶対ないよ。絶対にない」
「本当に?」
 魔王は急に人間の女の子のような瞳をしてぼくを問い詰めた。
「誓うよ」
 ぼくはそう言って、今にも口から言葉が零れそうなままずっと黙っている彼女のことを待ち続けた。
 
「……世界の壊し方を、知っていますか?」
 そして、ようやく口を開いた彼女はそんな突拍子もないことを呟いた。
「世界にはいくつも、断裂があります」
「断裂って地割れのこと?」
「いいえ、目に見えるものの話ではありません。私の言う断裂は、見えない、触れない、本来なら感じ取ることもできない、世界と世界の間の空白のことです。それは世界のあらゆるものに対して非干渉だからこそ、間接的に観測することができます。私はある日偶然断裂の存在を知ってから、実際にいくつかの断裂を意図して見つけることができました」
「それが全体、世界の壊し方と何の関係があるの?」
「その世界の断裂にですね。小さな虫を這わせてやるのです」
 魔王はまるで手のひらに乗せた虫を弄んでいるみたいにして手遊びをした。
「それだけです。そうするだけで世界は壊れてしまいます。実に簡単に。この世界の機構は、そんなふうに繊細に働いているのです」
 そこまで聞いて、ぼくはようやく理解できた。
 それができてしまうのは、「断裂」のことを知っている魔王だけなのだ。だから彼女は、これほどまでに言うのをためらっていた。
 彼女はぼくの表情を見て、
「そうですよ。私が、この世界を壊しました」
 その言葉に、ぼくは何の言葉もかけてあげられなかった。なんにもできなかった。だってこんなのは、およそ世界を壊したなんて言ってのける悪のする表情じゃない。ぼくは魔王のことを嫌いになる気も憎む気も全くないけれど、それでも今のを聞いて、彼女の顔を見て、ぼくは彼女についてどんな心持ちでいるべきか全く分からなくなった。
「仕方がなかったのです」
 魔王は何度も「仕方がなかった」と繰り返した。
「仕方がないって、何が仕方ないの。世界を壊す以外に仕方ないなんてことが、どうしてあるの?」
「だって仕方がないと言う他どうすればいいでしょう!」
 魔王はぼくの言葉を遮るように強く言い放った。
「……そうでしょう? 勇者と魔王の決着がついた瞬間、あなたと私の出会いはなかったことになるのですから」
「えっ?」
 ぼくはその言葉を全く理解できなくて、つい軽いような調子で聞き返してしまった。
「私はそれを知っていた。偶然に断裂を見つけたその日から、私はこの世界の知らないことを随分と知った。この世界は、神様の思い通りに進むよう出来ていて、神様が気に入らなかったり、あるいはこの世界への興味を失くしたりした瞬間、無理やりに因果を捻じ曲げられてしまう。私が勝っても、あなたが勝っても、この世界の時間は否応なしに巻き戻るのです」
「そんな神様、嘘だよ!」
「ええ、そう思います。でもそんなことができる存在を、神様という他に何と呼べばいいでしょうか」
 ぼくはつい大声を張り上げてしまったけれど、魔王は冷ややかに笑って続けた。
「それでいいのだと思っていました。時間が巻き戻ればつらい記憶も全部なくなるのだから構わない、この星に生まれた者として神様の因果に従ってやろうと思うことにしていました。けれど私たちは決戦の間、怨嗟と共にいろんなことを語り合った。剣と共にいろんなことをぶつけ合った。私は生まれて初めて対等に誰かと接することができたのです」
 魔王はほんのわずかに、またツバキのような笑みを見せた。
「……嬉しかった。なかったことに、したくなかった。それだけで、この世界をめちゃくちゃにするだけの決意くらい簡単なものでしょう?」
 ぼくの覚えていないぼくとの思い出を愛しげに語られるのは、とてもむず痒い心地になる。けれどその愛しげな調子で恐ろしいことまで一緒くたに言ってのけるものだから、ぼくは難しい顔になった。
「私の放った虫は、世界の因果を破壊した。街や森は荒廃し、大半の生命が消滅した。それでも確かに、私たちの時間は続いた。私の挑戦は通じたのです。つまり神は、収拾のつかなくなったこの世界を放棄した。私たちは束の間の永遠を過ごし、存分に語り合いました。けれどある日、別の神様が気まぐれにこの世界を覗きに来ました。二代目の神様はきっと驚いたでしょうね。この世界は火を熾しても熾しても真っ暗闇のままですから。新しい神様が来たら、きっとこの世界の因果を元に戻すだろうと、私は考えていました。つまり、古くて傷んだこの世界を一旦きれいさっぱり無かったことにしてしまうだろう、と。それが星の死です。実際それはすぐに来た。最初に、勇者が星に 飲み込まれそうになりました。けれど星はあなたの半分しか覚えていなかったから、私はあなたを星の体内から掬い出せたのです。そして前々から作らせておいた鉄道で、神様の力が届きにくい星の外まであなたと共に抜け出しました。これがこの世界の顛末です」
 一気に言ってしまうと魔王は長く細いため息をついた。
「私はなんにも悲しいことなんかないのです。自らの幸いのためになすべきことをなしたのだと思っています。私が偶然に断裂を見つけたことは、きっと本当の本当の神様の思し召しなのです。なんにも怖がることはない。天国も地獄も、どうせこの世界にはないのだから。勇者は、こんな私をどう思いますか」
 唐突で、しかもほとんどぼくの顔を見もせずに聞いてきたから、ぼくは少し答えるのが遅れた。
「どう思うって言われたって、分からない。ぼくは世界を救わなきゃいけないような気でずっといたけれど、ぼくはなんにも知らないから、世界がどうしても大切ってわけじゃないんだ。けれどやっぱり魔王が世界を壊してしまったのを考えると、嫌な気分になる。それでもぼくは魔王に助けられて、魔王と一緒にここまで来たろう。それでもうすぐ本当に世界がおしまいになってしまう。ぼくはどんな気持ちでいたらいいんだろう。ああ、難しい、難しいな。ぼくにはぼくの幸いのためにできることなんてなんにもない気がする」
「そうですね、そうなのでしょう。私は卑怯者です。でも、それだって構わない」
 彼女はやっぱり、ぼくの言葉なんて届いていないような様子だった。
 汽車からザザッザザザと酷く耳障りな機械音が聞こえてくる。ほとんど何を言っているか分からないけど、たぶんもうすぐステーションⅣに着くのだ。魔王によれば、これが終点だ。
「降りましょう」
 やはりそうだったようで、彼女はすくりと立ち上がった。ぼくもそれについていったけれど、おかしなことに気づいた。汽車の外には何もないのだ。どこを見てもあるのは遠くに浮かぶ星の点ばかりで、肝心の駅がない。人一人歩けるだけのわずかな足場さえない。けれど彼女は全く気にしていないように、車両の扉に向かって歩いていく。
「ねえ魔王、どこに足をつければいいの」
「ああそうか、見えないのですね。大丈夫です、私の手を取って」
 扉の前でぼくは魔王の手を強く握った。彼女はぼくの方を見たまま後ろに一歩下がった。なんにもないただの空中にだ。ぼくは思わず身を竦ませてしまったけれど、彼女の足元からはコツッと音がして、確かに魔王は見えない足場を踏んでいた。
「私の歩く道を来てください」
 言われた通り、魔王の歩いた後を震えながらぴったり辿る。
「踏み外さないでくださいね」
「踏み外すとどうなってしまうの?」
「もちろん下に真っ逆さまです」
 ぼくはなおさら震えあがった。こんな銀河の果てまで来て下に落ちたら、一体どこまで落ちてしまうのだろう。
「さあここです、ここに座りましょう」
 魔王は一旦ぼくの手を離すと、空中に三角で座り、その隣をとんとんと叩いた。ぼくは彼女が手を離してしまうものだから、氷みたいに固まってしまった身体をなんとか動かしながら、ようやく座ることができた。一度座ってしまえば、いくらか安心できた。下を見なくていいし、それに魔王と肩を寄せ合うことができるから。
「この辺はあまり強く光っている星がないね」
「ええ、もう本当に果ての方に来てしまいました」
 ここにはサクラもなければ渡り鳥の群れもない。汽車もどこかへ行ってしまった。ぼくたちはたった二人、空の真ん中でぽつんと座っていた。
「ご覧なさい、あの黒い星がかつての私たちの星です」
 魔王が向こうの方を指さした。目を凝らして遠くの方を見てみると、何も見えないけれど、何かの「歪み」が見える。ああ、あれがそうなのだ。星々の光をみんな吸い込んでしまうから、ただ歪んでいるだけの何かが見えるのだ。そして光に照らされない完全な黒だから、星の姿自体は全く見えないでいるのだ。
 それを見ていると、またしても不安で胸がいっぱいになった。あの星は、少しずつ大きくなっている。この宇宙空間を掃除でもするように、向こう側から全てを飲み込みながらやってくる。じきにぼくたちは、それと一緒になるのだ。
「私についてきてくれた魔物たちは、最後に私を許してくれたでしょうか」
 魔王は両腕に口をうずめて、ぽそぽそと呟いた。
「今さら許しを求めるのも卑怯な話です。彼らの王として、誰よりも強い存在として、彼らを私の幸いのために尽くすことを強いたというのに」
「魔物たちは君のこと慕っていたように見えたけど」
「彼らもまた自分を納得させるのに必死だったのです。だってどうせ私は、たった一人だって世界を壊せてしまうのですから、私の言うことを聞いてやる他ない」
「そうかな。元々魔物たちは本当に君に幸せになってほしかったんだと思うよ」
「私の幸いを彼らの幸いとしてしまったのなら、それこそが私の罪です」
 魔王はかたくなな様子で言った。
「そのうえ……私は今だから、あなたしかいないから言いますけれど、実のところ分からないでいます。本当の幸いとは一体何でしょう。私は彼らに何をさせていたのでしょう」
「ぼくにも分からない。難しいことはとんと分からないんだ。ぼくはついさっきぼくを知って、今まで汽車に乗って魔王と銀河を見てきた。ぼくにはそれしか残っていないから」
 魔王は落ち込んだように目を伏せた。
「魔王は、幸せではなかったの」
 ぼくが聞くと、彼女はきゅっと両手を結んだ。
「私は幸せでした。けれど、自らの幸いのために、他の意味の全てを失ってしまったのかもしれない。自らの幸いの足しにならなければ、他者の幸いなど本当に何の価値もないのでしょうか。この世には幸い以外の目指すものがあるのではないですか。今さら後ろは振り返られなかった、私は私の思想に尽くすしかなかったのだけれど。だけれど、誰かの幸いのために私の幸いを少しも分けてあげなかったことを、今さら……」
 彼女の言葉はそこで途切れた。
「幸せだったなら、いいじゃないの。ぼくは魔物たちのことをあんまり言うことはできないけれど、少なくともぼくは、今隣にいる君が幸せだったと言ってくれて、いくらか今が怖くなくなった」
「……ああ、勇者。魔王に向かってそんな言葉をかけてはいけない。それ以上言おうものなら私は、本当にこの下へ身を投げ出したくなる」
 魔王は顔をくしゃりと崩して泣き出した。ぼくは自分が酷いことを言ったつもりは少しもなくて困りきってしまった。ぼくは彼女の手を握って真っ直ぐに彼女を見た。
「ごめんね魔王、君を傷つけるつもりじゃ全然なかった」
「傷ついてなんていません。ただあまりにも眩しい。こんなのは、目が痛い」
 魔王はまだすすり泣きながら立ち上がって、向こうを見た。僕もそちらを見ると、あの黒い星は明らかに大きさを増していた。影さえつかない完全で巨大な黒を見ていると、ぼくが目の錯覚を起こしているのかというふうに思えてくる。
「ああ、もう少しでお別れみたいだね。でもぼくもうあんな大きな闇の中でも怖くないよ」
「私もです。この後どんなになったって、私は胸を張っていける」
「ぼく一度は全て忘れてしまったけれど、魔王のことはもう忘れない」
「忘れていいのです」
「忘れられないよ、絶対」
 どうしてか魔王は、より一層悲しそうに顔を歪めた。閉じた目蓋と唇がふるふると弱々しく震えている。
「じゃあ、どうかこのことも忘れないで。あなたはいつか、幾重の世界を巡って、再び私と出会うことがあるかもしれない。そのとき、奇跡的にこの世界のことを思い出すかもしれない。けれど、そんなのは紛い物の奇跡だ。この世界とこの私はここでおしまい。あなたが欲しいばかりに、世界を壊し尽くした私は、この私だけです。ここに立つ、この私の肉と魂だけが手にした結末なのです。あなたの手の温もりを持って死んでいくのは、この私だけ。どうせ私のことを思い出すなら、今の言葉全て巻き込んで思い出して。どうか他の私に連れ出されることのないように、どうか他の私の手を繋がないように、どうか」
 最後の方はまるで慟哭するようだった。でもぼくは、最後の最後になってまで、彼女の言葉を全部分かってあげることができないでいた。けれど彼女が悲しまないためにどう答えればいいかは、ぼくにだって分かる。
「そうするよ。魔王の言葉はたった一言だって忘れない。だから笑ってよ、魔王。ぼく君のツバキみたいな笑顔が好きなんだ」
「笑えませんよ……私がこんなに言っても、あなたはどうせ私が戦いたくないと言えば戦うのをやめるのです。だってこんなに言っても、勇者は私のことを受け入れようとしてくれる。どうしてもあなたは私を憎んでくれないのですね」
「そうだよ。辛そうな顔してる人のことを、ぼくは憎めない」
 巨大な黒点はすぐ目の前まで迫っていた。光をみんな歪めてしまうから、ぼくたちの姿までぼやけ始める。それでも魔王は最後の最後に笑おうとしたみたいで、無理やり口元を吊り上げようとして変な顔になった。
 そんなふうな顔するから、ぼくは――
 
 
 
 
 
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第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

MOSSTORY

   A1

「……ふう、暑い」

 じりじりと、どこからともなく太陽の日差しが降り注いでいた。灰色の地面からは、絶え間なく陽炎があがり、彼の目に映る景色はどことなく歪んでいて、ヴェールがかかっているようにはっきりしない。
 ついさっき、自然と彼の口からあんな言葉が出てきたくらいには、彼の額には大粒の汗が浮かんでいた。彼の言葉に反応する者はない。代わりに、悲鳴のような蝉の鳴き声が彼の背中にずっしり乗っかるだけであった。

 じゃり、じゃり、と彼の靴が小石と擦れる。規則的に繰り返されるその音は、徐々に乱れていき、遂には全く止んでしまった。

「これは……少し、まずいかな」

 彼の見る景色は既に明滅を繰り返していた。今までの長い道のりを、いったいどうやって歩いてきたのか、全く思い出せない。もう何度かの明滅で彼の意識は完全に奪われるだろう――まさにそのときであったのだ、丸眼鏡をかけた青年が彼に声をかけたのは。

「おや?」

 最初に丸眼鏡の青年が言った言葉は、この二文字のみであった。だが、彼が失いかけていた意識を引き戻すのには十分だった。景色の明滅がすぐに止んだこと、意識が引き戻されたばかりか気怠さも無くなったこと、これらを実感して初めて、彼は自分が暑さにやられていたわけではないと考えた。

「おや? 意識ははっきりとしておられるようで。大丈夫ですか?」

 青年は、彼が反応しないのをみると再三言葉をかける。彼は、青年に「大丈夫ですか」と五度目に言われたあたりで目線を青年と合わせた。

「おお、やっとこちらを見てくれましたね」

 ほっとしたような表情を浮かべた青年を見て、彼は少し違和感を覚えた。どこが、とは言えないが、その違和感は確かにある。彼は、再び考え込んでしまった。

「……あの、本当に大丈夫でしょうか?」

 青年が彼にまた声をかける。

「あ、はい……大丈夫です」

 考え事は止めずに返事をしたせいか、彼の声は少し弱々しく聞こえた。そこを見逃さなかった青年は、少し間をおいて彼に提案をした。

「あの、よければ店で休んでいきますか?」

 その青年の言葉に、彼は疑問を抱いた。ここに広がるのは灰色の地面ばかり。建物らしきものなど、ありはしないのに、と。

「ああ、いえ……大丈夫ですよ」

 何となく、彼は青年の申し出を断っていた。青年の言葉に疑問をもったのもそうだが、何よりも――。

「そうですか? ですが、あなたの足はもう限界のように見えますが」

 青年にそう言われて彼は自分の足を見る。確かに筋肉は張っているし、よく見ると微かに震えているのが分かった。これには彼自身が驚かざるを得なかった。自分はそんなにも長い間歩いていたのだったか、と。

「どうでしょう、少しであれば飲み物などもお出しできますよ」

 確かに、この日差しの中でこのまま歩き続けるのは危険であった。このまま行けば、自分は何もない場所で一人でひっそりと倒れているかもしれない――そう思った彼は、青年の言葉に甘えることにした。

「ありがとうございます、えーと……」
「ああ、私、こういう者です」

 そう言って丸眼鏡の青年は左の胸元に付けられた名札を指す。

「クラナッハさん、ですか」
「ええ、そうです。それでは、ご案内します」

 そう言ってクラナッハ氏は歩き出した。クラナッハ氏に続こうとした彼は、何気なくその場で振り向いた。そこには、地平線の向こう側まで、一本道が延々と続いていた。自分はどのようにしてこの道を歩き始めたのだろうかと、彼は思いを巡らせる。少なくとも、彼にこの道の歩き始めの頃の記憶はなく、せいぜい、途中で陽炎が景色に歪みをもたらしているのに気づいたところくらいから後、それだけだった。本当に、ここまでどうやって歩いてきたのか、彼は訳が分からなくなりつつあった。

 クラナッハ氏は、時折振り返り、彼がしっかりついてきているかを確認しながら店まで歩いていた。そうやって振り返ったクラナッハ氏の目と、彼の目が初めてばっちり合ったころ、店の建物が彼の前に現れた。

 その建物は立方体であり、地面と同じように灰色であった。だが、入口の上に掛けてあった看板は全体的にひどく苔むしていて、そのせいで燦々とした日差しの中にあるのにどこか暗い雰囲気であった。何か用事でもなければ、足早に立ち去ってしまいたい、そんな雰囲気が辺りに滲んでいる。

「どうかなさいましたか?」
「……いえ」

 店の入り口の前で不思議そうにしているクラナッハ氏を敢えて無視して、彼は店の中へと足を踏み入れた。
 店の中は、外観とは違い清潔感に溢れる調度品で整えられており、床は綺麗な木目が走っていて、全体としては静かで気品がある空気だった。それだけに、入口の上の苔むした看板だけが異様に浮いてしまっていると彼は思った。この齟齬が、妙に彼の背中だけを寒がらせた。

「ただいま、飲み物をお持ちしますね」
「……はい、ありがとうございます」

 それを飲んだら早く店を出よう、そう彼は思っていた。
 クラナッハ氏が店の奥へと引っ込んでしまい、飲み物を持って戻ってくるまで暇を持て余した彼は、店内の壁に掛けられたものを一つ一つ眺めていった。店に入った時にはただの調度品だと思っていたそれらは、茶色の棒、金属の棒など、様々な素材から造られた棒であった。中には直線的ではなく小さな曲がりや歪みがあるものもあった。その曲がりは、どうも意図されたもののようであり、彼は緻密な計算を感じずにはいられなかった。しかし、杖の専門店が、こんなところにあるものなのか、と彼は密かに思った。

「――何だ、興味でもあるのか? あんた、必要なさそうな体つきに見えるが」

 気が付くと、彼の隣には白い口髭を薄めに生やし、両目の目尻に深い皺のある老夫が立っていた。彼はその鋭い視線に、えも言われぬ圧を感じた。そのため、彼は細々とした声で返事をするのがやっとというところであった。

「最近じゃあ、着飾るためのものとしてこいつを使うやつもいるらしいな。俺としちゃあ、そんな理由で使い潰されるのは御免というところなんだがなあ……
「へえ、おしゃれで杖を持つ、ですか……より歩きづらくならないんですかね、それ」
「……ほう」

 彼としては、特に何かを考えたわけでもなく、ただ素直に思ったことを言っただけだったが、この老夫はその言葉に感心を示した。ただ、彼は老夫の短い呟きに気付かず、杖を眺め続けていただけだった。

「お待たせしました、麦茶を――あれ、ベッケラートさん、こちらでしたか」

 右手に透明な水飲みを持ったクラナッハ氏が、奥から戻ってきた。水飲みの中には、大きな氷が数個と麦茶が入っていた。クラナッハ氏に、ベッケラート氏は左手を挙げて応じた。

「おう、何やら客人が来ていたようだったからな」
「全く、大丈夫なんですか。特注の杖は?」
「阿呆、あれはお前が、明日まで、と言ったんだろうが。最悪ここにある出来合いのやつを調整すれば、それで終わりってもんよ」
「またそんなこと言って……」
「構わねえだろ。特注っつっても、所詮は賃貸しなんだから」
「それは、まあ、そうなんですけど……」

 クラナッハ氏は、そこまで言って口を噤んだ。ベッケラート氏は、勝ち誇るように笑顔を浮かべた。その空気が、彼には非常に不味く感じた。

「……大体なあ、お前は思考が硬すぎんだよ。表の看板だって、あの苔は店の歴史と共にむしてきたから、あれを綺麗にするのは店の歴史を取っ払うのと同じだとか言いやがって。うちは歴史を売りにした店じゃねえっつの」
「な、またそんな昔のことを……!」
「あの」

 たまらず彼は二人の会話を遮るように声を出す。この空気をいつまでも味わうのは御免だと思ったからだった。

「ここは、杖の賃貸しをしているんですか?」
「お、おう。ものにもよるが、安くて七日で銀札二枚、というところだ。特注とかになると、七日で金札五枚くらいはもらってるがな」
「な、なんで賃貸しなんか……」
「そりゃあんた、この土地では備えあれば憂いなしを徹底するべきだからだろう」

 さも当然、というようにベッケラート氏は言う。しかし彼にはてんで意味が理解できなかった。ベッケラート氏の横から顔を覗かせたクラナッハ氏が、補足するように説明してくれる。

「この店の通りを歩いている人は大抵、果てまで行って戻ってくることをするんですが、この暑さでは、杖なしで果てを回ってくるのは少々危険ですから。とはいえ、わざわざこのためだけに杖を購入するのも面倒だという人がいるのも事実なので、こういった商売をしているというわけです」
「おう。大体のやつは二十日ちょいで戻ってくるからな、一回貸すと銀札が五、六枚は入るってわけだ。おいしい商売だよ、本当に」
「果て、ですか……」

 彼は、その単語に聞き覚えがあった。というよりも、その単語を何故今まで忘れていたのだろうかとさえ思った。心臓は早鐘を打ち、全身の毛穴が熱くなる感覚に彼は襲われた。

「おや、私はてっきり、あなたも果てを目指されているものとばかり思っていましたが」
「というよりも、それが目的じゃないならあんた、何しにこんなところまで来たんだ?」

 クラナッハ氏とベッケラート氏が相次いで言ったせりふに、彼の心の中で何かが音を立てて融けていった。

「……私も、一つ借りていっても?」
「おう、出来合いでよければすぐにでも貸せるぜ!」

 そのとき、クラナッハ氏の小鼻が膨らんでいるのを彼は見逃した。


   B1

 その部屋の中では、刃が木を削る音が規則的に鳴っていた。その刃を操るのはベッケラート氏であった。次に削るべき箇所を素早く見つけ、そこを的確に刃で削っていく。その技は、まさに長年のものであり、他人が簡単に真似できるようなものではない。

 その、刃が木を削る音とは別――部屋の片隅から、何かを啜るような音も鳴っていた。ただしこちらは規則的に鳴っているわけではなく、気の赴くままに啜っている、というようであった。その音が聞こえてきて、ベッケラート氏は意識的に仏頂面を作った。ただし、それを見る者はこの部屋にはない。
 ベッケラート氏は木を削るのを止め、目線を手元から外し、少し大きく息を吸った。

「……あのよお」

 ベッケラート氏がそう言ってからしばらくして、やっと何かを啜るような音は止んだ。そして、ベッケラート氏に向かって声をかける者があった。

「あい? 何です、ベッケラートさん」

 その声の主は、クラナッハ氏であった。クラナッハ氏は部屋の片隅で胡坐をかきながら、ベッケラート氏の方へ目線を向けていた。ベッケラート氏は言いたいことが山ほどあったが、それらを全て飲み込んで、努めて冷静にクラナッハ氏と向き合う。

「昨日の、突然来て杖頼んでったやつ、何だっけ名前」
「ああ、えーっと……アルトマンさん、ですね」
「そうそう、そんな名前だったか」
「名前がどうかしたんですか?」
「何言ってんだ、杖に頭文字を彫り込むのに必要だろうが」
「ああ、そういう……」

 アルトマン、なら文字はAか。そう思いながら、ベッケラート氏は再び刃に力を込める。そして、さて掘ってやろうと気を張った瞬間、部屋の片隅から再び何かを啜るような音が鳴り始めた。いや、実際そこにいる者は何かを啜っているのだ。少なくとも、ベッケラート氏にはその確信があった。

「はあ…………あのよお」

 露骨に大きなため息を吐いてから、ベッケラート氏は再び同じ方向へ声をかける。ただし今度は、目線を手元の刃へ向けたままで。
 今度もやはり、しばらく音は止まなかった。秒数にして三十ほどは経っただろうか、そのころになってようやくベッケラート氏へ返事がなされる。

「……あの、今度は何です?」

 今度も答えたのはクラナッハ氏である。ただし今度は、その手に土埃で汚れた杖を持っていた。ところどころが濡れていて土埃のないその杖を見て、ベッケラート氏は再びため息を吐く。

「お前それ、いつまでやってんだ」
「仕方ないじゃないですかあ、今週の返却分が溜まってますし、何より最近一本一本に時間がかかるんですよお」

 恍惚とした表情をしながら語るクラナッハ氏に、ベッケラート氏は軽く恐怖した。その恐怖は全力で抑えたものの、クラナッハ氏はベッケラート氏の顔に小さく恐怖が浮かんだことを見逃さない。そして、そのことに殊更な感想を抱くこともない。

「……何だ、まだ終わってねえのか、今週分」

 ベッケラート氏は、さも何もなかったようにこう語るのがぎりぎりであった。

「ええ。造られてから時間が経った杖から取り出すのは、色々と時間がかかるんですよ。前に取り出しきれなかった人の分とかもあったりして、量が不定なので。ですから私としては、ベッケラートさんにそろそろ新しい杖を作って欲しいと願うばかりなのですがねえ」
「と、言ってもなあ。前も言ったように、賃貸しってことを考えりゃこうやって出来合いの調整でやっていくのが一番効率良いんだよ。お前もそれは知ってんだろ?」
「確かにい、杖を使いまわすようになってから収益が上がってるのは確かなのですがあ……」

 渋々といった様子でクラナッハ氏は言葉を途切れさせる。その際頬が赤らんでいるのを、ベッケラート氏は敢えて見なかったことにした。そして、目線を少しだけクラナッハ氏の方へ向けつつ口を開いた。

「それより、そこのやつら、早けりゃ明後日には再調整用に回しちまいたいんだが、いくつか取り出さずにそのまんまってのは駄目なのか?」

 ベッケラート氏が軽い口調でそう言った瞬間、クラナッハ氏の目の色が変わり、部屋の中の空気が変わった。ベッケラート氏の腕に鳥肌が立つ。

「まっさかあ! 私が、取り出しを、しない、ですってえ!? そんなこと、あるはずがない!」

 クラナッハ氏は、まるで睨み付けるようにベッケラート氏を見ていた。ベッケラート氏は、やはりこうなるか、と諦めた気持ちで目線を床に落とす。その間も、クラナッハ氏の弁舌は衰えることがなかった。

「これらの杖には、それを握った方々の、汗、涙、さらには記憶まで、まさにその方の歴史が詰まってしまっていると言っていい! それを取り出さずして、何が私と言えましょう! それをしないなど、私という個性の崩壊だ! それに何よりっ!」

 クラナッハ氏は目を見開き、それを丸ごとベッケラート氏へ向ける。ベッケラートは、その圧を全て背中で受け止めた。

「あなたがっ……造ったもの、なのですよっ……それをそのままに、なんてとてもっ……!」

 少し嗚咽を交えつつ、クラナッハ氏のせりふは終わった。ベッケラート氏は無表情のまま、刃を握る手に力を込めた。そして、勢いよく一回、木へと振り下ろす。それで、ベッケラート氏は、脳裏に浮かんでいた一つの情景を振り払ったのだった。クラナッハ氏の表情が一瞬だけひきつった。

「そうか。まあ、だとしても」

 努めて冷静に、ベッケラート氏は口を開いた、つもりだった。だが、その語りはこれまでよりも訥々としており、クラナッハ氏の表情が曇るには十分だった。

「お前、そのやり方だと、土埃まで一緒に吸ってるだろ。その辺、ほどほどに、しとけよ」
「おや。私を、心配してくださっているのですか?」
「まあそりゃあ、俺以外ではうちの唯一の従業員だからな、お前は」

 ベッケラート氏によるこの言葉を聞いたクラナッハ氏は、お世辞にも綺麗とは言えない笑みを浮かべた。その笑みをベッケラート氏が見ることはなかったが、それを見ていればベッケラート氏は、クラナッハ氏を店から追い出していたかもしれない。

「心配してくださるのであればあ、それこそ新しい杖を造って頂けるとお、土埃の累積が少なくなりますのでえ、とてもよいのですがあ……」
「それはしねえよ。さっきも言ったが、収益上げるんなら出来合いの調整で十分だ。こうしねえと、店が潰れちまう」
「……まあ、店が潰れるのは私も困るので……致し方ない、ですかねえ」

 そう言って、クラナッハ氏は自分の舌を手に持っていた杖に這わせる。最終的には、唇まで杖の土埃にくっついた。ここで、クラナッハ氏は大きく息を吸い込む。それに合わせ、ベッケラート氏も自分の作業に戻る。これをやっているときのクラナッハ氏の精神状態は少々不安定になるのが玉に瑕だなと、ベッケラート氏は思った。

 ――クラナッハ氏が小さく舌打ちをしたとき、ちょうどベッケラート氏が刃を振り下ろした。


   A2

 地面と靴とが擦れる音は、もう彼の耳には聞こえない。

 ふう、と彼は息を吐くも、それも吹き付ける風にかき消されてしまった。それどころか、彼――アルトマン氏の口の中にいくつかの砂粒が侵入してくる。その小さな侵入者を追い出してやろうと、アルトマン氏が口を僅かばかり開く度、今までの倍以上の砂粒を風が運んだ。そこでアルトマン氏は、既に口の中にある砂粒は飲み込んでしまうことに決め、上下の唇に力を込め、口を真一文字に結んだ。

 アルトマン氏は、砂嵐が渦を巻く、その中央部にいた。何も意図的にその位置を陣取ったわけではなく、目に映る景色の誘導に従って歩いていたらいつの間にかそんなところにいたのである。全く意地悪い、そうアルトマン氏は感じていた。これは果てへ向かうための試練か何かだろう、そう思うことにしていた。

 ――同時に、全く気味悪い、ともアルトマン氏は感じていた。

 さっきから、目に映るのはひたすら渦を巻き続ける砂嵐の一部のみである。ならば、耳で聞くのは、数万はあろうかという砂粒が風に巻きあげられる音、それのみであるべきだった。

 それにもかかわらずアルトマン氏は、やたらはっきりと金属どうしが打ち付けられるような音を聞いていた。そしてその度、アルトマン氏の右足、とくに膝の部分には力が入らなくなった。その度に倒れまいとして杖を握る手に力を込めていた。アルトマン氏は、ベッケラート氏の「備えあれば憂いなしを徹底すべき」という言葉を噛み締めていた。あの店に寄らずにここまで来てしまっていたら、きっと自分は早々に諦めなければなかっただろう、そんな思いが胸の中に渦巻いていた。
 アルトマン氏は、右手で握る杖を支えにして、左足を踏み出そうと試みた。こちらの足もうまく力が入れられるというわけではなかったが、それでも右膝の力の抜け方に比べればまだ良いと思われた。一歩分先の灰色の地面へ、アルトマン氏の左足が着地する。
 そのとき、アルトマン氏の背中に鈍い衝撃が襲い掛かった。

「うっ、ぐうぅっ……!」

 思わずアルトマン氏は呻き声をあげた。痛みを感じたわけではなかったが、それでもアルトマン氏の表情は醜く歪められた。今にも前かがみになって倒れ込みそうになったが、アルトマン氏は再び右手に握る杖に力を込める。杖の先が、少しだけ灰色の地面の中へ沈み込む。

「う、ったく……」

 誰に向けるでもなく、アルトマン氏はその場でため息を吐く。そのため息は、変わらず吹き続ける砂嵐に巻き込まれて消えてしまい、跡形も残らない。その事実に、アルトマン氏の喉元までため息が出かかったが、それは放たれる寸前のところで飲み込まれた。そのとき、喉の浅いところに残っていた砂粒も一緒にアルトマン氏の体内へと消えた。
 その砂粒が間もなく胃へ着こうかというころ、何を思うでもなく、アルトマン氏は目線を辺りに巡らせた。

「ん、んん……?」

 ――こんな小さな声などは、簡単に砂嵐の中でかき消えてしまうようなものなのだが、それはともかく。

 アルトマン氏は、その時自分の見た景色を疑った。
 ずっと向こうまで、遥か向こうまで、下手をしたらこの地全てまで、砂嵐で覆われてしまっているのではないか。そんな感覚がアルトマン氏にはあった。そして、あまりにも自然に生まれたその感覚にこそ、アルトマン氏は疑いを抱いたのだった。
 そんなはずはない、この地全てが砂嵐で覆われているなどあり得ない。現に、昨日この杖を受け取ったあの辺りは、砂嵐など微塵も吹いていなかったではないか。

「……?」

 そこまで思考を巡らせたアルトマン氏は、またも障害にぶつかった。
 杖を受け取ったのは、果たしてどこだったか。そもそも、この杖は買ったのだったか、それとも貰ったのだったか。いや、それよりもまず、何がどうなってこの杖を持つという流れになったのだったか。いや、それよりもまず、そんな場所へ一体どのようにして向かったのであったか。いや、それよりもまず――。

 アルトマン氏の思考は、延々と同じ場所を回っているようにも、はたまたあてどなく様々な場所を巡っているようだった。アルトマン氏だけが持っている記憶、経験、感情、それら全てが頭から抜け落ちてしまったようでさえあった。その感覚に、アルトマン氏は恐怖しか感じられなかった。もしかしたら、自分の全てがこの砂嵐に飲み込まれてどこかへ飛んで行ってしまうのではないかとさえ考えた。

「……ぐっ……」

 アルトマン氏は、力を込めた。
 前に踏み出されたままになっていた左足を支えの中心として、右手に握られた杖と、膝に力が入らない右足を動かそうとする。そこで初めて、アルトマン氏は砂粒が杖の全面にくっついているのを見た。
 別に、見たからと言って殊更思うことなど無かった。

 ――杖の持ち手を、アルトマン氏の顎から落ちた汗の雫が伝っている。


   B2

 その日、その音は突然店内に響き渡った。
 店先で長椅子に座りながら眠りに入りかけていたベッケラート氏の意識は、その音で勢いよく現実へ引き戻された。

「……ったく、何だってんだ?」

 音は、ベッケラート氏の店の奥から聞こえてくる。しかも、音はくぐもったように聞こえてくる。まるで、ものとものとをぶつけ合わせるような音。しばらく目を閉じて音を聞いていたベッケラート氏は、二度頷いてこう呟いた。

「……工房か」

 その場で大きく伸びをした後、ベッケラート氏は店の奥へと入っていった。商品となる杖が陳列されている場所を離れると、左右へ分岐して伸びる廊下がある。ここを左に曲がれば簡単な台所があるのだが、ベッケラート氏はそちらを見向きもせずに右の道を進んだ。
 右の道は長い一本道であり、その突き当たりに大きく古びた木の扉があった。ベッケラート氏がその扉の取っ手を回すと、やたら軋む音が鳴る。そろそろこの扉も壊れるかもしれないな、そんなことをベッケラート氏は考えていた。
 扉が開かれると、ベッケラート氏はその部屋の中を覗き込む。そこには、ベッケラート氏が思い描いていたとおりの人物が、椅子に座って刃を木材にあてがっているところだった。

「……その木材、どこから持ってきた?」
「……あ、え、はいっ!?」

 椅子に座っていた人物は、肩を大きく震わせて、勢いよく立ち上がった。その時、少しよろけてしまったのを見たベッケラート氏は、鳥肌が立つ思いだった。

「ちょっ、お前……刃物持ったまま転ぶとか止めてくれ、洒落にだってならない」
「あ、あはは……すみません……」
「ったく、笑いごとじゃねえって――クラナッハくんよお」
「は、はい……」

 椅子の前で立ち尽くす人物――クラナッハ氏の背中はその場で小さく丸まってしまう。その様子を見たベッケラート氏の心の中は、少々温かい思いで満たされた。
 さて、ベッケラート氏は、口ではクラナッハ氏と会話をしていたが、目線はクラナッハ氏の手元へと向けていた。そこには不格好にかつ不均等に角が削られている木材があった。さらによく見ると、木材の一方の端が徐々に細くなるように削られていた。それを見たベッケラート氏は、クラナッハ氏が行おうとしていたことにすぐに見当をつけた。

「お前……その手元にあるの、杖か?」

 特に遠慮するような素振りも見せず、ベッケラート氏はクラナッハ氏に尋ねる。その言葉を聞いたクラナッハ氏も、表情にこれといった動きも見せず答えた。

「ええ、まあ……分かりますか?」
「まあ、それに関しちゃ俺の方がずっと長くやってるからな。にしても、随分不格好だな。お前、それでも杖の店で働いてる男か?」
「ははあ、面目ないです……」

 そう言いながら、クラナッハ氏は自分の手元の木材を見る。確かに、店に陳列されている杖とは比べられないほど醜いな、とぼんやり思った。

「ったく……仕方ねえ、ちょっとなら教えてやる」

 自然と、ベッケラート氏の口からはそんな言葉が出ていた。その言葉を耳で認識したクラナッハ氏の表情は動揺にまみれた。

「え、えっと……よろしいんですか?」
「よろしいってか……俺が言いだしてんだ、駄目も何もないだろ」
「い、いや、そうですけど……そ、それに今日は、例の……えっと、アルトマンさん、が杖の返却に来るのではないですか?」
「馬鹿野郎、そん時はちょっと表に出て金の受け渡ししてくりゃいいだけだろ。それにな」

 ベッケラート氏は、クラナッハ氏の手から木材を取り上げ自分の目の近くに持っていき、しばらく眺めた。そして、その木材を掲げながら、顔だけをクラナッハ氏のもとへと近づけて、高笑うように語った。

「仮にも杖の専門店の店員が、こんなお粗末な杖しか造れないってことが知れたら大問題だ、うちの面子に関わるだろう。だから、最低限はできるようになってもらわないとな」
「は、はあ……」

 困惑の表情を浮かべながらも、クラナッハ氏はベッケラート氏の提案を頷きで了承する。よしきた、とベッケラート氏は手に持っていた木材をその場で回しながらあちこちを指差しつつ、クラナッハ氏に陽気に語る。

「お前、こりゃあ一体何の木だ?」
「えっと、クエルカスの木ですけど」
「そりゃまたお前、随分と杖の加工に向かないものを選んだな……。そもそもなあ、お前、刃で削るときの力加減がばらばらなんだよ。まずはそこからだな。もうちょいでいいから、同じくらいの力加減で削れるようになれ」
「あ、はい!」

 クラナッハ氏はベッケラート氏から木材を受け取り、それを机に置いて再び刃を振り下ろす。一回刃が木を削る度、クラナッハ氏の隣からもう少し弱く、とかもっと強くていい、とかよく見て削れ、とか助言が飛んでくる。そういった言葉が飛んでくる度、クラナッハ氏は胸に明かりが灯るような気分に浸っていた。
 そうして何度か刃を振り下ろしたとき、ベッケラート氏は突然無言になった。それでも構わずクラナッハ氏は刃を何度も振り下ろしていたのだが、やがてその作業を止めてベッケラート氏の方を向いた。そこには、クラナッハ氏が削っている木材から微塵も目線を動かさないベッケラート氏がいた。

「お前、どうして突然こんなことを?」

 クラナッハ氏にとっては、そのベッケラート氏の発言こそが突然であった。クラナッハ氏は努めて冷静に言葉を受け止め、そして返事をする。

「こんなこと、と言いますと?」
「お前、今まではせいぜい、作業してる俺のことを眺めてるくらいだったろ。それがどうして、自分で造るなんてことになったんだ?」

 ベッケラート氏のその言葉に、クラナッハ氏はすぐに返事をすることができなかった。言葉が浮かばなかったわけではない。ただ、それを言ってしまっていいものか、一瞬迷っただけだった。

「――悔し、かったので」
「……何だって?」

 ベッケラート氏は、思わずクラナッハ氏に問い返していた。言葉自体は聞こえていたが、その真意を全くと言っていいほど理解できなかったのだ。

「悔し、かったので!」

 その意を汲んだのか、クラナッハ氏はさっきよりも大きな音量で同じ言葉を繰り返した。

「く、悔しいって……」

 二度聞いても、やはりベッケラート氏はその言葉の真意が分からなかった。そのことを知ってか知らずか、クラナッハ氏は勢いのままに言葉を続けた。

「悔しかったんです。ベッケラートさんは、杖を造る技術に関しては最高だ、この世界で一番だと言ってもいい。そんなあなたが杖を新しく造らなくなってから、既存のものを加工するだけになってから、いったいどれだけが経ちましたか。私はもう、そのことがもう、とても――」

 それ以上、クラナッハ氏の言葉は続かなかったが、大きく一度息を吐いた。ベッケラート氏は、何か言うようなことはしなかった。それはお互いが、まだ続きがあることを理解していたからだ。

「でも、今日分かりました。あなたは、まだ杖を造ることに対する情熱を持ってる! ならばあなたは、造るべきだ! その手で、この世界の人のために、新しく!」
「やらねえ」

 ベッケラート氏は、敢えて短い言葉を使ってクラナッハ氏の言葉へ返した。軽く、クラナッハ氏の目が見開かれる。それは、驚きとも違う何かゆえだった。

「俺は、やらねえ。前にも言ったが、これは店のためだからな。それに、お前は俺をこの世界で一番だとか言いやがるが、そんなもんで一番になったって、俺には別に――」

 そこまで言って、ベッケラート氏は言葉を詰まらせた。別に何ということはなく、店の入り口の方から声がしたからだった。それは、二十四日前に杖を借りて果てへと向かった、アルトマン氏の声だった。ベッケラート氏はこれ幸いとばかりに体の向きを工房の入口へと向けた。

「お、ほら、客が来たな。じゃあ、俺は――」
「本当に、今後ずっと造らないおつもりですか」

 普段の声よりもずっと低い声が、クラナッハ氏の喉から出てきて、ベッケラート氏は少し面食らった。クラナッハ氏の下ろされている右手に刃が握られたままだったのも影響しただろう。だが、それでもベッケラート氏は自分の意志を刻みつけるように声を出す

「ああ。心変わりがあったとしたら、それは本当によっぽどのことがあったんだなと思ってくれていいぞ

 そう言って、ベッケラート氏は工房を出ようとした。だが、足を動かそうとする前に、本能的にその場に留まろうとする思いが生まれた。要するに、その場から動けなかった。ベッケラート氏の背後で、靴の底と床が擦れる音がしたからだ。そういえば、クラナッハ氏は刃を握ったままだったなとベッケラート氏は思った
 ひとつ、またひとつ、クラナッハ氏の体が近づいてくるのが分かり、ベッケラート氏の体に無駄な力が入った。すぐ後ろまで来た瞬間、クラナッハ氏はその場に座り込む。ほんの小さな風がその場に起こった。

「では、あなた自身の足の代わりとするため、というのはよっぽどの理由に当たりますか?」


   C1

 たったひとつ、欲しいものがあったんだ。

 だが、そいつは俺には簡単に手に入れられるものじゃなかったんだ。
 しかも、そいつは形あるものってやつじゃなかった。どちらかといえば、物理よりも精神に近いものだったわけさ。もちろん、完全に「こころ」ってわけじゃなかったが。

 なあ、そんなとき、普通ならどうするんだろうな?

 何年も何年も、時間をひたすら無為に浪費してくることしかしてこなかったような奴が、やっと見つけた欲しいものを、どうしても手に入れようっていうとき、普通ならどうするんだ。俺は、どうすればよかったんだろうな?
 俺には、何一つ方法が思いつかなかった。いや、いくつかやりようは無いわけじゃねえってことには気づいちゃいたが、その実現性は限りなくゼロに近くてね。泣く泣く諦めたもんさ。

 そんなわけだったから、俺はそいつを全て手に入れることを諦め、一部でも手に入れる方向へと舵をきったんだよ。それなら、いくらでもやれたからな。

 あの人は、ずっと杖をつくっていた。どこからともなく木やら金属やらを持ってきて、丹精込めて一つの杖をつくるのに最低でも七日はかけていた。もちろんそれが仕事だからってのもあるが、半分は趣味でやってただろうなあ、あの人。完成した杖に向き合うときの表情がめちゃくちゃにこにこだったから。思い出すと俺まで笑いそうになるな、へへ。

 そんで、工房でつくられたそいつを店に陳列するのが俺の主だった仕事だったわけなんだが。これが、どういうことか分かるかな。あるいは、あんたなら違和感くらいはもつかな?

 あんたも分かるだろ、つまり、あの人は昔はそれだけ毎日毎日工房に篭もって杖をつくることに没頭していたのさ。それこそ、陳列作業を俺が仕事にしなきゃならないほど、な。

 ――違和感しかねえ、そう言いたげな顔をしてるな。

 そうだ、違和感しかねえはずさ。あんたが知ってるあの人は、新規の注文が入っても、出来合いのやつをちょちょいっと削っただけで作業を終わらせて、それをさも新しくつくったものみたいに客に渡すような男だろうからな。それこそ、あんたがされたように。その頃のあの人にはもう、昔にあったような熱意、いわゆる「魂」ってやつは無くなってた、少なくとも俺の目にはそう見えたよ。

 だが俺はある日、ふと思い至ったわけよ。あの人はまだ、心の奥底に熱意を持ってる。それを、他人のために使うことができなくなっちまったんじゃないかって。

 ――だったら、その熱意を自分のために使える状況を作ってやればいいと思わないか?

 だから俺は、あの人の足を奪うことにした。それなら、あの人は自分のために杖を造らざるを得ない。俺のもとに、あの人がつくった杖がまたやってくるって寸法よ。
 どうした、変な顔をして。
 それじゃあ、あの人が杖をつくっても笑顔にはならない、だって?

 ――なあ、あんた、何か誤解してないか。

 俺はな、人の歴史を取り込むのが好きなんだ。そいつの中で苔がむすように蓄えられていくそいつ自身の歴史を、俺の中に取り込んで俺の一部とする、それが堪らねえのよ。媒体は何でもいいが、特に、血とか努力した後の汗とか涙とかそういう、そいつのそれまでの歴史が詰まってるものは、特にいい。

 杖ってのは、そういう面では最高の媒体だった。あれは、そいつが歩くために力いっぱい握りしめるもんだ。そうして、その手から、そいつの記憶、汗、等々、そいつ自身の歴史が杖にしみこんでいくわけよ。特に、果てを吹いてる砂嵐には記憶を抜き取るみたいな効果があるらしくてね。あそこを歩いてきたやつが返却する杖に染みてる歴史は上質だったよ。

 だが、それはあくまで上質ってだけだ。旨く感じるかは別問題でね。

 その点でいえば、昔のあの人は最上級ってもんだった。あの人が丹精込めてつくった杖には、そのときまでのあの人の全てがたっぷり染み着いていたと言っていい。その杖からはこの上なく旨い、あの人についての歴史を吸えたんだよ。俺は、それが何よりもよかった。俺は、あの人の全てを取り込むのを諦める代わりに、あの人のつくる杖からあの人の歴史を取り込むことにしたのさ。
 そしたらなあ……いつからかあの人は新しく杖をつくらなくなった。おかげで俺は腹が減りまくりで、最近といえばあの人以外の、店に返ってきた杖から、さして旨くもない人の歴史を吸い続ける羽目になっちまった。だがまあ、今回のことで、あの人は自分自身のために杖をつくらなきゃいけなくなるはずだ。それを使って、俺の腹はまた満たされるってわけだな。ああ全く、今から待ち遠しいよ。

 ――なあ。

 あんたは、どう思うよ。
 もっと、スマートで賢いやり方が……あったと思うかい?
 ああ、この趣味に批判はしてくれるなよ、このこと自体はあの人も知ってることで、杖を貸したやつのもんを取り込むことくらいならあの人の目の前でやったことだってあるんだ。だから、そうじゃなくてよお。

 あの人に直接手出しするんじゃなかったら、一体どんなやり方が、俺には残されていたんだと思う?
 そう首を振るなよ。あんたにだって、これからたっぷり時間はあるんだ。俺のことを迷える子羊だとでも思って、助けると思って、知恵を出してくれよ。

 ――俺?

 そうだな……俺はその間、この、あんたが持ってきてくれた――もとい、返却してくた杖から、あんたの歴史を吸いだしておくとするよ。こういうもんは、鮮度がいい内に取り出しておくに限るからな。ほかにも、今週分でまだ終わってねえのもあるんだ、それもやっちまうさ。
 だから、その間にでも、考えておいてくれよ。俺に、他に何ができたのか。

 ――なあ、アルトマンさん。

 今の話は、俺の中でも、若気の至りが過ぎた、そんな昔の話って笑いたいからさ。


   B‐1

 ベッケラート氏がその場で見上げていたのは、自分の店の看板だった。

「んー……どうしたもんかな、こりゃ」

 意味もなく、ベッケラート氏の口から呟かれた言葉は、果てから吹き抜けてくる風に乗って跡形もなく消え去ってしまう。その様子に思わずため息を漏らしながら、ベッケラート氏は再び自分の店の看板を見上げた。

 そこにあったのは、横長の長方形の下半分がうっすらと苔むしている看板だった。建物自体は汚れ一つない灰色なのだが、この看板にある少しの苔のせいで、店全体の佇まいが少し暗いようにベッケラート氏には見えた。もう少し明るく見せるために、看板を取り替えるか、せめて苔を取り払う掃除くらいはするべきか、ベッケラート氏はそう考えていた。だが――。

「おや、先生! 来ていらしたんですね!」

 店の中から、元気な声が聞こえてきた。数日前からベッケラート氏が店で雇っている店員で、確か名前は――。

「お、おお……おはよう、えーっと、クラッツェンくん、だっけ?
「違いますよ、クラナッハです、クラナッハ」

 そう、クラナッハ氏だった。一年前、ベッケラート氏の店で杖を借りていき、返しに来たと同時に「店で雇ってくれ」と言ってきた強烈なやつ、というようにベッケラート氏は記憶していた。ベッケラート氏のことを見る度に「先生」と声をかけてくるのだが、その度ベッケラート氏の背中にはむずがゆさが走っていた。

「ところで、何を見ているんです、先生」
「ん、ああ……いや、看板がさあ、苔が生えてて」
「コケ、ですか……?」
「ああ、植物のやつね。ほれ」

 ベッケラート氏に指し示され、クラナッハ氏も看板を見上げた。「あー……」と、彼の口からも言葉が出てくる。その言葉も、果てから来る風に乗せられかき消えた。

「この看板、取り替えてしまおうかなあ……」

 そうベッケラート氏が口を開いた瞬間、クラナッハ氏が勢いよく首を回し、二人の目が合わせられる。クラナッハ氏の目は、軽く見開かれていた。

「先生、そんなことおっしゃらないでください。この看板はこの店の歴史の象徴のようなものですよ。この苔だって、この店の歴史と共にあったはずです。それを取り払うのは、この店の歴史を取り払うのと同じことです。それでは、先生が杖を造ってきたという歴史が、失われてしまうのですよ!?」

「お、おう……分かった分かった、分かったからさらに何か言おうとすんじゃねえ」
「……申し訳ありません、出過ぎた口を」
「いや、別にいいんだが……俺が杖を造ってきた歴史、ねえ……」

 ベッケラート氏にとっては、別にそんなもん、という程度のものであった。だが、この人にとってはそれがよほど大事なものらしい。自分が杖を造る、それがどれほど価値があるというのか、それよりももっと別の――。

「そういえば、今日はダールマイアー博士の予約日ですよね」
「お、おう、そうだったな。ちゃんと完成してるぜ、ほれ」

 クラナッハ氏の方から話題を変えてきたので、ベッケラート氏はとりあえずそれに乗ることにする。彼の胸の中ではしこりが少し残っていたが、ベッケラート氏はとりあえずそれを無視することにした。

「お、おお……これは、新作で……?」
「もちろんさ。特に、あの博士は足の長さがあんま長くないうえに膝をやってるからな。ほかの人にもまして、専用のものを造ってやらねえとって気になるだろ」

 そう笑顔で語ったベッケラート氏を、クラナッハ氏は輝いた目で見つめていた。その目線が絶妙に心地よくて、ベッケラート氏は思わず身震いをしそうになった。

「んじゃ、そいつの料金の見積もりは任せるぜ。材料はファーガスの木だ、それでよろしく」
「あ、はい! お任せください! では!」

 元気のよい声で返事をしたクラナッハ氏は、たった今手渡されたばかりの杖を手に店の奥へと駆け足で入っていった。別にそんな急がなくても、とベッケラート氏は思ったが、それを言葉にするようなことはしなかった。

 店先に置いてある長椅子に腰かける。ふう、とひとつ息を吐くも、それは風に乗って飛んでいった。どうも最近は、果てから吹いてくる風が弱まってきている、という話も聞く。最終的には果ての付近だけで風が吹くようになって、この辺は穏やかになってくれるというのが理想的だなあ、とベッケラート氏は物思いに耽った。

「あ、あのう……」

 しばらくベッケラート氏が椅子に腰かけたまま呆けていると、彼に声をかける者があった。一度目、彼はその声に全く気付かなかった。

「あ、あのう……」
「……うあ!? は、はい! すみません!」

 二度目、全く同じ言葉をかけられて、ベッケラート氏は勢いよく反応した。慌てて目の前に意識をもっていくと、そこには背中が曲がった爺の姿があった。

「い、いえ……お疲れなのでしょう、構いません……それより今日、杖を予約していたダールマイアーですが……」
「ああ、はい、ありがとうございます。少々お待ちください」

 そう言って、ベッケラート氏は首だけを回し店の中を見回す。そこには誰もいなかった。

「あれ、おかしいな……申し訳ありません、店内の椅子にかけてお待ちください」
「あ、はい……」

 まだ見積もりが終わらない、そんなはずはない。いつもなら、ものの五分あれば終わらせるのに、今日はどうしたんだ。そんな思いが、ベッケラート氏の胸の中を巡っていた。

 店の奥へと入り、廊下の突き当りを右へ折れる。そこをずっと進むと、彼の杖の工房があった。料金の計算のための資料はここに置いてあるので、ここにいるはずだろうと当たりをつけていた。
 扉に手を伸ばしかけたベッケラート氏は、暫しそのまま固まってしまった。工房の中から、おかしな音が聞こえてきたからだ。何かを啜るような、舐めつけるような、そんな音。

 彼は扉に耳を当てた。中から小さく声も聞こえてくる。紛れもない、クラナッハ氏のものだ。

「……旨い……やはり、先生が新しく造った杖はいいなあ……」

 ――俺が新しく造った杖は、いい。

 ベッケラート氏の心の中では、その言葉が渦を巻いていた。次々と言葉が浮かんでは消える。早く彼に声をかけて、杖を博士に渡さなくてはならないのに。
 ベッケラート氏の目には、僅かに涙が浮かんでいた。クラナッハ氏の語る言葉を聞いて初めて、彼の思いは輪郭を持った形となったのだった。

 ああ、そうか。やはり彼が見ていたのは俺の杖なのか、彼が見ているのは俺ではなく、俺が作って、俺から離れた、杖なのか。こうして俺が杖を造ってあいつに渡す度、あいつの注目は俺から俺のつくったものへと移っていくのか。なら、いっそのこともう――。

 店の奥には窓も冷房などもなく、だからここでは暑い空気がこもりやすい。だからというわけではないだろうが、ベッケラート氏の額には汗があった。それが流れ落ちて、目に浮かんだ涙と混じりあって頬を下り、最後には顎から床へと落ちていく。彼の目に映る景色はどことなく歪んでいて、ヴェールがかかっているようにはっきりしなかった。

「……ふう、暑い」

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

美しき人のためのトロイメライ

 ※一部グロテスクな内容が含まれます。

 この音を、知っている。
 唸るような、地の底まで震わせるような音。その轟音は、重たい匂いをまとっていくつも飛んでくる。のろのろと通り過ぎながら、下にいる人々の口をふっと噤ませる。あれの下では、世界が急速に陰るのだ。陰鬱な圧に押し付けられて、心はぐったりと地に伏してしまう。それらが完全に過ぎ去っても、周りの音は暫くの間死んだままだ。それが近づく度、私の内側は空っぽになる。音が死ぬからだ。きっと音が永遠に死んだら、私は永遠になくなってしまうのだろう。永遠というものがあるなら。
 暫く飛んでくることのなかったそれが、また最近飛んでくるようになった。ほんの十日程のことだ。前にあれが飛んでいたのはもう何十年も前のことで、あの頃は私に触れてくれる人がいた。それからあの人は出て行って、あの人の家族が出て行って、そうして私だけがこの部屋に残された。
 この重たい匂いは、大きな大きな鈍色の雨になって降り注ぎ、大地に落ちて燃え上がる。とにかくひどい音がするのだ。巨大な拳が地面を殴るような爆音。そして眩い光とともに炎をばらまく。前に降った時は、窓の向こうに見えていた街が丸ごとひとつ焼け落ちた。私はそれを見ていた。街は、この辺りでも一番多くの人々が住んでいて、一番沢山の家が集まっているところだった。だからあの雨が降ったのだろう。焼けた街では沢山の人々が死んだ。誰かがそれを望んだのだ。あの頃の人々は、死ぬことと殺すことで頭がいっぱいだった。

 ……今もそうだろうか?

 より多くを殺し、なるべく死なない。少なくともあの頃の人々の頭には、それしかなかった。そんな話をしているのを、何度も何度も聞いた。その度にあの人はそっとこの部屋へ入ってきて、私を見て困ったように笑った。すとんと目の前の椅子に腰掛け、私の蓋を開け、クロスを退ける。そして楽譜も置かずに私に触れて、水の流れるような滑らかさでメロディーを紡ぎ出す。その一部はレクイエムで、他のほとんどはノクターンだった。
 あの人の紡ぐ調べは、死んだ音を包みこんでゆったりとあやすかのようだった。調べに導かれるように世界はふっと息をつく。あの人のために音を出している間、私は氷柱を透かして差し込む光のような響きに満たされた。それはきっと人々がいのちと呼ぶものの一面で、あの人が私に触れるときだけ、確かに私の中にあった。
 レクイエムは死を悼むもので、ノクターンは夜を表現するものだ。私はそう知っている。あの人の弾く曲はどれも、レクイエムでもありノクターンでもあった。漆黒の空を見上げて、遠い昔に失われたもののことを想うような、静けさの中にちかりと光る寂しさ。届かぬものでありながら確かに繋がっている誰かへの憐れみと愛しさ。あの人はいつも、淡く笑みを浮かべてそれらの曲を弾いた。その度に私は、私を満たすいのちに酔いながら、どの死者に捧げるレクイエムなのだろう、どの夜に捧げるノクターンなのだろうと思いを馳せた。
 死者も夜も、毎日私のそばにあった。
 窓の外にはいつも、淡く光をまとったいのちが空へと昇っていくのが見えていたのだ。大きなものも、小さなものもあった。色も、形も違っていたけれど、一様に粉砂糖のような光をまとっていた。それらが空へ昇っていく様子は美しかった。あの頃はまだ、それ以外の感覚は浮かんでこなかった。私は美しい音を生み出すために人に生み出されて、美しいもの以外を受け取る力を持っていなかったのだ。あの頃はまだ。あの人がそれを教えてくれる、ずっと前だったから。

 世の中というのは全体にあまり美しくはないのだと、あの人はいつだか言った。

 ――人の手で人が死ぬ世界なんて全く美しくない。困ったものじゃないか。私は美しいものに囲まれていたいだけなのに、どうしてかな。世の中の方がどんどん汚れていくんだ。誰も望んだわけじゃないだろうに、そうなってしまう。……本当に、どうしてかな。

 あの人の悲しみは美しかった。
 あの美しい人が悲しみの中に、美しくない世界の中に息をしていることが私は悲しかった。悲しくて、そして、とても美しいと思った。闇の中に浮かぶ星の美しいように、人が人を殺める世界で、透き通った音楽を持つあの人が生きていたから。私に触れて、いのちを与えるから。いのちもまた美しいものだったから。
 けれど。
 もっと美しいものは、あの人と繋がった時に初めて、分かった。

    *    *    *    *

 私とあの人が初めて繋がった日、夜明け前から霧雨が降り出していた。
 朝早くに訪ねてきた人がいて、話を聞きながらあの人の祖母と妹が泣いていた。私はその声がレクイエムの響きを持っていること以外、何も分からなかった。あの人の祖父はじっと押し黙っていて、気の遠くなるような時間の果てに何か唸るような言葉を発するまで、何一つ物音を立てなかった。その声は抑え込まれていて平板だった。それからあの人と妹は出かけていき、祖父母は暖炉の傍でじっとしていた。
 夕方になると雨はさらさらと音を立てるようになった。あの人が震える声で祖父母を呼びに来て、みんなで出て行った。夜中になって帰ってきた三人は一言も話さなかった。三人の沈黙は、空の轟音に殺された音と同じ沈黙だった。屋根に跳ね返る雨粒はぱちぱちと音を立てて沈黙を埋めようとしていた。
 帰って暫くしてから、あの人が妹の部屋へ入っていく足音がして、それからあの人は真新しい楽譜を持って私のところへ来た。表情の消え失せた平らな顔をして。あの人が楽譜を持ってくるのは初めてだった。

 あの人はゆっくりと、実にゆっくりと、一音一音を噛み締めるように弾いた。
 楽譜に閉じ込められていたそれは、ノクターンでもレクイエムでもない、私の知るどの曲でもない旋律だった。押さえつけられたように静かで、凍えそうな色をしていた。雨は降り続いていた。私の鍵盤は湿気を含んで重たく、そのせいもあってか、あの人の演奏は明らかに遅すぎるものだった。けれど、雨音とその曲はとてもよく溶け合った。水の雨の降る日は、鈍色の雨が降ることはない。どんなにゆっくり弾いたところで、曲が途中で壊される心配はない。

 そうしてゆっくりとその曲を弾きながら、あの人は急に顔をしかめて、耐え切れなかったというようにほろりと涙を零した。その雫が私の鍵盤の上に触れた瞬間、あの人の思いが曲に乗ってゆらりと立ち上がるのを、私は見た。

 今でも忘れない、初めて感じたあの人の思い。

 あの人は、大切な人をふたり失った。ひとりは友で、もうひとりは妹だった。ふたりの恋をあの人は言祝いだのだ。互いの家族も笑顔でそれを認めていた。
 だというのに。
 結婚式を挙げぬまま、友のもとへあの紙が来た。友は戦場へ向かった。そして冷え切った塹壕の中、腐った傷の痛みに呻きながら死んでいった。戦線は後退し、友の横たわる塹壕は放棄され、亡骸は手の届かない所に置き去られた。辛うじて持ち帰られたのは、首から下げていた小さな鉛のプレートだけで。
 それを首にかけた妹は、裏手のリンデンの枝に首を吊って死んだ。愛しい人を失った悲しみを抱いて、頬に涙の筋ひとつ残さずに。
 そしてあの人は、そのどちらの悲しみも分かりはしなかった。ふたりが死んで去って、やっとあの人はそれに気付いた。あの人への誕生日プレゼントにと妹が部屋に隠していた、雪のような曲を弾きながら……。

 私はあの人と一緒になって泣いた。泣くということが分かったからだ。そして私も泣いた方が、旋律が美しくなると思った。声を殺して泣く私たちの音は、透き通るような美しい夢になった。音が溶け合って、淡く像を結んでいく。
 弾痕の穿たれた焼け跡の街に、純白の雪が降り積もっていった。
 流れた血も、腐りゆくのみの亡骸も、抜け殻になった家も砕け散った硝子も、一面に散乱する空の薬莢も、全てが、雪に埋められていく。墓穴の中の体に土の降りかかるように、ゆっくりと、少しずつ。それでいて確かに。きっとそれは清かった。人の手には築くことのできない、透き通るように清い世界だった。
 私は、あの人の抱いている雪の世界を愛した。例え世の中というものを生きていくのに不要な、余計なものであっても。街が焼け、人が死んでいく、その間に息をする人にとっては毒のようなものであったとしても。

 私の中に残された夢は、氷の結晶のように瞬いていた。その煌めきが、そのひとしずくが、私に人というものの何たるかを教えてくれた。思いを与えた。美しくないものを慈しむというあり方を示した。私はいのちを得たのだ。人に生み出された存在としての、いのちを持つ私を、私は祝福した。私にいのちが、思いがあるのなら、あの人の思いとひとつになれる。そうして紡いでいく世界は、より一層美しさを増していく。
 私とあの人とは、そうしていくつもの世界を描いていった。

 ひと月ほどの後、雪の世界を途中で絶って、あの人は部屋を出ていった。
 丁寧にクロスをかけ直して、蓋を閉めて、楽譜を私の上に置いた。名残惜しそうに、あの人は私の鍵盤を端から端までなぞった。それが最後だった。あの人のもとにも、紙が来たのだ。あの人は戦場へ行った。人を殺すために。

 あれ以来、私に触れた人はいない。

    *    *    *    *

 使われない私は死んでいるのと同じだ。レクイエムも、ノクターンも、あの雪の旋律も響かない。開かれたままの楽譜の上には、薄く埃が積もっている。誰もいない。私だけがここで過去の夢に浸り、時折ほろんと、ひとつきりの音を立てる。だが、それだけだ。私だけでは、小節どころか、和音のひとつさえ生み出すことはできない。
 あの人はそのことをよく知っていた。
 私が音を立てる度、呪われたピアノだという声が聞こえた。あの人はそれを聞いて笑った。あれはただ、弾いてほしいだけなんだよ。僕が恋しいんだ。正しかったのはあの人の言葉だ。ピアノの声を聞く狂人だとあの人は言われた。この世にあれ以上のピアニストはいない、あれほど美しい夢を見せるピアニストはいない、とも。

 ……ほろん。

 ああ。また鳴った。
 あの人以上のピアニストはいない。そのことを思い出す度、どこか深い奥底から震えが沸き上がってくる。その震えは私の中に満ち、弦に伝わったそれが、音となってほろんと鳴る。それは決まってあの雪の曲の、最初の一音だった。黒鍵の、角のない、それでいて凛とした響き。深く冴え渡った湖に、ひとつの雫が落ちるような音。降り始めの、錯覚かと思うほど細かな雪のひとひらにも似ている。淡い風に揺れ、煌きながら軽やかに。ゆっくり。ひとつ、またひとつ。白とも灰色ともつかない空から降りてくる。そのひとひら。
 本当に雪が降る日、私の体は重くなってしまう。重い体は弾きづらい。そういう日には音まで重くなってしまってよくないのだ。よく晴れた日に軽い音で響かせる、その方がこの曲に似合う。調べの中だけに浮かび上がる、冷たく静かな雪景色。あたたかな日だまりの中、淡い物悲しさを帯びた旋律に浸るのは素晴らしい心地だった。
 それも、あの人が私に触れたからできたことだった。

 あの人は私に蓋をして去って、それきり戻ってこない。戦場に行った。それからきっと、世の中に帰っていったのだ。沢山殺すこととなるべく死なないこととに満たされた、美しくない世界へ。私と紡いだ夢に蓋をして、苦しみを覆い隠して、鍵盤ではなく引き金に指を掛ける世界へ出ていった。あの人が帰ってこないのは、ふたつにひとつだ。殺されたか、或いは生きているか。生きることを忘れたか、生きることに必要でない夢を忘れたか。
 それでもあの人を待っている。
 あの人には必要でなくなったとしても。それでも、私にはあの人が必要だった。美しい音楽のない世界では、私は錆び付いて朽ちてしまう。夢に酔う力を失って、世界の一部になり下がる。

 唸りのような、重たい羽音と匂いが近づいていた。
 まただ。また、ひどい音がする。

 その感覚に、現実の世界に引きずり出される。私は体を固くした。今度こそ、私もこの家も鈍色の雨を浴びるかもしれない。夢にも似た、かたちのない思いが私を軋ませる。じっとその瞬間を待っていると、それは耐え難い大きさと強さで他の音を根こそぎ殺してしまった。重たい匂い。炎の予感。ひどく長い数秒の後で、来た方とは反対へ遠ざかっていった。轟音は少しずつ細く、それから暫くして、少しずつ周りの音が戻ってくる。私は少し、ほんの少しだけ緩む。
 鈍色の雨は降らなかった。
 きっとその代わりに、また別の街が同じように焼かれるのだろう。
 前の時も、私の街は焼けなかった。それを知っていたから、あの人はここへ来たのだった。隠れ家なのだ。あの人が死なないために逃げてきた隠れ家。あの人のいのちを守る場所。
 そこに私はある。

    *    *    *    *

 別の唸りが、軋むような音とともに近づいてきた。
 さっきの音よりもずっとずっと低い位置を、がたがたと揺れながら近づいて来る。あの人がここを去る前にも同じ音がした。人は、長い道のりを移っていく時に似た様な音を立てる。車輪の音だ。それは規則正しく、格別美しいというわけではないがよい響きを含んでいた。純朴な音。本当は私にも車輪が付いている。ただ、使われた記憶はない。私は僅かな距離ですら、移ることはないからだ。
 車輪の音は近くで止まった。色々な音が一斉に起こって、その、長いざわめきの後で。

 がちゃりと、鍵の回る音がした。

 それが本当に鍵の回る音なのか、すぐには確信が持てなかった。けれどそこに、扉の開く音が続く。かつて毎日聞いたそれよりも、少しざらついた音。扉の方もきっと、開けられ方を忘れていたのだろう。そう思うようなぎこちない音だった。
 やっと私は理解した。玄関が開いたのだ。
 私の中には、春風の匂いのようなものがさっと広がった。湿った、あたたかなものの予感。変化の匂い。何か、今までになかったことが起こる。それが好ましいものかどうかは、まだはっきりとはしなかった。
 玄関の方から硬い靴音の間に、葉擦れのような、それよりもっと低い音がする。それが何であるかに思い当たると、私はぴんと張り詰めた。

 人の声。

 私の部屋の扉が身を震わせて、隙間から這い込んだ空気は嗅いだこともない匂いをしていた。私はこの匂いを知らない。知らないが、それはきっと、あの鈍色の雨に晒された街と同じ匂いなのだと思った。火薬と、煙と、血と。腐った傷口と、計り知れない苦しみと。その夢だけで、私の中の全ての弦が断ち切れてしまいそうな気にさせられた。私の全体がその匂いがもたらすものの前に燃え上がって、ひとつ残らず灰になって、何もかも失われてしまうかもしれない。
 匂いは、少しずつ近づいてくる。誰か、人の纏っている匂いなのだ。私はより一層張り詰めた。音を奏でることとは無縁の人間に違いない。だとしたら、私はどんな扱いを受けるか分からない。本当にこの弦が断たれ、体は灰に帰されるかもしれない。
 その時私はどうなるのだろう。人のようにどこかへ昇っていくのだろうか。あの粉砂糖のような光をまとって。もしそうなったなら昇った先で、私と旋律とその夢とは、美しいままで存在しうるのだろうか……?

 私の前の扉が開いた。途端に、匂いはむっとその濃度を増した。

 あまりの強さに私は、全てを閉ざしてしまいたくなった。それは、扉を開けた人の着ているものから立ち上っていた。枯れ草色の服。皺だらけで、何かの染みのようなものが全体に散らばっていた。そういう模様のように見えなくもなかったが、それにしてはアンバランスで、均整が取れていない。これも染みだらけの、黒い鍔のついた帽子を被っている。それを、その人はゆっくりと外した。白の中に灰色の混じった髪は柔らかく、帽子の形にひしゃげていた。辛うじて整えたような口髭も同じ色をしていた。その人は年老いていた。顔には多くの皺が刻まれ、伸びた背筋のどこかに疲れを滲ませていた。
 その人は帽子を持ったまま、緩く握った拳でそっと唇に触れた。ちかりと、私の中に瞬くものがある。あの人も昔、よく同じ仕草をした。困った時にやるのだ。あの人は時折、祖父の古びた軍靴を持ち出しては、それを履いて遊びに出かけた。道もないようなところをふらふらと、でたらめに歩いてくるのだ。そうして靴を泥まみれにしては、ひどく怒鳴られていた。
 その軍靴の足音に、目の前の人のそれはよく似ている。
 唇に拳を当てたまま、その人はゆっくりと近づいてきた。何も言わないまま、空いた側の手で、私に積もった埃を払っていく。その手はごつごつとして、木のような硬い皮膚が掌を覆っていた。埃はもうもうと舞い上がり、その人は顔を顰めて口と鼻とを覆った。南向きの窓へ大股に近づき、いっぱいに開け放つ。もう気の遠くなるほど長く感じていなかった、窓硝子を通さない日差し。外の空気。その人が西向きの窓も開け放つと、そよ風が私の隅々まで撫でて過ぎていった。淡く橙色を帯び始めた空は明るく、くっきりとしたシルエットでその人を浮かび上がらせる。
 窓枠に背を預けて立ったその人は、相変わらず不吉な匂いを纏ったままだった。それでも私の体は少し柔らかさを取り戻していた。佇むその人のシルエットは滑らかで綺麗だった。この人はきっと、ピアノを灰にするような存在ではない。
 細い目の奥の瞳が私をじっと見つめていた。影の中でそれはちらりと光った。それから、満足したように小さく何度か頷いて。

 ――変わらないね。

 その人は、そう言った。掠れた声を、魂の底から吐き出すようなため息に乗せて。
 私はまだ、確信が持てなかった。あの人の声はもっと、高い響きを持っていて、こんなに奥行きのあるものではなかった。あの人の声ではない。それは確かだった。

 ――ミスタ・ローレンス。

 窓辺の人は、顔だけを部屋の入り口へ向けた。扉の外に立つもうひとりの人は、窓辺の人と同じ格好をしていた。肌は白く艶やかで、服もどこか真新しいように見えた。部屋の外の人は若く、あの匂いをまとっていなかった。匂いは窓の方からばかり流れてきて、揺れながら私の体を撫でて過ぎる。

 ――お荷物は、トランクひとつだけでしょうか。
 ――ああ。そうだよ。

 窓辺の人はどこか照れくさそうに笑って言った。

 ――何も持っていかなかったし。何も、得なかったしね。

 部屋の外の人は僅かに身を固くし、無言のうちにそれを咎めるような目をしていた。窓際の人は苦笑を浮かべて、緩く首を横に振った。

 ――いいや。何も得なかったんだよ、本当に。君もきっと、失う。あまり大声では言えないけれど。
 ――自分は、直接戦場へ向かうことはありません。
 ――それでもだよ。きっと君は失う。

 窓辺の人の瞳が重く暗いものを孕む。それは私の奥底を凍りつかせるかのような色をしていた。あの人は、こんな目をしたことはなかった。この世は美しくないと嘆いた時ですら、今私を見つめている目の、その半分以下の濁りしかなかったはずだった。
 だというのに、そっと視線を外した横顔はどこか見覚えがあって。

 ――前線に出て、帰ってきて。僕はただ汚れただけだよ。……勿論国は言うよ、汚れた君は素晴らしいって。よくぞ汚れた、私たちの誇りだ、って。でも、そんなものと引き換えになんて出来やしない。もっと、どうにも救いがたい奥底の部分が、戦場の汚れに侵されるんだ。自分という人間の根を支える、奥の奥の部分が。

 伝わらないだろうな、とその人は塗り重ねるように苦笑した。それから徐に私の方へ歩いてくると、座面の埃をまた丁寧に退けた。私の中に何かが煌めいていた。ほとんど確信でありながら、それを否定するような揺らぎ。忘れずにいてくれたのだという思いと、帰ってくるはずがないという思い。その人の指先が私の鍵盤に触れる瞬間を、私は望み始めていた。触れ合った瞬間に全てが明らかになるのだと、私の中の何かがそう鳴った気がした。

 ――お弾きになるのですか。

 そう問われて、私の前の人は小さく頷いた。あの人と同じように、口をきゅっと横に引っ張って。

 ――昔のことだけどね。君は?
 ――いえ。実物を見たのも初めてです。
 ――そう。

 その人はこほんとひとつ咳をして、目の前の埃を払うように何度か手を振った。それからちらりと、私の上に乗せられたままの楽譜に目をやった。手に取って、ぱらぱらと捲る。また少し埃が舞って、顔を顰めながらそれを手で払う。譜面を追っているらしいその人の眼差しからは、あの濁りは消え失せていた。
 ふっと目を上げる。

 ――聞きたいかい。
 ――宜しいのですか。
 ――うん。ピアノは物資じゃないからね。聞きたい人と弾きたい人がいるなら、いくらでも弾けばいいんだ。……あとは、ピアノ次第かな。
 ――ピアノ次第?

 その人は返事をせずに椅子へ腰掛け、優雅な手つきで私の蓋を開けた。未だ深い紅を保っているクロスを、くるくると丸めるように畳んで取り除ける。鍵盤が空気に触れてぴんと張り詰める。ざわりと私の感覚は鋭敏さを増して、触れられてもいないペダルが軋みそうになる。譜面台を開いて、弦の調子を透かし見るようにじっと私を見つめた。左手を膝に置いたまま、右手だけを持ち上げて。少しだけ、微笑んで。
 そして。
 その指が、最も低音を響かせる鍵盤の表面に、そっと触れた。

 瞬間。

 反射的に私の中を、細かくきらきらとした泡のようなものが走り抜けた。まだ押し込まれていない弦が芯から震える。それは、これから始まる素晴らしい何かの前触れだった。指先は鍵盤を押し込まずに、そのまま滑るように低音から高音へと渡っていく。分厚い皮膚の乾ききった指先は、柔らかく繊細なあの人の手とは異なっていた。昔、私に触れたあの手と同じではなかった。
 それでも。
 鍵盤の端から端までをなぞり終えた指先が迷うことなくあの黒鍵に触れ、慈しむような柔らかさで押し込んだ時。私は確かに、あの雪の夢のひとひらを感じていたのだった。
 かつて夢の中に安らいだ私のいのちが、日の出のような眩しさで光を放った。私の弦ははっきりと震え、微かな音の欠片をそこにまとわりつかせた。昇ってゆく魂が纏う、粉砂糖のような光に似ていた。目の前の人が鳴らした音は寄り添う幾多の音の中で深みを持ち、それからあの人は、そう、紛れもないあの人は、その指が柔らかかった頃のように目の端を下げて、笑った。

 ――弾かれたいってさ。

 あの人は、やはり正しかった。
 鍵盤を離れた指を、音の余韻がするりと撫でた。部屋の外の人は何も言わなかった。その耳が既に私の音だけに向けられていることは、あの人にも分かっているのだと思った。少し迷ってから、あの人は楽譜を慎重に譜面台に置いた。その上着は相変わらず恐ろしい匂いを纏っていたものの、彼がそれを脱いで床に落とすと、幾分か軽くなった。私は自分の体をなるべく柔らかくしようとした。鍵盤とペダルに集中しようとする自分を散らして、私という存在の全てで反応できるように、私を開く。
 真っ白な長袖を、あの人は丁寧に捲る。まず右腕、それから左腕。深呼吸をひとつ。
 そして。

 ゆっくりと滑り出す、あのフレーズ。小さな雪のひとひら。

 昔弾いたよりずっとずっとゆっくりとした調べは、何かの切っ先に触れようとするような緊張を孕んでいる。溶け落ちまいとする氷柱の先端のように。それが、少しずつ解けていく。溶け合うように、彼の心が音の中へ滲み出して、あの焼け落ちた街の夢を形作っていく。私はその中に、飲み込まれていく。

    *    *    *    *

 目の前の街、その景色は、明らかに凄惨さを増していた。

 顔のない死体があった。呻きが、叫びが、あらゆる方向から聞こえてきてぶつかりあう。乾いた銃声がそれを鎮める。その残響が廃墟に反響する。塹壕の中からいくつもの手が突き出している。戦車が火を噴いて、中から焼け焦げた上半身が乗り出していた。全ては死体の上に立っていた。全てが燃え、焼けて、苦しみに張り裂け、祈りを踏みにじられて、やがて力尽きて死んでいく。炎ばかりが激しく揺れ動く。
 「私」が顔を上げると、正面から銃剣を構えた兵士が突撃してくるのが見える。その切っ先はまっすぐに「私」を捉えている。帽子の鍔に隠れていた目元が顕になると、それは涙に濡れて、黒く汚れた頬にくっきりと痕が残っていた。近づいてくるその顔は、声もなく絶叫していた。恐怖をありありと浮かべて、その人は叫んでいた。

 死にたくない。

 血に濡れた合間にちらつく炎の色を映した刃が、突き出され、差し込まれようとしたその時、一際大きな銃声が「私」の左耳を掠めた。同時に、左耳に強い衝撃が走って、急に音が遠くなった。きいん、という高い音だけが目玉の奥を貫いていくようだった。
 バランスを崩して倒れこむ視界の中、激しく炸裂する火花の隙間で、目の前の兵士の左顔面は細かな肉の破片に成り果てながら吹き飛ばされていった。その体は殴られたように首を傾げながら、「私」と同じ速度で倒れていく。噴き出したものがその色も分からないまま、地面に落ちて染みになる。その幾許かが「私」の左顔面にかかってびちゃりと音を立てた。視界が左だけ赤に染まる。そんなはずはないと分かっていても、世界は赤との重ね合わせになって、どろりと溶け落ちそうでさえあった。目玉がひっくり返りそうだった。左半分のない頭は断面を私に向けて転がっていた。白いものと黒い液体が入り乱れて何が何やら分からなかった。それが人間だということだけはハンマーの一撃のようにがんがんと響いて、「私」は嘔吐した。胃液とレーションの味がする完全にペースト状の吐瀉物が溢れ出て顎を汚した。飛び散ったそれが人間の断面に斑点をつけた。
 駆け寄ってきた誰かが「私」の襟首を掴んで引っ張った。嘔吐きながら立ち上がろうとした足がもつれる。誰かは引っ張るのをやめない。もう一度吐瀉物を撒き散らして靴を汚した。僅かに戻った聴覚がその人の怒号を遠くに聞いた。

 止まるな、死ぬぞ。

 「私」は震える脚でどうにか歩き出した。後ろからいくつもの足音が近づき、いくつもの人影に追い越される。襟首から手を離した誰かもその人影の後ろに続いて走り出し、前にいた何人かの背中を追い越していった。その人の背中も見る見るうちに小さくなっていく。向こう側からやってくる敵の姿が少しずつ多く、大きくなっていく。その全てが赤く、さっき見た断面と同じ色の中にあった。「私」の足ははたと動かなくなった。吐き気を堪えるために握り締めた銃剣が重い。まだ一発も減っていないそれを投げ捨てたいくらいなのに、がたがたと震える指がしっかと握って離さない。酸に焼けた呼吸がざらざらと神経を削り取っていく。何かの雫がこめかみを伝って落ちていく。立ち尽くしたまま止まった視界の中で、両者の先頭が衝突した。その線上に、一列の、鈍色の雨が降った。

 地面が弾けとんだ。
 沢山の手やら足やらが宙を舞った。
 ぶつり、という音を最後に何も聞こえなくなった。
 本能的に一歩退いた、その場所に大きな赤黒い塊が、ぐしゃりと音を立てて落ちた。右半分を削り取られたその顔は尚も叫び続けていた。

 止まるな、死ぬぞ。進め。殺せ。殺して死ね。苦しんで苦しんで苦しんで、死ね。死ね。殺して死ね。死ね。止まるな。死ね。国のために死ね。家族のために死ね。お前が。死ね。

 それは呪いだった。ひとつしかない目が見開かれたまま、恨みと憎しみの限りを込めて「私」を凝視していた。
 「私」は絶叫し、左だけのその目が「私」を見ないように、軍靴の先でそれを蹴飛ばした……。

    *    *    *    *

 抑えた、静かすぎるフレーズが繰り返されていく。彼の、あまりにも惨い戦場の記憶が、ひとつの夢になって私の中に滲んでいく。
 指を運び続ける彼の手は、小さく震えていた。その記憶は、彼の深いところを損なっていた。打ち据え、刺し貫き、何発もの銃弾と炎で砕けさせた。彼は強く顔を顰めていた。あの日、初めてこの曲を弾いたあの日より、遥かに激しいものを殺しながら、彼は私に向き合っていた。彼の魂はずっと、沢山のことを叫びたがっていた。それなのに彼の叫びを聞くべき人々は誰も、夢の中ですら息をしていなかった。あまりにも多くのものが彼の中で死んでいた。

 ぎゅっと閉じた彼の目から溢れた涙が、鍵盤の上に滴り落ち。

 音のない戦場には、真っ白な雪が降り出していた。

 炎は未だ乱れ舞い、鈍色の雨も思い出したように降っては雪ごと世界を焼く。それでも、雪はただ降り続けていた。世界を染める赤が薄れ、洗い流されていく。雪は、少しずつ、ほんの少しずつ、全てを覆い隠していく。鍵盤にクロスをかけるように。赤子を抱いてあやすように。そこに横たわる全てのものを眠らせようとするように。
 彼は止めどなく涙を流しながら、それでも手を止めなかった。私が弾かれることを望んでいたから。彼の瞳が、濡れ光りながら私を見つめている。私はその指に身を委ねる。私はともに泣くということを知っている。今私に触れている人の、途方もない苦しみを知っている。私にはそれができる。
 あなたが私のために弾いてくれるのなら、私はあなたのために奏でよう。
 今なら、彼がノクターンとレクイエムばかりを弾いていたその思いが、痛いほどに分かる。誰のためでもなかった。ただ彼は、彼自身の中で死んていたもののために、雪のヴェールを織っていたのだ。
 だから、その為の、蜘蛛の糸より柔らかい雪の糸を、私はあなたのために紡ぐ。

 また、空に唸るものが近づいてきていた。

 戦争はまだ終わらない。前線は未だ揺れ動きながらあり続けている。人はこれからも沢山死に、今もどこかで街が焼かれている。あの人の髪は白くなった。魂は損なわれて傷ついた。あの日絶たれた時間は戻らない。死んだ人々は帰らない。夢は悍ましい記憶に穢され、私の音は前よりも響かなくなった。全ては変わってしまった、けれど。
 今日からまた、紡いでゆける。過去の亡骸を美しい雪のヴェールで覆い隠して、汚れた世の中から遠いこの隠れ家で、生きてゆけばいい。あの日々の遠い続きを。
 夕日に照らされた橙色の部屋で、私たちは真っ白な雪を夢見た。



 弾いて。ミスタ・ローレンス。
 私は、あなたのための美しいピアノ。

第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

 翔は今日に限ってはいつもより少し速く歩いた。ランドセルを鳴らしながらエントランスの引き戸を開け、郵便箱を開け放つ。そこには青の封筒と水色の封筒があった。翔は青い封筒を手に取り、より一層音を立てながら一段飛ばしで階段を駆け上がって三階にある家に入った。すぐさま封筒を破り、紙を取り出して黒目を文字列になぞらせる。

翔へ
誕生日おめでとう。これで翔は十一歳だね。立派なお兄ちゃんだ。五年生になって、新しいクラスには慣れたかい? 新しい友達はできたかな? 勉強もどんどん難しくなるね。サボってるとすぐ置いてかれちゃうぞ。優花とはちゃんと仲良くしてるかい? 怒りたくなることもあると思うけど、悲しませちゃだめだよ。お父さんとの約束だ。せっかくの誕生日なのに、返れなくてごめんね。仕事が忙しいんだ。翔も学年が上がって色々大変だと思うけど、お父さんも仕事を頑張るから、優花やお母さんと一諸に頑張ってね。
                                                                 父より


    翔は手紙を読んだ後、居間でテレビを観ていた。
「ただいまー」
「ただいまー! 」
母が保育園から優花を連れて帰って来た。母の声とは対照的に、優花の声が家中に響いた。
「おかえりー」
翔はテレビを観ながら返事した。二人が居間に入る。
「ごめんね翔。仕事長引いちゃって。ご飯にしよう。ケーキ買ってきたからご飯の後ね。お父さんから手紙来た? 」
母が冷蔵庫にケーキの紙箱をしまいながら訊いた。
「うん」
「そっか、じゃあ返事書かなきゃね。優花も」
優花は水色の封筒を手にしていた。
「うん! 」
母は台所で夕飯の支度を始めた。

   「じゃあケーキ食べよっか」
母はそう言って冷蔵庫から紙箱を取り出した。
「やったー! ケーキケーキ! 」
ケーキという単語に、ほとんど条件反射的に優花ははしゃいだ。翔と優花は椅子に座ってケーキの降臨を待つ。
「あっ」
母の短い悲鳴。ドサッと床に紙箱がぶつかる音。
「あー! ケーキ! 」
紙箱を恋人のように見つめ続けた優花が甲高く叫んだ。
「あー、ごめんね二人とも……」
母が消え入りそうな声で謝る。
「もーお母さん何やってるのー! 」 
優花が舌先に脳があるみたいに母を詰った。
「大丈夫? 」
翔は軽く母の心配をした。ケーキがどうなったかは判らないが、幸い母の足に落ちたりはしなかった。
「大丈夫大丈夫。ごめんね。さっ、食べよう」
母は箱を机に置いて中から三つのショートケーキを取り出した。歪んではいるが自立できない程崩れてはいなかった。
「……おかあさんそのゆびどうしたの? 」
優花が絆創膏が巻かれた母の指を差して言った。ガーゼの部分が赤黒く変色していた。
「あぁ、さっき包丁使ってた時切っちゃって。平気平気」
母は優花に怪我した手を振って見せた。母も椅子に座り、母と優花がお互いを見合って呼吸を揃える。
「せーの、ハッピバースデートゥーユー━━」
母と優花がリズムを合わせて歌う。母は微笑み、優花は零れんばかりの笑みを浮かべた。翔は二人とケーキに交互に目を泳がせた。
「ハッピバースデーディアお兄ーちゃーん。ハッピバースデートゥーユー……せーのっお兄ちゃん誕生日おめでとー! 」
二人の拍手が居間を包む。
「ありがとう」
翔は後頭部を掻きながら返事をした。
「じゃあ食べよっか」
三人とも苺がずれたショートケーキにフォークを刺した。
「翔も十一歳だね。もう高学年か。早いなぁ……」
母は頬を緩めながら呟いた。
「立派なお兄ちゃんだね」
「……だといいけど」
翔は目を合わさずに返した。
「……ねぇ、お父さんっていつ帰ってくるの? 」
一口食べてすぐさま翔が切り出した。大きく抉られた翔のケーキがバランスを崩して倒れた。母の顔が強張る。
「あの時仕事行ってそのまま海外赴任に行って帰ってこなくて、もう5年以上経ってるじゃん。もうあんまり覚えてないけど」
「わたしもおとうさんのことおぼえてなーい。でもだいすきー」
優花はケーキを食べ始めてから頬が緩んだままだ。
「優花はまだ小さかったし当たり前だよ」
翔が返した。
「……しょうがないよ。お父さんもお仕事忙しいんだから。早く帰って来て欲しいけどね……」
母は視線を外した。
ならせめてたまの手紙くらいはちゃんと書いてくれたっていいじゃん。今日の手紙とか漢字二つ間違えてたし」
「えっ、嘘、ホント? 」
母が反応して訊き返した。
「うん。もしかしてお父さんってあんまり頭良くなかったりするのかな」
翔は構わず続けた。
「…………そっか……お父さんも仕事で疲れてたのかもね」
母の声はいつもより小さくなった。

    翌朝。翔は書いた返事を青い封筒にしまい、糊付けしていた。
「翔ー、そろそろ時間だよー」
玄関で母が呼んだ。
「うん」
翔は大声にならない程度の声で返事をし、ランドセルを背負い、封筒を持って玄関に向かった。
「返事書けた? 」
玄関では母と優花が家を出ようとしていた。
「うん」
翔は封筒を母に渡した。
「じゃあ出しとくからね」
母は封筒を手提げの鞄にしまった。
「おかあさんわたしもへんじかいたー」
優花も水色の封筒を母に渡した。
「はいはい。二つとも出しとくからね」
母は優花の頭を撫でた。

     昼休み。翔は小学校で給食を食べていた。 
「翔君。ちょっと」
教室の扉が開き、先生が翔を手招きした。突然の非日常。騒がしかった教室が凍りついてクラス中の視線が翔に収斂する。
「……翔、お前何したの? 」
隣のクラスメイトが舌先で囁く。
「……いや、全然わからない」
翔が先生に連れられて教室を出ると、クラスはまた騒がしくなった。
「先生……俺……何かした?」
翔は先生の顔を覗きこむように顔を持ち上げながら、恐る恐る尋ねた。先生が翔の方を向いた。
「……翔君。ちょっとびっくりすると思うけど、落ち着いてよく聞いてね。さっき、翔君のお母さんの職場から連絡があって、…………お母さんが倒れたらしい━━━━」

    翔は伯母の車の後部座席に乗っていた。伯母が運転しながら翔に話しかける。
「翔君。今日は後でお母さんを病院からホールに運んで、私達もホールに泊まって通夜をするから。通夜ってわかる? 」
「うん。一晩中起きてるんでしょ? 」
「そう。翔君は賢いね。でももっと詳しく言うと、一晩中蝋燭の火が消えないように見張ることを通夜っていうの。だから、翔君は眠くなったら寝てもいいからね。見張りは伯母さんがやるから」
「寝ないよ」
翔は半ば反射的に答えた。
「そっか。一旦家に帰ったら、泊まる支度をしておいてね。優花ちゃんの分も。伯母さんも家に帰って支度しないといけないから。伯母さん、支度できたら優花ちゃんを迎えに行ってそのまま翔君の家に行って翔君も乗せて一緒にホールに行くからね。そのつもりで」
「……わかった」
翔は走り去る景色を眺めるのを止め、運転席に視線を移しながら徐に口を開いた。
「……ねぇ、伯母さん…………お父さんの連絡先って━━━━」
その時、翔は隣の席に置かれた母の鞄が目に入った。いつも母が仕事に行く時に使う手提げ鞄。その口から薄いクリアケースが覗いていて、中には青と水色の封筒がそれぞれ大量に入っていた。その封筒を見た翔は目を見開き、クリアケースを乱暴に取り出した。蓋を開ける。全て封が切ってある。青の封筒の中の紙を引っ張り出した。それは、今朝翔が母に渡した父への手紙だった。他の青の封筒も中身を引っ張り出した。一つ前の父への手紙だ。その前の手紙もあった。今まで翔が父へ宛てた手紙の全てがそこにあった。翔は瞼を上げたまま、固まり、停止した。
「……翔君。翔君と優花ちゃんはうちで引き取ることになったから。お母さんが亡くなって凄く辛いだろうけど、ちゃんとお利口でいてね。優花ちゃんの送り迎えは伯母さんがやるから、うちでは優花ちゃんの面倒ちゃんと見るんだよ。…………翔君?……翔君? 」
翔は弾かれたように起動し、顔を上げた。
「あ……あぁうん。ありがと伯母さん」
翔は虚ろげに返した。
「……翔君…………優花ちゃんのこと、お願いね」
伯母は運転し続ける。
「………………うん」
翔は水色の封筒から中の紙を取り出した。それは今朝の優花の手紙だった。

おとうさんへ
おとうさんいつもおしごとおつかれさま。このまえおともだちとけんかしちゃった。それからずっとはなしてくれません。なかなおりしたいけど、どうしたらなかなおりできるかな?はやくかえってきてね。おしごとがんばってね。おとうさんだいすき。
                                                         ゆうかより


    優花は伯母の車から降りると、今日に限ってはいつもより速く歩いた。玄関横の郵便受けを開け放つ。そこには水色の封筒があった。優花はそれを手に取り、玄関ドアを思い切り開けた。
「ただいまー! 」
元気な声が伯母の家に響き、リビングの翔の鼓膜まで届いた。優花がリビングに入ってきた。
「おかえりー。お父さんから手紙来た? 」 
翔が訊いた。 
「うん! 」
「そっか。じゃあ返事書かなきゃね」
第三十五回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.08.21(Tue) 08:00

祭壇の行方

 僕には、僕のものではない記憶があった。

といっても、何か重大なことを覚えているわけではない。ただ、いまの僕と違う名前で呼ばれる幼い僕(と言っていいのだろうか)が親や親戚と思しき人たちと遊ぶ様子、そして火や熱のイメージが断片的にあるだけだ。

それらが自分の記憶ではないと気付いたのは、確か小学校高学年の頃。ちょうど前世とか超能力とかオカルティックなことが流行っていた時期で、自分にも何かあるんじゃないかといろいろ試すうちにその記憶へ行きついたのだ。

考えてみると、あの断片たちにはおかしなことが多かった。なぜ僕は違う名前で呼ばれていたのか? あの火は何なのか? 他の本物の記憶より妙におぼろげなのも気になった。

あれこれ頭の中で転がしてみて、僕はあれこそ前世の記憶なのだと結論づけた。前世の僕は幼いころ火事で死んでしまったのだ。そして今、僕はいわば続きの人生を歩んでいるのだ。

幸い「前世の記憶」は頼りないくらいかすかで現実感に欠けるので、日常に支障はない。今の僕はさほど火に恐怖を抱かないし、ましてや記憶の中の人たちとまた会いたいとも思わない。

でも、「前世の記憶」は今の僕にとっても大切なもののような気がする。なぜかはわからないけど……。

 

 *

 

 夏休みの楽しみの一つといえば、普段会わない親戚に会うことだ。

 僕と同じ「都筑」という名字の表札の横にあるインターフォンを押すと、伯母が出迎えてくれた。両親と一緒に中へ入ると、そこには伯父と従兄二人もいた。両家とも一家勢ぞろいだ。

 挨拶、手土産、飲み物の用意など、各自が久し振りにあった人へのルーティーンを一通り終えると、浮ついた雰囲気が少し落ち着いた。

「そういえば彰吾君、今何年生? もう受験生だっけ?」

 手の空いた伯母が話しかけてきた。

「中二です。来年受験生です」

「そう。早いものねぇ」

「二人は今何年生?」

 僕と伯母の会話を受けて、母が従兄たちに訊いた。二人はそれぞれ大学一年と二年だと答えた。

 従兄の遼一と恭二は年子の兄弟で、恭二の方は実家暮らしだが、遼一は大学が遠いので独り暮らししており、今みたいな長期休暇の時しか帰ってこない。そのうえ帰ってきても、すぐに下宿先へ戻ってしまう。

 遼一は偏差値の高い大学に通っているので、勉強とサークルとの両立が大変らしい。そう伯母は言っていた。伯母は離れる時間の長さを嘆きつつも、充実した生活を送る息子が誇らしいようだった。

 伯母は恭二より遼一を愛している。少なくとも僕の目にはそう映る。たまにしか会わない僕ですら気づくぐらいだから、それを恭二が認識していないはずはないのだが、彼には不満も文句もないようだった。心当たりがあるせいかもしれない。

 僕はあまり覚えていないのだが、母の言うには、二人が小学生くらいの頃はむしろ恭二の方がひいきされていたらしい。その頃の恭二は勉強もスポーツもできてクラスの人気者だったらしい。

 ところが、小学五年生くらいの頃、階段から落ちて、利き腕が肩より上に上がらなくなってしまった。日常生活にはさほど影響なかったが、それ以来、恭二に前ほどの覇気はなくなってしまった。そして中学に入る頃にはどこにでもいるような普通の人になっていたという。

 それに伴い伯母の愛が弟から兄へと移っていったらしい。薄情といえば薄情だが、人情といえばそうなのかもしれない。

 大人たちは、いつの間にか僕らの話に花を咲かせていた。話のきっかけだったはずの僕らはいじられ役にシフトしていた。

 人のことを笑うなと常々言っているのと同じ口で、なぜ自分の子供たちのことを笑うのか。それが不思議でならないが、僕は敢えて問おうとはしなかった。結局何を言っても大人たちのお喋りは止められないし、下手なことを言えば数年後、それすら笑い話にされかねない。

 小学生時代の僕の失敗談や、去年の秋ごろから今年の初夏にかけてずっと髪を伸ばしていた恭二の奇行、ヒステリックで執念深い彼女とくっついたり離れたりを繰り返している遼一の女運のなさ。それらが勝手な解釈付きで場にぶちまけられていった。

正直、言ってやりたいことはいくらでもあったが、僕は自分を抑えて何もしなかった。反応すれば余計に面白がられる。

一通り持ちネタを披露すると、大人たちは自らの近況報告へと移っていった。ほっと一息ついて目配せし合うと、僕と従兄二人は話の輪から抜け出した。

僕らは携帯端末を片手に二階の遼一の部屋へ集まった。この三人でできる遊びと言ったらゲームくらいしか浮かばない。

「ベッドとか机とか、結構いろいろ残ってるんだね。家を出た人の部屋って、もっとがらんとしてるのかと思ってた」

 対戦画面を呼び出しながら僕は言った。

「まだ就職したわけじゃないし、運ぶのも大変だし」

 エアコンを点けながら遼一が答える。今年は例年より異常に暑かった。

「向こうでは寝る時どうしてるの?」

「床に布団敷いてる」

 ゲームをしながら僕らは喋った。画面を目で追い、指で操作しながらでも会話は十分できる。

「そういえば、恭二兄さんって、なんで髪伸ばしてたの? なんで切ったの?」

 年の離れた従兄二人を、僕はそれぞれ遼一兄さん、恭二兄さん、と呼んでいた。ちなみに、従兄二人は互いを名前で呼び合っている。

「俺も気になる」

「特に理由らしい理由はないかな。切り時を逃して、あとはずるずるって感じ。切ったのはいい加減うっとうしくなったから」

「最終的にどれくらいまで伸ばしたの? 切るとき寂しさとかあった?」

「背中の真ん中くらいまであった。切るときは特に何も思わなかった。ねえ、今度はこっちから訊いていい? 遼一さ、川上真理だっけ? あの人とはどうなってるの?」

ゆっくり背筋を伸ばしながら恭二が言った。

 遼一の部屋の中、僕らは三角形を作らず、それぞれ好きなところに陣取っていた。そのため、クッションに腰かける僕、壁際に脚を伸ばして座る恭二、床に寝転がる部屋の主、遼一というまとまりに欠ける光景が生まれていた。

「束縛強いし、別れたらストーカー化するし、最悪。ホント何なんだろう。あの女」

「そうやって言いながら毎回よりを戻してんだよね」

「さっき親たちが言ってるの聞いて気になってた。どうなの、遼一兄さん」

「なんで復縁してるのか自分でも謎なんだけど、気づいたら毎回そんな感じになってるんだよな……」

 三人でダラダラ過ごすのは楽しくて、時間が経つのも忘れるほどだった。日が傾き、遼一の部屋に入る日差しが減ってきたころ、大人たちの声が僕を時間のある現実へと引き戻した。

 伯父と伯母に別れを告げてお土産をもらうと、僕と両親は従兄たちの家を後にした。

 車に乗り込んだ後も、僕は駄弁った内容やゲームのことを反芻していた。遊んだ後の、程よい疲労感の中から喜びが滲むような感じが心地よかった。

「ねえ、今日いろいろ昔のことを喋っててつくづく思ったんだけどさー」

 余韻に母親の声が割って入ってきた。声のトーンから、父に向けて行っているのではないようだ。仕方なく僕は口を開いた。

「何を?」

「いろんなことがあったなーって。忘れてる部分も多いけど。でも忘れたからってなくなるわけじゃないんだよね」

「で?」

「そういう感慨、ない? まだ若いアンタにはわかんないか」

「まあね」

 掘り返して感傷に浸れるようなものがまだ自分の中にない僕に、そんな気持ちは縁遠かった。

でも、そう思う裏で僕の気持ちはいつしか過去へ過去へと遡っていた。

中一、小六、小五……と順に辿り、物心のついた頃まで戻る。そして本来なら終着点であるはずのそこを跳び越えると、「前世の記憶」に行き着いた。なぜかはわからないが、僕にとって特別の思い入れがある「前世の記憶」に。

大人たちの感傷とはまた違った感覚なのだろうが、これもまた思い出をめぐる感慨の一つといえよう。

「お、ちょっとはさっき言った感じがわかったみたいだね」

 見計らったように母が声をかけてくる。僕は小馬鹿にしたような上げ調子で、別に、と答えてやった。実際、僕は母の言ったことが少し理解できたと伝えようとしていたのだが、なんとも得意げな母の言葉が癪に障ったのだ。

 不快感が生み出す暗いエネルギーがまだ残っていた僕は、ついでに話題も変えてやることにした。

「そういえば昔、うちとか伯父さんたちの家に変な祭壇みたいなのあったよね。いつの間にか見なくなったけど」

「え?」

 車体が揺れる。父の注意が一瞬、ハンドル操作からそれたのだ。同時に後部座席の僕を振り返った母の顔も引きつっていた。ふとさっき思い出したことを口にしただけなのに、思わぬ効果があった。

「で、あれは何だったの?」

 平静を装おうとしたが、僕の声には動揺と困惑がはっきりと表れていた。しばしの沈黙の後、ポツリと母が言った。

「そんなもの、なかったわよ」

 石碑のように抑揚のない平坦な声は、それが紛れもない嘘であることを告げていた。だが、異様な雰囲気にすっかりのまれてしまった僕は何も言えなかった。

 車内がすっかり静まり返ると、気詰まりだったのか、父がラジオを付けた。交通情報が狭い空間に満ちる。そのまま、僕らの車は通る予定のない道の混雑具合を流しつつ走った。そしてアナウンサーの、また後ほどお会いしましょう、という挨拶とともに我が家に着いた。

 

 帰宅後は三人とも、車中の会話など忘れてしまったかのように振舞った。最初は皆、どこかぎこちなかったが、日常動作を続けるうち、普段通りに戻っていた。

 そうして緊張が解けると、凍り付いていた好奇心が少しずつ頭をもたげ始めた。

 あの時の様子から考えて、しつこく粘っても教えてくれないことはわかる。伯母さんたちに訊いたところで反応は同じだということも。と、なれば証拠を見つけるしかない。

 祭壇そのものがあれば最高なのだが、少なくともうちにはなさそうだ。念のためその晩は自室に引っ込んでからも、しばらく起きて耳を澄ませていたが、両親に怪しい動きはなかった。もしまだ祭壇があるなら、隠すなり隠し場所を確かめるなりしているはずだ。

 従兄の家の方はわからないが、そっちにも無いような気がする。もう何年も、たぶん十年近く見ていない。まあ、あったとしても仕舞われているだろうし、僕には探しようがない。

 いろいろ考えた挙句、僕は古い写真を漁ってみることにした。

 翌日、両親が出払うと、僕は行動を起こした。押し入れの中からアルバムを引っぱり出し、自分の部屋のクローゼットに隠す。

こうすれば暇な時にいつでも調査ができる。どうせアルバムなんて年に一度、見るか見ないかなので、持ち出しがバレる心配もない。

僕が所属している部活は緩く、夏休みにはほとんど活動がない。だから暇はいくらでもある。

まさか祭壇そのもののアップ写真があるとは思えないので、求めるものは映り込みだった。

記憶の祭壇は四歳から五歳のあたりにあった。そこでまずはその辺を探したが、何も見つからなかった。

仕方なく僕はローラー作戦を決行することにした。僕の生れてからの写真を一枚残らず調べるのだ。

優に二百枚を超える写真の検分には数日かかった。結果、収穫は三枚。根気のいる作業に対して三枚では割に合わないようだが、得るものがあっただけで僕は満足だった。

一枚目はハイハイする僕の写真。隅に赤い壇の端が映っている。

二枚目は昔飼っていた猫の写真。あろうことか、猫は祭壇の一番下の段に香箱を作っている。これが証拠としては一番強そうだ。上の方は見切れているが、下の方の段に置かれた鏡や小皿、古い本がしっかり見て取れる。

三枚目は僕と「はじめ」のツーショット。左端にあの祭壇がちょっと入っている。この写真で祭壇が三段でできていると確認できた。

僕は両親の隙を見てアルバムをもとの場所に片付けると、三枚の証拠品を手に取った。あの祭壇があったのは、ずいぶん昔のことらしい。だって、そのころにはまだ「はじめ」がいた。

「はじめ」は僕の兄だった。元と書いて「はじめ」。彼は五歳でこの世を去った。その時、僕はまだ二歳だった。だから「はじめ」という兄がいたことも僕にはピンとこないし、親の語る「はじめ」の思い出話も、社会で習う歴史上の出来事のように聞いていた。

写真を引き出しに仕舞うと、僕は漫画に手を伸ばした。後で三葉の証拠品を両親に突きつけてみるつもりだったが、実行まではそのことを考えたくなかった。

 

 夕食後、リビングに残っていた両親に、僕は写真を添えて疑問をぶつけてみた。

「どこでそんなものを見つけたんだ」

「どうしてそんなことが知りたいの」

 両親は驚いた様子で、こういう時定番のせりふを吐いた。正直、僕は勝ったと思った。

でも、話を進めるため、先に両親の質問に答えてやったのが良くなかった。落ち着きを取り戻し、言うことを考える時間を二人に与えてしまったのだ。

僕の答えを聞いて、うんうんと頷くと母が口を開いた。

「昔ちょっとね、そういうのにハマってた時期があったの。恥ずかしいことにね」

「そういうのって?」

「オカルトっていうか、宗教的なものというか……とにかくそういう方面のものよ」

 僕は父の方を見た。

「そうなの?」

「ああ、そうだとも」

「従兄の家にもあった気するけど、そっちは?」

「向こうの家? あったっけ?」

 何か隠しているのは明らかだが、相手はそれ以上何も教えないつもりらしい。僕が次の手を思いつかないうちに、二人はうまいこと話を変えてしまった。

「見て、ミー助よ。なつかしい」

「可愛かったなあ。壁の色が違うから、前の家での写真だな」

「あの頃、ペット可アパートなんて珍しかったわね」

「そうだな」

 すっかり気勢をそがれた僕は、写真を置き去りにリビングを出た。背後では、まだ二人が話にあだ花を咲かせ続けていた。

 

 自分の部屋に戻ると、自然に一人反省会&作戦会議が始まった。

 そもそも二人いっぺんに訊いたのが迂闊だった。一人ずつあたって、その答えの矛盾点をつくのが正しい攻め方だった。

 さて、これからどうしよう。再アタックをかますにしても、それまでに両親は口裏合わせを済ませているだろう。ディテールにまで気配りの行き届いた嘘を聞かされたら、余計混乱してしまう。

 伯父さんや伯母さんにあたるのも難しい。二人は親ほど僕に近くない。いざとなれば無視という手が使えるのだ。

 僕は突破口を求めて頭をひねった。諦めるなんて考えられなかった。適当にあしらわれ続けたせいで、好奇心はこの上ないほど膨らんでいた。それに、うっすらとした使命感のようなものもあった。

 そうしているうちに、パッとひらめくものがあった。

いるではないか。頼りになるかはわからないが、少なくとも他の人より立場が近くて情報を持っていそうな人が。

 

「で、俺のところに来たってわけね」

 僕の話を聞き終えた恭二が言った。少し面白がっているようだった。

 あの晩、恭二に思い当たった僕はすぐに連絡を取り、それから三日後の今日、こうして会う約束を取り付けたのだ。

 大人ならカフェにでも行く場面なのだろうが、僕は中学生だ。工夫なく従兄の家にお邪魔した。

「そう。近くに住んでてよかったよ。歩いて二十分だったし」

 割と近くにいるのに大して行き来がないのは、ひとえに歳の差のせいだ。

「夏の二十分はきついよ。ところで、遼一には相談したの?」

「ううん」

「あいつはもう二十歳で信用ならない大人の一人だから?」

「遠くに住んでて直接会えないから。それに、変なこと相談するには変わってる恭二兄さんの方がいいと思って」

「言うねぇ」

「だってそうじゃん。髪伸ばしたり切ったり」

「ほかには?」

「これといったのは特にないけどさ。なんとなく、雰囲気とか」

「あはは」

 僕らはエアコンの効いた恭二の部屋の床に座って喋っていた。今日のこの時間は伯母も伯父もいないとのことだったが、万が一を考えてリビングは嫌だと僕が訴えたのだ。

「で、あの祭壇は何なの?」

 勢い込んで尋ねる僕に、恭二は意外なことを言った。

「さあ」 

「え、知らないわけないでしょ。一つ屋根の下にあったものなんだから」

「親が考えたりやったりしてることって、子供には案外わかんないものだよ」

「うっそぉ。期待外れ」

「勝手に期待して勝手に失望しないでよ。何でそんなに祭壇のこと知りたいの? っていうか、よくそんなの憶えてたね。当時二歳だっけ。そのくらいの歳の記憶はない人も多いんじゃないかな」

「そうかな。ちょっとくらいなら皆、憶えてるよ」

「でもさ、写真探しの時、ほんの端っこだけでそれが問題の祭壇だってわかったんでしょ。結構しっかり頭に残ってるってことだよね」

「確かに」

 記憶を掘り返して祭壇の部分を掬い出す。

視野の限界か上の方が切れており、段数はわからないが、少なくとも二段以上ある。段には白い布がかけてあって、写真にあった通りの鏡、小皿、古い本のほか、お供え物も置かれている。

おぼろげで、前後の流れもないが、二歳の頃見たにしては異様に鮮明だ。最初、四歳くらいの記憶だと思ってしまったのも無理はない。

この感じを僕は知っている。そうだ。「前世の記憶」に似ているんだ。というか、本当に「前世の記憶」なんじゃないか? そうだとすれば四歳くらいの記憶、という感覚とも合う。でも、それには矛盾が多すぎる……。

「どうしたの? 黙り込んじゃって」

「いや、別に……」

 お礼を言って帰ろうか、と思ったとき、いっそ全部打ち明けるという選択肢が頭に浮かんだ。

 どうせ馬鹿にされて終わりだろう。そう思って僕はすぐにその考えを打ち消そうとした。だが、そうすればするほどそれは目の前に浮かび上がってくるようだった。同時に、メリットも見えてきた。

 ここでやめたら、もうこれ以上の手掛かりは得られない。だから情報を得たいなら、うまくいく可能性のあることは何でもやってみるしかない。

 それに、もし本当に馬鹿にされて終わりだとしても、いっそ笑い飛ばしてもらった方が、すっぱり諦めもつこう。

 腹を決めると、僕は姿勢を正した。そして当惑した様子の恭二に言った。

「自分でもおかしな話だと思うし、恭二兄さんもそう思ってくれて構わないんだけど、最後まで聴いてください」

 恭二が気圧されたように頷くのを確認すると、僕は話し始めた。

 

 もともと用意していた話ではないので、思いつくままに喋った。だから、気が急いてろくな説明もなく先へ先へと進んでしまったり、言い落としに気づいてあとから補足したりと、相当わかりづらい喋り方になっていたと思う。

 それでも、恭二は最後まで真剣に聴いてくれた。面白がって茶化すこともなかった。

 思いついたことを全部吐き切ると、僕は静かに恭二の言葉を待った。少し疲れていた。

「前世の記憶、か」

 しばらくして、恭二がぽつりと呟いた。

「今の話は全部本当?」

「本当だよ! 信じてくれる?」

「うん……」

 僕は息を吹き返したように、勢い込んで尋ねた。

「信じてくれるんだ! でも。どうして?」

「信じてって言っといて、どうしてもないんじゃない? 信じる理由か。どう表現すればいいかな。なんていうか、いろんなことと辻褄が合うんだよね」

「何とどう合うの?」

 つられるように口にした瞬間、うっすらとした寒気が背筋を這い上ってきた。踏み入るべきでない場所に近づこうとしている。そう直感が告げていた。でも、聞かずには、訊かずには、いられない。

「あの祭壇とか、あと、こっちの身の上にも」

「どういうこと?」

 情報と引き換えに、大切な何かを失う予感は確かにあった。でも、好奇心が恐怖心を超えようとしていた。記憶の果てに見たものが何なのか、ようやくわかるのだ。

 僕は息を詰めて恭二の言葉を待った。

 でも、彼は僕の期待に反して関係なさそうな質問を返してきた。

「君のお兄さん、元君がなんで亡くなったか知ってる?」

「えっ? 病死、だけど」

「誰から聞いた?」

「親。それ以外にないでしょ」

「じゃあ、なんで今の家に引っ越してきたかはわかる?」

「さあ。マイホーム資金がたまったからじゃない? ねえ、これに何の意味があるの?」

 この人も適当に煙に巻こうとしているんじゃないかと、僕は苛立った。僕の気持ちを知ってか知らずか、恭二は本心の読めない微笑を浮かべている。

「本当に言ってもいい? 聞いて後悔しない?」

「いいから早く言えって!」

 この期に及んで焦らされるのはまっぴらだった。

 わかった、というと、恭二はこちらを窺うような調子で話し始めた。

「まず、元君は病気じゃなくて、火事で死んだんだ。君が今の家に引っ越してきたのは、住んでいたところが焼けたから。いつか家を建てようと貯金もしてたらしいけど、それは直接の要因じゃなかった」

 からかうな、と言おうとした僕を片手で制すと、恭二はもう片方の手で携帯端末を操作した。ややあって恭二がこちらに向けてきた画面には、アパート火災のニュースが表示されていた。場所も時期も、恭二の話と一致している。残念ながら犠牲者の名前は載っていない。

「火元は君たちの隣の部屋。元君がなくなったのは火元と一番近い部屋で寝ていたから。彰吾とご両親が助かったのは、みんな火元とは遠い部屋にいたから。確か叔父さんは風呂、叔母さんは夜泣きする彰吾をあやすためリビングに」

「詳しすぎる……」

「親たちの会話を盗み聞きしてたんだ。身近でセンセーショナルな出来事だっただけに、興味もあって。……あ、ごめん」

 端末を片手にうつむく僕に気づいたらしく、恭二が謝ってきた。でも、僕には不謹慎な発言などどうでもよかった。親すら教えてくれなかった(おそらく)事実をどう受け止めればいいのか。それだけが頭を占めていた。

「次、進めていい?」

「待ってよ」

 僕は、先へ行こうとする恭二を止めた。

「なんで親たちは本当のことを教えてくれなかったんだろう」

「まあ、ショックだろうから、じゃないの。それか、自分たちが思い出したくないから、とか」

 一緒にいた時期があったとはいえ、顔すら覚えていない「はじめ」よりも、僕は両親のことを想った。辛かっただろうに、二人は何事もなかったかのように僕を育ててくれたのだ。

 よくドラマで死んだ家族の写真が居間に飾られているのを見かけるが、僕の家にはそれがない。きっと写真一枚すら両親の傷を抉るナイフたり得るのだろう。

 火事のことを黙っていたのは、どちらかというと僕より自分たちのためだったのだと思う。でも、何も知らない息子の成長は、苦悩の種にもなっただろう。

「ちょっと、どうしたの。そんなにしんみりしちゃって。元君のことは残念だったけど……」

「それよりも、親が……。そんなことがあったのに、全然、そんなこと、おくびにも出さずに……」

 恭二はちょっと待ってて、と言い残して部屋を出ると、麦茶のグラスを二つ、お盆にのせて戻ってきた。

「あのさ、ご両親のことで今、心を痛める必要はないんじゃないかな」

 飲み物をお盆ごと床に置きながら、恭二が言った。僕は慰めてくれるのかと期待したが、違った。

「悩むんなら、この先を聞いてからにしたら。きっとご両親に対する見方も変わるよ。涙も引っ込むと思う。逆にあふれてくるかもしれないけど」

「は?」

 まさに泣きそうになっていた僕の声は、思いのほか低かった。

「祭壇のことを聞きに来たんでしょ。まだ本題に入ってないじゃん」

「火事からどう祭壇につながるんだよ」

「まあ、聞きなよ。君の言う前世の記憶とも絡んでくるから」

「じゃあどうぞ」

 我知らず、挑戦的な調子になっていた。

 こっちの心境などどこ吹く風な恭二の態度は、ひどく神経に障った。涙の塩水でぬれた神経には特に。

 でも、当初の目的を達成せずに帰るのだけは嫌だった。

「端的に言うとね、彰吾の『前世の記憶』は、実は元君の記憶なんだよ。そう考えると辻褄の合うことも多いでしょ。死因とか、享年とか」

「合うけどさ、どうやって『はじめ』の記憶をこっちに移すっていうのさ」

「どうやると思う?」

 恭二はすっかりこちらの反応を楽しんでいるようだった。だが、その表情から真意や意図のようなものは読み取れない。いまだ見えぬ真相に、僕は焦れた。自然とそれは口調に現れていた。

「知らねえよ。脳移植とか? っていうか、祭壇の話は?」

「ここで祭壇が出てくるんだよ。あの祭壇は確かに君の家にあった。それを使って君の親御さんは火事の後、元君と彰吾の魂を入れ替えた。だから君は元君の記憶を持った彰吾じゃなくて、元君なんだよ」

 なんてお粗末な答えだろう。さんざん焦らされて、やっと教えられたものがこれとは。

「へえ! あの皿とか鏡の乗った段々に魂を入れ替える力があったなんて。そんなこと思ってもみなかった!」

 一語一語に精一杯の皮肉を込めて、僕は喋った。だが、恭二は意に介さない様子で続けた。

「魂の入れ替えもあるけど、あの祭壇にあるのは、一言でまとめると『続きからはじめる』力だね。断絶したものを再びつなぐ力。この場合では入れ替えによって元君の命をつないだことになるね」

 恭二の話は荒唐無稽としか言いようがない。でも僕は反論の言葉を見つけることができなかった。理性は反発を続けていたが、感性は納得しようとしていた。

「で、入れ替わりがあったとして……本物の彰吾の魂はいったいどこに?」

 ようやく絞り出した声はひどく暗かった。

「さあ。いわゆる黄泉の国にでもいるんじゃないかな」

「僕の親はなんでこんなこと、したんだろう」

 僕は少し考えればわかるような質問をしていた。

自分で答えを出してしまうのが恐ろしかった。どうせ最後には向き合わなくてはならないのだが、そこに至るまでの負担を可能な限り減らしたかった。

「本当のところは君の親に訊かなきゃわからないけど、たぶん元君の方が大事だったんだよ。意思の疎通ができて、一緒に過ごした思い出のたくさんある元君の方が」

「そういえば、うちの家、『はじめ』の写真を飾ったりお供え物したりしてない……」

「必要ないもんね。元君はここにいるんだから」

 恭二は変わらず軽い調子で喋っている。僕はそれに感謝すればいいのか、腹をたてればいいのかわからなかった。でも、僕の問いに必ず応じてくれるのは単純にありがたかった。

「これを聞いた僕はどうすればいい?」

「どうもしなくていいんじゃない。今まで通り過ごせば」

「僕がはじめ……じゃない。彰吾を殺したことになるのかな?」

「君は何もしてないじゃん。どうでもいいけど、長年親しんできた自分の名前で他人を呼ぶのは具合が悪いでしょ。こっちにとってもわかりにくいし。呼び方は弟、とかでいいんじゃない」

「…………」

「ひとまずこの件に関する質疑応答はもういい?」

「あのさ」

 短時間で折り合いがつくはずのない気持ちの問題をわきに置いて、僕はふと気になったことを訊いてみた。

「この仮説、僕の前世話を聞いて思いついたの? それとも、これも盗み聞き?」

「今考えたんだよ。たぶん俺の親も君の入れ替わりは知らないはず」

「だよね。僕の親もこればかりは家族の秘密にすると思う。そこで不思議に思ったんだけど、なんで恭二兄さんは入れ替わりなんていう、突拍子もないことを思いつけたの? 普通の人なら馬鹿げてると言いそうなことを。それに、祭壇の効果についても、なんていうか、詳しすぎる」

「あ、うん。それなんだけどね……」

 僕はおとなしく続きを待ったが、向こうもこっちが何か反応するのを待っているようだった。僕は仕方なく、何、と言った。

「自分のやったことへの罪悪感に耐えられなくなったのか、君のお母さんは祭壇を俺の家、正確には俺の母に押し付けた。それは結局、三年くらい母が寝起きする和室に置かれてたよ。でも祭壇の知識があるのはそのせいだけじゃない。実は、俺も一回入れ替わってるんだ」

「い、いったい誰と?」

「きょうだい」

 「前世の記憶」の真相の後では何が来ても驚くまいと高をくくっていたが、見事に裏切られた。今日の午後は常識外のことが起こりすぎる。

「じゃあ、今僕の目の前にいるのは遼一兄さんってこと? いつから?」

「見た目と中身が一致しなくなって、もう八年かな」

 呆然とするばかりの僕に、恭二(?)はちょっと身の上話してもいいかな、と訊いてきた。僕に断る理由はない。乗り掛かった舟だ。

 僕は大きく頷いて見せた。

「九年前、祭壇がうちに来てから二年くらい。まだ俺が遼一だったころ……あー、なんか嫌だな、こんな言い方。恭二が階段から落ちて、腕が上がらなくなったのは知ってるよね」

 恭二の口調は明るいままだったが、受ける印象はさっきと全然違った。自分でもどう話したものか、戸惑っているようだ。

「入れ替わったのは翌年の春休み。俺、っていうとわかりにくいから、これからはどっちも名前で呼ぶことにするね。で、その春、遼一は盲腸をこじらせて緊急手術。麻酔から醒めた遼一は、なぜか恭二になっていた。最初は全く意味が分からなかったよ」

 従兄は麦茶を一口飲むと、先を続けた。

「ぞれは母と恭二の企んだことだった。どういうつもりだと問う俺に、母はこう言ったんだ。『恭二にもう一度健康な体を与えてやりたかったの』って。こっちのことはどうでもいいのかよ。納得いかなかった。でも、どうしようもなかった。それから約八年。八年を俺は恭二として生きてきた」

 飄々とした態度をかなぐり捨てて、従兄は自身の忌まわしい過去を吐き出した。

僕はというと、おとなしくそれを眺めていた。驚きはもうやってこない。そもそも、感情自体がほとんど湧いてこない。正常な感覚が働かなくなっているのだろう。

「よく周りの人に気づかれなかったね」

 僕の声は、驚くほど冷静だった。

「ちょうど遼一は中学へ上がる年。人間関係が一新されるし、周りのクラスメイトも新生活に忙しいから問題にならなかった。恭二は小六だったけど、けがの後は人を遠ざけてたみたいで、異変に気付くほど親しい人がいなかった。ま、何かおかしいと思う人がいたとしても、入れ替わりなんていう突飛な答えはまず出てこない」

「一学年上の勉強って、そう簡単についていけるもんなの?」

「けがの後は勉強に打ち込んでたから、そのおかげみたい。もともと頭が良かったのもあるけど」

「死ななくても入れ替わりはできるんだね」

 僕は理性の提示する疑問を淡々と口にした。

「全身麻酔とか意識不明とかならできるっぽい。『断絶』って、要するに機能の喪失なんだろうな。だから、寝てるだけじゃダメだった」

「ところで、そのあと祭壇はどこへ行ったの? まだこの家にある?」

「母はあの後、すぐに祭壇を君のお母さんに突き返した。あると何かとトラブルのもとだからね。で、困ったのは君のお母さんだ。なにしろ、悪夢みたいな出来事と結びついた代物なんだ。手元に置いておきたくはない。そこへタイミングよく祭壇を引き取りたいという人間が現れた」

「まさか……」

「母たちの奸計を知って絶望している俺に、母は言ったんだ。『アレは向こうの都筑さんに返したから、もう一度入れ替わろうったって無理』ってね。でも俺は諦めなかった。あいつらの隙をついて、君の家を訪ねたんだ」

「それじゃ、祭壇は今……」

「そこにあるよ」

 従兄は勉強机の方を顎で示した。

「何もないけど」

 僕が言うと、従兄は立て膝で机の前まで移動した。そして真ん中の引き出しを開くと、その奥から何かを取り出した。

「ほらこれ、見覚えあるでしょ」

 従兄の手には、遠い記憶の中で見た皿があった。続いて、従兄はあの鏡を引っぱり出しながら言った。

「一番の問題は、祭壇をどう隠すかだった。そこで考えたんだ。三段は階段状でなくてもいいんじゃないじゃないかって」

「勝手に変えていいの?」

「大丈夫。一応ルールに反することはしてないから」

 これルールブックね、と従兄は一番下の引き出しにあったノートを差し出してきた。これは記憶と違い、妙に新しい。

「いつかこれで自分を取り戻すんだ。祭壇を手に入れた当初はそう思ってた。でもハードルは思いのほか高かった。まず、相手を意識不明レベルにするのが難しい。下手なことをすると体に障害が残りかねない」

 従兄は手と口を同時に動かしていた。僕はその手許を黙って見つめていた。

一番上の引き出しからは、古い大きなハサミと、一メートルくらいの赤い紐が出てきた。

「そうこうしているうちに、俺ら兄弟の人生には大きな差が生じていた。人知を超えたものの力を借りたとはいえ、ハンディを乗り越えたことは弟にとって成功体験となった。それに対して、こっちは自分のあずかり知らぬところで人生をひっくり返された……」

「でも、そんなに悪くない人生じゃん。恭……えーっと、あなたも」

「別にどっちで呼んでくれてもかまわないけど」

「こっちが気になるんだよ」

「地方国立に通ってるし、補導歴もない。世間的には俺の人生も悪くないって言えるよ。でももっとすごい比較対象が身近にいるからさあ。しかもあいつ、見た目は現役合格だけど、感覚的には一年飛び級だからね」

「まあ、そうだけど」

「親にも遠回しに嫌味言われたよ。知るかっての」

「なんで家を出ないの?」

「資金的な問題と、あと一度家を出たら二度と敷居を跨がせてもらえなそうで怖い。独り立ちしたら縁切りするつもりだけど、それまでは」

 従兄はハサミをもてあそびながら語り続けた。

「こうも差がついた今じゃ、もう入れ替われない。遼一に戻れたとして、その立ち位置を維持する能力が俺にはない。だから、あいつがあの変な女、川上真理と別れるたびにくっつけなおすことで溜飲を下げる日々だよ。別離もまた断絶だから」

 従兄の態度はすっかり投げやりなものになっていた。自棄気味なのか、こっちの方が素に近いのか。でも、そんなこと、僕にはどうでもよかった。

「あの祭壇を使えば、いろんなことができるんだね」

 僕には、一つ考えていることがあった。それは少し前から膨らみ始め、今ようやく形になった。そして、はっきり輪郭をつかめてしまうと、もう無視することはできなくなった。

 僕は意を決して、それを言葉にした。

「一つ頼みたいことがあるんだけど」