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第三十四回さらし文学賞

第三十四回さらし文学賞

概要

 さらし文学賞とは、テーマに沿って書いた作品を、筆者を伏せて作品を公開し、部員の投票により作品の順位を決めるものです。

テーマ
・「今日の〇〇」

<書式>
 自由

<制限字数>
 なし

<応募制限>
 なし

<日程について>
 <執筆期限> 2018年1月8日(月) 23:59
 <投票期限> 2018年1月22日(月) 23:59

<対象作品>
金平糖 柳
襲来 ジャックパンダ
細波のララバイ ジャックパンダ
今日のノルマ 呉巻奈子
今日野さんの事件簿 紗々羅紗羅紗羅
Hypno-Drop-Trip 大江山時雨
こつん 田中智章
Lavender 燕
緑の双子 うみねこ

全13作品

<結果発表>

1位タイ
 Hypno-Drop-Trip 大江山時雨

3位タイ
 襲来 ジャックパンダ
 緑の双子 うみねこ
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さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 08:15

緑の双子

 その日の海風は強くて、目までかかる自分の長い前髪は大きく吹き上げられた。開けた視界に入ったのは、目に痛いほど青い海を背景に立つ、二人。
 〝緑〟。
 目の前に立つ表情の無い少年と、彼に支えられ、花の咲くような笑顔を浮かべた彼より少し背の高い少女を見て、俺が最初に思ったのはそれだった。
 少年の右手指先から肘にかけてと、少女の首筋と白いワンピースから伸びた細い足の左足首から太股の肌に広がる、鮮やかな緑。そこへ、血管に似た葉脈が複雑な模様を描き広がっている。
これが、事前にこちらへ届いた資料にもあった、彼らの症状の一部。実際に目にするのは、この時が初めてだった。まずは現在の進行具合を確認する必要があるだろう。考えを整理した俺は、互いにその表情を動かさない目の前の二人へ、初めて声を掛けた。
「……名前は?」
 俺の問いに、少年の方が小さく首を傾げる。そして、抑揚の乏しい静かな声で言った。
「この場所へ送られるにあたり、番号が与えられました。姓名共に、意味は失われたものと考えていたのですが」
 ……ガキのくせに、冷めた考えだな。少年の言葉にそう思いながら、俺は頭の後ろで両手を組むと、凝り固まった身体を伸ばすため背を反らしながら答える。
「んんー……ああ、そーだな。確かに、ここでは名前に意味はない。ないが、俺はいつも担当する患者は名前で覚えるんだ。何か番号って覚えづらいだろう? お前らは、ああっと――B、13なんとか! ……だっけ? そんなの呼び辛いし」
 欠伸を噛み殺しながら答える俺の答えに少年はしばらく黙っていたが、納得したのかするのを諦めたのか、それ以上理由を聞き返してくることはなかった。そんな少年の隣で、彼に支えられ、足を引き摺った少女が、突然こちらへと身体を乗り出すと大きく笑って言った。
「なまえ、わたしは、ディム。このこ、セオ!」
 自身と少年を順に指さし、少女は嬉しそうに笑う。特に、少年の名を教える時は一層目を輝かせて笑った。少年は、支えた少女が急に大きく動いても表情を少しも変えず彼女をしっかりと支えたまま、そっと彼女の言葉に付け加えた。
「僕達は双子ですが、出生順からディムが姉、僕が弟となっています。その他の情報は先立って送付された資料に。今は」
「ねえ、センセーの、なまえは?」
 セオの言葉をふわりと遮って、ディムは突然そう言った。予想外の問いに、俺は一瞬面くらって、言葉が出せなくなる。にこにこと俺を見つめるディムに、隣に立つセオは、静かな声で嗜めるように囁いた。
「――姉さん。彼は、この島の〝施設〟の診療医兼研究者だ。番号で呼ばれることはないせよ、この島で生きている以上、僕らと同じく名前の意味を失っている。だから、彼のことはただ、センセイと呼べばいいんだよ」
 セオの声は、凪いだ水面の如く微かな揺れも感情の色も持たず、ただ、その響きは唯一、ディムだけに真っ直ぐ向けられていた。彼の言葉を受け取ったディムは、不思議そうな目をして首を傾げると、俺を見つめて尋ねた。
「センセー……。センセイ、なまえ、ない?」
 真っ直ぐな目で俺を見つめるディムの声が、不安定に揺れる。そうして向けられた、その一点の曇りもない瞳に、自分の顔が映っていた。
怠惰に伸ばしたまま放置している黒い髪と、手入れする気もない無精髭。こうなる前の、ここに来る前の自分は、何と呼ばれていただろう。記憶は、今はもうひどく曖昧な形でしか残っていない。しかし、それでいいのだ。それをもう、思い起こす必要は、ない。そう思うから、俺は彼女へと正直に答えた。
「名前は……忘れちまった。残念ながら、もう覚えてねーなあ……」
 俺の、そんな言葉を受け取った瞬間だった。
ディムの表情が、みるみるうちに悲しみで歪み、先程までの花の咲くような笑顔が幻想のように消えていったのだ。
それとは対照に、欠片も表情を変えないセオの隣で、俯いたディムは小さな声で呟く。
「センセイ……忘れちゃった……?」
今にも泣きだしてしまいそうなその表情に、罪悪感にも似たような焦りが徐々に胸の奥へ湧き上がってくる。
……何故俺が、こんな感情にならなきゃいかんのだ。そう思いながらも、留まることなくその表情を悲哀に曇らせていくディムと、その傍らで戸惑いも、何を責めることもせずに瞳を伏せているセオを前に、自分の精神がじりじりと削られていく。ついに、その場の空気に耐え切れなくなった俺は、観念し、ぼそりと呟いた。
「まあ……此処に来て、勝手に付けられた呼称ならある、が」
 ぱっと顔を上げたディムへ、俺は決意が揺らがぬうちにと、少しの間も置かずに呟いた。
「――……ペルレ」
「ペルレ」
 か細い声で告げた俺の名前を、ディムが素直に繰り返す。
「よく、分からない名前だろう?」
 俺は、きまずさやら気恥ずかしさやらを誤魔化すように、鼻で笑いながらそう言った。しかし、そんな俺の耳に聞こえたのは、予想を鮮やかに裏切る二人の声だった。
「……いえ。確かに、あなたを表した名だと考えます」
「ぺルレ! きれーな、なまえ!」
 表情は微塵も動かさないまま、けれど予期せぬ肯定の言葉を返したセオと、ぺルレ、ぺルレと嬉しそうに繰り返すディムをぽかんとした表情で見つめながら、俺は呟いた。
「……お前ら……変なガキだな」
「?」
 嬉しそうに微笑みながら、きょとんと首を傾げるペルレの隣で、セオが静かに言った。
「そうであることを求めているのは、この場所とあなた方なのではないですか」
 セオのその言葉に、俺は小さく瞼を伏せた。
「……さあ、どうだろうな」
 そう俺が呟いたその瞬間、海の方から、爆音とともに強い風が押し寄せた。いつもの通り、船が自動爆破された音だ。 患者たちを運んだ船の、決められた末路。
そうしてここは、この海に一つきりの存在に戻る。
 世界と自分たちを切り離すその音が、目の前にいる双子たちとのやり取りに、まるで白昼夢を見るようだった俺の目を覚ましたような気がした。そうだ――俺の、この場所での役割は。
俺は、羽織った白衣の裾を翻し、二人へ背を向けると、小さく振り返って二人へと呼びかけた。
「……そろそろ行こう。まずは、症状の確認からだ」

***

 二人を引き連れ、小さいこの島の中央にたった一つ建てられた建物へ向かう。その璧は貝のように白く、この日も島へ注ぐ太陽の光を容赦なく反射していた。その眩しさに目を細めながら、石畳の上を、二人の患者を引き連れて歩いていく。自分の後ろを歩く彼らをちらりと振り向き窺うと、長さだけが異なる金の髪を太陽の光で柔らかに輝かせる彼らの歩く姿が目に映った。双子なだけあって、性別は違えどもその見た目こそはそっくりと言って差し支えない。しかし、二人を目に映した瞬間の人々は、彼らを似ている、とは感じ辛いかもしれないと思う。
 積み重なって彼らを作りあげるその小さな歪さの理由は、きっと彼らの〝表情〟にある。
「……セオ! ほら、うみ! うみ、きれいね!」
 太陽の光を受け海面を眺めながら無邪気に笑うディムの表情は、事前に受け取った書類によればもう十代半ばとなるその年齢にしては、あまりに無垢で明瞭だ。幼い、とも言える。そんな彼女に対し、彼女を支えつつ前だけを見つめて粛々と歩を進めるセオは、ディムよりも年下の少年でありながら、その白磁のように静謐な面持ちを崩すことは一切ない。その表情の動きの無さは、どこかこちらに微かな戦慄を覚えさせるほどで。
「……船の中では、見えなかったからね」
 この職業の性分だろうか、二人を既に視診するかのように目に映していた自分の意識は、そっと呟かれたセオの声に覚まされる。セオの声に、やはり色は感じられない。その無色さを彩るような鮮やかな声色で、ディムは答える。
「うん! おふねのなかも、まえのおうちも、ずっとおそとなんにもみえなかったから……うれしい!」
「――……」
 ああ、そうか。俺は、二人のやり取りにそっと息を零して小さく俯く。二人がいたはずのあの場所は、そういった所だった。それは、小さく残る俺の記憶にも未だ刻まれている。

 塗りつぶされたような、白。申し訳程度に置かれたひとつの緑。薄弱な空気。分断された、人々の生きる音――。

「セン、セイ!」
「……っ?!」
 急に重みを増した背中に、息を飲んで振り返る。そこには、自分に突進したらしいディムがこちらを見上げる顔があった。
「ここから、はいる?」
 ディムに指さされて前を見れば、いつの間にか施設の玄関前へ辿り着いていたらしい。どれだけ意識を飛ばしていたというのか。俺は内心の動揺を静めながら、彼らへと答える。
「え……あ、ああ、すまん、ここが入り口だ。施設への普段の出入りは基本ここからしてくれ。一応、外出する際には俺か施設の職員に一声はかけるように。……少し、窮屈かもしれないが」
「問題ありません。前施設ではこちらからの入出要請は不可能でしたから、ここでもそのような対応かと思っていたのですが。考えれば、孤島であるこの環境ではまた対応が異なるのも理解はできます。――姉さん、ここでは、外に出ることができるらしい」
「えっ……おでかけ、していいの?! セオ!」
「……うん。でも、施設の人に声を掛けてから、だけれど」
「わあ……! じゃあ、いっぱいいっぱい、おそとにもいこうね!」
 心から嬉しそうに笑うディムの両手に自らの手を握られたまま、セオは小さく頷く。けれどやはり、その表情に変化はない。彼らの様子を横目で眺めながら、俺はその緊張感のない会話の内容にため息をつき、彼らに忠告する。
「外に行くのはいいが、はしゃぎすぎて海に落ちたりすんなよー。確か昔、初めて見た海にテンション上げすぎて、いい年して海に落ちて死にかけた施設職員が一人……」
「何で来たばっかりの子たちにその話をしてしまうんだいペルレ?!」
 突如玄関の方から響いた弱々しい抗議の声に、俺と双子が一斉に顔を向ける。そこには、玄関の前で仁王立ちをしてこちらを涙目で睨み付ける茶髪の優男がいた。
「おお、エリオ。そーいや、こいつらの通信担当お前だったな」
「何あっさり話を流してるんだよ君は! 何もこんなに早く僕の黒歴史を暴露しなくたって、患者との円滑なコミュニケーションは取れるんじゃない?!」
「おー、すまんなー」
「謝る気皆無!」
 目の前でキャンキャンと吠える同期の同僚を軽く受け流し、俺はキョトンとした表情でエリオを見つめるディムと相変わらず無表情のセオに声を掛ける。
「まー後でちゃんと紹介するが、こいつはここの通信士で、俺と同様お前たちの担当になる。お前たちの情報を〝陸側〟とやり取りしてたのはこいつってことだ」
「ああ、ディムと、セオだね! 初めまして。僕はエリオ。この施設で通信……」
「おらー、入り口のロック解除したから、早く入んねえと閉まるぞー」
「えっ!? あっ、ちょっ、ペルレ! 僕の自己紹介まだ途中なんだけど?!」
「――エリオ。おぼえた!」
「姉さん、ドアが閉まるらしいから入ろう」
「はーい!」
 エリオの叫びを聞かなかったふりをして施設へと入って行った俺に、エリオを軽く一瞥しただけのセオと、彼に促されたディムが続く。
「あっ! ちょっと待って! 閉めないで! ここのロック、解除めんどくさいからー!」
 ……本当に、こいつら賑やかだな。そう思いながら俺は、呆れと僅かなむず痒さを感じつつ、施設の中へと足を進めていった。

***

 ――『新世紀症最終研究施設』。俺達の働くこの場所は、そう呼ばれる。2×××年、新世紀を迎えたこの世界で、人類は突如現れたひとつの問題に直面した。
前例のない奇妙な病例――通称、【新世紀症】の発生・拡大である。
〝飛躍〟という言葉などではもはやそぐわないまでの人類の爆発的な進歩は、前世期の間留まることを知らず、我々人類の生活に潤沢を与え続けてきた。しかし一方で、世界を構成する人類外のあらゆるものを、じわりじわりと侵食していった。
――我々の生きるこの星の〝環境〟を守らねばならない。
そう、ようやく口にし出したのは、一体この世界の誰であったのか。しかしその叫びは、あまりに決定的に、致命的に――遅かった。
人類の輝かしい〝飛翔〟の傍らで傷を受け続けたこの星の環境は、すでにその身へ貯めこまれた毒素を抑え込むことが叶わなくなった。そうして、放たれた毒の矛先を……自らを此処までに追いやった人類へと向けたのだ。
 皮肉なことに、人類が受けた毒は、これまで自分たち以外の存在を何の力も持たない無力な者の顔をしながら穏やかに蹂躙することで得た、叡智や資源では癒すことが叶わず。無論――人類は、大混乱の渦に叩き込まれていった。
 ……それでも、なお、ひたすらに一方的な不利を受け続けることをよしとしない人類の在り方は、流石、特出した力も持たずとも生物界の頂点に君臨しただけの事はあるか。
 人類は、これまでに水面下で続けてきた諍いを全世界で一時休止し、互いの持つ財産の多くを懸け、世界に全七カ所の特定施設を設置した。感染ルートの知れない【新世紀症】患者の隔離、及び対策のための研究、それらの結果を用いた集中治療を行うことがこれらの施設の目的である。七つの施設はそれぞれに患者の症状の進行度、発生原因分析の重要性、などによって【新世紀症】認定された患者をレベル分けし、段階を踏んで患者を収容、また移転させていく。そして、自分達のいるこの孤島――ある大国と大国の領海境界線上に存在するこの島に建設されたこの施設こそ、それらのルートの最終に置かれた、第七の施設。
 まさに、最終――新世紀症患者の最果ての地が、この場所であるのだ。
 そうした思考の最中、無意識の内に伸ばした手が、そっと自らの瞼へと触れる。
「……――」
 その時、部屋にノックの音が響いた。俺はデスクに置いていた書類を小さく整え、扉の向こうへと声を掛ける。
「律儀だなーお前さんは。……どうぞ、入ってくれ」
 その言葉に答えるよう、診察室のドアが開かれる。そこには、変わらずその表情に微かな色すら浮かべないままのセオと、彼に支えられ、朗らかに笑うディムが立っていた。
つい数時間前、本施設に入るにあたって、彼らの現状に関する基本データを取るための精密検査を受けてもらった。その結果と今後の治療の方針を伝えるため、彼らを呼んだのだ。
「ん。とりあえず、そこの椅子に……っと、一つしかないんだった……。悪い、余ってる椅子……」
「……いえ、特に必要は。姉さん、座ってくれる?」
「ん? うん、わかった!」
 俺の言葉を遮り、ディムへ一つしかない椅子へと座るよう促したセオは、そのまま自然と彼女の背の近くに立った。俺は何かを言いかけたが、それはおそらくこれまでも繰り返されてきたことなのだろうと感じ、口を噤んだ。
 改めて、俺は、二人に話し始める。
「先ほど受けてもらった検査の結果が出た。これを基に、簡単にお前たちの症状についての確認と、今後の治療の方針を伝える」
 あまり事態を把握していないのか、ディムは変わらずにこにことこちらを見つめている。その後ろに立つセオは、俺の言葉に小さく頷くと静かな声で言った。
「はい。姉さんへは、後に僕から改めて内容を伝えるつもりですが、問題はありますか」
「……いいや。宜しく頼む。では、まず、お前たちの症状について。お前たちは、互いに共通して、二つの症状を抱えている。一つは、後天的な『緑化症』。もう一つは、先天的な『情知分裂症』。間違いないか」
 セオは、俺の問いに頷く。その様子を見た俺は、話を続けた。
「この二つの症状は、【新世紀症】の中でも、極めて症例が少ない。その分、この施設ですら、それほど確かな情報を持っているわけではない。そんな中でも、最低限判明している事柄から話していこう。これまでの施設で伝えられてきたことと重なるかもしれないが」
 俺は、一度大きく息を吐く。そして、再び口を開いた。
「――まず、『緑化症』。こちらは症状として、身体をめぐる血管から皮膚へと徐々に緑化し、最終的には全身に転移する。現れる植物の特徴、進行のペース、侵食されていく部位については患者ごとに大きな差が見られると聞く。お前たちの侵食部位についても確認させてもらったが、一卵性双生児であるお前たちの間にも、かなりの差がある。そのため、今後の治療においても各自少々異なったアプローチをしていかざるを得ない」
 俺の言葉に、真っ直ぐな眼差しを向けるディムの背で、セオの口元が微かに歪んだような錯覚を起こした自分の目を眇める。しかし、改めて見た彼の表情に動きはない。本当に錯覚、か。
「もう一つ――『情知分裂症』。こっちは、先天的にお前たちが持って生まれたもの、か。一卵性双生児のみに発症が確認されている、極めて症例の少ない【新世紀症】。端的に言わせてもらうと、一卵性双生児のそれぞれに、知能・感情が著しく偏った状態で生まれる症例――加えて、各能力の成長スピードにも大きく差が生まれる。お前たちの場合、ディムに感情、セオに知能の成長の偏りが見られていると推察する」
「ん! わたしとセオ、いっしょでひとつ……ね?」
 明るく頷きながら、セオの方を振り返るディム。その表情に眼差しを落としながら、ディムへと小さく頷いたセオは口を開いた。
「自分たちの症状については、今話していただいた内容でおおむね間違いありません。これまでの自分たちの体感や、前施設で伝えられてきた内容とも一致します。おそらく、僕たちの症状に関しては、この場所であっても持て余すものではあると思いますが」
 セオの言葉に、俺は小さく眼差しを伏せた。こいつの言葉は、正しい。この双子の抱える症状は、現時点で俺たちが把握しているデータが、あまりに少ない。しかしそれは、彼らに限ったことではなく……この施設へと辿り着いた患者たちのおおよそに当てはまることだった。俺は、目の前の二人に気付かれぬよう口内でそっと唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……ああ。『情知分裂症』、こちらについては症状の根源を改善していくことは残念ながら不可能に近い。それは、『緑化症』についてもそう変わらないというのが正直な見解だ。よって、今後の治療では、お前たちから収集していくデータの分析と並行し、それぞれの症状の進行スピードを少しでも退行させるための薬物治療と、各自通常値よりも成長の遅れている能力を伸ばしていくためのカウンセリング治療を中心に行っていくことになるだろう。早速だが、今晩からこちらが開発した『緑化症』対策の薬を服用してもらいたい。内外共にアプローチを行いたいため、皮膚の侵食を抑える軟膏もこちらから出しておく。具体的な今後の計画については、後ほど追って連絡しよう」
 何とか、今後の治療について簡単な説明を終えた俺の前で、ディムがふいに表情を曇らせた。
「……おくすり? うー……つめたい、やだ……」
 じわりと、その大きな瞳へ涙すら滲ませていくディムの様子に、俺はまたもや大きくたじろいでしまう。そんな情けない俺の前で、セオはディムの背中へ彼女を支えるよう静かに手を当てると、ディムへ言った。
「大丈夫。僕も、同じだから。姉さん」
「んん……セオ、も?」
「うん」
「……。じゃあ、がん、ばる……」
 二人の間で交わされる言葉の中は、これまでの何かをこちらへと感じさせるものがあった。それはきっとこの二人だけのもので、しかしそれが、何よりこの二人を二人たらしめたのだろう。俺は二人に真っ直ぐ身体を向け、言い残したことを伝える。
「初めの一回だけは、塗る箇所の指示もしたい。夕飯の後で部屋に届けるから、九時頃は部屋にいてくれ。――話は以上。……夕飯は七時からだな。どこで食べるか、希望は?」
 俺の言葉に、セオが小さく首を傾げた。
「……食事は、感染等の危険性を考えても各自の部屋で行うよう定められてはいるのが、これまでの施設での常でしたが」
「ああ? ……まあ、いい意味でも悪い意味でも、此処は〝最果て〟だ。職員にも、俺含め訳ありのやつしかいない。感染なんてもの、最初から配慮されてないから、此処はあらゆることに関して相当自由だ。それだけが、この場所のいいところだからなァ」
俺は自嘲気味にそう二人に告げ、諦めたように笑う。
そんな俺の前で少し思案した後、セオは答えた。
「……本日は、ひとまず自室で。姉さんに意向を聞いた後、再度希望を伝えます」
「ごはん、たのしみ!」
「分かった、こちらから伝えておく」
その後、少しして、二人は診察室を後にした。

 部屋のプレートを目に映しながら廊下を歩いていた俺は、頭に入れた二人を指し示す記号と番号の羅列を視界の端に確認し、のろのろと動かしていた足を止めた。
「……」
「――はあい! ……センセー?」
 真白いドアをノックした途端に帰って来た元気の良い声に、俺は思わず苦笑する。此処で、このような声色の声を聞いたのはどれほどぶりか。俺は、ロックの無いドアの取っ手を握った手に力を込め、スライドして開いた。
「やっぱり、センセイだ!」
「時間通り、ですね」
 そこには、ベッドの上に座って笑うディムと、ベッドの傍らの椅子に腰かけ、こちらを一瞥したセオがいた。
「おう、秒までぴったりだ。完璧だろ」
 軽口を叩く俺に、セオは対して反応するでもなく黙ってしまう。その反応に、俺は仕方なく、本来の目的を果たすため、二人に持参した幾つかの薬を手渡し、一つ一つの効能と服用時間・回数について説明をしていった。全ての説明が済んだ後、最後に残った軟膏について話す。
「これは、緑化の進行を……まあ、気休め程度ではあるが、遅らせる効果がある。二人とも背へ少し緑化が見られるから、そこに関しては塗りづらいかもしれないが……」
「以前からですので、その点に問題はありません」
「……そうか。ならば、今回だけ、塗る箇所の指示をするから覚えて実際に塗って見てくれ。現時点で緑化が見られる箇所だけでなく、今後緑化の可能性が考えられる箇所にも、事前治療の観点から忘れず塗ってもらいたいからな」
 俺の説明に特段自分の考えと異なる点はなかったのか、セオは素直に頷いた。ディムへの説明も、ある程度済ませているのだろう。俺は、二人へ指示を始めていく。それぞれの軟膏を塗るべき箇所を指示していき、セオの腕への説明で終わりを迎えた。
「……最後に、セオの右腕。現在手については甲のみに緑化が見られるが、今後掌へと侵食する可能性が高い。そちらにも忘れず塗ってくれ」
 俺の指示をすべて聞き終えた後、セオは自らの腕をそっと持ち上げる。そしてすぐ、ベッドの上にいたディムがセオに身体を寄せ、手にしていた低い円柱型の容器に入った軟膏を自らの指に掬うと、その指をセオの右手へと伸ばした。
「……?」
 二人の動きに僅か、思考が止まった俺の前で、ディムはその指先をセオの右手の甲に滑らせた。そのまま、その白い指先は、弟の掌を包んでいく。その動きに、真っ直ぐ落とされる彼女と彼の眼差し。同じ薄緑色に染まった、二人のその瞳は、互いに凪いだ波のようだった。
 初めてその光景を目にした自分は、少したじろいでしまう。しかしそれは、彼らにとって、日々変化する互いの緑化を把握する意味もあるのかもしれないとふいに考えた。セオへと指示した場所すべてへディムの指によって軟膏が塗られた後、今度はディムがセオにその身を委ね、セオの指が緑に彩られたその肌へと滑っていく。
その時、ディムがそっと呟いた。
「……おくすり。つめたいから、きらいだったけど……」
 にっこりと笑いながら、ディムが言う。
「あたらしいおくすり……あたたかい、ね」
「……」
 セオは、頷いた。その眼差しはどこか、小さく和らいでいるように見えた。彼女の言葉に対して、俺は意識せずともどこかぶっきらぼうになってしまう声で、静かに呟く。
「……少し、温感成分が入っているからだろう。この施設は潮風に当てられていることもあって、比較的涼しいことが多いから……患者の体温調節の意味もある」
 先程の診察室での会話の後、調合に少し変化を加えたことは、緊急であったこともあって無許可だが……まあ、これくらいはいいだろう。今言った言葉にも、特に嘘はないし。
 誰に対するものかも分からない弁解を心中で繰り返す俺を見る、セオの目に宿った微かな驚きのような色は……きっと、俺の気のせいだろう。
「ありがとう、センセイ!」
 そう言って笑うディムから、黙ったまま、俺は思わずそっと顔を反らしてしまう。
 セオは、何も言わないまま、それでも軟膏の乗る自らの指先をじっと見つめたまま……ディムの肌に指を滑らせていった。

 彼らの足に、腕に、首筋に滑るその指は、互いの存在自体を慈しむような柔らかさを持っているように見える。
 ――その温もりを、きっと、彼らは互い以外の人間に与えられてこなかったのではないか。
 ふいに、そんな想いが、二人を見つめる俺の頭をよぎっていった。

***

 この施設へ、その身体に緑を宿す双子が来て、数週間が経った。初日に伝えた治療の計画に沿って、彼らの症状の進行データに基づいた治療が日々進められている。彼らも治療への抵抗はほとんどないようで、年齢にしては少し不自然なほど落ち着いた様子で、施設による治療を受けていた。
 そんな中、以前までの施設との違いに少々戸惑いを見せるセオの傍ら、新しく見る物、許されることの多いこの島で、ディムの瞳と表情は常に輝きを失わない。
 この日も、結局ディムの要望で何故か俺の研究室で取ることになった朝食を済ませた後、ディムが少し興奮した様子でテーブルの上へ身を乗り出し、セオと、俺と、何故かここで共に朝食をとることになったエリオへ提案してきた。
「てんき、いい! きょう、うみいく!」
 ここ数日ハマりこんだように繰り返されるその提案に、俺は珈琲のカップへ近づけていた唇を離し、じっとりとした眼差しでディムを見上げた。
「お前、ここのところ天気がよけりゃ毎日それじゃねえか。海なんか行っても、泳げないお前らじゃそんなにすることもなし、流石に飽きねえか、そろそろ?」
「んんー? たのしいよ? うみ!」
 首を傾げながら、無邪気に笑うディムの隣で、セオは無言のまま食事を続けている。すると、苦い顔を浮かべる俺の隣から、お気楽な声が響いた。
「いいじゃない。朝の診察はもう済んでるし、今日の本治療は午後からだ。本当、今日は空も快晴で外出日和だし!」
「……エリオ、お前、他人事だと思って……」
「僕だって、行けることならディムとセオと海行って遊びたいんだよ?! けど、ここ数日は通信の数が酷く多いせいで、通信部は手が離せなくて……。何でこんな天気のいい日に、むさくるしい研究者たちのデータ報告なんて聞かなきゃいけない……」
「食事中に仕事の愚痴はやめろ。飯がまずくなる」
「ひどくないかい?!」
 連日の疲れのせいか、確かにその気の抜けた顔を青白く染めている同僚から視線を外し、先程からこちらに注がれ続けている強い視線の方へちらりと目を向ける。
「……センセイ、うみ、だめ?」
 ひどく悲しそうな表情でこちらをじっと見つめ、肩を落とすディムの様子に、俺は内心大きなため息を吐く。……だから、なんで俺が、こんな視線を向けられなきゃならないんだ……。
 俺は担当医としての決意を持ってディムへ向き直ると、しっかりとした口調で彼女へ告げる。
「いいか、ディム。お前らの緑化は、何が原因で進行するか分からないんだ。お前は脚が長く侵食されてきたせいで歩くことも少し苦労しているのに、泳ぐことはもっと難しいだろう? 海を眺めてそれで楽しいなら、それについては勝手にすればいいが。お前、そのうち海に入りたいとか言い出しそう……」
「んー、あ! そうだ!」
 俺の真剣な話を大きな声で遮り、成人男性とは信じがたい純粋そのものの笑顔でエリオは言った。
「ペルレ、二人を担いで海に入ってあげたらどう?」
「――はあ?!」
 あまりにもあっさりと告げられた想定外の提案に、俺はすっとんきょうな叫び声をあげる。
「お前、何言……」
「施設の南方面にある浅瀬ならそんなに深さはないし、ペルレ、案外力あるし。海水に肌が触れることを避けさせたいなら、高く持ち上げれば問題なし!」
「大ありだ! だいたい、何で俺がそんなこと」
「うみ、はいれる? はいれるの?!」
 エリオの無責任な提案の内容を理解してしまったらしいディムは、途端にはしゃぎ出す。セオは……相変わらず、食事を続けたままだ。くそう、お前何でそう冷静なんだ……。
 視線へ尋常ならざる憎しみを込めてエリオを睨み付けるも、どこ吹く風という様にエリオは俺の視線にまるで気付いていないかの如く、穏やかに微笑んでいる。
「っ……はあ……。ああもう、しかたねえなあ……」
 俺はがっくりと肩を下ろし、観念する。これ以上、ディムの期待に満ちた視線を真っ向から受け続けては何だか狂ってしまいそうだ。
 俺は、この双子が来てから何度落としたともしれないため息を、盛大に吐いた。

「うみ! うみー!」
 目の前に広がる、普段と変わり映えしない青の波紋を、ディムは煌めく光を宿した目で見つめながら叫ぶ。
 変わらず彼女を傍らで支えるセオの揺らぐことない瞳は、まるでそのまま海の色へと染まり切ってしまいそうですらある。
 その隣で物憂げな気分を隠すことなく表情を曇らせていた俺に、セオはこちらを小さく見上げ、どこか澱む口調で言った。
「……――任せて、よいですか」
 その言葉に含まれた感情は、あまりに淡く小さい欠片のようなもので、しかし俺はその感情が少し分かるような気がした。
 それは、きっと、〝遠慮〟と〝躊躇い〟。
 彼女の意思に沿い、その願いを叶えるため、俺へ彼女を任せること。彼女と繋がれた、自らのその手を離すこと。
それが分かってしまったからこそ……今度こそ俺は、沈むばかりだった己の心に活を入れ、ある決意をした。
「……ディム! セオ!」
 己を奮い立たせるよう、無理して声を張って、俺は二人に呼びかける。
 予想外の俺の声に、僅かに肩を震わせたセオと大きな瞳でこちらを見上げたディムに、俺は言った。
「お前ら、まとめて担いでやる。こっちに来い」
「……は……?」
 微塵も動きはしない表情を、さらに固まらせたセオの隣、ディムが今にも跳ねそうな勢いで、こちらに向かって問いかけた。
「いっしょ? セオも、いっしょにはいれる!?」
 その問いに、俺は頷く。そして、セオが抵抗するより早く、二人の身を両腕で抱えた。幸い、身長もそれほど高くなく、一般的な同年代の子どもと比べて細身である二人は、多少無理をすれば同時に抱えることもできないことはなさそうだ。
「っ……お、下ろしてください。海に入りたいというのは姉さんの望みであって、僕の望みでは……」
 流石にこのようなことは想定外であったのだろう、弱々しい声で訴えかけるセオの不安を吹き飛ばすよう、鼻で笑いながら俺はセオに答えた。
「気にすんな! もうここまで来たら道連れだ! それより、しっかりつかまってねえと、落ちたところで俺は助けも何もしないからな!」
 そうして俺は、自分の腕が限界を迎える前にと、脚に力を込めて海の中へと入って行った。二人の身へ可能な限り海水がかからないよう、細心の注意を払いながら波間を行く。そうして海の中を進んでいく度、脇からは空気へ光を散らしたような歓声が上がった。
「わあっ! うみ! なか! きれいね、セオ!」
 きゃーっと嬉しそうに歓声を上げながら、時折自分達へと押し寄せる波と水飛沫に、ディムは笑い声を響かせる。
 一方傍らで固まったまま一言も声を漏らさないセオを伺い見れば、目を見張るようにして、自分達の周りの景色をその目に映していた。もしかすると怖いのか、そう思って少し心配になったが、その目に僅か、ディムに似た光が宿っているのに気付き安堵する。
 そのまま、俺の腕に限界が訪れるまでのあまりにも短い時間ではあったものの、俺達は海の中で波打つ青と戯れた。こうして無邪気に遊ぶ患者など、この場所ではほとんどいない。そのせいか、きっと数分だっただろうその時間が……とても、とても、失い難いものであるような気がした。その後、震える脚と腕で何とか浜辺へと戻り、二人を陸へ下ろす。そして、俺自身は、倒れ込むように砂浜へと寝転んだ。
「っ、あー! つっ……かれた!!!」
 身体中の悲鳴を代弁する様に叫び声をあげれば、隣でこちらを見下ろしたセオが、冷ややかな目で俺を見つめる。
「ですから、僕は望んでいないと。平均より筋力があるとして、十代の子ども二名を海水につけることなく担ぎ続けるのは無理があることは明白です」
「かー! かわいくねえなあお前は! さっきはちょっと楽しんでただろうが!」
 そう言い返してやると、セオは、どこかきまり悪そうに顔をそむけた。あながち、間違いでもなかったのだろうか。
 その時……ふと、俺の耳に、軽やかな音色が届いた。
 音色の響いたほうを見れば……そこには、先程からはちきれんばかりの表情で笑っていたディムが、空を仰いでのびやかに声を響かせている姿があった。
「歌っ、て……――?」
 そうして耳に届く柔らかな歌声は、潮風とまがうほど自然で、何にもとらわれることなく快晴の空へと吸い込まれていく。
 美しい。そう、素直に感じた。
 先程まで、素直とは言い難い態度を取っていたセオも、いつの間にか口を噤み、その歌声を聴いている。そして、最後と思わしきフレーズを歌い終えた後……ディムは満足したように微笑み、一つゆっくりと息を吐いた。俺は、そんな彼女へ無意識の内に問うていた。
「――好きな、歌なのか?」
 俺の問いかけに振り向くと、ディムはその笑顔を一層に柔らかくして、大きく頷いた。
「うん! ……むかし、かあさまがうたっていて。とうさまも、だいすきだったって!」
 その答えに、背中にいるセオが、ほんの僅か息をつめたのを感じた。俺の胸中に、つきりとした痛みが生まれる。
「そうか。とても……いい歌だ」
 心のままそう告げれば、ディムは、心から幸福そうに微笑んだ。
 そうして、その日は午前中いっぱいを使って海の側で過ごした後……海へ共に行けなかったエリオの愚痴やら羨望の言葉やらを滝の様に受けつつ、日は流れていった。

***

 それからの日々の中で、何故か俺達はたびたび海へと訪れ、そこで時間を過ごすことが多くなった。海の中へと入ることはあの日限りではあったものの、海に向かうことに関して、俺もセオも、以前の様に躊躇うことは少なくなっていった。
 それはおそらく……この場所であの双子と出会って以来、俺とセオが、一つの近しい予感を抱いていたからであったのだと思う。

 自身の研究室のデスク前で、体重をかけるように椅子へ座ったまま。ここ数週間のデータの推移を見つめ……俺は、深く重い息を吐いた。
 予期していたその変化は、それでもなお、こうして形として目の前に叩き付けられた時、自分の精神をじりじりと燃やしていく。それは――弱々しい篝火の如く鈍く、何かを消していくような痛みで。
 その時、部屋に響いたノックの音に、俺はゆっくりと身を起こす。
「――どうぞ」
 かけた声に応じるよう開かれた扉の向こうには、セオがこちらを見据えたまま、一人きりで立っていた。
「入ってくれて構わない。むしろ、今、こちらから呼ぼうかと考えていたところだ」
 俺の言葉に特に答えることはないまま、セオは研究室へと静かに入った。そして、俺の前に置かれた小さな椅子へ少しためらいがちに腰を下ろし、こちらへ真っ直ぐにその平静な眼差しを向ける。俺が口を開くより少し先……セオは、その小さな唇を開いた。

「――姉さんの緑化の進行度は、どの程度早くなっていますか」

「……気付いて、いるよな。当然」
 俺の言葉に、セオは小さく頷く。そして、セオは静かな声で話した。
「『緑化症』が発症した初期の段階から……僕たちの緑化の進行スピードには、ある程度の差が存在していました。この島へ来たときの状態からも分かる通り、僕と比較して姉さんの緑化は進行スピードが速い。それは、知能と比して身体的な成長の早い姉さんの体質上、ある意味では当然の帰結でした。それが、ここ数日で、さらに加速している」
 セオの言葉に、俺はゆっくりと頷く。
「データ上も、そのような結果が出ている。もっとも、データなんぞ見なくとも、毎日の視診だけでその事実だけならば明白に分かっていた。想定上の変化とはいえ……この加速度は、極めて異例と言わざるを得ない。おそらく、緑化の転移場所が、いずれかの中枢機関に広がったと考えられる。早急な対応が必要だ」
 そう、セオに伝える脳の思考とは反して、俺の胸中でうずいていたのは、真実に近い偽りを述べる自分への強い憤りだった。そんな俺に気付いているのか否か、セオはその声に小さな緊張を滲ませ、俺に問うた。
「――もし、このまま緑化が進んでいった後。姉さんは、どういった状態になりますか」
 それでもなお、震えなどは微塵も零さないセオに、俺は担当医として、研究者として……正直に答えた。
「これまでのデータから分析と予測した結果、幸い、ディムのケースでは脳への直接の侵食はしばらく後のことになると想定できる。しかし、その間も緑化の進む他の気管は、その侵食に耐えられない。脳の動きを残したまま……侵食が完全化した部位から、ディム自身の自由は利かなくなっていく。言えば――植物状態に、極めて近い」
答えながら、胸中で激情が抑えきれない。皮肉にしたって、趣味が悪過ぎる。こんな……こんなとき、俺は何故――。

何を、変えることもできないのか?

「――そうですか」
 セオは、それだけを答えた。手にしたデータに視線を落とし、微かに震える手を抑えることで精一杯の俺に、少しの沈黙の後、セオは静かに問いかけた。

「悔いて、いるのですか」

 その問いに、俺は思わず顔を上げる。
 セオは、前髪に隠れた瞳を見張る俺の前で……こちらの目を真っ直ぐに見据えるような澄んだ眼差しで、俺に告げた。

「姉さんの望みに沿って下した、あなたの判断を。僕は、間違ったものとは考えていません」

 その言葉に、息を飲む。
 何故、気付いたのか。自分の胸中から消えない、この悔恨を。

連れてなど、行かなければよかったのではないか。
 その願いを、制することこそが、自分の役割だったのではなかったのか。

 そんな、どうしようもない……どうしようもない、悔恨。
 それを、セオの告げた一言は、そっと解いていくような気がして。それは、許されるのか。本当に、自分は。
 許されて、良いのだろうか――?
「尋ねたかったことは、すべて答えをいただきました。……では、僕はここで。失礼します」
 セオは椅子から立ち、自らも鮮やかな緑へと染まりつつあるその手で、部屋のドアの取っ手をつかむとゆっくりと引いた。
 そうして消えていった双子の片割れの背の影をいつまでも目に映しながら、俺は、いつまでも自分へと問い続けていた。

その日から数日して――緑化の進行は、ついに、ディムの首元から頬へと広がっていった。それに伴い、治療にも強い薬が投与されるようになり、ディムの治療に掛けられる時間も日に日に長さを増していった。
少しずつ、顔へと侵食を広げるその緑は、これまでは生活の中の至る所で咲いていたディムの笑顔を、少し動かなくしていった。 
対であるような二人の内、ディムだけが持っていたその聖域が――少しずつ、緑に染まってゆく。
その果てに待つ結末はきっと、セオにとって、唯一の片割れを失うことでもあり、自分の感情を失うことと同義だ。
 そのあまりにも残酷な変化に、セオはなおも表情を大きく動かすことはないまま、しかし、その声音に小さく影を落とすようになった。それは……今までの自分であれば、おそらく見落としてしまっていたほどの微かな変化。
 その日、二人の自室で就寝前の診察を行った俺は、薬の影響もあってか少し早目に寝付いてしまったディムの傍らで、ぽつりと零されたセオの言葉を聞いた。
「かつて僕たちの周りにいた人間達は、皆、姉さんが僕に依存し続けているのだと言いました。けれど、それは違う。依存という言葉が指し示すのが、それに頼り、自らを存在させるということなのなら……僕らは、互いが、そうだった」
「僕は姉さんに依存し、姉さんは僕に依存する。片割れなのだから、それは自然だった。僕たちはそうやって生まれ、そうやって生きてきた結果として、今此処で呼吸をしている」
 生きるため。その最上の目的のために、互いにすべてを与え続けてきた。
 その時ふと、微睡みと現実の狭間でほんの少し意識を覚ましたディムが、セオを見上げ、柔らかに微笑んだ。
「ん……せお。……だいすき、よ」
 そう呟いたディムの声は、唯一人セオに向かい、どこまでも真っ直ぐに響いた。
「僕も同じだよ、姉さん」
 迷うことなく、セオは答えた。それはきっと、もう幾度も、幾度も繰り返し交わされた言葉なのだろう。
 俺は、二人を共に染め上げていくその残酷なまでに美しき緑に、迷うばかりの眼差しを落としていた。

***

 今朝取ったディムの状態データを見つめながら、夜の影に満たされる研究室の中で、俺は僅かな机上ライトの光のもと、ぼんやりとしたままの思考を巡らせていた。
 そうしてふと、書類に落としていた眼差しを上げる。するとその視線の先に、画面へ映った自らの顔を認めた。日頃患者たちの膨大なデータを示すその黒い画面に映った、髪の間から覗く自らの瞳。――――すべてが〝白い〟、その双眸。

俺の目は――生まれた時から、〝白〟かった。

ディムとセオは、二人がこの島へ来たその時に、海風に吹かれた長い前髪の奥に在ったこの目を見ている。持つべき場所に色を持たない、悍ましい瞳。
その虚ろな白に呼び起こされるのは――あまりに空虚な、記憶。

 ――生まれた時からこの瞳を持っていた自分は、自分の周囲で生きていた大半の人間から、異物へ向けるような視線をぶつけられてきた。そうやって気味悪がられるのは、俺だけに留まらず、そんな俺を生み、育てる両親へもその害が波及していくのに、そう時間はかからなかった。それでも初め、両親は俺を擁護した。それはただの体質であり、特徴であり、恥じることは何もないと。
しかし、幾人かの研究者たちの主張を発端に、その原因を環境汚染と疑われ始めた【新世紀症】の出現により、自分たちへと向けられる害の内容と質が変わった頃から、両親の様子にも変化が見られ始めた。
他者への感染の可能性。環境汚染という繊細な国際問題に深く関わる疑いが持たれた、あらゆる国にとって厄介でしかない存在。
あの時実際に受けた害の数々など、一つとして思い出したくはない。否――もう、記憶にないのだ。耐え切れなくなった精神が抹殺したのか、記憶を司る脳の一部が損傷でもしたのか……確かなことは知れないが、その記憶は既に、自分の中から消え去っている。
両親とは、次第に疎遠になっていった。そして、中等学校を出てすぐ家を出た俺は、ともすれば憎悪にも似た一つの決意を胸に、決死の勉学の末、高等学校を卒業後医学部へと進学した。
自国の飛び級制度を利用し、大学院まで最短の年数で飛び級を重ねた俺は、自らの抱える奇病と環境汚染の関係について、睡眠を最大まで削り、研究を進めた。そして――かつて数名の研究者がその原因の可能性について言及した【新世紀症】について、発症の原因が過ぎた環境汚染であることを、明白に突き止めたのだ。
そして、自分の持つこの特異が、『白眼症』と呼ばれる【新世紀症】の一つであることを知った俺は。国が引き起こし、その対応を怠った環境汚染の被害者であることを理由に――国へと、訴訟を起こしたのである。
数々の国がその内容に騒めき、自らと同じく【新世紀症】で苦しむ患者たちの期待を一身に背負った裁判であったが……初審は、認めがたい、こちら側の〝敗訴〟であった。
その後も自らの研究による僅かな財や、全国からの【新世紀症】患者たちの支援により、俺は控訴をしていった。
しかし、結果は二審、三審と進んでも、結果を覆すことは叶わず。それでもなお、変わらず支援を続けてくれる人々もいたが、自らの手元にある裁判へとかけられる資金はほとんど底をついていた。そして、何よりも……自身の精神が限界を迎えていることに、自分の心が一番気付いてしまっていた。
そんな中で、我が国で行うことのできる最終の控訴を前に――俺は、国から、一つの提案を突き付けられた。
〈ここで控訴を取り下げれば――この裁判に関して君と君の親族がこの先受けていくであろう風評被害や攻撃から国がすべてを保護し、その上で君に、国から新たな仕事を与える〉。
そうして俺に提示された職こそ――この最果ての施設での、治療医兼研究者の立場だったのだ。
 国の提案に含まれた意図は、あまりに分かりやすかった。
――『これ以上、【新世紀症】について騒ぐことは許さない』。
 しかし、俺はそれを知ってなお……結果として、その意図ごと、この道を選んだ。それは、自分の手で自分と同じ苦しみを抱える【新世紀症】患者を少しでも救いたい、誰もがその危険性から向かうことを躊躇うその場所へ赴き、自分の小さな力であっても捧げたい……そんな、もっともらしい想いで誤魔化した、あまりに泥臭く、誇りの欠片もない叫びのためだった。
 ――――生きたい。こんなところで死んでやるなんて、それは、それだけは、許すことは出来ない……!
 そうして、国同士の領海境界線上に在る島へ建てられたこの施設へ送られた自分は、いつしか、抗うということを捨てた。
 この場所は、患者の訪れる最果ての地だ。そして、それと同時に……職員たちにとってもまた、最後の地であることに変わりはない。
 国は、世界は、現在もなお【新世紀症】に対する決定的な対応策を見いだせていない。あまりにも人類の医学の常識を超越したその症例は、改善の方法もろくに見つけることもできないまま、俺たちは患者を失っていくのをただ見ていることしか出来ないのが、自分たちの生きる現在の世界の最低な真実だ。
そんな、あまりに歪んでしまった――国という、世界という存在を前にして、俺という一人の人間はあまりにも無力で。こうして今も、暗闇の中、事実を事実として眺めることしか出来ずにいる。
 ――ふいに、デスク上で光を放つ携帯端末の画面。届いているのは、国の政府からの伝達だろう。そして、そこに記されているはずの内容を、自分は嫌というほど知っている。
 この場所で生きる限り、自分達は、暗に示され続けているのだ。

 ――――『その死を、有効活用せよ』。

「……分かってるさ」
俺は、耐え切れず声を零すように呟く。
それが、どれだけ人でなしの思考であろうと……此処で、患者たちの死や抱える苦しみ透過しながら貯蓄され続けるデータが、いつかの未来へと繋がっていくことなど。
 けれど。けれど、それは。その、〝諦め〟と何ら変わりない選択は。
 静かに呟き、俺は深い息を零すと、項垂れるように椅子の上で抱えた自らの膝の間に顔を埋めた。

 ここで幾度、自分はその死を見送った?

 かつて、自分が望んだのは、何だった?

 今日の昼、訪れた二人の自室で、交代で治療の番を待っていたセオと交わした会話を思い返す。
 セオは、先程までディムの眠っていたベッドへと視線を落とし、明白な口調で言った。
『此処へ来る前……姉さんと、もう一度だけ自分たちの病について話をしました。いや――僕たちの持つこれは、病ですらない。僕たちは、ただ、還ろうとしているだけです。かつては誰もがそうであったはずの、この星の一部へ』

『還ろうと、しているだけ』

 そう呟いたセオの声が、今も頭の中に、幾度となく響く。
『僕たちがここへ来ることを決断したのは、ただ、自分たちが最後まで生きていくことのできる場所を探していたからです。これまでの場所では不可能だと考えた。環境の行く末や、国の思惑など、一切関係はない』
『――僕たちの両親は、僕らが生まれてすぐ、『情知分裂症』のみが明白に発症していた頃までは、どちらも僕たちを家族と見なしていた。けれど、『緑化症』が発症した頃から……両親の目は、自らの娘と、息子を見るそれではなくなっていった』
 その言葉に……俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
あまりに、似ていた。彼らと自分。ただ生きるため、此処に辿り着いた、その存在が辿って来たもの。
「両親が僕たちを施設に預けたのは、まだ、姉さんが自身の感情を伝える言葉をほとんど得ていない頃でした。だからでしょうか、今でも姉さんは、おそらく両親から手離された事実を把握しきれていない」
 けれど、と、セオは呟いた。
「それでも――その後、共に僕たちは、施設の中で生き続けました。何より、姉さんが生きたいと願い。僕自身が、生きたいと願ったから。そうして僕たちは、自らの意思で、此処へ辿り着いたんです」
 セオが、誇り高く告げたその言葉に、俺は、何かを覚まされたような気がした。

俺自身も、そうだったのだ。
ただ、自分のままで生きていく場所がほしいと。

 けれど、あの場所で、それはもう叶わないと知った。だからこそ……此処へ来てしまった。
 それなのに、俺は此処でも、自分のままで生きることに躊躇って。

そんな俺に、初めて会ったあの日――海風が見せたこの悍ましい瞳を見た二人は言ったのだ。

『いえ。あなたを確かに表した名だと考えます』
『ぺルレ! きれーななまえ!』

 それは、在りし日に、真っ直ぐすぎる声で告げられた言葉にも似て。

『まるで、真珠(ペルレ)だ。綺麗だね』

『――君、名前を忘れたって言ったね? よし、僕は今日から君をペルレと呼ぶ! どう、いい名前だろう?』

 そんな言葉に与えられた煌きが、今も、この胸に消えない。
 けれど、闘うことを捨て去ったあの日から……俺は、捨ててしまったその闘い方を、この手に戻せずにいて。
「……ディム。セオ」
 存在を確かめるように呟いた声は、夜の虚空の中へ、頼りなく消えていった。

***

 昨晩、異常な発熱を起こしたディムへの緊急対応に夜通しで当たっていた俺は、一時的ではあるがようやくその容態が安定したことを確認した後、まだ朝日の滲む南方の海岸へと足を向けていた。早朝ということもあり、流石に人影はないだろうと踏んでいた矢先、見慣れた茶髪の背中を見つけ、眉を顰める。
「……何でいんだ、お前」
「後から来た人に、文句言われたくないね」
 減らず口を叩く同僚の隣に立ち、薄藍に染まる穏やかな海面を目に映した。かつてのあの日、ここで大騒ぎしたことが何とも現実に感じられない。
 思わず表情を曇らせた俺の横で、エリオがそっと言った。
「――ディムと、セオの事だね」
 俺は、その言葉に答えないまま、変わらず海面を見つめていた。その傍らで、同じく海面を瞳に映しながら、エリオは言葉を続けた。
「二人について、僕も考えない時はない。誰よりも二人だけで生き、二人であることが呼吸の原動であったからこそ、あの子たちはあれ程までに強く……そして、どちらかの欠落がすべてを滅ぼすほどに、弱い。その強さと弱さを恐れているのは、きっと君だけではないよ。この施設の職員、皆がそうだろう。けれどね、ペルレ。僕は最近、少し考えていたことがあるんだ」

「ずっと共に生きるもう一人がいたことは、人間として、彼らは最上に幸福であったと言えるのかもしれない、って」

 振り向いた視線の先で、エリオは、悲しみと優しさを同時に湛えた、器用な表情で微笑んだ。
「……ペルレ。これは、僕の受信したデータにあった情報だ。セオは、初めの施設に入ってしばらくが経った頃から、自分達に関して、一つの記録を付けているらしい。以前それについて本人にそれとなく尋ねた時、見られても特段支障はないってきっぱり言われたから、他人に見られることをそれほど拒んでいるわけではないのだろう」
 そして、エリオは一つ息を吸い込み、あの日の様に俺へ提案をした。
「許可をもらって、読んでみたらどうかな。……大丈夫、これも、診察の重要な一環だよ。それに君なら、セオの大切なものを、踏みにじることにはきっとならない」
 その言葉に対する俺の答えを聞く間もなく、エリオはこちらに背を向けると、一度振り返り、のんびりとした口調で言った。
「じゃあ、僕は行くね。あんまり海辺にいると、またあの時みたいになりかねないし」
 そんな言葉を残して去って行った同僚の背中を見つめたまま、俺は彼にされた提案を思い返す。
「――記録、か……」
 そうして浜辺へ立ち尽くしたまま、空気を満たす波音の中でしばらくの間思案を繰り返した後――俺は海の側から離れた。
ようやく心に決めた、一つの場所へと向かって。

***

 この数か月で、幾度となく立った真白いドアの前に再び立つ。そして……その扉を、ノックした。
「……はい。どうぞ」
 聞きなれた静かな声に従い、俺はドアをゆっくりと開けてそこにいる二人の姿を目に映す。
 午前の治療を終えたディムは、発熱の疲れもあり、目は覚ましているもののベットで横になっている。その布団から出された片腕は、かつての白い肌を埋め尽くす緑で彩られている。血管状の葉脈は既に所々小さな蕾を付けており、細い手首の辺りには幾つかの白い花弁が開いていた。もう、感覚はほとんどないはずだ。自分に気付き、嬉しそうに細められた瞳は片方のみで、彼女の鮮やかな表情を表していたその顔は、既に半分が緑化し、その機能を失っていた。――ここ数日の容態の急変と、身体の約七割を侵食しつつある緑化の程度からしても、担当医としての自分と施設は共に、常に予断を許さない状況であり、彼女の至る〝眠り〟への時間はもうそれほど残されていないだろうと判断してい た。しかし、そのような状況に置かれてもなお、彼女の示す感情は僅かにも曇ることのないほど鮮やかなままで、今も見る者に光を与える。俺は、そんな彼女へ微笑みを返すと、彼女の傍らでその手に自らの手を重ね続ける少年へと声を掛けた。
「――セオ。突然で悪いが、お前さんに、頼みたいことがある」
 いささか急な俺の懇願に、セオは変わらぬ平静な表情のまま、こちらを窺うように尋ねた。
「……記録、でしょうか」
 どこかで、予期があったのだろう。セオのその言葉に、俺はしっかりと頷いた。
「お前が許してくれるならば。それを、俺に、読ませてくれないか」
 そうして俺は、セオへ、真っ直ぐに頭を下げた。
 俺の前で、セオの声が響く。
「これに、あなたが頭を下げるような意味はあるのでしょうか」
 そういった彼の足下に置かれた鞄から、一冊のノートが持ち上げられる。俺は、静かに頭を上げ……セオを見つめ、言った。
「――お前たちと。俺自身が生きていくための……闘い方を、見つけたいんだ」
 その言葉を聞いたセオの瞳が、微かに開かれる。
 そして、少しの後――セオは重ねていた手で一度ディムの手をぎゅっと握りしめた後、椅子から立ち上がると、俺にノートを差し出した。
「この記録が、あなたの求める答えを導くかは、正直言って分かりません。けれど、ほんの少しでも……姉さんの願いに繋がるなら、僕は」
 そう言ったセオの伸ばした手は、自らも以前より多くの肌をその緑へと染めていた。それでもなお、彼の在り方は、きっと何一つ変わらない。
「――……ああ。本当に、感謝する」
 俺は再度深く頭を下げると、手にしたノートを丁寧に抱え、二人の部屋を後にした。

 昼下がりの、まだ柔らかな陽の残る研究室の中で、俺はデスク前の椅子に腰かけた。
「……――――」
 手元にあるのは、双子の片割れが自分に託した、彼らの記録。
 俺は、その頁を、開いた。
 その瞬間……目に入ったのは、広い白の中へ浮かぶように記された短い一文。


【――今日の幸せを知る。】


 その頁の裏に透けた文字を追う様に、俺は頁をめくる。

【二人以外のすべてを失ったあの日、姉さんと唯一つ誓った言葉だ。忘れないよう、此処へ記しておきたい。自分の記憶の精密さは、事柄に関するものは同年代の他者と比べて比較的強固であるものの、情動に関するものは酷く希薄であることを自覚している。この記録は、そういった自身の記憶を補うためのものでもある。今後も、本記録を可能な限り続けていく所存だ。】

 そして、続く頁に綴られていた小さく几帳面な文字は、此処に来るまでの施設で受けた〝治療〟の内容、担当医の言動に対する分析、自分の得た情報の内ディムに伝えるべき重要なこと、ディムと自分の容態や、自らの身体の感覚等を事細かに記していた。
 そこに在ったのは、紛れもない、〝二人が生きる〟ことへの強き執着と希望。俺が、自分の願いと共に、今一番守りたいそれ。
――そうして捲っていった頁の先、ついに彼らがこの場所へと訪れた日の記録を見つけた。

【○月○日 最終施設へ到着。担当医、担当通信士と接触。姉さんの状態は比較的安定しており、彼らへの印象も良好であるようだ。自分に関しては、これまで同様際立った感情の変化は感じられない。ただ、この場所はこれまでの施設とは異なる点が非常に多いことが判明した。それを知った後、若干心中に残ったこれは、〝戸惑い〟、と呼ぶものだろうか。しかし、姉さんや自分にとって、現状では特に害のある変化ではない。姉さんに関してならば、比較的良い変化とも言えよう。この場所こそは、僕たちの生きていく場となりうるのだろうか。今後も分析を続ける。】

【●月●日 本日は朝の診断の後、姉さんの希望に沿って施設南方の海へ担当医と共に向かった。海に入りたいという姉さんの希望を叶えるため尽力してくれたことは感謝しているものの、自分に関してはそのような希望は一切示さなかったにも関わらず、担当医は自分も姉さんと共に担ぎ上げ、海へと入って行った。正直、意図が全くつかめない。緑化進行への僅かながらの影響の可能性を把握していてなお、このような行動に出たのは、やはり自分に欠如する〝感情〟というものが確たる理由として彼の中に存在したためだろうか。それを理解しきることは、自分にとって大変難しい。しかし……あの時。姉さんと共に、波間を進んでいった時。自分の中に僅かながら生まれた、普段あまり持つこと のないあの思考は――人のそれより極めて少ない自分の、〝感情〟の一片であったのかもしれない。】

 ――その後の頁にも記され続けた、この場所で過ごす日々の中で二人の得ていった考えや感情、その変化、揺らぎ。
 それらは二人ではない自分でも明確に分かるほど、この場所を自分たちの〝生きる場所〟として受け入れていった彼らの、此処で得た多くの光に満ちていた。それは、ディムの緑化進行が急速に進み始めた後も、いっぺんも変わることなく続いていて。
 自分が、結局は何も救うことなんて出来ないままでいると思っていた、この場所を。
彼らは――自分たちの最上の願いを叶える場所として、選び取ってくれていた?
 胸中で、自分の抱えるすべての恐れや罪悪を解き放っていくような、溢れる光を感じながら……俺は、最も新しく書き加えられた、その頁に書かれた文を目にした。

【〝感情〟という、本来人間が持つべき能力が著しく欠落していると判断される自分ではあるが。感覚、というのだろうか。そういった酷く曖昧なもので、けれど一つだけ、確かに確信していることがある。こうして記憶に在る今、此処に記しておこうと思う。】





【あの日、姉さんと誓った僕の幸せは。いつも、隣にあった。】





「…………――――」

 世界のすべてが止まった、その瞬間。
部屋に響いた――――アラームの音。

 ノートから手を離した俺は、その音の示す先へ、走り出した。

***

 ――いつの日であったか、施設に来てそれほど経っていない頃のディムに聞いたことがある。
『ディム、お前……なんだか、眠る前やけに嬉しそうだよなあ。――眠るの、好きか?』
『うん!』
 今とは違う、何にも止められることのないその笑顔で、ディムは迷いなく答えた。
『ねむると、あしたがきて、そのあしたのなかにはセオがいるから。あっ、いまはセンセイも! エリオも! だから……』


『だから、あしたは、とってもきれい』


「っ……ディム!!!」
 これまでノックを欠かすことのなかった部屋のドアを力任せに開けると、既に幾名かの施設職員がディムの容態急変の対応に当たっていた。
「セン、セ……イ」
 ベッドの上でその顔を消えてしまいそうなほど白く染めながら、それでもなおディムは、周りの職員たちや俺へと微笑みを向けるよう、もう力も上手く入れられないであろうその顔を動かそうとしていた。
 その傍ら、この数日間、変わることなくその場所で彼女の手に自らの手を重ね続けたセオが、これまでと変わらぬ平静な表情のまま、ほんの僅か彼女自身の色を残す指先を握りしめていた。しかし、強く姉の手を握るその指先は、彼女の顔と変わらないほどに白く色を失っている。その光景に、俺は一瞬、立ち尽くしてしまう。
 しかし、先程まで自らが目にしていたセオの文がこの身へ示してくれた答えに、力を失いかける身体を奮い立たせる。そして、対応に当たる職員たちに交じり、ディムの容態を確認していった。
 ベッド脇の機器の画面に流れ続けるデータは、ディムの決定的な衰弱を明白に示している。今この状態となって自分たち医師ができることは、患者の迎える〝眠り〟への安寧な導きと、その後、確かに有効な治療法が発見されるまでの患者の身体を適切に保存するための準備のみであることを、俺は誰より分かっていた。しかしそれは〝理解〟であり、〝納得〟とは決定的に違う。
 現状で可能な範囲の対応を行いつつ――俺は、まだ、彼女の笑顔を失った後の自身の闘い方を、どこか決意しきれないままでいた。
 その時……ひとつの、声が聞こえた。
この島に来て以来、色を失いつつあった自分の毎日を、眩しく彩り続けたその声が。

「セン、セ……」

 思わず手を止め、振り返った俺に、ディムはもうほとんど自分の意思で動かすことのできない声帯を懸命に震わせ、真っ直ぐに俺を見て言った。

「……うみ、たのし、った……ね。センセ、セオといれてく……たの……はじめて、で、わたし」

「あり、がと……うれし、かったの。だか、ら」


「じぶん、のこと……ちゃんとぎゅ……て、して、あげてね……?センセー……」


「……ディ、ム……――――」

 ――――この子は。気付いて、いたのだろうか。
 俺が、ずっと、抱え続けてきてしまったもの。
 自分の生を愛せない、その痛みを。
 じわりと、柔らかな熱を持っていく思考の傍らで、ディムへ繋がれた機器の微かな警告音は高さを増していく。しかし、その残酷な転調を止めるすべを、俺たち人類は今、誰一人として持たない。これまでもそうだった。それが、それこそが――俺は、何よりも、許せなかったのに。
君は、許すのか。
こんな人類を。――こんな、俺を。
 君と、君を誰より愛する人を――こんなにも長く側にいた末に、今はまだ救うことすら出来ないのに。

 それでも。君はきっと、その誰より鮮やかな表情で……俺たちに、この世界に、微笑むんだろう。
 ――――それならば。
 これからの俺が、もう一度闘うべきものは、きっと。

 再びの警告音。震える指先で、機器を調節していく。一時と信じる彼女の眠りを、ほんの少しでも穏やかなものへ導くよう。
 そうして、ディムの瞼は徐々に、花が開かれたその花弁を蕾へ戻すよう、やわらかに閉じられ始める。おそらく、もう彼女の身体からは、彼女の意思で力の籠められる場所はすべて失われつつあるのだろう。
 その力無き右手を、セオは、永久の様に強く握りしめていた。
 少年の表情は、動かない。その力を込めた手に、小さな肩に、微かな震えを宿すこともない。しかし、ディムだけを真っ直ぐに見つめるその瞳だけは……壮絶なまでの青い光を、彼の眼差しに散らしていた。
 最終警告を知らせる、アラームの甲高い音が部屋中に響く。その中でなお、セオの感覚のすべては、ディムだけに向けられているように見えた。

 その時。

 動かなくなったはずのディムの左手が、ふるりと持ち上げられたのだ。その指先が、セオの頬にそっと触れる。
 もう自らの意思で表情を浮かべることの出来ないはずのその顔が、ゆっくりと、動いて。
 ディムは――――笑った。

 かつて、弟と俺の隣で歌った、その声で。
 彼女は、弟に、言った。



「ただいま、せお」



「――――――おかえり、ディム」



 ねえ、これは、終わりなんかじゃない。だから、大丈夫。

「ずっと、一緒に行くよ」

 囁いたセオの頬から、雫が零れ落ちた。 それは、彼がこれまでの生の中で手にした、最大の感情の欠片。

 片割れの一人が眠るとき、二人は、一つに戻れたのだろうか。

 そうして、緑の双子の片割れである少女は、柔らかな眠りについていった――――。

***

あの日から、数日が経った。
 彼女の眠る面会室へ足を入れると、そこには既に、小さな少年の背中があった。
 陽の当たるベッドの上で、自らの緑とその周りに敷き詰められた可憐な花々に抱かれながら、彼女は幸福な表情で瞼を閉じている。
 少年は、可憐な花に抱かれたその頬に、柔らかく指を伸ばした。その横顔に浮かぶのは、ぎこちないながらも、瞳の奥に暖かな光を湛えた淡い微笑みだ。
「――おはよう、姉さん」
 そうして静かに落とされた声は、以前の様な無色ではない。
「おはよう、ディム、セオ」
 俺が欠けた声に、勢いよくこちらへと振り返ってほんの微かに瞳を大きくしたセオは、すぐにその表情をかつてのような平静そのものの顔へ戻すと、少し抗議を含んだ目でこちらを見遣った。
「……いたのであれば、もう少し早く声を掛けることもできたのではないですか」
 その言葉に、俺は笑いながら答えた。
「俺としては、極めて適切なタイミングで声を掛けたつもりだったんだが」
「……」
 ディムへの挨拶を聞かれたことが気恥ずかしかったのか、セオは耳をほんの少し赤く染めたまま、それを誤魔化すように普段と比べて少々強い口調でこちらへと尋ねてくる。
「それより、あなたがこうしてわざわざ僕の元に来たということは、何か事柄を伝える目的があったのでは?」
「お前は、ほんとに察しがいいな……」
 セオの変わらず鋭い指摘を受け、俺は彼へ伝えようとしていた内容を告げた。
「今朝、〝陸側〟の方から、正式に連絡が入った。現在の【新世紀症】に関する情報システムを大々的に再構築する案が、世界各国の参加する会議で数日中に立案される」
 俺の言葉に、セオの瞳が大きく見開かれる。その反応を確かめつつ、俺は話を続けた。
「以前から、【新世紀症】患者に関するデータのやり取りが、陸側の一方的かつ鈍重であることに危機感と苛立ちは感じていたんだ。そもそも、僅かながらも年々確実に増加している【新世紀症】患者に対しての情報提供の機会もあまりに少なく、内容も貧弱だ。これは、現状の情報システムが非効率極まりない体制であることと、国のお偉いさんらがどうでもいいことにがんじがらめになっていつまでも様々な決断を先送りにしていることに原因がある。そのことについて、正式な文書で本施設の名を借り、代表してあちらへと送り付けた。初めは渋っていたやつらも、そのままの態度を続けるようであればこちらからの情報提供を一切断つという意思を示した途端、あっさりと態度を翻してきやがっ てな……。昨日までに立案内容をまとめさせ、それが完了したって知らせが今朝届いたとこだ」
 鼻高々に話していた俺に、セオが静かな声で尋ねる。
「その通信の担当、エリオさんでしょう」
「…………うん、まあ」
「そうだとすると、今回の抗議に関しては、エリオさんに最も、そして多大なる負荷がかけられたように思えてならないのですが」
「……今度、世界の美しい海を集めた写真集とか送ろうと思う」
 素直にエリオへの感謝を認めた俺に、セオは、それまでとその眼差しを少し変え、口を開いた。
「……僕からも、一つ、あなたにお話があります」
その声色に、こちらも態度を改め、彼を真っ直ぐに見つめ返す。そしてセオは、確かな決意を湛えた声で、俺に言った。

「――研究を、したいのです。僕たちの病の研究を、自分自身で」

「……セオ……」
「自分たちの病を、治すためだけに研究に取り組みたいのではありません。この病について、知りたい。この、僕たちの〝緑〟の事を」
 そう言ったセオは、ほんの少し躊躇うように言葉を切った後――こちらを見上げ、姉と同じ真っ直ぐな瞳で、俺に伝えた。

「もしかすると……こうして人体を染めていくその色素のみを、特定の部位へと移す方法だってあるかもしれない。それは――もしかすれば、〝瞳〟にだって」

「……瞳、に……――」

この瞳に、〝緑〟を。
二人と同じ――――その、色に。

「……悪く、ないかもな」

 その緑は、気高く、美しい。
彼らと同じ色を持った自分の瞳は、この世界を、どう映すのだろう?

――『センセイ、いっしょ! うれしい!』

 弟と自分の立つその傍らで、すべての人々へと示された屈託のないその表情の如く色とりどりの花へ包まれたベッドで眠る君は、そんな自分の瞳を見た時、そう言って鮮やかな笑顔を見せてくれるだろうか。そう考えた瞬間、脳裏によみがえった彼女の花咲くような笑顔と澄んだその声に、俺は淡く微笑んだ。
「……あ! 二人ともここにいた! 昼食の準備できたらしいから、もう少ししたらおいでー!」
 部屋の前の廊下を偶然通りかかったらしいエリオが、部屋の入り口から顔を覗かせ、こちらへと呼びかけている。
「おー、今行く!」
 その変わらずのんびりした声に答え、セオのほうを見遣れば、彼も小さく頷いた。
 天頂へともうじき辿り着く陽の光が、快晴の空と共に、ディムとセオ、そして自分のいる部屋へと真っ直ぐに差し込む。
 放たれた窓から柔らかに吹き込んだあの日と同じ海風が、軽くなった自分の前髪を軽やかにさらっていった。


テーマ:「今日の幸せを知る」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:55

Lavender

『今日の夜うちに来る?』
『晩御飯、何』
『豆乳鍋にしようかなって』
『了解』
 砂織からの返信はいつも簡潔で、早い。私はちんたらと返事を待たせるタイプだから、そんな彼女が羨ましかった。買い出しに行こう。白菜、大根、にんじん、ネギはうちにあるから、あとは豆乳とつみれ。それに豚バラも安かったら嬉しいな。あっ、お米も炊いておかなきゃ。確か冷やご飯のストックを切らしちゃっていたはず。豆乳鍋のシメに、雑炊は欠かせないよね。

「はい、じゃあ今日はここまで。解散!」
 会長がパンと手を叩くと、一気に緊張の糸が切れみんながふうと息を吐いた。私と砂織の所属する演劇同好会は毎週金曜に通し稽古を行っており、その後二人で我が家に向かい晩ご飯を食べるのが恒例だ。元々家が近いのだけど、数ヶ月前たまたまスーパーで出会った彼女は脂っこいお総菜ばかり買い上げていて、見かねた私が自宅に招いたのが始まりだった気がする。
「詩穂ちゃん」
 砂織を探してきょろきょろしていた私に声をかけたのは、彼女ではなく先輩の悠翔さんだった。人なつっこい笑みとふわふわの猫っ毛がトレンドマークで、地味で目立たない私なんかにも優しくしてくれる素敵な人だ。
「この後、暇? 良かったらみんなでご飯行かないかなって」
「悪いけど、今日は二人で用があるんで」
 悠翔さんと私の間に割って入るようにしてやってきた砂織は、息を切らせて言った。悠翔さんは、残念とさほどがっかりした風も無く手を振って離れていった。
「別に良いのに、みんなとご飯食べに行っても」
「でもあんた、もう食材買ってるんでしょ」
「そうだけど、そんなのどうとでもなるよ」
「いいの。私大人数で食事するの苦手だし」
 砂織が早く行こうと手を引っ張るので、私は慌てて荷物を纏めた。

「ねえ、もういいでしょ」
「まだ早い! もうちょっと待って」
 お腹空いたーと騒ぐ彼女を横目に、私はじっと鍋と見つめ合っている。もう少し、まだ食べ頃じゃ無い。じっくりコトコト火にかけた鍋はどんどん良い匂いを増していき、私のお腹ももう我慢の限界が近い。その時鍋ぶたの端からふつりと泡が吹き出てきた。沸騰してる、今だ!
 ふたを開けた瞬間、もわわっと蒸気が溢れだして、私の眼鏡を一瞬で曇らせた。慌てて外すと、パッと顔を明るくした砂織が箸を構えているところだった。慌てて菜箸で鍋の中をチェックする。ネギはくたくたに煮えているし、白菜は芯までトロトロだ。にんじんを刺すとスッと箸が通る。うん、もう大丈夫。お玉で優しくすくって彼女のお皿に盛り付ける。
「いただきます」
 そう言うやいなや砂織は大きな口を開けて具材をかき込んでいった。何度見てもその豪快な食べっぷりはすがすがしくて好きだ。負けじと私もたっぷりよそって頬張った。豚バラの甘さがまろやかな豆乳とあいまって、もう、最高。
「あつっ」
「どうしたの、大丈夫?」
 見ると砂織はつみれを咥えて涙目になっていた。こいつが意外にやっかいで、表面温度は下がって大丈夫と思ってかぶりつくと中がアツアツのままなのだ。通称つみれトラップ。きっと私しか呼んでいる人はいないだろうけど。
「はいお茶。そんな慌てて食べなくても逃げないよ」
「ありがと。わかってるけど、お腹減ってるからつい」
 フーフーと執拗に息を吹きかけるその姿がなんだかおかしくて笑ってしまった。こうしちゃいられない、私も食べないと。砂織はかなりハイペースでどんどん食べていくので、鍋みたいに一緒につつく料理だと気づいたら自分の分が無くなっていた、なんてことになりかねない。
 食べ盛りの女子大生二人がかりで、小さな鍋はあっという間に中身を消してしまった。残った汁に軽く洗ったご飯を投入し、ふたをして再びしばらく待つ。ある程度お腹が膨れた砂織も、今度は静かに待機している。
「はい、出来た!」
 白いご飯と白い豆乳。真っ白でふわふわで、幸せな雑炊の完成だ。れんげですくってたっぷり頬張ると、思わずほうとため息が出た。砂織も恍惚とした表情を浮かべている。お米の間にふわとろの湯葉が絡まってたまらなく美味しい。このために市販の鍋の素を使わずに豆乳を買ったんだ。成分無調整のものを使うのがポイント。
「うちじゃシメに雑炊じゃなくって、最初からうどんを入れて一緒に食べるんだ
よね。だから、なんか新鮮」
「え、それはそれで美味しそう。絶対うどんと合うよね」
「雑炊も美味しいけど、うどんもいいよ」
「今度やってみようっと」
はふはふもりもり食べていくと、雑炊もあっという間に完食してしまった。冬はやっぱり鍋が好きだ。洗い物は少なくてすむし、具材を切って適当に煮込むだけでお手軽に完成するし、なにより美味しくてあったまる。こたつに、卓上コンロに、土鍋。冬の三種の神器だ。
「ほい、デザート」
「わっありがとう! 紅茶淹れるね」
 私が頑なにご飯代を受け取らないせいで、砂織は代金代わりに手土産を持ってきてくれるようになった。それはデザートだったりお酒だったり日によってまちまちだけど、今日はどうやらクッキーらしかった。私はアッサムティーを淹れてそわそわしながら戻った。砂織が持ってきてくれるものには、外れが無い。
「お待ちどおさま」
 砂織は既にオシャレな箱を開けてクッキーを取り出していた。うっすら紫がかった点々がアクセントのそれは、甘い匂いをほんのりと漂わせている。
「良い匂い……」
「でしょ? ラズベリーのクッキーなの」
「へえ、初めて見た」
 ラズベリーの紅茶は一度飲んだことがあるものの、クッキーもあるなんて知らなかった。一口囓ると、ふわりとした甘さの中にパッと広がる華やかなラズベリーがすがすがしい。これは紅茶に合う。あまあまのミルクティーも好きだけど、ストレートにして正解だった。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした。大丈夫? 足りた?」
「ん、大丈夫。ありがと」
 満足げに頷くと、砂織はスマホを開いた。私も食器を下げると、昼間買ったマンガを手に取った。ご飯を食べ終わった後、私たちは特に会話をするでも無く各々好きなことをして過ごしている。別に話さなくたって寂しくないし、互いに干渉しすぎないこの適度な距離感が私は好きだ。こうしてゆったり過ごす夜は、悪くない。明日の私に洗い物を押しつけていることを除いては。
「あ、そろそろ帰るね」
 砂織は決まって、日付が変わる頃になると帰ってしまう。何度か泊まっていけばと提案したことはあるが、彼女が頷いた日は無かったので諦めた。
「砂織、手袋忘れてる」
「あ、ほんとだ」
「もう、外寒いんだからしっかりあったかい格好しなきゃ駄目だよ」
「はいはい、おかんかあんたは」
 そういって彼女は目をキュッと細めて笑った。猫のように大きくて釣り目気味な砂織の目は、笑うと柔らかい印象になって可愛い。少しオーバーに引かれたアイラインが魅惑的にゆがむ。
「じゃね、お邪魔しました」
 彼女が帰った後の部屋は少し寒くて、私はいつもそそくさとこたつにもぐりこむのだった。


『砂織―、今日の晩御飯が思いつきません。決めてください』
『えー、別に何でも良いんだけどなあ……』
『なんでもいいが一番困るの!』
『じゃあ、肉』
『食材じゃなくて料理名!』
『だから何でも良いってば』
 たまにこういうことがある。考えても考えても晩御飯のメニューが思いつかない。悩みに悩んだ末、スーパーで安く売っているものにしようと先送りにする。スーパーに向かったところ、豚ロースが特売だった。一〇〇グラム八八円。そんなに肉が食べたいなら肉々しい料理にしてやろう。今晩のメニューはトンテキに決定した。
 豚肉の筋を切って下ごしらえをし、味噌やコチュジャン、その他諸々を混ぜた
タレの中に漬け込む。冷蔵庫に突っ込んでしばし放置。後は夜に焼くだけで、ウマ辛トンテキの完成だ。金曜は全休でサークルの練習があるのみなので、日中こうしてゆったりと晩御飯の準備が出来るのは嬉しい。もっとも、時間があったところでたいしたものは作れないけど。

 舞台の上の砂織は、何者も寄せ付けないオーラを放っている、と私は勝手に思っている。中学から演劇をやっていたというだけのことはあって、一年生だてらに先輩方と互角、いやそれ以上の演技力で誰をも魅了する。スポットライトは彼女のためだけに輝いて、観客もキャストも皆彼女に賞賛の拍手を惜しみなく浴びせた。たかが練習でも、舞台は彼女の独壇場だった。
「今日もすごいね、砂織ちゃん」
 いつの間にか悠翔さんが隣に来ていた。彼は砂織と同じ役者だけど、私は彼らとは違い裏方のスタッフだ。ステージに立つ役者の人たちは私たち裏方とはちょっと壁みたいなものがあって苦手だけど、砂織も悠翔さんもそんなの気にせず話しかけてくれる優しい人たちだ。
「ほんと、すごいですよね。スターって言葉は砂織のためにあるみたい」
「あとは協調性がもうちょっとあればいいんだけどなあ」
 そう言って悠翔さんが苦笑する。ステージの上では、先輩に飛ばされた指摘に対して砂織が噛みついている最中だった。
「俺なんか特に嫌われてるみたいだし」
「悠翔さんが? 砂織にですか?」
「うん、あの子俺に対して当たりがキツい気がするんだよなあ。って、詩穂ちゃん以外には大体キツいみたいだけど」
 確かに砂織は目つきが悪いし、ぶっきらぼうで愛想が無いし、先輩にも容赦なく反抗するかわいげの無い人に見える。私も話すようになるまでは、正直ちょっと怖かった。でも実際に話してみると、彼女はコロコロ表情を変えるし、本当に美味しそうにご飯を食べてくれる可愛い人だ。怖いやつだと誤解をされるのは、ちょっと悲しい。
「砂織、すっごく良い子なんです。誤解しないであげてください」
「大丈夫、わかってるよ。そうじゃなきゃ詩穂ちゃんが友達にならないもんね」
「とも、だち」
 違うの? と悠翔さんが眉を上げた。私は小首をかしげた。改めて考えたら、わからなくなってしまった。
「私、砂織と友達なんでしょうか」
「俺の目には仲良しに見えたけど、実はそうでもないの?」
「そういうわけでは無いんですが……、何をもって友達と呼べるのかなあって」
 うーん、と悠翔さんは腕を組んでうなった。
「そう言われると困るなあ。あっ、休日でもわざわざ待ち合わせて買い物に行くとかじゃない? ただの知り合いならしないでしょ」
「私、砂織と外出したことありません……」
 よくよく考えると、サークル以外で砂織と会うのは我が家でご飯を食べるときだけだ。一緒に洋服を買いに行ったり、オシャレなカフェでお茶したり、なんてことは考えたことがないわけじゃないけど、誘って断られるのも傷つくなあと思いノータッチでいた。
「あとはほら、お互い呼び捨てしあうとか!」
「……私、砂織に名前で呼ばれたこと無いです」
あからさまにしょぼんとした私を気遣って、悠翔さんはあめ玉をくれた。あやし方が幼稚園児相手だ。なんだか笑顔になった。
「じゃあさ、明日俺とお茶しない? どうせなら映画とかも見てさ、一緒に遊ぼうよ」
「私と、ですか」
「そう、詩穂ちゃんと。俺、前から詩穂ちゃんともっと仲良くなりたいと思ってたんだよね。用事ある?」
「いえ、大丈夫ですけど……」
「よし、決まりね。じゃあ一〇時に駅の改札で」
 爽やかに手を振って去って行った悠翔さんと入れ替わりで、汗だくの砂織が駆けてきた。
「お疲れ様。はい、タオル」
「ありがと。今日はもう上がって良いってさ」
「やった、じゃあ着替えて早くご飯食べよっか」
 砂織の毛先からしたたる汗が色白の鎖骨に落ちて、なんだかとっても色っぽかった。

 家に帰ると、丁度良い具合に炊飯器がピーピーと炊きたてを知らせた。私は日本中の人に伝えたい、炊きたてのお米がいかに素晴らしいかを。まずふたを開ける前から立ち上る蒸気がふわんと甘い香りでたまらない。そう、お米は甘いのだ。
それを知らない人があまりに多すぎる。曇ってしまった眼鏡を外しふたをカパッと開けると、蒸気のカーテンの中から光り輝くご飯粒が姿を現す。そこにそっとしゃもじを差し入れて、一粒一粒を潰さないように優しく混ぜていく。その度にふわっと揺れる匂いを堪能するのが、食いしん坊としてはたまらない至福のひとときだ。
冷蔵庫から取り出したトンテキを、油を引いたフライパンに入れ火にかけた。焼いている間に、キャベツを千切りにする。ぶきっちょな私は細く刻むことがなかなか出来なくて、これじゃせいぜい百切りだよなんて思いながら泣く泣くお皿に盛り付けた。千切りは失敗した後のリカバリーがきかないから嫌い。変に手を加えるとみじん切りになっちゃう。フライパンがじゅうじゅうと美味しそうな音を立てている。でもまだ早いかな。冷蔵庫から豆腐を取り出して切り、かつおぶしをちょんと乗っけて冷や奴の完成。ここでやっと火を止めて肉を取り出す。まな板の上でちょっと冷まして中まで火を通し、スッと包丁を入れた。よし、手抜きだけど美味しいからいいでしょ定食、完成!
ご飯を運ぶと彼女は本に夢中だったようで、ごめん後ちょっとだからと顔を上げようとしない。冷めないうちに食べなよと伝えて、私は先に食べちゃうことにした。
「お、めっちゃあからさまに肉だね。いただきます」
「だって、砂織が肉食べたいって言ったんじゃん」
 程なくして本を置きトンテキにかぶりつく彼女の顔はやっぱり可愛くて、私だけが知っているんだと思うとちょっと嬉しくなった。
「なににやけてんの」
「んー、今日悠翔さんが砂織怖いって話してて。でもそんなことないよなあって」
 彼の名前を出した途端、砂織がちょっと眉をひそめた。
「あれ、もしかして悠翔さんが嫌いだった?」
「別に、そういうわけじゃないけど」
「ならもうちょっとどうにかしなよ。砂織に嫌われてるんじゃないかって気にしてたよ」
 ふうんと気のない返事をして、砂織は冷や奴を箸でぷちんと切った。しまった醤油を出し忘れたと思ったけど、彼女は気にせずもぐもぐと味わっている。いいんだ、醤油の無い冷や奴でも。自分用に今更取ってくるわけにもいかず、私もそ
のまま食べることにした。うう、味が物足りない。そしてかつおぶしがめちゃくちゃ口の中にひっつく。
「別に良いよ、他の人に何言われようが」
「私が良くないよ、砂織見た目ほど怖くないのに」
「生意気言うのはこの口か」
 砂織がにやけながらズボッと切れていない千切りキャベツを私の口に突っ込んだ。思いの外長くて口の端から垂れ下がってしまった。なんでこんなに繋がってるんだ、もはや才能かな? とりあえずもぐもぐしていると、砂織はトンテキをつまみながら話を続けた。
「ほかには何話してたの。ずいぶんと仲が良さそうだったけど」
「明日一緒に映画見に行こうって誘われちゃった」
 砂織の箸がピタリと止まった。一緒に行く? と誘ってみたけど、無言でふるふると首を振られた。ほらね、やっぱり。わかってはいたけど、少し落ち込む。食事を再開した彼女は、いつの間にか私よりも早く食べ終わってしまった。
 今日の手土産は入浴剤で、ありがたく今度使わせてもらうことにした。砂織はさっき読み終わったはずの本を開いて、一から読み直し始めた。
「そんなに面白い? その話」
「すっごくお気に入り。もう五回は読んでるんだけどね」
「じゃあ私も読んでみたいな」
「いいよ、貸したげる。今日置いて帰るね」
「やったあ」
 テレビをつけると、芸能人の名前特集なんてものが流れていた。特に面白くも無いけどなんとなく眺めていると、そういえば、と砂織が口を開いた。
「私の名前さ、変わってるでしょ」
「確かに、あんまりその漢字はあてないよね」
「実はこれ、出生届にお父さんが書き間違えちゃったんだよね。本当はさんずいのオーソドックスなやつだったんだけど」
「なにそれ、変更できなかったの?」
 残念ながら、と砂織は肩をすくめた。
「昔は確かに嫌だったけどね。でも、最近じゃちょっと気に入り始めたかな」
「どうして?」
「私に似合ってるじゃん」
 砂を織る。そう書く彼女の名前が似合ってるっていうのがわからなくてじっと見つめていると、微かに花の香りが漂ってきたような気がした。さっきまでは食事の匂いにかき消されてわからなかったけど、ゆっくり意識して息を吸い込んでみると、それは砂織の方から来ているようだった。
「あれ、香水つけてる?」
「お、当たり。良く気づいたね」
「いつもと違う匂いがするんだもん」
 注意しないと嗅ぎ分けることが出来ないほど微かで、それでいて一度気づくと惹きつけて止まない、そんな不思議な香りだった。
「ラベンダーの香水なの」
「へえ、こんな香りがするんだ。この間食べたクッキーとはまた違う感じだね」
「ね、面白いでしょ」
 そう言って彼女が笑うと、八重歯がちろりとのぞいた。見る度に、唇とこすれて口内炎が出来ないかなあなんて少し心配になる。余計なお世話かな。
「正直、ラベンダーってトイレの芳香剤のイメージだったから意外」
「あんたサイテーだね。人の香水を言うに事欠いてトイレの芳香剤呼ばわりって」
「冗談だよ!」
 オタオタする私を砂織はニヤニヤと眺めて、私にでこぴんを食らわせた。


「で、これがその時出来た傷なんですよ。砂織爪伸ばしてるから引っかかれたみたいになっちゃって。ひどくないですか?」
「ははっ、仲が良さそうでいいじゃんか」
 翌日、私は約束通り悠翔さんと映画を見に行ってそのままカフェへと向かった。映画はお約束展開のラブロマンスで、途中から完全に先が読めてしまい正直つまんなかったけど、悠翔さんはいたく感動したらしく瞳を潤ませていた。
「詩穂ちゃん、砂織ちゃんの話ばっかりだね」
「そうですか?」
「そうだよ、自覚無いの?」
 自覚が無いわけでは無いが、悠翔さんと共通の話題となると必然的にサークル関係になってしまうだけだ。そして私は、砂織以外とはあまり話さないわけで。ほかの話を一生懸命考えたけど思いつかなくて、誤魔化すようにコーヒーをすすった。薄くて酸味が強い、苦手なタイプだ。
「なんで、悠翔さんは今日私を誘ってくださったんですか」
 話すことも無い、私なんかといて楽しいんだろうか。そもそも何故私と映画を見に行ったのかがわからない。そう言うと悠翔さんは、ちょっとため息をついて顔を背けた。向けられた耳が真っ赤になっている。
「あー……なんていうか、もっと詩穂ちゃんと仲良くなりたかったから、かな」
「はあ」
 わけがわからずぽかんとしていると悠翔さんは、やっぱ遠回しじゃ伝わんないか、と頭をかいた。ふわふわの毛先がぴょこぴょこと跳ねて揺れる。
「俺、詩穂ちゃんが好きだよ」
 あまりの衝撃に何も言葉が出てこなかった。悠翔さんは私の目をまっすぐ見て、君の笑顔に惹かれた、気づいたら目で追うようになっていた、なんてことを早口で述べた。
「急にこんなこと言って混乱させたと思うし、俺のこと全然知らないと思うから、返事は急がないよ。ゆっくる時間をかけてもっと仲良くなって、お互いのことを知って、それから判断して欲しいんだ」
 そう言って颯爽と私の分までお会計を済ませてくれた彼はとってもスマートで、私はどうしていいかわからなかった。


「ねえ、ねえちょっと、焦げてるってば!」
 砂織の大声でハッとすると、グツグツ煮込んでいたはずのミートソースは黒い煙を上げて焦げ付いていた。慌てて火を止めると、今度は隣の寸胴がブワッと泡を吹き出した。そうだ、パスタも茹でてたの忘れてた。どのくらい放置していたのだろう。麺はぶよぶよでソースは焦げ臭い。とてもじゃないが食べられたもんじゃなくなってしまった。
「ごめんなさい……」
「謝ることじゃないよ。それより大丈夫? なんかおかしいよ、あんた」
 悠翔さんの告白は一週間経っても私の耳にこびりついていて、今週は何をやっても上の空だ。仕方が無いから二人してコンビニに出向き、お弁当を買ってきてチンした。今時のコンビニ弁当はなかなかにハイクオリティで、毎日ご飯を作っているのがなんだか馬鹿らしくなってしまう。それでも砂織は、あんたのご飯の方が好きだな、なんて言ってくれるからにやけてしまう。
「で、何かあったの」
 食後のコーヒーをすすりながら、彼女は言った。たった百円でコーヒーを提供するコンビニはすごい。私もちょっとぬるくなったカフェオレをこくりと飲んだ。ほどよい甘さが浮ついた気持ちを大人しくしてくれた。
「実は、悠翔さんに告白されたの」
 砂織が空になったカップを叩きつけるようにしてテーブルに置いた。そうして私の方を見ずに、それでどうしたの、と小さな声で尋ねた。
「まだ返事はして無くて、迷ってるんだけど……受けようと思う」 
「どうして」
 砂織の声は微かに震えていた。
「どうしてって、断る理由もないし……。少しずつ仲良くなってお互いを知ろうって言われて、嬉しかったの、私」
「そう、あんたは告白されたら誰でもオッケーするような人なんだ」
「そういうわけじゃないけど」
「……帰る」
 砂織は急に立ち上がって、大股で玄関に向かっていった。
「ちょっと、砂織」
「なに」
「なにって、なんでそんなに怒って」
「別に怒ってない」
「怒ってないならこっち見て、砂織、砂織!」
 無理矢理引き留めて振り返らせると、砂織は涙目で私を睨んだ。目力に思わずひるんだすきに手を振り払われた。
「……もう、来ないから」
「なんで、そんなこと言うの」
「だって、彼氏が出来るんでしょ。私なんて要らないじゃん」
「どうして? ね、私たち友達だよね」
「あんたのこと友達だなんて思ってない」
 震える声で砂織は言った。私は頭をがつんと殴られたかのような衝撃に襲われて、視界がぐわんぐわんした。ねえ悠翔さん、やっぱり駄目じゃないですか。私、砂織と友達じゃ無いって。頭の中に靄がかかってるみたいに思考が重い。急に冷たくなった彼女が理解できなくて、わからなくて、少し怖い。でも涙目の端で滲むアイラインが、私に一つの推測を与えた。
「もしかして……砂織、悠翔さんのこと好きだったの」
「違う!」
 彼女は自分の大声にびっくりしたように肩を震わせて、そして小さな声でそうじゃないのと言った。
「砂織、こっち向いて」
「……やだ」
「砂織」
 そっと袖を引っ張ると、彼女が赤い目をしてやっとこっちを向いた。どうしてあなたが泣くの。わからなくて私まで涙が出てきた。砂織が私の頬に手を伸ばしかけて、何かを逡巡したようにピクッと指を震わせて、そして腕を下ろした。
「詩穂」
 絞り出すようなその声はか細く震えていて、ともすれば私の嗚咽にかき消されてしまいそうだった。
「……砂織、初めて名前呼んでくれたね」
「ごめん」
「砂織!」
 もう彼女は振り向いてくれなかった。玄関のドアが閉まる直前、ごめんねと、もう一度だけ聞こえた気がした。

 ふらふらと部屋に戻ると、まだラベンダーの香りが漂っていて、彼女がそこにいるみたいで、また涙が溢れてきた。
 すとんと腰を下ろし、本棚に置かれたままとなっていた彼女の本を手に取った。まだ途中までしか呼んでいないけれども、これを返す機会もなくなってしまった。余命幾ばくも無いヒロインが、主人公の男の子と少しずつ距離を深める、そんな話。ぱらぱらと読み進めていると、ある一文が目に止まった。
『君が呼ぶ私の名前に意味がつくのが、私を君の中の誰かにするのが怖かった』
 死にゆくヒロインが、主人公の名前を呼ばなかった理由。ああ駄目だなと、嗚咽が止まらなくなった。
 砂織に初めて名前を呼ばれて、詩穂って彼女の声で呼ばれて、本当は少し彼女の特別になれた気がした。でも違ったんだ。きっと名前を呼んでくれなかったときの方が私は彼女の中で特別で、さっき私はどうでもいい存在になってしまった
んだ。名前を呼んでも意味を持たないから、だから名前で呼ぶようになったんだ。そう思うとどうしようもなく苦しかった。
 私たちの関係は友達と呼ぶには少し歪で、ほかの名前を付けるにはあまりにも遠すぎた。どうして砂織が私の元から去ってしまったのかわからない。私がわからないからこそ、去ってしまったんだろう。
 耐えきれなくなって携帯を取り出し、悠翔さんに電話をした。
『もしもし、詩穂ちゃん、どうしたの?』
 いとも簡単に私を呼ぶ悠翔さん。震える声で絞り出すように名前を口にした砂織。
「悠翔さん……会いたいです」
 部屋に満たされたラベンダーの香り。私の嗚咽に合わせて、ふわりと揺らめいて消えない。

テーマ:「今日の晩ご飯」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:52

きょうのころしかた

 いつだってそうだ。僕はいつだって、何も満足にこなせやしない。こんな簡単
な、自分の幕引きすらしくじってしまう。
 病院のシーツはどこまでも冷たい色をしている。穢れを嫌うように、四方の壁
もカーテンも何もかも僕を拒絶する白だ。ここは息が詰まる。いや、何処に居た
って息が出来ないのは、今に始まったことじゃない。
 ワンルームの狭いぼろアパートは、思っていたよりずっと通気性が良かったら
しい。七輪を買って、練炭を用意して、全ての窓に目張りをして、用を足して、
火を付けて、いつもより多めに睡眠薬を飲んで、壁により掛かって、目を閉じて。
これでやっと終われると思っていた。ようやく終われると思っていた。けれども
愚かな僕は玄関の郵便受けに目張りを忘れていたようで、そこから漏れ出た異臭
に気づいた隣人があわやガス漏れかと通報したらしい、といった内容を見舞いに
来た大家は目も合わせずに告げた。
「またこういうことあったらね、困るんですよ。年の変わり目で申し訳ないんで
すけどね、月末までには出てってもらえるかしら」
 僕は彼女が持ってきた色鮮やかな果物を見ながら、かすれた声ではいと答える
しかなかった。大家は去り際に小さな声で何かを言い、ぺこりと頭を下げてドア
を閉めた。
 ああ、息が詰まる。

 それからの数日はよく覚えていない。見ず知らずの人たちが入れ替わり立ち替
わり訪れては、やれ検査だのカウンセリングだのと称し僕をつつき回して出て行
った。幸いにも発見が早かったため、何の後遺症も残っていないようですと白衣
のおじさんが笑いかけてきたのを覚えている。何が可笑しい。思い出しただけで
むかむか来て、小石をザッと蹴飛ばした。てんてんと側溝に向かって跳ねていっ
たそいつは、夕闇に紛れてすぐ見えなくなった。
 病院からアパートまでは電車で二駅の距離があったけれども、歩いて帰ること
にした。人混みに行きたくなかった。誰とも会いたくなかった。向こうにしては
ただすれ違うだけの僕なんて何の気にもならないんだろうが、他人は見ているだ
けで惨めになる。人通りのなさそうな街灯の少ない小道を、ゆっくり、ただゆっ
くりと歩いて帰った。道すがら、退院おめでとうと笑って肩を叩いた病院の人た
ちを思い出した。みんな卑怯なくらい僕に優しかった。それはきっと僕が、見ず
知らずの可哀想な人だからだ。大家のほかには誰の見舞いも来ない、孤独で可哀
想な人。何のめでたいこともない、それなのにみんな嬉しそうな顔で拍手してく
れた。これからもしばらくは通うんだよと、一週間分の薬を手土産に。
 随分ちんたらと歩いていたおかげで、家に着いた頃にはとっぷりと日が暮れて
いた。澄み切った冬空に、気持ち悪いくらい白い息が溶けていく。そういえば今
年はまだ雪を見ていなかったな、なんて考えた自分が馬鹿みたいでひとり笑った。
雪なんて見る気があったなら、今頃僕は。
「あの」
 振り向くと、すぐそばまで小さな女が走ってきた。僕もそんなに背が高い方で
はないが、彼女の頭は僕の肩に届くほどしかない。しかもよく見るとハイヒール
を履いている。コツコツと硬質な音を立てて近づくその人は、記憶が正しければ
隣室の住人だ。話したことはおろか、ろくに挨拶さえ交わしたことはなかったが。
「先日はどうも」
 僕の嫌味にも動じず、彼女は僕のことをじっと見つめた。長い前髪の下で小さ
な目が瞬きもせず僕を映す。なんとも嫌な顔をしているなと、我ながら思った。
その瞳がフッと陰り、前髪がさらりと揺れた。
「先日は、余計なことをしてしまい大変申し訳ありませんでした」
「いやそんな、別に」
 今時珍しく、随分と綺麗にお辞儀をする子だ。そんな丁寧に謝られると、僕の
方が困ってしまう。なんと返して良いかわからず、貼り付けたような笑みで目を
そらした。
「謝るようなことじゃないでしょ。人として正しいことをしたわけだし」
「人として正しいことが」
 顔を上げた彼女は何故か笑っていて、僕の吐く息の下で揺らめいた。
「その人にとって必要なことだとは限らないでしょう」
 立ち話もなんですし、お茶でもどうですか。そう言って彼女は、僕を自室へと
招き入れた。

 彼女の部屋は僕と同じ間取りのはずだが、立ち並ぶ棚のせいで一段と狭く感じ
られた。洋服ダンスが一つ、本棚が二つ、そして最後の棚には大小様々な酒瓶が
無造作に置かれていた。
「すみません、色気の欠片もない部屋で」
 バイトでバーテンダーをやってるんです、と彼女は笑った。それにしたって、
自宅に店並の種類を揃える必要はなかっただろうに。
「折角だから何かお作りしましょうか。大方何でも揃っているので、お好きなも
のをお出しできますよ」
「そうだなあ。お酒はそんなに詳しくないから、適当に頼むよ」
 僕がそう言うと、彼女は棚から数本ひっつかんで台所に向かった。そのうちガ
ガガガとやけに耳につく音がした。残された僕はとりあえず部屋の中央に鎮座す
る炬燵に入って、テーブルの上にあるマグカップにいけられた小さな花でも眺め
ることにした。
「エリカっていうんです」
 戻ってきた彼女は、茜色の液体をたたえたゴブレットをついと差し出した。
「君の名前?」
「違いますよ、その花。マスターが軒先で育てていたの、綺麗だからもらっちゃ
った」
「ふうん、じゃ、こっちは」
「これはテキーラ・サンセット。夕暮れみたいな色がお気に入りなんです」
 確かに帰り道と同じ色をしていた。冬はあっという間に夕方が過ぎて夜が来る
から、寂しくて嫌いだ。思えば秋も冬に侵食されてすぐ終わってしまう。欲張り
な季節だ、寒さばかりつのらせて。
 キン、と乾杯の音が部屋に響いた。酒を飲むのは久しぶりな気がする。気持ち
よく酔えない体質なので、元から好んで飲む方ではない。試しに一口ふくむと、
一瞬で舌がキュッと縮み上がった。
「この季節にフローズンは無いだろ……」
「いいじゃないですか、飲みたかったんですから」
 ちびちびと舐めるように消費する僕とは対照的に、彼女はグイッと一気にグラ
スを空け棚に手を伸ばした。今飲んだものもそれなりに度数があっただろう、顔
は真っ赤で瞳も潤んでいる。しかし今度は巷で噂の缶チューハイを飲む気らしい。
どうかしている。
「それで、何の用」
「なにがですか?」
「僕をわざわざ部屋に呼んだ理由」
「そうですね、用ってほどのものは無いんです。ただ少しお話ししてみたかった
だけで」
「はあ」
 何がおかしいのか、彼女はアハッと大きく口を開けて笑った。少し低めで、聞
き心地の良い声をしている。
 しかめっ面をしている僕を見て勘違いしたのか、彼女は申し訳なさそうに肩を
落とした。
「もしかしてお口に合いませんでしたか、すみません」
「いや、ただ冷たくて飲みにくいだけ。結構好きだよ」
「良かった。普段はあまり飲まれないんですか」
「そうだね、気が向いたときだけ。君は見たところ好きそうだけど」
「好きと言えば、好きなんでしょうね」
 他人事のように言って彼女はまた笑った。先ほどとは打って変わって、疲れた
ような笑みだった。
「お酒を飲むと、何も考えずにスッと眠れるんです。だからよく飲んでるんです」
 プシュッと小気味よい音を立ててプルタブが起立する。彼女は口を付けずに、
缶を持ち上げてゆらゆらと回した。伏せた瞼の上で、蛍光灯を反射して黒っぽい
アイシャドウが煌めく。星屑みたいだ。
「ねえ」
 彼女のぽってりと厚い唇は、瞼と違いほとんど紅を落とした後のようでくすん
でいた。
「練炭自殺って、どうでしたか」
「どう、とは」
 全く予期していなかった方向から飛んできた質問に馬鹿になった僕は、間抜け
な顔でオウムよりも拙く返した。彼女は三度笑った。良く笑う女だ。
「そのまんまですよ。準備の大変さとか、死ぬ前の苦しみとか、あと」
 彼女の真っ黒な瞳が僕を射貫いた。小さく息を吸う音が聞こえた。
「死に損なった、気分とか」
 彼女はもう笑っていなかった。
「君は、死にたいの」
 やっとのことでそれだけ絞り出した僕を、彼女はじっと見ていた。
「日課なんです、死に方について調べるのが。でもどれも実行に移せなくて。飛
び降りたら痛いんだろうなとか、電車に撥ねられたら乗客に迷惑がかかるんだろ
うなとか、色々考えていたら何も出来なくって。馬鹿みたいですよね」
 彼女はまた笑った。その自嘲気味な笑みは今までのどの表情とも違っていて、
それがなんだか興味深かった。
「もううんざりなんです。毎晩何も出来ずにぼんやりと机の前に座っているだけ
で、眠ることすら出来なくて、ぼうっと何を考えるわけでもなく夜を浪費して、
閉め忘れたカーテンの間からこぼれ落ちる朝日を見て、ああ今日もまた死ねなか
ったって、そう思いながら泣いて。そんな毎日の繰り返しで」
 震える声で彼女は言った。自分を見ているようだと、そう思った。
 わかる、わかるよ。眠れない夜の辛さも、それでもやってくる朝の恐怖も。世
界でたったひとりになった気分で、ただごうごうと吹きすさぶ風の音を聞きなが
らベッドで自分を抱きしめて目を閉じて。でも瞼の裏に思い出したくも無いこと
ばかり浮かび上がってくるから仕方なく目を開けたら、そこには当然だけど誰も
居なくて、どうしようもなく孤独で。眠れ、眠れと思えば思うほど意識は冴え渡
って、誰か助けてくれよと唱えてみるけれども、助けてくれる当てなんか何処に
も無くて。そうして白んでいく夜空を見送って思うんだ。今日もまだ生きていて
ごめんなさいって、誰に言うでも無く。
 それでもやっと死ぬ決意が出来て、実行にまで移せたのに、それなのに。
 去り際に呟いた大家の言葉がよみがえった。
「ほんとは誰かに見つけて止めて欲しかったんじゃないの」
 違う、違うんだ。僕は本当に死ぬ気で、実行に移すまでどれだけの労力を要し
て、どれだけの決意が必要だったと。お前なんかにはわからないだろうけれども、
僕は本気で。それでも死にきれなくて。死にたくて死にたくて、でも、死ねない。
そんな自分が、世界で一番嫌いで。
「私は死ぬ勇気すら無い、弱い、弱い人間なんです。でもあなたは違った。ちゃ
んと死のうとしてた。私には出来なかったことを、ひとりで成し遂げようとして
た」
 羨ましい。微かな声でそう言って、彼女が机に突っ伏した。羨ましいんです。
もう一度呟いた。泣いているのかと思ったけれど、一呼吸置いて顔を上げたとき、
彼女のほおは乾いたままだった。
「ねえ、どうしたら死ねるんですか。どうやったら死ぬ決意が出来るんですか。
教えてください。ひとりじゃ死ねないんです。死なせてください。どうか、お願
いします……」
 彼女は深々と頭を下げた。肩からカラスのように真っ黒な髪が一房、胸へとこ
ぼれ落ちた。こちらに向けられた小さなつむじを、僕はじっと見ていた。
「結論から言うと」
 ゴブレットに結露した水滴が滑り落ちて、机の上に小さな水たまりを作った。
そこに映った天井は真っ白で、彼女の髪や瞳とは対照的で、この部屋から浮いて
見えた。僕と一緒だ。拒絶されている。この部屋から、この世界から、生きるこ
とから。
「練炭自殺はおすすめできない。なんせガス漏れと間違えられて隣人に通報され
かねないからね」
 おずおずと顔を上げた彼女は眉をひそめて、訝しそうにこちらを伺っている。
僕は精一杯綺麗に笑って見せた。しばらく笑っていなかったから、上手く出来て
いるかどうかわからないけれども。
「手伝ってあげるよ、君のこと。君の死に方を、一緒に探そう」
 僕の決意なんて、死に損なった時点で何の意味も無くなってしまった。また僕
も一から死に直さねばならない。もう一度死ぬ決意を、彼女の隣でなら出来るん
じゃないかと、何の根拠もなくそう思ったんだ。
 こうして僕らは共犯者になった。自分自身を殺すという、馬鹿みたいな殺人の
共犯者に。


「中三の時、卒論で『自殺とは殺人か』ってテーマを扱ったんです。途中で先生
からの圧力に屈しちゃったから方向転換しちゃったんですけど」
「中学で卒論なんてやるんだ」
「うちは中高一貫校だったので、高校入試の代わりに卒論、みたいな扱いだった
んですよね」
 数日後、再び彼女の部屋を訪れた。自殺を試みる前に携帯を処分してしまった
僕が彼女とのコンタクトに用いたのは、部屋の壁を叩くという古典的な方法だっ
た。僕はトントンと壁を二度ノックする。彼女の部屋から、コンッと一度だけノ
ック音が返ってくる。それからのそのそと玄関を開けて、彼女の部屋に向かうわ
けだ。
 今日のカクテルはモヒートというらしい。ミントの香りがツンと鼻を刺し、正
直あまり好きではない。だが透明な液体の中をふわふわとミントやライムが泳ぐ
様子を眺めるのは、悪くなかった。
「で、結果はどうだったの」
「刑法第一九九条には『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役
に処する』とあるだけで、その『人』が他者であるという明言は無いんです。死
んじゃった人を死刑にも懲役にも出来ないからか、現状何も罰せられることはな
いみたいですが」
「それじゃ、僕は殺人未遂に問われてもおかしくないわけだ」
 確かに、と彼女は口の端を歪めた。
「過去の文献とか調べるともっと面白いですよ。ヨーロッパでは自殺者に対する
刑罰が過去存在したんです」
「へえ、一体何を」
「親族の財産没収が一番わかりやすいでしょうか。自分以外にダメージが行くタ
イプの処罰ですね。後は手と身体を別々に埋葬するとか、死体を市中轢き回しに
かけるとか、死体を傷つけるタイプ」
「ああ、その辺は宗教観が出てるのか」
「そうなんですよ」
 キリスト教の終末思想。神が地上に降りてきて、全ての死者を復活させてくれ
るという教えがあるらしく、彼らは死体の土葬にこだわっていたと聞いたことが
ある。僕も彼女も苦笑した。死で終わりじゃ無いというならば、僕らの救いなん
て何処にあるというのか。
「実際に私、同級生相手にアンケートを行ったんです。『これらの刑罰が現代社
会で執行された場合、自殺者は減少すると思いますか』って。答えはNOが大半
を占めていました」
「理由は?」
「『死後何をされても自分には関係ないから』」
「ふうん、そう」
 それはきっと。
「きっと、自殺するなんて考えてみたこと無いんだろうなあって、そう思いまし
た」
 ヘラリと笑って彼女はグラスを傾けた。僕も同じ考えだ。死ぬのは怖いが、死
んだ後のことだって考えたら怖いさ。だから簡単に死ねないんじゃないか。
「その時のことをなんとなく思い出したから、今日は首吊り自殺について調べて
たんですよ。日本の死刑って絞首刑ですし、割とポピュラーじゃないですか」
「どうだった?」
「……ちょっと、きついなあって」
 彼女は人差し指にクルクルと髪を巻き付けた。一見するとふざけているように
も甘えのようにもとれるその言葉が、僕には泣きたいくらいよくわかった。
 自分でも調べたことがあるが、首吊りは運が悪ければ数分は意識が途切れない
という。しかも死体は涎や糞尿を垂れ流す。死んですら恥を晒さねばならないと
いうのは耐えがたい苦痛だ。死んだ上で更に人から疎まれることは避けねばなら
ない。なるべく死んだ後でも人様に迷惑をかけぬように、死んでいても少しは人
間らしくあるように。そう考えると僕らがとれる手段というのは驚くほど少ない。
何も知らない他人は、そうやって死なない言い訳を探しているだけだと思うだろ
うか。
 彼女が死に方を探すのは何周目だろうか。きっと首吊りだって何度も調べて、
これじゃ死ねないと泣いて、その度に嘆息と共に明けていく夜を見送ったのだろ
う。それでもどう死んだら良いかわからず、また同じことを繰り返すのだ。
「君は、僕の鏡みたいだな」
 漏らすつもりの無かったその言葉は、彼女をちょっと驚いた顔にさせた。放置
されたグラスで、氷がカランと涼やかな音を立てて崩れた。その上に彼女が乱反
射する。変な顔で笑った。ミントが泳ぐ。
「私、あなたのそういうとこ嫌いです」
 彼女はおもむろに立ち上がって窓を開けた。ヒュウと入ってきた不躾な風が彼
女の髪をなぶって暴れる。夜の闇よりも深い色をしてたなびくそれは、なんだか
とても綺麗でため息が出た。
 彼女はそのままベランダに足を垂らし、寒い寒いと言いながらグラスを傾けた。
僕はそんな彼女を見ながら、ミントの香りに顔をしかめた。この空間はひどく居
心地が良くて、それが少しだけ怖かった。


 それから数度、彼女との奇妙な飲み会を重ねた。僕が呼び出すのも彼女に呼び
出されるのも決まって夜更けで、僕らは夜空を肴にグラスを空にした。彼女の死
に方は、まだ見つかっていない。
 何があるというわけでも無いのに早朝目覚めてしまい、やることもなく、さり
とてもう一度寝る気にもなれず無性にいらついた。朝食でも作ろうかと冷蔵庫を
開けるも、ろくな食材が入っていない。どうしたものかと悩んでいると、隣室か
ら微かな物音が聞こえてきた。どうやら彼女も目を覚ましたらしい。
 彼女は毎朝きちんと起きて大学に通い、その後バーでバイトを済まし夜更けに
帰宅する。僕の方は日がな一日何をするでも無く、家でただ時間を空費している。
大学もバイトも僕が既に諦めてしまったもので、あの空間は他者との摩擦で自分
が少しずつ削れていくような感覚に襲われてしまう。それを未だ続けている彼女
は本当にすごいと尊敬しているが、同時に心配になる。僕なんかが心配する権利
なんて、きっと無いのだろうが。
 ガチャリと玄関の開く音がした。彼女が世界と戦いに出る。いってらっしゃい。
僕は再びゴロリとベッドに寝そべった。しかし眠気はやってこない。寝返りを打
つと本棚が目にとまった。元々小説が好きだったのでそれなりの数の蔵書はある
ものの、最近は手に取ることすら稀になった。読んでも内容が頭に入ってこない
し、何より本を開くことすら億劫なのだ。一時はあんなに情熱を傾けていたもの
が、今は僕の首を絞める。好きだったはずのものにどんどん興味を無くしていく。
僕を形作っていたはずのものが、少しずつ失われていく。
 沈黙が耳元でうるさい。鬱陶しくなってテレビをつけた。そこから流れ出る知
らない人の声にほっとする。内容は欠片も興味が無かったけれども、しばらくぼ
んやりと眺め続けていた。
 僕の一日はもう随分と長い間こんな感じだ。生産性は皆無で、意義も目的も見
つからなくて、ひたすら苦痛に耐えながら時間が過ぎるのを待つだけだ。眠くな
ったら寝る。時折思い出したようにご飯を食べる。眠れない夜を嘆いて泣く。た
だそれだけの毎日。最近はここに彼女と酒盛りをする時間が加わって、それが唯
一と言って良いほどの楽しみだ。
 日が沈んで少し経った頃、飲まず食わずで放置していた腹が耐えかねてクウと
か細い悲鳴を上げた。材料を買ってきちんと飯を作る気分にもなれなかったので、
適当にコンビニにでも買い出しに行くかと重い腰を上げる。固いコートを鎧のよ
うに着込んで外に出ると、突き刺すような風が吹き抜けていった。空気は何処ま
でも透き通って冷たい。コートの前をしっかりとあわせて、のろのろとコンビニ
へと向かっていった。
 そこかしこで街路樹が綺麗なイルミネーションでおめかししている。葉をすっ
かり落としてしまっても活用できてお前はいいよな、と当てつけがましいことを
考えながらコンビニに着くと、店員は間抜けな面をしてサンタ帽を被っていた。
「今だけ、チキン二個お買い上げのお客様は恋人割りが適用されまーす」
 吐き気がする。そういえば今日はクリスマスイブだ。誰かと共に過ごすことが
前提の行事は死にたさを加速させる。どうせ僕はひとりだと、惨めな気持ちばか
りが募っていく。サラダとおにぎりと炭酸水と、当てつけのようにチキンを二つ
買った。
「あざっしたー」
 ひとりでお得に二個食べてやるよ、ざまあみろ。店員の間抜け面に内心で中指
を立てながら、逃げるように家路を急いだ。すれ違う奴らはカップルだったり家
族連れだったり、皆幸せそうな顔をして手を繋ぎ合っている。くそ食らえだ。冬
の冷え切った空気が肺を刺す。息が出来ない。子供の耳障りな笑い声が鼓膜にま
とわりついて離れない。イルミネーションがぼやける。惨めだ。とんでもなく惨
めだ。何故僕はこんな世界で生きているのだろう。ひゅっと喉が鳴る。早足で家
に飛び込んで鍵をかけた。僕の家は相変わらず静寂で満たされていて、やっと息
がつけた。
 歩いている間にぬるくなったチキンは拷問でしかなく、その安っぽい脂ぎった
味わいはどうしようもなく気持ち悪かった。二個目にさしかかってすぐ耐えきれ
ずトイレに駆け込んだ。むせた拍子に胃液が鼻まで来て思わず涙が出た。炭酸水
で口をゆすぐ。喉の奥でシュワシュワとはじけた。またえずいて酸っぱい液体を
吐きだした。大して食べてないからもう空っぽだというのに、胃は更に何かを絞
りだそうと捻れる。ジングルベル、ジングルベル。サンタクロースなんてもんが
本当に居るのなら、プレゼントにどうか、僕を。
 ドンドンッと荒々しい音がして我に返った。トイレからゆっくり部屋に戻ると、
もう一度、今度は少し弱めにまたドンドンと壁が鳴った。いつの間に帰ったのだ
ろう、彼女が呼んでいる。コツンと微かな返事をして、彼女の部屋へと向かった。

 彼女は既に真っ赤な顔で、その横には空き缶が二本転がっていた。それでは飽
き足らず、またなにやらグラスに注ぎ入れて作っている。
「今日は、何?」
「シャンディガフです。ビールとジンジャーエールの」
 こんな日にビールか、と苦笑すると、こんな日だからこそです、と彼女はニコ
リともせずに返した。テーブルの隅に寄せられたエリカは、すっかり枯れて土気
色をしていた。
「対局なもの、飲みたくって」
 強めの炭酸が荒れた喉を容赦なく刺激する。無理矢理飲み干すと、同じように
一気に消費した彼女が二杯目を作ってくれた。そして、クリスマスイブだからマ
スターが持たせてくれたんですと小ぶりなケーキを切り分けた。
「何かあったの」
 甘めのショートケーキは驚くほどシャンディガフと合わなくって、面白い味わ
いを生み出していた。彼女はフォークでケーキを突き回すばかりで、口をつけよ
うとしない。
「特に何にも無いですよ。ただいつも通り、いつも通り馬鹿みたいな一日でした」
 甘ったるいクリームをカクテルで流し込む。彼女のケーキはすっかりグシャグ
シャになって、そこで初めてイチゴに手を伸ばした。
「うち、最近新しいバイトの子が入ったんです。私より年下なんですけど、気立
てが良くて明るい子で。本当に良い子なんですけど。でも今日マスターがその子
に話してるとこを聞いちゃったんです。『もうあいつと同じくらい上手になった
んじゃないか』って」
 二年続けてるんです。そう言って彼女は頬杖をついた。
「確かに私不器用で、言われたことも満足に出来ないことが多いんですけど、で
も私なりに一生懸命頑張っていて。二年間必死で、ひたすら練習して。それでや
っとここまで出来るようになったのに。あの子はそんなのお構いなしに軽々出来
るようになって。それがなんだか、無性に悔しくって。
……でもいつものことなんです。こんなの、良くあることですから。私本当に、何
やっても駄目な人間なので」
シャクリと囓られたイチゴは、真っ赤な見た目と対照で純白な中身を晒した。彼
女は酸っぱいと顔を歪めた。
努力は簡単に人を裏切る。僕らは持ち前の見た目だとか器用さだとか、いろんな
ところで生まれつき差をつけられていて、それはどんなに頑張ったところで埋ま
るものでは無い。人は皆平等だなんて理想論が間違っていることに気づいてしま
ったら、もうどうしようもないのだ。それでも頑張れと人は気安く言うけれども、
努力に裏切られ続けても努力し続けられるほど、僕は強くは無かった。成果の出
ない努力への恨みは、緩やかに心臓の周りを取り囲んで鉛の海に沈めた。
「それに街はクリスマスムードで満ちあふれてて、でも私は一緒にクリスマスを
祝う人も居なくって。なんだかやるせないなあって、ここでトラックの前にでも
飛び出して全部ぶち壊してやろうかって、そんなことを思いながら、でも何も出
来ないまま、家に帰ってきちゃって。それで、ひとりで過ごすのがちょっとしん
どくって。ごめんなさい」
 多分、僕らは人より少し、脆くできている。白んでいく夜空だとか、雨の降り
続く帰り道だとか、落ち葉の敷き詰められた校舎裏だとか、そんな当たり前なこ
とにすらひび割れて死にたくなる。だけど死ぬ勇気なんて無いから仕方なく明日
も生きるだけだ。殺せなかった今日が、嘲笑いながら明日を連れてくる。
 彼女は本当に僕と似ている。今まで誰にも相談できなかったこと、死にたいこ
と、死ねなかったこと、傷だらけでそれでも生きていくのが辛いこと、ひとりが
怖いこと。誰かにわかってもらえるなんて思っていなかったから、胸の内に押し
こめて、隠して、閉じ込めてきた感情。それが今、僕の目の前に居ると、そう思
った。
 彼女が死にたい理由を、僕は知らない。僕が死にたい理由も、彼女は知らない。
それは僕らの間で大事なことが、何故死にたいかではなく『死にたいと思った』
この一点だからだ。彼女の名前すら知らない。僕の名前を呼ばれたことも無い。
それでも僕が彼女の理解者たり得て、彼女なら僕をわかってくれると感じるのは、
傲慢だろうか。
「でも僕は、美味しいと思うけどね」
 おかわりと空のグラスを差し出すと、彼女は「やっぱり嫌い」と言って笑った。
嫌いと言われて傷つかないわけではないが、痛みになれきった僕はそうかいと軽
く受け流した。何度嫌いと言われても、不思議と彼女を嫌う気持ちは起こらなか
った。
「クリスマスをやり過ごしたところで、今度は年越しとお正月がやってくるんで
すよね。また出費がかさむなあ」
 シフト増やさなきゃ、とため息をつく彼女を見て、僕は必死に自分の口座残高
を振り返った。奨学金とわずかな貯蓄を食い潰しながら過ごしているせいで、も
ういくらも入っていないはずだ。元より死ぬつもりだったのだからお金など必要
なかったわけで。
「引っ越しのこと忘れてた……」
「え、引っ越すんですか」
「あんなことしたからね、大家から今月中に出て行けって言われてたんだけどす
っかり忘れてた」
 これはもう年末までに死ぬしか無い、時間制限がつけばいかな僕でもなんとか
出来るのではないか、なんてことをしかめっ面で考えていると、彼女はのんきに
欠伸をした。
「じゃ、うちに来れば良いじゃないですか。二人だと流石に狭くは感じると思い
ますけど、なんとかなるでしょう」
「僕が良くても君はそれで良いわけ」
「駄目だったら最初から提案しませんよ。一緒に年越ししましょ」
「……考えとくよ」
「そうと決まれば早速今晩、試しに泊まってみましょうか」
 嫁入り前の娘が、危機感というものは無いのだろうか。複雑な気持ちを抱えな
がら、お風呂へと向かう彼女を見送った。

 客人を床で寝かすわけにはと主張する彼女と、家主を差し置いてベッドを占領
するのははばかられると狼狽える僕との争いは、二人してベッドに寝るというお
かしなところで決着を迎えた。案の定シングルベッドに大人二人が寝そべるとか
なり窮屈で、風呂上がりの彼女からシャンプーの香りがふんわりと漂い居心地悪
いことこの上ない。
「一つだけプレゼント代わりに教えてあげようか、綺麗な死に方」
 明かりを落とした部屋は、彼女の呼吸が良く聞こえた。気まずさを打ち消すよ
うにそう言うと、彼女は小さく頷いた。
「部屋いっぱいに百合の花を敷き詰めて、その中で眠るんだ。百合に含まれるア
ルカロイドって毒には心筋弛緩作用があるから、寝ている間に心臓が動かなくな
って安らかに死ねるってわけ」
 素敵ですね、と彼女が息だけで言って笑った。百合の棺桶に埋もれて眠る彼女。
僕らを拒絶する純白。
「だけどそうも上手くいかないのが世の常というもので。残念ながらどんなに多
くの百合を集めても、致死量のアルカロイドを吸うほどにはならないんだってさ」
「そんなことだろうと思いました」
 僕らは互いにお休みを言い、向かい合って目を閉じた。

 どのくらい経っただろうか。誰かの気配が同じ布団の中にあるなんて久しぶり
で、どうしても眠りにつくことが出来なかった。彼女の呼吸だけが静かに部屋を
満たしている。もう寝てしまっただろうか、なんて考えてた丁度その時、彼女が
もぞりと動いた。
僕を嫌いだと罵ったその口から、ため息のような吐息が聞こえる。彼女は僕の首
に手を回しほおをすり寄せた。その柔らかさが彼女の脆さを表わしているようで
ハッとした。そして僕の頭を、触れるか触れないかくらいの微かな力でそっと撫
でた。僕のことが嫌いなくせに、なんで、そんな壊れ物でも触るように。首に回
された腕にキュッと力が入った。それでも頭を撫でる手は優しいままだった。彼
女が僕の肩に顎を乗せた。耳に息がかかって、背筋を甘やかな痺れが駆け上がる。
赤ん坊のように僕に縋る彼女が、とても愛しいと思った。
 耳の裏で心臓が爆音のまま鳴り止まない。だらしなく伸ばした手は手汗でびっ
ちょりで、彼女がそれに気づきませんようにと願った。それなのに何故か彼女は
僕の左手に自分の手を絡めてきて、やっぱりそっと握った。自分で自分が気持ち
悪くて逃げ出したかったけれども、彼女は手を離さなかった。小さな手だ。握り
返したいと思った。でも僕は目を開けることさえ出来ずにいた。
 気づいてしまった、彼女のせいで。彼女がこんなことをするから。僕は僕が彼
女を想う気持ちが、鳴り止まない心臓の理由が、どういったものなのか気づいて
しまった。それはあまりにも唐突な発見で、自分自身ですら動揺しどうしていい
かわからなくなってしまった。彼女の背に腕を回して潰れるくらいきつく抱きし
めたい。彼女の小さな頭を撫でて、側に居るよと伝えたい。でもきっと、今目を
開けただけで彼女は離れてしまうと、そう思った。
 彼女は僕が嫌いだ、何度もそう言われた。なのにどうしてこんなことになって
いるかは知らないけれども。これは僕が寝ていると思い込んでいるからしている
ことであって、多分起きていることに気づいたら逃げてしまうだろう。そう思う
と動けなかった。彼女がどんなに僕のことが嫌いでも、それでも僕は。
 それは彼女の望む感情ではないであろうものになってしまったことも、痛いく
らいにわかっていた。彼女が僕と居るのは、僕が彼女を死なせてあげられると思
っているからだ。だけどもう、無理だ。気づいてしまったんだ。触れた手の小さ
さだとか、寄せられたほおの柔らかさだとかが、気づきたくなかった感情を否応
なしに自覚させた。僕にはもう君を死なせてあげることが出来ない。全部、君の
せいだ。
こんな気持ち悪い感情を抱えたまま抱き合っているのは罪悪感がつのって、寝返
りを打つふりをして彼女に背を向けた。一瞬離れた腕は、それでもまた背中から
前へと回ってきて僕を抱き寄せた。不意に涙が出そうになって下唇を噛みしめた。
そんな僕を知らずにくっついている彼女の体温が服の上からでもよくわかった。
誰かの熱に触れたのは、いつぶりだろうか。
それから不自然にならないよう何度か寝返りを打ったけれども、彼女はその度ま
た僕に身を寄せた。抱きしめ返したいと思ったけれども、出来なかった。このま
ま朝なんて来なければ、僕が目覚めなければ、ずっとこうしていられるんじゃな
いかと、彼女の腕の中で馬鹿みたいにそう思った。
だけど明けない夜なんてものは無くて、カーテン越しに空が白んでいって、彼女
のスマホがコケコッコーと雄叫びを上げた。随分と原始的なアラーム音だなとぼ
んやり思った。彼女は僕からするりと離れて、起き上がると僕を揺さぶった。さ
も今起きましたみたいな顔をして欠伸する僕の隣で、彼女は白々しく、良く寝た
と呟いた。一晩中眠れなかったくせに、君も、僕も。だけど朝日に照らされたそ
の横顔に涙の筋がなかったから、少しだけほっとした。


翌日、今度は僕の方から彼女の部屋を訪ねた。初めてカクテルをリクエストする
と、彼女はビクリと肩を震わせた。
「どうして、そのカクテルを」
「いや、昔好きだった漫画の合図だったからなんとなく知っててさ。実際は飲ん
だこと無かったから、どうだろうと思って」
「ああ、駅前の掲示板に書いてってやつですか」
「そうそう」
 彼女はホッとしたように息をついて、棚からホワイトラムを取り出した。
「確か合図としてだけじゃなくて、最初の方実際に主人公が飲んでたんですよね」
「あれ、そうだっけ。もうそこまで覚えてないや」
「私もうろ覚えですが」
 出来上がったのは乳白色のカクテルで、ほのかな甘みの後にすっきりと爽やか
な酸味が残る。かなり好みの味だ。美味しいと呟くと彼女は満足げに頷いた。
「ごめん、ちょっと煙草買ってくる」
 カクテルを飲み干して少ししてから、僕はそう言って立ち上がった。彼女は怪
訝そうな顔をしたけれども、いってらっしゃいと言い手を振ってくれた。
 玄関で靴を履き、やっぱり名残惜しくなって振り返った。彼女がなにやらほか
のカクテルを作り始めているであろう後ろ姿しか見えなかった。
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
 彼女は手を止めた。
「君はさ、僕のどこが嫌いなの」
「そういうとこです」
 そう言って彼女はフフッと笑った。後ろを向いたままだったから、どんな表情
をしているかまではわからなかった。僕はじゃあねと言ってドアを開けた。

 外はびっくりするくらい寒くて、凍える両手に白い息を吹きかけた。どこへと
もなくふらふらと歩く。僕は煙草を吸わない。彼女も嘘だと気づいていて、でも
何も言わなかった。引き留められていたなら、僕はあそこに居座り続けることが
出来ただろうか。
 自分で去ったというのに、後悔の波が押し寄せてきた。でもきっと僕はもう彼
女に必要とされることは出来ないから。彼女を死なせることは出来ない。それな
らばもう、僕は彼女の側に居られない。ひどく居心地が良くて、まるで彼女の隣
が自分の居場所であるかのように錯覚してしまう。けれどもそれは、僕が彼女に
自分を押しつけているだけで、言い換えればただの依存で。
わかって欲しい、側に居て欲しい、孤独を埋めて欲しい、生かして欲しい、愛し
て欲しい。そうしてみっともなく彼女の重荷になるくらいなら、これ以上嫌われ
るくらいなら、それなら僕はひとりでいい。僕も彼女も、出会う前の状態に戻る
だけだ。ひとりで延々と死を探す度に出るだけだ。ああそうだ、死ぬ時なんて皆
ひとりでなければならない。死とは本来孤独なものだ。
 ひやりと、鼻の頭に何かが止まった。見上げると、ひらひらと雪が舞い降りて
僕の肩や腕に降り注ぎ小さな染みをいくつも作った。今夜は積もるだろうか。積
もって欲しい。その真っ白な雪の絨毯の下に、僕の足跡なんか覆い隠して。
 道先に小さな灯りが見えた。近づくとそれは花屋で、軒先の花々を雪から守ろ
うと移動している最中だった。
 そうだ、彼女に花を贈ろう。死ねない百合を。荒野で孤独に耐えるエリカは、
もう枯れてしまっていたから。さっき飲んだカクテルが僕の中で熱を持っている。
腹の中から白に呑まれそうだ。雪が勢いを増した。僕も雪のように溶けてしまえ
たら良かったのに。
 彼女は僕がいなくても死ねるだろうか。僕は彼女を知ってしまったのに死ねる
だろうか。そう簡単に死ねやしないよと、泣きながら明日も生きていくのだろう
か。望んでも良いのなら、彼女と共に生きる未来も、きっとどこかにあって。傷
を舐め合いながら互いに身を寄せて眠る、そんな夜を夢見て。けれどもそれは彼
女の望む明日の形では無いのだ。僕は今日を殺せない。でも、彼女と明日を見る
ことも出来ない。
 ふと、一緒に年越ししようと誘われていたことを思い出した。彼女は嘘つき、
嫌いだといって僕を罵るだろうか。それとも、最初から約束ですら無かったこん
なこと、忘れてしまっているだろうか。
 包んでもらった百合の花は本当に花弁の先まで真っ白で、むせかえるような甘
ったるい匂いを振りまいていた。花粉にも微妙に含まれるというアルカロイド。
彼女はこれを吸って何を思うだろうか。あの晩鳴り響いていた自分の心臓をまだ
覚えている。死にたかったはずなのに身体は元気だなと、そうさせた彼女が恨め
しくてちょっと鼻をすすった。
XYZ、もう後は無いという意味のカクテル。別れを告げたのは自分なのに、そ
れなのにこうも涙が溢れて止まらないのは、どうして。

テーマ:「今日の殺し方/今日のカクテル」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:49

あふれるもの、満たすもの

「永井くん」
「ん?」
「僕、席探してくる」
「うん」
 頷いてみせると、紗綾はブーツの音をこつこつと残しながら去っていった。席を探してから買おうと思うのに、いつも忘れてしまうのはどうしてだろう。
「はい、ツナレタスでーす」
 ピンクのエプロンをしたいつもの店員が、同じ色の包装紙に包んだクレープを金属のスタンドにすぽっとはめた。今日のはちょっとツナが多いような気がする。
「お後少々お待ちくださいね」
 ニッコリと笑った店員の女性に会釈して、僕はじっとクレープの焼かれる光景を眺めていた。くるり、と広げられるクレープの生地を眺めるのは何となく面白い。さっきの映画で紗綾が随分と泣いていたことを思い出す。比較的子供向けのファンタジー映画で、僕としては特に泣くところもなかったけれど、紗綾はもうずっと目元にハンカチを当てっぱなしだった。果たしてあの映画の何割を紗綾は見たのだろう。これが意外にも覚えているから不思議だ。五秒に一度は洟をすするような有様だったのに、後から聞くとかなり細かいところまで覚えていて驚く。泣いていれば頭の中はいっぱいいっぱいにならないから、むしろ冷静に見られるのだといつだか紗綾は言ったことがある。初めて言ったのはいつだったろう。あまりに何度も聞いたものだから、いつだったか忘れてしまった。



 紗綾は本当によく泣く。
 声もなく、顔も歪ませることなく、時には微笑みさえ浮かべながら、泣く。ほろり、ほろりと、頬に涙の筋がつく。雫は顎の先へ伝い、胸元に流線型の染みを作る。そうやって紗綾は泣く。前触れもなく唐突に、欠伸をするほどの自然さで。
 何でもないのに泣いてるわけじゃないんだよ、と紗綾は言った。高校二年の時だったと思う。いつものようにショッピングモールの映画館で映画を見た後、これもいつものように、フードコートでクレープを食べながら。紗綾はよく食べる。ツナとレタスのクレープを食べて、それからバナナとキャラメルにホイップをこれでもかと乗せたクレープを食べていた。僕はいちごとチーズケーキの入ったのをひとつだけ。それでも僕らの食べ終わるタイミングはほとんど同時で、どこか負けたような気分になったのを覚えている。その時に紗綾はツナのクレープを食べながら何か、どうでもいい、他愛ない話をしていたのだ。そして喋りながら、唐突に泣いた。そうして泣きながら紗綾は話し続け、その一つめのクレープを食べ終え、残った包み紙をくしゃりと握りこんで言い訳のように言ったのだった。
「何でもないのに泣いてるわけじゃないんだよ」
 鞄からタオルハンカチを取り出して目元を拭う。紗綾がまだメイクというものをしない頃だった。
「ごめん永井くん、ティッシュ持ってないかな」
「使い切ったの?」
「いや忘れた」
「珍しいね」
 言いながらポケットティッシュの使いかけを引っ張り出すと、ありがとう、と言うなり周りが振り返るほど盛大に鼻をかんだ。もう何度か鼻をかんでからティッシュを丸めて、ついでに次のティッシュで口元を拭いて、仕上げにハンカチで頬を拭いた。
「何だっけ」
「何でもないのに泣いてるわけじゃない、って」
「ああ、うん。そう。心の容量が小さいんだ。多分。普通の人がお風呂の浴槽くらいなら、僕のは多分洗面桶くらい。……ああ、洗面桶って、あれね。柄のついてるやつじゃなくて、平たくて浅いやつ。タオルを浸すやつ」
「うん。わかるよ」
「そう?」
「タオルを浸すやつでしょ」
「うん。そう。それ。だから、お湯が溢れやすい」
 紗綾はもうひとつのクレープを両手に持って、大きく一口頬張った。これでもかと整った歯型が残る。ほとんど表情を動かすことのない紗綾の、目尻と頬とが僅かに緩んでいた。一番上のホイップが、かかったキャラメルソース共々紗綾の口に吸い込まれていく。
「……何の話だっけ」
「浴槽と風呂桶の話」
「ああ。そうか」
「そうだよ。器の大きさの話」
「うん。そう。僕の器は小さいの。その小さい器の奥から感情が沸いてきてる。喜びもそうだし、悲しみもそう。あとなんかもっと、掴みにくいものもある。重たくて透明で、とろっとした……葛湯みたいな。葛湯分かる?」
「知らない。何それ」
「あー。そう。じゃあ今度家で作ろう」
 言ってから紗綾が真顔のままクレープにかぶりつき、口の横にクリームをつけたのを覚えている。口の端のほくろの、その少し上だ。

 紗綾はそのことを覚えていて、映画を見たその次の次の週くらいに、紗綾の家で葛湯を飲んだ。紗綾の父は働きに出て不在で、一緒に住んでいる父方の、ミヨさんという名のおばあちゃんがそれを作ってくれた。ミヨさんは二年前に亡くなったけれど、あの時葛湯の入ったコップを差し出した細い手はよく覚えている。紗綾は変な子だけどこれからもよろしくね、と僕の手を握った、その手のひらは見た目に反してふっくらと柔らかかった。その時も紗綾は泣いた。恥ずかしかったのかもしれない。板の間には立派な仏壇があって、そこにもミヨさんは葛湯を上げていた。あそこにいるのはおじいちゃんかと僕は訊いた。母さんもいるよ、と紗綾は言った。紗綾の母はお産の時に亡くなったのだと聞いた。
「これだけ医療が発達したって、人は死ぬ時は死ぬんだなって思った。呆気なく。誰だって、勿論、いつそうなるのかは分からないけど。でも、死ぬ時っていうのがあるんだ。多分」
 紗綾は泣きながらそう言って、葛湯をふうふうと冷まして口に含んだ。
「ねえ」
「何」
「……その涙は、葛湯?」
「ん?」
「その、今溢れ出しているのは、葛湯なのって」
 紗綾は一瞬動きを止めて考え込み、僅かばかり首をかしげた。
「……どうかな。葛湯かもしれないけど。もっと、甘くないものかな。レモネード、とか」
「酸っぱい?」
「ん。そう。酸っぱい。酸っぱくて、あと、ちょっとうわあってなるくらい、苦い」
「全然葛湯じゃないね」
「そう、確かに。葛湯じゃない」
 紗綾はそう言って笑った。珍しく、本当にはっきりと微笑んだ。あまりにもあたたかいあの微笑みは、思い出すだけで心が震える。紗綾のその顔に、僕は、不思議と満足しなかった。
 もっとだ、と誰かが囁いているような気がした。その声は少しずつ大きくなっていって、紗綾の話しかけてくる声をかき消してしまいそうなくらい大きくなった。もっとだ。もっとだ。紗綾はもっと笑える。もっと、腹の底から、涙が出るほど笑うことができる。
 紗綾のおばあちゃんがとてもよく笑う人だったからかもしれない。
 ははは、と笑いこそしなかったものの、ミヨさんはいつも微笑んで、笑うときには口元に手を当てて、肩を揺らすようにして笑うような人だった。少し背中の曲がった姿は昔の美人画のようで、真っ白な髪は柔らかく波打っていた。綺麗な人だった。肺炎になって入院して少し痩せてしまって、それでもやはりミヨさんは綺麗だった。食欲がない、食べられない、と言いながら、温かい緑茶と葛湯だけは微量ながらも最後まで口にしていた。時折、葛粉を買っていってミヨさんの病室で作っていた。黒糖を入れるのがミソなの、とミヨさんが言うから、瓶に入れた黒糖を病室の引き出しに入れておいて、ミヨさんと僕らの分のコップを置いて、スプーンを置いてと、そうこうしているうちに葛湯セットがそこに出来上がってしまったのだった。
 ミヨさんはよく喋る人ではなかった。僕らは病室へ行って、ぽつり、ぽつり、話をした。ミヨさんはそれを静かに聞いていて、時折相槌を打ったり、質問をしたり、少し感想を言ったりした。全体にミヨさんは聞き上手だったのだ。おかげで僕も聞き上手になった。紗綾はそうでもなかった。
「真剣に聞かないのがコツなの」
 くすくすと、ミヨさんは笑って言った。その日、紗綾は大学で遅くまで講義に出なければならなくて、そこへ行ったのは僕だけだった。ひとりでミヨさんの病室へ行くことは、僕の中で当たり前の行為になっていた。斜めに起こしたベッドを背もたれに、ミヨさんはあの細い手を緑茶入りの湯呑みで温めていた。笑うと少し、水面が揺れた。
「真剣に聞くとね、自分の方で言いたいことが出てきちゃうのよ。あの子なんかそう。ちゃんと聞くから、それはどういうことなのとか、自分はそう思わないとか、色々言いたくなっちゃうのね。でも、話している人は自分の言いたいことがあるわけでしょう。オチのようなもの。そこに辿りつく前に別の話をしてしまうと、不完全燃焼になってしまう」
「分かります」
「そう?」
「はい。紗綾とミヨさんの話を聞いてると、特に」
「まあ。でも、そうね。分かりやすいでしょうね。不思議と私に似なかったのよ、あの子は。お母さん譲りかしら」
 ふふ、とミヨさんは笑った。それから、徐に身体を起こそうとして、僕は湯呑をサイドボードへ逃がしてからその背中を支えた。骨の浮き上がった背中だった。しっかりと起き上がると、ミヨさんの息は僅かに上がっていた。
「ごめんなさいね。家族でもないのに」
「でも、家族みたいなものですよ。僕にとっては」
「あら、ずるい言い方」
 少し笑ってから、ミヨさんはふと真剣な顔をして、僕をまっすぐに見た。すっと、僕の背筋が伸びた。畳の上なら正座していたかもしれない。
「大紀さん。あなた、紗綾がちゃんと笑ったところを見たことがある?」
 ずっと気にしてきていたことを、ミヨさんは知っていたのかもしれないと思った。
「微笑んだところくらいなら、ありますけど」
「声を上げて笑ったところは?」
「それは、全く。見たことないです」
「……そう」
 悲しげな、寂しそうな微笑みを浮かべて、ミヨさんは言った。
「あの子ね、昔はあんなに泣く子じゃなかったの。中学校の三年生くらいまでは、本当に普通の子だった。よく笑ったし、むしろ泣くところなんて見たこともなかった」
 湯呑の中の水面を見つめて、ミヨさんは呟くように言葉を重ねた。
「……何かがあったんだと思うのよ。きっと。でも、何かがあったんだとは思うんだけど、あの子はそれを口にするタイプではないから……だから、言わないようにしてきたの。私は。どうして泣くのとか、何かあったのとか、そういうことは聞かないようにしてきた。でも、それがいいことだったのかどうか、今となってはわからない……」
 僅かに歪んで丸くなった背中が小さかった。
「逆にあの子を苦しめてきたんだとしたら、千紗さんに申し訳が立たないわ。でも、きっとそうなのね。あの子は泣くもの。……苦しいのよ。聞けばよかったの。もっと早くに」
「葛湯なんです」
 その台詞は、本当に唐突に僕の中から転げ落ちたのだった。
「……葛湯?」
「葛湯、です」
 思わずこちらを見たミヨさんに、僕は訳も分からず微笑みかけた。言葉の方が勝手に飛び出してしまったのだ。突然飛び出した台詞の、その糸を手繰ってゆく。
「その、あの涙が葛湯なんです。つまり……心の中に湧き上がる感情が、上手く処理しきれないまま、そのまま涙になるんだそうです。それで、処理できれば言葉になったり、表情になったり、行動になったりするところを、紗綾は上手く処理しきれなくて、だから言葉や表情は動かないのに涙が出るんだ、って」
「……あの子が言ったの?」
「そうです。それで、湧き上がる感情にも色々あって、嬉しかったり、悲しかったり、もっと判別のつかないようなのもあって。その判別のつかない感情を、紗綾は葛湯のようだって言いました。重たくて透明で、とろっとしてるって。そういう、とにかくそういうものが溢れると、涙になるんだそうです。だから、つまり……」
「あの子は、辛くて泣いているのではないのね?」
「そうです。悲しくて泣いている時もあるかもしれませんけど、嬉しくて泣くときもあるし、楽しくて泣くときもあるみたいです。時々は、葛湯でも」
「……そう」
 にっこりと、ミヨさんは笑った。
「そうだったのね」
 紗綾は泣くばかりで笑わないけれど、ミヨさんは笑うばかりで泣かなかった。きっと今泣いているのだと思った。紗綾が泣くときの何度かに一度は笑っているのだし、ミヨさんが笑っているときの何度かに一度は、内心で涙を流しているのかもしれない。紗綾はミヨさんの分まで泣き、ミヨさんは紗綾の分まで笑う。そういう風にバランスが取れているのかもしれない。
「紗綾はミヨさんに似てると思います」
 そう言うと、ミヨさんは一瞬驚いたあと、面白がるように笑った。
「あら。どこが?」
「……あり方、というか、生き方というか」
「そうかしら」
「僕はそう思います」
「そうなの。……なんだか不思議だわ」
 うふふ、とミヨさんは笑い、僕を真っ直ぐに見つめた。口の端に小さなほくろのあるのを不思議と覚えている。紗綾にもあるそのほくろは、偶然ながら僕にもある。ただ、左右は反対だ。そのほくろをきゅっと持ち上げるようにして、ミヨさんは笑った。
「あのね。私が欲しいと思ってきて、結局手に入らなかったものがあるの」
「……それは、なんですか?」
「油断よ」
 あっさりと言って、ミヨさんは湯呑のお茶で口を湿した。
「……大紀さん」
「はい」
「もしこの先もあの子と生きていくのなら、お願いしたいの」
 はい、と言いかけて、反射的にそれを飲み込む。
「……紗綾が僕を選んでくれるなら」
「選ぶわ。絶対。天国に近づくと神様の声がよく聞こえるものよ」
 そう口にする表情は実に穏やかだった。最期の、棺の中に横たわっていた姿も、この時と同じ安らぎを湛えて見えた。蓮の浮かぶ池のような、揺らぎのない静けさ。
「大紀さん、あの子をどうにかして油断させてあげて。私はもう先が長くないだろうけど、紗綾はまだまだ生きる。悲しいことに、生きることは油断ならないものだから」
 ミヨさんが眉間にシワを寄せたのは、僕の知る限りこれが最初で最後だった。
「紗綾をお願いね」
 そのひと月後にミヨさんは亡くなった。暖かな春の昼下がりだった。



 かたかたと金属の触れ合う音がする。クレープ用のホルダーだな、と思う。
「はいこちら、シナモンアップルスペシャルと、チョコバナナホイップでーす」
「あ、すいません。それ二つ用のに入れてもらえますか」
「大丈夫ですよー。あっ、三つ用のもありますけど、二つ用でよろしいですか?」
「二つ用で。大丈夫です」
「はあい、かしこまりました」
 どうぞ、と差し出されたクレープを、左手に二つ、右手に一つ。途端に手元から甘い匂いが立ち上がって、こっそりとそれを吸い込むと幸せが胸に広がるような気がした。ありがとうございました、と言う声を聞きながら振り返るとそこはかなりの人混みで、紗綾の姿は見つけられなかった。今日の紗綾の服は地味だ。キャラメルの色のコート、ジーンズにショートブーツとなるとなかなか沢山いる。どうにか片手に束ねて携帯を確認しても、連絡は来ていなかった。席が決まったら何か連絡をくれるだろう。変に動くよりはじっとしている方がいい。そういえばあの日もツナのクレープを食べてたな、と思う。紗綾はこれが好きだ。ミヨさんにクレープの話をしたときは、ちょっと不健康そうね、と困り顔で笑っていたけれど。
 ミヨさんがクレープを食べたことがあるのか、結局聞かずじまいだった。



「おばあちゃんが死んだ」
 あの日、紗綾の声はいつになく平坦だった。それでも、電話の向こうの紗綾が泣いているのだろうということは僕にも推測された。普段からいつも泣いている紗綾だ。こんな時に泣かないような人間ではないと思った。
「体は家に戻すから、今日は病院に寄らないで。もし来るならうちに来て」
「行っても大丈夫?」
「大丈夫。父さんも呼んでいいって言ってる」
「何か買っていこうか」
「……ううん。大丈夫。気にしないで」
「分かった」
 電話は一方的に切れた。普段なら、じゃあ切るね、と僕が切る。電話をしているのも億劫だったのかもしれなかった。僕は講義の残りをなかったことにして大学を出た。それは本当に爽やかな、うららかすぎる春の日だった。死ということと一番程遠い空間なんじゃないかと思った。あの時には浮かばなかったけれど、誰にだって死ぬ時というものがあるのだ、という紗綾の言葉を僕は思い出さずにいられない。ミヨさんの死ぬ時というのがあのうららかな昼だったことを、僕は少しだけ嬉しいように感じた。夜中にひっそりと死ぬというのは、ミヨさんらしくない。明るく暖かな空気の中でふっと息をついて死んでいく、そういうのが彼女には似合っていると思った。
 現実味がなかったのは紗綾の家に着くまでの話だった。
「ありがとう。入って」
 玄関の扉を開けた紗綾が一分の隙もなくアイメイクを保っていることに気付いたとき、ようやく僕にも非常事態なのだという実感が沸いてきたのだった。僕は初めて紗綾に関する推測を外した。泣いていなかった。表情も、声のトーンも、何一つ崩さないまま、紗綾は僕をダイニングキッチンへ通した。葛湯を飲んだ日当たりのいい板の間と打って変わって、そこは薄暗く、少し肌寒いような感じさえした。四人がけのテーブルの、左奥の椅子に紗綾のお父さんが座っていた。恐ろしく遠い目をして。
「父さん」
 紗綾が呼びかけると、首から上だけを動かしてこちらを向いた。あの目が僕を見ていたのかどうか、今でも確信が持てない。ネクタイすら緩めないままのお父さんは、椅子を引いて立ち上がった。随分と背が高かった。
「紗綾さんの友達の、永井大紀です」
「大丈夫。紗綾から聞いてます」
 疲れた顔でお父さんは笑い、ありがとう、と頭を下げた。僅かに白髪が混じっていた。
「母の病室に通ってくれてたんだってね?」
「ええ」
「そう。母が随分と喜んでいたよ。紗綾はとてもいい子を選んだって」
 紗綾をちらりと見ると、ふいとそっぽを向いていた。聞こえていないかのようだった。
「そうなんですか?」
「うん。ま、とにかくいっぺん会ってあげてくれないかな。部屋は廊下の突き当たりの右手だから」
「僕が一緒に行く」
「うん。それがいい」
「来て」
 紗綾は自然に僕の手首を取って、ミヨさんの部屋へと引っ張っていった。それは決して無理な力のかけ方ではなかったけれど、手首を握る力はあまりにもしっかりとしていて、少しの震えも見せなかった。
「紗綾」
「何」
 ここまで頑なな、鉄板のような返事をされたことはなかったと思う。紗綾は振り返らなかった。紗綾が僕と目を合わせようとしなかったのは、それをあからさまに拒んだのは、この日が最初で最後だったろう。
「大丈夫なの」
「何が?」
「何がって」
 何が、と僕の頭の中でそれは反響した。何が?
「僕なら全然。父さんの方が滅入ってるくらい」
 録音された音声のようだった。いつもの静かさとは違う、ぎゅっと抑え込んだような強張り。
「父さん、母さんもおじいちゃんもいなくておばあちゃんだけだったから。あれで結構参ってるんだよ」
「うん。そんな感じはする」
「そう。……はい、ここ」
 紗綾はそう言って襖を開けた。冷え切った空気が足元をするりと抜けていった。入った途端、線香の匂いが体を取り巻く。
 部屋の左手に置かれたベッドに、ミヨさんは眠っていた。
「柩は部屋に入れられないから、体だけだけど」
「うん」
 淡々と言う紗綾の声を背中に聞きながら、僕はミヨさんの枕元に立った。冷たい空気の中に立って、見慣れたその顔を見下ろして、ああ死体だ、と僕は思った。眠っているようだ、という表現が脳裏を過る。確かに眠っているように見えなくもなかった。でも、それは明らかに死体で、閉じた目元も口元も恐ろしいくらいに乾ききって、何度も笑い顔で見た多くの皺はどれも凍りついたように動かなくて、ああそうかミヨさんは死んだのだと、僕はそこで初めて実感した。腑に落ちたのだ。紗綾の崩れていないアイメイクを見て感じた緊張が、ミヨさんの僅かに開いて乾ききった口元から僕の全身を締め上げるようだった。それでも、ミヨさんの表情は静かなものだと僕は思った。
 そう思いたかっただけなのかもしれない。
 今思えばそれは、多分表情と呼ばれるものではなかった。人間としての本質的な部分が抜け落ちた、冷え切った肉体だけの抜け殻で、悲しいくらいに何もない物体だった。首の下に置かれた保冷剤の、綿に包まれたような端が覗いていた。その、場違いな白髪のような繊維の絡みを、今でも思い出す。乱れ。絡まって凍りついたもの。最後の最後まで髪に櫛を通していたミヨさんに、それは余りにも似合わなかった。
 すとんと音を立てたのは、紗綾が閉めた襖だった。
「……本当に亡くなったんだ」
「寝てるみたいでしょ」
 視界の外から紗綾が言った。押さえ込んで無理やりに蓋をした声で。
「そうかな」
「苦しまなかったんだと思うけど」
「うん。そんな感じはする」
 そうだろうか、とどこかで思った。本当に苦しまなかったかどうかなんて、分からない。
「そう?」
 実際どうだったのだろう?
「うん」
 未だに僕には分からない。でも、あれほど笑顔を絶やさなかったミヨさんなら、たとえ苦しかったとしても、それを飲み込んでしまうかもしれない。
 ――生きることは油断ならないものだから。
「そっか」
 紗綾は小さくため息をついた。空調の関係なのか、ミヨさんの真っ白な前髪が微かに揺れた。生きることは、油断ならない。ミヨさんはやっと油断したのかもしれなかった。全てを捨て去って抜け殻になって、紗綾のもとを去って。もしかするとそれは、油断したからなのかもしれない。
「紗綾」
「何」
 振り返れば紗綾はやはりふいとそっぽを向いていた。ミヨさんと同じ。蓮の浮かぶ池のような、揺らぎのない静けさ。重たい水の底に、紗綾は自分自身を押し殺している。
「紗綾は、死なないよね」
「……どうかな」
 紗綾は更に遠くを見つめるような目をした。
「人は死ぬときには死ぬものだよ。母さんもおばあちゃんもそうだったし。僕だって死ぬときには死ぬよ」
「今この瞬間でも?」
「今この瞬間でも」
 珍しく、ほとんど初めてというくらいに、紗綾はため息をついて笑った。
「まあ、できれば父さんの後がいいな」
 その時の悲しい微笑。これほど強く思ったときはない。
 紗綾は、今、泣いている。
「紗綾」
「何」
「ハグしたら怒る?」
「え?」
 一瞬紗綾はこちらを見て、またすぐに視線を逸らした。ぎゅっと、歯を食いしばっているのが分かる。真っ黒な瞳が、不規則に揺れ動く。
「……先にお線香あげて。おばあちゃんに」
 つっけんどんに紗綾は言った。その頬の赤さは、嫌でもミヨさんの冷え切った頬を想起させる。
「……ああ」
 口元がふっと緩んでいくのが自分でも分かった。
「そうだね。忘れてた」
 紫色の座布団は柔らかく、永遠に座っていられそうな気がした。線香の先をライターで炙って立てる。波紋のように広がるおりんの音の中で手を合わせ、目を閉じる。
 ミヨさんに何を言っていいものか、僕は分からなかった。安らかに、というのも無責任な気がするし、かといって他に言うべきことも見つけられない。それを探すうちに、ミヨさんの笑顔ばかりが、暗闇の中に何度も現れては消えた。もしかしてミヨさんの側に伝えたいことがあるのではないかと、僕は耳を澄まして待っていた。でも、いくら待ってもミヨさんの生きて笑っていた姿が浮かぶばかりで、その姿は僕に何一つ語りはしなかった。そうか、死んでいるのか、と僕はまた思った。ミヨさんはもう何も語れないのだった。今ここに浮かぶものが、今あるミヨさんの全てだった。
「……聞こえないや」
 ゆっくりと、僕は目を開いた。線香の先から立ち上る煙が柔らかく渦を巻いていた。
「何が」
「いや、何でもない……聞こえなくていいんだ」
 奇妙な可笑しさが湧き上がってきて僕は僅かに笑った。紗綾がゆっくりと僕の背後へ歩いてくるのを、どこか遠くに聞いていた。溢れそうになった涙を押し止めると、紗綾の両手が僕の肩に置かれた。止めたはずの雫は頬の上を転げ落ちた。
「紗綾」
「何」
「お線香あげたよ」
「そうだね」
 僕は振り返った。紗綾は膝立ちのまま、両腕をすとんと脇に垂らしていた。相変わらず、ふいとそっぽを向いたまま。泣き顔を見られなくてよかったかもしれないと、少し思う。
「いい?」
「うん」
 その頼りなげな上半身を引き寄せるように、僕は紗綾を抱きしめた。紗綾の唇が僕の肩に埋められる。恐る恐る、紗綾の両腕が僕の背に回る。添えるように触れている手は、思っていたよりも小さいような気がした。
「紗綾」
「うん」
 微かに頷いた紗綾の声は直接体の中に響くようだった。
「ミヨさんが、僕に言ったことがあるんだ」
「……なんて」
「欲しくても、どうしても手に入らなかったものがあるって」
「そう」
「それを、紗綾にあげてくれって」
「何を。くれるの」
「……油断」
 声が震えて、落ちた涙が紗綾の首筋に伝った。紗綾の腕がきゅっと僕を締め上げる。
「紗綾」
 締め付ける腕にますます力がこもっていく。
「紗綾。だから……」
 ミヨさん、紗綾を助けてあげてください。
「ちゃんと、泣いて、いいんだ」
 背中に触れる手のひらが、僕の服をぎゅうっと、痛いくらいに掴んで。
 そして。
「……そっかぁ……」
 紗綾は初めて、吼えるように声を上げて、泣いた。

 あの日から、と思う。あの日から紗綾は泣くようになった。もう少し正確に言うのなら、ミヨさんの葬儀の何日か後に紗綾の母の墓参りに行ってからだ。母さんのために泣いてあげたかったんだ、と墓の前に立って紗綾は泣いた。母さんのために泣いてあげられなかったんだってこと、長いあいだ気付けなかった。
「それは、母さんがいないのは寂しかったよ。どうして僕には母さんがいないんだろうって思ってた。でも、それは自分のことでしょう。死なれた僕のこと。死んでしまった母さんのことを僕は考えてなかったんだ。自分勝手だよ」
 そうかな、と言えば、そうだよ、と紗綾は暗さを含みつつも微笑んだ。紗綾が笑うようになったのも、あの日を境にだった。いくらかの沈黙のあとで、その暗さは少しずつ晴れていく。でもいいんだ、と紗綾は小さく言った。ちゃんとどこかでバランスが取れるようになってるんだよ。永井くんが僕に付き合って、こんなところまで来てくれたように――。



「永井くん」
 手の中の三つのクレープは、ずっしりと重く温かい。視線を上げれば、プラスチックのお盆に紙コップを二つ載せた紗綾が手を振っていた。少し張った声でも届くくらい近いテーブルだった。日曜のフードコートで空いた席を見つけるのはなかなか難しいはずなのに、紗綾はいとも簡単にそれを見つけてしまう。走ってくる子供に気をつけながら近づいて、テーブルにクレープを置く。紗綾の手には、見慣れたタオルハンカチが握られている。
「また泣いちゃったの?」
「そう。いつもの」
 すん、と洟をすすって、紗綾はハンカチの先ですくい取るように涙を拭いた。しっかりしたアイメイクは崩れていないものの、頬のファンデーションには涙の跡がついていた。
「紗綾」
「何?」
「葛湯が飲みたいんだ」
「今? クレープを前にして?」
「そう」
「変なの」
 紗綾は困ったように眉根を寄せて笑い、また涙を拭いた。
「その涙は葛湯?」
「違うよ」
 いつもと同じ。先にツナのクレープを手に取り、大きく頬張る。
「じゃあ、その涙は何?」
 もぐもぐと咀嚼する紗綾の口元に、ほくろ。
 ああ、やっぱり、葛湯が飲みたい。
「ん」
 紗綾はごくりとクレープを飲み込んで、そして、ほくろを釣り上げるように笑った。

「……秘密」

テーマ:「今日の涙」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

今日野さんの事件簿

 こんにちは、僕の名前は頭木唯里(かしらぎ ただひと)。今日野さんの助手
をやっています。
 え、今日野って一体誰かと? あの名探偵として名高い今日野時子(きょうの
 ときこ)をご存じない!? 回転する溜池事件、多次元りんご事件、黄金率盗
難事件を解決した探偵と言えば、流石にピンと来たでしょう。
 ずば抜けた推理力と常識にとらわれない柔軟な発想。そして、温厚で人当たり
がいい。後、チャームポイントの丸眼鏡。これは外せない、今日野さんを語る上
でこれは外せない。
 え、丸眼鏡の何がそんなに良いかって? いいんですか、僕に語らせても?
怪奇丸眼鏡長文事件が起きちゃいますよ?
 ……まあ、丸眼鏡のことはまたの機会にしましょう。丸眼鏡のことを語って気分
が良いのは僕だけですから。読者の方々も、この作品のタイトルを見て「事件簿
って名前についてるからには、これは推理小説だな」と思って読み始めたに違い
ないでしょう。しかしその実内容は、いつまでたっても事件は起きず、何故か探
偵の眼鏡のことしか書かれていないとあっては、これじゃあ名称詐欺です。
 真実を解き明かす探偵の助手がこんな不実なことをするわけにはいかないので、
僕の自己紹介兼イントロダクションはこれくらいにしましょう。
 結局のところ僕が言いたかったのは、僕は今、憧れの探偵の今日野さんの助手
をやらせてもらっていて楽しい日々を送っています、ただそれだけです。

***

 今日は、昔今日野さんが解決した事件のお礼ということで、地方で不動産会社
を経営している大地鐘亜里(おおじ かねあり)さんの別荘に晩餐会で招かれま
した。
 晩餐会は僕達以外にも、芥川作家の硯夏季(すずり かき)さん、売れっ子写
真家の鳥島瑛太(とりしま えいた)さん、全国に流通している木彫りの熊の40%
を作成している木彫りの熊アーティストの熊沢ベア吉(くまざわ べあきち)さ
んが招かれていた。
「いやーすごいですね。有名人がいっぱいいますよ」
 テレビや雑誌でしか見たことのない人達を前にして、テンションの上がってい
る僕とは反対に、今日野さんはいつも通り
「……んー、そうだなあ」
 とテンション低めです。こんな彼女が、キレのある推理をするのだから人は見
た目で判断してはいけない。
「皆さんお越し下さりありがとうございます。今日は、なじみのフランス料理屋
からシェフを呼んでいますので、皆さんお楽しみ下さい」
 その時、鳥島さんが立ち上がりました。
「どうされました?」
「すいやせん、ちょいとトイレをお借りしてもいいですかい?」
「ええ、場所はわかりますか」
「ああ、大丈夫です。失礼します」
 鳥島さんが部屋を出たのとほぼ同時に、テーブルの上に前菜が運ばれてきまし
た。
 色鮮やかに野菜が盛り付けられ、何かのムースがちょこんとのっていて、あと、
ここーう、何か、その僕にはこの料理が何なのかよくわかりませんでした。
「とりあえず、鳥島さんが戻ってくるまで待ちましょうか」
 鐘亜里さんが言いました。
 僕は割りかし貧乏舌で、この料理の味がきちんとわかるか心配でした。鳥島さ
んが帰ってくるまでに無難な味の感想を考えておこう……
 そう思った矢先、
「ぱぱあ、たいへんなの!」
「おいおい、メアリ。今夜はお客さんが来るから自分の部屋にいなさいと言った
じゃないか」
 鐘亜里さんの注意を無視して、メアリちゃんは叫びました。
「わたしのくまたがあ!」
 どうやら僕たちは事件からは逃れられないようですね。やれやれ。
「今日野さん、行きましょう」
「ああ!」
 今日野さんの雰囲気が変わった……どうやら探偵モードに入ったようですね。
 しかし、現場に行く前にまず
「今日野さん、目薬持っていませんか? 昨日徹夜していて目がちょっと霞んで
きて」
「なんだ、タイミングが悪いなあ。はい、これ」
 僕は今日野さんから目薬をもらうと早速右目に差した。
「っ痛!」
「頭木!?」
 なんだこの目薬、無茶苦茶目に染みるぞ――
 右目は痛みでほとんど開かない、僕は左目で目薬を確認する――
「…………これは醤油差し……!?」
 目の前が真っ暗になりました。

***

「頭木! 頭木!!」
 ……どうやら俺は少し意識を失っていたらしい。
「今日野さん、俺はもう大丈夫です。それよりも事件が」
「頭木! よかった……」
 今日野さんの目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
 やれやれ、全く心配しすぎだ。
「すまない、形が似ていて間違って醤油差しの方を渡してしまった……本当に私は」
 やれやれ、今日野さんのそういう天然なところには時々困らされるが、
「気にしないでください、右目もキチンと見えているので」
「でも、一応病院に行ったほうが……」
「大丈夫です、それよりも今はメアリちゃんのくまたの件が先です」
「でも……」
 俺は今日野さんの両肩を掴み今日野さんの顔をまっすぐ見つめて言った。
「信じて下さい、俺の目にはちゃんと今日野さんが映っていますから」
「…………あ、ああ。そんなに言うのならわかった」
「じゃあ行きましょう」
 本当は今日野さんに俺の右目、そう呪われた右目――煉獄乃邪眼(れんごくのじ
ゃがん)について話したかった。しかし、この秘密を話すことは今日野さんを魔
界戦争(しょうしゃなき血戦(けっせん))に巻き込むことになるのだ……そんなこ
とはできない。
 これは呪われた頭木家の子どもとして生まれた俺が背負わなければいけない運
命(デスティニー)、そして俺自身が決着を付けなければいけない因果(いんが)
なんだ……
「……いつか必ずケリがついた時、その時には……」
 俺はメアリちゃんの家に向かっている中、一人呟いたのだった。

***

 メアリちゃんの様子から、とんでもない大事件かと思ったが(例えば溢れるほ
どのヒキガエルが部屋に詰め込まれていたとか。実際、陰陽機関(おんみょうき
かん)――「自然」の存在を転覆させ、森羅万象を「故意」の事象にさせることを
目的としている、超秘密機関――ならこの程度のことはやりかねない)何のことは
なく、メアリちゃんのお気に入りの熊のぬいぐるみ(くまた)が失くなったとい
うことだった。
「今日野さん、ちょっと拍子抜けですね」
「まあ、メアリちゃんにとってはショックな事だろうからね。とりあえず部屋の
中を探しましょう」
 泣きじゃくるメアリちゃんをなだめながら、硯、鳥島、熊沢の三人も一緒に入
れて、熊のぬいぐるみの捜索が始まった。
 2,30分ほど探したが、くまたは見つからなかった。
「メアリ、くまたはいついなくなったの?」
 鐘亜里の奥さんが尋ねた。
「えっとお、くまたとパーティごっこをしてて、わたしがトイレにいったらくま
たがいあくなってたのお、ぐす」
 うーん、これはもしかしたら……
「今日野さん、もしかして……」
「……盗難の可能性があるな。そしてこれだけの短い犯行時間、そして外からの侵
入の形跡がないことを考えると、犯人はこの家の中にいるものの誰かだろう」
 静寂が俺達を抱いた。
「そ、そんな。だってただのぬいぐるみですよ。わざわざ盗むものなんか……」
 鐘亜里がうろたえる。怪しいな。
「まあ、そういう可能性も考えたくはないですけど……私達の使用している部屋も
調べますか」
 と熊沢が言った。やけに協力的だ……
「ん-何か引っかかるな」
 何だろう、熊のぬいぐるみ……熊……熊……熊沢っ!
「く、右目がっ」
 くそ、何だ……右目が疼く……! この感覚……まずい、黒闇絶望眼(ブラック・ダ
ーク・ディスペアー・i)が暴発する……!
 鎮まれ、俺の煉獄乃邪眼! ここで黒闇絶望眼を発動させるわけには!
 落ち着け……そうだ深呼吸をしよう。
「すー、はー……」
 少しは俺の右目も…………くっ、また黒闇絶望眼が!
 そうだ、気持ちを紛らわすために素数を思い浮かべるんだ。
 1,3,5、7、11,13、17,じゅうきゅ……くそ、黒闇絶望眼がっ!
 もう一回、深呼吸をして
「すー、はー……」
 よし、もう一回素数を思い浮かべるぜ。
 1,3,5、7、11,13、17,じゅうきゅ……く、やはり黒闇絶望眼がっ!
 ダメだ、どうしても19になると黒闇絶望眼してしまいそうになる。
 よし、じゃあしりとりだ。一人しりとりをしよう。
 しりとり、林檎(きんだんのかじつ)、業(かるま)、失われた過去(パース
ト)、超えていく未来(フューチャー)、因果を結ぶ(おれの)
「黒闇絶望眼! (ブラック・ダーク・ディスペアー・i!)」
 俺はとうとう黒闇絶望眼を発動させてしまった――

***

 頭木唯里、中学二年生。春のある昼休み。俺は屋上にいた。
「なあ、最近俺の右目ちょっと変じゃないか」
 俺は隣で体育座りをしている少女に話しかける。
「物貰いでもできたのか?」
「いや、そうじゃなくてこう右目が疼くというか、もしかして何か能力に目覚め
てしまったのかもしれないというか……」
「能力? 面白そうだな。どういう能力なんだ?」
「え、あー、何だろう、こう人が決して気づくことの出来ない真理が視えてしま
う、みたいなヤツだな」
「じゃあ、ちょっと私を見てもらおうかな」
「……うーん」
「どうだ、わかったか?」
「もしかして,宇宙人だったとか」
「あははは、何だそれ。違うよ、正解は眼鏡のフレームを変えた、でした」
 それこそ何だそれ、と思ったが黙っていることにした。

***

「頭木、おい頭木!」
「大丈夫か、右目を押さえているが、やっぱり無理をしているんじゃ……」
「い、いやちょっと黒闇絶望眼しただけで」
「ぶ、ぶらっく……何だ何て言ったんだ?」
「気にしないでください、そんなことよりも犯人がわかりましたよ」
 ざわめきが俺達を抱いた。
「犯人ってメアリの熊を盗んだ犯人ですか!?」
「ええ、そうです鐘亜里さん」
「……おいおい本当に大丈夫か」
 今日野さんが耳打ちをしてきた。
「任せて下さい。推理は完璧です」
 証拠はまだないが、それは後に出てくるだろう。
「さて、そのくまたを盗んだ犯人は――そう、熊沢ベア吉あなたです!」
 俺は熊沢に向けてビシっと指差した。
「な、なんで私が……!」
 慌てる熊沢。犯人とバレてしまったことが余程ダメージになったのだろう。だ
が、この右目に暴けない謎はない。
「重要なのは盗まれたのが熊のぬいぐるみだということ、そして熊沢、あなたの
そのガッチリとした巨体と顔つきが熊に似ていることだ!」
「な、何を言って」
「言い訳は、後でいくらでも。ただし、俺の推理を聞けば何も言う気にはならな
いでしょうけどね。さて、では熊沢がどのように犯行を行ったか。まず熊沢は自
分が持ってきた木彫りの熊を自分の席に自分の身代わりとして置く。そして、当
然俺達は、熊と熊沢の見分けがつかないから、その木彫りの熊を熊沢本人だと思
い込む。これであんたは俺達と一緒にいたというアリバイを得ることができる。
そしてすきを見てメアリちゃんの部屋に忍び込んで熊を盗んだ。まあ、動機は恐
らく熊が好きだからだろう」
「いい加減にして下さい、こんなの無茶苦茶だ! だったら私の部屋でも身体で
もどこでも調べて下さい! 熊のぬいぐるみなんて出てきませんから!」
 ……何だ、普通はもっと追い詰められてこの場から逃げ出したりしそうなのに
それどころか進んで調べられたがっている――まさか、眼の前にいる熊沢も木彫り
の熊でフェイクなのか! だとしたら本物は……
「すまねえ! オイラが盗んだんだ!」
「と、鳥島さん……!?」
「昔、大地さんのお宅にお邪魔したとき、その嬢ちゃんが抱っこしていた熊のぬ
いぐるみに一目惚れをしちまって……それでオイラも同じものを買おうとして色々
店を探し回ったんだがどこにも見つからなくって……本当は一目見るだけでよかっ
たんだ! だけどよお、本物を前にしたら気持ちを押さえられなくてつい……ほん
の出来心だったんだよお」
 鳥島はその場に泣き崩れた。

***

 くまたは鳥島の部屋から見つかった。どうやら事件の真相は、トイレに行くと
嘘をついて(大の大人が熊のぬいぐるみを見に行くなんて知られたら恥ずかしい
とのことだ)メアリちゃんの部屋を訪ねたが、幸か不幸か偶然メアリちゃんはト
イレに行っており、つい魔が差してくまたを盗んでしまったということだ。……彼
もまた、くまたの魅力に踊らされた哀れな被害者なのかもしれない。
 大地邸からの帰りの車で、俺は今回の事件について振り返る。
「今回の事件も、様々なことが絡み合った複雑な事件でしたね」
「いや、それほどでもないんじゃないか」
 流石、今日野さん。この程度の事件は「それほどでもない」か。まだまだその
背中は遠いな。
「でも、警察に突き出さなくてよかったんですかね鳥島」
「うーん、まあ鳥島さんもとても反省しているみたいだし、それに大地夫妻も許
すって言っていたんだからいいんじゃないかな。メアリちゃんともあの後、鳥島
とくまた、二人と一匹でおままごとで遊んでいたから、ちゃんと仲直りできたん
だろうし」
 なるほど、罪を憎んで人を憎まずか。これもまた、今日野さんの「正義」なん
だろう。
「……次はどんな事件に遭遇することになるんでしょうかね」
「……できれば何の事件も起きない、平和な世界が一番なんだけどなあ」
「そう、ですね」
 そうだ、そのためにも俺は戦い続けなければいけない。陰陽機関と、そして世
界征服を企む諸々の秘密結社と……あと、魔界戦争も何とかしなければいけない!
(リマインド)

〈続く〉

テーマ:「今日のさん」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

君の知らない物語

※この作品は、有名楽曲「君の知らない物語」を元に、個人的な解釈を加えて書かれた二次創作になります。是非あの曲を頭で再生しながらお読みください。

 

 

 「今夜、星を見に行こう!」

 高校三年の、なんでもない夏の日。突然立ち上がってそう言ったキミの言葉から、すべては始まったんだ――

 

 

 私はその言葉を、天文部の部室でぼんやりしながら聞いていた。受験勉強をしなきゃいけないけど面倒くさい、やりたいことも夢もなくてただ未来への漠然とした不安だけが募る日々。だから名前だけで大した活動もしていないこの部室に入り浸って現実から目を背ける。そんな人たちが今日も何をするでもなく集まった中で、その言葉は発せられたんだ。

「おっ、なんだよ鷲津! たまにはいいこと言うじゃねえか!」

「たまにはってなんだよ!」

「そりゃ、そのままの意味ですよ。鷲津くんからそんな有益な意見が出るなんて、明日は雪ですかね?

「お前らな……!」

「でもいいじゃん、星! あたしは行きたいなー」

「アンナさんが行くなら俺も行きます!」

「アンナさんが行くなら僕も行きます!」

「お前らな……」

 だから、その鷲津くんの提案が受け入れられるのはあっという間だった。要は現実を忘れられればいいのだから、部室でダラダラしゃべっていようが天体観測しに外へ出ようがどっちでもいいのだ。むしろただ駄弁るだけの日々にやや退屈していた彼らにとって、鷲津くんの提案はかなり魅力的に映っただろう。

「白鳥さんも行くか?」

「え……あ、う、うん」

 鷲津くんの問い掛けに、私は少し詰まりながらそう答える。本当は、この後塾があるんだけど……今日くらいはサボってもいいかな。一応これ、部活だし。

 そんな言い訳を自分にしつつ、帰り支度を始める。結局私も、彼らと同じように現実から目をそらしたい一人なのだ。

 

「星を見るのは、あの山の上にしよう。今から登ればちょうどいいはずだ。すごい絶景が見られるぞ」

 学校を出た私たち五人は鷲津くんの案内で、学校近くの山と呼ぶにはいささか背の低い、かといって丘と呼ぶほど小さくもない実に中途半端な、でも星を見るには絶好だと鷲津くんが語る場所を目指していた。いくら夏とはいえ、流石に街灯さえない田舎道はもう結構暗い。右手に持った懐中電灯の淡い光だけが頼りだ。

「なあ鷲津。なんで懐中電灯にセロハン巻くんだ? これじゃ足元がよく見えないんだが」

「星を見る時は、できるだけ他の光を目に入れないようにした方がたくさん星が見えるんだよ。懐中電灯程度の明かりでも結構変わるんだ。だから赤いセロハンとかを巻いて、懐中電灯の光を必要最小限に抑えるんだ」

「へー! さすが天文部だな!」

「お前もだろうが!」

「え。ごめん、あたしも知らなかった」

「すいませんが僕も……」

「……ごめん、私も」

「お前ら今まで天文部でなにやってたんだよ!」

 そんな風にみんなで賑やかなやり取りをしながら、目的の場所に向かって歩みを進める。けれど、絶えず話をしながら進む私たちの足取りは緩やかだ。暗闇を照らす明かりが心許ないせいだろうか。懐中電灯が放つ赤く弱々しい光はまるで、何も見えない暗闇を恐れているかのようだった。

 

 普段なら10分もかからないような道を、優に30分以上はかけてようやく頂上の開けた場所に辿り着く。ただ少し開けた場所があるだけでそれ以外には何もないこんなところから、本当に綺麗な夜空が見えるのだろうか。私も何度か星を見に来たことはあるけど、絶景と言うほどではなかった気がする。

「……みんなライトは消したか? じゃあせーので顔上げるぞ。せーの!」

 鷲津くんの合図で、上を見ないようにしていた私たちは一斉に顔を空へと向ける。

「うわあ……!」

 思わずそんな馬鹿みたいな声が漏れた。街明かりすらほとんど見えない真っ暗な世界から見上げたその夜空は、まるで星が降るようだった。こんな言葉、小説の中でしか使わないと思ってたけど……今私の目の前に広がる光景をどうにか言葉にしようと思ったら、私の拙い語彙力ではこれしか出てこなかった。雲一つない澄んだ夜空をこれでもかというくらい覆いつくす無数の光。強くしっかりと輝く煌びやかな光から、今にも消えてしまいそうな細く淡い光まで、数え切れないほどたくさんの光が私の上で瞬いている。明かり一つ工夫しただけで、こんなに見える景色は変わるのか。私が今まで見ていたのは何だったんだろう。思わずそんなことを考えてしまうくらい、今日の星空は強烈な印象を私に残した。

「うおっ、なんだこれ!」

「普段僕が見ていたのはなんだったんでしょう……」

「すっごーい! 星ってこんなにあったんだ!」

「びっくりしただろ? 今日は天気もいいし、星を見るには絶好の日だと思ったんだ」

 会話を交わしつつも、誰も視線を星空から動かさない。私と同じような衝撃を、みんなも感じているようだった。それはそうだろう。こんな絶景を前に感動せずに、驚かずにいられるわけがない。唯一驚いていないとすれば、それは多分前にもこういう星空を見たことがあるはずの鷲津くんだけ。じゃあ私たちにこんな景色を見せてくれた彼は一体どんな表情でこの星空を見上げているのだろうと気になった私は、いつまでも見ていたくなる綺麗な空から視線を少しだけそらして、そして息を呑んだ。そこにあったのは、天文部の部室で駄弁っている時には見たこともないような極上の笑顔とキラキラした眼差しで空を見上げる、無邪気な少年の横顔だった。正直、あの満天の星空と同じくらいの衝撃だった。まるで別人かと思うほどの変わりぶりだ。確かに綺麗な光景ではあったけど、それがどうしてここまでの表情を引きださせるのか、その時の私には全く分からなかった。

 その後も私たちは五人で色んなことを話しながら楽しく星を眺め続けて、今度は望遠鏡も持ってきてもっとしっかり天体観測しようなんて約束をしてから解散したけれど、私にはそこら辺の記憶はほとんどなかった。鮮やかな星空と、鷲津くんの横顔。強烈なインパクトを刻みつけたこの二つの光景以外、私の頭には何も残ってはいなかったのだ。

 

 多分、その日からだったのだろう。いや、もしかしたら本当はもっと前からで、あの日をきっかけに自覚しただけなのかもしれない。真相は今となってはもうわからないけれど、私は気付くと鷲津くんのことを自然と追いかけている私に気付いた。同じクラスで授業を受けているときも、気付くと視線は鷲津くんの方を向いている。鷲津くんは夏休みの課題について語る英語教師の話をつまらなそうに聞き流しながら、机に肘をついた右手の掌に頬を乗せて窓の外を眺めていた。どこか遠くを見据えるようなその眼差しは、一体何を見ているのだろうか。そびえ立つ山の向こうに広がる都会か、あるいは陽の光に覆われて見ることはかなわなくともそこにあるはずの輝く星たちか。聞いたら答えてくれるのだろうか。……なんて。一体何を考えているんだろう、私は。あの日以来、どうにもずっとこんな調子だ。無意識のうちに鷲津くんのことばかり考えている。輝く星空と共に脳裏に焼き付いたあの横顔が、気になって仕方がない。あの星空の何が、鷲津くんにあんな表情をさせるのか。私の最近の専らの関心事はそればかりで、少し気を抜くとそんなことを考え始めては自然と視界が彼を捉えるのだった。こんな私の頭の中を知ったら、鷲津くんはどう思うだろうか。驚きに目を見開くのだろうか。気持ち悪いと罵るのだろうか。あるいは、苦笑いしながらもその理由を教えてくれるのだろうか。……なんとなく、最後のやつが一番鷲津くんっぽい気がする。まあ、こんなこと万が一にも鷲津くんに知られるわけにはいかないから、結局は私一人で想像するしかないのだけれど。

 

 そんな私のふわふわした精神状態のことなど顧みることもなく時間は平等に流れていき、いつの間にか始まっていた夏休みの初日。私たち天文部の五人は、再び丘とも山ともつかない微妙な坂道を額に汗を浮かべながら登っていた。あの日と違うのは、安西くんと志村くんが二人がかりで担いでいるそれなりの大きさをした細長い箱と、私たちの服装。そう、本日はあのとき約束したらしい望遠鏡を使った天体観測の日である。何代か前の、今よりもっと真面目に天文部をしていたであろう人たちが部費で購入したらしい天体望遠鏡を部室から運び出し、もっときちんと星を見ようということだ。学校帰りだったあの日と違って、服装も私服である。鷲津くんは前面に柄杓型の北斗七星が描かれた微妙なデザインの黒シャツにハーフパンツ、安西くんは「肉命」という文字がでかでかとプリントされたネタTシャツに短パンと、二人揃って少年のような服装。うちの男性陣の中で唯一年相応に見えるのは志村くんで、薄青のポロシャツにジーパンという爽やかな出で立ち。しかしこの気候の中で足首までしっかり覆っていて暑くはないのだろうか。それとは対照的にやたらと涼しげな恰好をしているのは琴吹さん。肩まで全開の薄手の白いキャミソールに、これまた太もも全開のデニム生地のホットパンツ。先程から安西くんと志村くんが何度もちらちらと覗き見ているほど魅力的……というか、もう扇情的と言ってもいい。これでもかというほどその驚くほど白い肌を露出した恰好だった。ただの天体観測に何故そこまで気合いを入れているのかよく分からない。……え、私? いや、さすがにこれより後に紹介できるほど上等な服装じゃないよ。琴吹さんとは比べ物にならないほどの地味な恰好だし。言っても私が惨めな気持ちになるだけだから、私の服装の紹介は省略するよ。

 あの日と同じようにだらだらと30分近くかけて、ようやく頂上の開けた場所に到着する。ここまで天体望遠鏡を担いできた二人が、セロハン付きの心許ない明かりを頼りに箱から望遠鏡を取り出す様子を横目に、私と鷲津くんと琴吹さんは、一足先に夜空を見上げる。鷲津くんがこの日にしようと言った今日の星空も、雲一つない絶景だった。あの日と変わらない景色がそこにある。

「何度見てもすごいね! これだけ星があったら、どれがなんの星座だかわからなくなりそう!」

「……いやそれ以前にお前、そんなに星座知らないだろ」

「失礼な! あたしだってオリオン座くらいわかるよ!」

「そんな見つけやすい星座ナンバーワンを偉そうに言うな! あとオリオンは冬の星座だ!」

「えー? じゃあ、なにか夏の星座教えてよ」

「結局オリオンしか知らないんじゃねえか……。でも、ならそうだな。初心者でもすぐに見つかる夏の星座って言うと、やっぱり夏の大三角だろ。星座とはちょっと違うが」

「あ、なんかそれ聞いたことある!」

「聞いたことあるレベルなのかよ……まあいい。とにかくその夏の大三角っていうのは、はくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガの、夏の空でも特に明るい三つの星を結んでできる三角形のことだ。この時期のこの時間なら、まだ昇って来たばっかりだから東の方だな。ほら、あの辺だ」

 鷲津くんと琴吹さんの会話を聞きつつ、鷲津くんが指差した方角を私も見る。指の先が示した山影の少し上あたりの夜空には、瞬く星の中でもより一層際立った光を放つ星があった。

「あそこで一際輝いてるのがベガだ。いわゆる織姫だな。デネブとアルタイルは……まだ山の向こうだな。もう少し経ったら出てくるだろ。それ以外だとさそり座とかも有名だな。あれは南の方だから――」

 星について生き生きと話す鷲津くんの横顔をちらりと伺う。その表情は、やはりあの時と同じだった。心の底から楽しそうに笑う、普段は絶対に見ることのない顔。やはりその顔をさせるのは、この星空なのだろうか。だとしたら何故、どうしてそこまで。

「おい鷲津! とりあえず箱から出し終わったぞ!」

「ここから先の細かい調節は鷲津君の方がいいでしょうし、お願いできますか?」

「あいよー。んじゃ、ちょっと調節してくるな」

「行ってらっしゃーい」

 後ろから呼ばれた鷲津くんが、私と琴吹さんの間を離れて望遠鏡の方へ向かう。望遠鏡を鷲津くんに任せた安西くんと志村くんは、ここまで望遠鏡を運ぶのが意外と重労働だったのか、両足を地面に投げ出して座り込みながら空を見上げている。だから自然と、私と琴吹さんが二人になる。

「……ケンジってさ、星のことになると人が変わったように生き生きするよね」

 光り輝く星空から真剣な様子で望遠鏡を覗き込む鷲津くんへと視線を移しつつ、琴吹さんが言う。その表情は星明かりの下ではよく見えなかったけど、ほんのり紅くなっていたように思う。

「そう、だね。心の底から楽しそうに笑ってて……本当に星が好きなんだろうね」

 あんなに饒舌な鷲津くんは、多分初めてみた。クラスや天文部でもあんなに次から次へと言葉を紡ぐ鷲津くんは記憶にない。

「ね。2年半も一緒に、しかも天文部にいたのに、ついこの間まで知らなかったよ。……もしかして、本当はもっとこういう天文部らしい活動がしたかったのかな」

「それは……」

 そう、なのかもしれない。こんなに星が好きだったのなら、一年生の鷲津くんが天文部の扉を叩いたのも間違いなくそれが理由だろう。しかし蓋を開けてみれば、天文部という響きの格好良さに惹かれた人や単に星を見るのは好きだけど別にそこまで本格的に興味があるわけでもない人たちが集まって、外に出ることもなくただ部室で無為な時間を過ごすだけの部活。そんな時間は鷲津くんにとってどうだったのだろう。それはそれで楽しいと思ってくれているのか、それとも……。そこから先は考えるのが怖くて、私はそこで思考を強制終了した。それとほとんど同じタイミングで、鷲津くんが声を挙げる。

「セッティング終わったぞ! とりあえず今はベガに合わせてある!」

「あっ、あたし見る!」

 その声にいち早く反応した琴吹さんが、望遠鏡の元で待つ鷲津くんの方へと駆け寄っていく。私もその後を追って歩きながら、望遠鏡の向く先、東の夜空を見上げる。先程鷲津くんが教えてくれたベガの他にもう一つ、同じくらいの明るさを持った星が山の向こうからひょっこりと姿を現していた。あれは……どっちだろう。知識のない私にはわからない。

「わ、結構しっかり見えるんだね! へー、これがベガかあ!」

「ベガは比較的近い天体だからな。それでも25光年くらいあるが」

「光速でも25年かかるのが近いとは思えないんだけど……でも、ほんとに綺麗。これが織姫なんだよね。あ、じゃあ彦星は? まだ織姫独りぼっち?」

「いや、そろそろ見えてるはずだが……あ、ほら、もう山の上あたりに見えてるぞ」

「えっ、どこどこ? こっち?」

「違う逆だ! だあもう、俺が合わせるからちょっと貸せ!」

 楽しそうに彦星を探す二人の隣で、私は静かに空を見つめる。そっか、あれは彦星なんだ。他にも無数に星が瞬くその中でさえ目立つほど強く輝くその2つの恒星は、なるほどお似合いだ。夜空を切り裂いてお互いを見つめ合うように光を放ち続けるその姿が、何故か今の私にはとても眩しく見えた。

「……ケンジ、本当に星が好きなんだね」

 真剣な様子で、しかしどこか楽しそうに望遠鏡をいじる鷲津くんに、琴吹さんはそう言った。対する鷲津くんは、望遠鏡を覗き込んだままそれに答える。

「ああ。昔から大好きなんだ。例えばさっき言ったベガだけど、地球と25光年離れてるってことはつまり、今俺たちが見ているあの光は25年も前にベガが放った光ってことだ。25年だぞ25年。俺たちが生まれるより何年も前に生みだされた光が、25年もの長旅を経て今、俺たちの元に届いてるんだ。そう考えると、ワクワクが止まらない。宇宙って凄い、星って凄い、もっと知りたいっていう思いが溢れて仕方がないんだ。だから俺は星が大好きだし、もっと勉強してその凄さに迫りたい。俺をこんな気持ちにさせてくれるその神秘に一歩でも近付きたい」

 誰も二の句が継げなかった。きっとその時の私たちには、熱意を込めて自分の思いを語るその鷲津くんの姿が、どんな星よりも眩しく映っていたことだろう。やりたいこともなく、迫る変化から目を背けるように部室で無為な時間を過ごしていた私たちとは、まるで真逆だった。暗闇で立ち止まっている私たちと違って、彼は既に遥か遠くに見える光に向かって走り出している。そう認識した瞬間、隣にいると思っていた鷲津くんが急に遠くへ行ってしまったような気がした。私たちがどれだけ手を伸ばしても届かないくらい先へ。

「……じゃあ、大学は」

 呆然とした様子で立ち尽くす琴吹さんの唇が、無意識に動かされたようにそんな言葉を紡ぐ。

「……東京の方に行く。天文学科ってところで、もっと星について学びたいから」

 どこかで楽観的に考えていた自分がいた。高校を卒業したからって、そんなに急には変わらない。来年の今頃もきっと、この五人で集まってくだらない会話ばかりをして過ごす楽しい時間が続いているんだって、そう考えていた自分がいた。でも、違う。変化のときは、刻一刻と私たちの前に迫っていた。

「……そっ、か。なら、今のうちに楽しい思い出たくさん作らなきゃね! 応援してるから、絶対合格してよ!」

「そ、そうだな。鷲津、頑張れよ! 落ちたら大爆笑してやるからな!」

「まあ、鷲津君の成績なら平気だとは思いますけどね。僕も応援していますよ」

「お前ら……! ありがとう、俺頑張る!」

 琴吹さんが無理をしてそう笑ったのはすぐに分かった。それに安西くんと志村くんが乗っかったのも。望遠鏡を覗き込んだままの鷲津くんにはその表情までは見えていないから、多分わからなかっただろうけど。でも、私は取り繕うようなその言葉さえ、何も言えなかった。いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、頭の中がこんがらがって。全てを整理して理解するには、もう少し時間が必要だった。

「で? 彦星は見つかったの?」

「ちょっと待て、もうすぐだ」

 語りながらも細かく望遠鏡をいじり続けていた鷲津くんは、やがてあるところで望遠鏡を固定した。

「ほら、これが彦星、アルタイルだ。地球との距離は16光年だから、さっきのベガよりは近いな」

「いやだから、全然近くないし! って、それよりはやく見せてよ!」

 鷲津くんを押し出すようにして望遠鏡の前を奪って覗き込む琴吹さん。押し出されるかたちになった鷲津くんは、少しよろめきながらも東の空へと視線を向けた。

「そろそろデネブも見えていい頃だと思うんだがなー……あっ、見つけた!」

 まるで先程までの少し重い空気なんてなかったかのような、星のことしか見えていない無邪気な声で鷲津くんが夜空を指さす。その指先を視線で追うと、そこには山の頂からわずかにその姿を覗かせる夏の大三角のラストピース、デネブがひっそりと佇んでいた。

 

 それからもしばらく天体観測を続けた私たちは、だいぶ夜も更けてきた頃にようやく帰途に就いた。帰る方向の違う男性陣と別れ、私は琴吹さんと一緒に田舎の道路を歩く。

「ケンジ、東京行っちゃうんだ……」

 別方向に歩き出した鷲津くんたちの背中が完全に見えなくなった辺りで、琴吹さんはそう切り出した。東京という街は、私たち田舎者にとって憧れの都会であると同時に、遠い異界だ。バスや電車をいくつも乗り継いだ果てにようやくたどり着くことのできる、遥か向こうの別世界。簡単に行き来できるような距離ではもちろんなく、卒業した後に鷲津くんと会う頻度は激減するだろう。なんなら二度と会えない可能性だってざらにある。

「ねえ。イルカはあの話聞いて、どう思った?」

「どう、って……なんだか、凄く遠くの人に見えたよ。私たちと同じ場所にいると思ってたけど、本当は全然違った。将来のことなんて全然想像できない私と違って、ちゃんと未来を見てた」

 少し整理できた今なら分かる。あのキラキラした表情で星空を見上げる鷲津くんの横顔、その瞳に映っていたのは未来だ。自分の興味があるものを、目標とする場所を、鷲津くんはちゃんと分かっていて、もうしっかりと見据えていたんだ。だからその表情は私の目に焼き付いて離れなかった。私にはできないことを既にやっている鷲津くんが眩しくて、格好良くて、羨ましくて。一言にまとめるなら憧れだ。自分より何歩も先を行く鷲津くんへの憧れが、無意識のうちに私の視線を彼に向けさせていたのだ。

「そう、だよね。大学のことだけでも手一杯のあたしたちと違って、もっと先を見てた。理想とする未来を、かたちをもってちゃんと描いてた。……なんか、凄いよね。おんなじ高校生のはずなのにさ」

「……うん」

「でも、あれを聞いて逆に思ったよ。あたし、このままじゃダメだって。もっとちゃんと将来のこと考えて、必死に生きなきゃ、って。じゃないと、ケンジの隣に並び立てない」

「琴吹さん……」

「な、なんてね! この話、ケンジには絶対しないでよ? じゃああたし、こっちだから! またね!」

 恥ずかしさを誤魔化すようにまくし立てると、琴吹さんは丁字路の向こうに消えて行った。いや、私はあなたも十分凄いと思うよ。だって、あれだけの光に当てられたのに委縮もせずに、むしろその光に肩を並べられるように必死に輝こうとしてるのだから。私には到底、そんな選択はできない。だって私がどれだけ光り輝こうと努力したって、彼らには遠く及ばないことを私は知っているから。私より見た目もよくて、勉強もできて、人当たりもよくて、センスもあって、気を遣えて、熱も持っている。考え得る限りの項目で私より秀でている彼女をして、必死に手を伸ばさなければ掴めないような場所にある光源に、どうして私ごときの手が届くはずがあろうか。

 本当はこんなこと、最初から分かっていた。あの横顔を見た瞬間、心のどこかで悟っていた。ああ、多分この人は私なんか手も届かない場所へ行ってしまうんだろう、と。この人と同じようには輝けないんだろう、と。私では織姫にはなれない。圧倒的役不足だ。そういうのは琴吹さんに任せる。私は彦星に憧れながら遠くで二人を見守るデネブでいい。二人みたいに輝こうとは思えない私は、迫りくる変化の波に簡単に流されてしまうのだろうけど……それでも、眩しいくらいに輝く一対の星を見失わずに、その行く末を最後まで見届けられるようなはくちょうになれれば。私には、それだけでいい。

 ――本当に?

「っ……」

 胸を刺すような痛みが、私に忠告する。本当にそれでいいのか。彼のように輝きたくはないのか。本当に憧れだけなのか。本当は織姫になりたいんじゃないのか。

「うるさいっ……違う!」

 否定するように叫ぶ。そうだ、そんなはずはない。この胸にある思いが、憧れ以上の感情であるはずがない。そうに違いない。そうでないと困る。だって、そうじゃないと……

「ダメっ……これ以上は……!」

 痛みが限界に達して、私は考えるのをやめる。頬を伝う滴は暑さのせいだと、必死に言い聞かせた。

 

 それからしばらくの間は、夏休みということもあってみんなと会わない日々が続いた。元々長期休暇中にも熱心に活動するような部活ではないし、あんなことがあった後では、誰も招集なんてかけなかった。私的には幸運だった。だって、今鷲津くんや琴吹さんに会ってしまったら、ただでさえ混迷している感情がどうなってしまうか分からなかったから。意識して考えないようにしていないと、胸を刺す痛みに押し潰されてしまいそうなほどだった。

 それでも、全く考えずにというわけにはいかない。親に半ば通わされている塾の夏期講習が終わると、外はすっかり暗くなっている。街灯もない田舎道を歩き続けて、目が暗闇に慣れた頃にふと空を見上げるとそこにあるのは、あの日とさほど遜色のない星空だ。そしてその光景は、同時に刻み込まれたあの横顔も呼び起こす。その度に私の胸は痛みに襲われ、私は必死に無視しようとする。けど、それを繰り返せば繰り返すほど痛みは増していく。その痛みが臨界点に達してしまったのは、夏休みも終わりかけのある日のことだった。

 特に理由はなかったはずだ。その日の夏期講習が少し早く終わったとか、その程度の理由。私の足は、みんなで星空を見上げた場所へと向かっていた。夏期講習に行くのに懐中電灯なんて持って来てはいないから、暗闇に慣れた目だけを頼りに坂道を登り、十数分で目的地へとたどり着く。そこにいたのは。

「あれ、白鳥さん?」

「鷲津、くん……」

 一人で空を見上げている、鷲津くんの姿だった。その姿を認めた瞬間、私の鼓動は早鐘を打ち始める。胸を締め付けるような強烈な痛みに襲われる。

「白鳥さんも一人で星見か?」

「まあ、そんなところ」

 どうにかそれだけ答える。同時に心臓が飛び出さないかと心配で仕方なかった。

「この町の星空はいつ見ても綺麗だよな。空気も澄んでるし、星明かりを邪魔するような人工の光もない。これぞ田舎の特権だよな。東京に行ったらこんな空も見れなくなるのかと思うと残念だ」

「……やっぱり、東京に行っちゃうんだね」

 分かりきっているはずなのに、思わず聞いてしまった。あの時のは何かの間違いだったんじゃないかと、どこかで期待している自分がいた。

「ああ。昔から決めてたことだ」

 鷲津くんは何の迷いもなくそう言い切った。その言葉に改めて思わされる。やっぱり、私には手が届かないくらいに輝く彦星なのだ、彼は。そんな後ろ向きな感情が、この言葉を紡がせたのか。

「……デネブって、なんだか可哀想だよね」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって同じ夏の大三角なのに、かたや織姫、かたや彦星で、仲間外れみたいだなって」

「……そんなことはねえよ。デネブって実は、夏の大三角の中でも一番凄い星なんだぞ。その明るさは太陽の五万倍以上って言われてるんだ。それなのにベガやアルタイルと同じくらいの明るさに見えるのは、デネブだけがやたらと遠くにあるからだ。確か1411光年とかだったか。日本で言えば飛鳥時代だ。厩戸王が生きていた頃に放たれた光が、気の遠くなるような年月をかけて俺たちの前にある。それだけの時間をかけてもなお、これほどの光を俺たちに届けてくれるんだ。純粋に凄いと思うし、俺は好きだぞ、デネブ」

「――――――」

 その一言が、間違いなくとどめだった。鼓動の速さは限界に達し、胸の痛みは完全にメーターが振り切った。その2つの事実が、私に否応なしに現実を突きつける。ああ、そうか。やっぱりこれは「好き」なんだ。散々目を逸らしてきたけど、もう認めないわけにはいかなかった。憧れだけじゃ説明しきれない想いが、胸の奥から溢れて止まらない。誰かを好きになるって、こういうことなんだ。

 でも、でも。だったらどうするというのだろう。私は自分が彦星には不釣り合いなのを自覚している。さらには、その彦星に並び立つために懸命に輝こうとしている織姫の想いも知っている。認めたって、自覚したって、どうせ報われることのない恋だって知っていたはずだ。だから頑なに認めようとしなかった。遥か1400光年向こうから二人を見守り続けるデネブでいいと、ずっと言い聞かせてきた。なのに、私は認めてしまった。気付かないふりをしていた方がよっぽど辛くなかっただろうその想いを、自覚してしまった。

 なら、この想いを彼に告げるのか。実らないとわかっていながら、友人の想いを知っていながら。とてもじゃないけど、私にはそんなことはできない。別に振られるのが怖いわけではない。私が本当に怖いのは、私が想いを告げることで彼の輝きが鈍ってしまうこと。一直線に未来を見ているからこそ輝いている鷲津くんを、私の想いで邪魔してしまうことだけは絶対にしたくなかった。だって、私が好きになったのは未来へまっすぐ走っている鷲津くんだ。どこまでも純粋に夢を見ている鷲津くんだ。その鷲津くんを自らの手で曇らせるなんて、そんなのは死んでもごめんだ。そんなことをしてしまうくらいなら、私が一人で傷ついた方がよっぽどましだ。

 だから。私はやっと自覚したその想いに、すぐさま蓋をする。今までのように、その事実を認めないためじゃない。認めたうえで、それが最善だと判断して、もう一度蓋をするのだ。

 ――本当にそれは本心か?

 心の声が待ったをかける。確かにそれは最善かもしれないが、お前の本心じゃないだろうと。心の奥底では彼の隣がいいと、織姫になりたいと願っているんじゃないのか。そう訴えてくる。そんなの、私だってそっちの方がいいに決まってる。このまま彼の隣にずっといられたらどれほど幸せなことだろうと、考えないわけがない。でも、いつだって現実は残酷だ。やはり私は、彼らのようには輝けない。叶えたい目標のために、未来のために、他の色々なものを犠牲にして純粋に必死に努力できる彼らのようには、私はどうあがいたってなれないのだ。だって私は弱いから。他人に誇れるものなど何一つない。変わるのは怖い。傷つくのは嫌。そんなどこにでもいる、普通の弱い少女なのだ。自分の未来だってまともに照らせやしないのに、他人の道を照らせるような一等星になれるわけがない。そして私は、そんな自分で彼の隣に立ちたくはない。

 だから、言わない。この想いは、私がずっと一人で抱えていればそれでいいのだ。そうすれば、私が好きになった彼を邪魔せずに済む。傷つくのは私だけ。それでいいはずだ。

「……東京からでも、見えるといいな」

 空を見上げながら、鷲津くんがポツリと言う。何が、とは聞き返さず、私もそれに倣う。それはあの日と変わりない見事な景色だったはずなのに、今日の星空はなんだか違って見えた。私の心境の変化のせいか、あるいはやたらと滲む視界のせいか。理由は考えないことにした。

 

 それから卒業までの日々は、なんだかあっという間だったように思う。受験の日が近づいてきても私たち5人は天文部に集まるのをやめなかったし、そこで駄弁るのもやめなかった。やってくることが分かっている別れを前に、少しでも長い時間を一緒に過ごそうとしていたのは私だけじゃないだろう。それでも、何も変わらなかったわけじゃない。天文部で楽しく過ごす時間の裏で、私たちは自分の未来と真剣に向き合っていた。琴吹さんは、以前から興味はあったという栄養士を本気で目指し始め、日夜勉強にいそしんでいた。きっとのめり込むように研究を続けるだろう鷲津くんの健康を支えてあげたいのだという。何と健気なことだろう。やっぱり織姫は彼女にこそふさわしい。安西くんと志村くんはそんな彼女を追いかけ、彼女の志望する専門学校の近くの大学に進学するべく猛勉強していた。そんな気はしていたが、どうやら本気で琴吹さんに想いを寄せているらしい。それだけでこんな選択ができる彼らが、私は羨ましかった。織姫が二人の小さな光に気付くときは来るのか。振り向かせることはできるのか。続報を心待ちにしようと思う。そんな彼らと同様、私の進路も進学だ。琴吹さんたちとは全く別の地方の大学を目指して、授業に塾にと頑張っていた。その大学を選んだ理由はあまりない。そこで特別学びたいことがあるわけでもなく、先生が薦めてくれたとかそんなのがきっかけだ。決め手があったとすれば、それは鷲津くんたちとは遠く離れた大学だったことか。彼らと一緒にいるといつまでもこのまま変わりたくないと思ってしまう自分を、どうにか変えるために。遠く及ばないのだとしても、ほんの少しでも近づくことが出来るように。進学先で、夢中になれる何かが見つかればいいなと思う。

 そして、卒業式を終えた後の部室。私たちが天文部として過ごす、最期の時間。

「いよいよこの部室ともお別れかあ。なんか長いようで短かったよね、この3年間」

 部室に集合してから長らく続いていた沈黙を破ったのは、琴吹さんのしんみりしたような声だった。

「そうだな。天文部らしいことなんてほとんどしなかったけど……ここでの高校生活に欠かすことのできない、楽しい時間だった」

「なんだよ鷲津、最後だからってそんなこと言うなよ! 我慢、できなくなるだろ……!」

「ちょっと安西! なに一番最初に泣きだしてるのよ! あたしも我慢できなくなっちゃうでしょ……!」

「だって、だってよ! 鷲津は東京だし、白鳥は鹿児島だろ! 五人で集まる機会なんて、もうほとんどないじゃねえか! 今日が終わったら、もう終わっちゃうじゃねえか!」

「そんなことは、ないですよ。お盆やお正月には、きっとみんな帰省します。だからまた、5人で会えるはずです……!」

 何重もの嗚咽が、部室に飽和していく。私も、こぼれそうになる涙を堪えるのに必死だった。変わろうと決意したとはいえ、自分から離れることを決めたとはいえ、別れが悲しくないわけがない。

「志村の言う通りだ。俺だって長い休みの時にはここに帰ってくるし、また集まる機会だってあるさ。それに、こんなしんみりした最後、俺たちらしくねえだろ? いつもみたいに馬鹿話して、笑顔で解散しようぜ」

 唯一泣いていない鷲津くんは、私たち全員の顔を見回しながら笑顔でそう言った。でも、私は見逃さなかった。その顔が、肩が、手が、何かを堪えるように小刻みに震えていることを。そして気付いた。彼は、無理して笑顔を作っているのだと。泣いて終わりになんてさせないように、この五人で過ごした時間を悲しい思い出になんてさせないように、楽しかった思い出として胸に留めておくために。そのために彼は無理をしているのだと、気付いてしまった。

「……っ!」

 その瞬間、蓋をしていた想いが溢れ出してくる。半年でこの想いを振り切れるほど、私は強くない。顔を合わせる度に仕事を放棄しそうになる蓋を、どうにか被せ続けていたのだ。そして今日を乗り切れば、鷲津くんと会う機会は激減する。会わない時間が、きっとこの想いを断ち切ってくれる。いつか大人になって振り返ったときに、笑って話せるような思い出になってくれる。そう、思っていたのに。最後の最後で、気付いてしまった。夢を真っ直ぐ追いかけていると思っていた鷲津くんも、私たちと同じくらいにこの時間が大切だったんだ。夢のために迷いなく私たちとの別れを選んだんじゃない。夢のために断腸の思いで、私たちとの別れを選んだんだ。そんな真実に気付いてしまったら、もしかしたら私もなんて、思ってしまうじゃないか。私と過ごす時間も、その夢と天秤にかけても一瞬均衡する程度には大切に思っていてくれてるんじゃないかと、期待してしまうではないか。

 それでも結局、私の口からその想いがあふれ出ることはなかった。何も言わなかった。何も言えなかった。だって、ここで私が想いを告げたら、彼が楽しかった想い出として保存しようとしているこの時間を、台無しにしてしまうかもしれないから。彼が大切にしたいと願う思い出を、穢してしまうかもしれないから。最後の最後まで私は、彼の邪魔をしないよう、遥か遠くから見守る道を選んだのだ。

 

 

 それから千以上の夜を越えたある夏の日。長期休暇を利用して地元に帰ってきた私は、荷物の整理もそこそこに夜の田舎へと繰り出す。当然向かう先は、例の丘とも山ともつかないあの場所。この町に戻ってくる度に、私はそこへと足を向ける。やっぱり私にとって、あの場所から見上げる夜空は特別なものなのだ。他のどんな場所から見上げる星空だって、ここには敵わない。使い慣れた懐中電灯を頼りに坂道を登った先で見上げたその夜空は、あの時と同じ絶景だ。そしてこの空を見る度、私は一人の少年のことを思い出す。笑った顔、怒った顔、いじけた顔、楽しげな顔、真面目な顔、真剣な顔。そしてあの無邪気な横顔。今でも鮮明に思い出すことが出来る。だって、その人の顔ばかり追いかけてたから。

 本当に、大好きだった。きっとこの先どんな人と出会おうと、こんな想いにはならないだろう。それはあの時の私も予感していた。けれど私は、結局言えなかった。おかしいよね。こんな気持ちは二度とないって、分かってたはずなのに。キミのためだなんて自分に言い訳して、勇気を出せない自分の弱さから目を背けて。ただ、逃げたんだ。

 笑い話にするには、もう少し時間がかかりそうだ。まだ私の心は、キミを想い返す度に痛む。だからその痛みが完全に癒えるまでは黙っていよう。キミの知らない、誰も知らない、この私だけの秘密は。そしていつか言ってやるんだ。あの時の私は、キミのことが本当に好きだったんだよ、って。

 東の空を見上げて、キミが教えてくれた星を探す。すぐに見つかった。一番上で強く輝くこと座のベガ、織姫。その右下に見えるのが、わし座のアルタイル、彦星。そしてそんな二人を左下からそっと見守る、山頂から顔をのぞかせたばかりのはくちょう座のデネブ。キミが好きだと言った星。キミが指差して教えてくれた、私みたいな星。

 

「見つけた!」

 

 デネブを指さして無邪気に叫ぶあの日のキミの声が、私の鼓膜を揺らした。


 テーマ:「今日の星空」

第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

今日のノルマ

 「風邪やインフルエンザに気をつけること、宿題をきちんとやること。この二つは守ってくださいね。それでは休み明けに会いましょう。皆さん、よいお年を!」

「よいお年を!」

 帰りの会が終わると、途端に弾んだ声があたりを満たしました。何人かが待ちかねたように教室を飛び出していきます。

 そんな中、和馬は一人、席について冬休みのしおりの宿題一覧を眺めていました。

 和馬も他の子たち同様冬休みは大歓迎でしたが、休みとなると必ずついて回る宿題だけは憎らしく思っています。宿題ちゃんとやってるの、の一言でこれまで何度楽しい気持ちを台無しにされたか知れません。それに、大型連休最後の数日をため込んだ宿題の始末に追われるのもしゃくでした。

 今度こそ早めに宿題を終わらせ、休みを堪能しよう。

 和馬はそう決意しました。ここまでは毎度おなじみの流れでしたが、今日の彼は少し違ました。秘策があるのです。

 最後にもう一度リストに目を走らせると、それをほかの配布物と一緒にランドセルへと放り込み、和馬は席を立ちました。

 

 小学校に入ってから、和馬はすでに夏休みを三回、冬休みを二回経験していました。そしてその五回とも、休暇の最後を飾ったのは宿題地獄でした。

 そこでこの冬休み前、和馬はこれまでの失敗を反省し、宿題をため込まないようにするにはどうしたらいいか考えました。そして、一つの案を思いつきました。

 一日ごとに細かいノルマを決めて、その通りこなしていくのです。

 この思い付きに和馬は有頂天になりました。アイデアを実行に移したくて、宿題一覧の配布を二週間も前から待ちわびてしまったほどです。

 家に帰って昼食をとると、和馬は早速自室にこもり、課題の分割に取り掛かりました。

 算数ワーク、漢字ドリル、絵日記二日分、それと初詣で。これが今回和馬に課せられた宿題です。初詣でが宿題というのは妙な感じですが、これは伝統を大切にと和馬の担任の先生が勝手に足したものです。初詣ではとりあえず無視し、和馬は慣れない作業を進めました。

 幸い学校が午前上がりだったので、時間はたっぷりあります。

 絵日記をかく日はワーク類を少なめに、算数ワークと漢字ドリルは交互に一日おきに、新年に宿題を持ち越さないように。あれこれ悩んで、やっと予定を組み終えた頃には、とっくに日が傾いていました。

 苦心して作ったそれは、ほれぼれするほど完璧に見えました。ふと思い立って、和馬は大きい正方形の付箋紙を持ってきました。一枚につき一日分のノルマを書き、重ねれば即席“ノルマ”日めくりの完成です。

 付箋日めくりを自分の机の三角カレンダーに貼り付け、和馬はほっと一息つきました。これで過去最高の冬休みを送れるのだと思うと、勝手に笑みがこぼれました。

 夕食の時間になってもニヤニヤは収まりませんでした。家族にひどく不気味がられましたが、彼は気にしません。だって、目の前には素晴らしい休暇が待っているのですから。

 

 次の日、朝食と身支度を済ませるなり、和馬はドリルに取り組みました。初日ゆえの張り切りと、午後の遊びの約束のためです。第一回目のノルマはすぐに片付き、彼はいくらか拍子抜けしました。

 時間を見て行ったはずの待ち合わせ場所には、既に友達の上田と吉川が来ていました。

「もしかして、待った?」

「うん。超待った。一時間くらい」

 腕時計に目をやりつつ答える上田に、嘘つけ、今来たばっかじゃん、と吉川が突っ込みを入れました。

「んじゃ、揃ったし出発」

 上田の音頭で三人は、もう一人の友達の家へと歩き始めました。

 午後の柔らかい日差しが投げかけるぬくもりを、風がすぐにかっさらっていくので、空気はいつまでも冷たいままでした。しかし、上がらない気温に反して和馬の足取りは軽やかでした。

 気づけば、彼は今朝こなしたノルマのことを考えていました。あれのおかげで今こうして心置きなく遊べているのです。

彼の目の前では、上田と吉川が翌日に迫ったクリスマスの話に興じています。和馬はふと、かすかな優越感を覚えました。それとともに、ノルマのことを二人に伝えたいという衝動がむくむくと沸き起こってきました。

 自分から言い出すのはカッコ悪いので、和馬は話題が宿題関係へと切り替わるよう念じました。

 クリスマストークが一段落したところで、上田が和馬と吉川を振り返りました。

「宿題、もう始めた? 予定とか立てた?」

「訊いてる自分はどうなの」

 吉川が切り返すと、上田は全然、と笑いました。

「やんなくても、まあなんとかなるっしょ」

 上田は今年の夏休み、宿題を半分も終えないまま始業式を迎えていました。先生に怒られ親に叱られ、泣く泣く期日の過ぎたそれをやらされたことは、もう彼の頭から消えているようです。

「はい、答えたよ」

 上田は、次を促すように視線を揺らしました。待ちに待った時が来ました。和馬は得意げに口を開きます。

「実は、もう宿題始めたんだ。学習計画も超しっかり立てた」

「すげぇ」

 上田が食いついてきました。吉川も興味ありげな様子でした。和馬はここぞとばかりにプランを語りました。

「じゃあ、今年中にあの悪魔から解放されるんだ。最高じゃん」

 心底感心したように上田がほめるので、和馬は少し照れくさくなりました。

「で、宿題毎回きちんと終わらせる人はどうなの? すげぇきっちりしてそうなイメージあるけど」

「え、別に」

 水を向けられた吉川は、手を振りつつ否定しました。

「この三日のうちにこれはやっておこうとか、何日までにあれは済ませとこうとかはあるけどさ」

「それで登校日までに全部終わるんだよな。格が違うよ」

「細かく予定立てる方が窮屈だよ」

「できる奴はこれだから……。俺はノルマ応援してるよ」

 上田のフォローに和馬は嬉しくなりました。

「ありがとう。頑張る」

「お前が今年それでうまくいったら、俺も来年から頑張れそうな気がするよ」

「なにそれ。今季の宿題は?」

「あきらめた」

 あっけらかんとした上田の物言いに和馬と吉川は揃って吹き出しました。

 夢中で喋るうちに結構歩いていたようで、いつの間にか目的地の近くでした。和馬は遊歩道から道路へ一歩踏み出しました。ここを渡れば友達の家はすぐそこです。

「あ、危ない!」

 張り詰めた声が和馬の耳に届くのと同時に、後ろから上着の襟を強く引かれました。一瞬遅れて和馬の目の前を、青い自転車が猛スピードで走り抜けていきます。

 振り返ると顔をこわばらせた吉川が立っていました。危険は去っても緊張は抜けきらないようで、和馬の襟を離れた後も、その手は宙をさまよっています。

「あの自転車かっこよかったなー。ああいうの欲しい」

 場に似合わぬ能天気な声がして、二人はさっと上田の方へ眼を向けました。

「冗談、冗談。無事でよかった。何でここ信号ないんだろう」

 上田が笑ったので、ほかの二人もつられて笑いました。

「……さっきはありがとう」

 落ち着いたころ、和馬は吉川に声を掛けました。

「別に。何かに夢中になると他が見えなくなるタイプなんだから気を付けなよ。あのノルマもそうだけど」

「最後は余計。絶対大丈夫。完璧にやって見せるから」

 目的地に着いたので、三人の会話は一旦そこで途切れました。

 

 三日後の十二月二十六日、早くも和馬は計画が完璧でも全然大丈夫でもないことを痛感しました。

 この日は午前中ゆっくりアニメを見て、午後に日課となりつつあるノルマを片付ける予定でした。しかしお昼過ぎ、お母さんから大掃除を手伝うよう言われてしまいました。大晦日にやればいいのにという反論は、ゴミ出しの都合により却下され、結局和馬が解放されたのは夕方でした。

 夕食後、気を取り直して算数ワークを開きました。すぐに和馬はページ配分を間違えたことを思い知りました。運の悪いことにちょうどそこは和馬の苦手な単元だったのです。

 一問解くのに恐ろしく時間がかかります。このままでは今日中に今日のノルマを達成できそうにありません。

 焦りが焦りを生み、まとまらない考えがさらにとっ散らかっていくようでした。和馬は力の限りノルマクリアに向けて鉛筆を動かします。

 しかし、溜まりに溜まった焦燥は、端から絶望へと変わっていきます。

 ここで途切れてしまうんだ、と和馬は思いました。

 朝、テレビなんか見なければ。昼、掃除なんかしなければ。計画を立てた時、ページ数だけでなく内容も気にかけていれば。

 今更どうしようもないことが羽虫のように頭の中を飛び回り、和馬は思わず頭を掻きむしりました。

 眠気まで襲ってくるに至り、和馬は観念したように机に突っ伏しました。

 ノルマを達成できるまで、明日が来なければいいのに。ノルマを達成できないなら、明日なんか来なければいいのに。そう念じながら。

 

 和馬は、ベッドの上で目を覚ましました。まったく記憶にありませんが、あの後、無意識に寝床へもぐりこんだようです。

 一眠りしても晴れない気持ちに、情けなさが加わりました。腰や背骨が痛くなろうとも、せめて机で朝を迎えたかったと、和馬はため息をつきました。

 前日の失敗を引きずりつつ階下に行くと、食卓には昨日と同じメニューが並んでいました。特に珍しいことではないので気にせず食べていると、お母さんが声をかけてきました。

「今日九時からお昼まで、あんたの好きなアニメの再放送あるみたいよ。なんか五、六話まとめて一気に」

「それ昨日の話」

 和馬の声にはテンションの低さがにじんでいました。それを気に留めず、お母さんが言います。

「新聞見なよ。そこにあるから」

「これ昨日のじゃん」

「何言ってるの。ちゃんと二十六日って書いてあるじゃない」

「やっぱ昨日じゃん」

「休み続きでボケ始めた?」

 お母さんは徐々に不機嫌トーンに変わっていきました。

「テレビ見てみなさいよ」

 テレビにはちょうどお天気お姉さんが映っています。お姉さんはにこやかに各地の予報を告げます。

「クリスマス明けの今日、十二月二十六日は全国的に晴れ。地域ごとの詳しいお天気と気温は……」

「ね?」

 小馬鹿にしたような調子の母に、和馬は思わず聞きました。

「昨日の夕飯憶えてる?」

お母さんは、自分の認識の正しさアピールするように、すらすらと答えました。頼むと、前日の朝食と昼食の献立も列挙してくれました。

和馬は、驚いて何も言えなくなりました。

挙げられた料理は、どれも食べた憶えのあるものでした。ですが、和馬の昨日の記憶と合致するものは何一つなかったのです。

それらは、そっくりそのまま前々日のメニューでした。

 

 少しして始まったアニメは、昨日観たものと全く同じでした。もう一度見る気になれず、和馬は途中でテレビを消しました。

 ふと思い立ち、彼は自室へ戻ると算数ワークを開いてみました。

 昨夜確かに解いたはずのページが、白紙に戻っていました。書いたものを消したような跡はなく、もともと何も書かれていなかったかのようです。

 ここにきて、和馬はようやく確信しました。

 過ぎ去ったはずの十二月二十六日が、もう一度やってきたのだと。

 

 前日さんざん頭を悩ませた問題に再度向き合っていると、最初にこれを解いた昨夜のことがよみがえってきました。

 ノルマを達成できるまで、明日が来なければいいのに。ノルマを達成できないなら、明日なんか来なければいいのに。そう祈ったことをはっきりと覚えています。この願いのせいで、二十六日は繰り返されたのでしょうか。

 考えても答えは出そうにありません。ひとまず、和馬は考えれば答えの出るワークに集中することにしました。

 半分以上が一度解いた問題だったので、昼前にはすべて片付きました。

 前日と同内容の昼食の後、これまた前回の二十六日と同じように、掃除を言いつかりました。二度目なのでだいぶ手際よくできましたが、その分新しい仕事を頼まれ、結局解放されたのは昨日と同じ夕方でした。

 

 寝て起きると、ちゃんと二十七日になっていました。

 ノルマクリアできたためでしょうか。それともほかの原因があるのでしょうか。はたまた何かの偶然かもしれません。

 和馬は、いろいろと実験してみることにしました。

 その日、彼はドリルに手を触れることさえしませんでした。実感としての翌朝、日付は二十七日のままでした。

 次は、ノルマ達成まであと一問のところで、手を止めてみました。一日が終わり、やってきたのはやはり二十七日でした。

 宿題を最初に決めた量やってから床に就くと、ようやく二十八日が訪れました。

 どうやら、本当にノルマの達成状況が繰り返しを引き起こしているようです。

 この三日続いた二十七日の中で、ほかにもいろいろなことがわかりました。

 問題集は、誤答でも答えを書けばやったとみなされること。同じ日が繰り返される場合、夜零時に和馬含め、ヒトもモノも一回目の午前零時の状態に戻ること。周囲の人はループに気づいていないこと。和馬が変わったことをしない限り、彼らは毎回同じ行動をとること。そして、同じ日を繰り返した場合、ほかの人々の記憶に残るのは最後の一回のみであること。

 

 これほど便利な仕組みが手元にあるのに、それを利用しない手はありません。

 二十八日、二十九日、三十日。それぞれ飽きるまでやり直し、和馬は思う存分遊びつくしました。

彼が望む限り、自由時間はいくらでも手に入ります。それに、友達とどんなにケンカしても、親をどれほど怒らせても、宿題さえしなければ問題ありません。一日できれいさっぱり忘れてくれます。

犯罪のような大それたことはさすがに怖くてできませんでしたが、普段ならちょっと躊躇するようなことは何度かしました。

自分一人だけが知るやりたい放題の日々を心ゆくまで満喫した和馬の手は、自然と宿題に向かいました。一旦満足してしまうと、変化に乏しい生活を窮屈に感じるようになったのです。それに、近くて遠いお正月が恋しくもなってきました。

自由時間に未練がないわけではありませんでしたが、和馬はその先の楽しみのため、十二月三十日の分のノルマを終えました。

 

 そうして迎えた十二月三十一日、大晦日。和馬は、この日だけは繰り返す気になれませんでした。これは別に大晦日が嫌いだからではありません。

 この日は一年の最後の日であるだけでなく、ノルマライフの最終日でもありました。彼は、自分で最後と決めた日を何度もやり直したくなかったのです。

 残すところあと一枚となった日めくりノルマカレンダーには、大きな字で「宿題全部完了」とだけ書かれています。汚い字に自分で苦笑しながら、和馬はそれを作った日を懐かしく思い出しました。暦の上では九日前の出来事ですが、和馬の感覚では一か月以上の隔たりがありました。

 雲の流れ、家族の動き、雑談の内容。何てことのないようなすべてが二十九日や三十日のそれと少しずつ違っており、とても新鮮でした。

 リビングでひとしきりくつろいでから、和馬は最後のつとめに取り掛かりました。軽めに設定してあったので、それはすぐに済みました。

 あんまり早く終わってしまったので、和馬は寂しくなりました。楽しいこと、苦しいこと、不思議なこと、面白いこと。思い返せばノルマとともに歩く日々は、とても充実していました。

 でも、そんな生活ともここでお別れです。

 和馬は日めくりを引っぺがすと真っ二つに破り、ごみ箱に放り込みました。

 

 午後をだらだらと潰していると、解放感と達成感に包まれました。それはガラス越しの日差しのように穏やかで、そんな満ち足りた心地は久しぶりでした。

 日が落ちても気分は冷めず、家族全員が揃ったダイニングで、和馬は笑みこぼれながら年越しそばをすすりました。案の定ニヤつく息子を気味悪がった両親が、何に笑っているのか訊いてきました。和馬は適当にごまかしながら、そういえば、と思いました。上田や吉川にノルマを作ったことは話しましたが、繰り返しのくだりは誰にも喋ったことがありませんでした。

「あ、そうだ。宿題の調子はどう? ちゃんと進んでるの?」

 思い出したようにお母さんが問いかけました。和馬は、グッと親指を立ててこれに答えました。

「全部終わらせた」

 予想外の返答に、お母さんだけでなくお父さんまで面食らった顔をしました。和馬は可笑しくなって、思わず吹き出してしまいました。

 

 除夜の鐘が鳴る中、今年最後の夜は更けていきました。

 大晦日だけはどれほど夜更かししても許されるので、和馬は眠気を抑えてリビングにいました。

彼は年越しの瞬間に立ち会うつもりでした。

今日の終わりは、同時にノルマライフの真の終わりでもあります。何としてでもそれを見届けたかったのです。

あくびを噛み殺していると、やがて待ちに待った時が訪れました。テレビがカウントダウンを始めます。和馬と両親もそれに倣います。

「五……四……三……二……一!」

 

 あけましておめでとうございます、と言おうとしたところで、周りの景色が変わりました。和馬は自分がベッドに横たわっていることに気づきました。

 嫌な予感を抱きつつ身を起こし、見やった机上には、「宿題全部完了」をくっつけた三角カレンダーが鎮座していました。

 なぜ。どうして。クエスチョンマークが和馬の中で弾けました。和馬は、目を閉じて深呼吸しました。想定外の事態に、今にもパニックを起こしそうでした。

 震える手でドリルを開くと、昨日やったものが消えていました。パジャマのまま椅子にも座らず、和馬はそれをやり直しました。

 それが済むと、今度は冬休みの宿題としてやった範囲に抜けや漏れがないか徹底的にチェックしました。漢字ドリルの次は算数ワーク、絵日記の誤字脱字まで点検し、すべて終わると和馬は床にへたり込みました。

 集中が切れた途端、冷えと背骨の痛みが襲ってきました。和馬は慌てて布団に這い戻りました。何が悪かったのかはわかりませんが、ともあれこれで大丈夫のはずです。

 背中を伸ばしていると、階下から苛立ったようなお母さんの声がしました。確認作業にだいぶ時間がかかったのでしょう。時計は前日の起床時刻を大幅に過ぎていました。

 二度目ともなるとニヤニヤ笑いは起きず、夕食の席では一度目とは違う会話がなされました。

そばを食べながら、和馬は昨日の両親の驚き顔を思い出していました。確かにあった出来事なのに、和馬の他にそれを憶えている人はいません。それが惜しいように思えて、和馬は今日の団欒を楽しめませんでした。

勝敗のわかっている紅白歌合戦をぼんやり眺めたり、うとうとしたりしているうちに、気づけば日付の境は目前まで迫っていました。

 前回と同じようにカウントダウンが始まります。

「四……三……二……一!」

 一瞬意識が途切れ、またつながりました。確認するまでもなく、和馬には何が起きたかわかりました。

 また、三十一日のはじめに戻ってしまったのです。

 どうして明日に行けなかったのでしょう。何か間違いを犯してしまったのでしょうか。

 呆然としながら和馬は冬休みのしおりを手に取りました。目当てはもちろん、宿題リストです。

 算数ワークは、やりました。漢字ドリルも終わっています。絵日記だってかきました。と、そこで和馬は目を留めました。

「初詣でに行くこと」

 その八文字が目に飛び込んでくると同時に、彼は自分のミスを理解しました。「宿題全部」なら、当然これも含むはずです。

「でも、どうやって?」

 呟きが和馬の口から漏れました。大晦日の今日神社に行っても、それは単なるお参りになってしまいます。時差の利用もちらっと頭をよぎりましたが、パスポートやフライトの手配を考えるに、無理そうでした。

 それから数時間、和馬は頭を絞り、捻り、フル回転させました。そしてとうとう、実現可能な打開策に辿り着きました。

 初詣でを宿題から外せば、いいえ、外してもらえばいいのです。

 ドリル類と違い、初詣では和馬のクラスの担任が、和馬のクラスの生徒にのみ課したものです。取り下げも担任の先生の独断でできるはずです。

 早速、和馬は学校に電話を掛けました。しかし、いくら鳴らしても誰も出ません。年末を職場で過ごそうという先生はいないようです。

 仕方なく、和馬は直接担任と連絡を取ることにしました。先生の家の電話番号は、幸い連絡網に載っているので、それを見てコールしました。

 数分おきに三度、さらに二時間おいて二度電話しましたが、どれも留守電でした。旅行か帰省かわかりませんが、ともあれ先生は家にいないようでした。

 

 味気なさにうんざりしながらそばを平らげると、和馬は早々に自室へ引き上げました。今回はまだ宿題に手を付けていません。とてもそんな気になれないのです。

 何をするでもなく体育座り天井を見上げていると、とりとめのない考えがその隙間を流れていくようでした。

 どうしてノルマなんか作ってしまったんだろう。こうなるくらいなら宿題地獄でよかったのに。もしこのまま永遠に今日から抜け出せなかったら?

 幾度となく反芻するうちに、後悔と不安は増していきました。和馬は、少しずつ身を焼かれるような感覚に、いてもたってもいられなくなりました。

 立ち上がり、向かったのは勉強机のもとでした。

 もちろん勉強をしようというのではありません。和馬は三角カレンダーから「宿題全部完了」の付箋をはがすと、摘めなくなるまで細かく引き裂きました。

 全部ノルマのせいだ、とつぶやくと、思考の方向が定まりました。もやもやと渦巻くだけだった感情が、怒りへと収束していきます。

 和馬は突き動かされるようにワークを開くと、字で埋まったページに消しゴムを走らせました。

 一ページ、また一ページ。ワークが済んだら次はドリル。努力の跡を自分の手で消していくことに、不思議と未練はありませんでした。

 不意に、手元がバリっと鳴りました。目線を落とすと、紙が大きく破れています。和馬は一瞬動きを止めると、その部分を乱暴に手でちぎり取り、すぐにまた作業に戻りました。

 どうせ夜が明ければ全部元通りになってしまうのです。消したはずの字も何食わぬ顔で復活していることでしょう。

 視界がぼやけ、和馬は自分が泣いていることを知りました。それでも和馬は取りつかれたように手を動かします。

 無駄なことをしているという自覚はありましたが、ここでやめたら本当に自分が壊れてしまいそうで、中断はできませんでした。

 いつのまにか彼は涙と、自分を十二月三十一日に閉じ込めたシステムへの悪態にまみれていました。

 冬休みの成果がすべて消し屑になり果てると、どっと疲れが押し寄せてきました。ドリル類を床に払い落とすと、和馬は机に突っ伏し、そのままふて寝を決め込みました。

 

 和馬が目を覚ましたのはいつも通りベッドの上でしたが、部屋の様子や当たりの雰囲気は前日とどこか違っていました。いぶかりつつ机の方に顔を向けると、あの癪なノルマカレンダーが目に入りました。そのツンと澄ました様子に舌打ちすると、和馬は寝返りを打とうとしました。が、そこで動きを止めました。

 付箋に書かれた文字が、見慣れた「宿題全部完了」ではなかった気がしたのです。

 目を凝らすと、日めくりには十二月二十三日という日付と、その日分のノルマが記されていました。

 和馬は跳ね起き、すぐさまワークを手に取りました。破れた形跡のないそれは、冬休み前で時間の止まったようでした。

 冬の課題として出された部分はまだだれも手を付けていないようにまっさらで、何かを消した後もありません。

 すぐにドリルと絵日記も確認しましたが、これらも同じ状態でした。

 

 体感としての昨日、この冬に取り組んだものを全部消したおかげですべてのノルマが未達成状態となり、冬休み初日の十二月二十三日に戻ったのだ。

 少し考え、和馬はそう結論付けました。不可解さが解消されると、身の内で安堵と喜びが生まれます。とうとうあの忌まわしいエンドレス大晦日から脱出できたのです。

 喜びも束の間、和馬にはまだやるべきことが残っていました。真にループから逃れるためには、あの初詣でをどうにかしなくてはいけません。

 朝食、身支度を終えると、ちょうどいい頃合いでした。この時間になれば誰かしらいるでしょう。和馬は自身の通う小学校へ電話を掛けました。

 電話をとった事務員さんだか先生だかわからない人は、頼むとすぐに担任へ取り次いでくれました。

 ここからが正念場です。和馬は深呼吸を一つしました。

 そうして臨んだ一回目の交渉は、決裂に終わりました。言うことを何も考えずに挑んだのだから当然です。ツーツーとなる受話器を手に、和馬は無計画を反省しました。

 上田たちに連絡して遊ぶ約束をキャンセルすると、和馬は午後、説得作戦づくりに終始しました。

失敗に落ち込んでいる時間はありません。行き止まりのようだった昨日とは違い、今日には出口を開けるカギがちゃんとあるのです。もちろん宿題には指一本触れません。

 二度目も談判は思うようにいかず、三度目でようやく交渉が成りました。

 あとはこれから毎日、きちんとノルマをこなしていけば普通の生活を送れます。終わったんだ、と和馬は思いました。

 今日の分を片付けると、全身の力が抜け、彼はその場にへたり込みました。見かけに反し、心の中は突き上げるような達成感で満たされていました。

 

 宿題と昼食を済ませると、和馬は家を出ました。時間を見て行ったはずの待ち合わせ場所には、既に上田と吉川が来ていました。

「もしかして待った?」

「うん。超待った。一時間くらい」

腕時計に目をやりつつ答える上田に、嘘つけ、今来たばっかじゃん、と吉川が突っ込みを入れました。

「んじゃ、揃ったし出発」

 上田の音頭で三人は、もう一人の友達の家へと歩き始めました。

 見覚え、聞き覚えのあるやり取りに、和馬は「今日」二人と遊ぶのも二度目なのだと実感しました。二十三日はこれで四回目なのに遊ぶのは二回目なのだと思うと、少し可笑しくなりました。

 午後の柔らかい日差しが投げかけるぬくもりを、風がすぐにかっさらっていくので、空気はいつまでも冷たいままでした。上がらない気温に沿うように、和馬の足取りはゆっくりでした。

 気づけば、和馬はノルマとそれにまつわる奇妙な出来事たちに思いを馳せていました。あれのおかげで、短期間に様々な体験をしたのです。

彼の目の前では、上田と吉川が翌日に迫ったクリスマスの話に興じています。ふと和馬の中に、ノルマのことを彼らに話したいという衝動が沸き起こりました。

待っていても、まさかノルマとかループとか言った話題は出そうにないので、和馬は頃合いを見て口火を切りました。

少し前に読んだ漫画の一話として、彼は自分の身に起きたことを語りました。二人は唐突のことで少し面食らったようでしたが、すぐに乗ってくれました。

「で、そいつは結局宿題全部やったんだ?」

 話が終わるなり、上田が口を開きました。

「たぶん。冬休み一日目に戻ったところで漫画も終わったからわかんないけど

「世にも奇妙な物語みたい。タイトルは?」

 吉川も加わります。

「忘れた」

 適当に返事をすると、和馬は思い立って二人に問いかけました。

「もし本当にこんなことがあったらどうする?」

「絶対宿題なんかしない。永遠の冬休みをエンジョイする」

 上田が真っ先に答えました。迷いのない元気な声でした。和馬は、やり直しシステムに気づいたばかりの自分を思い出して苦笑しました。その頃の彼なら諸手を挙げて上田に同意したことでしょう。

 一方、吉川は少し考えこんでいるようでした。利点と落とし穴とを天秤にかけているようでした。それはそれで慎重すぎる気がして、和馬は上田と一緒に笑いました。こんな風に心から笑ったのは久しぶりで、涙が出そうでした。

夢中で喋るうちに結構歩いていたようで、いつの間にか目的地の近くでした。まだノルマループに思いめぐらせている吉川を尻目に、和馬は遊歩道から道路へ一歩踏み出しました。ここを渡れば友達の家はすぐそこです。

「あ、危ない!」

 張り詰めた声が和馬の耳に届いたのと、あの青い自転車が彼に突っ込んできたのは同時でした。一瞬遅れて吉川の手が、和馬の背後の空をむなしく掻きました。

 

 和馬が目を覚ますと、そこには知らない空気が流れていました。彼はあたりを窺おうとしましたが、どうしてか目が開きません。飛び起きようにも、体の節々が疼いて身動きが取れません。

 仕方なく耳をそばだてていると、誰かの話し声が聞こえてきました。

「いつ意識が戻るのかしら。昨日からずっと……」

「そのうち……。命に別状はないって先生も……」

 すぐに声の主は和馬の両親と分かりました。

「友達がすぐに救急車を呼んでくれたのはよかったけど……」

「そういえば、自転車の主は? もう見つかったんだろう」

「そうらしいけど、詳しくは聞いてない……。それどころじゃないもの」

 切れ切れに脳へ届く情報を必死につなぎ合わせていると、気絶する直前のことがゆっくりと思い出されました。彼はなんとなく自分の置かれた状況を悟りました。

「ああ、世間はクリスマスイブとかいってお祭り騒ぎなのに。こんな、酷い」

 お母さんの嘆きと、それに対するお父さんの慰めを聞くと、和馬も心を抉られるようでした。起きて自らの無事を伝えたいと切に望みました。しかし、それは叶わず、もともとおぼろげだった和馬の意識は再び深い眠りへと落ちていきました。

 

 和馬が目を覚ますと、そこには知らない空気が流れていました。彼はあたりを窺おうとしましたが、どうしてか目が開きません。飛び起きようにも、体の節々が疼いて身動きが取れません。

 仕方なく耳をそばだてていると、誰かの話し声が聞こえてきました。

「いつ意識が戻るのかしら。昨日からずっと……」

「そのうち……。命に別状はないって先生も……」

 すぐに声の主は和馬の両親と分かりました。和馬は不思議な気分になりました。このやり取りを知っているような気がしたのです。

「友達がすぐに救急車を呼んでくれたのはよかったけど……」

「そういえば、自転車の主は? もう見つかったんだろう」

「そうらしいけど、詳しくは聞いてない……。それどころじゃないもの」

 強まる一方の和馬のデジャビュは、お母さんの嘆きで最高潮に達しました。

「ああ、世間はクリスマスイブとかいってお祭り騒ぎなのに。こんな、酷い」

 和馬はハッとして、靄の詰まったようにすっきりしない頭でどういうことか考えようとしました。

 しかしそれは叶わず、何か有益なこと、例えばまだ今日十二月二十四日のノルマを終えていないことを思いつく前に、彼の意識は深い闇へと落ちていきました。


テーマ:「今日のノルマ」

第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

細波のララバイ

 頬を水滴がひとつ、ゆったりと伝っていく。
 それに気づいて右手の人差し指で掬ってみようと試みたが、水滴は構わず地面に落ちていった。あとには、仄かに湿り気を帯びた指が、宙ぶらりんになっているのみだった。その指を口に含んでみると、無機質な冷たさが口の中に広がる。
 視線だけで天を仰ぐと、細やかな雫がまばらに降りてきているところだった。それらはやがて館の庭に着地し、やがてその下へ潜り込んでいく。所々には水溜まりができており、その上に降り立つ雫は、小さな、すぐに消えてしまう波をつくる。
 ――ああ、この音は、実に心地よい。
 彼女が大好きな音。そして、彼女がその実際を決して知ることのない音。
 この音に、いつの間に魅せられていたのかはよく分からない。ただ、「魅せられている」と自覚してから、この両耳は小さな雫と波の音を逃さず拾うようになった、とは思う。
 またひとつ、水滴が頬を伝って落ちていった。落ちていった先に、ほんのり小さな水溜まりができているのを見つけた。
 何も考えず、力の入らない右足のつま先でその水溜まりをつついてみる。ほんの少し波が立ち、すぐに消えた。やはり人間では、絶妙な程度の波を作るのは難しい。
 そうしてしばらくその場で立ったまま、足元の水溜まりを眺めたままでいると、力なくぶら下がっている左手に握られた、白いレジ袋が目に入る。
「ああ、そうか」
 自然と口から零れた呟きは、そのまま空中に霧散した。
 その呟きが完全に頭から消え去るまで待ってから、その場で後ろを向き、鍵を扉に差し込んだ。時代を感じさせるような軋みの音が軽く辺りに響く。その音には特に何も感想を抱くことはなく、そのまま館の中に足を踏み入れる。
 玄関からそのまま真っ直ぐに階段へ向かう。二階へ上がると、雫が打ちつけている音がほんの少し大きくなる。その音を胸いっぱいに取り込むと、目的の部屋の扉を軽く叩く。
「……いいわよ」
 やや間があって、部屋の中から澄んだ声が返ってくる。
「はい、失礼します」
 できるだけ音を立てないように、そっと扉の取っ手を回してみる。だが、思ったより軋む音が立ち、心の中がざわついた。それでも、部屋の中を見渡して、そのざわつきはすぐに収まった。
 部屋の中に置かれた、サイズが少々大きめのベッド。その上に横になっているのは、この館に住む少女だった。その少女の顔は一般的なそれと比べれば色白な部類に入るだろう。だが纏う雰囲気はどこか過去の快活さを滲ませていて、そのふたつが並び立っていることがひどく不安定なようにも感じられた。このことを、彼女に直接話したことは一度もない。
「結局、来たのね」
 横になったまま、彼女が言う。その言葉は、どこかあてどないようにも感じられた。だが、その全てを掴まえることが役目でもあり、また楽しみでもあるからして、その全てに言葉を返すこともまた、役目でもあり楽しみでもあった。
「ええ、それでよろしいとおっしゃられたので」
 丁寧に、体の中で言葉を練り上げて放り出す。心なしか、部屋の雰囲気が緩んだような気がした。
「お眠りでしたか?」
「そうね。でも、あなたがすぐにノックなんてするから」
 少し不満げな表情を作った彼女だったが、その口角が僅かに上がっていることは見逃さない。
「そうでしたか。申し訳ございません」
 だから、こちらも少し、口角を僅かに上げて言葉を返した。
「いいわよ。それにしても……」
 そう言いながら、ベッドの上に掛けられた布団が擦れるような音を立てた。ベッドの脇に腰かけると、彼女は部屋に唯一設けられた窓の方を向いていた。窓の外では、相変わらず細やかな雫が降りてきていた。ただし、先ほどよりも少し密度が濃くなっているようだった。
「……いい景色よ」
「ええ。存じております」
 彼女の声に合わせて、窓の外から彼女の顔へと景色を変える。その目は、どこか細められているようにも思えたし、今にもまた眠ってしまうのではないか、そんな気もした。
「もうひと眠りなさいますか?」
 できるだけ何の感情も込めないようにしながら、彼女に声をかける。彼女は、布団に包まれながら、首をゆったり横に回した。彼女の髪の毛が、少しだけぐしゃぐしゃになる。その髪の毛を直すことはせず、彼女はひたすら窓の外を眺め続けた。
 彼女の枕元に置かれている固定電話のランプが光っているのが見える。
 今日も、なのか。
 その事実に、少しほっとしている自分がいた。そのことを自覚して、どうしようもない感情に埋もれそうになる。こんな感覚は、いつ以来だろうか。
「えっと…………今日は、いかがでしたか」
 漠然とした言葉。そこには、何か黒い感情が入っていたかもしれない。でも、彼女はいつもその感情を拾うことはしない。その上で、必要な情報はいつも、全て与えてくれる。
「いつもと同じね。言葉に力はないし、言う決心なんてついていないのではないかしら」
 少し苛々が混じったような声で、彼女は続けた。
「もしかしたら、私が背を押してあげたらあり得なくはないかもしれないけど、でも」
 そこで彼女は言葉を区切って、自分の手をこの動かない左手に添えてくる。その手の温度は妙に冷たく、温もりと呼べるほどのものはどこにも見つけられなかった。
「分かっているのでしょう……?」
 そう言って彼女は、自分の手も、目線も、この左手に固定した。その間、ずっとこの左手は冷たいままだった。
 ゆっくりと左手を抜き取ると、彼女の上に掛かっている布団を直す。
「もうひと眠りなさってください。食事の準備をして参ります」
 そうして、この部屋に入ったときに軋んだ音を立てた扉の前に立つ。その取っ手を右手で握ると、無機質な冷たさが脊髄まで伝わってくるようだった。
 取っ手を回そうとすると、背後から弱々しく声が放たれた。
「また、来てくれるわよね……?」
 片目だけ、彼女に視線を合わせて返事をした。振り返った時、ずっとぶら下がっていたレジ袋が微かに音を立てた。
「食事が完成しましたら、また伺います」

   §

 今日も今日とて、空からは雫が降りてくる。傘に打ちつけるその音は、昨日よりも少しうるさかった。
 目を辺りにひと通り巡らせる。並木がいつにも増して激しく揺れながら、その葉からは忙しなく水滴を零す。その水滴は、昨日頬を伝ったものよりもずっと丸々としているように見えた。
 その木の根元には、昨日はなかった、ほんの小さな湖があった。少なくとも、小さな水溜まりというには抱えている水の量が多いように見える。そこへ、木の葉から注がれる天然の水が落ちていく。その水滴が作る波は、昨日眺めていたものよりも僅かに高い。
 ――ああ、今にも眠ってしまいそうだ。
 その心地よい音の連鎖に、いつまでも浸っていられそうな気分になった。
 自分の足下からも、雫が波を立てる音は聞こえていた。持っている傘から落ちていった雫によるものだった。膝と腰を折り曲げて、自分の足下にある小さな湖をより近くで眺める。並木の麓にあるものよりは少し小さいか、そんなことを思った。その時、左手にある白い布の手提げが目に入った。
「もう、このくらいかな」
 その言葉の響きが雨音に完全にかき消されるまで待ってから、玄関扉の方へと体の向きを変える。流れるように傘を閉じると、その場で傘にくっ付いてくる水滴を振り落とす。
 玄関扉を開けて、傘を傘立てへと収めると、既に置かれていた一足の靴は気にも留めずに、真っ直ぐ目的の部屋へ向かう。
 二階の廊下は所々古くなっているようで、数歩進むたびに一度、軋む音が館の中に響いた。その音は、屋根に打ちつける雫の音には負けていた。
 その軋みの音だけを丁寧に胸の中から取り除くと、目的の部屋の扉を軽く叩く。
「……入りなさい」
「失礼します」
 そうして、部屋の中へと入っていく。今日は、彼女はベッドの上に腰かけていた。
「今日はお早いのですね」
「違うわ。あなたが遅かっただけよ」
 字面だけ見れば不満な心持ちのようにも見える言葉。しかし、どこか満面の笑みでそんな言葉を放る彼女。その笑みに、どうしても違和感を覚えざるを得なかった。彼女が満面の笑みを浮かべるというのはあり得ないと、分かっているから。
「……どうかなさいましたか?」
「え?」
 彼女は、心当たりがないという様子ですぐに返事をしてくる。
 ――ああ、もしかして。
 彼女の方へ歩いていこうとすると、彼女は右手でそれを制した。構わず進もうとすると、彼女は言葉を放った。
「来ないで」
「どうしてですか?」
 間髪入れずに言葉を返す。きっと今は、そうしないと駄目だと思ったから。
「どうしてもよ」
「どうしても、あなたと一緒に窓の外の景色を眺めたいと言っても、ですか?」
 その言葉で、彼女の表情が驚きに満ちていく。少し、怒りの感情も混ざっているようにも感じた。
「分かっているなら、なんで……?」
 彼女が、縋るような目で訊いてくる。敢えて言葉のトーン、表情、何一つ微動だにしないで返事をした。
「こう言えば、あなたは招き入れてくださると分かっているからです」
「だから、なんで……?」
「そうすれば、あなたに感じた違和感を、あなたの言葉で聞かせていただけると分かっているからです」
 彼女の目を見据えながら、彼女と言葉を交わし続ける。やがて彼女の目頭から、ひとつ雫が零れ落ちた。それはきっと、外の空から降りてきているものよりもずっと温かいものだった。
「分かっていますよ。何か、ありましたよね?」
「…………」
 彼女は、沈黙した。その沈黙が、全ての答えなのだと分かっていながら、敢えてそうしているようにも感じられた。
「……狡いわ」
 一言だけ、聞き取れるか聞き取れないかぎりぎりの音量で彼女は呟いた。だが、全てを掴まえることが役割なのであるから、その呟きを掴まえ損ねるなんてことは断じてない。
「何故ですか?」
「だって……私が断れないって分かっていることを、敢えて言ってくるんだもの」
 その言葉に、思わず笑顔が零れてしまいそうになったが、ここは抑える。
「聞かせてもらえないと、気持ち悪かったもので」
「なによそれ。全部、あなたの我儘じゃない」
 彼女の表情は、至って笑顔だった。いつもと同じような、笑顔だった。
「申し訳ございません」
 だからこそ、いつもするように、言葉を返した。
「それでは、お隣よろしいですか?」
「……いいわよ」
 彼女の許しの言葉が終わる前には、既に足を動かし始めていた。そうして彼女の隣に腰かけたときに見えたのは、枕元に置かれた、ランプが点いていない固定電話だった。
 今日は、そうなのか。
 その事実に、どこか冷静でいられる自分がいて、そのことを自覚して安堵した。
「今日は、いかがでしたか」
 敢えて、いつもと同じ言葉で語りかける。彼女は、微かに笑顔を浮かべながら語り始める。
「ずっと、そうだったけど……気持ちは、嬉しくは……あったのよ」
 その笑顔のまま、彼女の口からは言葉が零れていく。その量が増えるにつれ、表情に陰りが見えてきたが、それは当然と言えるかもしれなかった。
「でも……無理だったわ。想像できないもの」
「想像……ですか」
「そう。こっちから促しておきながら……全く、酷い人よね」
 何も、返せなかった。何を返していいか、まるで見当がつかなかった。そんなことはない、あなたは酷くなんてない、とでも言えばいいのだろうか。その言葉は、彼女の胸を更に抉るかもしれないのに。
「なにも……言わないのね」
「なにも、言えませんでした」
「そう」
 そこから、その部屋は沈黙に包まれた。その沈黙さえも胸いっぱいに取り込んでいるというのは、まだしばらくは彼女に秘密のままでいいだろう。
 いつの間にか彼女と寄り添う格好になっていたためか、体の温度が少し上がっているのがはっきりと感じられる。
「ねえ」
 思っていたよりも早めに、その沈黙は区切られた。無言で視線だけを彼女と合わせる。その目頭から流れ落ちるのは、涙か、それともただの汗か。
「ねえ、今日だけは……」
 そう言って、物言わぬ左手と彼女の左手とが結ばれる。
「全く、あの人が勇気出してくれて、それを拒絶して、私がこんなになっているなんて……やっぱり酷いわ」
 絞り出すようにそう言った彼女は、また目頭から雫を零した。その雫を右手の人差し指で救うと、左手に込める力を少し強める。
 ――ああ、今日のこの温かさは、実に心地よい。
 窓の外では、相変わらず空から無機質な雫が密度濃く降りてきていた。

   §

 空を見上げると、今日も雫が降りてきている。だが、昨日と違って傘を差すほどではなく、ゆえに髪の毛はほんのり湿ってはいるものの、許容範囲と思えるくらいだった。それはもしかしたら、心持ちの違いなのかもしれなかったが。
 玄関扉の開き方は、どこか重々しい。でも、それでいいと思った。むしろ、それでこそだと思った。この玄関扉を開いてこそ、この館に足を踏み入れる、その事実を実感できる。
 玄関ホールに飾られた観葉植物を一瞥して、赤い絨毯が敷かれた階段を上がっていく。そうしてやはり、今日も目的の部屋の扉を数度叩いた。
「いいわよ」
「失礼します」
 一度扉の前で大きく深呼吸をする。廊下の空気をたっぷりと肺に送り込み、その後全てを吐き出す。一連の動作を完全にやりきってから、扉を開けた。
 彼女は、今日はベッドに横になったままだった。
「どうしたの、なんか今、変な間があったような気がしたけれど」
 部屋に入ってもう一度、大きく息を吸う。
「いえ、特に何も」
「そう。ならいいわ」
 言いながら、彼女は左手を布団の中で上下させている。直接その様子は見えなかったが、布団が大きく上下に揺れていた。
「どうしたの?」
「はい?」
 彼女がこちらに不満げな声を投げかけてくる。心が少しふわふわするのは今は黙っておくことにした。
「こっち、来たら?」
 布団の中から、額と目だけをこちらに見せつつ、期待が入り混じる声をこの両耳に届けてくれる。心なしか、この部屋の温度は外よりも高めのような気がした。
「よろしいのですか?」
「……分かっているのでしょう?」
 またも不満げな言葉が投げかけられる。表情の片隅にも、不満が滲み出ている。少し恭しく、右手を胸に当てて、軽く腰を折りながら返事をする。
「申し訳ございません」
「あなたのそのポーズ、似合わないわね」
「そう……ですか?」
「あら、私の言葉が信じられないの?」
「申し訳ございません」
「もう、今日は謝ってばかりじゃない。なら、早くこっちに来なさい」
 そう言われてまた謝りそうになったが、そこはぐっと堪える。そして彼女の方へ歩いていった。布団に隠れていて見え辛かったが、距離が近くなるにつれ、彼女の表情が笑顔に満ちていくのを掴まえ損ねることはなかった。
 横になっている彼女の頭の近くに腰かけ、何気なく窓の外を眺める。ほんのりと降る雨は、まだ止んではいなかった。
「今日も、雨なんですね」
「そうね。少しくらい太陽を見たいわ。ここ最近、ずっと雨だものね」
「……そうですね」
 窓の外の景色から視線を外すと、枕元の固定電話が目に入った。ランプが点いていた。
 そのことに触れるべきか、一瞬迷った、迷いはした。だが、いつもの流れで訊いてしまうということに頭の中ではしておいた。実際、意識的に訊いたのかそうでないかは、はっきりしない。
「今日は、いかがでしたか」
 その言葉を発した瞬間、彼女が明らかに不機嫌な表情を浮かべた。それは、初めて見るような、黒さを伴っているように見えた。
「変わらないわ」
 彼女は、まずその一言だけを口にした。
「変わらない……」
 気付けば、その言葉は無意識のうちにこの口から繰り返されていた。
「そう、変わらない。今、あの人に何を言われても、今の私は何も変わらないわ。あなたと一緒に、歩いていくのよ」
 いつの間にか握られていた左手が、さらに強く包まれた。その感覚は、一瞬で脳裏深くまで刻み込まれたことだろう。
「だから、そんなこと言わないでよ……!」
 震えかけたその声により、この両耳は一瞬機能を停止した。おかげで、一切の雑音なく、彼女の言葉を鮮明に反芻することができた。
「やっと、あの人の言葉が繰り返し聞こえなくなってきたところなの……!」
 物言わぬ左手に、少し強めに力をこめる。そのお陰かは分からないが、左手を外から包む力はほんの少し弱まった、ように思う。
「も、申し訳ございません」
 また、謝ってしまった。本当に、今日は謝ってばかりだ。
「本当に申し訳なく思うなら、この後――」
 彼女は何を言おうとしたのか、それは分からない。だが、その瞬間に彼女の腹の虫が鳴き、彼女の耳がほんのり赤くなったことだけが、確かな事実だった。
 大きく息を吸い込んでから、彼女に声をかける。
「食事の時間にしましょうか?」
「……ええ、お願いするわ」
「はい、了解しました。しばらくかかりますので、もうひと眠りなさっていてください」
「……ありがとう」
 二人して、笑顔で言葉を交わす。左手を布団の中から抜き取ろうとした瞬間、軽く彼女の唇が触れた。どちらも、そのことに言及はしなかった。
 扉を開けて、足取り軽く一階へと降りていく。
 雨粒はまだ、屋根に強く打ちつけられていた。

   §

 気付けば、目の前に目的の部屋の扉があった。
 はっとして振り返ってみると、そこにあるのは見覚えがある廊下だった。見覚えは確かにあった。それこそ、何度も何度も、今まで通ってきたのだから。
 ――ただ、今日はどのように歩いて通ったか、思い出せないだけで。
 ともかく、目的の扉がもう目の前にあるなら話は早い。ひとつ大きな深呼吸をして、扉を数度叩く。
「……入りなさい」
「はい、失礼します」
 扉を開けて中に入る。彼女は、今日もベッドに横になっていた。だがいつもと少し異なっているのは、布団が頭の上から足の先まで、体全体を覆うように被せられていることだった。
「どうか、なさいましたか?」
 一瞬不安になってしまい、彼女に声をかける。だが、次の瞬間には、その理由ははっきりとした。
「ごめんなさい、扉、閉めてくれるかしら。寒いのよ」
「さ、寒いって……寒気がするということですか!?」
 慌てて彼女の元へ駆け寄ろうとしたが、彼女はそれを右手で制した。
「そういう類のものではないわ。というか、あなたこそ寒くないの?」
「え、えっと……」
 気付いたらもう扉の前にいたので、とはとても言えなかった。
「そう、寒くないのね」
「ま、まあ、そうなりますね」
「なら、ちょうどいいわ。こっちに来て?」
 彼女の台詞回しがいつもよりも早いことには少しばかり目を瞑り、彼女の元へ歩み寄る。その行動は、自分の心地よさを最大限優先した結果でもあった。
「はい。来ましたよ」
「て、だしてくれる?」
 少し、彼女の呂律が怪しくなっている。だが、それを指摘するべきだという使命感をぐっと心の中にしまいこみ、変わって自分の欲望の権化を表に出す。もちろん、彼女には分からない形で。
「えっと、何ですか?」
「手、出して」
 彼女がはっきりとした呂律でものを言って初めて、自分の左手を差し出した。彼女は、その左手を自分の左手で優しく包み込むと、布団の中へ誘った。そこは、彼女の体温で丁度良く温められていた。
「温かいわね」
「そう……ですね」
 恐らく、彼女の言う温かいは今心の中で思っているような温かいではないのだろう、そう直感していた。だが、構わずに言葉を続けた。言葉の上でなら、まだ立派でいられると、そう思ったからだった。
 窓の外には、雨上がりの爽やかな空が広がっている。今は薄い雲で隠れているが、この分なら彼女が見たがっていた太陽も、もうじき顔を出すだろうと予想できた。
「今日は、雨が止みましたね」
 何気なく、彼女に語りかける。
「そうね。ここ最近は良くない天気が続いていたから、よかったわ」
「この分だと、もう間もなく太陽も顔を出しそうです」
「……そうね、そうだといいのだけれど――」
 そこまで言いかけて、彼女の言葉は止まった。止まった理由ははっきりしている。それは、昨日と全く同じ理由だった。
「ええと……」
 彼女が頬を赤く染めている。二日連続か、と思いながらも、空気をたっぷりと肺へ送り込む。
「食事の時間にしてくれるかしら……」
「そうしましょうか。では、準備をして参ります」
「ええ。お願い」
 左手を彼女の手の中から抜き出し、部屋の扉を開けて外へ出る。
 何気なく、階段の吹き抜けになっている所から一階の方を見てみると、丁度玄関ホールがよく見えた。靴が二足、綺麗に並んでいる。
 気づけば、この両足は階段へと向かっていた。
 階段を下りきって、ひとつ足を踏み出したとき、力強い視線が体を射抜いた。彼女の部屋の丁度真向かいの部屋の扉が、僅かに隙間を作っていた。その隙間から見下ろしていたのは、黒々しい両の瞳だった。
「お、おかあ様……」
 瞳が隙間から見下ろしている部屋へ自然と向かいながら、口からはそんな言葉が零れ落ちる。その響きがこの両耳に届いて、ああ失言だったと思った。
「あなたなんかに、おかあ様とか呼ばれても、気持ち悪いですね。今後は止めてくださるかしら」
「申し訳ございません」
「あなたなんかに謝られてもね、ちっとも何とも思えないので、それも止めてくださるかしら」
「は、はい……」
 ただ単に苦手だった。返す言葉の全てを奪われてしまうから。今はもう、口からただの相槌の言葉しか放ることが出来ない。
「あなた、ご自分の役割、分かっているのですよね?」
「は、はい……」
 背中に鳥肌が立つ。自然と右腕に力が入る。もう、早く帰ってしまいたいとさえ思う。
「あなたの役割は、あの子を守ることであって、触れ合うことではないのよ、番人さん?」
「はい、申し訳ございません……」
「だから、謝らないでって言ってるでしょう?」
「え、ええ、はい……」
「全く、れっきとした『個』を持たないくせにしゃしゃり出てくれちゃって……あの子の相手はもう決まっているのよ。お分かりかしら?」
 言葉の槍が、連続で投げられているかのようだ。いずれこうなるとは分かっていたはずなのに、痛い、気がしてならない。
「あの子が拒んだって聞いてこっちは大騒ぎなのよね。あなた、何か知ってるんではなくて?」
「い、いえ何も……」
「本当に?」
 視線が右腕に突き刺さる。意識して、両腕から力を抜いた。うまく力は抜けてくれたお陰か、目の前の両の瞳は疑いの視線を腕から逸らす。
「ふうん、まあいいわ。あ、これあの子に持っていってちょうだい」
「え……?」
「食事の時間にすると言って出てきたのでしょう。だったら、これを持っていきなさい」
「え、でも、食事は……」
「『個』を持たないくせに逆らうのね、番人さんは」
 それ以上、口から言葉は出てこなかった。右腕で食事がのったお盆を持ち、振り返る。すぐそこには、彼女の部屋。
 廊下には、再び降り始めたのか、雨粒が叩きつけるような音。
 扉を軽く数度叩く。やや間があって、言葉が返ってくる。
「……いいわよ」
 無言で、左手で扉の取っ手を掴む。扉を開け、部屋の中に踏み入る。今一度、大きく息を吐き出し、吸い込む。
「お食事をお持ちしました」
「……ありがとう」
 今にも眠ってしまいそうな声で、彼女は答えた。
 彼女の枕元の固定電話から、受話器が外されていた。電話機のディスプレイは、どんよりとしている。

   §

 頬を水滴がひとつ、ゆったりと伝っていく。
 それに気づいて左手の人差し指で掬ってみようと試みると、その水滴はほんのりと温かく感じられた。その指を口に含んでみると、どこか懐かしさを感じられる温かみが口の中一杯に広がっていく。その感覚に思わず身震いをした。
 視線だけで天を仰ぐと、丸々とした雫が密度濃く降りてきているところだった。それらはやがて傘へと着地するときに大きな音を立て、地面へと流れ落ちていく。ついには傘から離れて、土の上へと至る。運よく水溜まりの中に飛び込んだ雫は、そこに僅かな細波を作る。その後は即座に水溜まりと同化する。
 またひとつ、頬を雫が伝って落ちていった。それは丁度、足元にある水溜まりの中へ飛び込んでいった。
 ――この思いを連れていってくれればよかったのに。
 心の中で未だに燻るこの思いが、水溜まりの中に溶けていってくれれば、どれほどよかっただろう。「個」はないのに「心」を持ってしまったからか。だとしたら、もうこの思いはどこにも流れてゆかないのだろうか。
 だらりと下げた左腕には、白いレジ袋が提げられている。そのレジ袋が、風に吹かれて小さな音を立てた。
「もう、いいか」
 力なく呟かれたその言葉は、瞬く間に空中へと霧散する。
 その呟きが完全に頭の中から消え去るのに、そう時間はかからなかった。いつものように、その場で振り返り、荘厳な雰囲気を醸し出す玄関扉の鍵穴に鍵を勢いよく差し込む。扉を開けると重々しく軋む音が辺りに響いた。しかし、今はそんなこと、どうでもよかった。
 館の中に入り、傘を傘立てに差して、玄関扉を閉める。内側から鍵を閉めても、まだこの両耳
は軋む音を敏感に捉えていた。
「はあ……」
 無為に溜息を零しながら、足元を眺めると、バイオレットの靴が一足。それを見てまた溜息を零しそうになるが、それをぐっと堪える。
 軋みの音が消えるまで適当に一階の廊下を歩き回る。どこをどうやって歩いたのかは、微塵も覚えていなかった。ただ気づいたら玄関ホールにいて、そこにバイオレットの靴が無いことだけを確認していた。
「ああ、そうか」
 またも目頭から雫が落ちていくのを見届けながら、そんな言葉を零している自分がいて、そのことにかなり驚いたし、またそんな自分がひどく恨めしくもあった。
 階段を上がり、二階へと上がる。目的の部屋へ早足で移動し、扉を叩くこともなく開ける。彼女は絶対に眠っているはずだ、そんな確信があったからだ。
 かくして、彼女はしっかりと眠っていた。彼女にとって、疲労が溜まっているときの雨音は、これ以上ない子守唄なのだ。そのことをこの世界で一番初めに知った、そのはずだった。
 窓の外を眺めると、未だ雨は降り止まない。きっと今も、そこかしこで小さな雫が細やかで小さな波を立てていることだろう。そんなことを思いながら、彼女の上に覆い被さる。
 ――枕元の固定電話のランプは、点いていない。
「今日は、いかが、でしたか……?」
 掠れ声で、そんなことを口走っていた。腕から、足から、どんどんと力が抜けていく。
『痛いわね』
 この幻聴を、精一杯取り込もうと、頑張って息を吸う。

テーマ:「今日の電話のランプ」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

Hypno-Drop-Trip

 One sheep, two sheep, three sheep…
 
 遠くから囁く声が聞こえて、僕は目を開けた。
 真っ黒の世界に、ひとつ輝く木の芽があった。
 その声は、芽から聞こえているような気がした。
 
 Four sheep, five sheep, six sheep…
 
 芽の隣に、底の深いじょうろがあった。じょうろの中には、なみなみと水が入っている。
 ふと僕は、その水を芽にかけてやったらどうなるかと思い、芽に近づいた。芽は予想していたより大きく、僕の背丈と同じくらいだった。こんなものが育ったら一体どうなるのだろうと、少しわくわくした。
 僕はじょうろを手に持ち、少し背伸びをして、芽の頭から水を被せてやった。ぱらぱらと音がして水が弾ける。弾けた水が僕にかかって、思わず目を閉じた。
 
 Seven sheep, eight sheep, nine sheep…
 
 さあどうなるだろうと、僕は腰掛けて様子を見守った。
 あれ、僕は何に腰掛けたのだろうと見てみると、それは僕のベッドだった。そういえば、さっきまで寝ていたのだったか。
 
 Sheep.
 
 おもむろに羊を数える声が止んだ。
 再び芽を見ると、それは明らかに大きくなっていた。みるみる真っすぐ伸びていく。
 僕二人分の背丈になったあたりで、今度は気が変わったかのようにくるりと曲がり、僕に向かって伸び始めた。
 芽は、僕の目の前で成長を止め、蕾を生やした。僕は何の花だろうかとじっと見つめた。
 すると、その蕾から人が咲いた。
 一目で美しいと分かる少女だった。瑞々しい若芽色の髪の毛は全身を包むほど長く、その上ふわふわで、他の何より目立っている。その髪は、整った人形のような彼女の顔にはよく似合っていた。
 次に目がいくのは、彼女の側頭部に生えた一対の羊角。艶のあるミルク色で、まるで彼女の癖っ毛みたいにくるりと巻いているのが愛らしかった
 僕がしばらく見惚れていると、やがて少女は寝起きのような動作で目一杯四肢を広げた。ちょうど五弁の花が開くみたいに。
「あの」
 声をかけてみると、少女は目を開けて僕を見た。彼女は特に驚く様子もなく、眠たげに緩んだ笑顔で僕に手を振った。
「はろー、ようやく会えたね」
 そんなことを言ってきたが、僕は彼女に見覚えなんてなかった。ぼやけた頭で記憶を辿っても、何も思い出せない。
「ごめんね、どこかで会ったことがあったかな」
「ううん、私とあなたは初めましてだよ。私があなたのことを探していただけ」
「どうして?」
「あなたが眠れずに困っていたから」
 僕は彼女が何を言っているのかよく分からず、首を傾げた。
「ありゃ、ひょっとしてまだ気づいてないのかな」
「何のこと?」
「あなたはね、今、夢を見てるんだよ」
 少女は真面目な顔でそう告げた。
 そんな馬鹿なと一瞬思ったが、言われてみればそのような気がしてきた。だって羊の角が生えた人類を僕は見たことがないし、僕の部屋だって、こんな真っ暗闇の世界ではないはずだ。
「あぁ、気づいてくれたみたいでよかった。そうでなきゃ私が来た意味があまりないもんね」
「はあ。すると君は一体、誰なの?」
「私は、夢魔のメーマ。夢多きあなたの夢枕」
 彼女は微笑み、ちょっと気取った調子でそう言った。
「夢魔、というと、サキュバスとか、そういうの?」
「んん……健全な発想で大変よろしいけれど、私はそっちじゃなくて、東洋の夢魔――獏に近い存在なの」
 そんなつもりはなかったつもりだけど、僕は恥ずかしくなって黙ってしまった。
「あー、要するにね、私は、あなたの夢を食べに来たってこと」
「夢を……食べる?」
 僕はなんだか、その言葉を不穏に感じた。僕の疑念を察したのか、彼女は大げさに両手を振った。
「いや、食べると言っても、あなたの夢の世界を壊しちゃうわけじゃないよ? ちゃんと余分な夢だけいただくから」
「余分な夢なんてあるの?」
「そうだね、夢の見すぎは身体に毒だから」
「そう、なのかな。僕は、夢を見ることが悪いことだとは思えないけど」
 言ってからすぐ、無根拠に言い返してしまったことを後悔したが、彼女はむしろにこにこ笑った。
「あなたは夢を見るのが好きなんだね。それは、夢魔としてちょっと嬉しい」
 彼女は、隣に座って僕を見つめた。
「でもね、単純な話、夢を見るのは疲れるの。脳をたくさん働かせてるからね」
 それは僕も知っている。夢を見るのは、レム睡眠――眠りの一番浅い時だ。
 でも、僕が納得できないのは、そういうことじゃないような気がする。自分の夢が食べられるのを想像してみると、自分が自分でなくなってしまうように思えて怖くなる。
 そう思うのは、ただ単に今見ている「夢」と将来の「夢」を混同しているだけなのかもしれないけど。
 うだうだと悩み続けていると、不意にメーマは僕の手に自らの手を重ねた。
「今もそうでしょ? 思考の回路は現実と少しズレてるけど、頭の中でたくさんのことを考えてる。あなたは今、寝ているはずなのに」
「……そうだね、確かに」
「心配しないで。私が食べるのは、あなたの悪い夢や古い夢。それに、私が食べた夢があなたの記憶から消える、ってわけじゃないよ。ただ、忘れるだけ。思い出のひとつになるだけ」
「……そっか。それは……悪くないかもね」
 それができたらどれだけいいかと苦しんだ覚えは、たくさんある。
 今もまだ、いくつか。
「どうかな? 私があなたの夢を食べれば、私はお腹がいっぱいになるし、あなたは明日の目覚めがよくなる。ひとまずそれは、悪いことじゃないと、思うんだけど、なぁ?」
「まあ、そう、だね、そうだと思う」
 僕は、少し逡巡した。
 忘れたい記憶を忘れられないのは、忘れたくないからじゃないかと思うことがある。自分でもよく分からないけど、だから躊躇っているのだと思う。
 だけど、それってたぶん、横着なんだ。要するに捨てるのがもったいないから、捨てられずにいるだけ。
 でも、どうだろう。目の前の少女が、それを必要だと、受け取ってくれると言っている。
 こんなによくできた口実はないじゃないか。
 
「分かった。いいよ、僕の夢を食べて」
 それを聞くとメーマは、わっと表情を明るくして、僕に抱き着いた。
「ありがとう!」
「お礼は、いいよ……僕も助かるわけだし」
 慣れないスキンシップに、僕はギクシャクしながら応えた。
「それで、僕は何をすればいいの?」
「簡単だよ。夢の中を探検すればいい。難しく考えず、小旅行に出かけるくらいの気持ちでね。私のことも、ガイドさんくらいに思ってくれればいいから」
「それだけでいいの?」
「うん。夢は生で食べるのが一番美味しいのです」
「う、うん?」
 そういう問題なんだろうか。でも、問題ないと言うのなら黙っておこう。
「それでね、あなたにはもっと夢の奥へ行ってほしいの。夢魔と言っても、あなたが見てない夢は食べられないからね」
「奥、って言われても、どこへ行けばいいの? ここは見渡す限り真っ暗闇だよ」
「大丈夫。ここはただの夢の入り口。もっと奥へ行くには簡単、もっと深く眠ればいい」
「え……深く眠ったら、夢は見ないんじゃないの?」
「そうだよ。これはあなたが、夢の底まで沈んで、深い眠りに就くまでの旅路。そして行先に着くには、必ず『道中』を通る。だから安心して眠って」
 メーマは僕をベッドに寝かせて、布団をかけてくれた。
 ベッドは僕の部屋にあるものと全く同じで、身体によく馴染んだ。辺りは真っ暗だし、温度もちょうどよく、眠るのには最適な環境だ。
 ただ、困ったことがひとつ。
「……ごめんなさい、あまり眠くないんですが」
「そっかぁ。じゃあ羊でも数える?」
 メーマはいたって真面目に提案したようだが、この年で羊数え歌というのはちょっと憚られる。
「あ、羊数え歌を甘く見てるね?」
 彼女はじとりと僕を睨んだ。
「だって、羊を数えて眠れた試しがないし……」
「む。それは数え方に問題があるのかもよ」
「数え方に問題も何もあるかなあ」
「あるある。あのね、羊数え歌はsheepsleepをかけた言葉遊びから生まれたらしいよ。だから、正しくはone sheep, two sheepって数えるものなの」
「ふうん。でも羊数え歌って、物を数えるっていう単純な作業が眠りを誘うとかなんとか、って聞いたことあるけど」
「し、諸説あるんだよ……私も日本生まれだからよく分かんないけど……とりあえず、数十匹くらい英語で数えてみたら? 効果あるかもよ」
「英語だと二十超えたあたりでごちゃごちゃしてきそうだなあ……
「何事も実践だよ」
「メーマは夢魔らしく眠れる魔法とか使えないの?」
「使えるけど、あなた本当は既に眠ってるわけだし、意味ないよ」
「なんだ……」
「むむむ。そんながっかりした顔をされるのは夢魔として心外だね。そうだ、眠くなるような四方山話なら聞かせてあげられるよ」
 それは結局、ただの退屈な世間話ってことじゃないのか、と思ったが、それは深く考えないことにした。
「じゃあ、お願い」
「分かった。じゃ、数えながら聞いててね」
「結局数えるのか……えっと、one sheep, two sheep…
 
「あ、初めに。私はこれからあなたが眠りに落ちるまでぽつぽつと話し続けるけど、肩の力を抜いて聞いてね」
「ノイズみたいに聞き流してもいいし、あるいは立ち止まってちょっと考えてみてもいい」
「でも、考えすぎは禁物だよ」
「さっきも言ったけど、これはただの四方山話。意味なんてない無駄話」
「それだけ心に留めておいてね」
「うーん、何を話そうかなぁ」
「えーと、私ね、夢魔として、どうしたら人が心地よく眠れるのか、いつも考えてるんだ」
「こうやって、夢の中で人を寝かしつける機会もあるしね」
「基本だけど大事なのは、こうしてちょうどいい温度で、静かな暗い部屋で横になること」
「でも、身体に何の刺激もないと、いろいろ頭の中に浮かんできちゃって、かえって眠くなくなったりしない?」
「だから、実は眠るにはほんの少しの刺激がとっても大事なの」
「電車の中で揺られてる時、難しい本を読んでる時、うとうとしちゃうでしょ?」
「羊を数えるのも、たぶん同じこと。君の言う通り、物を数えるだけの単純な刺激っていうのも大事なんだよ」
「……そんなこと言っちゃうと羊の意味がないから、私はあんまり認めたくないんだけどね」
「でも、この刺激っていうのは、結構向き不向きがあるんだよねぇ」
「能動的な刺激で眠りやすい人、受動的な刺激で眠りやすい人、強めの刺激で眠りやすい人、弱めの刺激で眠りやすい人……それ以外にも、時計の音で眠りやすい人、人の声で眠りやすい人……ここまで分かれると、もうキリがないよね」
「あなたも、気持ちよく眠りたいなら自分の相性を知っておくといいかもよ」
「それでね、今みたいなとき、能動的な刺激で眠れる人なら本人が実践すればいい話なんだけど、受動的な刺激タイプの人だと、私が何かしてあげなきゃいけない」
「だから私、たくさんの人が眠れる刺激を日頃から探してるんだ」
「今までで一番効果があったのは、こういう他愛もない話だね」
「やっぱり誰かの声を聞くと、リラックスできるみたい。けど物語や歌は、人によっては聞き入っちゃうみたいで。だからこういうオチのない話なの」
「ま、眠りにはオチるんだけどね」
「………………」
「……こほん。続けるね」
「といっても、続けるような話もないけど」
「……この下には、どんな夢が広がってるのかな」
「夢は、あなたが積み重ねてきたフィクション。現実と裏返された虚構の異世界」
「それは人によって全然違ってて、近未来みたいな都市だったり、ファンタジーゲームのような街並みだったりするんだよ」
「私、そんな人の夢を覗くのが大好きなの。そのために夢魔として生きてるんだって言ってもいいくらい」
「だってそこには、人の『好き』がたくさん詰まってる。まるで幼い頃のおもちゃ箱みたいで素敵じゃない?」
「あなたのフィクションはどんな世界なのか、想像できる?」
「そこにはどんな住人がいるんだろう。空は何色なんだろう。どれくらい深いんだろう」
「楽しみにしててね。私も楽しみ」
「あ。そろそろ眠くなってきたみたいだね」
「意識の下層へ沈んでいく感覚、分かるかな?」
「それが深く眠るために必要な感覚」
「夢から覚めた後も、どうか夢の底への路だけは覚えていて」
「私が路を教えてあげるから」
「大丈夫。たとえあなたが夢を忘れても、私の声だけは覚えているはず」
「だって私は、あなたの夢であって、あなたの夢じゃない」
「夢と現実の狭間、微睡みの中に生きる悪魔」
「夢の中に響くアラーム・クロックのようなものだから」
「……あ、そろそろ出発だね」
「この先、あなたの意識はさらに深く沈んでいく。やがてあなたは、考えるのが難しくなる」
「だからここから先は交代。私がこの世界の、ストーリーテラー」
「あなたはただ、夢を見ているだけでいい」
「難しいことは全部私に任せて」
「……あれ? 急に眠りが浅く……どうかした?」
「もしかして、人に何か任せてしまうのが苦手なタイプ?」
「しょうがないなぁ。じゃ、そんなあなたの気持ちを少し楽にするおまじないを教えてあげる」
「今、……次が50匹目の羊だね? じゃあ、その後に続けて、今度はこう言ってみて」
 
 Please, sheep.
 
 
 ↓ ↓ ↓
 
 
 
 はろー。
 ようこそ夢の世界へ。気分はどうかな?
 といっても、この場所じゃいまいちピンと来ないよね。
 なにせここにあるのは、ベッドと机と格子窓だけ。
 まるで独房みたいな部屋。これで夢の世界に来ましたなんて言われてもね。
 あ、違うよ。この小さな部屋が君の夢の全てってわけじゃない。
 この部屋は、君の持つ最小の世界って言えばいいかな?
 ほら、見て。この部屋にはちゃんと扉がある。それに、鍵は内側についてる。独房みたい、なんて言ったけど、あなたはあなたをこの部屋に閉じ込めておくつもりはないんだよ。
 さあ、扉を開けて。見に行こうよ、あなたの世界を。
 
 おっ……と。
 びっくりした。まさかこんなに地上が遠いなんて。今まで私たちがいたのは、とてもとても高い塔の最上階だったんだね。
 せっかくだし、このバルコニーから世界を見渡してみようか。
 空は少し遅めの宵闇色。けど、地上の灯は明るいから街の様子がよく見える。
 街並みはほとんどレンガでできてるね。家も、道も、それにこの塔も。
 なんだか、夜を丸ごと詰め込んだって感じの雰囲気。夜の暗さ、明るさ、静けさ、賑やかさ、そういうの。
 人の声は聞こえないけど、人の音は結構聞こえてくる。扉を開ける音、靴の音、蹄と車輪の音、乾杯の音、鉄を打つ音。無口な人の多い街なのかな。それとも口の無い人が集まっているのかな。
 こっちには階段があるよ。下に降りてみよう。
 螺旋階段が塔をぐるぐる囲ってる。降りてるうちに目が回りそう。
 うへえ、地上までだいぶあるね。地上だけを見てるとウンザリしちゃうから、なるべく自分の足元だけ見ていよう。そしたら、カン、カン、カン、カン、足音のリズムに乗っていればすぐだよ。
 あ。そういえば、この階段は金属なんだね。ちょっとこの世界からズレてる気がする。なんていうか……古い団地の非常階段、みたいな感じ?
 世界観おかしいって? まあ、夢の世界なんて継ぎ接ぎだらけで当然だよ。むしろこの夢は統一されてる方。中世に汽車が走ってたり、SF市に武将が歩いてたり、そういうことってよくあるの。
 さっきも言ったけど、夢の世界はその人の『好き』が詰まったおもちゃ箱。矛盾、デタラメ、支離滅裂が当たり前。だから面白いんだよね。
 あなたの世界には、どんなデタラメが広がってるんだろうね?
 さあ、早く降りよう。楽しみになってきた。
 え、疲れたの? じゃ、私がおぶってあげよう。
 なに、恥ずかしい? 夢の中でくらい存分に甘えたらいいのに。
 まあ、あなたがそう言うなら形だけ変えようか。私の手を取ってみて。
 私と一緒に空中散歩としゃれこもう。
 ほら、ふわ~り。
 
 
 ↓ ↓ ↓
 
 
 ふう、地上に到着。
 結構栄えた街だね。夜なのにこんなに賑やか。
 街の住人はいろんな姿をしてる。カボチャ頭の人、ひらべったい身体の人、ネジマキの付いた人、耳の長い人。けれど、いわゆる人間は見当たらない。
 お店も随分たくさんあるよ。ここは商店街なのかも。何のお店があるんだろう。ちょっと見ていこうか。文字は……読めないけど、看板の絵から想像できそう。
 えーと、あれは宿屋、料亭、ランプ屋、人形屋、時計屋、鍛冶屋、ランプ屋、喫茶店、薬屋、ランプ屋、バー、ランプ屋……。
 …………。
 多いね、ランプ屋!
 そういえば、街の灯も妙に多いもんね。ランプ工芸が盛んな街なのかな? それとも、単に夜も賑やかな大都会? 眠らない街、みたいな。でも眠らない街って言うと、なんだか怪しい響きになるなぁ。赤、黄、緑、いろんな色のネオンがビカビカ光ってる、みたいな。
 それと比べると、ランプの灯は傍にあっても眠れる穏やかな光だよね。んー、やっぱり眠らない街はあまり似合わないかも。
 あ、こんなのはどう? この街には、夜しかない。だからこんなに灯が多い。こう考えれば、まさに夢の中の街って感じだね。眠らないんじゃなく、眠っている街。うん、こう呼んだ方がしっくりくる。
 あれ、どこ行くの? そっちはたぶん、ただの路地裏だよ。お店に寄ってかなくてもいいの?
 ふうん、そっちに行きたいんだ。じゃ、そうしよう。
 あ、いや、それでいいんだよ。あなたが行きたいところには、きっとあなたの望むものがあるから。
 それにしても、路地裏に入った途端びっくりするくらい静かだね。まあ賑やかだったら裏じゃないか。
 店も灯も遠ざかって、人気もすっかり無くなって、出迎えてくれるのは猫の群れ。うーん、裏だねえ。
 ちなみに私、実を言うと、猫はちょっと苦手です。夢の中に住む猫は外のニオイに敏感なの。こうやって誰かの夢にお邪魔すると、大抵は警戒されちゃうんだよね。残念。
 お。ご覧よ。
 そこの家の扉、開いてる。
 ここがあなたの来たかった場所かもよ。この扉、随分とボロボロだし、たぶん空き家だよね。それならとりあえず入ってみようか。
 さすがに中は真っ暗。外のランプをひとつ借りちゃおう。お邪魔します。
 へぇ、あんな扉だった割にきれいだね。……いや、きれいなのとはちょっと違うか。
 この家、何もないんだ。
 誰もいない、灯もない、塵埃もない、蜘蛛の巣もない、音もない、広いテーブルの上にも何もない、暖炉の中も食器棚の中も空っぽ。
 ん? あの窓のとこに垂れ下がってるのは?
 
 ……てるてる坊主だ。
 いきなり和風だね。いやいや、ガックリすることないよ。さっきも言ったけど、夢の世界は継ぎ接ぎだらけで当然だし。
 それに、日本文化が登場したってことは、ここはあなたに関連の深い家ってことだよ。そして、あなたに深く関わるものほど、夢の深くにあるもの。あなたは着実に夢の底に近づいてる。
 とはいえ、ここからどこへ行けばいいんだろうね。階段もないし、裏口もなさそう。カーペットの下とか……ないか。暖炉の中、も……何もないね。
 あなたは何か見つけた? え、棚の引き出し? そこに何かありそうなの?
 
 おお。
 引き出しが伸びて、中に階段があるね。びっくりしたぁ。
 引き出しの中に広がる別世界。これも日本式だね。何がって、それは、言わないけど。
 それじゃ、降りてみよう。引き出しの中だけあってかなり狭いね。先に行く? 後に行く?
 ん、分かった。お先にどうぞ。
 あだだ、私のもこもこヘアーが壁に引っかかっちゃう……。あなたも気をつけて。
 先は見える? ……真っ暗かぁ。はたしてどこに繋がってるんだろうね。なんたって引き出しの中を通るんだもん、この先に恐竜がいてもおかしくないよ。
 ま、それは冗談にしても、もう地上からはだいぶ離れちゃってるはずだよね。一体どこに繋がってるんだろう。地下にあるものといえば……洞窟、井戸、坑道、とか? いきなり地底湖なんかに出たら困っちゃうね。
 あ、でも君の世界はファンタジー色が強いから――冥府。に、繋がってるかもよ?
 黄泉、地獄、奈落、ヘルヘイム、……昔の地下には、そこかしこに死後の国が広がってたんだよね。なんだか背筋の冷える話。
 もしくは、アガルタ旅行も悪くないね。高度な精神と文明に支えられた地底の理想郷。こっちはすごく楽しそう。機械仕掛けの太陽、超能力を使う人類、全く未知の動植物。
 いやはや、地下にはロマンがいっぱいだ。
 
 昔から、ね。人類は、見えない世界に夢を見たんだよ。それはちょうど、目蓋の裏に幻を見るように。地下はその格好のターゲットだった。
 ……現代になると、天上も地下もだいぶ見えるようになった。正確に言うなら、想像がつくようになった。想像が尽く世界に生まれて、現代人は見えない世界を見るのが難しくなった。これはちょっと悲しいね。
 もちろん、現実の世界に夢を見るのが悪いってことじゃないよ。それはそれでとても素晴らしい夢。フィクションだって、大抵は現実に根差したものだしね。見えない世界は、現実にもあるの。
 だけど、……やっぱり、夢を見ない人が増えてきたのは確か。それって、すごくすごく惜しいことだよ。想像は、フィクションは、それが何であれこんなにも美しい世界を心に映し出すのに。
 夢見ることを、悪いことみたいに言う人がいる。善意も悪意もなく、人の灯に息を吹きかける人がいる。まるで道端の石を蹴飛ばすみたいに、軽々と。
 そういう人のほとんどは、夢を見ない。息を吹きかけられてしまった人も、夢を……見なくなる。私たちは何も働きかけられない。
 今はまだ、私たち夢魔が飢えるほどじゃないけれど。このままだと、いずれ……なんて、思っちゃうことがあるんだ。
 ……っとと。ちょっと愚痴になっちゃったね、ごめんなさい。ストーリーテラーが自分のことを語り出したら、文字通り話にならないよ。
 
 さてと。またこの世界のストーリーテラーに戻りますよ。
 いつの間にか、階段の感触が変わってる。さっきまでは木製だったけど、今はもっと硬くて、ざらざらしてて……石造りかな。
 壁の感触も変わってる。これは……なんだろう? 硬いのは同じだけど、妙にすべすべで……これは明かりがないと分かんないなあ。でも、さっきまでの地上にはなさそうな感触。これはひょっとすると、ほんとに地底都市に繋がってるのかもよ!
 え、光が見えてきた? いいね、楽しみ。
 次に見えるのは、一体どんな世界なんだろう!
 
 
 ↓ ↓ ↓
 
 
 これは――
 地下鉄のホーム、だね。
 ううむ、確かにアンダーグラウンドには違いない。
 いや、ほら。確かに期待してたのとは違ったけど、ここはまさしく現代日本。つまり、いよいよあなたの深層に近づいてきたってことだよ。
 でも、随分と寂しい雰囲気だね。仄暗い明かり、赤錆に塗れた壁、止まっているエスカレーター、光らない電光板……もう誰も使ってないのかな。駅名も錆と色褪せで全然読めない。
 耳をすませば、水音が反響して聞こえる。ちゃぷちゃぷって、お風呂の波みたいな。
 あ。線路が冠水してる。しかも、もう少しで溢れてきそうだよ。
 使う、使わないの問題じゃなかったね。これじゃ地下鉄じゃなくて地下水路だ。
 水は……錆色に濁ってる。長い間ここに溜まってたみたい。
 向こうには桟橋があるね。ちゃんと小舟と櫂もある。誰かこの水路を使ってるのかな。
 ねえ、唐突なんだけどさ。私、ここが現代だと思っていたけど、実は違うのかな。つまり、遠い未来の世界ってことはないかな。
 何も未来がSFの世界だって保証はないもんね。十年後、百年後、人類はすっかり衰退しちゃって、遺構だけが取り残されてしまった……そんな未来もありえるよね。
 どう? あなたは、自分の人生より遠い未来の世界って想像したことある?
 あ、ちょっとタイム。よっ……と。
 ほら、あなたも乗って乗って。船旅の間に続きを聞かせてよ。せっかくの夢旅行、立ち止まって話をするのは惜しいもんね。
 ……乗らないの? でもだって、ここに舟があるってことは、そういうことでしょ?
 まあ、確かに水は濁ってるけど。なんか変な生き物が住んでそうだけど。
 や、確かにできるよ、さっきみたいに空を歩いて進むのも。でも、舟があるのに空を歩いて水路を通るなんて、なんというか、風情がないと思わない? あなたなら分かってくれるんじゃないかと思うんだけど。
 ほら、あなたも、鍵開けの魔法を使うよりちゃんと鍵を手に入れてから攻略したいタイプでしょ? 最強装備とかより勇者の装備で魔王を倒したいじゃない? バッジは順番通りに集めるよね?
 ……こほん。失礼。うん……好きだから、そういうの。まあ、夢の中でこんな俗っぽい話をするのも、これまた風情がない。それじゃ、ぱぱっと行こうか。
 大丈夫。船頭は私がやるから。夢の世界で夢魔にできないことはないのです。
 さあ、地下鉄下り、出発進行ヨーソロー。
 
 それで、どうかな。
 ほら、さっきの、遠い未来の話。
 ぼんやりしたイメージでいいから、教えてもらってもいい?
 ――なるほど、「終末」ね。確かにそれもひとつの未来だね。
 でも終末って、よくよく考えてみると不思議な響きの言葉だと思うんだ。
 世界の終わり、歴史の末尾、それって一体いつのことなんだろう? 神様が最期の審判を下したら? 文明が崩壊したら? 人類が滅亡したら? この星が砕けたら? 宇宙がバラバラになったら? それとも、自分に死が訪れた時かな。人によっては、失恋した時や、一冊の本を読み終えた時ってこともあるかもしれない。
 ある意味では、全部正しいんだろうね。終わりと始まりなんて人間の中にしかないもん。
 たとえば私にとっての終末は、この地下鉄水路の先だと言ったっていい。
 そうなると、私は「終末に向かって舟を漕いでいる」ってことになるのかな。なんだかメランコリック。
 おっと、いけない。ちゃんとガイドしないと。いずれあなたが一人で夢路を辿るとき、ここで迷っちゃったら大変だ。
 さてさて、相変わらず聞こえるのは水滴と舟を漕ぐ音だけ、見えるのは暗闇だけ。なんとなく思うまま舵を切っています。右、右、左、左、右、左、右。地下鉄だけあってぐねぐねしてる。
 あ。でもようやく光が見えてきた。隣駅かな。
 でも、それにしては随分弱い光。よく見ると色も違う。なんていうか……プラネタリウム色? ほらあの、確かに夜っぽい色なんだけど、本物の夜の色じゃないってハッキリ分かる感じの、淡藍色っていうのかな。
 うーん、もっと近い表現がある気がするんだけど、出てこない。
 あ、ほら、近くに見えてきたよ。
 
 わ。
 違ってた。隣駅じゃない、どころか、私たちはどこにも着いてなかった。
 光っていたのは、この水路だったんだ。水路の端が、波を寄せるたび青くなる。
 これは、ノクチルカ――夜光蟲の群れ。波打ちに光る蒼の粒子。
 海に行ってノクチルカを見たことはある? ノクチルカは刺激に反応して光るから、まるで波が光ってるようにも見えるんだよね。
 寄せる波、返す波、波だけが光っては消える。ランプの灯とは違って、儚く小さな光。でも、その一瞬一瞬に数万数億の命が輝いているんだよ。壮大だよね。
 ああ、そうだ。思い出した。この色の名前。
 ――群青、って言うんだ。
 綺麗だね。
 とても綺麗。
 ちょっとだけ櫂を止めて、この景色を眺めていようか。
 ――――。
 なんだか、地下鉄のはずが、地底湖にでも来ちゃった気分。幻想的――なんて言葉を、夢魔が使うのもおかしな話だけど。でも、それが一番しっくりくる気がする。うん、幻想的な光景。
 そう、これってまさに、終末みたいな光景だと思わない?
 んふ。引っ張るよ、終末の話。
 やっぱり夢魔の私には、終末なんていまいちピンとこないけど――私が最期に見る光景はね、こんな群青色だったらいいなって思う。
 なんでかって聞かれると困っちゃうけど。でも、何事にもそういうのってない? 分かりやすく言えば、イメージカラー。何々の色は? って聞かれて、即興でパッと思いつく色。世界の色、幸せの色、正義の色、夢の色、いろいろ。
 そういう感じで、私にとって終末の色は群青なんだよ。
 変かなあ。
 今のこの景色みたいに、群青って穏やかな寒色でしょ? だから見てると、心が洗われていくようで、そのまま溶けてなくなっていくようで、すごく不安定になる。その心の状態って、まるで来たる終末を待っている時みたいって、思うの。
 ふふ。やっぱり分かんないか。
 ところで、どう?
 ほら、この景色なら、期待外れの元も取れたんじゃないかなって。
 うんうん。それならよかった。
 さて、と。それじゃ、そろそろこのノクチルカ帯を抜けようか。名残惜しいけどね。あまり留まってると朝が来ちゃう。
 ごめんね。ちょっとお邪魔しますよ、と……。
 あ、見て見て。
 船跡の波が光ってる。光っては消えて、光っては消えて、けれどいつまでも舟の周りだけは光ってる。まるで、舟が光の上に浮いてるみたい。このままどこかへ連れていかれるのかな。
 私たちの舟を導く青の光。まさにセントエルモの火だね。うん、縁起が良い。船を嵐から守ってくれる光なんだよ。乱暴者の海賊達も、この火が灯った時だけは神に祈りを捧げたそうな。
 海賊、海軍、漁師、それから探検家。航海の無事を祈った人たちは数知れないけれど、私たちはどれだろう。やっぱり海賊かな? なにせ夢を見ているからね、海賊は。
 人の夢は終わらない。海賊達の言葉には、そんなシンプルな至言もあります。
 まあ、なんであれ。私たちも航海の無事を祈っておこうか。
 
 あ。また光が見えてきた。今度こそ隣駅かな。それとも、もう別の世界に来てたりして。
 光の向こう側は……あれは、星の光だね。ってことは、外だよ。
 なるほどね。地下水路を下ればやがて海に出る。
 星が海に落とされて、360度の星彩。聞こえるのは波音と櫂を漕ぐ音。
 風の吹くまま、吹かれるまま、旅する私たちの行方やいかに。
 セントエルモへのお祈りが通じたかな、嵐が過ぎ去った後みたいに穏やかな天気。嵐の後には凪が来る、ってね。
 こう暗くて静かだと、あなたも眠くなってきたんじゃない?
 ああ、やっぱり。
 寝ててもいいんだよ。波間にたゆたう舟の上、波を枕に微睡んで……なんてのも一興だよね。
 覚えてるかな。まだこの夢のストーリーテラーがあなただった時に話したこと。
 夢の中で眠ることで、あなたの眠りは深くなる。あなたの意識が夢の底に沈んでいく。
 次にあなたが目を覚ましたら、きっとまた別の世界に落ちているよ。
 といっても、ここはさっきとは違って舟の上。ノアの方舟やフライング・ダッチマン、あるいは宇宙船のように、舟は世界の「線」を超えるための乗り物だからね。さっきみたいに真っ逆さまに落ちたりすることはないと思うよ。
 あ。でもその時の君は寝てたから、気づいてないか。……知らない方が仏だったかな?
 ま、まあとにかく。今は眠っても心配ないってことだよ。
 だから、ほら、ね。安心しておやすみなさい。
 
 
 ↓ ↓ ↓
 
 
 おはよう。
 さてさて、ここはどこでしょう。
 まだ確かに舟の上にいる。でも、はて、空はどこへ行ったのか、海はどこへ行ったのか、ここは再び暗闇の世界。
 それでも、何も見えないわけじゃないね。あそこにぼんやり浮いているのは、クラゲ、クリオネ、ホタルイカ。
 そう、この舟は今、深く沈んで海の中。
 まさか舟ごと沈むなんてね。これ、櫂で漕いでる意味あるのかな。
 大丈夫だよ、そんなに慌てなくても。息はできるでしょ?
 どうしたの、手を握ったりして。
 ひょっとして、海の中は苦手?
 そっかぁ。夢の中といっても、そういうことも、あるよね。
 夢の世界は「好き」がたくさん詰まったおもちゃ箱……それは間違ってないんだけど、誤解させちゃったかな。ごめんね。
 確かに、おもちゃ箱に入ってるのは、あなたの好きな物ばかりじゃない。嫌いなおもちゃがあったとしても、思うようには捨てられない。
 だってあなたのおもちゃの置き場所は、ここにしかないから。
 でも、任せてよ。そういうのを食べるのが私の仕事。
 悪い夢なんか、食べてしまいましょう♪ ってね。
 そうだよね。海は広いし、暗いし、怖いよね。大きな生き物もいるし。
 何より私たち、海の中では何もできない。歩くことも、目を開けることも、息を吸うことさえ。
 まるで赤ちゃんに戻ってしまったみたい。丸裸のまま、意識も曖昧に、自分の正位置を求めて胎動を繰り返していた、あの頃に。
 それはとてもとても怖いこと。
 でもね、あえてその感覚に身を委ねてみるのも、たまには悪くないんじゃないかな。
 あなたは人間らしい人間でいようとしている。感情的で、理性的で、論理的で、独立的な、一人の人間でいようとしている。
 まとめて、なんていうか――密。で、あろうとしているよね。
 そう思うのは立派だよ。でも、ずっとそうやって生きてると疲れちゃう。
 ちょっと薄味くらいがちょうどよいのです、人生は。こうして「深い」「海」だけを感じて生きるのも、悪くないよ。
 それが簡単にできたら苦労はしないか。まあ、どのみちもうすぐ海の層も終わるだろうから、それまでの辛抱だよ。
 どうして分かるかって? 下を見てごらん。
 もう、海の底が見える。
 
 ごとり。舟が海底に着いた。降りてみよう。
 よいしょ、っと。
 ふわふわするけど、歩けるね。月面みたい。ひょっとすると、この世界は本当に月なのかもしれないね。だとしたら海の中で歩けるのも納得がいくよ。私たちは月の子どもじゃないもん。
 辺りは、意外と明るい。もう空の光なんて一筋も届かないはずなのに。
 ああ、あれだ。ほら、あちこちにあるでしょ、お星様。海に落ちてきて、沈んだ星芒が光ってるんだ。
 ヒトデ? そうとも言うね、sea star
 どう、こんな海なら怖くない? ……そんな単純じゃないか。じゃあもうちょっと手を繋いでてあげる。早く次の世界を探そう。
 ところで、海の底の下なんて、考えたことある? 海底さえも未知の世界なのに、そのさらに下なんて、あんまり考える気にならないよね。
 そりゃあ何かはあるんだろうけど、でもその「何か」を、誰も見たことがない。そして私たちは、「何か」の上に立ってる。ちょっと怖くて、すごくワクワクする。
 たぶんね、この下にあるのは、そういうものなんだよ。あなたさえ見たことも考えたこともない、あなたの知らないあなた。
 そんなものと対面するのは、怖い?
 んふ。進むも怖い、留るも怖い、困ったね。
 けれど、少なくとも進む道はそこにあるみたい。
 木製の扉が海の底に張り付いてる。扉は、普通の民家の扉に見えるね。現代の。
 これはいよいよだね。あなたが近づいてきている。あなたは近づいている。
 どうする?
 どうしていいか、分からない?
 うーん、そうだなあ。それなら、ひとまず向こうのあなたに聞いてみようか。
 コン、コン、コン、コン。扉の傍に横たわってノック。
 ねえ、どうしようか、向こうのあなた。
 …………。
 
 がちゃり。
 遠慮がちに扉が開く。
 向こうは私たちを招いてくれたみたい。
 さて、さて。こっちのあなたは?
 ああ、誤解してほしくないんだけど、どうしても怖ければ戻ってもいいんだよ。
 ここで夢路は終わり、あなたは目を覚ます。それもひとつの夢の形。オチのある夢の方が珍しいもんね。
 私? 私はもういっぱい食べたから、本当はもう大丈夫なんだ。ここから先は、あなた次第。
 ……行ってみる? そっか。
 それもひとつの夢の形だね。
 
 
 ↓ ↓ ↓
 
 
 中へ入ると、重力がくるりと回って、扉と平行に足がつく。別の星に来ちゃったのかな?
 真っ黒な世界。見えるのは、直線上にぽつぽつ浮かぶ蛍光灯が三つと、その向こうの扉。振り返ってみれば、入ってきたはずの扉も消えちゃった。
 歩くとギィと木板の音。両手を伸ばせば、すぐ壁に当たる。それにこの壁、硬くてザラザラしてて、ずっと手をついてると痛くなりそう。
 この世界は真っ黒だけど、何もないわけじゃないみたい。元々は色のあった世界なのかな。だとしたら、どうして色を失ってしまったんだろうね。
 あ、足元気をつけて。
 なんかね、いろいろ小さな物が転がってる。踏んじゃったら危ないよ。特に今のあなたの意識は、かなり深いところまで沈んでるから。ゆっくりとすり足で、ね。
 そうそう。ゆっくり、ゆっくり。蛍光灯をひとつ、ふたつ、みっつ過ぎて。
 はい、扉の目の前に着きました。
 開けるね。それとも、自分で開けてみたい?
 ん、分かった。じゃ、開けますよ。
 
 中は――普通の部屋、だね。
 ちょっと狭いけど、どこにでもある民家の一室、に見える。フローリングの上に、ベッド、机、本棚、クローゼット。隅の方には、そっぽを向いた姿見も置いてある。使われてないみたいだね。
 藍色のカーテンの隙間からは夕陽が差し込んでいて、漏れた光に沿って塵が照らされてる。外の景色は……これまた普通の住宅街。家と空き地と道路が見える。車は、全然通ってないみたいだけど。人の姿も見えない。空き地にはサッカーボールが転がってるのに。
 ……静かだね。秒針の音がよく聞こえるよ。
 でも、なんだろうね。普通の部屋……の、はずなんだけど、なんだか落ち着かない。張りつめていて、息苦しいの。あなたも感じてる?
 そうだね、少し探索してみようか。
 机の上には、手帳が開かれて置いてある。カレンダーのところに、乱雑な字で予定がたくさん書きこまれてるね。
 ……えいっ。
 これは閉じておきましょう、なんとなく。
 引き出しは、開かない。鍵がかかってる。無理やり開けることもできそうだけど……部屋の主が見せたくないものを、強引に見るのはよくないよね。
 ベッドも気になるけど、ここで寝たらノンレムまで沈んじゃうかもしれないなぁ。
 あ、鏡。姿見はどうかな。
 夢と鏡は、どちらも現実の向こう側。いろいろと似てるんだよ。そこでは現実を歪めて映すこともあれば、現実では隠れていた真実を映すこともある。
 ちょっと覗いてみよう。私が持ってくるね。ベッドに腰掛けて待ってて。
 よいっしょ、っと。
 どう? 何か変なものが映ってたりする?
 ないかぁ。一応、私も見てみるかな。
 ……あ!
 私が映ってる!
 
 …………。
 や、ふざけてないよ?
 本当なら、私は鏡に映らないはずなの。
 吸血鬼は鏡に映らないって話、聞いたことない? あれはね、吸血鬼の身体には魂が宿っていないからなんだよ。
 鏡の世界は夢の世界、意識の世界、魂の世界。魂のない存在は、映らないの。
 反対に。私たち夢魔は、魂だけの存在。
 だから、鏡に「だけ」映るはずなの。
 ……んふ。「あれ?」って顔だね。ちょっとややこしいよね。
 さて、今までのはあくまで現実の話。
 それでは、ここはどこでしょう?
 はい。ここは、夢の世界。そして鏡の向こう側こそが、現実の世界のはず。
 だから私は、映っていたらおかしいの。
 じゃあ、どうして私は映ってるんでしょう?
 いよいよややこしいねぇ。
 つまりね、たぶん私たちは今、現実を見てるんだよ。
 夢の中で夢を見ることって、たまにあるでしょ? なら、夢の中で現実を見ることがあっても、おかしくないと思わない?
 いやはや、どおりで息苦しいはずだよね。夢魔は「夢生生物」だもん。
 さ、そうと分かったら話は早い。夢の世界に戻ろう。
 ん? 簡単だよ。だって鏡の向こう側は夢なんだから。
 こんなふうに、くぐっちゃえばいいんだよ。
 ほら、おいで。
 え。くぐれない?
 そっか。そこは現実だもんねぇ。人間は鏡には入れないよね。
 そうだなあ。じゃ、私の手を取って。
 私の手を握るあなたは、半分、現実じゃない。そうなるよね? 現実の世界に夢魔はいないもん。
 イメージして。天使に天界へ導かれるように、妖精の子どもと取り替えられるように、あなたの存在は丸ごと生まれ変わる。ね?
 まあまあ、細かいことは気にしない。思い込みの問題。
 そう、そのままこっちへ。私とあなたは一繋ぎ。私たちの間には、何の隔たりもない。そのまま、そのまま……。
 はい、到着。
 再びようこそ夢の世界へ。
 ここが本当の終着点。あなたの奥の奥に隠れた、秘密の部屋。
 一見、現実と変わらないように見えるけど、ちょっとずつ違うよね。
 たとえば、窓から差し込んでいた日差しは跡形もない。なぜって、窓の向こうは灰色の壁で塗り固めれてるから。地下シェルターみたい。
 机の上からは手帳がなくなってて、代わりに自由帳が置いてある。これ、アレだよ、学習帳。表紙に大きく花の写真が載ってるやつ。
 ……でも、何よりも違うのは、これだよね。
 
 天井から、黒ずんだ水がぽたぽたと漏れてきてる。
 水滴の落ちる先は、枕。
 枕は冷たく湿って、色もすっかり濁って……とても頭を預けられない。
 こんなになってしまった枕を、ずっと使ってたんだね。これじゃ眠れないのも無理ないよ。
 あなたにとっては、眠ること自体が苦痛だったんだ。目を閉じるたび、枕の感触と匂いがあなたを苦しめた。それでもあなたは枕を替えなかった。
 それは、よくない。よくないよ。あなたが替えようとしない限り、それは一生そのままなんだよ。乾いた先から水滴が垂れて、汚れは酷くなるばかりで、あなたはずっと苦しみ続けることになる。
 睡眠は一日の三割、一生の三割だよ。もっと大切にしないと。
 私なら、この枕を綺麗にすることはできるよ。でも、きっとこの一度きり。次また枕が汚れてしまったら、今度はあなたがどうにかしないと。できる?
 …………。
 そう。
 難儀だねぇ、人間って。だからこそ、こんなに美味しい夢になるのかもしれないけど。
 うん。あなたの夢はとても美味しかった。夢魔の私が確かに言えるのは、いつだってこれだけだよ。
 
 さてと。じゃ、これは私が洗濯しておくとして。
 明日の夜には乾くと思うけど、今日はどうしようか。枕がないと寝つき悪いよね。
 ん、よし。こうしよう。
 おいで。
 何って、膝枕だよ。
 遠慮はよろしい。考えてもみなよ。私は羊……つまり、私の膝枕は最高級天然ウール100%ってことだよ? こんなの夢の中くらいでしか味わえないんじゃない?
 …………。
 よしよし。いい子。
 
 あなたの意識は、いよいよ夢の底を抜け、ノンレムに沈む。
 次にあなたが目を覚ましたら、そこは本当の現実。
 眠りたくない? そっか。
 確かにあなたも、現実じゃ生きづらいかもしれないね。
 だってあなたは夢中で生きているもん。
 現実でしか息ができないのに、夢の中に潜らずには生きられない。まるで蛙のような両生類。
 生きづらいね。
 でもね。それはあなたの弱さじゃない。
 両生類が水から離れて暮らそうとするなんて残酷な話。あなたは水のある場所で、水に潜れる場所で生きれば、それでいいんだよ。
 それにね。辛くても、苦しくても、あなたはこんなにも美味しい夢を見てる。
 そしてあなたは今日、一筋の夢路を知った。果てしない夢の世界を知った。
 眠るのは、明日を迎えるためじゃない。あなたの冒険を続けるため。
 だから、眠るのを怖がる必要はないよ。
 ただ、もしもまた、どうしようもなく渇いて、夢の奥深くへ潜りたくなったら。
 羊を数えながら、私の言葉を辿ってみて。
 こんなふうにね。
 
 One sheep,
 
 Two sheep,
 
 Three sheep,
 
 Four sheep…sheep…sheep…sheep…shee…
 
 
 
 
 Sweet dreams.
 
 
 ↓ ↓ ↓

テーマ:「今日の夢」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

今日と明日、いまとさっき。

 今日の天気は一日を通して晴れだと男は言っていた。彼はモニターに映し出された日本列島を棒で引っ掻き回しつつ、分かるような解らないような説明をしていた。もし、今この場で彼を問い詰めたならなんと言い訳するだろうか。あくまで予報、と言われてはぐらかされるだろうか、などと想像しつつ少女は畦道を駆けた。

「大人は平気で嘘を言う。」

彼女は独りごちた。

  

 赤地に白文字で「タバコ」と書かれた小さな看板が掲げられた家屋のひさしに駆け込んだ。この看板が光っているのも、シャッターが上がっているのも見たことがない。飲料の自動販売機が二つ、低い唸り声喧しく立ち尽くしているきりだ。この自販機でアタリが出たのも見たことがなかった。

 もっともその駆動音もこの時は激しい雨音にかき消されていた。まだ青々しい水田を挟んで横たわる山々も雨霞に姿を隠す。すんでのところでその驟雨にうたれずに済んだ。空が翳り始めたときに同時に朽ちた葉のような香りが鼻のところまで上がってきた、その雨雲が彼女のシャツに染みを作り始めるのにさして時間はかからなかった。はじめの一滴を感じると同時に軒下へと駆け込んだのが功を奏したのだった。ここ数日良い天気が続いていたのだが、どうやら梅雨はもう少し続くみたいだ。

 稲穂に寄せる波もなし、けれども浅いひさしの陰は非常に狭かった。それでも埃、土埃、ガソリンの煤を被ったシャッターを背中で拭いてしまうことを嫌い、足を崩して立ち尽くした。まさか降られるとは思っていなかったから傘は持っていなかった。傘はおろか、ズボンのポッケに入ったままだった携帯電話を除けば全く身一つだった。

  少女はただぼんやりと景色を眺めた、けれども目の前にある何物も見てはいなかった。薄暗くなった視界、乾いた雨音、湿った土の匂いが、彼女がなかなか浸ることのできなかった感傷的な気分を氾濫させた。家を飛び出す前に何と言って口答えをしたか、ハッキリは覚えてない。彼女としては極めて理性的に反論したつもりだったが、今思えば反抗心にだけ裏付けされた感情論だった気もしてきた。だから今の虚ろいだ心地が、これもその根拠となると思えたからこそ、心地よいとすら感じる。白く、太くもない太腿の間が生暖かい風に撫でられるのを感じた、これには不快感を覚えた。

雨脚は弱まったように見えたが、陰にも吹き込み始めていた。彼女の足元のアスファルトも徐々に黒い斑点に埋まりつつある。この間隙を縫って雨宿り直すことを試みた、少し行ったところに小さな神社があるのだ。スニーカーが溜水に侵されるのも気にかけず道路を走りゆき、苔の生した境内に飛び込んだ。

 

金縁まで施された豪華な鳥居にはこの社の名が掲げられている。「信隈最上古海神社」、始めの二文字は読みがわからない。参道にも草が青々と生い茂っているが、社も鳥居も手入れがされているのかみすぼらしくはなかった。朱塗りの社も規模こそ大きくはないが、それなりに立派な建物らしい。らしいというのは境内の木々がそれに覆いかぶさるように葉を広げているのでよく見えないのだ。ただこの地域の他の建物と同様に、降り積もる雪で潰れてしまわないよう、傾斜の急な屋根を持っているようだった。本殿に上る石階段の脇にはそれぞれ一際立派な巨木が聳え立っていて、二本の間にはしめ縄が渡されている。彼女はその階段を駆け上がっていった。うっかり足を突っ込んでしまった水たまりは泥に濁っていった。

つい最近化粧直しのあったような様子の朱色の戸はぴったりと閉ざされていて。桟などが朽ち始めている賽銭箱と実に対称的だ。特にお祈りするようなこともない。いや、理不尽な運命を与える神様(若干中学二年生の彼女にとってカミもゴッド同じものだ)にはむしろ文句を言いたかった。手で軽く砂などを掃ってから縁側に腰をつき、そして足を投げ出した。明るい水色だったシャツはほとんど濃い青色となり、のばされた後ろ髪からも幾らかしずくがしたたり落ちた。

彼女の雨雲を見上げる目は恨めしそうだった。けれどもそれはお天道様を呪っていたわけではない。寧ろ、この湿った景色は鬱屈とした気分に相応しいものに思えて彼女を落ち着かせた。いつ頃止むかな、と呟きつつ、いつまでも、とも願った。

ポケットの「パカパカ(所謂ガラケー)」がメールの受信を振動で伝えてきた。確認せずとも差出人に見当はついている。ただ、一大事になっていたら、と思い、表面の水滴を手で拭ってから受信メールを開く。案の定、父親からだった。今どこにいるのか、雨が降り始めたが傘は持ってるのか、そういったことが丁寧な文面で綴られている。返信しようと、大丈夫の三文字を打ち込んだところで彼女は一息つき、そのまま携帯を閉じポケットに戻した。もはやただの意地っ張りだった。

今朝、父親が突然ある提案をした。東京の伯母夫婦のところに行かないか、というものである。そこにはまさしく姉のように慕っていた四つ上の従姉もいた。これだけなら彼女がへそを曲げる必要はどこにもなかった。ただ、この場合東京に行くのは彼女一人で、ということだったのが、彼女をして一つの疑念を抱かせた。

「お父さんはアタシを捨てる…?」

 根拠はどこにも、何にもなかったが、こういった考えが一瞬頭をよぎった。彼女は特別捻くれ者だというわけではなかった、けれどもこの年頃の少年少女らしい浅はかなニヒリストのきらいはあった。その斜に構えた姿勢がこの突飛な妄想ともいうべき可能性を脳裏に浮上させたのだった。こういう「良くない想像」というものは不思議なことに一瞬で思考を支配してしまえる力を持っている。この瞬間から彼女の耳には、父親の挙げる諸々の理由に対しても懐疑的になってしまった。

 彼女はこのことについて父親に探りを入れようとした。私は訝しんでいる、と示さんとして失敗した。少女の不器用な物言いは不明瞭な言葉の羅列と化した。ものの伝わらないもどかしさはやがて苛立ちとなり、それは態度として噴出した。そのうち引っ込みもつかなくなってゆき、遂には家を「飛び出した」のだった。

 

頬を撫でる風も冷たくなってきた。雨に濡れてしまった身体も寒さを覚え始め、それが心に寂しさを募らせてゆく。空のけしきが彼女の心をそう染め上げてしまったのか、それともその心が景色を物悲しく染めてしまったのか。もはや全く「鶏と卵」だった。 

雨のあがる気配はない。ふと気が付けば、白い手の甲やら脛のあたりが蚊に喰われている。そういえば虫よけもしてきていなかった。

「もう雨被りながらでも帰ろうかな…。」

茶色く濁っていた水溜まりもいつのまにか泥が沈殿し、波よせる水面も元の透明さを取り戻している。

少女は思わず身体を小刻みに震わした。携帯電話も再び小刻みに震えた。「古海神社で雨宿り」これだけの文字を入力し返信した。鳥居のほうから聞こえてくるエンジンと車の音がひどく遠く感じる。彼女はポケットからもうひとたび携帯を取り出した。

 「迎えに来て」これっきりのメッセージを逡巡ののち、送信した。

 

その時、鳥居をくぐった人影があった。見覚えのある焦げ茶の落ち着いた色彩の傘を差していたので一瞬父親かと思ったが、彼女の居た少し高まったところからは顔は見えなかったが、セーラー服を着ていた。その身体には大きめの傘の下から覗いた袖とスカートは紺色。セーラー服としては典型的な形だったけれども、どこの学校かは検討が付かなかった。というのも、元々この辺りには小学校が一つあっただけで、それも彼女の在学中に廃校になった。だから彼女は少し遠いところの中学校に通っていたのだが、そこのセーラー服は袖のない白襟だった。

 この若い(幼い?)敬虔な人物はゆっくり、真っ直ぐ石階段を登ってきた。あまりジロジロ見るのは失礼だろうと考えた彼女はぼんやりと遠くをながめている体を装った。登ってきた生徒は髪を高いところで纏めて、顔のつくりは彼女と非常に似ているように思われたが、背丈は若干彼女よりあった。

 傘を閉じた生徒はぎこちない動作で参拝をこなした(鈴は鳴らさなかった)のち、彼女のほうに身体を向け、どこか虚ろな眼で見つめた。

 「こんにちわ…。」

目が合い一瞬の沈黙のあった後、恐る恐る彼女は挨拶をした。

 「こんにちは…。」

生徒は抑揚のない小さな声で返事をする。どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していたので、彼女は鳥居のほうをぼんやりと眺めてやり過ごそうとした。

 「いいの?あの人もそういう人だから、たぶん。きっと、捜し始めてると思う。もしかしたら警察にも連絡するかも…?」

女子生徒のこの言葉に彼女は思わず向き直った、なぜこの人はこんなことを言うのだろう。

 「あの人、あなたのお父さんはとても心配性…。連絡してあげれば…?」

彼女の眼は驚愕に見開かれた、そして困惑に細く薄い眉が寄せられた。

 「あなたは…、」

 「わたしはホナミ…。」

彼女はその少女の顔が自分と瓜二つであることを認識した。

 突然自分と同じ名前と顔を持つ人間が目の前に現れた。なんとも荒唐無稽な話だった。しかもその人間は今の自分の事情まで知っているようだった。

「どちら様ですか…?もしかしてドッペルゲンガーとかゆー…。」

 「ドッペルゲンガー?私はホナミ…。となり、いい?」

ホナミは音もたてずに穂浪の横に姿勢よく座った。穂浪は投げ出していた足をひっこめた。

 

 「あなたはアタシの、何なの?」

 「それは少し違う…、私があなた。難しいかもしれないけど、そのうちわかる。」

穂浪はいちいち意味深長な物言いをするホナミに不気味な印象を抱いた。雨霞のなかからやってきた妖のように思えたのだ。

 「そのうちわかるって、いつ、何がわかるっていうの。」

「あなたにとってあと…、一年と半分ぐらい?そのとき目を覚ますのは多分あなただから、私じゃなくて。」

ホナミは一切表情を変えずに、ただ淡々と話すのだ。この様子に加えて、ホナミの傘から滴る水のないことに気が付いた穂浪は、どうやら彼女は本格的に妖らしいと思った。

 「お父さんに連絡してあげなくていいの…?」

 「ついさっき返したところだから。第一アンタは何を、なんで知ってるの?」

 「さっき言った…、私があなた。私だって自分のことぐらいは知ってる…。知ってるつもり…。」

 「だからー」

そう言いかけた自然と艶やかな唇にホナミは中指と人差し指をあてて穂浪を制止した。

 「順番こ、次は私の番。あなたは私のこと、あなた自身だと思ってくれる?」

ホナミは表情こそ変えなかったが、懇願するような様子で顔を傾けた。

 「わかんないよ。あなたがアタシだって言われたって、だってそんなの理解できないし。それに顔は似てるかもしれないけど髪形とか全然違うじゃん。どうしてアンタは縛ってるの?」

 「似合うから…、これが私に似合うと思ってるから。どう?」

ホナミは高いところで結われた小さめのポニーテールを見せつけるように揺らした。

 「わかんない。髪なんて邪魔にならない程度になってればいいと思うからさ、似合う似合わないなんて考えたこともないし…。第一、どうしてそんなこと考えなくちゃいけないの?」

 「自分を好きになれないと、自分を嫌いになっちゃうから…。自分を嫌いになったら、生きていけないから…、自分を殺しちゃうから…。」

ここにきて初めてホナミは顔を険しく歪めた。

 「そんな…、死にたくなるほど追いつめられるようなことじゃぁ…。」

 「私は死なない、ただ私を殺すだけ。私はあなただから、あなただって殺せる。でもあなたはまだ、私を殺せない。もし、あなたがその時まであなたを殺さなければ、あなたは私を殺せるようになって、私はあなたを殺せなくなる…。でも私は私を殺したくないし、殺されたくない…。」

 この最中、鳥居のほうから自動車のブレーキの音が聞こえてきた。するとホナミはやおら立ち上がり、傘を差した。

 「お願い、私を、私だと思って…。目が覚めてから、ゆっくりでいいから。お願いだから、私を殺さないで…。」

そう言ってホナミは一切の音を立てず、石階段を降りて雨霞の中に消えていった。

 

 傘が雨を受け止める音と、石階段のくぼみに溜まった水が跳ねる音とが聞こえてくる。穂浪は思わず天を仰いだ。降り積もる雪の重さにも耐える分厚い屋根の縁から絶え間なく雫がしたたり落ちてくる。

結局、ホナミの言うことのほとんどは理解できなかった。彼女の正体すらよくわからない。

「お母さんのヘアゴム、とってあったっけ…。」

弱弱しくなった雨に濡れている景色が、ひどく他人事のように思えた。


テーマ:「今日の気分、自分」

第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

襲来

 「て、敵襲だー!」

 それは、いつものように私が一小隊を率いて洞窟を探検している途中で、休憩を取っていた時のこと。

 私の遥か前方で、見張り番がそんな大声を出すと同時に、洞窟の中にゴウンゴウンという音が重々しく鳴り響いた。

 私の周りで休憩を取っていた隊員たちが、一斉にざわざわとし始める。私は、その落ち着きのない雰囲気を一蹴するように、大きめの咳払いをした。落ち着きのない雰囲気には変わりはなかったものの、皆の注意は私に一気に引き寄せられる。緊急事態の対処には、何年も洞窟探検をしてきた私には慣れっこなのだ。このくらいは朝飯前である。

「皆、落ち着くんだ」

 私の言葉に、隊員の皆は息をのむ。

「で、ですが隊長……!」

 隊員の一人が不安そうな声を上げる。私は、その隊員に向かって聖母のようにやさしい笑みを向ける。隊員の表情から徐々に不安の色が消えていく。さすが私だ。

「落ち着くんだ。まずは状況を見極めよう。見張りが戻って来れば、状況が細やかに把握できるからな。その状況に応じて、この緊急事態を切り抜ける策を考えるぞ」

「は、はい……!」

 私の力強い言葉に、隊員たちは力強い頷きを返す。その場に、もう不安などというものはなく、隊員たちの心の中には、隊長に任せていれば大丈夫という思いが満ちていた。

 だが、肝心の私はというと、心に少々の懸念があった。いつもの探検と同じような、侵入者を排除するために爆破やら刃物やら、はたまた番人のような屈強な獣が私たちを襲うような罠であれば、いくらでも対処できる。しかし、この洞窟には、どんなベテランの探検家でも予想が不可能な罠が仕掛けられているという噂があったのだ。その罠は、探検家たちの間では敬意をこめて「動点P」とか「AJP」とか呼ばれている。果たして、私は「動点P」に遭遇した時、対処ができるのだろうか……?

「……ちょう? 隊長?」

「……はっ。ああ、見張りか」

 いけないいけない、すっかり考え事の世界に旅立ってしまっていたようだ。まず私がやるべきは、この状況の把握だ。

「隊長、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ。それよりも見張りよ、報告を頼む」

「はい。敵は、およそ二十秒前、この洞窟の最東端である、Aクアズスポット――通称点Aを、Bンガクブトウポイント――通称点Bへ向けて出発。現在は、我々の百メートル東方を毎秒一メートルの速さで西に向かって移動中です」

「ふむ、そうか。ご苦労だったな」

「それと隊長、これは大変申し上げにくいのですが……」

「何だ、どうした?」

「敵の移動速度と、鳴り響いている台詞から考えると……恐らく敵の正体は、『動点P』であると推測されます……!」

 見張りがそう口にした瞬間、場の空気が一瞬にして凍り付いたのが分かった。まあ、動点Pに遭遇してしまったのだ、無理もないだろう。

 私は、場の空気を仕切り直す意味と、確認の意味とを込めて、見張りに尋ねる。

「見張りよ。君の言う『動点P』とは……つまり、『AJP』のことでいいんだな?」

「……はい」

 改めて、その場の空気が凍り付く。だが、私だけは妙に冷静だった。

「皆、そう不安がることはないさ」

 隊員たちの視線が、全て私の方に向けられる。私は、隊員一人一人と目を合わせて、聖母のように微笑みかけてから改めて言葉を紡いだ。

「私は、今日のためにこの洞窟で過去に起きた緊急事態事例を綿密に研究してきた。そして……」

「そして……?」

 隊員たち全員の体が前のめりになっている。皆からの注目が最高にまで至っていることをゆったり確認して、少し勿体付けて私は口を開いた。

「ある法則を見つけたんだ」

 私がそう口にした瞬間、隊員たちが一気にざわつき始める。

「な、法則……!?」

「そんな馬鹿な……」

「どんなベテランでも予測不可能といわれた『動点P』にそんなものが……」

「さすが我らが隊長だ……!」

 皆が口々に私への賛辞を述べる。ああ、これだよこれ。この感じ、堪らんなあ。

「皆、落ち着くんだ」

 私のその一言で、隊員たちのざわつきは収まった。さあ、あとは私が見つけた「動点P」の法則を披露してやるだけだ。

 私は、事前に練習していた通りの順番で言葉を紡いでいく。決して、家で一人で「動点P」に遭遇したときにどのように対処するかをシミュレーションしていたわけではない。

「見張りよ、一つ確認だが、この洞窟はAクアズスポットとBンガクブトウポイントの間に、中点Mというのがあるな?」

「え、ええ確かに。正式名称は謎に包まれていますが、探検家の間で中点Mと呼ばれている場所があります。ちょうど、AクアズスポットとBンガクブトウポイントの中間地点にあることから、そう呼ばれていたりしますね」

 流石は見張り、よくこの洞窟について調べている。一方、私の周りにいる平の隊員たちは皆ポカーンとしていた。これは、探検家としては今後絶対に伸びないだろうな、と思った私であった。

「で、実はだな……『動点P』は、中点Mよりも西には進んでこないということが、私の研究により明らかになった」

「な、何ですって……!?」

 声を上げたのはもちろん見張りだった。他の隊員は、そもそも中点Mの存在を知らなかったので、そんなこと言われても何が何やら、そんなところだろう。

「では、私たちも、中点Mまで行ければ……?」

「そう、『動点P』の襲来を受けなくて済む、そういう寸法さ……!」

「さ、流石隊長です!」

 勿論ここまでの会話の相手は見張りただ一人であった。しかし、最後の私への褒め言葉の部分は他の隊員たちも言葉を被せてきた。調子のいい奴らだな、だがそんなところが憎めない、と私は思った。

 そういうわけで、私たちは洞窟を西に向けて走った、走った、既に満身創痍ではあったが。そうしてどれだけ走っても、洞窟に響くゴウンゴウンという音は鳴りやまない。それは、「動点P」はずっとついてきているということを如実に表していた。

 そうしてしばらく走っていると。

「ここだ……! ここが、中点Mだ……!」

 見張りが息も絶え絶えに言葉を発する。確かに、いつの間にか私たちの隊は中点Mの目印であると言われている、絵画が飾られている場所まで来ていた。

「……あれ?」

 私は、その絵画に視線をやると、思わず声を出してしまっていた。

「どうかしましたか、隊長」

「……いや、何でもない」

 その絵画に描かれているのは、一人のスラリとしたスタイルが印象的な、綺麗という言葉が相応しい女性だった。ただ、噂で聞いていたものと少し違っている部分があったのだ。それは、髪だった。噂で聞いていたのは、毛先にほんの少しの――。

「そういえば、隊長」

 私の思考は、一人の隊員の声で遮られる。

「何故、『動点P』は別名『AJP』と呼ばれているのでしょう」

「何だ、そんなことも知らないのか、探検家なのに」

 隊員の素朴とも思える疑問に答えたのは、私ではなく、見張りだった。やはり、私と同程度の知識を持っているあたり、流石見張りというべきだろうか。私の後継者にいいかもな、と場違いなことを考え始めていた私であった。

「『動点P』はな、この洞窟内を移動するときに独特の声を発するのさ」

「独特の声、ですか?」

「そうだ。その声の――お、まもなく聞こえるな」

 見張りがそう口にした瞬間、明らかに女性と思われる高いトーンの声が、こちらまで響いてくる。距離としては遥か彼方だろうに、それはとてもよく聞こえた。

「あじゃぱあああ…………」

 その声が聞こえてきた瞬間、隊員たちは沈黙する。すると、もう一度。

「あじゃぱあああ…………」

 その声が聞こえなくなるまで待って、私は思わず呟いていた。

「ほお、今日は大分綺麗に、途切れずに聞こえるな。これはラッキーな日に来たものだ」

「……えっ!?」

「いや、過去の記録では、『あじゃっ』で途切れたり、『あじゃぱあ』の最後の伸びがうまく通らなかったりという感じのものばかりなんだ。今聞こえてるのは、途切れてもないし、伸びも綺麗に透き通って聞こえるしで、何か、とにかく、ラッキーなんだよ、すげえんだよ」

「た、隊長の語彙力が削ぎ落とされている……!?」

 私は目を閉じ、その場で暫し聞き入る。

「Mちゃあああん……」

「何っ!? 今までの記録に無いパターンの声だ! やばい、本当に今日来てラッキーだった! やべえ、興奮してきたぞ!」

「た、隊長……」

 何やら隊員たちの目に心なしか軽蔑の色が浮かんでいる気がするが、そんなことは露ほども気にしない。私は目を閉じたまま、腕を組んで、その場で聞き入る。

「いや、そうじゃなくて、この状況で聞き入っちゃっていいんですか!? 早く逃げた方がいいんじゃ……?」

 一人の隊員がそう声を上げる。だが私は、余裕たっぷりに口を開いた。

「何を言ってるんだ、私たちは中点Mまで来たんだから、そんなに慌てる必要は――」

 そう言いながら、私がさっき絵画が掛けられていた壁に目をやると。

「……ない!?」

 そう、ないのである。あの絵画が。辺りを見回すと、その絵画はずりずりと壁を横に移動していた。「動点P」とは反対の方向へ向かって。

「な、何だあの絵は……! 勝手に壁面をスライド移動しているぞ……!?」

「隊長! Aクアズスポットが、西側に移動しているものと思われます!」

「何だと!?」

「Aクアズスポットは、七年に一度、西側へ十五キロ移動するんです! それが、たまたま今日なのだと予測されます!」

「なるほど……つまり、この洞窟の長さが短くなっているために中間地点の位置も変化し、それに伴い中点Mの位置も移動している、というわけか……!」

「どうしますか、隊長!」

「つべこべ言うな! ともかく、中点Mよりも西側にいれば『動点P』の襲来は受けないんだから、さっさと走れッ!」

 ちなみに、ここまでの会話は全て私と見張りの間で交わされている。他の隊員たちは、私と見張りの間を飛び交う言葉にひたすらぽかあんとしているばかりで、最後の私の叫びに反応していそいそと荷物を纏め始めたくらいである。

 えっさほいさ、すたこらたったと走って、私たちは何とか絵画に追いついた。この絵画――もとい、中点Mの移動速度は尋常ではなかった。まるで、何かから逃げているかのように。いやまあよく考えてみれば、私たちこそ中点Mを追いかけて走っていた張本人なのだが。

 ともあれ無事に中点Mの絵画に追いつき、今度は中点Mに並走し始めた、まさにそのとき。

 ごううううううん……。

「な、何だ!?」

 隊員たちは慌てる。私は、やれやれまたかというように構え、皆を落ち着かせる。この物音、まさかとは思うが、また……?

 私の予想は、見張りの再びの叫びによって現実へと変わる。

「隊長、今度はBンガクブトウポイントより、敵襲です! 移動速度からみて……正体は『動点Q』と予測!」

「……な、何いっ!? 動点Qだと、それは確かなのか!?」

「はい、これまでの記録から導き出される結論は、それ一つかと……」

「な、なんてこった……」

 私の頭は、この超緊急事態を切り抜ける策を見つけるためにフル稼働を開始する。だが、そもそも洞窟に入ってからろくに糖分を取っていない私の頭は、すぐに活動を停止してしまった。

「あ、あの、隊長……」

「なんだ」

 隊員に対してぞんざいな返しをしてしまう。私は、全くそのことに気が付かなかった。

「動点Qは、そんなにヤバいんですか……?」

「動点Qは、その正体が全く分からないし、口から出てくる言葉の意味も全く意味が分からないという意味で、確かにヤバい」

「え、動点なのに言葉を発するんですか」

「動点がどうとかいうのは、全て通称だからな、そんな細かいことはどうでもいい。そんなことよりももっとヤバいのは」

「ヤバいのは……?」

「今の私たちの状況を考えてみろ、ただでさえ後ろからは『動点P』が追ってきている。そんな状況で、まるで意味が分からない言葉の羅列を鼓膜に延々と流し込まれ続けてみろ……?」

「……はっ」

 そんなことにも気付いていなかったのかこの隊員は。やはり、私の後継者は見張りで決まりだな、うん。

「どうするどうする……? こんな状況で私たちが打てる策なんて、そうそう多くは――うん?」

 私の心は限界まで追いつめられていた。だが、心が折れそうになったまさにその時、私は前方から聞こえてくる、ある声に気付いた。そして、頭がろくに回っていないこの状況でそのことに気付くことができたのは、まさに奇跡と呼んでもよいかもしれなかった。

「……なんだけれども、……は……になっているから、……なんだよね? でも私は……は……だと思うんだけれども、……」

 聞こえてきたのは、とりとめもない言葉。誰かと会話をしているような言葉遣いだが、その話し相手の声は全く聞こえてこない。

 気付いたのは、会話の内容。老爺が発しているような細々とした声だったために、細かいところまではよく聞こえなかった。しかし、その内容は、明らかに誰かと議論をしているような――。

 そこまで思い至って、私は大声で叫ぶ。

「STRだ!」

 私の前方を走っていた見張りや隊員たちが一斉に私の方を振り返る。さらにその先で、例の中点Mの絵画が進みをぴたりと止めたのを私は見逃さなかった。しめた、そう思った。

「STR、ですか?」

 恐る恐るというように、見張りが私に尋ねる。

「ああ、皆には、動点Qが言葉を発しているのが聞こえるか?」

「え、ええ、まあ……」

 見張りも含め、隊員たちはだからどうした、というような表情をしている。やれやれ、見張りでさえこのことに気付けないとは。あいつも、私の後継者としてはまだ未熟かもしれないな。

「動点Qの言葉遣いを聞くに、あれはSTRだ」

「な、なるほど……?」

 隊員たちは、相変わらずぽかあんとしている。

 だが、中点Mの絵画は違った。その場でふるふると震えだし、最終的にはその場にからあんと落ちたのだ。

「よし、今だ、その絵画のところに穴を掘るんだ!」

「えっ!?」

「絵画の進みは止まった! そこよりも西に動点Pはやってこない! あとはそこに穴を掘って、動点Qをやり過ごすんだ!」

「な、なるほど!」

 隊員たちはまるで意味を理解していない表情をしているが、まあ問題ないだろう。これで、私たちはこの襲来を切り抜けられる。そう思った。

 その時、私の背中に直接響いたのは、周りの雰囲気に流されない透き通った声で。

「Mちゃあああん!」

テーマ:「今日のあじゃぱあ」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00

こつん

 早いもので十九年、わたくしのなかで「生きている」と仮定されたわたくしであるけれど、わたくしはいつかどこかで死んでいるのかもしれなくて、この今日の認識今日のわたくしは昏睡状態にあるわたくしのしあわせな夢であるのかもしれなくて、そんなことをこの前うっかり赤いままの信号を平然と渡り切ったとにふと考えて、ああまたこれこの無限循環、存在証明不可のエラーがそこかしこに点灯しまくってその点灯さえも存在を示せないという絶句、絶句を舌で転がしながらしかしわたくしは手慣れたもので、歩く傍ら過ぎて行く電柱を右肘でこつん、この電柱をこのこつん、でもってひとまず在ると、エラーの表示を×ボタン押してとりあえずこれでいいのだ、放っておけなにがなんでもこの電柱は在るしこのこつんもとにかく何故かは知らんが存在するのですと、全世界の驚嘆極まる痴れ言を悪びれもせず言ってのければ、けたたましい警告音とエラーはしゅるしゅると霧消して、あとには異常な世界の定立とその中でいたく平常に暮らすわたくしが在る。堅牢な信頼世界、その中で闘うものと言えば、レポートとレジュメとテスト、それから英文くらいなもので、頑丈な仮定に守られてのーんと暮らしていれば小説など書ける由無く、二つの〆切を無視してきたけれどさすがに三度目の正直という言葉もある。じりじりと確実に近付いて来る〆切にカレンダーの枡越しに呼びかけて、
――やあ〆切さん、君が来てるのか僕が行ってるのか、正確なところはわからんけれど、わたくしの「生きてる」の仮定が続くならば僕と君とは出会ってしまうわけだね、中学の時には、眠らなければ夜は明けないんじゃないか、ずっと安全な毛布の中に居られるんじゃないかと、半ば縋るように夜を更かしたけれど、次第に東の空が白みはじめてああ夜って寝なくても明けるんだあと信仰の瓦解とともに眠りに落ちたものだよ、僕が一日をじる閉じざるにかかわらず、一日は終わってやがて始まるのだね、そんならせめて〆切さん、来るなだなんて言わないから、もう少しだけ、ほんの一寸でいいから、ぐずぐずしてて、冬の毛布の中みたいなささやかな抵抗をどうにかこうにか、見せてはくれないか、どうにもこうにも、こっちは書けん、のーんとしてしまって、どうもかなわん、たのむわどうにか、もう少しだけ、ほんのちょっぴり、のんびりさせて。そしたら〆切のやつは少し得意げに、
――あんた、あたしにどうこう頼んでも、それは無理なはなし、あんたさっきゆってたじゃない、あんたの「生きてる」は壮大な仮定、揺るぎない異常、そんなら「今日」を永遠にしておしまいよ、あんたの完璧な仮定の体系に、永続する一日を、すこんと差し込めば済むはなし、あたしに来るなと言うよりも、あたしが来ても、あんたがあたしに構わなければ、それで良し、万事ととのって、めでたいじゃないの、なんであんたに、仮定の中に生きるあんたに、そんな簡単な、今日が終わらぬという単純な設定が、どうしてどうして、できないというの。
――ちょいとお待ちよ〆切さん、カレンダーの、枡の中に居る君が、これまたどうしてそんなこと、いやしくも、真新しいカレンダーに、ちょこんと座っている君が、それをいっちゃあ、いけないよ、いいかい暦というのは、例えば暦は、僕と世界の拠ん所、肘と電柱の、こつんに始まる、仮定におけるわたくしと、仮定における世界とが、つながっておるその証、世界があってのわたくしで、わたくしあっての世界であって、ひとたび世界を認めたからには世界を生きずになにをかや、どうして君を知らぬものにてなお生きるべきものにかは。息せき切って巻き上げて、語り尽くせば〆切は、しゅん、となってすごすごと、一月、二週目、月曜に、ちんまり座って、おとなしく。

 本日も、真理が白い目を瞠るその先で、ゆるゆると日向ぼっこ。

テーマ:「今日の○○」

第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 00:38

金平糖

 ロングヘアと言ってもいいような長さの黒い髪が、さらりと音を立てたような気がする。視界にこぼれてきた髪をとかすように、雪さんは細く長い指で掻き上げた。一瞬だけ耳が見え、再び隠れた。ふっくらとした唇は難しげに引き結ばれている。伏せられたまつげが、長く濃い。

 雪さんは前髪を作らず真ん中分けをしている。ともすれば古臭く見えてしまうような髪型だが、彼女の凛とした顔立ちにはよく似合っている。私自身の髪質も悪くはないとは思っているのだけれど、雪さんと比べてしまうと同じロングヘアといえども艶が全く違う。
 私は肘をついて目の前に座る美しい人を見つめる。昼時を過ぎて人がまばらになっているとはいえ、大学の食堂はざわざわと雑多な音と人が動いている。けれど、隣のテーブルの話し声や少し大きすぎるBGMなど雑音が満ちている部屋の中で、雪さんの立てる音だけは一つ残らず私の耳に入ってくるようだ。雪さんの周りだけ、音も景色も遮断されているように感じる。
 雪さんから漏れる小さなため息。カサリ。ページをめくる。カサリ。
 雪さんは、いくつもの付箋が貼ってある教科書を開いて、文字を追っている。
「だめだ……。さやか、いい?」
 顔をあげて、教科書を見つめていたのと同じ表情で私を見た。少し寄せられた眉ははっきりとしていて、その下には細くアイラインを引いてある目。視線はまっすぐと私の瞳をとらえる。表情の強さに、思わず心臓を突かれる。それを気取られないように微笑む。目を細めると、雪さんの視線に射抜かれる感覚が和らぐ。
「どうぞ」
 普段よりかすかに低い声を出して答えると、雪さんは真剣な表情のままさっきめくっていた教科書をひっくり返して私の方に向ける。メリハリのある整った字でいくつも書き込みがある。教科書を汚しても平気なタイプなんだ。そう思うと同時に勉強に対する姿勢を感じて、背筋が伸びる。丸く整えられ、透明のマニキュアが塗られた爪の先が、教科書の一行を示した。まっすぐな指沿って視線を動かす。
「ここが、どうしてもわからないの。どうしてこうなってるの?」
 素早く前後の文を読む。すぐに把握して、雪さんに教えなければ。もたついてしまえば、がっかりされてしまう。次から私を頼ってくれなくなってしまう。雪さんはそんな人ではないことをわかっているのだけれど、どうしてもそういう強迫観念がちらついてしまう。
 私の説明を聞く雪さんは真剣だ。声は低く、口調はゆっくりと、表情は穏やかになっているのを自覚する。雪さんに対しては、落ち着いて頼りがいのある自分を演じてしまう。一種の見栄だろう。
 再び教科書に向き合った雪さんを見て思う。
 なぜ私が選ばれたんだろうか。勉強は比較的できる方とはいえ、優秀なわけでもないのに。彼女の周りには、私以外にも喜ん教えてくれる人が多いだろうに。私のように彼女に惹かれている人間は多いだろうに。
 私と雪さんは学科が違う。知り合ったのは一年の前期。いろんな学科が集まるドイツ語の授業。どこにでもいそうな大学生がたくさんいる教室の中で雪さんは異質だった。彼女は目を引いた。変わっているわけではないけれど周りとはどこか違う服装。艶めくまっすぐな黒髪。美しいドイツ語の発音。他学科であるのに、私は彼女のことを一番に覚えた。廊下側の前から五番目の机が定位置だった。その隣の机の一列後ろに座っている私からは、足を組みながら気だるげに頬杖をついて授業が始まるのを待っている横顔がよく見えた。物おじしない雪さんは誰とでもペアワークをする人だったから、席の近い私とペアになってくれることがよくあった。
 学年が同じだということを知っても、私はさん付けをやめることができなかった。雪さんの雰囲気に私が気おされているからだろう。それは今でも変わらない。けれど雪さんは最初から親密そうに話してくれた。二年になった今も、勉強を教えてと言われる以外では会う機会も減ってしまっているけれど、会うたびにフレンドリーな笑みを向けてくれる。
 心理的距離を詰め切れない私へ向けてくれる雪さんからの一方的な親しみ。
 私が持つのは気づかれないように隠し続ける雪さんへの強いあこがれ。
「あ、なるほど」
 声帯を震わせないささやき声でも雪さんから発されたものであれば私の耳はとらえる。
 眉間に寄っていたしわが伸びていく。数ミリ口角が上がる。シャーペンをひっかけていただけの手がきちんと握りなおす。黒目が動き、ルーズリーフの束を見る。左手がそれに伸びる。片手で袋を開けて、親指と人差し指で紙をつまむ。薬指と小指でほかの束を抑えながらそっと引っ張り出す。腕を持ち上げると一枚のルーズリーフがするりと袋から滑り出てきた。右手が教科書を私の方に押しやると、その準備されたスペースにルーズリーフが置かれた。
 紙越しに机と芯が当たる音が聞こえ始める。またさらりと音を立てて零れ落ちた髪の毛をまた耳にかけた。ドキリとする。
 雪さんは時たまこうやって勉強を教えてと言ってくる。そのたび私はまた選んでくれたことに安心しうれしくなる。けれど、不思議で仕方ない。彼女は友達が少ないわけでもなさそうなのに、なぜ学科も違う私を選んでくれるのだろうか。
 私は雪さんと対等な関係を築くことができないというのに。
 シャーペンが止まり、雪さんは顔を上げた。晴れやかな表情をしている雪さんはまぶしすぎる。こんなにも一方的に魅かれ、見つめ、引け目を感じている私は彼女の視線を受け止めることができない。唇を曲線的に曲げ、目を細める。穏やかに頬笑みを浮かべているふりをする。余裕のない心の中を悟られないように。
「ありがとう、さやか。納得した! これで分からないとこはなくなったわ」
 雪さんが笑うと尖った犬歯がすべて見える。白く整った歯並びを臆することなく見せる表情。私にはできない。雪さんの前では特に。
 自分を飾って、見せかけて、そうやって落ち着いたさやかを演じていなければ、雪さんの前にいられない。あらを見られないように。雪さんの求める私でいれるように。
 勉強道具をカバンにしまいながら、雪さんは一つのカラフルな小さい袋を取り出した。
「あ、そうだ。これ食べる?」
 カラフルだと思ったのは、透明のパッケージから透けていた金平糖の色だった。
 勉強が終わると雪さんはいつもお菓子を出してくる。それは日によってチョコレートだったり、飴だったり。なんで今日は金平糖なのだろう。けれどそれは声にならない。私はそんなことすら聞くことをためらってしまう。
「うん、もらう」
 私は彼女の発した言葉にこたえることしかできない。
 袋を止めていたゴムを外し、くしゃくしゃになっていた口を開いてから私の方に向けてくる。私は手を伸ばそうとして、とどまる。小さな袋に入っている小さな砂糖の塊をどうやってとればいいのだろうか。手を突っ込んでもいいのだろうか。手を出して雪さんに袋を傾けてもらうべきなのだろうか。指を入れたら私がとる金平糖以外にも触れてしまう。私の手を彼女は嫌がらないだろうか。彼女に出してもらうべきだろうか。彼女の手を煩わせて。
 一瞬のうちに頭の中を掛け巡った。
 私を見ながら片眉をひょいと上げ、雪さんは長く細い指で桃色の金平糖をつまんだ。見本を見せられているように思った。つまんでいる人差し指と親指以外がピンと伸びている。優雅なしぐさで血色の良い唇の間に挟み込んでから、ちろりと見えた赤い舌で口の中に落とした。金平糖の角と雪さんの白い歯が当たってカラリ、コロリと軽い音を立てているように感じた。
 口の中で金平糖を転がしながらもう一度私の方に袋を差し出してくれた。雪さんに倣って慎重に指を差し込み、一番数の多い白いものを選ぶ。唇に挟み、落とさないように気を付けながら舌を使って口の中に入れる。
 瞬間、冷気が背筋を走った。
 今の自分の行動。雪さんのことをじっと見ていたことがばれてしまうのではないだろうか。雪さんの一挙手一投足を逃すことなく見つめ、無意識のうちに同じ動きをしてしまったことが。ただの友人にそこまで見つめられ、観察されることは心地よいものではないだろう。
 そらしてしまっていた視線を恐る恐る戻す。目の前の雪さんは、さっきと同じしぐさでもう一度桃色の金平糖を口に入れた。カラリ、コロリ。
 ため息と思われないように、静かに長く息を吐いた。金平糖のせいで呼気が甘い。
 雪さんの口の中も温かく甘い息で満たされているのだろう。暗い口内で赤く柔らかい舌が、大きいものと小さいもの、二つの砂糖の塊をもてあそんでいる。ピンク色はもう取れてしまっているだろう。白い歯に、白い金平糖が当たり音を立てる。カラリ、コロリ。雪さんが舐めているのは、もしかすると私の手が触れたものかもしれない。それならば、今私が舐めているものも……。
 そんなことを想像してしまう自分が嫌だ。甘い塊を奥歯ではさみ力を加える。角が崩れ、割れた。そのまま奥歯を食いしばる。砂糖の欠片が口の中に広がった。舌の上にあるザリザリとした感触。
 雪さんには絶対に嫌われたくない。そう思っているくせに、私は彼女に強く魅かれてしまうことを止められない。対等な、仲の良い友達でありたいのに。雪さんに頼られたり、雪さんに笑いかけられたり、そういうことがずっと続いていける関係でありたいのに。
 本当は、たまにじゃなくて毎日。毎日会いたい。だけど、私のぼろが出てしまいそうで怖い。でも会いたい。本当の私を押し殺してでも、彼女の笑顔を、彼女の困り顔を、怒った顔を、全て見ていたい。彼女に必要とされたい。
 それは、友だちというには強すぎる感情で。
 気づかれたら終わり。この重すぎる気持ちを抱いているなんて。
 気持ちが透けてしまわないように、私の表情に出るのは穏やかなほほえみで。
 雪さんは私に袋を向けて尋ねてから、最後にもう一つ、今度は黄色を唇に挟んで、食べた。よく見ると、透明な袋の中には水色の金平糖がたくさん残っている。水色は嫌いなのだろうか。そう思うけれど、やっぱり訊けない。
 雪さんは袋をカバンにしまい、帰り支度を始める。私もコートを着込み、マフラーを手に取る。すっかり暖かそうな格好になった雪さんは、いつものきりりとした雰囲気が少し和らいだ。可愛さに見とれてしまう。
「いつもありがと! 訊きやすいからつい頼っちゃう。また教えてね」
 食堂を出てすぐに雪さんは手を振って私と違う方向へ歩いて行った。ブーツのかかとがコツコツと音を立てて私から遠ざかって行く。目を閉じて最後に向けてくれた笑顔を頭の中で再生する。こうやって別れてから、不安な時間は始まる。あの笑顔は自然なものだっただろうか。今日も雪さんに嫌われずに済んだだろうか。また会おうとしてくれるだろうか。次に声がかかるまで、私は自己嫌悪と恐怖に押しつぶされそうになる。
 私は彼女に対して強い感情を発露できない。強い気持ちへの評価もまた、強くなってしまいそうで。雪さんに拒まれてしまったら、そう思うだけでぞっとする。
 今日の私は、うまく演じられただろうか。嫌うところのない、さやかを。雪さんの求めるさやかを。
 今日の、私は……。

テーマ:「今日の装い」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.08(Mon) 23:59
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