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 電話がきたのは午前三時頃だった。

「おかあさんがね、死んだの」

 だから、かえってきて。ゆいちゃん。



 お通夜は本当にささやかだった。
 近所の集会所を借りて、夏帆と私とお坊さんの三人きりだったから、まるでい
つかのごっこ遊びのようだと思った。パイプ椅子が三脚と簡易机の上のおばさん
の遺影。今度は本当におばさんが死んでしまったけれど。白木の棺とその中の白
い百合が薄暗い蛍光灯の下で異様だった。
 夏帆は今度は泣かなかった。眉間にしわを寄せて、ただ黙っていた。
 私もただ黙っていた。俯けばうなじの傷が引き攣れてまだ痛むような気がした。

 お坊さんはお経だけ読むと、帰っていった。ほかに来る人も無いので大仰な告
別式はしないらしい。今夜この集会所で一晩泊まったら、明日はもう午後から焼
き場だ。
 夏帆は母親の棺の傍らに座って、じっとその顔を見つめたまま動かない。黒い
ワンピースの袖から覗く手は5年前より痩せて骨が浮き出している。かつていつ
でも赤く火照っていた頬も今は青白く、眼窩も心なしか落ち窪んでいるように見
える。
 5年間。この町を出てから夏帆とは一切連絡を取っていなかったけれど、私が
いないこの町で、夏帆はずっとあの薄暗い家でただおばさんのためだけに生きて
いたのだろうか。当たられて、けなされて、それでも?

「由依ちゃん、ご飯食べた?」

 唐突に夏帆が口を開いた。見つめすぎたかと思ったけれど、夏帆はまだ棺の中
を見つめていた。
「来るときの電車でおにぎり食べたからまだお腹空いてないよ」
「そう、よかった。ほんとはちゃんとお料理も頼んで、最後にお母さんと食べら
れたら一番良かったんだけどね」
 お金が足りなくって、と夏帆は苦笑いする。そして息を大きく吸い込んだかと
思うとうつむいたまま流れるように喋りだした。

「葬儀会社の人にね、電話したら30分で家まで来てカタログ見せてくれたの、朝
の5時なのに、よ。慣れてるのね。お通夜だけします、って言っても動じなくっ
てね。お棺選んだらすぐ大きいおじさんたちがやってきてお母さんをちゃんとし
てくれたの。それからお花はね、お母さんの好きだった百合がいいですって。ち
ょっと高くついたけどお母さんに最期にあげるものだからいいよね。ご飯はお母
さんは食べられないけど、お花はお母さんと煙になれるもの。それからね、」
「夏帆」
「それからね、集会所が良いですって言ったらちゃんと鍵借りてきてくれてね、
忍び込んでたあの頃の私たちに見せてあげたいね。でね、」
「夏帆」
「それでね、」

「ねえカホ」

 つい駆け寄って掴んでしまった手首は冷え切っていた。夏帆はゆっくりと顔を
上げた。
 丸い目が揺れる。私の目を見て、棺を振り返って、再びこちらを見た目は潤ん
でいた。
「ねえ、夏帆。ちょっと外に出よう」
 夏帆の手首に力を込める。
「え、でもお通夜だし」
「いいから」
「だめだよ」
 夏帆の声が尖った。
「由依ちゃん、これは遊びじゃなくて、本当のお葬式なんだよ?」
「じゃあ、どうして私なんか呼んだの」
 おばさんの死なんてこれっぽっちも悼めない私なんか。
 私の手をもう片方の手で開くように解くと夏帆は私に背を向けた。
「ごめん由依ちゃん、少し外に出ててよ」

 表は木に囲まれているせいか、湿って少し涼しかった。ベンチに腰掛けて足を
組む。
 黒いストッキングは今朝二本も爪に引っかけて駄目にした。スマートフォンに
表示された「カホ」の文字に初めは驚いて、でも出てしまった。久しぶりに聞く
声はかすれていて、それでいてやはり少し高い女の子らしい声で、けれどまさか
おばさんの訃報だとは思わなかった。
 夏帆のお母さん。
 厳しく古風な人で夏帆がほかの子供と遊ぶのにいい顔をしなかった。特に私は
市外からの転入生だったから、得体の知れない気持ちの悪い子だと思っていたら
しい。夏帆はそれでも私のことが大好きだったし、私も夏帆のことが大好きだっ
た。二人で作ったおそろいの白いスカートをはいて、近所の小さな商店で買った
おそろいの髪留めを付けて。私たちの世界は多分二人だけで完成していたし、一
生このままだと、どうしてか信じて疑わなかった。
 そして、私たちは見つかってしまった。夏帆に呼び出されたあの日、そこには
包丁を持ったおばさんがいた。
 今から考えるとおばさんは心の病気だったのだと思う。
 だからといって許せる訳ではなかった。怒り狂ったあのまなざしと、バケモノ、
と叫ぶ恐ろしい声を、いまだに思い出しては震える。怖くて、怖くて、恐怖のあ
まり私は高校卒業と同時に町を出た。夏帆を置いて。
 かつては確かに夏帆を守りたいと思っていた。ブラウスの隙間から見え隠れす
るあざを心から憎んでいたはずだった。二人でいつか自由になれると思っていた。

 どのくらい外にいればいいのか分からなかったけれど多分もういいな、と感じ
た。私たちはこういうところは感じ方が近いから。戻ってきた私に夏帆は笑った。
合っていたみたいだ。

「謝りたくて、呼んだの」
 白い指が棺から一輪、百合を取り上げた。
「あの日ね、私由依ちゃんと結婚式しようって思ってたの」
 うん、私もだよ。
 夏帆は一歩ずつゆっくりと近づいてくる。
「その前の日にお母さんのお葬式ごっこ、したでしょ?」
「でもお葬式が本物じゃなかったから結婚できなかった」
「お母さんが、ごめんね」

 沈黙が落ちた。なぜこの子が謝っているんだろう。一人ぼっちで苦しんでいた
のは夏帆の方なのに。痛みなんて無いみたいに、私の前ではひたすらに笑って。
心までこんなにボロボロになっても、へたくそに笑って。

「あんな人でもやっぱりお母さんだったからね、認めてほしかったんだけどね」
「でも、もう死んじゃったから」

「由依ちゃん、自由になってよ」

 夏帆は私の両手をつかむと百合を握らせ、その上から自分の手を重ねた。
「結婚はできない、由依ちゃんのこと死ぬほど好きだけど。だってもう、わかっ
たでしょう」

「お母さん一人に勝てない私たちなんだもの」

 私たちは手を重ねたまま泣き続けた。互いを抱きしめることもできずに泣き続
けた。
 喪服の黒だけが、ゆがんだ視界のなかで溶け合って流れて行った。



テーマ「薄墨」

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

翡翠の裔

 蟲師アニメ21話のその後を妄想した作品です。独自解釈を含む糞二次創作な
ので、そっと流してやってください。

 鬱蒼とした森の中を、境界を曖昧にさせながら走る一本のけもの道。
 盛夏の焼けるような日差しが木々の隙間から注ぎ、騒がしい蝉の鳴き声が響き
渡っていた。
 踏み固められた黒い土は乾き、そのところどころに岩が露出している。
そんな道中にガラス製の小瓶が一つ、転がっていた。
 誰かが落としていったのだろう。岩に当たり、底にひびが入っている。
 瓶の中には、緑色の塊が封じられていた。
 ひび割れから外に逃れようと不定形の身体を蠢かせている。
 粘菌の類にも見えるそれは、瓶から完全に這い出ると、日差しから逃れるよう
に移動を始めた。
 見た目に合わぬ敏捷さで、あっという間に樹木の根元に空いた洞に滑り込む。
 後には、壊れた空き瓶だけが残された。

  およそ遠しとされしもの
  下等で奇怪
  見慣れた動植物とはまるで違うと思しきもの達
  それら異形の一群を、人は古くから畏れを含み
  いつしか総じて「蟲」と呼んだ
  漆原友紀『蟲師』より

――弟の話をしよう。
 弟と言っても、血は繋がっていない。
 もう何年も前のことだ。猟師をしている父が、冬ごもりを終えてすぐの熊を狩
った。
 その時、近くで泣いている赤子を見つけたのだそうだ。
 父は大層驚いたらしい。多分、不気味にさえ思ったのではないか。
 しかし、母が私を産んでしばらくして他界していたこともあり、父はその赤子
を育てることにしたのだそうだ。
 どこから来たかも分からぬ、名無しの赤子。
 名付けたのは私らしい。まだほんの子供だったから、はっきりとは覚えていな
いのだが。
「この子はワタヒコって名前だよ、だってそう言ってるもん」
 そう主張する私を、父は馬鹿馬鹿しいと笑った。だが、父に他に良い案がある
わけでもない。
 こうして「渉彦」は私の家族になった。
 今も、渉彦は私に手を引かれて夕暮れ時の帰り路を歩いている。
「まったく、あんたもじっとしてないで反抗しなさい」
「無理だよ、姉ちゃん。あいつらの方は人数が多いし」
 もう何度目かのやり取りだ。
 私は足を止めて振り返った。渉彦の顔には、殴られて青黒い痣ができていた。
 もともと私の家は、狩猟を行っていることもあって里の人々との繋がりが弱い。
 ましてや渉彦は得体の知れない拾われっ子で、愛想も悪い。表だった言動はな
くとも、里の人々に煙たがれているのはなんとなく分かる。
 そんな大人たちを見た同年代の子供達から、渉彦は格好の標的にされていた。
 今日は二人で里に下りる用事があり、私が目を離した隙に連れていかれたのだ。
 そうやって散々に虐められていたのに、渉彦の反応は淡泊だった。
 眼窩には、翡翠のように緑がかった瞳の、ガラス玉のように無感情な目玉が、
潤むこともなく収まっている。
「このままじゃ、いつまでもやられっぱなしだよ?」
 里の連中が不気味だと囁くそれも、私には見慣れたものだ。躊躇なくのぞき込
む。
「あいつらだって、殺そうとしてくるわけじゃないよ」
 しかしこいつはピクリとも表情を動かさず、当然のようにそう返してきた。
 まるで自分の身が傷つくことを意に介していないかのような反応。
 私は呆れてしまって、半ば投げやりに言った。
「当たり前でしょ……。もう、次はせめて助けを呼ぶのよ」
 弟はこくり、と頷く。しかし、それが素直な承認の様には思えなかった。
 結局、この生意気な弟には何を言っても無駄なのかもしれない。
 この期に及んで、全く表情を変えない渉彦を見てそう思ってしまう。
 私はため息をひとつ、ついた。


 更に、数年が経った。
 今、家には私一人だ。父は山に狩りに出かけ、渉彦はそれを手伝って同行して
いる。
 渉彦はすくすくと成長し、背が私に追いつく日も近いだろう。
 対称的に、父は最近髪に白いものが混じり始めていた。そして私は、とうに子
供とは言えない年齢になっている。
 もうすぐ……
「そろそろご飯の準備をしなきゃ」
 益体のない物思いを切り上げて、そうつぶやく。
 普段と変わらず、台所に向かおうとした時だった。
「おい、開けろ!」
 突然、家の入口の戸が激しく叩かれ、父の切羽詰まった声が聞こえてきた。
 慌てて扉を開けると、よほど急いでいたのだろう。全身汗だくになった父が立
っていた。
 その背には、ぐったりとした様子の渉彦が背負われていた。
 表情を僅かにしかめ、だらだらと脂汗を流している。
「渉彦!?」
 殴られても表情一つ変えない子なのに。今まで見たことのない程に、弱ってい
た。
「早く医者を呼んで来い!」
 父は渉彦を寝床に寝かせながら、そう命じた。棒立ちだった私は我に返って、
お医者様のいる里に向かって駆け出した。
 夕暮れ時の里は、夕餉を煮炊きする匂いが漂って、どこかのんびりとした雰囲
気で包まれている。
 その中心を走る道を、指先に草履を引っ掛けて駆ける。
 息が荒くなり、乾いたのどから鉄さびのような味が登ってきた。
 里人たちは奇異の視線を向けては来たが、話しかけてはこない。
 ようやく、目的の家にたどり着いた。
 その後、すぐに駆けつけてくれたお医者様が、渉彦の脈や体温を測ったり、眼
球をのぞき込んだりと丁寧に診察をしてくれた。
 そして、父よりも一回り老いた顔に皺を寄せて、首を振る。
「どうですか、先生」
 父が恐る恐る尋ねると、お医者様は重々しく口を開き
「詳しいことは分かりませんが、大分悪いですな。これは。しばらくは持つと思
いますが、少なくとも私にはいかんとも」
 と言って、目を伏せた。
「そんな……」
 茫然としてしまって、それ以上の言葉が出てこない。
 父も口を引き結んで黙りこくっている。
 しばらく、重苦しい静寂の中に渉彦の弱く細い息遣いが響いた。
「痛み止めを処方しましょう。あとは、出来るだけ話しかけてあげるように」
 お医者様が口火を切って、幾ばくかの薬を渡してくれた。
「では、私はこれで。症状が重くなったら、すぐに呼びに来てください」
 薬の使用法を指示して、お医者様は帰っていった。
 残された私たちは、渉彦の身体を拭いてやり、夕食を作った。
「ほら、渉彦。食べられる?」
 お粥を匙に掬い、口元に運ぶ。
 薬が効いたのか、呼吸は比較的穏やかになっていた。むせることもなく食べら
れたようだ。
 それを見届けてから、隣の部屋で自分たちの分を食べ始める。
「俺たちのことは、気にしなくていい」
 突然、父が口を開いた。
「急にどうしたの、父さん」
「できれば、渉彦に俺の後を継いで、この家に居て欲しかったが。それは叶わな
いだろう。だが、お前が残る必要はない」
 有無を言わさぬ様子で、食事を再開しようとする。
「それじゃあ父さんたちはどうするのよ。これから一人で暮らしていくつもり?」
 父は再び手を止めて、
「何とかするさ」
――せっかく、良縁に恵まれたのだからな。
 と呟いた。
 そう、私は近々結納を控えていた。
 相手は里の人だが、他所の家に嫁入りすればそうそう実家の世話をすることも
出来なくなるだろう。
 この家には、老いた父一人が残されることになる。
 しかし碌な土地も持たないこの家を、私一人で支えるなど、どちらにせよ出来
ようがない。
 父はこれで話は終わりだとばかりに、黙々と食事を続けている。
 私が何も言えずに押し黙っていると、誰かが控えめに扉を叩く音がした。
「どちら様ですか?」
 戸の前で尋ねると、おずおずとした声が返ってきた。
「ごめん。夕方、君が医者を呼びに走ってたって噂を聞いたから」
 私の、婚約者の声だ。

「すまない、心配をかけてしまったようだ」
 家に迎え入れた彼に、父はそう言った。
「いえ、もうすぐ家族になる人のことですし」
 彼は恐縮した様子で答えた。
「それで、渉彦君の容態はどうですか?」
「いいとは言えないな。だが、君が心配することはない。それよりも、娘をお願
いします」
 父が頭を下げる。
「そんな、こちらこそ。私も出来るだけの手助けは」
 彼も慌てて返礼した。
「ありがたいことだ。今日は、渉彦に会っていきますか? あれも娘の結婚を喜
んでいましたから」
 そうだったのか。私にはそんな仕草は見せなかった気がするが。彼を紹介した
ときも、これといった反応は見せなかったはずである。
 もっとも、父がそう思っているだけかもしれないが。
「そうですね、ぜひ」
 彼がそう答えたので、二人で渉彦の寝る部屋に入った。
「渉彦、起きてる?」
 僅かに反応する気配がして、続いて体を起こそうと動き始めた。
「渉彦君、無理をしないでいいよ。寝たままで」
 彼が制止すると、諦めたようでおとなしくなる。
「義兄さん」
 弱々しい声が上がった。
「その呼び名は、ちょっと気が早いよ」
 彼は、少し気恥ずかしそうに笑った。
「渉彦、どこか痛いところある?」
「大丈夫だよ、姉さん。随分楽になった。それよか、どうして義兄さんがいるの?

 普段通りの、感情に乏しい目がこちらを見た。なんとなく安心してしまう。
「お医者様を呼んだのを知ったらしくてね。来てくれたんだよ」
「そうなんだ。ありがとう」
 渉彦は彼の方に視線を移す。
「いや、これくらいどうってことないよ」
 呼び名についてはもう指摘しなかった。
「そろそろ帰ろうかな」
 いくつか言葉を交わしてから、彼はそう言った。
「泊まって行かないの?」
 渉彦が尋ねた。確かに、随分夜も更けて、外は真っ暗だ。
「いや、遠慮しとくよ。いろいろと忙しいし。じゃあ、またね」
「うん」
 彼が立ち上がる。
「苦しくなったら呼ぶのよ、薬あげるから」
「分かった」
 私は彼と一緒に部屋を出た。立ち上がろうとする父を制して、家の前の道まで
送っていく。
 家の外に出ると、提灯の明かりを持った彼が尋ねてきた。
「実際のところ、どうなんだ? 渉彦君は」
「かなり、悪いみたい」
 つい、俯いてしまう。
「そうか……。あんまり思い詰めないようにな。お義父さんのこともあるし」
「うん」
 気のない返事をしてしまった。
「元気出してくれよ。普通に話も出来ていたじゃないか」
「うん」
「なあ、もう。そんなに泣かないでくれよ」
「……うん」
 いつの間にか、熱い雫が頬を流れていた。彼は戸惑いながら、私を抱きしめた。
「ごめんなさい。ずっと、一緒だったから」
「ああ、昔から君は弟のことを大切にしてた」
 そう言って、優しく頭を撫でてくれた。けれど、彼の着物に染みを作るほどに
涙はあふれてくる。
「こんなこと言うと、機嫌悪くするかもしれないけど。」
 懐かしむような声が、頭の上から聞こえる。
「最初に渉彦君を見た時は、本当はちょっと怖かった。全然顔が動かなかったか
らさ。けど君に悪く思われたくなくて、黙ってた」
 少し申し訳なさそうな口調が混じっていた。しかし、驚きはしない。
「……知ってたよ。さっきだって、目線があってなかったし、固かった」
 逆に、彼の方が意外そうな声を上げた。
「そんなに分かりやすかったかな」
「うん、すごく」
 しかし、なぜ今そんな話をするのだろうか。
「参ったな。いや、良かったのかも」
 やっと私も落ち着いてきて、しゃくりあげながらも彼の話を聞く。
「ともかく、最初はそんな風に思っていたんだけど。渉彦君を世話している君は
本当に楽しそうだったからさ。いい姉弟だと思って」
「よくわからないよ」
 ただ、私を元気づけようとしているのは分かった。
「ごめん、俺もなんでこんな話しをしだしたか分からなくなった。でも、あのさ、
これからも俺は一緒だから、きっと大丈夫だ」
「……うん、そうだね」
 私は彼からそっと離れた。まだ目は赤くてひどい顔だろうけど、幸い今は真夜
中だ。きっとはっきりとは見えていないだろう。
「じゃあ、また」
 私はそう言って手を振った。彼は地面に置いていた明かりを持って、里の方へ
去っていった。
 その光が見えなくなるまで、待とうと決めた。
 そして、そろそろ家に入ろうかと思った時。
 山の方から、一つの明かりが降りてくるのが見えた。
 私は怖くなって、急いで家の中に入った。
 しかし、暫く経つと戸の外から聞き知らぬ声が聞こえてきた。
「蟲師のギンコと申します。どうか、一晩宿を貸してほしい」

「まさか、こんな所で出会うとはな」
 渉彦が寝かせられている部屋に、一人の男が座っていた。
 この地では珍しい洋装を纏い、白い頭髪と碧眼を持っている。
 先程、ギンコと名乗っていた男だ。
「会いたくなかった」
 渉彦は、にべもなく切り捨てた。
 今、この部屋は二人きりだ。蟲師を名乗ったギンコが、渉彦の治療を申し出た
のだった。
「そう言うなよ」
 ギンコは苦笑いして、煙草をふかしている。
「それで、なぜお前はそれほど成長している。とっくに寿命は終わっているはず
だ」
 一転して、鋭い目つきが渉彦を見据えた。
「僕にも分からない。いつの間にか、僕はこの姿になっていた」
 澱みなく渉彦は答えた。
「確かに通常のヒトタケとは異なるようだな。しかし、お前が人を食う綿吐だと
いう事実は変わらない」
 綿吐――ヒトの胎内で胎児を食らい、本体が産まれると床下などに隠れ、子に成
りすましたヒトタケを宿主のもとに送り込む。そして成長したヒトタケが自らの
種をばら撒く蟲。
 その本体は、緑色のドロドロとした塊だという。
『渉彦』は、それらの一つだ。その容姿は、以前寄生した夫婦に似せたものに過
ぎない。
「お前は人の敵だ。生かしてはおけない」
 緊迫した空気が流れる。
「僕に、種をまく術はない。お前のせいだ」
 渉彦は、かつて自分を蟲師として殺そうとした相手を糾弾した。
「俺のせい?」
「ああ。そうだ。お前が長いこと閉じ込めていたおかげで、種は弱っていた。そ
の上、山奥に落とされたせいで次のヒトも見つからなかった。なんとか近くの雌
熊の胎内に入ったがこのざまだ。僕はおかしくなってしまった」
 そこには、明確な怨嗟が含まれていた。
「僕は熊にはなれなかった。それどころか、元のカタチにすらも。生まれ出た時
からこの姿で、種の残し方も分からない」
 自らの種を残す事。それは、綿吐にとってもっとも大事なことなのに。
 それを阻まれたことに、怒りを感じていた。
「それが本当なら、お前にとっては一番の苦痛だろうな。だが、言っただろう。
どんなことがあろうとも、お前にこれ以上人を食わせるわけにはいかないと」
 しかし、ギンコは断言する。
 どんなに人に似せていても、結局のところ綿吐は人を襲う害蟲だ。その願いを
聞くことなど、出来はしない。
「下手な知恵をつけたな。以前のお前なら、人以外に寄生しようなんざ考えなか
ったはずだ」
 そう、静かに言い放つ。
「確かに僕は失敗した。本当の自分を、忘れてしまった」
 渉彦は悔しそうに述べてから、尋ねた。
「お前は、僕を殺すのか」
「いや。その様子だとどうやら、本当に種を残すことはできないようだからな。
寿命まで生きるといいさ」
 種をばら撒くヒトタケは、成熟すると体表に緑色の染みが現れる。しかし、渉
彦の身体には見当たらない。
「……ああ、そうするよ」
 渉彦は目を閉じた。それを見守っていたギンコが、思い出したように問うた。
「なあ、最後に聞いておきたいんだが、なぜ『ワタヒコ』って名前に拘ったんだ?

 アキという女性のつけた、名前だった。
「……さあな。もう、覚えてもいない」
 渉彦はどうでもいいように、答えた。
 それで、話は終わり。ギンコは渉彦の父親と姉に、自分では治療をできない事
を詫び、早朝には発って行った。

 その後、渉彦は日に日に衰弱していった。そして、姉が祝言を挙げた翌日。
 失踪した。
 すでに立てないほどの状態だったにも関わらず、忽然と姿を消したのだ。
 父親と姉は数日周辺を探し回ったが、見つかることはなかった。
――数か月後、姉が妊娠していると診断された

 昏く、狭いその場所はどろりとした液体に満たされていた。
 その、分厚くなった壁に、非常に小さな球状の塊が付着している。
 いくつもの細胞の集まった胚は、ヒトの一番初めの姿だ。
 それに、伸縮する体で液体内を泳ぎ、近づくものがあった。
 かつてワタヒコと呼ばれていた、綿吐だった。
(死の間際にこうしてもとに戻り、入り込むことが出来た)
 綿吐は思考の中でほくそ笑んだ。
(あの人間に見つかった時は殺されると思ったが、なんとかやりおおせた。われ
われの勝利だ)
 嘘はついていない。あの時の渉彦は本当に種を残す術を失くしていたのだ。
 しかし、こうも思っていた。自らが死滅に直面したとき、本来の姿を取り戻せ
るのではないかと。
 そして、種をまたいで寄生したことも、原因の一つではあっても本質ではない。
 綿吐は、壁の胚に腕を伸ばし、取り込んでいく。
 綿吐が両親に面影の似たヒトタケを作り出せるのは、恐らく宿主の子供を食う
からだ。
 親から子へ受け継がれるものの本質を奪い取り、それに基づいてヒトタケを作
成するのだろう。
(前回は、それに囚われていた。取り込んだはずのものに影響されて、自分自身
を作り変えてしまった。失敗した)
 いくら作り変えたところで、綿吐は人ではない。不完全な身体はその本質を維
持できず、崩壊した。
(今度こそ、完全な綿吐に)
 一つの細胞が溶け落ちて吸収される。
 綿吐はこの子どもの本質的な部分を読み取り……絶望した。
 綿吐の本能が、獲物に致命的な欠陥があることを示していた。
 これでは、ヒトタケを作れない。
(まだ残っているワタヒコのものと混ぜ合わせて……いや、無理だ。間に合わない)
 綿吐には時間がなかった。何しろ一度は死滅しかけているのだ。
 さらに、新たに得たものを馴染ませる時間も必要だった。
(死ぬ、のか)
 すでに体は壊れつつある。あと数分で崩れ去るだろう。
 綿吐はふと、姉の顔を思い出した。世話好きな彼女は、要求しなくても必要な
ものを与えた。おかげで、表情を整える面倒をせずに済んだのだった。
(本当に、都合が良かった。以前寄生した女も、正体を知っても殺さなかった)
 そして、自分を封じた人間の問が浮かぶ。
『なぜ、ワタヒコの名に拘るのか』
(忘れて、しまったな)
 それも、嘘ではなかった。
(細胞一つ一つ、個別に欠損部分を補填すれば、可能性はある、か)
 綿吐は、胚の細胞すべてに腕を伸ばし始めた。


「ねえ、この子の名前、どうしようか」
 とある民家の縁側に、赤子を抱いた母親が座っている。
「ゆっくり考えればいいさ。それより、体は大丈夫か?」
 家の中には、父親が佇んでいた。
「うん。すっかり」
 母親は微笑んで、しかしほんの少しだけ寂しそうな様子だった。
「本当に、この子だけでも無事に生まれてきてくれてよかった」
「ああ、きっと、もう一人が助けてくれたのさ」
 父親が、妻の肩を後ろから抱いた。
「そう、ね。それにしても、この子……」
「どうした?」
 母親は子の顔をじっと見つめてから、首を振った。
「やっぱり気のせいみたい」
 そう言って、笑った。
 赤ん坊の瞳が一瞬、翡翠色の光を反射したような、そんな気がしたのだと。

 終わり



テーマ「翡翠」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

集え、遥かなる山の上

 誰が言ったか、その山は俗に「遥かなる山」とか呼ばれているのである。
 しかし、外から見た限りでは、特に何がすごいこともない、ただ木が繁茂している、普通の山である。
 そんな遥かなる山の中に、今日は二人の男がいたのである。
「ふうー……暑い……」
 この男は、ただ連れてこられただけである。ちなみにこの男は裸眼だ。そして、誰に連れてこられたかといえばそれは、この男の遥か前方を歩いている男に、である。そっちは眼鏡だ。
『おーい! 遅いぞ!』
 暑くて今にもへばってしまいそうな裸眼の男は、遥か前方から降りかかってくるその暢気な声に、ブチギレそうに――なったものの、今しがた横目に見えた看板の文字列があまりにも強烈すぎて、怒気はすぐにどこかへ吹っ飛んでいった。布団のように鮮やかに、吹っ飛んでいった。
 というかこの男、自分がブチギレそうになっていたことなど、刹那の後に忘れてしまっていたのだ。何故かっていえばそれは、やはり横目に見えた、看板の上を踊る単語が強烈だったせいだろう。
 どのくらい強烈だったかといえば、男が歩くことを忘れるくらいには、強烈だったのだろう。男の前方から、眼鏡の男が駆け寄ってきた。
『おい、何そんなところで立ち止まってるんだ?』
「いやさ、あの看板が――」
『お前な、イジボウ工房はもう目の前なんだぜ?』
 超絶きらきらした目で「イジボウ」と眼鏡の男を見て、向き合っている男は盛大に溜息を吐く。異次元の包丁、通称イジボウが欲しいと言って、今しがた目をきらきらさせた男は、今盛大に溜息を吐いた男を引き連れて、遥かなる山を登っているのであった。というのは、世界でただ一人イジボウを作っている職人の工房が、遥かなる山の上にあるからであった。
「いやでも、あの看板、気になるだろ」
『うん?』
 そういって二人が見つめる先には、「異次元の遊園地、この先五メートル」ともこもこした字体で書かれた看板が宙ぶらりんになっていた。
『なっ……あれは、まさか、異次元の遊園地への案内板じゃないか!』
「うん、見れば分かるな」
 瞬間、男は眼鏡の男の平手打ちを頭にモロに食らった。
「痛っ! 何するんだ!」
『ちょっとお前、異次元の遊園地――通称イジユウの凄さを知らないだろ』
「知らないよ」
『聞き捨てならないな! ちょっとこっちに来い!』
「……えっ!?」
 そうして、眼鏡の男は茫然としている裸眼の男の手を引っ掴んで歩き出した。この時点で、眼鏡の男の行動目標は「イジボウの工房へ行く」から「こいつに異次元の遊園地の凄さを理解させる」に変貌したのであった。
 そして、イジユウはすぐに二人の目の前に現れた。
 まず、裸眼の男はその遊園地の入口に付けられた看板に驚愕した。
「おい、看板にイジユウとしか書いてないんだが」
『まあそりゃあ、皆異次元の遊園地の略がイジユウだって知ってるからな。あんな長ったらしい正式名称を書いてやる必要はないのさ』
「皆さんご存知イジユウみたいに言うな! 今日初めて知ったわ、異次元の遊園地なんて!」
『実際、皆さん知ってるんだからしょうがないだろ。君ねえ、無知は罪だぜ』
「シンプルにうざいな」
 言葉でこそうざいとは言ったものの、裸眼の男は眼鏡の男に対して何も感情を抱いてはいない。彼にとっては、この程度のやりとりはもう慣れたものと化していた。まあ、この程度には慣れておかないと色々もたない、ということだ。
「それよりもさあ、看板の、イジユウの字の上の部分にさ」
『おう?』
「小さく、異次元のユデタマゴ同好会プレゼンツって書いてあるよな」
『そりゃあ、そうだろうな』
「え?」
『異次元の遊園地ってのは、異次元のユデタマゴ同好会――通称イジユデ同好会が、異次元のニワトリと異次元のタマゴの凄さを世に伝えるために造った遊園地だからな』
「な、何だって……って、肝心の異次元のユデタマゴの宣伝はしないのか」
『それは、別に異次元のユデタマゴ博物館ってのがあって、そっちでやってるな』
 ここまで聞いて、裸眼の男は軽く頭痛がする思いだった。というか実際、頭の中がこんがらがっていて、頭は痛かった。
 裸眼の男の頭が痛んでいる間に、イジユウの受付ゲートから一人のお姉さんが二人の男の元へ駆け寄ってきていた。裸眼の男はふと目を上げた。駆けてきているお姉さんは、一瞬不思議そうな表情を浮かべた後、一気に顔面蒼白になっていった様子が、裸眼の男には見て取れた。
 お姉さんは二人の男の元へたどり着くと、眼鏡の男に視線を投げながら、こう叫んだ。
「ぶ、ブチョウ!?」
 男の頭にまた一つ、疑問符が生まれる。隣に立つこの眼鏡の男を、部長と呼んだか。
『やあ、久しぶりだね』
 澄ました顔で応対する眼鏡の男を見て、ますます訳が分からなくなっていく裸眼の男。
「え、部長って何さ」
『知らない』
「……えっ!?」
『多分、イジユデ同好会の部長さんと勘違いしてるんだと思う』
「はあ、なるほど」
『ただあの人、年齢が七十超えてるから、間違える要素が無い、気がする』
 またも裸眼の男は頭痛に襲われる。さっきから何なんだという思いからである。
『だがまあ、この状況は利用できるぞ。お前も、今日は俺のことを部長と呼べ』
「は、はあ……」
 部長と呼べ、と言った時の眼鏡の男の目があまりにも真剣なものであるように見えたためか、裸眼の男はとりあえずといった様子で頷いた。
『あと、ジャックパンダにも頼んでくらあ。今日は俺のことを部長と呼べ、ってな』
「……えっと、その人って作者さんだよな? お前のそんな頼み、聞いてくれるのか?」
『大丈夫だ。あいつはいい女だからな』
「は? ジャックパンダさんは男だろ?」
『男だけど、いい女なんだよ……!』
「訳が分からん」
 という会話をしている間に、お姉さんは部長の方に視線を合わせていた。
「本当に直したな、ジャックパンダさん」
『だろ、やっぱりあいつはいい女ってことだな……!』
「ごめんそれはちょっと意味が分からない」
 お姉さんは、部長に向けて言葉を投げる。
「ええと、本日はどのような御用で?」
『えっと、今日はこの人にイジユウの中を案内してあげたいんだ』
 その言葉を聞いた瞬間、お姉さんの表情がぱあっと明るくなる。
「あら、そうでしたか。でしたら、すぐにでもお入りください」
『そうか、ありがとう。ええと、入園料はいくらだったかな?』
「いえいえ、部長からお代をいただくなんて、滅相もない」
『いや、それは悪――』
「お二人合わせて十万円になります」
『お、おう』
 食い気味だったな、と男は思った。まだ部長が台詞を言い終わらない内に額を言って来たな、今。しかも、その金額にびっくりだ。どこかの夢の国もびっくりするだろう。
 特に疑問をもつ様子もなく部長が十万円を支払い、二人は何だかんだでイジユウの中へ入った。そこで男は部長に疑問をぶつける。
「なあ、ここ高くない?」
『そりゃまあ、異次元の遊園地だからな。異次元だったら高くなるのは当たり前だろ』
「それ、騙されてるんじゃ……?」
『阿呆、イジユデ同好会はそんな悪徳商売しねえよっ!』
 突然部長が叫び出す。
『しねえんっ……だよおっ……!』
「あ、ああ、俺が悪かったって。済まない、変なこと言った――」
『ぶえっくしょい! え、今何か言った?』
 急に叫び出した部長に訳が分からないながらも謝ろうとして、顔を見事に露骨にひきつらせた男。
 そして男は、何気なく園内を見回し、本日何度目か分からない驚きを覚えた。何故なら、遊園地というにはあまりにもがらあんとした園内の様子だったからだ。
 アトラクションとして確認できるのは、ジェットコースターらしきもの、メリーゴーランドらしきもの、観覧車らしきもの、その三つのみであった。そこには食べ物が売っている様子さえなく、それ故か人もまばらだった。
「え、えっと、アトラクションが三つしかないですが……」
『ああ、そりゃあ、この遊園地は異次元のニワトリと異次元のタマゴの宣伝のための遊園地だからな。そのための最低限の設備しか置いてないのさ』
 そのせいで人が来てないんじゃあ宣伝も何もあったもんじゃないだろう、と思ったが、その言葉はそっと胸に仕舞った男であった。きっと異次元の遊園地の「異次元」とは、遊園地なのに異次元なレベルでアトラクションが少ないってことだな、とか自己解釈さえ始めていた男であった。
『とりあえず、まずはジェットコースターからだな』
「お、おう?」
 もちろん行列なんて出来ているわけがないので、すぐ乗れた。二人は一番前の席に乗りこんだ。後ろには、一人お爺ちゃんがいるのみだった。
 コースターが、音を立てて坂を上っていく。普通のジェットコースターじゃないか、と男は思った。だが、コースターが坂のてっぺんまで上って、降り始めようという、正にその瞬間。
「こっこおおおおおおおおお!」
 二人の後ろに乗っていたお爺ちゃんがそんな叫び声を上げたのだった。
 男は唖然として、降り始めた時に「わあ」とか「きゃあ」とか叫ぶことを忘れた。それほどまでにお爺ちゃんの叫び声が頭を勢いよくと殴りつけてきたのだ。ちなみに、部長も「こっこおお」と叫んでいたのには男は気付かなかった。もちろん部長の声は、お爺ちゃんほど大声ではなかった。
 ジェットコースターから二人が降りた、そのすぐあと。
「え、何、あの、こっこおとかいう叫び声」
 未だ混乱中という様子で、男は部長に尋ねた。
『ああ、あれは、異次元のニワトリの鳴き声だ。イジユウのコースターでは、叫ぶときには必ずこっこおと叫ぶのが慣習なんだぜ?』
「何だその慣習。ちょっと怖いわ」
『まあ確かに、あのお爺ちゃんの叫び方は尊敬に値するレベルだったな……。あれこそ、真のイジユデ同好会の同志だぜ!』
「へ、へえ……?」
『とか言ってる間に、着いたぞ。メリーゴーランドだ』
「あ、ああ……ああ?」
 男は、そのアトラクションを見て、開いた口が一分くらい塞がらなかった。だって、普通、メリーゴーランドといって想像するのは、プラスチックの煌びやかな馬がいくつもあって、それに乗ってぐるぐる回るものだろうからだ。それに対して、ここは――。
「何でニワトリのメリーゴーランドなんだよっ!」
『阿呆か、あれが異次元のニワトリの尊き御姿じゃねえか!』
「そんなもんどこで分かるって――」
『見な』
 そういって部長は、ニワトリの頭の上の部分を指す。
『とさかが、虹色と金色が混ざったような色をしているだろう?』
「え?」
 男は改めてまじまじと並んでいるニワトリのとさかの部分を見てみる。確かに、それは独特な色をしていたが、どんな色か、までは理解できなかった。いやそもそも、虹色と金色が混ざったような色ってどんな色だ、とさえ思った。
『あのとさかが、異次元のニワトリの目印さ。乗っていくか?』
「いや、何か、いいや」
 この年にもなってメリーゴーランドは、と思ってのことだったが。
『そうか。俺は乗ってくぜ』
「……え?」
 部長は迷いなくずかずかとニワトリに跨り、こっこお、こっこお、こおおこおおとリズミカルに叫びながらぐるぐるその場を三周して戻ってきた。
『ふう、楽しかったぜ。やっぱ、異次元のニワトリの背中から眺める景色は最高だな』
「……そうか、そりゃあよかったな」
 もう何も気にしないことにした男は、さっさか歩いていく。最後のアトラクションである観覧車は、でかでかとイジユウの敷地にそびえていたので、男でも場所がすぐに分かった。いやそもそも、三つしかアトラクションのない遊園地なんて、簡単にそれぞれのアトラクションの位置が分かりそうなものではあるが、それはともかく。
「さて、観覧車なんだが……何だあれ?」
 到着するなり、男は部長に質問を投げつけた。その観覧車が、いわゆる卵型の物体をそこかしこにぶら下げていたからだ。
『この観覧車のゴンドラは、異次元のタマゴをモチーフにしているんだ。形があんな卵型なのは、それが理由さ』
「そうか」
 だんだんこの遊園地について分かってきた気がしなくもない男はさっさとこの遊園地から出ようと、もともとこの遊園地のファンだった部長は、うきうきした気分で、それぞれ違う思いを胸に、スタッフの誘導に従ってゴンドラの中に乗り込む。
 その瞬間、男は絶句した。
 ゴンドラの中の、椅子やら壁やら窓のサッシやらが、おかしな色で塗り固められていたからである。その男の様子を、部長はにこにこしながら眺めていた。普段見慣れない色が視界一杯に入ってきたせいか、男は少し気持ち悪くなってきた。
『どうだ、虹色と銀色が混ざったような色で塗り固められた内装は。美しいだろう?』
 微塵も美しいなどとは思わなかった男だったが、視線で部長に話の先を促す。
『この色は、異次元のタマゴの中身の色なんだ。異次元のタマゴには、普通の卵でいうところの黄身と白身の区別みたいなものはなくてね。異次元のタマゴの中身は、この色一色なのさ』
「えっ、中身が虹色と銀色……?」
 とさかが虹色と金色が混ざったような色で、中身が虹色と銀色が混ざったような色で。異次元のニワトリというのは、随分ゴージャスな雰囲気の色遣いをしているのだなあと、男は思った。ただし、実際にそんな卵を目にしたら、食欲が湧くかは正直微妙であった。
『お前、何ひきつった顔してるんだ』
「えっ、いやあ……すごい色使いなんだなって思って」
『おっ、そうか、分かってくれるか!』
「えっ、いや別にそう言うわけでは」
 男の言葉には耳を貸さず、部長は両手で男の左手を握ると、ぶんぶんと上下に激しく揺らした。
『おめでとう、この色の良さが分かる君は、我々イジユデ同好会の同志だ!』
「えっと……」
『同志になった祝いに一つ、いきますか』
「え?」
 部長が、大きく息を吸う。そして限界まで息を吸ったところで息を止め、ゴンドラの窓に向かって、叫んだ。
『こっこおおおおおおおおお!』
 あまりの光景に男が絶句していると、部長が視線を男に一瞬走らせた。
『何やってんの、お前もやらないと!』
「えっ!?」
『当たり前でしょ、君が同志になった祝いなんだから』
 同志になった覚えなんて、これっぽっちもないんだけどなあと思いながら。それでも、こんな日々も何かいいなと思いながら。
『さあ、いくぞ!』
「はいはい」
 二人分の声が、そのゴンドラの中で木霊した。

   ×   ×   ×

「見込みある若造、ですか?」
 イジユウの受付ゲートで、受付のお姉さんと一人のお爺ちゃんが会話をしている。彼は、さっき部長たちがジェットコースターに乗っていた時、その後ろで思いっきり叫んでいた、正にその人である。
「ああ、あの若造は見込みがある。イジユウのことも、よく知っていたようじゃ」
「そう、ですか……」
「だから、というわけではないんじゃが……あの若造らは、きっとこの後イジボウ工房へ向かうじゃろう」
「まあ、遥かなる山に来たってことは、そうでしょうね」
「工房に取り次いでくれ。手厚く迎えよ、とな」
「……!」
 受付のお姉さんは、絶句した。彼女の目の前にいる人物が、これほどまでに他人を評価し、あまつさえ工房の人たちに「来客を手厚く迎えよ」などと頼むのは、なかなかあることではない。つまりは。
「それほどまでに、見込みがある、ということですか」
 眼鏡に右手を添えながら、受付のお姉さんはお爺ちゃんに問う。その問いに、お爺ちゃんは頷きのみを返した。
「分かり……ました」
「ああ、頼んだぞ」
 ふぉっふぉっふぉ、といかにもな笑い声を上げながら、お爺ちゃんはその場を去ってゆく。受付のお姉さんは、小さくなってゆくその背中に小さく語りかけた。
「一体何を考えているのですか……会長」



テーマ「イジタマの中身の色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

春の夜

 また春が来てしまった。緑が芽吹き、匂い立つ春が。今にも崩れてしまいそうな石橋の上、でぼうっとそんなことを思う。きらきらと輝く水面を眺めていると、世界にはまるで日差しが降り注ぐ明るい昼しか存在していないように思えて、笑ってしまう。私の世界は、白井と出会ったあの日からずっと夜のままなのに。
「こんなところにいたのか松葉、探してたんだぞ」
 後ろから突然声をかけられて、はっと我に返る。振り返るとそこには祐介が呆れた顔をして立っていた。
「十四時に待ち合わせのはずだったろう、なのにいつまで経っても来ないから、またどっかで道草食ってるんだと思って」
 ぼやくような口調で祐介が言う。時計を見ると、長針は優に頂点を過ぎ去っていた。
「ごめん、こんな時間だとは思ってなかったの。少し早く着きそうだったから時間を潰すつもりだったんだけど、思ったより時間が経っていたみたい」
「まあいいさ、お前がそうなのはいつものことだしいい加減俺も慣れたよ。早く行こうぜ。映画、始まっちゃうよ」
 祐介は優しそうに笑いながら、振り返って歩き出す。栗色のゆるくパーマのかかった髪は、白井のそれとは似ても似つかない。祐介は、白井とはまるで正反対の男だ。日焼け止めでも塗っているのか、肌は病的に白く、服もおしゃれなものを上手に着こなしている。
 私が祐介とつきあい始めてから、もう四ヶ月が経つ。彼は白井のことを知らない。私が白井に身も世もなく恋をし、身を窶したことも、私がその恋を永遠に失ったことも、もちろん知らない。
 私が白井と出会ったのは二年前の春だ。彼は名前とは裏腹に、真っ黒な男だった。すりたての墨のような黒髪に、よく焼けた小麦色の肌をしていて、飲み込まれるような黒さの服でいつも全身を包み込んでいた。私が今でも夜に縛り付けられているのは、きっと彼が、黒々とした彼の姿が、あまりにも夜に似ていたからだろう。最後に彼と会ったあの日、彼は月明かりの下、若草が萌える河川敷で一人、何よりも濃い闇を生み出していた。私にとって彼は春の夜の象徴であり、あの風景は楔となって私を春に縛り付けている。
 
 映画はひどく退屈なラブロマンスだった。私と祐介は基本的に趣味が合わない。以前も彼が好きだというバンドのライブに一緒に行ったのだけれど、私にはただヒステリックに騒音をまき散らしているようにしか聞こえず辟易してしまった。
「面白かったね、ラストシーンで思わず泣いちゃったよ、俺」
 笑ってしまいそうになるほど陳腐な感想を述べる祐介。適当に相槌をうちながら、私はもう帰りのことについて考えていた。できれば夜になる前には家に帰ってしまいたかった。春の夜に白井以外の男と二人でいるのは、酷く背徳的なことのような気がしたのだ。夕暮れの並木道を退屈そうな顔をして歩く。私の足どりが重たくなるのに気づいた祐介が不機嫌そうな顔をする。
「また帰りたそうな顔してる。そんなに退屈なの?」
「ごめん、今日はなんか疲れちゃったし解散にしない? 明日も早いし、帰って休みたいなあって」
 彼に嘘を吐くのは何度目だろう。背徳感なんてものを気にしながら、私は誠実とはほど遠い場所にいる。今にも泣き出しそうな気配を漂わせながら祐介が口を開く。
「最近おかしいよ、松葉。さっきだって俺の話、全然聞いてなかったろ。こうやって遊んでてもずっと上の空だし、すぐに家に帰ろうとするし。何か俺に隠してるんじゃないのか――」
 また始まった、彼の悪い癖だ。自分の思う通り行かなくなると、すぐに癇癪を起こして問い詰めてくる。私は何も答えずに歩き続ける。きっと答えられないし、応えられないから。
「何かあるんならはっきり言ってくれよ。それともお前、まさか、浮気なんてしてるんじゃないだろうな」
「浮気? まさかそんなはずないじゃない」   
 思わず振り返って、声を荒げて反論してしまう。ある意味浮気より残酷かもしれない、と密かに思う。彼が白井のことを知ったらどう思うだろうか。泣き出すだろうか。狂ったように暴れ出すだろうか。泣いてしまえばいいのだ、こんな奴。私は別に祐介が嫌いじゃなかった。ただ好きでもない、それだけの話だ。私と彼ではこれ以上先には進めないだろう。行き止まりだ。私はあの夜から抜け出せないのだから。
「じゃあなんなんだよ、最近の態度の変わり様は。どう説明できるんだよ」
 それは春のせいだ、なんてことはとても言えなかった。これは私の問題であって、彼には関係のないことだ。ただ彼が気にしているのは、その関係のないことのように思われた。
「私はいつも通りよ、あなたが気にしすぎなんじゃないの。つきあいが長くなれば、そりゃあ態度も少しは変わってくるものじゃない」
「そりゃそうかもしれないけどさ。そういうことじゃなくて、なんかもっと、根本的な何かが違ってる気がするんだよ」
 心がざらりとした。胸の奥深くを透かし見られたような気がして、とっさに口走ってしまった。
「わからない、私にはそんなつもりはなかったもの。もしそう感じるんだとしたら、きっと私たち、もう――」
 気づいたときにはもう遅かった。祐介の顔色がみるみる変わっていく。初めはりんごのように真っ赤に、そして徐々におしろいを塗ったみたいに真っ白に。
 私は立ち尽くす祐介に背を向け、逃げ出すかのように早足で歩き出した。心がどんどんざらついていく。彼はきっと追いかけてこないだろう。臆病者なのだ、あの男は。そんなところまで白井とは違うんだな、といらだちを覚える。何もかもが白井とは違う男。重なる部分がほとんどないからこそ、彼は不在者の輪郭をよりはっきりと意識させてしまう。嘘みたいな色の夕暮れの中をずんずん進みながら、頭の中で二人の男を見比べてみる。真っ黒な白井。真っ白な祐介。寡黙な白井。饒舌な祐介。決して私を愛さなかった白井。決して私に愛されなかった祐介。二人の間で似通っていることは、私がいなくても生きていけるだろうということだけだった。
 
 いつの間にか頭の中は白井のことでいっぱいになっていた。私は白井の本当の名前すら知らない。ただ彼がそう名乗ったからそう呼んでいただけだ。彼と会えるのは夜中の河川敷だけだった。初めて彼を見つけたあの夜から、私は彼に惹かれていた。二年も前の話だ。私はまだ若く、未熟で、ひどく不機嫌な心を持っていた。だからこそ、退屈な日々を打ち壊してくれそうな存在に溺れていたのかもしれない。毎晩のように家を抜け出し、夜の河原へと駆けていく。真っ暗な闇夜の中で、特に黒く歪んで見える白井の姿を探し出し、他愛ないことを話した。白井は自分から口を開くことは少なかったが、じっと私の話を聞いてくれた。彼がどこに住んでいるのか、こんな夜中に 河川敷で毎晩何をしているのか、私は何も知らなかった。それでもよかった。私は溺れていたかったのだ、幸せな非日常に。直視するのはあまりに眩しすぎる現実から目を逸らして、春の夜に深く沈んでいくのが心地よかった。
 今でも最後に彼と会った日のことをはっきりと思い出せる。ほんの少しだけ欠けた月の下で、彼はいつものように淀んだ黒さでそこにいた。萌える若草の間を抜けた春風が、私たちに覆い被さる。言うべきではなかった。好き、だなんて陳腐な言葉を。聞くべきではなかった。ありがとう、だなんて残酷な返事を。泣きそうなくらい月が綺麗だったので、私はきっと何か勘違いをしてしまったのだろう。ただ溺れていられればそれでよかったのに、春の夜の深淵に手を伸ばしてしまった。届きやしないと、わかっていたはずなのに。
 本当はあの日、未熟な私の春は小さな絶望と共に終わるべきだったのだろう。それなのに私は、絶望から逃げ出してしまった。怖かったのだ。エンドロールが流れ始めてしまうのが。春の夜を終わらせたくない一心で、必死でその場から逃げ出した。卑怯者だ、好きな漫画の最終巻だけ読まなければ、いつまでも物語は続いていくと思っていたのだ。ハッピーエンドを望むあまり、それ以外のエンディングを放棄してしまった。その罰が今の私だ。私は永遠にあの夜に囚われている。再開なんて選択肢はない。もう二度と白井が春の河原に現れることはなかった。

 ふと我に返ると、知らない住宅街を歩いていた。祐介の姿はどこにもない。もう二度と彼と会うこともないかもしれない。後悔はなかった。我ながら酷い話だ。祐介は結局弄ばれただけだった。傷を負った女が、傷をふさぐのに躍起になって、向けられた好意を利用したのだ。自分のことでなければ、どれだけ最低な女なんだと罵っていたことだろう。淡く春の夕闇が漂う街で、ごめんね、なんて独り言ちる。卑怯者だ。結局私はまた逃げ出しただけ。きっとこれから先も、私は色んな人と出会うし、色んな人と並んで歩くだろう。そのたびに私はあの夜を思い出す。絶望的な罰だ。詰まるところ、どこまで進んでも私はあの日に引き戻されてしまう。続きの頁のないあの春の 夜に。
 なにはともあれ家に帰る必要があった。どっぷりと日が暮れゆく街を一人歩く。ぽつりぽつりと家の窓から明かりが溢れ始めていた。元々やってきた方向へ引き返していくと、見覚えのある道にようやく戻ってくることができた。やっと家に帰れそうだ、と安堵して歩き出すと、目の前に不意に男の影が現れる。それがもう二度と会うことはないだろうと覚悟したばかりの祐介だと気づくまでには、少し時間がかかった。
「やっとみつけた。どんどん進んで行っちゃうもんだから見失っちゃってさ」
 いつもと同じ優しそうな笑顔で祐介は言う。心なしか瞳が潤んでいるように見えた。
「あのさ、さっきのは俺が悪かったよ。ごめん、考えなしに酷いこと言って」
 はにかむように祐介が言う。私はどうしたらいいのかわからなくなって、泣き出してしまった。なにが悲しかったのか。それともなにがうれしかったのか。私にはわからなかった。
「泣くことないだろ、ほら、ハンカチ」
「ごめん、ありがとう」
 声にならない声で返事をしながら、若草色のハンカチを受け取る、顔に当てるとそれは春の匂いがした。あの春の夜を思い出す。その罰ですら、私の罪なのではないか。罰を言い訳にして、過去に依存し、心地よい停滞を貪る罪。私はきっとエンドロールに縋り付いていただけなのだ。私にもきっと祐介を愛することができる。白井を愛したのと同じように。春の夜の空を見上げると、ほんの少しだけ欠けた月が、泣きそうなほど綺麗な顔で佇んでいた。



テーマ「若草色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

ツユクサの約束

 あの時もちょうど、こんな空の色をしていた。夕暮れが去った後、夜がやってくるまでのほんの一瞬だけ現れる、明るいけれどもどこか靄がかかったような薄青色。
 宙に向かって覚えたての煙草をくゆらせながら、僕はネクタイを緩めた。盆の日差しをたっぷり蓄えた喪服たちはその程度で大人しくなってはくれなかったけれども、胸元にゆるりと風が流れ込んできた。六年前のあの日よりも、今日はずっと過ごしやすい。
 今日はタマの七回忌だった。マンションのお隣さんだった彼女はなんとも表情の乏しい少女で、喜怒哀楽表現の激しかった僕と足して二で割れば丁度いいのに、と親たちはよく言っていた。正反対故か馬の合った僕たちはよく一緒に遊んでいたが、タマは当時の僕にはよくわからない難しい名前の病気を患って、入退院を繰り返したのちにたった十四歳で居なくなってしまった。

亡くなる前日、タマはお見舞いに来た僕を散歩に連れ出した。陽炎が立ち上るアスファルトの上を、病院の外壁が途切れるところまで並んで歩く間、終始しゃべり倒す俺に対してタマはこくり、こくりと相槌を打つだけだった。いつもそんな調子だったから気にもとめなかったけれども。
『見て、フジマル』
 ほんの百メートルほどの距離をゆっくり時間をかけてのろのろ歩き、それでも遂に病院の端まで来てしまったとき、タマがしゃがみ込んで僕を誘った。彼女の足下には、うなだれた花が一輪。
 空の色と同じだね、と僕が言った。もう夜が来るね、と見上げてタマが返した。
『この花ね、ツユクサっていうの。知ってる?』
『ううん、初めて聞いた』
 彼女はその小さな手で、小さな小さな花を摘み取ると僕に差し出した。ツユクサは夏のけだるげな風に揺られて、僕の手の中で小さく震えた。
『それ、あげる』
 真っ白なワンピースをはためかせて立ち上がったタマは、少しだけ口の端をゆがめて僕に笑いかけた。テレビでお笑い芸人がどんなに面白いことを言っても無表情で手をたたくだけの彼女が笑うなんて珍しすぎて、思わずどうしたのと尋ねた。
『タマ、笑ってる。変だよ』
『私だって笑うよ。ばーか』
 たちまちいつもの仏頂面に戻り、そろそろ戻らなきゃ、とタマは踵を返した。
『じゃあね、また明日』
『大事にしなくていいから』
『え?』
『その花、大事にしなくていいから。じゃあね、フジマル』
 タマはそう言って、振り返らずに病院に戻っていった。
 その日の晩に彼女の容態は急変し、次の日まで保たなかったのだという。夜が明けて僕がその話を聞いた頃には、ツユクサは既に萎れてしまっていた。

 そのときの花は、押し花のしおりにして財布に入れてある。我ながら女々しいとは思ったが、タマとの最期の思い出だからとっておきたかった。
『大事にしなくていいから』
 どうしてタマがあんなことを言ったのか、聞きそびれてしまった。大切にする間もなく萎れてしまったこの花は、どことなくタマに似ていたような気がするけれども。
「フジマル」
 ふと誰かに名前を呼ばれた気がして振り返ったけれども、背後にはアスファルトの路面が延々と続いているだけだ。どこか懐かしいような、それでいて泣きたくなるような、そんな声だ。
「ふーじまる、こっちこっち」
 今度は正面から。バッと目線を戻すと、そこにはツユクサのような薄青色のワンピースから真っ白な手足をニョッキリと出した、小さな女の子が立っていた。六年間忘れられなかった、何度も何度も何度も何度も会いたいと願って会えなかったその少女は、昔と変わらないぷっくりと膨らんだ唇を開いた。
「おひさしぶりです、珠(たま)緒(お)です」
「……タマ」
 紛れもなくタマだ。珠緒というのは彼女の本名で、顔がまん丸で真っ白で、白玉みたいだからタマと呼んでいた。
 しかしありえない。タマは死んだんだ。六年前の今日、確かに息を引き取った。僕は葬式で棺桶の中に花を添えたし、骨になったタマを拾って壺に入れた。なのにどうして、六年前と同じ姿で、どうしてここに。
 思わず手を伸ばして、少女の頬をつねった。肌はなめらかで心地よく、ほっぺたを引っ張ると餅のように伸びた。触れる。あの時のタマと同じ感触だ。続いて自分の頬も思いっきりつねる。痛い。夢じゃない。
「大丈夫、ちゃんと死んでるよ」
 僕の胸中を見透かしたかのように、ニコリともせず彼女は言った。
「今日、私の七周年だったでしょ?」
「七回忌だろ」
「そう、それそれ。だからひさしぶりにフジマルと会いたいなって思って」
「……なんだよ、それ」
 俺がどれだけ会いたいと願っても、一度だって会いに来なかったくせに。
 タマは僕を見上げて、おっきくなったね、と呟いた。当時はほとんど身長差のなかった僕たちだが、今ではタマの頭は僕の肩にも届かない。六年前から時間が止まったままなのだ。
「そうだ、おじさんとおばさんにも知らせなきゃ。多分まだ家で片付けしてるだろうから」
「パパとママ、元気?」
「ああ、元気だよ。さっきは『あの子ったらちゃっかりお盆の初日に亡くなったから、いろいろと纏めてできて楽だわあ』なんて言ってた」
「あの人たちらしいや」
 タマはぼそっと呟いた。
手を引いてタマの家まで連れて行こうとすると、ぺちっと可愛らしい音を立てて僕の手をたたかれた。ふるふると首を振って、か細い声で言う。
「行けないの」
「どうして」
「私が会いに来たのは、フジマルだから」
 彼女のワンピースが空とひとつになって、白く浮かび上がる顔が本当に幽霊みたいだなあ、とぼんやり思った。

 ちょっと話そうか。そう言って彼女は、よっこいしょとかけ声をしながら、土や草がつくのも気にとめず道ばたに腰掛けた。釣られて僕も腰を下ろす。お盆特有の生暖かく気だるい空気が纏った青臭い草の香りに、思わず顔をしかめた。
「どうだった? 私の居ない六年間は」
「そういう言い方、やめろよ」
 思わずきつい口調になると、タマは素直にごめんと頭を下げた。同い年だったはずなのに、自分より一回りも二回りも年下の女の子に頭を下げさせているこの光景はなんだか胸がズキズキする。
「僕は……寂しかったよ、タマが居なくなって。タマほど気の合う友達なんてできなかったし」
「あ、四つ葉のクローバー」
「おい、話聞けよ」
 自分から聞いておきながらさほど興味はなかったのか、タマはぷちんとクローバーを摘み取り、そして何故か四枚ある葉のうちひとつを取ってしまった。
「四って、死を連想させるから嫌だと思わない?」
 そう言って、無理矢理三つ葉にしたクローバーをぽいっと投げ捨てた。タマのその発想が嫌だと思ったけれども、何も言わなかった。するとタマは僕の眉間を、親指でぐいっと押さえつけてきた。
「眉間にしわ。フジマルはすぐ顔に出るね」
「タマが顔に出なさすぎるだけだから」
「うん、ごめん」
「別に、謝られるようなことじゃないから。……タマはさ、何してたの? この六年間」
「そうだね……ずっとふわふわ、かな」
「ふわふわ?」
 タマは立ち上がって、僕の周りをゆらゆらと揺れながら歩いた。そういえば最期にあった日は真っ白なワンピースを着ていたし、タマはこんなワンピースを持っていただろうか。ひらひらはためく布には草のかけらも土くずもついていない。僕は自分のおしりをぱんぱんとはたいて立ち上がった。
「こうやってね、フジマルの周りをつかず離れず、ずーっと見てたの」
「……なんで?」
「なんでだろうね。トイレの中まで丸見えだったよ」
「嘘だろ?」
「嘘だよ、ばーか」
 そう言って彼女は鼻をふんと鳴らした。僕はその白いおでこにデコピンをしてやったけれども、ちっとも赤くなんかならなかった。
「なあ、タマ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「……なんのこと?」
「おまえが大して面白くもない冗談を言うときは、言いたくても言えないことがあるときって決まってるんだよ」
「別に、そういうんじゃないけど」
「幼馴染み舐めんな、六年ぶりだからわからないとでも思ったか」
 タマはしばらくの間何も言わなかった。日は既に隠れていたけれども、夏の暑さはしつこく僕にまとわりついて、僕の首筋にいくつもの滝を作った。タマは汗一つ書かず眉一つ動かさず、僕の顎から落ちた汗が草の上で砕けるのをじっと眺めていた。
「ねえ、フジマル」
「ん?」
「私が何で今更フジマルの前に現れたか、わかる?」
 タマはそう言って、僕の尻ポケットから財布をスッと抜き出して、しおりを取り出した。
「大事にしなくていいって言ったのに」
「大事にするに決まってるだろ!」
 タマから最期にもらった思い出なのに。こんなに小さくても、萎れていても、タマを思い出す縁だったのに。捨てられる訳なんてないのに。
 半ばひったくるようにしおりを取り返し胸ポケットに入れると、タマは返してと言いながら再び奪おうとしてきた。返しても何もこれは僕のだ。
「タマが僕にくれたんじゃないか! だから大事にしてたのに」
「大事にしちゃだめなの!」
 ビクッとして一歩後ずさると、僕の足下で蛙が抗議をするように一声あげて跳ねていった。タマが声を荒らげるのを、初めて聞いたかもしれない。肩で息をしている彼女の唇は、わなわなと震えていた。
「フジマルのことだから、どうせツユクサのことなんて何にも調べてないんでしょう」
「……どういうこと?」
「忘れて欲しかったの」
 タマはうつむいて僕の胸を力なくたたいた。緩く握ったこぶしは本当に小さくて、とすんと軽い音を立てて滑り落ちていった。
「ツユクサはね、昔染料として使われていたの。きれいな青が出るからね。でもツユクサを使って染めた着物はすぐ水で色落ちしちゃうから、心移りや儚さを表すんだって。だから、だから……私のことなんてさっさと忘れて、私との思い出なんてさっさと捨ててって意味だったの!」
「んなことわかるわけないだろ! 中学生だったんだぞ!」
「それはフジマルが馬鹿だからでしょ!」
 とすん、とすんとたたき続けるタマの薄い肩が小さく震えているのが痛々しかった。タマを右腕で抱き寄せると、片腕で身体全体をすっぽりと抱えられるほど小柄で、驚くほどひんやりとしていた。
「ごめん」
「……言えなかったの」
「うん」
「本当は覚えていて欲しかったの」
「うん」
「でも、忘れられなきゃ駄目なの」
「なんで?」
「そうしなきゃ、フジマルは前に進めないでしょ?」
 空いた左腕で頭を撫でると、タマは盛大に僕のワイシャツで鼻をかんだ。派手な音がした割に、シャツがしめったり粘液まみれになる感触はなかった。それがいやに腹が立った。
「毎年命日にはお墓参りに来るし、捨てて欲しかったツユクサは大事に持ってくれちゃってるし、しょっちゅう私の夢見て泣いてるし」
「待って、最後のはしてないんだけど」
「ほんとに?」
「……たまにだけだから」
 タマは僕を恨めしげににらみつけて、唇だけでばーかと言った。そっと指で涙をすくい上げると、また新たな大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「私が、どんな思いで」
「うん」
「あの日、フジマルに言ったか……っ」
「うん」
「死んだ人のことなんか、いつまでも引きずらないで。私のことなんか忘れて明るく暮らしてよ。もう二十歳でしょ。大人になったんだから、踏ん切りつけてよ。……私、心配で成仏もできないんだよ」
「ん、ごめんな」
 とんとんとあやすように背中をたたいていると、タマはだいぶ落ち着いてきたようで、ゆっくり息をしながら僕の胸から顔を離した。涙と鼻水でぐずぐずになっていたけれども、いつもの無表情に戻ってしまっていて、なんだかちょっと惜しい気がした。
「だから、ちゃんとお別れしよう、フジマル」
いつの間にか空は藍色へと移りつつあって、僕の影が姿を朧にしていく。タマの足下に、影はない。
「夜が明けたら、フジマルはもう私のことなんか忘れるの。新しい友達を作って、彼女とかも作っちゃったりするのかな、とにかく前へ進むの。過去なんか振り返らなくていいから。フジマルが幸せになるのが、私の幸せ」
「……嫌だと言ったら?」
 タマは何も答えなかった。ただ無表情のまま僕を見つめ返した。こうなったらタマは頑固だ、てこでも意志を曲げようとしない。
「……わかったよ。タマがそうしろって言うなら、そうする。だけどお願い、これだけ持たせて」
 僕はポケットの上からしおりを押さえた。押し花にしたツユクサは、色落ちすることなくずっと僕に寄り添い続けてきた。だからこれからも、きっと。
「忘れないで、タマ。僕が忘れても、君は僕のことを」
 タマは、六年前のあの人同じように、ほんの少しだけ笑った。


 ふと気がつくと、僕は道ばたで立ち尽くしていた。やけに暑苦しい喪服のような格好で、その上汗だくで気持ち悪いことこの上ない。汗をぬぐおうとハンカチを探してポケットをまさぐっていたとき、胸元でカサリと小さな音がした。見ると、薄青色の小さな押し花のしおりがほんのりと熱を持って入っていた。
 なんだったかな、この花の名前は。知っているはずなんだけれども、喉元まで出かかっているようでどうしても思い出せない。まあ、思い出せないと言うことはその程度のものだったということなのだろう。
 さあっと一陣の風が吹き抜けて、僕の手からしおりを攫っていった。慌てて宙に手を伸ばすと、山の端から一筋の光が差し込んできた。
 朝はきっと、もうすぐそこまできている。



テーマ「つゆくさ色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

着せ替え人形

 もう一週間たったのか。
 空虚な部屋に鳴り響いたチャイムに目を覚ましたケイは、まず思った。
 週に一度くる宅配便は、ケイに時間の経過を思い出させる。
 ケイの部屋の時計はいつも同じ時間をさしている。いつ止まったのかは覚えていない。昼に起きようと、夜に起きようと、ケイにとっては同じことだった。起きてしまったことだけが、彼女にとって意味のあることだった。
 今日もまた目覚めてしまった。
 いつから始まったかわからない長い睡眠から覚めるたびに思う。いつになればこの人生は終わるのだろうか。この怠惰な時間は、いつまで続いていくのだろうか。
 墓場から起き上がる死体のように重い体をフローリングの床から引き離す。長い黒髪が床を滑る。片膝を立てて座り、だらりと垂れ下がった髪をかきあげる。
 部屋は、ほとんど家具がない。冷蔵庫と鏡台。たったそれだけだ。ベッドさえない。ケイはいつも、動けなくなるまでジンを飲み、床の上で死んだように眠る。彼女にとって自分の体はただの物質に過ぎなかった。いくら体が痛くなっても、気にも留めない。どうでもよいのだ。
 ケイは立ち上がり、転がっている空き瓶を蹴飛ばし道を作った。
 玄関を開けると、外の明るさに目がくらむ。配達員の指し示す枠に須藤、とサインを書く。荷物を送ってくる男の苗字だ。
 荷物の中身は、一日分の服と、一週間分のジンと水と開ければすぐ食べられるようなものが少し。須藤の好みと、ケイの要求で、この毎週の物資は決められている。
 荷物を玄関に放置し、ケイは服を着たままシャワールームに入る。蛇口をひねると勢いよく水が流れてきた。まだ冷たい水を頭のてっぺんから浴びながら体に張り付いてくる服を、一枚ずつ足元に落としてゆく。ろくな食事を取らないケイの体は華奢だ。すべてを脱ぎ切るとあたたかくなりかけた水を止め、頭を振る。水を含んだケイの黒髪はよくしなって滴をまき散らす。
 足元の服を着に留めず、ケイは全身を泡立てた。
 髪の毛も体もシャボンだらけだ。そしてケイから落ちた泡は脱ぎ捨てられた服の上にたまっている。
 そしてまた蛇口をひねりすべて洗い流す。
 シャワールームから出たケイは髪の毛を乾かし終わっても服を着ない。長い黒髪のみをまとって、大きなゴミ袋に、瓶もペットボトルもシャワールームにある水浸しの服も入れてゆく。袋の口を縛り、届いた段ボールの隣に置くと、物の無い部屋は空っぽの箱のようになった。
 荷物を封じているガムテープを引きはがし、箱を開ける。
 一番上に黒いワンピースと下着、ワインレッドのハイヒールが乗っている。
 順に身に着けてゆく。どれもケイの体にぴったりだ。ハイヒールも、足になじむ。コツコツと音を立てながら鏡台へ歩き、全身を確認する。送られてきた洋服に合わせてメイクをするのだ。
 須藤が選んだ服をメイクもネイルも併せて完璧に着ること。それがケイの生活を維持する須藤との交換条件なのだ。
 須藤と出会ったのはケイがまだ働いていたころだ。厳しい職場に精神を蝕まれ、逃げるようにバーへ入り浸っているときに声をかけられた。須藤の第一印象は余裕のある大人。決して整った顔なわけではないけれど、数十年世の中を渡ってきた、自信をにじませる味のある顔をしていた。須藤は一人でカウンターに座っていたケイに声をかけ、ケイが疲れて眠ってしまうまでずっと話を聞いていてやった。そして、寝ている間ずっと隣で飲んでいて、目を覚ましたケイをまるで捨て猫を拾うかのように家まで連れ帰ったのだ。
 須藤はアパレルの会社を経営していた。ケイに会社を辞めるよう勧め、生活費の心配はいらないから、と交換条件を提示してきたのだ。
 誰でもいいから逃げ場が欲しかったケイはすぐさまそれに飛びついた。
 社宅に住んでいたケイのために須藤は部屋を借り、五十万円を渡した。必要な家具はこれで買いそろえるように、と。そして毎月決まった額を生活費として振り込んだ。
 しかし当時のケイはお金をおろすことさえ面倒で、どんどんやつれていった。そこで、見かねた須藤が服とともに物資を送ってくれるようになったのだ。
 須藤にとってケイは、金のかかる着せ替え人形なのだ。
 須藤がそろえてくれたメイク道具を鏡台の上に並べる。化粧水をはたきこみ、下地クリームを広げる。順々に塗ったり描いたり、色味に気を付けながら服に合わせた顔を作っていく。口紅以外が、出来上がったところで、今度はマニキュアを塗り始める。色は靴に合わせた深い赤。
 爪が乾くまでの時間、ケイはただ座り込んでいた。何をするわけでも、考えるわけでもなく、ただ過ぎ行く時間を見送っていた。
 マニキュアの表面を触っても跡がつかなくなると、ケイは再び鏡台の前に行き、口紅を手に取った。唇に乗せると、鮮やかに色づく。
 最近のケイは、この紅色のものばかり使っている。
 ワンピースとともに入れられていた小さなバッグに口紅を放り込み、玄関を出た。
 外はまだ明るい。
 ケイは一週間ぶりの外気にくらくらしながら、須藤と出会ったバーへ歩く。須藤が来るのはいつも夜遅くだが、ケイは夕方からバーに座る。
「いらっしゃい」
 扉を開けるケイの姿を見つけると、マスターが微笑みながら声をかけた。須藤よりは少し若い彼は、須藤に負けないくらい落ち着いて見える。
 ケイは定位置でもある、扉から離れたカウンターの端に腰かけた。
 ケイの正面ではバーテンダーが道具を磨いている。ケイの好きな顔立ちをした三十過ぎの男だ。薄い唇がケイに向かって笑みを作る。
「今日は、何を?」
 かすれ気味の低い声にケイは紅の口角をあげる。切れ長の鋭い視線を受け止めて、先週ぶりの声を出した。
「紅の色を」
「かしこまりました」
 バーテンダーはすっかりケイの好みを覚えていて、抽象的な注文をしても、的確に作ってくれる。ケイはいつも、リキュールをはかっていく手を見つめる。長く細い指が優雅に動いていく様はいくら見ていても飽きることはない。
「どうぞ」
 爪の先まで美しい手を持つバーテンダーは、カクテルの名前を告げながら、カウンターの上を滑らすようにグラスを差し出した。
「ありがとう」
 カウンターの中に戻っていく手を惜しみながらも、ケイは視線をバーテンダーの顔に戻した。
「相変わらず紅のグラスが似合う手ね」
「ありがとうございます」
「とても色っぽいわ」
 ケイの言葉に、まるで仮面を付けているかのよう思えるほど整った笑みを浮かべる。
「ケイさんも、本当に紅色が似合っていらっしゃいます」
 ケイと、バーテンダーは、毎週同じ会話を繰り返し、互いに作りこまれた笑みを交わし合う。変わるのは出される紅のカクテルと、ケイのファッション。
 ケイとバーテンダーはほとんど話さない。ケイは無言でバーテンダーを観察し、バーテンダーはケイの視線を気にせず動いている。
 魅力的な横顔や首、肩や手などを眺めるのに飽きると、ケイは店の客を誘い始める。
 とはいえ、自分で声をかけることはしない。ただターゲットに微笑みかけるのだ。艶のある黒髪を揺らし、紅の唇を妖艶にゆがめながら。男女問わず、その微笑みに引き寄せられる人間は多い。
 作り物の笑顔を浮かべたケイの隣で、人々は道化になり、須藤が来るまでの時間を埋める。
 須藤は店につくと、苦笑しながらケイの相手を丁寧に除けて、ケイの隣に腰かけるのだ。
 いくら須藤が呆れようとも、ケイは自分の魅力を確かめるかのように、微笑みかけることをやめない。
 今日も、須藤が店につく頃にはケイの隣は若い男が陣取っていた。
「ケイ」
 低くはないがよく通る声で須藤が呼ぶと、ケイは美しく笑った。
「済まない。場所を代わってもらえるか」
 須藤は男に声をかけ、カウンターの椅子に腰かける。須藤はまず、ケイの全身を眺めた。
「相変わらず黒い服がよく似合う子だね」
「ありがとう」
「とてもきれいだ」
 毎週送る荷物のことや、買い足さなければならないものがあるかなど、ケイの生活状況を確認すると、須藤は自社の服を眺めながらゆっくりと酒を楽しむ。
 その間、ケイは須藤を眺めていた。くっきりとした二重。滑らかだけど少しくたびれた肌に浮かぶ皺。しっかりと主張する鼻筋。厚みのある肩。筋張った手。手首には重そうな腕時計がついている。
 ケイは須藤を観察してはバーテンダーと見比べ、バーテンダーを観察しては須藤と見比べた。何度も何度も、同じことを繰り返した。
 しばらくすると、須藤は腕時計を確認し時間にせかされるように立ち上がった。自分とケイの勘定を済ませ、ケイに一万円を持たせる。
「じゃあ、また来週」
 片手をあげてバーの扉の向こうへ消えていく。
 ケイは微笑みながら須藤を見送ると、渡されたお札をカウンターの上に放ったまま椅子から降りた。
「お帰りですか」
 バーテンダーが声をかけた。
「ええ」
 須藤が帰ったならば、ケイにはもうここで飲み続ける理由はない。バーテンダーに完成された微笑みを送る。
「ケイさんの微笑みには、本当に紅がよく似合いますね」
 バーテンダーはすべてを見透かして笑った。
「須藤に言われなきゃ意味ないわ」
 ケイも自虐的に笑い返す。
 ケイをただの着せ替え人形としてみている須藤は、服に似合う女としてしか褒めることをしない。
 まだ来週が来てしまうのならば、ケイに唯一残っているプライドのため、バーテンダーに一番魅力的だといわれた色で唇を染め続ける。



テーマ「紅」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

月に祈りを

 ああ、やってしまった。同じことを何回繰り返せばおれは反省するのだろうか。いや、反省はしている。今も反省はしている。ただ、それが次に反映されないというだけ。むしゃくしゃして、気分が落ち着かない。
 こういうときは町の小高い丘に位置するある建物を目指して歩く。周囲に人の気配はなく、静まりかえっている中、青白い満月だけがやかましい。どこに行ってもつきまとってきてうんざりだ。
 目的の場所に到着した。屋根に大きな白い十字架がついているのが特徴的な建物、つまり教会だ。でも正面からは入らず、裏口から入る。正面から入るのは敬虔な信者達で、おれみたいなやつが正面から入るには恐れ多い。まあ、単にこんな夜更けに教会に入ること自体が神聖なものを冒す背徳的な感じがして正面から入りにくいってのが本音だ。
 裏口のドアを開け、中に足を踏み入れると、静謐な空気が身体に染み渡っていく。誰も居ないと確信したおれはそのまま前に進み木製のベンチに座ろうとした。が、歩いているとき人影が目端に写った。人影の正体を見ようとそちらへ顔を向けると、そこには女性が正座をして祈りを捧げていた。
 おれはすっかり彼女のその姿に見惚れてしまった。
 月光が教会のステンドグラスを透過して彼女を淡くライトアップしている。大きな十字架の前に跪き、頭を垂れ、胸の前で指を力強く組むその姿があまりにも人とは思えないほどに美しく儚げで触れるどころか近づくことすら禁忌であるかのように感じる。長く縁取られた睫毛、引き締められた唇。簡素な麻のワンピースを着て、月光を浴びる薄い金色の髪は秋の稲穂を連想させ、まるで稲の女神だ。
 一人になりたくて丘の上の教会に来たが僥倖だった。だってこんなものそうそう見れるものじゃない。
 このまま引き返すのはあまりにもったいないが、かと言って声をかけるのも論外だ。とりあえず、前から二列目の中央通路寄りの木製ベンチに腰掛ける。手持ち無沙汰だから指を組んで頭を垂れ彼女のまねをした。別に信心深くないがすることもない。
 頭を垂れていて気づいたが、この姿勢は気持ちが安らぐ。自分に素直になっているのが分かる。自分は今、さっきしでかした過ちを悔いている。ああ、次こそ、この反省を生かせるように――。
「――もし、聞こえてますか?」
 鈴を思わせるような声が耳朶を打つ。ゆっくりと目を開けると、そこには先ほどまで祈りを捧げていた少女の顔があった。翡翠色の大きな瞳がおれを捉えている。あまりに距離が近く後ずさろうとしたがベンチがそれを阻む。心臓が高鳴ってうるさい。言葉を発することができない。
「あのー、さすがに無視されると傷つくんですけど……」
 伏し目がちにそんなことを言われて慌てふためいてしまう。
「あ、ああ、すまない。少し考え事をしていたのと、その、距離が近くてびっくりしていたというか……」
「ご、ごめんなさい! すぐに離れますね」
 彼女が少し遠ざかってしまったことを後悔する。彼女は通路を挟んだ向こう側のベンチに腰掛け、問いかけてくる。
「ところで先ほど言っていた考え事とはいったい何ですか? あ、詮索するつもりなんてありませんよ。言いたくなければ言わなくて構わないです」
 両手を左右に振りながら話す彼女。動作がいちいち可愛らしいなこの人。
 まあ、考え事に関しては話すことはできない。特に自分のような臆病者の考えなど話すようなことじゃない。でも話さなければ何かやましいことだと憶測されるだろう。……でっち上げるか。
「しょうもないことですよ。昨日妹と喧嘩したから、どうやって機嫌を取り戻すか考えていたんです」
 大嘘だ。自分に妹なんていない。
 だが彼女はそれを信じたようで、怒っているような泣いているような悲しんでいるような顔を順に見せる。百面相の最後に柔らかな微笑みをたたえて、「妹思いなんですね」と。
 思わず、はい? と声が漏れてしまった。今のを聞いてどうしてそんな言葉が出てくるんだ。意味が分からない。
 俺が首を捻っていると、彼女が説明してくれた。
「だって、そうじゃなかったら喧嘩した後、機嫌をとって仲直りしようなんて考えないですよ。あなたが妹思いの優しい方だから、そういう考えができるのですよ」
「そういうポジティブな考え方ができるのも君ぐらいなものだと思いますけどね。普通は情けないって思いますよ」
「そんな普通、私は知りませんから」
 彼女は慈愛に満ちた笑顔で、そう言い放った。
 その笑顔を見ていると、嘘をついたことが申し訳なくて、情けなくて。
「……優しい、ね。おれは君が思うような優しい人間じゃないですよ」
「あなたがどういう人間かは他者が見て判断するものです」
「そういうものですか」
「そういうものなのです」
 ああ……彼女の生きる世界はおれには眩しい。でもその世界に住んでみたいという憧憬を抱いているのも確かだ。……いつかそちらの世界に行くことが出来るだろうか。
 そんなことを考えていると、彼女の「そういえば」という言葉と共にぱんっと音がした。彼女が手のひらを打ち合わせたみたいだ。そしてそのまま身体を斜めに傾け、下から覗き込むようにして尋ねてきた。
「あなたの名前はなんて言うのですか?」
 さっきまでの憧憬を振り切り気持ちを切り替えて答える。
「リオン。おれの名前はリオン。君はなんていう名前なのかな?」
「私はルルウェル。ルルと呼んでください」
「ルルか。分かった」
 忘れないように頭の中で反芻させる。心に刻んだ後、ルルに疑問に思っていたことを聞いてみた。
「そういえば、ルルはなんでこんな時間に教会に?」
「いつもの祈祷の時間だからです」
「いつもってことは毎日夜遅くに祈りを捧げているのですか? 親は心配しないのですか?」
「両親は私が生まれてすぐに私を教会に置いて出て行きました。司祭様が親代わりに私をここで育ててくれたから、私は今を生きているのです」
 両親のことを話している時、少し顔が悲しげだったが、すぐに笑顔に戻った。
「そうだったのですか……。嫌なこと聞いてしまってすみません」
「気にしなくていいですよ。それよりリオン君は時間大丈夫ですか?」
 ここは彼女の家でもあるのだからいつまでも居座るのは彼女に迷惑だろう。でも彼女との時間を今日だけで終わらせるのは悲しいから、期待を込めて尋ねた。
「さすがにそろそろ帰った方がいいかな……。また、ここに来てもいいかな?」
 それに対して彼女は「もちろん! 大歓迎ですっ!」と満面の笑顔で答えてくれた。嬉しい。その気持ちで満たされた。その気分のまま、彼女に別れを告げ軽い足取りで家路につく。月が帰り道を明るく照らしてくれていた。

 *  *  *

 その日以降、夜間になると教会へ足繁く通うようになった。雨の日も風が強い日も。さすがに最初は何日かおきに行っていたが、半年が経った今ではほぼ毎日だ。
 目的はもちろん、ルルだ。ルルと話していると気持ちが落ち着いて楽になる。
 いつもと同じ時間に教会に向かって歩き出す。今夜はどんよりとした重苦しい雲が空にのしかかっている。
 
 いつも通り裏口から入ろうとしたが、今日は一時間早く来たことだし、正面入り口から入ることにした。ドアを開けようと、取っ手を握ると何か話し声が聞こえた。聞こえる声は二つ。一つはしわがれた老人の声、もう一つは鈴の音のようなルルの声。なんとなく中に立ち入るのが躊躇われて、その場で耳を澄ませる。
「ねえ、お父様。どうしてもそこに行かないとだめなの?」
「ああ。もうこれは決定事項だ。覆すことはできない。……なあに、ルルは私の自慢の娘だ。不安に思うことはない。立派にやれるさ。」
「でもだからって、知らない人と結婚だなんて……」
 え? 今、なんて……?
 ぽつぽつと雨が降り始める。
「隣町の貴族の嫡子がルルに一目惚れをして、結婚をしたいって申し出が届けられたんだ。こんな名誉なことはないぞ」
「だからって、私に確認も取らずに話を進めるなんて……」
「私はお前の幸せを思ってそうしたんだ。今まで一つも浮いた話を聞かないお前の将来を心配してるんだ。それにもう決まったことだ。今更、何か言ったって無駄さ。三日後にお前を迎えに遣いの者を寄越すと言っていたからそれまでに支度をしなさい」
 そう言って司祭の老人の足音が遠ざかる。すすり泣くルルの声が聞こえる。けれど、おれにはこの扉を開けることができなかった。ドアの取っ手を握る力が抜け、情けなく腰を抜かし、天を仰ぐ。雨が目に入り頬を伝って落ちていく。
 あと三日。彼女との時間はたったそれだけ。それを理解してなお、自分はここから動くことが出来なかった。動くことが怖かった。
 ――どうか神様、ルルを遠くに連れ去らないでください。ルルを遠くに行かせないでください。
 この半年で習慣化してしまった祈りの姿勢。それは斬首される罪人の姿勢と似ていて。このまま祈るだけだと、首を斬られるのを待っているのと何も変わらない。
 ああ、そうだ……。ここで初めてルルと出会った時、おれは反省を次に生かせるようになると誓った。自分は何もせずに周りがどうにかしてくれる、こんな甘ったれたことを止めると誓ったのではないか。なのに、このていたらくはなんだ。半年前となにも変わっていないじゃないか。変わると誓ったのなら、変わってみせろ。今こそ、まさにその時じゃないか。まずはこの扉を開けることから――。

「ルルッ!」

 開けることが出来た。声を出せた。彼女の名を呼べた。
 そのことに自分でも驚いたが、ルルはもっと驚いた顔をしていた。泣き顔を見られたくないと思ったのか、顔を背ける。
「こっちにこないで!」
 叫ぶルルを無視して、雨に濡れた身体でルルの元へ歩み寄る。泥の靴跡が神聖な教会を汚す。ルルの前に立ち止まり、手を差し出す。
「おれと一緒に来てくれ」
 返事がない。……諦めたら何も変わらない。返事がないならもっと呼びかければいい……!
「おれの側にいてくれ、ルル!」
「……さっきの話、聞いてたの……?」
「ああ。何かルルの話し声が聞こえたから、聞き耳を立ててしまった。すまない」
 沈黙。今はルルの言葉を待つ。
「話を聞いてたなら分かるでしょ。もうどうしようもないの」
 震える声を賢明に抑えようとするが、それは噴火寸前の火山のようだ。
「ルルは本当にそれでいいのか?」
「いいわけないでしょ! でもしょうがないじゃない!!」
 爆発。金色の髪をかきむしり、両腕を振り下ろして怒りと諦観を露わにする。
「しょうがないなんてことはない! いいからおれについてこい、ルルウェル!!」
 彼女の手を引っ張り、身体を抱きとめる。軽い。けどそこに居る。熱い。そこにルルがいる証。顔と顔がくっつきそうなほどの距離。ルルの潤んだ大きな翡翠色の瞳がおれを捉える。月光が二人をライトアップする。
「リオン……私、諦めなくていいの……? あなたと歩む道を選んでもいいの?」
「ああ、諦めなくていい。諦めるという言葉は、君には似合わない」
 どちらともなく目を瞑り、顔を近づける。唇が重なる。とても熱くてちょっとしょっぱい味がした。唇を離し、二人の間に垂れる糸。目を開けると、紅潮したルルの顔。そんなルルを見てるとこっちまで照れくさくて、つい笑ってしまう。ルルもつられて笑顔になる。

 ひとしきり笑った後、ふと思い出したことがある。些細なことかもしれないがこれから人生を共にする上で隠していたことは明かした方がいいだろう。
「そういえば、ルルに謝らないといけないことがあるんだ」
「ん? なあに?」
 小首を傾げるルルの姿は可憐だ。いやそれは置いといて。
「初めて出会った日のことを覚えているかい? その日、実は嘘をついていたことがあって……」
「ああ、もしかして妹がいるっていうのが嘘だってこと?」
 開いた口がふさがらない。たぶん、今過去最高にみっともない顔をしているだろう。
「ど、どうしてそれを……?」
「だって、その日以来妹の話を一度たりともしなかったんだもの。両親の話とかは何回かしたのに、ね」
「嘘を隠し続けてごめんなさい」
「今回は特別に許してあげる。でももし次、嘘をついたら針を千本飲ませるからね」
 笑いながら平然と恐ろしいことを告げるルル。あの目はたぶん本気だ。無言で首を縦に振らざるをえない。
「ねえ、私からも一つ言いたいことがあるんだけど……」
「なんだい?」
「今まで育ててくれたお父様に恩を仇で返すようなまねはしたくないの。だからきちんと、お父様に説明をして貴族の方との縁談を破棄したいの」
 真剣な顔で決意を表すルル。
「ああ。それはおれもそうしようと考えていた」
 駆け落ちするよりも、そちらの方が後々厄介事が少ないだろうしね。
 めんどうくさいことも起きるだろうが、それは仕方ないと割り切るしかない。何かあれば、周りの人を頼ればいいんだ。自分たちだけでなんとかしようと思う必要はない。

 お互い、言いたいことはもう言った。だったら後はいつもと同じように祈りを捧げよう。地面に跪き、頭を垂れ、胸の前で指を組む。祈りを捧げ、愛を誓うルルとリオンを月が祝福し、これからの未来を優しげに照らし出す。



テーマ「月白」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

邪神VS自動ドア

「なあ、しゅんちゃん。オレの特技って知ってるか?」
「は?」
 弁当をつつく俺の眼の前で意気揚々と尋ねてくるのは同じクラスの沢口康平。今年初めて同じクラスになっただけなのに、なんだか懐かれてしまった。高二になってまでこっぱずかしいあだ名で呼ばれ、文脈もない話を振られ、その他色々散々な目にあわされている。
 けれど、大っぴらにうざったがるわけもいかず、クラスの中でもいつの間にか仲良しとしてくくられてしまった。
 幼いころのアクティブさは年を取るごとに減っていき、今では地味に、平穏に人生を乗り切りたいと思っている俺としては、物静かな友人と穏やかな毎日を送りたかったというのに。沢口が近くにいると、物静かな友人候補はどんどん遠ざかっていってしまうのだ。個人的には厄病神の一種だと思っている。
「そうか、まだ披露していなかったか」
「はぁ…」
 曖昧な相槌を自分の都合のいいように解釈した沢口は、ここぞとばかりに胸を張った。
 ちなみに俺はこいつの特技なんて一切興味ない。
「よし、今から見せてやろう!」
「おい、待てよ。俺は昼飯を食べるんだ」
「大丈夫だ。十分あれば十分だからな。あ、ちなみに漢字的なオヤジギャグは狙ってないぞ!」
 つっこんでもいないとこを自分で補足しちゃうあたり、沢口のイタさがよくわかる。箸を持ったままの右手を引っ張られ、食べ物の匂いが詰まった教室を出る羽目になるなんて、今日も相変わらず悲惨な日だ。
「よし、しゅんちゃんはここで見ててくれ。オレに近づいちゃダメだぞ!」
 来客用の玄関に連れてこられ、靴箱の前に配置される。弁当用の箸を持って、オヤジどもの革靴の近くに立たされ、どうでもよすぎる沢口の特技を見せられるなんて、いつも通りヒドイ。
 もうすっかり見慣れてしまった、根拠不明の自信に満ちている沢口の背中は生徒使用禁止の来客用ドアに近づいていく……。
「ウィーン」
 沢口の擬音付きで自動ドアが開いた。
 そのまま外に向けて歩き続ける。
 そして、止まった。沢口が。
「……」
「……」
 俺と沢口は昼休みでざわつく校内とは対照的な沈黙を保っている。
「……」
「……」
 かたやごつい革靴たちの前で箸を握りしめ、かたや自動ドアの間で背を向けたまま立ちつくしている。玄関の吹き抜けには、俺らに気も止めず楽しげに歩き去る女子高生の甲高い声が響く。
 自動ドアはスーッと音もなく閉じていく。
 今に挟まる、というところでいきなりドアが引き返した。
「君は何をしているんだね。ここは来客用玄関ですよ」
 我らが学校の校長、通称とおるんるん、別名ちっちゃいおっさん、本名尼崎徹先生が穏やかな微笑みをたたえつつ、沢口の隣をすり抜け玄関に入っていらっしゃったのだ。
「なんでそんなところに……。おや、そこに立っているお箸くんはお友達かい?」
 通称とおるんるん、別名ちっちゃいおっさん、本名……。
 いや、いちいち言うのはさすがに面倒だ。いいや、通称だけで。
 とおるんるんは箸を握りしめている俺を目ざとく見つけてくる。そして、俺と沢口を友達同士と認識してしまった。
「いえ、ちが」
「はいその通りです! そこにいるお箸くん、いえ、しゅんちゃんが、オレの特技を見たいとせがんできたので、ここにいます!」
 とおるんるんが通り過ぎるのと同時に、こちらに向き直っていた沢口は、俺の否定の声を遮った上、事実無根の主張を声高らかにしやがった。しかもどや顔で。
 俺は友達でもせがんだわけでもない! 一方的に懐かれて、引っ張ってこられただけだ!
 今、俺の口は心からの叫びを、だれかまともな人に聞いてもらいたがっている。しかし、いくら小さくても校長。とおるんるんに向かって心の声をぶつけるのはためらわれる。声にできなかった主張をすべて眼力に込めて沢口を睨みつける。
 俺の視線を沢口は眉根をひそめながら受け止めた。
「いくら楽しみにしてたからってそんな悲しそうな目で見るなよ。オレだって血反吐が出るほど悲しいんだよ、しゅんちゃん。十一年やり続けてきて初めて失敗したんだ。オレは挑戦すればいつも自動ドアに挟まれるんだよ。数多い特技の中の一つだというのに……」
 ザ・ドンカンな沢口には恨みのこもった目など通じやしない。しかもつっこみどころも多い。めんどくさいのでいちいち言及はしないが。
「何はともあれ、ここで遊ぶのはやめなさい。高校生にもなって、こんな注意を受けるなんて、恥ずかしいことと思うんだよ」
 とおるんるんはよく通る声で自動ドアの真ん中から動こうとしない沢口をチラ見しながらも、俺に向かって話してくる。
 やめてくれ。俺は悪くないんだ。巻き込まれているだけなんだ。
「友達に対して注意はしづらいかもしれないけど、言ってあげる方か彼のためになるから、勇気を出しなさいね」
 今度は声のトーンを落とし、俺の目だけを見つめて言ってきた。
 ……つまりはさっきの注意は沢口に対してだけか? 沢口のめんどくささに速攻で気づいて、向き合うのをあきらめた態度だったのか? 生徒と向き合うことをあきらめるなんて、教育者失格だ。失格るんるんだ。
 俺の中でとおるんるんの評価が富士急ハイランドのジェットコースターよりも勢いよく急降下していると、沢口の声が再び高らかに聞こえた。
「しゅんちゃん! 見るんだ!」
 つい反射的に目を向けると、沢口が再び自動ドアに挟まりかけている。
「「あっ」」
 靴箱の前で俺と、教師失格るんるんの声が重なる。
 しかし失格るんるんが止めに行くより早く、沢口は目的を成し遂げてしまった。
 まさに自動ドアに挟まれた瞬間、何を思ったのか沢口は俺に向かってガッツポーズを決めてきた。あいつの体がガダンッと、自動ドアをこじ開けるように動いたのだ。
「あ゛ー!」
 失格るんるんの悲痛な叫び声を聞きながら、俺は呆然と、満足げに鼻を膨らましている沢口と、もはや自動ではなくなってしまった自動ドアを眺めていた。
 俺のメンタルだけでなく、校長のメンタルと学校の器物まで壊し始めるとは。こいつは疫病神よりも厄介なのではないだろうか……。もはや、邪神?
 慌てて非自動ドアに駆け寄る失格るんるん。ニコニコと俺に駆け寄る邪神沢口。いつの間にか俺たちの周りに集まり始めた生徒たち。
 ジーザス。注目度マックスの状況に天を仰ぐと、吹き抜けの二階からも視線が降り注いでいることに気づいた。再びのジーザス。
「しゅんちゃん! 俺の勇姿、ちゃんと目に焼き付けたか? あんなに楽しみにしてたもんな。オレ、しゅんちゃんのために頑張ったんだぞ。邪魔が入らなければちゃんと挟まれるんだ!」
 KY邪神沢口の声が吹き抜けに響き渡る。いつだろうとこいつの声は無駄にでかい。
「お、おい。やめろ。俺はそんなこと頼んでない」
 数人の教師の姿まで現れ始めている状況で、こっぱずかしい名前を呼ばないでほしい。
 反省のはの字も見えない沢口の背後からは、さっきと比べてだいぶ顔色が悪いるんるんが近づいてくる。
「君たち、ちょっといいですか」
 声のトーンからして、るんるんの顔色の悪さは怒りからくるものなのだろう。
 自動ドアなんて安いものでもないだろうし、ましてや来客用玄関が使えなくなってしまったのだ。君たち、と複数形になっていることに強い不満は覚えつつも、るんるんへの同情心が泉のように湧き出てくる。後、沢口という邪神に振り回されているという点での仲間意識も。
 俺がるんるんへの気持ちをかみしめている横で、すべての元凶である沢口はケロッとした顔で首をかしげていた。
「どうかしましたか?」
「なっ……」
 絶句したるんるんの代わりに、言葉を継ぐ。
「お前! 自動ドア壊しただろ!」
「え?」
 驚きの声を発した次の瞬間、制止するまもなく自動ドアに駆け寄る沢口。これ以上沢口を自動ドアに近寄らせたくないるんるん。しかし、圧倒的に沢口の勢いが勝ち、るんるんは悲しげな顔で沢口と非自動ドアを見つめるしかできなかった。
 沢口はドアに触れ、叫んだ。
「なんだと! 開かなくなっている!」
 やっと事の重大さに気づいたようだ。
「なんてことだ。オレは、何と言うことをしてしまったんだ」
 やっと反省したようだ。
「これでは、校内で特技が披露できないではないか!」
 前言撤回。
 沢口の騒ぎぶりにどんどん人が集まってくる。人の輪の中にいるのは、るんるんと、沢口と、俺の三人だけ。もう、確実に、俺と沢口はセットにされて見られているはずだ。
 もう逃げれない。地味で平穏な生活を目指していたはずなのに、この学校にいる間はクラス学年関係なく学校中の人に「やばいやつのやばい友達」と認定されてしまう……。
あぁ、今すぐ転校したい……。
 沢口はいまだ非自動ドアを触って、嘆いている。反省ポーズができる猿の方がまだましだ。
「マジでお前、幼稚園からやり直して来い……」
俺がつぶやくと、沢口は勢いよく振り返った。
「幼稚園!」
 なぜか叫ぶ。目はらんらんと輝き、声はさらに大きくなり、すごい勢いで俺のもとまで歩いてきた。うっかりやる気スイッチが入ってしまったようだ。
「オレ、しゅんちゃんと初めて会った時、本当に嬉しかったんだぞ! 友達のいなかったおれに声をかけてくれて、一緒に遊ぼうっていってくれたんだ! 砂場セットも貸してくれたんだ!」
 沢口の十八番、いきなり飛躍する話。しかも砂場セットとか何歳児だよ。るんるんも目を白黒している。
「おい、ちょっと待て。俺はお前とは今年初めて会っただろ」
「え……。えー! え? え!」
 爆音で叫び、百面相をし、全身で驚きを表現してくる。いつにもまして、めんどくさい。
「しゅんちゃん、オレのこと忘れてるのか? あんなに仲よかったのに。結婚の約束までしたじゃないか!」
「は!?」
 身に覚えのない爆弾発言に固まっていると、周囲からのどよめきが耳に入ってきた。
 いや、待って。なんでこんな修羅場みたいになってんの。なんでこんなに目立ってんの。
「ちっちゃい頃のしゅんちゃんは男も女も関係なくプロポーズしまくってたじゃないか」
「そんなわけあるか!」
 どよめきが大きくなる。誰かが口笛まで吹きやがった。
「誰がそんなことする……あれ? ん?」
 だんだんと封印していた忌まわしき記憶がよみがえる。
 幼稚園児の頃、結婚するという言葉を大好きと同じ意味だと思って使っていたら、母親に困った顔をされながら止められたこと。小学校に上がると笑い話としてさんざん使われたこと。そして、その時特に挙げられていた、こうちゃんという名前のこと。
 しゅんはこうちゃんが大好きすぎて一日一回はプロポーズしてたわよねー。
 母親のボイスが脳内で再生される。
 さんざん止めるように言ったおかげで最近は忘れていられたというのに。
「お前、こうちゃんか?」
「そうだよ!」
 苦虫を噛み潰したような俺とは対照的に満面の笑顔を浮かべる沢口。そして、周りからなぜか沸き起こる拍手。
 穴があったら入りたい。穴を掘ってでも入りたい。
「なんでお前、最初会った時に言わねーんだよ」
「え? しゅんちゃんも気づいてると思ったんだ」
「あからさまに俺は初対面の態度だったろうが!」
「しゅんちゃん反抗期かなーって」
「ふざけんな!」
 恥というものを知ってからは幼いころの自分の言動を猛省し、もう二度とそんな赤っ恥をかかないように、とおとなしくなっていったにもかかわらず、なぜここで沢口にほじくり返されなければならないのか。しかも、幼稚園時代に仲の良かった子が、こんな奴だったなんて。
 ああ、何も知らない方がきっと幸せだった。
 うなだれる俺の方を沢口が優しくたたく。
「しゅんちゃん、元気を出しな」
 顔をあげると沢口はニカッと歯を見せた。
「オレもう十個しゅんちゃんに見せたい特技があるんだ!」
 頼む……、もう、もうやめてくれ……。ずっと俺たちを見ていたとおるんるんの眉毛もどんどんハの字になっていってるから……。

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

キッスパニック

 私はあるカフェにいた。テーブルには水の入ったコップが一つ置いてあるだけ
で、しかし何か料理を頼むわけでもなく、私は通路を挟んだ向こう側の席に座っ
ている女性が、メロンソーダを飲むのをじっと見つめていた。
 私は家の近所ということもあり、このカフェを昔からよく使っていたが、彼女
をここで見るようになったのはつい最近であった。
 艶やかな黒髪、白く透き通った肌、そして憂いを帯びた目――
 彼女を初めて見たとき、私はその美貌に一目惚れをした。そこから私は彼女に
会いたいがために、毎日この店に通うようになった。そのおかげで、彼女がこの
店に来るのはだいたい、毎週火曜日の16時から18時の間、または金曜日の17時か
ら19時の間が多いことがわかった。そして、彼女はそこでメロンソーダを毎回頼
み、本を読みながら時間を過ごしていた。
 そして今日も彼女は火曜日の17時22分に来店し、メロンソーダを頼んで本を読
んでいた。
 私はいつも以上に彼女をドキドキしながらその様子を見つめていた。今日は、
彼女に対するある計画の実行日であった。その計画とは、彼女がトイレで席を離
れた瞬間に、テーブルに置いてあるメロンソーダに口をつけ間接キッスをすると
いうものだった。そして、そのことを知らない彼女は、席に戻ると再びメロンソ
ーダを何くわぬ顔で飲み、その様子を見て私は一人悦に入るというものだった。
そのため、私はそれを実行するために彼女が席を立つのを待っていたのだった。
「まだだろうか……」焦燥感が私を襲った。もしかしたら、計画は延期になるかも
しれない。
 しかし、神は私の味方であった。彼女は読んでいた本にしおりを挟むと、その
本だけテーブルにおいて、カバンを持って先を離れた。
 彼女が店の奥にある化粧室に入っていくのを確認すると、私は早速計画を実行
しようと席を立ち、通路に足を一歩踏み出したその時だった。
 突然、体全体が重くなり、私は立っていることができず片膝をついた。
「何だこれは……」重さはどんどん増すばかりで膝を立てることすら困難になり、
私は地面に突っ伏した。
「はっはっは、惨めだな」横から笑い声が聞こえた。
「だ、誰だ!」
「ふふっ……僕かい? 僕の名前はB次郎。君には僕の能力『重力操作』によって
動けなくさせてもらっているよ」
「じゅ、重力を操られるのか。つまりこの私は通常の重力よりも強い負荷がかか
っている状態なのか……しかし、何故そんなことをするんだ」
「何故? それは君がライバルだからだよ」
「ライバル……?」
「君も狙っているんだろ? 彼女のメロンソーダを」
 私は、驚きを隠せなかった。この計画は誰にも話しておらず私以外に知ってい
るものはいるはずはないのだ。
「何故、そのことを知っているんだ……まさか、心を読むこともできるのか!」
「ふふっ、残念ながらそれは違うよ。これは……何て説明すれば良いんだろうか。
言ってしまえば勘かな」
「勘だと……」
「そう、だけど勘と言っても決して当てずっぽうなわけではないんだよ。君を一
目見て身体中に走った電撃……そうだね、これは彼女のメロンソーダを狙うものと
してその本能が同士の存在を嗅ぎ取ったんだろうね」
「そうか……だが、まさか私と同じことを考えている人間が他にいたとはな。お前
とは良いメロンソーダが飲めそうだ」
「そうだね、でも残念ながら彼女のメロンソーダはただ一つ。君はそこで這いつ
くばって、僕と彼女が(間接)キッスをしている間、地面とキッスをしているん
だね」
 私の目の前を彼の靴が通るのが見えた。その一歩はゆっくりであったが自信に
満ちあふれていた。
「……すまないが、私にそんな趣味はないんだ。もう少し足掻かせてもらうよ」
 私は思いっきり右腕に力を込め、彼の足首を掴んだ。
「ば、馬鹿な! この重力の中で腕を動かせるなんて……常人には不可能だ!」
「そうだな……しかし、私は毎日このカフェに通い、あの開きの悪い入り口の扉を
開け閉めしてきたことで、常人以上に腕の筋力が発達したんだよ!」
「あ、あの扉を自力で……! 普通の人では開けられないから、扉の前についてい
る呼び鈴を押して、中にいる店員さんが二人がかりで開けてもらうのにそれを自
分1人で、しかも毎日……!!」
「まあ、一般人だと思って油断したのが運の尽きだったな」
「くっ、だがそれでも腕をやっと動かせた程度じゃないか。まだ僕の負けでは……」
「しかし、その右足は私に掴まれているから、私の身体の重みが加わり動かせる
ことはできないだろ? このままではお前も彼女のメロンソーダにたどり着くこ
とはできまい」
「……確かに。くそっ、仕方ない。一旦重力を解除する。しかし、そこで変な真似
をしたら今度こそ容赦しないぞ」
「……わかった」
 しかし、私は彼の言いつけを守るつもりはなかった。自分の体が軽くなるのを
感じると即座に立ち上がり、B次郎が『重力操作』の能力を発動するよりも早く、
彼のあごを目掛けてアッパーを打ち込んだ。その衝撃で彼の頭は少し揺れ、その
まま白目をむいて後ろへ倒れた。
「強力な能力だったな……」私は再びメロンソーダを取ろうと、彼女のテーブルに
目をやると、そこにはメロンソーダがなかった。
「な、何!」私がうろたえていると目の前で
「おいおい、お前の探しものはこれかい?」と声がした。
 私は声のする方を見た。そこにはメロンソーダの入ったコップを右手に持った、
一人の男が立っていた。
「お前も彼女のメロンソーダを狙っているのか!」
「ああ、このC助様もメロンソーダハンターさ。ただお前らとは違い、俺様はち
ょっと過激でな。彼女のコップに口をつけるだけではなく、そこをさらに舐める
のさ」
「な、それは(間接)ディープキス! この外道が!!」
 私は怒りに駆られ彼を殴りかかろうとした。しかし、
「おっと、動くんじゃないぜ。下を見てみな」
 私はとっさに下を見た。そこには丸い魔法陣が書かれていた。
「な、何だこれは!」
「俺様は召喚師でな。今から、その魔法陣でスーパークールなモンスターを召喚
するぜ」
 そしてC助は左手を天に掲げ叫んだ。
「現われろ! 絶対にして最強、最強にして絶対の存在、大魔神トール!!」
 すると魔法陣が光だしそこから、両腕は大木のように太く、白い髪は逆立ち、
目は銀色にギラギラと光った巨躯の化物が現れた。
「こ、これが召喚術……」
「まあ、これほどのレベルのモンスターを呼ぶにはかなりの技術とそして完璧な
魔法陣が必要だがな。まあ、お前らが一悶着している間に魔法陣がかけたわけだ
からそこはラッキーだったな」
「ふん、だが愚かだな。それならば俺達が戦っている間にこっそりメロンソーダ
を飲んでしまえばよかったんじゃないのか」
「おいおい、それじゃあつまんないだろ。どうせ飲むんならお前のような同じメ
ロンソーダを狙っていた人間の前で、そいつの屈辱にまみれた可哀想な表情を見
ながら飲んだ方がいいに決まってんだよ。ケケッ」
 C助は悪意に溢れた薄ら笑いを顔に浮かべて言った。私の怒りはついに頂点に
達した。
「お前みたいなクズに彼女のメロンソーダは渡さない!」
「ケケッ。じゃあ、どうするって言うんだい? まさかこのトールとやり合うっ
ていうのか? いくらお前が人間界で強くてもな、こいつは異界の存在。こちら
側の常識は通用しねえぜ?」
「私もそこまで馬鹿ではない。無謀と勇気は違うのだから」
「じゃあどうするんだ?」
「その怪物自体には弱点はないのかもしれない。しかし、その怪物が存在するに
はその地面に書かれた完璧な魔法陣が必要なのではないのか……!」
「ま、まさか」
 しかし、C助が気づいたときにはすでに私は、テーブルにある水の入ったコッ
プを持っていた。
「冷や水浴びて少しは反省しろ――外道が!!」
 私は、コップの水を魔法陣に向けて掛けた。魔法陣の線が水で滲んだ。すると、
あの大きな怪物がみるみる形を失い、最後は泥粘土のような塊になった。
「俺様のトールが! くそ、だがメロンソーダは俺様のものだ!」C助は手に持
ったメロンソーダに口をつけようとした。
「させるか!」私はテーブルの上の爪楊枝を一つ取り、C助目掛けて投げた。爪
楊枝は見事彼の眉間に刺さり「ぐぎゃ」と変な声をだすとC助はコップを手放し
倒れた。そしてコップもそのまま地面に落ちてしまうかと思われたが
「危ない」
「…………あなたは」
既の所で拾われた――私ではなく、あの美女に――
「どうやら、私の作戦は成功したみたいね」
「な、作戦……?」
「そう、優秀な間接キッサ-をスカウトするための作戦がね」
「間接キッサー? 何を言っているんだ!?」
「……あなたの間接キッスへの情熱は本物よ。どう、私と一緒に宇宙を旅しない?」
「……はあ?」
 こうして、私の平穏な日常は終わりを告げたのだった。
続く

次回予告
 黒髪の美女、D恵によって半ば強引に、宇宙を股にかける泥棒集団(ただし盗
むのは間接キッスだけ)『好きです!キッス』の仲間入りをした、主人公のA太。
そんな彼に早速仕事が言い渡される。初仕事のターゲットは金星女王、L子女王
の間接キッス。いきなり難易度マックスのこの仕事をA太は果たして達成できる
のか!?



テーマ「メロンソーダの色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

ミスター・アプリコットオレンジ

「せんせー、みて、みて」
 騒がしい遊戯部屋の中で彼女を呼ぶ無垢な声がした。はいはい、と微かに喜色を帯びた表情で、秋子はひとりの園児に歩み寄った。
「どうしたの、テツくん? ……あら、この人は?」
 秋子は哲哉が自慢げに掲げている絵を指さした。そこには、橙色のクレヨンでぐりぐりと塗り潰された人影が描き出されていた。
「《みすたー・あぽりごっとおれんじ》だよ。しらないの、せんせー」
「あ、アハハ、もちろん知ってるよ。それ、カッコいい絵だね」
「うん!」
 哲哉は一点の曇りもない愛らしい笑顔で頷いて、満足そうにとてとてとどこかに走って行ってしまった。
 彼の言う《みすたー・あぽりごっとおれんじ》――正確には《ミスター・アプリコットオレンジ》であるが――は、休日の朝方に強大な悪を倒すべく遺憾無くその力の限りを尽くしている正義のヒーロー、ではない。近頃巷を賑わせている正体不明の怪人物である。それだけ聞くと物騒な響きがあるが、決して悪行に勤しんでいるわけではない。寧ろその逆である。休日の黄昏時に颯爽と現れ、重い荷物を持っている老人を助け、迷子の子どもの手を引いて場所を案内する。そうしていつの間にか姿を消しているのだ。その顔はオレンジ色のスカーフと目深に被られた帽子で覆われ、だぼだぼの、これまたオレンジのジャージを着込んでいる。言葉を発することはなく、会話は筆談で行われる。どこからどう見ても変質者であるが、今ではその善行が知れ渡りすっかり信頼を寄せられている。
「ミスター……ねえ」
 秋子は半ば呆れたように溜息を吐いた。子どもなら戦隊ヒーローとかスーパーマンとか、もう少し健全なものに憧憬を抱いて欲しいものである。嘆かわしいといった様子で、彼女は首を振った。
 しかし嘆息を漏らしている暇もない。
「せんせー、おままごとしよー」
「こっちきて、せんせー」
「せんせー、ゆうとくんがぶったぁー」
 右に行っては袖を引かれ、左に行っては袖を引かれ、まさに引っ張りだこである。秋子はこれ以上ないほどの幸福を噛み締めていた。幼稚園の先生になって早一年、三度の飯より子どもの笑顔が好物という彼女はその天職っぷりにこれ以上ないほど現を抜かしていたのだった。
 悠子のおままごとに付き合い健太たちと鬼ごっこをして、晴香をを慰め優斗を叱った。額の汗を拭って部屋を見渡すと、隅でひとり膝を抱えて虚空を見つめている女の子が目に入った。あかりだった。
「あかりちゃん、どうしたの?」
 秋子が問いかけたが、あかりは俯いて口をぎゅっと結ぶばかりである。答えはしないものの、その暗い瞳は彼女の抱え込んでいることの深刻さを物語っているようだ。
 あかりは母親の女手ひとつで育てられた、母子家庭の子である。母は毎日働き詰めで、あかりを迎えに来るのは他の園児たちが皆帰ってしまった後だった。その度に、「すみません、すみません」と彼女は何度も頭を下げた。必死に笑顔をつくり気丈に振舞ってはいたが、ふとした瞬間に垣間見える疲弊した表情からは一切の余裕が感じられなかった。秋子はそんな母親の様子をいつも複雑な心境で見守っていたのだった。
 あかりは積極的に友人と関わるタイプではない。それゆえ対人関係でのトラブルは少ない。それを考慮すると、家庭で何かあったと考えるのが妥当ではなかろうか。明子はそう思った。
「何か、悲しいことでもあった……?」
 幾度声をかけようとも、あかりは一向に口を開こうとしない。秋子が微笑みかけると時折顔を上げたが、踏ん切りがつかないのか再び視線を落としてしまう。完全に行き詰まってしまった。
 秋子はふう、と覚悟を決めたように息を吐いた。そうして懐のポケットをまさぐると、小さな円錐形の黒塊を取り出した。
「これ、あかりちゃんにあげる」
 あかりは眩しそうにして顔をあげ、恐る恐る手を伸ばした。
「……なに、これ?」
「実はこれ、ふたがついてるんだ。とんがってる方を引っ張ってごらんよ」
 言われれるがまま、あかりはその物体の尖端を強く引っ張った。すると、きゅぽんと小気味よい音がして勢いよくふたが外れた。
 そこには押し込む仕組みのボタンのようなものがあった。
「辛いとき、悲しいとき、困ったときにこれを押すとね、助けに来てくれるんだよ」
「……せんせーが?」
「ううん」
 秋子は首を横に振った。
「《ミスター・アプリコットオレンジ》が、だよ」

          ×

 その後少しずつ口元を緩ませていったあかりは、母親が迎えに来る頃には普段の調子に戻っていた。元々おとなしい子であるから口数はあまり変わらなかったが、凍土を思わせたあの暗く冷たい瞳は確かに溶け出していた。
 力なく娘のもとを訪れた母親は、相変わらずへこへこと頭を下げた。日に日にやつれているようにも見受けられる。眼光は鈍く、肌のハリは弱々しい。声色も宙に浮かぶがごとく軽薄な響きをもっていた。
 秋子はやや躊躇いながら口を開いた。
「お母さん……あの、あかりちゃん、今日ちょっと元気なかったんです。もしよければ、帰ったらあかりちゃんの話を聞いてあげてください」
 すると彼女は一瞬、ぎらりと瞳を光らせた。しかしそれはほんの一瞬のことだった。秋子にはそのように見えたが、単なる勘違いのようにも思えた。
「……ええ。わかりました」
 それだけ言うと、彼女はあかりの手を引いて闇へ紛れていった。
 ふと、不穏な予感が秋子の頭をよぎった。結局、あかりは塞ぎ込んでいた理由を打ち明けることはなかった。あかり自身次第に平静を取り戻してはいたものの、根本的な解決には至っていない。秋子は、もう少し踏み込んで彼女を追及すべきだったと後悔した。あかりが行ってしまってから、そればかりが心残りになった。
 とぼとぼと眩しすぎる街灯の光を浴びて歩く帰り道。帰宅せど迎えてくれる人もいない。こんな夜には延々誰かと言葉を交わしていたいと思ったが、秋子はすぐにその甘い願望を振り払った。考えるだけ寂寥が募り、虚しくなるだけだからである。仕事の合間散々子どもたちに癒されておいて、これ以上何を求めるというのだろう。秋子は自嘲気味に笑った。
「よし、明日! 明日、根掘り葉掘り訊く!」
 彼女は自分の頬を軽く打って、余計なことは考えまいとした。コンビニで買ったサラダを頬張ってシャワーを浴び、床についた。
 目を閉じ、秋子はぽつりと呟いた。
「――あかりちゃん」
 そうして、意識は暗転していった。

          ×

 翌日あかりの姿を見た秋子は、思わず絶句した。
 あかりの左頬が青く、痛ましく滲んでいた。どうやら痣になっているようだった。昨日までは確かに、紅くふっくらとした頬があったのだ。それが、どうだ。
 秋子は咄嗟にあかりのもとへ駆け寄った。あかりは昨日秋子に慰められる前と同様、虚ろな表情をしていた。やけに目立つ青痣も相まって、今日は余計に悲痛なように思えた。
「……あかりちゃん。そのほっぺたの痣、どうしたの?」
 彼女は唇を噛み締めて俯いた。その瞳から一粒、雫が落ちた。しかし、それだけだった。
「ねえ、あかりちゃん。先生、心配なの。良かったら、私に話してくれないかな」
 秋子がそう言うと、あかりは大きく首を振って勢いよく駆け出した。
「あかりちゃん!」
 必死に呼び止めたが、あかりが振り返ることはなかった。
 ひとり残された秋子は暫し為すすべもなく、その場で呆然としていた。
 そうしているうちに、不意に彼女の体に衝撃が走った。自責、後悔、慈愛、覚悟の念が一斉に血管を駆け巡ったような感覚を覚えた。
 拳を握り締め、秋子は一歩踏み出した。

          ×

「園長先生!」
 職員室の扉を開けて早々、秋子は叫んだ。既に中にいた教員たちは驚いて、一同彼女の方に目を向けた。
「ど、どうしたんです、橘先生」
 園長はすっかり度肝を抜かれた様子で、口をぽかんと開けている。彼女の鬼気迫った表情を見れば当然のことである。
「お話があるんです」
 言いながら彼女は園長に歩み寄った。若干怯えている園長をよそに、秋子はゆかりのことを淡々と話した。近頃元気がないこと、左頬に痣があること、問い質しても何も答えないこと、全てを打ち明けた。
「ふむ……そういうことでしたか」
 話を聞くうちに冷静になった園長は、あご髭を捻りながら思索に耽る素振りをした。
「それで、橘先生はどうなさりたいんですか?」
「……原因は、ゆかりちゃんの家庭にあると思うんです。だから、直接彼女の母親を訪ねて、話を聞こうと――」
「ちょっと、ちょっと」
 園長は両手を前に出して秋子を制止した。
「あかりさんに元気がないというのは、昨日今日の話ですよね。まだ原因も解らないのに、いきなり家族に押しかけるのは早計じゃないですか?」
「その原因を突き止めるために、押しかけるんです」
「とは言っても、まだあかりさんと十分に話したわけじゃない。私も、あなたも。家族を責めるよりも前に、私たちにできることがあるんじゃないですか?」
 秋子はぐっと言葉を飲み込んだ。確かに園長先生の言うことは筋が通っている。気持ちだけが先走って、冷静に状況が見渡せなくなっていた。母親に対して抱いていた先入観も邪魔をしていたのだ。
「もう一度、落ち着いてあかりさんと話をしてみてください。それでも上手くいかないのなら、今度は私が直接あかりさんとお話してから判断します」
「……わかりました」
 力強く頷いて、秋子は園長に深々と一礼した。そうして、静かに職員室を後にした。

          ×

 教室に戻り、秋子はあかりを探した。積み木遊びをする子どもたちの中、部屋の隅、そして園児たちが活発に駆け回る園庭。隅々まで目を凝らしたが、どこにもあかりの姿は見えない。廊下やトイレを覗いたが、やはり見当たらない。秋子は自分の心臓の音が速まるのを感じた。
「あかりちゃん!」
 名前を呼びながら園内をしらみつぶしに探索した。しかし呼べど探せどゆかりは一向に現れなかった。
「まさか――」
 秋子は滝のように流れ出ている汗も忘れて、その場を駆け出した。

          ×

 あかりは花屋の前に立ち竦んでいた。前に一度、亡くなった父親に手向けるための花を買いに、母親と訪れたことがある店だ。無意識のうちに、あかりはその場所を記憶していた。もしかすると、そのときには既に「こういう」算段があって、意識的に周りを観察していたかもしれなかったが、ともかくあかりは記憶を手繰って花屋までたどり着いたのだった。
 意を決して店内に小さな足を踏み出すと、店員の若い女性が彼女に挨拶した。
「いらっしゃいませ! あれ、お嬢ちゃんひとり?」
 あかりはこくこくと頷いた。
「そっか、偉いね。それで、今日は何をお求めかな?」
 花屋の娘が柔く微笑みかけると、あかりはポケットをごそごそやって、その手を娘の方に差し出した。愛らしい手の平の上には、十円玉が三つ乗っかっていた。
「あ、あはは、そっかあ、三十円かあ……」
 娘は頬を引っ掻いて苦笑した。それから腕を組んで、暫くうんうんと唸った。そしてとうとう、閃いたように顔をあげた。
「ちょっと待っててね」
 あかりが漫然として立ち呆けていると、彼女は騒がしい足音を立ててすぐに戻ってきた。
「はい、これどーぞ」
 あかりが手渡されたのは、一輪のチューリップの花だった。
「ちょっと商品として売れなくなりそうなやつなんだけど……綺麗に咲いてる方だから、許してね」
 そう言うと、娘はあかりの手から三十円を摘み出した。「それでも、ちゃんとお代は頂きます」と笑って、今度はあかりの頭にぽむと手を乗せた。
「おつかい、大成功ね。でも帰るまでがおつかいだから、気をつけるんだよ」
「……ありがとう」
 あかりは掠れた声でお礼を言うと、小走りで花屋を後にした。

          ×

「あかりちゃんがどこにもいません!」
 秋子は再び職員室に飛び込んで、息を切らしながら叫んだ。
「落ち着いてください。……それは本当ですか?」
「はい。園内のどこを探しても見当たりません」
「ふむ……」
 園長先生はじりじりとあご髭をいじった。心なしかその指先は震えているように見える。
「わかりました。今手の空いている先生方はあかりさんの捜索を手伝ってください。それでも見つからなかった場合には、ご家族や警察に連絡する必要があります。急いで!」
 園長が声を張り上げると、他の教員は顔を見合わせてから慌ただしく部屋を出て行った。
 秋子は搾り出すように言った。
「私は……近所を探してみます!」
 園長は彼女をじっと見据えた。
「……わかりました。宜しくお願いします」
 その言葉を聞くが早いか、秋子はまさしく脱兎のごとく駆け出した。
 そのときだった。胸ポケットのスマホがけたたましい音を立てて鳴り響いた。

          ×

 商店街に飛び出して早々、あかりは道に迷った。往路の景色と復路の景色が全く違うもので、戸惑ってしまったのである。
 勘に任せて道を選ぶと、ますます見慣れない景観が広がっていく。それでも進むしかなく、あかりはとぼとぼ西日に霞む道を歩いていった。
 十五分、三十分と歩き続け、とうとうあかりの足は限界に達した。強い日差しが彼女の体力を容赦なく削っていく。視界の隅に小さな公園を見つけると、あかりはふらふらとそこへ進入し、ブランコに腰掛けた。
 ぐったりして周りを見ると、既に世界は朱く染まっていた。これ以上陽が落ちると、帰宅するのはますます困難を極める。直感的に、あかりはそう感じていた。しかし、足が棒切れのようになっていてこれ以上歩けないのだ。
 あかりは母親の顔を思い浮かべた。すると、涙がとめどなく溢れ出た。もう二度と会えないとさえ思った。手には一輪のチューリップ。他には何もない。
 泣くことにも疲れ果て意識が朦朧とする中、ふと、秋子の顔が思い出された。そうして、唯一の希望に気がついた。
 あかりは上着のポケットに手を差込み小さな円錐を取り出すと、その先を引っ張ってふたを外した。そこにある小さな突起を、彼女は力いっぱいに押した。
 そこで、全身から力が抜け落ちた。

          ×

 あかりが目を覚ますと、目の前に痛いくらいのオレンジ色がいっぱいに広がっていた。
 誰かに背負われているのだと気づいたのは、それから数秒後だった。周りには見慣れた家々が立ち並んでいる。見慣れた信号機、見慣れた電柱、見慣れた夕焼け空。戻ってきたのだと、あかりは思った。
 誰におぶられているかは、解っていた。
 《ミスター・アプリコットオレンジ》……。
 あかりは大きな瞳にいっぱいの涙を溜めて、言った。
「ありがと、せんせー……」
 《ミスター・アプリコットオレンジ》は、何も答えなかった。

          ×

「あかり!」
 あかりの母親に電話で事情を説明すると、彼女は幼稚園にすぐさまやって来た。目を見開き、肩で息をしていた。
「あんた……いつもいつも心配ばかりかけて……ふざけないで!」
 そう言って彼女は手を振り上げた。しかしあかりが手に携えているものを見て、その腕を止めた。
 あかりは一歩前に進み出て、言った。
「おかあさん。おたんじょうびおめでとう」
 差し出されたものを、母親は震える手で掴んだ。
 そうして、あかりを強く、強く抱きしめた。
 ただ嗚咽だけが、その場に響いていた。

          ×

 《ミスター・アプリコットオレンジ》。神出鬼没の怪人物。
 その正体は未だに不明。
 しかしその存在は確かにあった。
 多くは語るまいが、それは大きな存在だった。



テーマ「アプリコットオレンジ」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

朝焼と悪魔

「そういやさあ、東堂さんの話、聞いた?」
「あー、飛び降りたってやつ?」

 後ろの席の女子高生らしき二人組の話が、うつらうつらしている私の意識を浮上させた。完全に閉じていた瞼をうっすら上げると、薄闇の中で車内灯がにじんで見える。いつもの時間、いつもの風景。もう少し眠れるかもしれないが、それよりも後ろの会話が気になった。

「そうそれ。あれ、マジ?」
「マジらしいよ。学校来なくなった日の朝に、家の前に救急車とパトカー停まってたんだって」
「うわ、マジかあ。死んだの?」
「わかんない」

 学校には連絡ないらしいけど、と事情を知っているらしい方は軽く付け足して、ふうん、と事情を知らないらしい方は素直に相槌を打った。
 これ以上ないほどの低速で走るバスは、がたがたと不規則に揺れながら誰もいない真っ暗な停留所を通り過ぎる。金曜日の夕方だからか、車通りが多い。次は終点です、とアナウンスが流れた。

「ていうか、東堂さんと知り合いなの、ユイ」
「はあ? こんなバカっぽいやつとあたしが話すわけないじゃん」
「いや、別に。話したこともないよ」
「ていうか、そういうこと聞いてるおまえとも話したことないし。サイアク、死ねよ」

 口汚い罵倒が二人に投げられるとともに、ぐん、と右肩が重くなる。私は顔を前に向けたまま、小さく身じろいだ。隣で喚き散らし続けている声には耳を貸さないように。平常心、平常心。

「ねえ、あんたもなんか言ったら?」

 右肩の重みが増した。加えて、ギリギリと肩が握りしめられる感触。前言撤回、無視はできないらしい。私は不自然にならない程度に右隣の座席に目をやる。

 明らかに日本人として、人間としてありえない、鮮やかなピンク色の瞳が、私を射抜いた。ドールのように整った美しい顔には貼り付けたような薄笑いが浮かんでおり、艶やかな長い黒髪も相まって、ますます無機物らしさが強調されている。後ろの女子高生と同じであろうセーラー服に包まれた身体は、よくよく見ると向こう側がうっすら透けて見える。まるで、幽霊のように。
 どこか存在感の薄い、輪郭がぼんやりした彼女は、初めて電車に乗る幼児のように、だらしなく背もたれから身を乗り出したまま、にやにやとこちらを見ている。どうやら、二人の女子高生を罵るのに早々に飽きたらしい。

 私は彼女に何も答えないまま目を逸らし、もう一度ゆっくりと目を閉じた。公共バスの車内で、虚空に向かって話しかける成人女性なんて笑えない。彼女は私の考えていることを解った上で笑っていたのだろう、肩をつかまれる感覚はなくなった。
 女子高生の会話は、まだ続いている。

「東堂さんって、別にいじめられてたわけじゃないんでしょ? ぼっちだったとは聞くけど」
「かわいかったけど、何か暗かったからなあ。話かけづらかったんだよね」
「で、ハブったわけでもない、と」
「むしろ、東堂さんの方が話しかけてほしくないってオーラ出してた」
「何でだろうね、自殺なんて。報復?」
「うわ、笑えないんだけど」

 ちょっとした渋滞の中、バスはなかなか進まない。停留所に着くのに、もう少しかかるだろう。一向にやってこない眠気を待っているうちに、いつの間にか右肩の重みは消えている。

***

「……東堂さん、何でここにいるの」
「なんでだと思う?」

 心底楽しそうに、教卓にもたれかかった美しい少女は笑みを浮かべた。
 誰もいない教室は締め切られていて、夕陽で赤く染まった溶液で満ちているような錯覚を覚える。まるで、血の池のような。置き忘れていた弁当箱のことなんかどうでもよくなって、私は彼女に向かって思わず一歩踏み出した。驚くのも忘れていた私の口から、ぽろぽろと疑問がこぼれ出る。

「死んだんじゃないの」
「あんたが死んだと思うなら死んだんじゃないの」
「幽霊なの」
「あんたが幽霊だと思うなら幽霊なんじゃないの」
「埒が明かない……」

 私の言葉に、東堂さんは笑みを深める。彼女が学校に来ていた頃には見たこともないような表情、態度。おとなしく、教室の隅で独り、ひっそりと昼食をとっていた彼女に似つかわしくもない。

「その目、どうしたの」
「あ、やっぱりわかる?」

 今日は夕焼けがきれいだからごまかせると思ったんだけど、と東堂さんは続けた。彼女の瞳は、造り物じみた薄桃色、――言うなれば、撫子色、石竹色、と形容できる不思議な色合いにきらめいている。無論、私が知っている東堂さんはこんな色の目ではない。

「なんか、こんな色になっちゃったんだよねえ、死んだら」
「やっぱり死んでるんだ」
「あんた、ぜんぜん驚かないんだね」

 私の問いには答えず、東堂さんは能天気に返した。

「そりゃ、まあ、なんというか、驚きすぎてというか……」
「あんた、バカなのかもね」
「はあ……」

 幽霊に罵倒される日が来ようとは思わなかった。私の気持ちとしては、驚きというより呆れの方が大きいんだけど、と訂正する気にもならない。

「それにしても、なんであたしがあんたに会いに来たのか、聞かないわけ?」
「え?」
「あたしだったら、まっさきにそれを聞くと思うんだけど。祟りとか、こわいしさあ」

 幽霊のあなたがそれを言うのか、というツッコミを寸でのところで呑み込んだ。どうして、と小さな声をかろうじて絞り出すと、東堂さんはどこか得意げに頬杖をついた。

「んー? そんなに知りたい?」
「はい、知りたいです」
「……嘘でもいいからもうちょっと感情を込めて言ったら?」
「とってもとっても知りたいです。マジで知りたいです」
「……まあ、いっか。実を言うと、あたしもよくわからない、ってのが答えなんだよねえ」
「ええー……」

 もしかして、理由が分かるまで私付きの幽霊にでもなる気ですか、とはさすがに聞けなかった。祟り云々よりも、そっちの方が怖い。

「ねえ、あんたはどうしてだと思う?」
「ええー……東堂さんが、私のことを好きだったから、とか……」

 冗談のように私が口にした言葉に石竹色の目を丸くした東堂さんは、すぐに破顔した。

「そっかあ、そういうのもアリかあ」

 どこか嬉しそうに、どこか悲しそうに、東堂さんは笑う。心なしか、彼女の輪郭が曖昧になった気がする。瞬きをしたらかき消えてしまいそうな、薄い存在感。
 気がつけばいつしか、教室の中の溶液がほの青く濁り始めている。陽はそろそろ沈み切る。夜が来るのだ。私はゆっくりと瞬きをする。

***

 がたり、という物音に目が覚めた。大して眠っていないはずなのに、どうしてか起きなければならない気がした。
 起きなければならないって?
 私は急いで布団から抜け出して、部屋を出る。たぶん、リビングに面したベランダだ。

「さすがに気づいたんだ」

 がちゃり、と音を立ててドアを開けると、××は振り返った。リビングとベランダとを隔てる窓ガラスは全開で、心地よい風が吹き込んでくる。閉めていたはずのカーテンはきちんとまとめられていて、わずかに揺れている。

「……どうして」
「何でだと思う?」

 久しぶりに聞いた義娘の声。××は、幅が10cmほどしかない手すりの上に、足を外側に向けて座っていた。なぜか着込んでいるセーラー服の、スカーフが風にたなびいている。

「……私への当てつけのつもり?」
「何で私があなたのために自殺しなきゃいけないの」
「お父さんのことを恨んでるのかもしれないけど、少し落ち着いて」
「うるさいよ、黙って」

 いつにない乱暴な語調に思わず口をつぐんだ私に、××はゆっくりと噛みしめるように言う。

「私さあ、生まれ変わりたいんだ」

 人形のように整った顔には、何の感情も浮かんでいない。私はぼんやりとして、能面のような××の顔を眺めた。

「私以外の誰か、別の人になりたい。全部リセットしたいの」
「……それは、生まれ変わらないとできないことなの」
「そうだよ」

 というか、そもそもオカアサンは私を止めないでしょ? わざとらしく発音して、小さく笑う。事実、私の身体はドアを開けたところから一歩も動いていない。動けない、わけではない。

「アンラッキーだったなあ、私の人生」
「待って」

 身体が前のめりに、もう××だけでは立ち直れないくらいにまで傾く。動けない私に向かって、重力に身を任せた義娘は悪魔のように美しく笑った。

「あたしが、あんたのことを好きになるとでも思った?」

 薄墨色の空が、徐々に白んでいく。東側の空は、赤と青と白がところどころ混ざった桃色にぱっと染まった。もうすぐ、夜が明ける。

***

「あらー、ずいぶんぐっちゃりいったな、あたし」

 あの日の朝、私は階下の景色をベランダから見下ろして、唖然として突っ立っているしかなかった。動かなかったんじゃない、動けなかった。
 すぐ向かいのマンションから飛び降りた人がいたこと、落下していく少女と目が合ったこと、彼女が美しく笑っていたこと、そして地面でぐちゃぐちゃになっているはずの彼女が私のすぐ隣にいて一緒に現場を見下ろしていること。このくらい驚きが重なれば、人間、動けなくもなる。

「これは、大成功ってことでいいのかな」

 誰かが読んだパトカーと救急車は、十数分ほどで駆け付けた。早朝にもかかわらず、朝の澄んだ空気を切り裂いたサイレンに引き寄せられた人が路上に溢れている。警官たちが、ブルーシートで『その辺り』を覆った。絶句している私を尻目に、セーラー服の美しい少女は楽しそうに騒ぎを眺めている。

「……あなた、誰、なの」
「え、それ聞く? ふつうにわかるでしょ?」

 少女はあっけらかんと答えた。指先で、ちょいちょいとブルーシートの方を指す。

「いや、その、誰なのかっていうか……何なのかっていうか……」
「ええー、あたしはあたしなんだけどなあ。少なくとも、もう人間じゃないのは確かなんじゃない? 幽霊とか?」
「そんなあっさり……」
「だって認めるしかないじゃん、死んだんだもん。あたしも信じらんないけど」

 私が二の句を告げないでいると、少女は頬杖をついて、うーん、と小さく唸った。

「じゃあさ、あんたの妄想ってことでいいんじゃないの」
「妄想」
「あたしのことが見えるにもかかわらず、あんたは幽霊っていうものを認めたくない。でも、あたしはあんたの前から消えない。じゃあ、妄想しかないじゃん?」

 あたしあったまいいー、と少女は棒読みで言うと、楽しげに笑いながら私の目を覗き込んだ。思わず、あ、と声が出る。

「なに?」
「あの、その目は」
「目?」

 きょとんと、年齢に見合ったあどけない表情で、彼女は首を傾げた。

「ええと……その目の色、生きてるときから、なの? ピンク色なんて」
「あれ、ほんとだ」

 振り返ってベランダと部屋とを隔てるガラスに映しこんだ顔を見て、驚いたように少女が目を見開く。幽霊なのにガラスに映りこむんだ、という疑問はとりあえず保留することにする。

「ええー、なんでだろ。こんな色」
「朝焼けが」
「え?」

 聞き返した少女に、私は考えのまとまらないままによくわからないことを口走った。

「私が見たあなたの目が綺麗なピンク色で……ほら、この部屋は西向きだけど、向かいのマンション……あなたが飛び降りたベランダは東向きでしょ? たぶん朝焼けの色があなたの目に映って、移って、とか……」

 私の声が尻すぼみに小さくなっていくとともに、対照的に少女の表情は明るくなっていく。

「……なるほど、あたしの目は朝焼けってわけか、なるほど」
「なるほどって」
「なんていうか、夢があるね」

 そういえばあんた、仕事はいいの、と妄想が言う。現実に引きずり戻された私は、そろそろ支度を始めなければいけないことに気がついた。いつの間にか、妄想の姿は空気に溶け込むように消えている。
 妄想って輪郭がどこか曖昧なものなんだな、と思いながら、私は部屋に入って少し早い朝食の準備に取り掛かる。



テーマ「石竹色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

週末の終末

 あ、あの子かわいいな。

 そんな僕の心中での呟きを肯定するように、満員電車の中で彼女はふと僕の方を見た。見られていたことに気が付いたのかと思って慌てて窓の外に目をやると、ただ単にぐるりとあたりを見回しただけだったらしい、すぐに違う方向を向いたのが見えた。
 スッと頭が冷えて、思わず自分自身にツッコんでしまった。いや、なんだよ、あの子かわいいなって。変態かよ。もう一度、数メートル先に立っている彼女に目をやる。向こうを向いてしまって、今は背中の真ん中あたりまで伸びている柔らかそうな黒髪しか見えない。が、その後ろ姿だけでも、彼女が可憐で魅力的だということがうかがえる。うん、やっぱり、かわいいとしか形容できない。
 あの制服はどこの高校だろう。割と背が高いけど、運動部なんだろうか。いろいろ妄想は浮かぶ、彼女から目が離せなくなる、鼓動が早くなったのを感じる。これってなんだろう。やっぱり、自分は目覚めてしまったんだろうか。彼女がもう一度、ぐるりとあたりを見回して体の向きを変えたので、僕は再び、急いで目を逸らした。周りに気が付かれてないといいんだけど。不自然な視線にも、動悸にも。
 半身をこちらへ向けているので、仕方なく視界の端でちらちらと彼女を観察する。

「……っ」

 後ろ姿では気が付かなかったけど、彼女は顔色が優れない様子だ。そういえば、しょっちゅうこの電車を使う僕だけど、今までに彼女の姿を見たことはなかった。満員電車に慣れていなくて酔ったんだろうか、そう思った。
 そこで、微かな違和感。
 酔ったにしては、彼女の顔色はあまりにも悪い。猫背気味にすぼめられた肩がふるふると小刻みに震え、大きな瞳に涙が溜まっているのが分かる。
 僕はやっと気が付いた。
 彼女の後ろに立っている、くたびれたスーツを着た初老の男。妙に彼女に密着しているのは、気のせいではない。あの子かわいいな、と思ったのは、どうやら僕だけではなかったらしい。

 痴漢だ。

 僕は思わず息を呑んだ。気が付いているのは僕だけじゃない。ちらちらとそちらを伺って、知らないふりで目を逸らして、誰も男の行為を注意しようとはしない。普段はめったなことでは苛立ちはしない僕の頭に、かっと血がのぼった。

「あの!」

 大きな声を出した僕に、周囲が注目したのが分かった。思わず顔が赤くなる。

「だ、大丈夫ですか?」
「う、ぁ、はい……」

 今にも溢れそうだった涙が、ついに決壊して彼女の頬を滑った。
 彼女と僕の周りの人混みが少し緩まって、彼女はその隙間を縫って僕の方へと手をのばす。ぎゅう、と袖をつかまれた。その手が震えているのを見て、僕は咄嗟にその手をつかんで引っ張った。男から、彼女の身体が離れる。

「す、すみません、ありがとうございます……」

 驚いたように彼女が離れていくのを眺めていた男は、我に返ったように吊り革を握りなおした。注目されているのが僕ではなく自分だと気が付いて、僕を睨みつけて舌打ちをする。そのふてぶてしい反応から見るに、もしかしたら常習犯なのかもしれない。

『――間もなくー、チハラノー、チハラノー。お出口はー、左側です――』

 電車のスピードが緩まるのを感じて初めて、一瞬に感じたこの出来事が一駅分くらいの長さのものだったと気が付いた。男は多分、この駅で降りて逃げていくんだろう。残念ながら、捕まえて駅員に引き渡すだけの度胸も勇気も、僕は持ち合わせていない。
 電車が、完全にとまる。

『――チハラノー、チハラノー――』

 電子音とともに電車のドアが開く。僕はぐっと男を睨みつけた。少なくとも、もう彼女には手を出すなよ、という意味で。

「えっ」

 思いがけず逃げ出したのは、男ではなく彼女だった。
 彼女は僕の手を振り払うと、人がホームにどっと溢れる直前に、脱兎のごとく電車を飛び下りた。猛スピードで走って、階段を上がっていく。

「ちょ、ちょっと待って!」

 今思えば、なぜ追いかけようとしたのかは分からない。でも、涙も拭かずとびだした彼女に、なにか一言言いたいとは思った。
 しかし、タイミングが悪かった。僕も慌てて車両を出ようとしたけど、既にホームから人混みが流れ込み始めていて、思うように動くことができない。抜け出そうともがいているうちに、彼女の姿が人混みの中に消えた。中途半端にドアから出かけていた僕は、アナウンスとともにがっつり手を挟まれた。痛い。
 僕は結局、彼女を見失ってしまった。

***

「嗚呼、今日も先輩は尊い……!」

 休日の午前中、先輩は大抵散歩に出かけます。高校生の日課が散歩って、老けてんな、と思わないこともないのですが、それも含めての先輩です。小さくあくびをこぼした姿を撮り漏らさないよう、私は連射モードでシャッターを切り続けます。尊い。ナイスあくび。かわいい、尊い。
 ティッシュに限界まで染み込んでしまったために再びたらたらと流れ出した鼻血を拭って、鼻の穴に新しいティッシュを突っ込みます。ティッシュと双眼鏡、それから望遠機能付きのカメラ。これらがストーカーの必要最低限の持ち物です。はい、ここテスト出ますよー。

 ふざけている場合ではありませんね。私は双眼鏡(自衛隊仕様なので性能が良いのです。それなりのお値段でした)を覗き込んでピントを合わせます。先ほどと同じく、先輩が歩いている様子が見えました。幽霊マンションと称される人気のないマンションの階段から双眼鏡を使って先輩を観察しているわけですが、まったく気が付かないのもどうかと思いますね。普通、なにか視線を感じるな、とか思うもんですがね。
 考えているうちに、先輩がいつもの角を曲がって見えなくなります。ああ、あそこから先に行ってしまうと、周りにちょうどいい高さの建物がないために、先輩の姿を拝むのは不可能になります。ストーカーを始めた頃は茂みに隠れたりもしましたが、今の季節は綺麗に街路樹を刈ってしまうがために、それも不可能です。しょうがないので、先輩の部屋の明かりが点くまではここで粘ることにしています。
 じゃあ、それを待っている間に、私と先輩の出会いでもお話ししましょうか。



「あちゃあ……」

 こりゃあ、やっちまいましたね。私は半ばうんざりしながら、廊下に散らばったノートを眺めました。というか、週末限定自宅警備員の私に、クラス全員分のノートを運ばせるなど暴挙と言ってもいいでしょう。なに考えてんでしょうあの担任。
 既に放課後、教室棟へつながる廊下は人もまばらです。人に見られなくてよかったというのはありますが、一人屈んでノートを拾い集めるというのもなかなか堪えるものです。

「大丈夫?」

 突然の聞きなれない声に顔をあげると、そこには上級生の先輩が立っていました。優しそうな顔立ちに「イイヒト感」が漂っています。人見知りな性分の私は、最初はその先輩にさえもビクついていました。

「あ、ええと」

 一人わたわたしているうちに、先輩はさっとノートを拾い集めて手渡してくれました。お礼も言えないままに突っ立っていると、先輩は「手伝おうか?」と申し出てくれました。そんなこと、出来るわけもありません。必死の思いでお断りすると、少し残念そうな顔をして行ってしまいました。背を向けて去っていく先輩の後ろ姿に、私はしばらく呆然としていたものです。
 その後、私は先輩のことをよく観察するようになりました。観察し始めてすぐに、先輩のお人好しで世話焼きで正義感溢れる性格を知りました。あの日の出来事を反芻しては、私は胸を高鳴らせました。

 恋に落ちるのに、大して時間はかかりませんでした。



――♪~~♪♪~♪~~~~♪~

 突然の着信音に、私ははっと我に返りました。先輩が角を曲がってから時間にして数秒、まだ大丈夫でしょう。私はそう判断して、スマホのディスプレイを見ました。しーたんからの電話です。

「あーもしもし? しーたん?」
『相変わらず呑気そうな声出して……。える、今なにやってんだ』
「ええ? 先輩の観察ですよ。それがどうしたんです?」

 しーたんが尋問調に尋ねるものですから、私は仕方なく正直に答えました。まったく、しーたんは唐突で自己完結するところがありますから、困ったものです。

『どうしたんです、じゃねーよ! お前、忘れてんじゃねーだろうな?』
「あー、そういや、映画の約束してたんでしたっけ。これは失敬」
『なんだその棒読み口調! バカにしてんのか、早く来い!!』

 まったく、他人の恋路を邪魔するなんてよっぽどヒマなんですねえ。ですが、先輩が私の憧憬の対象であると同時に、しーたんは私の大切な幼馴染です。ええ、迷惑をかけていることは重々承知ですから、しーたんには頭が上がらないのです。
 しょうがない、タイムリミットですね。
 もう一度、先輩の部屋のカーテンが閉まっているのを確認してちょっと残念に思いつつ、私は階段を下り始めました。

***

「まあ、それにしてもアレだな、割とお前の映画のチョイスはうまい。B級なのにこんなに面白いと思わなかった」
「褒めても何も出ませんよ、しーたん。これ以上注文するとマジで財布が空になるのでやめてください」
「ちげーよ。また面白そうなのが演ってたら誘ってくれって言ってんの」

 俺の向かいに座ってコーラとメロンソーダのオリジナルブレンドをずるずる飲んでいたえるは、軽く目を見張ってストローから口を離した。目線が斜め上を向いて、しばらくしてから、ぴこーん! と頭の上に豆電球が浮かぶ。

「……ほっほう。そうでした、君はそんなヤツでしたね、失念してました。ふむ、先輩の純真さに私は惹かれているわけですが、君もしょうがないツンデレですねえ、ネタにしたくなっちゃったじゃないですかぐふふぅ」
「おい、戻ってこい」

 ぶつぶつと呟きながら猛スピードでスマホをタップするえるに、俺は紙ナプキンを差し出した。ぼたぼたと鼻血を垂らしながらも、幼馴染はニヤケ面を顔に張り付けている。怖いよお前。

「……ふう」

 どうやらやっと落ち着いたえるは、鼻の下に垂れた鼻血をごしごしと拭ってからスマホをしまった。満足そうに、もう一度ストローに齧りつく。先ほどのニヤケ面との差に、俺は思わず半目になった。

「変態め……」
「違いますよ。あ、でも先輩に『僕は、あなた限定の変態なんだ……(照)』とか言わせたいですね、うっはー萌える」
「だからそういうのを世間的には変態って言うんだよ!」

 変態は、いくら映画のチョイスが上手でも、やはりどこまでも変態だった。こいつは、どこで間違ったんだろう。考えてみれば、イケメンの保父さんにまとわりついて独占しようとしていた幼稚園生のころから、片鱗はあったかも知れない。とんでもない幼馴染を持ったもんだ。
 二人で騒いでいるうちにいつの間にか時間がたってしまったようで、時計を見たら午後三時を回っていた。おや、そろそろ先輩が外に出る時間帯じゃないですか! と騒ぎ出したえるに追い立てられるようにして、俺はファミレスを後にする。

「じゃ、私はこれで。先輩は、今日どこかへ買い物に出かけるみたいだったんで、そろそろ帰ってくる頃でしょうし」
「お前、その『先輩』中心の生活習慣何とかした方がいいんじゃねえの……」
「はははー、冗談もほどほどにして下さいよ」

 ふらっと背を向けたえるの手には、既に双眼鏡が握られている。変態もここまで堂に入ると、もう違和感すら感じなくなるから不思議だ。

「……通報されないようにしろよ」
「なに言ってんですか、私たちの愛を壊すものは一匹残らず駆逐してやりますからご心配なく」
「なにそれ怖い」

 というか通報されるっていう意識はあるのな、とツッコもうとして、既にえるが行動していることに気が付いた。おい、塀をよじ登るのはどうかと思うぞ。そこ、民家だろ。
 完全にえるの姿が塀の向こうに消えてから、俺は溜息を吐いた。なるべく急がないと、もしかしたら間に合わないかもしれない。そう、実を言うと、俺も焦っていた。時間としては、ちょうど彼女が飼い犬を連れて散歩に出かける頃だったからだ。

 彼女は、家の近所に住んでいる。初めて俺が彼女を見たのは、彼女が三歳の時、つまり二年前だった。確か、具合が悪くて学校を早退した日。幼稚園からの帰り道に彼女が母親と歩いているのを見て、俺はつい立ち止まって見惚れてしまった覚えがある。
 彼女については、隣の家のおばさんと少し話しただけですぐ知れた。ここら辺では有名な庭の広い豪邸に住んでいて、父親は有名会社の重役。年相応に活発で、優しく明るい、まっすぐな良い子。飼い犬の承太郎をかわいがっている。
 そこから、彼女に取り入るのは造作もなかった。犬の散歩をしているときに話しかけてみる。繰り返すうちに仲良くなって、豪邸に招き入れられる。彼女の母親と話をして、高評価を得る。それだけで、俺は彼女とお近づきになれたという訳だ。やれやれ、少しガードが緩すぎるんじゃないのか?

 念のために言っておくが、俺はロリコンと呼ばれる類いの人間ではない。別に他にもいくらでも幼稚園児はいるが、俺はそいつらには興味がない。ゆかりちゃんだけが、やけに神々しく見える。俺の嗜好が歪んでいるというのは百も承知だし、こうやって待ち伏せしてまで彼女と話したいという欲求の異常さは理解している。ああそうさ、俺はえるに注意できるほど潔白な人間じゃない、むしろ同類だ。二人そろって、変態に育ってしまったらしい。
 えると俺は、どこで間違ったんだろう。そんな問いが一瞬頭の片隅をよぎって、消えた。いつものコースの真ん中あたりに陣取って、俺は彼女が通りかかるのを待つ。

***

 角を曲がる直前に「奴」のにおいを感じて、私は思わず立ち止まった。が、もちろん娘はにおいを感知できないので、足を止めることはない。必然的にリードが最大まで伸びて、娘は後ろに小さくよろけた。

「……娘よ、その角は曲がらぬ方が良い」
「承太郎、ひっぱらないでよー」

 がるるる、という唸りになって私の喉から発せられた声は、娘には理解できない。困った顔をしてリードをひく彼女は、その身に忍び寄っている危険に気がついていないのだ。困っているのはこちらだというに。思わず尻尾が下がる。

「ほらあ、行こうってば」

 ここまで言われてしまっては仕方あるまい。私はしぶしぶながら四つ足で踏ん張るのをやめ、娘に付き従った。誇り高きシェパードは、主と主の群れにはあくまで忠実なのである。
 警戒しながら歩を進める。匂いの発生源はまったく動く様子がなく、結局そのまま娘と私はその丁字路を左へ曲がった。
 待ち構えていた様子を微塵も見せず、向こうから歩いてくる青年が胡散臭い笑みを浮かべる。

「ゆかりちゃん、こんにちは」
「しーくん!」

 嗚呼、幼い娘は気付いていない。娘が角を曲がって姿を現した瞬間、しーくんと呼ばれている青年は発情の香りをさらに濃くした。娘と十以上も年が離れているというのに、奴は娘――ゆかり殿に興奮しているのである。とんでもない奴だ。

「今日は一人で承太郎のお散歩?」
「うん、一人だよ。しーくんも一人?」
「んーとね、さっきまではえると一緒だったんだけど、用事があるって言ってたからバイバイしたんだ」
「ふーん。じゃあ、いっしょに帰ろ!」

 ご近所さんという名目で、奴は主と娘に取り入っている。そして、このように娘を主の家まで送り届けることで、主の信頼を勝ち取っているのである。あくまで偶然を装う此奴の計算高さといったらない。
 頷いてにっこりと笑った奴は、その笑顔を緩めてちらりとこちらを伺い見る。嗚呼、その目! 私が敵視しているのを奴は薄々感じているらしい。媚びるように細めた目は、どうしたら私に取り入れるのだろうかと模索しているのをはっきりと感じさせる。ふん、貴様などに気を許すことなど一生ないわ。

「相変わらず、承太郎は俺のことが嫌いなんだね」
「そうかなー?」
「そうだよ。ほら、俺が手伸ばすとプイってそっぽ向くんだもん」
「ほんとだ。承太郎、仲良くしなきゃ、めっ!」

 こつん、と小さな手が私の頭へ振り下ろされる。正直痛くも痒くもないのだが、娘の手が奴のために振り下ろされるのは気に食わない。

「娘よ」

 わざとらしく耳を垂らして、くうん、と一鳴きした。もちろん娘は優しいので慌てて、痛かったの、ごめんねと、頭を撫でてくれた。頭も撫でてもらえない貴様などとは格が違うのである!
 再び娘と奴は歩き始める。他愛もない話はまだ続いていたが、正直、私は会話に参加できないのでつまらないのである。くんくんと、鼻を鳴らして雑多なにおいを嗅ぎ分けてみたりして、気を紛らわすしかない。

「む」

 再び、私は立ち止まった。微かな残り香を鼻に感じる。

「またあ? 承太郎」
「いや、……なにやら懐かしい香りがしたものでな」

 今までに嗅いだことがあるようなないような。私の朧げな記憶では、確かこれは。娘のことも奴のことも一瞬忘れて、においの記憶を探る。数年前に、じゃあね、という言葉と共に去って行った少年。あれがまたこの辺りを通ったということか。いや、ではしかし、この化粧の甘い香りの説明がつかぬ。番でも作ったのであろうか。

「承太郎?」

 娘の不思議そうな声に、はっと我に返った。

「すまぬ、娘。なんでもない」
「しーくん、承太郎どうしたんだろう?」
「うーん、ぼんやりしてたんじゃない? 番犬にあるまじき行動だよねぇまったく」
「貴様、何時まで私を愚弄するか! その喉笛、今すぐ噛み千切ってやっても良いのだぞ!」
「だめだってば、承太郎ー」

 娘に制されながらも、私は笑う奴に向かって唸った。やはり此奴は失礼千万である! いつか一泡吹かせてやろうぞ!!

「それにしても、本当にどうしたんだろうね。なんか考えてるような顔してたけど」

 まっ、考えるにしても犬の頭じゃ、と奴は続けたが、娘はその言葉にカチンときたらしい。しーくん、そんなこと言ったらぜっこうだからね! と申し渡されて、奴は真面目な顔になって謝った。いい気味である!
 む、また香る。

***

「はー、疲れたぁ……」

 右手に紙袋、左手に紙袋。典型的な買い物帰りの女子高生の図だ。すれ違う人も、私に注目する人はいない。よし、大丈夫。私はただの女子高生。
 いささか挙動不審かもしれないけど、このくらいの警戒はすべきだ。秘密を抱えているときは、いつ何が起きてもおかしくないっていう危機意識は持っていた方がいいと、姉さんはよく言っていた。まあ、昨日みたいなことは起きないだろうけど、念には念を入れて。
 でも、次の瞬間、私は念の入れ方を間違っていたことに気が付いた。

「あ」

 目の前で声をあげられて、私は身を固くした。思わず私も立ち止まる。顔をあげると、そこには、

「あの、昨日の」

 彼の言葉が終わる前に、私はくるりと向きを変えて走り出した。後ろからは、ちょっと! という声とばたばたという足音とが聞こえて、彼が私を追いかけてきているのが分かる。どうして、こんなところで会っちゃうんだろう! 昨日の電車に乗り合わせていた人たちに会いたくなくて、今日はバスで帰ろうと思ったのに! こんな偶然なんて、嬉しくない!

 商店街を抜けて、周りは住宅地になった。数年前まで私の家族はこのあたりに住んでいたんだけど、開発が進んだからか、道が全く分からない。彼がまだ後ろから追いかけてきている上に、初めて履いたローファーは意外にも踵が高くて走りづらい。かまわず走り続ける。

「ちょっと! 待ってください!」

 ほっといてくれよ! 叫びたいのを必死で我慢した。大声で叫んだら、バレてしまうかもしれない。
 ああ、やっぱり、昨日痴漢された時点で、こんなことをやめればよかった。
 後悔の念に苛まれながら、私は思い返した。実はアイドルだとか、実は戦う変身ヒロインだとか、そんなキラキラした秘密じゃない。もっと根本的なところに、問題はある。

 私は――僕なのだ。物理的に。

 大学へ進学した姉の荷物を片づけていたときに、もういらないわね、とゴミ袋につっこまれた制服をこっそり持ち出して隠しておいたあの瞬間から、私は……いや僕は、既にマズい方向に片足を突っ込んでいた。普通に歩いていても男だとは思われないし、むしろちやほやされる。文化祭の時に無理やり女装させられた時の高揚感を、僕は忘れられなかった。人を騙すという行為に酔っていたのかもしれない。
 でも、昨日電車の中で太腿に手が置かれた時には、さすがに声をあげそうになった。この手が、もう少し上の位置へ移動したならば。さわさわと内腿を這う手の感触よりも、電車の中で女装がバレることが気になって、悪寒が止まらなくなった。だから、あの時の彼の一言は、ある意味では救いだったし、ある意味では余計なお世話だった。そのおかげで、僕はこうして今、彼に追いかけられているわけだし。

「あの! 生徒手帳落としてますよ!!」
「えっ」

 思わず足を緩める。振り返ると、彼は数メートル後ろに立っていて、汗だくになって肩で息をしていた。その手には、見覚えのある緑色の手帳が握られている。走っているうちに、カバンのポケットから落ちてしまったらしい。

「すみません、追いかけたりして、でも、やっぱりこれ落とすのはマズいよなって、思って、」

 ぜーはーと深呼吸しながら、彼は僕の方へと手帳を差し出す。危なかった。生徒手帳の裏表紙には、生徒写真が貼りつけられている。このまま僕が逃げていたら、僕が男だと彼に気が付かれるのは避けられなかっただろう。

「その……昨日も今日も、ありがとうございました」
「覚えててくれたんですか。嫌な気分になったでしょう、すみません」

 そういうわけでは、と言おうとして彼を見上げると、目が合った。彼のもともと赤かった頬に、違う意味でかっと血が上っていくのに気が付く。嫌な予感がした。とっくに外れた視線を彷徨わせながら、彼は口を開く。

「あ、その、もしよかったら、今度お茶でもどうですか」

 あまりにもベタな誘い文句。その意味が分からないほど、僕も男を捨ててはいない。でも、僕は心が女の子であるとか男が好きだとか、そういうわけではない。ただ単に、女装が好きなだけだ。いや、ただ単に、と言えるものではないかもしれないけど。
 とにかく、彼が僕に恋心を抱いているとしても僕はもちろん答えるつもりはないし、むしろ今、僕の腕にはぷつぷつと鳥肌が立っているくらいだ。きもちわるい。

「あっ、無理にとは言いませんから。すみません、変なこと言って」
「う、ええと」

 僕はよっぽど困った顔をしていたらしく、彼は少し笑ってぶんぶんと手を振った。引き下がってくれたというのに、残念そうな彼の笑顔に、鳥肌がなかなかひかない。僕がひきつった笑みを浮かべると、ぽっと彼の頬が染まるから悪質だ。
 会話が途切れる。彼は話題を探して、視線をうろうろさせている。ここらへんで終わりにしないと、もしかしたら深入りされるかもしれない、と思って、僕は口を開こうとした。

 その瞬間、先ほどとは比べ物にならないくらいはっきりと、嫌な予感。

「ふわっ!?」

 ぶわりと。一陣の風が吹いて、まるでマンガか何かのように、短く折った制服のプリーツスカートは簡単に捲れ上がった。慌てて裾を抑える。いや、でも、このタイミングだと、絶対間に合っていない。思わずかあっと顔に血が上る。嫌な予感が当たった。

「み、見た……?」

 嫌だ、これじゃまるで、本当に女の子みたいじゃないか。昨日は痴漢、今日はパンチラ。僕は女の子的イベントに巻き込まれたいんじゃなくて、ただ純粋に女装を楽しみたいだけなのに。涙をこらえて、恐る恐る彼を見上げる。

「なんで……」

 以外にも、彼の頬の赤みはひいていた。驚きだけが浮かぶその顔に、僕は違和感を感じる。予想と違う。少し考えて、一つの可能性を思い出した。
 僕は、スカートの下に何を履いている?
 答えから言ってしまえば、僕は今、下着まで女物を履くという徹底的な女装はしていない。いつも通り、男物だ。当たり前だ、昨日初めてスカートを履いてみて、ウィッグをかぶってみて、化粧をしてみたんだから。今日買ってきた服だって、親に見つからないように、少なくとも大学に行って家を出るまでは押入れの奥だ。

 であるからして、彼が見たのは女の子の究極領域のはずはなく、すなわち。一瞬で血の気が引いた。嘘、嘘。そんなことって。あと数十分で何もないまま終わるはずだったのに、ここまできてバレるなんて。
 目が合う。甘酸っぱい空気はない。彼の顔は真っ青に染まっていて、ああ、僕の顔もこんな感じに違いないと思った。諦めとか絶望とか、そんな単純な感情では表現できない。
 僕が私になった週末が、通り過ぎていく。

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

リリーホワイト

 これは世界中のどこにでもある、もう何度繰り返されたかわからない、ありふれた片思いの物語。どこにでも咲いているユリのように見慣れてしまった、それ故に忘れてしまった、純粋で、だけど少し悲しい恋の物語。もう何度目なんだろうか……この物語は……この物語を語るのは……この物語が語られるのは………………



 この物語を語るには、この世で最も美しかったある王妃の話から始めるのがちょうどいいだろう。むしろ僕にはもうそこからしか語り始められない。
 
 昔々、あるところにとてもとても深い森がありました。当時はGPSもない時代です。近くの村に住む人でさえ入ったら二度と出てこれない、迷いの森。そんな森の奥には人間が立ち入らなかったためか、少し不思議な、太古の時代から森で生きている小人と精霊がいました。精霊は長い間森で暮らしてきたため森のことは何でも知っていますが、人間には見えませんし、会話をすることもできません。小人は少し人間に似いている存在です。とてもとても長い年月を経れば人間と同じくらいの大きさまで成長しますが、多くはそこまで長い年月を生き続けることができません。しかし人と同じように内面は成長していきます。また人とも精霊とも会話することのできる珍しい生物です。小人は精霊の力を借りながら森の奥でひっそりと暮らしていました。
 ある日、小人が森で夕飯の木の実を集めていると、なにやら精霊が慌てています。どうやら人間が森に迷い込んだようです。人間が森を荒らしてしまうと困るので、小人は精霊から人間の場所を聞き、監視しに行きます。人間が森に迷い込むのはそれほど珍しいことではありません。罪人が罰として森に入れられたり、自殺しようと森に入り込んでくる人間もいます。大体は特に何かすることもできず死んでしまいます。だから今回も特に何か起きることもないだろうと小人たちは思いながら、監視にあたりました。迷い込んだ人間は美しい少女でした。小人は普段人間と会うことはありません。そのため人間の美しさはわかりません。しかしどうしてか小人はその少女を美しいと思いました。人間の言葉で言うと一目ぼれというところでしょうか。けれども少女の細い体は森の厳しさに耐えられそうにもありません。小人は気の毒に思いつつも、助けることはせず少し離れてただ見ていました。
 やがて少女は倒れて動かなくなってしまいました。小人はついに息絶えたと思い可哀そうに感じ、墓を作ろうと倒れている少女のもとに近寄りました。近くで見る少女は遠くから見たときよりも一層美しく思えました。しばらく少女に見とれた後、少女の傍に墓を掘り、少女を納めようと少女の体に触れました。そのとき、少女は目を開きました。少女はまだ生きていたのです。小人は少女が生きていたに驚き、また初めて人間と出会ったことで慌ててしまい固まってしまいました。少女は生きてはいたものの元気はなく、たった一言だけ、「お願い、助けて」とだけ言うと気を失ってしまいました。小人はこのまましばらく放っておけば少女は息絶えるだろうと思いながらも「助けて」と言われてしまったので見捨てるわけにもいかないと思いなおし、自らの住む家まで連れて帰りました。
 家で介抱していると少女はだんだんと元気を取り戻してきました。少女がすっかり元気になった頃、小人は少女が森に迷い込んだ事情を聞きました。少女は魔女に追われており、森に逃げ込んだとのことでした。小人は少女を森から元いた場所に帰そうと思っていました。しかしまた魔女に追われることになると、このまま森で小人と共に暮らしたほうが少女のためだと思い少女とともに森で暮らすことにしました。
 このことについて精霊は特に何とも思っていなかったようです。精霊は人間とかかわることはできませんし、森が特に荒らされる訳でもないのなら、人間がいるかどうかは些細な違いだと思っていたようです。
 しばらく小人は少女と一緒に暮らしていました。森での暮らしは大変です。小人は森のことをよく知る精霊と話ができるため食料を集めたりできますが、精霊と話すことのできない人間にはできることがほとんどありません。少女は元気になっても、元気のなかった時と同じように小人の用意した食事を食べることくらいしかすることがありません。少女は助けてもらったのに特に恩返しができていないことを心苦しく感じていました。
 ある日のことです。少女は家の周りを散歩していました。だんだん成長していく少女にずっと家の中にいさせるのもよくない思った小人が、比較的安全な散歩道を教えてくれたのでその道を通っていました。いつもと同じように散歩道を通っていたのですが、その日は偶然通りかかった旅人と出会いました。森に来てから、小人以外の人と会っていなかった少女は嬉しくて、旅人としばらく話したあと家に誘いました。二人で家に帰り、一緒にお茶を飲んで話を続けました。小人は帰ってくると、そこに見知らぬ人がいたため驚き、警戒しましたが、少女の紹介を聞き、話しているうちに安心しました。話しているうちに日も暮れてしまったので小人は旅人を家に泊めました。
 その翌日のことです。旅人が出発の準備をしながら小人と話している間、少女は日課となっていた散歩に出かけました。その時偶然にも、森に逃げ込む前に、家族と一緒によく食べていたリンゴを見つけました。少女はそのリンゴに懐かしさを覚え、取って食べてみました。すると少女は倒れてしまいました。なんとそのリンゴは魔女が用意した呪いのリンゴだったのです。少女は呪いにかかってしまい意識を失ってしまいました。精霊は少女が呪いにかかったことに気づいたので小人に伝えてあげました。小人と旅人が慌てて少女を家に連れ帰り、小人は精霊に呪いを解く方法を聞きました。精霊によるとこの呪いは呪いを受けた者と相思相愛な者のキスによって解かれるとのことです。小人はしばらく悩んだ後、少女にキスをしました。しかし少女は目覚めません。どうやら少女が愛しているのは小人ではないようです。今度は旅人がキスをしました。すると少女は目覚めました。どうやら少女が愛していたのは旅人だったようです。小人と旅人は大いに喜びました。小人は森にいることも少女にとって危険だと思い、旅人に少女を預け一緒に旅に行くことを勧めました。少女もそれを望んだため、旅人は少女を連れていくことにしました。
 それから長い年月が経ちました。あれから小人は何を思ったのか、ある日突然精霊に別れを告げて森から出ていきました。噂によると人間の世界で旅を続けているようです。旅人と少女はしばらくして旅の途中で結婚し、子をもうけたようです。旅人の不思議な縁で彼女らはある国を治めるまでになりました。旅人は王に、少女は王妃になったようです。美しかった少女は成長してからも変わらずに美しく、この世で最も美しい王妃と呼ばれたようです。王となった旅人は、長年の旅のせいか、長く王であることはできなかったようです。
 王がいなくなった国はたいていうまくいかないと聞きます。とくに子供も幼く後継ぎがいない場合、たいてい王妃が代わりに国を治めますが、その心労から病んでしまうことはよくあることです。この国もまた例外ではなかったようです。噂に聞くところでは王妃は病んでしまい自らの娘を国から追い出してしまったとか……



テーマ「リリーホワイト」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

眷属人形の憂鬱

 たとえば、君が先ほどすれ違ったあの人。どんな姿をしていたか思い出せるかね? 服装は? 人相は? 性別は? 性格は?
 ……ふむ、性格までは分からない、と。そう、つまりそういうことなのだよ。
 分からないかね。では私から逆に問おう。君は何故あの人を一目見ただけで性別まで判断出来た?
 服装……骨格……弱いな。異性装趣味を視野に入れていない。骨格なども見せ方次第である程度は誤魔化せるし、あるいは生まれつきそう見えてしまう体格の持ち主かも知れない。つまり本来性別特定のためには、性器や遺伝子のよりディープな観察を要するのだよ。
 出鱈目を言っているつもりはないのだがね。深く交わって分析してみて、それからようやく結論が得られる。そういう点では性格と何ら変わりない要素だとは思わんかね?
 話が逸れたな。えっと、何処までいったか……あぁ、そうそう。性格は外見から判断出来ない、そんな感じだったか。
 つまりはだね、君。他人など少しすれ違うだけならばショーケースの人形と同じ。どんな者の手によって作られ、内にどんな思いが秘められているか。そして仮にそれが夜になると動き出す呪いの人形だったとしても、ほんの少し視界に入れただけでは知り得ないことなのだよ。

「あ~……いちいち小難しい言い回しされても俺には分かんねぇっす」
「HAHAHA! これは失敬。君の頭は空っぽだからね。材料に使って余った蛙がいるのだが、そいつの脳味噌でも入れてやれば少しはましになるかね?」
 知らない方が幸せでいられたかも知れないワードがちらりと聞こえた気がしたが、冗談が公用語の国で育ったのかと疑いたくなるこいつの言葉を真に受けるだけ無駄だろう。そうやってこれまで何回もからかわれてきたことは覚えている。生活に支障が出ない程度の学習能力を与えてくれたことくらいは感謝せねばなるまい。
「中で腐っちゃうのでお断りします。それで、言い訳は済みましたか? 人間とは一味も二味も違う魔法使いセンセーがこんなでかい店の中をうろついても大丈夫なのかって」
「うむ。君のような木偶の坊でも理解出来るよう噛み砕いて言うとだね、見ただけで私の正体を暴ける奴はこっちの世界に存在しないので問題ないというわけだ」
「最初からそう言えば良いものを」
「丁重にお断りさせて頂く」
「はいはい……ったく、確かにあんたみたいなナリしてたら、魔法使いなんて言っても子供の妄想くらいにしか皆思ってくれなさそうっすけどね」
「何か言ったかね?」
「別に」
 ぱんぱんに膨らんだ紙袋を幾つもぶら提げた両腕が軋む。『耐久性テストも兼ねて』などとのたまい、購入した衣類やら変な雑貨を全て俺に押し付けた師匠――ジョーさんは、飛び跳ねるように俺の先を進み、次の店を物色しているようだった。『しょっぴんぐもーる』とかいうこの建物は商店街のように多くの店が立ち並び、人々がその間を目まぐるしく行き交う。小柄な師匠はすぐに人混みに埋もれてしまいそうで、荷物を抱えながらそれを見張るのは正に苦行だった。
「師匠ー、頼むからあんまり遠くに行かないでくださいねー」
「分かっているとも。君が迷子になったら誰が私の荷物掛けハンガーをやるんだい?」
「迷子になりそうなのはあんただっつってんすよー……クソッ、聞いちゃいねぇ……!」
 童話の主人公が着ていそうな赤いローブを翻して走り回る女の子と、大量の荷物を持ってそれを追いかける少年。先ほど師匠が言っていたように、一般人の目に俺たちがそう映っているならば、分かることは本当にそれだけだろうか。すれ違う他人だって、見た目以外に推測出来ることがあるはずではないだろうか。
「ふむ、こんなところか……ピノ、早くしたまえ!」
「師匠、そっちは出口っすよ?」
「分かっている。一通り見たから今日のところは帰ると言っているのだよ! 材料の鮮度が落ちたらどうする!」
「へいへい、公共の場なんで大声出さないでくださいねぇ……」
 腕の負担が伝わったのか、ぎしぎし言い始めた膝に鞭打って、小さな赤い背中の後を追う。
「わっ」
 一瞬、すぐ足元を小さな子供がばたばたと通り過ぎる。見た目は師匠よりもずっと幼い、自分の足で動くことを覚えたばかりの赤ん坊のようだった。
「す、すみません……こらー、走んないでー」
 俺に謝りながら小走りで同じルートを通っていったあの女性は、子供の母親だろうか。いつも師匠相手に自分も似たようなことをしているからか、その疲弊した背中に妙な親近感を覚えてしまった。
「ピノ!」
「あー、はいはい! すぐ行きますよー!」
 しかし、どう推測しても、俺と師匠は親子には見えまい。せいぜい兄妹か、あるいは――とにかくその辺りが妥当な線だろう。
 ともあれ、師匠の言う通り、俺たちを見て、関係を想像して。しかしそこから先は何も無い。結局それは推測なのだ。俺と師匠が――
 バンッ!
「ぎゃっ!」
「んー……?」
 少し先に自動ドアを潜り、そのまま歩こうとしていたらしい師匠がゆっくりこちらを振り返る。
「……ピノ、何をしているんだい? 君が考案した新しい遊びかね?」
「ンなわけねぇでしょうが……。挟まれただけっすよ、普通に通ろうとしたら」
「理解不能なのだよ。何故自動ドアなんかに――あっ」
 まるで不審者でも見るような怪訝な顔をしていた師匠だったが、何かを思い出したのか突然目を見開き、次の瞬間にはそれをぎゅっと細め、代わりに口を大きく開いて笑い出した。まぁ随分と忙しい表情筋をお持ちで。
「HAHAHA! HAHAHAHAHA!! あぁ、そうだった! 私としたことが、何故自分の眷属の性質を忘れていたのだろうね!」
「知らねぇっすよ」
「HAHAHA……あー、笑った。そうだったね、君には体温が無い。人感センサー式の自動ドアでは君のことが認識出来ないのは当然だったね」
「笑ってないで助けてくださいよ、師匠。痛くはねぇっすけどこいつ凄い力で閉めようとしてくるし、何となく背後から猛烈な視線を感じるんで」
「分かっている、私も鬼ではない。美少年がいつまでも無様な醜態を晒して良いものでもないからね」
 師匠が再び自動ドアに近付くと、師匠の存在に気付いた自動ドアがゆっくりと開いていく。締め付けが消えたのを確認してから外へ出ると、ガラス張りのドアはまた同じように接近を始め、そして何事も無かったかのようにぴたりと閉じた。幸い故障はしていないようで一安心だ。認識しないものを挟んでイカレさせてしまったとあれば、自動ドアが可哀想でならない。
「ピノ、怪我は無いかね?」
「さぁ、痛くないんで分かんねぇっす。あっ、肘見えてら」
 腕に巻いていた包帯が解れ、露出した球体関節。あまり人様に見せて良いものでもないそれを隠すように包帯を簡単に巻き直す。紙袋の紐に圧力をかけられてもほとんどずれなかったというのに、あの自動ドアは何なのだ。俺を本気で真っ二つにしかねない力だったではないか。非人間、非生物に慈悲は無いとでも言わんばかりに。
「恐るべし、人間界の邪神しょっぴんぐもーる……」
「何を言い出すんだ君は。体どころか頭にまでガタがきているのかね。まったく、帰ったらまず整備からしてやるとしよう」
 さて、今の俺たちはどう見えているのだろう。俺たちを見て、関係を想像して。しかしそこから先は何も無い。結局それは推測なのだ。
俺と師匠が、眷属と主人の関係で、人ならざる魔の存在であること。それをショーケースから眺めているうちは、きっと誰にも分かるまい。

 誰も近付かない、路地裏の掘っ立て小屋。その地下に下りたところが、師匠こと魔法使いジョーのラボだ。魔法実験に使われる怪しげな器具と、こいつの趣味らしきカラフルな雑貨が並ぶカオスな部屋の中央。手術台のような質素なベッドに全裸で転がされた俺は、馬乗りになった師匠に全身を好き勝手に弄られていた。
「し、師匠……」
「何だね」
「も……それ、やめてください……」
「誰が目を逸らして良いと言った。あの程度でこんなになって……じっとしていたまえ。すぐによくなる」
「だから、本当……し、視覚的に良くないんで……関節を逆に曲げるの、やめてくれません……?」
「黙りたまえ。曲がるものなら曲げたくなるのが人のサガよ」
「子供かあんたは。俺は玩具じゃねぇんすよ、整備するなら真面目にやってください」
「ドールは本来玩具だろう。君が道端に転がされる前にも似たような扱いを受けたのではないのかね?」
「……意地悪」
「上級の褒め言葉をありがとう」
自動ドアの猛攻に加えて膝に響くほど荷物を持たされていた腕は、幾重もの索条痕と潰れた関節でボロボロになっていた。更に師匠が本来の人体構造を無視して勝手な方向に曲げまくるせいで、痛覚の無い俺自身でも実際の怪我より重傷に見えてしまう。
「あの、マジでやめてください。見た目相当グロいっすよこれ。ビジュアル出してたら掲載規制レベルっすから」
「何処に向けての言葉か存じ上げないが、茶の間を追われたらホラー映画にでも転向するがいい。君なら良い稼ぎになる」
「嫌っすよ。俺はアンティークな老い方に憧れてるんす」
「人形風情が一丁前に……うむ、駄目だなこれは。再生魔法に頼るほかあるまい」
「えぇ~……」
「『えー』じゃないのだよ、軟弱なプラスチック製の分際で。人体と違って自然治癒能力が無いのだから、傷が付いたら魔法で修復するのが当然ではないのかね」
「だったら何で最初から人間にしてくれなかったんすか。あんたなら不可能じゃなかったでしょうに」
 ちら、と、ラボの隅に追いやられた白いキャビネットを見やる。ガラス張りの棚には無数のトロフィーやら賞状やらが乱雑に置かれており、『マンドラゴラ品評会 金賞』『錬金術論文コンクール 最優秀賞』などといった文字と共に、師匠の名前らしきものが見たことのない言語の文字で簡単に添えられていた。奥の方で妖しい輝きを放つ三つのオーブは、魔法学校の初等部から高等部までをトップの成績で卒業したものに一つずつ与えられる――
「私の魔力は関係ないのだよ。悔しかったら君自身が私の眷属としてもっと精進したまえ」
「成長すればもっと人間らしくなれるってことっすか?」
「無意味に自我をくれてやったわけではないからね。眷属の能は主人の評価にも加味される。役立たずなりにやる気になれば妖精さんあたりがどうにかしてくれるさ。そんな童話があっただろう?」
「あぁ、鼻が伸びる木彫りの人形の。もしかして、俺の名前もあいつからとったんすか?」
「いや、名前考えるときにたまたまアイス食べてたから。確かその商品名がそんな感じだった」
「ちょっと巡りかけた思考を返せ」
 とにかく、このまま傷と関節を放置するわけにもいかない。汚れや塗装の剥げを直してもらったことはあれど、破損の修復は『生まれて』初めてなので、緊張と恐怖が渦になって何処にあるかも分からない心を支配するけれど、今は師匠に身を委ねるしかないのだ。どうせ、もう逃げ道は何処にも無い。
「さて、と。団欒の時間はこれくらいにして、さっさと始めるとしよう」
 随分過激な団欒でしたけどね、と俺が声を発するより早く、師匠は俺の上から退き、フラスコやら試験管やらが並ぶ実験台の前で何やらがちゃがちゃとやり始めた。
「前から思ってたんすけど、師匠の魔法やら薬って見た目が派手な割に過程が古典的っすよね。分化して人間のものになったとかいう『カガク』染みてるというか」
「伝統を重んじる校風だったからね、私の出身は。悪く言えば黎明期のやり方に固執する古臭い教育ばかりするところだったわけだけれど。しかしどうせなら『魔法映え』するようにやった方が見る方もやる方も楽しいだろう? 私にはそれが出来るというだけだ」
 師匠がかざした一本の試験管。その中には、星空を掬って流し込んだような、美しく輝く濃紺の液体が半分ほど入っていた。
「綺麗、っすね……」
「そうかね? 君に褒められて悪い気はしないが」
「それを、俺に?」
「あぁ。薬さじ一杯分ほど患部にかけて、残りは口から流し込む。一晩も寝れば元通りなのだよ」
 薬さじと試験管を手に、師匠が俺のベッドへ戻ってくる。歳の割にガキ臭くて、その癖して変な言動で散々からかってきて、目を離したら流れ星のように何処かへ消えてしまいそうな、正直仕えるのも嫌になる魔法使いだけれど、結構俺のことを大切にしてくれていて、魔法使いとしてはかなり優秀で、魔法の魅せ方を熟知している。
「そうそう、これは余談なのだがね」
 こういうところは、素直に尊敬しているし、感謝もしている。俺はきっと、魔法使いジョーの眷属になるべくしてなったのだろう。
「見ただけでは分からないこともある。私は先ほど君にそのようなことを教えたがね――」
師匠なら俺にもう一度生きる価値を与えてくれる。もう一度壊れるまで傍に置いてくれる。綺麗に飾られてショーケースの中に入るより、主人の手元から離れて野良犬の玩具にされるより、もっとずっと大切なものを、俺のこの空っぽの体に詰めてくれるはずだから。
「この再生魔法薬の材料として、蛙の脳味噌と――」
「げふっ⁉」
「あっ、こら! 勝手に吐くとはどういう了見かね、ピノ!」
 せめて、もっと立派な姿になれるその日まで。なるべく幸せになれることだけを拾いたい――と願うのは、わがままに終わるかも知れないけれど。

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

檸檬の世界

「ねぇ、先生」
少女は問う。
「なんだい、檸檬」
青年は答える。
それだけが、すべてだった。

   一 「檸檬」

空が青い。遠くから蝉の声がする。レモンのつぼみが膨らんできている。それから、それから……
白い診察室から眺める風景は、いつも変わらないようで、いつも違う。空はすこしずつ赤くなっていくし、蝉も静かになっていく。レモンの花だって、もうすぐしたらきれいな花を咲かせて、それからしぼんで、実をつけることだろう。
けれどあたしは、
「ねぇ、先生」
「なんだい」
先生は眼鏡の奥でにこやかに返す。こういうのを「微笑み」というのだと、最近知った。
「あたし、あとどれくらいここにいなきゃいけないんですか?」
先生は、困ったような顔をする。
「病気が治ったら、ここから出られますか?」
「檸檬」
 耳朶に直接響く声。あたしの知っているどの声よりも低い。それが今、あたしの名前を呼んだ。
「君は、もしかして叱られたいのかな?」
「やっぱり、先生には、わかっちゃうね。この間看護師さんにやったら、どう答えようかすごく迷ってたのに」
真剣にしていた顔を、笑顔で崩して言う。
「遊んで、ごめんなさーい」
「反省しているように見えないんだけれど」
先生も笑いながら答える。
「お遊戯の時間は終わったかな?じゃあ、診察も終わったことだし、採血するよ」
「はーい」
あたしは子どもらしく、手を挙げてみせたりする。
「あ、それから、あんまり看護師さんで遊ばないように」
「はいはーい」
「返事は一回、だろう」
笑いながら先生は、くしゃくしゃとあたしの頭をなでてくれる。そしてまた笑いあって……
これが、あたしの日常。
わかりきった終わりを、笑うことのできる、あたしと先生の日常。


「じゃあ、採血しますね」
看護師さんはもうあたしを子ども扱いしない。する必要がないと分かったからだ。あたしはずっとここにいるし、採血も点滴も慣れっこだ。なんといえばいいんだろう、きっと普通の子だったら蚊に刺されたり、日焼けして皮がむけたり、夢中になって遊んで転んでしまったり。そういう感じであたしは採血を受ける。痛いけれど、痛いのは一瞬だし、怖くない。まぁ、普通の子と言ったってあたしはそんな子に会ったことはない。先生の持っていた子どもの文化についての本にそう書いてあったのをなぞっただけで、あたしは日焼けだとか転んでしまうような遊びだとかを知らない。でも、きっと普通の子は外で遊ぶのを怖がらない。それと同じようにあたしも検査や治療を怖がることはない。
それにきっと、あたしはこうやって検査や治療をしないとすこしの間でさえ生きていられない。だからこれは仕方のないことでもあるんだ。
先生が前に教えてくれたこと。あたしにしている治療は、最先端のものだけれど、それでも病気に追いつかないんだって。それに、副作用であたしが寝たきりになってしまうかもしれないから、そうならないような弱い治療しかしないんだって。
不便な体だなあ、と思う。不便な体だから、あたしはずっとここにいる。ここにしかいられない。けれど、ここには先生がいる。だからそれだけでいいけれど、先生がここからいなくなってしまったらと思うこともある。そう考えると、すこしだけ、苦しいような感じになる。
幽霊、というものがいることを図書室の本で読んだ。人が死んだら、そんな風になるみたい。あたしは、幽霊になりたい。だって、その方が絶対自由で、いなくなるかもしれない先生のことを考えて苦しいような感じになったりしないですむから。でも、その時先生は、どこにいるのだろう。
 
 *

「蔓みたい」
滅多に話しかけないから、看護師さんはちょっと驚いた顔をした。あたしの視線の先にあるものに気づいて、看護師さんは微笑みながら答える。あたしにしかしない笑い方。
「血管のこと?」
話しかけなければよかった、とすこし後悔する。あたしはこの人の作り笑いが苦手だ。この人はきっと、こうやって笑いながら、子ども扱いも大人扱いもできないあたしに、どう接すればいいのか困っている。
「そう、血管。」
あたしは言葉を返す。
「緑色で、中庭のレモンの茎にまとわりついた蔓に似てる」
レモン。
中庭に生えている、一本の小さな木。
それから、あたしの名前。
先生がつけてくれた、あたしの名前。
檸檬。
「はい、おしまいです。」
看護師さんはいつものようにてきぱきと、針を抜いて止血テープを貼る。その上からバンドをまく。
「バンドは十五分後に取るから、それまでゆっくりしててね」
「はい」
いつも通りの会話。ちょっとの血をとるのでも、バンドをまかないといけない。普通はテープだけでいいみたいだけれど、一度テープだけ貼っていたら血が止まらなかったことがあったらしい。だから、念のため。
「ねぇ、看護師さん」
「何?」
「あたしの血管は、あと何本注射に使えますか?」
看護師さんは困ったように微笑む。いっそ、困った顔をしてくれていいのに、そうじゃなかったら、笑って答えてくれればいいのに。
「数えたことがないから、わからないわ」
「じゃあ、数えてください」
左手のひじの血管は、もう使えない。右腕ももうすぐ使えなくなるだろう。注射をしすぎたせいだ。手首の血管だって、点滴をするからだめになってしまう。ちょっとの血なら耳からとれるけれど、耳から注射はできない。いろんなところの血管を使うけれど、そのたびに使えなくなっていく。でも、注射をしないと、あたしは生きてさえいられない。看護師さんは、あたしを生かそうとする。それは看護師だから。あたしを患者として見ようとする。それは間違ってないけれど、あたしの求めることじゃない。
この人がわかっていなくて、先生がわかっていること。
このサナトリウムも、治療も検査も、注射や点滴の痛みも、その副作用も、使える血管の本数も、全部あたしの日常。あたしは確かに患者だけれど、患者としてのあたし以外にあたしがいるわけじゃない。ここにいるあたしが全てなんだ。他のどこかに、あたしはいない。看護師さんはあたしを生かしたいかもしれないけれど、あたしはきっとすぐにでも死んでしまうことをわかっているし、その中で生きているのだから。その日常の外なんてない。このサナトリウム以外で生きているあたしなんて、いない。
あたしはきっと、大人になれない。これはどうしようもない単なる事実で、日常。悲しくなるものでもなんでもなくて、先生も、この日常の中にいる。看護師さんはきっといない。もしかしたら、いないふりをしているのかもしれないけれど。
だからきっと、看護師さんは悲しそうに笑って言ったのだ。
「今度ね」
その顔が、あたしはきらい。あたしが、悪いことをしたみたいな気分になる。困ってよ、あたしの求める答えはそうじゃないって怒ってあげるから。それができないなら、笑って何本って答えてよ、あたしも笑って「そうなんだ」って言うから。見て見ぬ振りしないで、あたしはあたしのことが知りたいだけなのに。
あなたの言う「今度」は、いつ来るの?その時あたしは、生きてないんじゃない?

 *

先生はわざわざ、あたしに難しい漢字を教えながら名前をつけてくれた。今日だって、カルテには丁寧な文字で「檸檬」が書かれている。カルテは、あたしの体のことが書かれているけれど、あたしについての先生の日記にもなっている。ときどきあたしはそれをこっそり読む。先生がどう感じたのか、とか、何を見てたのか、何を感じたのかがわかってくる。夕方、先生が煙草を吸いに外に行く間、ひとりぽっちの時間のひそかな楽しみだ。
中庭はあたしの知っている唯一の外だ。サナトリウムの建物に囲まれているけれど、レモンの木が生えているところまでは、お昼ごはんまでの時間だったら日向に入らずにたどり着ける。あたしは日向には出られないけれど、水やりは朝にやったほうがいいと先生が言っていたから、朝の時間にレモンの様子を見られるのはいいことだ。
レモンの木にはきれいな蔓が絡まっている。レモンの茎よりも明るい緑のそれは、器用に棘をよけながら日に日に伸びていく。
去年までは花を咲かせるだけで実がならなかったけれど、今年はどうだろう。なったら、食べてみたい。ここで育ったレモンは、どんな味がするんだろう。
夕焼けの赤い光に照らされた中庭は広いのに、その中に蔓の絡まった小さなレモンの木が、ぽつんとある。明日は晴れるだろうか。



夜になった。鈴虫が鳴いている。きっと外では涼しい風が吹いているけれど、あたしは空調管理された室内で、眠ろうとしている。消灯の時間はすこし前に過ぎたから、本は読めないし、月明かりに照らされた病室で一人、カタツムリが這った跡をそのまま黒くしたような天井を見ている。この天井の柄って誰が考えたんだろう。窓辺に目を移すと、やせた半月が沈もうとしているのが見えた。月明かりは、中庭を照らしているのだろうか。
このサナトリウムには昔はたくさんの患者さんがいたらしい。中庭を囲う建物のほとんどは病室で、あたしはそのうちの一つを使っている。二〇七号室。でも、あたしの物心がつく前にみんないなくなってしまって、夜になると二〇七号室と一階の診察室だけに明かりが灯る。看護師さんはサナトリウムの近くにある山荘に寝泊まりしているから、夜に向かいの棟のガラス窓に映る光は二つだけだ。時々先生があたしの部屋に遊びに来るときは、その光が一つになる。あたしが遊びにいく時も、そうだ。
サナトリウムにいた患者さんたちは、あたしのことをかわいがってくれていた、といつだかに看護師さんが言っていた。その人たちがどこに行ったのか、どこにもいないのか、幽霊になったのかは知らない。あたしをかわいがってくれていた、とは言ってもあたしはその人たちを覚えてはいないし、もし万が一会うようなことがあって向こうから話しかけられても、あたしはその時「はぁ」くらいにしか答えられないのだから、空虚な思い出でしかない。空っぽの病室の前を通ってサナトリウムの中を散歩するたび、先生のところ、つまり診察室に向かうたびにそう思う。患者さんたちが集えるようにと開かれた中庭にだって、あたし以外の患者は来ない。
とか、考えていたらすこしずつ眠くなってきた。この眠気を逃さないようにうまく眠りに落ちなければならない。そうしないと、いつまでもぐるぐると考えて朝になってしまう。だから、目を閉じて、体を動かさないように。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。繰り返し。くりかえし。吸って、吐いて……。
すこしずつ、頭の中にあるものがぼんやりとしてくる。ぼんやりとしたものを、それでも頭はぼんやりと動かそうとする。不明瞭。緩慢。そうしたものたちの意味も分からなくなっていって、そうして、そうして。体を動かすのがひどくだるくなっていく。寝返り一つ打つのも、物音に反応して目を開けることもままならなくなって、沈むように、落ちるように。
沈んでいく、落ちていくそこには、誰もいない。夢か現実かもわからない、あたしだけがそこにいる。眠りに落ちるとき、きっと死ぬ時もこんな感じなんじゃないかなとそれだけははっきりと、思う。あたししかいないその場所で、あたしがいなくなる時が、消えていく時が、きっとその時だ。ひとりきりの場所で、ひとりがいなくなる。
消えながらでも、沈みながらでも。最後のその場所では、あたしはいつものように呼び掛けたい。たとえ、ひとりきりでも。
「先生」
と。

  二 「先生」

朝。六時半。水を飲みに降りてこない檸檬を、検温もかねて迎えに行く。あの子の部屋は二〇七号室。それ以外の部屋は、ひっそりと静まり返っている。かつては受け入れ拒否をするほどに患者の多かったこのサナトリウムも、今では檸檬を残して他はいない。ここは、あの子の城と化しているのだ。
二〇七号室にたどり着き、ドアをノックする。返事はない。
「檸檬?開けるよ?」
少々不作法だが一応断りを入れ引き戸を開ける、軽く設計されたそれはカラカラと音を立てて開く。一歩を踏み入れる。
檸檬はまだ眠っているらしい。しかしどうやら様子が変だ。近づいて顔を見ると、なんだか焦点が合わず、ぼんやりとしている。眼鏡を新調しなければなるまいか。掛け布団を少しめくり、檸檬の左腕をとる。熱っぽい。どうやら熱を出してしまったようだ。昨日の治療薬のせいだろうか。
「檸檬?檸檬、起きて」
そういって肩をたたく、その瞬間、驚愕した。
首が、氷のように冷たい。急いで脈を取ろうとするが、手が震える。
目の前がぐにゃりと曲がり、見えているものの色がなくなっていく。呼吸が浅くなる。酸欠の症状、パニック、違う、私の病状を分析している場合じゃない。檸檬は、この子は……
「先生?」
「え?」
「先生」
耳を疑う。よく見えない顔から声がする。いや、モノクロの中で金色に光る瞳だけが、よく見えている。檸檬の瞳。
「檸檬?」
「そう、あたし。先生、どうかしたの?」
おかしい、おかしい、おかしい!絶対おかしい!
だってこの子は、

死んでいるのに。




「おかしいの。先生、あたしの顔をそんなに見て、どうかしたの?」
檸檬は今、目の前に座っている。私はその小さな手を握ってひそかに呼吸を整えていた。
「先生、また仕事しながら寝てしまったんでしょう。服にしわがついちゃうよ」
「そうだね、檸檬、気をつけなきゃね。ところで檸檬、水はもう飲んだ?」
「うん、先生寝てたから、起こさないように飲んだよ。看護師さんにもうすぐ朝ごはんできるから先生起こしてきてっていわれたから起こしに来たんだけれど、まだ起こさないほうがよかった?」
「いや、起こしに来てくれてよかったよ」
檸檬は首を傾げた。よかった、顔はちゃんと見えている。
「まぁ、いいや。先生、お水のむ?」
「うん」
檸檬の白い手が離れる。意識していないとまだ声が震える気がする。檸檬に聞こえないように、息を吸って、吐く。意識が明瞭になってきた。どうやら先ほど、檸檬を起こしに行ったのは夢だったらしい。その夢を見ている私を檸檬が起こしに来たというわけだ。
医者たるもの、患者の死を怖がるなんて、と思いかけてすぐにその思考を打ち消す。
檸檬はもう、私にとっての一人の患者なんかじゃない。それは自認している。
そうではなく、檸檬がいつ死んでもおかしくないということを私がどこかで受け入れられずにいることが問題なのだ。
「先生、はい、お水」
「ありがとう」
手渡してくれたグラスを受け取り、一口含む。渇いていた口と喉とが潤って、少し落ち着く。
「それから、これ」
「なんだい?それは」
握った手のひらを檸檬が差し出す。私の手のひらを広げさせると檸檬も手を広げてコロン、と何かが落ちてきた。
「チョコレイト!」
ぱぁっと、檸檬は笑う。それから、はっとしたように顔を近づけてささやく。
「応接間にあったの、取ってきちゃったの。溶けちゃうかなって思って、あたしの部屋の冷蔵庫に入れてあったんだけれど、ひとつ先生にあげるね」
 ささやきながらも、檸檬はにこにこしながら言う。
「どうして、先生にくれるの?」
「甘いものを食べると、元気になるから。でも、看護師さんには内緒ね!」
クスクスと笑う檸檬の、金色に光る瞳は、澄んでいて、けれど明るくはない。無邪気な諦観。自覚のない残虐さ。
じゃあ食堂に来てね、と言って檸檬は診察室を出ていった。チョコレイトの包みを開けると、檸檬が強く握りしめていたのか、表面がぬるく溶けていた。指先でつまみ、口に含む。噛みつけたチョコレイトの内側は冷たい。冷蔵庫に入れていたというのは本当らしい。それがなんだかおかしくて口角が上がる。
檸檬にとって、自分の死は当たり前。物心がつく前から死は自らの眼前にあり続けるものだ。檸檬はその美しい瞳で常に死を含めた自分の世界を見つめている。私は、檸檬と向き合うと決めた時から、その「当たり前」を共有しているし、同時に自分がそれまでもってきた当たり前を排除している。
それなのに。ため息をひとつ吐く。それなのにあんな夢を見てしまった。夢の中でも、死んでほしくないと、願ってしまった。そう願うことは、檸檬の「当たり前」を壊すことだと、檸檬に絶望を与えるだけだと、知っているのに。
檸檬は、哀れみなんて求めていない。日常を共有できる人を、一緒にいられる人を、求めているのに。
指には、溶けたチョコレイトがくっついている。それを舐めとって、口の中に残る冷たいチョコレイトとともに飲み下す。
「せんせー、まだー?」
「今行くよー」
水を飲んで、診察室を出る。
たとえ檸檬がいつ死んでも、哀れみだけはもたないように。


   三 看護師
 
泣いている彼の姿を、わたしはただ、美しいと思いながら眺めていた。霞の向こうで泣いている彼は、つかの間、確かにひとりきりだった。そこにわたしはいなかった。あの子とふたりきりだった場所に、彼はひとりきりでいた。枯れた檸檬に絡んだ蔓の葉から、朝露が落ちる。それらをわたしは、ただ、眺めている。
中庭の檸檬は、ならなかった。つぼみをつけて、そのまま枯れてしまった。あの子の病状が悪くなって、誰も檸檬の手入れをできなくなったから、揚羽蝶の幼虫に食まれて枯れてしまったのだ。茎はもう、茶色とも灰色とも言い難いものに変色し、そのとげは以前のように張りのあるものではなくなっている。触れると、ちくりとかすかな痛みをもたらした。指先を見ると、血は出ていないものの、薄皮一枚隔てたところにとげの先端が入っていることがわかる。触ってみると、先ほどのちくりとした痛みが再び生み出される。

あの子だったらどうするだろう。こんな彼の姿を見たら、あの子はどんな反応をしたのだろう。図書館の、死を哀れむ本を「これはいらないから」と言って無表情に焼却炉に落としたあの子は、もしかしたら、彼の姿を見て怒るのだろうか。それとも、笑うだろうか。
あの子の死から、一ヶ月が経った。「檸檬」と呼ばれた少女は「病気に追いつかれて」、あるいは「副作用に弱められて」、本当に、大人になることはなかった。あの子の死因はわたしには伝えられていない。それはわたしが一人の看護師に過ぎないからであり、彼がわたしに話そうとはしなかったからだ。このサナトリウムに患者はいなくなった。だから、役目を終えたサナトリウムはあの子の遺体の検査が終わり次第、閉鎖された。
彼にとってあの子は最後の患者である以上に特別な存在だった。ずっと彼とあの子は、ふたりきりだったから。少なくともきっと、あの子にとっては。
サナトリウムは荷出しも終わり、がらんどうになってしまった。それでも、ここはあの子の知りうる限りの世界で、すべてだった。そのすべての中に「先生」はいた。
あの子の骨は、ほとんど、残らなかった。薬漬けの毎日がそうさせたのだろう。わたしと先生は、それでも残った脆い塊と、さらさらとした灰を集めて透明な薬瓶に入れ、この庭に埋めることにした。あの子を引き取る親族はいないから、葬るならわたしと彼の好きにすればいい、というのがこのサナトリウムの管轄部署からの答えだった。けれど実際には、彼があの子をこの場所に埋めることに決めた。わたしは「それがいいんでしょうね」と答えただけだ。
見知らぬ世界のどこかに、それも、あの子の死を哀れむような場所に埋められることは、死への哀れみを否定したあの子の望むことではないだろうから。

あの子は、檸檬。それも飛び切り弱いのに、棘のある檸檬の木だった。そして彼は、それを支えようと必死で絡みつく一筋の蔓だった。今だって、彼はきっと、あの子がいなくなったことを悲しみながら、その死を哀れまないように必死になっている。「わたしが目をそらし続けたことを、あなたはやってのけた。あの子と向き合った。それだけで、いいじゃないですか。それだけで、十分じゃないですか。あの子も、幸せでしたよ。あなたが自分を削ることはないでしょう」そんな風に思っていてもわたしは口に出せない。あの子から逃げたわたしが言ったところで何になるというのだろう。彼は赦しを求めてなどいない。ただ「檸檬」を。あの子を求めたくても求められない気持ちは、彼を蝕むだろうか。
「わたし、もう、行きますね」
「私も行くよ」
答える彼の顔は、けれど、まだあの子を想っている。
「無理は、しないでくださいね」
そう声をかけても、彼は立ち上がってしまう。
ふたりの世界に居たがったのは、あの子だけではなかった。きっと彼もまた、いつの間にかその中に生きていたのだろう。
そして、残された彼はサナトリウムを夢に見る。一人だと知りながら、あの子をここで探す夢を。日常では普通に振る舞っていても、彼は夢の中であの子を求めてさまよい歩くだろう。それが、それだけが、あの子の生きた証になるのだから。
 蔓についていた露は、もう、跡形もなくなっている。この蔓も、もうすぐ枯れてしまうだろう。それまでは、ひとりきりで。

あの子がいた、彼はいる。その低い声はもうあの子の名前を呼ぶことはない。当然、それに答える声もなく。それが、彼の世界のすべてになる。

薄靄の中、揚羽蝶が飛んでいく。ひらり、ひらり、ひらり。



テーマ「檸檬の茎の色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

水槽

 四方の壁際に隙間なく並んだ水槽から漏れる青白い光が、十畳ほどの部屋を暗く照らしている。部屋には湿気と水槽からの臭いが、重く充満している。水槽に入れられた生き物は、どれもほとんど動かない。
 ドアの向こうからかすかに水音が聞こえてくる。シャワーの音だ。排水溝に吸い込まれるためだけに流されているかのような、抑揚のない水音は途絶えることがない。
 生き物の気配にあふれているというのに、生き物の動きはまだ部屋のどこからも感じられない。
 一つの水槽から、遠くのシャワーにかき消されそうなほどの鳴き声がぽつりと聞こえた。かすれた、蛙の鳴き声。
 壁際に並ぶ青白い光に照らされている水槽は、どれも種類別に蛙が入れられている。緑色、青色、黄色、黒色、赤色。単色であったり、まだら柄であったりする蛙たちは、五十匹ほどが水槽の中で目だけを動かしている。百前後の目玉は様々な方向を向き、部屋の全体を監視している。
 部屋の真ん中には一つ、他と異なる趣の水槽が置いてある。蛙たちに囲まれるように置かれている水槽には、蛙も、観葉植物も、水も、何も入っていない。そして、大きさも、一メートル以下とはいえ、他の水槽より明らかに大きいのだ。
単調に流れるシャワーは知らないうちに止まっていた。
 代わりに、足音がひたひたと近づいてくる。それは部屋の前で止まった。ガチャリと音を立てて開いたドアからは、あばら骨の位置が見てわかるほど痩せた、色の白い男が入ってきた。男が歩いてきた後には、男からしたたり落ちた水でできた水たまりが点々とできている。男は部屋の中の蛙を端から順に時間をかけながら覗いていく。水槽に顔を近づけると、線の細い顔立ちが青く浮き上がった。ただでさえ色のない顔が、不健康そうに照らされる。男の表情からは何も読み取れない。紫がかった唇からはひっきりなしに空気が出入りする音が聞こえる。
 部屋の中には、男の水にぬれた足音と、せわしない呼吸の音が響く。
 拭いていない髪の毛から次々に垂れる水滴が首に、背中に、尻に、足に、伝わり落ちる。男は時折濡れた体を震わせた。
 一周回り終えると男は部屋の真ん中にある空の水槽を横目で見た。口元がかすかに緩む。
 それから男はまっすぐ歩き、一つの水槽の前で膝をついた。
 逃げないようふたをされた中には二匹の蛙が入っている。片方は美しい青緑色で、もう片方はエメラルドグリーンの体が艶やかに光っている。小さいけれど大きく開いた赤い目が男をとらえた。
 男の息は荒くなる。
 そっと水槽のふたを開け、恭しくエメラルドグリーンの蛙を掬いあげる。
 蛙が皮膚に触れる瞬間、男は毎回鳥肌を立てる。自らの指にまとわりつくような、柔らかく粘度のある蛙の体表面の感触にゾクゾクしながら、逃げないように包み込む。男の左胸は、拍動に合わせて小刻みに痙攣している。
 このエメラルドグリーンの蛙は、男が最も心酔している蛙だ。いくつものペットショップを探し回り、やっと見つけた、男の理想そのものであった。艶やかな色味、射貫くような目、滑らかな曲線を描く体。見つけた瞬間、男は背骨に沿って針で貫かれたように感じた。自分はこの蛙に出会うために、生きていたのだと瞬間的に思った。
 男は自分のすべてを注ぎ込んでもいいと感じるほどの蛙を手に乗せ、ゆっくりと立ち上がる。そして蛙を包み込む自分の手を満足そうに見つめながら、あの空の水槽に向かい、足を入れた。しゃがみ込み、ガラスの底に尻を着ける。いくら他の水槽より大きいとはいえ平均的な身長の男が入るには窮屈だ。男は美しい蛙をつぶさぬよう手を上に逃がしながら、片方ずつ足を上げ水槽のふちに掛けた。ふくらはぎを水槽の外に出すように、尻をずらしていく。それに伴い男の頭は水槽の底に近づいていき、とうとう頭から尻までが床と平行になると、男は垂直になっていた太ももを抱え込むように足全体も水槽の中にしまいこんだ。
 水槽の幅は男の頭から尻までと同じで、奥行き、深さも胎児のように仰向けに丸まった男のサイズとぴったりである。男はいつも、二度と出ることができないかもしれないという思いにかられる。
 薄暗く青い部屋の真ん中で透明な箱にはまり込んだ裸の男の姿は、異様な雰囲気を醸し出している。しかしこれは男にとって日常であった。
 体温の低い蛙が自分の体温でやけどしないよう、冷水のシャワーを体が冷えきるまで浴び、蛙が逃げないように水槽の中で触れ合う。男にとってこの時ほど快感を得られる時はなかった。
 ゆっくりと手を開き、蛙を自由にする。小さな湿った生き物は男の手から逃れるように飛び、鎖骨に近い胸の上に降り立った。
 ひんやりとした感触に、恍惚の短い吐息が漏れる。
 男の病的なほど色のない肌の上に乗るエメラルドグリーンの蛙は、キャンバスに一滴だけ垂らされたインクのように鮮やかだった。
 自らの上でうごめく蛙の動きを感じるたび、男は背筋をなぞられたかのように身を固くする。冷たく濡れた生物が肌を這っている感覚は男にとってどうしようもなく官能的で、白い肌の上に乗せられている鮮やかな色を見るたびその美しさに酔いしれた。
 蛙はやがてわき腹と水槽の壁の隙間に飛び降りた。
 男はいくら細いとはいえ、ほとんど隙間なく水槽に詰まっている。愛おしい蛙を守るには、寒気とともにやってくる快感に身じろぐことさえ許されない。酸欠になりそうなほどゆっくりと呼吸をしながら、男は目を閉じた。
 無数の目に監視されながら、息苦しさと寒さでぼんやりする脳で、男は死をイメージする。このまま意識を失えば、部屋中の蛙たちの命は次々に消えていくだろう。そして、その中で一番早く息絶えるのは、今自分の隣にいるエメラルドグリーンの優美な蛙に違いない。
 冷たくなった自分の横で、ぬめりを帯びていた鮮やかな色が、乾燥し、くすんでいく情景が男の瞼の裏に浮かぶ。
 少しずつ体温を失っていく自分は、土気色の肌になり、やがて硬直し始める。青白い部屋の中でオブジェのように固まる骨ばった男の隣には色を失い干からびた小さな塊が転がっている。自分を取り囲む水槽からは、蛙たちの生理現象によって汚された臭いが漂い始める。自分の体から発せられる腐臭も混ざり、部屋の空気はどんどん澱んでいく。死体の周りを飛び回る虫を食べる生物はもう生き残っていない。青白く照らされている澱んだ空気の中に、いくつもの虫の羽音がこだまする……。
 どこかの水槽から、ぽつりと鳴き声が聞こえた。
 鼓膜を揺らされ、男は空想を止めた。目を開けると何の面白みもない白い天井が見える。ゆっくりと手足を天井に向け伸ばした。脇腹に触れそうな蛙をつぶさぬよう慎重に、のばし切った手足をまげてふちにかける。
水槽の強度を男は知らない。しかし、水槽を押し広げるかのように四肢へ力を込める。細い水槽のふちが、男の肉のない腕や腿の裏に食い込む。骨を削られるような感触とともに体を水平に保ったまま引き上げた。開いた口から止めていた息が強く吐き出される。体を水槽から抜き終わった男は手足を背側に折り曲げ、水槽のふたのようになっている。少し反った首に浮かぶ喉仏が男の呼吸に合わせて動く。
 ここで脱力すれば、美しい蛙を下敷きにしながら、元の、水槽に詰まった体勢に戻ってしまう。
 男は数秒目を閉じた後、体を引き起こし水槽の横に立った。蛙は、ガラスの壁にほど近いところで真っ赤な目だけを動かしている。広い水槽には、男の形で水跡が残り、かすかに曇っている。
 男は蔑みと恍惚の入り混じった眼差しでそれを見下ろした。
 そして、壁際の水槽から取り上げたときのように、背筋を震わせながら恭しくエメラルドグリーンの蛙を掬い上げた。手が揺れないように一歩ずつ足を動かしていく。蛙を元の水槽に入れると、男は蛙を包んでいた手を使い、顔から首を通り、腕を長さいっぱいまで伸ばしなめるように自分の肌をなでた。大きく息をつき、目を閉じる。乱れた呼吸が整うまで、男は顎をあげて脱力していた。
 男は身震いを一つして、目を開ける。もう恍惚の表情はない。
 ドアを開け部屋から出ていく。
 青白い部屋に蛙の鳴き声が一つ響いた。



テーマ「エメラルドグリーン」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

メタメタ☆メタフィクション

「こんにちは、すいません遅れて。どうもここの校舎の自動ドアとは相性が悪いみたいですね、今日も挟まれてしまいまして、いや、大変でした。うっかりホチキス留めする前の資料をバラ撒いてしまって。もし多少汚れた資料が当たってしまった方がいたら、申し訳ないんですが、今日のところはその資料で我慢してください。前にスライドも映しますし、後でデータを上げておきますから。はい。一部ずつ取って回してください……。

 ええと、というわけで、今日はフィクションについての話ですね。まあ今日ものんびりやっていきましょう。
 人間はフィクションを消費したがる、というのはよく言われる話で、皆さんもどこかで聞いたことがあるでしょう。虚構、というやつです。現代の私たちも山のようにフィクションを消費します。小説、漫画、アニメ、ドラマ、などなど。歴史や神話にも、或いは何気ない対人コミュニケーションの間にも、フィクションの要素は含まれているわけです。例えば、皆さんは私に敬語を使いますね。まあ、私も丁寧語を使うのですが。極めて普通のコミュニケーションですよね、これ。でも、その背後には先生と生徒という上下関係が前提としてあります。生徒が先生に敬語を使わなければならないのは、自分で言うのもなんですが、先生の方がものを教えてあげるという意味で上に立つからですね。しかし、何故ものを教える方が上なのか。話を聞いてやってる生徒の方が上だ、という見方もできるかもしれない。或いは、何故上の人には敬語を使わなければいけないのか。もっと言えば、何故敬語には「です」だの「ます」だのがくっつくのか。そういったルールはどれも、私たちにとってはフィクションです。伝統という名の付けられたひとつの物語に従って、私たちはこうして生きているわけです。フィクションは、世界の構造における細胞壁のようなものだと思います。本質的な機能を担うわけではないかもしれないけれど、ひとつひとつの輪郭と隣接領域をはっきりさせ、そしてそれなしには全体も部分も形を維持できないもの、という感じですね。

 このようなフィクションの歴史は、有史以前に遡るとされます。例えば、神話なんかは分かりやすい例ですかね。勿論有史以前のことは推測するしかないのですが、普通は記録する前に様々なバージョンを検討したりするわけですし、そのためには「様々なバージョン」そのものが存在する必要があります。ですから、あるフィクションの記録の前にはその基となるフィクションが存在しているはずだ、という推論は、まああながち間違いでもないでしょう。そしてこれらの構築されたフィクションは、往々にして何度もリメイクされていきます。シンプルな再解釈だけではなく、いわゆる二次創作というものも勿論発生してきました。宗教なんかもそうです。既に出来上がっている教義から、共感できる部分だけを借りてきて別のものを組み上げる。そうして組みあがったものからまた一部分を取り出してきて、また新しいものを組み上げる。この行程を繰り返していくことで、フィクションは無限に増殖するのですね。

 ここで具体例を出しておきましょう。二十世紀フィンランドの詩人、カール=クリスティアン・ヴィルックネンは次のような四行詩を残しています。ここでは分かりやすくするために和訳してありますが、フィンランド語の響きも極めて美しい詩ですので、まあ、興味があれば原典にも当たってみてください。
 和訳はこうです。一応読み上げますね。


『自動ドアにいつも挟まれる
  降り注ぐ眼差し、荒ぶる邪神
 もう逃げ場はどこにもない
  ああ、何も知らない方がきっと幸せだろう』


 どうです、僕のことみたいでしょう。ちょっとドキっとするんですよね。
 まあそれはさておき。自動ドア、なんて現代的なワードが入っていますから惑わされやすいのですが、実はこの詩のルーツは、古代ルーシ族の宗教儀礼において歌われた祈祷歌の一節にあります。こちらも、まあ歌ですから、美しい響きを原文は持っているのですけど、ここでは和訳で意味の方だけを見ていきましょう。読み上げますね。


『扉閉め給え、運命の女神よ
  我ら見守り給え、悪魔の手免れさせ給え
 其が掌の内にて我ら安らがん
  夜毎、母の腕に眠りし赤子が如く』


 ぱっと見だと随分毛色が違いますが、一文一文を対応させていくと、両者は明らかに関係があるということが大変よく分かります。
 つまり、運命の女神によって閉じられる扉と自動ドア、見守ることと降り注ぐ眼差し。隠喩的な表現で置換しています。悪魔が邪神と捉えられているのは宗教史の類型から見ても珍しいことですが、これが詩人の言った言葉であるということを踏まえると決して奇怪なことではないでしょう。ヴィルックネンの詩は幾分か皮肉的というか、悲劇的というか、絶望的というか、とにかくそんなような言い回しがあるのもひとつの特徴ですから、この邪神と悪魔のくだりも、三行目の掌の内にというのを逃げ場はないと置き換えているのも同じですね。そして最後も同様に、眠る赤子の純粋さ、タブラ・ラサというやつですか、それを何も知らない方が幸せと言ってしまう。全体に暗い雰囲気の詩が多いヴィルックネンですが、彼は無神論者だったというエピソードが残っています。そう考えると、信仰の表現のために歌われていた歌の歌詞をこのように作り替えてしまうというのも、肯定するというわけではないのですが、分からなくはないでしょう。このようなものもひとつ、フィクションの増殖過程の具体例として挙げられるでしょう。



 まあ、今の古代ルーシの歌の話は私が作ったフィクションですが。



 実際、ヴィルックネンの詩に元となるようなものがあったかどうかは定かではありません。あったかもしれないし、なかったかもしれない。少なくともさっき私が読み上げた「古代ルーシの祈祷歌」というのは全くのデタラメですので、試験で聞かれた時には絶対に書かないように。うっかり書いちゃった人は私の話を聞いていなかったと見做しますから、まあそれだけで落としはしませんが、減点はしますから、そのつもりでいてくださいね。

 というのは事務的な話でしたが。ヴィルックネンの詩の元ネタは定かではありませんが、逆にヴィルックネンの詩を元ネタにしたフィクションというのは存在します。フランスの文学者ミシェル・アルヴィエ、この人はヴィルックネンを専門とした研究者ですが、自身でもいくつかの詩や小説を残してます。このアルヴィエが先程の四行詩をテーマにした論文を書いているんですね。手法としては至って普通で、ヴィルックネンの他の作品を、というのも実はヴィルックネンは詩以外にもいくつかエッセイを書いているのですが、それも含めて比較検討するという感じです。もう少し細かく言うと、かなり統計学的なものに近い処理の上で、どんな言葉がどのくらいの頻度で出現してどんな意味で用いられているか、みたいなことを隅々まで調べ上げてひとつひとつの言葉を精査したわけです。もうヴィルックネンが好きで好きで堪らなかったんでしょうね。その論文の内容ですが、恐ろしいほどの分量と密度がありますのでざっと要点だけ押さえておきましょう。

 まず、一行目の要点としては「自動ドア」ですね。
 ヴィルックネンにおけるドアは閉ざされたもの、閉じているものとして登場することがほとんどであり、開くものとして登場するのは全体の一割にも満たない僅か三度のみである、ということ。本文では挟まれるという言葉とセットになっていますから、ここでも閉じるものとして登場しています。しかしながら、自動ドアとなると、普通は人間が近づいたらまあ、当たり前ですがセンサーが感知して開くわけです。それを、いつも挟まれるものとして書いているという矛盾の中に、自動ドアにさえ、という含みがある。これが先程も出てきた、ヴィルックネン特有の暗さみたいなものを演出しているのではないか、という話をアルヴィエはしています。この、ヴィルックネンの作品における矛盾した表現による暗さの演出というのに注目したのは、私が知る限りではアルヴィエが初めてでしょうね。これは四行目についても同じことが言えると彼は言っています。つまり、普通は全てを知っている状態を不幸と言うのだと。私個人としてはやや疑問が残りますが、まあ、好意的に解釈すること自体はできるかもしれません。

 二行目については、「降り注ぐ」という言葉が特に気になったようです。
 降り注ぐという言葉は確かにヴィルックネンの作品中でしばしば見られるものですが、その多くは雨や光、花弁といった自然に関するもので、しかも更にその多くが空または天から降り注いでいます。そう考えると、どこからのものか分からない眼差しが降り注ぐ、というのは相当特殊な事例であるということが分かりますね。直後に邪神という言葉があります。邪神もまあ神ではありますから、西洋社会における神の一般的な位置が天であることを考えると、これは邪神の眼差しが天から降り注いでいるのだという解釈も不可能ではありません。確かにそうではありますが、当たり前ながら、そう言えるからといってそれが正しいというわけではありません。あくまでも可能性のひとつです。アルヴィエ自身はどう考えたのかというと、それを特定しようとするのではなく、むしろぼかされていることにこそポイントがあるとしています。ぼかされているからこその、言いようのない不安とか、防ぎようのない災難への心配とか、そういった対処方法のないような曖昧な不安の表現である、ということですね。これはかなり、詩というものの基本的な味わい方という側面から見ても信憑性のある意見ではないかなと思います。

 三行目については「どこにもない」に注目していますね。
 逃げ場という言葉に関してはこれも二行目と同じ理由で、つまり何から逃げるのか、というところが明らかにされていない点において、曖昧な不安の表現に一役買っているのではないかとアルヴィエは述べています。それを踏まえた上でどこにもないという言葉について見ると、これが実際に存在しないということなのか、はたまた本人が見つけることができていないというだけで存在自体はしているということなのか、実ははっきりしません。そもそも、この文がどのような視点から語られているかも実は分からないのです。はっきりしているのは、この詩がヴィルックネンの言葉だということだけです。しかしながら逆に、ヴィルックネン自身はほぼ間違いなくどこにもないと感じているだろう、ということは想像できます。アルヴィエの調査によると、ヴィルックネンの詩の特徴のひとつとして、かなり一人称的な要素によって支配されている部分が大きい、というのが見い出せるそうです。つまり、自分の外で起こっている出来事を描写するのではなく、出来事を経験している自分の内面を描写することが多い、ということですね。変換しますと、実際に逃げ場が存在するのかどうかではなく、重要なのはヴィルックネンがないと感じているということである。これが先程の曖昧さに加味されると、アルヴィエの言葉をそのまま引くなら、「濃霧の中で無数の銃口に囲まれていることを感ずるような」感覚を齎すわけです。

 以上のアルヴィエの考察をまとめると、ヴィルックネンの詩の特徴としては、矛盾表現による強調、空白による曖昧さの表現、そして語り手としての自分の内面にコミットした書き口の三点を大まかには挙げることができ、それらが極めてはっきりと現れているのがあの四行詩なのだ、ということになります。

 ここまでは普通の文学研究と大差ないのですが、面白いのは、アルヴィエがこの考察を基に新たなオリジナルの小説を書いたということです。文学研究というのは、言ってみれば文学というフィクションの構造を出来る限り細かく正確に捉えようとする行為なのですから、そうして抽出された構造を上手く抜き出して形にするというのもまあ、分からなくはないですね。私自身はお話を考えるのがあまり好きではありませんので、アルヴィエのように研究対象の作品を基にフィクションを増殖させるということはできませんが、実に羨ましいなという感覚はありますね。だって、そうやって考えることができたら、作った話を自分の講義のネタにすることだって出来るじゃないですか。



 まあ、先程の祈祷歌の話はこれを基に私が作ったフィクションなわけですが。

 というより、ここまでに取り上げたものの全ては、私が作ったフィクションなわけですが。



 アルヴィエは自分の研究を基に小説を書いてはいませんし、初めからヴィルックネンの四行詩の研究はしていません。それどころか彼はヴィルックネンを専門とした研究者ではありませんし、ミシェル・アルヴィエは実在する人物ですらないのです。勿論、フランス人の実在する姓名ではありますから、世界のどこかには同姓同名の方がいらっしゃるかもしれませんが。とかく、ヴィルックネン研究者ミシェル・アルヴィエは、私のフィクションの中のみに息づく存在なのです。
 もっと言えば、あの四行詩、あれだってヴィルックネンの作ではない。カール=クリスティアン・ヴィルックネンもまた、私のフィクションの中のみに生きる存在です。つまりこの講義において私が出したこの具体例自体が、既にひとつの大きなフィクションだったわけです。

 これらはいわゆる連想、空想、といった想像力の働きによってもたらされます。フィクションは「空想の産物」ですからね。しかし、空想と言ったって、何もないところから生み出すものでもない。それは何らかのトリガーを持つことが多いでしょう。例えばお友達と昼食を共にする場合、その友達の鼻の横に小さなホクロがあるのを見つけたとか、テーブルクロスのシミが花の形に見えたとか、或いはそれが恋人なら、視線があった瞬間の瞳の美しさに惚れ惚れしたり、或いは食べ物を飲み込む喉の動きにちょっと艶かしいものを感じたり……なんてこともあるかも知れない。これらに共通するのは、いわゆるムービングなものである、ということです。心を動かされる、もう少しありふれた言い方をするなら、自分の注意がそちらへ向いて「あっ」と思うようなこと。そういうイベントによって心が揺れた時に、元々心の中にあった断片がすっと動いて、繋がって見える。それを捉えた時に、「あっこれはお話にできるかもしれないぞ」と思うわけですね。ところが、肝心なのはトリガーの方ではなく、元々心の中にあった断片の方なのです。これがなければ、いくらトリガーが転がっていても「お話にできるぞ」とはならない。ここはなかなか時間のかかるところです。とにかく沢山のものを噛み砕いて、吸収していかなければならないのですから。

 今、私は皆さんの前にフィクションの実例をお見せしました。このフィクションが出てきた故郷は、私の頭の中です。私がかつて経験した出来事、読んで楽しんだ文章、その表現方法、そういったものの断片がすっと繋がって見えた時、私の中にひとつのフィクションが生まれてくる。それを言葉にすると、今までお聞かせしてきたようなものになるのですね。ですが、それらの断片自体を、私は意図的に蓄えようとしてきたわけではありません。これらは私が生きてきた人生の断片なのであり、従ってそれらは、単に生きているだけで蓄積されるものなのです。全てのフィクションは書き手の人生から生まれます。ですから、より正確な、というよりはより真実味のあるフィクションを生み出すためには、未だ自分の知らないものを経験する必要がある。そしてその為に人は、他人が生きた人生を、他人の作ったフィクションとして経験する必要がある。そうして作られたフィクションが様々な概念の輪郭を明確にし、世界の構造を補強していくわけです。冒頭に何故人はフィクションを消費したがるのかという問いを取り上げましたが、そもそもこの問いの立て方はおかしいのです。フィクションと人間は相互依存の関係にあり、フィクションは我々なしに作られず、我々はフィクションなしに生きられないのですから……。



 という話もまた、私が作ったフィクションですが。



 実際には、フィクションと人間の関係性は明らかになっていません。様々な研究者が仮説を立ててはいますが、これもフィクションに過ぎないわけです。

 というようなことをここまで聞いて、そろそろお分かりいただけましたか。この一連のフィクションを操っている邪神の正体が。私たちをフィクション漬けにしてしまった邪神。私たちの中に入り込んで、自らその源泉となる邪神。しかし、私たちは最早その力なしには生きていくことができません。別にだからどうというわけではないですし、そもそもどうすることもできはしないのですが。

 私たちはフィクションを駆使する生き物であると、そう言うのは簡単です。私自身もそのように感じているわけですから。皆さんがどうお考えかは分かりませんが、まあ、それについてはレポートでお書きいただければいいかなと思います。問題は、フィクション以外に何が人間のものとして残されているのか、ということでしょう。
 普通、フィクションまたは虚構に対応するものとして、リアル、現実、事実、そういった類の言葉が挙げられますが、果たしてそれらは「現実」のものであるのか、ということですね。現実という言葉が存在する以上人間は現実を知っているのだ、そしてそれはフィクションとは異なるものとしてあるのだ、と言われるかもしれません。けれど、現実だと思っていたものが実はフィクションだった、という構図であれば、現実はフィクションに吸収されます。それらは対立するのではなく、物事の古い捉え方と新しい捉え方というだけの関係になる。この関係性自体も、きっと私が作り出したフィクションなのでしょう。或いはこのフィクションを作り出している私自身もまたひとつのフィクションであるのかもしれません。これを聴いている皆さんもフィクションなのでしょう。全てはフィクションなのでしょう。きっとね。そして恐らくは、フィクションという概念自身もまたひとつの巨大なフィクションに過ぎない……。

 ……おっと、そろそろ時間ですね。

 来週に期末試験を行って、それでこの講義は終わりということにします。再来週は私がここに来られないのでお休みです。ちょっとお得な感じですね。そこで、今日出席してらっしゃる皆さんに来週の試験の内容をお伝えします。



 今日、この授業を通して扱ってきた四行詩がありますね。それをテーマに、ひとつフィクションを拵えていただきたい。



 一応、試験問題は二種類用意します。片方は講義内容に関する短い記述問題が三問で、その中から二つ選択して、書いてください。もう片方がこの課題で、計三問やってもらうことになりますね。持ち込みは、手書きのノートと講義資料のみ可です。打ち込みはちょっとごめんなさい。まあ、コピーアンドペーストが効くような課題でもないとは思いますが、念のためということで。考察でも、他のフィクションとの比較検討でも、SSでも構いません。というより、何ならメモをそのまま提出してくださって構いませんから。配点は五分五分で、そこに出席点を足して総合成績ということにします。何か質問があれば、後で私の方に来てください。
 では、この辺で終わりにします。皆さん試験頑張ってくださいね。
 お疲れ様でした。よい週末を」







 ――――ここまでが、私が作ったフィクションです。

 私は講義なんてしていないし、ヴィルックネンもアルヴィエも実在しないし、試験も成績もなく、受講生もおらず、もっと言えば私は教員ではない。しがないひとりの物書きに過ぎない。それも文で飯を食うわけでもない。あなたは画面上に表示されたこの文章を読んでいるのであって、私の声を聞くのではない。もしこの文章をあなたが読んでそこに何か意味を成すことができるのなら、その全てはフィクションです。私は意味など成そうとはしていないかもしれない。それでも、さながら猿の書いたシェイクスピアのように、あなたはあなた自身の知っているものを私の並べた言葉に当てはめて、ご自身でフィクションを構築しているのだ。
 ね、お分かりでしょう。フィクションと人間は相互依存的な関係にある。

 大丈夫、心配には及びません。こんなことが分かったって、あなたには何一つできることはない。何も変わりはしないからだ。何もしなくていい。あなたは今まで通り、気ままに文章をお読みになり、それを味わうがよろしい。例えそれが書き手の意図を反映しない独りよがりなものであったとしても、きっとあなたは今まで通りに楽しむことが出来るでしょう。そうでなければ人間は生きてゆかれないのだから。



 さあ、次の文章にお進みなさい。名も知らぬあなた。
 全てはあなたの内に潜む、「想像力」という名の邪神が解決するでしょうから……。

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

意地っ張りなお稲荷様と巫女さん

「……飽きたの」
「はっ?」
 今なんとおっしゃったのだ? この方は。
「……飽きた、とおっしゃいましたか?」
「うむ、最近供物が油揚げばかりなのにはもう飽き飽きじゃ。そもそも我は肉食なのだぞ? それなのにここ数百年は皆油揚げばかり……嫌いとは言わぬが、当分は見とぉない」
「はぁ……」
 いや、確かにずっと油揚げばかりでは飽きるのかもしれませんが……
「昔は鼠を揚げた奴がよく供えられていたのだがのぉ……」
「ちょっ、お待ち下さい。まさか私に鼠を捕らえて揚げろとおっしゃいますか?」
「流石にそうは言わんぞ、そもそもこのご時世鼠などそうそう彷徨いてはおるまいし、我はそこまで鼠は好まん」
「……昔はよく鼠を食していらしたのでは?」
「当時は鼠ばかりだったからの、最も手頃な食糧だったのよ。それに人間との利害も一致したからの」
「そうですか……」
「というわけで、明日の朝何かしらの肉の揚げたものを我のところに持ってくるがよい」
 突然そう仰せられましても……まあ仕方ないか、帰りに唐揚げ屋さんにでも寄って……
「あ、勿論お主が作るのだぞ?」
「えっ」
 いや、あの……私料理できないんですが……いや、ちょっと待って、待って下さい、どうかお考え直しを……


「……で、これはなんだ?」
「……鶏の唐揚げ、です……」
「我には黒焦げのよくわからぬ物体にしか見えぬのだが?」
 いや、しかしですよ? これでも頑張ったんですからね? 料理なんて殆どやったことなかったんですから……
「確か、揚げたものは狐色、という色を使うそうだが……お主は我の毛皮がこのような黒ずんだ色だと本気で申しておるのか?」
 何も言えません……
「はぁ……お主に期待したのが間違っておったかのぉ……」
 あ、ちょっと今のはピキッ、と来た。
「わかりました……ご不満のようでしたら、又明日ちゃんと貴方様の狐色の唐揚げを揚げて持って参ります」
「いや、別に売っているもので……」
「私が、揚げて、持ってまいりますので。では失礼いたします」
「いや、えぇ……」
 ……とは言っても、どうしよう。誰かに教わるのは何か負けた気がするし……そもそもあの方の毛皮の色って唐揚げで再現できるのだろうか……いや、絶対再現して、味もちゃんと美味しいものに仕立ててみせる!

「ふむ……少しはマシになったようだが、まだまだだのぉ」
「えぇ……結構今回は自信があったのですが……と、言いますか、そもそも私貴方様の本当のお姿を拝見したことがございませんので、どのような色をしていらっしゃるのか存じ上げないのですが……」
「そうであったか? まあよい。元の姿に戻るのも面倒だ。どうにかせい」
「いえ、あの……実際にお姿を拝見させていただきませんと再現ができないのですが……」
「心の目で見るのじゃ」
「無茶を仰らないでください……」

「うーむ……まだ我の毛並みには届かぬの。味はまあまあじゃが」
「あら、今回もダメですか? 中々ご要望にお応えするのは難しいですね」
「ま、最初の黒焦げよりはマシじゃがの」
「まあ酷いこと」
「ふん……お主、今日のものは少し揚げる時間を短くしたじゃろう」
「あら、バレてしまいましたか。今日は少し寝坊してしまいまして……」
「じゃろう? 我には何でもお見通しなのじゃ」
「ふふ、ですが先日のお願い事の際には……」
「うっ……それに関しては悪かった、娘っ子に謝っておいてくれんかの」
「えぇ、かしこまりました。ですが僭越ながら私としましては、あのような間違いの仕方はどうかと……」
「う、煩いわい。人形と本物を間違えたくらい、いいではないか……」


 コツ……コツ……
「……む、来たかの」
 漸く来おったわい。全くここまで我を待たせるとは。
「遅いぞ、待ちくたびれたではないか」
「ふぅ……申し訳ございません、少々来るまでに手間取ってしまいまして……」
「それはよいから、ほれ早う持って来るがよい」
「はい、ただいま……」
 む……? そうか……
「ふむ、流石にこなれて来ておるの。まあこれだけやっておれば当然かの」
「お褒めに預かり光栄でございます」
「ところでどうじゃ? もう10にはなるじゃろう?」
「ええ、お陰様で9月に10になります。あの子の顔を見ていると癒されまして……ふふ、できればあの子の嫁入りまでは見ていたいものですが……流石に望み過ぎですね」
 ……そうじゃの、現実など非情なものじゃ
「お主は……近頃はどうじゃ?」
「私でございますか? いえ、特に変わりはございません。相変わらず楽しく暇な時間を過ごしておりますよ……」
 ……お主は昔から、嘘をつくのは下手じゃったの……
「では、そろそろ失礼いたします……」
 言うべき、なのじゃろうかのぉ……
「ちと待て」
「はい、何でございましょうか?」
「あ、あぁ、うむ。本日のものは……」
 …………
「……格別に美味であったぞ、大義である」
「……お褒めのお言葉、ありがとうございます……」
 コツ……コツ……

 ……すまんのぉ、すまん。


「稲荷様! 稲荷様!」
「む? おぉ、よう来たの。今日はいつもより早うないかの?」
「今日から私は夏休みなのでございます! ですから朝からこちらへ参ることができますよ!」
「おぉ、そうか。もうそのような時期かの」
「そうでございます! それで、こちらが本日の唐揚げでございます! 稲荷様の毛皮のお色に少しは近づきましたでしょうか?」
 ……そうじゃのぉ、次は何にしようかの。何せ……

「飽きたのぉ」

 ……あの日の唐揚げを超えるものなぞ、現れんじゃろうしな。

 見事なまでの、狐色の唐揚げは……



テーマ「狐色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

終末のミドリ

 その朝、俺は世紀の大発見をした。
 それに気づいた俺は、すぐに家を飛び出して、友人のカワタに会いに行った。奴は案の定寝ていたから、肩をぐらぐら揺さぶった。
「おい、おいっ。聞いてくれよカワタ、なあ、大変なんだよ」
「……ヒノか。なんだよ出会い頭に、うざったいな」
「俺は世紀の大発見をしてしまった」
「なんじゃそりゃ。一体何があった?」
「これを聞いたら誰でも飛び上がるぜ、おい」
「いいから言えよ。聞いてやらねえぞ」
「ああ言うさ。もったいつけてるわけじゃないんだ。でも、これってお前が思ってるよりとんでもないことなんだ。だから先に約束してくれよ、ほかの誰にもことは言わないでくれ」
「分かった分かった。お前って、つくづく変わったやつだよな。それでなんだ、何があったんだ?」
「見てくれよ、これ!」
 俺はカワタに右の手の甲を見せた。それを見た奴の目が大きく開く。
「こりゃあ……木の芽じゃねえかよ」
「そう、芽だよ。俺に芽が生えてきたんだ」
「そんな馬鹿な話があるか」
「そうだ、馬鹿話もいいところだ。そいつが俺たちの目の前にある」
「だってお前、この世界のどこから新たな命が生まれるってんだよ。このご時世、植物どころか、まともな水もねえのに」
「だから俺が苗床になったんだろ、腐っても人間だ、多少の水分と栄養はあるんだろうさ」
「馬鹿、俺たちの身体はただ腐ってんじゃねえ、猛毒で溶かされてんだ。こんなのに根を張ったら一瞬で枯れちまう」
「でも現にこいつは生きてるぞ、見ろよこの瑞々しい緑。こんな色を見たのはいつぶりだ」
「まあそうなんだよなあ、一体何がどうなってるのやら。学者に見てもらったらどうだよ」
「ほぉら、お前ならそう言うと思ったよ、だから先に釘を刺しておいたんだ。俺はこいつを学者に引き渡すなんて、絶対に嫌だね」
「どうしてだよ、考えようによっちゃ、こいつが世界の救世主になるかもしれねえのに」
「無理だね。もうこの世界には、白骨死体と腐乱死体と動く腐乱死体しか残ってないんだぞ、こいつは何を救えばいいって言うんだよ?」
「確かにそうか。意外とお前も考えてんだな」
「俺は楽観的なだけで、思考はお前より幾分残ってると思うぜ」
「それでお前は、どうしたいんだよ」
「とにかく何でもいいから、こいつを生かしてやりたいんだ」
「何のために?」
「何のためにだ? お前の思考もすっかり腐っちまったな。命を救いたいと思うには理由が必要なのかよ」
「はいはい、俺が悪かったよ」
「俺は学者みたいに人類だの世界だの、壮大なことを夢見るつもりはない。ただ、俺の手の甲に根を張ってくれたこいつを、生かしてやりたいだけなんだ。俺ってば意外とリアリストだろ?」
「ニヒリストの間違いじゃないのかね」
「今じゃ虚無も現実も似たようなもんだよ」
「かもな」
「だから、折り入って相談なんだけど、学者が来ないような場所ってないかなあ。奴らにこいつの幸せを邪魔されたくないんだ」
「奴ら、どこへでも行くからなあ。10割安全な場所なんて海の中くらいじゃないか?」
「海の中じゃこいつまで死んじゃうだろ。こいつが立派に育てる環境で頼むぜ。地下もなしだ、こいつがどこまで成長するか分からないからな」
「難しいこと言うよなあ。じゃあ、お前の家の屋上とかどうだ」
「うーん。悪くないけど、目立つだろ。もしも大きく育ったら、学者に見つかっちまう」
「そこまで成長したらもう十分じゃないの。学者に譲ってやれよ」
「馬鹿野郎、ちゃんと天寿を全うしてほしいだろ。こんな美しい命が、俺らみたいな死体の為に使われるなんて、そんなのおかしいだろうが。葉一枚持っていかせるもんかよ」
「随分と惚れ込んだもんだな」
「おうとも」
「そこまで堅い意志なら、俺の別荘の屋上を貸してやってもいいぞ」
「お前の家? 同じようなもんだろ?」
「忘れたか、俺の別荘って、あそこの高層ビルだぞ。地上からじゃ屋上なんて誰にも確認できない。周りの橋やビルは軒並み倒壊してるしな」
「なるほど」
「それにあのビルは階段がボロボロだからな。屋上まで辿り着くのも一苦労、ましてや大樹を切り取って持って帰るなんてできやしない」
「うん、うん」
「お前は、どうせ屋上まで行ったら、もう降りてこないつもりなんだろ?」
「もちろん」
「じゃ、そこでいいな。行こうぜ」
「ありがとう。お前はやっぱり最高の親友だ」
「やめろ気持ち悪い」
「よかったなあ、ミドリ。これでお前も安心して大きくなれるぞ」
「は? ミドリ?」
「こいつの名前だよ」
「……安直だなあ、お前」
「ほっとけ」
 かくして俺は、カワタの別荘へ行くことになった。


「こっちだ」
「おー、自動ドアとか久しぶりに見た。まだ動いてんの?」
「動いてるぞ、一応」
「マジかよ! 動かしてくる!」
「あ、ちょっと待て」
 カワタが止めたが、俺は構わず自動ドアの前に立った。ウィ~ギギギィン、みたいな怪しげな音を立てながら、それでも自動ドアは自動で開いた。
「お~~~~~!!」
 俺は文明の遺物を久しぶりに目の当たりにして感動し、そのまま中へ入ろうとした。
「ぐえ」
 しかし俺の勇み足は阻まれた。自動ドアが自動で閉まったのだ。挟まった右足がぐにゃりと変形してしまう。これはもう、元の形に戻らないかもしれない。
「だから待てって言ったろ。一応動くには動くけど、さすがにぶっ壊れてるみたいで危なっかしい」
「じゃあもうちょっと強めに止めてくれよ。まあ、足なんてもうじき使わなくなるしいいけど――」
 その瞬間、空から意識の吹っ飛びそうな轟音が鳴り響いた。黒板の引っかき音を爆弾に詰めて破裂させたような音。
 奴の鳴き声だ。
「……久しぶりに聞いたなあ」
「邪神様もお前のドジを笑ってるんだな」
「んなわけあるかい」
 そう言いつつも、空に張りついた数百の瞳は、心なしか俺を見ている気がした。
 まさか遥か上空から俺が見えてるとは思えないけど、人間の常識で計り知れるような存在じゃないのも確かだ。案外、本当に俺のことを笑っているのかもしれない。
「まあ、そうだとしたら、数日間涙は降らないな」
「だといいな」
 あの涙が、世界を腐らせた。空を覆いつくす大量の巨大な瞳が、みんな悲しそうに歪んで泣き出す光景が好きだって言う人類はまずいない。もう新しく腐るようなものは残ってないとはいえ、降らないに越したことはない。
 それに、俺に根を張っているとはいえ、あの涙がミドリに触れたら何が起こるか分からない。極力避けてやらなきゃ。

「うおーっ、すげえ」
 ビルの屋上から見える景色はなかなか爽快だった。カワタの言う通り周りの高い建造物はほとんど崩れているので、地平線が見える。これで日が差していればもっと美しい風景だったんだろうけど、残念ながらそれは空を覆う邪神が遮っている。
 無残な屋上庭園の残骸があるのが少し不吉ではあるけど、それは見なかったことにしておこう。
「じゃ、俺は戻るから」
「戻って何するんだよ」
「別に何もしないけど、ここは危ないからな。長居したくない」
「冷たいヤツだ」
「ま、たまには様子を見に来てやるから。元気でな」
「ちぇ」


 俺とミドリの暮らしが始まった。
「ミドリは綺麗な緑色だなあ。いつか、花や実もつけるのかな」
「手足はもう腐ってるとはいえ、じっと動かないでいるってのは辛いな。植物ってすごいよな、生きてるのにじっと動かないでいるんだから」
「早くミドリが成長したところを見たいなあ。何かを待ってる時間って、こんなに長いんだな。忘れてたよ」
 ミドリは喋らないけど、俺はミドリに向かって語り続けた。愛情をちゃんと伝えて育てると、植物も綺麗に成長しやすいとどこかで聞いたことがあるし。そうでなくても、どうせ俺にやることはなかったから。
「お? 最初より、少し大きくなってるか? そうだ、成長記録をつけよう! えーと、なんか壁……そこの給水塔でいいか」
「で、まあこの辺の石でガリガリっと……うぇ、親指が変な方向に曲がった」
「あっ! これ、俺がミドリを持ち上げられなくなったら書き込めないじゃん!」
 ミドリは、水も日光もなしにすくすくと成長した。それに、たまに降ってくる邪神の涙にも動じない。やっぱり、この子は普通の植物よりもずっとたくましい。
 気づけばミドリは、あっという間に俺の顔ほどの大きさに育っていた。根っこは俺の手で複雑に絡み合い、窮屈そうに腕の方へ伸びてきている。
「ここまで育てば一安心だな。お前が枯れたりしなくて、本当に良かった」
「ミドリってもしかしてさ……いや、なんでもないよ」
「そろそろ俺の腕じゃ支えきれなくなってきたなあ。どこに腰を据えるか決めないと」
「ミドリはどこがいい? さすがにコンクリートの上よりは土の上のほうがいいよな。変な成分が入ってそうだけど、この庭園の土を使わせてもらうか……給水塔の脇辺りなら外から見えづらいか?」
 俺は庭園の土を掘り、そこに手を埋めて固めた。なんだか妙な気分だ。自分で自分を埋葬したような。でも案外間違っていない気もしてくる。
「これでよし。思う存分根っこを伸ばして、思う存分大きくなってな」
 そこへ、ちょうどカワタがやってきた。
「お、もうそんなに大きくなったのか。死んでると時間の感覚が分からなくて困るな」
「そうだな。どんどん成長していって、嬉しいような寂しいような」
「何を親みたいなことを」
「いずれは俺の背よりも大きくなるのかな」
「そりゃそうだろうな、順当に行けば」
「だよなあ~。うぇへへへへ」
「うざ」
 カワタの反応は相変わらず淡白だが、長らく返事のない会話しかしていなかったので、妙に新鮮味があって嬉しかった。
「あーあ、手ごと埋めちまって。もう逃げたくても逃げられねえぞ」
「どこに逃げる必要があるんだ?」
「まあ、お前がいいなら止めないけどさ。でも、ある程度成長したところで手から根っこを離して、土に移してやるだけでもよかったんじゃないか?」
「何言ってんだ、これからもミドリが育つにはまだ栄養が必要なんだ。俺がこの子の養分になってやらないでどうする」
「うん、まあ、いいんだけどさ。お前があえてやってんなら」
 それからカワタは俺と二言三言交わすと、下へ帰っていった。そしてまた、俺とミドリだけになる。
「久しぶりにカワタと喋ったなあ。ミドリはカワタのこと覚えてるか? まだ小さかったし、さすがに覚えてないか。この場所を紹介してくれた奴だよ」
「奴がいなかったら、ミドリは怖い奴らに見つかって、捕まっていたかもしれない。あいつへの感謝の気持ちは、俺もお前も忘れちゃいけないな。偏屈な奴だけどさ」
「それにしても、カワタ、なんか変な感じだったよな。そんな心配しなくたって、俺はミドリが生きていてくれるだけで幸せ――」
「…………」
「ミドリは幸せか?」
「どうして今まで、こんな根本的なことを考えないでいたんだろう」
「生きていたって、幸せじゃなきゃ意味がない」
「長い間死んでて忘れていたけどさ、俺、生きていて楽しいだなんて、あまり思ったことなかったよ」
「そうだ。生きるのって、本当は辛いんだ」
「俺は俺の幸せをお前に押しつけていただけなのかな」
「お前も本当は、すぐさま枯れてしまった方がよかったのかな」
「お前は、生きたくて俺の手の甲に根を張ったわけじゃなかったのか? お前は何かの間違いでここまで生き残ってしまったのか?」
「何かの間違いで死に残ってしまった俺みたいに」
「…………ごめんな」
「でもな、ミドリ。俺もお前も、そうだ。残ってしまったからには、やっぱり残っていなきゃダメなんだよ。何かのために残らなきゃだめだ。自分が終わってしまうとしたら、何かのために終わらなきゃだめだ」
「それがこの世界にいるってことなんだよ、ミドリ」
「世界のために何かしなきゃみたいな、そんな大仰なことを言ってるわけじゃないよ」
「俺が死に残っていたことでミドリに出会えたのと同じだ。そういうのを、ミドリ自身のために、ミドリにも見つけてほしいんだ。……言い訳っぽいけどさ」
「とにかく、生きよう。この世界に残ろう。世界が終わってしまっても、俺たちが終わったわけじゃない」
「………………」


 ミドリが俺の背の倍くらいの大きさにまで育つと、俺は身動きが取れなくなった。ミドリは、給水塔の梯子やパイプと絡み合いながら背を伸ばし、根は俺の肩や胸を伝いながら四方へと広がっていった。
 俺が動けない代わりに、時折来るカワタに成長記録をつけてもらうことにした。しかし、この調子だとどこにも記録がつけられなくなる日も近いかもしれない。
「悪いなあ、ありがとう」
「別に印つけるだけだろ。わざわざ礼言われるほどのもんじゃない」
「いやいや、それでもさ。こうやって定期的に来てくれるだけでありがたい。ミドリがいるとはいえ、やっぱり言葉を返してくれる相手がいないのは寂しくてな」
「どうせ、やることもないから」
 給水塔から降りてきたカワタは、俺を見下ろした。
「随分と変わり果てた姿になったなあ」
「なんだよ」
「なんでもねえ。もう覚悟決めたんだもんな、お前」
「そうだぞ。お前も早いとこ、自分の終点を決めた方がいい」
「結婚が決まった瞬間に既婚者ぶる嫌な男みたいなこと言いやがって」
「言い得て妙だな」
「……まあ、分かってるよ。意識だけ残ってたってしょうがない。俺も何かしら、探さなきゃな」
 カワタは気にした様子で帰っていった。彼なりに気にしていたのかもしれない。悪いこと言ったかな、と思った。


 ある日、カワタが慌てた様子で屋上の扉を開けた。
「ふぅ」
 そしてミドリに寄りかかって一息ついた。
「おい、ミドリは休憩所じゃねえぞ」
「ああ、悪い悪い」
「どうしたんだよ」
「それが聞いてくれよ」
 カワタは俺の方を向いて、珍しく笑った。
「このビルに学者が入ろうとしてた」
「えっ、大丈夫なのか!?」
「まあ、聞け。そんで、俺は『ここは俺の別荘だ』と言って追い払おうとした。それでも奴らは、無理やり入ろうとしてきた」
「うん」
「だから、奴らの頭カチ割ってきてやった」
「……えっ」
「なんだよ」
「殺しちまったのか」
「死んでるんだから殺すもクソもあるか」
「いや……でもなあ」
「俺たち腐った死体なんかより、こいつの命の方が大事って言ったのはお前だろ」
「それは、そうだけど。でもどうしてお前、そこまでしたんだ?」
「……なんだろうな。お前の覚悟に免じて?」
「なんだそりゃ」
 その日のカワタは、人を何人か壊した割に終始機嫌がよかった。


 ミドリは、ついに給水塔を追い越した。この子の枝葉を遮るものはもはや無く、縦横無尽に空へ伸びる。正確に言えばその先にあるのは空ではなく邪神の瞳だけど。
 俺はというと、もはや根っこというか、幹の中に背中が埋まりつつあった。その影響なのか、たまに意識が途切れることがある。どれくらいの間途切れているのか、正確には分からないが、どうやらかなりまばらなようだ。一枚の葉がミドリから落ちたと思ったら俺の足に乗っていたという時もあれば、その葉が一瞬で枯れてしまう時もあった。
 そのときの感じは、ちょうど眠っているときに似ていた。事実、何度かカワタに「起こされた」。
「もうそろそろ俺、終わっちまうのかなあ」
「なのかもなあ」
 他愛もなく、カワタと話す。
「ミドリはどこまで伸びるんだろう」
「もう随分と伸びたけどな。一般的な樹木なら、これくらいで打ち止めじゃないか?」
「いや、まだ伸びるよ、きっと。なんとなくだけど」
「なんだそりゃ」
「俺はもう、半分くらいミドリだからな。分かるんだ」
「はあ、そんなもんかね。植物の養分になって植物の気持ちが分かるんなら、生物学者は苦労しなかっただろうな」
「腐ったまま意識を残せる方法がなかったんだから仕方ない」
「そりゃあな」
 そのとき、空からぼつぼつと音がした。
「雨?」
「いや、涙だな。見てみ。今日の邪神様はまた一段と悲しそうだぞ」
「そうかあ。じゃ、長引くなあ」
 瞬く間に涙は激しくなった。カワタがうんざりしたみたいに長い息をつく。
「まったく、何が悲しいのかねえ」
「寂しいんじゃないの」
「神様のくせに?」
「そりゃ俺たちが勝手に邪神呼ばわりしてるだけだろ」
「ああ、そうだったっけな」
「……にしても、寂しいとしたら、あいつはどうして空を覆って俺たちを見てるだけなんだかね」
「……あれ? ヒノ?」
「あ、これまた途切れてるな。おい。話の途中だぞ、起きろよ」
「……だめ こり 」
「次来 時まで は起きて といいんだ な」


「おい、ヒノ!」
「えっ!?」
 大きな声で揺さぶられ、俺は起きた。
「やっと起きたか。もしかしてあれからずっと途切れてたのか?」
「えーっと、そうかもしれん。どれくらいぶりに来た?」
「二年ぶりくらい? 分からん、そんなに時間とか気にしてないから」
「ミドリどう?」
「お前の言う通り、また大きくなってる。立派な大木だなこりゃ。根っこが窮屈そうだ」
「そっか。困ったな。いや、ミドリが育つのは嬉しいんだけど」
「他のとこの土、ここに寄せ集めとこうか?」
「えっ、いいのか」
「ああ。そこにスコップもあるし、そんな手間にはならないだろ。それでもこいつには少し足りないかもしれないけど」
「……なんか、お前に世話になってばっかりだなあ。もうお礼もできない身体になっちまったけど、本当に感謝してるよ」
「そういうのはいいって。やることないだけだから」
 カワタは俺のお礼を受け流すと、スコップを手に取り作業を始めた。ゆっくりとした動きではあるけど、重労働には変わりない。あれでは身体の損傷も少なくないだろう。
 身体が傷ついて動けなくなるのを恐れるあまり、四六時中ベッドの上で寝ていた奴が、どういう心変わりをしたというのか。
 その疑問は、またしても意識の奥へ沈んでいった。


「おいっ起きろ」
 気色悪い感触で、目が覚めた。
 見ると、俺の右足にスコップがザックリと刺さっていた。
「ああっ、お前よくも」
「お前が起きないからだろ」
「学者をカチ割ってから行動が過激になってないか。何かに目覚めちまったのかお前」
「かもしれん。とりあえずこの足も土に埋めておく」
「お、ありがとう。じゃなくて」
 カワタは構わず俺の足をミドリの根元に植えると、そのまま俺の横に腰を下ろした。
「だから、ミドリに寄っかかるなっての」
「疲れたんだよ、いいだろこれくらい」
「死体のくせに疲れたもクソもあるか」
「気分的に疲れた」
「なんだそりゃ」
「ミドリのために働いたんだから、これくらいのことは許してくれよ」
「……確かにそれもそうだな。よし、許す」
「どうも」
 カワタはこれ見よがしに腰を深くミドリに預けた。
「はあ、もう動きたくねえな」
「動かなきゃ、ミドリの養分になれるぞ」
「それもいいかもしれん」
「……本気で言ってるのか? お前が?」
「だから、言ってるだろ。疲れたんだよ」
 カワタはいい加減な調子で言い捨てた。
「いや、それにしたって――」
 納得できずに言い返そうとしたところ、下の方から崖崩れのような激しい音が響いた。
「なんだ?」
「ありゃたぶん、階段が崩れた音だな。そろそろ怪しいと思ってたんだ」
「え」
「これで俺も、もう逃げられない。ミドリの養分になる以外、何もない。覚悟決めなきゃな」
「どうしてだよ」
「自分の胸に聞いてみろ」
「はあ?」
 意味が分からない。なんでカワタの覚悟の理由を俺の胸に聞かなきゃならんのか。
 しかし、奴はそれ以上何も答えなかった。
 じきに俺も、眠くなった。


 気づけばミドリの枝葉は、もはや屋上全体を覆っていた。その根はビルを鷲掴むようにして側壁を伝っている。一方で俺の胸は、既に半分ほど白骨化していた。きっと顔も酷いことになっているんだろう。それでも、不思議と気分は穏やかだ。
「たぶん、これで終わりなんだよ」
 おそらく、俺の口から言葉が出る。
「何が」
 これはきっとカワタの言葉だ。
「ミドリは大人になった。俺の役割は終わったんだ。もうすぐ俺自身も終わってしまうんだと思う」
「そうか」
「お前はどうする」
「どうもしない。ここでゆっくりとミドリの養分になるよ」
「そうか」
「どんな気分だ」
「悪くない」
「そうか。安心した。やっぱり終わるのは、死ぬより悲しくないんだな」
「それもあるし、そもそも俺はミドリになれるから」
「なるほどな」
 もはや俺は、俺なのか分からない。きっと俺じゃない。こんなこと、もし俺がまだ生きていたなら、気が狂っていたんだろう。でも俺はとっくに死んでいる。死んだ身体が生きる身体に取り込まれるのは自然なことだし、そしたら魂が魂と同化するのはもっと自然なことのように思えた。
 ただ、俺は俺の部分に、わずかに何かやり残したことがある気がした。俺はそれを探した。ミドリを伝って、空から下の世界を覗いて。けど、見つからない。上を見上げれば邪神が笑っている。
 長い時間をかけてようやく見つけた。それはちょうど俺の隣にあった。
「カワタ」
「なんだよ」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
「…………」


「お前、それが最期の言葉とか言うんじゃねえよな」
「似合ってねえし、薄ら寒いし、もうちょっと何かあるだろ」
「おい、ヒノ」
「…………」
「…………はあ」
「残っちまったなあ」
「なあ、ミドリ」
「ミドリと俺と、ふたつだけになっちまったな」
「間にあいつがいないと、なんか気まずいよな」
「お前は何したいとかあるの? あるわけないか」
「……あいつ、こうやってずっとお前に話してたのか?」
「それ、優しいとか几帳面だとかより、むしろ病んでるよな」
「つまり俺も人のこと言えないんだけど」
「お前が意思疎通できたらいいんだけどね」
「ん?」
「おい、どうした?」
「ヒノ、おい、ミドリの様子が」
「なんだ?」
「あれは……花? いや違う、」
「え?」


「…………は」
「ははは」
「ははっ、おい、ヒノ。ミドリが何の木だったか、見えてるか?」
「いやいい、見えてねえ方がいいよ。知らない方が幸せってことも、世の中にはあるもんだ」
「どうやら俺たちはまんまと嵌められたらしい」
「自分で自分の世界にトドメを刺しちまったようだ」
「でも、お前だったら、ミドリが何であったとしても素直に成長を喜べるのかなあ」
「……というか、お前さ」
「本当はミドリの正体、気づいてたか?」
「だって、そうだよお前、半分ミドリになってたんだろ、それに」
「……じゃあ、どうして」
「…………」
「ああ、そうか」
「はは、俺、どうも、ダメだな、ほんとに」
「俺、まだこの世界は終わってないって思ってたんだな」
「お前はそこんとこ、ちゃんと分かってた」
「世界よりも人類よりも、こいつだけを愛していた」
「そんな奴に、嵌められたも裏切られたもないよな」
「……はあ。またどっと疲れた」
「俺もしばらく眺めておくよ。ミドリと世界がどうなるのか」
「こうやって見ると、案外いい景色だな。高熱で倒れた時の夢みたいだ」
「ミドリの下にいる俺とお前だけが見れる景色だな」
「なんたって、俺たちからすればこれは、ミドリの門出だ」
「そう思うと、……変だな。なんだか、神秘的な光景に見えてきた」
「世界が終わっていく光景を美しいと思うなんて、おかしい話だ」
「でもさ、どうにもダメだ」
「息なんてしてないのに息苦しい。涙なんて出ないのに泣きそうになる」
「こんな気持ちはいつぶりだ?」
「夏祭りの最後に打ち上がる、大きな花火を見てるみたいな」
「何かが終わってしまうことと、何かが終わることと、そこから何かが始まることと」
「それが一気に押し寄せて、一杯一杯になる」
「……なんか、柄にもなく恥ずかしいこと言っちまった。忘れてくれ」
「見てみろよ」
「邪神が笑ってる。すげえ嬉しそうに笑ってる」
「じゃあ、俺も祝福してやるか。邪神とミドリに彩られた、この世界の未来を」


「……Freude, schöner Götterfunken Tochter aus Elysium」

「合唱部だったからな。なんとなく覚えてる」
「たぶん、世界最後の歌だからな。お前もよく聴いとけ」

「Wir betreten feuertrunken Himmlische, dein Heiligt m」


「Deine Zauber bind n w eder……Was die M de stren get ilt」



「Alle Me sch n w r en Brü r Wo dei san er F ü l ei

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

碌々たる憂鬱

 6月。
 それはなんとなく、思いつきだった。
 あの人はいつも面倒がって、雨の日も傘を差さずに帰るから。
 私はそれが気になっていた。
 別に彼の身体が心配というわけじゃない。
 なんでそんなことするの? という、理解できないものに対する苛立ちに近い感情。
 だから、今日の夕方は降水確率70%と聞いて、ふと私は傘を二本持って学校へ行った。

 その日は、放課後になってもまだ晴れたままだった。窓からは気取った茜色が差していた。みんなから「今日の空きれいだね」なんて言われて、得意げにしていた。
 私は美術室でノートに落書きしながら、しきりに空を見上げた。このままじゃ私は、晴れ渡る空の下、両手に傘で下校することになる。なんて間抜けな姿だろう。
 それでも、落書きがひとつ描き終わる頃には、ちゃんと雨が降り始めた。明るい空の色の割に、遠目でもはっきり雨粒が見える。これならみんな傘を差して帰ることだろう。
 私はほっとして、思わず彼を見た。
 彼はいつもと同じく、鳥の絵を描いていた。雨なんか気づく素振りも見せない。
 私が何も言わなければ、きっと彼は、いつもと同じく傘を差さずに帰るのだろう。雨が降ってることに何の不平も漏らさず、何の感情も抱かず、小走りで帰ってしまうのだろう。みんながそれをどう思っているかも知らずに。
 でも今日は、そんなあなたのために、私が傘をもう一本持ってきたんですよ。どう思う?
 少しはありがたがってくれる?
 それとも、

 それとも。

 私は急に怖くなった。
 分かっている。彼は別に傘を忘れたわけじゃない。
 身体が濡れてしまうより、傘を差すことの方が面倒だと思う人種なだけ。
 だったら私の行為は、ただのありがた迷惑じゃないのだろうか。
 私は長机に引っ掛けられた二本の傘を見やった。重なり合った傘が、世界から徐々に浮き出て滲んでいく。違う、世界が色褪せていってる。
 暑さに茹だる頭の上でかき氷機をガシャガシャ回されているような気分になった。冷静を通り越してフリーズしそうだ。どうしてこんなことしたんだろうって、そこで思考が止まる。
 私の傘が彼に拒まれるのを想像すると、まるで私ごと否定されてしまったかのように苦しい。
 どうしよう。どうしよう。せめて折り畳み傘ならよかったのに。鞄に入れてたの忘れてたから、って言えるのに。お父さんが予備用に使ってる1500円の大きな傘なんて、どう言って渡すつもりだ。
 あなたのために傘をもう一本持ってきたんです、って正直に言うの? 意味が分からない。分からないかな。部活仲間なら普通かな。相合傘ってわけでもないし。でも私たち、ほとんど話したこともないのに。


 6時。
 悩む間もなく部活の終わりを告げるチャイムが鳴る。
 みんな背伸びして、帰る準備を始める。当然、彼も。
 彼は誰よりも早く部屋を出て行ってしまう。いつもなら私は、それを横目に見ながらだらだらと帰る準備をするのだけど、今日の私は手から離れた平ゴムのように部屋を飛び出した。
 友達がみんな不思議そうに私を見た。構わず彼を追いかける。
 当然、特別急いでいるわけでもない彼にはすぐ追いついた。いや、実は追いついたわけじゃない。彼との距離、あと数歩分がいつまで経っても縮まらない。彼の背中を見ると、足が固まって走れなくなる。
 たぶん彼は私に気づいていない。彼の頭の中は今、帰ることでいっぱいなんだ。それでも、ここから声をかければ、ちゃんと彼は振り向いてくれるだろう。
 声をかければ。
 心の中で声をかけると、彼は容易く振り向いて、私は物怖じして何も言えなくなる。想像の私と現実の私がリンクして、喉がきゅっと引き絞られる。
 彼が内履きを脱いで靴箱を開ける。私も反対側の靴箱から靴を取り出す。古びた金属のガタガタと揺れる音。それすら彼は気づかない。このままだと向こう側にいる人と鉢合わせることになるとか、挨拶するべき人かなとか、全く気にしない。
 私が考えるのを止めてしまったって、彼は歩く。私も歩く。時間が経つ。焦燥だけが膨れ上がって、だけど私を駆り立てない。焦燥が苛立ちを掻きむしって苛立ちが痛みに喘いで、みんなして助け舟を待っているだけ。
 振り返って。私に気づいて。あなたと私の間にある断裂は大きすぎるの、とてもじゃないけど飛び越せない。だからせめて、手を伸ばしてほしいだけ。そしたら私、ちゃんと跳んでみるから。
 ダメだ。頼ってばかりで、私、本当にダメなんだ。そんなわけないじゃん。何もかもうまくいかないんだ。そうやって、そういうの積み重ねて、少しずつ壊れてきたんだろ。ほら、ほらもう、彼が玄関を出てしまう。走っていってしまう。私よりもずっと早く、速く。

 彼が見えなくなっても、私は歩いた。焦燥が破裂して苛立ちが膿んでも、構わず歩いた。そうしないではいられなかった。さらに下を向いて目を見開いて口を固く結んでいることで、ようやく私は辛くも耐えられているのだった。
 身勝手な厚意、自己陶酔の傷心、碌々たる憂鬱。そんなの自覚している。もうどうせなら、低気圧のせいにでもして開き直っていればいい。その内本心かどうかも忘れて、本当の意味で苦しまずに済む。気取ってみせろ。
 だから私は、あなたの傘を後ろに広げ、私の傘を腕に提げて、あなたと同じ雨に濡れながら、少しぬかるんだ道、あなたの足跡を辿って、帰る。



テーマ「茜色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

Maggots

 バスの車窓から見える景色はひどく長閑だった。川沿いの道をバスは行く。青葉だけの桜並木が一本また一本と右から左へ。それらは埃を被ったように褪せている。その向こうに並ぶ建物はどれも疲れきった目をして佇む。人がどれほど行き交おうが、その景色は不気味なほどの静けさを湛えてそこにある。流転から外れているわけではない。それらは移ろいゆきながらも半永久的に静止している。変化にはレベルがあるのだ。個体は部分の最小単位の集合としてある。ふと、そのうちのひとつが変わり、その隣が変わり、またその隣が変わる。そうして絶えず揺れ動く状態の、その奥の奥の奥には、静止したままの中心が存在している。それは静止しつつも目を見開いて変化を読み取り、個体の輪郭をそこに見出す。変わる表層と、変わらない深層と。世界の価値は、変わらない深層によって決定される。

 やめる必要はないんだよ、と先生は言った。
 誰しも生きていくためには戦わなくちゃならない。自分の生存を守るために。無理に戦うことをやめれば、取り返しのつかない部分がぽっきりいってしまうかもしれない。だから、戦っていいんだよ。でも、少しでも辛い思いをせずに済むのなら、その方がいい。

 そうだな、と思う。私は生きるために戦わなければならなかった。死に物狂いで探し当てた戦い方は決して褒められたものではない。他に何もなかったと言えば恐らく嘘になる。そんなことを言えるほどまともに、生きることと向き合ったわけではない。半ば、それ以外の選択肢を見つめることで現実逃避をしながら、大事なものを誤認しようとすることでここまでやってきた。それでもここまで生きてきたのだから、そう大きな過ちでもなかったのかもしれないが。
 バスが大きく揺れて全身の筋肉が緊張する。左手首につけたヘアゴムが軽く腕にぶつかる。どこにでもあるようなアイビーグリーンの、ラメや何かもついていないシンプルなヘアゴム。髪を縛ることはあまりない。それは手首に、そして左手首についていることに意味がある。それは私の新しい戦い方になるかもしれないし、ならないかもしれない。でも武器は多い方がいい。勿論、戦わずに済む人というのも世の中には山程いる。戦わずとも相手が降参したり、そもそも身の回りの人間が誰ひとり敵にならないということもありうる。でも私はそうではなかった。私の周りには敵が満ちていた。敵にならずともよいはずの人々が誰も敵に見えて仕方なかった。敵に見えるのに敵ではないと分かっていた。害を為してくる存在でありながら、それらの影は私の耳元で他を害すべからずと囁いた。結局私が戦っていたのは他者を敵視する私自身だったのだろう。だからこそ私は私自身を傷つけ、そして今になってもまだそれをやめられない。体中の傷は増え続け、自分ではもう、どうしようもなくなってしまった。

 お守りだと思ってさ、と先生はこれを私の前に置いて言った。切りたいなと思ったら、これをパチンと弾く。耐えられそうなら、それで済ませてしまえばいいから。

 それで事足りるなら苦労はしない。そう思ったが私には言えなかった。先生は敵でなかったし、傷つけていい相手ではなかったからだ。だから何も言うことはなかった。ただ黙って頷いた。今まで私に求められてきたのはそういう立ち回りだったから、それに従った。
 自分自身がその時どうしたかったかはよく分からない。普通の人はそう考えないのだろう、という感想だけが残っている。きっとそれらの人々は、こんなことを考えることもなく動くことができる。普通の人がさほど引っかかることもなく自由にできるはずのことが私には上手くできないのだろう。自動ドアのようだと思う。普通の人は難なく通ることが出来るのに、私はいつもどこかしらを挟まれている。そうやって傷が増えていく。増えた傷を人が見る。たくさんの視線が降り注ぎ突き刺さる。でもきっとそれらは全て、私自身の中にある。視線も、傷も、それを与えるドアも、何もかも。余程、私が私でなくなればいい。私が私でなくなれば、全ては解決するだろうに。
 困ったことにそうすると私は残らない。私は世界ごと喪われる。

 バスの窓の外には曖昧な青を湛えた曇天が、曇った緑色の合間に覗いている。
 どんよりと沈黙する空の下に遠く、錆色の校舎が見える。通うときには何の感慨も引き起こしはしないのに、こうして制服を着ずに眺めるとそれは随分とよそよそしく見える。日曜日の昼下がりであってもあの中には多くの人が蠢いているはずだ。日曜に活動する部活もあるし、タスクを消化しに来る教員も少なくない。それでも、こうして見ているとまるで死んでいるように思われてくる。既に息絶えている校舎の中に蛆のようにのたくっている人々。少し羨ましいようにも思う。私の中にも蛆が住めばいい。血管の中を泳ぎまわり、肉を喰らい、脳を掻き乱せばいい。上手くすれば私から私だけを消すことが出来るかもしれない。内側のない、外側だけの私になれるのかもしれない。でもやはり、それすらも私の中で手慰みに織り上げた虚構でしかない。
 結局、私はどこまでも私で、どこまでも私として有り続けるのだ。如何に表層が移り変わろうと、その核にある私自身は変わらない。それがどんなに凄惨なことでも。そんなことはずっと分かっている。分かっているのにどうにも出来ない自分が嫌なことも、そうして自分を嫌うことがそれなりの快感を齎すことも。
 荒い振動と共にバスが止まる。けたたましいブザー。扉が開いて、目の前の席に座っていた客が慌てて降りていった。それと入れ違うように新たな客が乗ってくる。



 それが琴葉であるということを、私はほとんど一瞬で見て取った。



 目を上げた琴葉が私を認識するのもほとんど同じくらいだっただろう。長い黒髪を後ろで一つに束ねているのは昔のままだ。淡いミントブルーの長袖ブラウスに、真っ白な
ロングスカート。一瞬何もかもゼロになるくらいに私は驚いた。驚きながら、相変わらず海が似合うと思った。爽やかな、煌く海。

「弥生?」

 問うた声も、大きく目を見開く仕草もあの頃と変わらなかった。ただ、どこかほんの少しばかりぎこちなかった。

「うん」
「久しぶりね」

 眩しいほどの笑顔。今までと変わらない。

「元気にしてた?」
「それなりに。座る?」
「うん、ありがとう」

 目の前の空席に琴葉を通す。貧血で倒れがちな琴葉を優先的に座らせるという習慣を私はまだ覚えていた。反射的にそうしたあとで、それにしても、と私の中に何かが蟠る。どうして。どうして今、ここで?

「ホント久しぶりね。なんか久しぶりって感じしないけど」
「確かに。でももう何ヶ月ぶり?」

 うーん、と唸った琴葉の表情は僅かばかり憂いを帯びながら、それでも穏やかに微笑していた。

「ほとんど半年ぶりくらいかなあ」
「そうだっけ」

 そうだったかもしれない、と思う。
 ある日何の前触れもなく、琴葉はふっつりと学校に来なくなった。何度か連絡はしたものの、そう遠くないうちに戻るから待ってての一点張りで、途切れがちだった返事は暫くしないうちに来なくなった。そういうものだろう、と私は思うしかなかった。琴葉には琴葉の事情があるのだと。待てというからには待つしかないだろうと。そうして待った相手が今、何の変わりもない姿で目の前にいる。微笑んでいる。
 確かに待てたのだな、と思う。少なくともこうして再会するまでは。

「学校に用事?」
「まあね」

 努めてさりげなく訊けば、琴葉は更に憂いを重ねて、ふと視線を逸らした。

「私、退学するんだ」

 ぽつん、と琴葉は言った。ほとんど動じていない自分と、酷く困惑している自分とが半分半分といったところだった。琴葉の成績は学年でもいい方だったが、来なくなる半年ほど前から欠席が目立つようになった。元々皆勤賞を貰っていたような琴葉だったから尚の事それは目に付いた。大丈夫、なんでもない、と言い続けた琴葉は結局来なくなって、いつか戻ると言い残したまま、今度は退学と来た。

「停学じゃなくて?」
「ううん。退学。もうここには戻ってこない」

 さらりと言ってのける表情には、いつか戻るという雰囲気は欠片もなかった。もう戻ってこないのだ。散々待たせておいて。

「それ、理由は訊いていいの?」

 ほんの紙一枚分ほど、琴葉の表情が悲しくなる。

「……みんなには、内緒よ?」
「分かった」

 ひゅ、と息を吸うのが聞こえた気がした。がたん、とバスが大きく揺れる。

「入院するの」

 ピンポーン、と間の抜けた音がする。次、止まります。お降りの方は、バスが止まってから席をお立ちください。

 入院。

「どこが悪いの?」
「強いて言うなら、心とか、頭?」

 琴葉は自嘲気味に笑った。

「最近、神様の声が聞こえるの」
「……今、なんて?」
「最近、神様の声が聞こえるの」

 琴葉は正確にそう繰り返した。

「神様?」
「そう」

 平然と。

「でも、何を言っているのかは分からないのね。言葉というより、唸りとか……時々軋む音のようだったりする。それを延々聴いてると、ふっとどこかで突然、あっ、死ななきゃ、って思うの。火にかけっぱなしだったポットのことを思い出すみたいに」

 ぞわりとした。どこかで悍ましい音のサイレンが鳴っているような気がした。窓の向こうに犬の散歩をしている人がいた。
 視線を戻すと、琴葉はいつの間にか表情を失っていた。

「初めてそれを思ったとき、私、お風呂にカッター持ち込んで肘の内側に刺したの。とっても痛かった。でも温かくて、ふわふわしてきて、とても気持ちが良くなって、ああこれでよかった、正解だって思ったのに、気付いたら病院のベッドの上だった。私泣いたわ。死ななきゃいけないのにって。でも泣き止んでから、もう一回泣いたの。死ななくてよかったって。きっと私、死にたくないのね。でも神様がいつもそうおっしゃるから、時折また死ななきゃって気持ちになって腕を切るわ。そんなのが続いて、なんだか疲れちゃって、学校も行かなくていいかなって、どうせ死ななきゃいけないんだからって。神様は血管の内側で私を見ているの。そこから私に語りかけるのね。私、ちゃんと自分で死ななきゃならないの。母や先生も私を殺そうとしてるけど、あんな奴らに殺されたりしないわ。ちゃあんと、自分の手で、自分を、殺すの。病院はそれを止めにかかると思うけど、ここ最近、あっ病院に行かなきゃって何度か思ったから、行くの」

 どうしようもないの、と琴葉は言い、右手で髪をかき上げた。見下ろしたその手首にヘアゴムが揺れた。

 アイビーグリーン。何かの足しにはなるかもしれないその色。
 ミントブルーのブラウスの袖は透けて、細い腕の輪郭が微かに浮かんでいる。その一部分だけ不自然に色が違う。私にはひと目で包帯だと分かる。神の声が彼女に、それをやらせている。

「琴葉もやるんだ」
「……何を?」

 平然と、琴葉は言う。私の顔を見ないまま。じっと進行方向を見据えている琴葉の視界に入るように、アイビーグリーンの絡みついた左手首を差し伸べた。ちらり、と琴葉の瞳がそれを捉え、何事もなかったかのように元の位置へ戻る。

「ふうん。そっか。弥生もやるんだ」
「神様は教えてくれなかった?」
「そうね。教えてくれなかった。弥生に会うことも、弥生がそれをすることも」
「大事なことは教えてくれないのに、死ねとだけ言うわけ?」
「そうよ。それが私の神様」

 琴葉は、どこか震えを隠すように笑った。その周りだけが真空になっているような遠さを感じた。琴葉は遠くへ行こうとしている。神だかなんだか、ほとんど呪いのような幻聴に惑わされて。

「……とんだ邪神様だ」

 何故、琴葉にはそれが聞こえて。

「そうかもね」

 何故、私にはそれが聞こえない。

「でも、神様よ。間違いなく」

 聖女のような美しさを湛えて琴葉は言い切った。がちゃがちゃと上下に揺れてバスが止まる。私は言葉を探していた。けたたましいブザー。扉が開き、扉が閉まる。

「どうしてそう言い切れるの」
「私がそう確信しているから」

 ふっと、見上げた琴葉の視線が私を捉える。

「……他に何が必要だって言うの? 私の世界なのに?」

 圧倒的な、暴風のような感情が私をもみくちゃにした。
 ああ、勝てない。琴葉は本物で、私は紛い物。未完。見せかけだけの狂気と苦しみ。

 私はまだ、正気だ。全然狂えちゃいない。

「弥生は、どうしてそうするの」

 琴葉はぽつりと零した。

「あなたには神様、いないのでしょう?」
「いないよ」

 ほとんど絶望的な気分で私は言った。

「じゃあ何故?」
「止める必要がないから」
「それは先生の言葉ね」
「そうだよ」

 沈黙。バスの動く音ばかりが煩い。揺れた左手首にヘアゴムが当たる。そのざらついた表面の感触。無意識に右手を下ろして、それをぱちんと弾いた。遅れてやってくる小さな痛み。刃に裂かれた痛みに比べればごく僅かな、一瞬の後には痒みに変化してしまうようなもの。

「ふふっ」

 琴葉はそれを見て笑った。何を笑ったのかははっきりとしなかった。ただ、琴葉は自分の右手首を持ち上げて、アイビーグリーンのそれを左手で弾いた。ぱちん。プラスチックの割れるのにも似た、鈍く軽い音。

「街中で何人か、これと同じのをした人を見かけたわ」

 まるで猫か何かを慈しむような目で、琴葉はヘアゴムを見つめていた。左手が弾く。ぱちん。

「でも、思ったのね。この中の誰ひとりとして、神の声なんて聞こえてないんだろうなって。聞こえていないのに自分で自分を傷つけているんだって。それって、何のためなの?
自分の肌に傷を作って、消えない傷痕をつけて、おしゃれとか、もしかすると仕事とか恋愛とか、もっと近い未来もそう。そういう人生のいろんなことを自分で制限してしまうのは、何のためなの?」

 琴葉の手がするりと伸びて、ボタンを押す。ピンポーン。次、止まります。
 綺麗な、本当に綺麗な、澄み渡った眼差し。

「弥生。教えて。神に死ねと言われていない人が、どうして死のうとするの?」
「別に」

 一瞬、つっかえる。

「……別に、死にたくはないよ」

 零れた。
 琴葉は微動だにしないまま、私を見つめていた。

「じゃあ、どうして傷を作るの?」
「元々、そこにあるべき傷だったから」

 ほろり、ぽたり、と言葉が落ちていく。

「でも、傷なんてない方がいいでしょう」
「確かに、ない方がいい」
「でもつけるのね」
「そう」
「どうして?」

 バスが減速する。

「それは」
「それは?」

 沢山の回答が、脳みその中を走り回って掻き混ぜていく。
 傷なんてない方が、いい。絶対に。でも、私の体には傷があるべきだった。体の傷にするべきものがあった。最初から体の傷であれば良かった。心なんてどこにあるかもよく分からないところじゃなくて、最初から体の傷で、血を流すことができれば良かった。血を流すより涙を流せればもっと良かった。泣かなくて済むならもっともっともっと良かった。でも、私は。そういう戦い方しかできなかった。そんな戦い方でも、戦うことを選んだ。それは。

「それは」

 すう、と息を吸う。
 停車。

「生きるためだよ」

 ブザー。

「……そっか」

 琴葉は少し笑った。さらりと立ち上がりながら、ヘアゴムを外して私の前に差し出した。

「私、死にに行くから。あげる」

 私はそれを受け取った。不思議と躊躇いはなかった。

「じゃあね」

 そよ風のように軽く、琴葉はバスを降りていった。特にかける言葉が見つかるわけではなかった。またね、では確実になかった。
 余程、死んでほしいと、思った。

 琴葉が死ねば、私もおかしくなれるかもしれない。その妄想は少しだけ私を楽しませた。その妄想で楽しさを感じている自分が酷く醜いもののように思えた。さながら巨大な一匹の蛆虫のようだ。風に舞う蝶になれる望みもない。もしかすると蝿にすらなれないかもしれない。あるだけで何かを蝕み、損なっていく、巨大で、重くて、鈍くて、醜くて、吐き気を催すほどの、それなのに、どこか愛おしい。
 私。
 ああ、なんてどうしようもない、私。

 けたたましいブザーと、閉まるドア。発車。流れ出す、ひどく長閑な車窓の景色。



テーマ「アイビーグリーン」+預言

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

見えないモノ

「あうっ!」
 ガコン、という音と共に背後から聞こえてきたその声に振り返る。そこには、俺が今しがた後にした書店の自動ドアに見事に挟まれている奇抜な格好の少女がいた。……なんだ、この光景。
「うぅ~、どうしてこのドアはいつも私のことを挟むんですかぁ」
 どうやらいつも挟まれているらしい。……いや、自動ドアにいつも挟まれるって何だよ。赤外線はそこまで無能じゃねえよ。
 しかし、いつまでたっても少女を挟んだままの自動ドアは開こうとしない。なんだ、故障か? 試しに俺が少し近づいてみると、自動ドアは問題なく開いた。なんだ、動くじゃねえか。
「大丈夫か?」
「あ、はい。いつものことですので……って、はれ⁉ もしかして私のこと見えてます⁉」
「何を言ってるんだあんたは……」
 あれだけ堂々と挟まってたら誰だってわかるだろうが。
「えっ、いやだって、え⁉ ……ほ、本当に私、見えてます……?」
「だからそう言ってるだろ。ほら、俺以外の人だって……」
 みんなあんたの方を見てる、と言おうとして、異変に気付いた。誰も、俺たちの方を見ていない。意図的に目をそらしているとかではなく、本当に誰もこちらに注意を向けていない。
「…見えてない、みたいだな」
「で、ですよねぇ……びっくりしちゃいました。……でも、あなたには見えているみたいですね」
「ああ。しっかり挟まれてるところを目撃したぞ」
「そ、そこはぶり返さなくていいんですよぉ…! こっ、こほん。えっと、私イヴって言います。助けてくださってありがとうございました」
 いや、俺自動ドア開けただけだからほぼ何もしてないんだが……。
「気にすんな。ちなみに俺は麻枝朋哉だ。で、あんた……イヴだっけ? は、どうしてこんなとこで自動ドアに挟まってたんだ?」
「挟まりたくて挟まってたわけじゃないですよぉ! わ、私は他の邪神たちから逃げてきたんです!」
「……What?」
 じゃしん? それは、アレか? 邪な神と書く、あの邪神か?
「あ、えっと、麻枝さんには私のことが見えているみたいなのでお伝えしておきますね。私こんなですけど、一応邪神です」
「……………いやいやいや。邪神なんているわけないだろ。なんだ、そういう設定なのか?」
「中二病扱いしないでくださいぃ! 私ほんとに邪神なんです! ほっ、ほら、証拠に麻枝さん以外の人には見えてないでしょう⁉」
「確かにそれはそうだが……」
 ここまでのやり取りでこいつ結構叫んでるのに、誰も注意を向けないというのは確かにおかしい。だが……。
「……百歩譲って邪神が実在したとして、お前は絶対邪神じゃないだろ。話し方は弱々しいし、自動ドアに挟まるし……そんなポンコツな邪神がいるわけないだろ。大沼さんじゃあるまいし」
「大沼さんって誰です⁉」
「あれ、知らないか? やんごとない理由でやむなく邪神になってしまった、かの有名な大沼さんなんだが……」
「知りませんよぉ! っていうか大沼さんはどうでもいいんですっ! 私ほんとに邪神なので信じてくださいぃ~!」
 なかなか信じない俺の足に縋りつき、ズボンをバサバサと引っ張って必死に訴えるイヴ。お、おいやめろ。ズボン落ちる、落ちるってば!
「わ、わかったわかった! 信じるからズボンから手を離せ!」
 でないと公共の面前で俺のパンツが披露されちゃうから!
「あっ……ご、ごめんなさい! 私、はしたなかったですね……」
 ……そうだけど、微妙にそうじゃないんだよな……。
 と、俺がイヴへの返事に悩んでいると、やたらと周りからの視線が突き刺さることに気付いた。……なんだこれ。まるで俺のことを不審者でも見るかのような目で……。………。
「……なあ、イヴ。今の俺って、一般人からはどう見えてるんだ?」
「え? えっと……何もない空間に向けて一人でずっと話しかけている変な人、ですか?」
「よし、話しの続きは場所を変えてしよう。この店はもうだめだ」
 そうだよな、イヴが他の人には見えてないってことは、当然そうなるよな。あー、もうこの店恥ずかしくてしばらく来れねえ……それなりに気に入ってたんだがなぁ。

 というわけで、自宅の自室に場所を移した。公園とか喫茶店とか、人目につく場所だと結局先程と同じことになるので、仕方なく家に上げたのだ。連れ込んだとかではない断じて。
「で、なんだっけ。大沼さんの話だったか?」
「いつまで引っ張るんですかそのネタ……。違いますよ~、私が邪神で、他の邪神から逃げてきたって話ですよ~」
 ああ、そういえばそうだった。
「まあ、仮に邪神云々は信じるとして、だ。他の邪神から逃げてきたってのはどういうことだ?」
「えっと……さっき麻枝さんも言いましたけど、私って邪神っぽくないじゃないですか」
「うん」
「即答……。まっ、まあいいです。自覚はありますから。それで、そんな私なので邪神の中でもかなり立場が弱いんです。性格も思考も温厚そのものですし、おまけに若輩者。なんでお前みたいなのが邪神やってるんだ、ってよく馬鹿にされるんです」
 ま、そりゃそう思うだろう。邪神の実態がどんなもんかは知らんが、漫画やゲームのイメージから考えれば、おそらくイヴは邪神から最も遠い位置にいるような人物だ。悪いこととか一切できそうにない。
「そもそもなんでお前、邪神になったんだ?」
「………最初からです。生まれたときにはもう、私は邪神でした。こんなの、なりたくてなったわけじゃないです…」
「イヴ……」
 なるほどな。そういう事情でこんなに「ぽくない」邪神が誕生したわけか。
 なりたくてなったわけじゃない……その感情は、俺にも少しだけわかる。俺の父はプロ野球選手だが、一方で俺は壊滅的な運動音痴だった。野球どころかキャッチボールすらまともにできない。お前本当に野球選手の息子かよと、散々馬鹿にされた。だが、俺だって好きで野球選手の息子に生まれたわけでも、運動音痴になったわけでもない。それなのに周りからとやかく言われるのは……正直辛かった。今でこそ笑い話やネタとして処理できるが、当時の俺には一時期不登校になるほど精神的に堪える出来事だった。だから、今のイヴの感情も、多少は理解できるつもりだ。人と邪神とじゃ、いろいろ違うかもしれないが。
「っと、話しがそれてしまいましたね。それで、私がなんで逃げているのかというと……そんな邪神にふさわしくない私を、他の邪神たちが処分しようとしているからです」
「……わ、わーお……」
 だからまあ、似たような境遇にある者として俺にできることがあれば手伝おうと思ったのだが……まさかそんな殺伐とした展開になっているとは。俺に手伝えることあんのか?
「……一応確認だが、その処分っていうのは……」
「……はい。彼らは、完全に私を亡き者にするつもりみたいです」
「そうか……」
「今日も、寝起きを奇襲されたところからギリギリで逃げてきたんです。それで、ここの書店に身を潜めてたんですけど、いつまでも同じ場所にいるのも危険なので移動しようとしたところで、麻枝さんと出会ったんです」
「……つまり、現状見つかってはいないんだな?」
「あ、はい。幸い、と言いますか……私、神様としての存在感が薄いので………自動ドアにも、気付いてもらえないくらいなので…………」
 自分で言いながら段々と落ち込んでいくイヴ。相当気にしてるんだな、それ。
「でも、それならこのまま家でじっとしてればなんとかやり過ごせるんじゃないか?」
「いえ……さすがにそれは厳しいかと……私も存在感が薄いだけで、ゼロではないので………ゼロでは、ないのです………ぐすっ」
 どんだけ気にしてんだよ。そんな半泣きになるなら言うなよ。
「……じゃあ、この後は一体どうす――」
「――危ないっ!」
 突然イヴに突き飛ばされるのと同時、つい先ほどまで俺の顔があった場所を光る何かが通過していく。直後、背後でボンッという爆発音が響いた。振り返れば、俺のベッドが炭化していた。
「……え、ちょっ、えええええぇぇぇぇ⁉」
 なにコレどこからツッコんだらいいの⁉
「おっ、おいイヴ! なんだ今の⁉ あと、俺のベッドが丸コゲなんだが⁉」
「熱光線です! 触れたものを一瞬で炭にするそれはもうやばいやつですね! ベッドについてはごめんなさい後でちゃんとお詫びします! って今説明してる場合じゃないです! 麻枝さん追手です、例の追手! 私がここにいるのを見つけて、僅かに空いた窓から私を殺りにきたっぽいです!」
「なんじゃとっ⁉」
 あ、やべ、気が動転しすぎて変な口調になってもうた。
「この場所はもう危険です! 麻枝さんも危ないので、一緒に逃げますよっ!」
 言いながら俺の手を掴むと、イヴは攻撃が飛んできた方とは別の窓枠に手をかける。
「………え。ちょ、お前まさか――」
「麻枝さん、絶対に私から手を離さないでくださいね!」
 嫌な予感を感じた俺が静止する間もなく、イヴは窓から飛び出した。
「ああああぁぁぁ! まだ心の準備があああぁぁぁぁ!」
 イヴに手を引かれるまま、俺たちの恐怖の空中逃走劇が始まる。追手を撒くためなんだろうが、イヴが住宅街の中を複雑に左右に折れながら低空飛行していくので、恐怖感が尋常じゃない。「お前飛べたんかよ」とか「これ俺明日ヤ○ーのトップニュースに『住宅街を低空飛行する謎の少年』として載っちゃわない?」とか、言いたいことは山ほどあるのだが、口を開く余裕すらない。うかつに喋ったら舌噛んで死にそう。
 なので、ただただ黙って恐怖に耐え続ける。十五回くらい壁や地面と接触しそうになり、八回くらい死を覚悟した頃。ようやくイヴが減速し、ゆっくりと地面に足を着いた。久しぶりの大地の感触に、心の底からホッとする。
「ご、ごめんなさいっ、思った以上に追手がしつこくて……どこかケガとかしてませんか?」
「……奇跡的にな。追手は撒けたのか?」
「はい、多分ですけど。でもまたすぐに追いつかれちゃうと思うので、なにか対策を考えないといけませんね……」
「だな……とりあえずこのスーパーに入って考えるか」
 イヴが着地した場所のすぐ近くにあったスーパーを指さし、そう提案する。その方が屋外にいるよりは見つかりづらいだろう。
「あ、そうですね。じゃあ入りましょう」
 イヴの賛同も得られたので、早速自動ドアをくぐって店内に入る。
「あうっ!」
 背後から、今日既に一度聞いているような声が聞こえた。振り返ると、案の定邪神が自動ドアに挟まれている。
「うぅ~、なんで赤外線は私を無視するんですかぁ~!」
 邪神には赤外線が反応しないんだろうか。今のところその説が濃厚だな。
 しかし、いつまでも自動ドアが微妙に開いていると周りの客に怪しまれかねない。さっさと助け出そう。そう思って一歩イヴに近づこうとしたところで異変に気付いた。既に多くの客の視線がイヴのことを捉えているのだ。不自然にちょっと開いたままの自動ドアではなく、明らかにイヴのことを見ている。……どういうことだ? 邪神の姿は人には見えないんじゃなかったのか?
「……おいイヴ。お前、普通に見えてるみたいだぞ」
「へ……? ふわっ、ほ、本当です⁉ いやあっ、恥ずかしいので見ないでくださいぃ~!」
 沢山の客の眼差しが降り注ぎ、羞恥の限界に達したイヴが荒ぶる。暴れてないでそこから脱出しろよ。……いや、恥ずかしさが先行して冷静な判断ができなくなってるのか。仕方ない。
「おいイヴ、落ち着け。とりあえず移動するぞ」
「ふぇっ? あ……」
 自動ドアに挟まれたままじたばたするイヴに近づき自動ドアを作動させると、イヴの手を引いて周りの視線から逃げるように店内の奥の方へと向かう。魚売り場の前辺りまで来ると、ようやくイヴが冷静さを取り戻してきた。
「あっ、ありがとうございます、麻枝さん。私、突然の出来事に混乱しちゃって……」
「ああ、それは別にいいんだが……一体どういうことだ? イヴの姿は、普通は見えないんじゃなかったのか?」
「はい、そのはずです。私は邪神としての力が弱いので、よっぽど霊感の強い人とかでない限りは見えないはずなんですけど……」
 ……ちょっと待て。それってつまり、俺めっちゃ霊感強いってこと? その事実初耳なんだけど。
「……あっ。もしかして……。あの、麻枝さん。今、不幸ですか?」
「……なんだ藪から棒に。でも、そうだな……」
 イヴと出会ってからの数時間を振り返る。書店で恥ずかしい思いをし、ベッドを炭にされ、空中高速移動で何度も死にかけそうになった。
「うん、不幸だな」
 疑う余地もなかった。
「や、やっぱり……。で、でも、これで原因がわかりました。多分、私が麻枝さんを不幸にしたことで、私の邪神としての力が増したんです。それで、霊感が強くない普通の人にも私の姿が見えるようになったんだと思います」
「誰かを不幸にすると、邪神としての力が増すのか?」
「はい。邪神は人間に不幸や災害を与えるのが仕事ですから。なので、性格的にあまりそういうことをしてこなかった私は邪神として凄く弱いんです」
 なるほど。それが、この数時間で俺に不幸を与えまくった結果、それなりに力を増したというわけか。まあ、イヴの力が増すのはいいことだろう。その力を使えば逃げやすくなるだろうし。
「あ、でも、力が増したってことは、存在感が増したということにもなるので、追手から見つかりやすくなるかもしれません」
 全然そんなことなかった。俺が不幸になってイヴも見つかりやすくなるって、なにもいいことねえじゃねえか。
「じゃあ、あんまりここに留まり続けるわけにもいかないのか」
「ですね。移動を繰り返しながら、その中で策を練るしかなさそうです。……ごめんなさい、麻枝さん。こんなことに巻き込んでしまって」
「……気にすんなよ。イヴだって、巻き込みたくて巻き込んだわけじゃないだろ? むしろ、あの炭化攻撃から命を守ってもらったわけだし、感謝してるくらいだ」
「でもっ、そもそも私と出会わなければ麻枝さんがあんな目に遭うことは――」
「そういうのは言いっこなしだ」
「あたっ」
 軽くイヴの頭を小突き、続ける。
「そんなたらればを言ったって仕方ないだろ。後ろ向きに考えるより、前向きに考えた方がいい。出会わなければなんて考えるより、俺たちがこうして出会ったことに何か意味がある、って考える方が楽しいだろ?」
「麻枝さん……! そう、ですね。後ろ向きに考えても仕方ないです。私たち二人でこの窮地を乗り切る方法を考えましょう!」
「おう!」
「――なに底辺邪神ごときが前向きに語ってんの?」
 俺たちが心を一つにした瞬間。底冷えのするような低い声が、背後から響いた。同時に俺の背中に冷たい何かが触れる感触。
「あ、動くなよ? 動いたらあんた、一瞬で炭だからな」
 その言葉で、姿は見えなくとも声の主を把握した。イヴを殺そうとしていた追手だ。いつの間にこんなに接近されてたんだろう。どうやら、もう逃げ場はないらしい。
「やっ、やめてください! 麻枝さんからその手を離して!」
 俺の背後にいるのだろうそいつに向かって、イヴが訴えかける。どうやら俺の背中に触れているのはそいつの手らしい。
「そもそもお前が逃げ出さなければこんな一般人を巻き込むこともなかっただろうが」
「そ、それは……」
「ったく、ろくに悪事もしねえ上に逃げてばっかりで、さらには一般人巻に感化されて前向き発言? ……どこまで邪神の名を貶めれば気が済むんだお前は!」
「う、うぅ……」
 荒々しい口調で責め立てられ、イヴは怖気づいて言葉を返せない。そんな彼女の姿が、かつての自分と重なる。
 昔の俺も、今のイヴと似たような経験をしたことがあった。クラスで一番野球の上手かったガキ大将に「なんでお前みたいな野球どころか運動もろくにできない奴があの大選手の息子なんだよ! お前みたいなヘッポコ息子じゃお父さんが可哀想だろ!」と詰め寄られた。当時の俺も、今のイヴと同じように何も答えられなかった。ガキ大将が怖かったのもある。でもそれ以上に、その言葉に反論できる場所がどこにもなかったのだ。運動が出来ないのは生まれ持ったものだけではなく俺自身のせいでもあるし、野球選手の息子として嫌でも注目が集まってしまう俺がここまでポンコツでは、父だって俺の知らないところでいくつも恥をかかされたはずだ。「お前の息子、超絶運動音痴なんだって? 野球選手の息子なのに残念だなー」なんて、そこかしこで言われていたはずだ。そう思ったら、返す言葉なんてなかった。全部、ガキ大将の言ってることが正しいのだから。
 その翌日から俺は、家に引きこもってずっと自問自答した。俺はいったい何者だ。俺が今生きている意味はなんだ。俺なんかいない方が、すベて上手くいくんじゃないか。みんな幸せになれるんじゃないか――
 そんな負の思考のスパイラルに終止符を打ったのは、母の一言だった。
「朋哉は朋哉だよ。野球選手の息子である前に、繊細で優しくて、賢いけど溜め込んでばかりで吐き出すのが下手な、ちょっと運動が苦手な男の子。それが本当の朋哉。本当の私の息子。私はずっと、朋哉のことを見てるからね」
 その言葉を聞いた瞬間、涙が止まらなかった。嬉しかったんだ。野球選手の息子ではない、ありのままの「麻枝朋哉」を見てくれている人がいたことが。俺に色眼鏡を向けず、ただの「麻枝朋哉」として接してくれる人がいたことが。母親としては当たり前のことだったのかもしれないが、それがどれほどの救いになったのかは計り知れない。その言葉がなければ、俺はとうの昔にこの世界を去っていたかもしれない。
 ……そして今、俺と近い境遇にある子が、かつての俺が取っていたかもしれない選択肢を取ろうとしている。出会って数時間だがわかる。この子は心優しい。やはり根本的に邪神に向いていない。今だって俺が人質にとられている現状、自分の命を差し出してでも俺を助けようとするだろう。邪神としては生きる価値のない自分だけど、最期くらい誰かのために。そんなことを考えているかもしれない。あるいは責任感のある子だ。これは自分の蒔いた種だから、責任は自分で取る。そんな風に考えているかもしれない。
 まあ、いずれにせよ。そんなクソ展開はノーサンキューだ。そんなことされて助かったってこれっぽっちも嬉しくない。助かるなら当然イヴだって一緒だ。心優しくて責任感があって、悪いことなんて一切できなくて、焦ったりテンパったりするとより可愛くなる、そんなどこにでもいるごく普通の「イヴ」という「少女」が、こんなところで死んでいい理由なんてない。俺を助けるためにイヴが身を差し出す必要もないし、そもそもイヴが至らない邪神として処罰される理由だってない。彼女は望んで邪神になったわけじゃない。たまたま邪神として生まれただけだ。なのに「イヴ」のことを邪神としか見ることができずに処分しようとする彼らのためにイヴが死ぬ必要なんて、誰がどう見たってないに決まっている。
「……おい、お前」
 もし、俺とイヴが今日こうして出会ったことになにか意味があるのだとすれば。
「イヴのことを馬鹿にすんのも大概にしろよ」
 かつて似た境遇にあった者として、イヴをこのクソみたいな現実から救うためだろう。
「……あんた、誰に口をきいている? オレは――」
「邪神だろ? だから何だよ。邪神ってそんなに偉いのか?」
「当たり前だ! 神だぞ!」
 なんだその受け答え。小学生かよ。
「気に入らない奴を処分していくような連中が偉いようには、俺は思えないんだがな」
「……黙れ。炭にされたいのか?」
「痛いところを突かれたら暴力に訴えるのか? 邪神ってのは野蛮なんだな」
「……言っておくが冗談ではないぞ。任務遂行のためなら多少の犠牲は黙認すると言われているからな」
「任務、ね……。なあ、それって本当にイヴを殺すことだけが解決策なのか?」
「……なに?」
「要はイヴが邪神じゃなくなれば、あんたらのメンツは保てるんだろ? なら別に、殺す必要はないだろ。神格を奪うとか、そういうことはできないのか?」
 漫画やアニメではそういう展開も結構見る。彼らが邪神とはいえ神だというのなら、それくらいはできそうなものだが。
「……神格の剥奪自体は可能だ。だが、剥奪後は二度と神には戻れない」
 ……なんだよ。ちゃんと殺す以外の方法があるじゃねえかよ。俺に言われるまでその方法が選択肢に入っていなかったっぽいところを見るに、やっぱり邪神ってのは野蛮なんだな。……でもまあ、他の選択肢が引きだせただけ良しとしよう。死を覚悟で喋りまくった甲斐があった。
「だってさ、イヴ。どうする?」
「……麻枝、さん…………」
「まだ「邪神」でいたいか? それとも、「イヴ」として生きたいか?」
 答えのわかりきった質問を、俺たちのやり取りをポカンと眺めていた当事者に投げかける。イヴはその問いかけに対して目尻に涙を浮かべながら、今まで一番の笑顔で答えた。

「イヴとして生きたいに、決まってます……! 神格なんていりません! 会ったばかりの私のためにここまで真剣になってくれる彼と……邪神としてじゃない、本当の私を見てくれるこの人と、私は一緒に生きたい……‼」

「………なら、好きにしろ。オレたちは、あんたが邪神でなくなるなら何でもいい。神格は既に剥奪したから、後はあんたの好きに生きろ」
 それだけ言い捨てるように告げると、そいつは俺の背中から手を離し、忽然と姿を消した。魚売り場の前には俺とイヴだけが残る。かなり目立ちそうなやり取りをしていたはずだが、不思議なことに俺たちの方に注意を向けている客はいない。神の力だろうか。
「にしても、まるでプロポーズみたいだったな、イヴ」
「へ? ……あっ、あわわわわ! ちっ、違います違いますそういう意図があったわけじゃないです言葉の綾的なやつですでもそういう気持ちが一ミリもなかったかと言えばそうとは言い切れなくてああああ私なに余計なことを忘れてくださいぃぃ~!」
 ……いや、軽くからかったつもりなのに慌てすぎだろ。途中から何言ってるかよく聞き取れなかったぞ。
「お、落ち着けイヴ! ちょっとからかっただけだから! そういうつもりじゃなかったのはわかってるから!」
「え……? もっ、もう~! そういうのやめてくださいよ麻枝さん~!」
「悪い悪い」
 全ては慌てたイヴが可愛いのがいけない。今後もそれが見たくてついからかってしまうかもしれないな。
「……本当に反省してます?」
「してるしてる」
「……なら、許します。それと……今回は、本当にありがとうございました。麻枝さんがいなかったら、私はきっと今頃……」
「だから言っただろ? 俺とイヴが出会ったのには、きっと意味があるって」
「……はいっ、その通りでした! 多分、麻枝さんとの出会いは、今後一生忘れないと思います……!」
 そうだな……今日以上に濃い一日は、そうそうないだろう。俺にとっても、きっと一生忘れられない一日になる。そんな気がした。
「……じゃあ、改めて。これからよろしくな、イヴ」
「はっ、はい! こちらこそよろしくお願いします! まえ……朋哉さんっ」
 ……おまっ、その不意打ちはずるいだろうが……。
「えと、では、よろしくお願いしますの記念に、私の秘密を一つお教えしますね」
 イヴも自分で言って少し恥ずかしかったのか、やや強引に話題を変えようとする。俺も恥ずかしいので、それに乗っかる。
「……なんだ?」
「私、邪神の中では若輩者って言いましたけど……実は、それでも二百四十歳なんですよ」
「…………」
 ……あの、うん。そこに関しては、きっと何も知らない方が幸せだったんだろうなぁ……。

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

『てっちゃん』

 どうも、はじめまして。それとも久し振りかしら。私は東武鉄子。主に埼玉・栃木・群馬辺りを走っている某鉄道会社とはまったく微塵もこれっぽっちも関係のない、ごく普通の女子高生よ。
「――はっ! お弁当忘れた!」
 カバンに片手を突っ込んだ体勢のまま突然叫んだコレは、私の幼馴染、千堂樹。能力ポイントを運動神経に全振りしたような、おつむがちょっと……いえ、かなり残念な子だけど、まあ悪い子ではないわ。
「どうしようてっちゃん、あたしのお昼がない!」
「……あーはいはい、いつものアレね。どんまい」
「てっちゃんセリフに心がこもってないよ⁉」
「だって、週に二回も聞いてたらそりゃ聞き飽きるわよ。またいつものか、ってなるわよ」
「そんなに頻繁に忘れてないよ!」
「本当に?」
「…………ぐぬぬ」
 自覚がなくはないのか、言葉に詰まる樹。この子の弁当忘れ癖は中学から一向に直る気配がない。いくら私が注意しようと翌週にはしれっと忘れてくるから、もうこの癖を直すのは諦めたわ。
「で、でもしょうがないじゃん! 朝練があるから朝は時間がないんだよ!」
「……あー。剣道部のエース様は大変ね」
 さっきも言ったように、能力ポイントを運動神経に全振りしているだけあって、樹の運動神経はちょっと人間の域を超えている。中学からやっている剣道は余裕で全国レベルで、今は主将を任されているわ。とはいえ。
「でもそれって、樹が早起きすれば解決することじゃない?」
「それができれば苦労はしないんだよ!」
「いや、それぐらい頑張りなさいよ高校二年生」
 威張って言うことじゃないでしょう。
「……で、結局お昼はどうするの? 言っとくけど、私のぶんを分けてあげたりはしないわよ?」
「てっちゃんの鬼っ!」
 だって、前に分けたら半分以上持っていかれたんだもの。運動バカの食事量をなめてたわ。
「……仕方ない、面倒だけど購買に……ダメだ、この時間じゃもうマイナーでマニアックなサラダ、略してマニラくらいしか売れ残ってない……!」
 ……なに、その酷い略称。きっとこの子、それがフィリピンの首都の名前だって知らないんでしょうね。
「……樹のネーミングセンスに関して小一時間くらい議論したいところなんだけど……まあ、後でいいわ。さっさとその……まにら? でも買ってきなさいよ」
「あんなので健全な女子高生の胃袋が満足するわけないでしょ!」
「いや、私は食べたことも見たこともないから知らないのだけど……」
 それと、樹の胃袋を健全な女子高生の基準値にしてはいけないと思うわ。
「じゃあどうするのよ」
「……しょうがない、コンビニまで行ってくる」
「……無駄だと思うけど、一応忠告しておくわ。昼休みに校外に出るのは校則違反よ」
「パッと行ってパッと帰ってくれば問題ない!」
「……ここから一番近いコンビニまで一キロくらいあるけど」
「五分で帰ってくる!」
「……待ちなさい。今軽く計算したけど、仮に買い物が一分で済むとしても、五分で帰ってくるには百メートル十二秒の速さで移動し続けないといけないのだけど――」
「行ってきます!」
 そう言うと、樹は止める間もなく教室を飛び出していった。……いや、いくら樹の足でも五分は無理でしょ。昼休み中には余裕で帰ってきそうだけど。……せっかくだし、タイムでも計っておこうかしら。
 というわけでスマホのタイマーを立ち上げたのだけれど、結局樹が昼休みの間に帰ってくることはなかった。

 単にサボりなのか、それとも何か事件に巻き込まれたのか。悶々とした気持ちのまま五限、六限と時間だけが過ぎていく。授業の合間に電話も鳴らしまくっているけれど、一向に繋がる気配がない。……そもそもあの子スマホ持ってったのかしら。持ってってない可能性の方が高そうよね……。
 HRも終わった放課後。不安になった私が教室に置きっぱなしの樹の鞄を探ろうとしたそのとき、私のスマホが着信を告げる。ディスプレイには『樹』の文字。
「……もしもし」
 スマホ持ってたならもっと早く連絡くらいしなさいよとか、私の電話に気付きなさいよとか、言いたいことは色々あったけれど、その辺りの感情は一旦飲み込んで普通に電話に出る。
『あ、もしもしてっちゃん? あたしだよあたし』
 ……人が心配してたっていうのに、なんでこの子はこんなに暢気なのかしら……。腹いせにちょっと樹で遊んでも文句はないわよね。
「……あたしあたし詐欺は間に合ってますので」
『詐欺じゃないよ⁉ っていうか、画面に名前出てたでしょ⁉ あなたの幼馴染、千堂樹だよ!』
「……お掛けになった電話は、現在あなたの電話番号を着信拒否しています」
『そんな心を抉るメッセージがあってたまるかっ! っていうか、そろそろマジレスして!』
 ……仕方ないわね。樹の事情も気になるし、遊ぶのはこの辺で勘弁してあげましょう。
「……これはこれは、午後の授業をエスケープしたくせに今の今までなんの連絡も寄越さなかった樹さん。私に一体なんの用?」
『わ、わーお……もしかしなくてもてっちゃん、怒ってる?』
「別にそんなことないわよ? ただ、急に消えたあなたについて『お前が一番仲いいだろ? 何か知らないか?』と教師たちから質問攻めにあって、ちょっとうざかっただけよ」
 樹からは何の連絡もないから答えようがないし、ほんと困ったわ。
『やっぱり怒ってるよねごめんなさい! こっちにも色々事情があって!』
「……はあ。まあ、いいわ。それで? その事情とやらは、当然私にも説明してくれるのよね?」
『も、もちろんだよ! えっと、実はかくかくしかじかでね、今喫茶店にいるんだけど……』
「……樹。現実で『かくかくしかじか』と言っても、相手にはなにも伝わらないのよ?」
「え、嘘⁉ 伝わらないの⁉」
 ……この子、一体どこまで馬鹿なのかしら……。というか、こんなことで来年の受験は平気なのかしら。
『さっきボクもそう言いましたよね⁉』
『だ、だって、たまにてっちゃんに使うと『あー、はいはい』ってなるよ? ちゃんと伝わってるよ?』
『……いやそれ、多分適当に流されてるだけだと思いますよ……』
『⁉』
 ……電話口から聞こえてくる会話の内容はその通りなのだけれど……。
「……樹以外に誰かいるの?」
『あ、うん。かくかくしかじかの過程で知り合った子なんだけど……詳しく説明してるとおよそ六千文字くらいになるから、説明は後でいい?』
「……わかったわ」
 その表現の仕方はよくわからないけれど、それを電話越しに聞くのは面倒そうだし。あと、字数制限的にも危なそうだし。
「それで、私に連絡してきたのはどういう用件なわけ?」
『うん。お金貸して?』
「……切るわ」
 やっと連絡してきたと思ったら用件がこれって……。
『わー待って待って! てっちゃんに見捨てられるとあたしたちマジで捕まるから!』
 ……さすがに幼馴染が捕まるのは寝覚めが悪いから、話しくらい聞いてあげましょうか。
「……というかあなた、コンビニに向かったんじゃないの? なんでお金持ってないのよ」
『財布を開いたらフィリピンペソしか入ってなかったの』
「……なにその、どこぞの漫画みたいな話……あなたホント、なにしに校外に出たのよ」
『財布の中がこんな惨状だとは思わなかったんだよ!』
「自分の財布の中身くらい把握しときなさいよ……。で? 私はどこの喫茶店まで支払いに行けばいいの?」
 ……こんな風に樹の世話ばかり焼いているから、周りから『樹の保護者』なんて呼ばれるのかしら。
『てっちゃん……! ホントにありがとう! 愛してるよ!』
「……ごめんなさい、私に百合趣味はないのだけど」
 世話は焼くかもしれないけど、そういうのはちょっと……。
『あたしにもないよ! とっ、とにかく! あたしたちは『なっちゃん』にいるので、お願いします!』
 なっちゃん……意外と学校から近い喫茶店ね。どういう経緯でそこに至ったのかはわからないけど……お金を払いに行くついでに事情を説明してもらいましょうか。
「……わかったわ。そんなにかからないと思うから、少し待ってなさい」
『はーい』
 無銭飲食しておきながら相変わらず返事が暢気ね……。反省する気あるのかしら、この子。
 喫茶店についたらまずは説教しようと心に決めて、私は教室を出た。

 それから約十分後。樹の言っていた喫茶店に無事到着。店に入ってすぐに、樹から昼休み以降の顛末を聞きだす。
 曰く、コンビニに向かう道中で湊君と偶々出会い、追われてるっぽかったのでとりあえず助けたらしい。で、追手を撒いた後この喫茶店に入って、湊君が国内でも結構有名な湊グループの社長の一人息子として過保護に育てられてきたけど、屋敷から出られない生活に嫌気がさして家出してきたという事情を聞き、じゃあそれをなんとかするために湊家に乗り込もうと店を出ようとしたところで、財布にフィリピンペソしか入っていないことに気付いたんだとか。ホント、間抜けよね。せっかく助けたのに格好がつかないわ。
 ……でも、今日会ったばかりのこの少年のために家にまで乗り込もうなんて……いや、昔から樹はそういう子だったわよね。困ってる人がいたら積極的に首を突っ込んで颯爽と解決していく。そんなヒーローみたいな子だった。だから私も……いえ、この話は今は関係ないわね。
「それで? この後二人は、湊家に行くの?」
「うん。交渉しに行かなきゃいけないからね」
「そう。じゃあ、頑張ってらっしゃい」
「うん。……ってあれ⁉ てっちゃんは来てくれないの⁉」
 ……まあ、この感じだと普通は私もついていく流れなんでしょうけど……湊君が屋敷の外に出るのを許してもらうために『外出中は私がSP代わりとしてこの子を守る!』なんて男前な交渉をしに行こうとしている樹に、私がついていってもできることはなさそうだし。
「私がついていってもなんの力にもなれないでしょう? 樹みたいにSPの代わりなんてできるわけないし」
「まあ、そうだね。てっちゃん運動音痴だもんね」
「それは関係ないわ」
 あなた基準で見たら大抵の人は運動音痴になるわよ。私だってそこまでひどくはないわ。……ほ、本当よ? 五十メートル走だってちゃんと十秒台でゴールできるのよ?
「……まあとにかく、私は行かないから、二人で行ってきなさい。私も湊君の境遇はおかしいと思うし、あなたたちの味方だから。自宅から応援してるわ」
「あっ、ありがとうございます、東武さん!」
「いえいえ。それじゃあ湊君、機会があればまた。樹はまた明日ね」
「うん。いい知らせを持って帰るよ!」
「そういうフラグになりそうなことを言うのはやめなさい」
 最後の最後で変なフラグを立てた樹にそう突っ込むと、私は二人と別れて自宅方面へと歩き出した。

 その日の夜。交渉が上手くいったという樹からの報告メールへの返信を自室で考えていると、コンコンと扉がノックされた。
「私だ。少しいいか?」
 やってきたのは父だった。
「構わないけど……こんな時間になに?」
「大事な話だ。……樹、お前今、彼氏とかいるか?」
 ……突然なにを聞いてくるんだろうか、この父は。
「別にいないけれど……それが?」
「……うちの会社の業績が最近伸び悩んでいるのは知ってるな?」
「……ええ、まあ」
 言い忘れていたけど、私の父はゲーム会社の社長よ。だからまあ……湊君ほどではないけれど、実は私もそれなりにお嬢様。ちなみに、うちの会社はゲームセンターに置いてあるようなアーケードゲームを中心に扱っている会社で、代表作はクイズ黒猫アカデミーというクイズゲーム。昔は結構業績もよかったのだけれど、近年のスマホゲームの波に押されて最近はやや下降気味。これでも社長の娘兼次期社長候補だし、それくらいは知っている。
「それを受けて、うちのゲームのシステムの開発を一部委託している会社が撤退したいと言ってきた」
「それは……また大変ね」
 業績の落ちかけているこのタイミングで、しかもシステム開発を委託しているような重要な会社に撤退されてしまえば、業績の巻き返しはより厳しくなる。
「ああ。今この会社に抜けられたらうちはほぼ終わりだ。更なる業績悪化は免れない。だから私も必死に引き止めた。結果、一つだけ条件を引きだせた」
「……それは?」
 ……いや待って。さっきの質問……それに、その話をわざわざ私にしに来るってことは……まさか――!
「……条件はお前だ、鉄子。相手方の社長の息子さんとお前が結婚すれば、撤退は取りやめると言ってきた」
「っ!」
 やっぱり……! なによそれ、そんなの漫画の中だけの話じゃないの⁉
「……だから、私にその見ず知らずの男と結婚しろと……?」
「……私だって父親としてそんなことはさせたくない。だが、私だって会社のトップに立つ者として、責任ある立場として、これ以上業績を悪化させることも、その結果多くの社員を路頭に迷わせるわけにはいかない。……わかってくれるな?」
「……私に拒否権はないのね」
「……すまない」
「謝らないでよ。そうしたところで、結局私が望まぬ結婚をさせられる現実は変わらないのでしょう?」
「それは……」
「用はそれだけ? じゃあもう出てって」
「…………」
 私がそう言うと、父は無言で部屋を出て行った。ちょっときつい言い方だったかもしれないけれど……仕方ないじゃない。だって、結局自分の娘よりも会社の人たちを取ったのだから。社長としては素晴らしくても、父親としては最低よ。
「……ふぅ」
 ベッドに倒れ込み、ぼんやりと天井を眺める。まさか、この歳で結婚することになるとは。納得することは今後一生できないでしょうけど……だからって、私が結婚するという現実が覆るわけじゃない。会社のために、会社の人たちのために、自分の人生を棒に振らなければいけない。こんなの、漫画の中だけの話だと思ってたのに……やっぱり、私はこっち側なのね。
 それでも、何かこの確定事項をひっくり返せる方法はないかと考えてしまうことは止められなかった。でもその度に、会社の人たちの顔が脳裏をよぎる。私の我儘の結果、職を失ってしまうかもしれない人たち。彼らの幸せな家庭を、私が壊してしまうかもしれない。そう思うと、思考が鈍る。
 結局、私に残された選択肢は一つだった。

 それからの日々は、ひどく憂鬱だった。先方との顔合わせの日時や式の日取りが決まっていき、私の望まぬ結婚への準備が着々と進められていくのを、じっと見ていることしかできない。納得のいかない感情を、押し殺すことしかできない。そんな苦しい日々だった。
 そんな中唯一の心の支えだったのは、毎週末に樹や湊君と一緒に出掛ける時間。樹がそばでSP代わりをすることを条件に外出許可を獲得した湊君と樹と私の三人で過ごす時間はとても楽しかったし、何より憂鬱な現実を忘れることができた。初めての場所にテンションの上がる湊君と常にテンションの高い樹の面倒を見ている間は、他のことは何も考えなくてよかった。それは一時期湊家という大きな障害の前になくなりかけたけれど、樹がどうにかしてしまった。ずっと家に囚われていた湊奏という少年を、華麗に助け出してしまった。湊君にとって樹は紛れもなくヒーローでしょうね。
 ……そう、湊君のヒーロー。かつて私のヒーローだった彼女は、もう私だけのヒーローじゃない。だから助けを求めてはいけない。もしかしたらなんて、期待してはいけない。ほら、その証拠に私の式の日は、樹の高校最後の大会の予選の日。もう樹に頼るなと、これがお前の人生だと、神様が言っている。
 ああ、たった十八年の人生だったけど……あなたのおかげでそれなりに楽しかったわ、樹……。


 私と樹が初めて出会ったのは、小学一年生の時。偶々席が隣だった。当時から樹は明るくて元気で、いつもクラスの中心にいた。一方の私はちょっとませた子供で、常に騒がしい樹を『馬鹿なやつ』なんて思っていた。社長の娘として、当時から色々な大人と接する機会が多かったから、そんな嫌な子供だったのかもしれないわね。だから私たちは、本当に正反対の二人だった。席は隣だったけれど、話すことはほとんどなかった。
 そんな私たちの関係が変わったのは、クラス内でのグループも確立してきた六月のある日のこと。私は案の定孤立していた。原因は、近所に住む同じクラスの男子が『アイツ社長の娘なんだぜ!』『金持ちなんだぜ!』と言いふらしたことで『すげー!』『うらやましい!』と寄ってきた子たちに対して、私が『金持ちの家なんて何もいいことないわよ。あなたたち普通の家の方がよっぽどうらやましいわ』と答えたこと。……私は本当のことを言っただけなのよ? 確かに私の家は金持ちだけれど、その使い道は当然私の自由ではない。そのお金が使われるのは、専ら私が望みもしてない習い事やら家庭教師ばかり。クラスの子たちは金持ちなら自分の好きな物なんでも買って貰えると思ってるのかもしれないけれど、そんなのはお金の有無じゃなくて両親の教育方針次第。私の場合は一切その辺の自由がきかなかった。控えめでも、時々でも、自分の好きな物を買って貰えるあの子たちの方が、私にはよっぽど羨ましかった。
 けれど、そんなことを言っても普通の小学一年生には理解できない。結果、私は『金持ちだのくせにムカつくこと言うヤなやつ』と認識され、クラスの皆から避けられていった。まあ、別に仲良くする気もなかったし、構わなかったのだけど。
 でも。このクラスには、そういうのを是としない人がいた。いつも独りで過ごす私を、放っておかない人がいた。
「ねえねえ、なんでいつも一人なの? 一緒に遊ぼうよ!」
 ある日の昼休み。その人は突然そう声をかけてきた。
「ちょっ、いつきちゃんダメだよ! その子は嫌な子だから、話しかけちゃダメ!」
「なんで? あたし、別にいやな思いしてないよ?」
「いや、でも……」
「だったら、一緒に遊んでもいいじゃん。きっとそのほうが楽しいよ! ほら、行こ!」
「えっ? あ、ちょっ……」
 その人に手を引かれるまま、私は時間いっぱいグラウンドで遊んだ。凄く、楽しかった。思えば初めてだ。こんな風に同年代の子たちと思いっきり遊んだのは。家のことを忘れて、おもいっきり笑ったのは。
 いつも大人に囲まれて、東武家に縛られていたませがき、東武鉄子を、普通の女の子にしてくれたその人は――
「ふーっ、楽しかった! ねっ、名前は?」
「わ、私? 私は……東武、鉄子よ」
「鉄子……じゃあ、てっちゃんだね! あたしは千堂樹! 樹でいいよ!」
 ――『てっちゃん』にしてくれたその人は、私のヒーローだった。


 ……もう、十二年くらい前になるのね。あの時は、まさかここまでの腐れ縁になるとは思ってもいなかったけれど……それも今日で終わりね。
 物思いに耽っていた意識を現実に戻すと、豪奢に飾り立てられた式場の様子が目に飛び込んでくる。そう、今日は私の結婚式。私の……『てっちゃん』としての人生が、終わる日。
「汝、是を夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、死が二人を分かつまで、是を愛することを誓いますか?」
 ……あら、ちょっと物思いに耽っている間に。……もう、私の番なのね。
「…………ええ、誓うわ」
 この期に及んで何かを期待している『てっちゃん』を無理やり抑え込んで、『東武鉄子』が返事をする。
「では、誓いのキスを」
 促され、向かい合う。相手は三十代後半のおじさん。下心を隠そうともしない下劣な顔で私のベールをまくる。そして、汚い顔をこちらに近づけてくる。
 ……これで、いいのよ。私はもう十分楽しんだ。樹がくれた『てっちゃん』という人生を、十二分に全うした。だから『てっちゃん』はここで死んで、これからは『東武鉄子』の人生。……それで、いい。
 ゆっくりと、おじさんとの距離がなくなっていく。そして――


「その結婚、ちょっと待ったぁ‼」


 ドカン、という爆音とともに、式場の扉が吹っ飛んだ。会場のすべての視線がそこへと向かう。そこにいたのは――
「アンタみたいなゲス野郎に、てっちゃんは……あたしの親友は、渡さないよ‼」
 鮮やかな烏の濡れ羽色をした短髪を汗を飛ばしながら翻し、一切の迷いや躊躇なく右足を振り抜いた姿勢で凛と立つ、右手に竹刀を携えた真っ直ぐな眼差しの少女――私の、ヒーローだった。
「いっ、樹⁉ どうしてここに⁉」
 あまりに非常識な光景に会場全体が呆ける中、思わず私は叫ぶ。だって、樹には今日の式のことなんて一言も言ってない。それに今日は。
「あなた、今日は高校最後の大会の予選でしょ⁉」
「そんなのはどうだっていいんだよっ‼」
 叫びながら、一歩、また一歩。真紅のカーペットの上を、樹が進んでくる。
「日本一を取れる機会なんて、今後いくらだってある! でもっ! 今日を逃したらてっちゃんは……あたしの親友は、もう二度と戻ってこない‼ だったらこっちの方が優先に決まってるでしょっ‼」
「……っ!」
 その剥き出しの叫びに、心が震える。死にかけたはずの『てっちゃん』の鼓動が、再び強く動き始める。
「……事情は全部かなで君から聞いたよ。最近てっちゃんの様子が変なのはわかってた。あたし馬鹿だけど、親友の様子がおかしいのくらいわかるよ? でもてっちゃんはなにも言ってくれないから、湊家の人たちに頼んで調べてもらった。……なんでこんな大変なことになってるのに、あたしに言ってくれないの⁉」
「だって……だって! こんなこと言ったら、あなた絶対に助けようとするじゃない!」
「当たり前だよ!」
「でもそれじゃダメなのよ! 私がここで助かるってことは、それはそのまま沢山の社員の失業に繋がるかもしれないの! これでも次期社長なの、そんな選択肢私には取れないのよ‼」
 ずっと独りで抱えていた感情が、口をついて出ていく。秘めておかなければと思っていた言葉が、自然と流れ出ていく。
「なら、それごとあたしに言ってよ! そうすれば、てっちゃんが犠牲にならずに、てっちゃんの会社も助ける方法が見つかったかもしれないでしょ! てっちゃんは何でも一人で背負いすぎなんだよっ! 親友なんだからっ…もっとあたしに頼ってよぉっ! てっちゃんともう会えないかもって言われたとき……あたしっ、ホントに怖かったんだよ……? もし間に合わなかったらどうしようって、そればっかり考えながらここまで走ってきたんだよっ……?」
 途中から涙をボロボロと流しながら泣き叫ぶ樹の額には、大粒の汗がいくつも滲んでいた。よく見れば服装だって剣道着だ。多分、この式のことを今日知って、剣道の試合を放り出して駆けつけてきたのでしょう。
 ……ああ、そうか。私は、勘違いをしていたのね。私にとって樹が特別なだけじゃない。……樹にとっても、私は特別だったのねっ……!
「いつ、き……っ、いつきぃ!」
「てっちゃん……っ!」
 自分がウェディングドレスを着ていることも忘れ、樹に駆け寄って抱き付く。もう、涙を堪えることはできなかった。
「……おかえり、てっちゃん」
 そんな私を優しく抱きとめ、『私』の名を呼ぶ親友に、ヒーローに、私は。
「……ええ。ただいま、樹」
 今の『私』にできる最高の笑顔で、そう応えた。


 結論から言ってしまえば、今回の騒動は全て相手方の会社の陰謀だった。次期社長に既に私が内定しているのが気に入らなかったらしい。そこで、業績の伸び悩みに付け込んで私と自分の息子を結婚させ、自分の息子を次期社長にさせようとしたのだとか。証拠の音源も湊家のSPさんたちが握っていて、それを聞いた父が大激怒。私の結婚は当然白紙で、この会社との契約も即行で切った。代わりにシステムを担ってくれる会社は、これまた湊家が紹介してくれるそう。ホントもう、湊家さまさまよね。湊君は『いつきさんの親友のためですから。気にしないでください』なんて言ってくれてるけど……流石にちゃんとお礼した方がいいわよね。何か考えておきましょう。
 で、結局今回も全てを救ってしまったスーパーヒーロー、樹はというと……。
「あー、やっぱりてっちゃんのウェディングドレス、撮っとけばよかったなぁ。もう今後見られないかもしれないし」
 などとのたまっていた。
「……いや、私だってそのうち結婚するし、その時また着るわよ」
「いやいやいや! 今回みたいなこともあるし、てっちゃんとはそうそう結婚させないよ! あたしが認めた相手じゃないと!」
「樹は一体どんな立場なのよ……」
 まるで父親ね。実際私の父も似たようなこと言ってた気がするわ。
「もちろんデートだって毎回あたし同伴だからね?」
「それはさすがに嫌だわ」
 もはやデートじゃないじゃない、それ。
 ……でも、そうやって心配してくれる気持ちは、凄く嬉しい。だから私も、そんな樹を安心させるために素直に言おう。
「……心配してくれてありがとう、樹。でも、大丈夫よ」
 恥ずかしさを堪えて、でも真っ直ぐに。

「私、もう樹より格好いい人じゃないと、ときめかないから」



テーマ「濡羽色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

新堂乃彩の騒がしき日々

 待ちに待った放課後、あたしはさようならの最後の「ら」を発音すると同時に弾丸のごとく教室を飛び出す。平井くんを、何としても今日は平井くんをとっ捕まえなければならない。貸したものを返してもらわねばならないし、それ以上に、平井くんに訊かなきゃならないことがある。今日を逃してはいけない、今日のうちに平井くんを捕まえて、一ヶ月かけて鍛錬した必殺のキラキラきゅるるんスマイルをその脳の皺として刻み込んでやらなければ!
 勢いよく三組の扉をオープン!

「お、新堂さん」

 早見なんとか、とかいう男子がえらく高い位置から笑顔を向けてくるがそんなものはどうでもいい。

「平井くんは!?」

「その辺にいると思うぞー」

 くるり、と早見なんとかが振り返る前にあたしは見つけていた。
 嘘みたいに似合わないメガネ、もっさりした黒髪、お辞儀してるのかと見間違うほどの猫背。病み上がりばりに青白い肌。
 あーんもう、今日もなんて冴えてないんだろう平井くん。そういうところも大好きっ。

「平井くーん」

 ぬうーん、と効果音がつきそうな速度で平井くんはあたしに焦点を合わせた。

「お……新堂さんだあ」

  おっそい。返事おっっっそい。でも堪らない、この天然焦らしプレイ。

「一緒に帰ろ!」
「……あー。いいね。そうしよう」
「うんっ」

 ッシャオラァっと全力の雄々しいガッツポーズは胸の中にしまって、まずは控えめなキラキラきゅるるんスマイルレベル1をお見舞いする。平井くんは……ぬぼーんと曖昧に微笑んだまま特に変化なし。まあ、ジャブ程度のつもりでしかなかったから予想の範囲内。戦いはここから、学校の最寄り駅までゆっくり歩く30分が戦場になるのだ……。
 頑張れ新堂乃彩、華の高校一年生。今日こそは平井くんのハートを掴んでみせる!

   *  *  *

 先手必勝。

「平井くん、終業式に貸したもの持ってきた?」
「あー。うん。……ちょっと待って」

 リュックをゆーっくり体の前に回して、ごそごそと中を探っていく平井くん。どこかナマケモノを彷彿とさせるスタイルだ。探りながらも歩くのをやめないものだから危険極まりない。

「平井くん電柱」
「ん?……ああ。ありがとう」

 すいー、と顔を上げ、にやー、と笑い、電柱を避けるとまたリュックの中に意識を持っていく。この笑顔がまたどうしようもなく気持ち悪いというか、何というかこう、恐ろしく、キモい。尋常じゃない。べったべたの脂の妖精ですって感じのキモさ。それはそれで才能なのかもしれないというレベル。でも正直人のことは言えないのだ。だってあたし、この笑顔を見るとどうしようもなく胸の奥がぴりぴりってする。もっとずっと見ていたい……は言い過ぎか。キモいし。でも知らず知らずに顔がほころんで、デレデレというか、なんかもうほとんどスケベ親父みたいな顔に――。
 危ない、気を引き締めて乃彩。せめてこの30分だけはキラキラきゅるるんスマイルを死守しなくては……。

「あー。あったあった」
「あった?」
「うん、あったー。忘れてきたかと思った」

 あたしもそう思った、どんだけ探すのよ、というセリフをすんでのところで嚥下。

「はい、これー。お世話になりました」

 差し出されたのは手の平サイズの四角いダンボールの箱。渡した時のままだ。開けて一応中身を確認すると、キューピッドの入った小さなスノードームが、これもまた渡した時と同じようにプチプチに包まれて入っている。

「うん、確かに受け取ったよ」

 にやあ、とスケベ親父顔になるのを必死に押しとどめつつ、キラキラきゅるるんスマイルレベル2を放つ。平井くんは……相変わらずぬぼーっとしたまま変化なし。ですよね。知ってた。そんなに敏感な子じゃないもんね平井くん。もう。ますます好きになっちゃう。
 ダンボールの蓋を閉めながら、これを平井くんに渡した日のことを思い出した。

 ――新堂さんさあ。恋に効くおまじないって知らない?
 ――こっ、恋に効くおまじない!?
 ――うん。好きな人がいてさ。
 ――へっ、へええ?そうなんだ?ふううん?い、いいい、いいじゃん??
 ――うん。だから、何かよく効くのないかなあ、って。
 ――そっそっかあ、でもあたしそういうの詳しくなくて残念だけどおまじないとか……あっ。

 そう。あったのだ。おまじないっぽい奴がひとつだけ。
 二年前、常人の目には映らないモノを『視る』ことができた……ということにしていた厨二病真っ盛りの痛々しいあたしは、街の片隅にひっそりとあったアンティークショップでなけなしのお小遣いを注ぎ込んだのだ。このスノードームに。「売れても売れても戻ってきてまうんよコレ。せやから安うしとくわ」といううさんくさーい店主のおじさんに釣られて。売れても売れても戻ってきてしまう、キューピッドを閉じ込めた曰くつきのスノードーム、なんて。厨二病真っ盛りのあたしが力を見出さないわけがない。興味深いじゃない、と意味ありげに微笑んで買い取ったはいいものの、やっぱりなんとなく怖い気がして、開けずに箱のまま放っておいたのを、その時になって思い出したのだった。

「ちゃんと言った通りにした?」
「したよ。新月の夜から、東向きの窓に置いて。満月の夜に、南向きの窓辺で、好きな人の名前を三回。それから、スノードームをゆっくりひっくり返す、でしょ?」
「そうそう」

 おまじないが完全にあたしの創作なのはこの際どうでもいい。効くかどうかはどうでもいいし、むしろ相手があたしならおまじないなんていらないのだ。他の相手なら、むしろ効かないでほしい。というか、誰の名前を唱えたのよ、と胸の奥の小さな乃彩が所狭しと暴れているが黙殺。それが今日のポイント、唯一にして最大のポイントだ。でもさりげなく、周辺から攻めていこう。ここで焦っては聞けるものも聞けな……。

 ……うーん、どうだろう?
 案外ぬぼーっと喋ってくれちゃうのかも……?

「それで、平井くんは――」

 ……いや、ダメだ。はしたないぞそんなの。万が一、万々々々が一でも、嫌われたらもう生きていけない。特大パフェの二つや三つもないと立ち直れない!

「――何か変化あったの?」
「うん。あったよ」
「えっ」

 なんですと……!?
 夏休みの間、平井くんには一度も会ってない。だったら効果が出たのは、別の相手ってことになるじゃない……!?

 いいえ、落ち着いて乃彩、リラックス。動揺した時こそキラキラきゅるるんスマイルだ。

「ど、どんなこと?」
「うーん。新堂さんになら言ってもいいかなあ」

 いや、うん、それはそれで嬉しいけどっ、そうじゃないんだよねっ!

「うん。聞かせて?」
「あのー。うーん……つまり、はさまれるんだよ」
「へっ?」

 はさまれる。
 …………挟まれる?

「挟まれるんだよ。自動ドアに」

 自動?ドアに?

「待って。恋のおまじないをして……それで、自動ドアに挟まれるように、なったの?」
「うん」
「ええ……???」

 いやいやいや、待ってちょっとそれは待って。そもそも私の目に何かが『視えた』……ってことになってるだけのスノードームであって、実際の魔法だのおまじないだのとは何も関係ないはずじゃ……。

 ――売れても売れても戻ってきてまうんよコレ。

 まさか。
 このスノードームをひっくり返した人は自動ドアに挟まれるようになるという呪いが……!?

「いやねーよ」
「ん?」
「あっ!?う、ううん、なんでもない、気にしないで!」
「うん」

 よし、オッケー。平井くん気付いてない。ナイス鈍感。

「えっ、それで、どのくらい挟まれてるの?」
「いつも」
「……いつも?」
「うん。おまじないの後、挟まれなかった試しがない」
「……嘘でしょ?」
「いや、僕もそう思いたいんだけど」

 ほら、と平井くんはワイシャツの袖を捲った。肘を中心に、腕の外側にいくつか痣がある。まるでキスマークのようだ、と一瞬思ってすぐに打ち消した。そんなわけない。とんだ肘フェチでもない限りこんなところにキスマークなんかつけないだろうし、それにどう見たってこれは痣だ。痛そうに見える。

「……えい」

 ぎゅっ。

「いたっ」

 平井くんは顔をしかめた。確かに痛そうだ。

「ごめん」
「うん。いいよ」
「……平井くん、あの、もしかしてそういう趣味とか……」
「ないよ」

 即答。

「ですよね……」

 そんなのあったら完全に平井くんへの愛が冷めるところだった。平凡を極めてる平井くんだから好きなのに。そんな分かりやすいアブノーマルさがあったらつまらないぞ。

「挟まれたくて挟まれてるんじゃあないんだよね。痛いし、その辺の人がみんなこっち向くし、正直とても困る」
「そりゃそうだよね。うーん……なんで自動ドアなのかなあ」
「なんでかなあ」

 ぽつんと平井くんが言う。流石にちょっと同情してきた。あたしがおまじないなんて教えたばっかりに、平井くんはこのキスマークのような痣を負い、自動ドアを通過するたびに衆目を集めることになったのだ……。

「もっと他のものでも良さそうだけどね」
「うん。マシュマロとか」

 何故マシュマロなのか。

「マシュマロ好きなの?」
「うん。挟まれても痛くないし」
「あー確かに。好きなもので柔らかいものなら挟まれてもいいかなあ」
「そうだねえ…………ん?」

 ふっと、唐突に平井くんは歩みを止めた。

「どうしたの?」
「……あの日、風邪ひいてたんだよ」
「風邪?」
「うん。だから物凄い鼻声で、ちゃんと名前が伝わらなかったのかも」

 突拍子もない、とは思ったけど。

「……なるほど?」

 あるかもしれない。

 願いを叶えてくれる何か、というか自動ドアに挟ませる何かかもしれないけど、とにかくそれがスノードームの中で聞き耳を立てているなら、そういう事態も起こらなくはない、かもしれない。そしてスノードームの中には、キューピッドが入っている。考えてみればキューピッドは愛の神様だ。それが平井くんの好きな人を聞き届けて、しかも「自動ドア」と聞き間違えてくっつけているなら、そう考えるなら筋は通るかもしれない。
 キスマークみたいな痣。

 ……本当に、ありえるかもしれない?

「ええー。僕、自動ドアと結ばれちゃったのかなあ」

 しょぼーん、という効果音が聞こえそうなほどの顔で平井くんは言う。結局この事態を引き起こしたのは自分だったと思い出す。もしこの先平井くんが自動ドアに挟まれ続ける一生を送ることになったらどうしよう。周りの人は平井くんを変な目で見るだろうし、それでもキューピッド(仮)は平井くんを自動ドアに挟み続けるだろうし。いや、縁結びじゃなくてただの災いだし、なんかもうキューピッドというより邪神だよねこれ。邪神(仮)だよ。
 なんてものを呼び覚ましちゃったんだあたし……。

「はぁ……」

 平井くんの憂鬱な溜め息。おまじないなんて、適当なこと言わなきゃよかった。平井くんは何も知らなかった方が、もしかすると。

 いや、でも。

「大丈夫だよ!」

 とびきりのキラキラきゅるるんスマイル、一気にレベル5だ。

「あたし、このおまじないの解き方がないかどうか調べてみる!」
「え、あるの?」
「それはまだ分かんないけど、それかもっと強いおまじないを見つけて上書きしちゃえばいいんだよ。そしたら、自動ドアも諦めてくれるかもしれないじゃん!」

 今、この困っている平井くんに親切にしておけば、間違いなく……好かれる!!

「そうかなあ」
「そうだよ、諦めるにはまだ早い。平井くんは今のところ、自動ドアをなるべく使わないルートと、挟まれても出来る限り痛くない方法を考えたらいいんじゃない?」
「それは、確かに」
「ね?」
「……うん」

 にやあ、と平井くんは笑った。心持ち深めの笑み。相変わらず気持ち悪い。でも、なんだか、いつもよりも柔らかくて温かい感じがするのは、気のせい?

「ありがとう、新堂さん」
「……うんっ」

 キラキラでもスケベでもない自然な笑顔が、あたしの顔に浮かんだ。

   *  *  *

「さて……それでだ」

 目の前には鞄から取り出したスノードーム。しゃかしゃか振ると、中のキラキラが部屋の照明を反射して眩しいくらいだった。確かに綺麗で、欲しくなる。あの時のあたしの目は間違ってない、けど。平井くんが鈍感とぼんやりを極めしものだったからよかったものの、下手をすればこれのせいで、あたしは平井くんに嫌われるところだった。好かれるどころの騒ぎじゃなくなるかもしれなかったし、そうでなくたって今、平井くんに自動ドアがチューしまくる(?)事態を招いている。
 許されないぞ邪神(仮)め……!

「割っちゃうか」

 呪いがこのスノードームを起点に発生しているなら、いっそ割っちゃった方が話が早い気がする。そうとなればやることはひとつだ。
 トンカチどこにあったっけな……。

「ちょお! 嬢ちゃんタンマ! タンマや!!」

 ……え?

「割るのはよしてくれへんかな? 嬢ちゃん??」

 振り返ると、声はスノードームの方から聞こえた。紛れもなくそこから声は聞こえていた。ありえない。ありえないけど、自動ドアに愛されている平井くんを見た後だとなんとも言いにくい。多分、そういうことだ。
 認める。スノードームがあたしに話しかけてる。恐らくは件の、邪神(仮)だ。

 でも、これって物凄いチャンスなのでは?

「なるほど、平井くんに呪いをかけた上にあたしまで騙す気なのかこのスノードーム……」
「おいおいおい! 騙すなんてそんなん考えてへんわ! なあ! 話だけひとまず聞いてくれ! 後生や!!」
「あ、トンカチあった」
「うわああああ! やめろ助けてくれ! なんでもする! 出来ることなら何でもする!!」

 にやあ、と口の端が上がる。勝った。

「なんでもするって言った?」
「言った! 言いましたから! なあ嬢ちゃん頼む! 頼むからそれこっちに向けんといて!!」
「よし。いいよ。向けない」

 あたしは学習机の椅子に座って膝の上にトンカチを置いた。まじまじとスノードームを見つめてみたけど、外見には何も変化がない。どうも動くわけではないらしい。

「で、あたしに喋りかけてるのはあんたでいいの?」
「せやで。スノードームの妖精、キューピッドちゃんや……あああすんまへん! ふざけんのやめる! せやからトンカチ下げてくれ!!」
「……それで、あんたは平井くんに何したの?」
「あん? 平井ってあれか? この前変な願掛けみたいなんしてきよったキモメガネか?」

 邪神(仮)の声があからさまに嫌な感じを帯びる。でも願掛けってまさか、平井くんのあの笑顔を至近距離で拝んだのかこの邪神(仮)。ちょっと。かわいそ羨ましいぞ。

「そういう言い方しないでよ。合ってるけど」
「合ってんかいな」
「うるさい」
「へいへい。せやけど、なーんもしとらへんで」
「……本当に?」

 なんでだろう、こいつの関西弁はめちゃくちゃ胡散臭い。

「いやいやいや、一歩間違えればトンカチがドッカーンってな状況でそんなつまらん嘘つかへんよ……いや、ホンマに何もしてへんて! それは保証する!!」
「じゃあ、あんたにはどんな呪いがかかってるの?」
「呪いぃ?」

 んなアホな、と邪神(仮)は呆れ満点に言う。

「こちとら何の変哲もない一介のスノードームやで。呪いもなんもあらへんわ」
「何の変哲もない一介のスノードームは喋らないでしょ」
「付喪神って知らんの?」

 ああ。愛着を持って長く使ったものには神が宿る、というのは聞いたことあるけど。

「あんた、付喪神なの?」
「ま、超のつくレベルで若いけどな。せやから波長の合う奴としか喋られへんけど、見る分聞く分には問題ないねん」
「ふうん。……なんだ、別に縁結びとかできるわけじゃないんだ」

 じゃあひとまず、平井くんの願掛けで他の誰かと結ばれたという線はなくなったわけね。

「お? まさか、あの平井ってやつがぶつぶつ言うてたのそれか?」
「……あ」

 それ。今日平井くんに聞きそびれたやつ。平井くんはスノードームが喋ったという話はしていなかったから、会話はしていないのだろうけど。

「なんて言ったか聞いてた?」
「おお? なんや気になるんか?」

 ふふん、と邪神(仮)もとい付喪神(仮)は言う。

「ひとつだけ応じてくれたら、あんたに教えたるわ」
「……何?」
「元の店に売り払ってほしいんや」

 真剣な声で付喪神(仮)は言った。

「……え、それだけ?」
「せや。それだけでええ。ひとまずは約束してくれれば十分や。何しろ、正直言うてはっきりとは聞こえんかったからな……」
「鼻声で?」
「そういうこっちゃ」
「分かった、明日にでもそうする」
「おおきに」

 その言葉はひどく優しくて、なんだか少し不安になるくらいだった。

「じゃあ言うで。あくまでも、そう聞こえたってだけやからな」

 ゴクリ、と唾を飲み込む。

「あいつ言うたんはな、えーと……『ぇじどおぁんどぅおま、ぇじどおぁんどぅおま、ぇじどおぁんどぅおま』みたいな感じや」

 ……は?

「……いやちょっと! 嘘やないで! トンカチに手えかけんのやめてくれ! おい!!」
「いやいやいや、縁結びのおまじないで相手の名前を三回唱えるんだよ!? 誰なの『ぇじどおぁんどぅおま』って!」
「知らんがな! もうありえんぐらいの滑舌の悪さと鼻づまりでホンマに何言うてんのか分からんかったんや! リスニング力の限界や!!」
「ぐぬぬ……」

 そう言われてしまうと仕方ない気がしてくる。にしても「ぇじどおぁんどぅおま」って誰?響きの似ている人名ってあるかな。ぇじどおぁんどぅおま、ぇじどおぁんどぅおま……。

「……あーんダメだ、どうあがいても自動ドアに聞こえる」
「ハハハ、なるほどな! 近い、めっちゃ近いわ」
「平井くん、あの日以降自動ドアに確実に挟まれる体質になったんだって」
「……へ?」

 分かる、分かるぞその反応。あたしも身に覚えがある。

「本人は縁結びの神様が自動ドアと聞き間違えたんじゃないかって言うんだけど」
「ぶふっ」

 うわ、噴き出すスノードームはじめて見た。

「ま、いろんな神様おるし、空耳する神様もおるんちゃう? ウフッ……自動ドアと縁結びってのも珍しいやろけどな、ンフフッ」
「笑いごとじゃないんだけど」
「すまんすまん。…えーっとあんた、名前は?」

 笑いを含んだまま付喪神(仮)が問う。

「今更?」
「こんなおもろい話聞かしてくれたん、初めてやもん。名前知らんのは失礼や」
「何その理由……新堂乃亜だよ」
「え?自動ドア??」
「違うわ!新堂乃彩!!」
「ジークンドーのプロ?」

 ふざけてんのか!

「あんた本当にリスニング力ないな!!」
「ああせやで! すんまへんなあ! でもホンマに自動ドアって聞こえててん!」

 ぷんすか、という感じで付喪神(仮)は言った。怒りたいのはこっちの方だけど、というかもう怒ってるけど、もしかするとスノードームだから五感がそんなに敏感なわけじゃないのかな、とか思うと微妙に詰りにくい。なんてめんどくさいんだ付喪神、全然設定が分からないぞ。

「……まあしかし、なんやな。あんたの名前が自動ドアだったら、今頃そのキモメガネとくっつけてたんやろうけどなあ」

 ……あっ。

「その手があったかー!!」
「ええ!?」

 なんで気付かなかったんだろうあたし!

「いや、後からの改名で成立するかは知らんで!?」
「いーや上手くいく! 今日からあたしは自動ドア! 新堂自動ドアになるわ!」

 何を迷うことがあるというのか。今日からあたしは自動ドアだ、そうすれば神様が変換の予測候補にこのあたしを入れることになる。無機物である自動ドアと縁を結んじゃうアホな神様なら、自動ドアって名前の女の子と縁を結んでくれたっておかしくない。いける、いけるぞこの作戦……そしてあたしは新堂自動ドアから平井自動ドアになるんだ……!

「いや、うーん、止めんけどな、止めんけど……うーん……どうかなあ……」
「いーいのよ! 大丈夫大丈夫! あたし絶対平井自動ドアになってまたあんたを買いに行くから!!」
「はあ……そか……」
「ようし、明日は役所に行くぞー!!」
「こらあ! もうちょっと考えてからにせえー!!」

 頑張れ新堂自動ドア、華の高校一年生。平井くんの苗字を貰うにはそれしかないのだから!

   *  *  *

「はあ……」

 深夜、新堂乃彩の規則正しい寝息を聞きながら嘆息する。曰くつきのものほどよく売れると考えた骨董屋の店主の悪ふざけから生まれた自分だが、ここまでふざけた話は聞いたことがない。人生初だ。いや、神生初だ。

「自動ドアに好かれたキモメガネと、そいつに好かれたい自動ドアみたいな名前の奴、縁結びをしたと勘違いされたキューピッド入りのスノードームの付喪神、なあ。こんなん嘘やと思われてもしゃあないわ。ま、言うけど」

 あいつはこの話を聞いたらどんな顔をするだろうか。例の創作ノートだかなんだかに小説として書いて、読ませてくれるだろうか。もう二年ほど会っていない顔がどこかとても懐かしい。少しばかり薄暗い店内、汚いショーケースのガラス、胡散臭いあいつの喋りやレジのチーンという音。毎日のように喋り相手をしてやっていたあいつは、この二年間何を相手に寂しさを紛らわせていたのだろう。自分は付喪神だから眠っていることができる。でもあいつは、人間の眠りは日の昇る度に覚める。

「あいつ、何してんかな」

 空に掛かる丸い月、あいつも見てるんやろか。

   *  *  *

「いて、て、て」

 爪楊枝を束ねて、青あざの上を満遍なく突っつく。こうすると、治りが早いらしい。というのをネットで見たけれど、確かに今までより消えるのが早いような気がして、毎晩几帳面にトントンしている。正直言ってダメージが少ないとは言い難い。でも、本当に自動ドアと結ばれているというより、恋愛成就のために下された試練か何かなのだと思いたい。これも全て、彼女と結ばれるためだ。
 壁に貼ったポスターを見つめる。本人のサイン入りだ。

「待っててね、ポーレット」
 真っ白な肌、透き通るような銀色の髪に、翡翠色の瞳。ポーレット・アルデマーニはイタリアとフランスのハーフで、女優で、僕が思うに、世界で一番美しい人だ。ポーレットと結ばれるなら、僕は何度自動ドアに挟まれたって構わない。まあ、少ないに越したことはないけど。こんな恋、応援してくれるのは新堂さんくらいだ。今ちょうど、ポーレットが主演の映画が上映中だから、明日にでも誘ってみよう。
 月を見上げる。

「神様、どうか彼女と僕をくっつけてください」

 本場っぽく発音しないと。

 ぽーぇっとぅ、ぁうどぅぉまー。

   *  *  *

「Porta automatica? Perché?(自動ドア?何故に?)」

 思わずそんなことを声にしてしまった我はクピド、愛の神である。羽の生えた全裸の幼児ではなく、翼を持つ全裸の美青年である故、しかと心得るよう。しかし、そんなことはどうでもよい。我に願いをかける者は多く、ここ数十年でその中身も随分と変化してきたわけだが、ここまで珍妙な願いは未だかつてない。ポルタ・オートマティカとな。このような願い、人生初、否、神生初である。
 彼奴にはどうも彼奴を好いているものらしい女がいるが、どうもあまり美しくない。時折好色な爺のような顔で笑う。あれの想いに免じて結んでやっても良いのだが、果たして生まれ来る子の顔面を思うと気の進まない次第である。その上彼奴が結ばれたいと願っているのは自動ドア。どう見てもあれが不憫でならぬ。余程自動ドアに挟まれ続ける方がよかろう。所詮、我は愛の神にして、幸福の神にあらず。我は我にかけられた願いを満たしてやるのみである。宿命は既に決し、人も神もそれを逃れることは出来ぬ。

「Vabbe……”Non è bello ciò che è bello, ma è bello ciò che piace”,
no?(まあよかろう……「美しきもの必ずしも美ならず、好むものこそ美なり」か)」

 我は満ちたる月より、その行く末を眺む。

   *  *  *

 新堂乃彩、起床! 今日も素晴らしい朝がやってきた!
 というのも昨日、寝付く前に思いついたことがあったから。
 昨日、付喪神(仮)が平井くんの言ったことを教えてくれたとき、あたしが自動ドアにしか聞こえないと言ったら、めっちゃ近い、と返事があった。これがひとつめのポイント。二つ目のポイントは、あたしが自分の名前を言った時に、自動ドアと聞き間違えられたということ。つまり、平井くんがお願いした名前は、正直訳分からなすぎてなんて聞いたのか忘れちゃったけど、とにかく、付喪神(仮)には自動ドアと認識できるような名前で、あたしの名前もあいつには自動ドアと認識できるような名前だってこと。
 つまり、平井くんが口にした名前は、「新堂乃彩」である可能性が高い!!

「ひゃっほー!」
「なんや、浮かれとるやないか」

 勉強机の上から例の胡散臭い関西弁が聞こえる。でも全然嫌な感じしない。むしろこんな重大な事実を私に教えてくれてありがとうって感じだ。

「あたし今日、平井くんに告白する!」
「ええ!?」

 一瞬、スノードームがほんの僅かに跳ねたように見えた、気がした。

「まったえらい急やな、何かあったか?」
「なんにもないよ、ただそうしようって思っただけっ」
「はあ……まあ頑張りや……」
「うん!」

 やれやれ、と言わんばかりの付喪神(仮)を尻目に、あたしは制服をテキパキ着ていく。
 待ってて平井くん。あたし、君に告白するよ。

   *  *  *

 映画に誘われるまで、八時間。
 好きな人を知るまで、三日。

 ああ。

 誰も、何も、知らない方が。きっと。

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

伸べられた手を

 頭上から、何枚もの葉が舞い落ちてくる。
 その全てが、その身に深い、生き生きとした緑を携えていた。
「はは……大違いだね」
 私は、自分の開かれた右手に広げられたハンカチにのっている四葉のクローバーと、落ちてくる葉とを見比べて、乾いた笑いを零した。
 もう、何も無い。
 折角、あれほどテレビの前で祈ったのに。
 折角、あれほどお母さんと安堵の夜を繰り返したのに。
 折角、大丈夫なんだって信じられそうだったのに。
 折角。
 ――折角、お父さんに、あげたのに。
 駄目だった。
 言いたいことはいくつもいくつもあるはずなのに、何も出てこない。
 青年に対する八つ当たりの文句さえ、出てこなかった。ただ、いつの間にか青年は私の家から去っていた。それだけ、私がその場で固まっていたということだった。
「はは、は……」
 もう、乾いた笑いさえ、出てこない。
 ぱさりと、足元から音がした。
「うん……?」
 見ると、右手にはただのハンカチ、何も包まれてなどいないハンカチしかない。
「あ、落ちちゃった……」
 目を凝らして地面を見てみても、無駄だった。そこは無数の雑草と、今も木から舞い落ち続ける色づきのよい葉とで埋め尽くされている。どうやっても、あんな小さなクローバーを見つけるなんて不可能だ、と雄弁に語っている。
「あーあ……」
 もう、本当に全部無くなっちゃった。私の手から、零れ落ちてしまった。
 過ぎた願い、だったんだろうか。私が持つには、あまりにも重すぎるものだったんだろうか。私自身の幸せ、私の大切な人の幸せ、それさえも、私が持つには重すぎて、落とさざるを得ないものだったんだろうか。
 ぐにゃりと、視界が歪む。
 どさりという重々しい音が、自分が転んだ音だと理解するのにそう時間はかからなかった。動く気力が、どこからも湧いてくる気配が無かった。
 刹那、私の耳に聞き覚えのある声が届く。
「こんなところで、何を、しているんだい?」
 え?
 そう、問い返そうとした。でも、言えなかった。もしかしたらその時、本当に声自体が出なかったのかもしれない。でも、それよりも。
 ――目の前で、鮮やかな青い羽根が躍っていた。
「幸せを、逃してしまったと、そう思っているのかい?」
 その人は、やたらと背筋をピンと伸ばしてそこに立っていた。
「幸せは、自分には過ぎた願いだったとでも、思っているのかい?」
 その人は、想像以上にすぐ近くに立っていた。
「幸せは、本当にそんな、大きいものだとでも思っているのかい?」
 その人は、諭すような口調で、けれど爽やかな笑顔のままで、私に語り続けた。その語りは、私の心の中にすっと入り込んでくる。
「でも、だからこそ、君が相応しいのかもしれないね」
「え……?」
 やっと、声を出してその人に反応できた。それを聞くと、その人は目を細めた。
「君は、幸せの理不尽さを知った。重さを知った。大きさを知った。そんな君だからこそ、私からお願いだよ」
 人差し指だけを立てて、その人は私に語りかける。
「こんなところで、倒れたままでいないでくれないか」
 その言葉は、私の胸には痛すぎるほどに刺さった。
「どうしろって言うんですか……。私には、もう本当に何もない、何も無いんです」
 絞り出すようにしながら、声を出す。
「もう、限界なんです。あんなに安堵した夜を繰り返しても、結局最後にこうなるなら、もう、全部奪われたも同じで、だから……!」
 そこまで言った時、両の頬の一部が、少し温くなっていることに気付いた。手を当ててみると、少しだけ温くなった雫が、そこには着いていた。――まだ、私の体から出ていくものはあるらしかった。
「幸せの側面を知った君には、倒れたままでいないでほしい。これは私の完全な我儘だ」
 その言葉を、私はただ右から左へ聞き流すだけだった。
「だからってわけでもないし、別に君たちにやられたからってわけじゃないけど」
 そう言葉を区切って、老人は右手を腰の後ろに当て、左手を私の頬の近くに持ってくる。
「手くらい、引いてあげるからさ」
 ごうっと頭上を何かが通り過ぎてゆく。頭上から、葉も落ちてくる。あのクローバーも、元々はこれくらい生き生きした色をしていたっけ。
 私は、目の前まで伸べられた手を――。

     §

 ごおっという音が耳に届き、私は目線をちらりと上空へ向けた。昨日は早めに寝て、頭はばっちり冴えているが、目をぱっちりと開く気力までは起こらない。
 そこに飛んでいたのは、白くて巨大な飛行機だった。あれが、国の軍の戦闘機だというのを知ったのは四年前――お父さんが戦争に行く前日だった、確か。
 そのことを思い出して、もうあれから四年も経っていることに驚愕する。突然やってきた開戦の報せに、お父さんが応じてから、もう四年も経つ、という。
「なのに……まだ、やってるんだよねえ」
 もちろん、ここから爆撃の音が聞こえることなど無い。だから、実際戦争だからと言ってどんな戦いをしているのかは、私はよく知らない。
 だが、毎日毎日、朝十時と夜十時に、どこそこでなになにの部隊が戦って、どれだけの戦果があったのかを知らせる発表が全テレビ番組、全ラジオ放送で流されるのが続いている。それを受けて学校では毎日毎日、すごいだのさすがだのと褒めたたえる言葉が乱舞する。だが、私にとっては、あんな放送には一つの価値しかない。
 ――今日も、お父さんの名前は無かった。
 毎日の発表の内、夜の発表には、今日戦死した人の名前が並ぶ。そこに、お父さんの名前が無いことを確認してから寝るのが、この四年の私の日課だった。
 ――全て、あいつらのせい。
 またも、ごおっとエンジンを唸らせて飛んでいく白い巨体を睨み付けながら思う。軍が戦争などというものを始めさえしなければ、お父さんが死の渦に晒されることもなかったのに、と何度思ったことか。
 だが、そう思うたびに、お父さんの力強い言葉と、微笑んだ顔が脳裏にフラッシュバックする。私の頬は、まだあの手の温もりを覚えている。
「おーい、大丈夫か、お嬢さん?」
「うわっ!」
 突然、すぐ近くから声をかけられ、思わず声を上げてしまった。
 声の持ち主から少し距離を取ると、そこにいたのはどこかで見た覚えのある風貌をした紳士だった。背筋がピンと伸びていて、頭には白髪が混じっている。どこで見たのかは、よく思い出せなかった。
「人に声をかけて、うわっと反応されたのは初めてだな」
「す、すみません……」
 にこにこしながらそう言われて、私は慌てて謝る。
 だが、そうはいっても、私のすぐ近くでいきなり声を出されたら、普通びっくりするだろうと思ったが、その言葉はそっと飲み込んでおくことにした。
「えっと、どうかしましたか?」
 取りあえず、声をかけてきたからには用があるのだろうと当たりをつけて、私は紳士に声をかける。
「あー、いや、ね……」
 何故か紳士はその場で腕組みをして考え込みだした。私も、どうしたらいいのか分からないので紳士の答えをただ待つ。結局、紳士の答えが返ってきたのは三分くらい経ってからだった。長い沈黙だった。
「あー、そうそう、この辺りで神社といえば、どこにあるか分かるかい?」
「神社、ですか?」
 神社なら確かにこの町にあるにはある。汽車の駅の近くにある、かなり小さな神社である。だが、それはこの辺りの地域で唯一の神社であり、地元の人ならば知らないはずがない。
「えっと、この辺りに住んでいますか?」
「え? あー、いや、この辺りに住んでいるわけではない……かな」
 紳士は妙に歯切れの悪い答えを返してくる。だがともかく、この紳士はこの辺りに住んでいるわけではないらしい。となると、この場所から汽車の駅の方へ行くのは、道が少々複雑だなということに私はすぐに思い至った。
「では、ご案内します」
「え? いや、何もそこまで……」
 紳士が両手で遠慮の意を示し始めた。だが私も何だか意地になってきたので、思いっきりにこやかな顔を作って、言い放ってやった。
「いいんですよ、これくらい。さあ、行きましょう」
 そう言って私は、紳士に向かって手を伸べた。
 その様子を見ていた紳士は、一瞬驚いた様子で私の手をまじまじと見つめ、ふうと意味ありげに息を吐いた。そして、宙ぶらりんになっている私の手を思いっきりぱしいんと叩いた。
「痛っ!? え、あの、何するんです」
「子供扱いされてる気がしたからね。手を引いてくれなくとも、案内してくれるだけでいいよ」
「あ、ああっと……何か、すみません」
「いやいや、その気持ちだけ受け取っておくよ」
 紳士は爽やかな笑みを浮かべた後、私の案内についてきてくれた。
 紳士は、歩いている途中もずっと笑顔を絶やさなかった。おかげで、いくらか私の心が緩んでいくような気がした。それで初めて、私の心は固まっていたのだと知った。その緩んだ心で、私もいくつか、お父さんとのエピソードをその紳士に話した。その時は、紳士の笑顔がひときわ柔らかなものになっていたように見えたのは、私の気のせいだろうか。
 そんな私の心の状態なんて知る由もなく、紳士は笑顔で、喋り続けた。
「いやね、久々に来たんだけど、街並みが変わってて道が分からなくなっちゃってね」
「そうなんですか。私、ずっとこの町に住んでいますけど、そんなに変わった実感ないですね」
「それは、きっと君がずっとこの町にいるから、ちょっとずつの変化に気付かなかったんだろう。私からしてみれば、大分変わったよ」
 その時、びゅうっと風が巻き起こった。土埃が舞い上がったおかげで、辺りの景色が少しだけ霞む。
「いつだって、そうさ」
 だが、そんな中でも、紳士は言葉を止めていないようだった。土埃のおかげで、彼のことを見ることはできないが、それでも声だけはずっと私の中に入ってくる。
「その状況に慣れてしまった者にとっては軽微なことでも、そうでない者にとっては劇的すぎる変化しか、この世界には起こっていない」
 風が止む。土埃はまだ宙を舞っているが、風の後押しによる勢いは消えた。
 私は紳士の方に目を向ける。
 紳士の目から一つ、つうっと筋が落ちていくところだった。
「うん、ここまで来れば大丈夫そうだ。知っている道に出たよ。ありがとう」
「あ、いえ。えっと――」
 紳士の目から零れ落ちたものについて言おうかどうか迷ったが、結局言わなかった。何となく、今の表情をしている紳士に、無粋な言葉はかけたくなかった。
「それでは、お気をつけください」
「ああ、ありがとう」
 紳士から視線を外し、私の家の方向へ向く。
「君なら、大丈夫だと信じている」
「え?」
 今何と仰ったのですか、と訊こうと振り返ろうとした時、どおんと大きな爆発音が鳴った。空を見ると、空中に一つ、黒い煙がぼんやりと浮かんでいた。
 私の傍で、小さい赤ん坊が泣き叫んでいる。その二人のほかに、ここに人はいない。
 無性に、心の中に焦りが生まれる。
 急いで、家まで走っていった。玄関前には、軍服姿の男の人が一人。
「実は、昨日――」
 その後、その軍服姿の青年が何を語ったのか、私はよく知らない。
 私の五感の全ては、その青年の胸元――ハンカチの上に丁寧に置かれた、焼け焦げた四葉のクローバーの葉のみを捉えていた。

     §

 夕焼けに照らされる帰り道、私とお父さんは途中のコンビニでアイスを買い、二人でそれを食べながら歩いていた。
「ふうー……やっぱり暑いね」
「まあ、夏だからな」
 会話しながらお父さんの方を見ると、お父さんの額からも汗が噴き出している。やはり、何だかんだでお父さんも暑がっているのが目に見えてわかる。まあそれも、この季節とこの気温なら仕方ないか、という感じであった。
 アイスを二人とも食べ終わる頃、丁度私達は家の近くに来ていた。そこで、奇妙な光景に出くわした。
「お、お父さん、何これ……?」
「さ、さあ……何かあったのかな」
 我が家の前には、どやどやと多くの色味の抜けた服を着た人が集団を作ってたむろしていた。其処此処から人の話し声が聞こえてきて、何故こんなに集まっているのかは分からなかった。
「すみません、これは一体、何の騒ぎですか?」
 お父さんが、近くにいた老齢の紳士に問いかける。その紳士は、口周りに少々皺が目立ち、頭には白髪が混じっているものの、背筋はピンと伸び、はきはきと話す、風格漂う人だった。
「さあ、何の騒ぎかは分からん。ただ、数刻前から徐々に集まり始めて、今ではこの騒ぎでな。向こうに行きたくても行けなくなってしまったよ」
 確かに、この密度では中々この集団を越えて向こうへ行こうとは思えないかもしれない。
「少々お待ちください」
 お父さんは白髪混じりの男性にそう言うと、すうっと息を吸い込んだ。
「皆さん! 人が通られます! 道を開けてください!」
 お父さんが大きな声でそう叫ぶと、どやどやと集団が左右に別れ始めた。同時に、紳士が少し慌てた様子を見せ始める。
「ああいや、何もそこまで……」
「いいんですよ、これくらい。さあ、行きましょう」
 そう言って、お父さんは紳士に向かって手を伸べる。紳士はその手を見て苦笑いしながら、「そこまでは」と言って人々の間を歩いていった。見ると、お父さんの顔も少し笑っていた。何故か私には、その顔がきらきらして見えた。
「ああ、やっと帰ってきた!」
 私達の視界から紳士がいなくなったのとほぼ同時に、家の中から一人の青年が出てきた。隣に住んでいる、やたら元気な青年だった。その青年を見て、私は少し困惑した。青年が、見たことのない服を着ていたからだ。いや、正確にはその服自体を見たことはあったが、青年がその服を着ているのを見るのが初めてだった。
「君がその服を着ているということは、つまり――」
「はい。今日は、正式な軍務で来ました」
 有り体に言えば、青年が着ていたのは深い緑色の、軍服であった。彼は、胸元に赤い紙片を抱いていた。それを見たお父さんの顔は、今までに見たことがないくらいに険しいものになった。
「まあ、外で立ち話も何だろう。中で話そうか」
「そう……しましょうか。外では、野次馬もうるさいでしょうし」
「そうだな。あと、その敬語も止めてくれ。普段通りでいいよ」
「いやしかし、正式な軍務ですから、そういうわけにも」
「私がいいと言っているんだから、軍の上層部だって構やしないさ。それに、娘からすれば、そんな丁寧な言葉遣いしかしない君は気持ち悪いだろうからな」
「なっ、気持ち悪いって……というか、僕はあなたに対しては普段も敬語ですよね!?」
「ふふっ、そうだったかな? まあとにかく、過剰な敬語は止めてくれということで」
 最後のその一言を口にした時だけは、お父さんの顔から険しさが薄まっていたように見えた。お父さんは、私の方を一瞥した後、笑顔で家の中に入っていった。その後に、不満そうな表情をした青年が続いて、最後に私が入り、扉をがちゃりと閉めた。
 家の外の雰囲気とは対照的に、家の中は静かなものだった。私がリビングに入ると、キッチンの方からはお母さんが料理をしている音が聞こえてきて、随分早いな、と思った。
 肝心のお父さんと青年は、リビングに置かれた丸テーブルを挟んで向かい合って座っていた。さっきは少し薄まっていたはずの険しさが、お父さんの顔に復活しているのが少し気になった。
「先に、妻に知らせたのかい」
「ええ」
「反応は、どうだった」
「……お察しの通りかと」
「そうか。まあ、妻も、大義がよく分からない、と常日頃からぼやいていたからね」
「……そうですね。それは私も耳にしたことがあります」
 分からない。二人が何について話しているのか、見当がつかない。ただ一つ分かるのは、あの赤い紙片と、「大義」という言葉が組み合わさると、少なくとも過去には録でもないことしか起こっていないということだけで――。
「改めて、申し上げます。こちらを」
「ああ」
 そう言って、お父さんは青年が差し出した赤い紙片を静かに受け取った。
「此度の大義ある戦争の開戦にあたっては、あなたの御力をお貸し頂きたく」
 そう青年が口にした後、しばらくはその場は沈黙で支配された。その間は、キッチンからの母の料理の音だけが私の両耳に届いていた。
 やがて、お父さんが口を開く。
「この戦争に大義があるかなんて分からんし、軍の連中が、人々の心の平穏を得るという正義を携えていると声高々に言われても、私はそのために動こうとは毛頭思わない」
 そこまで言って、お父さんは私の方をちらりと見て、微笑みを浮かべた。そして再び、青年の方へ向き直る。
「だが、私は家族の、その平和のために動くことは惜しまん」
 そこでお父さんは、両手を握り地面につけ、頭を下げた。
「非才なる身の、全力を以って、軍の務めを果たそう」
 お父さんのその言葉が、変な重みを持って私の頭の中に流れ込んでくる。同時に、今までに青年が発した言葉が、私のこめかみに突き刺さる。
「せ、戦争……?」
 気付けば、私の口から自然と言葉は漏れ出していた。その言葉に、お父さんが振り向く。その顔には、やはりさっきと同じような笑みが浮かんでいた。
 ――その笑みが、私には理解できなかった。
「お父さん、戦争、行くの?」
「ああ」
「戦争って……死んじゃうかもしれないのに、怖くない、の?」
「いや」
 恐る恐る発した言葉に、お父さんは力強く答えた。たった二文字だったが、それらは私の心の中心部分にまで、すっと入り込んできた。
「確かに死んでしまう可能性は無いとは言えない。だから、怖くない、なんて言えるわけがない。でもな」
 お父さんの右手が、私の左頬を包む。その手は冷たかったが、温もりに満ちていた。同時に、お父さんは左手でズボンのポケットの中から何かを取り出し、それを私の両目のすぐ前に持ってきた。
「お父さんにはお前もいるし、お前がくれたこれもある」
 私の目の前では、お父さんの左手の指に挟まれたクローバーが揺れる。
「これがあれば、私は自分の道を見失わずに済む」
 だから、とお父さんの右手が左頬から頭へと移る。
「だから、大丈夫だ。お父さんが死ぬことはない」
 そうお父さんが力強く私に言う。
 その時確かに、青年の視線はお父さんの手の中のクローバーを捉えていた。

     §

 ごおおおんと頭上を何かが通り過ぎ、同時に私は落とされた影に包まれた。
 見上げると、白くて大きな飛行機が、遥か前方を目がけて飛んで行っているところだった。
 川のほとりで特にこれといった目的もなく流れる水面を眺めていた私は、しばらくその白い飛行機が飛んでいく様子を眺めていた。何の飾りもなく、ただただ全身が真っ白に染まっている、そんな飛行機だった。
「随分低いところを飛んでるんだな……」
 私のすぐ右隣から、声が漏れる。空を向いていた目をそちらに向けると、私のお父さんが呆れた表情で溜息を吐いているところだった。
「え、低いところを飛んでるって、何で?」
「……さあ、それはよく分からないな」
 お父さんは少し顔をしかめて、目を細めて小さくなっていく飛行機を眺めていた。
「――もう、そんな時期なのかもしれんな」
 小さな声で、だがはっきりと、お父さんがそう言ったのを私は聞き逃さなかった。そう言ったお父さんの顔が、酷く歪められていることも見逃さなかった。私がそんなお父さんの顔をじっと見つめていると、お父さんの顔がふっとこちらを向いた。
「ん、どうかしたか?」
 そう言ったお父さんの表情はいつも通りのものだった。お父さんの言葉にふるふると首を振ると、私は再び前を向いて歩き始めようとする。
 その時、目の前をばさあっと何かが横切った。思わず目を瞑って後退ると、ぽんとお父さんの両手が私の両肩にのる。丁度、後退る私をお父さんが受け止めた格好だ。
「今度はどうしたんだ?」
 頭の上からはかなり暢気な声が降ってくる。
「い、いや、今何か、飛んで……」
 そう言いながら辺りを見回す。ボロボロのブロック塀の中にあって、それはすぐに見つかった。私とお父さんの周りを、小さな青い鳥がぐるぐると羽根をばたつかせながら回っていたのだ。
「わ、綺麗な羽根……!」
 思わず口に出てしまった。その鳥が一つ羽根を動かすたびに、私はその鳥に見入ってしまうようだった。
「こんな鳥、この周辺にいたっけな?」
 お父さんはといえば、何か真剣な顔をして考え込んでいるようだった。
 私とお父さんがその場から動かないままでいると、やがてその青い鳥は私達の周りをぐるぐる飛ぶのを止めて、ゆったりと、私達の目の前で五秒ほど羽根をばたつかせた後、私の左耳のすぐ近くを通り過ぎていった。
 青い鳥のその動作に振り向くと、そこには何もいなかった。茶色くなって垂れ下がった葉と、穴だらけの無機質なブロック塀だけが視界を埋め尽くす。
「あれ……?」
 辺りをきょろきょろと見回してみても、結果は変わらない。あの鳥は、私の目の前から姿を消してしまった。羽根が綺麗だったから、もう少し見ていたかったが、残念だ。
 突如、その場をふわりと柔らかい風が包み込む。胸まで伸ばした私の髪も、ふわふわと揺られた。目の前を、幾つかの塵と化した枯草が舞う。
 舞い上がりそうになる髪を右手で抑えながら、何となく視線を下にずらす。すると、一本の草が私の目に入った。
「あっ!」
 思わず私は膝を折り、その草を手に取る。ぷつん、という茎の音が確かに私の耳に届いた。
「ん、何だ何だ。今度はどうした?」
 そう聞いてくるお父さんに、私はつい今手に取った草を見せつける。
「見て、四葉のクローバー!」
 お父さんは、私の手の中にあるものをしげしげと見てから、私と目を合わせてにこりと微笑んだ。
「へえ、こんな場所で珍しいな。しかも、葉が随分深い色をしている。きっと、普通の四葉のクローバーよりもずっと幸せになれるに違いないぞ」
「え、そうかな? やった!」
 そう私が喜びの声を上げるのと同時に、遠くの方から、どおんという音が響いてきた。その音が聞こえた瞬間、お父さんの首がぐりんと勢いよく回り、その音が聞こえてきた方向へお父さんの両目が向けられる。その表情は、さっき白い飛行機を見つめていた時よりも苦しそうだった。
「――やはり、そうなのか。そうだというのか……」
 お父さんの口から漏れてきた言葉も、苦しさを帯びていて、何だか私の胸までぎゅうっとなりそうで、何となく恐ろしかった。
 私は、自分の手の中のものと、お父さんの顔とを見比べて、お父さんの目の前にずいっとそれを近づける。お父さんは私のその行動に軽くびっくりしていた。
「これ、お父さんにあげる!」
「え?」
 その時のお父さんは、それこそ目が点になったような表情をしていた。
「だって、お父さん、何か辛そうな顔してたよ?」
 この私の言葉に、お父さんはまたも苦しそうな表情を一瞬だけ見せた。でもそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはその顔は笑顔になっていた。
「そ、そうか? お父さん自身は何も辛いことなんてないんだけど」
 そう言われても、私は譲らなかった。
「いいの! これ、あげるの!」
 大きな声で言い張る私に、お父さんは案外簡単に折れた。その時の顔は、満面の笑みだった。
「ふふっ、そうか。ならもらっちゃおうかな」
「うん、あげる! これで、お父さんが幸せになれるね!」
 その言葉に、お父さんは何も答えなかった。
 ただ、四葉のクローバーを手に、私の頭をゆっくりと、ふんわりと、撫でてくれるだけだった。



テーマ「深碧」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

マーチング・アウト

   1

 太陽は、山の彼方に沈んでしまっても、いずれまた昇ってくる。
 その太陽の下で、きらきらとしている波は、何度も何度も、寄せては返す。
 ――だが、あの黒い波は。
 あの黒い波だけは、何の前触れもなく押し寄せてきた。そして、何の前触れもなく、返っていった。
 それきり、あの黒い波が押し寄せてくることはなく。
 そのことに、寂しさではなく、強い虚しさを覚えたのは何故だろう。
 そしてまた、目の前には、大分昔に沈んだ太陽が昇ってきて、光を、光を――。

 がんっ。
「うっ……ぐお……!」
 声にならない声を発しながら、僕は目覚める。額の片隅が、静かに僕に痛みを送ってきていた。
 何事かと瞼を上げれば、そこにあったのは絨毯の赤い毛。その状況にしばらく混乱したまま絨毯の上で寝そべる。起き上がる頃には、ああベッドから落ちたのだなと、大体を把握できていた。
 夏の熱帯夜で大量の寝汗をかいていたからだろう、着ているパジャマはぐっしょりと濡れていた。それを脱ぎ捨て、手近なところに掛けてあったタオルを引っ掴んで体を拭く。だがまあ、その程度では汗は拭けても、体中にねっとりと纏わりつく気持ち悪さは消えてくれなかった。肩も、何となく重い。
「ふう、シャワーでも浴びるか……」
 何の気なしにそう呟いて、僕は箪笥から適当な着替えを取り出してシャワールームへと向かうことにした。部屋を出ると、隣の部屋のドアが埃を被っていたが、敢えてそれを無視する。
 それにしても、ベッドから重力に任せて落下して、結構大きな音がしたはずだが、それに誰も何の反応も示さないなんてのんきな家だな、と感じる。誰か一人くらい僕の部屋の扉を叩いてもいいだろうに、と思う。
 ――まあ、それは無理な話か。
 前は、父がしょっちゅうベッドから落ちては、母が父の部屋に大丈夫かと言いながら駆けつける、というのが我が家の日常茶飯事の光景として繰り返されていた。そのうち、あまりにも頻繁だったものだから誰も気にしなくなっていって、父だけがそれを寂しがっていたのはよく覚えている。一度染みついた習慣は中々抜けないものとはよく言うが、我が家では人がベッドから落ちたくらいでは誰も反応しないのは当たり前のようだ。
 考え事をしながら階段を下りていく。天窓からは白い雲しか見えない。ああ、今日は曇りか、とぼんやり考えながら、風呂場に入る。途中、キッチンから物音がしたから、母はもう起きているようだった。
 風呂場で何も考えずに無心でシャワーを頭から被る。ひとしきり体を濡らしたところで、ボディーソープを右手に盛る。
「あっ」
 そこで僕は、盛られたボディーソープを見つめながら固まった。昨日の夜も普通に風呂には入った。その状態で、わざわざ今体を洗う必要があるのか。
 しばらく考え込んだところで、まあいいかとボディーソープを体に擦りつける。時間がないわけではないので、洗髪もしてきれいさっぱりしてから家を出ることにしよう、と今日の朝の方針を固める。まあ、時間がたっぷりあるというわけでもないので、さっくり済ませることにした。
 十分ほどで全てを終わらせて風呂場を出る。風呂場に入る前の様子からして、母はもう朝食の準備を終わらせただろうか、と思いながらリビングへ入りキッチンを見る。そこにいたのは、三年前、つまり僕が高校を卒業した年に生まれた妹だけだった。十八も年の離れた妹など、生まれた当時はかなり不思議な感じがしていたものだが、今となってはもう慣れたもので、最近では母よりも僕が妹をあやすことの方が多いくらいであった。
「あ、にー!」
 僕を見つけるやいなや、妹はきゃっきゃと両手を打ち鳴らす。僕が近づくと、表情がさらにくしゃっとなってかわいい。
 一瞬、妹の表情が満面の笑みから不思議なものを見つけたようなものへと変わる。次の瞬間には元の満面の笑みに戻っていたが、僕は何となく気になって妹に訊いてみる。
「ねえ、さっき、どうしたの?」
「えー?」
「何か見つけた、みたいじゃなかった?」
 僕のその言葉に、妹はまたも表情を変化させた。先ほどと同じ、不思議なものを見るような表情だ。よく見ると、妹はその顔で僕の後ろに視線を走らせているようだった。
「どうしたの?」
 もう一度、訊いてみる。んーとね、と妹はつっかえつっかえ話し始めた。
「まーごがいうよー?」
 そう言いながら、妹が僕の後ろの方を指差す。振り向いてみるが、そこには何もなかった。もう一度妹の方に向くと、妹は首を傾けながらもう一度呟いた。
「まーご、いえれたんれしょー?」
 その言葉に僕が首を捻っていると、とん、と足音が聞こえた。その音は階段をゆったりと降りてくる。
 がちゃりとリビングのドアが開けられた。そこに立っていたのは、懐にフォトフレームに包まれた一枚の写真を抱えた、母だった。僕は、その写真を見て思わず顔をしかめる。後ろからは、妹の「うー?」という声が聞こえた。
「また、その写真持ってきたんだ……」
「うん……一緒に朝ご飯、食べようかと思って」
「一緒に朝ご飯って……」
 僕は溢れてきそうな感情の波を何とか押し留めながら、努めて冷静な調子で母に語りかける。
「いや、もう、死んだんだよ?」
 そう言った僕に、母は心底不思議そうに言葉を返してくる。
「死んだとしても、ここにいるもの」
 そう言って、母は自分の左肩を撫でる。その動作が、僕にはとても悍ましいもののように見えて、頭の中が一瞬でぐちゃぐちゃになる。一体、目の前の女性は何を言っているのだろうかと。
「ごめん、今日の朝ごはんはいらないや。時間もないから」
 僕は思わずそう言って、母の返事も聞かずに階段を駆け上がった。二階の自分の部屋へ戻り、鞄を引っ掴んで再び階段を下りる。玄関に向かう途中でちらりとリビングの方を見ると、母が朝食が盛られた器が並ぶリビングのテーブルに、さきほどの写真を立て掛けているところだった。
 その行動に寒気を感じた僕は、なにも見なかった振りをして足早に玄関へ向かう。そこには、ぽつんと僕の靴だけが二足、置かれているだけだった。急いで靴を履き、乱暴に玄関のドアを開け放った。相変わらず、陽の光は雲に全て遮られたままだった。そんな景色を眺めている間に、僕のすぐ後ろではドアがゆったりと自動で閉まる。
 ――刹那、肩にビキィっと痛みが走った。

   2

「お、おーい」
 正午の十五分過ぎ、大学の構内を歩いていると、背後から声をかけられた。振り向くと、同じ高校出身で、同じサークルに所属している同期だった。
「なあ、一緒に昼飯食おうぜ」
「おう、いいよ」
 特に断る理由もなかったので了承し、そのまま二人で学食に向かって歩き始めた。
「……なあ、お前さ」
 歩き始めてすぐ、声をかけられた。
「ん、どうした」
「お前さ、最近、元気無くないか?」
 あまりに唐突だったので、思わず一瞬固まってしまった。
「え、そう見える?」
「見える、というか……何か、時々すごい溜息吐いてるし、お前」
 ――実際、その通りかもしれなかった。
 溜息は、確かに吐いているかもしれない。昔よりは、元気がないのかもしれない。母が、写真をテーブルの上にわざわざ持ってきてご飯を食べるようになったこと、原因は間違いなくそれだった。もうあの習慣も、どれほど続いているのか、数えたくなくなるし、その光景を見る度に変わらぬ悍ましさを感じる。
「……何か、変なこと言っちまったか。悪い」
 僕がずっと黙っているのを気にしたのか、そんなことを言ってくる。別にいいよと返しつつ、何とはなしに前方に注意を向けると、そこには学食の建物があった。もうそんなに歩いていたとは、全然気付かなかった。
 自然と、僕はそこで足を止めてしまった。
「ん、どうした。早く行こうぜ」
 その場で動こうとしない僕に、不思議そうな声が放たれる。実際、彼に視線を合わせると、彼はかなり不思議そうな表情をしていた。だが、彼はすぐに、何か思い当たった様子で僕の方へ歩み寄ってきた。
「あーっと……そうか、例の肩凝り、か?」
 僕のすぐ傍まで来た彼は、周りに声が漏れないように小さな音量で、学食入口の自動ドアを見ながら僕に声をかけた。
「うん、まあ……今朝、久々に強烈なのがきて、さ」
 正確には、肩凝りというよりもただの肩の痛みだった。ドアをくぐる度、肩に走る謎の痛み。普段は大した痛みではないので、病院などへは行ってはいない。説明が面倒なので、友達にはドアをくぐると肩が凝る、と説明した。もちろん、皆には変な顔をされたが、面倒なのでそれで押し通した。僕にとっては、最早習慣となった肩の痛みだった。
 だが、今朝家を出た時の、玄関ドアを出た時の痛みは久々に強烈なものだったので、何となく自動ドアというものに緊張してしまったのだ。家を出て、大学まで自転車で来て、講義室に入るまでにはくぐったドアは開けっ放しになっていたものばかりだったので、すっかり忘れていた。
「長いな、それも。もう半年くらいにはなるか?」
「ん……そうかもしれない」
 そんなの、数えてもいなかった。僕にとっては最早日常生活の一部だったから。しかし、そうか、もう半年か。
「まあ、あそこ行きたくないってんなら別のところでもいいけど」
「いや、いい。いつもはそんなに痛くないから、大丈夫……なはず」
「そう?」
 僕のことを気にしながらも、彼は学食の方へ歩いていく。僕も、そんな彼に続いて行く。
 彼が先に入り、僕がその後に学食の建物の中へ入る。僕のすぐ後ろで、自動ドアがピシャリと閉まった。その瞬間は思わず体に力が入ってしまったが、痛みらしき痛みは襲ってこない。
「えーっと……大丈夫そうか?」
 気にした様子の彼が僕に声をかけてくる。
「いや、だから、普通はそんなに痛くないんだって言って――」
 刹那、ぴきっと肩に痛みが走る。もちろん、今朝家を出た時に感じたものよりはかなり軽い痛みだった。だが、その痛みで僕は言葉を止めてしまい、それで彼の表情が激変した。
「えっ、ちょっ、お前、本当に大丈夫か?」
「い、いや、確かに少しはあれだったけど、でも全然――」
「でもお前、それ半年くらい続いてんだろ。いい加減、病院行くレベルじゃねえ?」
「いやいや、大丈夫だから。それよりも、今は昼飯食べようぜ、な?」
「え、でも――」
「いいからいいから。あー、お腹空いたなあ」
 結局その後は、昼飯を食べながら彼を宥めることに終始した。満腹になるだけの量は食べたはずだったが、何故だろうな、すごい疲れた。

   3

 右手には、家の鍵が握り込まれている。
 最初はひんやりしていたそれも、時間が経てば温かくなっており、おおよそ期待した役割を果たしてはくれない状態になっていた。
「ふう、暑い……」
 朝の内は雲で一杯だった空も、昼過ぎには見違えるほどの澄み渡る青に染まっていた。同時に気温も上昇し始め、最終的には三十五度を超えた。所謂猛暑日というやつだ。あの朝の天気でも、こんなことになり得るのだから夏というやつは侮れない。
 当然、僕が大学から帰る頃にはアスファルトはじりりと熱されていて、その上を歩かなければならないと思うと憂鬱になったのが大学の正門前でのこと。
 少しでも冷たさが欲しくて鞄から鍵を取り出し、金属の部分がひんやりしていて少しだけほっとしたのがついさっき。もうすでに、それはぬくぬくとしていて握っていても何も得られない無用の産物と化していた。
「ふう……」
 ぱたぱたと右手で煽りながらふと目線を上げると、そこにはひたすらの青。時間は既に夕方、冬ならば綺麗な夕焼けが見えるであろう頃である。だが今は真夏で、夕焼けを見せるのはもう少し先だと言わんばかりに空が全体的にぎらぎらしていて。そんな空の下をゆったり歩いていてもただただ体力が削られるばかりで。
「早く帰るか」
 そこからは少し早歩きで家路を辿った。胸と背中から汗が噴き出してきたが、そんなものは気にしない。そうしていると、数分もしない内に我が家が見えてきた。
 変わらず右手に握り込まれていた家の鍵を、そのまま玄関ドアの鍵穴に突っ込む。ああ、早く冷房か扇風機の風に当たりたい。
 ドアを乱暴に開け放ち、家の中へ。玄関で靴を脱ぎ捨てると同時に、後ろでドアががちゃりと閉まる。同時に振り向き、内側の鍵を捻る。
 その時、ビキッと肩に痛みが走る。
「ぐっ……」
 昼に学食で感じたものより少し重く、声が漏れてしまった。それでも、やはり今朝のものよりは軽い。
 あまり気にせずにリビングへ入ると、とてとてと妹が僕の方にやってくる。
「にー、どーしたのー?」
「……え?」
 いつもなら僕が入るときゃっきゃと喜ぶ妹だったので、思わず変な声を出してしまった。そんな僕に、妹は今朝と同じような不思議そうな視線を向けてくる。
「にー、つあそーなかおしてうー!」
 その妹の言葉に、どう答えたものかと考え込んでしまう。こんな幼い子供に、今の僕の状況をそのまま説明するわけにもいかないだろう。妹には、くしゃっと無邪気に笑っていてほしいから、少しでも心配させるようなことは言いたくなかった。
 妹は、変わらず純粋な瞳でまっすぐ見つめてくる。どうしたものかと思い悩んでいると、妹がふっと視線を外した。何とはなしに、妹が視線を外した方を僕も見る。それは、リビングのテーブルの方だった。
 そのテーブルの前には、一つの大きなソファが置かれている。そこに、母が座っていた。母は、テーブルの上を見つめている、ように見えた。――そこには、今朝も抱えていたあの写真が置かれていた。
「母さん、また、そんなの……」
 言いながら、僕は母の方へ近づく。母の視線を追うと、テーブルの上の写真が目に入る。黒い衣に身を覆い、無表情とも思えるような目つきをカメラに向けている。その写真の中の目を、真剣な様子で見つめている母。
 ――これを半年も続けているのを見る方の気持ちにもなって欲しい。
「なあ、母さん……」
「今日ね」
 僕の言葉が聞こえているのかいないのか、母さんが口を開く。
「今日ね、一緒にご飯を食べたときの顔が、とても可愛らしかったの。とてもおいしいって、そう言ってくれた。とても嬉しかったのよ」
 ――何を。
「また一緒に、行きたいところが出来ちゃった。お昼にね、テレビでやってたんだけど、ひまわりがとても綺麗なんだって」
 ――何を言ってるんだ。
「今日は、夕方からずっとソファで寝ちゃってたの。その寝顔でとても可愛くって、つんつんしたくなっちゃった」
「母さん!」
 思わず、大声を出してしまう。こんなのを毎日毎日見せられて、僕が正気でいる方がおかしいのか。こんな状況で正気を保っていると思えている僕の心は、本当に正気なのだろうか。
 ――なるほど確かに、大学で彼が言っていた。確かに今の僕に、元気がある要素はないのかもしれない。
「母さん、もう、死んだんだよ……!」
 絞り出すように、声を出す。
「何を、言ってるの?」
「死んだんだよ、もう! 半年も前に!」
「ねえちょっと……大丈夫?」
 さも心配そうな目で、母が僕を見つめてくる。その目には一点の曇りもなくて、それが却って僕の胸を締め付けた。
「ねえ、何かあったなら母さんに……」
「認めろよ! もう、死んだんだ! この家にはもういないんだよ!」
 崩れ落ちるかのように、僕は力なくその場に座り込んだ。そんな僕の目の前で、母はただ驚愕の表情を浮かべているだけだった。
「ね、ねえ、聞いて……」
「母さんだって、見ただろ、死んでるの!」
 あの光景は、今では思い出したくない。母が静かに泣いている横で、妹がぐずっていて。その二人の温度差に、僕は恐ろしさすら感じた。もちろん、妹に関してはその態度は仕方ないのだと、理性ではわかっていたのだが。
「ま、まさか……嘘……!」
 母が両手で顔を覆う。僕は先ほどの言葉を後悔した。あの光景は、今の母のバランスを崩すには十分だったかもしれないから。
「ごめん……ごめんね」
 そのまま、母は何も言わずにリビングを出て、階段を駆け上がっていった。目尻から、僅かに雫が零れ出ているようにも見えた。
「あー、まーごにーにのってうー!」
 リビングには、妹の無邪気な声だけが響いた。

   4

 その後、母は十時になっても下には降りてこなかった。僕も、二階に上がる気力が出ず、だらだらとリビングで過ごしてしまった。
 結局、十時から何十分か経った頃に母は降りてきた。正確な時間は分からない。僕が時計を見ることをしなかったからだ。母が二階に上がってから降りてくるまでに、妹はリビングのソファで三回昼寝をした。それぞれの睡眠時間は非常に短かった。
 母はキッチンに入って無言で夕飯の準備をした。本来は僕は手伝うべきなのだろうが、その気力は起きなかった。母も何も言ってこなかったので、結局僕はリビングでだらだらし続けた。
「できたよ、夜ご飯……」
 極めて控えめなボリュームの母の声が、その部屋に広がる。一番に反応したのは、妹だった。
「ごはんー!」
 あんな元気があればいいよな、と思いながら僕も立ち上がる。ダイニングテーブルの方を見ると、そこには確かに料理が盛られた器や皿が並んでいたが、飲み物が入ったコップは無かった。自分でやるか、とキッチンに入り、冷蔵庫から麦茶のペットボトルと、食器棚から適当なコップを取り出し、注ぐ。その時、ガスコンロの脇に刺身の写真がパッケージの箱が置かれているのが見えたが、それを見なかったことにしてダイニングテーブルに戻る。
 その後すぐに食事は始まったが、誰も何も喋らない、無言で冷たいものだった。あれほどはしゃいでいた妹も、いざ食べるとなると黙々と食べる性格なので、本当に言葉のないものになってしまった。
 その雰囲気に堪えられず、僕は何でもいいからと話題を探して声を出した。
「実はさ、最近何故か分からないけど、ドアをくぐると肩が凝るっていうよく分かんない凝り方をしててさ……」
 母はさして興味を示していない様子だった。興味を示したのは、予想外の方だった。
「にー、かたいたいたいなのー?」
 妹が、口の周りを汚しながら僕に尋ねてくる。僕は慌ててティッシュを取り出し、妹の口の周りをごしごしと拭く。
「そうなんだ、最近、突然ね」
 僕の怒涛のティッシュによる掃除が終わり、口が解放された妹は、僕の肩の話題に対する返事ではなく、先ほどの僕の行動に対する抗議の声を上げた。
「わーうー、にー、いたいー」
「口の周りが汚れてたから、拭いたんだよ」
「そっか、あいがとー」
 そう言うと、妹はフォークを握る。またすぐに汚れるな、と思っていたら、妹の目線は料理ではなく、僕の首元へと向かっていた。
「ん、どうしたの?」
 妹は僕の問いかけを気にかけずに、僕の首元へと目線を向けたまま、続けて言葉を口にした。
「んー、まーごもたべうのー?」
 その言葉を聞いた瞬間、母が箸を床へと落とした。見ると、左手に茶碗を持ったまま、固まっている。
「まーご、にーにのうのがいーのー?」
 そんな母の変化に気付くこともなく、妹は言葉を続けた。その時、母ががんっと勢いよく茶碗をテーブルに置くと、つかつかと僕と妹の方へ近づいてきた。その顔には、驚愕と、不安とが入り混じったような、表情とも呼べない「モノ」が浮かんでいるように見えた。よく僕の首元を観察した母は、その場で携帯からどこかへ電話をかけ、二言三言交わすと電話を切った。
 そうして、僕と妹の手首をそれぞれ掴む。
「え、ちょっ……母さん?」
「行きましょう」
「え、行くって、どこに?」
「神社」
「……は?」
「いいから」
 そう言って、有無を言わせない様子で母は僕と妹を引き連れ、食べている途中の夕飯を片付けることもせず、玄関へ向かわせられた。
 急いで靴を履き、外へ出る。がちゃりと母が勢いよく玄関のドアを閉める。
 ――刹那、今までには考えられないほどの痛みが僕の肩を襲った。
「急ぎましょう」
 そう言った母と、状況をまるで分っていない僕と妹とで、車に乗り込む。急ぎましょうと言った母の目が、理性的で、後悔と焦りが混じっているように見えたのが印象的だった。
 神社へはすぐに着いた。元々距離が近いのもあったが、何よりも母がかなりスピードを出して運転したのが大きいだろう。
 神社に着くと、すぐに中から神主さんが出てきた。僕を一瞥した後、彼は僕の母に寄ってきた。
「なるほど、これは確かに悪い。なぜここまで放っておいたのです」
「すみません、本当にすみません……!」
「まあ、いいです。君、来なさい」
 有無を言わせない表情で、神主さんが僕を拝殿の中へ迎える。僕が入ると、そのすぐ後ろで神主さんが扉を閉める。やはり、肩が少し痛んだ。
 何が何やら分からないが、僕は拝殿の中の部屋の中央に座らせられた。すると、神主さんがお祓いで使うような、白いふわふわした紙がついた棒状のものを持ってきて、それを僕の頭の上で二、三度振った。その後、何やら唱え始めた。
「いっ、痛っ……!」
「どうも、抵抗力があるとは。驚きだ。だが、それだけだ。安心しなさい、私に任せていればすぐにでも終わらせよう」
 言いながら、神主さんはさらに何か唱える。途中、何度か白い棒を頭の上で振る。神主さんが唱えれば唱えるほど、白い棒を振れば振るほど、僕の肩の痛みが増していくように思えた。
「いっ、うっ、ああっ……!」
 何度目かの呻き声を僕が発した時、母の叫び声が外から聞こえてきた。
「あなたはもうこの世にいちゃいけないのよ! 目の前で苦しんでるのが、見えないのっ!?」
 その声が僕の耳に聞こえてきた時、ふっと肩の痛みが和らいだ、気がした。それに続けて、神主さんも、静かに声を出す。
「ふむ。確かに、抵抗すればするほど、彼が苦しむのは目に見えている。あなたにまだ彼を思う気持ちがあるなら、すぐにでも止めなさい。そして、居るべき場所へ還るのです」
 その言葉が響いたとき、僕の心がふっと軽くなり、肩の痛みがゆっくりと消え、同時に僕の意識も霧散した。

   5

「お、おーい」
 夕方の太陽がじりじりと道路を照らす大学からの帰り道、背後から声をかけられる。振り向くと、声をかけてきたのは同じサークルに所属する、昨日昼飯を一緒に食べた彼だった。
「お、うぃーっす」
「……お?」
 何やら、彼が好奇心の目線を向けてきた。
「何か、いいことあった?」
 その後に彼が続けた言葉の意味は全く分からなかったが。
「え、は? どこを見てそう思った?」
「ああ、いや……何となく、なんだけどな。あ、コンビニ行っていい?」
「え、あ、おう」
 脈絡なさ過ぎんだろ、と思いながらも、彼に続いてコンビニに入る。入った後、僕のすぐ後ろで自動ドアがピシャリと閉まった。
「……えっと、大丈夫?」
 入口のすぐ傍にいた彼が、心配そうに僕に言う。
「え、何が?」
「いや、ドアくぐると肩があれなんだろ?」
「え、あー……そういえば、何もなかったな、今」
 言われてそのことに気付いたくらいだ。今日一日普通に生活してきたが、ドアをくぐっても肩に痛みを感じていない。
「な、何も……? ということはお前、半年も続いたそれから、遂に解放されたのか!」
「い、いや、解放って……」
 別に僕は囚われてもいないぞ、とは言えなかった。彼もきっと、心配してくれてたんだな。
「あ、半年っていえばさ……」
 その無邪気なままの表情で、彼は僕に尋ねる。
「半年ぶりに、お前ん家行ってもいい?」
「え、今から? 何で?」
「いや、別に今からじゃなくていいんだけどさ……」
 その無邪気なままの表情で、彼は続ける。
「お前ん家で飼ってる、お前によく懐いてたあの黒猫に会いたいなあって思って。何だっけ名前、みゃーご、だっけ? 面白い名前だよなあ、いつ聞いても」
 そのみゃーごってのを提案したのはお前だろ、と言い放つ気力は無かった。
 外を見ると、大分昔に昇った太陽が、沈んでゆく途中で、光を、光を――。

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

黒い檻

「失恋した、慰めてくれ」
 私は向かいの席でジョッキを傾ける坂口に、開口一番そう切り出した。坂口は「またですか」とでも言いたげな顔をしてこちらを見たが、渋々ジョッキを置いて、やはり「またですか」と言った。
「それで今度はどんな美人に一目ぼれしたんです? この前はイオンのカード販売の店員で、その前は保険の勧誘に来たセールスでしたよね。今度は宗教の勧誘にでも引っかかりましたか、畑山さん」
「今回はちゃんと、何も売り込んでこない女性だ。俺だって成長してる。」
 「本当ですかね」と苦笑するこの坂口は、私の大学時代の後輩であり、現役の小説家でもある。学生時代は大変お世話したり、あるいはされたりした間柄だ。割合としては3:7、……いや2:8くらいだったかもしれないが、今でも関係が続く旧知の友と言えるだろう。口が悪いのが難点ではあったが、急に呼び出しても付き合ってくれる暇人はコイツくらいしかいない。という訳で今日も、俺は失恋の愚痴を聞いてもらうため。そして何より”ある相談“をするために、公務員にとっては全然プレミアムじゃない金曜の夜を消費していた。
「それで、今度は何と言って振られたんです」
「今回は振られたわけじゃない、というか告白すらしていない。―気持ちを伝える前に、彼女は亡くなったんだ」
 俺がそう言うと、坂口は一瞬目を見開いた後、「それはそれは」と体を前へと―つまりこちら側へと傾ける。こちらの話に興味を持ってくれたらしい。優男風の顔立ちの中で唯一、妙な迫力を持った目が急にらんらんと輝きだした。
「人死の話を私にするということは、今回はただ愚痴を言いに来た訳ではないようですね」
「ああ」
 俺はそう首肯して、今回俺が遭遇した奇妙な事件について、始めから語りだした。

×××

 勘の良い人はお気づきかもしれないが、俺こと畑山義夫の職業は警察官、英語で言うならポリスメンである。フェミニストに配慮すればポリスウーメン&メンになるのかもしれないが、俺は身も心も男性なのでその辺はご容赦いただきたい。
 金曜の夜がプレミアムじゃないのは、警察官である俺にプレミアムフライデーが存在しないからであり、坂口が人死にことさら反応したのもまた、警察官である俺が言いだしたからに他ならない。そして今回俺が扱うことになった事件は、実に奇妙なものだったのだ。
「亡くなったのは、一年前から大通りでカフェを営む若い女性だ。名前は森谷仁美(もりや・ひとみ)。年齢は27歳、色白でおしとやかな綺麗な子だった……うう、なんでこんなことに……」
「感傷にひたるのは後で結構ですから、さっさと概要を話してください」
 枝豆を黄金色の液体で流し込みながらせかす坂口に、内心「こっちは傷心なんだぞ」とムカつきながら続ける。
「死因はガスを出しっぱなしにしたことによる中毒死だ。死亡推定時刻は閉店から一時間以内。彼女の店―ノワールと言う―は夜バーとして営業もしてるんだが、昨日の朝店に来た客が店に入ると、ひどいガス臭の中倒れ伏している彼女を見つけた、という訳だ」
「客が店に入った、と言うことは、入り口は既に空いていたのですね?」
「ああ、彼女の店は通りに面した一階にあるんだが、入口の自動ドアは電源が入ったまま、鍵もかかってなかった。最初の客は普通に入店している。森谷さんに目立った外傷もないし、店内に争った形跡もない。体内からはそれなりのアルコールが検出されたが、客の話じゃ付き合いで何時間もお酒を飲んでいたらしい彼女が、酔いつぶれるほどの量じゃない。他に薬物の反応もない。すると彼女はいつでも店から出ていけたことになるから、この件は普通に考えれば自殺ということになるんだが。遺書も発見されていないし、どうも違和感がなぁ……」
「なにか他殺を疑わせる証拠でもあったのですか? 彼女が自殺するはずがない、というのはやめてくださいね。それは根拠としては弱い」
 そう尋ねた坂口は次の瞬間、通りかかった店員に「おねぇさん、刺身盛り合わせ追加で」と注文する。どうやら興味を失いつつあるらしい。俺は慌てて、この事件の妙な部分を説明した。
「実は彼女の店には裏口があるんだが、そっちは荷物で塞がってて、女性一人じゃすぐには開けられないようになってるんだ。なのに現場には、その開かない裏口の方を開けようとした形跡がある。しかもそうとう必死にな」
 俺がそこまで言うと、坂口はようやく俺の言わんとするところを了解したらしい。刺身のツマをつついていた箸を止めて、口の端を歪めながらこう言った。
「つまり彼女は、ガスが充満した部屋の中で空いているはずの自動ドアには見向きもせずに、開けられない裏口から必死に出ようとしていた、という訳ですね」

×××

「なるほどなるほど、それは中々面白い事件です。いや、今のとこ単なる自殺扱いなんでしたっけ?」
「ああ、だがにはそうとは思えない。何か思いついたことは無いか」
「容疑者はいるんですか? そもそも他殺だとして、彼女の目を盗んでガスを開けっ放しにできるような人間がいたんですか」
「それについては問題ない。閉店二時間前ほどに森谷さんは体調不良を訴えて、しばらくソファーで寝込んでいたらしい。そのとき店には三人の客がいたが、トイレや電話の外出でそれぞれ一人になる時間があったそうだ。寝ている森谷さんの目を盗んで厨房に忍び込むくらいの時間はあっただろうな。閉店時間間際に彼女が起きて来たから、三人で同時に店を出たと証言してる」
「その三人の情報について教えてください」
 コイツ、あっさり捜査情報を要求しやがって。しかし他に縋るあてもない俺は、手元のスマートホンを起動し写真を表示する。……警官としては問題行動だが許してほしい。この中ににっくき殺人犯がいるかもしれないのだ。坂口はまず画面に表示された、好々爺然とした老人を見て、「この方は?」と説明を促す。
「この人は事件の直前まで店にいて、なおかつ第一発見者でもある。名前は大引健次郎(おおびき・けんじろう)、年齢は75歳、元トラック運転手だ。彼は散歩が趣味で、朝晩に店によって森谷さんと世間話をするのが日課だった。当日の朝もそのつもりで店に来て、変わり果てた彼女を発見したということらしい。真夜中にこっそり家を出たって可能性もあるが、この歳の老人が夜中歩いてるのは不自然だし聞き込みをすればすぐに分かる。気の良いおじいさんだし、彼女のことを孫娘みたいに可愛がってたから、まぁ容疑者から除外してもいいだろう。」
「そうとは限りませんが、まあいいでしょう」
 一言釘は刺したものの、坂口も大引氏に引っかかる点は無かったらしい。続けて画面をフリックすると、黒いタートルネックをおしゃれに着こなしたナイスミドルが表れる。
「こいつは黒田吉春(くろだ・よしはる)38歳。新進気鋭のベンチャー会社社長だ。昼間っから夜まで店にたむろしてる暇人だが、森谷さんと会話してるとこは俺の知る限り見たことが無い。事件当日は会社に泊まり込んだと言ってるが証明する人はいない。こいつが犯人に違いない、絶対」
「えらく突っかかりますけど、何か因縁が?」
「別に。金持ちで顔の良いやつは嫌いなだけだ」
 やれやれと首を振る坂口を無視して、最後の写真を画面に表示する。そこに映っていたのは、なんてことない平凡な男だ。
「彼は仙草彰(せんそう・あきら)30歳。近くの機械産業系の会社で働く、ごく平凡なサラリーマンだな。週に三、四回、昼休憩に店に来ていたようだ。森谷さんとは雑談するくらいの仲だが、事件前日は珍しく夜に店に来ていたらしい。常連といえばこんなものだな」
 そこまで聞くと、坂口は箸でグラスをチーン、チーンと叩きながらしばらく考えた後、「大引さんの証言に疑問があります」と切り出した。
「大引さんは店に入店したあと、店員の女性を発見したとおっしゃっていましたが、透明な自動ドア越しに店の中は見られたのではないですか??」
「ああ、店の様子について全然説明してなかったな。ノワールの自動ドアは透明なやつじゃなくて、黒くて結構分厚いやつなんだよ。もっと言えば店自体『黒』をテーマにしてるらしくて、『ノワール』の名前の通り内装も一面黒。森谷さんも黒い服を良く着てたし、体調が悪かったからって御遺体は黒いマスクまでしてた。よっぽど黒い色が好きだったんだろうなぁ」
「え? 通りに面してるのに中が見えないんですか、その店」
「森谷さんは「たくさんの視線に耐えられないから」と言ってたな。実際、店主が美人でコーヒーも料理もおいしいから、隠れた名店としてそこそこ人気はあったはずだぞ。口さがない連中は『邪神召喚の黒魔術でもやってんじゃないか』なんて言ってたけどな」
 そこまで言ってふと坂口を見ると、その目が明後日の方を向いているのに気づく。どうやら店の入り口の方を熱心に見ているらしい。なにか面白いことでもあるのかと思ったが、サラリーマンの一団が入口で立ち往生しているだけだ。酔っているせいか中々店から出て行こうとしない中年オヤジを、レジに立った女の子が面倒そうに見つめていた。客が帰るまではレジを発てないが、忙しい時間帯だけに待ちぼうけも困る、と言ったところだろうか。
「まったく弱いなら飲むなっての。なあ坂口」
「畑山さん、三つ質問してもいいですか?」
 すると唐突に、真剣な顔をした坂口がこちらを向く。思わず「ああ」とうなずいた俺に、坂口は奇妙な質問をしたのだった。
「まず一つ。森谷さんは良く客に付き合って酒を飲んでいたと言いますが、その種類は分かりますか?」
 彼女の好みの酒が事件とどう関係するのか、俺にはまるで見当がつかなかったが、何とか記憶を呼び起こす。
「……種類って言っても、ほとんどビールだったと思うぞ。ノワールはあくまでカフェだし、酒は有名なやつが十数種類くらいしか置いてないからな。そういえば綺麗なカクテルとかは飲んでるの見たこと無いな」
「ビールの銘柄は分かりませんか? 缶から入れていたならその色は?」
「色って言われても……そういえば、緑色のラベルだった気がするな。てっきりビールもサッポロ”黒”を飲んでるのかと思ったから、良く覚えてる」
「では二つ目です。ノワールのドアの前にあるマットは、やはり黒い色をしているんですか?」
「うん? そりゃそうだ。真っ黒の中に赤とか緑のマットがあったら変だろ」
 そこまで言うと坂口は、ニヤリとその口を歪めて、自信満々にこういったのだ。
「分かりましたよ畑山さん、この事件の真相が」

×××

「分かった⁉ 分かったってどういうことだ!」
「まあまあ落ち着いて。しゃべり通しで疲れたでしょう、ビールでも飲んだらどうです?」
 しゃべりすぎて喉が痛くなっていたのは事実なので、ジョッキ半分ほどのそれを一気に飲み干す。向かいの坂口もグラスを飲み干すと、「店員さん、同じもの、缶のままいただけます?」と妙な注文をした。
「缶のまま頼む必要あるのか?」
「まあ後になったら分かりますよ。それより今は僕の推理を聞いてください、多分正解ですから」
 そう自信満々に告げる坂口を前に、俺も自然と居住まいをただす。実際、持ち込んだ事件を解決してくれたことも一度や二度ではない。今回もきっと謎を解き明かしてくれるだろうと、俺は期待して彼を見つめる。それを受けて坂口は、酔いの回ったような口調で滔々と語りだした。
「まず今回の事件は自殺ではない、ということを前提にします。すると疑問が一つ。何故森谷さんは、近づけば勝手に開くはずの自動ドアから出ずに、荷物で塞がれた裏口から出ようとしたのか、という点です。もし彼女が自殺するつもりだったのなら分かりますが、寸前で思いとどまったとしてもやはり自動ドアを通って出ればいい。そもそも最初から死ぬつもりの人間が、いくら店を閉めた後とはいえ、自動ドアをいつでも開く状態にしておく理由がない。通りがかった人に自動ドアが反応して店内が換気されたり、そのまま助け出されてたりしてしまう可能性もありますからね」
 確かに、と俺は納得する。ガス自殺なんていう時間のかかる手段に訴えたにしては、彼女の作り上げた閉鎖空間はあまりに中途半端だ。
「であるならばこれは、何者かが故意に彼女を店に閉じ込めたということになりませんか?」
「閉じ込めるったって、彼女は何時でも店を出られたはずだろ? 深夜でも人通りが絶えるってことは無いし、ドアを完全に固定するような細工がしてあれば誰か不自然に思うんじゃないか?」
 少なくとも近隣の住民が彼女の死亡推定時刻周辺で、店に不自然なことは無かったと証言している。坂口の言ってることは、現実的にありえそうもない。
「別に人を閉じ込めるのに、つっかえ棒や鎖は必要ありません。犯人はおそらくですが、色を利用したんでしょう」
「色?」
 いきなり出て来たワードに疑問符を浮かべる俺をよそに、坂口は勝手に話を進めていく。
「坂口さんは自動ドアの仕組みをご存知ですか?」
「なんかセンサー的なもので、あの、こう上手いことやってるんだろ」
 そんなもの知るわけがない。こちとら物理学を高校で諦めた人間だ。でなきゃ安月給の公務員なんてやっていない。
「センサーと言っても色々ありますが、今の自動ドアについてるのは大抵、光に反応するセンサーです。その仕組みは単純で、センサーの感知圏内の光の反射の変化によって、人や物が通るのを検知しています。例えば白い床とセンサーの間に赤いものが入ってくると、センサーに帰ってくる光の波長は白から赤のもへと変わります。センサーはこれに反応してドアを開けるんです」
「へえぇ」
 最近の技術がすごいのは良くわかったが、それが今回の件とどう関係するのだろうか。そんな俺の疑問を見て取ったのか、「例えばですね」と指をたてる。
「畑山さんも経験がありませんか? なぜか自分には反応しない自動ドア。前の人について行ったらいつも挟まれるポイントとか。さっきのサラリーマンも中々反応せずに、入口で立ち往生してましたよね? なぜこんなことが起きるかと言えば、センサーが普段観測している色と進入してきた物の色が近い場合、色の変化を読み取れないからなんです。ここで森谷さんについて考えてみましょう。自動ドアのセンサーの真下には黒いマットがしいてあり、店の内装も全て黒色。そして彼女は黒づくめ、顔には黒いマスクまでつけていた」
「……え? ……おい、もしかしてお前……」
 ここまで来て俺はようやく、坂口が何を言いたいのかをうっすらと理解した。しかしそれが真相だとしたら、それはあまりにも……。
 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、坂口はその結論を、はっきりと口に出した。
「森谷さんは、自動ドアが反応しなかったから死んだのではないか。僕はそう思うんですが、いかがでしょう?」

×××

 俺はその結論を聞き、一瞬考えこんで―次の瞬間盛大に噴き出した。
「ぶふっ、おま、お前それは、さすがにないだろ。ひっひひ、ひい、お腹痛い」
 急に笑い出した俺を不気味そうに見ながら、店員がさっき注文したビールの缶を持ってくる。笑われた坂口はすました顔でそれを受け取ると、未だ笑い続ける俺に静かに問いかけた。
「何かおかしいところでも?」
「そりゃそうだ! 仮に自動ドアが反応し辛かったとしても、彼女はあの店を一年もやってるんだぞ。そんなの最初っから承知してたはずだ。それでパニックになったりはしないだろ」
「それはそうかもしれません。でも逆に彼女が店のオーナーだからこそ、そのことを意識できなかった可能性もある」
「どういうことだ?」
 その疑問にすぐに答えず、坂口は「畑山さん、飲食店でアルバイトした経験ありますか?」と尋ねてくる。俺は学生時代、もっぱら力作業のガテン系ばかりしていたので、接客業の経験はほとんどない。精々が大学の出店くらいだろうか。そのことを言うと、坂口は例のニヤリとした笑みを浮かべてこう説明した。
「では店のオープン作業を想像してください。森谷さんのカフェの場合、裏口は普段から塞がってるので表から入ることになります。この時自動ドアの電源は切れていますから、外鍵を解除した後手動で開き、その後店の内側にあるセンサーのスイッチを付けます。スイッチが内側にあるのは当然ですよね。この時点で彼女はセンサーによる開け閉めを経験していません。さらに一人で営業してますから、多少休憩のために奥に引っ込むことはあっても、店の表から出ていくことは滅多に無いんじゃないかと思います」
「言われてみれば確かに……。でもそれなら閉店するときはどうだ? まず店内のセンサーのスイッチを切るわけだから、そこでドアが反応しにくいことに気付けたんじゃないか」
「そうとも限らないですよ。だって想像してみてください。そう大柄でもない女性が、高い位置にあるスイッチを押そうとしたらどうします。こんな風に、額の当たりをぐっとセンサーに近づけることになりませんか。そうすれば肌色の顔の部分がセンサーに肉薄しますから、ドアは問題なく開くはずです」
 そう言って坂口は、上に翳した手に向かって自分のおでこをぐぐっと近づける。確かに、スイッチがセンサーのすぐ横についている関係上、操作しようとすれば顔に反応するだろう。
 それでもやはり、かなり無理のある推論だと言わざるをえない。一年もの間、彼女が普通にドアを通ろうとして、うまく反応しなかったことも当然何度もあっただろう。自分の服装と店の内装の相乗効果について理解していたかはともかく、「私には反応しづらいな」くらいは感じていたはずだ。ただ自動ドアが開かなかったからと言って、錯乱して裏口をこじ開けようとするとは考えにくい。
「坂口、お前の推理は面白いし見るべき点があると思うが、あまりにも荒唐無稽すぎる」
「そうですね。彼女がまともな状態なら、冷静にセンサーの反応を試したり、力づくでドアをこじ開けることもできたかもしれません。まともな状態なら、ね」
 そう思わせぶりに言うと、坂口は先ほど運ばれて来た缶のプルタブを引く。プシュッと気持ちのいい音が鳴って、黄金色の液体がグラスの中に注ぎ込まれて行く。しかし俺の目線はグラスではなく、その缶の方に釘付けになっていた。缶の表面には、緑色のラベルが……。
 そこで俺はようやく理解した。坂口がなぜあれほど、森谷さんの飲んでいた酒を聞きたがったのか。
「まさか、彼女は……」
「ええ、おそらく間違いないでしょう。もう少しで店を閉めるという時間に、客に付き合ってわざわざノンアルコールビールを飲んでいたとしたら、彼女は相当酒に弱い。なのに体内からはアルコールが出たとしたら、事件当夜の彼女は一体、どんな状態だったでんしょうか?」

×××

「つまり事件当夜、彼女は酔っ払っていたというのか!」
「ええ、しかも泥酔に近かったはずです。僕らみたいな酒に弱い人は、少量でも分解できず影響をモロに受けますから」
 そこまで喋ると坂口は、グラスに継いだキリンフリーを旨そうに呷る。それから口元をお絞りで拭って、推理の続きを語りだした。
「事件当夜の犯人の行動はこうです。犯人は森谷さんを酒に付き合わせ、酔わせて眠らせようとした。しかし彼女はいつものように、アルコールフリー飲料を飲みだした。困った犯人は彼女の目を盗み、飲み物の中に相当濃いアルコールを混入した。それを飲んだ森谷さんはアルコール中毒で体調を崩し寝込んだ。おそらく犯人はもっと飲ませて眠らせるつもりだったでしょうが、体調不良で勝手に寝てくれたのはラッキーでしたね。その後一人になったタイミングで厨房に侵入、ガスを開けた後何食わぬ顔で店を後にした。森谷さんは閉店間際に一旦持ち直したものの、ガスの充満に気付いた時には泥酔状態になってしまっていた。何とか脱出しようとした彼女は、反応しない自動ドアを前に冷静さを失いそのまま……」
 そこまで語り終えると、坂口はふぅと息をつく。そんな彼を前に俺は、坂口の推理力に改めて舌を巻く。荒唐無稽に見えて筋は通っている。しかしだとすると…。
「その犯人とはいったい誰だ? どいつなんだ!」
「そうですね。ここからは消去法になりますが、まず大引さんは無いでしょう。お歳がお歳だし、職業も機械工学とは縁遠い。あの店の自動ドアの仕組みに詳しいとは思えない」
「それはそうだろうな」
「残りの二人ですが、ここで問題になるのは森谷さんの酒の強さを知っていたかです。例えば彼女が酒に弱いことは、夜も来ていた常連なら知っていた可能性が高い。だとしたら、閉店から二時間も前にあれだけの量を飲ませてしまうのはまずいと分かるはずです。彼女が体調を崩して「今日はもう帰って下さい」と言われてしまえば、計画を実行するタイミングがふいになりますから」
 なるほど。ガスを出すのが閉店間際でないと、後から来た客も巻き込んでしまう。普通の客は自動ドアをくぐれるから、そうなれば計画は失敗だ。だとすれば犯人は……。
「ええ。黒田は昼から夜まで入り浸っていたと言いますし、森谷さんがお酒を飲めないことを知らないはずがない。だとすれば―犯人は、普段は昼にしか来ない仙草の方です。彼は機械メーカーの会社員ですから、自動ドアの仕組みについても詳しかったでしょう」
 そこまで語り終えて、坂口はソファー席の背もたれにゆっくりと背を預ける。それから店員に「お愛想で」と告げると、グラスの残りを一気に飲み干した。俺もまた彼の推理を咀嚼しながら、おそらくそれが真相だろうと確信していた。しかしまだ一つ、分かっていないことがある。
「お前の推理は筋が通っていると思う。しかしその場合動機は一体なんだ? 仙草に森谷さんを殺すほどの動機があるのか?」
「ここからは完全な想像になりますが、おそらく殺害する意図は無かったはずです」
「なに?」
 殺害の意図はない。意外な言葉に驚く俺に坂口は続ける。
「なにせこの計画は穴が多い。森谷さんの酔いが十分でなかったり、センサーが運よく反応すれば終わりです。外の人が気づいてくれる可能性もあったし、泥酔していなければ彼女は助かっていた。本気で殺そうとするなら、確実な方法は他にいくらでもあります。仙草も最初から、ちょっと脅かしてやろうくらいの気持ちだったはずです」
「だからその動機は? 結局森谷さんに悪意があったのだろう」
「行き過ぎた嫉妬心からの警告、ではないでしょうか」
「嫉妬心? 警告? 何んのことだ?」
「……畑山さん、まだ分からないんですか。というより、畑山さんなら理解できると思ったんですが」
 心底呆れた顔をする坂口だが、そう言われても何が何やら分からない。「本当に気づいてなかったのか」と小さく呟いて、坂口は衝撃的な一言を口にした。
「つまりですね。―黒田と愛人関係にあった森谷さんに、『これ以上黒田と親しくするな』と、そう言いたかったんですよ」

×××

「そもそもあんなに若い女性がカフェを経営してる時点で、パトロンがいたのは明白です。それが黒田氏だとすれば辻妻が合う。あの黒一色の店も案外、「黒田の黒」にあやかっただけかもしれません。森谷さんは若くて美人なので、店に来ていた男連中の多くは彼女にあこがれていた。そんな一人だった仙草は、おそらく二人の関係を確信する現場を目の当たりにしたのでしょう。それがきっかけとなったのか、元から思いつめやすい性質だったのかは分かりませんが、仙草の恋心は暴走した。彼は黒田に夢中の森谷さんにお灸をすえるべく、彼女をガスの中へと閉じ込めた。もちろん先ほど言った通り、少し怖い思いをさせるだけのつもりだったのでしょうが……どうかしましたか?」
「まさか森谷さんが黒田とデキてたなんて、そんな……」
 正直そんな情報知りたくなかった。何も知らなきゃ美しい恋で終われたのに、既に誰かのものだったなんて。一人打ちひしがれる俺を尻目に、椅子から立ち上がる坂口。何とかショックから立ち直った俺はふと、最後に浮かんだ疑問をぶつけた。
「おい坂口。動機もたぶんお前の言った通りなんだろうが、結局怖がらせるだけなら他に方法があるだろ? なぜ仙草はこんな、色を使ったトリックを考えたんだろう」
「……そりゃわかり切ったことでしょう」
 自動ドアへと足を進めながら、坂口は振り向きつつ、
「黒い色のせいで死にかければ、”黒”田も嫌いになるかもしれませんから。作家的にまとめるなら、「嫉妬の黒い檻に囚われていたのは、犯人の方だったのかもしれない」ってとこですかね」
 そんなキザな台詞を残して、坂口は去っていく。それを聞いて俺は、色んな意味で下らなすぎるこの事件の真相に、深々とため息をついたのだった。
 飲み代を貰ってないことに気がついたのは、それからしばらくたった後だったのだが〈終〉

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

アイスグリーン

「やすにしろこ! お祖母ちゃんの名前、やすにしろこっていうんだね。今初めて知った。下の名前『ろこ』なんて可愛い!」
 祖母の病室の前のネームプレートを指差し、従妹の佳奈が声をあげた。知っている漢字の増えてきた佳奈は、大好きな祖母の名前を読めるようになったのが嬉しくて仕方ないようで、ピョンピョンはねながらやすにしろこ、と連呼している。一人娘を溺愛する伯母と伯父がその様子に微笑むだけで何も言おうとしないので、かわりに僕が訂正してやった。
「『あんざいみちこ』だよ。お祖母ちゃんの名前。安西路子」
 
 
 祖母のいる病室は一人部屋で、ベッドと棚が備え付けられていた。僕の思っていたより広く、伯母、伯父、従妹、父、僕の五人が入ってもまだゆとりがあった。
「あらいらっしゃい」
 祖母が横になったまま首だけ動かし、挨拶する僕らを見た。
「どうしたの? 今日はこんなに大勢で」
「この前来た時言ったでしょ。夏休みに入って予定が合ったから久しぶりに皆で来るって。それに多いっていっても五人でしょ」
 伯母が祖母の腰と脇のあたりに手を入れ、寝返りを打たせた。
「でもいつもは紗栄子、あんた一人じゃない。旦那さんにも佳奈ちゃんにも健一にも直人君にも、もうずっと会ってなかったわ」
「じゃ、今日たっぷり顔見ときなよ」
 食事制限や水を換える手間を考え、僕らは果物や花などのお見舞い品を持たずに来ていた。何となく手持ち無沙汰に思っていると、祖母が僕と佳奈を呼んだ。
「二人とも、知らないうちにずいぶん大きくなって。今何年生?」
「二年生!」
「高二です」
「そう。学校は違えども二人とも二年生なのね」
 そこで祖母は話題をさがすように黙った。僕が何も言い出せずにいると、少しの沈黙の後佳奈が先ほどネームプレートの名前を読み間違えた話を始めた。
 するとその時病室のドアをノックする音がして、一人の看護師が顔を出した。主治医が祖母の病状の説明をするから来てほしいとのことだった。
 僕もついていこうとしたが、佳奈を見ているよう言われ、仕方なく三人が看護師に連れられて行くのを見送った。
 三人だけになってしまった病室は寒々しく、二、三度室温が下がったように感じた。佳奈がマシンガンのように次々と繰り出す話に僕の入る隙間はなく、僕は壁際でぼんやりと従妹と祖母を眺めていた。
 不意に佳奈が振り返った。
「ねえ」
「な、何?」
 思わず身構える。
「ちょっと一旦外出ててくれない?」
「なんで」
「お祖母ちゃんと二人きりで語り合いたいの。ガールズトーク」
 突然の要求に頭が追いついたのは、半ば追い出される形で病室を出た後だった。他にどうしようもなくドアのすぐ横の壁に背を預け、いましがた目にした祖母の姿を反芻する。表情こそ穏やかだが痩せ細った体。
 祖父が亡くなったのは五年前。その時、すでに僕の父と伯母は家を出ており、祖母は祖父と暮らした家に一人住み続けた。そんな祖母に乳がんの診断が下ったのが二年前。早期発見のおかげで小さな手術で済んだが、祖母はこれをいい機会にと退院後、施設に入所した。そこで祖母は再びがんの見つかる一ヶ月ほど前まで、のんびりと日々を過ごしていた。
 今のがんは乳がんが再発したものではないらしいが、詳しいことは聞いていない。僕の知っていることといえば、年齢のせいもあって祖母がもう長くないことくらいだった。
 だからといって、それ以上説明を求める気にはならない。
 佳奈と祖母の密談は大いに盛り上がっているようで、佳奈の甲高い声が意味をなさない音として途切れ途切れに流れてくる。僕は天井を見上げた。
 僕は祖母のことが苦手だった。
 僕が小さいころ、祖母は会うたびに祖父との思い出話や自作らしいおとぎ話をしてきた。祖母の話術の巧みさに僕も最初は夢中になって聞いたが、いつも代わり映えしない内容なので、そのうち飽きてしまった。
 一度興味を失うと、自分にはそれしかないのだと言わんばかりに同じ話を繰り返す祖母がひどく不気味に思えた。思い出話と言えば祖父との新婚旅行で湖に張った氷とその割れ目を見たこと、その帰り、祖父が氷の割れ目の色を外国ではアイスグリーン、日本では白緑と呼び、その画材として銅のサビが使われていたのだと教えてくれたこと、そしてそれにちなんで手のひらサイズの銅の置物を買ってくれたことばかり。おとぎ話と言えば健気な少女が悪い女に奪われた恋人を取り返す話ばかり。しかもおとぎ話に出てくる悪い女は、話すときによって容姿や名前こそ違ったが、髪や服などどこかに必ず緑色の要素を持っていた。そんな祖母の得体のしれない一面はほかにもあり、それらに気づいていくにつれ、僕の中に祖母への苦手意識が育っていった。
 もともと僕の母と祖母の折り合いが悪かったこともあり、僕が今の佳奈くらいになるころには、お正月とお盆くらいしか祖母と会わなくなっていた。祖父は無口だが優しかったし、僕らは祖母の家からそう遠くないところに住んでいたが、どちらも祖母の薄気味悪さには敵わなかった。
 このように祖母にはあまりいい印象がなかったので、最期が近いと聞いてもその時は何とも思わなかった。だが、こうして骨の浮きでた手やこけた顔、むくんで膨れ上がった脚を目の当たりにすると後悔とも罪悪感ともつかないものに襲われた。
 思考が一周して今の祖母に戻ってきたところで、もう入っていいよ、と佳奈がドアを開けた。それと同時に廊下の角から父たちが現れた。


 次に僕が伯母一家と顔を合わせたのは、祖母のお見舞いから三週間ほどたったお盆、祖父の墓参りでのことだった。前からお盆には会うことになっていたのにその前に呼ばれたことから、祖母の病状がかなり深刻であることは察していたが、果たして祖母はその後手術をひとつ受け、今は面会謝絶であるとのことだった。
「この暑さじゃ熱中症になりそうだ」
 父が汗を拭った。
「すぐそこが病院だから大丈夫」
 伯母がそっけなく応じる。祖父の墓は祖母の入院する病院の目と鼻の先にある。
 こんな一日で一番暑い時間帯でなくても、となおも父は言いつのっていたが、伯母に午前中はお母さんの葬儀プランの相談に行っていたの、と返されて黙った。
 照り付ける日差しとやかましい蝉の声の中、僕たちはつんと澄ました様子の墓石に手を合わせた。なんとなくここに埋められた死者の名前が彫り付けられている石に目をやると、真新しい祖父の名前が日光を跳ね返して輝いていた。
 そこには他に三人の記載があり、そのうち古い方の二つはすり減っていて読みにくいが、曾祖父母のようだった。残る一人、安西みどりという女性は誰かわからなかったが、伯母が生まれたころに死に、生きていれば祖母より少し年上なので、祖父の姉かと見当をつけた。
 墓参りを終えると僕らは家族ごとに車二台に分かれ、伯母の家に向かった。そこで父、伯母、伯父は祖母の葬式プランについて話し合うらしい。本人がまだ生きているのにとも思ったが、祖母の希望でもあるらしい。
 僕は書類を広げた食卓を囲む大人たちから離れ、佳奈のそばにいることにした。佳奈は大きな本を床でうつぶせになって読んでいた。
「何読んでるの?」
「自由研究のアイディア本」
「いいのあった?」
「十円玉をトマトジュースでピカピカにするやつはちょっと面白そう」
「錆取るんだよね。タバスコも効くよ、それ」
「へえ。直人君はもう何にするか決めたの?」
「高校は自由研究ないから」
「いいなあ」
 佳奈は本に集中したいようで、口調が淡白だった。暇を持て余した僕は、自分がここに来る意味はあったのか悶々としながら携帯端末を取り出した。ひとまずゲームをして時間をつぶすことする。
 ステージをひとつクリアしたところで食卓の方から真面目な議論とは違う、明るい声が上がった。
「まあ、ありがとう」
 振り向くと、佳奈が大人たちに麦茶を出していた。
「気が利くなあ」
「まったく、うちのとは大違いだ」
 父の発言に少しムッとしながら、僕は空気を読んでゲーム画面を閉じた。一通り大人たちから褒め言葉を浴びた佳奈は、僕の方にも麦茶のグラスを持ってきてくれた。端末を仕舞い、礼を言って受け取ると佳奈はにっこり笑った。
「ちゃんと全部飲んでね!」
「あ、うん」
 佳奈が僕にだけ一言添えたことに少し戸惑いながらグラスに目を落とした時、それに気づいた。
 グラスの底、透き通った茶色の液体の中に死んだサンゴを砕いたようなものが沈んでいたのだ。一瞬、注いだ佳奈の手が汚れていたのかと思ったが、それで済む量ではなかった。佳奈に訊いてみようとしたが、先ほどの念押しを思い出してやめた。代わりに僕はそれを食卓に持っていった。
「あの、紗栄子さん。これって健康食品か何かですか?」
「……ただの麦茶だけど」
「じゃなくて、この下にたまってるやつです」
「え? あらやだ。何これ」
「いいから飲んで!」
 伯母の困惑した声と佳奈の鋭い叫びが重なった。
「佳奈ちゃん」
 伯母は食卓を見回し、他の誰の麦茶にも異物が沈んでいないことを確認すると、佳奈を問い詰めた。
「これは何なの? なんでこんなことしたの?」
 伯母は大丈夫大丈夫と繰り返すばかりで口を割らない佳奈を廊下に引きずっていった。
 とりあえず許可をもらって台所に入り、カップ焼きそばの湯切りの要領で麦茶だけを流した。液体から顔を出したそれは、少し緑色がかっていた。父と伯父にも見てもらったが、ふたりにもその正体はつかめないらしい。
 三人で首をひねっていると、伯母がリビングに飛び込んできた。
「サビよ、それ! 銅のサビ!」
 事情聴取は終わったようで、開け放たれたドアの外から佳奈の泣き声が聞こえてきた。
「まさか、飲んでないよね?」
「あ、はい」
「銅のサビ?」
 父が聞き返した。
「なんでそんな」
「わかんない。何度聞いても佳奈、お祖母ちゃんのおまじない、としか言わなくて」
 そこからの伯母の行動は速かった。即座に荷物をまとめ、祖母の病院へと向かったのだ。
 伯母が出て行った後、静かになった部屋に話し合いの雰囲気は戻らず、そのまま解散となった。日ごろ祖母の世話をしている伯母は、面会謝絶が明日解ける予定だったこともあり、簡単に祖母の病室に入れたらしい。その顛末は夜、電話で聞いた。
「あのサビは佳奈が前、お祖母ちゃんにもらった銅の置物から削り取ったものらしいの」
「はあ」
「あとあんなことした理由だけどね、お祖母ちゃんが佳奈に銅のサビは最高の惚れ薬になるなんて言ったせいだったの」
「惚れ薬?」
「ほら、佳奈、直人君のことさ……。気づいてなかった?」
「全然そんな感じしなかったですけど」
「そう……。ああ、佳奈にかわるね」
「え? 別にいいです。そんな」
「ううん、けじめはちゃんとつけさせないと、あの子のためにもよくないから」
 保留のオルゴールのあと、佳奈のあどけない声が電話口に現れ、ぎこちなく言葉を紡ぎ始めた。
「あの、今日は、ごめんなさい……」
 終わりに行くほど声は細くなっていった。
「いいよ。別に気にしてないよ」
 あのあとすぐ携帯端末で調べて、緑青は無害だとわかっていた。
「怒ってない?」
 おずおずとした佳奈の様子に、僕の方が悪いことをしている気分になった。
「全然。それよりサビ、どうやって取ったの? 爪?」
「ちっちゃいナイフみたいなやつ」
「カッター?」
「もっと和風な感じ」
 僕が昼間の件を根に持っていないとわかると、佳奈はいつもの調子を取り戻していった。
「じゃ、小刀かな。それ、どこにあったの?」
「置物の箱に一緒に入ってた。今はお母さんに見つかって取り上げられちゃったけど」
「なんで刃物まで箱の中に? 錆取り用?」
「わかんない」
「そっか。ありがとう」
「うん。今日はごめんね」
「別に」
「じゃ、おやすみ」
 電話が終わるころには、佳奈はすっかりいつもの佳奈に戻っていた。その軽い口調に、僕はさっきの伯母の言葉を疑った。


 それから数日後、佳奈が行方不明になった。
 少し目を離したすきにふらっと出て行ってしまったらしい。半日家の近くをさがしても見つからず、警察も視野に入れ始めたところでひょっこり帰ってきたそうだ。
 空白の半日、佳奈は祖母の病院に行っていたという。緑青の件がずっと心に引っかかっていたのだろう。お小遣いでバスに乗ったらしい。
 不在の間の大人たちの心配をよそに、佳奈は小さな冒険を楽しんだようで、戻ってきた佳奈の手には自販機で買ったというトマトジュースが握られていたそうだ。
 課題のため朝からずっと図書館にいた僕が騒ぎを知ったのは全部終わった後だった。気づかないうちに来ていた母からのメッセージで何があったか知った。取り乱した伯母からそっちに行っていないかと電話を受け、母もたいそう気をもんだらしい。
 僕は図書館の出入り口近くのベンチに腰掛け、文面を眺めた。今日でお盆休みから明けた図書館に人の出入りは少なかった。
 佳奈が行方をくらましていたのは約半日。それだけあれば佳奈の家と病院とを三往復してもまだ余裕がある。なんだか時間がかかりすぎている気がした。ずっと祖母とガールズトークとやらをしていたのだろうか。それはあるかもしれない。僕は祖母が苦手だったが、佳奈は祖母と気が合うようで、よくなついていた。
 家に帰ってポストを開けた時、僕は佳奈が僕の家に寄っていたことを知った。そこにはピンク色のかわいらしい封筒が入っていたのだ。切手は貼っておらず、何枚紙が入っているのか随分厚みがある。僕は手紙のことを両親に知らせるべきか迷ったが、ひとまず黙っていることにした。
 二階の自分の部屋で、僕は封筒を開いた。中身はデフォルメされた猫のイラストの描かれた便箋一枚と、古びた紙の束が入っていた。
 便箋には佳奈の拙い字で「わたしにはむずかしくて読めないので、かわりによんでください。このあいだはごめんなさい」とだけ書いてあった。
 僕は黄変した紙を手に取った。折りたたまれたそれは六枚あり、手紙というよりは手記のようだった。かなり劣化していたが、几帳面な字は難なく読み取れた。
そこには祖母の過去がつづられていた。


 祖父はもともと、みどりさんという女性と結婚していたのだが、みどりさんはお産の時に死んでしまう。そこでみどりさんの遠い親戚だった祖母が後妻に選ばれ、みどりさんの忘れ形見で僕の伯母、紗栄子さんを育てることになった。そうして嫁いだその日から自分の子でない赤ん坊の世話に明け暮れる祖母をよそに、祖父はいつまでもみどりさんのことを忘れられず、追憶に浸っていた。
 そんな祖父の気を引こうと、祖母はある日こんな提案をした。「結婚して名字の変わった私の名前、安西路子を読みかえると『やすにしろこ』になってみどりさんと同じように名前の中に色が現れます。これも何かの縁でしょうから、今度から私のことを『白』と呼んでください」と。祖父ははじめ怪訝な顔をしていたが、やがて笑顔になった。そしてアイスグリーン、つまり白と緑を混ぜた色が自分と亡き妻との思い出の色であったことを祖母に話してくれた。
 それ以降、祖父は祖母を「しろちゃん」と呼んでかわいがるようになった。また、祖母もみどりさんのかわりになろうと決心した。祖父にみどりさんの習慣や癖を訊いてそれを真似るようになった。みどりさんに近づこうとする祖母を祖父も喜んでくれて、みどりさんとの思い出話も積極的にしてくれるようになった。その中には新婚旅行で行った湖の氷の割れ目を見た話もあった。祖母が僕や佳奈にしていた話は祖母のではなくみどりさんの思い出だったのだ。
 そうして夫婦関係はうまくいくようになった。
 しかし祖母に子供ができると状況は変わった。実子と養子、ふたりの世話をするうち、祖母は死んだ人間を懐かしむばかりの夫にいら立ちを募らせていった。そしてある時それは殺意へと変わった。
 ある日祖母は祖父の夕食に、あの置物から削り取った錆をこれ見よがしにかけておいた。その膳を見た祖父は、怒るだろうという祖母の予想に反して言葉なくうなだれてしまった。それを見た祖母は、祖父を殺そうとしただけでなくみどりさんとの思い出を冒涜しようとした自身の行いを恥じた。そして緑青を盛った料理を自ら食べ、命を絶とうとした。だが、緑青を摂取した祖母の体には何の異常も起こらなかった。念のため朝まで様子を見たが、咳一つでなかったという。
 祖父母はそれを泉下のみどりさんが守ってくれたために起きた奇跡ととらえた。それから祖父はいっそう祖母を大事にするようになり、祖母はみどりさんのかわりになることを苦痛に感じなくなった。
 その後も時々、祖母は置物のサビを掃除ついでに取って飲んだ。そのせいで体調を崩したことは一度もない。それどころか錆を口にするたびに祖父は祖母をそれまでより労わってくれて、むしろ気分が良いくらいだった。
いつしかそれは祖母の癖になっていった。そうすれば祖父の愛を得られるから。自分が特別なものになった気分になれるから。すべてうまくいくようになるから。


 中身はだいたいこんな感じだった。随所に挟まれる恨み節や偏執的な思考に辟易しながら読み終えた内容に、僕はしばし呆然となった。無毒な緑青でここまでの騒ぐのかとは思ったが、それにしても凄まじい。この感覚を誰かと共有したかったが、こんなことを伝えられるような相手が思いつかなかった。
 とりあえず手紙を机に置いて、下りて行ったリビングでは両親が喋っていた。父は異物混入以来、宙に浮いたままになっている葬儀プランの話を気にしているようだった。母からそんなに気になるなら電話してみれば、と言われた父はその夜何度か伯母に架電してみたらしいが、結局一度も繋がらなかったようだった。


 次の日伯母の方から電話がかかってきた。
 電話を受けた母は驚きの表情を浮かべ、張り詰めた声を出していた。母が受話器を置くのを待って、僕は何があったか訊いた。
「佳奈ちゃんが昨日の夜、救急車で運ばれたって」
「熱中症?」
「なんか……銅中毒だって」
「銅中毒?」
「佳奈ちゃん、自由研究のためにちっちゃい銅の置物をトマトジュースに浸けてたらしいの。サビを取るんだって。で、その置物浸けてたトマトジュース飲んじゃったみたいで」
「え?」
「トマトジュースに銅が少し溶け出してたんだって。それで……」
「今どんな感じ?」
「命に別状はないって。胃洗浄してもらって、今は落ち着いているみたい。お義母さんと同じ病院に入院してる」
 僕はすぐに銅の毒性について調べた。いくつかサイトを回ったが、どれにも緑青が無害なのに対し、銅は微量でも体内に入れば危険だと書いてあった。実際に銅鍋で作った料理や内側が銅の水筒から中毒を起こした人もいるらしい。これは緑青で検索した時には出て来なかった話だ。中でも、ある情報に僕の目は釘付けになった。


 怪しまれないように少し時間をおいてから、僕は図書館に忘れ物を取りに行くと偽って家を出た。本当の行き先は祖母の病院だ。
 祖母はあの日と同じ姿勢で横たわっていた。眠ってはいなかったようで、こっちに顔を向け、意外そうな表情をした。
「どうしたの? ひとり?」
「お祖母ちゃん」
 僕は祖母の問いを無視した。
「なあに?」
「どうして僕や佳奈ちゃんを殺そうとしたの?」
 緑青はその見た目から昔は猛毒だと信じられていた。
 それがさっき僕の目を引いた情報だった。これで手記の中の祖父母が緑青に過剰反応していた理由も説明できる。だが、そうなると新たな疑問も浮かび上がるのだ。
「ねえ、どうして」
「直人君はねぇ、あの人の若いころに似てるのよ」
 十秒に及ぶ沈黙の後、祖母は答えた。
「あの人、今頃は向こうで私のことなんか忘れてみどりさんと仲良くやってるんじゃないかしら。だからもう少しして私が向こうへ行っても誰も相手してくれないと思うの」
「……だから、道連れにしようと?」
「ええ。でもうまくいかなかった。それに直人君、お祖母ちゃんのこと好きじゃないんでしょう?」
 図星だった。
「でも佳奈ちゃんはお祖母ちゃんのこと好きだから。この間来てくれた時、飲むように言ってみたの」
「だからって……」
「でも佳奈ちゃんについては賭けでもあったの。だってみどりさんの孫だもの」
 祖母は満足げに笑っている。僕は噴き上がるような冷たい感情に体が震えてきた。
「お祖母ちゃん。緑青って毒じゃないんだよ。食べても飲んでも平気。それで死ぬなんてありえないんだよ」
「うそでしょう。昔からみんな毒って言ってたわ」
「昔は、ね。今はもう無害だって証明されたよ」
「そんな」
「だから僕も佳奈ちゃんも道連れになんてならないし、みどりさんの奇跡もなかったんだよ」
「やっぱりあの紙を見たんだね。でも、そうだとしても、そのおかげで私も夫も幸せになれた。そのきっかけが迷信やまやかしだったとしても、幸福な暮らしは本物だった」
 僕は舌の回るのに任せて喋った。見知らぬエネルギーがどこからか湧き上がってくる。
「それはどうだろう。お祖母ちゃんがみどりさんの思い出を、さも自分が体験したことのように語るのを、お祖父ちゃんはどんな気持ちで見てたと思う? 自分が妻を狂わせてしまった、そう思ってたんじゃない? その罪悪感からお祖母ちゃんを責めずにそばにいたんじゃない?」
「ちがう! 私はあの人のために、みどりさんのために、ずっと尽くしてきた。私のすべてを捧げてきた。だからみんな安らかに暮らしてこられたのよ! 全部あの人の願ったことだったのよ」
 祖母は真っ赤な目で僕を見つめている。僕は言葉を重ねた。
「お祖母ちゃんは、お祖父ちゃんが本当にアイスグリーンを求めていたんだと思う? お祖父ちゃんが愛したのは白じゃない。純粋な緑だった。お祖父ちゃんのためと言いながらお祖母ちゃんが作ったのは、お祖父ちゃんの望まない汚い錆の色でしかなかったんだ」
 それが決定打になったのか、祖母が声もなくうなだれた。目からは壊れた蛇口のようにだらだらと涙を流している。祖母はもう言葉を発することができないようだったので、僕はそのまま病室を後にした。病院を出ると言い様もない達成感と爽快感に襲われ、自然と笑みがこぼれた。
 その日を境に、祖母は廃人同然になってしまったらしい。そして秋を待たず逝った。


 祖母の葬儀は家族だけで行われた。
 参列者は伯母一家と僕と両親の六人だけで、する意味すらなさそうな式だった。もちろん最初は祖母の遠い親戚や友達を呼ぶことになっていたのだが、親戚は皆遠くにおり、友人たちもすでに墓の中か棺桶に片足を突っ込んでいるかで、お越し願うのは無理そうだったのだ。
 あの一件のあとも伯母は変わらず祖母を見舞い、最期まで付き添っていたらしい。そして祖母が死んでからも面倒な処理をあらかた済ませてくれた。末期の祖母と二人きりの病室で伯母は何を思っていたのか僕には想像もつかないが、静かな凄味を感じた。
 そんな伯母のおかげで僕の父は喪主でありながらのほほんとしていられるわけだが、本人はそれに気づいていないらしい。僕や母に向けて、なぜそうやって普通にしていられるのか、祖母が死んで悲しくはないのかと愚痴だか小言だかわからないものをこぼしていた。
 僕は実際何とも思っていないので父にああだこうだ言われても受け流せたが、母は父の態度を面白がらなかった。当然だ。仲の悪かった姑に良い感情などあるはずがない。小さな声でお前も泣いてないだろ、ピーピー言う暇があったら紗栄子さんを手伝えよ、と毒づいていた。
 そんな大人たちの中、唯一佳奈だけが心から祖母の死を悼んでおり、部屋の隅の椅子にちょこんと座ってうつむいていた。彼女は銅中毒で入院したことも祖母が死んだことも、全部自分のせいだと考えているのだ。祖母を死に追いやったのは僕だと教えてやろうかと思ったが、それで佳奈が救われるとも考えにくく、僕はただその隣に腰かけ、ありきたりな慰めを口にした。気休めでも少しは気が楽になったのか、佳奈は僕を見上げて少し笑った。
 不意に鋭い視線を感じて僕は顔をあげた。少し離れたところから、伯父がこちらを見ている。その表情には愛しい娘に近づく僕への嫌悪がありありと浮かんでいた。佳奈と一緒にいるだけでそんなに敵意を向けるものかと思うが、おそらく佳奈を傷つけた祖母をかいがいしく世話し、看取った伯母へのいら立ちもそこには含まれているのだろう。
 そこまで考えて、僕は笑いだしたくなった。
 僕は祖母さえいなくなればすべてよくなると思っていた。
 しかしどうだろう。ごたごたの中心だった祖母がいなくなったことで、それぞれの家族の中の、そして家族同士のわだかまりが却って浮き彫りになってしまった。
 伯母さんにまで絡み始めた父を母が止めている。すぐそばのいざこざに対しては舌打ちをするだけで、止めようとしない伯父。一人涙をこぼす佳奈。
 アイスグリーンに輝く氷の割れ目が、目の前に立ち現れたような気がした。



テーマ「アイスグリーン」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

紺碧のクオリア

 夜明け際に境を失う空と海の果てを、僕は茫と目に映していた。もう少しで、繰り返すひとつの始まりを迎えるこの場所は、夜を淡く残したままに、曙光の気配を帯びた美しい紺碧に染められている。
 小さくさざめく海面を穏やかに撫ぜていく潮風が、自分の耳元から伸びる細いコードを微かに揺らした。その動きと共に、耳朶へと流れ込む音がふるりと揺れる。
 今にも取れかかりそうなほど緩く耳へ差し込まれたイヤホンから零れるのは、以前はほとんど聴くことのなかった、延々と続くハッピーエンドの恋愛ソングだけ。シャッフルリピートに設定した再生リストには、そんな曲しか入れていなかった。

「羨ましいなぁ」

 自然と、そう呟いていた。
 ぼんやりとした憧憬を抱いたまま、もう幾度ここで見たかも分からない夜明けを待つ。そんな僕の、少し離れた隣で、変化はふいに起こった。
砂浜に、そっと現れた気配。終わりかけの夜空に在る五等星の光ほどに微かな空気の震えだけで知る、その存在の表出。

 ああ、今日もまた。
 彼女は。

 自分の顎下で揺れるコードに右手を掛け、ほとんど取れかかっていたイヤホンを足の上に落とす。そうして、僕は、気配の方を見た。
 ――彼女は、そこに立っていた。
今までそこにいなかったことのほうが、嘘のように。
 かつて、同年代の女の子が行くような美容室はくたびれてしまうから、駅前の1000円カットで切っているのだと言っていた、肩より少し長いほどの黒髪が潮風を受けて軽やかにはためく。その様子に一瞬目を遣った僕の耳に、声が届いた。

「また、来たの」

 空気へと音を置くように響いたその声は、二人のいる砂浜にそっと滲んだ。

「うん。来た」

 淡い紺碧に満ちた闇の中、そこにはない眩しいものを見上げるように目を細めながら答えた僕へ、彼女は言った。

「変わらないのに?」

「……変わらないから、かな」

 再び返した答えは、こうして理由も明確にしないままに、ここへ訪れることを繰り返す自分の本心だったのかもしれない。
 変わらないから。
 それは、結果だけでなく、必ず君が現れるという事実でさえも。
 ならば、僕がここに来る理由なんて、それくらい単純なことなんじゃないか。そう思い始めている。
 目の前の彼女は、困ったような表情(かお)をした。彼女の深い濡羽色の瞳が微かに歪む。
――その目はもう、彼女を縛ることは、なくなったのだろうか。

「いいんだよ、もう。あの日、あの花束を持ってきてくれただけで、私……」

「ああ、届いてたんだね。……よかった」

 彼女の言葉へそっと連ねるように、僕は息を零しながらそう呟いた。
 あの日。
 この海岸の波打ち際に集めて置かれていた白い花束たちの前で、自らもひとつの花束を手に立ち尽くしていた、自分。
 数時間の後ようやく手を離せたその花束は、多くの白の中で、唯一、目の覚めるような青だった。

「とっても……きれいだった。少し、心臓が飛び跳ねるような気がしたくらい」

「心臓の感覚は、まだあるの」

「……気分、だったけれど」

 純粋に尋ねた僕の言葉に、少しばつの悪いような顔をして小さな声で答えた彼女は、何も身に付けていない素足の片方をそっと持ち上げた。そうして砂浜へと下ろされた爪先が、さく、と砂の粒子の中に埋もれ、続いて土踏まずと踵が下ろされていく。彼女の唯一日焼けしていない足首は、片足ずつゆっくりと、その動きを繰り返す。その先にあるのは、ただ、潮の満ち引きを繰り返す海だけだ。
 あの日と同じ。そして、これまでと、同じ。
 ――――繰り返す。

「ねえ、それって決定事項なの」

 何気なく投げ掛けたその言葉に、僕の隣から少しずつ遠ざかっていく彼女は、一瞬ぴくりと背中を震わせた。小さく俯いた彼女の肩から、こちらからは見えない頬へと髪が滑り落ちていく。

「……そう、だね」

 ぽつりと返された答えは、分かっていて。それでもなお、自分の中に重く鈍い痛みを残す。

 あの日も、彼女はこうしてひとり、海に入っていったのだと聞いた。

 それを信じられないままに、無意識の内自分が向かっていたのは、確か告げられた病院ではなくこの場所で。乱れた呼吸のまま見上げた、ほとんど南中に近づいていた太陽に照らされる砂浜と海面には、君を惹くものなんて見つけられなくて。あの時から必死で探し続けた彼女の消失の意味を、僕が見つけたのは、彼女のことを聞いてから初めて、一人で夜明け前のこの場所へ訪れた日だった。彼女が海に入って、もう数週間が過ぎてしまっていたその日。

 僕は。目の前で世界を染める紺碧に、君の消失の意味を、知った。

 それからのことだった。毎日、大学へ行く前の時間に、自分が夜明け間際のこの場所を訪れるようになったのは。
 そうして……彼女が、こうして現れるようになったのも。
 彼女が海に入った意味を知り、海岸へと花束を置いた日の翌日に、再びこの海を訪れた僕の隣……恒常の理のようにふっと浜辺へと現れた彼女は、何かを告げるでも、こちらへと振り返るのでもなく、ただ、目の前の海へと歩いて行った。その足はいつも、彼女がその先に見る海と空へ近付くほどに、ゆるやかに速まっていく。そしていつか。その姿を追う僕の視界の中で……彼女は、駆けていった紺碧の中へ失われるように消えるのだ。
 初めてここで彼女を見た日から、一つだって変わらないその結末。僕も、彼女も、それだけを繰り返し続けてきた。
こうして夜明け前にこの海を訪れ――決して救うことなどできないと知っている彼女が、一人海に入って行く姿を見届ける。
 どうして、なんて思うこともなくなっていた。身体を何一つ動かすこともできないまま、目の前で見届けることしか出来なかったその光景に海面を震わす慟哭を響かせた初めの日から、それでもなお続いていく繰り返しに、少しずつ順応していってしまったのだろうか。もし、そうだとしたら。それは、順応という狂いだ。
 いや――もう、とっくに狂っているのかもしれない。
 息を零した僕は、そっと砂浜に手をつくと、立ち上がり、海の中を進んでいく彼女に向かって数歩足を踏み出した。

「――あの、さ」

 もうすでに、太腿までその足を海面へ浸していた彼女の背中へと僕は呼びかける。そっと振り向いた彼女の足は、それでも強い何かに惹かれるような歩みを止めることはない。

「前にも、聞いたけれど。もう一度だけ、教えてほしい」

「なに」

「やっぱり、僕がふれたとしたら。――止めようと、したならば。この場所の、この時間は、〝壊れる〟の」

 届いたのだろう僕の言葉に、波間からこちらを見つめる彼女の瞳が、ふる、と震えた。それだけでも痛いほどに答えを知ったけれど、小さく開いた唇から零れた答えに、僕は二度目の苦しさまでも知ってしまった。

「うん……きっと。それに。ふれたら、私は――」

 そうして叫びかけた何かを、彼女は呼吸をきゅっと止めて、そのか細く白い喉元へと飲み込んだ。
 彼女は、こちらを振り切るような表情で微笑む。

「――……ううん、何でもない。ごめんね、今日も、もう」

 そう言った彼女は、今日もきっと、あと数歩であの日と同じ消失を迎える。

「あのね。本当に、本当に……もう、いいんだよ。私のせいなの。私が、あの日、ここに来てしまったからいけなかった」

「だから、もう……どうか」

――――この、紺碧なんて忘れて。

 その言葉と共に、ふっと地平線から放たれた曙光の眩しさが僕の視界を覆う。そして、光の中、その一瞬の内に彼女の姿は消えた。
 僕は、一時前まで彼女の立っていたその海面に、とらえていたかったものを失った視線を落とす。
 ――凪いでいる。波はそのさざめきを見逃してしまいそうなほど穏やかに、そんな海面に映る天球を流れていく雲海は、朝陽が放ち、辺りへ徐々に広がり散らしていく光の合間をゆっくりと滑っていた。これから一つの始まりを迎えるこの場所の、静穏で、しかし溢れんばかりの可能性に満ちた景色。目の前に広がるそれが、より一層自分に残された焦燥と哀切を深めていったことなんて、今日までに何度あったのか。それでも、慣れるはずがないのだ。君が、幾度だって消えるから。そして、その手を掴むことすら出来ない自分だけが残るから。
 俯く自分の周りで徐々に明るさを増していく空気を感じながら、僕は数十分ほど経った頃、ようやくゆっくりと顔を上げた。
 海の方を見つめたままにジーンズのポケットへと手を伸ばし、そこから掴み取った携帯電話の電源を手探りでつける。そして、人工的な眩しさを放った画面に視線を落とした。
 ――この時間なら確か、あと十五分くらい後に来るバスがある。それが丁度……かな。
画面に表示された時間にそう考えると、ふと、その上に表示されていた日付に目を奪われた。

「……ああ……」

 あと一日で、一年が経つのか。
 そう気付くと同時に、記憶の内、鮮やかに蘇る光景があった。

 あの日、走る僕の頭上に降り注いだ、空気に散る透明の水粒たち。
無意識の内、顔を上げた僕の目に映った、彼女の大きく見開かれた瞳。

 あれは、一年と半年ほど前のこと。大学二年の夏、学生生活にほどよく慣れを感じ始め、その慣れに慢心した自分が出席必須の講義へ全速力で走っていたあの時。
 自分が向かっていたはずの校舎より二つ手前にあった、五階建ての校舎の屋上でこちらを見たまま立ちつくしていたその人に、会おうと思ったのは何故だったのか。
 講義の再履修を思いながらも、気付けば校舎の外階段を駆け上っていた僕は、突如開けた視界の先で、蓋の開いたミネラルウォーターのペットボトルを手にしたままに、変わらず校舎の下を見つめ固まっていた彼女を見つけた。
 僕の足音に気付いたのだろうか。やっと身体の呪縛から放たれてこちらへと振り返った彼女の目が僕をとらえた。
 その目はどうしてか、不思議なほどに煌めく小さな光を幾つも空気へと放ち、散らしているように見えた。――ああ、とても、嬉しそうなのだと……少しして、気付いた。
『……びっくりした。冷たくて、思いのほか気持ちよかったけれど』
 苦笑しながら言った僕に、彼女は泣き笑いのような表情をしながら、小さく目を伏せて言った。
『きれいなものが、見たくなって。ごめんなさい……』
 その言葉に、僕は一瞬首を傾げかけて……再び視界の奥に映った、幾つもの透明の粒たちと共に自分へ降った太陽の光を思い出し、あ、と声を零した。そうして彼女の言ったことの意味に気づくと、なんだか余計に可笑しくなってきてしまって、僕は初対面の人が目の前にいるにもかかわらず我慢せずに思い切り笑っていた。
『ふっ、あはははっ! あー、うん。確かに、きれいだったもんなあ。なんか分かる気がする……方法が、ちょっとばかし斬新だったけど』
『ご……ごめんなさい! やる前に確認した時は、誰もいないように見えたから……つい、思いっきり』
『いやいや、大丈夫、です。きれいだったから。あーもう、ほんとは行かなくちゃいけなかったんだけどなあ……何してんだか、僕も』
 ぼやく僕の隣で、彼女があいかわらずおろおろと視線を彷徨わせていたけれど、僕が今の状況をもはや楽しんでしまっていることを何となく察したのか、徐々に身の落ち着きを取り戻していった。そんな彼女の隣で、しばらくの後、僕は尋ねた。
『……よく、ここで?』
僕の問いに顔を上げた彼女は、そっと頷いた。
そして、その日以来、僕は講義の合間に時々その場所を訪ねるようになった。その回数は、月日が経つ毎に少しずつ増えていっていたように思う。
そうして二人会う中で、彼女はそれほど多くのことは話さなかった。多分、僕ばかりが時間のほとんどを、自分の喋りに費やしてしまっていたような気もする。それでも、時折彼女から返される言葉や、伝えられる感情の動き、ふいに現れる鮮やかな表情の変化が自然に心地よくて、つい普段は人に伝えることもない話や考えまで彼女には話してしまっているのだった。
一方で、言葉は少ない彼女だったが、普段から鮮やかなその表情を一際輝かせる瞬間があった。
それは、〝きれいなもの〟に気付いたとき。
夏の光を受けて屋上のコンクリートの上で煌き揺らぐペットボトルの淡い水影や、僕の鞄についていたガラス製のキーホルダーが偶然に作り出した小さな虹の存在、晴れた日の強い日差しを、緩やかに、流動的に遮る雲の作り出す、濃淡織り交ぜられた影の変化……。そんな、自分一人ならばこれまでは気にもせず通り過ぎていたような、生活の片隅に散らばる光と影の変化を、彼女は一つも零すことなく捉え、拾い上げた。そしてその度に、瞳へと小さな光を散らして、柔らかに笑うのだった。
 そんな日々を繰り返す中で。僕の中で、ある時からふいに生まれた、小さな棘があった。
微かな、違和感。それが何に対してのものなのかすら自覚してはいないのに、何故か無視しきることのできない引っ掛かりを感じていた。それは、彼女と過ごす時間が積み重なっていくほどに段々と、自分の心に強く刻まれていくのだった。……何に、僕は。彼女の、どこへ?
自分一人では答えが出せないまま、時が経ったある日の夕刻の屋上で、それを正直に伝えた僕へ、彼女は最初だけ少し目を大きくした。しかし、すぐに納得したような表情を浮かべると、ゆっくりと彼女自身のことを話してくれた。

 ――――青錐体一色覚。

流れるように、彼女の口から伝えられた言葉。
 それは、彼女が持って生まれた、〝視覚〟の状態のことだった。
 人は、瞳に様々な波長を感知する〝錐体〟という神経細胞を持つ。そして、それらは赤を感知するL錐体、緑を感知するM錐体、青を感知するS錐体の三つから成っている。彼女は、それらの内、S錐体以外の二つが正常に機能していない状態で生まれたのだと話した。

『あなたが違和感を感じていたのは、私がこれまで、ほとんど色についての話をしたことがなかったからじゃないかな。私の視覚は、青に近い系統以外の色を、正確にはとらえられていないらしいから。……あまり、自信を持って自分の見る色を話すことができなくて』

『それでも、色がすべて見えないんじゃないの。識別のしにくさとか、そもそもの視力の悪さはあるけれど。色彩をとらえられない分、色の明度とか彩度に対しては普通のひとより敏感なんだって、昔、担当医の先生には言われたんだ。自分でも、それは実感してきたから』

 ――多くの色をとらえられない代わりに、他の全ての感覚はひどく敏感に持っていた。音も、香りも、味も、何かに触れた感覚も。きっと、周りの人ならばまるで自分を塗りつぶされていくような感覚を持つくらい、鮮やかに、濃く、めまぐるしい感覚の受容。それが、不完全な視覚の代わりに得た、自分の特質なのだと彼女は話した。
 それでも、やはり他の感覚では補いきれないこともあって、最低限の色のルールは一つ一つ覚えていったらしい。そうしていく内に、生活の基本的なことは身についていって、元からの視力の悪ささえ矯正器具で補えば、それほど生活に困ることはないのだと彼女は微笑んで言った。

『そういう自分の目の事、教えられて知っていったけれど。見えないと、思ったことはなかったんだ。だって自分にとって、世界は生まれた時からそう見えていたから』

 けど、と、彼女はふと表情に静かな影を落とし、微笑んだ。

『それでも……やっぱり、自分は〝見えない〟っていうことを知っていったのは。多分、生きて、色んな人や物と出逢って、触れていったから』

――――生きていくほど、自分と世界の違いを知る。
 それは、力任せな絶望なんかじゃなく、ただ静かな、静かな絶望。それはやがて、穏やかで、柔らかな諦念へと変化していく。
 そう話した彼女の隣で。僕はいつの間にか、その固く握りしめられた手に自分の指先を伸ばし、きゅっと掴んでいた。
 僕の方へと顔を上げ、眼差しを揺らした彼女の手をそっと引き、僕は屋上を駆けだした。
 彼女の手を引いたまま、走る自分の胸の内をさざめかす感情。〝見えない〟のだと言った彼女の、深い、深いところにある消せない影を、泣きたいほどに苦しく思う、自分の衝動。
 大学から出て、少し離れた場所にあるバス停に彼女と乗り込んで向かったその先は、以前に一度だけ訪れたことのある自然海岸だった。
 いまだに状況のつかめていない彼女に、ぎこちなかっただろう表情でなんとか微笑みかけたまま、僕はその手を引いて海岸へと向かっていった。
『――勝手なこと言ってるって、分かってるけれど。夜が明ける時のこの場所を、一緒に、見てほしいんだ』
そう言った僕の顔をじっと見つめていた彼女は、その視線をふっと僕から外して、目の前に広がる海と空に眼差しを遣った。その動きにならうように、自分も夜に染まっていく地平線を眺めた。
 その後は、二人で海岸に腰を下ろし、朝が来るまでに幾つものことをただ、語った。それはきっととても他愛無いことで、けれど、確かに聞いたことのなかった、彼女の見る色の話もそっと交じられていて。過ぎていくその時間は、僕にとって、永遠を望む様な煌きに満ちていた。
 そして。いつしか夜明けを迎えようとしていたその場所は……海と空と、そこに在る全てを染めていくような、深い紺碧へと包まれた。

 それは。僕がこれまでに知りうる内で、最も――。

 自分を包む世界の変化に、彼女は、僕の隣で瞳から流れ込むその紺碧を受け止めていた。その目と、右手で包んだ左手の微かな震えを壊さないように、僕はそっとその手に自分の手を重ねた。
そして、もう一つだけ、勝手な願いを。彼女はそれを聞いて、一瞬だけ泣き出しそうな表情を浮かべた後……そっと、きれいな眼差しで、笑った。

§

 明くる日も、僕は砂浜に座っていた。一年という数字を知った昨日。それは、きっと単なる数字にすぎない。――けれど。
 そして、今日も現れる、五等星の光のごとき気配。繰り返す彼女の、止まること無き足取り。
かつて、その背中に聞いたことがある。
 ――〝君は、なぜくりかえすの〟。
 罰を受けているのかもしれない、と彼女は言った。
 自らの命を自分の手で絶った罰。親よりも先に、逝った罰。
 それならば、僕の罪は。僕の、罰はきっと。
固く握りしめた手を砂浜につき、立ち上がった僕は、離れていく彼女の背中に語りかけた。

「ねえ、知ってた。今日で、この繰り返しも一年が経つって」

 彼女は、僕の問いに振り向くことはないまま、呟くように言った。

「……そっか。じゃあ、あなたがここへ私を連れてきてくれた日からも、もう一年以上が経ったんだね。――ああ、あの時、あなたが言ってくれたことからも」

「……今でも、きちんと手を握ったことすらない恋人だね」

 淡い苦笑を湛えて言った僕に、彼女ののんびりとした声が返る。

「それは、あなたの不精だったと思うんだけれど」

「君は、望んでいてくれたの」

「……さあ、どうだったのかな」

「今からでも許されるのならば、よろこんで」

「……遠慮しておく」

軽く飛び跳ねていくような言葉の応酬に、彼女は何かを思い返すように、少しだけ顔を上げて天を仰いだ。

「あなた、前からそんな芝居がかった口調をしていたっけ」

「それは、君も」

 苦笑しながら返した僕は、辺りを見回しながら彼女に問いかけた。

「だって、ここ、何だか舞台みたいじゃないか?」

変わらない背景と景色。決められた筋書き。なぞるように繰り返す君の動きと、それを見つめ続けるだけの自分。
そこに、明確な意味を見つけられずにいるのは、きっと僕らの両方で。

「――……分かっていて、どうして……」

彼女が、震える息を、重くゆっくりと吐いた。振り返ったその表情は、耐え続けた痛みに血の感覚を失ってしまったかのような、そんな蒼白さに染まっていた。

「どうして、ここに来てしまうの? どうして、忘れてはくれないの? 何でっ……何で、今でも恋人だなんて言うの……!!」

この一年の間で、初めてその声を悲痛に荒げた彼女に、僕は、ひとつの覚悟を決めて呟いた。


「――僕が、引き金だったって知ったから」


「…………!!!」

 ――人は、絶望の底で死ぬのではないんです。
それは、かつて彼女の視覚に関するカウンセリングを担当していた、現在の僕の担当カウンセラーに伝えられたことだった。
 ――もう、動くことすらできない自分に、動きを取り戻させてくれる何かに会ったとき――その動きをもって、死に向かうんです。
 自分へと刻み込むように、ひとつひとつ静かに呟いていったその人は、最後にそっと、切なくやりきれないため息をこぼした。


 ――――きっと、幸せだったのね、彼女は。


 今も。その言葉が、消えない。

「ずっと君は、一人で世界の色を見てきた」

「それは、人なら誰でも持っている孤独なのかもしれないけど……今でも君の持っているそれは、もう少し大きくて、深遠だ」

 その僕の言葉に、大きく肩を震わせた彼女は。もう、耐えることができないとでもいうように、込み上げるような声で叫んだ。

「私は! あの時、あなたを巻き込んでしまった……!」

 〝見えない〟という、自分の痛みを知る人がいなくても。自分の最上にうつくしいと思うものを、そのうつくしさをともに知ってくれた人が現れたから。
 きっといつか、私が何かに負け、消えてしまったときに――私が何故消えるのかを、分かってくれる人が現れてしまったから。
 あの時、動き出した足を、進めてしまった。
 それが、どれ程身勝手で、残酷なことだったとしても。

「死にたくなったんじゃないの」

彼女は、叫ぶ。

「ただ、あの青が」

「あの青が、きれいで」


 ――――きれい、だったから。


「変わらないよ」

そんな彼女の叫びを、僕はそっと遮った。

「それでも、変わらない。何一つ。僕も。君も」

だからこそ……この繰り返しだって、きっと一つも変わらなかったんだ。それに気づいて。
〈僕〉に、気づいて。


「ずっと、ずっと……君が、大切だ」


「――ゆるして、くれる?」

受けた言葉に、大きく目を開いた彼女の唇が、小さく震える。一人海に消える前から、そこにずっと秘められていた答えを、僕は聞かなければならなかった。そうでなくては終わらない。彼女は、永遠に、終われない。
それなのに――時はひどく、ひどく残酷で。
立ち尽くしたままの彼女の背中から、滲み始めた曙光の気配に……僕は呼吸を止められた。その光は留まらない。彼女は、もう少しで零れ落ちそうな何かを、それでもまだ自分へと許せずにいて。
 朝日の放つ光と、紺碧の空に染められた波間の中で立つ君は。
 また、その眩しさの中に消えていく。

――――もう、一人で消えないで。

僕は、これまで決して動かすことのできなかった手を、彼女に伸ばした。

 〈ふれたら、私は――……。〉

 だから。
 だから、こそ。

 僕は、彼女の手を、引いた。
 振り向いた彼女の起こす水飛沫の中で、もっと一番……彼女の近くへ。

 そして、朝日の、強く放たれるような光の中で。彼女の呼吸と、僕の呼吸が、重なる。

 大きく見開かれた、透明に光る彼女の瞳が……ゆっくりと柔らかに細まり、閉じられていった。

 その呼吸と熱を、受け止める。
 それが、僕のできる、唯一の祈りだった。


 そうして、やっと聞こえた、彼女の秘めてきた答え。

 ――――本当は、ずっと一緒に生きたかった。自分の目が、とらえられるのかも分からない幸せを……望んでしまっていた。

あなたは全部、全部知っていてくれたね。
ありがとう。一番、きれいな青を。


――――大好き。


耳に残された囁きと共に、目の前で弾けて散った色とりどりの光の粒たちは、かつて彼女と出逢ったときに見たあの景色に似て。
目に痛いほど美しいその景色は、そしてその中に消えていった彼女は、僕に受けきれないほどの世界の愛おしさを伝える。

 今、この瞬間、紺碧の中で彼女から受け取った呼吸を、僕はきっと続けていくのだ。
 だから、どうか知っていて。

「君が……僕を、生かしてく」

 ――本当は。
願わくば、それは君の隣でと。

 あの紺碧に。未来を見ていた、僕は。

「……ふ……う、あ、ああ……っ……!!」

 込み上げる息は、重く湿った叫びは、朝陽を受けて静かにさざめく波の音に溶けていく。
 痛いほどの美しさを望んだ、君の最期。世界の何処にも、安寧を見つけられなかった彼女の。向かったその場所にも――空は、あるのだろうか。
 顔を、上げる。
 頭上に広がる、遙かな紺碧。彼女を海の果てに惹いたその色が。
 美しくて、苦しくて……僕は、泣いた。

 この哀切がいつか。僕に教えるのは、何だろう。
その答えが、どんなに見つけにくいものだったとしても。たとえ、最初から答えなどなかったとしたって、自分は探し続けなければならない。その答えがきっと、君の消失の本当の意味を知っているから。
彼女の熱に触れた手を、海と空の紺碧の果てへと伸ばす。
そこにあったのは、紛れもなく美しいばかりの、君が愛した色だった。



テーマ 「紺碧」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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