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週5で止めた総武線



「ふうむ、テツに言われて調査にきたが、モンスターもいないし、もうそろそろ帰るとするか」

かれこれダンジョンに入ってから1日が経過しようとしてるが、まだ何にも見つからず、何にも遭遇していない。平和。うむ平和すぎて退屈すぎるぞ。この探索は。モンスターの1匹でもでてこんか。

「このダンジョンは外れっぽいな」

「未開のダンジョンだからモンスターもいっぱいるだろうし絶対修行になるから!」 とか言っていたが、これじゃ全然修行にならないじゃないか。これなら家で修行のフルコースをやってい方が良かったな。筋肉は1日さぼるだけでだいぶ能力がさがってしまうからな。歩きながらでもできるような簡単なトレーニングならこなしているが、本腰をいれて行うトレーニングに比べたらはるかに効率の悪いものだしな。無意味な探索というのはできる限り避けたかったのだが……。腹の減り具合から見て日が沈むまであと2時間ぐらいってとこだろうし、日暮れまで探索して何も見つからなかったら終わりにして帰るとするか。俺はテツみたくダンジョンから出てくる財宝やら、ろ……ろす……ろすとてくのろじー? ってのにも興味ないし。ただ強いやつと戦いたいだけだからな。
そんなわけでモンスターの1匹もいないダンジョンに用はない。あー、モンスターの1匹でも出てこないのか。暇だ。暇の大安売りだ。早くモンスターでてこい。できることならボスモンスターよでてこい。俺の暇つぶしがてら筋肉の一部になれ。

しーーーん。

まー、そんなうまくいかないわな。取りあえずもう少し本格的なトレーニングを
しながら、残りを探索しようか。

しばらく探索しながら指先の可動域を広げる訓練をする。筋力を鍛える以外のトレーニングをしているとよく驚かれるが、実際の筋力を鍛えるよりこのような細かな柔軟などが良い筋肉を作るのには重要だ。見せる筋肉なら単に筋トレをするだけで十分だが、それを実戦で使えるレベルにするには、しなやかさを身に着け、引き締めなければならない。つけただけの筋肉なぞ重しと変わらん。実戦で使えるレベルまで洗練することで筋肉は筋肉たりえるんだ。

「む、音の反響が変わってる?」

筋肉とはかくあるべしと自身の考えをまとめていたところ、ふと自分の足音が変化していたことに気づく。気のせいかと思い、その場で何歩か足踏みをしてみるが、やはり若干だが先ほどよりも音が高くなっている。考え事をしているからと言ってこんなことに気づかんとは俺もまだまだだな。

「あっちの方に何かあるな」

周辺の音の反響の変化に気を配り、音の変化の原因のある方向にあたりをつける。これも日々の修行の成果だ。隣のビルの中をかけるネズミの足音を聞くのに比べたらはるかに楽だ。
以前テツとダンジョンに潜ってた時におんなじことをやったら、「おじさんの五感はどうなってんだよ!」 とか言われたが、こんくらいのことだれでも修行すればできるようになるだろう。あいつもまだまだ修行が足らんな。帰ったら稽古のひとつでも付けてやるか。せめて自分の家の中にいるネズミの足音ぐらいきけるようになってもらわんとな。

「原因はここか?」

自分の聞いた音に従って歩くと、広い行き止まりにたどり着いた。
壁をコンコンと叩いてみるが、予想通りやはり裏は空洞である。

「まったく、こんなので隠してるつもりか、まるわかりじゃないか。さて中には何が入っているのやら……まさか、モンスタートラップか! 出てこい、俺をわくわくさせるような強敵よ!」




拳に力をこめ、壁を殴る直前に脳裏にダンジョン前でわかれたテツの姿が浮かぶ。

「じゃ、おじさん。気を付けてね。まだ発見されたばかりのダンジョンでなにがいるかわからないし。まー、何が出てきてもおじさんなら大丈夫か。じゃ、いってらっしゃい。なにか見つけたら報告にくるんだよ」

そう言い来た道を引き返すように立ち去ろうとするが、思い出したかのようにこちらを振り向き言葉を付け足す。

「あっ、そうそうおじさん。むやみやたらとダンジョンのものをこわさないでね? ……こわしたらわかってるよね?」

あわてて拳をひっこめた。あっ、あぶねー、またテツを怒らせるとこだった。あいつ怒らせるとやばいんだよ。肉体的苦痛なら問題ないけども、あいつの場合精神的にグサッと刺さるんだよ。あれはつらい。延々と無言の圧力をかけられるんだぜ? 言い訳ももちろん聞かないし、何も言わず能面のような顔でこちらを見通す。ただそれだけだが、あの空気感はやばいただただやばい。熟練の武芸者でもあのオーラは出せん。というわけで賢い俺はきちんとした入口を探すぞ。さーてとどこから入ろうかな。

「ん、なんだこれ?石版? さっきまでこんなのあったか? てかなんだこの模様?」

入口がないかと辺りを見渡すと、左側に石版のようなものがあった。さっきこんなのあったか? 見逃したのかもな。まー、テツの恐怖のせいにでもしとこうか。にしても、なるほど、これはああいうやつだな。仕掛けを解くと扉が開くっていうそういうやつな。賢い俺にかかれば、こんな仕掛け朝飯前だぜ。
ポチ、ポチ、ポチ。カターン。
ほーれ、これで開くはず。

「ブー、くすくす。外れですー、おとといきやがれバーカーヤ「バン」プシュー」

はっ、あまりに腹立たしい声だったからつい反射的に殴ってしまった。……あー、これは完全に壊れたな。間違えた故障してしまったようだな。仕方ない調査のためだからな。もし危険な仕掛けだったら、調査に来たテツ達が怪我してしまうからな。俺はそれを防いだんだ。うん。そういうことにしとこう。そういうことにするしかない……。

で、この扉の開け方か。装置が故障してしまったから他の方法で開けないとな。
どうすっかな。………………セイッ!

「よし、開いた。さーて中には何が居るんだ」

考えるのに疲れたから取り敢えず殴ってみたら、扉が開いた。えっ、開けたじゃなくて壊したの間違いだろって、何言ってんだよ。裂け目に皹なんてはいってないだろ? これはこういうデザインの扉なんだよ。
さてと気を取り直して、中に入ってるものを拝見してみよう。筋力が条件で開く扉なんだ、中に入っているものにも期待できるな。
わくわく気分で部屋の中に入ってみると、大きな空間の中に円形の装置とそれに繋がっている大きな機械があるだけであった。

「なんだよ、ボスモンスターはいないのか、つまらんな。帰るか」

まー、知ってたさ。仕掛けとかなきゃ入れないところにモンスターなんか配置しないって、わかってたさ。でもさでもさ、なんだこのつまらん部屋は!
そう思い、踵を返そうとしたとき、脳内でピカーンと電流が走った。どうせならこの機械を弄ってから帰ろう。どうせ今から帰っても寝るのはダンジョンの中だしな。
テツだって機械を殴ったりしなきゃ文句は言わんだろう。さて、そうと決まれば早速。この赤いボタンが電源ボタンだろう。
ポチっ。トゥルルルトゥルン。ほーら起動した。ここのボタンを押して、こっちのボタンを押して、ほらこれで起動する。……何も起こんねえじゃねえか。まっ、そりゃそうか。おれ、テツみたいに動かし方わかった上で操作しているわけじゃないしな。取り敢えず寝て、起きたら帰るか。あの丸いところとか平らだし寝やすいだろ。さて、じゃあ寝る前に日課の筋トレをすませないとな。

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|time:7:48 |
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|limit:30sec. |
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装置のディスプレイだけが暗い部屋を照らしていた。






ガタンゴトン。

「地震か? 随分と揺れるな」

ガタンゴトンガタンゴトン。

「なんだ、まだ起きるには少し早いぞ」

ガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトン。

「あー、うるさいな。なんだってんだ一体。って、なんだあの龍は! こっちに向かって猛スピードで突進してく……ぐはっ!」

寝込みを襲うとは、つ、次は負けぬぞ、龍め……。






目を覚ましたとき、俺は昨晩と同じく、丸い装置の上にいた。

「なんだったんだ、今朝のあれは。夢……じゃないな、この痛みも幻痛じゃない」

龍がこの場に現れた?
いや、ぱっとしか見なかったが、こことは似ても似つかぬ風景だ。

寝ている間にどこかを徘徊した?
いや、俺に夢遊病の気はない。

ならば何が起こったのか?
テツならこういうときすんなり、答えを見つけ出すんだが、俺だとさっぱりだな。
うむ、考えても分からん。よし、寝てしまった分のトレーニングをしよう。

ゆっくりと息を吐き出し呼吸を一定に整える。そのままゆっくりと右拳を突き出す。もう一度呼吸を整え、右拳をゆっくりと突き出す。一連の動作の速度を徐々に上げ繰り返す、その際に動きが雑にならないよう常に指の先まで注意を払い続ける。右拳で満足のいく一撃を放てたら、今度は左拳、右足、左足と部位を変えて同様の形稽古を繰り返す。気をぬく時間など一瞬もない。一つ一つの動作を雑にやったらそれは修行ではなく、単なる無駄な運動となってしまうためだ。

一連の形稽古を終え、体に浮かぶ汗を拭う。少し休憩したら、次の修行にはいる。

迫る拳撃蹴撃をかわし、防ぎ、すきを見つけての反撃、かわされるが、焦らず体勢を立て直し次なる一撃を放つ。防がれお互いに距離を取り仕切り直す。今度はこちらから仕掛ける。相手の瞬きの瞬間に駆け出す。右拳の一撃。と思わせたフェイントでガードを吊り出し、それにより生まれた死角に入る。死角に入った俺を払おうと相手は回し蹴りを放つが、俺はその流れに逆らわず自らの体を後ろに倒し、両手だけを地面につけ体を支えこめかみに蹴りを入れる。そのまま着地し、揺らいでいる相手に回し蹴りでトドメを刺す。

息を出し、再び呼吸を整える。
今していたのは、仮想の自分との組み稽古だ。相手の動きを想像しながら、それに対応していく。側から見ると1人でたた動いているだけのようだが、とっさの対応力を鍛える良い訓練となる。上手くいった攻撃は実践で使える一つの攻め手となるし、ぎゃくに上手くいった攻撃は相手の対応が悪かったとも言えるため、同じ攻撃をされたときのしてはならない行動の見本となる。勿論かわす、防ぐを考えるのも自分のため、実際の戦いよりも自分に有利となるところが多いため実戦の中でそこは修正する。
そういえば、先日家でおんなじことをしていたらテツが「おじさん、何1人でパントマイムしてるの?」と聞いてきたが、まだまだ俺も修行が足りないな。その昔、師匠の訓練を見ているともう1人の師匠がはっきりと見えた。そのため師匠にそのことを尋ねたら、師匠は「それが一流の武道家の証」と一言答えて下さった。パントマイムと呼ばれるようじゃまだまだだ。師匠の域にたどり着くにはもっともっと修行する必要がある。
あっ、そのときに、テツがなんか勧めてきたな。なんだっけあれは、たしかあれは……し、しみゅ、しみゅれーしゃん? しすてむ? なんか仮想空間で実戦さながらに戦えるっていう不思議装置があるらしくて、それを修行に取り込んだらどうかとかそんな話だったな。
ちょっと待てよ、あの円形の装置ってもしかしてしみゅれーしょん装置じゃないか。だから実際に見たことない場所で、見たこともない奇妙な龍といきなり戦うことになったのか。しみゅれーしょんシステムなんて話を聞いたときは所詮仮想で現実に痛みのないトレーニングなんぞ緊張感のかけらもないだろうと馬鹿にしていたがこれは考えを改めないといけないな。不意打ちからなにからなんでもありで、あの現実感最高じゃねえか。
そんな装置がなぜ起動したのかだが、おそらく昨晩適当に操作していた時にうまくヒットしたのだろう。どう操作したのかも覚えてないから、もう一度おんなじことをやれと言われても無理そうだしな。あの装置を持って帰るのは辛そうだし、しばらくはここを拠点にして修行をするか。次こそあの龍にリベンジだ。
さてと、画面もまだ光ってるから装置は起動したままなんだろう。たぶん。となると次はいつ起動するかだが、

①一定時間毎に起動
②ある時間に起動

装置が起動するタイミングとしたら、このどっちかだとはおもうんだが、もし他のものだとしたら俺は知らん。違ったら一回テツをよんでこよう。テツのペースに合わせると往復するのに2日もかかってしまうという時間のロスは少しいたいが、あのレベルの修行ができるのだったらその価値はある。

さて、①だとしたら昨日の睡眠時間とかから考えて、今日の修行の最中にもう一度起動しているような気もするし、②の方向性でふんで、明日の朝方に起動すると思うことにしよう。明日の朝に再挑戦だ。さて、そうときまったら飯を食ってもう寝るか。睡眠もよい筋肉を作るためには必要不可欠だからな。徹夜なんてもってのほかだ。もってのほかだぞ。わかっているか。だからしっかりと寝て、リベンジマッチだ。

待っていろ、龍よ。

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|time:7:48 |
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ガタンゴトンガタンゴトン。

ふむ、どうやら予想は当たっていたようだ。前回と同じ景色。そしてもう少しでぶつかるというところまで迫り来る龍。

「昨日のように不意打ちなぞ食らわんぞ! 来い、龍よ!」

俺は構えをとり、龍を待ち受ける。
迫りくる龍、その瞳の中に何かの存在が見えた。何かと思い、意識を集中し、目を凝らす。瞳に映りこむのは恐怖に歪む人の顔だった。

「なっ……」

一瞬の硬直。しかし勝負においてその一瞬の硬直と言うのは致命傷だった。
一瞬の隙を逃さず、迫り来る龍。
迎撃も間に合わないと判断し、頭上のケーブルを使って上空に逃げることを選択する。
地面を離れ、ケーブルをつかんだ瞬間。

電撃が走った。

文字通り、高威力の電撃が。

「なっ、がっ、うっ! かはっ……」

薄れゆく意識の中、駆け抜ける龍が目に映った。
黄色い体色をした龍の姿が。
そうか、そうか……、お前雷竜だったのか。
雷竜の放つ電撃だったら、そりゃ強力だわ。

俺は昨日と同様に意識を手放した。






昨日と同じく丸い装置の上で目を覚ます。

「くっそ、あの龍は雷竜だったのか! 龍と戦うと言うのに属性を確認しなかっ
たなんて俺はバカか!」

龍は属性補正が強く、戦う龍の種類によって戦い方を変えるのが基本なんて駆け出し冒険者すら知っている常識だと言うのに……。俺は何をしているんだ。あれが実戦だったら俺は死んでいたぞ。いつ慢心できるほど俺は強くなったんだ。まだまだ俺は弱いと言うのに。今日は腐ったこの性根を叩き直さにゃいけんな。
しかしその前に考えなきゃならんことがある。

「龍の瞳に映りこんでいたあの人はなんなのだ?」

実際の龍であるのなら食われたり、取り込まれた人というので納得できるのだが、仮想の存在にそこまでの設定を付けるのであろうか。うむ……、考えてもわからんか。きっと戦いの最中に余計なこと考えるなということを伝えたかったんだろう。
よし、そうと決まったら、なめ腐ってたこの性根を叩き直すために今日は体を痛めつける。
そのために今日は走る。ただただ走る。
まずは部屋の中を走り回る。最初から全力疾走だ。後先なんか考えていたら、痛めつけにならん。
走る。走る。走る。走る。走る。走る。走った勢いで土埃や石などが部屋の中を舞い散り、そのうちのいくつかが装置に当たる。
装置にあたる音が聞こえた瞬間急制動をかける。

「やべぇ! 装置に当たるのはまずい。こわれてねぇかな」

…………ふぅ。たぶん大丈夫だな。画面はしっかり光ってるし、小さいが稼働音も聞こえる。たとえ、何か変わってもよくわかんねんだけどな。画面に書いてあること読めねえし。
さっきのことから反省して、部屋の中でやるのは危ないし外でやることにする。
というわけで戻ってきましたダンジョンに。ダンジョンで修行するなんて常識はずれ?
逆に考えろ? 
なぜダンジョンで修行すると常識はずれなんだ? 
あぶないからだろ。
なぜ危ないか?
モンスターや罠があるからだろ。
その点に関してならこの間ダンジョンを回ってた時に問題なしって判明したろ?
なら問題ないよな。もしもそういうのがあったとしても、試練が増えるだけだから楽しくね。ほら卵を割ったら双子でした! みたいなそんな感じで。
というわけで問題ないな。じゃあ、修行のつづきと行くか。ここならいくら埃を立てても平気だしな。
よしいくか。

タッタッタッタ。
タタタタタタタ。

ふーむ、しかし普通に走っても退屈だし、そこまで辛くないな。どうすればもっときつくなるか。
…………………。ピカーン。
走りながら案を模索していたら天啓が舞い降りた。
ヤベェな、俺これ天才じゃねぇか。よし、そうと決まったら実践だ。


というわけで俺は逆立ちをしている。
何をするのかというと走るのだ。はいそこ間抜けな顔をしない! 逆立ちしたまんま走るんだよ! 両手を交互に出してさ! これは疲れるはずだ。
よし、やろう。走り始める。右手左手右手左手。全身の筋肉を使うからこれはいいな。今度から普通に訓練で入れていこう。
走る。ひたすら走る。手が疲れても走る。頭に血が上っても走る。無心で走る。
走る。走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る走る。

パタッ。

気がつくと俺は倒れていた。頭に血が上って、脳に負荷をかけすぎたみたいだ。
さすがに脳みそは俺も簡単に鍛えられんからな。待てよ、これを続ければいずれ脳震盪とかの直接脳に来るダメージにも強くなるんじゃないか。よし、今後は少しずつ時間を伸ばしていこう。全身鍛えられて、脳まで鍛えられるとか、この訓練は凄すぎるぞ。そううしているとまた夜になったため、訓練を終え眠ることにする。明日は負けんぞ。黄龍よ。


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あくる朝。俺は再び龍と相見えるため大地に立った。んっ、今までと少し景色が違うか。場所が変わった? 昨日部屋の内で土埃を巻き上げたせいで少し設定が変わったか。まあ良い。地形が変わろうと俺のやることは変わらない。ただ龍と戦うだけだ。

ガタンゴトン。ガタンゴトン。

ほれ、龍の足音が聞こえてきた。
音が大きくなるにつれ、龍の姿が大きくなる。が、しかし。

「んっ、今日はおかしいな。昨日ほどの迫力がないぞ。速度も遅いな。どうしたのだ龍よ。腹の調子でも悪いのか?」

それに対する応えは何もない。咆哮もなく、ただ迫ってくるだけである。

「まあよい、来ないのならば、こちらからゆくぞ!」

そう意気込み、龍に向かってかけだす。自分が駆け出すことで、彼我の距離は加速度的に近づいていき、先手必勝と拳を構えたところで目の前がぼやけていった。






気が付くと、装置の上であった。今までに比べ、時間もそれほどたっておらず、龍と相見えた時間の直後といっても差し支えないほどである。

「ふむ、どういうことだ? 時間の感覚から言って、殴ろうとした所でこちらに戻ってきたようなかんじだよな。体の調子からいってダメージを食らったわけでもないし......となると、この装置の終了条件って、まさか時間指定か!?」

そう考えると納得だ。最初と2回目はすぐに龍に出会って戦い始めたのに対し、今回は龍と出会うまでにも少し時間がかかっていたから、その分で時間を余計に使ってしまったんだろう。
しかし、となるとあの制限時間だと1回ぶつかりあうのがせいぜいだな。どうするか。まあ、どうしようもねえな。最悪テツをよんでこよう。困った時のテツ頼みだ。とはいっても呼びに行くのはやっぱりめんどくさいし、できればやりたくないしな。明日もダメだったらびに行こう。
よし、そうと決まったら今日の修行だ。

今日は昨日自分への戒めをしていたせいで出来なかった龍対策の訓練をしよう。
あらゆる生命は大気中のマナを自身の力の一部として行使し生活している。マナには火・水などいくつかの属性があるのだが、たいていの生命はそれを気にせずに使用している。
しかし高位種族に分類される龍は、マナの中から自身にあった属性のマナを好んで使う。そのため、雷龍なら雷といった得意な属性というものが生じる。当たり前のことだが得意な属性の攻撃の威力はとてつもなく大きい。しかし逆に得意な属性があると言う事は攻撃の属性も読みやすいため、それに対抗する属性の魔力をまとっていれば攻撃の威力を激減できるほかに、こちらの攻撃の威力の底上げもできるということだ。
そのため、龍などと戦う際は魔力をまとうのが一般的とされる。こないだは忘れてしまったが、本来あれは自殺行為である。
というわけで魔装と呼ばれる、魔力をまとう技術の訓練を今日はしようと思う。
この魔装であるが、この技術は身体能力の底上げも出来るため、龍などと戦うとき以外でも、当たり前のように使われる。俺の場合、生身の筋肉を鍛えぬくことで、総合的な強さをあげたく思っているため、できる限り使わないようにしているが。もともと強い力を持ってるやつがさらに強い装備を付けた方が強いだろ、俺はそういうのをめざしているんだ。
というわけで今日の訓練だが、まずほどほどの大きさ、握りこぶしより2・3周り大きいぐらいをイメージしてくれ、の石を用意するだろ。それを壁に向かって殴り飛ばす。で、殴り飛ばした石を殴り返す。これの連続だ。たったこれだけだ。
えッ、なにいってるかよくわかんないって、仕方ないからもう一度説明してやろう。
壁に向かって石を殴り飛ばす。走って石が壁に着く前に回りこむ。石を殴り飛ばす。回りこむ。殴る。回りこむ。殴る。これだけ。昔一人キャッチボールとかしただろ。それとおんなじ要領だ。このときに注意することだが、まず、石より先に回りこむために足を魔力でまとい、速度をあげること。さすがに俺も生身の肉体だと少し速さが足りない。
次に石を殴るときに、拳の強化もそうだが、同時に石も強化しなくてはならない。そうしないとすぐに石が砕けてしまう。あとは石の中央を殴り続けることぐらいか。
まっ、御託は置いといてやるか。

フッ、フッ、フッ。

殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。
殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。殴る。走る。

バキッ。

ひたすら繰り返していると、ついに石が砕け、その破片が装置へと飛んでいく。

「ヤバっ!」

終わりだと思い、足の魔装を切っていた俺が間に合うはずもなく、石の破片は装置に突き刺さった。

「……装置は無事か? モニター。異常なし。稼働音。異常なし。…………たぶん大丈夫か? 古代の技術思ってた以上につよいな」

どうやら壊れてはいなさそうでひと安心だ。壊したらリベンジがかなわなくなるのももちろんだが、テツがこぇぇ。
まー、無事なようだし今日の修行も終わりにしようか。明日こそはリベンジきめてやる。


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|time:7:48 |
|place:KOIWA(+3) |
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よし、今日こそはリベンジを決めてやる。ふむ、また景色が違うな。また新しい場所にきたようだな。

ガタンゴトン。ガタンゴトン。

「今日は早い、お出ましだな。さてかかってこい。今日の俺は今までと一味違うぞ」

迫ってくる龍に合わせて魔装を展開する。が、

「えっ、魔装が展開できないだと、いったいどういうことだ。ちょっとまっ……ぐはっ……」

魔装の展開も出来ずに勢いよく跳ね飛ばされた。
宙を舞う体。
つい先日もあったような既視感。
薄れゆく意識の中、ひたすら自問する。なぜだ、なぜ魔装が展開できないんだ。
……まてよ、この世界大気中にマナが……。
意識を手放した。






いつものように装置の上で目を覚ます。
しかし体のいたみはいつもの比じゃない。全身が激しい痛みを訴えている。

「いってぇ、まさか魔装が使えないとは思わんかった。しっかし驚いたな。まさかあの世界、大気中にマナがないなんて、原料たるマナがなきゃ、魔装も使えるわけないよな」

そう、あの世界にはマナが一切なかったのだ。少ないわけでもなく全くなかった。あれでは生活するのも苦しいと思うのだが。と思ったが、仮想世界だから生活する必要もないのか。
むっ、しかしあの龍は雷撃も使えるのか……。なるほど魔装を使わずに龍をたおせというハードモードというわけか。面白いじゃねえか。本気の俺の筋肉を見せてやろう。小細工抜きの力をな。
さて、今日なのだが、今朝の一撃もあるが、なにより昨日の魔装の訓練の疲労も大きい。明日究極の一撃を放つために今日は休養をとろう。時には休みも作る。これもよい筋肉を作るために必要なことだ。
では、今日はひたすら寝るか。


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|place:KOIWA (+3)   |
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「いやー、ひどい目にあったすね。いきなり『てけてけ』のようのものにひかれて、岩にうもれるなんて、もう少しで生き埋めになるとこだったすよー。ん、なんすかねあの装置。むっちゃ光っててもう触ってくださいって言ってるじゃないっすか。これはいじくるしかないっすね」

暗い部屋のなかに、突如明るい男の声が響き渡る。男は若く、成人しているかどうかも怪しいほどである。
男は装置まで進むと、指をせわしなく動かす。そのたびにカタカタという音が響き渡り、画面がせわしなく変化する。
やがて満足したのか装置から男は離れる。

「こんくらいあった方が面白いっすね。では行きますか異世界に」

男は薄い気配をさらに殺し、丸い装置に歩み寄りその時を待つ。異世界へと旅立つその時を。


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|place:SHINKOIWA (+3) |
|limit:30hou. |
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よし、無事きどうしたな。今日こそリベンジ決めてやるからな。
顔を上げると一番最初にきた場所の景色であった。空気を吸い、精神を統一する。
今日こそ止めると決意の火を燃やす。

ガタンゴトン。ガタンゴトン。

きたか。よしかかってこい。今日は小細工抜きだ。何があろうと止めてやる。
そう決意し眼前の龍を見据える。龍はより一層速度を上げてこちらへと突き進んでくる。
俺はじっとそれを見つめながら、構えとともに心を整える。
力をためる。
まだだ、まだひきつけろ。
もっとちからをためこめ。
そして、彼我の距離が0になる瞬間ため込んだ力を解放し、龍をうけとめる。
おしこまれるが、地面にある横木を支えにおしかえす。

力の均衡は10秒と続かなかった。
龍が活動を停止したのだ。
追い打ちをかけようとするが、すでに龍は活動を停止していた。

「渾身の一撃を止められて、自ら活動を止めたか。その心意気あっぱれだ。お前との闘い楽しかったぞ」

そういい、好敵手に静かに背を向ける。振り向く際に龍の瞳に映る人に対し、安心しろと笑みをうかべた。
訓練だし、あの者は俺が何かしなくてもたすかるだろう。どういう風に助けるかは知らんが、そこは流れにまかせるとしよう。
にしてもなかなか戻らんな。普段だったらもうとっくに戻る時間なんだが、はっ、まさかこれはいわゆるボーナスステージというやつか。龍を倒したから、次の試練に入れる的な。
そうと決まったら探索だ。
いやー、探索と言えばこうでなくっちゃ。


探索をすると、灰色の石畳の上を鉄の猪が疾走している。
猪とのかかり稽古だと思い、石畳で出来た闘技場に足を踏み入れる。
その瞬間猪はけたたましい鳴き声をあげる。やる気は十分ってか。
さあかかってこい。そう意気込んだ瞬間。視界が暗転した。


「お帰り、おじさん」

目を覚ますといつもの丸い装置の上であった。
いやー、今日は疲れたなーもう寝ちゃうかー。

「お・か・え・り。おじさん」

はいきづいていましたよ。目を覚ましたらかわいい女の子の顔が目の前にあったんだよ。男ならだれでもうれしいと思うだろ。俺もうれしいさ。その女の子が額に青筋を浮かべてなければ。

「おう、ただいまテツ、久しぶりだな」
「うん、ひさしぶりだね。オジサン。私がダンジョンに入る前に言ったこと覚えてる?」
「お、おう……俺が可愛い姪のいったことを忘れるわけないじゃないか」
「か、か、かわいいって……もう、じゃあ何言ったかいってもらってもいい」
「『気を付けてね、大好きなおじさん(はぁと)』だろ?」
「そ、そ、そんなこと言ってないわよ! ダンジョンの中の物を壊さない、なにか見つけたらすぐ報告でしょ!」

おうおう顔を真っ赤にしちゃって。可愛いなこいつ。

「ああ、そんなこといってたな。テツが可愛くてすっかり忘れていたよ」
「だからまた、はー、おじさんごまかそうとしたってそうはいかないよ、どうして報告こなかったの」
「修行が楽しかったです!」

これ以上ごまかしたらあかんやつだなこれ、長年の付き合いからこれ以上やってはいけないラインは良く知っている。

「まったく、もういいわ。ぶじだったんだし」
「じゃあ、お説教も……」
「それは別。あとでしっかりとやるから覚えていて」
「はい……」

ダメだったか。まあおれが悪かったんだし甘んじて受け入れよう。
あっ、そうだテツに提案しとかないと。

「テツ、後でしみゅれーしょんシステム作ってもらってもいいか」
「別に構わないけど、なんで?」
「いやー、こいつがすごくてな。ちょっとなめていたわ。だから家でもやりたいと思ってな」

そういってお世話になった装置を指さす。

「これ、シミュレーションシステムじゃないよ」
「えっ……」
「そっか、おじさん誤解していたんだ。これ異世界転移装置だよ」
「えっ…………」
「ちなみにもう少しでマナ切れてもどってこれなくなっていたよ」
「えっ………………」

てことは、俺はリアルの命の危機にあってて、下手したらこっちに戻ってこれなくなっていたってことか……。あぶねー!! あぶなすぎるだろ俺!!

「そのー、テツ。本当に申し訳ない。そして本当にありがとう」

謝罪と感謝を心から伝えるため真摯に頭を下げる。

「んっ、いいよ。ちゃんと無事に帰ってきてくれたし。帰ろ。ちゃんとしたご飯食べてないでしょ」
「ああ。久々にまともな飯だ」
「ふふっ、今日は頑張ってごちそうつくるね」
「おう、期待してるぜ」
「でも、その後にお説教だからね。ロストテクノロジーは本当に危険なんだから、おじさんはそれをしらないと」
「ええ、まじかー」
「まじです」

並んで歩く二人の背中からは幸せなオーラがあふれ出ていた。










そのころ

「あー、あれが自動車っすねー、であっちが飛行機っすかー。本当に空を飛んでるっすね―。ところで、もう30時間はとっくに経ったはずなんすけど、いつになったら帰れるんっすかねー。あっ、あれが色々な情報が詰まっているというパソコンっすか。どういう仕組みなんすか。すごい気になるっす。未開の技術がわっしを呼んでるっすー」



おしまい




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第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

総武線は週二で停まる

僕は、背にかかる重みにあえぎながら、林の中を進んでいた。かつて田圃だったと思われるその林の地面はぬかるんで、度々足を取られそうになる。
耳元では背に負った友が、苦しそうに呼吸する音がしている。
「蝶野、あと少しだ。頑張れ」
半ば自分を励ますように、僕はそう彼に話しかけた。しかし返事はない僕は恐怖した。もしも彼の呼吸が止まったら、いや、その前に、僕は友をすぐさま放り出し、処理しなければならない。
「くそ、なんでこんなことに」
後悔に苛まれながら、僕は僕の村と、この国の中枢を担う都市とを結ぶ線路に急いでいた。
その名は、総武線と言う。


「肝試し、ですか?」
小さな村の、小さな派出所の中で、僕は相談に訪れた三人の母親たちの話を聞いていた。時刻は七時を回ろうとしており、日暮れの早いこの季節はもう外は真っ暗だ。
「そうなんですよ、駐在さん。うちの息子が昨日、明日は綿野さんの家に泊まるって急に言い出して。今日は休日だから沢山遊ぶんだって朝早くから出かけて行ったんです。心配になって聞きに行ったら、息子はあなたの家に泊まりに行ったって」
三人のうち一人、佐藤さんがいった。彼女の息子は太一君と言って、なかなかの悪ガキだ。多分、発案者は彼だろう。
「おかしいなってふたりで話していたら、阿部さんが通りかかって。阿部さんの家の霞ちゃんも、友達の家に泊まるっていうんです」
そうしてその友達に連絡してみると、そんな話は聞いていない、と。つまり、男子二人は互いの家に、女の子の霞ちゃんは女友達の家にと、口裏を合わせていたのだ。
「それで、肝試しっていうのはどこから分かったんです?」
今の話だけだと、ただ三人の子供が行方をくらました、ということしか分からないが。
「それは、良子が三人の話を聞いていたそうなんです」
綿野さんがそう答えた。肝試しに行ったのが浩一君で、良子ちゃんはその妹だ。
「お兄ちゃん達がどこに行ったのか、聞いてないかい?」
僕はかがんで、先程から母親の身体に隠れるように足にしがみついている、小さな女の子に尋ねた。
「兄ちゃんが、大人には言うなって」
良子ちゃんは小さな声で言った。やはり大人に囲まれて緊張しているようだ。
「大丈夫、君が怒られないように、秘密にしておくから」
「ほんと?」
 良子ちゃんが訝し気に僕の顔を窺っている。
「ほんとだもの」
 微笑んでそう答えると、良子ちゃんは思い切ったように話し始めた。
「あのね、みんなで村のはずれのハイキョに行くんだって。お前は小さいから来ちゃダメだ、て」
 母親たちがざわめく。村のはずれの廃墟、というのは、かなり昔に建てられたもので、大人たちは子供が近づかないよういつも言い含めていた。もう大分老朽化して、倒壊の恐れがあるからだ。
「すぐに迎えに行かないと」
 佐藤さんがそう叫んだ。他の母親も騒ぎ始める。
「落ち着いてください、皆さん。もう日も暮れているし、危険なので廃墟へは私たちが迎えに行きますよ。それに彼らも初等といっても赤ん坊じゃない。家で待っていてください。すぐに連れていきますから」
 そう言うと、渋々と言った様子で母親たちは引き下がった。廃墟は森の中で、大勢で向かうのは大変だというのもあったのだろう。
「では、皆さんは自宅にお戻りください。すぐに、すぐに向かいますから」
 母親たちは何度も頼みますよ、と念を押して帰っていった。
それを見送って、僕は上司と同僚に連絡をとる。
「やれやれ、面倒なことになったなあ」
 自然と、ため息がこぼれた。


「お二人さん、こんな夜更けに、ご苦労様だねえ」
「いえ、仕事ですから。こちらこそ車を出していただいてありがとうございます」
 村で車を所持している家は少ない。上司がお願いしてくれたおかげで、その数少ない所持者である村長さんが廃墟の近くまで送ってくれることになった。
……その上司は今頃、派出所でのんびりしているのだけれど。
「あの子たちにも困ったもんだ。全く、元気なのはいいんだがなあ」
 村長さんはのんきにそう言いつつ、余り状態がいいとはいえない道を危なげなく運転していく。もう六〇に近い老人で、毛髪にはところどころ白いものが混じり、年相応に皺も走っているが、その動きはきびきびと澱みない。
「たく、 ガキどもも手間取らせやがって。大体、あいつら来年はもう中学だろう。ほっといてもいいんじゃねえのか?」
 隣から、いかにも不機嫌そうな低い声が上がった。
「蝶野、村長さんに失礼だろ。それに、彼らだってまだ子供なんだから」
 僕はあきれ顔で、後部座席に一緒に座っている同僚を見た。目つきも人相も、ついでに口も悪い、僕の相棒だ。呼び出しを食らった直後からこんな調子である。
「構わんよ。こいつの態度は言っても直らん。だが、子どもたちを放っておけと言うのはいかんな。万一と言うことがある」
 村長さんは気にした様子もない。もう慣れっこなのだろう。
「万一って言ってもな。あの廃墟、俺がガキの頃から崩れる崩れるって言われて、結局ちゃんと建ったままじゃねえか」
 蝶野はいまだにぶつぶつ文句を言っている。
「じゃあ、捜索は明日にする?」
 だが僕が冗談めかしにそう尋ねると、途端にそっぽを向いて。
「そうは言ってねえよ」
 と返答するのだった。これで、子どもには妙に懐かれるのだ、こいつは。そして、それを本人も悪くは思っていないというのが、どうにもおかしく思えるのだった。
「やれやれ、思ってもいない文句を言うから……。それにな、倒壊だけが危険ではない。野犬でも潜んでいたらことだし、何より、奴らがおるかもしれん」
 村長は、最後の言葉だけはすこし声を潜めていた。『奴ら』、それは、人類を一世紀近く苦しめてきたものだ。
「おいおい、それこそ有り得ねえだろ。最後に奴らが現れたのは、確かじいさんが子供の頃だろ?」
 蝶野が呆れたように言った。
「何を言う、奴らはいつ紛れ込むか分からん。だからこそ恐怖なのだ」
 それから、村長さんは奴らについてとうとうと述べ始めた。これまでの人生で、幾度となく聞かされた話で正直退屈だったが。
 曰く。奴らは不死身で、人を襲い、そして仲間を増やす。これまでにあちこちで発生し、おびただしい人間を死に追いやった災禍であると。
 奴らのせいで人類の発展は遅れ、人口は減り、都市は分断された。人類はその克服に多大な時間と労力を費やし、抗体が発見された今なお、特に国外ではその脅威が続いている、と。
 ついでに、いつまでたっても総武線が週五で運休なのもそのせいなのだ、と。
……ちなみに、村長さんは運休と言っているが、最初から運行の予定はない。いつか毎日運行するようになる、という村民の願望を込めて言っているだけだったりする。
「む、すこし熱くなってしまったか。すまない。そろそろ到着だ」
 目的地を通りすぎるんじゃないかとひやひやした、とは言えなかった。


「さて、着いたな」
 鬱蒼とした森を抜け、整地された跡のある土地の中の、薄汚れた白い壁に覆われた建物にたどり着いた。
「おーい、ガキども、迎えに来たぞ。さっさと出てきておとなしく怒られろ」
 蝶野があまりやる気のない声で入り口に呼びかけるが、反応はない。
「そんなこと言って出てくるわけないだろ……。みんなー、一緒に謝ってあげるから出てきてくれー」
 それなりに声を張ったつもりだが、やはり反応はない。
「まいったなあ。ここにいないとなると厄介だぞ」
 今夜は月が明るく地上を照らしていたが、それでも日のない時間にてあたりしだい捜索するのは勘弁したい。
「どうせ中で隠れてるんだろ」
 蝶野はそう言うと、中に入ろうとぼろぼろの扉に手をかけた。
 その瞬間
うわああああああぁぁぁ!
「っつ、 太一!」
逼迫した叫び声が建物の中から聞こえ、蝶野がすぐさま駆け込んでいった。
「おい、待てよ!」
 僕は一瞬反応が遅れ、蝶野の後ろを慌てて追う。建物の中に入ると、視界のほとんどはべったりとした暗闇に塗りつぶされ、鉄格子のある窓から微かに差し込む光と、僕と蝶野がもつ懐中電灯の明かりだけがそれを切り取っていた。
 その蝶野の持つ懐中電灯の明かりは激しく動きまわり、自分の懐中電灯を向けるとなにか小さなものを必死に押さえつけているようだ。
「おい、太一を連れて外に出ろ!」
 蝶野に駆け寄ろうとしていた足が、その声で急停止する。直後に、子どもが自
分に飛びついてくるのが分かった。
 僕はその子の手を取り、つい先程くぐった扉を引き返す。
 月光の中に出て下を見ると、髪を短く刈られた頭が震えているのが見えた。
「太一君、いったいなにが起こったんだい?」
 すぐにでも蝶野に加勢したい、その気持ちを抑え、少年の泣きはらした真っ赤な目を見つめながら尋ねた。
「ち、地下に行く扉を見つけて、か、霞と浩一が、『あいつ』に……っ」
「あいつ……? まさか!?」
 車の中での、村長の言葉が脳裏によぎった。
(奴らはいつ紛れ込むか分からん。だからこそ恐怖なのだ)
 同時に、気付きたくないことに気付いてしまう。
「じゃあ、さっき蝶野がもみ合ってたのは……」
 途端に、太一君の顔がこれ以上ないくらいにゆがむ。
「ふ、二人とも噛まれちゃった。浩一は、俺と霞が地下の部屋から出るまで『あいつ』を押さえつけて……。そしたら、霞もおかしくなって……。どうしよ、俺のせいだ、俺がこんなとこ行こうって言ったから!」
 相当ショックだったのだろう。当たり前だ。友達が二人、目の前で死んだのだから。
「落ち着いて、太一君。まず確認だけど、注射は打ったかい?」
太一君はふるふる、と首を振った。
 僕の国では、『奴ら』になることを防ぐ効果を一時的に獲得できる薬の入った注射器が、国民全員に各々一つずつ配布されている。非常時には即刻に注射することが義務付けられているのだ。
「よし、じゃあ一緒に打とう。やり方は分かるね?」
 今度はこくり、と頷いた。
注射器の使い方は学校で必ず習うが、僕も実物を使用するのは初めてだ。
 常に持ち歩いている容器から注射器を取り出し、訓練通りに注入する。太一君が正しく注射を行えていることも確認した。
「ほら、これで安心だ。まっすぐ森を抜けたところで、村長さんが車に乗って待ってる。村に下りて、みんなに伝えるんだ」
「でも……」
「いいから行くんだ、ほら、振り返らずに!」
 僕の、今まで見せたことのないような形相に気圧されたのか、太一君は言った通りに真っ直ぐ走り去っていった。
「蝶野、無事でいてくれよ……!」
 訓練と整備以外ではろくに抜いたこともない拳銃を握りしめ、僕は再び建物内に侵入した。


部屋の中を懐中電灯で照らすと、先程二人がもみ合っていた場所にうずくまっている蝶野を発見した。取り敢えずこちらを襲ってくる様子はない。
「おい、大丈夫か」
 声を潜めてよびかける。
 ゆっくりとこちらを振り向いた蝶野の表情を見て、僕は息をのみそうになった。
 彼の顔は懐中電灯の薄暗い明かりでもわかるほど青白く、一切の生気が感じられない。それでいて、そのなかに様々な感情が渦巻いているのが感じられた。
「おまえ、か。太一は、どうした」
 普段の荒々しい雰囲気はなりをひそめ、声に力はない。
「いま、村長さんの車に向かってる。薬も打たせた。それより、お前は大丈夫なのか?」
 そういって、一歩、足を踏み出す。すると
ピチャッ
「な……ひっ」
 粘着質な音が響き、思わず床に懐中電灯を当てると、そこには頭をひどく損壊した小さな死体が横たわっていた。その割れ目から流れた血や体液が、殴打されところどころ黒ずんだ顔の上を流れ落ち、床に血だまりを作っていた。
「霞……ちゃん」
 だれがやったのかは明らかだった。行為者が、それを望んでいなかったことも。
「ち、蝶野……?」
「……よかった。それで、浩一は?」
 僕の呼び掛けには反応せず、最後の一人の安否を気遣う。
「浩一君は、地下で大本の感染者と……」
 その悲痛な問いかけに最悪の答えを返すのが、とても辛い。申し訳ない。
「そうか……なら、行かなきゃな」
 蝶野はべちゃべちゃと音を立てながらゆっくりと立ち上がり、腰の拳銃を引き抜いた。
「応援を待った方が……」
「俺が、やらなきゃだめだ。他の連中には任せない。お前も帰りたいなら帰れ。その方がいい」
 僕が無意識伸ばした手を無感情に眺めながら、蝶野は言った。
「馬鹿言え、置いてけるか」
 僕はがたがたと震えながらも、何とかそう答えることに成功した。
「ふん、馬鹿はお前だ…………」
 恥ずかしそうに、というのは僕の主観だが、顔を伏せた蝶野を見て、相変わらずだな、と僕は思った。


 そのあと、建物を出るまでのことは、もう思い出したくない。ただ一つ言えるのは、蝶野は誰も殺さなかったということだ。そう、僕がそうさせなかった。
 その時の僕にとって、それだけが重要だった。


 異変に気付いたのは、建物を出た時だった。
「蝶野、おまえ息が上がってるぞ。大丈夫か」
「ああ、ひっかかれたからな」
 蝶野は、なんとでもない事のようにそう答えた。暗い中では気が付かなかったが、その手の甲には確かにみみず腫れが出来ていた。
「注射は打ったんだろうな」
 僕は驚いて詰め寄った。
「いや、打ってない。こないだ売り払っちまったからな。ああほんと、止めときゃ良かった」
 先程までが嘘のように、変に軽い態度を装っている。
「なにしてんだ!? 僕もそこまで馬鹿だとは思わなかった! 派出所に予備があるはずだ。行くぞ!」
 薬はかなり貴重なもので、原則として一人が一本持つだけだが、例外として各村の治安維持に関わる部署は予備として数本、所持することを許されている。
「無駄だ。俺に販売ルートを教えたのは上司、派出所の人間だ。流石に個々人のものには手を付けてないが、それ以外は全部売っちまって、あの中身は全部ただの生理食塩水かなにかだとさ」
 衝撃だった。まさか、そんな。命にかかわることだろ……
「ああ、一応弁護しておくと、売ったのは上司本人じゃない。前任の所長が、退職金代わりに持ってったとか言ってたな」
「他人の名誉なんて気にしてる場合じゃないだろ! なにか、なにか方法はないのか!?」
 あまりにひょうひょうとした態度に怒りを覚えた。この男は、自分の命がかかっているときに、そうしてそんな言いぐさが出来るのか。どうして、そんな、諦めたような態度をとるのか。
「今更、村に戻っても派出所の連中が薬の密売を隠そうとするだろうしな。で、まあ心苦しい限りだが、お前に頼みがある」
 俺を、殺してくれよ?
――――――――っ
 頭が沸騰するかと思った。ここまで怒りが湧いてくるのは初めてだ。同時に、僕は頭の中で必死にこのあたりの地図を思い描いていた。
そして、進むべき方向は決まった。
「蝶野、立て。引き摺ってでも連れてくぞ」


 今僕はこうして林の中を歩いている。
 総武本線を走る汽車には、未だ奴らとの接触の多い辺境の地のために、多くの薬が積まれている。そして、今この時間は週に二度しかない、汽車が村の近くの線路を通過するタイミングだ。
「本当に、呆れるほどの悪運だよ、おまえ」
 ようやく、長い夜が明けようかと言うとき。僕と蝶野は線路わきに到達した。
 やがて、汽車がレールの上を走る振動が伝わってきた。疲れ果て、倒れ伏した僕は蝶野の呼吸音を確かめて、安堵の息を吐く。
 機関士が僕たちに気付いたのか、ブレーキが踏まれる音が聞こえる。誰かに体を持ち上げられる感覚がした時には、僕の意識は半ば途絶えていた。





第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

傘がない


 ぽつっと冷たい感触がした。見上げれば灰色を塗りたくったような曇天で、雨か、と呟いていた。
「二番線電車が参ります。お下がりください」
 顔に風を感じると、黄色い電車が走り抜ける。髪の毛とスカートが巻き上げられ、少し肌寒く感じる。
 いつもと同じ七時二七分に到着した電車は一分後に発車する。機械のようにあたり前で、何も変わらない。

 電車中ほどに入り、教科書の詰まった鞄を下ろし、吊革を掴んだ。同時に電車が動き出す。窓を見れば、幾筋かの水滴がガラスの上を走っている。やはり雨だったようだ。
 はあっと息をこぼした。手提げ袋に手をつっこむ、傘はなかった。一昨日はひどい雨で昨日は反対にきれいに晴れた。完全に油断していたのだ。まだ弱々しく走る水滴を眺めて私は、英語教師の言葉を思い出した。

「井上陽水の傘がないって曲知ってる?僕が君たちと同じくらいの時、まあだから高校二年生くらいか。そのときに流行った曲なんだけど、当時は学生運動が盛んな時期でね、みんな社会のことばっか考えてたの。でも、この曲はそんな社会のことよりも、俺は今傘がないって歌っててね。衝撃を受けたもんだよ」
 還暦近くの、頭の禿げ上がった教師は感慨ありげという表情で言葉を発した。全く授業と関係ない話で、どうしてそんな文脈になったかと頭をひねるばかりだった。だけど、たしかに傘がないのは困るよなあと、髪に触れた。こんな日は大体一日中雨だ。髪の毛が湿気を吸って、ボリュームが出ている。
 ふと、大事なことを忘れているような気がしてきた。試しに頭をたたいてみる。そうだった。英語教師の顔で思い出した。今日は火曜日だ。英単語の小テストが朝読書の時間に実施される。鞄から付箋だらけの単語帳を引っ張り出した。今から百単語覚えるのかと、半ばあきらめつつも、ここで及第点を取らなければ、金曜日の放課後に再テストの憂き目にあう。(しかも合格するまで帰れない)それは何としても避けたかった。
 ページをめくり、単語と意味を確認していく。電車の揺れが急かしているようでひどくうるさい。
 その瞬間、電車が唐突に停車した。
「急停車です。」
 車内アナウンスが流れた。
 先ほどまであんなに走っていた電車がぴくりとも動かなくなった。
車内がわずかにざわついている。苛立たしそうにスマホを操作し、どこかへ連絡している者。ため息をこぼし、暗い表情のサラリーマン。目の前に座っている若い会社員は、一日遅れのジャンプを読んでいる。彼だけはどこか楽しそうだ。
私といえば、単語を覚える必要はなくなった。電車が止まって五分以上経つがこれでは、学校へ直通のスクールバスには乗れそうもない。単語帳をぱさりと鞄に放り出した。
「えー、電車遅れまして大変申し訳ございません。ただ今確認を取っております。もう少々お待ち下さい」アナウンスが流れ出す。
まだまだ動き出すまでには時間がかかりそうだ。
窓に視線を戻すと、雨は強まっていた。そうだ。あの日もこんな天気だった。

   ***
 最悪だった、と覚えている。バケツをひっくり返したと表現してもウソじゃないくらいには雨が降っていた。駅に辿り着く前に、雨水が靴の中に入りこんでいた。足はかじかみ、末端の感覚は無くなって、歩を進める度に、ぐちゃりぐちゃりと水を踏みしめるのが不愉快だった。
 やっとの思いで駅に着いて、傘を閉じた。水滴が傘の先で池をつくっている。いつもより滑りやすい階段を注意して降りると、不穏な空気が流れていることに気がついた。
 ホームに立つ者は、ある者は目を背け、ある者は惚けたように見つめ、ある者は何事も無かったかのように振舞っていた。
視線を辿ると、ホームを超えて線路上へと続いている。
 見慣れた無機質な色合いの中に、眩しい程の人工的な青があった。
 線路上の一部はブルーシートで覆われており、ヘルメットを被った作業員が四人ほど何かを片付けている。
 その瞬間きゅっと息を吸った。口に出してはいけない、認識していることを知られたくなかった。だからと言って、目を背けるのも同じことだ。結局、自分より先にここに立っていた人と振る舞いは変わらない。

 駅員はアナウンスでジンシンジコとけたたましくがなっていた。電光掲示板は赤字の注意書きでうまっている。電車が復旧するにはかなりの時間を要した。

 問題は、ブルーシートに視線を戻した時だった。何か黒いものがブルーシートにまとわりついているような、そんな気がした。幾度か瞬きした。目もこすった。
 しかし、その黒いものは消えることはなかった。
 尻尾のようなものを揺らし、シートを静かに見つめている。猫だと思った。黒猫だ。
 何でこんな所に――。
 その瞬間、背中に感じた衝撃で、我に帰った。運転見合わせで、ホーム上は人で溢れかえっていた。足の踏み場も怪しい。後ろを振り向けば、疲れきったOLがもっと詰めろと言わんばかりの表情で睨みつけていた。
 すいません、と口の中で呟きつつも、自分の目が本当なのか気になった。
「あの、あれ」とブルーシートを指差して、黒猫が見えているのかを訊ねた。
「え?」と、OLは訳が分からないわ不謹慎ね、とでも言わんばかりの表情で私の問いには応えず、スマホの画面に目を向けた。
 ブルーシートを再度見れば、黒猫はいなくなっていた。やはり、私の思い違いだったのかもしれない。

 黒猫には思い出があった。私が生まれた時にはすでに家に黒猫がいた。私が生まれる一年前にペットショップから無料で引き取った、と父は教えてくれた。母さんが流産してしまった時に貰ってきたんだ、ともこっそり付け加えた。雑種ではあったが、毛並みは美しく暗闇のような黒い体から、ヨルと名付けられた。真っ暗闇の毛並みの中に、ぱちりと光る目が夜空に浮かぶ星のようで、私はヨルのことが大好きだった。
 ヨルは姉として、私と一緒に育てられた。言葉が通じることはないけれども、感情は分かちあっていた。
 だけど、ヨルはいなくなった。
 小学六年生のある日、ヨルは帰ってくることはなかった。いつもなら、家の外に出しても夕刻になれば帰ってくるのだが、そのときは違った。
学校から帰ってきてそのことを知った私は、家を飛び出しヨルの行きそうなところをくま無く探した。だけど、彼女はどこにもいなくて、泣きながらそこら中を、無茶苦茶に歩き回っていた。夕日に照らされたオレンジ色の空の、暗闇へと移り変わる不気味な色合いが、怖くて怖くて仕方なかった。
 その後はよく覚えてはいないのだけど、楽観的な父は「猫ってものは気紛れだから、すぐ帰ってくる」と言い張り、母も「ヨルは賢い子だから大丈夫よ」と励ましてくれた。
 しかし、三日しても一週間してもヨルは帰って来なかった。

   ***
 ある考えがあった。それが私を、突き動かす。そして今、線路の上を歩いている。昔、金曜ロードショーで見た、スタンド・バイ・ミーのごとく私は線路を歩いている。
 時刻は深夜二時。どうしても、あの黒猫にもう一度会いたかった。日中見た時に、ヨルと同じ星空の目で見つめられた気がしたのだ。
 考えてみれば、こんな不確かなことで、家を抜け出して線路を歩いているなんて滑稽かもしれない。ヨルがいなくなった時以来だった。

 駅に潜り込んで、ホームから確かめようとしたが、終電が過ぎると駅の改札前はシャッターで塞がれる。自分の詰め甘さを悔いた。やむなく、近くの踏切から線路を辿り、駅を目指す。はあ、と息を吐けば白くなる。もうすぐ、冬が来るのだと実感した。
 しばらく歩いたからか、体は温まってきていた。そろそろ、着いてもいい頃だ。
 駅舎が見えた。確か、一番線の方だと歩を進める。
「ヨル。いるのー?」
 声を張り上げることは出来ないけれども、恐る恐る声をかける。誰もいない駅舎は、自分の声をただ反射するだけだ。何度か声を発した。
 ふと、静寂に包まれた駅舎の中で、一人だけ音を発する自分がひどく場違いな存在であるような気がしてきた。間延びした自分の声がただ響く。
 不思議と恐怖は無かったが、諦めの感情が胸の中を渦巻いた。
 線路、ホームの上、緊急避難場所の中も覗いてみたが、生き物がいるとは思えなかった。
 やっぱり私の勘違いだったんだ。心の中で反芻して、空を見上げた。目頭にあついものがこみ上げて、鼻がつーんとした。冬が近い。澄み切った空気の中で、星が煌めいていた。
 また会いたかったなと星に願うも、そうはいかないようだ。さっき来た道に向き直る。

「にゃあ」

 猫の鳴き声――?まだ期待してしまっている自分がいるのだろうか。
 恐る恐る後ろを振り返ってみた。
 そこには――黒猫がこちらを見つめて座っていた。
 こちらを見る目は、ヨルと同じ色だった。ヨルだと思った。やっと帰ってきてくれた。私を待っていてくれたんだ。何で置いていったのだろう。どうして、いなくなっちゃったの。頭の中がぐるぐるとかき回される。
 ヨルはこちらに近づいてきて、私の足に顔を擦り付け、一言にゃあと鳴いた。それがただいま、と言っているみたいで。まとまらなかった頭の中が、すうっと一つになって言葉となって溢れ出た。
「帰ろう」
 触ると喜んだ首のあたりを撫でながら呟いていた。ヨルは嬉しそうに、ゴロゴロと喉をならしている。ヨルだ。やっぱりヨルだ。
「ねえ、ヨル。お家に帰ろう」
 改めて言葉に出してみる。背を撫でられて、気持ち良さそうにしていた彼女は、びくっと目を見開き、困ったような表情をした。
「ヨルは…帰らないの?」
 言葉を発すことはできない。しかし、肯定と言わんばかりに目を細めた。
「何で…?」
 ヨルは表情を変えることなく、ぱたり、ぱたりと尻尾を振っている。
 嫌だ、また別れるなんて。せっかくまた会えたのに、どうして――。
 ぽつり。ぽつ、ぽつ、ぽ、ぽ、ぽ
 気持ちに呼応するように、また雨が降りはじめた。頬を流れるものが、雨なのか涙なのかは分からない。
 ヨルは、ヒゲをぶるると振るわせて、体を起こした。そして、私に向かってぺこりとお辞儀をしたかと思うと、私の反対方向に歩き出した。
 やはり、ヨルは帰る気がないようだ。それでも、どうしても、諦めることはできない。
「待って!一日だけ…一日だけ一緒にいて!」
 十歩ほどは歩いたであろう彼女の背に叫んだ。
 ヨルは立ち止まった。瞬間私は、彼女に駆け寄った。ヨルはまたも困ったような顔で、にゃあんと小さく鳴いた。


 抱きかかえられたヨルが抵抗することはなかった。冷たい水の中、彼女のぬくもりだけが現実だった。汽車に追いかけられるように、線路を駆ける。規則的に並べられた枕木に、時折足を取られた。
 ヨル、軽くなったな。――私が重くなったのか。どうしても、一緒にいられなかった年月を考えてしまう。

 息を切らして我が家を前にした。家のドアを前にして、ヨルがはじめて身じろぎした。首を左右に振って、なーなーと鳴く。黄色い瞳がこちらを見上げた。
 今日だけだから、と口の中で呟いて、ヨルを抱え直した。両親に見つからないように、忍び足で自室に戻る。びしょ濡れになった制服を脱ぎ捨てた。脱衣室から拝借したタオルで、ヨルの体を拭う。丹念に水気を拭き取った彼女の毛並みは、つややかな漆黒だった。
 ヨルは窓の外を静かに見つめていた。私も一緒に、窓から見える夜空を眺める。そうして、下着一枚裸同然の姿で、床にへたりこんだ。

 この時、私は、約束を破ろうと考えていた。いざ、家に入ってしまえば、一日で帰ることなんてできないだろう。これからずっと一緒にいるのだ。
 顔を洗っているヨルの背中に指先で触れ、これからを思い描いた。

 だけど、結論から言うとヨルは家に残ることはなかった。

 ヨルを連れ帰った日は、そのまま一緒のベッドで寝た。ヨルのぬくもりが肌を伝い、一緒に過ごした時間が次々に思い出された。そういえば、よくベッドにもぐりこんだっけ。冬の寒い朝は、早く起きろと言わんばかりに顔をなめられもした。
 蓋をしていたはずの些細な記憶が溢れ出して止まらなかった。そうして、ヨルと記憶に包まれて私は眠った。

 次の日から、私は体調を崩した。
 昨日、雨にずぶ濡れで帰ったのだから、風邪をひいて当然だ。しかし、今まで生きてきた中で、一二を争うまでの大風邪をひいた。
 だが、高熱にうなされぼんやりとする頭の中でも私は満たされていた。隣にはヨルがいた。彼女は、時折心配そうな顔をして、熱を確かめるかのように額を擦り付ける。
 約束の期限が過ぎているけど、まだ残ってくれているという事実が何よりも嬉しかった。体は動かないが、それ以上に気持ちでヨルと繋がっている。また一緒に暮らせるんだという期待が頭をもたげた。

 だが、熱は一向にひくことはなかった。
 病院にもかかったが、薬を飲んでも効果はなく、医者は頭をひねるばかりだった。
 うだるような高熱の中で、ヨルはこちらを申し訳無さそうに覗き込んでいた。
「ありがとう…ヨル…心配してくれて」
 からからに乾いた唇で、必死に言葉を紡いだ。と、同時に母親が枕を替えに部屋を訪れた。
「水穂、今、ヨルって言った?」
 母は不思議そうに訊ねた。
 「そうだよ」と母の表情に戸惑いを覚える。
 母は、ざらじゃらと氷がどっさり入った枕を私の頭の下に置き、懐かしむように言葉を発した。
「ヨルね…水穂が小学六年生の頃だったよね。あの子どこに行っちゃったんだろうね」
 母は何を言っているんだろうか。だってヨルは私のすぐ隣に――。
「ヨルならここにいるじゃん」
 私はヨルを見つめながら訴えた。ヨルは帰ってきたんだ。手触りだってほらこんなに真っ黒で毛並みだって。
 母は少し息を吸って、吐いた。そして、私に近づいて額と額をこつんと合わせた。母の額はひんやりとして気持ちいい。
「水穂、熱治まんないね。頭が朦朧としているみたいだし…明日、違う病院いってみようか」
 えっ…。私は母の気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。困惑が顔に出たのか、
「そんなに心配しないで。今日はゆっくり休んでね」
 手の甲で頬を幾度か撫で、母は部屋を後にした。

「ヨル…」
 不安になって視線を向ければ、大きな目はすぅと細められた。
 それは、ごめんねと言っている気がしてならなかった。

 目を覚ましたら熱はまるでなかったかのようにひいて、体は羽が生えたように軽かった。
なぜか部屋の窓は開けられていた。母が換気するために開け放したのだろうか。
 怪訝に思い、窓に近づくとヨルが窓枠に座っていた。尻尾をぶらんと垂れ下げて、振り子みたいにゆらしている。
 電気もついていない真っ暗闇の部屋の中で、ヨルの目だけが星のように見える。
 一言低めの声で、なーと彼女は鳴いた。
 その瞬間、ああ行ってしまうんだと理解できた。
 三度目の涙は出なかった。だけど、同時に言葉も出なくなった。
 再度、目が細められた。ヨルは何回も謝っていたのだ。私が無理を言って連れてきたのに。彼女は何も悪くない。そのことを伝えたかった。そうして、ヨルにありがとう、とも伝えたかった。しかし、肝心の言葉がどうしても出てこない。
 幾度となく視線を交わすも言葉はつっかえたままだった。

 先に動いたのは、ヨルだった。
 なーんと鳴いたかと思うと、窓の外へ顔を突き出した。
 夜空を見上げた後、もう一度こちらを振り向いた。
 言わなくちゃと、言葉を振り絞る。
「…行って」
 ヒゲを振るわせたヨルは振り返ることなく、暗闇へ身を投じた。

   ***
「只今確認が取れましたところ、新小岩小岩間で人身事故が発生したとのことです。そのため、総武線各駅停車千葉行きは運転を見合せております。電車遅れまして大変申し訳ございません。復旧の見込みについては随時お知らせ致します」

 あの日以来、一度だけヨルを見かけたことがある。その時もまた、ヨルはブルーシートの横に佇んでいた。見つめていた私に気づいたのか、すぐに姿を消した。
 それから、彼女の姿を見ることはなくなった。
 彼女は電車に轢かれて、この世にはもう存在しないのだろうか。
 それとも、あの日のようにブルーシートに佇んでいるのだろうか。
 電車が止まった日は、ヨルのことを考える。
 彼女がどうなったか私の知るところではなくなった。
 でも、電車が止まるとヨルがいるようで、少し嬉しくなってしまうのはいけないことだろうか。

 視線を上げれば、ボツボツと雨粒が窓を鳴らす。
 傘がないなぁと二度目のため息をついた。
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

あの頃

 君の声が聞こえた。

 呼吸ができない。
 心臓が握りつぶされている。
 息の通り道を狭め肺を絞る。ブラウスに爪を立てて心臓をつかむ。
 力を込めて握りつぶしたのは、ただの空気。少し長い爪が手のひらに食い込んでいくのを感じる。
 力は緩めず、息も吸わない。
 目を閉じてやり場のない怒りを、自分に向ける――。


 朝の駅には人があふれている。制服を着た中高生と、リュックを背負った大学生、スーツを着た会社員。ほとんどが手にスマホを持ち、無言でうつむいている。私を含めて。
 それなのに聞こえてくるのは、ざわざわとした、人の声が衣擦れや足音の中にまじりあった音。
 厚みのある喧噪に少し安心感を得る。仕事を終える頃にはうんざりしているだろうけど、今は、朝のうちは、人の声に囲まれていたい。明日は、壁を隔てた生活音を除いて、自分の音しか聞こえない部屋にこもるから、余計に。
「ユウキおせーよ!」
「お? 遅刻かぁー?」
「いや、まだセーフだって!」
 身をゆだねていたあたたかい音の層から、声変わり中の高いかすれた声が飛びだしてきた。大した用もないのに開いているSNSの画面から目を離して、ちらりと様子をうかがう。
 そろいの制服を着た少年が三人、楽しそうに話している。あどけない顔立ちから見ると中学生なのだろう。朝っぱらからテンションの高い少年たちの声は、仕事や学校で憂鬱そうな顔が並ぶ朝のホームでひときわ目立つ。
「まぁいいや、セーフってことにしといてやるよ。今のところ遅延してないしな」
 不必要なくらい大きく喋るのは、この時期では当たり前だっただろうか。中学校の異常にうるさかった教室を思い出す。
 懐かしさを感じながら、電光掲示板を見上げた。確かに、今日は珍しく発車時刻が表示されている。遅延のせいでなにも書いていない、というのに慣れてしまったから少しだけ新鮮だ。どこそこで人身事故、車両点検、というアナウンスも聞こえてこない。
 今日はツイている、ととっさに思った。あまり不自由は感じないけど、どうせなら表示通りに電車が来た方がいい。
「嘘だろ!? マジか!」
「残念だったな、ユウキ」
「いや、あと二分ある。頼むよ、総武線! いつもの調子を取り戻してくれ!」
「もう無理だろー、時間通りにつくよ、今日は」
 それなのに、耳に入ってくる中学生たちの話はなぜか流れがおかしい。彼らの特徴的な声だけを探して耳をそばだててしまう。
「今週はやっとユウキの正式な負けが来るか!?」
「ユウキが負けるときは、ほとんど遅刻だよな」
「お前いっつも遅延の方に賭けんだもん。もっと冒険しようぜ」
「ヤダよ、奢りたくねぇし」
「でも、時間通りに来たときの負けの方がでかいじゃねえか」
「どうせめったにないんだからいいんだよ」
 どうやら総武線の遅延で賭けをしているみたいだ。朝の腹立たしい状況でさえ、面白いものに変換してしまえる少年たち。侮れない。
 ほほえましいのと感心したので自然と頬が緩む。
「でも今日はー??」
「時間通りに来てー??」
「ユウキが一人負けてー??」
「それでー??」
 これぞ、中学男子のノリ。ユウキと呼ばれている少年の顔を覗き込みながら、二人が煽っている。
 つい噴き出した私を、隣に立つサラリーマンが片眉を上げながら見てきた。慌ててすました顔を作ってスマホの画面へ視線を落とすが、注意はすべて耳に集まっている状態だ。真っ暗で鏡のようになっている画面の中で、私の顔は普段よりも不細工になっている。口元を引き締め不自然でない程度に口角を上げる。
「あれっ、顔赤くなってますよ、ユウキ先輩」
「うるせぇ!」
「あれれ、ユウキ先輩、俺ら何にも言ってないですよ?」
「そんなに花城のことを意識しちゃってんですか?」
「マジ、黙れよお前ら!」
 ユウキの声がひときわ大きくなる。出来上がった表情を顔にくっつけたまま様子をうかがうと、二人がゲラゲラと笑っていた。あちらこちらの人たちが、さっきのサラリーマンどころじゃない顔で中学生たちを見ている。あからさまに眉をひそめて離れる人もいた。
 彼らによって乱された喧騒の中で、憮然としたユウキは一人、電光掲示板を見上げている。

 まもなく、5番線に各駅停車三鷹行きがまいります。
 危ないですから、黄色い線までお下がり下さい

 チャイムが鳴ってアナウンスが流れた。人間に押しつぶされるため、私はカバンの中にスマホをしまい気を引き締める。
「さて、刻々とタイムリミットは近づいてきております。『遅延』という無難な選択をして月、火、水、木とすり抜けてきたユウキ選手。最後の最後で負けてしまうのか!?」
 呼び捨てから先輩。先輩から選手に。ころころと呼び方を変えて、今度は実況のアナウンサーのようにまくし立てている。ユウキの様子などお構いなしに、二人の声のボリュームはどんどん上がっていく。
 もはや聞き耳を立てなくても一言一句はっきりとわかる。

「そして、とうとうユウキは花城に告白することになるのか!?」

 飛び出てきた言葉に、胸が締め付けられた。
 古びた教室の匂いが思い出されて深く息を吸い込む。
 私たちが中三の時に取り壊されてしまった、戦前に建てられたという校舎。休み時間にふざける男子のせいで、何度も外れた年季の入った木製の扉。木のささくれが剥かれていってどんどんぼろくなった机。先生が書き付けるたびガコガコ言っていた黒板……。
 今でも鮮明に覚えている。
 生徒が入れる最後の日、黒板は「ありがとう」「大好き!」というカラフルなメッセージでいっぱいだった。
 私の字はその中に混ざっていない。けれど、黒板には残しておいた。裏の木の部分に一言だけ。

「別にそれじゃなくていいじゃん! いつもみたいに奢りにしよーぜ!」
 ユウキの必至な声。
「だーめ。おれたちはお前の背中を押してやるの!」
「そうだぞ! お前も1回は了承しただろ!」
「そうだそうだ! 負けそうだからって賭けのネタ変えんなよ!」
「それに言っとかないと後で後悔するぞー。どうすんだよー、花城に彼氏ができたらー」
 二人のたたみかける声。

「あー、もう。わかったよ! 言うよ! 言えばいいんだろ……!」

 ホームに電車が入ってきて彼らの声は掻き消え、その先は聞こえなくなった。
 最初は面白がっていた中学男子の言葉が、思いがけず心に刺さってくる。
 黄色い車体に詰め込まれながら、過去の自分を振り返る。
 中学生の私は、何もできないくせに、煮えたぎる思いを抱えながら生きていた。
 横にいる制服の女の子が目に入る。
 女の子はスーツの間で、口を引き結んで苦しそうに目を閉じている。小柄な友だちは、人の背中ばかりで酸素が薄く感じられる、と言っていた。背の低い彼女も同じ状態なのだろう。彼女の手は肺を押さえるように握られていた。
 このころに戻りたい。
 ユウキ達の話のせいで、いつも以上にそう思う。
 中学生に戻りたい。やり直したい。
 あの日、壁との隙間に手を伸ばしてマッキーで書いたこと。口に出せなくなってしまった言葉。黒板とともに処分した想いは、ヒールを履いて満員電車に揺られる今でも、忘れられないから。
 ユウキは、ちゃんと伝えられるだろうか。
 珍しく定刻通り動いた総武線のせいにしてでも、賭けのせいにしてでも、ちゃんと花城さんに言えるといい、と思う。
 手遅れにならないように。
 あの頃の私と同じ気持ちを、味わわないように。
 私はぎゅっと目をつむった。


 ……いずれこうなることはわかっていた。
 花ちゃんは加藤を下の名前で呼んでいる。きっと花ちゃんは加藤を好きだ。
 早く伝えなきゃならないなんて、何度考えたかわからない。
 それでも言えなかったのは、自分が臆病だから。
 名前呼びさえもできなかった。
 もう時間切れだ。
 自分を苦しめていた力を抜いた。
 わたしは車内アナウンスと走行音の中に隠して、君への気持ちを捨てる。
「悠太……。好きだよ」


 次は、御茶ノ水、御茶ノ水。お出口は左側です。
 中央線、地下鉄丸ノ内線と、地下鉄千代田線はお乗り換えです――。


第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

トメルの電車でGo!

「やっべー、遅刻だー!」
 俺の名前は熱波トメル。元気が取り柄の小学五年生だ。好きな食べ物はカレー、
得意な科目は体育、そして誰にも負けない特技は――
「っと、自己紹介なんかしてる場合じゃねえ! 急がないと新学期早々……ん?」
 エンジンマックス、ターボ全開でいつもの通学路を走っていると、先のT字路
の角で三人の男たちが、おじいちゃんを取り囲んでいるのが見えた。
「おっと、何やら不穏な空気……」
 学校と方向は反対だったが、気がつくと俺の体はT字路に向かっていた。
「おーい、そんなところで何してんだー」
 すると、男の一人がこっちを振り返って、
「んだと……何だ、ガキか。ガキは学校の時間だろう? さっさと失せな!」
 見ると、その男はサングラスにスカジャンを身に着けていた。いや、そいつだ
けじゃない……男三人共がスカジャンを着ていた。それに一人はドレッドヘアー、
一人はリーゼントの……この格好は完全に――
「まさかお前たち……不良か!?」
「あーあ、小僧だから見逃してやろうと思ったんだがなあ……バレちまったらしょ
うがねえ」
 ドレッドヘアーの男は俺に歩み寄り、ぐいっと顔を近づけてきた。
「そうだよ……俺達は泣く子には優しいスカジャン系不良グループ、とっとこ破無
野郎だ!」
「とっとこ破無野郎……最近、ここら辺でブイブイ言わせているという、あの今話
題の不良グループ……!」
「まさか、こんな小僧にも名前を覚えてもらっているとはなあ。俺たちも有名に
なったもんだぜ、なあスカジャンノ助」
 すると、リーゼントの男が
「そうっすねえ、リーダー」
 と、にやにやしながら言った。
 ということは、このドレッドヘアーの男があの、とっとこ破無太郎のリーダー
……いや、相手が誰だろうと関係ねえ!
「とにかくそのおじいちゃんから離れろ! どうせ不良なんだから、良からぬこ
とをしてたんだろ!」
「おいおい、俺達はただこのおじいさんと仲良くなろうとしただけだぜ? なあ
スカジャンノ助」
「そうっすねえ、リーダー」
 な、仲良く? 何だ、こいつら嘘をついているのか――
「ち、違う!こやつらはわしに、らいんんを交換しようとか、ついたーをふぉろ
ーさせてとか、そんな意味不明なことを言って、混乱しているさまを見て楽しん
で……いるん……じゃ……」
そう言い終わるとおじいちゃんはバタッと倒れてしまった。
「お、おじいちゃん!」
 あんな年寄りにLINNEやTwiterが理解できる訳がない。それを知っててこいつ
らは……!
「もう許せねえ……俺の怒りは大気圏を越えてスペースマックスだぜ! そのおじ
いちゃんを返してもらう!」
「ほう……このとっとこ破無野郎のリーダー、スカイデッド・ジャンクを前にして
まだ吠えやがるか。面白い……ならば俺とSTBで勝負だ! もし俺に勝つことが
できたら、このおじいさんは解放してやろう」
 STB――十五年前突如現れた、最初にして最強のSTBプレイヤー失楽園ゴウ
カによって、今もなお爆発的なブームになっている電車を素手で止める新感覚ス
ポーツ、ストップトレインバトルで勝負だと!?
「いいぜ……その勝負受けて立つ!!」
「では今日の十五時に、ウェストバーチー駅に来い!後で泣いて、俺達に優しく
されても知らねえからな……行くぞスカジャンノ助、それに……えーっと……スカンジ
ナビア半島!」
「ちょ、リーダー冗談きついっすわー。俺の名前はスカンジナビア半島じゃなく
て良介です」
「あ、ああそうだったな!すまない、すまない。よし、じゃあスカジャンノ助に
あと…………うん、二人共行くぞ!」
『ヘイ!』
 そう言って、三人組はおじいちゃんを連れて去っていった。 
 必ず俺はおじいちゃんを助け出す――待っていろ、スカイデッド・ジャンク、ス
カジャンノ助、それに…………スカンジナビア半島!!


「……それで、新学期早々遅刻したわけ?」
「そうだよ……ってかなんで付いてきたんだ?」
 こいつの名前は北見ナミ。同級生で俺の幼馴染でもある。口うるさく、いつも
俺に小言を言ってくる、やかましい女だ――
「トメル一人だと心配だからね。というか今、私の悪口考えてなかった?」
「な、そんなわけ無いだろ! お前の悪口なんて……今まで考えたことないぜ! 
ハハハハハハ……」
 おいおい、エスパーかよ。北見は変に勘が鋭いからな。こいつの前では隠し事
はできねえや……
「……まあ、いいわ」
 そして、北見は自分の腕時計をちらっと見て
「ところで、待ち合わせ場所はこのウェストバーチー駅で合っているのよね? 
もうとっくに三時は過ぎてるけど……」
「待ち合わせはここで確かだぜ」
 ただ、あの不良グループのことだから、もしかするとこれは何かの罠だったの
かも……
 そんな風に思っていると、遠くからスカジャンの3人組がおじいちゃんを連れ
て、こちらに向かってきた。
「すまねえなあ。このおじちゃんを連れてスターパックスでカフェをしていたら、
ついつい遅れちまったよ。なあ、スカジャンノ助」
「そうっすねえ、リーダー」
「ま、まさかこのおじいちゃんをスターパックスに連れて行ったの!? ショー
トやトール、グランデ、あんなにたくさんの横文字を見たら、私達でもギリギリ
なのに、ましてこんなおじいちゃんだと精神が崩壊してもおかしくないわ! あ
んた達、なんてひどいことをするの!」
「……北見」
「ハッハッハー。小僧と同じでこのお嬢ちゃんも随分と威勢がいいな。なんだ、
お前の彼女か?」
「な、北見とは別に彼女とかじゃ……」
「そうよ、誰がこんなSTBバカの彼女よ!」
「おい、誰がSTBバカだ!」
「ハッハッハー。まあまあそこら辺にしとけ。夫婦喧嘩は不良でも食わねえって
な」
「な、北見と夫婦って……!」
 くそー、北見と一緒だと色々調子狂うなあ。やっぱり連れてこなきゃよかった
……
「そろそろ本題に入ろう。今回のSTBで止めるのはソーブ線の電車だ」
「ソーブ線だって!」
「え、トメル。ソーブ線ってそんなにすごいの?」
「まあな。電車の機体自体の癖はなくスタンダードなものだが、ただスピードと
パワーからストッピングレベルは上級の星四になっている」
「じゃあ大丈夫なの? いくらSTB好きとは言え……」
「ああ……」
 確かに星四レベルは、普通のアマチュアで止められる人は多くない。だが――
「相手が強ければ強いほど燃えるのも確かだぜ!」
「ハッハ、やっぱり小僧おもしろいな。ソーブ線と言ったらビビって逃げ出すか
と思っていたが、いいだろう。その心意気に免じて、普通は互いの電車を止める
までの時間で勝負するものだが、今回は特別にお前がソーブ線を止められたらそ
れで勝利、このおじいさんを解放してやるということにしよう」
「別にタイムアタックでも負けないけどな。ただ、今はおじいちゃんの救出が先
決だ。その勝負乗ったぜ!」
「そうか、じゃあそろそろ準備するんだな。奴さん来たぜ」
 俺は線路へ飛び降りた。
「ソーブ線……悪いがここから先は行き止まりだ!」
「頑張れー、トメルー!」
 ブオンと雄叫びを上げて、電車が俺に向かってくる。
 恐らく俺の身体では、ソーブ線を止めるパワーはない。だが俺には――
 電車はスピードを緩めることもなく急スピードで目の前に迫ってくる。俺はグ
イッと腕を前に出した。
「さあ……来い!」
 ガツンと重い衝撃が身体の中に走った。
「くっ……」
 さすがソーブ線――あの巨体からは想像の付かないスピードから繰り出される突
進は、なるほど星四レベルのことはある。
「どうした小僧。あれだけ言っていた割には、電車にふっとばされないよう踏ん
張っているのがやっとみたいじゃないか」
「そ、そうだな……これだけの重量級は俺も初めてだ。たしかにこれは小学生の筋
力じゃあ無理だな……」
「それじゃあ降参するか?」
「へへっ冗談よせよ。機体が重すぎるのなら軽くすればいいだけのこと!」
「なんだと!?」
 そう、STBはただパワーだけのスポーツではない。テクニックでいくらでも
力の差を埋めることができるんだ――
「妙技、フリクションストップ!!!」
 そして俺は、機体の前面を上下に手で擦り始めた――
「ば、馬鹿な!? 擦ることで機体を削り、重量を減らしているのか!」
 このフリクションストップは親父の必殺技だった――こいつで止められねえ電車
は無い!
「うおおおおおおおお!!!!」
「す、すごい!電車の勢いがどんどんなくなっていく……もう少しよトメルー!」
 俺は擦るのをやめ、一気に前へ力を入れた。
「これで、終わりだーーー!!!」
 プシューと車両から煙が上がり、電車は止まった――
「……まさかフリクションストップが見られるとはな。お前ら、おじいさん置いて
帰るぞ!」
『ヘイ!』
 そう言い、あのスカジャン三人組はさっさとどこかへ立ち去って行った。
「やったねートメルー!」
 北見はホームから飛び降り俺に抱きついてきた。
「な、お前」
「まさかあんたがあんなでっかい電車止めちゃうなんて! 私ちょっと感動しち
ゃった」
「ちょ、そんなことよりもおじいちゃんは……今回の目的はそれなんだから」
 それに、いきなり抱きつかれるとか普通に恥ずかしいし……
「あ、そうよね! おじいちゃーん」
 北見は俺をパッと離しまたホームに戻った。あいつにとってハグはそんな特別
なことじゃないのか……
 そんな複雑な思いを感じていると
「少年よ、助けてくれてありがとう」
「おじいちゃん! 身体の方は大丈夫か? 怪我とか……」
「おかげさまで大丈夫じゃよ。それよりも、お主のSTB見事じゃった。あんな
胸が熱くなるストッピングは久々に見たわい」
「おう、ありがとう! それにしても、おじいちゃんはストッピングとかSTB
に結構詳しいんだな」
「まあな。こう見えても一時期はプロのSTBプレイヤーとして活躍してたんじ
ゃ。ただ、今は引退してコーチをやったりしているがのう」
「そうだったのか。それは驚きだぜ! ところで、おじいちゃんの名前はなんて
言うんだ? プロのプレイヤーだったのなら、もしかして知っているかも……」
「老崎オキナじゃ」
「え……」
 老崎さんと言ったら俺の――
「そうじゃ、お主の亡き父――熱波ススムの元コーチじゃよ」

                                    
                  続く




第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

進め、イジユデを得るために

 なあ、週5で止まる総武線って知ってるか?
「……」
 週5で止まる総武線……略して――。
「……」
 む?
「……」
 あれ、スルーですか? もしもおし?
「……」
 もしもおし? あれ、聞こえてないのかな……そうか、なら仕方がない、かくなる上は、この俺の炎の拳をもってこいつの目を覚まさせてやらねばなるまい……いくぞ、せーのっ!
「阿呆かっ!」
 ……! 何だ、聞こえてんじゃん。
「当たり前だ! 俺の視界にドアップで現れながら大声で喋りやがって! そんなに大声じゃなくても聞こえるっつーの!」
 いや、だって、お前が俺の話を無視するからだな……。
「いや、阿呆かお前」
 何で?
「何でって……こっちこそ、何で好き好んでお前とお喋りなんぞしなきゃならんのさ」
 うわ、ひっでーな、お前、最低だわ。
「いやいや……ついこの間、俺に『異次元のユデタマゴ』とかいう史上最高にどうでもいい話を延々としてきたのはどこのどいつだ?」
 ふむ、異次元のユデタマゴ……略してジゲユデの話をしたのは俺だな。
「すまん、俺が悪かったから……ジゲユデは勘弁してくれ……」
 何なんだお前、お前が、略した時の名前がイジユデなのは嫌だと言うから、わざわざジゲユデにしてやったのに。
「すまん、本当にジゲユデだけは……せめてイジユデで頼むわ」
 まあ、いいだろう。で、確かにイジユデの話をしたのは俺だな。
「うわ、あっさり自分だと認めやがったな……」
 で、それがどうしたんだ?
「どうしたもこうしたもないわ! あんな無駄な時間はもう二度と御免なんだよ!」
 ふむふむ、それで?
「話しかけた時の言葉があの時と全く同じ語り口だったからな、無駄な話はたまったもんじゃないと思って無視することにしたんだよ」
 ふむふむ、なるほどな……。
「お、分かってくれたか?」
 ああ、痛いほどにな……。
「ほう、痛いほどに分かってくれたか、そうか……ならとっとと失せ――」
 で、週5で止まる総武線って知ってるか?
「……まさかコイツ、全然分かってねえ?」
 いやいや、お前の言いたいことは痛いほどに分かったさ、さっきも言ったじゃないか。
「分かったなら、何故同じ問いを何も無かったようにサラッと言いやがった……?」
 いや、お前が言いたかったのは、イジユデの話ってこの上なく無駄な話だったなあって、そういうことだろ?
「おう、そうだよ、だから――」
 実際、俺もそう思ってる。
「自覚あったのかよっ!」
 いやはや、死んだ時に転生で得られる能力の話なんて、不毛だなあとずっと思ってたんだよ。
「思ってたんなら何故わざわざ俺に語った?」
 え? ……ノリ、みたいな?
「みたいな? じゃねえよ!」
 まあ、それはともかくとして。
「俺的には、それはともかくで片付けられる話じゃないんだが……」
 いいじゃんいいじゃん、片付けちゃえ。で、だ。
「お、おう?」
 今回は、イジユデの話じゃなくて週5で止まる総武線の話なんだ。
「……つまり、何が言いたい?」
 イジユデの話が無駄だったからって、週5で止まる総武線の話が無駄だとは限らないだろう?
「……あれ? 何か理に適ってるような気が……しないな。俺が言ってるのはそういう問題じゃ――」
 で、週5で止まる総武線って知ってるか?
「……うん、もういいや、何だか」
 知ってる? ねえ、知ってる?
「うわ、何かうざい……いや、知らないけど」
 週5で止まる総武線……略してシゴトソ。
「お前、毎度毎度変な略し方するよな」
 だって、口が疲れるからな。
「やっぱりその理由だった!」
 いいじゃんいいじゃん、誰も口が疲れるから略すって理由は禁止してないぜ?
「その言葉もどっかで聞いた気がするぞオイ……」
 で、シゴトソって知ってる?
「なあ、そのシゴトソっての、すげえ分かりにくくないか?」
 お前はまた、俺の略し方に難癖をつけるのか? 面倒な奴め。
「面倒とか言うな! 週5で止まる総武線のどこをどう取ったらシゴトソになるんだ! というかそもそも週5で止まる総武線ってのも何だよ!」
 ブフっ……!
「……む?」
 ワッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!
「笑い過ぎだ! そして何故笑う!」
 だってお前、こうもお前が馬鹿だとは思わなくて……。
「な、何だと……?」
 だって、総武線って何だよ! とか馬鹿の極みだろ、そんなの普通に分かれよ……!
「違う! 俺は週5で止まる総武線って何だって言っただけで、総武線って何だ
とは言ってな――」
 総武線ってのはな、千葉と東京を結ぶ鉄道路線でな……。
「総武線についての解説すんな! 俺だってそのくらいは知って――」
 各駅停車と快速が走ってて、特に俺が言ってんのは、黄色い帯を巻いてる各駅停車の方なんだぜっ!
「だーかーら、そのくらい知っとるわ! そしてどや顔ヤメロ」
 んで、その総武線では人身事故が多発しててな……。
「そんなもん常識だ!」
 更には毎日の通勤ラッシュの混雑でも遅延が発生する始末でな……。
「ああ、色々な理由で毎日のように遅延してるな」
 それっ!
「ビシッと指さすんじゃない。で、何だよ」
 総武線の黄色い方がほぼ毎日のように遅延するってンで、一部の大学生がつけたニックネームが……シゴトソってわけだ。
「……いやいや、シゴトソって……それはパッと聞いても何の話か分かり辛いからやめた方がいいって言ったじゃ――」
 実はな、一部では、その車体に巻いた帯の色が黄色であることから、その黄色がイジユデに見えた人々が、イジユデをゲットするためにホームから飛び降りている……とも言われているんだよ。
「……えっ?」
 いやはや、俺もイジユデを作る能力が欲し――む?
「……」
 ……何だ、そんな驚いたような顔をして。
「驚いたような、じゃなくて実際驚いてんだよ」
 何で?
「え、いや、だって……総武線の人身事故の原因がイジユデ、ってこと?」
 おう?
「い、いや、ちょっと待て……何か頭が混乱して……」
 いや、この間にも言ったけど。
「おう?」
 イジユデってのは、死んだ時に一定の条件を満たしていた時、転生の時に持つことができる能力として、イジユデを作る能力があって、それでやっと作れるんだぜ?
「お、おう、つまり?」
 つまり、この世に絶望した人たちが、総武線の黄色い帯を見ていると、そのせいで無性にイジユデが食べたくなって、イジユデを作る能力が欲しくなって、その為には一度死ななきゃいけなくて……ってことらしいぜ。
「……な、何てこった……! お前の話はずべて繋がっていたのか……!」
 おうとも。言ったろ、週5で止まる総武線の話は無駄とは限らないって。
「す、済まねえな、俺、お前のことタダの馬鹿だとばかり思ってたよ……」
 フフフ。崇めてもいいぜ。
「流石に崇めはしないけどな」
 うわお前、ナチュラルにサラッと言いやがったな。ここは迷えよ。
「いいだろ、この間のイジユデの件もあるし、おあいこだろ」
 まあ、それもそうかもな。
「おう!」
 ……ちなみに、さっきの話は全部嘘だけどな。
「……む」
 全部、今、即興で作った設定だ。
「……うん、何か、知ってた気がする」
 人身事故の理由なんて、人それぞれに決まってんだろ。
「うわ、こいつにまともなこと言われるとすげえ腹立つな……!」
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

その涙さえ、嗤うなら

   一、二十四歳・女

 季節は冬。
 いつものように、街の喧騒が耳に届く。その喧騒は、どこか寂しくて、冷たくて、全体的に灰色じみていて。だから、好きで聞きたいわけではないんだけど、毎日私の耳に届くから、最早腐れ縁の一種のような心地もする、そんな感じのものだった。といっても、毎日の駅に行って電車に乗るまでの、ほんの小さな縁ではあるけれど。
 だけど今日のこの街は、いつもの感じとは少し様子が違った。ひらりはらりと、空から降ってくる白いもの。吹雪などにはなっていないものの、昨晩から降り続けた雪は少し積もっていて、足元は決して良い状態とは言えなかった。
「うわ、やばい、朝練に遅れる!」
 一人の男の子が目の前を駆けていった。服装から察するに、年の頃は高校生くらいか。今日は月曜日だし、そもそも季節が冬だし、きっと布団に包まっていたらいつの間にか時間が、って感じなのかもしれない。
 でも、今日の街を駆けていくのは危ないから、止めたほうが――。
「うおっ、とと……危ない危ない」
 件の男の子が、転びかけた。ほら、言わんこっちゃない。いや、実際には何も言ってないわけだけど。
 そんなことを考えながら歩いていると、私の足もつるりと滑りかけた。慌てて体重をかけ、体制を持ち直すと、何とか転ぶのは避けられ……なかった。大きな音こそなかったが、小さくしりもちをついてしまった。小さな雪の窪みができた。
「あの、大丈夫ですか?」
 声を、かけられた。その声の主は、綺麗な女性だった。黒髪が胸の辺りまで伸ばされているのが印象的な、だけどどこか幼さも垣間見えるような……上手く言い表せているか分からないけど、女子大生といわれても違和感がない。ただ、身に着けているのは、トップスは白いニットのセーターにグレーのコート、ボトムスはベースの色が黒のスカート。どこかの企業のオフィスレディーと言われてもおかしくない感じだった。荷物がバックパックなどではなく小さめの黒のハンドバッグに纏められているのが、オフィスレディーの印象を強めているのかもしれない。
「あの、えっと……大丈夫ですか?」
 ちょっとそわそわしながら、その女性がもう一回尋ねてきた。
「あ、いえ……大丈夫です」
 ハンカチで濡れた部分を拭きながら答える。その様子を見て、女性はほっと一息を吐く。やはりこの天気だと、息が白くなる。
「雪……すごいですね」
 何とはなしに、女性が話しかけてきた。確かに、南関東で雪がこのくらい降るのは少し珍しい出来事かもしれない。
「ええ……綺麗ですね」
「……まあ、私みたいな会社勤めの人間にしてみれば、迷惑な話なんですけど」
「全くですね。学生だったら、こんな状況も楽しめたのかもしれませんけど」
「本当に……そうですね」
 何とはなしに会話をしながら駅までの道を歩く。足元からは、常にザッザッという音が聞こえる。心なしか、下半身全体に力が入る。同じ人の前で二度も転ぶのは、何か気が引けた。
「あ……着きましたよ」
 いつの間に、という気がしないではなかったが、転ばないことに注意しすぎて、どこを歩いているのかを全く気にかけていなかったのだから、当然かもしれない。
「電車……動いているといいですね」
「あはは……まあ、その時は会社に電話するしかないですね」
 この程度の雪なら動いていると信じたいが、何せ混雑で遅延するのが日常茶飯事な路線なので、あまり期待は出来ない。
 期待はしないが、まあ動いているといいなあ、と思いながら駅のコンコースに入る。
「本日、降雪と急病人救護の影響で、千葉方面行きと三鷹方面行き、一時的に上下線ともに運転を見合わせています……繰り返します……本日、降雪と――」
 はい、期待できないのはいつも通りですね。というわけで、私は会社に連絡を入れないと……。
「全く、これだから総武線は……」
「もうここまでくると流石って感じだろ。いつだったか、訳分かんねえ理由で止まってたりしたじゃん……」
「まあ、それが総武線、という感じもするけどな」
 周りの人も口々に呆れている。まあ、皆ある程度覚悟して駅に来た、という感じだろうか。実際、私も動いてないことを半分覚悟してたし。
「何か、予想通りって感じでしたね」
 さっき一緒に歩いてきた女性が、そう口にした。
「ふふっ、そうですね」
 何て答えていいのか分からず、取り敢えず相槌を打つ。
 やはり乾燥しているのか、女性の目が少し潤んでいるのが印象的だった。

   二、十六歳・男

 グラウンドに、コーチの笛の音が轟いた。
「はい、今日の朝練はここまで!」
 生徒全員、ありがとうございましたと揃えて声を張り上げた後は、更衣室へ向かう。今日は割と時間に余裕があるっぽいので、そこまで急がなくてもいい。時々、ホームルームギリギリまで朝練をやるのは本当に止めて欲しいと思う。
「工藤、俺のタオル取って」
「やだよ。清水さあ、自分のことは自分でやるっていい加減に実践しろよ。今年の目標、それじゃなかったか?」
「い、いいんだよ、明日から本気出すから」
「うわ、コレ絶対やらないパターンじゃん……」
「うっせ、俺はやるぜ?」
「はいはい、分かった分かった」
 清水のやつはいつもこうだ。俺からすれば、凄いのらりくらりと、行き当たりばったりに生きているようにしか見えないやつだ。しかし、それで今まで生きてこれてるのだから不思議だ。
「清水って、よくもまあそんなにノープランで生きてられるよな」
 おっとしまった、つい本音が漏れ出た。
「え? 何で? 工藤もそんな感じじゃね?」
 違うわ。声を大にして言いたいが、そして自分で言うのも何だが、俺って結構将来とか、いろんなものについて考えてるんだぜ?
「いや、俺は……色々考えることはあるよ」
「ふうん。俺からすれば、考えてようがなかろうが、結局なるようにしかならないと思うんだけどなあ」
 うわあ、こいつがシリアスめな雰囲気出すと、超絶似合わねえな。
「申し訳ありません、すぐにオフィスに向かいます」
 突如、どこからか女の人の声が聞こえてきた。グラウンドの隅の方……いや、グラウンドのネットの向こう側、歩道の所だった。グレーのアウターを着て、黒のハンドバッグを持っているようだ。
「いえいえ、課長のお手間は取らせません」
 携帯電話を耳に当てながら、ペコペコお辞儀をしている。
「はい、気をつけます……はい、はい、失礼します」
 通話が終わったのか、携帯をハンドバッグにしまうと、ふうと長めの溜息を吐いた。その息が、いやに白かった。
「どうした工藤、早く行くぞ」
「お、おう」
 その白さだけが、網膜にこびり付いたまま、俺は更衣室に向かって歩き始めた。
「そういえば工藤、これ見た?」
「うん?」
「今日も総武線、止まってんだってよ」
 マジか。ここ最近、止まり過ぎじゃないかな、総武線。
「その理由がまた笑えてさあ……」
「というと?」
「まあ、実際に自分の目で見た方が早いかな。ホレ」
 そういうと、清水がスマホの画面をこっちに見せてきた。どうやら、動画サイトにアップされたあるニュース番組の映像のようだ。その映像の中心には……胸を両腕で叩くゴリラ。
「は?」
 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。耳に入ってきたのは、アナウンサーがニュースを読む声だった。
「本日午前六時頃、小岩駅付近の線路上にどこからともなく現れたゴリラにより、総武線は各駅停車、快速ともに上下線で運転を見合わせています。また、このゴリラによく似たゴリラが京成線の江戸川駅付近にも現れ、京成本線は全線で運転を見合わせています」
 何だこの状況。ゴリラって何だ。線路上に現れたって何だ。というか、ニュースで「どこからともなく現れた」なんてフレーズ、初めて聞いたぞ。
「いやはや、総武線と京成線にぽっと出のゴリラで千葉県民大混乱、ってな」
 冗談じゃない、笑えないぞ、それ。
 ――さっきの女の人のオフィスって、電車を使わずに行ける所にあるのだろうか?

   三、三十一歳・男

「ただいま戻りました……」
 小さめの声の挨拶もそこそこに、オフィスへ入る。
「おう、ご苦労さん。結構時間かかったな、大変だったか?」
 だが、課長が見逃さずに声をかけてきた。さすがというか何というか、自分のテリトリー内の変化は僅かであっても見逃さない人だ。
「いえ、業務自体は滞りなく。ただ、お客様とその後話し込んでしまった、といいますか……」
 少し言葉を濁す。この課長は、あまりそういう、仕事と関係のない、合理的でないことを好まない。
「……まあ、ほどほどにしておけよ」
「……申し訳ないです」
「分かってればいいさ」
 あれ、どうしたんだ今日の課長。普段に比べて随分と優しいな。そのせいで、ちょっと動揺してしまったじゃないか。
 デスクに戻り、何か残っている業務はないかチェックする。最近は、労働基準法がどうの、残業がどうのと五月蝿くなったおかげで、おちおち残業もできやしない。何せ、午後十時にオフィスが一斉消灯するようになってしまったので、それまでには家路につかなければならない。だが、業務量に変更はないので、持ち帰れる分は持ち帰ってこなさないと、首が回らなくなるのだ。全く、法令遵守を謳うなら、業務の効率化を図るのが先な気がするが……まあ、いちいち俺が気にすることでもないし、愚痴を言っていたって始まらない。俺は、俺に与えられた分の仕事をこなす、それだけである。
 ふと辺りを見回すと、オフィス内の空気が暗くなっているような気がした。
「お、お疲れ様……」
 随分と控えめなボリュームの労いの言葉が聞こえた。だが、労いの言葉だけでは収まらなかった。さっきよりもボリュームは控えめで、「ひそひそ話」のレベルだったが、不思議と良く耳に届く声だった。
「部長呼び出しだってよ……」
「何かやらかしたのかな……」
「ついこの間も、ここ一ヶ月たるんでるとか、課長に公開説教されてたけど……」
「かわいそうね……」
「部長、即刻やり直して、先方に謝罪しろって言ってたらしいよ……」
「あんた、そんな情報どこで……」
「まあ、いろいろとね……」
「にしてもあの子、それじゃサビ残確定じゃないかな……」
「辞めなきゃいいけど……」
「そうね……ただでさえ人手は足りないし……」
 くだらない。どいつもこいつも、他人のことに気を回し過ぎなんだよ。そんなんじゃ、自分のことでさえ疎かになって、最終的に何もかも効率が悪くなる。そんな非合理的なことをするくらいなら、さっさと目の前の書類を片付けた方が良いだろうに。
 そんなことを考えていると、俺の斜向かいのデスクに一人の女性が座った。何やら大きなファイルを抱えていた。その目には、ほんの少しの涙が溜まっているようにも見える。だがそんなものは気にもせず、その女性はファイルをパラパラと捲り、その中から何枚か紙を取り出した。そして、パソコンの電源ボタンに触れようとした正にその時。
「おーい!」
 オフィスの奥の方から声が響いた。課長だった。その言葉が合図だったかのように、席を立っていた者は自分のデスクへ戻り、既に座っていた者は動きを止める。一斉消灯が導入されてから、うちの課の定時に見られるようになった光景の一つだ。
「まもなく定時だ! 皆、お疲れ! あ、残業する者は申し出ろ! 下らん理由で残業なんてしやがったら許さんぞ! 解散!」
 これも、俺たち平社員にとっては頭痛の種だ。一斉消灯が導入されてから、うちの課長は「うちの課は残業ゼロを目指す」とかおおよそ不可能なことを言い始め、残業はよほどのことがない限りオフィスではできなくなった。オフィスでできなければ自然と持ち帰らなければならない。正直、オフィスで済むことは全部オフィスで済ませてしまいたいというのが、俺の願いだ。
「よ、お前もお疲れさん。変な理由で遅くまで残ったり、するなよ。まあ、お前は優秀な奴だから、そんなことはしないって分かってるけど、念のためな、念のため」
「はい、分かってます……課長のお手間は取らせません」
「おう、分かってくれてるならいいんだけどな」
 そうやって、課長の脅しともとれる言葉に対応しながら、俺の斜向かいのデスクに座る女性は、さっき取り出していた書類を小さめの黒のハンドバッグにしまっていく。このオフィスの中は暖かいはずだが、彼女が吐く息は時々いやに白かった。
「お疲れ様でした……」
 最後に、グレーのコートを手に取ってオフィスを出ていった。その背には、うちのオフィスの社員のひそひそ話が突き刺さっていくようにも見えた。
「おっと、いけない……俺も帰る用意をしないと……」
 といっても、俺は残業すべきことなんてないので、さっさと家に帰るだけだ。
「お疲れ様でした」
 そう言ってオフィスを出る。新宿駅まで徒歩圏内の立地なので、出勤と退勤がかなり楽なのがうちのオフィスの一番の長所、といっていいと俺は思っている。今日に関しては、足元に残る雪が少し鬱陶しいなあ、と感じる程度だった。
 雪のせいで多少歩きづらくても、やはりすぐに駅に着く。そうして、構内に掲げられた大量の電光掲示板を見る。もうすぐ電車が来るようだった。
「本日、津田沼駅での信号装置故障の影響で、中央・総武線各駅停車は上下線で運転を見合わせています……」
 まあ、俺は快速で八王子に行く人だから、関係ないけど。

   四、六十二歳・男

「ふぅー……寒い」
 思わず声に出してしまった。まあ、電車の時間まで余裕があるんだから、まだホームに上らずに、コンコースにいればよかったんだが、もう上がってしまったものは仕方がない。もう一度コンコースに行くのも面倒だし、ここで待てばいい。
「お、自販機か……」
 色々飲み物が売っている。折角だし、ホットコーヒーでも買って、少し体を温めるとしよう。財布を取り出し、百数十円を取りし、投入する。取り出し口からスチール缶を取り出して、飲む。いやはや、染み渡るなあ。全く、昔に比べて自販機の飲み物も高くなったなあ、としみじみ思っていると。
「……うん?」
 一人、視界に気になる女が映った。黒の手提げ鞄を持った女だった。その女の、異性としての魅力がどうのとか、そういう意味ではなく、纏っているオーラが……何か暗い気がする。ねずみ色の外套まで着込んでいる割に、吐く息は真っ白である。その女が、どんどんこちらに近付いて……俺の後ろに並んだ。
「……」
 無言だ。そりゃそうだ、駅で、しかもお昼過ぎに、初対面の老人を前にして会話をしようとする人なんて、いない。ただ、この女が纏っている雰囲気で、背後に無言で立っていられると……何か怖いな。
「お客様に申し上げます……」
 急に、駅の案内放送が流れた。
「先ほど、総武線下総中山駅におきまして、人身事故が発生いたしました……その影響で、中央総武線は上下線で運転を見合わせております……十三番線の十三時二十二分発の津田沼行きですが、お隣の大久保駅にて運転を見合わせております……運転再開まで、しばらくお待ちください……」
 何と。総武線が運転見合わせか。仕方がない、多少大回りだが、山手線でぐるりと上野を目指して、そこで京成に乗り換えるとするか。まあ、その頃には総武線も動いてる気がするけど、ずっと動かないでいるのは性に合わないし。
 足を動かそうとした時、おかしな会話が聞こえてきた。思わず聞き入ってしまい、それに伴って体の動きも止まる。
「知ってたか、JRの用語の意味」
「はあ?」
「線路内に人立入とか、お客さま転落とか、人身事故とか」
「ああっと、お客さま転落は飛び込みがあったけど無事って意味で、人身事故は飛び込みで無事じゃなかった、とかいの話なら聞いたぞ」
「何だ、それは聞いたことあるのか。実は、他にもな……」
 おそらくは高校生くらいの男だろうか、そんな会話をしながら歩き去っていった。そんな会話を聞いていて、思わずふふっと鼻が鳴ってしまった。
「くだらないな。そんな区別を知ってどうする。だいたい、電車への飛び込みって……皆、自分が持ってる悩みだ何だが随分ちっぽけだって知らないんだな」
 おっと、思わず声に出てしまったか。全く、昼過ぎの駅で何てことを口にしてるんだ、俺は。反省しないと。
 振り返って歩き出す。そこにいた女の目には涙が溜まっていた。
 ――ああ、やっぱり冬は空気が乾く。

   五、三十六歳・女

 最近、総武線がよく止まる。
 で、こんな時期に総武線の、しかも三鷹から津田沼までのなかなか長い距離の運転業務にあたるとは……なかなかツイてないかも。
 上司とかからも気をつけろよ、なんて言われてるし……しかも、冬で空気が乾いているから、指が滑りやすい。まあ、普段から手袋してるし、そんなに滑りやすさは変わらないかもしれないけど、気分の問題だ。何か、マスコンから掌が簡単に離れてしまいそうで怖い。
 さて、本八幡を出発する。次の駅は、昨日もお客さまの飛び降りがあった駅だ。
慎重に行かないと。というかそもそも、この辺りって駅に二分おきに到着する感じだけど、それは流石に短すぎるんじゃないかと思ったり思わなかったりするんだよなあ。
 ホラ、そんなこんなでもう駅が見えてきた。やっぱり近いよね、と感じる。
 刹那、目の前に、グレーの布に覆われた女の人の顔が現れる。
 ああ、またか。
 ――泣きたいのはコッチだよ、全く。


第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

テレポ

「2番線に、列車が、到着します。黄色い線まで下がって…」



 電車の来訪を告げるアナウンスの声に、手元の文庫本から目を上げる。予定より15分ほど遅いが、まあ運が良い方だろう。右手から迫る黄色い車体を眺め、後ろに誰も並んでいないのを確認して半歩下がる。徐々にスピードを緩める二両編成の車内には、案の定誰も乗っていなかった。目的の駅まではおよそ40分。一冊くらいは読み終わるだろうけど、どうせなら景色でも見ていたほうが有意義だ。電車に乗る機会なんてあまりないのだから。



 Transport equipment locating every point for object。全域設置型物質伝送装置、通称テレポが実用化されたのは、僕が生まれるよりも10年ほど前のことだ。現在一万機以上が日本中に設置されたそれは、簡単に言えばワープ装置である。人件費がかからず、輸送時間もごく短く、輸送時の事故も報告されていない(もちろん「報告されていないだけ」なんてブラックジョークではなくて、10年単位の実験によって安全が実証されている)。距離的な制約で海外輸送は不可能だが、それでもテレポは革新的だった。従来の輸送手段のほとんどはテレポの登場と共に無用の長物と化し、飛行機とタンカー以外の運送業は壊滅した。

 今ではテレポはあって当たり前のものだけれど、祖父の時代には大分荒れたらしい。それはそうだろうと思う。思うだけで想像はできないけど。車なんていう無駄の多い装置で一軒一軒を回るなんて、現実味がなさ過ぎてSFチックですらある。



 じゃあなんで僕が電車を待っていたのかといえば、それはテレポのメンテナンス・デイが今日だからだ。一週間の内二日だけ、地域ごとに順番に回ってくるその日だけは、近所のテレポは使用不可能になる。立ち並ぶ人が優に20人は入れそうな卵型の装置に、デバイスを持った輸送局の役人がやってきて、一日以上をかけてなにやらやっていく。運送局の役人になればくいはぐれはしないのだろうけど、生憎文学部の僕には工学センスがなかった。



「相変わらず物好きだね」

「宮川さんに言われたくないですよ」



 乗り込もうとした矢先、顔なじみの車掌のからかうような声にそっけなく返す。テレポ最盛期の時代に鉄道会社に就職している時点で宮川もそうとうな変人だと思う。会社の会議だってホログラムで済ます昨今、メンテナンス・デイなら家にいればいいや、という人は多いのだ。だからこそ僕は広々と電車を使えるわけだが。

 そういえば前になぜ入社したか尋ねたら「なんだかほっとするんだよな」という答えが返ってきたのを思い出す。三十前後の宮川にとって電車は寂れ切った遺物でしかないはずなのだが、このどこに魅力を感じたのかは結局のところ聞けないままだ。



もっとも、遺物に執着しているのは僕も同じだろうけど。



「おじいさんの具合はどうだい」

「良くはないですが、わるいということもないようです」

「よく分からん言い方をするなぁ君は」

「僕のことはいいですから、さっさと仕事をしてください」



 はいはい、と苦笑いをして、おざなりな安全確認を始める宮川。僕はそれを確認して、ベンチシートの隅っこに腰掛ける。眠気を誘う揺れに意識をあずけながら、みるともなしに窓の外を眺める。冬から春になろうとしているはずの風景には、どこまでも無機質な街並みが広がっていた。



***************************************



「よう、来たか」



 ベッドに横になっていた老人は、ドアから入ってきた僕の姿を認めると、しわだらけの顔を不機嫌そうにゆがめた。といっても本当に不機嫌なわけではなくて、嬉しいのを押し隠そうとしているだけなのだ、ということを知っているのは、おそらくこの世で僕くらいのものだろう。この数少ない肉親を見るたびに、動画サイトで見たシベリアンハスキーの動画を思い出す。撫でられると凶暴な唸り声を上げるあれだ。



「やった本は読み終わったか?」

「まだだけど」

「これだから最近の若者は、本一冊も読めん」



 カバー越しに勝ち誇った顔でこちらを見る祖父を僕は無視した。こんなひねくれものだから、実の娘からも見舞いに来てもらえないのだ、と思う。思うだけで言わないけど。老い先短い老人のクリティカルなポイントをついても、八つ当たりされる看護師さんが一人増えるだけだし。

 部屋は少なくとも居心地はよさそうではある。リノリウムの床にライトが反射してピカピカと光る。転落防止用に覆いのついたベッドは、檻ではなくシェルターといった様相で、閉塞感よりは安心感を覚える設計。窓際に置かれた花瓶には生花と見紛うほどの造花が挿されていて、不快でない程度に人工の芳香を放っていた。どこまでも快適に管理された病室で、老人一人だけが不純物のように映る。

 この老人、僕の祖父の新谷宗二朗は、入院はしているが重病患者ではない。そもそも今年で90歳、2000年後半から伸び悩んだ平均寿命と同じなのだから、病気云々以前に老衰で弱っていくころであって、多くの後期高齢者がたどる当然の帰結として、祖父も病院で死を待っている。科学によって全てを超克してきた人間にも、寿命には打ち勝てないということに、僕は毎回奇妙な安堵感を覚える。



「調子は悪くなさそうだね」

「あたりめぇよお前、まだまだくたばるかってんだ」



 そういう祖父だったが、もう長くないのは明らかだった。骨と皮ばかりになった腕、チューブの通った喉、落ちくぼみ空いているのかも分からない瞳、威勢はいいけど掠れて出なくなった声、黄色く変色した皮膚。全てが避けえない「死」を主張していた。本人は気づいていないだろう。最近ではこうして覚醒していることも珍しい。



「今回は電車で来たのか」

「今日は日曜日だから」

「高校は休みなんか」

「俺もう大学生だよ、じいちゃん」



 そうかそうか、そりゃ忘れてた。もうそんなに経つんだな。時間がたつのは早ぇもんだ。なに、俺が若ぇころには今ほど便利じゃなくてな。え?ネット通販ぐらいあったっての。そういえば免許はとったのか。何のってお前、自動車の免許に決まってるだろう。なに、取る予定がないだぁ⁉仕方ねぇ、俺の助手席に乗せて、136号線あたりをドライブさせてやるよ。綺麗な海が見えるから。退院が待ち遠しいなぁ、おい。

 時間の話になると、祖父は間違いなくといっていいほど昔のことを話す。懐古する。昔はよかったという。同意はできない。僕は祖父の活きていた時代を知らないし、そんな不便な時代に戻りたいとも思えない。だから黙って耳を傾ける。僕からは電車から見えた風景のことを話す。野良猫のこと、桜並木のこと、道を行く派手なスポーツカーのこと。祖父はそんなくだらない話をうれしそうに聞く。言葉にすればそれだけの時間だったが、祖父は孫に会えるだけでご満悦だったし、僕は僕でこの非生産的な行為を気に入っていた。切符代を払ってもいいと思える程度には。



「新谷さん、そろそろ…」

「はい、もう帰ります」



 祖父の清拭を担当する看護師さんが来て、それなりの時間がたったのを知る。いつの間にか眠り込んでいた祖父をちらと見て、清潔な病室を後にした。受付の事務員に「見舞いに来るなんて偉いねぇ」とほめられ目礼で返す。十九にもなってこんなことで褒められるのは気恥ずかしいものがあった。



「次も来週に来るの?」

「はい、そのつもりです。祖父をよろしくお願いします」



 別に予約を取る必要はないんだけど、僕くらいの歳の人間が病院に来るのは珍しいし、あまり縁起のいいことではない。最近ではみんな慣れてくれたけど、新しく入った看護師や入院患者は訝しく思うので、一言予定を言っておくようにしていた。「次はぜひ親御さんと来てください」という言葉に笑ってごまかす。

 帰りも電車で帰るか迷ったけど、財布の中身がさみしくなっていたので、格安で使えるテレポで最寄りの町まで跳ぶことにする。電子マネーを卵型の装置にかざし、自動で表示される行先の中から一つを選んでタップする。体を包み込む転移粒子の流れを感じて、次の瞬間には向こうのテレポの中にいた。いまさら感慨はない。ただ電車がいかに不便で割高なのかを思い知るだけで。



****************************************



 ただいま、とも言わず家に入ると、リビングで黙々と仕事に励む母が目に入る。父は外での仕事中をしているから家にはいない。ひと声かけるかどうか迷ったが、、口を開けば進路のことしか聞かない母だと思い出し黙って部屋へ戻る。母は僕が歴史学に進んだことを、あまり快く思っていなかった。

 部屋に入ると端末を起動してメールをチェックする。講座からの「合コンのお誘い‼」という題名を見て読みもせずゴミ箱へ。「留学のススメ」「早すぎることはない!企業説明会のお知らせ」といった意識高い系も全部捨てる。新学年に向けたガイダンスの知らせだけ保護して、「後で見るか」と一人でつぶやいて放置。歴史書でも読むかとアプリを立ち上げるが、漫画本の方に目が吸い寄せられて断念した。時間は午後三時半を回ったところで、何をするにもタイミングが悪い。

 何となしにテレビを立ち上げたけれど、やっているのは何年か前の刑事ドラマしかない。もちろん時代設定は半世紀以上も昔だ。今の警察は聞き込みなんてするまでもなく、コンピュータを検索するだけで犯人を捕まえてしまうのだから。

 ならばとろくに見ていない有料チャンネルを開いてみたが、やっていた映画はAIに仕事を奪われた人間の復讐劇だった。「こんなクソッタレな世界、ぶっ壊してやる‼」。そう喚く主人公の男は、結局AIの支配を受け入れる人々によって殺されてしまった。



****************************************



 父と僕は多くを話すほうではないし、母は仕事を終えた後はたいていぐったりしている。その結果、僕たちの夕食は静かなまま進むことが多い。でも今回の沈黙には、形容しがたいような気まずさが伴っていた。その最大の原因であるところの母は、実の息子をねめつけるようにしながら口を開いた。



「あんた、またあの人のところに行ってたでしょ」



 母にそう聞かれて思わず口ごもる。が、よく考えれば責められるような筋合いはない。むしろ死を目前にした祖父を孫が見舞うのは、世間的に見て美しい話である。ということを(できるだけ逆なでしないように)説明してみると、母ではなく父が反応を返した。



「そうなると、葬儀の準備もしておいたほうがいいな」

「いいわよ、あんな奴放っておけば」

「そういうわけにもいかないだろう。」



 母は祖父に対してどこまでも辛らつだ。父もそれをたしなめはするが、どこまでも儀礼的というか、本心では面倒だと思っているのがよくわかる。ありていに言えば、二人は祖父のことをかなり嫌っている。母なら憎んでいるといってもいいかもしれない。物心つく前からそうだったので、僕が知っているのはぼんやりとした話だけだ。



 曰く、祖父は父を殺そうとしたことがあるらしい。



 らしい、というのは親戚の集まりでちらっと耳にしたことがあるだけで、両親からその手の話を聞いたことがないせいだ。どうも父と母の結婚に強硬に反対した祖父は、父に凶器を持って殴り掛かったというのだ。あの祖父ならやるかもしれない。いや、きっとそうしただろう。祖父はそういう人だ。殺人未遂というほど大事にはならなかったようだが、その事件がきっかけで元々折り合いの悪い母と祖父は決裂し現在にいたる。見舞いに行ったことは一度もないだろう。僕と違って。



「とにかく、あんたはあの人のところには行かないこと。これからが大事な時期なんだから」

「大事な時期って…まだ大学の一年だよ」

「ほかの子は一年から準備してるの。ただでさえ不利なところに行ってるのに…」

「その辺にしておきなさい。」



 父の思わぬ横やりに母は鼻白んだようだが、渋々矛を収める。僕は息をつく。父は僕の味方をしたわけではないだろう。日本で最も重要な省庁に勤める父は、僕が適性を持たなかったことを残念に感じているはずだった。今だってきっと、母のカリカリした姿を見たくなかっただけ。就職のことについて懸念があるのは父も同じだろう。仕事のことで親からせっつかれるたび、友人に話を振られるたび、サイトの片隅にその手の広告を目にするたびに、僕はこういわれているような気分になる。「いそげ、いそげ、みんなに置いて行かれるぞ」。



 実際のところ、僕たち人間が行くべき場所はほとんど残されていないのに。



****************************************



 その日は気持ちいいくらいの晴天だった。大学の講義の最中だったけど、教授のつまらない雑談を聴くのに飽きて、自室で本を読んでいるところだった。春一番がわずかに空いた窓から吹き込んで、虎落笛が悲し気な音を立てていた。そして、覗き込んでいた個人用端末に通知が来て、僕はそのときが来たことを知った。



「いますぐ病院に来なさい」



 父からの端的なメールは、なにが起きたかを悟らせるには十分だった。貴重品だけをコートのポケットに放り込んで家を出る。反射的に駅へと向かいそうになって、先週の見舞いからまだ四日しか経っていないことに気づいて舌打ちをする。テレポへと乗り込もうとして一瞬躊躇するが、えいやっと足を踏み出した。視界が、変わる。

 次の瞬間には見慣れた、ある意味では見慣れない風景が目の前に広がっている。祖父の入院する2-5地区病院の目の前だけれど、こうしてテレポで来るのは今日で二度目だった。そうしてやってきた病院の姿は、どこまでも硬質で冷たいものに見えた。

 受付の前を通ると、いつもはこちらが不安になるほどのんびりした看護師たちが、どことなく慌てた様子で僕を見る。すみません。頭を下げる。今回は縁起の悪い方の訪問なんです。そういう僕の申し訳なさが伝わったのか、いつもの受付のおばちゃんがいたわるような目で僕を見る。その視線を振り切ってエレベータに駆け込むが、うっかりどうでも良い階を押して苛立ちが募る。とてつもなく長い数分が終わって、ようやくたどりついた祖父の部屋には、医者と、父と、ベッドに横たわる祖父だけがいた。



「僕が最初だと思ってた」

「仕事で近くに来てたんだ。母さんは?」

「寝てたから起こさずに来た。起こしてきた方が良かった?」

「いや、これでいい。あいつがいるとまともに会話にならないからな」



 いなくてもまともに会話できるとは思えないが。そう言いたげな顔で父は僕をベッド脇へといざなう。一通り祖父の状態を確認し終わった医師が、一瞬何かを言いかけて、僕の顔を見て場所を開けてくれた。



 医者に聞くまでもなく、祖父は死にかけていた。



 黄色味が強かったはずの肌は病的に青白く、顔中のシミが余計に目立っていた。皺の中にもぎらついていた目は、もはや何も映してはいないように虚ろだ。柔らかそうなベッドに横たえられた四肢は、風が吹けばカサカサとはがれそうなほど脆く乾ききっていた。



「じいちゃん、俺だよ、俺。」



 そう呼び掛けてから、なんだか詐欺師みたいだなと思う。そんなことを考えている場合ではないのに、なんだかシリアスになり切れないのは、たぶん僕がまだ受けれられていないからだ。祖父が死ぬことに、現実味がない。



「おじいさん、お孫さんが来ましたよ。何か言い残すことはありませんか?」



 医者の言葉にようやく反応を見せた祖父は、枕元に立っているのが僕だということに気づいたようだった。「…んしゃ………けぇ…んうぇ…」。何か言葉を発そうとして、不明瞭なつぶやきだけが空気に溶けていく。でも祖父が僕に言うことなんて一種類しかない。「電車で来たのか?景色はどうだった?」。祖父との会話はいつもそればかりで、それだけが僕たちにとって重要だった。

 いつものように言いかけて迷う。僕は必要なら嘘をつくのも厭わないが、嘘を言っていることを父が見とがめやしまいか。それで今までの嘘を、万が一にも祖父に悟られることがあってはならない。時間にすればわずかな逡巡のあと、僕は真実を隠すために真実を話すことに決めた。今際の際の祖父の願いを踏みにじってでも。



「じいちゃん、今日は…電車は動いていないんだ。だから窓から風景は見てないんだ」

「うぁ…?」

「だからごめん、今日は何も話してあげられないよ」

「ぉおぉ…」

「これからも見舞いに来るからさ、今日は勘弁ね」

「…………………………」

「じいちゃん?」



 そう問いかけて、初めて鳴り響く電子音に気づく。医師が祖父の顔を覗き込むようにして、父が肩の荷が下りたようにため息をついて、ようやく起床したらしい母からメールが届いて。医者が死亡時刻を宣告した少し前に、元トラック運転手・新谷宗二朗は亡くなった。



****************************************



 葬儀はすぐに終わった。もともと家族葬だったし、うちは特にどこの檀家というわけでもない。読経も焼香もない簡単な通夜式の後、祖父はただの骨の燃え滓になって、新谷家の墓に入れられた。母が何か文句を言うかと思ったけど、悲しそうにしていたのが意外だ。父は淡々と手続きをこなしていたが、時折何かを悔やむような表情をしていたのが印象的だった。納骨は、三人一緒におこなった。

 現代の技術をもってしても、骨の情報を電子データ化するなんて野暮なことはできない。納骨堂の一角をしっかりと占拠する骨壺が、「おれはここにいるぞ」と主張しているようで、死んでも祖父は祖父だなと思ったりしたことを覚えている。

 僕はといえば、どうやら一人前に感傷に浸っていたらしい。気づけば両親との同行を断って総武線に揺られていた。窓の外には相変わらず、街並みが厳然として存在する。白亜の高層マンション群、太陽光を反射して黒光りするルーフパネル、卵型のテレポ装置。それしかない。



 それしかないのだ。



 祖父に話して聞かせたようなことは、何も、見当たらない。



 ゴミステーションなんてないから、それをあさるカラスも、野良猫も、いない。

 花粉症を引き起こすから、生えているのは画一的な人造植物だけだ。

 車なんてめったに走っていない。大型トラックなんて言わずもがなだ。



 町を彩っていたはずの雑多な何かは、全て、失われてしまった。僕の生まれるずっと前に。僕が祖父にそれをひた隠しにした。ホログラムを送るのではなく、生身のままで祖父に面会し。ありもしない風景を、わざわざ大学で学んでまででっち上げて。紙媒体の文庫本を、10年以上前にもらったそれを読んでいないことにした。読み切ったと言えばきっと、祖父は新しい紙の本を買い求めるだろう。そしてそれがもうほとんど出回っていないことに気づく。気付かされてしまう。

 それはもう一度祖父に突き付けることになる。トラック運転手だった祖父が、時代に取り残されて居場所を失った苦痛を。それだけはしてはならなかった。祖父が好きだとかそんなこと以上に、居場所を追われる恐怖を慰め合う時間を最後まで壊したくはなかった。きっと、同じ場所にはずっとはいられないという当たり前のことを、僕はどうしようもなく恐れていた。



 電車は走り続ける。揺れは一定で、窓から見える風景は常に同じだ。そんな車両の中で独り、どうしようもない感情に歯を食いしばる。嫌だ嫌だと嘆いても、必ずそのときは訪れる。祖父がとうとう死んだように。居場所が奪われ続ける世界で、それを受け入れて、それでも何者かになることを強要されるときが、必ず来てしまう。



 無機質なアナウンスの声が聞こえて、コートのポケットにいれた端末がお尻に痛くて、僕裾を直すため身じろぎする。今なら祖父の死を悲しめるかと思ったけれど、結局涙は一滴もこぼれることは無くて。どこまでも無味乾燥な街並みが、窓の外を流れていく。



「次は~検見川浜、検見川浜。お降りのお客様は…」 〈終〉
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

しゅう

 狭い住宅街の道の真ん中に、紅い水溜まりが広がる。その中には、一人の少女が倒れている。辺りには痛々しいブレーキ痕が残され、この場所で起こったことを否が応でも想像させる。
 そんな光景を間近で眺める少年は、その瞳に光を宿さないまま、哀しみと怒りに声を震わせて叫ぶ。
「また……またなのかよ……!」
 強く握りしめた寮の拳から血が流れ出し、目の前の血溜まりに落ちる。その水音に、少女が僅かにピクリと動いた。
「……しゅー……、ちゃん」
「っ! 未咲⁉」
 血溜まりの中から微かに響いた幼馴染の声に、しゅーちゃんと呼ばれた少年が過剰に反応する。自分の服が血に染まるのも顧みず、血溜まりの中に膝をついて少女の手を取る。
「未咲! まだ生きてるのか⁉」
 必死の形相で問いかける少年に、未咲と呼ばれた少女は最期の力を振り絞るように薄く目を開け、答える。
「……ごめん、ね……しゅーちゃん…………」
 言い終えるのと同時、少女の瞳が力尽きたように閉じる。少年の手を僅かに握り返していた手からも、力が抜けていく。
「みさ、き……? お、おい、未咲! しっかりしろよ! 未咲ぃ‼」
 少年の全力の呼びかけにしかし、少女はもうピクリとも反応しない。
「くそっ……くそぉっ‼」
 目の前で消えゆく幼馴染に対して何もできない無力感に打ちひしがれながら、少年は地面を殴りつける。拳がひしゃげる音が響いたが、少年は構わなかった。
「なんで……なんで助けられないんだよ! 僕は一体どうしたらいいんだよ‼ どうしたら未咲を助けられるんだよ‼」
 少年の悲痛な叫びに応えるように、少年の視界を白い光が覆う。その突然の超常現象に、少年は全く動じない。なぜなら、これを経験するのは今回が初めてではないから。
 いつものように、少年の意識が途絶える。次に少年が意識を取り戻したのは、自分の家の、自分の部屋、ベッドの上。
「………………」
 少年は慣れた様子で枕元のデジタル時計を確認する。日付は、あの日からちょうど一週間、前。ひしゃげたはずの拳も、傷一つなく正常そのもの。
「……また、ここに戻ってきたのか……」
 時間が巻き戻るというありえない出来事にも関わらず、やはり少年は驚きの色を少しも見せない。それもそうだろう。だって少年は、この一週間を、既に数えるのが億劫になるほど繰り返しているのだから――


 少年――星野周助は、自身の通う高校の制服に着替えると、自宅を出て隣の家に向かい、インターホンを押す。
『わっ! しゅーちゃん来ちゃった! ゴメン、もうちょっと待ってー!』
 隣家の中から響いてきた焦った声に、周助は小さく溜息を吐く。それは毎朝毎朝バタバタと慌ただしい幼馴染への呆れであると同時に、幼馴染がきちんと生きていることへの安堵でもある。今回も正しく時間が巻き戻っていることを確認した周助は、塀に寄り掛かって幼馴染の準備が完了するのを待つことにする。
 その幼馴染が玄関を飛び出してきたのは、それから約10分後のことだった。
「お待たせしゅーちゃん! ごめんね、結構待った?」
「待った」
「えー。そこは『ううん、全然待ってないよ』とか言おうよ」
「だって実際に十分も待ったし」
「けちー」
 可愛らしく頬を膨らませる少女――天野未咲は、先程まで血溜まりの中で息絶えようとしていた少女と同一人物とは思えないほどピンピンしている。まあ、時間が巻き戻っているので当然だが。
「拗ねてないでさっさと行くぞ。お前のせいで遅刻ギリギリだ」
「あ、ちょっ、置いてかないでよ~」
 先に学校に向けて歩き出した周助を、未咲が慌てて追いかける。大して距離もなかったのですぐに追いつくと、周助の右隣に並んで歩き始める。そこが彼女の定位置である。
「今日のしゅーちゃんはちょっと冷たい気がします」
「……そんなことねえよ。いつも通りだろ」
 そう返しつつも、周助は内心で反省していた。無意識のうちに、募りに募った憤りが漏れ出してしまっていたらしい。何度もこの一週間が繰り返されていることを知らない未咲にはこのことを悟られてはいけないと、周助は気合いを入れ直す。
「それよりお前、今日提出の数学のプリントやったか?」
「え? そんなのあったっけ?」
「お前な……」
 未咲の間の抜けた返しに再び溜め息を吐きつつ、周助は普段通りを装いながら学校を目指した。

 一限目、数学の授業。もう何度聞いたかわからないその授業を全て右から左へと聞き流しながら、周助は今後の行動を考えていた。
(未咲を救うには……今度こそアイツを死なせないためには、僕は何をしたらいい……!)
 どうしても荒ぶる感情を必死で抑えつつ、これまでのループを冷静に振り返る。未咲の死因は、圧倒的にトラックに轢かれることによる事故死が多い。学校帰りの黄昏時、自宅付近の狭い道で、まるでそれが決定事項であるかのように、悲劇が繰り返される。どれだけ注意していようと、帰宅経路を変えようと、いつも未咲だけが撥ねられる。かといって外に出ず、学校をサボって二人でずっと周助の部屋にいても、未咲は階段で足を滑らせて死ぬ。未咲の部屋でも同様。ならばと都内へ遠出をしてみても、未咲はホームから転落し、撥ねられ、週五で止まると噂の総武線を止めてしまう一因を担ってしまうだけ。どれだけ周助が策を講じようと、未咲は運命に導かれるように死んでしまう。もう、抗えないのだろうか。
(……いいや、諦めるな! 僕が諦めたら、未咲は……!)
 大切な人を死なせたくない、大好きな幼馴染を救いたい一心で、周助は頭を回転させ続ける。しかし、当然ながらそう簡単には何も思いつかない。妙案を思いついたようにみえても、それは既にこの長いループの旅の中で実行済、そして失敗済である場合がほとんどで、未咲を救う光にはならない。
(どうすれば……どうすれば未咲は……!)
 何も浮かばないまま、時間だけが無為に過ぎていく。

「……しゅーちゃん、なんか老けた?」
 その日の昼休み。周助の対面に座って弁当を食べながら、未咲が尋ねる。
「……は? なんで?」
「だって、眉間にすっごいしわ寄ってるよ?」
「……まじか」
 未咲の指摘に、周助が眉間を軽く揉む。午前中の授業をすべて無視して考え事をしていたためか、険しい顔になってしまっていたようだ。
「大丈夫? なにか悩みとかあったらきくよ?」
「……いや、大丈夫だ」
 こればっかりは未咲どころか誰にも相談することはできないので、周助はそう答えるしかない。
「そう? ならいいけど。ところで、明日の映画の話なんだけどね」
 周助があまりその辺に触れて欲しくないことを察した未咲が、明日、土曜日の話題を持ち出す。これは、ループの度に戻される本日よりも以前から一緒に行くと約束していたものだ。
「やっぱり私、『アンパン野郎(実写)』を観ようと思うんだ!」
「……そ、そうか」
 その映画は既に何百回と観ているし、壮絶な地雷作であることも知っている周助だったが、今から瞳を輝かせて観るのを楽しみにしている幼馴染を前に、その映画はやめようとか言い出せる周助ではなかった。


 翌日。結局昨日丸一日、何も思いつかずに無駄にした周助だったが、未咲との約束を反故にするわけにはいかないので、待ち合わせ場所の駅前へと向かう。家が隣なのだから待ち合わせも家の前でいいだろうと周助は思うのだが、「それじゃデートっぽくないでしょ!」という未咲に押されてこうなった。ちなみにその未咲はというと、約束の時間を30分過ぎてもまだ駅前に姿を現さない。こんなループの最中だ、未咲に何かあったのではないかと心配になった周助が電話を掛けようとしたその時、ようやく岬が待ち合わせ場所に姿を見せた。
「ごめんしゅーちゃん! 待った?」
「待った」
「あれ、これなんかデジャブ!」
 時間にルーズな幼馴染に前日と同じ返答をしつつ、周助は内心で安堵の息を吐く。今までのループの中で未咲が命を落とす日がずれたことは良くも悪くもないとはいえ、こうも姿が見えないと気が気じゃなくなるのだ。
「ご、ごめんね? 起きてはいたんだけど、着ていく服がなかなか決まらなくて」
「なら、そうメールしてくれればよかっただろ」
「……その発想はなかった」
「……お前な」
 そんな簡単なことすら思いつけないアホの幼馴染に呆れつつ、周助は時計を確認する。
「あー、もう一回目の上映には間に合わないな」
 これから電車やバスを乗り継いで映画館へ向かうとなると、未咲の観たがっている映画の一回目の上映開始時間にはどうやっても間に合いそうになかった。
「うそ⁉ ほ、ほんとごめんね、しゅーちゃん!」
「いや、まあ、別にいいけど」
 周助が心配していたのは映画の上映時間ではなく未咲の安否なので、一回目の上映に間に合わなかろうがなんの問題もなかった。映画の内容も内容だし。
「で、この後どうする? 二回目の上映は昼過ぎだったと思うが」
「そっかぁ……。じゃあ、先にお昼かな」
 その映画を楽しみにしていた未咲はやや残念そうな表情だが、自業自得なので周助もフォローはしない。
 取り敢えず電車、バスを乗り継いで映画館付近までやってきた二人は、その周辺で昼食をとれそうな店を探す。チェーンのファミレスを見つけたので、そこに二人で入店する。まだ昼食には早い時間ということもあって、店内はガラガラだった。
「私、このステーキにしようかな」
「なぜ、昼間からそんなに重いものを……」
 ガッツリ食べる気満々の未咲に対し、あまり食欲のわかない周助は適当にパスタを注文する。ほどなくしてやってきた料理をつつきながら、二人は映画後の予定を話し合う。
「映画って何時くらいに観終わる予定だっけ?」
「3時」
「あ、そんなもんなんだ。じゃあ、そのまま帰るにはちょっとはやいねー」
「どっか寄ってくのか?」
「うーん……あっ、じゃあ、さっき見つけた服屋さんによっていい? そろそろ新しい服が欲しくて」
「……まあ、別にいいけど」
 今でさえ迷って待ち合わせに遅刻するくらい服があるのにまだ買うのか、という苦笑いと共にそう返事をする周助だったが、残念ながら未咲には伝わらなかった。
 映画後の予定も決まり、昼食を完食した二人は、映画館に戻ってチケットを買う。土曜の昼だというのに、この映画を観る人は周助たち以外には誰もいなかった。チケットを入手した後は、隣のカウンターで飲み物を買う。
「ポップコーンのLセット一つ」
「⁉」
 先程ガッツリステーキを食べたはずの幼馴染の驚愕の注文内容に、周助は動揺を隠せない。勿論周助はMサイズのドリンクだけを注文する。ドリンクとポップコーンを受け取った二人は、自分たち以外に誰もいないシアターの真ん中に陣取り、上映開始を待つ。
「どんな映画か楽しみだね!」
「……そうだな」
 映画の内容を一字一句思い出せるくらいこの映画を観ている周助のテンションは、ワクワクが止まらない様子の未咲とは対照的に低い。そんな中、映画の上映が始まる。案の定、周助は爆睡した。

 上映終了直前。3時きっかりに目を覚ました周助は、スクリーンを流れるスタッフロールを寝ぼけ眼で確認しつつ、隣の席の幼馴染の様子をうかがう。幼馴染が涙を流していた。
(……え、そんな内容の映画だったか……⁉)
 これまでのループでは見たことがない光景に、周助は戸惑う。

「み、未咲? 大丈夫か……?」
「え……? あっ、ご、ごめん!」
 周助に言われて初めて自分が泣いていることに気付いたのか、未咲が慌てて涙を拭う。
「いつの間にか泣いちゃってたっ。やっぱりいい映画だったね!」
「……そ、そうか……」
 一体どの辺が泣けたんだろう、と疑問に思う周助だったが、いくら考えても分からないだろうという結論に達し、早々に理解を諦めた。
 そんなことをしているうちにスタッフロールも終わり、上映が終了する。映画館を後にした二人は、映画の感想を語り合いつつ(10割未咲)、約束通り近くの服屋へと向かう。外装・内装共に完全に女子向けであり、周助の居心地の悪さは限界値なのだが、楽しそうに洋服を眺めていく未咲は気付く素振りもない。
「ねっ、しゅーちゃん! これとこれなら、どっちのほうが好き?」
 1時間以上あれでもないこれでもないと悩み抜き、ようやく候補を二つにまで絞ったらしい未咲が、それらを手に周助へ問いかける。一方慣れない空間で長時間待たされた周助は既に疲れ果てていたので、パッと見た直感だけで片方を指さす。
「……こっちのほうが未咲に似合いそう」
「ほんとっ? じゃあ、こっちを買ってくるね!」
 周助が選んだ方の服を嬉しそうに胸に抱き、未咲がレジへと向かう。これでようやくこの空間から解放される、と周助は一息ついた。紙袋を手に未咲が戻ってくると、二人は店を後にする。
「ふーっ、いい買い物したねっ。次に出かけるときはこれ着るから、楽しみにしててね!」
「……ああ、楽しみにしてるよ」
 ……その『次』は、果たしてやってくるのだろうか。
 ふと脳裏をよぎってしまったそんな言葉を、周助は慌てて振り払った。


 翌日、日曜日。学校も出かける用事もない周助は、自分の部屋で独り考え込む。
(今回のループも、今日を除いてあと4日……。早く、何か行動を起こさないと……)
 このまま何もしないでいれば、未咲は100%また死ぬ。だが、やれそうなことはこれまでのループですべてやってきてしまった。それでも未咲が死ぬ運命を覆すことは叶わなかった。だからこそ、周助は未だにこのループの中にいる。回数にして、856回。あらゆる手を尽くしてしかし救えず、幼馴染が死ぬところを周助は目の前で856回も見てきた。とっくに気が狂ってしまっていてもおかしくないが、周助は未咲を救いたいというその一心、その執念だけでここまで耐えてきた。だが……。
(もう……耐えられねえよ……!)
 毎回無力感に打ちひしがれながら、目の前で死にゆく幼馴染を見ていることしかできない。それが、856回。周助にどれだけの覚悟や想いがあろうと、それらを絶望で塗り替えるには十分すぎた。
(でも……だからってどうするんだ……?)
 未咲が死ぬところはもう見たくない。だが、未咲を救う手段は思いつかない。このままでは結局、また未咲が死ぬところを見ることになってしまう。ならば……未咲が死ぬその日の黄昏時、未咲と一緒に居ないようにする? だがそれは……。
(……そんなの、見殺しと変わらないだろうが……‼)
 できれば選びたくない選択肢だった。……しかし、ともすれば未咲を見殺しにするかもしれないこの選択肢を、取るべきかもしれない理由が、実は存在する。それは、今まで周助が考えないようにしてきた可能性で。たとえそれが正しかったとしても、絶対に認めたくない可能性で。だが、それが856回も続いてしまっては、もう考えないわけにはいかない可能性。
 これまでの856回のループの中で、一度たりとも変わらなかったことが二つだけある。一つは、未咲が死ぬ日時。そしてもう一つは……未咲が死ぬそのとき、傍には必ず周助が居たということ。
(……つまり、僕が傍にいるから未咲が死ぬ、という可能性……)
 呪われているのは未咲の運命ではなく、周助の運命。そう取ることも、できてしまう。そしてもしそれが、真実なのだとしたら。
(……やっぱり僕は、未咲と距離を取るべき、なのか……?)
 もし、自分のせいで未咲が死に続けているのだとしたら……それ以上に苦痛なことなんてない。未咲と距離を取るのは嫌だが……大好きな幼馴染と離れるのは死ぬほど嫌だが……!
(……それでアイツが死なない未来が開けると言うのなら……!)
 丸一日を費やした長い葛藤の末、周助は決断する。未咲から、距離を取ることを。


「ちょっとしゅーちゃん! おいてくなんてひどいよ!」
 月曜日、遅刻ギリギリで教室に滑り込んできた未咲が、自分の机に鞄を置くや否や、先に登校していた周助に詰め寄る。
「わ、悪い悪い。きょう提出のプリントを学校に置きっぱなしだったのを今朝思い出して」
「あー……それならしょうがないか。……でも、メールくらいしてくれてもいいでしょ?」
「焦って忘れてた」
「もー、しっかりしてよ。しゅーちゃんのせいで寝坊するところだったんだからね」
「いや、自力で起きろよ……」
 横暴な幼馴染に溜息を吐きつつ、周助は痛みを増す胸を押さえる。未咲と距離を取ることを決めたとはいえ、いきなり絶縁では不自然だし、周助の心も持たない。だから、少しずつ距離を離していくことにした。だが……。
(こんな小さな嘘が、こんなに苦しいのかよ……!)
 未咲との登校を避けるために吐いた、小さな嘘。たったそれだけのことでさえ、こんなにも周助を苦しめる。こんな調子で、未咲との絶縁なんて……。
(……いいや! やらなきゃ、ダメなんだ……! それが、未咲の未来のためなんだ……‼)
 折れそうになる心に、周助は必死にそう言い聞かせた。
 未咲のため。ただその一心で、周助は未咲を避ける度、騙す度に襲う苦しみと闘い続け、耐え続けた。
 そして、その日がやってくる。


 運命の日、七月七日、木曜日。その放課後。周助は放課直後、用事を装って教室を飛び出した。そして、誰も来ない校舎の片隅で時間を潰す。窓から覗く夕陽は、間もなくその姿を完全に水平線の向こうに隠す。黄昏が、訪れる。
(未咲……これで、助かってくれるだろうか……)
 しばらく経っても、今までの様に時間が巻き戻る感覚はやってこない。未咲が救われたのか、ループが終わってしまったのか。それは、確かめてみないと分からない。
(……行くか)
 自分の努力は、苦しみは、きちんと報われたのか。それを確かめるべく、周助は立ち上がる。そのまま昇降口に向かおうとして、教室に鞄を置きっぱなしだったことを思い出した。未咲を避けるのにいっぱいいっぱいで、うっかり忘れていた。そしてこのうっかりが、二人を避けられない運命へと導く。
 自分の教室の扉を開けた周助は、その光景を見て愕然とする。
「あっ、やっと戻ってきた。もう、遅いよしゅーちゃん!」
「……みさ、き……⁉」
 とっくに帰宅したと思っていた幼馴染が、そこにいた。
「おまっ、どうしてここに……!」
「だって、しゅーちゃん鞄置きっぱなしだったし。用事が終わったらきっとここに戻ってくるんだろうなーって思って、待ってた」
「…………っ」
 自分のうっかりが招いた事態に、周助は歯噛みしながらこの後について慌てて思考を巡らす。ちらりと窺った窓の外の空には、まだ紅さが残っている。黄昏は終わってない。今周助と未咲が一緒に居ては、今日まで周助がやってきた努力が、味わってきた苦痛が、全て水泡に帰す。そうなる前に、はやくこの場から離れなければ。
「そ、そうか。だが、こんな時間まで待っててもらって申し訳ないんだが、まだ用事終わってなくてな。鞄を取りに来ただけで、またすぐに行かなきゃいけないんだ。そういうわけだからまた明日な、未咲!」
 一気にまくし立てると、周助は自分の席の鞄をひっつかんで教室を出ようとする。
「待って!」
 その腕を、未咲が引き止めた。
「しゅーちゃん、どうして最近私を避けようとするの?」
「っ……そ、それは……」
「プリント忘れたとか、用事があるとか、そんな嘘までついてさ。私が気付かないとでも思った?」
「…………」
「……ねえ、私なにかしちゃった? しゅーちゃんに嫌われるようなことしちゃった?」
「違う! ……そんなことは、断じてない。未咲は何も、悪くない」
「じゃあなんで――」
「もうお前が死ぬところなんて見たくないんだよ‼」
 必死に抑えていたものが、堪えていたものが、ついに決壊した。一度溢れ出した感情は止まらない。
「なんで僕は大切な人の命も救えないんだよ! 大好きな人が死んでいくのを、傍で見てることしかできないんだよ! もう、限界なんだよ! 未咲が死ぬところを見るのも、何もできない自分の無力さを見せつけられるのも‼ もう、たくさんなんだよっ‼」
 こんなことを未咲に言っても仕方がないことは分かっていた。それでも、周助は自分の口から零れ出す言葉を止めることはできなかった。
「……そっか…………しゅーちゃんも、記憶を引き継いでたんだ……」
 だが、そんな感情の発露に返ってきた未咲の答えは、衝撃的なものだった。
「……しゅーちゃん『も』って、まさかお前……!」
「……うん。知ってるよ。私がもう856回死んでることも、今が857回目のループなのも。だって、そのループを引き起こしてるのは私なんだもん」
「は…………?」
 周助は耳を疑った。入ってくる幼馴染の言葉が、信じられない。
「この力を貰ったのは、最初に私が死んだとき。正確には、死ぬ直前くらいかな。誰がくれたのかは知らないけど……確か『あまりに悲惨な運命を持つあなたに、やり直すチャンスをあげる』って言われて、時間を巻き戻す力を貰って……私だってもっと生きたいから、その力に縋った。結果はご覧の有様だけどね。でも……それがしゅーちゃんを、こんなにも苦しめてたんだね」
 周助の頭を撫でながら優しく呟く未咲。周助は未咲から語られる衝撃の真実に、固まったまま動くことができない。
「……でも、大丈夫だよ、しゅーちゃん。あと、一回だけだから」
「……あと、一回……?」
「うん。だって、時間を巻き戻すなんて奇跡、なんの代償もなしに起こせるわけないでしょ?」
 未咲は周助の頭から手を離し、窓際へ向かう。そして、紅さを失いつつある空を見上げて、告げる。
「代償は、私の記憶。一週間時間を巻き戻す度に、私の記憶は二週間ずつ消えていくの」
「なっ……!」
「そのうち限界が来ることなんて、最初からわかってたんだけどね。私の記憶が蓄積されるより、消えていく方がはやいんだから。そしてその限界が、今なんだ。私はもう、しゅーちゃんと出会ったときのことどころか、二つ前のループのことすら思い出せないの。思い出せるのはここ二週間のことと、この力に関することだけ。奇跡を起こせるのは、もうあと一回だけなんだよ」
「……そんな……!」
 全てが唐突で、理解がまるで追いつかないまま、周助を絶望に叩きこむ事実だけが次々と並べられていく。未咲の記憶が、消える? もう二週間前のことしか思い出せない? あと一回で、このループも終わり? 次もダメなら、未咲とはもう、永遠に? 同時にいくつもの考えが脳裏をよぎり、混乱が加速していく。
「だから、ね。しゅーちゃん。最後に私のお願い、聞いてくれる?」
「……お願い?」
「うん。……次の周の私には、好きなことさせてあげてくれないかな。最期はできるだけ、悔いなく終わりたいから」
 そんな未咲のお願いに、周助の混乱は全て吹き飛んだ。
「おま、最期って……! まさか、諦めんのか⁉」
「だってもう無理でしょ⁉ 今まで856回もやって、どうにもならなかったんだよ⁉ もうっ、私の運命には抗えないんだよっ‼」
「だから、死ぬのを受け入れるって言うのか⁉」
「私だって死にたくないよ‼ ……でも、856回も繰り返したらわかっちゃうよ。私はもう、ここまでなんだ、って。だったら最期くらい、楽しい思い出作って終わりたいじゃん。これまでに消えていった、しゅーちゃんとの思い出の代わりに、さ……」
「み、さき……」
 儚げに笑う未咲に、周助は何も言えなくなる。次の瞬間。
 ――教室の窓ガラスが、砕け散った。外から与えられた軟式野球ボールの衝撃で無数の鋭利な破片へと姿を変えた窓ガラスは、窓際に立つ未咲を容赦なく襲う。
「未咲っ!」
 力なく前方に倒れかけた未咲を、周助が慌てて抱き留める。その後頭部や背中にはいくつものガラスの破片が深々と突き刺さり、次から次へと紅い鮮血が流れ落ちていく。
「おい未咲! しっかりしろ、未咲ぃ‼」
「……しゅー……ちゃん……次の、ループの私…………なにも、覚えてないと思うけど…………よろ、しくね……」
 弱々しい声でそれだけ呟くと、未咲の全身から力が抜ける。周助にのしかかるその身体からは、既に体温がなくなり始めていた。
「くそ……くそっ…………くそぉっ!」
 未咲を抱いたまま慟哭する周助。その視界は、紅さを完全に失った夜空から真っ白な世界へと変わっていく。意識が、途絶える。


「…………これが最後、か……」
 いつものようにデジタル時計を確認した周助が独り呟く。
 最後のループ……858周目が始まる。
 制服に着替え終えた周助は、家を出て隣の家のインターホンを押す。ほどなくして、未咲は家から姿を現した。
「お待たせしゅーちゃん!」
「……よく、僕が『しゅーちゃん』だってわかったな」
「そりゃ、私の日記とか携帯の写真とか見たし。……って、あ」
 周助の言葉に素で返してから、未咲が慌てて口を押さえる。
「……平気だ。僕はもう……全部知ってる。今の未咲に記憶がないことも、今回のループが、最後だってことも」
 その言葉を聞き、全てを理解した様子の未咲は、口元から手を離し、小さく「……そっか」と呟いた。
「……前の周のお前から、伝言を頼まれてる。『次の周の私には、好きなことをさせてあげて』って」
「……私はもう運命に抗えないから、最期は楽しく終わろうって……そういう、ことだよね」
「…………ああ」
 頷きを返しながら、周助は拳を強く握りしめる。本当はまだ未咲の命を諦めていないし、今すぐにでもそのために動きたかった。だが……前のループの最後に見た、未咲の儚げな笑顔が張り付いて離れない。あんな表情を見せられて、あんな思いを聞かされて……未咲の『お願い』を無視できる周助ではなかった。
「……よしっ。じゃあ、今日から一週間遊び倒そう! 学校とか無視でいいよね⁉ 私しゅーちゃんとしたいこと、いっぱいあるんだからっ!」
「あ、ちょっ、未咲!」
 急に大声をあげたテンション全開の未咲が、周助の手を取って全力で走り出す。必死で未咲についていく周助は、寝る間も与えてくれそうにない幼馴染の様子に苦笑いし、ひとまずは残り少ないかもしれない未咲との時間を全力で楽しむことに決めた。

 それからの一週間、二人は学校を完全無視し、全力で遊び倒した。北海道から沖縄まで日本中あちこち旅行し、釣りしてみたり野宿してみたりヒッチハイクしてみたり富士登山してみたり、カラオケしてみたり格ゲーしてみたり喫茶店ハシゴしてみたり大人買いしてみたり。大きなことから小さなことまで、未咲がやりたいことを寝る間も惜しんで片っ端からやりまくった。散々遊び倒して財力も使い果たした七月六日の夜。二人は周助の部屋で伸び切っていた。
「……いやー、遊び倒したねー……」
「……もう、しばらくなにもしたくねえ……」
「えー、それは困るなぁ……もう一つ、やりたいことが残ってるのに」
「……なに」
「……あの、わ、私の初めて、もらって?」
「ぶっ‼」
 若干眠りかけていた周助の意識が、その一言で一瞬にして覚醒した。
「あっ、か、勘違いしてほしくないんだけど、別に処女のまま死ぬのが嫌だから誰でもいいからHしたいとか、そ、そういうのじゃないからね⁉ しゅ、しゅーちゃんとだから……したいん、だよ?」
 恥ずかしそうに頬を染めながらそんなことを言う想い人に、周助が抗えるわけがなかった。
「…………未咲」
「しゅー、ちゃん……」
 二人の顔が、自然と近づく。そして――


「……ねえ、しゅーちゃん」
 既に日付も変わった夜更け過ぎ。周助のベッドに寝転がる未咲が、同じベッドに寝転がる周助を呼ぶ。
「……どうした?」
「……私、やっぱり怖い……怖いよ……!」
 涙の入り混じるその声に、周助が未咲の方へ身体を向ける。
「死ぬってどういうこと? どういう感覚なの? なにも見えない、なにも聞こえない、なにも感じられないって、一体どういうことなのっ? みんなと……しゅーちゃんともう二度と会えないって、どういうことなの⁉ わかんないっ、わかんないよっ! 嫌だ、怖い! 死にたくない! 私死にたくないよぉ‼ しゅーちゃんと、はなれなくないよぉ……っ‼」
「未咲…………」
 周助の胸に顔をうずめて泣き叫ぶ未咲を、周助はただ撫でることしかできない。
(未咲がこんなに苦しんでるのに……どうして僕はなにもできないんだよ……‼ 未咲を救ってやれないんだよ……‼)
 無力感と絶望に胸を打ちひしがれながら、周助は窓から覗く夜空を見上げる。一際輝いていたのは、鷲座の一等星、アルタイル。別名『彦星』。だが、琴座のベガは……『織姫』は、雲の向こうに隠れて一向にその姿を見せない。それがまるで、自分たち二人の運命を暗示しているように思えて、周助は勢いよくカーテンを閉じた。


 翌日。最期の日。目を覚ました未咲は、泣きはらした跡の残る目元をこすりながら、周助に言う。
「……ねえ、しゅーちゃん。学校、いこ」
「……学校?」
「お願い。……これが、最期だから」
「…………わかった」
『最期』という未咲の言葉に、周助は頷かざるを得なかった。
 一週間ぶりの制服に身を通すと、二人はいつものように並んで学校に向かう。教室では、二人で一緒に一週間も休んでいたこともあり散々冷やかしを受けたが、未咲は終始楽しそうな様子だった。
 そんな朝のわいわいとした時間もあっという間に終わり、一限が始まる。相変わらず何度も聞いたことがあるその内容をガン無視し、周助は未咲を眺め続ける。その未咲はというと……静かに涙を流しながら、授業のノートを取っていた。
(……そう、か。今までの記憶がない未咲にとって、今日が最初で最後の……)
 その涙の理由に気付いた周助は、机の下で両の拳を強く握り締める。
(なにか……なにかないのかよっ! アイツを救い出すために、僕になにかできることは‼)
 考えて、考えて、考え抜いて。周助は一つ、出来ることを見つけた。それには、自分の全てを未咲に捧げる覚悟が必要で。しかしそんなものは、とっくの昔から固まっていて。
 そしてついに、その時が訪れる。七月七日の、黄昏時。

 放課後、別れを惜しむように目いっぱい友人たちと駄弁りまくった未咲は、周助と共に黄昏に染まる家路を歩く。
「私ね、最期はこれで終わりたかったんだ」
「……これ?」
「うん。しゅーちゃんと一緒の、帰り道。きっと、今までも数えきれないほどこうしてきたはずの、しゅーちゃんとの、なんでもない日常。これからも、ずっと続いて欲しいって、願ってた日常。……私が、なによりも一番欲しかったもの。その中で、人生を終わらせたかった……。だから、学校に行こう、なんて言ったの」
「…………そうか」
 二人の視界に、道幅には不釣り合いな大型トラックの姿が映る。
「しゅーちゃん。今までずっと、本当にありがとう。しゅーちゃんと過ごした日々は、覚えてないけど、わかるよ。すっごく、幸せだった。……本当は、もっとあなたと一緒に生きたかったけど……私はもう、時間だから。……さよなら、しゅーちゃん。永遠に愛してるよ」
 言い終えるのと同時に、未咲が道の真ん中に飛び出す。迫るトラックは既に制御不能なのか、左右に不規則に揺れながらしかし、何かに導かれるように未咲の身体へと突き進んでくる。それを、周助は黙って見ていたりなどしなかった。
「未咲っ‼」
 同じように道の真ん中に飛び出すと、未咲の身体をきつく抱き締めた。
「ちょっ、しゅーちゃん⁉ なにしてるの⁉ 早く逃げ――」
「お前独りで死なせるわけないだろ‼」
 なんとか周助を道端へ追いやろうとする未咲を力で抑え込み、周助は叫ぶ。
「僕も未咲が好きだ‼ 愛してる‼ ずっと一緒にいたいに決まってる‼ 未咲のいない未来なんか、生きる価値なんてないっ‼ 生きるも死ぬも、僕たちはずっと一緒だっ‼」
「しゅー……ちゃん……‼」
「未咲っ‼」
 二人の唇が重なる。その瞬間。
 ――重い衝撃が、二人の身体を襲う。視界は一瞬で白く染まり、思考さえままならなくなる。急速に薄れていく意識の中、二人が確かに感じていたのは、固く抱き締めたお互いの身体の感触と、触れ合う唇の柔らかな温もりだった。




 意識を取り戻した周助の目に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。
(……ここ、は……? 確か僕、未咲と一緒にトラックにはねられて……。……!)
 そこまで思考して、気付く。自分が、死んでいないことに。
「……は、はは…………そう、か……」
(僕は未咲と一緒に、死んでやることすらできないのか……‼)
 あれだけの衝撃を喰らいながら、まるで何事もなかったかのように正常そのものの動きをする自分の手足を怨めしそうに眺める。
 周助が居るのは、市内の総合病院の一室だった。トラックに轢かれて気を失い、そのまま搬送されたらしい。怪我はどこにもなし。……さぞ医者に驚かれたことだろう。だが、彼は、彼女は……そういう星の下に、生まれてしまったのである。
 意識を完全に取り戻した周助は、とりあえずナースコールを押す。自分の覚醒を伝えるには、これが一番だろう。明かりの点いていない病室から夜空を見上げて待つことしばし、バタバタとナースが駆け込んできた。
「星野君! 目を覚ましたのね⁉」
「……はい」
 ナースが電気を点けたため、急に明るくなった室内に反射で目を瞑りつつ、周助が答える。
「よかった! みんな心配したのよ? 大型トラックに撥ねられたのに無傷かと思ったら、三日間も目を覚まさないから。でも無事に目覚めてくれて安心したわ!」
「三日……じゃあ、今日は七月十日、ですか……?」
「そうよ。七月十日の日曜日」
「……そう、ですか……」
 ナースの回答に、周助は僅かに肩を落とす。わかってはいたが、やはりループは終わっているようだ。もう、やり直すことはできない。奇跡は、起こせない。
「……あの、聞いてもいいですか?」
「ん? なあに?」
「……未咲は、どうなりましたか……?」
 答えなんて、聞く前から分かっていた。だけど、聞かなければいけないと思った。未咲の死を、しっかりと受け止めるために。
「未咲……ああっ、一緒に事故に遭った天野さんね? あの娘なら――」
 ナースが目を伏せる。その仕草に、周助は次の言葉を覚悟する。そして――

「――しゅーちゃん‼」

 バンッ、という、病院には相応しくない豪快な音と共に、病衣を纏った少女が病室に入ってくる。その人物はもちろん。
「……みさ、き……?」
 もうこの世にはいないと思い込んでいた、最愛の幼馴染だった。
「天野さんなら、あなたと同じであんなトラックに轢かれたのに無傷よ。八日の朝には気がついて、それからずっと「しゅーちゃんはまだ目覚めませんか」「しゅーちゃんはまだ目覚めませんか」って、病院中の看護師に聞いて回ってたわ」
 ナースがそう続けたが、二人の耳には一文字も入っていなかった。完全に、お互いのことしか見えていない。
「しゅーちゃん‼ 目が覚めたんだね‼」
「未咲……‼ お前、どうして……‼」
「わかんないっ、わかんないけど私、生きてるよっ‼ あの日を過ぎても、ちゃんと生きてる‼」
 その存在を自ら証明するように、未咲は周助に正面から抱き付く。
「ああ……ああ‼ 未咲が、生きてる……‼」
 涙を流しながら、周助もその存在を確かめるように未咲を抱き返す。そこにはちゃんと、未咲が生きていた。
「ありがとう……ありがとう、しゅーちゃん! しゅーちゃんのおかげで私、まだ一緒に生きてられるよ……‼」
 とめどなく溢れ出る涙を幼馴染の病衣に零しつつ周助に微笑む未咲。それに対して周助は緩やかに首を振った。
「僕のおかげじゃない……僕と未咲で必死に闘ってきた858周の執念が、想いが、最後の最後に奇跡を起こしてくれたんだ……!」
「そっか……うん、そうだねっ! これは、私たちが二人で勝ち取った未来なんだ……‼」
 展開される二人だけの空間に呆れ返ったナースがそっと退室したことにも気付かず、二人は病室のベッドの上で見つめ合う。
「……改めて、しゅーちゃん。これからも、ずっと一緒にいてね?」
「……当たり前だ。絶対にはなさないよ、未咲」
「うんっ!」
 二人の未来を願い、誓いのキスが交わされる。
 そんな二人を祝福するように、夜空ではアルタイルとベガが美しく光り輝いていた。


 終

第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

大喜利のコーナー

「というわけで始まりました、大喜利のコーナー! 司会は俺、ギャグマンガ研究会、通称ギャグ研会長、石橋でお送りします! 回答者はもちろん、ギャグ研の後輩、雀宮ちゃん!」
「私が部室に入った瞬間に唐突になにが始まったんですか⁉」
「ん? だから、大喜利のコーナーだよ?」
「いや、そういうことを聞いているのではなくて……! ……はぁ。まあ、いいです。石橋先輩が突然奇行に走るのはいつものことですし」
「……俺、もしかして変人扱いされてる?」
「そんなことはありませんよ~」
「そっか。じゃあ、改めて大喜利のコーナーを始めよう。とりあえず、雀宮ちゃんはいつも通りそこのパイプ椅子に座って」
「はーい」
「……座ったな。じゃあ、進行するぞ。これからお題を3つ出すから、雀宮ちゃんはそれに答えてくれ。いい答えならパイプ椅子をあげるが、悪い答えなら取る」
「え、それ場合によっては私空気椅子になりません⁉」
「そうならないように頑張ってくれ。で、パイプ椅子を5つ集めると……」
「い、5つ集めると……?」
「バランスを崩して雀宮ちゃんが墜落します」
「パイプ椅子重ねるからですよ! 私これ、いい答え出す意味なくないですか⁉」
「でも、いい答え出さないと空気椅子だぞ?」
「そうでした! が、頑張ります!」
「その意気だ。じゃあ、まず1問目な。『週5で止まる総武線。その驚きの原因は?』」
「いきなり無茶苦茶なの来ましたね! 私生まれてこのかた茨城県民なんですけど、総武線って本当にそんなに止まるんですか⁉」
「知らん。俺も生まれてこのかた茨城県民だからな」
「ならなんでこんなお題作ったんですか!」
「面白そうだったから」
「全国の総武線関係者に謝ってくださいっ!」
「まあまあ、そうエキサイトするな、雀宮ちゃん。いい答え出さないと、空気椅子になるぞ?」
「うぐっ……わ、わかりましたよ……。でもいきなりお題の難易度が鬼畜すぎる……!」
「あ、ちなみに30秒間なにも答えなくても、パイプ椅子を1つ取るからな」
「石橋先輩はそこまでして私を空気椅子にさせたいんですか⁉」
「ああ。プルプル震えながら頑張って耐える雀宮ちゃんがちょっと見たい」
「変態っ! 後で絶対なんらかの形で報復しますからね!」
「ほーら、叫んでる間に時間なくなるぞー」
「ま、待ってください空気椅子は勘弁です! え、えーと、えーと……! い、『イノシシが激突!』」
「……それは、割とあるんじゃないか?」
「え、そうなんですか?」
「内房線とかでよく見るぞ。動物支障のため運転見合わせとか」
「なんで総武線よりも内房線に詳しいんですか⁉」
「まあ、茨城県民だからな」
「理由になってません!」
「まあ、とにかく今の答えはダメだな。パイプ椅子没収だ」
「さっそく空気椅子! 筋力皆無の私には真面目にきついんですけど!」
「じゃあ、はやくいい答えをだそうな」
「うう~、先輩の鬼畜~……。え、えーと、『草むらから野生のカイオ○ガが現れた!』」
「ポケ○ンか。っていうか、カ○オーガ⁉ 草むらから現れるの⁉」
「出るんじゃないですかねー、本八幡と下総中山の間辺りで」
「どこ⁉」
「今適当にググった総武線の駅名です」
「いつの間に……全く見えなかったぞ」
「鍛えてるので」
「なんのために⁉ ……ま、まあいいか。その将来役に立つのかわからない技術を賞してパイプ椅子をやろう」
「大喜利関係なく椅子もらいました! 先輩の言い方は気になりますけど、空気椅子はしんどいのでありがたく頂戴します!」
「おう。……あと、やっぱ総武線よくわかんないから、2問目いくな」
「そうしてくれると助かります。最初から問題にしないでもらえたらもっと助かったんですけど」
「まあそう怒るなって。2問目はもうちょいまともなお題だから」
「……本当でしょうね」
「ああ。じゃあ2問目行くぞ。『バミトントン。これどんな競技?』」
「バド……じゃなくてバミトントン⁉ 先輩の嘘つき‼ 明らかに難易度悪化してるじゃないですか‼」
「はい30秒カウントスタート」
「あああ、先輩が無慈悲! ば、バミトントンですよね……え、えと、『舞台の立ち位置を示すテープをいかに早く、正確に、しっかり貼れるかを競う競技!』」
「……確かに、バミるって言うが……微妙だからパイプ椅子没収な」
「先輩が焦らせるからこんな答えしか出ないんですよ!」
「……俺のせいか」
「10人中13人がそう言うと思いますよ!」
「3人どっから湧いた⁉」
「廃村とかですね」
「ゾンビじゃねえか! っていうか、いい加減パイプ椅子没収するぞ」
「ちっ。うやむやにはできませんでしたか」
「しようとしてたのかよ! そうはさせないからな! はい没収!」
「ううっ、空気椅子しんどい……!」
「なら早く答えるんだな」
「先輩が魔王みたいです……」
「お父さーん!」
「その魔王じゃないです!」
「だろうな」
「わかってるならツッコませないでくださいよ! ただでさえ空気椅子で死にそうなのに……!」
「ドンマイ」
「完全に他人事ですね! 後で絶対13倍にして返しますからね!」
「13好きだな……」
「今日は金曜日ですからね!」
「でも13日ではないぞ」
「そ、その辺はいいんですよ適当で! えっと、バミトントンですよね…………『総武線を週五回に渡って止める競技!』」
「1問目と絡めてきた! でももはやバミトントンなんも関係ねえっ!」
「あ、ちなみに、止め方の美しさや被害者の数、止め方のバリエーションによって採点されます」
「細かい設定までついた! しかも採点競技だし! ってだから、もうそれバミトントンなにも関係ないだろ⁉」
「……じゃあ先輩は、『それはもうバミトントンって言うしかないな』みたいな競技思いつきますか?」
「…………。……。……。……3問目、行こうか」
「逃げましたね⁉」
「パイプ椅子2つあげるから勘弁して!」
「それは賄賂と言うのでは……まあ、椅子がもらえるのはありがたいので貰いますけど」
「交渉成立だな。……じゃあ、3問目行くぞ」
「はい。……おおっと、パイプ椅子2つ重ねでも結構危ないですね……」
「『ぽっと出のゴリラ。これどんな生き物?』」
「ぽっと出のゴリラ⁉ もはや言葉の意味すらわからないんですけど! なんですかぽっと出のゴリラって!」
「それを考えるのが、雀宮ちゃんの仕事だ」
「横暴です! え、えーとえーと、『ポットをこすったら出てきたゴリラの精!』」
「なにその魔法のランプ的な話! ゴリラの精とかマジで気持ち悪いんですけど⁉」
「ちなみにマウンテンゴリラの精です」
「そここだわることなのか⁉」
「ローランドゴリラじゃないですよ?」
「違いがわからん!」
「私もわかりません」
「じゃあなんでこだわったし! 時間の無駄じゃねえか!」
「……そんなこと言ったら、そもそもこの大喜利のコーナー自体が……」
「パイプ椅子全部没収!」
「ああっ、2つとも持ってかれた! 3回目の空気椅子は本当にしんどいんですけど……!」
「私に歯向かった罰だ」
「なんでちょいちょい魔王っぽくなるんですか⁉」
「お父――」
「そのネタはもういいです! ってああもう空気椅子がしんどい……! えとえと、『ポットで沸かして作るタイプのゴリラ!』」
「ゴリラ作れるの⁉ っていうか他にもタイプがあるの⁉」
「やかんで沸かして作るタイプと、お風呂で沸かして作るタイプがあります」
「……お湯だな⁉ それゴリラ全く関係なく、ただお湯作ってるだけだな⁉」
「⁉ ……そこに気付くとは……」
「誰でもわかるわ! ……はぁ、はぁ、もうツッコミ疲れたから3問目終了な」
「え、私空気椅子のままなんですけど⁉」
「というわけで、全問終了したから結果発表な。優勝はもちろん、パイプ椅子を1つ失った雀宮ちゃん!」
「参加者私しかいませんからね! そりゃ、獲得パイプ椅子数がマイナスでも私が優勝でしょうね!」
「ではこちら、優勝賞品としてパイプ椅子を5つ差し上げまーす!」
「結局それですか! これ大喜利した意味まるでなくないですか⁉」
「さ、優勝者雀宮ちゃんよ。座るがいい」
「無視ですね! そしてパイプ椅子5つ重ねはホントに危なそうなんですけど!」
「大丈夫、プロが監修してるから」
「なんの⁉」
「パイプ椅子積み上げるプロ」
「誰⁉」
「俺」
「ぶん殴りますよ?」
「せ、先輩に暴力はよくない!」
「先輩がふざけたことばっかり言うからですよっ」
「よ、よし、ここは俺の豆知識でいったん落ち着け」
「……急になんですか。そしてなぜに豆知識」
「ねば○る君が大きくなると約3mくらいになるのは、茨城県の人口がおよそ300万人だからだ」
「え、そうなんですか⁉」
「いや、今適当に考えた事実無根の出任せだ」
「なんで微妙にそれっぽい嘘つくんですか! ちょっと信じちゃったじゃないですか!」
「でも和んだろ?」
「いえ全然」
「じゃあ、そろそろパイプ椅子に座ろうか」
「さては人の話まったく聞いてないですね。……まあ、座らないと終わりそうにないので座りますけど。……う、うわっ、やっぱ5つは危ないですよっ」
「雀宮ちゃんならいける!」
「なにを根拠に……ってきゃあ、落ちるっ!」
「ごふぁっ‼」
「……あ、たたた……うぅ、先輩の宣言通り墜落しました……。って、石橋先輩? うずくまってどうしたんですか?」
「…………雀宮ちゃんの頭突きが、我が股間の紳士に……」
「え⁉ なんか頭に当たったと思ったら、先輩の……だったんですか⁉ ごっ、ごめんなさい! でも、丁度いい仕返しになりましたね!」
「……お、おう……正直、13倍どころじゃないが……」
「それは自業自得です」
「雀宮ちゃんが冷たい……」
「これに懲りたら、私に無茶ぶりするのやめてくださいね」
「それはできないな」
「即答⁉ な、なんでですか⁉」
「雀宮ちゃん、焦らせると可愛いし面白いから」
「こ、こんの変態! やっぱり130倍返しにします!」
「え、ちょ、や、やめて! その振りかぶった右足はどこ狙ってるの⁉ やめて、それだけはマジやめて、紳士にロックオンしないで⁉ あっ、やめ、ちょ、まっ――!」

第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

夜空の石

……いいお通夜だったな、って言うとなんか縁起悪いか。いや、こう、多くの人に惜しまれて、みたいなさ。奥さんとか子供とか、親戚とか、俺らみたいなたかだか小学校の同級生も来ちゃって、出入り口でたむろしてた人達なんかも中学か高校かのただの同級生じゃないか? そういうさ。本当に、色んな人に、ああ良い奴だったなあって思われて。なんか、そういう感じ。正直、あんまり覚えてないよな。あいつとよくやったこととか、あいつが好きなものとか。まあ、小学校の同級生なんてそんなもんだよな、普通。一番仲良かった俺もおぼろげだし……、それでも確かに良い奴だったなって。多分みんなそう思ってるんじゃないか? あそこにいた人は、みんな。
 そうそう、イツキのことで一つだけ。どうしても、何年間も覚えてることがあるんだ。ああ、別に悪いことじゃない。というかあいつが悪い事する姿とかちょっと想像できないだろ。え? 俺があいつに? いや、そういうことでもなくて。ただなんとなく、覚えてるんだ。嫌なこと悪いことじゃないから別に忘れたいとは思わない。で、不思議なことにすっかり忘れることが今までなかったんだ。こう、忘れた頃にすっと思い出すというかさ。ああ、そういやそんなことあったなーって。
 国語の授業でさ、狐とひよこと……あひるだっけ? の話やったの覚えてるか? ちょっとうろ覚え過ぎたか。確かあひるだったと思うんだけど。狐が食べようと思ったひよこを肥やすために育ててたら慕われてあひるもくっついてきて、それでそろそろ食べごろかもなんて考えてた時に狼に襲われて。そう、あったろ? それそれ。ひよことあひる助けて狐が死んじゃうやつ。
 あれの時にディスカッション、やっただろ。狼がひよことあひる見つけた時に「まだここにきつねがいるぞ」って言ったのは誰かってやつ。あれの時最初に狐が言ったって言ってたのイツキだけでさ、俺も、他のみんなも、ひよこかあひるが言ったって言ってたんだ。自分で死ぬようなことしないからって。でも、段々みんな狐がそう言った側になっていって。それで色々言われた気がするけど、俺は最後までひよこかあひるが言ったって、ずっと、最後まで。……わからなかったんだ。狐が自分で死ぬような発言した理由なんてどこにもないと思ってたし、ひよこかあひるが言ってても酷いことだと思ってなくてさ。狐のこと慕ってたから怖い時になんとかしてくれるかもって呼んだのかなーぐらいで。だからず
っと、狐がそう言ったって、そんなの意味わかんなかったわけ。結局先生も俺が納得いくようにはしてくれなかったし。むしろ、なんか怒られた気がする。
 っていうのが前提な。ん、そう、壮大な前フリ。……いやすまんて。悪いな短い話じゃなくて。続けていいか? ……ありがとな。
 でさ、その後にまた国語の教科書で、夜空の石が出てくる話やった覚えないか? そうそれ、願いを叶えてくれる夜空の石の話。結局……なんだっけ主人公の名前。そう、それだ、アツシ。アツシは見つけられなくて、それでもいいよって病気のおばあさんに抱きしめられて。そうそう、おばあさん死んじゃうやつ。え、国語じゃなくて道徳だった? いいんだよそういうのは。そこはあんま関係ないから。
 それで、それ授業でやった日の放課後に俺らで夜空の石探そうって話になってさ。俺とイツキで。話してた時はもうちょい人数居たはずなんだけど、習い事がーとか何とかで結局俺とイツキだけでさ。んで、石がいっぱいある場所ってことで、小学校から歩いて30分とかそこら辺に河原あったじゃん? ……え、マジで? 知らない? あー……そうかお前東口か。いや西口のさ、もっと向こう側行ったとこにさ、あったんだ。まさに河原って感じの河原。そう、石ばっかあって川が流れてて。いやマジであったんだって。そこだけすごい自然って感じで。まあ川汚かったしマジで石探す以外行く意味わからんみたいな場所だったしな……。まあそんなわけで河原の有効活用したわけよ。で、夜空の石な。
 まあ、当たり前だけど見つかんない。それでも普通に話しながら石ひっくり返しながら歩いてるだけで楽しかったけどな。というか今でも覚えてるんだけどさ、週5で止まる総武線とかバミトントンとかぽっと出のゴリラとかさ、そんな変な話ばっかりしてたんだよ。何だよバミトントンって! いやどれか1個ぐらい石探してる時じゃなくて別の時だったかもしれないけど。ほんとおかしかったんだよ。……あー、すまん、詳しくは覚えてない。正直俺もどんな話だったのか、なんで重要なとこ覚えてねーのかなって思う。ほんとすまん。ほんとそこ大事だったのにな。まあでもそんな馬鹿な話しながら河原で夜空の石探してたわけ。
 それで夕方になってさ、まあ見つかんないからずっと河原で駄弁って石いじりしてるだけだったわけだけど。こう、ふと思い出したんだ。さっきの話。……そう、狐とひよことあひるの話。なんで狐の台詞なのか全然納得できないって話ぐちぐちしたんだけど、イツキはずっと狐が狼にここにいるぞって言ってたんだって方にいたわけで。それでさ、聞いたんだ。イツキに。「なんで」ってな。
 ……どうだったっけな。あーそうだった。先生が言ったただの「そうなんだよ」よりは全然納得できたんだ。イツキは確かこう言った。「狐は、ひよことあひるに生きててほしかったから」。まあ確かに先生よか全然納得したんだけど。まあでも、そうかもしれないけどさあ、としか思えなくて。いやだって死にたくないじゃん。言ったら死ぬじゃん。そしたら言うのおかしいだろ。で、イツキも俺のそういう話聞いて「そうかもしれないけどさあ……」って。すげー困った顔してた。お互い微妙に納得しきれなかったんだな。それで俺が機嫌悪くなっちゃって石の扱いが雑になって、ただどかすだけじゃなくて放り投げたりして。危なっかしいよなあ。いやほんと、今だから思うけど、イツキに怪我させたりしな
くてよかったよ。んで、イツキも困った顔そのままでさ。お互いすげー機嫌悪かった。どんどん暗くなってて家帰らなきゃいけない時間も迫ってたし。
 で、ここでな、奇跡が起きるんだよ。いやもう奇跡と言っていいと思うんだ。だってほぼ奇跡みたいなもんだろ。ここで、夜空の石が見つかったんだ。
 ……いや実はな、勿論その時は知らなかったけど、ゴールドストーンって石があって。それが丁度夜空、というか星空みたいに綺麗なやつでな。その時見つけたのは多分それだと思う。いや、本当にこう、星空を集めたみたいな石で。……やめろ、俺も言っててちょっと気持ち悪かったんだ、ロマンチックとか言うなよ。まあ、それぐらい綺麗で、夜空の石って思うのも無理ない石を見つけたんだ。
 だから、夕方と夜の間の微妙に明るいけどだんだん暗くなるあの、なんていうの? あの時間帯に……宵? あ、宵ってその時間帯なんだ。へえ。……で、夜空の石を見つけて。二人ともずっとうわあ綺麗とかそんなことばっかり言ってて。はーすげえ、とか。だって見つけた時の願い事なんて一つも考えてなかったんだ。俺も、イツキも。ちょっと、冒険というか。そういうのがしたかっただけだったんだな。だからもちろん本気で探してはいたんだけど、本当に見つかるとは思ってなかったし。それで見つかった夜空の石に夢中になってたわけ。
 願いを叶えてくれることを思い出したのは、……何分後だろうな。まあとにかくしばらくたった後で。もうすっかり暗くなって、それこそ夜空になりかけだったのに二人とも大興奮で。家に帰らなきゃなんてこと忘れてその場であれこれ言ってたんだ。先に願い事の話に気付いたのはイツキだった。「お願い事! 何か叶うじゃん!」って。そう言われて俺も気づいた。それで、二人して考え始めて。イツキは10秒ぐらいしてから「オレ水泳の大会行きてえな、夏の大会。そんで優勝したい!」って言ってたよ、確か。それで「お前は?」って。すげえ……明るい笑顔って言やいいのかな。いい笑顔でな。
 それで、俺は……。俺は、その時あれしたいこれしたいってのが、出てこなくて。それで、ふと、さっきの愚痴……狐とひよことあひるの話の、あれを思い出したんだ。
 「狐があんなこと言うのわからなくても、怒られないのがいいな」って。気付いたらそう言ってたよ。それ聞いてイツキがすげえ、まあ当然なんだけど微妙な顔して。ちょっと口を開きかけて、閉じて。そんでもう一回開いて。「オレは、お前がそういうのわかんなくても、ずっと友達だよ」って。そう言った。
 その微妙そうな表情と、困った声色と、暗い宵の河原の匂いと……。その時のことが、ずっと頭の中にあって。多分、一生俺は忘れないんだろうな。
 ……んー、なんか湿っぽい話になっちまったな。こんな暗い感じにする気はなかったんだけど。今この話してさ、ずっとイツキってこんな感じでいい奴だったんだろうなあって。これしかはっきり覚えてないのにな。
 なあ、お前女房と子供がピンチの時に、自分の命張ってまで助けられると思うか? ……多分、俺は無理だね。2人にゃ悪いけど。自分が死ぬのかと思ったら、きっと足が竦むし、助ける理由を見失っちまう。それでも、そんな酷い奴でも、イツキは俺の友達でいてくれるって……そういうことだったら、いいな。あいつは命張って助けられるけど、俺みたいに酷い奴じゃないけど、そんな俺でも、それでもイツキは、許して友達でいてくれるって……。
 まあ結局ただの小学校の同級生ってだけなんだけどな。もう死んじまってるし。ふっ、はっははは。でも、あいつはそういういい奴だったからさ。だから、きっと。あれだけ穏やかで、たくさんの人に悼まれる、いいお通夜だったんだろうな。
 何か、お前はそういう話ないの?
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

reflection

1.
 彼はいつもそうだった。メニューにある酒を片っ端から頼んでは一息で飲み干した。普段の口数の少なさとは打って変わって、アルコールに浮かされてよく喋る。やたらと眉尻を下げてひたすらに淡々と喋りつづける。話題の切れ目で、杯を空にしてはまた喋る。彼があんまり喋るから、他の社員は彼に寄り付かなくなった。しかし、彼は相変わらず飲み会に参加する。私は薄いチューハイを片手にただ黙って聞いている。返事がなくとも彼の舌は止まらない。
 彼はオムライスが好きだといった。彼は赤色が好きだといった。上司の無能を、部下の無知を、今年のクライマックスシリーズの顛末を、どうでもいいことを彼は延々と語りつづけた。そんなことすら酒に身を任せなければ口にできない彼はとても哀れでくだらないと思った。彼はそうして吐きこそしないけれど、一人で歩けなくなるまで飲んでは。
「奥さんに連絡する?」
 彼は酔いつぶれていた。薄暗い店内で、赤く濁った肌だけが照らされている。私はこの暗く眩しい電球の下で何度尋ねたことだろう。何度こうして煙草臭い鞄をあさっただろう。
 真っ白なハンカチの下に彼のスマートフォンはあった。1125、で開くのを知ったのはちょうど一年前の、やはり忘年会だったように思う。彼の奥さんはいつも駅まで迎えに来てくれるらしい。酔いつぶれてもかならず地元の駅に着くと目が覚めるのだと、いつかの彼は言った。そうして迎えに来た妻の車の助手席に座って帰るのが好きなのだと。
 いつも通り「終電までに帰ります」とだけ入力したところで後ろから声がかかった。
「僕が先輩運んでいきましょうか」
 振り向けば一つ下の後輩が立っていた。彼もほとんど飲んでいないようで、髪もきれいなセットを保っている。そんな良いスーツで飲み会に行くのを叱ってくれる奥さんを早くもらったらいいといつも思う。少し後ろでじっとこちらを窺がっている女の子たちの中で適当に見繕えばきっと幸せになれる。
「いつものことだから大丈夫よ」
 私はいいからあなたは同期のお嬢さん方を送ってあげなさいな、と笑って言えば彼は目を少し見開いて、また細めて、よいお年を、とまたにこやかに一礼をして去って行った。女の子たちの黄色い歓声が遠くで沸いた。
 向き直って再び手元の青白い画面を見つめる。
 指が震えた。
 2分後に「待っています」とだけ返ってきた。

2.
 肩に載せた腕が重くて酒臭くて、中途半端な体温がくっついているのが気持ち悪くて、それでもおぼつかない足で歩く彼を放り出すわけにはいかなかった。エレベーターのドアが開いた瞬間、冷たい風が吹きつけてくる。重い首を持ち上げ電光掲示板を見れば千葉行きは20分遅れだという。居酒屋を出てからずっとぼそぼそと歌っていた彼がいつのまにか静かになったから眠ったのかもしれない。歌う元気があるなら自力で歩いてくれたら良かったのに。あまりの重さに腕を担ぎなおすと襟元からアルコールに交じって薄くラベンダーの香りがした。365日も彼を恨んで、憎んで、それでも飲み会の度に終電までにこうして彼を電車に乗せていた。
 年末の終電間近のホームは人もまばらで、ガタイのいい男をヒールの女が担いでいても、やつれたサラリーマンが胡散臭そうな顔で見てくる程度だった。コンビニとラブホテルとマンションと、年の瀬にもいつもと変わらず輝くその向こうから小さな点がやってきた。今なのかもしれないと思う。私が足を滑らせて彼が線路に落ちてしまう未来も、平然とした顔で目の前に転がっているはずだった。何でもできる気がした。
 威勢良く、ごおお、と音を立てて黄色い電車がやってくる。私の過去も、今も、未来も。この電車は運んでいって終わらせることが出来る。見つめ返せば眩しさで視界がつぶれた。
 開いたドアに彼を押し込む。そして鳴り響くベルと一緒に、私も乗り込んだ。


3.
 ふと窓にもたれれば、息で曇ったガラスの向こうの街灯たちは虹色に滲んでいる。
 届いたメールをまた見返す。今日もきちんと帰ってくるだろう。まだ23時38分。


4.
 彼を座らせて、自分は1つ後ろの車両に乗りドアによりかかった。この時間の総武線は青白い光が際立って嫌いだったし、一人になるのは何となく恐ろしかったけれど、彼の隣に居たら、肩の重みと酒臭さに苛立ちながらもその中に沈んでしまいたくなりそうだった。
 もうすぐ着く。彼は次の駅で目を覚まして降りていく。あるべき姿に戻っていく。そもそも何も変わってはいないのにそう思うのは私の独りよがりだろうか。でもその姿を見たなら、きっとこの気持ちにけりが付く。そして私はこのまま終点まで揺られていく。今から上り電車に乗り替えたところで武蔵野線の終電はもう無いからどこか適当にホテルを探せばいい。深く息を吸い込んだ。暖房が効いているはずなのに鼻の奥が冷えて痛い。

「まもなく、稲毛、稲毛」

 大きく揺れて停車した。よろめきながら彼がひとり降りていくのが見えた。本当に目を覚ました彼に驚きながらその後ろ姿を目で追う。黄色いホームを黒いコートがのそりのそりと歩いていく。薄い潮の香りの中をかえっていく。
 エスカレータに乗って彼は降りていき、そしてあのロータリーで妻の車を待つのだろうか。いや彼女のことだから、あのメールが届いてすぐに家を出てもうずいぶん前から彼をそこで待っているのかもしれなかった。想像したら、ついハハッと声が出た。涙も出た。
 聞こえたのか聞こえなかったのか、彼は足を止めて振り返った。目が合った。
 垂れた目尻に、呆けたようなその表情に。似ても似つかぬずっと大きな身体に、華奢な少女の姿が被って見えた。私は彼にはなれなかった。そして彼が彼女になったのだ。
 ちゃんと知っていた筈だった。あの日とは違う。ドアは開いている。
 彼はもう行ってしまった。三度目の貴女とのさよならだ。


5.
 なんとなく、ぼんやりとした頭で振り返ると、その後輩は泣いていた。いつもいつもこんなに酔っ払った自分を担いで総武線に放り込む、勇ましく頼もしいその後輩の頬を幾筋もの涙が伝っている。この女性は本当に僕の後輩だったろうか。見てはいけないものを見てしまったような気がして目を逸らしてエスカレータに乗る。たまにはお礼を言うべきだったかとも後悔したけれど、そうではないと思った。アナウンスの後にドアが閉まる音がした。「駅に着いた」とメールを送る。改札を出て再び振り返る。人気のない構内で電光掲示板が下り電車の30分遅れを知らせていた。


6.
「また後輩さんにご迷惑かけたの?」
 どうしてわかるんだと彼は隣で居心地悪そうに答える。
「あなたは駅に着いてからでないと連絡しない人でしょう」
 酔っ払うとメールも打てないあなたなんだから。
 一年くらい前からその人は酒癖の悪いうちの夫の世話を焼いてくれている。夫は頑なに後輩と呼ぶし、詮索しようとは思わない。時々上着のそでに長い髪がついているから予想はつくけれど浮気を疑う必要もなかった。毎回必ず連絡を彼の携帯から入れて、終電の2つ前には必ず彼を乗せる辺り、多分その気は無いのだろう。彼女からであろうその文面はいつも変わらなくて、近頃ではメールが来ると安心するくらいには信頼している。
「来年もよろしくお願いしますって言わないといけないわね」
 ガラガラの交差点を左折する。カラオケの看板もボウリングの大きなピンも夜の灰色の中で黙り込んでいる。唐突に彼は言った。
「彼女今日泣いていたんだ」
 枯れた声に横を見ると、彼は赤信号に照らされながら迷子みたいな目をして静
かに泣いていた。いつかの私みたいな顔をして泣いていた。
 彼が愛しいと思った。彼のその涙は確かに私の涙だった。

第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

総武線は止まらない

 パラレルワールド。そんな言葉を聞いたことがある。
 僕たちが住んでいるこの世界は事あるごとに分岐していて、その度に宇宙のどこかで、この世界と並行した別の世界が生まれるのだそうだ。
 例えば、そう、僕が石油王になって世界中の美女という美女をたぶらかしているような世界もあれば、地べたを這いずって来る日も来る日も雑草を毟り食っているような世界もあるわけだ。そもそも僕が生を授かっていない、なんてことも有り得るかもしれない。
 ――いや、そんなに極端じゃなくてもいい。今日僕が朝食を食べなかった世界。隣で咳をしているサラリーマンがマスクをしている世界。そのまた隣でぼんやりしているOLが今あくびをしなかった世界。どんなに細かな差異でも、漏れなく存在するらしい。
 実に興味深い話ではある。しかし、所詮は創作の設定に過ぎない。そんな世界があるのならば、是非ともお目にかかりたいものだ。
 ――そんなことを、昨日までの僕ならば平気で宣っていたことだろう。しかしまあ人間というものは、いくら軽口を叩いていても、いざそれを目の当たりにすると恐ろしくなってしまう生き物らしい。
 そういうわけで、僕は今、心底震え上がっている。
 何せ、パラレルワールドに来てしまったのだから。

 朝目を覚ますと、そこは出来のいいジオラマのようだった。身を包んでいる布団、視界にある家具、調度品、部屋の間取り。どれをとっても、僕が知っているものと同じだった。限りなく似ていた。だからこそ、強い違和感を覚えた。
 それを引き摺ったまま最寄駅のホームまで来て、僕は漸く、ひとつ奇妙なことに気がついたのだった。
 ――おかしい。
 今日は月曜日。それは間違いない。今朝のニュースで、新人のアナウンサーが笑顔で宣言していた。
 ――それなのに。

 ――それなのになぜ、総武線が定刻通りに運行している?

 そう、平日――特に月曜日などは、決まって方々の駅で人身事故が起こり、この鉄の箱はさも当然であるかのように止まるのだ。
 それがどうだ。運行見合わせや遅延のアナウンスもなく、そいつはすました顔で僕の目の前に停車した。時刻は七時三十分。ぴったりだ。
 この電車を利用してもう三年は経つが、定刻通りに顔を出したことなどただの一度もなかった。少なくとも、僕が認知する限りは。それが唐突に、何の前触れもなく、こんなパンクチュアルに――。
 ありえない。自然の摂理を覆したも同然だ。
 そしてもっと不思議なのは、天変地異の予兆ともとれるこの事象を前にしても、周囲の人間が誰ひとりとして動じていないということだ。
 人の波に呑まれながらきょろきょろ周りを見渡したが、皆判を押したようにつまらなそうな顔をしている。
 おかしい。絶対おかしい。
 恐る恐る車両に踏み入りながら、僕は同僚から聞かされたサイエンスフィクションな話を思い出していた。
 パラレルワールド。僕はきっと、知らず知らずの内にパラレルワールドに放り込まれてしまったのだ。
 そう考えると、総武線が止まらなかったことにも、それに対して皆が何食わぬ顔をしていることにも頷ける。
 今にして思うと、自分の部屋の様子も、少し、見逃すほど微かに違ったような気もする。ベッドはあんなに小さかったか? カーテンの柄はあんなだったか? タンスの配置はあそこで合っていたか? 考えれば考えるほど、あらゆるものが怪しく思えてくる。
 車窓から灰色の街並みを眺める。一見いつもと変わった様子はない。しかしきっと、背の高いビルが一本増えていたり、あるはずの街路がすっかり消失していたり、といったことが起こっているに違いないのだ。
 僕は元の世界と変わらぬ過酷な通勤ラッシュに揉まれながら、心中酷く狼狽えていた。
 ――一体どうすれば、元の世界へ戻れるのだろう。
 縋るように隣の女子高生や中年男性を見遣っても、救ってくれるはずもない。あんまり見つめていてもお縄になってしまう。
 何の整理もつかないまま、僕はずるずると都会の方へと運ばれていった。

 普段と変わらぬ駅で降り普段と変わらぬ道を辿ると、見慣れたオフィスビルがそびえていた。入口の小洒落たガラス製回転ドアも健在だ。
 何となく拍子抜けしながらエントランスを抜け、フロントのべっぴんさんに力なく挨拶をする。愛嬌のある笑顔で挨拶を返すべっぴんさん。この微笑みで一体どれほどの社畜が救われていることだろう。僕たちはこの女神に日々祈りを捧げるべきなのだ。
「――ん、村田か?」
 だらしなく顔を歪めていたところ、突如背後から声が飛んできた。どきりとして身体を翻す。そこには、目の保養にもならない残念な男の姿があった。
「――イケダマサシ?」
「……なんでフルネーム疑問形だよ。寝ぼけてんのか?」
 池田雅史。僕の同僚であり、悪友のひとりだ。毎日寝癖は立ちっぱなしだしメガネは派手だしネクタイはきちんと締めないし、まるで善良そうには見えないが、その通り、全く善良ではない。しかし何の間違いか上司には気に入られているようだ。
 この男、実に華のない声をしているが、その声色は疑心暗鬼状態の僕にとっては非常に心強く感じられた。漸く地に足をつけられた心地だ。
 ――いや、しかし油断はならない。ここは外でもない並行世界である。きっとこいつも、僕が普段見ている「池田雅史」とは似て非なるものなのだ。
 よくよく観察してみると、どことなくメガネの形状が少し違っている。そんな気がする。確信は持てないが、僕の直感がそう告げている。
「……何だよ、気持ちわりいな。顔を離せ、顔を」
 ふと我に返ると、池田の顔面が僕の視界いっぱいに映っていた。すぐさま後退して、奴と十分な距離をとる。折角フロントの美女に塞いだ心を癒してもらったのに、今はもう酷く胸焼けがしている。疲弊しているときにむさ苦しい男の顔なんぞ見るものではない。
 そういえば、僕にパラレルワールドの話を持ち出したのもこいつだ。何だか、池田が諸悪の根源のように思えてきた。
「……はあ」
 小さくため息をつくと、僕は足早にオフィスへ続くエレベーターへと向かった。
「どうしたんだ、あいつ……」
 訝しげな表情で、池田は僕の後を追った。

「あれ、おはよ村田くん」
 オフィスに入りどっかと自席に腰掛けると、張りのある可憐な声が聞こえた。どこかの誰かの声質と比べると、ミネラルウォーターと泥水ほどの差がある。
「おはようございます、えー、カガナツミ先輩?」
「なんでフルネーム疑問形なのさ? 私のこと忘れちゃったの?」
「あーいえ、そんなことは……はは」
 視線を逸らしながら、僕はへらへらと答える。加賀菜摘さんは僕より二つ上の先輩だ。印象は、しゃりっ、しゃきっ、しゃらっ、といった感じ。何でも卒なくこなす頼れる人だが、話す度に顔を覗き込んでくるので、対女性免疫の欠如著しい僕はいつもどきまぎしてしまう。
「ふーん……。えーと、あれ、何だっけ? 何か村田くんに言いたいことがあった気がするんだけど……。あー、思い出せない」
 言いながら、頭をわしゃわしゃと掻く先輩。こういう仕草や言動もまさしく加賀先輩だ。――が。
 いや、騙されてはいけない。そうだ、髪型だ。何となく雰囲気が違うと思ったら、髪型が違う。きっとこの相違は、パラレルワールドの産物に違いない。
「ん、あ、髪の毛? そうそう、昨日切ったんだー、わかる?」
 僕の熱い視線に気がついた先輩が、茶の混じった柔らかそうな髪の毛をちょいとつまんでみせる。……なるほど、そういうわけか。
 それなら、そうだ。香水を変えたのだ。普段よりもどこかフルーティな香りが強いような、そんな感じがする。多分。
「……ん、加賀クン……と、村田クン? おはよう……」
「あ、おはようございまーす、課長」
「おはようございます。……なんで僕だけ疑問形なんですか」
 突然ぬるりと顔を出したのは、山岡課長だ。相変わらず薄幸そうな面持ちをしている。細長い身体に、垂れた瞳。中途半端に伸び散らかした髭。「冴えないヒト」としか形容できない風貌をしているが、その実、かなりのやり手である。
「あーいや、別に……。ちょっと、二人に渡すものがあってな」
 そう言うと、課長は抱えていたファイルから茶封筒を二つ、取り出した。
「えっ……まさか、左遷……? 異動? クビ!?」
 それを見て、加賀先輩が素っ頓狂な声をあげた。
「いやいや……ただの給与明細。はい、村田クンも。目当てはこれでしょ?」
「えっ、あ、ありがとうございます」
 軽く頭を下げて、両手でそれを受け取る。何だか、急に現実に引き戻された気分だ。
「ほんじゃまあ、お疲れさん」
 それだけ告げると、課長は手をひらひらさせてその場を去っていった。お疲れさん、といっても、僕もこれから仕事なんだけどなあ、先週から積もりに積もってるやつ。
「さ、張り切ってこー」
 加賀先輩も僕の背中をぽん、と叩いて、自らのデスクへと戻っていった。途端に、周りがしんと静まり返る。
 ――これが、パラレルワールド……。
 何の変化もない日常に戸惑いを覚えながらも、僕は目の前のパソコンを起動させた。

「カツカレーと味噌汁ください」
僕は食堂に来ていた。受付の娘に、変わり映えのないメニューを注文する。常連並に言えば「いつもの」といったところだ。
「相変わらずですね……。私、その組み合わせだけは認めませんから」
 いつまでたっても、僕の「いつもの」はこの娘に受け入れてもらえない。何が気に食わないのだろう。
「ていうか、村田さん、サボりですか? まだ十一時前ですよ?」
 名も知らぬこの娘は、何故か一方的に僕の名前を知っている。おとなしそうな見た目に反して、なかなかおしゃべりだから厄介だ。何にでも首を突っ込みたがる性分らしい。
「失敬な。仕事が済んだから、早めに昼食をとるだけだよ」
「ふーん……」
 いざタスク、とパソコンの電源を入れたところ、大量に残っていると思われていたノルマは完全にこなされていた。さっさと次の仕事に移ってしまってもいいが、余裕があるので適当に放置して食堂まで来てしまった。サボりと言えばサボりだが、そんなことを正直に話すと色々と面倒そうなのでやめた。
「はい、カツカレーと味噌汁です」
「ん、ありがとう」
 しかしこの娘も、何か違う。綺麗になった、とでも言おうか。いつもより数段洒落込んでいる気がする。この世界では、彼女には恋人でもいるんだろうか。
「そういえば村田さん、それ――」
「なんだ村田ー、サボリか?」
 受付の娘の言葉を遮って、今朝にも聞いた声が飛んできた。
「……そんなとこ。池田も?」
「まあな。ちょっと、一段落ついたんでな。あ、カツ丼と味噌汁ください」
 僕がテーブルにつくと、池田も盆を受け取って僕の向かいに座った。
「いただきます」
 顔の前で合掌し、カレーの海にスプーンを突っ込む。福神漬けを一切れ載せて、僕はそれを口に運んだ。
「……はあー」
 胃袋が感嘆の声をあげた。たかだか食堂のカレーだと侮るなかれ。そこらの料亭のメニューと比べても全く遜色はない。それどころか、何十枚、何百枚と上手である。
 まず特筆すべきは、この適度な甘さ。甘口とも中辛とも言えない絶妙な調整が旨みを増幅させ、食した者の舌をうならせる。これが福神漬けの塩気と良く溶け合い、ぐっと味に深みが増すのだ。このハーモニーが奏でられているうちに、すかさずカツを頬張る。これがまた絶品。揚げたてのそれは口の中で肉汁を撒き散らしながらほろほろと蕩けていく。これを咀嚼、消化。全てが喉元を過ぎ去った後には、唾液と幸福が舌の上に溢れているのである。こんな極上のカツカレーが、お手頃な食堂価格でありつけるなんて、僕は幸せ者以外の何者でもないのだ。神様、ありがとう、ありがとう。
「……また脳内グルメレポートか?」
 池田が冷めた目でこちらを見た。
「よくもまあ、飽きないもんだな。毎日食ってんだろそれ」
「飽きるもんか。僕の生きがいだ」
「食堂のカツカレーに生かされてるんだなあ、お前は」
 小馬鹿にしたようなセリフを吐く池田を尻目に、僕はアツアツの味噌汁を啜る。この味噌がまた、カレーのスパイスに良く合うのだ。誰が何と言おうと、この黄金コンビは僕の人生には欠かせない。
「ふうー、ごちそうさまでした」
 食堂の方々と神様に感謝の意を込め合掌し、湯気で少し曇ったメガネをハンカチで拭いた。
 それにしても、この唯一無二だと思っていた至高の味が完璧に再現されていることには驚いた。大したものだ。これさえ毎日食べられるのならば、並行世界だろうが何だろうがどうだっていいとさえ思い始めた。
 それに総武線に遅れが生じなかったことを除いては、取り上げる程の差異もない。寧ろ総武線が止まらない世界なんて夢のようではないか。完全に、元の世界の上位互換になっている。帰る手立てもないし、このままここに住み着いてしまっても――。
「こらっ、何サボってんだっ」
 背後からの唐突な叱責に、僕は驚いて大げさに跳ね上がった。
「あはは、引っかかった」
 振り向くと、加賀先輩がけらけらと笑っていた。からかわれて反射的に腹が立ちそうになったが、彼女の無垢な笑顔を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。ずるい人だ。
「……驚かさないでくださいよ。先輩だって、随分早い昼食じゃないですか?」
「何言ってんのさ。もうとっくにお昼休みの時間だよ」
 加賀先輩はびしっと掛け時計を指差した。彼女の言うとおり、いつの間にやらランチタイムは始まっていた。
「あ、そこらへんの席空けといてよー。私も後でラーメン持ってそっち行くからさー」
 それだけ言うと、先輩はそそくさと購買ブースの方へと消えていった。
「相変わらず、いそがしい人だなあ」
 池田が呆れたようにぼそり呟く。僕もそれには同感だ。しかし、あの人らしい一面を見ていると、心の底から安心する。
「……何ニヤけてんだ、お前」」
 ふうと満足げにため息を吐く僕に、池田が眉をひそめて尋ねる。
「なんか朝から気味がわりいぞ。悪霊にでも取り憑かれたのか?」」
「ふっふっふ」
 僕が勿体ぶって笑ってみせると、池田はあからさまに不快そうな顔をした。こういう表情は滅多にお目にかかれないから、すこぶる愉快だ。
「なんだよ」
「実は僕は、並行世界からやってきたんだ」
 大真面目な面持ちをして、僕は告白した。
 その後僕らは数秒、黙々と見つめ合った。目の前の男は身体を震わせて、何かを我慢しているようだった。
「……。くっふ!」
 案の定、静寂を破って池田は思い切り噴き出した。これが失笑というやつだ。これほど大胆かつ華麗な失笑を目の前で見られるなんて、稀有な体験をしたものだ。
「そうか、並行世界。パラレルワールドかあ。なるほどなあ。わざわざ、よその世界からご苦労だったな、くく。いやはや、道理で朝っぱらからよそよそしかったわけだ。納得だよ、はっはははは」
「本当さ。馬鹿にするなよ。だってなあ――」
「まあまあ、良かったな。幸運にもお前は、まだこっちの世界の〈自分〉には会ってないんだろ?」
 こっちの世界の、自分……。
 そうか、ここが本当にパラレルワールドならば、この世界線に住んでいるもうひとりの自分がいるはずなのだ。
 それなら、どうして僕はまだ〈自分〉と遭遇していないんだ? こっちの世界でも同様の生活をしているのなら、朝起床した瞬間にでも出会いそうなものだが。
 池田がにやにやと話を続ける。
「もし鉢合わせでもしてたら、今頃お前、死んでるかもしれんぞ」
「……えっ?」
 死ぬ? 僕が? ……何で?
「ドッペルゲンガー、って聞いたことあるだろ? もうひとりの自分と出会ったら、近いうちに死ぬってやつ。その〈もうひとりの自分〉の正体というのがどうやら、並行世界からやってきた、よそ者の自分らしい。そんで、同じ世界に二人も同じ人間は存在できないから、どちらかが死ぬ、と。そういうわけだ」
「へーえ……」
 こういうしょうもないことだけは一人前に知っている。
 しかし今僕が置かれている状況を考えると、池田の話を笑い飛ばすことはできそうになかった。
「お待たせさまー」
 不意に、加賀先輩が戻ってきた。彼女は手に持った即席ラーメンを慎重にテーブルに載せ、僕の隣の席に座った。
「あ、加賀さん。聞いてくれよ、こいつ――」
「あーあー! 何でもないです!」
 何だか急に羞恥心がこみ上げてきて、僕は両腕を振り回しながら池田の言葉を断ち切った。
「どしたの?」
「いや、本当に何でもないんです……はは」
「ふーん……? ま、いいけどさー」
 小首を傾げながら、加賀先輩は割り箸をぺきんと割った。全く、先輩のあっさりした性格に救われた。
 ずるずると忙しなく麺を啜る先輩。実に豪快な食べっぷりだ。
 その様子を眺めつつ、僕は今しがた池田が語っていたオカルト話を思い出していた。
 何ら変わらない僕の日常。未だ〈もうひとりの自分〉と出会っていないという事実。そして、パラレルワールドという非現実的な理論。どれをとっても、僕が今場所をとっているこの世界は、外でもない僕の生きてきた世界なのだと告げている。信じ込んでいた自分が阿呆みたいだ。
 そして何より、その方が僕にとって都合がいい。パラレルワールドがまさか、死をもたらすほど恐ろしい世界だとは毛ほども思っていなかった。総武線だって、僕の命が在る内に二度や三度は止まるだろう。そのうちの一回だったのだ、今日は。
 そう思うと、本当に馬鹿らしくなってきた。僕の直感なんて、友達の友達の友達から聞いた話くらいには信用ならないということがよく解った。
 加賀先輩はもむもむと一心に麺を頬張っている。この人を見ていると、心が洗われるようだ。何もかもが些末なことのように思えてくる。
 不意に先輩が、何事か閃いたようにこちらに視線をやった。
「んむ、ほうらほうら」
「……先輩、全部飲み込んでから喋ってください」
 僕が苦笑して嗜めると、彼女はごきゅん、と喉を鳴らしてから再び僕の方に向き直った。
「キミに言いたかったこと、思い出した」
 先輩と視線が絡んで、大きく心臓が跳ねた。
 ここから、甘酸っぱい僕たちのラブロマンスが始まる。そんな予感がした。ドラマか何かだったならば、津波のような壮大なBGMが流れているところだ。
 ――せ、先輩。そんな、池田の目の前で……。
 続く彼女の台詞は、甘い愛の囁き――などではなく、全く予想だにしないものだった。
「似合ってるね、ソレ」
 ――ソレ。ソレって、ドレだ?
「あーそうそう。そういやお前、いつの間に目悪くなったんだ? それともファッション?」
 池田からも、わけのわからない疑問を投げかけられる。想定外の問いかけに、思考がさっぱり追いつかない。どういうことだ。
「何ぽかんとしてんだよ。メガネだよ、メガネ」
 メガネ?
 僕は咄嗟にメガネを外して、それをよく観察した。別段いつもと変わった様子はない。それはそうだ。僕には買い換えたりした覚えもないのだから。
「……いつものメガネだよ?」
「いつもの、って……」
 池田も加賀先輩も、怪訝そうな顔でこちらを見ている。決してからかっているわけではないということが、その表情から窺える。
 ――嫌な予感がした。とても、嫌な予感が。
 薄氷を踏むように、そっと池田は口を開いた。

「お前いつも、メガネなんかかけてねえだろ」

「……」
 僕は言葉を失った。生まれてこの方メガネを外したことがない、なんてことはないが、少なくとも彼らと出会った頃には既にかけていたはずだ。
 ――それなのになぜ、こんな食い違いが発生しているのか。
 考えずとも、答えは目の前にある。一度は目を背け、逃避した答えが。
「あのさ――」
 耳を塞ぎたい気持ちで、僕は恐る恐る口を開いた。
「総武線て、止まったことある?」
「はあ? そんなこと、あるわけな――」
 池田の言葉を皆まで聞かず、僕は勢いよく立ち上がり、その場から駆け出した。

 無我夢中で走った。何処に向かうかなんて考えていない。
 ただ、怖かった。ただの思い込みだと笑い飛ばせる話ではなくなってしまった。
 何事かと驚きの色を見せる人々の間を、全速力で駆け抜ける。壁が見えれば曲がり、階段があれば駆け下りる。汗でスーツが身体に張り付く。しかし、そんなことに構っていられる余裕はない。
 走って、縺れて、走って、ぶつかって、走って、走った。
 数階ほど下って、漸く脳が冷静さを取り戻してきた。考えれば考えるほど恐ろしくなったが、それと同時に、動き出した思考がひとつの疑問を呈していた。
 ――この世界はパラレルワールド。それはさっき、疑いようのない形で証明されてしまった。ではなぜ、僕は〈もうひとりの自分〉に出会っていないのか。池田の言っていたことが本当なら、朝目が覚めたた時に鉢合わせていてもおかしくないのに。
 あいつが出鱈目なことを宣っていた可能性も十分に有り得るが、まだ悪い予感が頭の中で渦巻いている。気を抜くなと、僕の本能が警告している。
 しかし、わからない。ただでさえノータリンの僕が、酸欠状態の頭で答えを導き出せるわけもない。
 いよいよ、運動不足の脚が悲鳴をあげ始めた。棒切れのようになった下肢に鞭打って、息を切らしながら角を曲がった、その時だった。
「うわっ」
 曲がった先に、誰かがいた。その人と衝突する寸前、ブレーキをかけてどうにか踏みとどまる。そこで、両脚の電源がぶつんと落ちた。尻餅をつきながら、目の前の人影を見上げる。
「……何だ、まだいたのか村田クン」
「や、山岡課長……」
 課長は目を少し見開いて驚いたような素振りを見せた。なぜか社内で汗だくになっている僕を見て殆ど動揺しないあたり、流石というか、何というか。リアクションの薄さにおいては、僕の知人の中では群を抜いている。
「……社内マラソンか?」
「いやいや……げほっ、げほっ。そんなのありませんよ……」
「ふむ……そうか。まあ、深くは追及しないけど。……早く帰らないと、勿体無いぞ?」
 ――勿体無い。
 僕はその言葉の意味を理解できなかった。首を捻って課長を見つめると、彼はハア、と浅いため息を吐いた。
「きみ有給とってただろ、今日。土日と今日でハワイに行くとか何とか。……まあ今ここにいるってことは、行かなかったのか」
 ――有給。ハワイ。
 ばちりと、全身に電流が走った。
「そういうことか……」
 揺らめきながら立ち上がり、足の親指の付け根に力を入れる。一息つくと、僕はエントランスを目指し駆け出した。
「……気をつけて帰れよー」
 気の抜けた声を背中に受けながら、気を引き締めて狭い廊下を走り抜けた。

 オフィスビルを後にした僕は、最寄駅の方へと歩を進めた。呼吸を落ち着かせながら、頭の中で考えを整理していく。
 課長から有益な情報を得たことで、僕が〈もうひとりの自分〉と相見えずに済んでいる理由が判明した。今奴は、海外旅行中なのだ。全く、不幸中の幸いである。少しタイミングがずれていたら、即刻出会ってアウトだっただろう。
 しかし、悠長に構えてもいられない。課長の言っていたことが正しければ、この世界の〈僕〉は今日のうちには帰ってくる。自宅に戻っておちおち休むこともできない。
 とりあえず、今日明日を生き抜くほどの金銭は持っている。ホテルでも見つけて、当面は閉じ篭って隠れているほかはない。
 目眩を覚えつつ、周りの風景をぼんやり眺める。高いビル、寂れた商店、過ぎ行くトラック。見慣れている街並みのはずなのに、まるで異国の風景のような素っ気無さを覚えた。
 僕だけ、この世界にとけ込めていない。たったひとり、切り貼りされたようにこの世界に置かれている。
 自分という存在がいつ取り除かれてもおかしくない現状。思考が深みにはまり、僕は一層恐ろしくなった。〈もうひとりの自分〉と顔を合わせたら、間違いなく僕の方が消されるだろうという確信があった。
 ドッペルゲンガーに怯えながら暮らし続ける自信は、微塵もなかった。
 腹に暗い思いを抱えたまま、僕は下を向いて歩いた。
 僕が生き残るための策は、ある。
 ひとつの決断が迫られていた。それを今日実行するのか、それとも明日に引き伸ばすのか。
 決めかねて、僕は延々、駅内を徘徊していた。

 微睡む意識に、朝日が差し込んだ。頭が痛い。気分が悪い。それもそのはず、結局一睡もできていないのだから。
 あの後駅内で思い悩んだ末、自宅の最寄駅まで足を運び、その近くのビジネスホテルで一夜を明かすことにした。もしかしたら、寝て起きれば元の世界に戻っているかもしれない、という淡い期待も抱きながら。
 しかしそううまくはいかない。あまりの恐怖、不安、そして重圧。そのお陰で脳が冴え渡り、体が疲れているにも関わらず眠りに落ちることができなかった。計画を実行に移した時のことを考える度に、吐き気を催していた。
 そして夜が明けた現在。昨日躊躇したそれを遂行するときがやってきた。
 大きめのマスクをしてホテルを出、すぐ近くの駅を目指す。
 力なく一歩踏み込むと、地面が大きく波打った。目に見えるもの全てが揺らいでいるかのような錯覚に陥る。夜を徹したにしても、酷い疲弊感だ。これほど心身ともに磨り減らした日は生来なかっただろう。
 感覚が麻痺して、これから為す大仕事への不安は殆ど消え去っていた。頭の片隅では、自分は正常な判断ができない状態なのだということを理解している。理解はしていたが、どうでもよかった。
 不規則な歩調で、漸く駅まで辿り着いた。改札を通過し、人混みを潜り抜け、馴染みの乗車位置へと移動する。
 するとそこに、ひとり立っている人物が目に入った。
 ――〈僕〉だ。
 ここからでは、その顔までは確認できない。しかし目の前にいるのは、紛れもなく〈僕〉だ。僕が〈僕〉を見間違えるはずがない。
 心臓が忙しなく脈打つ。確かにいたのだ、もうひとりの僕は。ここまで来たら、自分に言い訳することも逃げることもできない。
 現在の時刻、七時二十九分。総武線遅延のアナウンスはない。そろそろだ。
 カンカンカン、と近くの踏切がけたたましく鳴り響いた。それに紛れるようにして、僕は〈僕〉にゆっくりと忍び寄った。
 一歩、一歩。そして、一歩。息を殺して、接近。
 鉄が激しく擦れあう音、風の低く唸る音が次第に大きくなっていく。
 とうとう僕は、〈僕〉の背後に立った。彼がこちらに気がついている様子はない。
 ――こいつさえいなくなれば。
 おもむろに右腕を持ち上げる。掌を奴の背中にかざす。
 ――僕はこの世界で生き残れる。
 喧しい音はすぐそこまで来ていた。時間はない。
 僕はそのまま、掌を力強く前に突き出した。
 ――瞬間。
 強く突き出したはずの腕が、動かなくなった。誰かが、僕の手首を掴んでいる。
 掴んでいるのは〈僕〉だ。目の前にいる〈僕〉。そいつがこちらに顔を向けず、僕の右手首をきつく締め上げている。
 必死で振り払おうとしたが、無駄だった。まるで万力にでも挟み込まれているかのようだ。みしみしと、骨が軋むのが解った。
「おまえだよ」
 呟いて、〈僕〉が首をぐるりと回した。
 その顔は、何かで黒く塗り潰されていた。目も、鼻も、口も、あるべきパーツは何ひとつなかった。
 しかし、笑っていた。そいつは、その漆黒の向こう側で、確かに笑っていた。
「おまえだよ、きえるのは」
 紡ぎ出されたのは、無情な一言だった。
 その余韻が耳の中で霧散したときには、僕は既に空中に放り出されていた。
 数秒の浮遊感の後、ぐしゃり、と、耳元で嫌な音が聞こえた。同時に、脳味噌が激しく掻き乱される感覚。そして、暗転。
 残った微かな意識に、鈍いクラクションの音が反響した。
「とまった」
 最後に聞こえたのは、冷笑を帯びた〈僕〉の、短い台詞だった。



 足に鋭い痛みが走って、我に返った。
「す、すいません」
 目の前で、背丈の低い女子高生が僕に、申し訳なさそうに謝っていた。
 わけがわからず周りを見渡すと、すし詰めにされた人、人、人。この光景は嫌というほど見たことがある。俗に言う満員電車というやつだ。
 僕は――パラレルワールドで、〈もうひとりの自分〉に殺された。あの強烈な衝撃と生々しい感覚は、まだ身体に染み付いたままだ。思い出すだけで、背筋が凍った。
 あれは、夢、だったのか?
 気が付けば、全身を大量の汗が覆っていた。僕はずっと、満員電車の中で悪夢にうなされていたのか? それにしては、あまりにも生きた世界を体験したような気がする。
 もしかしたら、僕はまた別のパラレルワールドに飛ばされてしまったのではないか。また悪夢のような展開が待ち受けているのではないか。そんな不安を募らせた、直後のことだった。
 僕たちを乗せて走行していた電車が、急に速度を落とし始めた。車窓から見える景色の流れは徐々に遅くなっていき、ついには全く動かなくなった。次の駅に到着したというわけでもなさそうだ。
 ……一体、どうしたんだ?
「只今〇×駅で人身事故が発生したため、運転を一時停止させて頂きます。大変ご迷惑をおかけ到しますが――」
 非常に聞き馴染みの深いアナウンスが、車内全体に流れた。また朝の忙しい時間帯に止まってしまったわけだ、この電車は。
 隣の中年が苛立たしげに舌打ちをした。それを傍目に、僕は一人幸せを噛み締めていた。
 ――戻ってきたのだ、元の世界に。
 涙が溢れそうなほど、嬉しかった。ふと笑みが溢れるほど、心の底から安堵した。
「人身事故の影響により、運転を一時――」
 繰り返される放送を浴びながら、僕はついさっき見た夢のことを思い返していた。
 ――人身事故。
 毎回誰かが、並行世界の自分に突き落とされてるのかもしれないな。
 ……なんて。
 くだらないことを考えながら、ぼくはひとつ、大きなあくびをした。
 何はともあれ、大遅刻だ。参った。
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

玉響

 手元に広げた文庫本へ目を落とし、頁の上に連なる文字をなぞりながら、そこで自分は待っていた。静かに沈んでいく意識の中で、そのとき、耳へ響いた放送音に意識が覚まされる。

 ――ただいま、新大岩駅で起きました人身事故の影響で、一番線の列車に遅延が……。

 俺は俯けていた顔を上げ、ホームの天井から下げられた電光板を見遣る。すると、そこに流れていく赤い文字列が確認できた。
 ……また、止まったのか。
 どうやら今日も、待っていた電車はしばらくここへは来ないらしい。しかし、そのこと自体は、さほど気に留めることでもなかった。
 ――週五で止まる、というこの路線の比喩は決して大げさなものではない。高校に入ってすぐの頃にはそのような事情を知らず、ホームルームに間に合わないのではないかと内心大いに焦らされた。
 しかし、今となってはこのような事態もどこか日常の一部のようになってしまっている。今日もいつも通り遅延した場合を想定し、駅へは早めの時間に来ていた。遅刻の心配はもうしばらくはしなくともよいだろう。
 そう考え、静かに手元へと目を戻しながら。俺は、もう一つのことを考えていた。
 先程聞いた通りなら。おそらく、今日も―― 。
 はたして、その考えは、大して長い間も置かずに正しかったことを知った。ふと、文庫本から目を離し、足元のホームへと視線を落とした俺の目に何かが小さく反射したことに気付く。無意識の内、そちらの方へ視線を向けると、其処には自分の足元から伸びる影の中でゆらゆらと揺れる淡い光があった。
 その様子をしばらくぼんやりと眺めていた俺は、ふと、学生服の裾が弱く引かれたような感覚を覚える。すぐにそちらへ顔を向けるも、そこに人影はなかった。自分の思い違いであったのだろうか。そう思い、目を伏せたその時――落とした視線の先に、小さな人物がいたことに気付く。
 そこにいたのは、俺の学生服の裾を握ったまま、こちらをじっと見つめている小さな男の子だった。
「…………」
 ……いつの間に。
 内心では大きく狼狽えながらも、それが表情に出にくい俺は、おそらく仏頂面のままその男の子を見つめた。年齢は……五、六歳くらいだろうか。身につけた質の良さそうな紺色のダッフルコートとは対照的に、履き古されたキッズスニーカーが印象に残る。
 こんなに小さい子が――一人、で?
 動揺は大きくなっていくばかりだったが、このまま黙っているわけにもいかない。俺は、こちらを見上げたまま学生服の裾を握る手の力を強くしていく男の子に、出来る限り小さな声で尋ねた。
「お前、一人……か?」
 その問いを聞いて、その子はやっとこちらから視線を外すと、首をふるふると横に振って言った。
「ううん……。おかあさんといっしょだったんだけど……どこかに、いっちゃった」
「――母さんと……」
 男の子のその言葉を聞き、俺の中で、一つの可能性が形作られる。それは……願わくば、合っていてほしくはないもので。
 しかし、このまま何もしないでこの子を放っておくわけにもいかない。こうして言葉を返した以上、その責任は持つべきだ。そう思った俺は、少し周りの様子を気にしながらも、男の子へと考えを伝えた。
「お前の母さんは……多分、ここにはいないのだと思う。だから、お前もここにいたままじゃ、駄目だ」
「……」
 俺のその言葉を聞き、男の子は不安げな表情を浮かべる。しかし、やはりそこは男の子というべきか、泣き出してしまいそうな顔をしながらも、唇をきゅっと結び涙を堪えているようだった。そんな男の子の様子に、俺は一時かけるべき言葉を見失ってしまう。すると――男の子はきっぱりとした声で言った。
「……でも、おかあさんとはぐれたときは、あんまりあるきまわっちゃだめだっておかあさんいってた」
 ……え。
 こちらを見上げて、強い眼差しでそう言い放った彼を見下ろしながら、俺の思考が一瞬止まる。しかしすぐに、嫌な予感が湧き上がってきた。いや、確かに、男の子の言ったことは正しい。正しいのだが、それは……。
「ねえ」
 再び、学生服の裾が引かれる感覚。その感覚に、思わず落とした目線の先で、こちらを見上げた男の子は言った。
「ここで……いっしょに、まっててもいい?」
 ……予感は、当たったようだった。混じり気の無い、男の子の真っ直ぐな眼差しに見つめられながら、俺はどう答えるのが正しいのかを静かに考える。
 ここでこの子を待たせておくことは、何の解決にもならないと知っていた。けれど。
 こうして待つ時間が、少しだけあってもいいのではないか――そんな風に、思ってしまって。
 俺は、思わず口にしてしまっていた。
「しばらくの……間なら」
 自分の返した言葉が、取った行動が間違っているのかどうか。俺には分からない。それは、これまでも同じことだった。
 そんな俺の言葉を聞いて、男の子は少しほっとしたように表情を和らげる。そして、こちらを見て顔を綻ばせると、俺に言った。
「ありがとう、おにいちゃん」
 ――やはり、今日も。
 男の子の笑顔を見ながら、俺は心の中でそっと呟いた。

 電車が止まってできるこの時間――俺は、これまでもよく、こうして声を掛けられた。

 今日は、声を掛けられたというより、呼ばれたと言ったほうがよいのかもしれないけれど。しかし、これほど小さな子どもに声をかけられたのは、今日が始めてだった。そのことに表情を微かに歪めた俺へ、男の子は特に気付くことはなく、俺の学生服の裾を握ったまま人々の流れていく周りの景色をきょろきょろと見回している。俺は、手元で閉じられたままの文庫本に再び目を戻すわけにもいかず、ただ、ぼんやりとホームに立っていた。
 そんな俺の隣で小さく動いていた男の子が、その動きをふと止める。ホームの観察も飽きてしまったのだろうか、そう思った俺に、彼は何気なく思いついたといった様子で尋ねてきた。
「おにいちゃん、なまえは?」
 そんな他愛ない問いに、茫とした意識のまま答えかけた俺は、ひゅ、と呼吸を一瞬つめた。
「……言えない」
 それだけを返した。普通に聞けば冷たく聞こえるだろう俺の言葉に、その子はしかし、不機嫌になったり泣きそうになったりすることはなかった。ただ、何か悪いことをしてしまった時のような表情を、その顔にぱっと浮かべた。
「あ……そっか、ごめんなさい……」
「いや……謝る必要はないんだが」
 決して、この子が悪いのではない。しかし、それは自分でもどうしようもなくて……俺は言葉を失い、俯く。男の子も、自分の言葉をまだ少し気にしているようで、しばらくの間、何も言わずにホームの地面を見つめていた。
 そんな、少しの沈黙の後。
 ホームへと、再び放送音が流れた。

 ――再び、一番線の列車をお待ちのお客様にご連絡致します。ただいま……。

 耳に響いた構内放送に、茫としかけた意識がふ、と覚まされた瞬間――いつもと変わらない駅の喧騒が、たった今生み出されたかのように耳へと流れ込んできた。
“あー、ほんとこの路線よく止まるよなあ……。間に合わねー”
 話し声。向こう側の路線を通る電車の騒音、笑い声。
“なんかーさっき言ってた人身事故、若い女の人らしいよ”
“へえ、つーかもうそんなこと拡散されてんの? まじ、情報社会の闇だわー”
 構内に響くベルの音。ため息。風の通る音。
“電車遅……。人身事故とか、こんな朝っぱらから少しは迷惑考えてほしくない?”
“そんなこと、俺に言われてもなあ……。あと何分くらいなんだろ”
 笑い声。息遣い、踏切の信号音、様々な足音……。
 そんな、変わらない喧騒の中で心が沈みかけていった時――くん、と学生服の裾が引かれる感覚に、再び意識が覚まされた。
 その感覚は言うまでもなく男の子によるもので、辺りを見回した男の子の動きに合わせて、その手に裾が引かれたようだった。
 他の路線に電車が来たのか、密度の少し大きくなった人々の流れに興味を引かれたのだろう。男の子は、その目に小さな輝きを宿し、俺を見上げて言った。
「ひとがいっぱいいるばしょって、にぎやかでたのしいよね」
 その言葉に、俺は正直に答える。
「俺は……苦手だ」
 きょとんとした表情で首を傾げる男の子からそっと目を逸らし、先程までの沈んだ意識から抜け切れていなかった俺は、思わず呟いていた。
「特にここは……知ろうとしない言葉が、多いから」
「――……」
 俺の言葉に、男の子は何も言わないまま、裾を握る手の力を少しだけ強くした。本当は、この子に言うべき言葉ではない。けれどそれは、自分がずっと思っていたことだった。今日は、尚更にその想いが、強く胸の内に沈んで。
 躊躇いながらも、このまま目を逸らしていることもできなくて、俺は男の子の顔を見た。きっと、今の俺はとても情けない表情をしている。しかし、そんな俺の言葉を聞いた男の子は、何故かふっと表情を和らげた。それが、無遠慮な俺の言葉に返すには見合わないくらい柔らかくて――俺は何も言えずにその表情を見つめてしまう。
 男の子は、そんな俺へ唐突に尋ねてきた。
「ねえ、おにいちゃん。“がっこう”って、どんなところなの?」
「えっ……」
 予想していなかった問いに少し目を丸くした俺へ、男の子は続けて尋ねてくる。
「ぼく、まだがっこう、はいってないからわからないけど……。いろんなひとがいるんでしょう? ともだちとは、いっぱいあえる?」
「……そう……だな」
 そう答えた声には、少しだけ躊躇いが含まれていた。一般的には男の子の言うとおりであるし、答えに嘘はない。だが、俺にとってはあの場所は、答えの通りとは言い難かった。
 確かに……出会いは、多いのだが。
 苦い顔をしながら答えた俺の言葉に、男の子はぱっと笑顔を輝かせると、嬉しそうに言った。
「やっぱりそうなんだ! まえに、いえのちかくにあるがっこうのまえをとおったとき、おかあさんがいってたんだ」
 その時のことを思い出したのか、男の子は声を弾ませて話し続ける。
「がっこうにいったら……いろんなことをしったり、きゅうしょくをたべたり、おともだちとあそんだりできる?」
「……うん」
 構内に満ちる騒音の中、ひどく清廉な響きを持って耳に届くその声に、自分の胸の内でそっと形作られていく小さな棘があった。その棘の正体を、自分は知っていて。
 なあ――お前は、きっと。
「そっかあ……。がっこうにはいったら、いろんなことができるんだね」
 そう言った男の子の、学生服の裾を握る手の力が弱くなるのを感じる。
 そして男の子は、ほんの少し静かに笑った。
「いいなあ。ぼくも、いってみたかったなぁ」
 その言葉を、聞いて。一つの確信を持った俺は、ゆっくりと、沈むように重い息を吐いた。

 ――それは、少し前から分かっていたことだった。
 おそらく、この子は分かっている。
 そして、分かっているからこそ、その背を押すほんの少しの何かを求めている。
 だからこそ……無垢で柔らかなその笑顔が、何よりも。

「――なあ」
 俺の呼び掛ける声に、男の子がこちらへと顔を上げる。その真っ直ぐな瞳から目を逸らすことのないように、俺は握った手に必死で力を込め、静かに彼へと尋ねた。
「お前は……母さんと、最後に離れた時を、覚えているんだろう」
 俺のその問いに、男の子は一度だけ瞬きをしてこちらを見つめる。彼は俺の問いに、けして言葉では答えなかった。しかし、静かに凪いだその目が、答えを一筋に示す。そして、その答えを知ったからこそ、分かってしまったことがあった。
 彼はきっと――このまま、ここで待っていてはいけないのだ、と。
 俺は、男の子から目を逸らさずに言葉を続ける。
「俺は……何も知らないやつだから。何かを示してやることも、導くなんてことも出来ない。そんな資格も、無い」
 結局、自分ができることなんて、これまでも、そしてきっとこれからも、自分なりの言葉を伝えることくらいで。
「けど、俺は。お前は、ここで待ち続けるんじゃなく、かえるべきなんだと思う」
 男の子の目を見つめる自分の目の奥が、どこか灼ける様に感じた。けれど、その熱さからも、きっと目を逸らしてはいけないのだと思った。
「母さんとは……同じところには、かえれないかもしれない。けれど、お前の母さんは、お前がきちんとかえるのを望んでるんじゃないか」
 止まりそうになる言葉を、逃げ出しそうになる想いを必死に留めながら……俺はそれでも、目を逸らしたくなかった。
 ――だって、かけられた声に答えたのは、自分だったのだから。
 俺は、最後に男の子へ言った。
「それでも、お前が待ち続けたいのなら。ここで、俺の出来る限り、一緒に待っててやる。けれど俺は……そんなことしか、できない」
 最後、零れるように小さく呟いた俺の言葉を聞いて。
 ずっと、こちらを見つめるばかりだった男の子が、その小さな口をそっと開いた。
「おにいちゃん、あのね」
 そう言って、俺に小さくはにかんで見せたその表情は……哀しいくらいに、笑顔の形をしていた。
「ぼく、うれしかったんだ」
 そう言って、男の子はゆっくりと言葉を続けていく。

「きょうは、すっごくひさしぶりに、おかあさんがでかけようっていって」

「ぼくのすきなでんしゃをみにいこうって。いっぱいおいしいものもたべようねって、いえをでるまえに、あたらしいようふくもきせてくれて」

 自分の身につけたコートに目を向けて、男の子は微笑んだ。

「いままでいったことなかった、いえのちかくのすっごくおいしいおみせでおむらいすをたべて。そのあと、おかあさんがてをつないでくれて、そのままえきまであるいていったんだ」

「とちゅうから、おかあさんが、おいでってぼくをだっこしてくれて。そのまま、えきのちかくのふみきりにちかづいたとき……おかあさんがね。ぼくに、ごめんねって」

 ――ずっとまえ、あぶないからはいっちゃだめだっていわれたばしょに、ぼくをだっこしたままおかあさんははいっていった。
きいたこともないおおきなおとがひびく。
 おかあさんは、ないていて。
 ぼくをだきしめるちからのつよくなったおかあさんのうでのなかで、ちかづいてくるそのひかりが。
 まぶしいな、とおもった。

 呼吸を忘れた俺に、男の子が小さな声で問う。
「おにいちゃんも……おかあさんが、わるいっていう?」
 男の子は、俺の学生服の裾を握る手に、きゅ、と力を込めて言った。
「ここにきて、おにいちゃんをみつけるまで。みんなが、そういったり、かいたり、はなしたりするのをみた」
 その言葉に、責める様な厳しさは少しもなかったけれど、だからこそ俺は、そっと息を止められるような気がした。
 構内の喧騒に自分が零してしまった言葉を聞き、表情を和らげた彼を思い返す。その時、彼は何を思ったのだろう。
「でも、いろんなひとがいろんなことをいっていたけれど……ぼくは、ひとりにならなくて、よかったとおもってる」
 そう呟いて小さく俯いた男の子は、それでも、ほんの少し困ったような顔ではにかんで言った。

「すこし、いたかったけど……おかあさんと、いっしょだったから」

 その言葉に。手を、強く握りしめた。爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめていなければ……何かが、溢れてしまいそうだった。
 今なら、分かる。
 きっとこの子は――ほんの少し、待っていたかっただけなのだ。どうか、共に行くことは出来はしないかと。
 けれど、だからこそ、ここで待ち続けることはこの子の未来を本当の意味で止めてしまうから。俺は、男の子に言った。
 それが、自分の抱いたただの希望であると知っていたけれど。
「――すべては、廻るんだそうだ」
 俺の唐突な言葉に、男の子がきょとんとした顔で俺の顔を見上げる。俺は、顔を真っ直ぐに上げ、構内から見える空を見つめながら言った。
 どうか、今だけは、この仏頂面が少しだけでも優しくなってくれたなら。
「だから。お前がきちんとかえることが出来たなら――また、きっと会える。だから、そんときは……突然いなくなったこと、思いっきり怒ってやれ」
 俺を見上げた男の子は、一瞬その目を丸くして……初めて、本当に泣き出してしまいそうな顔をした。けれど、その表情を包み込むように、これまで見た中で一番に柔らかく、ふわりと笑って頷いた。
「……うん」
 男の子は、ずっと握りしめていた俺の学生服の裾から、そっと手を離した。そして、俺の方へ向き直ると目線を落とし、自分の着たコートをそっと握りしめる。小さく頷いた男の子は、顔を上げ、俺に言った。
「おにいちゃん」
 引かれる感覚の消えた自分の隣から、男の子の方へと視線を向けた俺の目に、彼の透った瞳が映る。
 男の子は、微笑んで言った。
「ありがとう。いっしょに、まってくれて。はなしてくれて……しってくれて」
「――……それしか、できないんだ」
「いいんだよ、おにいちゃん」
 小さな声で呟いた俺に、その子は笑った。

「それが、“ほんとうにしることのいっぽめ”なんだって。だれかが、おしえてくれたんだ」

 その言葉に、俺の視界がふるりと震える。瞬間、唐突に生まれた優しい力があった。その力が、揺らぐ視界を閉ざすように、ふっと俺の瞼を下ろしていって。
 ああ、お前は、きちんと選んだんだな。そう気付いた。

 ――……ありがとう、おにいちゃん。

 やわらかな闇の中で。温かく小さな声が響いたのを聞いた。


 目を開ける。そこにはもう、男の子はいなかった。
 俺は、彼のいた場所に視線を落とす。その場に残ったのは、先程も見た、影の中の淡い光。
 中に光揺らめくその影が――水の影に似ていると気付いたのは、つい最近のこと。
「……川、なのかな」
 零れたその声が、あまり震えていなければよいなと思う。柔らかに揺れる影を見つめながら、俺は、最後に伝えられた言葉を思い返して。
 小さく、呟いた。

「……ありがとう」

 俺も、今日。お前に少し、救われたから。

 線路の方へと顔を上げ――いつもと変わらぬ喧騒の中、俺はひとり、その中に立ち尽くす。
 線路の向こうに見える穏やかな水色の空と、動き続ける太陽の光に影を消し、照らされていく駅前の町並みを見つめる。俺の頬を、ホームへと吹き込む風が撫でていく中で。静かに、目を閉じた。

 どうぞ、安らかに。

 ――これからも俺は、こうして、出会っていくのだろう。
 それは、この世の片隅でひそやかに還っていく者たちとの、玉響の邂逅。

 そうして、ホームへと放送の音が響いた。

 ――大変長らくお待たせ致しました。七時四十六分発予定の列車、間もなく参ります……。

 電車が、やってくる。
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

Itu

 見えるから苦しいんじゃない?
 そう、あなたは言った。

 そうかもしれない。
 僕は言った。

 じゃあ、見えなくしてしまえばいい。
 そう言ってあなたは、僕の目を潰した。

 ああ、それでもまだ、あの哀しい表情が残っている。
 僕は、きっと明日も、あの表情を見たこの道を走り続けなければならない。

     §

 聞こえるから苦しいんじゃない?
 そう、次の日のあなたは言った。

 そうかも、しれない。
 僕は言った。

 じゃあ、聞こえなくしてしまえばいい。
 そう言ってあなたは、僕の耳の鼓膜を破いた。

 ああ、それでもまだ、あの小さな呟きが残っている。
 僕は、きっと眠りに落ちた先でも、あの声の夢を見る。

     §

 触れた感覚が残るから苦しいんじゃない?
 そう、次の日のあなたは言った。

 そんな気もする。
 僕は言った。

 じゃあ、触れたものを感じられなくしてしまえばいい。
 そう言ってあなたは、僕の皮膚の感覚を奪った。

 ああ、それでもまだ、あの柔らかく力ないものの感触を覚えている。
 僕は、きっと今日の夜も、暗く冷たいこの場所で一人凍え続ける。

     §

 口に入れることで知るから苦しいんじゃない?
 そう、次の日のあなたは言った。

 そうだったのかもしれない。
 僕は言った。

 じゃあ、口を閉じてしまえばいい。
 そう言ってあなたは、僕の口を縫い付けた。

 ああ、それでもまだ、舌の上を転がった苦さが消えない。
 僕は、きっとこれからも、この身に入るすべてを拒むことは出来ない。

     §

 嗅ぎ取ってしまえるから苦しいんじゃない?
 そう、次の日のあなたは言った。

 そうなのかな。
 僕は言った。

 それならば、もう、嗅ぎ取れなくしてしまえばいい。
 そう言ってあなたは、僕の呼吸を止めた。

 ああ、それでもまだ、あの鈍く重い香りが残っている。
 僕は――きっとまた近いうちに、自らの意思に反して、誰かを殺すのだろう。

 自分の自我と離れた自分が、何度も、目の前に現れた誰かを殺す。自分をどれだけ壊していったとしても、すぐにその欠損は治され、埋められ、再び自分は送り出されていく。それは、僕が僕であり、この道を進むことを定められている限り変わらない。

 ――ねえ、それなら僕は。

     §

「――おい、またか。今日は何なんだ」
「おお、お前か。あー……今日はかなり根本的な問題だよ。エンジントラブル、らしい。原因はまだ分からないそうだ。今、点検が行われてる」
「おいおい、マジかよ。今週でもう何回目だ? 月曜が前照灯と尾灯の破損ときて、確か火曜が車内放送のためのスピーカーが故障、それから……」
「水曜が車体内部と構内にそれぞれ搭載、設置されているセンサーの不感知。木曜は扉の開閉システムと踏み切りの遮断システムに問題、昨日の金曜は空調と空気ブレーキの不具合が見つかった」
「……そろそろ潮時か? こいつも」
「とにかく、連日のトラブル発生による遅延で、客もかなり苛立ってる。俺らも客の対応に行くぞ」
「ああ、分かった」


 そんな、彼らの声を聞く。彼らに、あなたの声は聞こえない。

 僕は、あなたの言葉を聞いた。
 そうして、この身の感覚を一つずつ奪ってもらった。
 それでも、すべてを戻されていく僕は、いつかまた、誰かの命を消すのだと知ったから。

 すべてを閉じ、走るのをやめた僕は間違っているのでしょうか。


 ――――ねえ、神様。
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

信沙の鐘

 果てしなく広がる平面、という表現がよく似合った。鏡のような、さざなみ程度にしか揺れない水面。基本、陸に背を向けさえすれば、視界は一面の青だった。下に広がる青は深く、上に広がる青は遠い。細く裂いたような白雲が流れていたが、それは境界線をなす瀬戸際で背景の青と繋がっていた。掠れたような雲の端が、揺れて、解れて、怠惰な速度で流れていく。ひんやりとした水に揺蕩いながら空の青を見るのが、ミイナは好きだった。そこには空と水と雲だけが存在していた。何一つ飛んできはしなかった。時々泳いでくるものはあった。だが、おおよそどの辺りでそれらに出くわすかをミイナはよく知っていたし、そういう場所を慎重に避けて揺蕩うことを忘れなかった。息を吸い、吐きながら体の力を抜いていく。そのうちに全身の強張りが溶けて、体そのものが溶けて、最後には思考も溶けていった。そんな時ミイナは、自分が水に漂っているのか、空気に漂っているのか、分からなくなるような感覚に襲われた。それは何度経験しても慣れはしなかった。だがその感覚に気付くと、途端にミイナの輪郭は戻ってきてしまう。水は水に、空気は空気になり、その中で重力と浮力に挟まれて宙ぶらりんになっている自分を発見する。そうするともう一度、初めからやり直さなければならなかった。そして二度目以降のそれは、どうも上手くいかないことが多い。
 ふ……と長く息を吐いて、ミイナはもう一度潜水の準備を整えていった。ゆっくりと。そして最初の作業からひとつひとつ確認をした後、静かに空気を抜いて沈んでいった。ミイナは目を閉じた。日に当たっていた部分を水が撫でていく。頭まで水に覆われる。もう一メートルほど潜って、それから目を開けた。そこは深い青だった。深い青と、それより更に深い青が陰影をなす世界だった。頭上からの光は少し傾き、決して強くはない。だが、何度もここへ来たミイナにははっきりと見えていた。建物の配置、間隔、それらひとつひとつの特徴。看板に書かれた文字も、丁寧に記録を取って保存したものだ。それがミイナの仕事だった。海中に没した都市の様子を記録し、調査し、利用可能なものは回収して、生き残った人類の今後に役立てていく。それはミイナが常に自分の仕事だと言われ続け、思い続けてきたことだった。今日目標としていた範囲の調査は既に終了した。拠点に戻るまでに、もうひとつ寄り道をする余地はある計算になる。
 ミイナは目的地の方角を確認すると、勢いよく滑り出した。

 * * *

 その寺はかつて山の中腹から麓の村々を見下ろしていたというが、今では見事なオーシャンビューである。寺から少し下ったところに六地蔵が並んでいる。その足元を水が僅かに浚っていく。何かの拍子に五地蔵や四地蔵にならなければいいがと、和尚の心配はそればかりだった。山自体の標高が高かったおかげで、畑や森はその大部分を陸上に留めている。だから、和尚は自分の生存の心配をしなかった。その点では和尚自身よりも、六太の方を気にしていたが、これも決して深刻なものではなかった。六太はしばらく前にここへ流されてきた少年だった。極めてよく食う代わりに、自分の食べるものには自分の力を注ぐという信条を一途に守りつづけていた。食うために増やす努力を惜しまないから、和尚と六太と、もうひとり信沙という坊主がいたが、三人とも生きるに事欠くことにはならなかった。和尚は経を上げ、信沙は寺を綺麗にし、六太は畑や森の手入れに勤しんだ。
 信沙という僧はほとんど寺から出ることはなかったが、日に三度、日の出と日の入りと正午とに鐘を撞いた。寺の裏手から、ほとんど崖と言っていい斜面を登って行き、少し突き出たようになっている岩の上に立つ鐘楼へ向かう。それは遠くから見ると、高台の岬に立つ小さな灯台のようにも見えた。そこで信沙は毎度三つずつ鐘を撞いた。六太は鐘楼から海を眺めるのが好きだったが、信沙が来るときには決まって寺へ戻って待つことにしていた。一度信沙と出くわした時に、近寄らないほうがいいと言われたからだ。極めて口数が少なく、和尚の問いかけに返事をすることすら稀な信沙が、その時に限っては小さな湧水のように言葉を溢れさせていたのを六太はよく覚えている。
「鐘を撞いて、その音色で死者を呼ぶのです」
 信沙は囁くように言った。信沙の瞳は深海の色をしていた。その目で見る海は俺の見るものと違うだろうか、と六太は思った。六太にその二つの深海を向けたまま、鐘の音でやってきた死者を寺へ連れて帰るのだと、信沙は続けた。
「そうして少しずつ供養しますが、人によってはあまりいいことが起こりません。特に貴方はまだ、ここへ来て日が浅い……」
「でも、鐘を撞いてみたいんだ」
 信沙はふっと微笑んで、首を横に振った。
「見ているのも?」
 これも首を横に振った。が、供養の場ならいてもいい、と言った。六太は頷いて、寺へ引き返した。いつもより注意深く足元を確認しながら、六太は崖に寄り添うようにして降りてきた。道が極めて狭かったせいで、安全に降りるためには壁面に張り付くのが一番だったのだ。それを降りきって裏口の戸を開けようかという時に、一つ目の鐘を聞いた。それは、押し固められた空気の分厚い壁が過ぎて去るような、そんな感じでもあった。六太は鐘楼の方を振り返った。屋根だけがちらりと覗くそこで、信沙が鐘を撞く様子がありありと描き出された。重厚な空気の壁は三度六太に届き、過ぎていった。後には静寂が残った。その中で立ち尽くしていると、崖を降りてくる信沙が見えた。その所作は重々しく、ゆっくりと慎重だった。崖を降り切った信沙は、六太に少しだけ表情を和らげた。六太は肩筋にぴりりと走るものを感じながら、流れるように戸を開け、通過した信沙の後ろに同じ速度で続いた。信沙は何も言うことはなかったが、六太はあらゆる指示をその背中から読み取った。それは有無を言わさぬ類のものではなく、ただ限りなく巨大な優しさの中に飲み込まれたような、その波に揺られるうちに必要なことが全てなされていくような、そういう感覚だった。左後方に胡座をかいて、六太は信沙の背中を魅せられたように凝視していた。
 普段発するのとは全く異なる、よく通る深い声で信沙は経を上げた。それを聞くうち次第に、供養されているのは自分なのだと、六太には思われてきた。気付けば寺に流れ着いて初めて、六太は声を上げずに泣いていた。自分の中に溢れ出すものがあったが、それが何であるかははっきりとしなかった。その流れに突き動かされるうちにいつの間にやら供養は終わっていて、気付いた信沙が傍らに寄り添い、そっと手を握っていてくれた。
 その日から六太は、鐘を撞きたいと思わなくなった。代わりに信沙の供養を左後方で聞き、畑仕事と森の手入れに精を出すようになった。それでも、暇があれば六太は鐘楼へ上がった。そこから見る海はきらきらと陽光を弾いて美しかった。その下に自分の故郷があるのだろうと思うと、尚更美しく見えた。不思議と故郷を恋しく思うことはなかった。ただ、水面のきらめきの合間に母の声を聞き、父の眼差しを感じることは少しあった。信沙の鐘を早く聞きつけて欲しかった。そうすれば安らげる、と六太は思った。それは父の安らぎでも、母の安らぎでもあり、そしてそれ以上に、六太自身の安らぎだった。何を想うともなく、六太は鐘楼から海を眺めていた。
 この日も六太は昼過ぎに全部を済ませてしまって、またぼんやりと海を眺めていたが、ふと、波の隙間を滑るように近付いてくる銀色の影を捉えた。六太にとって、それはけして珍しいことではなかった。それは光を浴びてきらきらと六太の目を射た。ほんの一瞬、何やらきゅっと体の締め付けられる思いがして、それからとにかく急いで崖を駆け下りていく。裏口の戸を少しばかり強く開け放って、和尚を呼んだ。ああ、ともおお、ともつかない声は右手の方から聞こえたが、六太は靴を履いたまま上がり框に腰掛け、廊下の奥を覗きながら待っていた。さらさらと流れる布の音と板張りの廊下の軋む音がして、曲がり角からひょいと和尚が顔を出した。読み物をしていたのか、普段はしない眼鏡を掛けたままだった。
「どうした?」
「ミイナが」
 そこまで言えば通じた。和尚は顔を綻ばせると、そこで気付いたのか慌てて眼鏡を外した。
「柿か何かはあるかね」
「山に行けばあると思う。干したのは、多分まだ渋い」
六太が渋柿をいくつか捥いできて、軒の下に吊るしたのが二日ほど前のことだった。和尚は小さく何度か頷いた。
「ふたつほど捥いでおいで」
「分かった」
 六太は大きく頷くと、もう一度裏口から出た。今度は寺を左にして進む。ぐるりと回って正面に出たら、そのまままっすぐ横切って、林の中へ入っていく。林の中には、かつて隣の山へ抜けるために使った小道がそのまま残っている。今そこを歩くのは六太と山の獣達くらいだったが、六太は毎日そこを通っていたから、道はいつでもはっきりとそこにあった。乾いた空気が軽くなった葉を撫で、かさかささわさわと音を立てた。その音は六太の最も好きなもののひとつだったが、この時ばかりはそれをゆっくりと聞く余裕がなかった。ほとんど走るような速さで足を運ぶ。ふっと視界の明るさが増して、僅かに開けたところに出た。元は単なる空き地のようだったところに和尚が植えた種が芽を出して、いつの間にか実をつけるようになったのだと聞いたことがあった。柿の木は四本ある。左手前の一本だけが渋柿で、残りの三本は甘柿だった。六太はその三本の周りを一本ずつぐるりと回り、鳥や虫の食っていないものから最も大きくて重そうな柿を捥いだ。両手に一つずつ持って、来た道を引き返す。寺へ出ると、信沙が林に一番近い厨の戸口を開けて待っていた。駆け寄って手渡すと、信沙は満足げにひとつ頷いた。いい柿だ、ということだろう、と六太は思った。信沙は一度厨へ引っ込み、綺麗に切り分けて皮を剥いた柿の器を持って戻ってきた。差し出されたそれは何度見ても惚れ惚れするほど綺麗な切り分けられ方だった。植物の世話は好きだが、料理となると六太はからきしだった。それを分かっていて信沙は待っていてくれたのだと思うと、嬉しくもあり、少し悔しいような気もした。
「ありがとう」
 差し出されたそれを受け取ってひとつ頭を下げると、六太は寺に背を向けて山を下っていった。信沙は出てこないだろうと六太は思った。実際、信沙がミイナに会いに来たことはなかった。鐘楼と寺の間以外を歩いていることすら、もしかすると見たことがないかもしれない。海に近づかないんだ、と六太は思っていた。
 寺から海までは鬱蒼とした森になっているが、木道を敷いてあるから迷うことはない。落ち葉に足を取られないように気をつけながら進んでいくと、潮の香りは少しずつ強くなっていった。木道が終わり、むき出しの地面になる。傾斜が緩やかになり、山の上の方よりも黒く太い木々の合間に、青が見える。最後の切り返しを曲がり、斜面を左に見ながら歩くと、まず正面に突然海が現れる。続いて右手の木々が途切れると、そこが森の端だった。海の手前でもう一段折り返すと、今度は右の斜面に沿うように六地蔵があり、更にその奥で道は海の中へ消えている。そこにミイナがいた。六太は思わずその場に立ち止まった。きゅっと視界が小さく窄まった。
 ミイナは波打ち際に身を乗り出し、上半身だけを陸に上げている。緑を一滴だけ垂らしたような白の肌に、艶やかに濡れた大きな紫色の瞳が収まっていた。僅かに透き通った藍色の髪が、その先端を水に遊ばせている。こちらに泳いでくる彼女の、そのうねる髪が銀色に煌めいて見えるのだった。今はもう水平線に触れかかった夕日の色に染まっていたが、その色合いもまた六太の胸を打った。六太はミイナより美しいものを知らなかった。ずっとずっと見ていたいと願うほどだった。時々、海を見ているのか、ミイナを探しているのか、分からなくなることもあった。だというのにいざ目の前にすると、きりりと体の締め付けられる思いがする。腕も足も、頭も口も、全てがきゅっと縮こまって、六太の思い通りになってはくれない。
「六太」
 ぽつり、とあぶくのように浮かんだ声に、六太はやっとの思いの頷きで応じた。ミイナの、魚のひれを削って尖らせたような耳が、ひょこひょこと二度ばかり上下した。美味しいものを食べたり、綺麗なものを見せたりすると、ミイナの耳はそうしてひょこひょこと動いた。嬉しいときの癖だな、と六太は思ってから、慌ててそれをかき消そうとした。
「柿」
 またぽつり、と浮いた声に、これも六太は頷きで返す。
「柿は好きかい?」
 六地蔵と並ぶように、七体目の地蔵といった風情で道端に腰掛けていた和尚が急に言ったので、六太は少しばかり驚いた。が、ミイナが頷いたのを見て、さりげなくまた歩き出した。和尚の隣、道の真ん中に胡座をかく。最早この道を通るのは和尚と六太だけなのだから、何を気にする必要もないのだった。波はミイナの臍から鳩尾にかけてを洗い、六太の爪先に触れる手前で引き返していった。
「柿、好き」
「そうか。……さ、たんとお上がり」
 六太が片膝を立てて近寄り、器を差し出すと、ミイナは右手だけを海水の中で振って土を落とし、親指と人差し指で柿をひとつつまんで口に運んだ。つまんだ形のままの指の間には、手よりも濃い緑の水かきが広がっていた。ひょこひょこと耳が動く。立て続けにもうひとつ口へ入れる。またひょこひょこと耳が動く。なんだか嬉しくなって、六太は自分でもひとつ柿を食べた。噛むと汁が溢れて、危うく口の端から溢れそうだった。和尚の方へ視線を向けると、黙って首を横に振った。六太はもうひとつ柿をつまんで、器ごとミイナに渡してしまった。ミイナはそれを自分の前に置くと、またひとつつまんで口に入れた。よほど嬉しいのか、ミイナは目を閉じて柿を味わっていた。
「六太」
 和尚が声をかけた。
「ミイナがね。畑と森の話を聞きたいんだそうだよ」
 ぱちり、と音がしそうな勢いで目を開けて、ミイナはこくりと頷いた。随分と真剣な顔で頷くものだから、六太は思わず視線を左の方へ滑らせた。夕日が随分と眩しかった。
「今日は、そんなにやることはなかった……」
 切れ切れに、そしてゆっくりと、六太は言葉を接いでいった。今日こなした作業を全て話し終えてしまうと、今度は昨日のことを話した。それが終わると一昨日のことを話した。段々思い出せなくなってくると、飛び飛びに思いついたことを言った。畑と森のことに限らず、和尚のことや、信沙のことも話をした。和尚は黙って聞いていたが、ところどころで笑ったり、訂正を入れたりした。日は次第に傾き、その上辺が少しずつ水平線に近づいていった。太陽の半分位までそれが来たところで、六太はふと言葉を止め、ミイナに視線を戻した。ミイナは空の器に両手を添えたまま、問うような視線を六太に投げかけていた。
「時間、大丈夫なのか」
 六太が問うと、ミイナはちらりと夕日に視線を向けてから、小さく首を横に振った。
「帰らなきゃ」
 差し出された器を、六太は随分と軽いように思った。
「またおいで」
 和尚の言葉に、ミイナは深く頷いた。それからもう一度、六太の目を見た。
「またね」
「……うん。またね」
 六太が応じると、ミイナはくるりと振り返った。海に入る瞬間、鱗に覆われた脚先と、一対の大きなひれとが夕焼けに飛沫を上げて伸び上がったが、それもすぐに海中に消えてしまった。六太は立ち上がった。水面の燦めきの中に、流星のように銀色が滑っていって、そして暫くして見えなくなった。六太は少しばかり悲しくなった。夕日は水平線に没し、鐘の音が三つ、六太の芯の部分を揺さぶって通り過ぎた。明かりのない道は、これから一気に暗くなる。
「私たちも帰ろうか」
 和尚が声をかけてからも、六太はしばらく、銀色の残像を見つめていた。それは床についてもなお、六太の目に焼き付いて消えなかった。

 * * *

 ミイナは時々、目標を立てることを目標にする日を作った。それは、ひとつの区画を全て調査し終わった次の日に、次に調査する区画を丸一日かけて決めるということだった。海は広く、そこに沈む街も決して少なくはない。ミイナは最初に調査した都市の建物の一つを気に入って寝床にしていた。調査した情報から見るに、それはデンシャというものらしかった。最初に調査した日、そこには沢山の回収対象があった。ミイナはそのひとつひとつについて座標を記していった。それらはどれもミイナに似た形をしていたが、それぞれ異なる色の皮をしていて、耳は丸く柔らかそうで、足にはひれではなく何か硬い部分があった。爪か何かかもしれないとミイナは思った。それらはどうもミイナよりも、和尚や、そして六太に似ているようだった。だが、どれも皆一様にぶよぶよしていた。中にはぶよぶよがなくなり、硬そうな白い部分が覗いていることもあった。それらの事を考えると、和尚や六太には似ていない感じがした。とはいえ、どれもミイナには関係のないことだった。ただひたすら座標を記し、記録を取るだけだった。その区画は随分と建物が多く、建物自体も入り組んだ作りをしていて、調査を終えるまでにかなりの時間を要した。ミイナが完了報告をすると、翌日の目標はない、と言われて随分と驚いた。次の区画からは自分で選び、自分のペースで調査をしろという指示に、ミイナは随分と迷ってから、例のデンシャという建物の下に一対の細長い鉄骨があるのを思い出した。あれの調査をしよう、とミイナは思った。翌朝行くと、デンシャの中はがらんとして、既に回収作業が完了していた。ミイナは目標と定めたそれを辿って行ったが、どこまで行っても終わりがなさそうなので驚いて引き返してきた。反対側にも行ってみたが、これも引き返した。悩んだ挙句、この鉄骨に沿って作業をすることにした、と報告した。特に拒否されることはなかった。それ以来、ミイナはデンシャで休息を取ることにしている。
 最近、ミイナは仕事中に何度も水面に顔を出すようになった。最初の区画を調査した時には、眠らず、休まず、水面に上がってみたのも興味本位で一度だけ、という程度だった。だが今、ミイナは三日に一度は休息を取り、二日目にして五回目の空気を吸っている。自分でも、何か調子が出ないような感じがしてきていた。前から徐々にというわけでもなく、ここ最近急にそうだった。そのことを報告すると、帰ってきたのは沈黙だけだった。放っておけば元に戻るという意味だろう、とミイナは解釈した。水面に浮かんで、ミイナは空気を吸った。それは、体内を水が通り抜ける感覚よりもずっと好ましいように思えた。

 * * *

 珍しく、というより初めて、六太は体調を崩した。何が原因かは分からないが、とにかく痰の絡んだ咳が出て、体が熱く、その熱で頭までぼうっとしてくるのだった。どこにも行けずに布団でじっとしていると、天井の黒さで息が詰まりそうだった。海が見たい、と六太は何分かおきにその衝動に揺さぶられていた。海が見れなくても、せめて外に出たいものだ、とも思った。だがそれを上回って体がだるく、浮かび上がった衝動も結局はもやもやと薄れて消えてしまった。信沙はこまめに様子を見に来てくれた。それも大部分をまどろみながら過ごした中で十回以上を数えているから、実際にはもっと多かっただろう。うつらうつらと過ごす中で、どこか随分と遠くの方から鐘の音が聞こえることもあった。それは奇妙にぼやけていて、ぐわんぐわんと気持ちの悪い響き方をした。
 何日目かはっきりとしないが、夕暮れ前になって和尚が見舞いにやってきた。
「具合はどうだね」
 問う声が溜め息をはらんでいるように聞こえて、六太は少し眉間に皺を寄せた。
「何か、あったの」
 六太が訊き返すと、和尚は目を丸くした後、ちょっと肩をすくめるように苦笑した。
「お前は聡いな。……まあ、信沙ほどではないが……」
 言って、和尚は六太の額に乗っていた濡れ手拭を取り上げると、そこへ自分の手を置いた。それはひんやりとして心地よかった。額の熱と手の冷たさが緩く溶け合っていく感覚が、六太を不思議と安心させた。和尚は小さくため息をついた。
「……六地蔵にね。ひとが流れ着いていた」
「ひと?」
「いや、もう息はなかった」
 六太の言わんとすることを先回りして和尚は淡々と言った。そうか、と六太は思った。特別な感情が沸くわけではなかったが、和尚の纏う雰囲気に関しては納得がいった。六太がここに流れ着いてから何度か、そういうことがあった。どの時にも見つけるのは、海までの散歩を好んでやる和尚だった。毎度、和尚はその場で死者を弔ってやるらしく、疲れた顔で帰ってきては、夜になるとほんの少しだけ酒を飲んだ。信沙も六太も特に止めるわけではなく、飲まないまでも和尚に付き合っていた。誰も口を開こうとはしなかった。ずっと待っていると、和尚が不意に口を開いて、その時考えていたことをふっと喋りだすのだ。それは時折、六太には難し過ぎて分からなかった。いつか分かることだ、と和尚は言い聞かせるように繰り返した。
「六太」
「うん」
 ぼんやりとした頭のまま、六太は返事をした。
「聖書という本を読んだことはあるかね?」
 せいしょ、と六太は思った。少し記憶を探ろうとしてみたが、何も思い当たらなかったので首を小さく横に振った。
「まあ、それもそうか」
 ふう、と和尚はひとつため息をついた。
「それによると。昔、人間があまりにも悪いことばかりするものだから、神様が怒って、人間を全部殺してしまおうと思ったらしい」
「全部?」
「そう。全部だ。相当頭にきたんだろう」
 和尚が反対の手を額に乗せ直し、六太はその冷たさにまた息をついた。それは少し湿っていた。
「その時に、神様が使った手段が洪水だった」
「えっ」
 思わず声が飛び出した。和尚は少し笑った。
「もちろん、これはひとつの神話だよ。それに、私が信じているのは神様ではなく仏様で、読むのは聖書ではなくお経だ。だがね……もしかしてそういうことだったのかもしれないと思っている人は、きっといっぱいいる」
「いっぱい?」
「そう。大陸の人たちも、大陸に移らなかった私たちのような人たちも。人は、もしかして神様が何かに腹を立てて罰を当てた、それがあの大洪水だったんじゃないかと思っている。そして、そういう考えを持つくらいに、みんな悪いことをしてきたんだ。これなら神様も怒るかも知れないというくらいの悪いことを……そして洪水に襲われた後になっても、そういうことをしている人たちはいる……」
 六太は次第に不安になってきて、和尚の顔を見上げた。和尚はそれに気付くと、目を細めて微笑んだ。
「ああ……お前は大丈夫だよ。現に六地蔵へ生きて流れ着いたのは、お前だけなんだから……だから、安心して眠りなさい」
 六太が小さく頷くと、和尚は部屋を出て行った。立ち上がったとき、ほんの少し潮の匂いがした。裾が潮に浸かったのかもしれない、と六太は思った。その夜からもう一度六太の熱は上がり、まどろみの中で随分と悪夢にうなされた。得体の知れない不安が、無理やり色と形をまとって現れたような夢だった。それでも、信沙が付ききりで面倒を見てくれたおかげなのか、二日後には寺の中を歩き回れるようになった。更にその翌朝には信沙の供養に行き、その背中を左後方から見つめていた。

 * * *

 随分と冷え込んだ秋の終わりの日に、ミイナはまたやってきた。干しておいた渋柿がいい頃合だった。ミイナはそれを両手に持ってちびちびとかじりとっていた。和尚と六太とは、体が冷えないようにと外用にした座布団を持っていった。随分とぼろぼろになり、あちこち裂けて綿が飛び出してもいたが、直に座るよりは幾分か凍えずに済んだ。
「和尚」
 柿が半分ほど無くなったところで、ミイナが不意に口を開いた。
「うん?」
「海の下の街、詳しい?」
「ふん」
 少しなら、と和尚は付け足し、六太は驚いて危うく干し柿を取り落としかけた。
「山から出たことはないって」
「ここへ来てからは一度も、というだけの話だよ。その前は街に暮らしていた」
 和尚は微笑みながら言った。六太は少しの間呆然としていたが、思い出したように干し柿をかじった。口の中の湿り気を全て吸い尽くすような甘さだった。六太は何故か、街に暮らしている和尚を思い描くことができなかった。和尚ではなく、街の方が想像できなかった。干し柿を咀嚼する六太を和尚は静かに見ていたが、やがて問うようにミイナへ視線を移した。ミイナはそれを受けて、ぱちりと瞬きをした。
「それで、街の何が気になるのかな?」
「デンシャ」
「デンシャ?」
 和尚の声音が僅かに硬くなったように、六太には聞こえた。そっと盗み見てはみたものの、その横顔からは何も読み取ることができなかった。聞き違いかな、と六太は思い直した。
「それは、どこで覚えた言葉だね?」
 続けて問うた声はいつも通りの柔らかさだった。ミイナはしばらく静止していたが、やがて首を右に傾げた。
「わからない。……でも、覚えている」
「そう。それは、どんな形や色をしている?」
 ミイナは反対へ首をかしげた。
「……細長い。とても。……四角。上に入口があって、中は、藻がいっぱい。鉄の匂い」
「外側は?」
「……少し、波みたいになってる。鉄の色。あと、丸くて平たいものが付いてる。上側に、黄色の線が、一本……」
 ミイナはひとつひとつ、記憶しているそれと照らし合わせながら話しているように見えた。どうも思い出すことの方ではなく、それに合った言葉を選び取ることにミイナは苦労しているらしかった。
「ふん」
 和尚は珍しく腕を組んだ。ミイナと六太とは顔を見合わせた。ミイナの耳がひょこひょこと動いて、六太は慌てて視線を下げた。ミイナの歯型がついた干し柿があった。六太はそれを、自分でも馬鹿らしく思えるくらい真剣に見つめた。思わず感心するような整った歯並びだった。そういえば歯を見せて笑ったことがないな、と六太はほとんど上の空で思った。それどころか、六太はミイナが笑ったところすら見たことがなかった。ミイナの表情は、ぴくりとも動いたことがなかった。その代わり、ミイナの耳は実に良く動いた。手を振るときのような動き方だった。美味しいものを食べたり、何かいいものを見つけると動くのだとミイナは言ったことがある。それが嬉しいという言葉で言い表せるとミイナは知らないのだろう、と六太は勝手にそう思っていた。近いうちに教えてあげよう、とは思いながら、いざミイナを前にするとすっかり忘れてしまうのが常だった。ミイナはまた干し柿をかじった。もうほとんど食べきってしまいそうだった。
「――ソーブセンだな」
 和尚が言った言葉を、ミイナは上手く理解できなかったようだった。六太にもそれはよく分からなかった。和尚はその辺に落ちていた木の枝を拾うと、ミイナに読めるように向きを変えて字を書いた。六太は立ち上がってミイナの隣へ行き、文字を見た。
「これが『そう』、こっちが『ぶ』。で、これが『せん』。総武線」
「総武線」
 今度はミイナにも六太にも分かった。二人は一つずつ頷いた。
「総武線って、何?」
「デンシャのひとつだよ。いくつも種類があってね……ああ」
 和尚は「総武線」の上に「電車」と書いた。左側が「でん」、右側が「しゃ」らしかった。ミイナは文字をじっと見ていた。六太はその横顔をちらりと盗み見た。相変わらずその表情は動かなかったが、紫の双眸はこの上ない真剣さで文字の上に注がれ、時折耳が上下した。
「まだ街が全て陸だった頃、街には人が住んでいた、それは知っているね?」
 六太は頷き、ミイナもそれに続いた。
「そこに住んでいた人々は、今のミイナのように水の中を進むことはできなかった。六太や私のように水かきも足ひれもなかったし、おまけにずっと潜っていると溺れて死んでしまう体だった。それに、そもそも海ではなかったからね。人はそこで、どうにかして早く移動する方法はないものかと考えた。そうして作られたのが電車だ」
 和尚は「電車」の隣に絵を描いた。長細い四角に、二つの丸と、ほんの少し長細い小さな四角がいくつか付いていた。あ、と突然ミイナが声を上げた。
「これ。電車」
「そうだよ、よく分かったね。ただ、多分ミイナのお気に入りは、少し向きが違っている」
「向き?」
「そう。元々は両側に出入り口があって、こちらを下にして動くものだった……」
 和尚は木の枝の先でひとつひとつ指し示しながら説明した。六太はそれを見たことがなかった。説明を聞けば何か思い出すかも知れないと思ったが、終いまで聞いても何一つ浮かんでこなかった。自分の住んでいた街には、とまで考えて、ふとその先を考えるのをやめた。六太は急に不安になってきたのだった。足場がぐらりと揺らいで、頼りないものになった気がした。もしかして俺は、街に住んでいたことなんて一度もないのかもしれない……。
「どのくらいの街、繋いだ?沢山?」
 ミイナはそんな六太の様子には気付いていないようだった。
「ああ、とても沢山だ。今も、多くの電車は陸に残っているよ。勿論。でも、沈んだ街々とは比べ物にならないだろう……あの国は技術の国だった。ものを作るのが得意だったんだ。それで沢山の街を作り、沢山の電車で繋いで、栄え、そしてほとんど全てが消えた……」
 和尚は小さくため息をついた。
「……でね。電車が増えると、少しややこしいことになった。どれに乗っても好きなところへたどり着くというわけには行かなくなったんだね。例えば、ここに駅があるとする。この駅には二種類の電車が走っていて、一つは六太の方を通って私の方へ、もう一つはミイナの方を通って私の方へ行くとしよう。ここで、これをどっちも『電車』とだけ呼んでいると、乗る人は少し面倒なことになる。六太の方へ行きたかったのに、降りてみたらミイナの前、ということになってしまうかもしれない」
 ミイナの耳が揺れた。面白かったのかもしれない。
「そこで、人々は電車に名前をつけたんだ。ミイナの方を通るものをミイナ線、六太の方を通るものを六太線、というようにね。総武線というのは、そのひとつの名前だ」
「総武線、沢山の人、使った?」
「そうだよ」
「沢山の人、死んだ?」
 ぞわり、と六太の背に嫌なものが走った。
「ふん。そうだよ」
 和尚は花を見るときのような柔らかい目で文字と絵とを眺めていた。ふと、信沙が時折海の方を見遣ることを思い出した。あの時の目に似ていた。和尚の目は夜の闇の色をしていた。微かに笑みさえ浮かべながら、和尚は続けた。
「『シュウゴデトマル総武線』、という言い方があった」
 和尚はまた枝を取り、「週五で止まる」、と口に出しながら書いた。
「週は一週間のこと、七日間だね。その内五日。そのくらいは止まると言われた程に、総武線はよく止まった」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
 一対の夜闇がミイナを見、続いて六太に向けられた。二人とも揃って首を横に振った。
「人がね。自分から電車に轢かれて死んでいくからだよ」
 ぽつり、と和尚は言った。六太の中で、何かがぴしりと音を立てた。
「どうして、死ぬの?」
 ぱちりと、ミイナは瞬きをする。
「疲れてしまうから」
 和尚はさらりと言った。
「人には出来ることの量が決まっている……だから、それ以上のことを無理にすると、段々考えることが出来なくなっていく。生きるのが苦しくなって、なのにそれをどうにもできなくなってしまう。そうして上手くいかなくなってしまった人が、死ねば楽になると思って、死んでいく。……一番簡単で身近なものが、電車だったんだね。中でも総武線は、それが多かった。だから、その多さを表現するためにこの言い回しが生まれた」
「実際は、そんなに死んでないんだよな」
 努めて何気ない調子で六太は訊いたが、和尚は曖昧に苦笑しただけだった。どうかな、とでも言いたげな調子だった。それから、半分ほど残っていた干し柿をぱくりと食べてしまった。六太は段々、聞くのが辛くなってきていた。少し身じろぎをした。
「和尚。その後も死んだ?」
「……その後?」
 ミイナは真剣な顔をして頷いた。
「その後というと、いつかな?」
「電車が海に沈んでから」
「ふん……」
 和尚は眉間に皺を寄せ、何事か真剣に考えてから口を割った。
「……電車は、海に沈んだらもう動かない。だからそれはないと思うよ」
「そう」
 ミイナはどこか物思わしげに、六太には見えた。その原因を推し量りながら、干し柿を口に入れた。他に気になることがあるのだろう、と六太は思った。だが、その先の思考は別のものに邪魔をされた。六太は突然、口の中を滑る柿の感触が不快に思えてきた。にゅるりと、口の中にまとわりついてくる。それに似た感覚を、六太はどこかで感じたことがあった。まとわりつくにゅるりとした感覚、その柔らかさが全身を包み、張り付くように、そして、焼けるような痛みに全身を襲われて、叫んだ声があぶくになって、どこからか甲高いサイレンが聞こえる……。
 六太は反射的に顔を背け、水面に向かって吐いた。和尚が何事かを言い、慌てて六太の胴に腕を回して支えた。下手をすれば顔面から海に落ちてしまうようなところだった。六太は腕に支えられてじりじりと後ずさりながら、己の吐いたものを見てまた吐いた。柔らかさとまとわりつく感覚と激痛とサイレンとが、代わる代わる六太の脳内に現れては掻き乱した。自分が何か、とんでもないことを呼び起こそうとしているという予感があった。見たくない、と思った。見たくない、という叫びが、混乱した色の吐瀉物になって水面に叩きつけられて飛び散った。手元の土を握り締めながら、六太は荒く息をつき、息をついては吐いた。とめどなかった。
何かが、にゅるりと六太の右手首を掴み、記憶と同じような感触のそれを六太は絶叫と共に振り払った。
 なんと叫んだのかは自分でも定かでなかった。叫んだ弾みにまたこみ上げてきて吐いた。それはまた六太の手首を掴んだ。振り払おうとするのを、胴に回った腕が押しとどめた。誰かが何ごとか言った。放せ、と六太は叫んだ。暴れる体はがっちりと抱きとめられていた。また誰かが何ごとか言った。手首を掴む力が強くなった。それは人の手の形をしていた。
「六太」
 誰かが呼んでいた。高く澄んだ、はっきりとした声だった。六太は、暴れるのをやめた。最早吐くべきものは残ってはいなかった。
「六太」
 また、誰かが呼んでいた。六太は、声のする方に視線を滑らせた。大きな紫色の瞳が六太を見つめていた。藍色の髪と蒼褪めた白い肌には、あちこち泥が付いていた。しなやかな腕は伸ばされ、水かきのついた両手が、六太の右手首を捉えていた。俺が振り払ったのは、と六太は震えながら思った。
 俺が振り払ったのは。
「ごめん、ミイナ」
 言いながら、六太はぼろぼろと泣き出していた。
「ごめん」
 こぼれ落ちる言葉を、ミイナはいっぱいに目を見開いて聞いていた。両手を離し、ぱちり、と瞬きをした。それから腕の力を頼りに、ミイナは六太のもとへにじり寄り、恐る恐る手を伸ばしてその涙に触れた。六太はその感触に一瞬怯んだが、最早嫌悪感はなかった。その手は土に汚れてざらついていた。
「大丈夫」
 ミイナの両の目から、はっとするほどに深い淡青の雫が零れおちた。答えた声は、少しも乱れてはいなかった。
「ミイナ、泣いてるの」
「大丈夫」
「それは大丈夫じゃない」
「大丈夫」
 そう繰り返して、ミイナは六太の肩を抱いて引き寄せた。六太はミイナを強く抱きしめた。ミイナの体は冷え切っていた。にゅるりとした冷たさがその肌を覆っていた。その冷たさの奥に淡いぬくもりがあるのを六太は感じた。それは随分と不安定なように思われた。今にも掻き消えてしまいそうで、六太の腕に一層力がこもった。
「大丈夫」
 耳元で紡がれる言葉はすっと胸の中に落ちていって、六太の体からやっと力が抜けた。ぱさり、と背中に落ちかかったのが袈裟だと気付いたとき、和尚はミイナごと六太を抱きしめていた。袈裟は乾いていて、少し暖かかった。
「そうとも。……大丈夫」
 わざとゆっくりと、和尚は言った。それは六太にじわりと染みていって、六太はますます泣いた。泣きながら、肩がミイナの涙でずっしりと重くなっていくのを感じていた。それも、少しずつ遠くなっていった。
 六太はその日、どうやって寺へ戻ったのか全く覚えていなかった。あの六地蔵の前で何をしたのかすら、朧げにしか思い出せなかった。ただ、和尚に何かしらの迷惑をかけたのだろうと思って、次の日は目覚めてすぐに和尚に謝りに行った。和尚はやはり眼鏡をかけて本を読んでいた。六太の足音に気付いていたのだろう、六太が部屋を覗くとすぐに振り返り、眼鏡を外して微笑んだ。六太は和尚の手元へも視線を向けてみた。それはあまりにも細かく、六太の理解できるものではなさそうだった。
「よく寝られたかな?」
 小さく六太が頷くと、和尚は笑みを深めた。
「それは何より」
「……和尚」
「うん」
「昨日は、あの……ごめんなさい」
 和尚は小さく唸って首を傾げたが、少ししてから立ち上がって六太の前まで来た。じっと見つめられると、何となく居心地が悪かった。黒い瞳は恐ろしい程の深みを感じさせて、ともすると飲み込まれてしまいそうだった。
「六太」
「うん」
「お前、私のものを盗ったり、私を殴ったり、何かそういう悪いことをしたのかい?」
「えっ」
 突然の問いに六太は面食らったが、やがて首を横に振った。
「いや、してない。……と思う」
「じゃあ、ごめんなさいという言葉は合っていないな」
「……うん」
「そういう時は、ありがとうの方がいい」
 和尚は六太の頭を軽く撫でた。
「いいかい。自分が誰かを傷つけたら、ごめんなさい。誰かが自分を助けてくれたら、ありがとうを使う。ごめんなさいも必要だが、ありがとうが多い方がいい。……分かったか?」
 六太は大きく頷いた。
「うん。……ありがとう」
「どういたしまして」
 和尚はどこかくすぐったそうに言い、六太もまた少し照れくさくなって笑った。どちらも、前日の出来事には全く触れなかった。

 * * *

 ミイナは疲れてぐったりした様子の六太を和尚に託した後、電車へと泳いでいた。目から溢れるものは止まらず、溢れては海の中へ溶けていった。冷たい水に晒される体に、六太の温かさが染み付いたように残っていた。泳ぎながら、溢れるものの名前が涙であることを思い出した。それが泣くという行為であることも思い出した。だが、自分の中に溢れる感覚の名前は未だに思い出せなかった。自分はその言葉を知っていると、ミイナは確信していた。いつかどこかで、それを学んだ。記憶の中にそれはあるはずだった。分かっているのに、記憶の呼び覚まし方とでも言うべきものがミイナには分からなかった。確かに知っているはずのものを思い出せないということは、ミイナにとって初めての経験だった。何も知らなかったわけじゃない、とミイナは思った。知っていることはあったのだ。それも沢山あった。あったはずだ。ただそれが思い出せなかっただけなんだ。何かの理由で、思い出せなくなってしまって、遂にはそれを思い出せないということすら、すっかり忘れてしまっていただけなんだ……。
 じゃあなぜ、とミイナは問うた。なぜ、という言葉が波のように寄せてきて、ミイナの中に満ちていった。それはゆらゆらと揺れた。答えはなかった。探せば見つかるという気もしてこなかった。分からないことは和尚に訊けば、と考えて、ミイナはふと首をかしげた。和尚はなぜあんなに物知りなんだろう。街に住んでいたことがあるからだとしたら、和尚はそこで何を見たんだろう。何を見て、聞いて、感じて、そしてどんな風に思い出しているんだろう。分からない。分からないことばかりある。
 気付けば電車の前だった。ミイナはそれを注意深く見てみたが、今まで感じていたような気持ちにはひとつもなれなかった。自分の中に残っている六太の温かさのようなものが、ここには少しも感じられなかった。温かさのないものは、「お気に入り」になる資格が無いような気がした。電車の中を覗き込んだ。かつてそこに沈んでいたぶよぶよを思い出した。あれもまた、温かさのないものだった。今思えば、あれは六太たちになど似てはいなかった。ミイナはまだ泣いていた。ただ、溢れ出す涙の種類が違うようにミイナには思えた。さっきまでのものよりも冷たく、ざらついているような気がした。ミイナはそこを離れた。六太のぬくもりが消えてしまうような気がした。そっと自分の体を抱きながら、ゆるゆると水面に向かって上っていった。鈍く光る電車の姿が濃い青の向こうに薄れていく。それは半分以上線路から外れて、その隣の大きなビルにへばりつくようにして曲がっていた。上から見下ろすと、それは尚の事悲しいものに見えた。悲しくて、恐ろしかった。そのどれをも、海の青は遠いものにした。こうして遠くに沈めておけばいいのだと、ミイナはそう理解していた。怖くても、悲しくても、全部深いところに沈めてしまえばいい。そうやって遠くに置いておけば、作業に支障は出ない。私はそのためにここにいるのだから、悲しさも恐ろしさも、別になくていい。
 でも、とミイナは思う。
 ここに残っている温かさは、どこに置いておけばいいんだろう。
 不意に頭が水面から出て、ちゃぽんと音がした。ミイナは大きく息を吸った。体の中に空気が溜まって、ふわりと浮かび上がっていく。深い紺色の空に、ぽつり、ぽつりと光が浮いていた。左手の少し低いところに浮いているひときわ大きいのは、名前を月というのだと六太が教えてくれた。その輪郭は少し滲んでいて、じっと見ていると後から後から涙が出てきた。それでも、水面に顔を出していた方がいくらか楽になった。ゆっくりと吸い込み、またゆっくりと吐き出す。ひとつひとつ、自分の中に溜まった澱を洗い流すように、ミイナは呼吸した。吸う度、吐く度、自分の境界が曖昧になっていく。ふるり、とミイナはひとつ体を震わせた。少しだけ、寒い気がした。そのまま目を閉じた。今日はこのまま眠りたい気分だった。
 陸で寝られたらいいのに、とミイナは思った。

 * * *

 信沙の弔いの声は、その日を境に一段と六太の心の真中に触れるようだった。胡座をかいた姿勢のまま呆然としている六太を、信沙は随分と心配した。何度かは六太の肩に手をかけ、大丈夫か、と声をかけたりもした。その度に六太は信沙の目を真っ直ぐに見上げて、緩慢に頷いた。六太は自分が大丈夫でないとは少しも思っていなかった。ただ、時折ぼんやりと自分の手を眺めて、そのままいつまでもじっとしていることが多くなった。随分と気が散るな、とは思っていた。今までなら一気に済ませていた畑の手入れも、気付けば手を止めている。自分の手を、ミイナに掴まれた手首とともに見つめている。赤く凍えた手を眺めていても、六太はそこに濃緑の水かきを見ていた。こうして開いた手が緑色をしていて、そこにもっと濃い色の水かきがついている。見たことないはずのその光景が、奇妙なまでに現実感を持って重なっていく。ともすれば手と目の間に流れる水の揺らぎさえ、六太には感じ取れるような気がした。水は青い、と六太は思った。海がそうであるように。そして透き通っている、とも思った。ちょうど、ミイナの髪のように。それから、信沙の瞳のように。六太のそばにはいつでも海があった。それは六太が寺で目を覚ましてからというよりも、もっとずっと前から六太のそばにあったように思われた。畑に水を撒く六太の耳に、轟々と震える波の音が届く。本当はあんなじゃない、と六太はまた手を止めながら思った。あの波の音だって、本当はもっと優しくて細かい。でも、どうしてそんな風に思うのか分からない。きっと聞いたことがあるからそう思うんだろう。でも、じゃあ、一体どこで?
 六太はひとつため息をついた。あの日から六太の周りは、急に分からないことだらけになってしまった。きっと元から分からなかったんだ、と六太は思った。むしろ、何も知っていなかった。何も知っていないということすら……。
「六太」
 急に声をかけられて、六太は思わず飛び上がった。振り返ると和尚が立っていたが、地面に足を取られて畝の上へ尻餅をついてしまった。
「おう、おう」
 愉快そうに笑いながら、和尚が歩いてくる。差し出された手を取って、六太は立ち上がった。その手は随分と冷えていた。
「考え事かね?」
「いや」
「考え事だね」
 六太は目をぱちくりした。和尚はまた愉快そうにくすくすと笑った。
「お前も年を取れば、もう少し誤魔化すのが上手になるだろうよ。……そういう、どうしても気になって仕方ないことというのは、他人に投げかけると意外に上手く行ってしまうことがある。それもしばしばな。だからもし嫌でなければ、言ってごらん」
 嫌ではない、と言おうとして、そこで六太は口ごもった。確かに嫌ではなかった。でも、何と言っていいのやら分からなかった。ここで言いたい「気になること」は、まだ六太自身が直視できずにいることだった。言うどころか、自分でもそれが何なのか分からなかった。
 和尚にそう伝えると、ふん、と和尚は頷いた。
「鐘楼に上がろうか」
 ぽつんと和尚は言った。
「鐘楼に?」
 六太は思わず訊き返していた。随分と唐突な誘いだと六太は思った。和尚が鐘楼へ上がっていくのはとても珍しいことだった。六太が見たことはない。いつも鐘楼へ上るのは、六太か信沙のはずだった。
「嫌かね?」
 問われると、ううん、と六太は首を横に振った。
「じゃあ行こう。そこで少し、話をしよう」
「でも、まだ手入れが」
「いい、いい。世話はしすぎないのが肝心だ。畑も人もね……少し休んでいいんだ」
 そう言われてしまうと、そうか、という気がしてくる。六太はひとつ頷いた。
「じゃあ、行こうか」
 和尚は鐘楼へ向かう道をどんどん歩いて行った。六太は慌ててそれに従った。和尚の歩みはとても早く、壁面に手をつくこともなかった。その向こう側に、鐘楼の屋根が小さく見えていた。

 * * *

 今日何度目か分からない「何故」が、ミイナの口からあぶくになって出て行った。小さな小さなそれは、遥か頭上の水面に達してぱちんと弾ける。見上げた水面はとても明るかった。明るいのは、太陽の光が差し込んでいるからだ。太陽は宇宙にある星のひとつで、とても強く光っている。それが長い距離を旅してきて、今ここに届いている。何故、とミイナは問うた。何故、私はそんな事を知っている? 何故そんなことを知っていて、どうして今それを思い出す?
 ミイナは街の底を滑るように動いていた。街の隅々まで見て覚えるためだった。時折まだ使えそうなものがあると、それをよく見ておいた。見れば覚えられるのだ。それは必ずミイナの記録の中に残る。眠っている間に記録は複製され、指示を与えるあの声のもとへ届けられる。どうしてかは分からない。ただ、そういう仕事をするためにミイナがここにいることだけは確かだった。それははっきりとしている。仕事のやり方だけは、最初からミイナの中に明確な形で記録されていた。思い出そうと思えばいつだって思い出せたし、思い出しても嫌な感じはしなかった。でも、六太は何かを思い出して、嫌な感じがして、そしてあんなに苦しそうな顔をしたのだ、とミイナは思う。そしてそれのことを、和尚はキオクと呼んだ。
「嫌なキオクが蘇ってしまったんだろう」
「記録?」
「……いいやミイナ。キオクだ。それは記録だけれど、もっと特別な記録だ。その人にしか持ち得ない、複製も送信もできない、誰かが誰かであるために必要とされるものだ」
 それはなんだろう、とミイナは思う。ミイナがミイナであるために必要なこと。仕事だろうか。海だろうか。街だろうか。でも特別な記録だというくらいなのだから、きっと海や街のようなものではないに違いない。だとすると仕事かもしれない。でも、仕事が無くなった時、ミイナはミイナであることができなくなってしまうのだろうか。それはなんだか悲しい。六太にも仕事がある。ハタケとモリの手入れだと聞いたことがある。でもきっと、ハタケやモリの手入れをしなくったって、六太は六太であるような気がする。色々なキオクがあるのかもしれない。仕事がキオクの人や、泳ぐことがキオクの人や、他にもたくさんあるのかもしれない。でも、ないのかもしれない。ミイナはミイナであるまま、他の仕事をするということがあるのだろうか。或いはミイナがミイナであるまま、陸に上がって、テラに行って、六太や和尚や、それから信沙というひとと一緒にいることは出来るだろうか。ハタケ――これは「畑」だ――や、モリ――こっちは「森」だっけ――を歩いて回って、手入れをして。朝には信沙が打つ鐘の音を聞いて、トムライを聞いて。森へ行ったら、柿を自分で木から取って食べて。そんなことができるのだろうか。できないような気がする。そもそも今のままでは、陸にへばりつくのがやっとだ。とてもテラまで登っていけない。和尚と六太に運んでもらったらいけるかもしれないけど、やっぱり自分ひとりではどこへもいけないし、もしかすると干からびてこちこちになってしまうかもしれない。
 でも、とミイナは思う。陸に上がってみたい。自分で立ってみたい。六太と一緒に歩きたい。
 胸が苦しくなってきて、ミイナはぎゅっと体をひねった。目の前に明るい水面が見える。それが随分と遠いように感じた。長く海の中にいると時折そんな感じがすることがあった。頭や胸のあたりにもやもやとした嫌な感じが溜まってきて、早く水面に出たい、早く空気を吸いたい、と気ばかりが急く。そういう時、水面はいつもの倍ほども遠く見えて、たどり着くまでの時間も恐ろしく長い。ミイナは強く水を蹴った。そのおかげで水面はぐんぐん近づき、視界が透き通るように明るくなっていく。顔が出ると同時に、ミイナは一気に深々と空気を吸った。ひゅっ、と音がした。体の中に空気が広がり、溜まっていた嫌な感じがどこかへ吹き飛ばされて晴れ上がる。強い日差しがミイナの目を射た。目の前に手をかざせば、水かき越しのそれはあまり眩しくない。その周辺に広がる青は明るい。かつてはそれが眩しくて、少し見上げただけでも随分と目が痛くなった。今、ミイナの目はどんなに見ていても痛くはならない。ずっと見てしまうからなのか、海に戻って暫くはものを見るのが難しい。暫くじっと海の底を見つめていると、いくらもしないうちに見えるようになってくる。最初は少し怯えたが、今となっては何の心配もせずにその明るい青を見つめていられるようになった。空だ、とミイナは思い出した。空と海とは違うもので、境目が水面だ。空を見るのは好きだ。ずっと前から、子供の頃から。
 子供の頃の自分はどんなだっただろう、とミイナは少し考えてみようとして、やめた。今の自分のことも分からないのに、子供の頃のことなんて分かるはずがない。ほんの少し記録が残っているからって、他の何かが思い出せるわけじゃない。そもそも、子供の頃というのがいつのことなのか、ミイナにははっきりとしなかった。まだ子供なのかもしれないとも、もう子供ではないかもしれないとも思った。人は生まれてしばらくは赤ちゃんで、その後子供になって、大人になって、年寄りになって、死んでいく。途中で死ぬものもあると和尚は言った。私はその中のどの辺りにいるんだろう。そもそも、私はひとと同じように生きていけるのだろうか。もっと早く死ぬかも知れない、とミイナは思った。例えば今、急に息ができなくなってしまって、もう一度六太と話をすることもないまま死んでいく。あるかもしれない、とミイナは繰り返した。あるかもしれない。背筋がぴりりとした。ミイナは閉じた目の上に手を乗せた。ほんの少し緑がかった闇が目の前に広がっている。それは波の揺れに合わせてゆらゆらと揺れた。ミイナの体も波に合わせて絶え間なく揺れた。今ここで息を吐くだけで、ミイナは海の底まで沈んでいく。そのまま沈んでいれば、あの白いぶよぶよと同じ何かになる。そうならないように引き止められるのは、自分の呼吸だけだ。確かなものは何もない。湧き上がったものが目蓋の隙間から染み出ていく。
 私はいつからここにいるんだろう。どこから来たんだろう。時々頭の中から聞こえてくるあれは誰の声なんだろう。どうしてあの声は頭の中から聞こえるのに、六太や和尚の声は外から聴こえてくるんだろう。分からないことがいっぱいあるのに、きっとそれを一番よく知っているのは自分なんだ。でも何もない。きっとどこかに置いてきてしまった。例えば、私が今の私になる前。今の私のキオクが、生まれる前。私は別の何かだったのかもしれない。魚だったかもしれないし、鳥だったかもしれない。電車かもしれないし、柿かもしれないし、六太や和尚だったのかもしれない。私が私になる前、その前の私は、もしかすると陸の上を歩いていたのかもしれない……?
 陸に、上がりたい。自分の足で立ってみたい。六太と並んで歩きたい。
 この体は嫌だ。ひれも、水かきも、尖った耳も、透けた髪も、青くぬるりとした肌も、嫌だ。仕事だけの毎日も、青ばかりの世界も、キオクのない私も、嫌だ。
 私は。
 私は、ひとに「戻りたい」。
 そう思った途端、ミイナの全身を激痛が包んだ。
 見開いた目の前で、ミイナの両手は赤く、焼けるような熱を放っていた。叫んだ拍子に空気が抜ける。水の中に沈んでも痛みは引かなかった。ただ、今まで水の中で感じた息苦しさが、濃密な塊として自分の中に凝り固まるのを感じた。己の肌を覆う緑色の層が暴れている。異常な熱と色を持ってのたうち回る。剥がれ落ちたいのか、張り付きたいのか、はっきりとしない。その両方がせめぎ合っているようだった。
 この体は、この緑色は、私のものじゃない……。
 ミイナは身を捩った。まとわりつく水が重く、ともすると引きずり込まれそうになる。水面に顔を出して空気を吸った。息だ、とミイナは瞬間的に思い出した。息だ。酸素を吸うんだ。人は水中では息ができない。水面に浮かぶのも難しい。溺れてしまう。
 痛みに叫びながら、ミイナは猛然と水を蹴った。水面のすぐ下を、今までに無いような速さで滑っていく。激痛で目が開かなかった。それでも、目をつぶってでも目指せる場所があった。頭の中の記録に、いや、記憶に、それはあった。
 陸へ、とミイナの思考はそれに埋め尽くされていった。
 陸へ。

 * * *

 鐘楼は崖の端にある。海が一番よく見え、海からも一番よく見える。和尚と六太はその海側の柱に寄りかかるように並んで腰を下ろした。海は相変わらず美しかった。日の光を浴びて絶え間なくきらきらと輝く。その下に沈んでいるという町並みは、そのきらめきと深い青に隠されて見えない。六太と和尚とは、暫く何も言わずに海を眺めていた。
「……六太」
 少ししてから、和尚は口を開いた。
「うん」
「自分がどこから来たのか、覚えているかい?」
 六太はぎくりと身を震わせた。それこそ、六太が最も思い出せないものだった。小さく、六太は首を横に振った。
「実は私も分からなかった。自分がどこから来たのか」
 六太は思わず和尚を見た。和尚は海の遠くを見つめたまま、静かに笑っていた。
「気付いたらここにいたのだよ。いつからいたのか、どうやってここへ来たのか、全く思い出せなかった。急にそのことに気付いたんだ。何も分からなかったのだということに。……忘れもしない、私は栗を拾おうとしていたんだ。そこで突然、頭の中の霧が吹き飛んだようになった。それで私は気付いたんだ。自分は何も知らなかったんだと。……栗拾いを放り出して、急いで寺に引き返したよ。何やら恐ろしい気がしてきてしまって」
 分かるかね、と和尚はちらりと六太に目線をやった。六太はこくりとひとつ頷いた。その不安は今、六太の中にあるものにとても近いと思った。
「そう思っていたよ。あの上の空は、私にも覚えがある」
 ふ、と和尚はまた少し笑った。
「その頃、この寺には私と、イロハという人だけがいた。色の波、と書く……」
 色波、と和尚は空中に指を走らせた。
「その人がずっと私の世話をし、木々や畑の手入れの仕方や、服の着方や、経の上げ方から読み書きまで全て教えてくれた。頭の中の霧が晴れた時に、寺に帰って真っ先に訊いたのが彼のことだったよ。あなたは誰、とね……それで、名を色波といい、今まで私が彼を和尚と呼んでいた、と教えてくれた」
「和尚?」
「ああ。和尚というのは、お寺にいる人の中で一番偉い人を言う。ここでは偉いも何もないが、私がこういう……つまり人の姿をしていたから、和尚といえば分かりやすいと思ったんだろう」
 和尚は少し視線を下に落とした。深く、息を吐いた。
「……六太」
 ぎゅっと、体を締め付けられるような感覚が六太を襲った。
「お前は海から来たね」
 小さく頷いた。
「それは、恐らく街から来たということではない。街から来たものは、つまり人は、あの海の中では少しも経たずに命を落とすからだ。あれは普通の生き物には毒に等しい。その中にいて無事でいられるのは、ミイナのようなものたちだけだ」
 ミイナ、と六太は小さく呟いた。和尚は僅かに頷いて続けた。
「大津波の原因は、まだ分かっていない。ただ、それによって海は広大な毒の溜まりになり、かつてそこに生きていたものはことごとく死に絶えた。これは確かなことだ。海に飲まれた国もたくさんあったし、そこに住んでいた人々もまた死に絶えた。多くが、科学技術に秀でた国だった。それらの国では、他の国よりも秀でることを第一としていた。そうして努力を続けて人々はおかしくなり、最後の最後には科学に人の命を捧げることも厭わなかった。科学に異を唱えるものはすぐに科学の生贄にされた。科学者は朝から晩まで働き、科学者の生活を支えねばならない他の人々も朝から晩まで、時には眠らずに働いた。元々は人のための科学だったのが、科学のための人になってしまった」
 六太は小刻みに震え始めていた。その肩に和尚の手が触れ、静かに撫ぜた。そんな悲しいことが、と六太は心の中で呟いた。そんな悲しいことが。
「たくさんの人が死んでいったよ。科学の生贄にされた人はもちろん、業績を上げられず絶望した人、逆に業績を上げて妬まれた人、親しい人を科学に殺された人、科学への奉仕に疲れきった人……色んな人が死んでいった。彼らは、その多くは、日々の生活の何気ない一瞬に転げ落ちていったんだ。ビルから落ち、崖から落ち、或いはホームから落ちた……そうやって、総武線が週五で止まる世界が出来上がったんだ。総武線だけじゃない、ありとあらゆるものが人の死で止まり、そしてまた何事もなく元に戻っていった。でもね。それが普通だったんだ。あの世界を生きていた人たちには、毎日数え切れないほど人が死んでいくのが、普通だったんだ。何故なら彼らは、死ぬ人と同じくらい大量の人が毎日科学によって生み出されることを、知っていたからだ……あの狂った世界で狂っていなかったのは、むしろそうやって死んでいった人々かもしれない……そういう中に私は生まれたんだ。そして少しの間そこで過ごして、ある日よその国に送られ、科学の生贄にされ、海に放り込まれた。緑の肌とひれと水かきを持って」
「ミイナと同じ……」
「そうだよ」
 六太は自分の手を見つめた。ゆらぎの向こうに翳されたそれに水かきがあるのを、今や六太ははっきりと想像することができた。それを、ぎゅっと握りつぶすように六太は手で手を包んだ。それはひどく冷えていた。
「私も。色波も。信沙もそうだ」
 信沙の双眸の色が、眼下に広がる海に重なった。
「信沙も、ある日六地蔵のもとに流れ着いていた。肌を覆う層は流れ落ちていたが、肌も髪も瞳も耳も、色形はそのままだった。陸に上がってしばらくすると段々人の色になっていったが、今も目だけはあの時のままだ。色波と私は海に入る前のことを思い出したが、信沙は思い出せないと言っている。きっと、大津波を逃れた国ではまた科学が進歩しているんだろう。海に行くものの記憶を封じる技術も」
「俺は」
 六太の口をついて、言葉が飛び出した。弾かれたように、六太は和尚の横顔を見上げていた。
「俺の目は何色なんだ、和尚」
 和尚の真っ黒な双眸が、六太の視線を捉えた。ぱちり、と緩慢な速度で和尚は何度か瞬きをした。六太は瞬き一つしなかった。呼吸すら恐る恐るするような感覚さえあった。和尚は暫くじっと六太の目を見つめていたが、やがて微かに笑った。それは哀れみを含み、同時にいくらかの諦観をも感じさせた。
「空の色だよ。夏の、あの強くて眩しい青だ」
「本当に?」
「本当に」
「変わったのか?」
「……いや」
 六太は一瞬息を止めた。和尚はそっと腕を伸ばして六太の頭を撫でた。
「お前の髪は秋の森の色。お前の肌は冬の雪の色。お前の唇は春の花の色。お前の瞳は夏の空の色だ。地蔵の足元に流れ着いていた時からずっと変わらん。それはお前が……」
 ふっと和尚の手が止まり、視線が遠くなった。俺の向こう側を見ているんだ、と六太は思った。和尚の視線の先にあるものを六太は想像した。六地蔵の足元に倒れた自分。何かが六太の脳裏をゆっくりと滑っていく。それはかちり、と音を立てるように像を結んで、六太の前に現れた。ああ、と知らず知らず吐息が零れた。
 ひどく重たくまとわりつく水。その中に一人放り込まれて、息ができなかった。六太の体は海に合わなかった。海と六太の間に入るはずだったものは、暫くするとぬるりと解けはじめ、そのまま少しずつ肌の上を滑り落ちていった。それは海のどこか深いところへ行く前に、解けて見えなくなった。六太の体は海に応じなかった。応じることができなかった。
「出来損ない」
 誰かが六太にそう言った。その声を六太は覚えていた。海に入るために生み出されたのに、六太の体はそれを受け付けなかった。六太自身の気持ちもまた、どこかで海を拒んでいた。海に入ればどうなるかを既に知っていたかのように。水は冷たかった。泳げない六太を陸の人間がどうするか、分かったものではなかった。それでも、海にはいられなかった。人間がいない陸を、と六太は思った。潮の記録を呼び起こしながら死に物狂いで水を掻いた。その水かきも少しずつ解けて消えていった。苦しさが全てを覆っていく。凍えた体の輪郭がなくなっていく。そうして何も分からなくなったのだ。何も。全てが六太の中から零れおちていった。何も残らなかった。海が全てを奪った。陸の人間が、海に、すべてを奪わせた……。
「六太」
 夜の闇のような瞳が、今の六太に向けられている。
「知りたいと思い続けるなら、全てはいつかお前の元に戻ってくる。いつかは分からないが、必ずだ。ただ、何を覚えていようといなかろうと、お前はお前のままであり続ける。それを忘れてはいけない。お前は全てを思い出しているのかもしれないし、ごく僅かしか思い出していないかもしれない。それは仕方がないことだ。あの海の中を生き抜くには、確かに陸の上のことなど余計なものでしかないからね。それでもお前はここまで生きてきた。お前自身の力で。だから、お前の生きてきた道が、お前なんだ。それを忘れるな」
「うん」
「いつも心のどこかに置いておくんだよ」
「うん」
 風が和尚の後ろから緩く流れてきて、六太の後ろへと去っていった。六太の心は不意にざわめいた。かつてあったはずの、数限りない忘れてしまったものたちが浮かび上がって、僅かに揺れながらひとつまたひとつと増えていく。悲しいものもあった。恐ろしいものもあった。辛いものも苦しいものもあった。その全ては六太の中にあったが、そのひとつひとつを捉えることは叶わなかった。それでも、六太の中でそれは確かに息をしていた。揺れながら、仄かに明滅しながら、六太の記憶はそこに生きていた。六太は浅く、ゆっくりと息をした。浮かび上がったものたちは暫くそこに留まっていたが、やがてひとつ、またひとつと、微睡みに落ちるように沈んでいった。消えて見えなくなっていくそれを、しかし六太は悲しいとは思わなかった。見えなくなったそれは、やはり六太と共にあった。ちゃんと俺の中に戻ったのだ、と六太は思った。雨が海に消えるように、葉が土に消えるように、それは今初めて、俺の中にちゃんと戻った。
 六太は深く、息を吐いた。追いかけるように涙が溢れた。目の前の景色が、滲んでは現れ、現れては滲んでいく。ぽろぽろと溢れて落ちる雫は海の味がした。
「溶けたか」
 六太は頷いた。その動きでまた涙が零れた。和尚は頷き、六太の頭をそっと抱いた。己の中に溶けたものの大きさに、六太の体はまだ上手く馴染まなかった。ふつふつと沸き立つものは吐息となり、やがて吠えるような叫びになって迸った。自分の体の中から、その奥底から、信沙が撞く鐘の音が聞こえてくる。それは鼓動のようでもあり、潮騒のようでもあった。その振動は六太を揺すった。あやすようにさえ思われた。
「それがお前の記憶だ。お前をお前たらしめていたものだ」
 自分の嗚咽の向こう側から聞こえてくる和尚の言葉を、六太は受け止め、飲み込んだ。この奔流が何年にもわたって己が経験したはずのものだと思うと、それは極めて自然なものとして六太の腑に落ちた。ひとつ、ひとつ、六太の内に鐘の音が響く。その音の波は広がり、反響して重なり合い、徐々に穏やかになっていった。漣の揺れが六太の体を柔らかく揺さぶった。吸い込む空気の中に、淡い香の匂いが混じっているのを感じる。それは乾いた匂いがした。ひだまりのようだと六太は思った。流した涙が、吐き出した感情が、そこに吸い込まれてふっと消えていく。六太の中には確かに新しいものが立ち現れていた。それは今までの六太にはなく、更に前にはあったはずのものだった。新しいものの立ち現れた代わりに、六太は別の空虚を得た。淡いひだまりの匂いの中に息をしながら、六太は少しの間、それに与えるべき名前について考えた。いくらも経たぬうちに六太はそれを思い出した。諦めだった。
「和尚」
「うん?」
 六太は和尚から少し身を離し、その双眸を見上げた。
「もう思い出せないよ」
 ぽつりと、六太の口から言葉が零れた。見下ろす和尚の目は少し濡れているように思われた。眉間に細く皺が寄っていた。その薄い唇は僅かに開かれて、迷うようにそこで凍りついた。そして、うっすらと笑みを浮かべて閉じた。
「俺は、もう思い出せる限り思い出したよ。嬉しさも、悲しさも、寂しさも、思い出した。俺はいろいろなものを感じられるようになった。けど、それで全部だ。それで全部でいい。何があったとか、どうだっていいんだ。今あるものの全部を感じられるから……海は綺麗で、和尚は優しくて、涙は温かくて、だからもう、俺はもうこれ以上思い出せなくて、いいよ」
 そうか、とほとんどため息をつくように和尚は言った。
「焦って決めることはないよ」
 そう付け足した和尚を見て、六太はゆるゆると首を横に振った。
「いいんだ。俺がそう思ってる。俺の心が、そう思ってる」
「そうか」
 和尚はそれ以上何も言わなかった。和尚の心の中にも、六太と同じ日だまりの気配があった。六太はそれに深く納得した。あの感情の本流を抱えて微笑みを浮かべるには、それに釣り合うだけの空虚が必要なのだ……。

 * * *

 何もかもが吹き飛ぶその寸前、水面に顔が出る数センチ下のようなところを、ミイナは漂っていた。いくつかの声が聞こえた気もするし、いくつかの色が見えたような気がした。その中に何度も何度も、繰り返されるものがあった。それはミイナが遠く、深い底に仕舞いこんできたものだった。押しつぶされたそれは映像のようでもあり、静止画のようでもあり、言葉も声も音も形も色も全てが練り合わされて、一瞬のうちに駆け抜けていくのだった。
 これは何、と誰かが問うた。
 目の前には四角く縁のついた青色があった。下の方は緑に近く透き通っていて、中心に近づくにつれて紺になっていった。真ん中で青は急に切り替わって明るくなり、更に上の方には幾許かの白いものがあった。
 これは海よ、と誰かが答えた。誰かの手が紺の部分を指差した。
 ここは、と誰かが問うた。ふたまわりも小さな手が、緑色に近い部分を指差した。
 ここも海よ、と誰かが答えた。真ん中より下の部分は全部海なのよ。
 海、と誰かが繰り返した。そうよ、と誰かは応じた。
 上の部分は、とまた誰かが問うた。この真ん中より上の部分は何。
 それは空よ、とやはり誰かが答えた。その声は奇妙なまでに情緒的だった。ここから上は空。ここから下は海。空は見たことがあるでしょう。海というのは大きな大きな水たまりで、この星では陸の三倍くらいの広さがあるのよ。昔はもう少し狭かったのだけれど。
 広がったの。
 ええそうよ。昔は陸だったところを海が飲み込んでしまったの。海は自然で、自然は人が完全に制御できるものではない。それは時折、人が築き上げたものを壊し、沢山の人を殺してしまうの。つまり敵よ。自然は敵なの。だから人は、知恵を武器にして自然に立ち向かい、それが切り崩され、理解され、征服される日まで戦い続けなければならないのだわ。いつか人は、自然を思いのままにするでしょう。風は定められたように吹き、雲は定められたように流れ、雨は定められたように降り、そして止むの。知恵の加護があるなら、いつか人は、海をさえ自由に陸にすることだってできる。それも、遠くないうちにね。
 でも海は、と誰かは呟いた。海は、こんなにも綺麗なのに。
 海に行ってみたいかしら、と誰かは尋ねた。
 うん、と彼女は言った。うん。とても。小さな手は、緑から紺へとゆっくり滑らされた。その表面はつるりとしていて、少し指が引っかかるような感じもした。大きな方の手は引き下げられて見えなくなった。
 そう、と誰かは嬉しそうに言った。じゃあ貴方は海に行くといいわ。海に行って、そこで泳いで、囚われて、流されて、その美しさの中に沈むといいわ。貴方がそうすれば、人の知恵は広がる。科学は進み、人はまたひとつ全能に近付ける。貴方は大好きな海に行くだけで、その手伝いができるのよ。
 苦しいの、と彼女は問うた。震えがこみ上げてきた。海は苦しいの。
 そうかもしれないわ、と誰かは楽しそうに言った。
 苦しいのは嫌、と言った彼女の手を、誰かががっちりと掴んだ。その圧力は全身を凍りつかせるのに十分だった。思わず見上げた誰かの顔は、嬉しそうだった。まっすぐにこちらを見つめていた。笑っていた。心の底から。偽りのない嬉しさから。誰かは蕩けたような、ある種の恍惚の眼差しを彼女に注いでいた。今や全身の震えでガタガタと音がなりそうだった。見開いた目から、臨界を超えた雫が零れ落ちる。
 それが定められた貴方の仕事よ、と誰かは言った。
 陸へ、と何かが言う。陸へ。陸へ。陸へ。
 寒さと、熱と、痛みと。ミイナの中をすり抜けていくそれは恐ろしい程の圧力に押し込められ、その高圧の中でなお激しくのたうち回った。ミイナの体は最早その輪郭を感じられなかった。それは半ば海であり、海はその半ばまでミイナであるようだった。ミイナはのたうち暴れまわる何かの総体だった。そこに意志はなかった。感情もなかった。内も外もなかった。ただその中心に、いつか抱きしめたあの温もりがあった。それがミイナを辛うじて繋いでいた。そこにミイナの全てがあった。ミイナがミイナであるために必要な全てがそこにつなぎとめられていた。それを思う心が、次第に薄れて散っていく。その最後のひとかけらが、今まさに眠りに就こうとしていた。
 でも、海はあんなに綺麗なのに。
 その美しさの中に沈むといいわ。
 人には出来ることの量が決まっている。
 それは大丈夫じゃない。
 それ以上のことを無理にすると……。
 ミイナ。
 それが貴方の仕事よ。
 キオクだ。誰かが誰かであるために必要とされるものだ。
 泣いているの。
 定められた……。
 ミイナ。
 「戻りたい」。
 ミイナ。
 ああ。
 陸へ。
 陸へ……。

 * * *

 六太は飛び起きた。全身にびっしょりと汗をかいていた。部屋の中には僅かに差し込む月の光以外何も見えなかった。全てはまだ深い夜の闇の底にあった。六太の頭の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。寝直そうという気を一瞬も起こさせないような、張り詰めた感覚が六太の意識を満たし、覚醒させていた。それは、絞め殺される獣のもがきのようだった。声は聞こえないまま、姿も見えないまま、ただ確かにどこかで死にかけている獣がいる、それを感じ取っているような、ぴりぴりとした居心地の悪さと緊張だった。六太はそっと部屋を出た。ほとんど同時に誰かが廊下を曲がって姿を現した。
 信沙だった。
「信沙。変なんだ。ぴりぴりするんだ」
 落とした声で急き気味に言う六太に、信沙はひとつ頷いた。その面持ちは極めて真剣だった。同じ緊張感を抱いているのだと、六太は思った。そしてその直感は当たっていた。
「危険です」
 静かながらきっぱりと、信沙は言った。
「和尚には……」
「伝えてあります」
 どたどたと足音がしたのは和尚のものらしい。
「私は後から追いつきますから、先に鐘楼へ」
「鐘楼?」
「鐘楼へ。そこで何をすべきかは、貴方の記憶が知っている」
 冗談を言っている調子ではなかった。六太はひとつ頷くと、弾かれたように駆け出した。外には冷たく、湿った風が吹き始めていた。警鐘は強まったかと思えば弱まり、そしてまた強くなった。強くなると、それがひとつの方向から聞こえてくるのが分かった。月光は決して十分な明るさではなく、足元は決してよく見えるわけではなかった。六太はなるべく壁面に身を寄せて、できる限りの速さで崖へ上がった。上がり切る直前で一度だけ、足を掬われて転んだ。すりむいた両膝がじんじんと痛んだが、幸いにも進むのに支障はない。六太にとってはその痛みも対して気になりはしなかった。緊張は焦燥感に変わりつつあった。とにかく早く、と六太は足をどんどん前へ送った。行く手に黒々とした鐘楼の姿が見えてきた。六太はそれを通り越して、崖の淵ぎりぎりのところまで出た。海はほぼ完全な漆黒だった。僅かな波のきらめきと、轟くような音が辛うじて海を主張していた。六太は自分の中の警鐘に耳を澄ました。それは海の向かって右手の方から聞こえるように思われた。六太は警鐘が最もよく感じ取れる方向へ顔を向けた。その方向を向いていると、ほとんど寒気に近いような感覚がびりびりと全身を駆け巡った。確かに外気は冷たかった。だがそれとは確実に別物の、不安や恐怖にも似た感覚が六太にはあった。息さえ慎重にしながら、六太はその一方向をじっと見つめていた。
 その瞬間。きらりと、何かが光った気がした。
 六太の視線は反射的に、水平線近くのその一点に注がれた。その視線は刺すように鋭いものだった。揺らめく波間にまた、何かがきらりと光った。今度は確かにそれを捉えた。遠いのか弱いのか、小さく淡い光は赤を帯びていた。その輝きが、揺れながら少しずつ強まってくる。脳内の警鐘はその騒々しさを更に増す。痺れるような感覚が満ちた。六太は無意識のうちに後退り、探り当てた鐘楼の柱を左手に掴んでいた。そうでもしないと崩れ落ちてしまいそうな予感さえあった。それでも視線だけは逸らさなかった。六太はじっと、揺れる赤を見つめていた。それが遠いのでも弱いのでもなく、深いのだと気付いた時、それは急激にその明るさを強めた。ぐんぐんと水面に上がってくるらしいそれは、周囲の水を照らしながら六太の方へ接近してもいた。
 ばしゃりと、それは水面から高く跳ね上がった。
炎のようだった。炎というより、大量の火の粉が蜂のように群れをなしている、そんな風に六太には見えた。だが闇夜に浮かび上がったその姿を、六太ははっきりと知っていた。知らないはずがなかった。一瞬のうちに六太は全てを見てとっていた。大きなひれのついた足、長い髪、細く伸びた腕、そして炎の中に煌く、二つの紫。
「ミイナ……!?」
 見開かれた六太の目の前で、炎は宙返りをするように身を翻して、頭から水の中へ落ちていった。高い水しぶきと共に、鱗粉のような光がいくつか舞い上がって消えた。大きく波打つ水面のすぐ下を、尾を引く赤い光が不規則に暴れた。進んでは戻り、沈んでは浮かぶ。それはのたうち回っていた。
「ミイナ!!」
 痛々しいほど張り上げた大声は水面に阻まれた。炎は――――ミイナは、のたうち回りながら徐々に、六太のいる崖から離れていく。届かない、という確信は六太の心を一瞬にして真っ暗にした。視界の中で赤く燃えるミイナが暴れまわる。ミイナは呻きも叫びもしなかった。ただ苦しんでいた。苦しみながら、六太のもとを離れようとしていた。
「そんなのダメだ!!こっちだ!!」
 ミイナはいよいよ、水平線に近付いていった。六太の体がぎゅっとこわばった。強ばった手の中で、鐘楼の柱の角がぎりぎりと食い込んだ。
 六太は息を飲んだ。それだ、と確信した。鐘楼の中へ駆け込んだ。躊躇いはなかった。触れることのなかった滑らかな引き綱を握り締め、そして、渾身の力で引いた……。

 鐘が、鳴った。
 痺れるような厚い音の波が、壁のように押し寄せた。
 何度も、それは押し寄せ、広がり、薄れた。
 その響きはあらゆるものの動きと呼吸とを、一瞬、止めた。

 六太は、崖の淵へ走った。確かにミイナは、小さな赤い光となって漆黒の中で動きを止めていた。そして、幾度か体を引き攣らせた後、一気に崖に向かって突進してきた。六太は一瞬躊躇ってから、その輝きに背を向けて距離を取った。最早、何かを考える余裕がなかった。ただ脳裏に、ミイナの声が残っていた。
 大丈夫。
「大丈夫、絶対だ」
「六太!」
 六太は慌てて振り返った。息を切らした信沙が、暗闇の向こうから六太を見ていた。その目は必死さを湛えていた。行くなと、その目は言った。その気持ちは痛いほど六太に届いた。突風のように、恐怖が六太の中を突き抜けた。一瞬、畑や森や寺のことが、和尚と信沙の温もりが、眼差しが、声が、ほとんどひとかたまりになって行き過ぎた。それでも警鐘は鳴り止まなかった。ミイナの、声にならない絶叫が六太に届き、幾重にも幾重にも反響して犇めき合っていた。それに耐えることは出来なかった。やるしかない。六太は、ぎっと歯を食いしばった。それを信沙は、見て取った。そして頷いた。その手は、軋みそうなほどに強く握り締められた。
「行きなさい!!」
 叩きつけるようなその声の激しさに突き飛ばされるように、六太は海に向かって走り、そのへりを渾身の力で蹴った。
 六太の決して大きくない体は風を受けてもみくちゃにされた。闇の中へ吸い込まれていきながら、六太は無意識に両手を前に伸ばした。ミイナの光は薄れていった、それは海の底に向かって沈んでいっているということに違いなかった。六太はひゅっと息を吸い、目を瞑った。その瞬間、叩きつけられるような衝撃と共に全身が水の中に飲まれた。六太は目を見開いた。眩い光を放つミイナの姿が、目の前にあった。六太は必死に水を掻き、ミイナの手首を掴んだ。途端に、火に触れたような激痛が六太の手の平を焼いた。驚いた六太は一度手を離したが、もう一度掴んで今度は離さなかった。奥歯を痛いほど噛んで、掴んだその手を引き寄せた。その体は焼けるように熱かった。赤く輝くそれはぬるりとして、触れたところに激痛を走らせた。それに全身を覆われているミイナは、最早微動だにしなかった。その体は重たかった。二人は少しずつ、深淵へ沈んでいった。
「出来損ない」
 また誰かが言った。
 海に生きるために、六太は生み出された。でも六太は海になど行きたくなかった。だから海にいられなかったのだ。海を受け入れたものでなければ、海を望むものでなければ、適合することはできない。放り込まれて死ぬこともないが、そこで生きていくこともできない。だから六太は死なずにあの地蔵のもとへ流れ着いたのだ。それでも結局、水の中では無力に過ぎない。ミイナを抱えて水面に顔を出せるだけの力が、今の六太にはない。少し身を捩っただけで、ミイナに触れているところがびりびりと痛む。ミイナの肌以外に光源はなく、水面の遠ささえ分からない。
「出来損ない。海以外に行く場所などないのに」
 そうだ。海以外に行く場所などなかった。海に行くために生み出されたのだ。寺も、畑も、森も、全ては仮の住処に過ぎなかった。息が苦しくなってきた。ミイナは微動だにしなかった。その体を、六太は全身で抱きしめた。炎の中に投げ込まれたようだった。
 だったら。いっそ。このまま。
「海へ」
 最後の空気が、言葉と共に零れ出た。
 ミイナの肌が、細かい泡となって、溶けた。それはまるで抱きしめるように、六太の全身を包み込んだ。

 * * *

 日の入りの鐘を三つ、信沙は撞いた。かつて六太に、死者を呼ぶ鐘なのだと言ったことを思い出した。それは真っ赤な嘘だった。鐘の音は、信沙自身の慰めのために撞いているに過ぎなかった。
 弔いといえば弔いなのかもしれなかった。ミイナと同じように陸を望み、海の中で燃え尽きて死んでいった弥紗。信沙は彼女の無言の叫びを感じ取っていた。感じ取っていたにも拘らず、信沙は鐘楼に上がってその姿を捉えたきり、そこから一歩も動けなかった。怖かったのだ。見下ろしていた海の中で、弥紗は身を焦がしてのたうち回り、次第に擦り切れていって、そのまま消えてしまった。助けられたはずだ、と信沙は未だにそう思うことがあった。実際、六太はそれをやってのけた。ひとえに己の力不足だったとしか思えなかった。それでも死者は還らない。信沙はもう何年もの間、それを諦めようと必死に努めてきた。鐘の音を聞くことで上手く心を落ち着けてきた。それでも今、心は疲れきっていた。六太だって救えたはずだった、と信沙は考えていた。私が海に還れば良かったのだ。それなのに、どうしても海を欲することができなかった。ミイナが陸に上がったその日に、六太は海へ行ってしまった。二人はここで、並んで海を見下ろすはずだったのだ。そして私がもっと強ければ、それは今成就されていてしかるべきだった……。
疲れている、と信沙は感じた。自分の中に巣食う空虚が膨れ上がりつつあった。今崖の淵から足を滑らせれば、と考えた。上手くすると死んで楽になれるかも知れない。でもできるはずがないのだ。私にはそれだけの勇気がない。なんやかんやと理由をつけて、結局は死ねないに違いない。死ねないどころか、死のうとすらできないに違いない。信沙は海を見つめたまま苦笑した。残照を孕んだ海は美しかった。それは信沙が最も恐れてやまないもののひとつだった。唯一の触れられないものだった。
 僅かな物音がして振り返ると、ちょうど和尚が寺の方から姿を現したところだった。和尚は信沙を見つけると、少し笑った。
「ここに長居するのも珍しいな」
「寺にはやることがありません」
「まあ確かに」
 和尚は笑いながら言った。
 ミイナは――――陸に上がってからは「深稻」というのを自分の名前にした――――寺の掃除を、つまり今まで信沙が担当していた仕事を好んだ。信沙はそれを知ると、自分は畑と森の手入れに回った。和尚は何も言わなかった。それで寺の生活が回るなら何も問題はなかったのだ。そして今のところ本当に、寺の生活には何の支障も出なかった。信沙が決して頑丈な方ではなかった分、今までよりも少し時間はかかったが、やり方はむしろ丁寧で繊細になった。
「少し痩せたな」
「そうでしょうか」
「疲れているよ。今にも総武線に飛び込みそうな顔だ」
 くすくすと、半分は愛想笑いも含めて信沙は笑った。総武線に飛び込みそうな顔というのは、和尚が好んで使う言い回しだった。深稻が以前、海にいた頃は電車に暮らしていたと言っていた。それがどんな感覚なのかは聞かなかったが、きっと寺の方が快適だろう、とは思ったのを覚えている。信沙は寺に来る以前の一切が思い出せない。海の中の様子も、印象と呼ぶべきごく小さな断片が残っているかいないか、という程度だった。どこに何があってどうだったかなど、具体的には何一つ思い出せない。
六太はどこにいるのだろう、と信沙は不意に思った。
 深稻と入れ違いに海に行った時に、それまでの記憶は全て無くしてしまっているはずだった。この寺の位置すら、覚えているかどうか分からない。六太はあれきり、この近辺に姿を見せていなかった。それどころか、上手く適合したのかどうかすらはっきりとはしなかった。既に海底に沈んでいる可能性も、燃え尽きている可能性も、無くはなかった。その不安は常に信沙と共にあった。だからそれもまとめて、信沙は鐘の音の奥底に仕舞いこもうとしていたのだ。だがその試みは、今のところ上手くいきそうにはなかった。仕舞おうとしたものはあまりにも多すぎて、何度鐘を撞いても足りそうになかった。
 信沙は深いため息をついた。夏の空の色をした瞳が恋しかった。
「大丈夫だよ」
 和尚は言い、信沙は頷いた。形だけの同意だった。和尚はそれきりふっと黙り込んだ。深稻が拵えているらしい夕飯の匂いがほんの微かに漂ってきた。ほんの少し気が滅入った。重たい感情は今にも溢れ出さんばかりだった。諦観という空虚の中に仕舞いきれなくなった時、その重さは信沙を崖から落とし、海の中へ投げ込むだろうと思われた。そしてそこには誰もいないという気もした。和尚も深稻も、六太も、弥紗も、そこにはいない。投げ込まれた私にできるのは、と信沙は思った。投げ込まれた私にできるのは、ただ己の重さに従って沈んでいくことだけだ。海に適合する可能性がない私は、海に多くを奪われた私は、海から逃げ続けた私は、最後に海に殺される。陸での生を全うできる気はしない。この生が燃え尽きるより先に、感情は溢れるだろう。そして己の嫌い続けた海に殺されて、その深淵に飲み込まれて、真っ暗な海底で一生を終える。
 ああ、と小さく嘆息した。
 水平線に溶けてしまえたら素敵だろう、と信沙は思った。
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

蛇神様暴走奇譚

 大学から帰ってきたら部屋に下半身蛇の黒髪和服美少女がいた。
「――えぇーッ!? なっ、えっ、ラミアえぇーっ!!?」
「やあやあ失敬失敬! 私は見ての通り神である! 君に頼みがあってここに来た次第!」
「う、嘘だぁー! どっちかっていうと悪魔でしょうその見かけは!」
「何を言う! 蛇はすごいぞ! エデンの園にもいるんだから蛇は!」
「それ悪魔じゃないですか!」
「あくまで『一説によれば』の話だ! 悪魔とは断言されていない!」
「そもそもあなたいかにも和風ファンタジックな格好してるのに、どうして出てくる例が聖書なんですか! もっとあるでしょ白蛇とか!」
「そりゃだって、下手に日本から例を直接引っ張ってきたら私の真名がバレちゃうかもしれないじゃないか」
「え、真名がバレるとよくないんですか?」
「いや、知らないけどゲームでそう書いてあったから」
「現実とゲームをごっちゃにする神様がどこにいるんですか!」
「あ、ちなみに私の名は清姫ではない」
「分かったからちょっと自重してください!!」
 叫び疲れて息を切らす僕を見て、蛇美少女は「ふむ」と呟きとぐろを巻いた。
「まあ、お遊びはこの辺にして本題といこうか」
「その前に状況を整理させてください……こっちは『部屋に下半身蛇の黒髪黒髪和服美少女がいる』の段階で情報処理が止まってるんですよ」
「なんと無能な。しょうがない、エデンの園の蛇は別に悪魔と断言されているわけではないという情報を処理するまでは待ってやろう」
「それは別に情報処理のフィルターにかけてないです」
「分かった、ならば言おう!! このままではもうすぐ彗星が日本に落ちて未曽有の大災害が起きる!!!!!」
「えぇぇぇーっ!!? なんっ、えー!? どっかで見た設定!!?」
「落ちる場所は私への信仰が厚い土地なんだ。私は信仰に報いなければならない」
「何勝手に話進めてるんですか! 待ってくださいってば!」
「世間は君の母親ではないっ! 君の理解をいつまでも待ったりはせんのだ!」
「いやあなた僕にお願いをしに来てるんですよね!?」
「うむ。すまん、言ってみたかっただけだ。こうした形で人の前に現れるなど初めてでな」
 この神様、日本のサブカルチャーに染まりすぎじゃないだろうか。
「それで、あなたは……えっと、とりあえず名前……いや、なんて呼べばいいですか?」
「おっ、私の名か? 知りたいか? 私の名を? 私の名が?」
「はい。僕の名前は米山敦ですのであなたが尋ねる必要はないです」
「なんだつまらん」
「これ以上際どいラインで反復横跳びするのはやめてください……」
「私の名は……そうだな。美沙とでも呼ぶがいい」
「はあ。美沙さん」
 なんだか知ってる人が聞けば真名が即バレしそうな仮名だけどいいんだろうか。と思ったものの、本人が忘れた設定にまで付き合ってられないので黙っておくことにする。
 さて、とりあえず何を聞くべきか……。今のところ何から何まで全部意味不明だ。
「そもそも、その彗星が落下して災害とかいうのは、本当なんですか? 地球に彗星が接近中なんて話は聞きませんけど」
「未確認の彗星はまだまだ無数にあるんだぞ少年。宇宙の広さをなめるなよ」
「でも、さすがにもうすぐ落下するレベルで地球に接近するような彗星なら発見されて然るべきでは……申し訳ないですけど、すんなりとは……」
「いやいや来るんだって本当に近々! 確認できないほど遠い宇宙の果てから、こう、すごい速度でばびゅーんと! 神様パワーで分かったんだよ!」
「う、嘘くさぁ……というか、太陽系の軌道上にないんじゃそもそも彗星とは呼べないのでは……」
「もー細かい奴だな理系男子か君は! 後で彗星になるんだよ! 神を信じろ! むしろ信仰しろ!」
「いや信仰はしませんけど……まあ、信じないと話が進まないので、とりあえずそれが本当としますよ。でも、僕に何ができるって言うんですか? 正直な話、それこそ神様パワーとやらで何とかすればいいじゃないですか」
「む……君、さてはバカにしてるだろ神様パワー。なめるなよ神のパワーを。日本語で言うと神力だぞ」
「最初から日本語で言ってください」
「むぐぐ。反応も淡白になってきたし、真面目にやるか」
「…………」
「当然、私も最初は自力で何とかしようとしたんだ。彗星が落ちると分かったその日から、鍛錬を始めた。日々のランニングや腕立て伏せはもちろん、この私の身ひとつで彗星を受け止めることを想定し、試しに総武線の電車を真正面から止めてみたりもした……」
「な、なんてはた迷惑な……」
「平日くらい人が多くないとごまかせそうになかったから、これは週5でしかできなかったがな」
「多っ! やっぱり悪魔だこの人!」
「何を言う。君たちはいつも学校行きたくないとか会社行きたくないとかぼやいてるじゃないか。感謝されたっていい。むしろ信仰してくれ」
「しませんよ信仰は!」
「まあ、そんな激しい鍛錬虚しく……ある日私は、このような鍛錬が無駄だと悟ったのだ。なぜか分かるか?」
「むしろ、なぜ始める前に気づかなかったんだって思いますけど」
「違うっ、私に足りないものは何だったか? それは筋力でも度胸でも愛嬌でもない! 信仰だ! 神は信仰によって力を得る。つまり信仰がなければ神は無力だ! 科学に信仰を奪われ弱った平成日本神様連中にはせいぜい電車をちょっと止める程度の能力しか残っていない!」
「はぁ……」
 僕は力説する美沙さんの言葉を聞き流し、せっかくの信仰を電車止めで浪費されている村の人々に想いを馳せた。
「そこで、君に協力を頼みたい!」
「へ?」
「私を信仰せよ少年!!」
 びしっとサムズアップしてドヤ顔をする神様を信仰したいかどうか、という話をするとまた面倒なことになるので、ひとまずそれは置いておくとしよう。
「……まあ、別にそれはいいとしても、僕一人の力でなんとかなるもんなんですか?」
「自惚れるな小僧! 君の信仰ひとつで彗星止められると思うなよ! 人の儚さをなめるな!」
 なぜ僕が怒られているのか。
「ま、とにかくだ。話は単純。できるだけ多くの人間に私を布教するのだ少年」
「えぇー、嫌です……」
「なんでぇ?」
「だってそれ完全にカルトの類じゃないですか……」
「なに、信仰といってもそんな大層なことはない。ただ私を想ってくれればいいのだ。どんな形でもいい。祈願、感謝、畏怖、友好、興味、愛、それらすべては私の力となる。つまり君は、こんな話があるのだと私のことを触れ回ってもらえればいい」
「なるほど。なんとなく分かってきました。それくらいなら確かに、人間関係を崩すことなくやれそうですね」
「うむうむ。ではやってくれるな?」
「僕は、別にいいですよ。でも、やっぱりなぜ僕なのか腑に落ちないです。僕なんてろくに友達もいないし親類も少ない、美沙さんの布教には役立てそうにないと思うんですけど」



「ほほーう?」
 美沙さんの目が悪戯っぽく光る。
「な、何ですかその思わせぶりな態度は」
「布教に役立てそうにない、ねえ。本気でそう思っているのかい少年」
「そ、そりゃそうですよ。僕より顔の広い人くらいたくさんいるじゃないですか」
「ふっ、とぼけても無駄だよ少年。君も感づいているだろう。なぜ私が君のところに来たのか」
「さ、さあ……見当もつきませんよ」
「ほう、ほう。私の姿を目の当たりにしたときの君の顔、写真に収めておけばよかったか?」
「ぐっ、ぐ……何のことだか」
 鎌をかけているだけ。そう自分に言い聞かせるけど、彼女の目を直視できない。
「私はもう知っているのだよ、米山君。君がどういう人間で……何を好み……何を趣味としているのか」
 そんなはずはないんだ……。
 僕の秘密を、僕の表と裏の顔の両方を知っている人間なんて、この世に数えるほどしか……!


「そうっ、君は知る人ぞ知る人外フェチの若き人気同人作家!! ロールミー伊賀橋!!」

「ちっがぁぁぁう!! なんですかその一昔前のお笑い芸人みたいな名前! らいちですよ、加藤らいちっ!!」
「ふっ」
「――はっ!!?」
 し、しまった、よもや自分からバラしてしまうとは……! これまで幾度となく垢バレの危機を回避してきた僕が、まさかこんな簡単な引っかけに……!
「し、しかしどこでそれを……! 米山敦イコール加藤らいちであることは、僕の親友数人程度しか知らないはずなのに」
「神様はすごいので何でも知っているのだ」
「何ですかその理屈! 日本の神様はそういう全知全能な感じじゃないでしょ!?」
「細かいことはいいだろう米山君、いやらいち先生。さあ、もう分かったんじゃないか? 己のすべきことが」
「いやそれは全然分かんないです」
 それを聞くや否や美沙さんは上半身を一気に僕に近づけてきた。そして、がしっと肩を掴まれ――


「描くんだよっ、私の同人誌を!!!」


「え、えぇーーーー……?」
「なんだその反応」
「いや、突拍子がなさすぎますよ……僕があなたの同人誌を描くって、それがいったい何になるっていうんですか」
「鈍いなあ君は。言っただろう。信仰とは相手を想うこと。その想いは、どんな形でもいい……そう、どんな邪な形でも」
「そ、それって、もしかすると……」
「つまりそういうことだ。君の同人誌が売れる。すると私に対する、まあ、アレな想いが集まる。それが私の力となり、彗星を止められる。どうだ、完璧な作戦だろう」
「力の源がアホらしすぎてアホらしい作戦としか思えないです……」
「ふんっ、まあ理解せずとも構わんさ。ともかく君は近日、即売会で本を出すのだろう。そして目下ネーム制作中だ」
「そ、そうですよっ。今回描くのはケンタウロスって決めてるし、ツイッターでも進捗状況を上げてて、僕の本を楽しみにしてくれている人がいる! 同人作家の誇りにかけて、自分が描きたいと思ったものは曲げられません!」
「貴様ァ人々の命を秤にかけても同じことが言えるのか!」
「だ、だからっ……僕じゃなくたって、そんなの国の偉い人に頼めばいいでしょう! 下半身蛇なんだからきっと信じてくれますよ!」
「そんな回りくどいことしている時間はない!」
「どー考えたって僕が即売会であなたの本出す方がよっぽど回りくどいですよ!!」
「だぁって国家権力を介入させるんじゃ私が村を救ったことにならないじゃないか!」
「なんですかそれ! 結局ただのヒーロー願望ですか!?」

「――それは違うッ!!」
 今日一番の真剣な声で叫ばれ、僕はつい押し黙った。
「私にはあの村の人々を救う義務があるんだ! 科学がこの世を支配し、森にも村にも灰色の線が引かれ、行き場を失った私を、それでもなお信じてくれている人がいる! 私は彼らをこの手で守りたい、いやっ! 守らなければ、今度こそ私は神とは名乗れない!」
 僕は、何も言えなかった。
 (強引にシリアスな展開へ持っていったもんだから合わせるべきか軌道修正すべきか悩んでいたのもあるけど、)長年生きてきた神様の苦しみは僕なんかには到底想像もつかなくて、どんな言葉をかけるべきか分からなくなってしまったのだ。
「……だんまりか。まだ、悩んでいるのだな」
「ええ、まあ……」
 そんな悲しい顔をしないでほしい。まるで僕が悪役みたいじゃないか。突然押しかけられ、わけのわからないお願いをされて、泣きたいのは僕の方なのに。僕は一体、どうすればいいっていうんだ。
「じゃあ仕方ない、か」
 しかし美沙さんは、意外なくらい早く折れた



「こうしようじゃないか少年!!」


 わけがなかった。
「君が私を描いてくれるなら、その見返りとして私は君に『ネタ』を提供しよう!!!」
「この加藤らいち全身全霊を以てして貴女様を描かせていただきます!!!!!」



 米山敦21歳。ペンネーム加藤らいち。彼女いない歴イコール年齢。コミケ三日目に参加してる系男子。「ネタ提供」の誘惑に勝てるはずもなく即堕ち。
 村ひとつ分の命がかかった一大作戦が今、幕を開ける――。


* * *


「――で、だな。ここで私が『どうしてほしいのか言ってごらん』と言うんだ。ここで大事なのが私の表情! 蠱惑的な笑みで主人公を挑発する私! ここで読者のスイッチを入れるのだ!」
「いやここは蠱惑的っていうより嘲笑を浮かべた方がよくないですか。ていうか、そっちの方がいいです」
「なにを言う。それではただの意地悪おばさんじゃないか。私はそんな神ではない」
「あなたが意地悪じゃないかどうかはさておいて、僕はそっちの方が好きなのでそっちで書きます」
「いいや、ならん。私はネタを提供すると約束したのだから、こうもことごとく提案を断られては立つ瀬がない」
「…………」
 まあ、そんなことだろうと。
 そんなことだろうと、思ってたけど。



「でもネタ提供って言ったらさァー!! そういうんじゃないでしょ!! 女性が同人誌のネタを提供してくれるっていったらァー!!」
「なんだいきなり」
「もっとこう、あるでしょう! 直接的なネタ提供が! 僕のQOLを飛躍的に上げてくれるネタ提供の形が!!」
「何を言っている。同人誌の読みすぎで頭が沸いたか小僧」
「同人作家だもの!! いいじゃないのそんな妄想したって!!」
「ああ、いいだろう好きに妄想するといい。しかし今後その妄想が現実になることは百割無いとここで断言しておこう」
「ひどぅい……彗星落下を無事に防げたらご褒美とかそういう展開はないんですか」
「考えてやってもいいぞ。だから早くペンを動かすんだ」
「分かりましたよまったくもう……」
 電話しながらの作業は何度もしている僕だけど、さすがに真横に女性がいる環境で、しかもその女性が登場する漫画を描くのは初めてで、ろくに集中ができない。そんな僕の心境も知らず、美沙さんは僕の肩に顎を乗せて原稿を覗いている。重っ。この人重っ。
「今描いているこれが紙に写され、何万冊もの本になるんだろう? すごいなあ現代は」
「まあ、うちはさすがに何万も刷ってられませんけど……」
「なに? 人気サークルは何万単位が普通なのではないのか?」
「人気って一口に言ってもいろいろあるんですよ。ピンからキリまでごった返してるのが同人イベントの醍醐味ですから。うちは、そうですね、今回は2000部ってとこですか」
「にせん……ぐむむ、意外と少ないな」
「オリジナル、しかもニッチなジャンルですし、これでも相当頑張ってる方ですよ」
「ふむ。とはいえ、せめてもう少しほしいな」
「あ、いいこと思いつきましたよ美沙さん」
「ん。なんだ?」
「美沙さんが売り子すればきっともっと売れるんじゃないですか? 下半身蛇ですし」
「ッ!? ばっ、馬鹿者ォォー!!」
「ぶぇっ!?」
 なぜか僕は美沙さんから殴られた。グーで。顔を。
「何するんですか!!」
「さらっと恐ろしいこと抜かすな! そんな大勢の前に姿を晒す神がどこにいる!」
「でもこのご時世、コスプレってことでごまかせるんじゃ」
「限度があるだろ! 人間さすがにそこまで思考停止して生きてないと思うぞ! 頼むぞ米山君、君がボケたら私はどうすればいいんだ!」
「いやいたって真面目な提案だったんですけど……」
「君ってやつは……。いいかい、よしんばコスプレで奇跡的にごまかせるとしても、それは不可能だよ」
「どうしてですか?」
「本来この世というものは、あの世とは無関係で、一切の干渉を受けない。それは君にも分かるな?」
「ええ、まあ」
 基本的に死んだ人は生きている人に何もできない。当たり前のことだ。
「神や妖怪など、この世の向こう側にいる者は、現世への干渉力をもつ。まあ、この世界をどれだけ変えられるか、という力だと思っていればいい。この力は、本人の自力や信仰の多寡、そして状況により大きく変動する」
「状況っていうのは?」
「古びた廃病院には霊がよく出るとか、神社で願い事をすれば叶いやすいとかが典型例だな。その場所に縁があれば力を出しやすい。まあこれも想像がつくな?」
「そうですね」
「ここからが重要だ。この干渉力、基本的には人が多ければ多いほど減少する。あの世の向こう側としての『この世』というのは、人の営みそのもの。この世があの世の干渉を受けない力、いわば非干渉力は、人の数によって決まるのだ」
「えっと……世界の非干渉力が人の数で……でもそれって、単に世界人口の問題じゃないんですよね?」
「もちろん。この世とこの世の境界線は、ある意味でこの世とあの世の境界線より掴みにくいし、またある意味で前者と後者は全く同じともいえる。こればっかりは私にも説明できないが、とにかくそのイベント会場くらいは『ひとつのこの世』としてくくることができるし、当然その人が密集した『この世』において私は姿を見せることさえできない」
「なんか、難しい話ですね……理解できたようなできてないような」
「ああ。まあ、これは誰かさんの脳内設定を垂れ流しているだけなので軽く流してもらって構わない」
「言うのが遅いですよ……っていうか、どこ見てるんですか。それ誰に向かって言ってるんですか」
「この設定が気になったのであれば、また次の物語に乞うご期待! というやつだな」
「ちょっと? 美沙さんっ?」
「ええい私のことはいいから君は絵を描きたまえよ。君が描き終わるまで私はここを動かないからな」
「なに鬼編集者みたいなこと言ってるんですか。だいたい無茶ですよ。まだネーム段階です。書き上がるまでは早くても2週間はかかりますよ」
「なんだつまらん。あ、そこもう少し胸をドアップで描いた方がいいのではないか」
「嫌です、ここは胸よりも表情で魅せます。ま、何だって作業の段階はつまらないものですよ。ですから、とりあえず今日のところは帰ってください」
「何を言う。私は村の命を預かってるんだ。君がきっちり約束を果たすか、この目で最後まで見届ける義務がある。いやそこは絶対顔のカットインが必要だろう」
「いーえ。身体の動きで十分表情ついてますから、ここは読者の想像に任せた方がいいんです。……ちゃんとやりますよ。さすがに僕もそこまで薄情じゃないです」
「どうかな。む、そこのセリフは――」
「だぁーっ!! いちいち横槍入れてくるから帰ってくださいって言ってるんですよ!! 同人誌を描くときは誰にも邪魔されず自由で救われてなきゃいけないんです!」
「使い古されたパロネタは黒歴史の温床になるぞ」
「そ、それ以上いけない!」
「どれ、暇だから唐突に君の黒歴史でも漁るか」
「そんなものないですよ! やめてください!」
「神様はすごいので、君の引き出しの下から二番目には中学時代書いてなんとなく取っておいてあるポエムが封印されていることもお見通しである」
「この邪神め!! お帰りください! お帰りください!!」
「やめろやめろ、神に向かって塩を撒くな。分かったよ、今日のところは退散しようじゃないか。また来るからな。くれぐれもサボるんじゃないぞ」
 「ばいびぃ」と言い残すと美沙さんは一瞬で消え失せてしまった。何から何までテンポの速い人だ。一方で僕は生まれて初めて盛り塩の力を実感し、ゆっくりと塩に感謝を捧げたのだった。


* * *


 一ヶ月。僕は日夜美沙さんの同人誌作りに励んだ。その一ヶ月間は、涙なしには見られないシーンの連続であった。ある時は喧嘩し、またある時は友情を深め合い、そしてやはり総武線は週5で止まった。
 とはいえ、それをいちいち書いていてはキリがないので割愛させていただく。なお、泣けるシーンの大半は美沙さんがふざけて洒落にならないことをやらかすという展開で成り立っている。
 ひとつ見どころを紹介するならば、あのシーンだ。
 自分の思い通りに描こうとしない僕に業を煮やした美沙さんが、何を血迷ったか「ええい貸したまえ」と尻尾でパソコンを取り上げた。そしたら勢い余ってパソコンが彼女の尻尾からスポーンと抜け出し、窓をぶち破って闇夜へダイヴしたのだった。あのときばかりは、さしもの僕も般若の如き怒りで心が染め上げられた。だけど、あの美沙さんが泣きながら「ごめんよう」と平謝りするもんだからさすがに許さざるをえず、大事にならずに済んだのだった。ちなみにパソコンは神様パワーにより無事復旧した。


 まあ、今となっては良き思い出のひとつだ。



「よぉーし入稿ぉーっ!!」
「いえーぱちぱち!」

 ――無事入稿を終えた今となっては!
 12月24日午前9時半、我々は成し遂げたのである!!
「お疲れ様らいち先生! いやはや一時はダメかと思ったが、なんとかなったな!」
 美沙さんが巨大な胴体を上機嫌に揺らしながらはしゃぐ。床がミシミシいってる。やめて。今脳揺らすとヤバいからやめて。空の栄養ドリンクがいくつか床に落ちてしまったけど、今は拾い上げる気力すらない。
「ま、伊達に壁サークルやってませんよ……」
 波打つ蛇部分を速やかにまたいで渡り、僕はベッドにもぐりこんだ。
「この完成品はいつ届くんだ? 早く見てみたいな」
「直接搬入……イベント会場に直接届けられるので、ここには来ないです」
「なにぃ。それは困ったな。実に参った。まいっちんぐみさこ先生。せっかくの私の同人誌だ、どうにかして私も見られないか?」
「自分用にちゃんと数部は取っとくので、イベント終わったら見てみればいいんじゃないですか……」
「うーん待ちきれないぞ。そうだ、やはり私も会場に行こうか。なに、心配はいらんぞ、人の姿に化けていけば問題はない。知っているか少年、人の姿に近ければ近いほど現世への干渉力は強まるんだ」
「知らないですけど……美沙さん、テンション高いっすねぇ……」
「そりゃあもうバブル景気のように高いぞ。どれ、お祝いにこの前供えられていた酒でも飲むか? あれは美味いぞー、私の一等好きな酒だ」
「堪忍してつかぁさい……僕はもう寝ます」
「何を言う、神の御前で眠るのは御法度と相場が決まっているのだ。目覚めよ少年! まだ戦いは始まったばかりだ!」

「…………」
「寝るの早いな君ぃ! 私の上がりに上がったテンションの行き場がないじゃないか!」
「…………」
「……ふむ。ま、これだけ頑張ったのだ。許してやろう」
「…………」
「おつかれさま、敦君」
 意識の底で、彼女が僕の額に軽く触れたのが分かった。


* * *


 女性と半分同棲している状況だからといってクリスマス・イベントなどあるわけがない。なぜなら僕らの本当の聖戦はその後にあるからだ。僕ら陰の者は、いかにイルミネーションや街を歩くカップル達が眩しく映っても動じない。なぜなら、僕らには僕らのエデンがあると知っているからだ。
 そう、僕らは孤独じゃない。悔しくなんかない。


「米山君、性の六時間が始まったな」
 悔しくなんかないやい!!


「へ、へぇーそうですか……まあ、僕らには関係のない話ですよね? クリスマスなんかで浮かれてたらこの先生きのこれませんよ」
「え、勝手に君と同類扱いしないでくれるか?」
「辛辣っ!! でもあなた日本の神様なんだし、どっちみちクリスマスなんて関係ないでしょ!!」
「いや、日本のいわゆるクリスマスは別にキリストの生誕を祝うイベントではないと思うのだが……」
「うわァー正論!!」
 この人ときたら相変わらずろくなことを言わない。
 分かっているさ、分かっている。僕ら陰の者は光を求めてやまないのだ。でも、陰には陰の生き方があると虚勢を張って、なんとかごまかしごまかし生きているんだ。虚勢は男の生きる道だって光の者代表も言ってたし。
「めっちゃ気にしてるじゃないか。大丈夫? 鱗触る?」
「触ります……」
「え、本当に触るのか」
「もちろんです」
「あっちょっと、おい」
 有無を言わさず触りだす。男子たるもの、女子の身体に触れるチャンスを逃したりはしないのである。健やかなる女性の皆さん、男に対してこういう冗談を言ってはいけません。男は阿呆ばかりなので真に受けます。もし真に受けてしまった男が眼前に迫っている場合、冷静に引っぱたいてあげましょう。判断が遅れるとこうなるので気をつけましょう。人生初見殺しのQTEばかりです。世知辛いね。
「まー、別にいいんだが……君はそれで満足なのかい」
「何言ってるんですか、女の子の鱗ですよ。満ち足りますよそりゃあ」
「確かに私の鱗には違いないが、そこはほぼ蛇だぞ。ただの蛇の鱗だぞ」
「はぁーこのツヤツヤ感……弾力……筋肉……パーフェクト」
「うっわ気持ち悪ぅ。絵面が完全に性犯罪のそれだぞ」
「蛇の鱗触ってるだけなのでセーフ」
「見事なダブルスタンダードだ」
 美沙さんの冷めた目をかわしつつ存分に鱗を触る。これが天からのクリスマスプレゼントなのだとしたら僕は今日この日生まれた神の子に感謝を捧げよう。サンキュージーザス。
 蛇娘の魅力は、なんといってもこの筋肉の引き締まった胴体。ツルツルの鱗を触ってもよし、柔らかい腹を触ってもよし、またはあえて人部分に触れてみるもよし、一人で三度おいしい無敵カワイイモンスター。人外界隈ではお約束のフレーズ「ロールミー」が生まれたのも彼女たちがいればこそ。さあロールミー! 僕に巻き付いて! あ、思ったより人外要素が薄いからって急にテコ入れを始めたということに気づいてしまった勘のいい諸君はあの頃の純粋な君に戻ってくれ。
「私の高貴な身体を触らせてやったんだ、即売会の時は頼むぞ。きっと完売してくれよ」
「ええ。任せてください」
 本当は書店委託分も合わせて刷ってるから完売なんて想定していないが、日本男子はそんなロマンのない突っ込みはしないのだ。決して鱗惜しさにごまかしているわけではない。
「おや、米山君。雪が降ってきたぞ。こういうの、ホワイト・クリスマスと言うのだろう?」
「そうですよ。なんだかホワイト・クリスマスっていいですよね。映えるっていうか、ロマンチックで。僕は好きです」
「私の身体にしがみついてロマンチックの欠片もない変態が何か言ってるな」
「手厳しィー!」


* * *


 そして、12月31日。きたる某同人誌即売会。
 いきなり同人誌の内容を変えたことで多少のブーイングはあったけれど、さすがに炎上というほどの騒ぎにはならなかった。新刊も無事届いた。体調も万全。売り子さんも揃ってる。他の作家さんへの挨拶回りも済んだ。あとは開場を待つのみ。
 ただ、ひとつ問題があるとすれば。

「うおー本当に本になっている! すごいなあ、これが文明というやつか! うーむ実に煽情的! これなら信仰もたくさん――あっ、ええと、たくさんの人が気に入ってくれるだろうな、らいち先生! 大義であった――いやお疲れさまでした!」

 本当に美沙さん(人の姿)がついてきてしまったことだ。
 彼女は今、一人で勝手に新刊を読んでいる。何か仕事を任せているわけではないので、それでいいんだけど。むしろ最後までそうしてくれていたら助かる。彼女には悪いが、彼女が手伝いなんてし始めたら列がいつまで経っても進まなくなってしまう。
 断るつもりだった。ただでさえ狭いスペースで売るのに、その中で人ひとり遊ばせるなんて本来もってのほかだ。でも僕は所詮陰の者。美少女から甘い声でお願いされたらそんなもん即陥落するしかない。
 その結果、売ってる最中にちょっかいは出さない、神であることは隠しておく、という最低限の内容を条件にして、彼女をこの会場に連れてきてしまったのである。
「さも当然のごとく使ってるが、その『陰の者』とかいう恥ずかしい表現は一体全体何なんだ? 要はただの日陰者だろうに」
「それは言わないで!! というかあなたこそ何当たり前のように人の心読んでるんですか!?」
「神様はすごいので――あっ、ちがくて、き、君のことは何でもお見通しなんだぞっ☆」
「うわキツ」
「は?」
「キツネ」
「は?」
「ごめんなさい」
「許す」
 この神様、ごまかすの下っ手ぁ……大丈夫かな本当に。
「らいちさん。あの子は一体……?」
 売り子さんの一人に聞かれて内心ドキッとする。そういえば考えてなかった。えーとえーと居候――はちょっと世間体的に問題あるからえっとー、
「い、妹です。こういうイベントに興味あるみたいで、どうしても一度見てみたいって言うので……」
「へぇー、らいちさん妹いたんですね。勝ち組じゃないですかーやだー!」
「い、いやいやそんな。わがままで傍若無人で、全然勝ち組とかじゃ」
「それマジで普通にどっかのキャラでいそうな感じじゃないですか! しかもめっちゃ可愛いし!」
「いやぁははは……」
「おっ。さては私、今褒められてるな? 神様じゃないけどお見通しだぞ?」
「美沙はちょっと黙ってよっか……」
「む、仮名とはいえ神を呼び捨てとは――あっいやぁー、うん、ごめんよ兄者。ん? お兄ちゃん? 兄上?」
 やめてェ! ただでさえ独特な口調で怪しまれそうなところを、「あーまあ中高生のオタクってあんな感じで好きなキャラの口調まねて黒歴史作るよね(苦笑)」みたいな感じの雰囲気でなんとかごまかしてるのに、これ以上不信レベル高めないで!
「でも、なんか……新刊のヒロイン、なんとなく妹さんに似てません?」
「ヘェッ!?」
 まずい! これはまずい! そうだよ妹ってことにしたらまるで僕がリアル妹に性的な欲望を向けてるリアルヤバい人みたいじゃないか! 三次元はまずい! 我々誇り高き陰の者は二次元と三次元をしっかり区別して健全なる青少年の育成を見守っております!
「えっとぉー……いや、まあ、ね? 人生で一番見てる女性の顔は妹なんで……ある程度似てるキャラデザができるのもしょうがないかな? みたいな?」
「……らいち先生。別に、正直に言ってもいいんですよ? ここには紳士しかいませんから」
「いやっ、ほんと違いますって! そういうんじゃないんです! やめてそんな温かい目で見ないで! いやァ!」
 僕の風評被害が他の売り子さんへ隣のサークルさんへ、さざ波のように広がっていく。誰か止めてこの流れ! 僕は人外っ娘にしか興味がないということを思い出して皆ぁ! いや確かに美沙さんは人外っ娘だけども!
「お、なんだか外の方が盛り上がってきたな」
「嘘っもう開場!? あっ本当だ拍手起きてる! 美沙さん再三言っておきますけど売ってる最中だけはふざけないように! 列をスムーズに解消しないと僕ら怒られちゃうので!」
「分かってる、分かってる」
 そうこう言っている間に、人の波がこちらへ押し寄せてくる。この光景、何度見ても圧巻だ。さしもの美沙さんもここまでの人だかりは見たことがないのか、「おおー」と感嘆の声を漏らした。
 しかし、美沙さんを気にしていられたのもここまで。すぐに列ができて大わらわだ。僕はいつものように、しばらくの間「新刊500円です」「ありがとうございます」を言う機械と化した。
 なお、美沙さんは買っていく人たちに「じっくり読みたまえよ!」とか「ありがたく受け取るのだぞ!」とかいらないことを言っていたが、それに構っている暇はなかった。幸いにして不快感を露わにしていた人はいなかったのでよしとする。


「らいち先生らいち先生!」
 ようやく落ち着いてきた、というところで、にわかに美沙さんがはしゃぎだした。そして、僕に耳打ちをしてきた。
「早くも信仰が集まってきている! もう読んでるせっかちな奴がいるんだな!」
「あー、そういう人も一定数いますね。でもよかったですよ、狙い通り集まってるみたいで」
「そうだな、本当によかった。この調子で集まるならば彗星を止められる……!」
「そういえば、決行はいつか決めてるんですか? 美沙さんの話が正しければ、まだ観測が難しいほど遠くなんですよね」
「わざわざ地球に近づいてくるのを待つことはない。決行の時間は明日の午前1時だ!」
「ず、ずいぶん急ですねっ? そうだったんですか?」
「ああ。信仰は風化が早い。読者の私への想いは新鮮であればあるほど強い……というのもあるし、理由はもうひとつある」
「ん、何ですか?」
「気づかないか少年。明日は何日だ? どんなイベントがある?」
「え……あっ!」
「そう。初詣だ。おそらく一年の内で最も信仰の力が高まる日。最近は年明けの瞬間を狙って初詣に行く参拝者も多い。この二つの層からの信仰が最大限生かせる時間、それが午前1時だと私は踏んだ! よってこの作戦をマルヒト作戦と名付ける!!」
「いや名付けなくていいですけど……僕は何か、その時間にできることはあるんですか? たぶん、打ち上げで疲れてクタクタになってると思いますけど」


「何を言う。君も来るんだぞ」


「へ?」
「神に近ければ近いほど、その信仰の力は増すんだ。神社で願うと御利益が増すというのと同じ原理だな。分かるだろう?」
「まあ、理屈は。ん?」
「だから、君は私の側にいて、私を想ってくれ。私のために祈ってくれ」
「僕が、彗星を止める美沙さんについていく」
「うむ」
「宇宙へ?」
「宇宙へ」
「…………」
「らいち、宇宙へ」



「――っうぇえええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!??」
「頼む、協力してくれ。そうでないと困る」
「やだぁーやだぁー!! スプートニク2号には乗りたくないよぉ!!」
「それはライカだ!! 日本の神様にこんなグローバルな突っ込みを求めるんじゃない!」
「せ、先生? どうしたんですかそんな大声出して」
「あぁーいやー何でもないです何でも! いやっ何でもある?! 何でもない!? 気にしないでください!?」
「いやマジで大丈夫ですか!! 大丈夫じゃないでしょ!! ちょっとスタッフさん呼んできますね!」
「大丈夫です! ホント大丈夫ですから! ほらこの通りピンピン! マッスル! ブートキャンプだってできちゃう!」
「ああぁぁあぁらいち先生が本格的にヤバいことに!!!」
「だいじょーーーぶ!!! 皆さんステイヒアプリーズ! も、もう落ち着きました! ちょっと頭が混乱していただけですので! はい、皆さん即売会終了まであと少しですが頑張っていきましょー!」
 ととととととにかく、まずは即売会。手伝ってくれてる皆さんのためにも、一般参加者さんのためにも、もちろん美沙さんのためにも、やり切らなければならない。
「美沙さん……とりあえず、それについての返事は保留させてください」
「わ、分かった。待とう」
 激しい混乱っぷりを見たためか、彼女はいつになく素直に了承した。
「では、私は君の家に帰って信仰を蓄えておくことにするよ」
「そうしてください。ちゃんと帰ってくるので」
「日が変わる前までに頼むぞ」
「分かってます」
 次の瞬間には、美沙さんはいなくなっていた。人混みに紛れたのか、はたまたこっそり神力を使ったのか定かではない。が、ともかく彼女がいなくなったことで、僕の心はにわかにざわつきだした。
 だって、宇宙だ。美沙さんが一緒にいるときは、現実味がなくてまだ騒いでいられたけれど、実際問題宇宙となればそれどころの話じゃない。たぶん、僕は今土気色の顔をしていると思う。だって、……宇宙だ。もうこの単語ひとつで僕の不安の全てを表せる。
 落ち着いたとは言ったものの、自分がもうすぐ宇宙に行くかもしれないと知ってなお平常心を保っていられる人間はそういない。

 新刊500円になります……ありがとうございます……皆さんお疲れさまでした……すいません打ち上げの話なんですけど急用ができちゃって……。最低限の意思疎通はこなした気がするが、そのどれもこれもいまいち記憶が曖昧だった。
 それからなぜか総武線に乗って……電車は止まることなく、真っすぐ千葉に戻ってきた。そして僕は上の空で帰路を歩いたが、交通事故には遭わず、不審者にも襲われず、気づけば自室の扉の前に立っていた。
 ドアノブを握ったまま、今までの光景はぜんぶ僕の幻だったのではないか、なんて考える。でも、彼女は売り子さんにも見えていた……いや、実は彼女は本当に僕の妹で、僕は記憶を失っているだけ……さすがにそれは無理がある。とにかく扉の先の未来を見たくなくて、僕は立ち尽くしていた。


 すると突如、僕の手がぐりんと捻じれた。


 扉がゆっくりと開いて、僕は後ろによろめいた。
「……おかえり、敦君」
「ただいま……です、美沙さん」
「ここは君の家だ。堂々と入っていいんだよ。それで何かが変わってしまうわけじゃないだろ」
「そう、ですね。何バカみたいに突っ立ってるんでしょう、僕は」
 言われるがまま部屋に上がる。美沙さんはいつもの蛇の姿に戻っていた。どうしようもなく非現実な現実が突き刺さる。部屋の中で、何をするというわけでもなく、床にどっと座る。
 話し合わなければならない。
 分かっているけれど口は人形みたいに動かなくなってしまい、気まずい沈黙が流れた。

「すまなかったな、少年」
 先に口を開いたのは、美沙さんだった。
「? ……何がですか?」
「人の身で宇宙へ飛ぶということ。その意味を解せず、君に大役を押しつけるのは神の傲慢だった。私がどうかしていたよ。君の命の保障すらできないのに」
「い、いや……そんな」
 何を否定したいのか分からず、僕は黙った。
「彗星は私ひとりで止める。なに、君がいないと困るというのは嘘だよ。独りで宇宙へ行くのは、少々寂しくてね」
 嘘だ。それくらい、僕にも分かる。
 美沙さんは、ごまかすのがとても下手だから。
「今までありがとう敦君。君はこれにて、晴れて普通の生活に戻れる。でも、……せめて事が終わるまでは、私を想っていてくれよ?」
 美沙さんが、その長い体を引きずって僕から離れていく。その上半身の向かう先は、玄関の扉だ。そうか、もう行くんだ。時計を見ると、時刻は0時。もう時間がない。
「じゃ、さよなら。敦君」



「待って」
 声が出ていた。
 なんだ。何を言えばいいっていうんだ?
 感動的な言葉? 決意の言葉? 熱い言葉? それとも愛の言葉?


 ……違う。違う違う。違う違う違う違う違う違うっ!! 

 そういうんじゃないんだ! かっこつけるなよ! 僕はあくまで、ただの人外が好きなだけの、ただそれだけのちっぽけな人間だ!
「……? どうしたんだい?」
「……美沙さん、僕は人外が好きだ」
「ああ、知っている」
「美沙さん、僕は人外が好きだ!」
「うん、うん。うん?」
「美沙さん! 僕は人外が大好きだ!!」
「え?」

「鳥娘が好きだ。馬娘が好きだ。蜘蛛娘が好きだ。人魚が好きだ。単眼娘が好きだ。異形娘が好きだ。吸血鬼が好きだ。狐っ娘が好きだ。蛇娘が好きだ!」
「ちょ、ちょ、ちょちょ、敦君」
「古代で 中世で 近世で 近代で 現代で 西洋で 東方で 異世界で 深海で 宇宙で この世界で生まれるありとあらゆる人外っ娘が大好きだ」
「今ここでそれやるのか? この状況で? なんか違くないか?」
「セイレーンの、船を沈める恐ろしくも美しい歌が好きだ。そんな彼女と打ち解け、彼女に掴まって共に空中高く飛び唄を歌う展開など心が躍る。吸血鬼にかどわかされ自ら眷属と化すのが好きだ。強大な力を持つ彼女が己の正義のため敵をなぎ倒す展開は胸がすくような気持ちになる。名状しがたき異形の娘に容赦なく襲われるのが好きだ。正気を失い恐慌状態に陥った主人公が彼女を何度も何度も攻撃している、というのに一切動じない様など感動すら覚える。森に入ったらアラクネに襲われ蜘蛛の糸で吊るし上げられる様などはもうたまらない。ラミアに魅入られ、その筋肉の引き締まった胴体で巻き付けられるのも最高だ!」
「よくぞそんなにポンポンと言葉が出てくるな……」
「諸君、私は人外を、奇跡のような人外を望んでいる! 諸君! 僕の同人誌を読んでくれる人外紳士諸君! 君たちは一体何を望んでいる!?」
「もはや誰と話しているんだ……」
「更なる人外を望むか? 情け容赦なく心を鷲掴む悪魔のような人外を望むか? 六根清浄の限りを尽くし、三千世界の人外紳士を浄土へ導く仏のような人外を望むか?」
「何を言ってるんださっきから! 一体どういうつもり――」
「よろしい!!! ならば人外だ!!!!」
「話を聞けェ小僧!!!!」
 夜中の午前0時にも関わらず、僕らは大声で叫び合う。

「つまりどういうことか分かりますか美沙さん!」
「分からないよ!! 何が言いたいんだ君は!」
「僕は人外が好きです! ただただ! ひたすらに! 無闇に! 闇雲に!! 人外が好きなんです! だから僕はっ、悲しんでいる人外の女性から目を背けるわけにはいかない!!」
「そ……そんなくだらない意地で命を危険に晒す気か!? バカなのか君は!?」
「えぇーくだらない意地ですよ! どーせバカですよ! でもですね、あなたを助けなきゃ僕はもう人外好きを名乗れないんだッ!!」
「ぐ、う……君ってやつは……死んだらそれで、何もかも終わりなんだぞ!?」
「僕は死にません!! あなたが好きだから!!」
「っ!? そ、そ、そんなこと言って……知っているぞ、それもどうせ君の言葉じゃなくて、有名ドラマのパロディなのだろう? 神様はすごいので――」
「本心ですよ!!」
「にゃんでもっ!?」
「そうです恥ずかしいのでヘタレなのでドラマのセリフを借りました、でも本心です! あなたのことが好きです! 美沙さんが好きなんです! だから僕も一緒に連れていってください!」
「――だあぁぁもぉぉじゃぁ勝手にしろ! 私は忠告したからなっ!」
 美沙さんはぷんすか怒りながら、荒々しく出て行った。僕も後を追う。


 これでいいんだ。


 僕は三枚目で構わない。僕と彼女の間には、何もなくていい。

 ただ、彼女を助けることができれば、それでいい。


* * *


 1月1日午前1時。静まり返った市内某公園。
「時間ですね、美沙さん」
「……ああ」
 目を合わせ、僕らは静かにうなずく。


「マルヒト作戦、開始!」
 その瞬間、僕らは空を飛んだ――!


「うおおぉぉ……! 飛んでる……もう日本列島の形が見えてきた……!」
 もちろん僕は自力で飛んでいるわけではない。美沙さんに掴まっている。どういう状況か想像しづらければ、某昔話アニメの龍に乗ってる坊やを思い浮かべてほしい。あんな感じだ。スピードが違うので僕の方がだいぶ余裕のない表情をしているけど。
「信仰の膜で酸素は確保してある。けれど、あくまで最低限だ。窒息したくなければ早く終わるよう必死に祈るように!」
「信仰って何でもありですね……」
「信仰が集まることで人々の願いが叶う。いわば信仰は奇跡の種。何にでも対応できなければ、むしろ困るというものだよ」
「なるほど」
「さて、作戦内容をもう一度確認するぞ。まずはスペースデブリ帯を抜けるまで飛行を続け、安全を確保する。その後彗星の軌道を確認し、そこに信仰の壁を設置する。あとは彗星の衝突を待つ! その間君はエンディングまで泣かずにただ祈りを捧げる! 以上だ!」
「バッチリですミササン!」
「よし! では大気圏に突入する!」
 速度が急激に上がり、手を離してしまいそうになる。危ない危ない。こんな人生半ばでミンチにはなりたくない。周りの風景は抽象画みたいに見えるばかりでしっかり認識できない。ワープってこんな感じなんだろうか。
「大気圏突破! スペースデブリ帯に入るぞ、気をつけろ!」
「はっや!! ちょっと待ってくださいここもう宇宙なんですか!? 速すぎて何が何だか!」
「無論宇宙だ! 神様はすごいのでスペースシャトルよりずっと速い!」
「神様すごい!!」
「はっはっは、ようやく分かったか! さあ、いよいよ信仰の壁を――」
 そこで、美沙さんの言葉が途切れた。
 彼女の顔を伺うと、驚嘆の表情で冷や汗を滴らせている。
「どうしたんですか、美沙さん?」


「……足りない」
「え?」
「信仰の力が急激に弱まっている!」
「なっ……なぜ!? 信仰の風化ってやつですか!?」
「いや、いくらなんでも早すぎる! それに、こんな急に弱まるはずが……なぜだ、なぜこんなに――はっ!」
「何か分かったんですか!?」
 美沙さんは神妙な面持ちで目を閉じた。
「……敦君。人間は常に考える存在だ。何もしていないとき、あるいは眠っているときでさえ、人は何らかを考えている。これは科学的に脳が働いているという話ではないぞ。精神の活動だ。思考、欲求、夢――精神は常に、意識下・無意識化を問わず、何かを考えている。精神の活動は衰えない、そして信仰は精神から生じる……だから通常、信仰の力が急激に弱まる時間帯などない」
「じゃ、じゃあなおさら、どうして」
「しかしだ。精神も例外的に、急激に活動を減らすときがある。無我の境地――すなわち、悟りの時だ」
「……はぁ」
「無我は無欲……欲は信仰の源。つまり、それこそが信仰の弱まる状態というわけだ」
「……原理は分かりましたよ。でも、皆が皆一斉に悟りを開くって言うんですか? しかも、僕の同人誌を読んでくれてるような層の人たちが」
「敦君。考えてみてくれ。無我の境地に至った者を、我々は何と呼ぶ?」
「へ……? ええと、お坊さん? 仏様?」
「違う違う。もっとこう、瞑想とか使いそうな奴だ」
「ラスボス……?」
「なんでそうなる! ……いや、発想は間違ってないか」
「発想が間違ってない? ってことはRPGっぽい……魔法使い、僧侶、けん――ってぇ!? 美沙さん!?」


「それだよ少年。いわゆる――賢者タイムだッ!」


「えぇぇぇぇ……いや、ええええぇぇぇぇぇぇ……」
「どうした?」
「萎えるわぁ……」
「君も賢者タイムか」
「やかましいです……。なんなんですかそのアホみたいな原因……。せっかく盛り上がってたのに……このままクライマックスからの大団円みたいな感じだったのに、台無しじゃないですか……」
 確かに僕は三枚目でいいって言ったけど、だからってこんな展開ありか。まさか僕があの時ふざけたのが原因で、この世界がシリアス世界線からコメディ世界線に移動してしまったとでもいうのだろうか。……って、僕は一体何を考えてるんだろう。 
「何がアホだ! 性愛は信仰の重要な糧なんだぞ! 恋愛成就、安産祈願、子孫繁栄、それらは性愛なしには語れん! 民の繁栄は国の繁栄、つまり引いては国家安泰だって性愛で成り立っている! 違うか!?」
「た、確かにそうだけど……そうだけども!!」
「現に人々の性欲が弱まったことで私の力は弱まり、事態は困窮している! それは変わらない! 実際問題この状況はヤバいぞ敦君!」
「えぇっ……何か、他に手はないんですか!?」
「……あるにはある。けれど、かなり危険だ」
「今ならギャグ補正で彗星に直撃しても助かりそうな気がしますけど……どんな作戦なんです?」
「そう、まさにそれだよ」
「え?」
「彗星に自ら突っ込むんだ」




「へええええぇぇぇぇーーーー!!?」
「テンション高いな君。真面目に聞きたまえよ」
「いやっ、むしろ今の真面目な作戦だったんですか!? 冗談でしょ!? むしろ冗談と言ってください!」
「もちのろん、大真面目だ。信仰の力は、神の近くであればあるほど増すという話はさっきしたな?」
「え、ええ……だから僕がついてきたんですよね?」
「その通り。だが、この法則には二つの顔がある」
「二つの顔……?」
「ああ。ひとつは、先ほど話した通りの意味。神が得られる信仰の多寡だ。そしてもうひとつは――神が使う信仰の強さ」
「……。え、っと?」
「ふむ。たとえば怖い話で、神社に逃げ込んだら霊が追ってこなくなった、みたいな話がよくあるだろう? 要はそれと同じことで、神は自らに近い場所であればあるほど、信仰の力をより強力に発揮できる。そう言えば想像しやすいか?」
「な、なるほど……。なんとなく分かってきましたよ。つまり、美沙さんからは遠く離れた場所に信仰の壁を作るより、美沙さんが直接、信仰でできた……鎧みたいなものを纏って突っ込んだ方が、強力な一撃になると」
「君にしては理解が早いな。そう、遠距離技より近距離技の方が高威力なのは自明というわけだ」
 なぜゲームで例え直すのか。
「だが……やはり危険だな。私は精神体だから直撃してもどうってことないが……君があまりにも危険すぎる。私の『信仰の鎧』を纏わせるにしても、ぶつかるときの衝撃に耐えられるかどうかは、それこそぶつかってみないと分からないのだから」
「なんで今ちょっと必殺技名っぽく言ったんですか。分かりますよ、なんか強調してるし」
「黙れ小僧。で、だ。やはり『信仰の鎧――アーマー・オブ・フェイス――』を使うのは危険なので、残念だが君を一旦地上に帰そうと思う」
 天邪鬼かよこの神様。
「いえ、それには及びません。ここまで来たんだから、最後まで付き合いますよ。乗りかかった船ってやつです」
「そんなっ。ただの宇宙飛行とはわけが違うんだぞ! 想像してみたまえよ、巨大な岩にぶつかる己の姿を!」
「想像したくないですね、怖いので。僕は美沙さんを信じますよ。心の中の想いは、それだけで十分です」
「……大馬鹿者だよ、君は」
「そうですよ。大馬鹿です。じゃなきゃ、ここまで美沙さんについてきてないですよ」
「言うじゃないか少年。だが、すぐにその判断だけは正しかったと知ることになるだろう。――私は、絶対に君を守るのだから」
「ええ。分かってます」
「ふっ……行くぞ敦君――!」
「はい――!」





「あっ、いいこと思いついた!」
「えええええぇぇぇぇぇぇ!!!?!? このタイミングでぇぇぇぇ!!!!?」
「何を言う。君だって、より安全でより確実な方法の方がいいだろう?」
「もーいいよ! 突っ込みましょうよ! そういう流れだったじゃないですか!」
「なんだそういう流れって。流れで命を賭けるなよ少年」
「んんー何がいけなかったかな! まだコメディ世界線から抜け出せてなかったのかな!? 僕は過去の自分でも騙しに行けばいいのかな!?」
「君は一体何を言ってるんだ。現実とアニメをごっちゃにするのはよくないぞ」
「あなたが言いますか……もう、いいですよ分かりましたよ……」
 僕はきっと、こういう世界の下に生まれてしまったんだ。諦めるしかない。
「で、なんですかその……いいことって」
「私は最初に言っていただろう。彗星を止めるため、鍛錬に励んだと」
「はあ。言ってましたね」
「こうも言った。週5で総武線を止めていたと」
「はあ」
「つまり……ふふん、あとはもう分かるな、少年?」
「全然分かりません」
「なんだつまらん。だからな、私は毎朝毎朝、電車とぶつかっていたわけだ。つまり、必然的に総武線の電車は私の縁のある電車ということになる」
「んん? 言ってる意味がよく分からないんですが……縁?」
「剣。鏡。玉。――神の用いた道具は、神の信仰を吸い、神力を獲得し、やがてひとつの神体となる。神体は神の依り代――神がそこに宿る以上、神体は人々の信仰を集め、より神力を増す」
「待ってください。分かってきた気がするんですけど、脳がこれ以上の理解を拒絶してます」


「そういうことだ!! 総武線の各電車はもはや私の神体に等しい!! つまり、あの電車は人々の信仰を集めに集めた、私の宝具というわけだな!!!」
「いやいやいやいやいや!!! 何勝手に日本国有鉄道の電車を私物化してるんですか!!」
「国の物は私の物!! 私の物も私の物だ!!!」
「なんて大規模なジャイアニズム!!!」
「やかましい! 元はといえば神々の私物を勝手に国宝などと抜かす国が悪いのだ!!」
「そ、それは許してあげましょうよ!」
「さぁ越せよ落せよ『新たな鉄の御柱――ミシャグジ・レールロード――』!! 汝を以て彗星を打ち破る!!」
「いつの間に命名したんですか! しかも決め台詞までバッチリだ!!」
 その瞬間、何もないはずの宇宙空間に、いきなりズオオオオォォォォッと鉄の塊が飛び出してきた。僕も見覚えのある、総武線を走る電車の数々である。やりたい放題にもほどがある。
「さあ、乗るぞ敦君! 神体となったこの電車は、もう彗星の衝突程度で壊れはしない!」
「やだぁー! もうなんか僕関係なーい!!」
「忘れたか、祈るんだ! 祈りは宝具の力を増幅させる!」
「分かりましたよ! やりゃあいいんでしょやりゃあ!!」
 半ばヤケになりながら適当な電車の中に入ると、自然と僕らは電車の床に足をつけることができた(美沙さんに足はないが)。しかもなんかガタンゴトン揺れてる。
「う、宇宙なのに、なんで重力が……」
「この宝具は重力ごと切り取って召喚できるのだ」
「なんでさっき初めて使った宝具のくせにやたら詳しいんですか!?」
「神様はすごいからな」
「あーもうすごいすごい!!」
「さぁーこのままつっこむぞつかまれッ!」
「展開早ァい!!」
 とりあえず吊り革を握りしめてみる。
 一方で美沙さんは何にも掴まらないどころか片方は腰に当てもう片方は真っすぐ進行方向を指差し、何かを見据えて目を輝かせていた。

 そしてそれは、僕にも不思議と見えた。
 彼女の指差す先――こちらへ真っすぐ向かってくる、青色を纏う彗星――まるで世界の速度が遅くなったみたいに――




「見えるか敦君! 今、彗星が目の前に! ついに我々はやったんだ!」
「いや、見えますけど! そんなことより、なんで時が止まってるんですかっ? これも神様の奇跡なんですか?」
「きっと宇宙の神秘だよ。タイムナントカ理論で時間がゆっくり進んで見えるんだ」
「そういう次元の話じゃないでしょう……。で、なんでいきなりこんなことしたんです?」
「いやいや。本当に私は知らないぞ。何もしていない」
「えっ?」
 確かに、美沙さんが嘘をついているようには見えない。でもだとしたら、一体何がどうなっているんだろう。誰が、何のために? そもそもちゃんと戻るのか、これ? もしかして僕が知らないだけで、本当にスペースナントカ理論で時が止まってしまった? なんだそれ。
「少しは落ち着きたまえよ少年。こんなに美しい光景、何度も見られるものじゃないぞ」
「むしろなんで美沙さんはそんなに落ち着いていられるんですか!?」
「なんでって、たかだか時が止まっただけじゃないか」
「いや一大事じゃないですか!」
「君たち科学信仰者にとってはな。我々からすれば、時など案外簡単に止まるものだ」
「……? ちょっと、言ってる意味が……」
「むーん、現代人の頑愚なことよ。時は空気の流れ心の流れ、それが止まらば即ち時止まれりと思われ、後ただ少しの信仰あらば即ち時は真に止まる。神でなくても起こせる奇跡だ」
 そんなことを言われても、「はぁ」と呟くしかできない。僕には意味がよく分からないが、とりあえず神様にとって時間が止まるというのはそう珍しいことでもないらしい。
「……で、じゃあ結局、一体誰が止めたんですか? 神様じゃないなら妖怪とか巫女さん?」
「さてな。案外、君かもな」
「えっ。なんで僕が?」
 美沙さんはくっくっと笑ってこそいるが、からかっているという雰囲気でもない。
「君に言いそびれていたことがあった。だから、……誰にでもなく、祈ったんだよ。時間よ止まってくれ、と。きっとその願いが、君に届いたんだ。うん、きっとそうだ」
 美沙さんは、自分で言っている内に納得したという様子で何度も頷いた。でも、やっぱり僕には、意味が分からない。
「なんで僕に、美沙さんの願いが届けられるんですか……?」
「ばか。言わせるな」
 痛い。頭をコツンと小突かれた。何なんだ一体。
「じゃあ、言いそびれていたことって?」
「もー、結局そうなるのか……しょうがないな」
 何が?
「返事だよ」
「え?」



「――私も君のこと、好きだ」
「…………あ」
「私が、初めてこの身を見せた人。私と、初めて対等に接してくれた人。私のために、道化を演じてくれた人。……私を、好きと言ってくれた人」
 ああ。
「私は、そんな君が、好きになってしまった」


 僕、今、幸せだ。


「うん、それだけだよ。らしくないな、ええと、こういうときは、ううん、どうしようか」
 美沙さんは、とっても分かりやすくうろたえた。尻尾は忙しなくぐねぐねと動き、顔なんか真っ赤になっていた。それを見ているだけで胸がいっぱいになる。彗星が目の前にあることも、時間が止まっていることも、すべて小さなことのように思えてしまう。なるほど、これが美沙さんの見ていた世界なのかもしれない。
 このままずっと時が止まっていればいいのに、なんて、調子がいい。
 でも、
「……うん、そうだ。最後くらい手を繋いでいようじゃないか、敦君」
 時間はゆっくりと、
「はい、喜んで」
 ゆっくりと、
「さあ。終わらせよう、この戦いを」
 動き出す――







 ――そしてその日、ひとつの彗星が、ひっそりとこの世界から消えた。


* * *


 あれから数日が経った。
 僕の日常は、驚くほど簡単に戻ってきた。
 ニュースを隈なく探ってみたが、あの出来事を取り上げた記事は見当たらなかった。地球からかなり離れた空間での出来事なのだから、観測されていなかったとしてもおかしくはない。でも、僕は段々と、今までのことが白昼夢だったのではないかと思うようになってきた。
 だって美沙さんのいた証は、どこにもないのだから。
 唯一、この同人誌を除いて――みたいな展開だと思った諸君。









「私の同人誌を読んで何を妄想しているんだ少年」
「……いや。なんで美沙さんは未だに僕の部屋に居座ってるんだろうって考えてました」
「なんだいきなり! いいじゃないか別に!」

 安心しろ、そんなわけがない! だってこの世界はそういうんじゃないから! 僕ちゃんと分かってるから!!
「……時が止まったときは、今度こそ世界線が移動したと思ったんですけどね」
「まだそんなこと言ってるのか? だいたい、消えるとは一言も言ってないし、好きな人と一緒にいたいと思うのは当然のことだ」
「まー、そうかもしれないですけど……」
 腑に落ちない。だったらどうして、あんな奇跡まで起こさせてあの場で告白したんだ。
「だって、宇宙で告白とかロマンだろう、君。クルーズ船で告白などと同じ類だよ」
「えぇー……旅行じゃないんですから……」
「やかましい、君が言えたことか。あんな大真面目な空気をぶち壊してそのまま強引に告白したのはどこのどいつだ」
 それにつきましては返す言葉がございません。完全にあそこから何かが狂い始めた。
「でもなぁ……この展開は、なんか、違うよなぁ……」
「もう、君ってやつは!」
「わっ! な、なんですか?」
 美沙さんの上半身が勢いよくぶつかってくるので、そのままベッドに倒れてしまった。必然的に彼女が僕に覆いかぶさる形となる。



「……私と一緒に暮らせて、嬉しくないのか?」
 ぷー、と頬を膨らませてそんなことを言うんだから、敵わない。
「めちゃ嬉しいです」
「だろぉー? それでいいではないかっ」
 途端に頬を緩ませ、ぎゅっと抱きしめてくる。抱きしめると聞いて、背中に腕を回すだけの絵面を想像した諸君、甘いぞ。彼女の「抱きしめる」は、それはもう蛇の身体を余すことなく使って全身をぎっちぎちだ。人外紳士冥利に尽きる。



 確かにまあ、それでいいんだ。
 幸せなんだけど……なん、だけど……



 まあ、幸せならそれでいいか。

 米山敦21歳。ペンネーム加藤らいち。まだまだ彼女との物語は続く。
第三十二回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00

第三十二回さらし文学賞

第三十二回さらし文学賞

概要

 さらし文学賞とは、テーマに沿って書いた作品を、筆者を伏せて作品を公開し、部員の投票により作品の順位を決めるものです。

テーマ

「週5で止まる総武線」

<書式>
 自由

<制限字数>
 なし

<応募制限>
 文藝部員であれば一人何作品でも投稿可。

<日程について>
 <執筆期限> 2017年1月3日(火) 23::59
 <投票期限> 2017年1月21日(土) 23:59
 <発表日> 2017年1月25日(水) 部会にて
        2017年1月31日(火) ブログ上にて

<対象作品>

Itu うみねこ
reflection くぐい
総武線は止まらない 佐野浩史
総武線は週二で停まる ハリコ
週5で止めた総武線 ソラ
進め、イジユデを得るために ジャックパンダ
トメルの電車でGo! 紗々羅紗羅紗羅
蛇神様暴走奇譚 大江山時雨
テレポ 池田須磨
傘がない さぼてん
夜空の石 雪白あくあ
しゅう 古河聖
信沙の鐘 宵闇
その涙さえ、嗤うなら ジャックパンダ
あの頃 柳
玉響 うみねこ
大喜利のコーナー 古河聖

全17作品

<結果発表>

1位 テレポ 池田須磨
2位 蛇神様暴走奇譚 大江山時雨
   信沙の鐘 宵闇

さらし文学賞 | CM(-) | TB(0) 2017.01.05(Thu) 00:00
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