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貴方に歌を

鼻歌を高らかに響かせながら歩いていく。視線は歌に合わせて一定のリズムで上下する。ふと、足がぴたりと止まった。その目が移すのは酒場の前。
(きっと、こういう酒場になら情報が出回っているはず。)
そして一息に酒場の扉は開かれた。
「すみませーん。あの、わたし、人を探しているんです。名前はトムって言って、明るくて茶色い巻き毛をしているんですけど、どなたか知りませんか?」
大きな声で問いかければ酒場中の視線が一斉にこちらを向いた。
「知らねーな、嬢ちゃん。なんだ、男に逃げられたか?」
すっかり出来上がっている顔の赤い男が下品に笑う。
「おじさんが想像しているようなことではないんですけど、逃げられたと言えば逃げられました。今時、探検家になるんだ!って宣言して行方をくらませちゃって…。」
声にはその相手――トムに対する呆れが多分に込められている。
「すまないね、お嬢さん。トムって名前の奴ならたくさんいるが、そんな少年心溢れるようなトムは見かけたことがないね。」
酒場のマスターと思われる人物が物腰柔らかに告げた。
ちなみにどうして探しているんだい?とマスターの声が問いかける。
酒場の面々もいきなりのお客の珍妙な言動に注目していた。
「わたしの歌声を聞いてもらうためです!」
堂々とそう宣言した声に酒場の面々は一斉に首をかしげる。明らかに説明が足りていない。
「えーと、もう少し詳しく話してくれるかい?」
マスターの声に周りがうんうんとうなずく。わかんねーぞ嬢ちゃん!と野次を飛ばす輩もいた。
えー、少し長くなっちゃいますよ?と意外と乗り気で少女は歌うように話し出す。
「わたしの家は農家で、一時的にトムを雇っていたんです。仕事を手伝っていたわたしは作業中に歌を歌う癖があって、それを聞いたトムに思いっきりバカにされたんです。…お前の声は耳障りだ、涙が出るほどへたくそだ、って!」
憤慨した様子でどんどん声は大きくなっていく。最終的には手近な机に近寄って思い切り叩いた。大きな音があたりに響く。
「しかも、トムはその翌日に急に姿をくらませて! 両親にトムは探検家になるからと言って仕事を辞めたと聞かされるし!」
連続して机が揺れる。あまりの剣幕に、そしてその内容に酒場の面々は呆気にとられている。
「言い逃げされたのが許せないから、近隣の町を探しているんです。もう一度会って、絶対にわたしの歌をうまかったって言わせてやろうと思って!」
あまりにくだらない理由だった。本人たちにとっては大切なことかもしれないが。
しかし、腐ってもそこは酒場。
酔っ払いどもはぽかんとしつつも段々少女のその剣幕に流されて、彼女を盛大に冷やかし、あるいは焚き付けた。
「あはははは、下らねぇな、嬢ちゃん!」
「いいぞ、そのトムってやつに認めさせてやれ!」
「ほんとーにへたくそなんじゃないのかー?」
無責任な酒飲みたちの言葉に笑い声で返しながら、しかし最後の一言にはしっかりと反応した。
「言いましたね!? いいでしょう、盛大に盛り上げてやりますよ!」
少女がアップテンポな歌を歌いだす。
それは心底楽しいという気持ちが直に伝わってくるような、気分を高揚させられるような歌声で、とても下手とは思えない。その歌声に最初は呆気に取られていた聴衆たちも次第にその歌声に飲まれて、酒場はさらに喚起に沸いた。

酒場で一通り騒いだ後、少女は気前のいい酔っ払いたちにその歌声を絶賛され、大いにトム探しを応援された。だが、最終的にそこに実のある情報はかった。
仕方なしに少女は町を抜け、とりあえず今日のところは帰ろうと自分の町へ足を向ける。我が家向かう森の中の道を、細やかな声で夕暮れ時にあった曲調を奏でながら歩く。
(今日は三つ町を回れた。…けど、情報はなし。)
ちなみに、トムが行方をくらませた数日前以来、近隣の町を回っているが、少しも彼に関する情報は得られていない。
「お嬢さん、何を歌っているのかね?」
あまりに通る声で歌うものだからか、すれ違おうとしていた反対側の道を歩く老人が声をかけてきた。
商人の恰好をした老人は人が一人、入りそうな大きな木箱を背負って歩いていた。その箱はどこか生々しい肉の匂いがする。何かの肉を運んでいるのだろう、と少女はあたりをつける。
「こんばんは、おじいさん。わたし、人探しをしているのですが、歌を歌っていたら相手が気付いて寄ってこないかなと思いまして。」
言っていることはどこか突拍子もない。
「人探しとな?」
しかし、老人はそれを気にせず普通に返した。
「ええ、おじいさんもご存じありませんか? 名前はトムといって、明るくて茶色い巻き毛をしているのですが…。」
先ほどと大体同じ事を老人に問う。
「……すまないが、知らんなぁ。それよりもお嬢さん、ここから先まだ進むのなら気をつけなさい。この森は賊が出るらしいから、暗くなる前に抜けることをお勧めするよ。それと、歌も目立つから歌わない方がいいだろうな。」
「ありがとうございます。おじいさんも気を付けて。」
そうして老人と別れ、少し歩調を速めて歩き出す。しかし、歌声が途切れることはなかった。

しばらく歩いていると耳がかさり、という枯葉を踏むような音を拾った。日はもう暮れかけているが、あともう少しで森の出口が見える、といったところ。
(嫌な予感はするけど、大丈夫)
先ほどの音のこともあり、不安に思ったのか心拍数が上昇するのを感じる。みるみるうちに色濃くなっていく夕暮れの赤と、それに負けじと増えてくる藍色の闇は森をなおのこと怪しく輝かせて少女に恐怖を根付かせる。少女は心の中で自らを鼓舞し、一気に森の中をかけ始める。怖いなら一気に駆け抜けてしまおうという算段。だが、走り出してすぐ、再び耳が大きく草木をかき分ける音を拾ってしまった。後ろを振り返ると、そこにはこん棒を大きく上に掲げた男の姿が見えて――それを振り下ろされると、視界がぶれてすぐさま真っ暗になった。



という、自分が殺される夢を見て、目が覚めた。体が金縛りにあったように動けない。動かそうとすると体の節々が痛んで、荒い息が漏れる。しばらくして体が少しずつ動かせるようになってきた。どうやら、昨晩森の中で眠ってしまったようで朝日が昇る草木のなかで横たわっていた。もちろん寝起きは最悪。
金縛りの名残か、歩くときにどこか足がうまく動かなかったが、歩くこと自体は可能だと感じ、歩みを再開する。こんな場所で一晩平和に眠っていたにも関わらず、山賊に襲われなかった奇跡に驚いたけれど、そもそもどこからが夢だったのだろう。
そう考えると、なんだか空恐ろしくなって自分を励ます意を込めて歌い出す。歌は力をくれる。そう信じているからか、次第に気分は上向きになってきた。依然足はうまく動かないけれど先ほどよりは幾分か楽な気持ちで進んだ。

「こんにちは。わたし、人を探しているのですが、トムと言って明るい茶色の巻き毛をした人を見たことがありませんか?」
町に入って最初にすれ違った親子に話かける。
すると、お母さんは少し眉をひそめて知らないと答えてくれた。
「あなた、大丈夫? なんだか声が変よ?」
そんなつもりはなかったので少し驚いたが、自分で変な感じはしないので大丈夫と返す。
歩みを再開し、歌を再び紡ぐけれどやはり違和感はなかった。

こんにちは。わたし、人を探しているのですが、トムと言って明るい茶色の髪をした人を見たことがありませんか?
次にあった人に聞いてみると怪訝な顔をされて、答えてもらえなかった。
最近歩く度に足が軋むようになってきていて歩くのも少し辛かったので、断られたことに少し気分が悪くなり、歌声が荒れた。

こんにちは、わたし、人を探しているんですが、トムと言う茶色の髪の人を知りませんか?
「なんだ、こいつ!変なうめき声を上げているぞ!?」
次に話しかけた子供たちはなぜか逃げてしまった。
人を見て失敬な、と思って歌声がまた荒れた。しかし、最近はなぜだか体が軽いので、歩みは少し早くなった。

こんにちは、わたし、人をさがしているのですが、トムという人を知りませんか?
「―――!!」
人が私に向かって石を投げた。
あまりのことに驚いて、気分が悪くなるよりも、そして怒るよりも先に悲しみが来た。
右目がぼやけて見えなくなる。石が当たったのか、それとも泣いているのか。
あまりのやるせなさに悲しい旋律を奏でながらそこから走り去った。

 誰かに尋ねて、石を投げられて、歌いながら歩いて、驚いては逃げられる。私は何もおかしいことをしていないはずなのに、追いかけまわされ、攻撃されることが増えた。
そんなことが当たり前になりつつあるときに、ついに足が動かなくなって地面に倒れこむ。足の不調は前々から感じていたがとうとう限界を迎えてしまったらしい。足の具合を見ようにも、実は目の調子もよくなく、視界がぼやける。音もよく聞こえていない。自分がどうなっているかもわからない。ただ確かなのは四肢を動かすことはもう出来そうもないくらい力が入らないことだった。否、力は入るのだが、なぜだか腕が上がる実感がない。
長旅の疲れか、理由なく追い回されることへの疲労か、体が音を上げているのが嫌というほどにわかる。
それでも、歌を歌って入れば来てくれるような気がして、逆に言えばそうすることしかできなくて、歌い続けた。もはや自分の声も満足に聞こえなかったけど。


ふいに、誰かがわたしに触れた。
その誰かに問うてみる。
こんにちは。わたし、人を探しているのですが、その人の名前も、性別も、性格も、外見的特徴も、性格も、何もわからないんです。
でも、わたしはその人に歌を届けてあげたくて歌を歌っているんです。
あなたは、知りませんか? わたしの探している人を。
(知っていますよ。そして、もうその声は届いています。)
何かは音を発しなかった。しかし、その声はちゃんとわたしの中に響いた。
(あなたは歌がお上手ですね)
その声に救われた気がしてもう一回口を開いた。開いているのかわからないけれど、音になっているかわからないけれど、それでも歌を紡いだ。
頬に暖かいものを感じたような気がして、わたしの視界から景色が消えて、意識も闇に溶けていった。



「博士、実験体106番もダメでした。繋がりの深いもの同士でつなげてみましたが、定着時間こそ伸びましたが、人としての機能はほとんどすぐに消滅していましたよ。」
実験体から回収した記憶蓄積チップの解析を終えてその報告をする。
すると隣の部屋から少女の記憶に出てきた老人が白衣をまとった姿でこちらに顔をのぞかせた。
「そうかそうか。…死者を蘇らせる、というのはやはり一筋縄ではいかないのう。」
私と博士は死者を蘇らせるという研究をしている。
いつの世でもその禁忌的な願いを叶えたがる愚か者は多くいる。
死んだ人間の肉体に、同じく死んだ人間の魂――と定義している脳の自我形成部位を移植、あるいは置換することによって、死者を生者として再現する。端的に言えばそれが私たちのやっている実験の概要だった。現段階では研究も進み、外見こそ違うが内面は生前のその人の人格に基づいた行動をする人間もどきの生成までは成功している。だが、
「死者蘇生よりもゾンビ作成のための研究になりつつある気がしますけどね…。」
その動きは生前のそれには明らかに及ばないし、人としての機能は母体が死体なだけにすぐに腐敗してしまう。防腐処理にも限界があるからこれ以上手を施すのは難しい。
 だが、止めるわけにもいかない。ここまで犠牲にしてきた死者の魂にかけて。何より蘇らせたい命のために。それに成果は確かに出ているのだ。なぜなら…
「博士。今回の実験体、肉体の方の自我が残っていたかもしれません。」
「ほう?」
「泣いたんですよ。正確には泣くために筋肉が動こうとした。実験体の魂の関与しないところで。肉体に使った、彼の意思だと思うんですよね。」
腐りかけた実験体とその肉体に残っていたかもしれない魂。
「だけどやっぱり虚しいものですね。」
実験体106番。博士が遠い親戚から譲り受けたという奴隷の少年の肉体に、博士が森で発見した死体の少女の脳の一部を埋め込んだ被検体。
ずっと探し人と一緒にいたにも関わらず、気付かず探し続けていた魂である少女。その歌をその軌跡を共にした肉体は何を思っただろうか。
「仕方あるまい。我々にできることは進むだけだからのう。」
「そう、ですね。」
だから彼らに鎮魂歌を送ろう。
彼女の歌声には到底届かない鎮魂歌を。


使用テーマ
・歌
・もう一度会いたい
・ゾンビ 
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第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

求めてはいけない

ぼんやりとした街灯の明かりの奥に見える一際明るいコンビニの蛍光灯。住んでいるアパートまであと五分なのだが、慣れた暗い部屋に帰るのは、今日は、先延ばしにしたい。まるで虫のように光に吸い寄せられた。


入った瞬間掛けられた、アルバイトの明るい声に身を縮める。何かを買っていかなければ。店に入ったからには何かお金を使わないといけないという生真面目な強迫観念。空腹を感じているわけでもなく、視線が商品の棚を上滑りする。
節約のため、外で飲み物を買わない習慣、デザートを探さない習慣、アイスの棚は見ない習慣。こんな時にも貧乏性が、わたしの行動を制限してくる。頼りなさげに目を泳がせる自分が場違いに思えて周りの人を盗み見る。視線を弁当の棚に固定させたサラリーマン。飲料のおまけについているペットボトルホルダーを見比べる女子高生。かがんで品出しを始めた店員。
わたしのことなど気に止めてないのはわかっているけれど、居心地の悪さから逃れるように棚の間に滑り込んだ。
友達から食べる?と差し出された記憶のある、見慣れたパッケージが並んでいた。チョコ、ビスケット、飴。消費税がなければワンコインで手に入る菓子たち。
その中で子供の頃の記憶に引っ張られ手に取ったものは、やはり軽い。頼りなさを感じてもう一袋。無駄遣いをしたくなってもう一袋。ヤケになりたくてさらに伸ばしかけた手は、さすがにつかむことはできなかった。かさばる、けれど片腕で抱えられる程度の、たった三つの袋たちを抱えているだけで十分な罪悪感をもつ私は、つくづく小さい女だ。


玄関の鍵をあけるときにも、いやに邪魔なコンビニ袋がかさかさ鳴る。玄関に倒れこみ、履くのも脱ぐのも面倒なサンダルを蹴りつける。今年の流行りである、編み上げのサンダル。
くるぶしの上に巻きつく紐が足首を華奢にみせるのでお気に入りだった。
出かけは一本一本緩めて履いていけたのに、今はそんな余裕がなかった。手を使わずに、足をがんじがらめにしている紐から逃れようとする。まるで駄々をこねるかのように、もがいていた。暗い天井を見ながら足に八つ当たりをする。
いくらやってもしっかりと足をつかまえたままのサンダルに怒りと悲しみがわいてきて、手に持っている袋を床に叩きつけた。ビニールと包装フィルムがガサガサと鳴っただけで手応えはない。
滲んできた視界をしばらく眺めた。


息を深く吸い体を起こす。ちょうちょ結びを解き、空白の気持ちでさっきまで散々蹴りつけたサンダルを脱ぐ。赤くなった足には幾つかの擦り傷ができていた。


台所に立ちコンロに火を点けた。一つの電気もついていない部屋で青白い炎だけが浮き上がって見える。コンビニで買ってきた三袋を全て力任せに開く。引き出しから一本竹串を出した。袋の中を探り指先で押しつぶされた塊を左手に持っていた竹串で突き刺す。右手を離すとまた空気を含んで元の形に戻っていく。私は無心で炎の上にかざした。

子供の頃、誰かの家で開かれたパーティのときに食べた、あの優しさを得たかった。あの甘さと柔らかさが恋しかった。

すぐさま竹串の先の白い塊に赤い光が取り付いた。傍観していると火はどんどん回っていきあっという間に黒くなった。
昔、私に手渡してくれた大人は、焦げないように動かし、火を消していてくれたのだろう。
しつこくちらつく明かりを吹き消し口に入れる。
腹がたつほどの弾力は消え、硬く、苦く、甘い。
炭で周りを固められた、とろとろの砂糖の、正体のない食感が無性に癪だった。

突き刺しては燃やし、燃やしては突き刺し、口の中に詰め込みながら繰り返す。
このまま壊れていたくて、拒否する口をこじ開ける。炭と、砂糖で、喉が辛かった。

戻しそうになるのをどうにかこらえながら、滲んだ視界で作業を続ける。

暗い部屋の中で青く照らされた私は、どんなに惨めな姿なのだろうか。

萎んではくれないかさばる想いを、このまま燃やしてしまえればいいのに。
夢見てしまう甘い希望を、苦味で閉じ込めてしまえればいいのに。
日に日に増えてきた思い出を、残らず飲み込んでしまえればいいのに。

もう二度とあなたを求めたくならないように。


また一つ、串刺しのマシュマロを火にかざす。



使用テーマ
・蛍光灯
・ペットボトルホルダー
・マシュマロ
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

ミヅモ

 桜の花びらはすっかり散ってしまいましたね。葉桜はどうにも好きになれなくて、私は憂鬱な気分が抜けません。あなたは、お元気ですか。
 とはいえ、あなたは元気なのは知っています。引きこもっていても、窓からあなたの姿を見ることはありましたから。
 このご時世に手紙などというものを受け取って、困惑していることと思います。手紙の相手が引きこもりの私なら、なおさらのことでしょう。でも、誰かに知ってほしかったのです。この一年で私に何があったのか。そして、どういうわけか、私がこのことを伝えるとしたら、一番ふさわしいのはあなただと思った。両親も、親友も、今はいませんから、私の交友関係の狭さを知るあなたならば、それは自然と思えるかもしれません。しかし、この手紙を読み終えた後、あなたは絶対にこう思うでしょう。なぜ私にこの手紙を送ったのか、と。先ほどの通り、私にもそれは分かりません。もしかしたら、私はあなたが好きだったのかもしれません。あの子に、ミヅモに出会っていなければ、私はあなたによって救われていたのかもしれません。でも、そんな想像は無意味です。事実私はミヅモに出会ってしまったのだし、第一私はそのことに心から感謝しているからです。
 前置きが長くなってしまいました。ここ最近、ひらがなさえまともに書いていませんでしたから、文章の乱れはこれからもあると思います。許してください。
 私がこれから述べるのは、ミヅモとの出会い、親友・一哉の死、母の死、そして私の死です。もちろん私はまだ死んでいません。これから死にます。ですが、これを遺書と思って読んでほしくはない。あくまでこれは、私の告白であり、私があなたに向けて送る手紙です。それを忘れないでください。ですから、これは警察に渡さないで、自分で持っていてください。面倒ごとが嫌であれば、いっそ燃やしてしまって構いません。とにかく警察には渡さないでください。私は、社会から一方的に頭のおかしな精神異常者だとみなされたくない。いや、ある意味でそれは事実なのですが、私を知らずにこれを読んだ人々が思うような意味では決してないと断言しておきます。

 さて、いいかげん本題に移りましょうか。
 ご存知の通り、私は一年前の夏休みに父を事故で亡くしました。あなたはきっと、それが私の引きこもりの原因だと思っていたでしょう。でもそれは根本の原因ではありません。父の手記を開いてしまったことが、すべての原因なのです。
 読書好きの彼は、休みの日になると決まって書斎に閉じこもっていました。私は、彼が何をやっているのかとても不思議でした。書斎から出てきた彼は、いつも疲れ果てた様子だったからです。生気のない顔でもそもそと夕食を噛む彼の姿は、異様としか言いようがありませんでした。でも母は気にしていない様子でしたから、私もそんなものかと思い込むようにしていました。あの手記を見つけるまでは。
 夏にしては涼しめの夕暮れ時でした。それは書斎机の引き出しに平然と入っていました。ふと父が生前していたことが気になって、書斎に入ってみたときです。とはいえ、最初は読もうとは思いませんでした。何せ、家族とはいえ人の手記ですから。ですが手記の表紙をよく見てみると、そこには「宗へ」と書かれていたのです。父は五十代で、身体もすこぶる健康でした。まだ己の死期を悟るような状態ではありません。何が何やら分からないまま、凄まじい胸騒ぎを抑えて私は手記を手に取りました。
 そこに書かれている内容を見て、私はこれを読んだことを激しく後悔しました。そこには、彼の黒魔術への熱意がつらつらと書かれていたのです。魔術をもってすれば世界平和が実現するだとか、太古に封印された神を復活させたいだとか、その意志をいつか息子、つまり私に継いでほしいだとか。私は急に、自分が死者を冒涜しているような気分になりました。こんなちゃちな妄想は、本人の死とともに永遠に葬り去られるべきものだったろうと。それでも、「宗へ」と書かれていましたから。私は最後まで一応は読むことにしました。今思えば、このときの妙な礼儀が私のすべてを狂わせてしまったのですね。
 手記の内容は、ページを進めるごとに物騒になっていきました。どの魔術にはどの動物の心臓がどれほど必要だとか、神を復活させる儀式にはどうしても人間の魂が必要だとか、しかし誰を犠牲にすればいいのかだとか。彼が悩みながら書いたのであろう「儀式」の贄になる候補者リストには、小さく私の名前も書かれていました。それを見たときは危うく腰を抜かしそうになりました。私はそこでやっと、この手記の危険性に気づいたのです。思わず、手記を放り投げました。そして、背筋を凍り付かせながら辺りを見回しました。死角から頭を殴られ、贄として怪しげな礼拝堂に連れ込まれる自分をありありと想像してしまったのです。でも、これを書いた父はもういない。少なくとも、自分が父の狂信を間近で認識する機会はもうない。冷静になってそれだけ確認できた私は、気を取り直して手記を手に取りました。しかしそのすぐ後、私はまた手記を放り投げることになります。
 手記の最後には、震える文字でこう書いてありました。「私が贄となろう。私が主の肉となる。だから宗、どうかお前が主の依代になってくれ。このような大役、お前に任せきってしまうこと、心苦しく思う。だが分かってほしい。主の復活により、この世界は平穏を取り戻す」
 私の精神は限界を迎えました。あの父が、真面目で聡明で、愛していたかと問われれば分からないけれど、少なくとも心から尊敬していたあの彼が、なぜこうまで狂ってしまったのか。私は手記を壁にぶつけて泣きそうになっていました。

しかし、ぶつけた拍子に手記から一枚の紙が落ちました。まだあったのです。ここまで来たらと、私は動悸が収まるのを待ってから紙を拾いました。紙にはある図が書かれていました。少し考えて、その図は書斎の間取り図だと分かりました。そして、その図の隅には×印がつけられていた。その印が何を意味するのか、混乱した僕でもすぐに気づきました。
おそるおそる×印のついた場所に行き、注意深く観察してみると、床に小さな突起のようなものが見つかりました。その突起をつまんで上げると、下に取っ手が隠れていました。取っ手を引くと、下には階段がありました。あの、幼いころにあったらいいなと妄想していた、家の地下室。それがまさかこんな、考えうる限り最悪の形で実現するなんて、誰が予想できたでしょうか。
地下へ続く階段は黒一色に覆われていました。まるで質量をもった黒が書斎の光を取り込んでいるかのように思えました。今思えば懐中電灯でも持って行けばよかったのだと思いますが、私は憑かれたように階段を下っていきました。横幅は狭く、勾配はきつい、本当に人が使うことを想定しているか怪しいような階段です。それが予想の他長く続きました。一段下りるたびにギィギィと音が反響し、それがまるで自分の心の音であるかのような錯覚に陥りました。
やがて階段が終わり、床は頑丈なものに変わりました。壁をついていた手にスイッチ状の突起が当たったので押してみると、いくつかの古ぼけたカンテラがぼうっと辺りを照らしました。私の目に飛び込んできたのは、部屋を二つに分ける巨大な格子、そのこちら側に散乱している動物の髑髏、そして、向こう側にある巨大な赤黒い円。覚悟していたとはいえ、やはり私は震えました。父は私が思っていたよりも遥か深い闇に踏み入っていたのです。
赤黒い円の中には奇妙な模様が描かれていて、私はなぜだかその模様に釘づけになりました。その模様の下で何かが蠢いているような、私を見つめているような気配。果てしなく不気味でしたが、不思議と危険は感じませんでした。まるで悪霊に頭を撫でられているような印象です。はたしてこの状況を受け入れることが吉か凶か、まるで分からない。

 そのときでした。何もない円の中から、黒く巨大な細いものが出てきたのです。それも、三本。それは円の外まで伸びて床をがつっと突きました。次に円の中から出てきたのは、その三本を生やした頭のようなものです。といっても、もちろんそれは人間のものではありません。
 非常に形容しづらいですが、それを例えるならば、「三本足の蜘蛛」とでもいいましょうか。蜘蛛といえば八本足なので、この例えが適切かは怪しいですが、これが一番近い気がします。そうですね、あまりこのような言い方はしたくありませんが、子どもに足をもぎ取られ、三本足になってしまった蜘蛛を想像してみてください。それがゾウの二倍はあろうかという大きさで現れたのです。私の恐怖が理解できるでしょうか。
 私は息の吸い方も忘れて、その場に崩れ落ちました。危険な感じがしないだとか、そんなことでかき消せるような恐怖ではありません。自分より強いもの、自分より巨大なもの、自分では理解できないものに対する、単純で絶対的な恐怖が私を丸呑みにしました。
 蜘蛛の顔がこちらを向き、赤い宝石のような眼が私を捉えました。その瞬間、蜘蛛は口を開いたかと思うと、その内部から細い触手を何百と出してきました。それはゆっくりと私に向かって伸びてきている。しかし私には逃げる気力が残っていませんでした。
触手は、そのままたやすく私の身体に入っていきました。両親との、そしてあなたや一哉との思い出が、頭の中を一気に駆け巡りました。でも、不思議なことに痛みがない。意識もはっきりとしている。少し冷静さを取り戻しかけたところで、ぞるりと身体から赤黒いものが出てきました。それは私の恐怖を表すかのよう激しく脈打っていた。触手は、私の身体から心臓を抜き取ったのです。
 心臓は、触手とともに蜘蛛の口内に運ばれていった。まるで元々そこにあるのが正しかったかのようにです。そしてすぐ後、妙な音が鳴りました。音にするのが難しいですが、あえて表してみるなら、くひゅうるるる、という感じです。それが蜘蛛の鳴き声のようでした。そして今度はその足を私の方へ伸ばしてきました。その細い足は格子を通り、私のすぐ目の前まで来ました。私はまた何かされるのかと思いましたが、足は私の目の前で止まったままです。そして、何かを待つようにじっとしているのです。私には何が何やら分かりませんでした。
 足をよく見ると、それは紫がかった薄い粘膜で覆われていました。強い酸なのではないかと私は勘ぐったのですが、床に垂れても何も変化はありませんでした。ですので、というか、まあ、どういうわけか、私は蜘蛛の足に触れてみようと思いました。触れると案の定ベットリと粘液がついてしまいましたが、蜘蛛はくひゅーるるるぅ、と一際大きな鳴き声を上げると、足を引っ込めました。満足してくれたようでした。まだ蜘蛛に対する漠然とした恐怖はありましたが、この時から愛着がわき始めたのも確かです。心臓を取られたことなど、すっかり忘れていました。

 その後蜘蛛が私の手の届かない場所でじっと動かなくなって、私はようやく我に返りました。これをそのままにしておくわけにもいかないが、ここにずっといるわけにもいかない。何はともあれ、いったん上に戻ることにしました。書斎から見える空はもうすっかり暗くなっていて、母が夕食をつくっている音が聞こえていました。隠し扉を閉めて取っ手も隠すと、何のことはない、いつもの書斎です。長い間白昼夢を見ていたのではないか、と思ったのも束の間、私は自分の手についた粘液に気づきました。母に見つからないように洗面所へ行って洗い落としました。正体の一切分からない粘液を落としていると、先ほどの恐怖が実感を伴って蘇ってきました。さすがにまた崩れ落ちることはなかったものの、息が荒くなりました。そこでやっと私は、自分の心臓の音が一切しないことにも気づきました。
 母はいつも通りの態度で、私はとても先ほどあった出来事を話す気になれませんでした。母はこのことをどこまで知っているのか。思えば確かに不思議でした。父が亡くなったとき、確かに母は深い悲しみに暮れているようでしたが、しかしどこか覚悟の上であったかのような態度でもあったのです。そのときは、強い人だな、と思ったくらいで怪しむことはなかったのですが、こうなってしまえば話は別。いつか確かめなければならないと考えつつ、味のしない夕食を噛みました。
 翌日の午後になって、私は蜘蛛の様子が気になってきました。母は仕事に出ていたので、私は居間に置いてあるお菓子を適当にいくつか持ってまた地下に行きました。お腹を空かせているかもしれない、と思ったからです。心臓さえ奪われておきながら、なぜ私が喰われるとは思わなかったのでしょうね。人間の驕りか、はたまた既に精神がおかしくなってきていたのか、定かではありません。
 私が地下に来ると、蜘蛛は待っていたかのように早足でこちらに寄ってきました。また足を伸ばしてくるので撫でてやると、例のように鳴きました。
「お菓子、持ってきたよ……食べる?」
 蜘蛛に言葉が通じるかは分かりませんでしたが、一応そのように呟いてから蜘蛛にお菓子を見せました。すると蜘蛛は、口から触手を出して器用にお菓子を取っていきました。次々と取っていくので、きっと気に入ってくれたのだろうと私は思うことにしました。また少し蜘蛛への愛着が湧いたのを自覚しました。
「君のこと、なんて呼べばいいかな」
 そんなことを蜘蛛に語りかけたくらいです。蜘蛛が私の言葉に反応して、お菓子を取るのをやめてじっとこちらを見つめてくるので、私は焦りました。ここで私は、父の手記が正しければこの子は邪神なのだということに気づき、急に恐れ多くなりました。
「あ、そういうのが嫌だったら別にいい、ですけど」
 露骨に取り繕ったような敬語で、我ながら辟易して、すぐにやめようと思い直しました。ただ、、蜘蛛は先ほどと同じくじっと私を見つめていたので、名前を付けられるのを待っているのだと解釈しました。その解釈は今思えば少し強引な気がしますが、その時の私は半ば確信気味にそう思っていたのです。
その後私は、しばらく考えました。この子らしい名前は何だろう、と。この子について考えるとき、まずイメージするのは「蜘蛛」と「粘液」でした。
「ミヅモっていうのはどうかな。あの、ミズ、と、クモ、で」
 蜘蛛は、ミヅモはくひゅぅるるうと鳴きました。
 最初の方で書いた「ミヅモ」というのは、紛れもなくこの子のことです。これがミヅモとの出会いともいえるし、また後で、もう一度出会うともいえます。それがどういうことか、まだよく分からないでしょうが、ちゃんと流れに沿って後に記します。

 それからというもの、夕食の残りや買ってきたお菓子をミヅモに与えるようになりました。ミヅモは私が持ってくるものなら何でも食べました。そして、嬉しそうに鳴くのです。たまに「邪神」ということばが心に引っかかりましたが、当のミヅモは姿こそ怪奇そのものですが、とてもそのような崇高な存在とは思えませんでした。刷り込みに近いものなのか、私に懐いている節さえあったのです。ものを食べると喜ぶし、私が撫でると喜ぶ、それどころかある程度ことばを理解しているようで、何か褒めたりするとそれもまた喜ぶようでした。
 ある日私は、もっとミヅモに近づいてみたくなりました。というのは、つまり、格子の存在が煩わしくなったのです。ミヅモは格子から出せるものといえば足の先くらいしかありませんから、私がミヅモに触れられるのはそこだけです。私はそれが不満でした。
 格子のこちら側はある程度生活ができるような空間になっていました。机と椅子、空きのある本棚、それにベッドまで。そのベッドだけはやけに新しく、部屋の中で浮いていました。まあ、それは置いておくとして、そのサイドテーブルには赤錆びた鍵が置いてあったのです。それが格子の鍵であろうことは想像がつきました。
 その鍵を格子の鍵穴に差し込むと、同じく錆びきった格子は意外なほどあっけなく開きました。私はついにミヅモと同じ空間に足を踏み入れたのです。ミヅモは、いつもとは違う私の行動に驚いたのか、警戒したようで部屋の隅に寄ってしまいました。「大丈夫だよ」と両手を広げると、ミヅモはおそるおそる私に近づいてきました。そしていつものように、僕の目の前に足を伸ばしてきました。私が撫でてあげると、静かに足を引っ込めて、それきり動かなくなりました。
 格子一枚を取り払っただけで、ミヅモの姿は随分と大きく見えました。テレビの向こう側にあった東京タワーを初めて間近で見た時と同じような心境です。もう完全に慣れたとばかり思っていましたが、少しだけ怖いと感じました。どうやらミヅモは人の感情にとても敏感なようで、どこか寂しそうにしていました。悪いことをしてしまったと後悔していると、ミヅモはぐいと頭を下げてきました。少しでも自分を小さく見せよう、ということだったのでしょう。私は申し訳ない気持ちでミヅモの頭を撫でました。

 それから数日後、私はそれとなく母に「父が書斎で何をしていたか知っているか」という旨の質問をしました。上でも触れていたように、ミヅモのことを話してみようとようやく決心したのですが、いきなり本題をぶつける勇気は私にはなかったのです。
 しかし母は、それだけで何かに気づいたようで、「やっぱり、そういうこと」と呟きました。どういうことかと聞くと、彼女は複雑な表情で私を見ました。
「復活させたのね、あれ」
 母は、やはり父の野望を知っていたのです。
 話していくうちに、母が父に手放しで賛同しているわけではないということも明らかになりました。母は黒魔術が単なる父の妄想ではないことも知っていた。それどころか、黒魔術自体には肯定的な態度のようでした。しかし邪神の復活に関してだけは父に反対していて、父が邪神復活のための生贄になろうとしていること、自らの野望を私に継がせようとしていることについては随分と口論になったそうです。
 父と母でどのような意見の相違があったのか、母はそこそこに詳しく説明してくれましたが、あまり理解はできませんでした。黒魔術に関する背景知識があればまた違ったのでしょうが。とにかく、母の意見を簡単にまとめてみると、こういうことです。

・邪神復活の儀式は時代が流れるにつれて誤解・曲解が増え、原典通りの正しい方法が書かれた魔導書は世界にいくつもない。それゆえに、いまや儀式が成功する確率は天文学的数値になっている。
・そして万が一儀式が成功したとしても、それで世界平和が訪れるとは到底思えない。一般に「邪神」と呼ばれているのは伊達ではなく、邪神は人間に災いしか与えない。
・そんなことに自分の命を賭けること、子どもの人生を巻き添えにすることを受け入れられはしない。

 イメージ的には、父がタカ派で母がハト派だったと、そういうことなのでしょう。
 最終的に争点となったのは成功確率の低さでした。私の身の安全ではなかったことに私は少なからずショックを受けましたが、まあ、それはともかく、父自身はその方法が原典通りの方法であるという確信があったようです。しかし母はそれを信じられなかった。そして次のような妥協案に至ったのです。

 父の命は、父だけのものだから、自分のために命を使う権利がある。だから儀式の生贄として父が命を捨てようがそれを止めはしない。しかし子どもにまでその道を強制してはならない。黒魔術について、儀式について知ったうえで、宗に最終的な選択を任せる。

 父は復活の儀式を成功させ、私はミヅモを受け入れた。ここまで父の望み通りにいくなど、母は予想だにしていなかったそうです。予定では、父が死んでから私が落ち着き始めた頃に、母が儀式について説明をする、という流れだったらしいのですが、母は私に説明をする気などなかった。
そもそも、公正に私への判断だけに任せるつもりなら、父が死ぬ前に二人で私に説明をすればいい。父が死んでから説明、という形をとったのは母の策略でした。すでに父は儀式を進めて心を蝕まれ、正常な思考ができない状態になっていた。それを利用し、自分が有利となるような条件を呑ませたのです。いえ、呑ませたつもりだった。しかし父は父で手記を用意して、私を誘導した。私が見たくなるよう、そして母には見えないよう魔術をかけていたのだろう、と母は吐き捨てるように言いました。
ミヅモは私の心臓を得た。それにより、私という存在は生物というより、ミヅモの依代に近い存在となっているのだと母は言いました。そして、私が普通の人生を歩むことは、もう不可能に近いと。邪神に魅入られてしまえば、あとどれだけ生きられるか。私は、ミヅモがそのような恐ろしい存在とは思えないと反論しました。でも、「人外に取り憑かれた者は皆そう言う」と返され、私は何も言えなくなりました。そのようにして悪者に騙される物語を、私はいくらでも挙げられます。それでも私は、自らの運命を実感できませんでした。
母は、邪神から何か授かったかと尋ねてきました。私は心当たりがなく、強いて言えば粘液くらいしか受け取っていなかったので、素直に「何も」と答えました。すると母は、いささか驚いた顔をしました。母にとって、それは奇妙なことだったようです。
どの邪神も大抵、召喚者に対しては復活の礼に力を授けるのだそうです。邪神は気分屋、というか人間では計り知れないような思考をする神が大半で、授ける力にはバラつきがあるらしいのですが、運次第ではそれだけで国を支配できるような力も授かるのだとか。父はそれによって世界平和を実現しようと思っていたそうなのですが、とにかく、私には何の力も授かったような感じがしない。
少し考え込んだあと、母は「邪神に会わせてほしい」と言いました。言い伝えにそぐわない部分もあるし、このまま私が邪神と一緒にいても大丈夫か判断する必要がある、とは言っていたものの、個人的な好奇心が強く混じっているであろうことは私から見ても明らかでした。(この場合、信仰心と言った方が適切でしょうか)
私はミヅモが私以外の人間にどういう反応を示すのか不安に思いましたが、断りはしませんでした。あの子がそう簡単に人に危害を加えるとは思えませんでしたから。私は地下室へ母を案内しました。

地下室に母が入ったときでした。急に強烈な甲高い音が部屋中に反響したのです。私も母も咄嗟に耳を塞いでうずくまりました。だから、それがミヅモの鳴き声だと気付くのにはしばらくかかりました。私は必死で鳴くのをやめるよう訴えました。10回ほど叫んだあたりで、ようやく声が小さくなっていきました。私の声が届いたからか、単純にミヅモが疲れたからか、それは分かりません。
音が止み、ふらつきながら立ち上がった母は、そこで初めてミヅモの姿を見ました。ミヅモは、私が格子を開けて入ってきたときと同じように部屋の隅にいました。怯えているようでした。それを見た母の最初の一言は、
「なにあれ」
 でした。
 たぶんあれが母の言う邪神だと告げると、母は信じられないというふうに愕然とした表情をしました。
「確かに見た目は伝説と一致する……けど、人間に怯える神なんてありえない」
 時が止まったように誰も動きませんでした。埒が明かないので、私はミヅモを呼びました。ミヅモはゆっくりと、おそるおそる私たちに近づいてきました。それを見た母はまた驚きました。
「神を手懐けてるの?」
 私は否定しました。懐いてくれている、という感じはありましたが、別にそれで私が何かしようというわけではありませんでしたから。まあ、確かにこのときはペットとして扱っている部分がないわけではなかったのですが。
 母は目の前に来たミヅモを見つめながら、難しい顔で考え込み始めました。何を考えているのか気になって母を見ていると、やがて母は私にミヅモの伝説を教えてくれました。
 それによると、ミヅモは邪神の中でもかなり上位の存在なのだそうです。しかし、遥か昔ミヅモは一度この地球に降り立ち、罪を犯した。その罪の内容は本によってバラバラなのですが、とにかくミヅモは最上位の神々の怒りに触れてしまった。それ以来、太陽系のある星の内部で氷漬けにされていた。
地球に残っているどの本でもミヅモに関する記述は少ないのですが、現存する神々の中でほぼ間違いなく最も地球近くにいる邪神だからか、復活を望む崇拝者は多いのだとか。
 悠久の封印で記憶と力を失ってしまったのかもしれない、というのが母の推測でした。母は露骨に興味を削がれたような顔をしました。同時に、ミヅモを見る目が厄介者を見るような目に変わったのが分かりました。あんまりな手のひらの返しように私は多少なりとムッとしましたが、なんとか堪えました。だって、母からしてみればそれは当然のことです。何をするか想像もつかない怪物が地下にいるのですから。
 母は私に言いました。懐いているみたいだから、邪神は私に任せる。定期的に様子を見てほしい。決して他の誰かに見せてはいけない。そして、危ない気配を感じたらすぐに逃げて自分に報告するように、と。一応私の身を案じてくれているようで、私はほっとしました。でもそれと同時に、もしミヅモが完全な状態で復活していたら、母は私をどうしていたのだろうという考えがよぎり、少しぞっとしました。
母は、ミヅモを再び封印状態に戻す方法を探してみると告げました。私はそれを拒みましたが、いい加減にしろと叱られました。

 それから数日、私はミヅモのいる地下室に入り浸りました。いつ母が封印の方法を見つけ、別れが来るか分かりませんでしたから。別れが近いとなれば、これ以上情が移らないよう距離を取る方がよいであろうことは私も分かっていました。でも、もう既にそういう段階ではなかったのです。
 ある日の朝、また格子の向こう側でミヅモと戯れていると、突然私を呼ぶ声が聞こえてきたので、私は慌てて格子から出て鍵を閉めました。もちろん、声の主は母です。懸命に取り繕いましたが、やはり格子の扉を開け閉めする音は聞こえたようで、「さすがに格子の中に入るのは危ないからやめなさい」と軽く叱られました。その後、一哉が来たと伝えてくれました。あなたも知っているかもしれませんが、彼は基本的に事前の約束なく遊びに来ます。
 彼はいい奴ですが、あちこちに気を回せるタイプではありません。しかし、この時はさすがの彼も気を遣ってくれていたのだと思います。遊びに来たという割には随分と複雑な表情をしていたのを覚えています。
 玄関まで来たはいいものの、正直なところ私はそのとき一哉と遊びたくはありませんでした。もっとミヅモと一緒にいたかったのです。とはいえ、こんな顔をして遊びに来てくれた友人の思いを無下にするわけにもいかず、私は一哉を家に入れました。母はそのすぐ後仕事に出たので、一哉と二人になりました。なぜだか、まるで母の客人と対面してしまったときのように気まずいと感じたことを覚えています。
私はとりあえず彼を居間に通しました。私と一哉が遊ぶといえば、大抵ゲームです。居間にあるテレビゲーム機を起動して、しばらく格闘ゲームで対戦しました。勝率は過去最悪でした。こういう場合決まって一哉は私を挑発してくるのですが、今回はただばつが悪そうに笑うだけでした。たぶん彼は、その原因が父の死にあると思っていたのでしょうが、もちろんそうではなく、ただ単にミヅモの様子が気になって上の空だっただけです。ですが、さすがにそれを言うわけにもいかず、二人して重い気持ちを引きずりながら対戦を続けました。
7回か8回ほど連敗したところで、唐突に一哉がコントローラーを置きました。
「なあ宗、俺がこんなこと言うのもなんだけど、あんまり引きずるなっていうか……いや違うな、まあ、元気出せよ、な」
 いつもの彼からは想像もできないたどたどしい言葉に、私は限界を感じました。これ以上の罪悪感は背負えない。母がいないのもあり、私はつい「違うんだ」と言ってしまいました。不思議な顔をする一哉に、私はミヅモのことを説明しました。
 私も冷静ではありませんでした。最近父を失ったという人が、いきなり邪神がどうのなんて言い出したら誰だって頭がおかしくなったのだと思います。場は形容しがたい混乱の極みに陥りました。とにかく病院へ行こうと私を引っ張る一哉をなんとか地下室に連れてきました。
 ミヅモは、あのときのような高音こそ出しませんでしたが、やはり若干怯えている様子でした。そして、よく考えなくても当然のことでしたが、一哉はその場で尻餅をつくほど怯えました。しかしここまできたら、もう後戻りはできない。せめて、ミヅモは危険な存在ではないことだけは知ってもらわなければ、一哉が何をするかわかりません。
 私は改めてミヅモについて説明しました。本来は神であること。今は記憶を失っていて自分に懐いてくれていること。大人しく、人に危害を加えるようなことはしないこと。無論、自分がミヅモによって命の危機に晒されていることは言いませんでした。
 一哉はなんとか納得してくれたようで、私を病院へ送ることとミヅモの存在を公にすることは諦めると約束してくれました。しかし気分が悪いといって、その日はそれで帰りました。私は、自分がとうとう見限られたのだと思いました。もう彼が私と遊んでくれることはないのだと。私は一哉を見送ってから泣きました。まあ、これは結局、私の恥ずべき疑心暗鬼にすぎなかったのですが、そのことはまた後に記しましょう。
 重要なのはここからです。一哉が帰って、私はまたミヅモのもとへ行きました。ミヅモは私の姿を見るとゆっくりと近寄ってきましたが、部屋の真ん中あたりで動きが止まりました。どうしたの、と声をかけても反応はありません。こんなことは初めてで、私は戸惑いました。哺乳類とは違って呼吸をしているかどうかも分かりづらいので、ひょっとすると死んでしまったのではと心配しました。そんな中、急にミヅモの身体が縮んでいくものですから、私はパニックを起こしました。届かないと分かっていながら、格子から手を差し伸ばし、ミヅモの名を叫びました。でも、事態は私が想像していたようなものでは全くなかったのです。
 体の収縮は私より少し小さめくらいのところで収まりました。そのときの姿は、潰された蜘蛛そのものでした。しかし私が悲嘆にくれるより先に、ミヅモの身体に変化が起こったのです。
黒一色だったミヅモの身体は、ふっと白に近い透き通るような色に変わりました。次に、なんともグロテスクな音……「ごちゅっ」とか「ぶしゃっ」という音とともに、身体の形が見る見るうちに変わっていきました。その音に合わせミヅモからは赤い水が噴き出し、いつの間にか身体の上部にはぞわぞわと褐色の糸のようなものが何千何万と生えていました。

 察しはつくでしょうか?

 数秒後、ミヅモは人の姿となって私の前に立っていたのです。私より一回り小さい少女の姿でした。彼女は、生まれたての鹿のように震えた足でこちらに向かってきて、そして私に微笑みかけました。
「どう」
 ミヅモの口からかすれた声が漏れました。おそらく、自分の今の姿について聞いたのでしょうけど、私は何も言えませんでした。あまりにも、あまりにも急な展開と異常な事態に、頭が真っ白になってしまったのです。
 先ほど触れた通り、ミヅモからは赤い水――血が噴き出していて、しかも当然服なんて来ていないから、つまるところ全裸で。しかも、実はミヅモの変身は完全ではなかったのです。足や手はところところ黒ずんでいましたし、腕は左右に二本ずつで、極めつけは右目が二つでした。私は、どこにどこからどのように反応すべきか全く分からなくなりました。
「なにか へん?」
 ミヅモは私のところへ寄ってきて、心配そうに顔を覗き込みました。
「い、いや、何も」
 おかしいところはたくさんあったのに、私はこう答えてしまいました。彼女はそれを聞いて嬉しそうに笑いました。
「しっ てるよ。人の血は赤い 手と足があっ て、 かみ、の毛 目、はな、口、……あと耳。うん できてる」
 そして、自分の姿を手で確認するようにして順に触っていきました。なんだか、聞いていると不安になりそうなしゃべり方だったのをよく覚えています。声自体は普通の少女なのですが、発音の仕方でしょうか、言葉の切り方でしょうか、とにかく歪でした。
「ミヅモ……なんだよね?」
 ミヅモは不思議そうに首をかしげながらも肯定しました。混乱の末に、私はミヅモの容姿についてはひとまず置いておいて、状況の確認から始めようという結論に至りました。
 それによると、やはりこれはミヅモが自主的にやったことでした。その理由は、この方が宗と一緒にいられるから、だと。私が母や一哉と一緒にいたことから、そう思ったのでしょう。飼われている犬や猫は自分のことを人間だと思っている、なんていうのはよく聞く話ですが、ミヅモは自分と私たちが違う存在であることを理解していたのです。とはいえ、ミヅモは仮にも神なのですから、犬猫と比べるのもおかしいですね。
 母の言う通り、彼女が記憶を失っていることも分かりました。ここに来る前は寒い場所でずっと眠っていたと、その程度のことしか覚えていないらしいのです。ただ、私がミヅモを復活させたこと、今のミヅモは私の心臓によって生きることができているということだけは分かっていると言って、彼女は「ありがとう」とお礼を言いました。私は、それを返してとは絶対に言えなくなりました。
 ある程度話が落ち着いたところで、私はミヅモの状態を改めて認識しました。彼女は相変わらず血塗れなのです。
「その血は、ミヅモの? 大丈夫?」
「うん 人のまねし てるだけだから これ、は血じゃない」
 それを聞いて、ひとまず安心しました。まあでも、それは彼女の様子からなんとなくわかっていたのです。問題は彼女がどうとかよりも、むしろ私が彼女の姿を見ていられないということでした。
「じゃあ……とりあえず、それを洗い流そうか。お風呂って分かる?」
「おふろ! うん、わかる。水を浴び る場所 ひとのことばは 少 し聞けば、知らなくても わかるようになる」
 ミヅモはそう言いましたが、それがどういうことかはいまいち分かりませんでしたし、正直なところ今も自信がありません。おそらくは、ですが、ミヅモは知らない言語でもなんとなく意味を理解できる能力を持っているようです。まだまともに日本語を聞いていないのにここまで話せていたのも、この能力によるものでしょう。当然ながらこれは彼女がその言葉の概念を知っている場合に限られるので、携帯電話や車などは説明しないと理解できないようでした。
 私が格子の扉を開けると、ミヅモはゆっくりと中から出てきました。そのときの彼女の顔といったら……。私が今まで見てきた中で、一番幸せそうな顔でした。そして勢いよく私に抱きついてきたのです。もちろん私の肌も服も偽の血で赤く染まりましたが、そんな彼女を責められましょうか。ただでさえ私は、異性からこのように抱きつかれるなんて初めてだったのです。
「やっ と会えた。シュウ すき」
さらにはこんなことまで言うので、私は温かい気持ちで満たされました。そのまま彼女の頭をなでてあげると、くすぐったそうに「くひゅふふ」と笑いました。彼女の三つの目がどれもふにゃりと細まるのが、たまらなく愛くるしい。最初は不気味にも思えた彼女の三つ目でしたが、それですぐに慣れました。
そもそも、私は蜘蛛の姿のミヅモをずっと可愛がっていたのですから、今さら三つ目が何だという話です。強くしっかりと抱きしめてくる四本腕の感触もまた愛おしい。私は、姿の間違いを訂正するのはやめておこうと決めました。
 初めて地下室を出たミヅモは、何を見ても目を輝かせました。書斎の本、廊下の電気、洗面所の鏡、蛇口、洗濯機、タオル……。ただ、そのたびにはしゃいで飛び跳ねたりするので、どこもかしこも血だらけです。私はミヅモをお風呂場に入れた後すぐ、血を拭きに戻ったのですが、何秒もしない内にミヅモが私を呼ぶ声が聞こえたのでまたお風呂場に戻りました。お風呂場でたたずむ彼女はこう言いました。
「水は どこ?」
 彼女はお風呂を知っていてもシャワーは知らなかったのです。
 私は迷いました。このまま「ここをひねればお湯が出る」と教えたところで、ミヅモが使いこなせるとは思えない。私が一緒についていた方がいろいろと安全です。しかし、女の子と一緒にお風呂に入るということに強い抵抗があったのです。彼女の本当の姿が蜘蛛だとしても、今も裸の彼女を見ているのには変わらないとしても、です。といっても、この気持ちはあなたには分からないかもしれませんね。
 最終的に、私はミヅモとお風呂に入ることにしました。一応上着だけ脱いでお風呂場に入り、シャワーについて教えました。しかし、いまいちピンときていない様子でしたので、私はお風呂用の椅子にミヅモを座らせて後ろに立ち、自分でシャワーを持ちました。シャワーの水がお湯になるのを確認してミズモにかけました。するとすぐ「ぎゃっ」と小さい悲鳴が漏れたので、慌ててシャワーを止めました。
「あつい びっくりした」
 ミヅモは涙声でそう言いました。お湯の温度を見ると37度となっていたので、一瞬おかしいなと思ったのですが、よく考えれば誰だって予期せずお湯をかけられたら驚きます。先の会話で分かるように、ミヅモは水が出ると思っていたのです。そこで、まず手のひらにお湯をかけて慣らしてあげました。しばらくすると「もうだいじょうぶ」と言うので、私は改めてシャワーをミヅモの頭にかけました。
さらさらと血が流れていくと、彼女の褐色の髪や白い肌がまた見えてきました。彼女は「人のまねをした」と言っていましたが、少なくとも日本人をまねたわけではないようです。たぶん、欧州の方……それもイタリアとかスペインとか、地中海周辺の人に近い容姿でした。私の地理の知識が合っていれば、ですが。自信はありません。遥か昔に一度地球に来たという話ですから、そのときの記憶を使ったのでしょう。(記憶にはエピソード記憶と意味記憶という区分があって、記憶喪失によって失われるのは専らエピソード記憶、つまり思い出や出来事らしいですよ)
あれだけの血を浴びたのだし、お湯で洗い流すだけでは不十分だろうと思い、私は軽くシャンプーでミヅモの髪を洗いました。女の子の髪の洗い方なんていうのは当然分からず、普段自分がしているように洗いました。ミヅモの髪は肩につかない程度と短かったので、まだなんとかなりました。
一応言っておくと、身体を洗うのはミヅモに任せました。ボディソープとボディスポンジの説明を懇切丁寧にして、私はお風呂を後にしました。そして今度こそあちこちの血痕を拭いて回りました。ただ、身体を洗い終えたミヅモが水浸しのままそこら中を歩いたので、私は再度この作業を行うことになります。
ミヅモにしっかりと身体を拭いてもらったところで、次は服です。彼女は四本腕ですから、どうしたものかとしばらく悩みました。その末に、私の普段着ているタンクトップを着てもらうことにしました。ミヅモからすればかなり大きいサイズですし、きっと四本腕も通るのではと思ったのです。私は彼女を自室に案内しました。
ミヅモは私の部屋に入ると俄かにはしゃぎだし、ベッドに飛び込みました。「やわらかい!」と喜び、しばらくごろごろしていました。その間に私はタンクトップと、もう使わなくなった小さめの下の寝間着を引き出しから見つけました。ミヅモは服の概念こそ知っているものの着たことはないらしく、服を着るだけで結構な時間がかかりました。でも、タンクトップは見事彼女の四本腕を通しました。
こうして、とりあえずは目のやり場に困ることはなくなったものの、私はそれからどうするか考えていませんでした。このまま部屋に置いておくというのもまずい気がするけれど、かといってまた地下室に閉じ込めるのも違う気がする。いっそ何も考えずに寝てしまいたいけれど、ベッドはミヅモが占領している。
……母に相談してみよう。結局、私は自分で判断するのを避けました。でも、このときはそれが最善だと思っていたのです。母だって人間の姿を見ればミヅモのことを無下にはできない。この家にはまだ空き部屋がいくつかあるのだから、そのどれかをミヅモに貸すくらいどうということはない。……それで、ミヅモは正式にこの家の地上で暮らすことを認められる。ミヅモが家族になる。そのような夢を見ていました。そんなはずないのに。

「地下室に戻してきなさい」
 聡明なあなたなら予想はついたでしょうが、仕事から帰ってきた母の答えはこれでした。当然です。人間の姿になれば安心だと楽観していたのは私だけでした。ミヅモが神であること、ミヅモが私の心臓を奪ったことは変わらないのです。
 こんな少女を地下室に閉じ込めるなんて、と私が言うと、母は「少女じゃない。少女の仮面を被った怪物にすぎない」と返しました。私は反論できませんでした。私はそのことを一番よく知っているのです。あの蜘蛛だったミヅモが形状を変えて人間になる、さながらスプラッター映画のようなその光景をこの目で見たのですから。
ミヅモも母の剣幕に委縮して、何も言えないでいました。僕が何か言わなければならない、と頭を回転させていると、ミヅモは母に背を向け、とぼとぼと歩き始めてしまいました。どこへ行くの、と聞くと、「ちかしつ」と答え、そのまま書斎へ入っていきました。僕は彼女を追いかけました。
ミヅモは、格子の扉の前で立っていました。扉を開けようとしているようでしたが、彼女は鍵の開け方を知らなかったのです。
「どうしてあんな簡単に諦めるんだよ。ミヅモだって、ここから出られたときは喜んでたじゃないか」
僕が問うと、彼女は悲しげに僕を見つめました。
「だって、  ……シュウ 困っ た 顔してた」
 ミヅモは彼女なりに、僕に気を遣ってくれていたのです。僕が考えていたのとは、まるで逆の立場。何も言えない僕に代わって、彼女が波の立たない方法を選んでくれた。彼女は僕よりもずっと、決断できる子だったのです。
彼女は扉に手をかけて言いました。
「中に 入れて」
 こんな悲しい「中に入れて」があるでしょうか。
 僕は結局、ミヅモの言う通り、鍵を開け、彼女を中に閉じ込めました。母に何も言えず、ミヅモにさえ何も言えず、結果としてただ二人の言う通りに動いているだけの自分が、本当に情けなかった。
「楽しかっ た。ちょっ とだけシュウと一緒にいられ て。おふろ と、ベッドも」
 格子越しに彼女が言いました。
「ごめんね。またここに来るから。今度はもっといろんな物を持ってくるよ」
「うん ありがとう」
 そのときの彼女は、とても大人びた笑みを湛えていました。

 それから僕は、地下に行くたび何か持っていくようになりました。お菓子のバリエーションも増やし、ミニカーやぬいぐるみなどの玩具に、漫画、ゲームなども。その中で、彼女は目があまりよくないことも知りました。おそらく、このことも彼女の人への変身が完全ではなかった一因なのでしょう。
このことが判明したきっかけは、文字の習得の困難にありました。彼女はあっという間にたくさんの言葉を覚えていきましたが、文字は一切覚えられないのです。彼女いわく、全部同じに見えると。最初はまあ、言語習得と識字は違うか、くらいに思っていたのですが、ある日さすがにおかしいと思い、手作りで簡単な視力検査表を作ってやってもらったところ、結果は散々でした。試しに安い眼鏡を買ってかけさせてみましたが、結果は同じ。しっかり検査をして、自分の目にあった眼鏡を付けられれば違ったのかもしれませんが、さすがにそんなことをするわけにもいかず、彼女の視力については諦めることにしました。
 それ以来、僕は彼女に本を読み聞かせることが多くなりました。そのときが一番、ミヅモが楽しそうな顔をするのです。また、これによって彼女が人並みの常識と倫理観を身につけてくれたら、あるいは普通に生活することができるようになるかもしれない、という狙いもありました。
 あるときは、彼女の新しい服を買ってあげました。女性の服を買うのは少し勇気がいりましたけど、さすがにいつまでも僕のタンクトップと寝間着ではいけないと思ったので。買ったのは肩紐型で藍色のワンピースです。やはり一人では着られないようだったので、久しぶりに僕は格子の内側に入りました。タンクトップと寝間着を脱がしてワンピースを着せると、見違えるように女の子らしくなりました。
 ミヅモは、見かけ相応の女の子らしく喜び、周りをぐるぐると歩きました。かと思えば、僕の方を振り向いて「にあう?」と聞いてくる。僕は当然「似合うよ」と答える。すると彼女はくひゅふふ、と笑う。幸せな時間でした。
 いつも通りミヅモの頭をなでてあげると、彼女は目を細めました。けどいつもと違い、彼女は突然「シュウ」と僕の名前を呼びました。なでているときに彼女が何か言うのは初めてだったので、少し驚きつつも「どうしたの?」と、なでるのをやめて顔を覗き込むと、
 ミズモはいきなり僕にキスをしてきました。僕は驚いて硬直しました。彼女は僕とは対照的に、柔らかな表情をしています。
「シュウが 教えてくれた。キスは、好きな人に する」
 僕は硬直したままでした。
言うまでもないですが、これが僕の初めてです。
僕は硬直していました、硬直していましたが、頭の中は今までにないくらい忙しなく動いていました。普段は難しい事態に直面すると怠けがちの僕の頭ですが、このときばかりは、思考を停止してはならないという意志が勝りました。だって、ここで思考を停止するとミヅモを傷つけてしまいますから。
僕は、ミヅモの認識を「家族」から「異性」に切り替えるレバーが倒れないよう、必死になっていたのです。今までもずっとそうでした。一緒にお風呂に入ったときも、服を着替えさせたときも。でもそのときは、「ミヅモは僕のことを家族だと思ってくれている」という意識があったからこそ、踏みとどまれたのです。そのタガが外れてしまった。
さらに、ミヅモに着せたワンピースは、彼女の四本腕を考慮して緩い肩紐型にしたために、上から眺めると、胸が、見えてしまう。
僕は何も考えられなくなりました。
あまり詳細に書いたところで不毛なだけですから、結論だけ書くと、僕はミヅモを襲いました。そして彼女は、それをあっさりと受け入れました。それ以降、僕とミヅモは度々行為に及ぶようになりました。彼女は、その行為をとても気に入ったようで、貪欲に僕を求めました。彼女自身が喜んでいるのだから、という口実を振り回し、僕もまたそれに応えました。
思春期の男と貞操観念が存在しない少女とがずっと一緒にいれば、遅かれ早かれこうなるのが当然だったといえるかもしれません。……そんなの、言い訳にすらなりませんね。


 この先をあまり書きたくなくて、しばらくの間筆が進みませんでした。それで、少しこの手紙を読み直してみたのですが、ひどいですね。いらないことばかりつらつらと書いているし、いつの間にか一人称も変わっているし。
……まあ、いいか。体裁を気にしていると余計に筆が進まないから、もう日記か何かのつもりで書くことにする。本当のところ、もう時間がないんだ。早く書き上げなきゃいけない。
そんなこんなで、僕はミヅモと爛れた夏休みを過ごし続けた。そんなある日、また一哉が来た。ちょうど今から行為をしようかといういい雰囲気のときだった。母はもう仕事に出ていたから、一哉は勝手に入ってきた。そういう奴だ。それで、あちこち探し回っても僕がいなくて、最終的にこの地下室のことを思い出したらしい。
階段を下りる音がして、僕は慌てて格子の外に出た。分かり切っていたけど、一応「誰、一哉?」と声をかけると、「おう」と返事が来た。その声からは、この前ほど強い緊張は感じない。吹っ切れてくれたのか、それなら僕も気まずい思いをしなくて済む、と安堵したのもつかの間だった。降りてきた彼は、僕の顔を見るなりぎょっと怯んだ表情を見せた。どうしたんだよ、と聞くと、カンテラの光に照らされて、僕の顔が幽霊みたいに見えたのだと言う。
「お前、だいぶ痩せたな。大丈夫か?」
 僕は、そんな感じはしなかったので驚いた。でも、身体に異常があるわけでもないし、大丈夫だと告げた。「それならいいんだけど」とどこか腑に落ちないように一哉は呟いた。そして気を取り直すように、僕に顔を向けた。
「まあ、この前は悪かったよ。いきなり帰って。ただ、今日はお前に言いたいことがあって――」
言葉の途中で、彼は息を呑んだ。今度は視線の先から、ミヅモを見て驚いたのだと分かった。
「お、おい、あれ、あいつは何だ、誰だ」
「あの子は、この前見せたミヅモだよ」
「はあ? だってあのときは、虫みたいな姿だったろ」
「うん。この子、人間に変身できるみたいなんだ」
「はあ?」
 一哉の反応は至極真っ当だったけど、僕は少し苛ついた。
「……カズ ヤ。 久、 しぶ り?」
 そんな僕と一哉の様子を見てか、彼女は極力友好的な態度で彼と接しようとしているようだった。ただ、だいぶ緊張しているようで、話し方が初めて言葉を発したときのように戻ってしまっていた。
 ただ、一哉はそんなミヅモを無視して話を進めた。
「なあ、お前、本当に大丈夫か。あいつに取り憑かれてるんじゃないのか。だっておかしいだろ、こんな短期間でそんなに痩せて」
「何言ってんだよ。この子がそんな悪霊みたいな見かけしてるか?」
「してるだろ。四本腕に……目が三つだぞ。まんま悪魔じゃないか。やっぱりお前、絶対におかしいって。冷静に考えてみろよ」
 確かに僕の感覚が麻痺しているところはあった。ミヅモに出会う前の日常生活で、ミヅモのような少女を道端で見かけたとしたら、僕は腰を抜かして逃げ出したことだろう。それに、取り憑かれているのも事実だ。彼の言うことは正しい。でもそれ以上に、彼がミヅモの気持ちを踏みにじったこと、ミヅモの目の前で彼女を罵ったこと、それによって今ミヅモが明らかに傷ついた表情をしていることに対する、彼への怒りが強く湧き上がった。
「お前こそ冷静になれよ。ミヅモを見ろ。悲しんでるじゃないか」
「見ろってお前、あんな三つ目の顔から表情なんて読み取れるわけないだろ!」
「人より目が一つ多いからなんだよ! 関係ないだろそんなの!」
「……やっぱり 私の姿 人とは 違うんだね」
 ミヅモがぽそりと呟いた。僕は顔がカッと熱くなるのを感じた。せっかくこれまで隠していられたのに。このまま隠していられたら、ミヅモはこんな悲しい顔をすることなんてなかったのに。
「お前いい加減にしろよ! ミヅモに謝れ!」
「はあ!? なんでだよ! 謝るならこいつだろうが、俺の親友に取り憑きやがって!」
「だからっ、無根拠にミヅモを責めるのはやめろ!」

「ごめんなさい」
 謝ったのはミヅモだった。
「カズ ヤの、いう とおり、 シュウを こん なふうにしたの 私 だから、 ごめんなさい」
 
 こんなに責められて、それでもなお、彼女は深々と頭を下げ、謝った。
 それなのに一哉は、鬼の首を取ったように叫んだ。
「ほ、ほらっ! 聞いたか! 本人が認めてるじゃないか!」
 僕は、何もかも思ったようにならない現状に激昂した。
「うるさい! もう帰れよお前! 何しに来たんだ! ミヅモをいじめに来たのか!? なあ!」
「だから、お前に言いたいことがあってきたんだって――」
 僕はもう声を聞くのも嫌になって、一哉の肩を突き飛ばして階段へと追いやった。そこで手を出したのがまずかった。それが、彼の頭に血を上らせてしまった。
「触んじゃねえよっ!」
 次の瞬間、僕は彼に殴り飛ばされた。殴り合いの喧嘩となると僕は滅法弱い。それに彼はこうなるとしばらく止まらない。しまった、まずいなと思っていたが、追撃は来なかった。代わりに「ずぐっ」と聞いたこともない音が聞こえた。
 起き上がると、どういうわけか一哉の両足が格子の目にすっぽりとはまっていた。急に重力の方向が変わったのかとばかげたことを考えてしまうくらい、その状況は不可思議だった。しかし数秒後、僕も一哉もその原因を理解する。
格子の中には、一哉に向かって手を突き出し、凄まじい形相で彼を睨むミヅモがいた。
 その手からは、細い触手が出ていて、それが一哉の両足に絡みついていた。僕らは喧嘩の熱も一気に冷め、これから起きるであろう不可避の惨劇に対し必死に抵抗した。
「ミヅモ……違う、それは違うよ。ねえ、その触手を解いて」
「お前っ、頼むからこれを解いてくれ! 悪かった、言い過ぎた、謝るからっ!」
 ミヅモは、何も言わなかった。
ごちゅっ、ぶしゃっ、と音を立て、ミヅモの姿は瞬く間に変わっていった。一哉に絡みついていた触手は解けるどころか、その数を何百倍にも増やした。
そして、
また「ずぐっ」と音が鳴った。それは、触手が一哉を引っ張る音だった。格子の内側に無理やり引き込もうと。確かに格子の目は、ミヅモの蜘蛛の姿を基準にしているのか、かなり粗い。小柄な女性くらいならなんとか通れるだろう。だが、どう考えたって一哉みたいに体格のいい男が通れるようにはできていない。ミシミシと彼の身体が嫌な音を立てた。彼は声になっていない悲鳴を上げた。
やがて、触手は彼の身体をこちら側に戻した。息も絶え絶えな一哉が、僕のすぐ側に力なく横たわった。そうだ、どう考えたって通るわけがない。通りさえしなければ最悪の事態は防げる。その間にミヅモの怒りを鎮められれば。数秒間、僕はそんな楽観的なことを考えていた。だけど、彼女は邪神なんだ。僕はそのことを失念していた。
何でもいいからミヅモに呼びかけよう、と口を開いた時だった。一哉の姿が消えた。その瞬間、何かが潰れる音がした。見ると、再び一哉が格子にはまっていた。今度は全身から血を噴き出して。
彼女には、諦める気なんて毛頭なかった。彼を一瞬格子から外したのは、ただ「今度は勢いをつけてみよう」と、それだけのことでしかなかった。一哉はもはや声を上げられる状況になく、声を出せるのは僕だけだった。僕は必死にミヅモに訴えた。
「ねえ、仕返しのつもりならもう十分すぎるよ! 彼を離してあげて!」
 しかし、潰れる音は無慈悲に繰り返された。
 たぶん4度目か5度目で、先ほどまでと違う音がして、一哉は完全に格子の内側に入ってしまった。腕は変な方向に捻じれに捻じれ、顔は見る影もなく血だらけになっていた。でも、これで終わらないことは、一哉を捉えて離さないミヅモの目を見れば分かった。
 不意に、ずるぅとミヅモの頭部から何かが飛び出た。それは、人間の姿のミヅモだった。上半身だけが蜘蛛の頭部から突き出ていて、一哉を睨んでいた。
「あやまって」
 恐ろしく冷たい声で、一哉に言った。一哉はもうほとんど力が入らないであろうボロボロの口で、必死に「ごめんなさい」と叫んだ。しかしその返答は、蜘蛛の口から飛んできた紫の粘液だった。僕が触れたときはなんともなかったはずなのに、彼はおぞましい声を上げてのたうち回った。傷口に沁みたのか、と思ったけど、見れば粘液からは煙が立ち上っている。
「私に じゃない シュウに」
 そうして、捻じれた腕で必死に僕の方を向き、また叫んだ。もうごめんなさいと発音しているかどうかも判別つかない状態だったが、それを聞いたミヅモはやっと満足気な表情になった。
「シュウは どう?」
 いきなり僕に振られて一瞬固まってしまったけど、すぐに「許す! 許すよ!」と叫んだ。すると、ミヅモは穏やかに笑った。僕はようやく安堵した。これで命だけは取り留めた。今度こそ、二度と一哉は家には来ないだろうけど、それでも生きてさえいてくれればいい。

 しかし、それすら叶わなかった。
「よかったね カズヤ」
 ミヅモはそう言うと、蜘蛛の口で彼を頭から喰った。

「なんで……僕、許したのに」
「うん。だから、頭から 食べたよ」
 それだけのことだった。
僕が許せば、楽に殺してやる――それだけのことだった。
一哉が今日、僕に何を言いに来たのか分からないまま、彼は死んだ。
僕は、自分がどれだけ楽観的に考えていたか、ようやく思い知った。
本を読み聞かせることで、正しい倫理観を育むなんていうのは、あまりに稚拙な絵空事だった。彼女は記憶を失っているけれど、時には子どものような振る舞いを見せるけれど、彼女という人格の大部分は、数千年生きてきた神としてのものだ。それを今さら、僕がどうあがいたところで、変えられるわけがない。
神を怒らせてはならない。
何千年もの間、世界中で散々言われてきた常識さえ、僕は忘れていた。

 それならば僕は、本来、ここでミヅモに感謝すべきだったのだろう。それが僕のためには一切なっていないとはいえ、神が僕のために行動してくれたのだから。常識に照らし合わせるなら、それが正しい行動といえる。
 だけど僕は、やっぱり駄目だった。学ぶことができなかった。神としてのミヅモを、今さら受け入れられなかった。
 再び人の姿になり、笑顔でこちらに歩み寄ってくるミヅモに対し、僕は言った。
「酷いよ、ミヅモ」
「え」
 笑顔のまま、ミヅモが固まった。
「酷い、よ」
 僕は泣いた。泣いてミヅモに抱きついた。僕もわけが分からなかった。
 ミヅモは混乱してしまったようで、「あ、う、」と母音を口から漏らすばかりだった。やがて、そっと僕の頭を撫で、「だ、だいじょうぶ だいじょうぶ」と僕をなだめるように言った。彼女のきっとわけが分からなかっただろうに。
 それから何時間経っただろう。ミヅモはずっと僕に付き合ってくれた。母の僕を呼ぶ声で我に返った僕は、階段を上った。そして、夕食の準備を始めようとしていた母に、今日のことを伝えた。さすがの母も顔を青くして押し黙った。
 しかし結局、今日のことは誰が来ても黙っておくようにということになった。当然のことだ。ミヅモがやったのだと警察に突き出したところで何になるという話だ。警察が壊滅するだけだ。
 僕はそれからしばらくの間、地下室に入らないようにした。普通の感覚なら、親友を喰った怪物を許しはしないし、まして会いたいなどとは思わないはずだと、思っていた。笑えるだろう。僕はまだ、自分が普通の感覚を持っていると信じていたんだ。でも、一週間も経たないうちにまたミヅモが抱きたくなってきて、僕はやっと自分を信じるのをやめた。
 数日ぶりに僕の姿を見たミヅモは、満面の笑みで僕を迎えた。たぶん僕も同じ顔をしていたと思う。扉を開けると、キスもそこそこにすぐ行為に及んだ。皮肉なことだけど、こうしてミヅモを抱いている間だけは、ミヅモが親友を喰った怪物であるということを忘れていられた。
そう、僕は忘れたかった。僕に残された唯一の心の支えを憎んでみせる勇気は、僕にはなかったから。行為を激しくすれば、頭を空っぽにできる。行為に夢中になると、彼女はいつも僕の背中をギリリと引っ掻いて傷つける。それで僕の心は安らぐ。でも行為が終われば、傷つけられることで一哉と痛みを共有してるって錯覚に浸っている自分に気づいて死にたくなる。だから、思い出す前に忘れる。行為後にキスしたときのミヅモの笑顔で、全部塗り替える。

 そんな生活がどれだけ続いただろうか。いつの間にか夏休みは終わっていて、僕は自分でも気づかない内に引きこもりになっていた。基本的に地下室で過ごし、夕食のときだけ居間で食べる。母はミヅモや魔術の話を避けるようになった。代わりに、今日の仕事のこととか、そういう他愛もない日常的な話をするようになった。ここ最近は母の前で笑うことなんてなかったけど、仕事であったバカみたいな話を聞いてると、ちょっとだけ笑うことが増えた。特別面白い話でもないのに、聞いているとなぜか安心するというか、ほっとすることができた。後で思い出したけど、それは数年前の我が家の日常風景だった。
 ある朝、地下室へ行くと、血だまりができていた。その血だまりの側で、ミヅモが泣きそうな顔をしながらおろおろしていた。見ると、そこには首のない死体があった。
 なんだこれ、と近寄ってみると、どうやら服や体格を見るに、それは母の死体で間違いなかった。僕は、それにどう反応すべきかを忘れてしまって、しばらくその死体を見つめていた。
「お、おか さ おかあさん、がっ 私、の前で い きなり パンって」
 涙声でミヅモは説明してくれた。ミヅモは全く理解できていないようだったが、僕にはなんとなく分かった。再封印の魔術を試して、失敗したのだ。その代償として命を失った。僕の知らないところで、こんなにもあっけなく。僕は諦めたとばかり思っていたから、不思議でしょうがなかった。
母の言っていた言葉を思い出した。召喚の儀式の成功確率は、天文学的確率。それならば、きっと封印の儀式も然りだろう。それなのに、なぜそんなことをしたのか。
 僕は知らず知らずのうちに涙をこぼしていた。ああ、まずいな、と思い、すぐにミヅモを抱いた。彼女は喜んでいた。

 数時間は続いただろうか。ミヅモが疲れて寝てしまったので、その間にコンビニでお菓子か何かを買おう、と外へ出た。母が死んでしまったので、何日か分の食料も買った方がいいかもしれない、などと思いながら歩いていると、急に肌寒くなってきた。確かそのときは、10月の中頃。そういう急な気温の変化もよくある時季だった。ぱっと行って早く帰ろうと足を速めたとき、突如僕の影が不気味に蠢いた。ぎょっとして影を見つめると、何やらこぽこぽと泡立っている。しばらく凝視していると、やがて影の中から、四本足の黒い物体が5つほど出てきた。何かの獣のような姿、という表現が一番近い気がするけど、曖昧すぎるか。まあ、獣と言われて一般的に想起するようなシルエットが立体となって現れたと思ってもらえればいい。
ミヅモとの暮らしで怪異には慣れたとばかり思っていたけど、とんだ自惚れだった。僕はどこかで、怪異は自分に危害を加えたりしないとたかをくくっていた。でも目の前の獣たちは、真っ黒ではあったけど、確かに牙と爪をもって僕をじっと睨んでいた。僕は、冷や汗を流しながら彼らから後ずさった。
その獣は、「我々に協力してほしい」と何の前振りもなく言ってきた。ミヅモよりも流暢だったけど、どこか機械的な声だった。
僕は、まず何の話かと聞いた。すると獣は、「我々の目的はあの邪神を消滅させることだ」と言った。僕はそれを聞いて、弾けるように逃げ出した。冗談じゃない。何が悲しくてミヅモを殺す手伝いをしなければならないのか。早くこのことをミヅモに知らせなければならない。
しかし、当然ながらあっという間に回り込まれてしまった。こんな、見るからに走るのが得意そうな怪物達から逃げられるわけがない。僕は逃げるのをひとまず諦めて、あたりを見回した。わざわざ人気のないところで呼び止めたのだから、きっと人が多いところでは下手に動けないのだと僕は踏んだ。でも、どこを見渡しても人の姿は見えない。さらに奇妙なことには、僕はこの道に見覚えがなかった。いくら引きこもっていたとはいえ、近くのコンビニまでの道のりくらい間違えようがない。僕は、奇妙な空間に閉じ込められたようだった。
 獣は、「とにかく話を聞いてほしい」と前置きしてから、ミヅモを消滅させなければならない理由を語り始めた。とはいえ、その内容は前に母から聞かされたものと似たようなものだった。前に地球に来て地球を滅ぼしかけたことがある、というもの。つまりその地球を滅ぼしかけたことが、ミヅモがかつて地球で犯した罪だったと、それだけの話。今さらそんな過去の話を持ち出されたところで彼女の見方が変わるはずない。
僕は反論した。
「記憶を失う前の彼女がどうだったのかは知りませんけど、少なくとも今の彼女が地球を滅ぼそうとしているとは考えられません」
「地球を滅ぼすことは彼女の意思と関係ない。彼女の力は自身の感情と深く連動している。彼女の感情が大きく揺れるとき彼女の力は暴走し、一瞬で地球を破壊する」
「じゃあ、感情を大きく揺らさなきゃいいんでしょう」
「そんなことができるのか。彼女の情緒が不安定なことはあなたが一番よく知っているのではないか」
 僕は閉口した。
「どちらにせよ、我々に協力しないのであれば我々はあなたを殺さねばならない。あなたはもう長くないだろうが、彼女の前で死なれて暴走されても困る」
 そして獣は、とんでもないことを平然と言ってのけた。あまりにも普通に話すものだから、僕は忘れていた。ミヅモと同じく、人間以外の者に人間の倫理観を期待してはいけないということを。
 僕は呟いた。
「あなたたちは、いったい何なんだ」
「我々は、邪神から地球を守るためだけに作られた人工の邪神。我々は地球を守るためならばどんな手段も厭わない」
「……邪神に対抗できる存在なら、勝手にやってればいいじゃないですか。どうして僕を巻き込むんですか」
「無論、低級の邪神程度は我々で対処できる。しかし今回は相手が悪い。地球に降り立つレベルの邪神の中では最上位の存在なのだから。人間の協力が必要になる」
 続けて彼らは言った。
「あなたの父親は邪神の贄になり、あなたの母親は再封印の魔術を試みたが失敗し、あなたの親友は身勝手にも邪神に喰われた。邪神はあなたの心の拠り所すべてを意図的に奪った。それなのに、あなたは邪神が憎くないというのか」
「……意図的に?」
 僕が反応したのは、よりにもよってそこだった。それを彼らに付け込まれてしまった。
「そうだ。あの邪神の異名は数多くあるが、その中でも最も有名なのは『白痴ぶる狡猾』。彼女は抜けているようなふりをして狡猾に自分の思惑通りに事を進めていく。そのうえうまくいかなければ癇癪を起こして何もかも破壊しつくす。それが彼女のやり方だ」「彼女の好物は人間の精液だ、だからここまでは完全に彼女の思惑通りだというわけだ。封印前に地球へ来たときにしても、国王の精液を得るため国を傾けようとしたのが失敗して怒り狂い暴走したのだ」「君が協力をして、もしも邪神を滅ぼすことができたなら、君は世界を救った英雄となる。一生暮らしていけるだけの財産を得られるのだ」「あなたが本当に彼女を愛しているというのなら、彼女がこれ以上他の男で汚れることのないよう引導を渡すことこそあなたのすべきことではないか」
 何匹もの獣が一斉にしゃべりだして、なぜか僕はそれをすべて理解することができた。情報を入れる器が無理やり押し広げたような感覚がして、私は頭が破裂するかのような苦痛に襲われた。
 その中で、僕はこう思った。「ああ、やっぱり彼女は、そうだったんだ」
 君はどうだろう。僕を軽蔑するだろうか。それともただただ疑問に思うだろうか。なぜミヅモのことを信じてあげなかったのかと。その理由を説明しつくすことは難しいけれど、最も根本的な問題として、そもそも僕は常日頃から疑心暗鬼気味なのだ。それは君もよく知っていると思う。だから友達ができない。ミヅモを好きになったのだって、彼女が何も考えてなさそうだったから、というのが大きい。僕は、何もわからないでいられるミヅモの無邪気さにいつも癒されていた。
 それに、そのときの僕はものすごく不安定だった。親友に続き、母まで亡くして、僕はどうしていいか完全に分からなくなっていた。頼れるのはミヅモだけであることと、ミヅモこそが僕からすべてを奪った張本人であることとの矛盾。それを、彼女から受ける愛によって無理やりかき消し、今の僕はなんとか自我を保っていられた。そこを下手に刺激されれば、どうなるかは明白だ。
「さあ、この短剣をとって。この短剣によって、彼女は救われる。世界も救われるし、当然あなたも救われる」
 獣は僕の影から、白い短剣を取り出した。これは邪神の身体だけを切ることのできる短剣で、これを使えばミヅモの身体から僕の心臓だけを無事に取り除くことができる、とのことだった。試しに自分の指先に刃を当ててみると、確かに切れない。それどころか、短剣はすっと僕の身体をすり抜ける。獣たちの体質は邪神に近いものらしく、うかつにその短剣を使えない。だから僕の協力が必要なのだと繰り返した。
 白々しいと、心の中で悪態をつきながらも、僕は短剣を手に取った。逆らえば死ぬ。従えば英雄。道はひとつしかないじゃないか、と。そのときの僕は、そうとしか思えなかった。

 地下室には変わらず、母の死体とともにミヅモがいた。「おかえり」と、パッと顔を明るくする彼女を見て早速覚悟が揺らいだけれど、でももう後戻りはできない。
獣たちから与えられた作戦は単純だ。最初は、獣たちが僕に襲いかかる。そうすると、ミヅモが僕を守る。ミヅモは必然的に、僕に背中を見せる形になる。そこで僕が、短剣で彼女の心臓あたりを切りつける。人間の姿ならあっさりと真っ二つにできるはずだから、すかさず心臓を抜き取る。単純だが、すべては僕にかかっていた。
 僕が格子の扉を開けて中に入った数秒後のことだった。唸り声が聞こえたと思ったら、何もない真正面から例の獣がとびかかってきた。こんなの、ミヅモに守ってもらうも何もない、というような素早さで、僕はわけも分からず目をつぶった。
 しかし、獣は僕にとびかかっては来なかった。おそるおそる目を開けると、目の前には見慣れたミヅモの腕があった。獣が僕にとびかかるよりも先に、ミヅモが獣を吹き飛ばしたのだ。獣の読みは当たっていたということだ。このくらいの素早さなら、十分ミヅモが対応できる。
そんなことを考える間もなく、乱闘は始まっていた。僕は到底動きを目で追うことができず、棒立ちしていたが、こちらに爪や牙が飛んでくることはなかった。僕は右ポケットに収まった短剣の柄に手をかけた。しかし、そこまでだった。
ミヅモが一匹の獣を捉え、足でその頭部を踏んだ。やっと僕でもミヅモの姿を認識できた。2,3秒はそのまま固まっていただろうか。ミヅモに踏まれる獣が「やれっ!!」と叫んだ。もちろん、僕への合図だ。僕がもたもたしているからつい叫んでしまったのだろう。ミヅモは警戒して他の獣たちを睨んだが、僕は完全に認識の死角にいるようだった。絶好機だった。しかし、そこまでだった。
ぐしゃ、と、虫が潰れるような軽い音がしてミヅモに踏まれていた獣は消え失せた。次の瞬間、また別の獣がミヅモを襲う。ミヅモはそれを一匹ずつ確実に潰していった。僕は、それを眺めていた。
――気づけば、獣たちは全滅していた。全身に影をべっとりとこびりつかせたミヅモは、いつもの笑顔に戻って僕に駆け寄ってきた。「もう だいじょうぶ」と。
しかし僕は、そこで、人生で最大の失敗を犯した。
手にかけていた短剣を、落としてしまった。
彼女は、頭がいい。
察してしまったんだ。
「そっか」と呟く、彼女のその時の顔は、今でも鮮明に覚えている。愛憎の混じりあう、苦悶に満ちた表情だった。彼女の目は三つあったが、でも、彼女のその時の顔は、誰よりも人間らしかった。
「酷い」
 前に僕がミヅモに放った言葉だった。
「酷いよ、シュウ」
 僕は、何も言えなかった。
ミヅモがゆっくりと僕に近づいてきて、僕はこのまま殺されるのだと思った。再び彼女に対し、恐怖心を抱いていた。しかし、それを見た彼女は、なおさら悲しい顔をした。僕の想像がまるで見当違いだと気づいたのは、それを見てからだ。なにもかも遅すぎた。
「私は、 私は、 シュウの 言うことなら なんでも 聞くのに」
ミヅモは、ずっ、と自分の胸を自分でえぐり、心臓を取り出し、僕の胸に押し当てた。
「それだけは それだけは 信じてほしかった」
心臓が僕の胸に入っていく。
「さよなら」
待ってと言う間に、彼女は砂みたいに崩れた。


 以上が、この一年で僕に起こったこと。思っていたよりも長くなってしまってごめんなさい。何も考えずに書くのではなくて、しっかりと道筋を決めてから書くべきだったね。
 これを書いているのは、ミヅモの最期から1か月ほど後。心臓が長らくミヅモの中に入っていた影響か、ずっと飲まず食わずで地下室にいるっていうのに、まだ死なない。
あれからずっと、ミヅモのことを後悔し続けている。ミヅモは、僕が彼女を愛していなかったのだと誤解したまま死んでしまった。いや、実際僕に、彼女を愛しているという権利なんてないのかもしれない。くだらない嘘に振り回され、彼女を殺す計画に加担したのだから。僕が求めていたのはミヅモではなく、ただ甘えられる存在だったのかもしれない。
でも僕は、やっぱりミヅモを愛していると言いたい。今ミヅモに、1秒だけでも会えるとしたら、そのことだけでも伝えたい。
その末に、僕は決めた。自己満足とはわかっているけれど、僕はこの心臓をミヅモに捧げて死ぬことにした。今僕が生きながらえているのは、この心臓のおかげなのだから、心臓さえ取り出せば僕も死ぬだろう。だから、せめてミヅモの灰の上に僕の心臓を置き、ミヅモの上で息絶えようと思う。
この手紙を、あなたに出した後で。



使用テーマ
・コズミックホラー
・もう一度会いたい
・届かぬ想い
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

チョコちゃんの思い出日記

○月●日
 出会い記念日。
きみのおばあちゃんが、僕をきみに与えた。まだきみは小さかったから、きっと後で思い出そうとしても、僕との出会いなんて覚えちゃいないだろう。
それでも良いさ。きみにはきみの、僕には僕の大切な思い出がある。誰かが覚えていれば、それは決して無かったことになんかならないから。

 ●月△日
 きみは随分と僕を気に入ってくれているようで、何時でも何処でも一緒にいる。最近気が付いたのだけれど、きみは僕のことを『チョコちゃん』と呼んでいるのだね。それってもしかして、僕の茶色い体がチョコみたいだからかい? だってきみ、そこの黄色い服を着た羊さんは『レモンちゃん』って呼んでいるみたいじゃないか。
 決して悪くはないよ。むしろ名前を付けてもらえると、きみの中でちょっと特別な地位を貰ったような気がして嬉しくなる。でも、やっぱりきみの傍にいる僕以外の子も名前で呼ばれているところを見ると……ちょっと嫉妬しちゃうなぁ、なんて。

 △月▲日
 ぬいぐるみが大好きなきみは、僕以外にもたくさん仲間を持っていたはずなのに、今朝起きたら、彼らはほとんど姿を消していた。部屋に戻ってきたきみの、少し寂しそうな顔。嗚呼、もしかして、消えた彼らは今頃ビニール袋の中で押し合い圧し合いしながら――。
 可哀想に。確かレモンちゃんも、最近買ってもらったばかりではなかったかい? 確かにきみのベッドの上は、いつも僕や仲間たちで溢れていたから、あんまりたくさんあっても邪魔だと思われてしまったのだろう。大人はいつもそうだ。きみは彼らのことを邪魔だなんて一度も思ったことは無かったのに。
 きっと、こういうときは僕の出番。僕は彼らよりもっと前からきみと一緒にいて、僕ときみが仲良しだってことも、大人たちは知っている。だから僕は救われた。
 大丈夫だよ。何処か遠くでゴミと一緒にさよならしてしまう彼らに代わって、僕がずっときみのことを見ているからね。

▲月▽日
 ここのところ、また少しずつ仲間が増えてきたように思う。拾い物、貰い物、買ったもの。出身は皆違うけれど、きみがいない間にこっそりお話するくらいには仲良しだ。どうやら皆は、誰よりも長くきみと一緒にいる僕のことをリーダーみたいなものだと思っているようで、敬ってくれたり、持ち上げてくれたりする。皆のお兄さんとして慕われるのは悪い気がしないけど、人間みたいに厳密な上下関係にはあまり興味が無いから、敬語で話されるとちょっとくすぐったい。ぬいぐるみなのだから、動けない分もっと自由にいこうよ。

 ▽月▼日
 最近きみは忙しそうだ。もう常に僕を連れて歩くには大きくなりすぎちゃったから、その分何かとやらなきゃいけないことが増えたのだろうね。
それでも、たまには……ほんのちょっと、疲れたときだけでも良いから、僕の傍にいてくれると嬉しいな、なんて。そんなこと考えても、きみは僕の気持ちなんて分からないし、多分一生かけても届くことはないだろう。
でも、あれから10年以上経った今でも、僕がきみと一緒にいることを許してくれること。それは堪らなく幸せなことだよ。

 ▼月■日
今日、また久しぶりに仲間が増えた。この子たち、きみが作ったのかい? 凄いじゃないか。ここ数日の様子を見るに、しばらくはのんびり出来そうなのかな。だからこの子たちを作ったのか。不格好だけど、なかなか可愛い。きみも随分と成長したものだね。

 ■月◇日
 もう何日も、きみの顔を見ていない。家の人が言うに、きみはここから少し離れた所に住み始めたらしいじゃないか。
 これもまた、仕方のないことだ。きみにはきみの、僕には僕の大切なものがある。それに、今の僕はもうきみだけのものじゃない。相変わらず仲間たちのボス的存在。寂しくなんて、ないよ。多分。

◇月*日
 ほらほら、急いで。あとちょっとで締切だよ。
 夏休みに帰ってきて、僕のことを書いてくれるのは嬉しいけど、間に合わなかったら何もかもお釈迦じゃないか。
 この辺で終わりにして良いから、早く先輩とやらにメールとかいうことしなよ。
 大丈夫。書き切れなかったことも、僕ときみが覚えていれば、無かったことにはならないから。


使用テーマ
・ファンタジー
・締切
・届かぬ○○
・もう一度会いたい
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

 静謐とした空間のなかステンドグラスから落ちる光が幻想的な風景を映し出す。目の前に映るのは私たちをみつめるたくさんの目。真ん中を貫くように敷かれた赤いじゅうたん。日が陰ったのか光量の落ちた室内に響く厳かな声とそれに答える少し上ずった聞きなれた声。
「新郎。その健やかなる時も、病める時も、…………愛し、ともに生きることを誓いますか」
「はい、誓います」
緊張のあまり、神父さんの言葉を少し聞き逃しちゃったけども、次は自分の番だと身構える。
「では、新婦。その健やかなる時も、病める時も、…………愛し、ともに生きることを誓いますか」
口を開き、声を上げようとした瞬間、目の前に光が舞い込んだ。



 あれから10年経ったけど、私の心はいつもくもり空。どんだけ楽しいことがあっても、どんだけ嬉しいことがあってもやっぱりくもりは晴れないんだ。君の存在はやっぱり大きすぎるよ。だからもう一度笑って。早く目を覚ましてよ、ハル。

 ごめんね。今日はこんな話するために来たんじゃなかったのに。私のあの時から止まってしまった時間をもう一度動かす。その決意をしたっていう報告をするために来たのに。ごめんね、もうちょっとだけ待ってね。今戻るから。
…………ふー、ごめんねおまたせ。じゃ、さっそく本題と行きたいところなんだけどやっぱまだ緊張するな。うーん、ちょっとだけ昔話していいかな。

 昔から私とハルとナツは3人いつも一緒だったよね。近所で同年代な子供は私達だけ。だからいつも一緒だったね。だから昔から遊ぶときも一緒だったけど、遊ぶ時はだいたい私のやりたいことやるから、おままごととか人形遊びとか屋内でやる女の子っぽい遊びになっちゃって、ナツはいつもそれに文句言ってたっけ。なんだかんだ言いながらもいつも最終的には付き合ってくれるんだけどね。それに比べてハルは最初から楽しそうにやっていたよね。感性が似ていたのかな。


小学校に入ってもあんまり変わらなかったな、あっ、だけどたしか3年生ぐらいかな。ナツが女と一緒にいるのは……とか思春期男子特有のこと言って私とハルから距離を置いたのは。なにもハルとまで距離をおかなくても良いのに。いやさ、ハルはたしかに女の私から見ても可愛かったし、たまになんでハルの方が……って嫉妬するようなこともあったけど、それでもちゃんと男の子なのにね。ナツがまた私たちと遊んでくれるようになった時というか、私たちが説得に行った時のことはよく覚えてるよ。この前にナツと話したけども、いやー、今思ってもなかなか恥ずかしいねあれは。


 雲一つない青空のもと、一人帰路を歩く短髪の少年、その後ろから高い声が響く。
「待ちなさい、ナツ。いつまで私たちを避けてるの!」
走って少年を追ってきたのか、涼しげな恰好とは裏腹に汗だくの少年少女。少女は長い髪を二本に結んでおり、少年は髪を肩手前まで伸ばしており中性的な印象を与えている。
「だから、前にも言っただろ! いまだに女と一緒にいるのなんてかっこ悪いだろ」
「バッカじゃないの! そういうこと言ってる方がかっこ悪いわよ」
「バカとはなんだ! いいからほっといてくれよ」
「じゃー、まだ私はともかく、なんでハルまでさけるのよ!」
少女は一緒に走ってきた少年の方を指さす。ナツと呼ばれた少年はそれにつられて少女に向けてた目を一緒に来た少年に目を向け、うっすらと赤くなる。
「い、いや、あのハルはそのな……」
「何、ハルの時は本気で照れて、言いよどんでるのよ! 女としてすごい複雑なんだけども!」
少女の怒りは別のところにむけられる。
「ほら、ハルもなにか言ってやりなさい!」
理不尽な怒りを向けられた少年は困惑しながらも思いを口にする。
「えっと、僕はみんなでまた仲良くしたいんだけど、ダメかな?」
小首を傾げながら、中性的なハルと呼ばれた少年は告げる。
「そ、そのー、でもだな……」
少女のお願いは一蹴していた少年も、この純粋なお願いはむげにはできないようで困惑していた。
「僕はナツもひーちゃんも皆が幸せなのがいいんだ。だからさ……ね、ナツ?」
短髪の少年はうっと、堪えた様子であるが、一度行動を表した意地があるのかなかなか意見を変えようとしない。
「でもさ、俺らももうな、子どもじゃないだろ、男は男と、女は女といるのが普通だろ、だからさ……」
少年が自分の考えを必死に説明するなか、すするような音が聞こえた。
「もう、なんで、ナツ戻ってきてくれないの……もう私たちのことなんか嫌いになっちゃったの……いきなり別々にいるのが当たり前とかいわれてもよくわかんないよ……」
すするような様子であった少女であるがとうとう堪えきれなくなり、大粒の雫を落とす。
「子どもじゃないってなによ……まだ子どもじゃない。一緒にいないのが普通なんてそんなのやだ……やだよ……。一緒にいないのが大人になるってことなの? じゃあ大人になんてなりたくない。ずっと2人と一緒にいたいよ……」
泣いている少女に当惑する少年二人。中性的な髪の長い少年は少女をなだめようと思うが、何をすればいいのかわからずに少女の周りでおろおろ。短髪の少年は放心したかのようにただ立ち尽くすのみ。
「あーも、わかった。わかったよ。俺が悪かった。ごめん」
しばらくそれが続くが、やがて少女の涙に根負けしたのか、少年が声を発する。
「なんてーか、えーと、つまんねー意地はっててごめんな。そこまで本気で考えてると思ってなかったんだよ。だから、その……、ごめん。許してくれるか?」
一度口を開くとあとは流れるように言葉が出てくる。少年のその言葉をきくと少女はゆっくりと顔をあげ少年を見上げる。
「本当?」
「ああ」
「本当に本当?」
「ああ」
「本当に仲直りしてくれる? また遊んでくれる?」
「ああ、仲直りとはちょっとちげーけど、しょーがねーから一緒にいてやるよ」
そういうと、短髪の少年は苦笑を浮かべる。そして少女は再び瞳に涙を浮かべ、目の前にいる2人の少年に抱き着いた。
「2人とも大好き! 私将来2人のお嫁さんになる!」
「い、いやさすがにそれはな」
「いいの! なるの! ナツもハルもつべこべ言わず私のお婿さんになればいいの!」
「いや、あのだなー。そもそも……」
「なるの!」
「……なるのかー」
「えっと、ぼくもなの? でも2人がそれでいいんなら、いっかな? いいのかな?」
「いいの! 2人ともずっと一緒だよ!」
少年2人は困惑していたが、少女の様子にほだされたのかやがて笑顔を浮かべる。
見渡す限り雲のない快晴の空の下、3人はずっと一緒に笑いあっていた。




 いやー、思い返してみるとすっごいはずかしいね。「2人ともずっと私と一緒にいるの!」なんてセリフ今じゃとてもじゃないけど言えないよ。若さってすごいよね。
あれがあってからは、また3人で一緒に帰って一緒に遊んだりしてたよね。運よくあの後のクラス替えでも3人とも一緒のクラスになれたから、色々な学校行事も一緒にできたよね。あっ、でも一回だけ運動会で私とハルが赤組でナツだけ白組になったときは、ナツがぶーたれていたっけ。今思い出すとかわいかったな。
 

でも中学校に入ってからは、ちょっと変わったよね。みんなクラスはばらばらになっちゃったし、部活も始めたし。ナツはサッカー部、私は吹奏楽、ハルが一番意外だったよね。入るなら、文化系の部活かなと思っていたのにテニス部に入っちゃったし。みんな違う部活っていうこともあって時間も合わなくて、3人で会う機会はほとんどなくなったよね。
学年上がって、2年生になってもあんまそれは変わんなかったよね。むしろ部活がさらに忙しくなって、減っちゃったね。でもさ3人とも各部の部長になってたのはびっくりだったよ。夏休み前の部長会議で3人揃ったときは、みんな笑ってたね。3人ともが忙しくて全然話してなくてさ、みんながそこでお互いが部長になってたことをしるんだもん。
さらに忙しくなるなか、3年生になって最後の総体で、私は早々に負けちゃったのに2人ともどんどん勝ち進んでいくのは凄かったな。初めて試合の様子見たけど、ハルはボールがどこにきても、どんな体勢でも相手コートに返してたし、ナツは相手のチャンスをひたすら潰しながら、味方のチャンスを作っていってたし、2人とも普段のイメージと全然違っていてすごいかっこよくてびっくりしちゃったよ。でも、逆に最後の大会まで一切試合を見ていなかった私って……。でも仕方ないよね、みんな大会前っていそがしくなるもんね。…………うん、ごめんなさい。私が悪かったです。
そういえば覚えてる? 夏休み明けにナツに呼び出された日のこと。あのときは突然なんなんだろうってすごい不思議だったよ。それぞれ個別に呼ばれてたから、待ち合わせの時間に教室に行ったときは、ハルがいたからびっくりだったよ。ナツに呼ばれたのになんでハルがいるの!? ってね。
あのときはちょうど日が落ちようとしてた夕暮れ時だったね。



「えっ、なんでハルがいるの!? ナツに呼ばれてきたのに!?」
「えっ、ひーちゃんもなの? 僕もそうなんだけど……」
「えっ、ハルもなの? んー、なんのようなんだろ」
少女が教室に入ってきたときに教室にいたのは、呼び出した本人とはちがう、幾分大人びたとはいえまだ中性的な印象を与える小柄な少年であった。
2人は夕暮れ時の教室で少年を待つ。暫くするとドアが開き、そちらに目を向ける。
「わりぃ、またせた」
「あっ、ナツ。今日はなんのよう? ハルも一緒ってきいてなかったんだけども」
「あれ、言ってなかったっけ?」
開いたドアから顔をのぞかせるのは、身長も伸び、大人らしくなったが、あの頃と変わらず短髪の少年。
「ごめん、2人に聞いてほしい話あったけど、説明し忘れていた」
「別に大丈夫だけど、話ってなにかしら?」
少年は一回咳払いをして、気持ちを整えたあと改めて2人を見据えると、口を開いた。
「今日さ、部活の後輩から告られた」
「後輩って、もしかしてユキちゃんのこと?」
「ああ、てかハル。ユキのこと知ってたんだな」
「え、えーと、ちょっと部活の関係でね」
「部活の関係……?」
「で、告白されたことがどうしたの? 自慢?」
「ちげーよ、えっとそのだな……」
短髪の少年はもう一人の少年にいぶかしげな視線を向けるが、少女がその矛先をずらす。問い詰められそうだった少年は矛先が逸れたことで目に見えて安堵している。逆に短髪の少年はその先を言おうか言わまいかで迷っている様子で、髪をガシガシかいている。
「何にもないなら、私帰ってもいい? 推薦で決まっている2人と違って、勉強しなきゃいけないから」
少女は煮え切らない少年の態度にイライラしている様子を隠そうともしない。
「あー、待って待って! 話すからちょっとだけ聞いてくれ。
……俺どうすればいいと思う?」
「はい?」
「えっ?」
2人ともなにを言われたのかよくわからない様子でぽかんとしている。
「だから! ユキとどうすればいいと思う?」
少年は顔を真っ赤にしながら言い直す。
「えーと、あなたはどう思っているの、えーとユキちゃんのことを?」
「よくできた後輩だし、良い子だと思ってるよ」
「なら付き合えばいいじゃない? 私たちにきくことなんてあるの?」
「だから、昔の約束! あれがあっただろ、それで……」
少年はなおも歯切れ悪くどもる。少年の言葉をきいてもなんのことかわからずぽかんとしていた少女であったが少年の約束に思い当たったのか、いきなり顔が真っ赤になる。
「ば、ばっかじゃないの! いつまでこどものときの約束気にしてんのよ! 私ならいいから」
「ハルはどうだ?」
終始黙っていた少年に話をふる。
「ナツもひーちゃんも幸せなんだよね? なら僕は平気だよ。ユキちゃん良い子だから大切にしてあげなね」
そう言うと、背の高い少年はもう一度2人の顔を見、2人の頷く姿を確認する。
「わかった。じゃ、ユキと付き合うよ。2人とも時間取らせて悪かったな」
そう言って笑う顔は、沈みかけの夕日のせいかまっかにそまっていた。



いやー、あのときは驚きだったね。最初ナツに呼び出されたときは、まさか私告白される!? ってびっくりしてたけど教室行ったらハルがいたし、あのときは頭が完全に真っ白になったよね。ナツが来てからは、なーんだ、そんなこと、かって思ったけども。あのとき実はハルが前からユキちゃんに相談されてたっていうのも驚きだったね。のんびりしているように見えていたけども意外としたたかだったね。ハルがうっかり名前を漏らしちゃったときのあの反応も面白かったよ。私でも分かるぐらいに慌ててて、ついつい助け舟を出しちゃった。うん、我ながらあれはファインプレーだね。そのあとユキちゃんとの用事で勉強に付き合うことが難しくなったナツの代わりにハルが付きっ切りで勉強見てくれたっけ。うん、あのときは本当にお世話になりました。私が同じ高校に行かなかったら……とか考えることもあったけど。ハル、本当にありがとう。いまはそう思うよ。ハル(と一部ナツ)のおかげで同じ高校にも入れて、運良く同じクラスになれて、中学のときよりも少し部活動も緩くなって3人でいる時間も増えて、本当に楽しい高校生活だったよ。あの日までは……。あの日のことはどうやっても忘れない。この先ぼけたとしても、なにがあったとしても忘れることはできない。あの10月のどんよりとした空模様も。


「2人ともさ、来週のテストは大丈夫? ハルもナツもちゃんと勉強してる?」
少女が一緒に歩く2人の少年に話しかける。「大丈夫、ちゃんとやっているよ。終わってないのはあと物理だけかな」
「普段の授業それなりに聞いてれば、テストなんて大したことないだろ」
「そうだね、ナツは容量いいからいつもあまり勉強していなかったもんね、高校でもそんな感じなんだ」
「えっ、ナツ勉強できるのは知ってたけどそんなに良かったの」
「できるってわけじゃねえよ。それこそ順位ならハルの方がいいしな」
「い、いや僕はその分時間かけたからやっぱナツの方が……」
少女はそんな2人の様子を見て、プルプル震えている。
「2人とも! 勉強教えて! 私赤が大変なのーーー!」
「まあ、別にいいけどよ。じゃ、この後ウチでやるか?」
「僕は大丈夫だよ」
「うーん、彼女持ちの男の家に私いってもいいのかな?」
「あー、うん、そのー、大丈夫じゃないか」
背の高い少年は奥歯にものがつまったかのように言葉を濁らせる。
「ちょっとどうしたの。ユキちゃんとなにかあったの?」
少年の歯切れの悪いことばの様子から疑問に思い少女は問いかける。
「そのー、ユキとはだな。この前別れた」
「はあ、なんでいい子だったじゃん!」
「いいやつだったんだけど、ちょっと色々あってな……」
「ちょっとそれ何よ。詳しく説明しなさい!」
2人が言い争いをしている。突如後ろから大きな音が聴こえ、2人は振り向き、目をつむる。それと同時に横へと吹き飛ばされる。しかし思っていたほどの衝撃ではなく恐る恐る目を開ける。そこに映るのは、店に突き刺さった自動車と一緒に歩いていた少年の真っ赤な姿であった。
「ハル! ハル! 大丈夫しっかりして!」
「しっかりしろよ、ハル、おい目開けろ!」
「ハル! ハル!ねえ起きて目を開けて! ハル!」
2人が駆け寄り、必死に血まみれの少年によびかける。声が届いたのか、血まみれの少年はうっすら目を開ける。
「おい! ハルしっかりしろ!」
「……ナツ…………ひーちゃん……2人とも……だいじょ…うぶ? ごめ……んね、……おおいっきり…つきとばしちゃっ……て」
「ねえ、ハル!私たちは大丈夫よ! だからあなたも……」
「ごめ……んね、ふ、ふたりとも……たのし……く、しあわせにいき……てね、ぼくはも……」
少年は再び目をつぶる。2人の絶叫がずっと鳴り響いた。黒くどんよりした空からは悲しみのなみだがながれだした。



あれからずっと私の時間はとまったまんまだったんだ。でも今日新たな一歩を踏み出すんだ。やっと本題に入れるね。今日ね、私ナツと結婚式あげるんだ。ナツが閉じていたわたしのとびらを開いてくれたんだ。心のとびらを開いてくれたっていうのもさっき話した昔話をナツからきいたんだけどね。だからその報告に今日は来ました。昔話しすぎて時間なくなっちゃった。いまから式場いかなきゃだから明日また来るね。ここにハルの分の結婚式の招待状置いておくから、起きたら来てね。じゃ、また明日。

ドアを閉じる瞬間「ひーちゃん」とこえが聴こえたきがした。



使用テーマ
・届かぬ思い
・式場
・もう一度会いたい
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

冷房稼働中につき

がたん。がたたん。
あまりの寒さに左肩の存在にすり寄るけれど、それはかたくてつめたくて、かえって熱を奪われるだけだった。徐々に覚醒してきた意識の中で、またタクシーをつかまえないといけないのか、とぼんやり思う。せっかく昨日定期を更新したのに。おそらく降りるべき駅はとっくに通り過ぎた。終電の先頭車両に乗ったせいか他に客はいない。窓に映る空っぽの車内の向こうでマンションの明かり達がさらさらと流れていく。いるのは自分と、ブラインドの奥の車掌だけだ。
 一人きりですみに座っているのがあほらしくなって席の中央へとずりずりと移動する。それでも無意識に背もたれの模様にきっちり合わせている自分が滑稽だったけれど、もう疲れ切っていた。


 再び目を開けた時、さっきよりも走る速度は落とされていた。
今過ぎたマンションの最上階は蔦柄のカーテンで、やつれたサラリーマンは青い扉にもたれて項垂れている。ああ、今あのあたりか。割増タクシーはいま赤信号を無視して、ふと気が付けば明かりのない白い家がゆっくりと後ろに遠ざかっていった。
新車両は窓が幾分大きくなった。解放感こそあるものの、仕切りのない窓はひらかない。

「まもなく、稲毛、稲毛。」
「前の電車との間隔調整のため、しばらく停車いたします。」

 見慣れた薄暗いホームへ入っていく。照明の落とされた駅前の看板たちを背景に、黄色いエレベーター。黄色い柱。黄ばんだ蛍光灯。灰色がかった点字ブロック。

そして、黄色いベンチに真っ白な、

突然のことでぼーっとしていたけれど、はっとして立ち上がる。スーツのジャケットとともに膝からバッグが滑り落ちたけれどどうでもよかった。バキッと何か折れる音がした。よろけながらも急いで後ろの車両へ走る。手がかじかんでドアがうまく開けられない。急がないと。はやく。はやく。誰もいない直線をひたすらに駆け抜けた。
ガタン、と大きく揺れて停車して、咄嗟に掴んだつり革の向こうに見えたのは確かに彼女だった。こんなに全力で走ったのはいつぶりかで、大した距離でもないのに心臓がつぶれそうに痛かった。喉がひゅーひゅーと鳴っている。それでも。彼女がもうすぐそこにいることが嬉しくて、苦しいのに頬は緩んでいた。
ガラス窓の向こうで彼女は薄桃のバッグを抱えて眠っていた。最後に彼女を見たのはもう三年も前になるが、ちっとも変わっていない。ふわりとした淡い色の服を着て、ツンとした鼻筋もいつも上がった口角も、少し下手なメイクもそのままだ。お酒でも飲んだのか今日は少しほっぺたが赤い。まだこの街にいたのか。それとも。
ドアはまだ開かない。はやく。はやく。

おかしい。どうしてだ。どうして開かないんだ。各駅停車だろうこれは。引っ張っても叩いても一向に銀色のドアは開かなかった。爪がはがれ始めたころ、ホームの電光掲示板が目に留まる。

『現在J〇東日本では節電キャンペーンを行っております。冷房稼働中のため、主要乗り換え駅以外ではドアを締め切らせて頂いております。皆様のご理解とご協力をお願いいたします。』

 ふざけるな。ご理解も何もない。なんでそんな訳のわからないことをするんだ。そんなことをする前に凍えそうなこの温度設定をどうにかすればいいものを。いやそうじゃない。とにかく自分は彼女に会わないといけないんだ。こうなったらせめてこちらの存在に気が付いてもらわなければ。そうしたらどうにか連絡先の交換くらいはできるはずだ。もう彼女の消息すら分からない日々は嫌だ。ああ、でもそれすらもどうでもいい。ただもう一度、あなたにおもいだしてもらえたら。
 
 ――ちゃん。――ちゃん、おきて。
 何度も何度も叫びながら、冷え切った手でガラスを叩き続けた。眠り続ける彼女に向かって叫び続けた。海風の混ざるぬるい空気の中で、白いその子はただ眠っていた。
少し痩せたようにも思う。前も十分女の子らしくて可愛かったけれど、なんだか大人っぽくなったかな。金属アレルギーだと言っていたけれど、今つけているそのペンダントはちゃんとした金属なの。大丈夫なの。そしてその左手の。

「各駅停車千葉行き、まもなく発車いたします。ご注意ください。」

ガラスの向こうで音楽が鳴る。これ以上閉まるドアもないのに。
――ちゃん。
声が出ない。彼女はうつむいたままだ。
電車がまたゆっくりと動き出す。少しずつ、少しずつ、遠ざかっていく。

 膝から力が抜ける。もうこれが最後なんだと思った。
 枯れた喉に冷たい空気が染みていく。
 かかとの折れたパンプスにしずくが落ちた。


使用テーマ
・蛍光灯
・締切
・もう一度会いたい
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

誘う幻、手を引く住処

「ん……」
 目を覚ます。ぼんやりとかかる雲が青い空をゆったりと流れ、頬に柔らかく当たる風が心地よかった。微かに草を下にしているような感覚がしたので、おそらくここは草原だろう。
「起きたのかい?」
 声が聞こえてそちらへ顔を向ける。俺の隣には真っ白な王子様が座っていた。金色のひらひらしたものがくっついた白い高そうな、いかにも貴族とか王族っぽい服を着ているし多分王子というか、ルックスは完璧に王子様のそれなので暫定王子様。西洋風ながらはっきりしすぎない目鼻立ちが温和そうに見え、白っぽい金髪が眩しく、服装も含めて似合いだった。
「誰」
 思ったことをそのまま発声して、上体を起こす。そう、俺はこの王子様にフランクに話しかけられるような覚えは何一つないのだ。
「僕は、この世界の王子様ってとこかな」
「はあ」
「……信じていないね?」
 そういうと自称王子様はいかにも悲しいと言ったようにハの字に眉を下げた。
「僕に個人名はないよ。王子様、という役職をもらっているんだ。それが僕を識別する鍵。だから、僕は王子様と名乗るしかない」
「はあ」
「そして、王子様の役割は迷子のお迎えなんだ、君みたいなね。君も向こうの世界から来たんでしょう? つまり、僕は君の案内役」
 そこまで言い終わると、王子様はにこりと笑った。
「……はあ」
 結局出てきたのはそれだけだった。困ったのと悲しいのとを足して二で割ったみたいな表情で、王子様は言う。
「……どうしても、信じられない?」
「まあ、王子様が俺のお迎えなのはわかったが……他はよくわからない」
 正直に述べると王子様はうんうん言いながら困っていた。
「ええと、じゃあ何か聞きたいことはないかな?」
 やっとのことで、といった声色で言うと、王子様はこちらを窺う。聞きたいこと、と考えて、先ほどまでの会話をもう一度頭の中で反芻する。
「向こうの世界って、何? ……ここはどこなんだ?」
「忘れているのかい」
 驚いた、といった様子で王子様が言う。それから、そうかあ、と言いながらまた何か考え始めたようだった。俺はついていけず、ただぼうっとそれを眺めていた。
「それじゃあ、一度戻ってみる?」
「え」
「うん、きっとそれがいい。それからでもこちらには多分来られるだろうしね。」
 王子様は満足げな顔で頷く。
「そうしたら、あの二本の木、わかるかい」
「あ、ああ。見えてる」
「あれの間をくぐっておいで。それから、またこの世界まで、おいで」
 それじゃあ行ってらっしゃい、と王子様は笑顔で手を振る。これ以上王子様に会話する気は無いようだし、言うとおりにしておこうと立ち上がって歩く。そして思ったよりすぐに着いた二本の木の片方に手をついて、くぐった。
 その瞬間、世界が変わった。四角い電子画面に、四角いボタンの並んだ装置、様々のペンが立てられたペン立て。蛍光色の付箋、ホチキス、疲れて外した眼鏡。職場の、自分のデスク。そこに俺は座っていた。おい何ボーっとしてんだ仕事しろ、と背後で機嫌悪い声がした。上司の声だ。すみません、と早口で言って、今まで何の仕事をしていたのか、思い出す。さっきのは何だったのか、と考えかけてやめる。そんなことより仕事をしなければ。二日後には休日が控えている。頑張らなくては。気を引き締めて、俺は仕事にとりかかった。


 あれは、あれは何だったんだろう。仕事や家事を片づけている間はなんとなく忘れていられたが、それでもずっとあの出来事が頭の中に居座っていた。書類の印刷の合間、電車の中、食事を咀嚼するとき、風呂でくつろいだ瞬間。様々なタイミングで思い出しては不思議に思った。
 そして、まるであれが嘘か幻だったみたいに、今日という一日は終わろうとしている。夏用の薄い布団の中で、蝉の声のない静寂に包まれて、俺は眠ろうとしている。そうしてそのまま朝が来れば、俺はまた、日常の中に埋没して――。
「おーい、遅かったねえ。少し心配したんだよ」
 遠くから声がする。あの、王子様の声だ。
「ん……?」
 気が付けば、またあの草原だった。俺は片手を木に押し当てて立っている。そこから数歩歩いて振り返れば、俺はあの二本の木の間からここに現れたようだった。他に目的になるようなものもないので、とりあえず王子様のところまで歩いていく。王子様の近くに到着すると、まあ立ち話もなんだし座りなよ、と隣に促される。特に逆らう意味もないのでそれに従い、彼の隣に座った。
「……思い出した?」
「ああ、多分」
 互いに、穏やかで静かな声色だった。
「確かに俺は、«向こうの世界»から来たみたいだ」
 苦笑いしながら答えた。
 ここで言う向こうの世界、俺の現実。採用された会社に勤めること数年、高圧的な上司と一向に上がる気配のない給料・役職に嫌気がさしてきていた。安月給に合わせて借りたアパートには学生も多く、大学生の宅飲み独特の騒がしさにしばしば安眠を妨害されることもあった。
 そんな世界とは別の世界。俺の世界は、向こうの世界。つまりここは異世界、ということではないかと、ぼんやり思う。確かに草原に王子様にとファンタジーな感じはするし、そう呼ぶのにふさわしいと思えた。
「そっか、思い出せたみたいでよかったよ」
 王子様は相変わらず王子様らしく微笑んでいた。
「でも、なんで王子様が案内役なんだ? それ以外にもそれっぽい奴とかいるだろうに」
「……うーん? 案内役は王子様の役目と決まっているからねえ」
 それきり王子様はうんうん言いながら考えこんでしまった。質問を間違えたかと考えるが、思ったことを正直に言っただけなんだから仕方ないだろう。とりあえず、その理由を王子様は知らないらしいということだけはわかったが、それに対して質問をしたくなる程度には疑問に思われた。そして俺は、考えている人に質問を投げられるほど勇気のある方ではなかった。
 などと色々考えていたら、ああそうか、と王子様が声を上げた。
「きっと、民を知るためだろうね。王子様というのはやがて王様になる。王様の役目は国を、世界を統べること。その世界を統べるためには、その統べるべき世界たる民を知らなければならない。そういうことじゃないかな。今考えただけなのだけれど」
 そう言って王子様は満足げに笑った。なるほど、と俺は感嘆した。実際の理由はどうあれ、突発でこれだけの、いや、この答えに辿りつける人は、確かに「王子様」にふさわしいと思えた。
「なあ、この世界の事、教えてくれないか」
 それは、俺の中から自然に出てきた言葉だった。それに対して王子様は少し驚いたような顔をしたが、すぐにそれを快諾してくれた。
 それからは、たくさんのことを聞いた。ここには基本的には変化がないこと。変化が訪れるとすればそれは誰かが「望んだこと」であり、それを「望んだ」人がその変化の良さを他の人に説いてくれること。それを聞いてもそれを望まない人には、その変化が訪れないこと。だから、この世界には人々の疎む変化はない。それは、病気や老い、そして死にすら言えることだという。それから、この世界は膨張を続けていて、その膨張した土地は様々に異なる特性を持つこと。だから誰もが望んだような土地で生活を送ることのできること。そして、物が足りなくなるといったことも起こりえず、人々が憎み合うこともない。この世界では、誰もが望んだ生活を手に入れることができる。
 俺はここまでの話を聞いて、この世界を楽園のようだと思った。その旨を王子様に伝えれば、くすりと苦笑いした。
「向こうの世界は、そんなに窮屈なのかい?」
 その言葉を聞いたら、もう駄目だった。向こうの世界の酷い話を王子様に沢山聞かせてしまった。仕事のこと、プライベートのこと、家族のこと、今ではもう忘れて大したことはないと思っていた過去のことも。俺が傷ついた瞬間全てのことを、俺は王子様に話した。
 王子様はときどき頷き、相槌をうちながら、俺の話を静かに聞いていた。その静けさは、草原という場所とも相まって柔らかく、俺の心を十分に慰めてくれた。優しい風が、そよぐ葉が、俺の話を聞いてくれる相手の存在が、俺の胸の中に染み入ってゆく。目頭に違和感を覚えて、自分が泣きそうなんだと気付く。
「こっちが、俺の現実だったらよかったのに」
 沢山の想いの中からそれだけをなんとか選び取って言うと、何故か王子様は苦しそうに顔を歪めた。
「君は、こっちに生きてはくれないのかい」
「え」
 突然、地面が落ちくぼんだような気がして、見まわす。確かに、俺の座っているところだけが、他の地面より低くなっていた。その高低差は急速に作られてゆく。不安と何故という疑問から、上を見上げる。俺はもう穴の中にいるようになっていた。その穴の上から顔を出した王子様の声が、降ってくる。
「そうして、君は自分の力で帰ってしまうんだね」
 その声を聞いた直後、ぱちりと目を覚ます。窓から射す幽かな光から、夜明けぐらいの空の明るさだと思った。時計を見れば午前4時、夜明けという判断は妥当らしかった。二度寝してしまおうかと考えて、ひどく喉が渇いていることに気付く。とりあえず水を飲まねばと思って台所で水を用意する。その間に今から二度寝をして6時に起きる自信はないと思い直し、寝汗を流すためにシャワーを浴びる。最後はあんな状況になってしまったが、あの夢を、あの世界を悪夢だとは、思いたくなかった。
 それから支度をしている間もあの世界のことを思い出した。土地が膨張していると言っていたが、どういうことなんだろう。王子様は王様になると言っていたが、今の王様はどんな人なんだろう。様々なことは考えながら、どうしても、あの最後のことだけは考えないようにしていた。


 実に慌ただしく、今日の仕事は終わった。コピーをとっているような時間にも別の書類のチェックや作業をしなければ、翌日の休暇など認められないと上司が言ったからだった。幸か不幸か、そのおかげで仕事中にあの世界のことを考えることはなかった。ただ、昼食を食べながら今朝の続きに思いをはせたぐらいだった。
 だから、あの世界のことを強烈に思い出し考えたのは、帰りのことだった。会社の最寄り駅からとある駅で別の路線に乗り換える。その路線は都市の近くにあるながらあまり走っている数の多い方ではなく、待ち時間が長いのが特徴だった。だから、その待ち時間に俺は、あの世界のことを強く思った。
 そういえば、老いや病気や死も望まなければ訪れないと言っていた。そして王子様がそれを知っているということは、実際にそれを願った人がいるということだろう。その人は、何を思ってそれを望んだのだろう。俺が変化を望むなら、それはどんな変化だろうか。もしかしたら、何も望まないのかもしれない。ただ静かで穏やかで、誰も俺を惨めにしないのなら――。
 そうだ、あの世界で、あの世界に。俺はあの世界に、行きたい。
 そう願った瞬間だった。
「また、来てくれたね」
 王子様の声が近くに聞こえた。俺はまた木に片手をつけていて、あの二本の木の間から来たのだろうと思った。王子様は、俺が手を付けていた方の木に寄りかかっていた。
「……もしかして、待ってた」
「まあね。そう来客の多い場所じゃないし、これくらいは待てるよ」
 俺の方へ微笑んだ顔を向けて王子様は言う。安堵感がこみ上げてきて、そして衝動的に、王子様の肩に手をかけて目をしっかり見た。王子様は驚いた顔をしていた。自然と口が開く。
「なあ、王子様。俺は、ここに来たい。ここで、生きたい。どうすれば、俺はどうすればいい」
 逸らすことなく目を見ていた。今更ながら、王子様の瞳の色が翡翠の色であることに気付いた。王子様は、しばらくは視線を彷徨わせていたが、しっかりとこちらの目に視線を合わせてからこう言った。
「ただ、信じればいい」
「しん、じる」
「そう。僕を、君の居場所を、信じて」
 その間に肩に置いていた手は外されていた。そうして逆に、俺の方が王子様の強い視線に刺されとどめられ、揺さぶられる番だった。
「俺は、俺は、この世界で。この世界に、生きたい……」
 想いを吐き出す。
「この世界が、この世界がいい。あの、クソみたいな現実じゃなく、この世界で……!」
 凝縮した思いを言葉にする。すると、変化が起きる。
 また、地面が落ちくぼみ始めていた。
「なんで、なん……俺、は……」
 また、俺は穴の中に落ちていた。今までいたはずの世界を見上げる。王子様の、悲しそうな声が聞こえる。
「そうかあ、そっかあ。こういうことも、あるのかあ」
 王子様は顔をのぞかせ、深い悲しみを湛えた目をしっかりとこちらに向けて、口を開く。
「寂しいなあ」
 ハッと、意識が身体に宿る。カシャカシャと線路の上を行く音と、壁を隔ててジイジイと煩わしい蝉の声。俺は椅子に座っていて、目の前には立つ人のベルトとネクタイの先。無機質に冷えた空気に、集った人の体温が滲んでないまぜになって淀んでいる。ここは、電車の中に違いなかった。あの夢は、あの世界は一体。どうなってしまったんだろう。
 釈然としないままの俺に、車内のアナウンスが聞こえた。最寄り駅だった。人々の隙間から窓の外を見れば、景色の流れはゆったりとしていて、見覚えのあるものばかりだった。駅が近い。降りなければ、と荷物を確認して立ち上がる。ドアの前へ行くと、丁度よくシュウウとドアが開いた。そこから身体を滑らせ、駅に降り立つ。電車内とは違う熱気の中に、少し生臭さを感じた。人々が汗をかき、熱く呼吸をし、ひたすら生きている、そんな気配だと思った。ぼんやりとした気だるさを引きずって歩く。力の限りに蝉が、耳障りに叫ぶ。その中で生々しく燃える夕焼けが、この世界では強く、鮮やかだった。全てをその強い光で呑み込み、引きずり込み、暗く沈めてしまうような力に溢れていた。
「ただいま」
 扉を開けてそう言うも、返事はない。いつも通りだった。いつも通りの家の景色が、俺を迎えた。明かりをつければ、夕日の陰になっていた部分にぼんやりとした、ぱっとしない光が降った。いつも通りの景色に違いないのに、胸の奥に残るあの夢の残滓が、その景色を訳もなく悲しく思わせていた。
 あの夢を、あの世界を見ることは、きっともう、ない。これは予感だ。けれども、確信と言っていいほどに、決まっているように思えた。
 どうして、と考える。どうして俺はもうあの世界へ行く資格を持たないんだ、と。
 鞄を壁際に置いて、クーラーをつける。気の抜けた作動音がごうごうと鳴った。気怠さから、出しっぱなしにしてあった布団に飛び込む。どん、と人の倒れる音がした。俺の下から、塵芥が光の中に舞った。思っていたよりも疲弊して、床の硬さを感じる布団だった。
 寂しいと思った。でも、誰かと会いたいとも思えなかった。あの世界が、恋しかった。それでも、俺はもう其処へは行けない。それは何というか、こんな風に焦がれるほどにその資格を益々失っていくような、そんな感覚として俺の中にあった。
 この現実の中に、俺はあの世界を探してしまうのかもしれない。忘れられないかもしれない。そう考えて、気づく。俺は、あの世界を自分の現実だとは思わなかったな、と。いつだって、生きているのはこの世界で、現実はこちらなのだと、信じて疑わなかった。それが、あの世界へもう行けない確信と深く結びついているように思えて、眉根が寄った。
 じゃあ、どうすれば良かったというのか。二十数年生きてきたこの世界を、疑えれば。ずっと生きてきたこちらより、あちらが現実であると思えれば。そうすれば、あの世界に生きていけたとでも言うのか?
 俺の中の確信は、そうだとそれを肯定した。
 それは、酷いと俺は感じた。
 そんなこと、誰ができるというのか。そんな狂人めいた確信をどう持てばよかったというのか。ただの儲け話も疑ってかかるべきような世界にずっと生きて、都合良くあの世界だけは自分の現実として信じなければいけないなんて。そんなこと。
 あの世界への未練とこの理不尽への不満が、心の中で確信の隣にわだかまって、息が詰まった。じんわりと涙がせり上がってくるのを感じて、慌てて腕を目にあてがう。誰が見るわけでもないのはわかっていた。それでも、この世界に生きたプライドが、俺に泣くことを許さなかった。
 腕が、水の感触を覚える。自分の気持ちと水と空気が混じりあうような、ぼんやりした感じがした。その中でただ一つ確かだったことは。
 俺はもう、どれほど願ってもあの世界へは、届かない。



使用テーマ
・異世界
・ファンタジー
・届かぬ世界
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

とりあえず書いてみてはいいが世界観が適当になり面倒になって、ただただ日常の会話劇になってしまった件について

先輩「退屈だな」
水希「なら勉強でもしましょう」
円華「ええー。遊びましょうよ。ね、先輩」
先輩「寝るか」
円華「つまんないですよ。私と遊びましょうよ」
水希「いえ、勉強です。先輩この間のテストで平均点ぎりぎりだったじゃないですか。いい大学に行けませんよ」
先輩「いいよ。その辺の適当な大学で」
水希「ダメです。私はそんな大学に行きたくありません」
先輩「なんで俺の大学がお前の行く大学になるんだよ」
水希「それは…」
円華「そんなの先輩と同じに大学に行くに決まってるからじゃないですか」
先輩「『じゃないですか』って、知らねーよ」
円華「私は先輩と一緒の大学に行きたいですよ」
先輩「はいはい、あざとい」
円華「もう、本当なのに。でもぅ、水希ちゃんはどうか分かりませんけど」
先輩「水希は俺と同じとこ行く必要ないだろ。俺なんかよりよっぽど頭いいし」
水希「そ、そうですね。先輩と同じ大学行く必要性はありませんね」
先輩「だろ」
水希「で、でもですね。先輩と一緒の大学なら楽しいかなぁ、と」ゴニョゴニョ
先輩「え、なんだって?」
水希「何でもありません」
円華「っていうか、私たちの進路なんて適当でいいじゃないですか」
先輩「それもそうだな。なるようになるだろ」
水希「そんなことはありません。きちんと将来のことはきちんと考えるべきです」
円華「水希ちゃんは真面目だな」
先輩「つってもな。俺らみたいな異能部に割り振られた時点でなんかもうあれだろ」
円華「ですよね」
水希「でも」
先輩「水希、水もらえる?」
水希「はぁ。はいどうぞ」
先輩「あんがと。でも、いつ見ても変な感じだよな。コップに勝手に水が溢れてくるのって」
水希「前に手から出したら気持ち悪いとか言いましたよね」
先輩「俺は言ってない。円華が言った」
円華「ええー。確かに言いましたけど、先輩もそうだなって言いましたよ」
先輩「そうだっけ?」
円華「そうですよ。全部私のせいにしないでくださいよぉ」
先輩「悪い悪い」
円華「忘れっぽい先輩には頭のよくなるマッサージをしてあげましょう」
先輩「馬鹿やめろ。知ってんだろ。俺の異能つうか特性」
円華「いっきますよぉ。それビリビリビリビリぃー」
先輩「あっぶな、やめいちゅうに」
円華「避けないでくださいよ」
先輩「だから、やめろ」
水希「そうよ、やめなさい。後始末をするのは私なんですから」
円華「ちぇ」

先輩(この世界は魔物も魔王もドラゴンも勇者もいる世界。まるでゲームだが、これが現実。魔法も錬金術でも何でも存在する。ただ俺らは生まれた時点である程度の役割が与えられる。勇者に魔王に村人に兵士、王様、姫様、盗賊、賢者エトセトラetc。しかし、その振る舞い方は自然と身に着くものではない。学ぶのだ。学校で、しかもそれぞれの役割にしたがって部活が設けられている。勇者部、魔王部、村人部のように。例えば勇者部なら剣技や魔法、ヒロインとのフラグの立て方なんてのもあるらしい。そんな感じで日々の生活を送っている。卒業後に異世界でそれぞれの役割を全うする。大学なんてただの逃避に近い。それこそ学者とか研究者の役割を背負ったものぐらいだ。就活から逃げて大学院にいくようなものですね。
そして、俺らの属するこの異能部。字面はいいが、特に役割のないもので、結局は大半が村人になるのがおちだ。異能力を持っているがそれだけである。ようするに半端者の集まりだ。ただ、他の一般生徒に万が一があってわはいけないと、隔離されている。まぁどの部の同じだと思うけどな。山賊部とか荒れまくってるだろ。知らないけど。普段の生活は別として特性ごとに区分けさせておく方が管理しやすいんだろ。
俺にも一応能力と言うか特殊な体質だ。これぐらいなら村人でもいいと思うんだけどな。もっと炎とか操れるとかかっこいいのだったらな。勇者様御一行とかになれたのかもな。いや、そんな危険な人生嫌だ。まぁ今はこの生活を楽しむのが賢明だろ。将来のことはそのときになってから考える。本当に半端者だよな、俺は…)
先輩「っていうか、円華はなんでこの部にいるんだよ。電撃なんて汎用性高いだろ。魔法使いとか、勇者様御一行に入れそうじゃん」
円華「んーかもですね」
先輩「ならなんで」
円華「先輩がいるからに決まってるからじゃないですか」
先輩「……あざとい」
円華「えへっ。でもですね。私の電撃っていうか静電気レベルなんですよ。スタンガンの方が役に立ちますよ」
先輩「それでも十分俺には脅威だけどな」
水希「まぁそうですよね。先輩の異能というか特性って、体から油が出ることですからね」
先輩「ホントかっこつかねぇよな」
水希「そんなことは…
???「そんなことはないぞ」
円華「またやってきましたね」
勇士「我は勇者部一員勇士である。先輩今日こそ我がパーティーに」
先輩「嫌だ」
勇士「君の体質はとても役に立つ」
水希・円華「ダメです」
勇士「君らは相変わらずだな。だがな、このままだとおそらくただの村人として生を終えることになるだろう。それよりも我々と共に魔王討伐のために役だった方がいいではないか」
先輩「俺の価値って」
円華「ただの油調達要員ですよね」
水希「まぁ確かに冒険の中では色々と便利ですよね。明かりとか料理とか」
先輩「買えよ」
勇士「油を買うお金で他の道具をそろえることもできるだろ」
先輩「とにかく嫌だ」
勇士「そこをなんとか」
先輩「それに俺の水希のと違って生み出すとかじゃないんだよ。汗の成分に油が多く含まれてるみたいな感じで」
円華「だから先輩っていつも油臭いんだ」
先輩「おい、失礼なことを言うな。……え、俺って臭い?」
水希・円華「「……」」フイッ
先輩「マジみたいな反応やめて、泣いちゃうから」
勇士「臭いぐらい大丈夫だぞ。冒険中は風呂に入れないこともしょっちゅうらしいからな」
先輩「お前は黙ってろよ」
水希「冗談ですって」
???「ちわーす」ガラっ
魔太郎「油人間君いますか?」
先輩「おい」
魔太郎「お、いたいた。お前いい加減諦めてうちの軍来てくれないか?」
先輩「なんで今日はそんなんばっかくるんだよ。嫌だ」
勇士「君は終末部の魔太郎君。君も彼を勧誘しているのか」
魔太郎「まぁな。お前ら勇者側がこっちの資源とか奪っていくから、こっちの生活も厳しいんだよ」
円華「世界を支配する側も同じなんですね」
魔太郎「まぁな。資源は生き死にの問題だからな。魔物によってはたまたま人間が主食ってだけのもいるんだが、どうもなかなか理解が得られない」
水希「それはちょっと嫌ですしね」
勇士「人間を襲うのはいけないことだろう」
魔太郎「何でだよ。俺らが牛とか豚とか喰うのと同じだろう。そこに差別はいけねぇよ」
勇士「でも、人間だぞ」
魔太郎「ただの人間だろ」
円華「血生臭い話はやめましょうよ。そういう談義はよそでやってください」
魔太郎「とにかくこちら側につかないか」
先輩「ノー。そんな物みたいな扱いしないで欲しい」
魔太郎「それなら男娼として」
先輩・水希「ブッ」
先輩「お前そっちか?」
魔太郎「違う。バイだ」
円華「だんしょう? って、何ですか?」
水希「円華、耳を貸して」
円華「んっ?」
水希・円華「ゴニョゴニョゴニョゴニョうんうんふんふん……きゃーーー!!」
水希「耳元で叫ばないで」
円華「先輩って、そっちなんですか? 掘られちゃうんですか?」
先輩「なんで俺なんだよ。違うっつてんだろ。てか、掘るとかやめろ」
魔太郎「なんだ、掘りたいのか」
勇士「君は、そう、だったのか」
先輩「無駄にためて話すな。俺はノーマルだ。女が好きだ」
勇士「大丈夫。もう偽りの自分を演じなくていいんだ。君が望むなら僕はこの身体を差し出そう」
先輩「何を勝手に覚悟してるんだ。いらんいらん。気色悪い」
水希「そうです。やめてください」
先輩「そうだ。水希もっと言ってやれ」
水希「先輩は受けなんですから、攻めてあげないと」
先輩「そうそう、攻めて……え」
円華「…水希ちゃん」
水希「ハッ。ゲフンゲフン」
「………」
魔太郎「で、来るか?」
先輩「しつこい。却下に決まってるだろ」
魔太郎「ちょっと楽しみにしてたんだけどな。勇士は捕虜にしたら男娼決定だな」
勇士「私は決して悪には屈しないからな」
先輩「なんか快楽エンドフラグ立ってないか」
円華「なんですか、それ?」
ガラッ!
ゾンビ子「男同士で勃ってると聞いて」
先輩「どんな耳してるんだよ」
ゾンビ子「先輩たちがくんづほぐれつ掘ったり掘られたりすると聞いて」
先輩「しねぇよ」
ゾンビ子「そうですかぁ、残念です」
水希「はい」
円華「水希ちゃん……そうだね」
先輩「お前も!」
勇士「で、君は?」
ゾンビ子「私はモンスター部の黄泉派のゾンビ子です。心身ともに腐っております。将来あなたたち人間側に殺され、経験値にされる雑魚でございます」
勇士「……」
魔太郎「すまないな。俺らの統率側が役に立たないせいで、お前らのような犠牲を」
ゾンビ子「大丈夫すよ。私たちも上の努力は分かっていますから」
勇士「…将来、非常にやりづらいのだが」
ゾンビ子「いいんですよ。しょせん私たちの運命ですから。好きにしたらいんですよ。切るなり燃やすなり、エロ同人みたいにされることも覚悟しています」
勇士「わ、われはそんなことしないぞ」
ゾンビ子「でも、冒険で処理に困ってるでしょう?」
先輩「パーティーの女共をはべらしてるから問題ないだろ」
円華「勇士さん、そんなことしてるんですか?」
水希「…」ジ――――――
勇士「してないと言ってるだろ」
魔太郎「そうだ。勇士はそんなことしないぞ」
勇士「ま、魔太郎」
ゾンビ子「それもそうですね」
勇士「き、君たち。分かってくれたか」
魔太郎「分かっているぞ」
ゾンビ子「はい」
魔太郎「へたれのお前に女を口説くことはできないもんな」
ゾンビ子「だから男性に行くんですよね」
勇士「ちがーーーーーーーーーう! 俺はノーマルだぁぁぁあぁーーーーーーー……」
ガラッ、だァー―――――――
円華「行っちゃた」
水希「行きましたね」
先輩「南無」
魔太郎「ふむ、しょうしょうイジリ過ぎたか。俺らも今日は帰るか」
ゾンビ子「そうですね。水希ちゃん、また今度遊びましょうね」
水希「は、はい」
ゾンビ子「ではではー」ガラガラ ピシャ

先輩「お前ら、友達だったのか」
水希「はい。同じクラスで」
円華「でも、なんか接点なさそうだよね」
先輩「いや、そうでもない気が」
ガラガラ
ゾンビ子「忘れてました。こちらが本当の用事でした」
水希「そ、それはあとで「先輩の総受け同人本。今回の力作揃いですよ。はいどうぞ。では、今度語りましょう。今度こそさよならです」ふふふふふふ腐腐腐腐腐腐腐
水希「……」プルプル
先輩・円華「…………」
先輩「円華。何して遊ぼうか」
円華「水希ちゃんにそんな趣味があったんだ。しかも先輩をネタに」
水希「………」プルプル涙目
先輩「人が触れないようにしたことを察しろよ。誰にも触れてはいけないことがあることを察しろよ」
円華「いや、さっき十分墓穴を掘っていたような。でも、すごい意外じゃないですか。あの水希ちゃんがBL大好き腐女子だったなんて」
先輩「趣味なんて人の勝手だろ。もうやめてやれよ。ちょっと泣いてるじゃないか」
水希「…泣いてません…」
円華「でも、先輩。総受けにされちゃってるんですよ。処女奪われてますよ」
先輩「まぁ、妄想ぐらい気にはしない、ぞ。そんなこと止める権利は俺にないからな」
水希 パァ
円華「先輩は優しいですね」
先輩「そんなもんだろ。それに例えば俺がお前らで何か妄想することをお前らにとめることができるか?」
円華「先輩、私たちでエロい妄想してるんですか。キモいです!」バッ
水希「えっ」バッ
先輩「例えばって言ってるだろ。妄想は誰にも止められない。はい、以上この話終わり」
円華「私で妄想してないんですかぁ?」
先輩「してないって言ってるだろ。そして、なんで少し残念そうなんだよ」
円華「そ、そんなことないですよ。あ、そうだ。水希ちゃん」
水希「な、なに」
円華「ちょっと、それ見せてよ」
水希「え、これ?」
円華「うん。ちょっと興味あるの」
水希「でも、これを初心者には…」
円華「まぁまぁ。ちょっとだけ」
水希「それよりもこっちの方がいいかも」ガサコソ
先輩(持ち歩いてるのかよ)
円華「どれどれー」ペラペラ
円華「うわ、うわわわわー」ペラ
円華「……えっろ」ペラ チラ チラチラ
先輩「なんでこっちを見る」
円華「水希ちゃん、ちょっとこれどうなってるの」コソ
水希「こ…先輩の…あなに…勇士さん…のが…で……で…になってるの」コソコソ
先輩「ちょっとお。なんか嫌な単語がちらほら聞こえてるんだけど」
円華「え、え。やおいあなって何?」
水希「それはね」
先輩「はいはい。やめようねぇ。おじさんのメンタルが段々と削られてきたよ」
円華「いや、こんな世界もあるんですね。先輩が少しかわいく見えてきた」
水希「でしょ」
先輩「でしょ、じゃない。そんなもの布教するな」
水希「でも、先輩が言ったんじゃないですか」
先輩「俺は妄想は仕方ないと言ったんだ」
円華「まぁまぁ、先輩。偏見はいけないことですよ。これはとてもいい作品ですよ」
先輩「なんでお前まで腐り始めてるんだよ」
円華「今度水希ちゃんの家行ってもいい」
水希「いいよ。それも今日は貸してあげる」
円華「やった」
先輩「おおい」
(まぁいいか)


円華「にしても、先輩もモテモテですね」
先輩「そんなじゃねぇだろ。ただの油供給機扱いだろ」
水希「現実的な話、買わずに油が手に入るなら便利ですよね」
先輩「まぁそうかもな。それでも生み出せるわけじゃないんだぞ」
円華「そうですよね。採取するなら絵面がひどいですよね。先輩の汗を集めるかんじなんですもんね」
先輩「だろ。利便性なら圧倒的に水希だろ。水を生み出せるんだし。油以上に必要資源だしな。俺より勧誘数多いだろ」
水希「たまにある程度ですよ。ついでに言えば私の能力って原子の結合とかなんですけどね」
先輩「じゃあ、水以外にも作れるのか?」
水希「できなくはないですけど、あんまりしたことないですね。水が一番作りやすいんですよ。私の中では。酸素とか気体は実体がないので想像しづらいので」
先輩「そうなのか。なおさら重宝されそうだな」
円華「まぁ水希ちゃんは能力以外でも普通にモテルもんね」
先輩「可愛いしな」
水希「…かわいい」//
円華「先輩、私は私は?」
先輩「ああかわいいかわいい」
円華「適当だな。それじゃ私の好感度は上がりませんよ」
先輩「構わん」
円華「構ってくださいよ」
先輩「はいはい。かわいいよ。友達も彼女にしたいって言ってたぞ。お前も十分モテるだろ」
円華「へ、へぇ。せ、先輩は」
先輩「ん」
円華「私を彼女にしたいですか?」
水希「!」
先輩「そうだな。したいしたい」
水希「!!」
円華「適当だなぁ」///
先輩(ありえないけどな)
水希「わ、私はど…どうですか?」
先輩「水希と付き合う人は幸せ者だろうな」
水希「こ、答えになってません」///
先輩「そんな未来があればいいな。まあ今はいいよ」
水希「どうして…ですか?」
先輩「俺たちの今後って本格的には各世界に配置されてからだな。ここで関係を持ったとき、離れるとき辛いしな。同じ世界にいることなんて稀なことだ」
水希「そうかもしれませんけど」
円華「でも、今の時間だって大切じゃあないですか。この青春の時間を楽しみたいですよ。学校での恋愛とかも経験してみたいですよ」
先輩「それもそうかもな。したければ彼氏でも作ればいいさ」
円華「それが落ちてくれないから困ってるんじゃないですか」ボソ
水希 こくん
先輩「なんか言ったか?」
円華「いえ、なにも言ってないですよ」
先輩「それにな」
水希「それに?」
先輩「今はこうして3人で過ごしてる方が楽だし、楽しい…しな」//
水希「…」
円華「…」
水希「そうですね」
円華「私もそう思います」
先輩「だろ」

先輩「でも、もう少し刺激あってもいいかもな。今も暇を持て余してるし。俺も彼女でも作ろうっかな」
水希・円華「!!!!!!」
円華「先輩、さっきまで言ってたのは何なんですか」
水希「そうです。もっと自分の言葉に責任をもってください」
先輩「そんなにムキになるなよ」
円華「ところで私は今フリーですけど、お試しに付き合ってみませんか?」///
水希「抜け駆けを。私もつ、つつつ付き合ってもああああげてもいい、いですよ」
先輩「冗談だ。冗談。でも、円華と付き合うのは難しそうだよな」
円華「えええーーー」ガーン
水希「円華は我儘ですからね。振り回されるのは確実です」
円華「水希ちゃんまでひどい」
先輩「そうじゃなくて、付き合ったとして相性最悪だろ」
円華「あ、相性が、さ…最悪」ショボーン
先輩「だって油と電気だぞ」
水希「ああそういうことですか」
円華「? どういうこと?」
先輩「俺は汗みたいに油を出す。その状態で手とか繋いで、お前が何か興奮してみろ。一気にファイヤーだ」
円華「あ、あああぅ。た、確かに」
先輩「そんな命がけの恋愛はしたくない」
水希「燃えあがる恋と言うか実際に燃えちゃいますもんね」
円華「うぬぬぬぬ。み、水希ちゃんだって、相性悪いよ」
水希「な、なんでですか?」
円華「だって水と油じゃん」
水希「私のは水を生み出せるだけで、私自身が水人間なわけではありません。ほら先輩と手だってつなげます」ギュ
先輩「お、おい」
円華「うーうー。水希ちゃんずるい。私も先輩とキスとかしてみたい」
水希「き、キス」////
先輩「してないぞ。そして、まだ死にたくない」
円華「どういう意味ですか!」
先輩「燃えたくない」
円華「萌えてください」
水希「なんか意味というか文字違いません」
円華「こうなったら実験してみましょう。まず手をつないでみましょう」ジリジリ
先輩「やめろ。近づくな」
円華「そんなこと言わずに。こんな可愛い子と手を繋げる機会はそうそうありませんよ」ジリジリ
先輩「分かったから、責めて落ち着けな。な」
円華「私は落ち着いてますよ」
水希「円華、落ち着いてないよ」
円華「さあさあ」
先輩「や、、やめろおおぉ」
ギュ 
円華「やった」/////
バチッ
ボッ
先輩「ああ、燃える燃える燃える! 水希、みず、水はやく!!」
水希「じっとしてください。今出しますから」
円華「先輩、そんなに照れなくても」
先輩「目の前の現実を見ろ! ああもう。やっぱ恋愛事なんかやってられっか!!」

先輩(まぁこんな半端な体質だし、将来はただの村人になるんだろ。世界によっては魔物とかに襲われることもあるんだろうが、それなりの人生を送るようになるんだろ。そんときに奥さんでももらえれば十分だろ。
今の生活は限りある安全な世界。ゾンビっ娘とかいるけど、ただの体質みたいなもんだし、それなりに楽しい毎日を送れる。でも、あと数年で別れは訪れる。これは絶対だ。世界の数はそれこそ限りない。あいつらと会うこともないだろ。流石に俺だって二人の好意に気づいてないわけじゃない。でも、別れが辛くなる。そんな思いはしたくない。まぁ結局は選ぶことから逃げてるだけだ。それでもこの3人で過ごせる時間は残り少ない。できるだけ俺は楽しみたい。
もし…もし同じ世界になれたらそんときにでも決断できる
かなぁ)
先輩「それより今は
早くみずを、火を消してくれえええぇぇぇ!!!!」

終わり


使用テーマ
・異世界
・異能力
・終末
・学園もの
・BL
・ゾンビ
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

《Z》OO

 夜の帳が下りた街は、昼間の賑やかな喧騒を束の間忘れてしまったかのように静まり返っていた。その静けさの中で、密やかに広がってゆく囁き声達の、特に集まるその場所。
――街の東側に在る、大きな動物園。この街における一番の観光名所と言って差し支えないであろうその場所では、夜が訪れるごとに、檻の中のものたちが茫とした囁きを交わしていた。
「……今日も、すさまじい数の客が来たな。」
 くすんだ金の毛をもつ彼は、檻に体を凭れかけながら、誰に言うでもなくそう呟いた。その言葉に、近くにいた、大きな体と灰色の毛をもつ彼が答える。
「休日、だからなあ。明日は、今日以上にやつらが押寄せるだろうねえ。」
 小さく苦笑しながら話す彼の言葉に、檻の隅で体を横たえていた、青い目を持つ彼女がため息を零した。
「想像するだけで、ウンザリね……。一日中、生活する姿を見られ続けることが、こちらにとってどれだけのストレスか、客や従業員たちは考えているのかしら。」
「考えている奴は少ないだろうねー。まあでも、逆に考えれば、生活する姿を見せるだけで最低限食わせてはもらえるんだ。他の奴らに比べれば、もしかしたら案外楽なのかもしれないよ?」
 遠い目でぼやく彼女に、夜に出された食事の残りをちまちまと食べ続けている、この檻の中で一番若い彼が割り切った笑顔で言う。しかしすぐにその表情を曇らせると、自らに出された食事を見つめながら、不満そうにぼやいた。
「ただ、毎日こうも肉に偏ったメニューを出されちゃ、さすがに飽きてくるよなあ……。確かに、肉は好きだけどさあ……たまには、少し違うメニューを食べたい気分の時だってあるし。」
 もー、と呟く若い彼を見て、くすんだ金の毛の彼がうんうんと頷きながら言う。
「お前は年齢が若い分、余計に、だな。」
「まあ、分かってるんだけどね……。こうなったら、飼育員に直談判してやろうかなぁなんて考えちゃうよ。」
「それは、多分無理だろうねえ。あちらに、こちらの言葉は伝わらないもの。近頃は、僕たちの言葉や感情を理解するための研究も盛んに行われているみたいだけど……まだ、実用できるレベルまで至ってるものはないようだし。」
 んんー、と大きな体を伸ばしながら、灰色の毛をもつ彼が力の抜けた声で言葉を返した。そんな彼の言葉を聞きながら、青い目の彼女が、相変わらず遠い目をして呟く。
「そもそも、あいつらが私たちを完全に理解しようなんてことが無茶な話なのよ。種が、違うんだもの。これは、どうすることもできないわ。この園でも、私たちの住んでいた環境の再現なんて言って、各ブースの形や条件を似せてはいるけれど……。所詮あいつらの考えた物、本来私たちが住んでた場所とは、根本的に違うしね。」
 彼女の少し切なさを含んだ声を聞き、くすんだ金の毛をもつ彼が、彼女の方へ顔を向けると言った。
「結局は、ここに来る客へ、いかに俺たちを効果的に見せるかって点に重点を置いた作りになってるからな。……ただ、それでもここでは、命の安全が確保されているってだけマシだろう。たとえ、一生飼い殺しの身だったとしても……他の連中の中には、製薬の実験に送られたり、野良化した奴らには、下手すりゃ殺処分されてるのだっている。」
 その言葉を受け、一番若い彼が、抑えられない憤りのにじむ声で呟く。
「俺らの命に対する、あいつらの扱いの差が理解できないよ。そうやって、命を命とも思われない奴らがいる一方で、ここでは俺らの子供が一人生まれるだけで、やれ名前を募集するだの、特設会場を設けるだの、取材が来るだのって大騒ぎだ。」
「小さな子供たちは、体も小さくて軽い分、ふれあいコーナーとやらに連れてかれて、客に抱き上げられたり撫でられたりしてるんだよねえ。僕は、ここに来たときにはもう成長していたから、経験しなかったけど……世がこうなってから生まれて、ここに連れてこられた子供たちは、本当に不憫だよ。」
 灰色の毛をもつ彼は、一番若い彼の横に来てそう言うと、深く重いため息をついた。そのため息に感化されるように、くすんだ金の毛をもつ彼が話を継ぐ。
「もっと不憫なのは、珍しい種族の奴らとか、見目のいい奴らだな。そういう奴らは、あいつらに個人的に飼われる可能性が高い。……地獄以外の、何物でもないな。想像しただけで……おぞましいよ。」
 吐き捨てるように言った後、彼は、小さな声で、ぽつりと呟いた。

「――俺たちは、いつから、こうなっちまったんだろう。」

彼の言葉に、檻の中全体の空気が、静かに重さを増しながら、少しずつ音を失っていった。冷たく凍りつきそうなその空気を、少しでも振り切ろうと無理に明るい声を出しながら、一番若い彼が言った。
「そのあたりについては、先祖様たちに問い詰めたいところだね! 本当に、こんな道しかなかったのですか、って――。」
 皆を気遣った彼の声に、固まった表情を少し解しながら、灰色の毛の彼がぼんやりと呟いた。
「定められて、いたのかもしれないねえ。それは、僕たちにはどうしようもないことだったのかもしれない。……でも、それを置いといたとして……あいつらは、結局僕らをどうしたいんだろうねえ?」
 んー、と間延びした声を出しながら、彼は何となく思いついたように、ぼそりと言葉を零した。
「……そもそも、ここで僕らの生活する姿なんか見て、何が楽しいんだろうなあ。」
「――今となっちゃ、俺らが自然に暮らしている姿なんて、見たことのない奴らが多いんだよ。珍しがってるんだ。この園にいる奴らだけが、この場所の楽しさについて、疑問を抱くんだろう。」
 くすんだ金の毛をもつ彼は、自分たちを囲い、外界との繋がりを遮断する銀の棒を見つめながら、静かに呟いた。
「俺も、この立場になるまでは考えたこともなかったよ。」

「この場所にとらわれた奴らの心中なんてさ……。」

§

 夜の帳は、徐々に昇りゆく太陽の光へ溶けるように消えてゆき、日を受けた涼やかな風が街中を通って行った。――夜明けである。
 昼間の園内は、昨晩彼らが予想していたように、溢れんばかりの客でごった返していた。その中で、やたらと肩幅のしっかりとした客が一人、人ごみに流されぬようしっかりと道を踏みしめながら、園内を見て回っていた。彼は、一度この園へ家族と来て以来、その魅力に憑りつかれてしまった一人だった。近頃は、時間を見つけては、一人でも気にすることなくここを訪れている。
 のんびりとそれぞれの生活を営む檻の中のものたちを見ながら、昼頃、従業員たちが行う餌やりの様子を見つめていた彼は、ふと気づいたことを呟いた。
「それにしても、こいつらって、餌食う量少ないよなあ……。まあ、餌代がかからなくていいだろうけどな」
 園側の負担も考えながら、彼は小さく苦笑して、その場を離れる。
 しばらく園内を満喫した彼は、最後に園の入り口付近を一通り見て帰ろうと思い、そちらへと足を向けた。その道の途中、昨晩囁きを交わし合っていた彼らの檻の前を通った時、彼はふと立ち止った。檻の中で、どこか遠く、空虚な目をしている彼らを見つめながら、感慨深い声でそっと呟く。
「……昔は、ここの良さなんてこれっぽっちも分からなかったけれど、確かにこれは面白いよなあ。ほんと、よく動物園なんて考え付いたものだよ。」

「――――人間ってやつはさ。」

 彼は、毛に覆われたその手で檻の外についたプレートに触れると、そこに書かれた文字を見つめ、笑った。

 ――《生息地分類:アマリシア大陸  哺乳綱 霊長目 ヒト科 ヒト属 ヒト ――通称:人間》。


使用テーマ
・異世界
・終末
・届かぬ声
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

ナナ

 ぽく、ぽく、ぽく、ぽく。
 一定の調子で打ち出される空虚な響きが、微かに聞こえる蝉の声と溶け合って消える。
 ぽく、ぽく、ぽく、ぽく。
 そんな現象が延々と続く空間に、喪服を身にまとった人々が行儀よく腰掛けている。
 菜々は、右隣に座る父親を横目に見ながら、そわそわする身体を必死に抑えていた。この行事に参加するのは一度や二度ではないが、菜々はその退屈さに未だ慣れることができなかった。
固い椅子に座って何もせずじいっとしていろというのは、まだ小学生の彼女にとっては酷な話なのかもしれない。
 ぽく、ぽく、ぽく、ぽく。
 欠伸が出そうになって、下唇をぎゅっと噛む。
「こういうところで大きな欠伸をすると、閻魔様に魂とられちゃうんだよ」
 毎回、この集まりがある度に父親が言う台詞を思い出す。そのせいで、手持ち無沙汰な時間であるというのに、一切気が抜けなくなってしまった。
 ぽく、ぽく、ぽく、ぽく。
 しかしそれでも、睡魔というものは遠慮なく襲いかかってくる。一度襲われたら、退治するのはなかなか困難だ。
とうとう菜々は、次第に重くなる瞼に耐え切れずに、前へ後ろへ船を漕ぎ始めた。
 ぽく、ぽく、ぽく、ぽく。
 ぽく、ぽく、ぽくぽく、ぽくぽくぽく、ぽく。
 遠くなる意識の中で、菜々は鳴り続く音の調子が狂っていくのを聞いた。
 ぽく、ぽくぽく、ぽくぽくぽくぽくぽくぽくぽくぽく――
 ――なんだろう。
 そう思った、次の瞬間だった。

 ――ばきん。

 と、何かが砕けたような鋭い音が響き渡った。
 菜々はびくんと身体を震わせ、急いで音のした方を見た。
 そこには、先ほどまで木魚を打ち鳴らしていた僧侶が、背中を向けて立っていた。手には大きく折れ曲がったばちを持っている。
 どうやら先刻の耳障りな音は、そのばちが砕けた音のようだった。
 僧侶は菜々たちの方へゆっくり振り返った。焦点の合っていない目玉を、ぎょろぎょろ動かしている。
 暫くすると、僧侶はのたり、と歩き始めた。
 のたり、のたり。
 彼は菜々と父親の間を縫って通り抜け、何も言わずに本堂から出て行ってしまった。
菜々がぽかんと口を開けて呆気にとられていると、今度は隣にいた父親が突然立ち上がった。
いや、父親だけではなかった。菜々を除くその場にいた者全員が、まっすぐ起立していた。
 皆虚ろな顔でぞろぞろと列を成し、ひとり、ひとりとこの場を去っていく。
 床の軋む音だけが、やけに煩く響く。
 菜々はそんな様子を、ただぼんやりと眺めていた。
夢の中にいるような、浮ついた気分。目の前で起こっている現象が当然のことであるかのような、そんな心地がしていた。
ふわふわとした感覚にとりつかれている内に、とうとう、誰の姿も見えなくなってしまった。
ひとり取り残された菜々は、奇妙な音を発して軋むボロ椅子に腰掛けて、じっと前方を見つめた。
壇上には、様々な仏具が左右対称に並べられている。その中央に、本尊が入っているであろう大きな厨子が、堂々と鎮座していた。どれもこれも、派手な金色の装飾が施されている。
 菜々は、見とれていた。その神々しさ、そして、その不気味さに。
 幼い心ながらに、畏怖の念のようなものを感じた。それでも、恍惚として見とれていた。
 ――ふと、厨子の扉が、僅かに開いた。
 その隙間を、ぼーっと見つめる。
 闇に紛れてはいるが、うっすらと白いモノが見えた。
 ――なんだろう。
 それを確認しようと、菜々はゆっくりと腰を浮かせた。
――瞬間。
扉の中から、無数の白い手がぬるりと飛び出した。
それらが菜々の腕に、脚に、頭に、凄まじい速さで巻きついて、そうしてそのまま――
「菜々」
 はっとして、声のした方を見る。
「――おかあさん」
 いつのまにか隣に座っていたのは、菜々の母親――五子だった。
 気が付くと、身体中に絡みついていた白い手は、すっかり消え失せていた。
「久しぶり、菜々。元気にしてた?」
「うん。げんき。でもおとうさんは、ずーっとげんきないんだよ」
「――ふふ。信二くんらしいわね」
 五子は苦笑して言った。
 暫くぶりに見た五子は、真っ白だった。純白の袴を着ていて、肌も透き通るように白かった。
 それでも菜々は、五子に母親の温もりを感じ取っていた。
「あ、そうだ」
 ふと思い出して、菜々は椅子の下に置いていたバッグの中を漁り始めた。
 暫くううん、ううんと唸っていたが、漸く目当てのものを見つけて、それを五子の前に差し出した。
「あら。なあに、これ?」
 取り出されたのは、小さなプラスチックの容器だった。中には、保冷剤と、丸みを帯びた何かが入っている。
「ゆでたまご。おかあさん、すきだったから」
 菜々が得意げに言うと、五子は一瞬目を丸くして、ふふっと微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいな」
 ゆったりとした動作でそれを受け取ると、お腹の辺りで大事そうに抱えた。
「おとうさんがね。きょうはおかあさんがどっちにいくかきまる日だから、っていってたの。だからね――」
「じゃあ、お守りなのね。このゆでたまごは。……ふふ。なんだか、安心するわ」
 心底ほっとした様子で、五子は言った。
 それを見て、菜々はさらに得意げになって言った。
「きょう、タンザクにもかいたんだよ。おかあさんがしあわせになれますように、って」
「そっか……本当にありがとうね、菜々」
 くしゃ、と、菜々の柔らかい髪の隙間に指を入れ、引っ掻くように頭を撫でる。
「ちょっと見ない間に、背伸びた?」
「そうかなあ」
「うん、大きくなったよ」
「えへへ、やったあ」
 お互い顔を見合わせて、笑い合う。頭に乗せられた五子の手の感触が、菜々にはこれ以上ないほどに嬉しかった。
 五子の手の甲に、菜々は自らの手を重ねた。金属のようにひんやりとしている。それでも、その奥底に母親の柔らかさと温もりが感じられた。
「それにしても、菜々が三年生になるのを見届けられて、本当に良かったわ。大丈夫? 友達は、たくさんできた? 勉強は、難しい?」
「ぜんぜんへーきだよ。ともだちいっぱいいるし、べんきょーはおとうさんが教えてくれるから」
 えへん、という風に胸を張ってから、菜々はあっ、と手を打った。
「そういえばこのまえ、『がっしょーさい』があったんだよ。そこで……えっと、『ゆめの』……じゃなくて、『つばさを』……? ってうたをうたったの」
 曖昧にしか思い出せない曲名を、適当に誤魔化す菜々。そんな様子に、五子はついつい笑みをこぼした。
「えー。聴きたかったなあ、菜々のお歌」
「じゃあ、きかせてあげる!」
 菜々は目を輝かせてそう言うと、ぱたぱたと壇上に上った。
 五子の方に向き直り、菜々は大きく一礼した。
それに応えて、五子は微笑み返す。
 菜々の独唱が、始まった。


 ――ふふ、すごいわ、菜々ったら、あんなに大きな口を開けて。

 ――あんなに、お腹から声を出して。

 ――あんなに、一生懸命な顔で。

 ――こんなに、心が伝わってくる。

 ――なんで、こんなに。

 ――胸が苦しいんだろう。

 ――考えないように、していたのに。

 ――なんで、あんなに。

 ――あの子は強いんだろう。

 ――どうして。

 ――どうして……。


 菜々の独唱が、終わった。
 堂内に、微かな余韻が延々と響く。
 菜々は五子に向かって、深く深く礼をした。
 五子は立ち上がり、菜々に向かって惜しみない拍手を贈った。
 菜々が再び、ぱたぱたと五子の元へ駆け寄る。
 ぽん、と。五子は菜々の頭に手を置いた。
「菜々。あなたは、強いわ。とっても。誰にも負けないくらい。だから、ね。何も心配しなくていいのよ。私がいなくたって――」
 五子が諭すように言うと、菜々は俯き、呟いた。
「……ない」
「――え?」
「あたし、つよくなんてない……。だって、さ。おかあさんがいないと、さびしいし、かなしいし、むねが、すごくいたいんだよ……? ぜんぜん、つよくなんかない。なんで、おかあさんはきゅうにいなくなっちゃったの……? どうして、あたしをおいていっちゃったの……? ねえ、どうして……?」
 俯いた小さな顔から、滴がぽた、ぽたと落ちた。
「また、あいたいよ。また、おはなししたいよ。また、あそびたいよ。また、しかられたいよ。また、おかあさんのりょうり、たべたいよ……!」
 耐え切れず、五子はぎゅっと、菜々を抱き寄せた。
強く、強く。それでも、包み込むように、菜々を抱きしめた。
「ごめん……ごめんね、菜々ちゃん……。ごめんね……」
 菜々はぐしゃぐしゃになった顔を五子の胸に埋めて、震えた。
 真っ白になった頭の中で、次第に意識が遠のいていくのを、感じた――。



「菜々……。おーい、菜々ー」
 目を覚ますと、目の前には父親――信二の顔があった。
 菜々はきょろきょろと回りを見廻した。場所は、未だに本堂である。しかし、菜々と信二以外に人はいなかった。
「おはよう。もう、終わっちゃったぞー。……ん? なんだ、泣いてるのか?」
 頬を触ってみると、確かに、濡れているようだった。
 菜々はそこで、今まで母親と会って話していたことを思い出した。
ついさっき体験したことを信二に話すと、彼は驚いて目を丸くした。
「へえ、そんなことがあったのか……」
 信二は腕を組んで、首を捻りながら話を聞いていた。
「いや、それにしても、うらやましいなあ菜々は。なんたって、お母さんとまた会えたんだろ? いいなあ、俺ももう一度、お母さんに会いたいよ」
「おとうさんも、ゆでたまごをもっていけばきっとあえるよ」
 菜々の台詞を聞くと、信二は少し嬉しそうに笑った。
「本当かい? じゃあ、次はそうしようかな」
 つぎ? と、菜々は首を傾げた。
「つぎって、いつあるの?」
「うーん、と。そうだなあ。五十一日後、かな? 八月の終わりくらい」
 信二は、手帳をぱらぱらと捲りながら答えた。
「へえー。じゃあ、またあえるんだ!」
 そう言うと、菜々はぴょんぴょんと飛び跳ねて、外に出て行ってしまった。
「おい、菜々。ちょっと待てって!」
 急いで菜々の後を追いかけながら、信二は思った。

 ――きっともう、そんなことは起こらないんだろう。
 ――五子が前に言っていた。

 ――「『ナナ』は、幸運を呼び寄せるんだ」って。

 ――菜々にとって今日は、最高の吉日だったんだ。


「おかあさん、ちゃんとしあわせになれるかな」

「大丈夫だよ。あいつには、菜々がついてるから」



使用テーマ
・ゆでたまご
・歌
・もう一度会いたい
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

クライング・ヒーロー

――『涙が止まらない奇病にかかった。助けてくれ。』
スマホのディスプレイに表示されたその文字に、俺は思わず声を零した。
「……は?」
――『何言ってんだ、お前? こっちは一限から講義でねみーの。そんなギャグに付き合ってらんねーぞ』
画面に指を滑らせ、俺がメッセージを送ってすぐに、新しいメッセージが画面に表示される。
――『ギャグじゃない。もうずっと、止まらないんだ。このままじゃ、溜まった涙で溺れちまう。』
大学構内の道を歩く俺の足が、ピタリと止まった。
「……に、言ってんだよ、あいつは」
ふざけているにしても、何かがおかしい。日常生活の中でも、こんな安っぽい小説みたいなことを言うやつじゃなかったはずだ。
ざわりとした予感が、俺の胸を襲う。――何か、あったのか。
「ッ……くそ、」
今日の講義は、さっき終わった一限と、午後から始まる三・四限だ。あいつの住んでいるアパートは、大学から徒歩数分の所にある。……時間は、なくはない。俺は、手の中であいつからの意味不明なメッセージを映し出すスマホを握りしめると、鞄を肩に掛け直し、大学構内の図書館へ向かおうとしていた足を翻した。

§

俺は、幾度も通いすぎてもう何も考えず辿り着ける、古ぼけたアパートのその部屋まで、苛立って速まる足を進めた。
手すりの錆付いた階段をのぼり、アパートの最上階である三階の廊下を進むと、一番奥の角部屋に辿り着いた。薄汚れたインターフォンを何度か雑に押すと、小さなスピーカーからチャイムの音が微かに響く。その音を確認しながら、俺は部屋の前で、一応控えめに声を出した。
「……おい、いるんだろ。お前、何だよこのメッセージは」
しかし、しばらくしてもドアの向こうから応答はない。ますます苛立ってきた俺は、再度インターフォンを連打しながら、先程より少し大きい声で呼びかけた。
「おい……! 自分からあんな文送ってきておいて何なんだよ。……まさか、寝てんじゃねえだろうな? ふざけんなよ……!」
本当は、あいつだけのせいじゃない。むしろ、勝手に不安になって、勝手に訪れたのは自分の方だ。ふざけて書いたに決まっている文に、大袈裟に反応したのも。けれど、不安にならずにはいられなかった。だって、あいつの文を読んだ時、俺は……。
意地のようにインターフォンを押し続けるが、相変わらずスピーカーからの応答も、部屋からの応答もない。直接ドアを思いっきり叩いてやろうかと思ったが、思いとどまった。駄目だ、これ以上騒いだら近所迷惑になってしまう。苛立つ気持ちを落ち着かせようと、ドアから少し離れ、深く息を吐く。その瞬間、唐突に自分の頭の中へ一つのイメージが現れた。……まさか……。最悪な状況が思い浮かび、背筋が一気に冷える。
――どうすればいい? 警察とかに相談すべきなのか……?
そう思い、ジーンズのポケットから取り出したスマホの画面を見たその時、画面に新しいメッセージが表示され、俺の視線を奪った。

――『ごめん。部屋から……出られねえんだ。涙の水圧でドアが押さえられちまって……。インターフォンで応答したいけど、インターフォン用の電話も涙で濡れて壊れちまったから、スマホでしか会話できない。』

「…………」
今度こそ、自分の中の全ての機能が止まった。
何を、言ってるんだ、こいつは。
小さく震える手の中で、スマホに浮かんだ文字が揺れる。涙の水圧? 涙で電話が壊れた?
「……いい加減に、しろよ」
ドアを力の限り蹴飛ばしてやりたい衝動を抑え、俺はあいつの部屋のドアに背を向けた。……付き合ってられない。
――『俺も忙しいんだ。ふざけたいなら、他の奴にしろ。』
送信の文字を押すと、一瞬きつく目を閉じ、今さっきの記憶を消し去るように頭を振って、大学へ戻る道を歩き始めた。もう、今は、何も考えたくない。ふざけるな。ふざけ――。

ぐらり。

「……え……?」
その時突然、視界が、歪んだ。何か、シャボン玉の膜のように流れる幾つかの色が目の前に現れる。身体の力が抜け、感覚が失われていくにも関わらず、自分の足はしっかりと地面を踏みしめているのは分かった。
――なんなんだ、これ……は……?
夏の、憎たらしいほど青い空が視界を覆った瞬間、俺の意識は完全に途切れた。

§

瞬きをして、目を開けた瞬間、自分の手にあるスマホの画面にメッセージが表示されていることに気付いた。……あいつからだ。
――『ずっと、涙が止まらないんだ。お願いだ。話を、聞いてくれないか。』
「っ……!」
何なんだ。あいつが意味不明のメッセージを送ってきたあの日から、こんなメッセージばかりが一日ごとに繰り返し送られてくる。初めの頃は抗議の文を送り返していたが、今ではもう返事をしていない。もう、どうすればいいのか、分からないのだ。あの日以来、頭の中も、霧がかかったようにはっきりとしないままで。
「何で、あいつは……」
無下にしたいわけでも、冷たくしたいわけでもない。ただ、あいつが抱えている何かを、一言でいい、現実的な言葉にしてくれたら。けれど、あいつはそうしてはくれない。“涙が止まらない病に侵された”という言葉でしか、俺には伝えてくれない。
こうしてメッセージを送ることができているということは、本当の病に倒れているわけでも、命が何らかの危機にさらされているというわけでもないのだろう。しかし、あいつが何かに怯えているのだということは、きっと俺だけが分かっていて。
「…………くそ……」
先程終わった一限の次は、午後から始まる三限と四限。大学に入って以来、講義は遅刻も欠席もしていない。それは、俺にとって当たり前のことであったとともに、守るべき領域のようなものであった。
けれど、何だか、分からなくなっていた。

俺が、今、しなければいけないのは何なんだろうか?

きつく、目を閉じる。そして、ゆっくりと開いた。ジーンズのポケットに一度は戻したスマホを取り出し、数秒画面へ指を滑らした後、ボタンを押す。
――『今から、行く。』
自分の感情に整理なんてつけられていない。それでも、今は。
俺は、学校構内の図書館へ向かっていた足を翻し、鞄を肩へ掛け直すと、早足で歩き始めた。

§

あの日と同じように、あいつの部屋の前へ辿り着くと、俺はインターフォンに指を伸ばした。しかし、ふと指を止め、手にしていたスマホの画面に文字を打ち込むと、それを送信した。
――『今着いた。俺は、何をすればいい?』
しばらく待つと、画面がぱっと光り、メッセージが表示された。
――『話を、聞いてくれるのか。』
想像していたものとは異なるメッセージにどきりとしつつも、俺は呟きながらメッセージを返した。
「……今更だろ」
――『……ああ。今のお前が言えるのがそういう形ならば、しょうがねえから聞いてやる。ただ、出来る限り分かりやすく言え。』
もう、覚悟はした。お前の叫びを、聞く覚悟。今の自分がしなければいけないことが、これなのかは今でも分からないけれど。今、あいつの声を聞けるのは自分だけなような気がしたから。
数分たった後、画面に新しいメッセージが表示された。
――『…………ありがとう。涙が止まらないせいで、視界にとらえられる文字は滲んじまうけれど……。でも、ちゃんと、届いた。』
返ってきたその文は、何だかこちらの調子を狂わせるもので、落ち着かない気持ちを誤魔化すように、俺は素早く指を動かした。
――『何、妙にかしこまったこと言ってんだよ。……感謝とかいいから、早く俺が何をすればいいのか教えろ。』
俺がそうメッセージを送ると、どこかためらうような時間が少し過ぎた後、あいつからの返信が来た。
――『……ああ。まず、今この部屋は、俺の涙の水圧でドアが開かなくなってる。こちら側からもそちら側からも、俺ら一人ずつの力では開けられないだろう。こうしている間にも、止まらない涙のせいで、水圧も水かさも増え続けてる。』
あいつからのメッセージを読みながら、俺はふと首を傾げた。そして、スマホの画面に指を滑らせる。
――『お前の話をそのまま受け取るとして、何で警察とか消防に助けを求めないんだ? スマホは生きてるんだろう?』
あいつの言う妙な状況を素直に受け取るにしても、そのことがずっとひっかかっていた。そもそも、俺一人でどうにかできる事態なのだろうか。ここは、もっと専門的な機関に助けを乞うべきでは……。そう考えている内に、あいつからメッセージが返ってくる。
――『何故か、公的機関には繋がらなくなってるんだ。原因は分からないが……』
「……はあ?」
俺は思わず声を上げ、自分のスマホで110を押してみる。繋がらないなんて、そんなわけがあるか。この辺りでそんなに電波が悪いなんて聞いたことないぞ……。 しかし、俺の耳に届いてきたのは、電話が繋がらないことを伝える無機質な声。信じられず、何度か番号を掛け直してみたが、警察も消防も繋がらない。
「マジかよ、わけ分かんねえ……」
とりあえず、あいつの言うことは事実のようだ。これじゃあ、警察や消防の意味がないじゃないか……。呆然と立ち尽くす俺の手に、スマホの振動が伝わる。あいつからの新しいメッセージだ。
――『繋がらないだろう? だから、その手段はだいぶ前に諦めた。とにかく、このままじゃ涙に部屋が埋め尽くされて……溺死、しちまう。……その前に……』
画面に浮かんだ“溺死”という二文字に、俺は、心臓がわしづかみにされたようにぎゅ、と締まるような気がした。何かの比喩だったとしても、その言葉の持つ冷たさが、俺の不安を増長させる。留まりそうな思考を必死に動かし、解決策を考えながら、俺は再び画面に指を滑らせた。
――『ドアが駄目なら、窓はどうなんだ。そっちも水圧で駄目なのか? それなら、最悪割っちまうとか……。』
 部屋の中の状況が分からないままだが、窓ならドアに比べて何か出来る可能性も高いんじゃないだろうか。しかし、あいつから返ってきたメッセージは、俺の期待とは異なるものだった。
――『……部屋の中に留まった涙が。あまりにも……多くなりすぎちまったんだ。もう、この中で俺は、ほとんど思うように動けない。』
「……え……?」
 ――いつの間に、そんな。
頭が真っ白になりかけた俺の手の中で、あいつから届くメッセージは続いた。
――『それに……階数はそれほどでもないとはいえ、ここは最上階だ。この部屋の窓から、この量の水が溢れ出したら。周りへの被害が、大きすぎる……。』
 弱々しい口調で綴られたメッセージに、俺の焦りは増していく。
「そんな……。じゃあ、どうすればいいんだよ……?!」
 ドアも窓も駄目ならば、他の方法は? 緊急事態なんだ、どうにか壁を壊すことを、許されたりしないだろうか? 壁を壊す効率のいい方法なんて思いつかないし、事情を説明したところで大家さんや他の住民が納得してくれるかだって分からない。けれど、人命がかかってるんだ、どうにかして……。
 そもそも、涙が止まらない奇病なんてあり得ないと考える思考は、俺にはもう、ほとんど残っていなかった。何故だろう、あいつの言葉を一つ一つ受け取るたびに、心臓が、強く脈打って。それに急き立てられるように、俺はただひたすらに考え続ける。
 ――それとも、俺が今から警察署や消防署へ行き、事情を話して救護を要請するべきか? すぐに信じてもらえるかは分からないけれど、今、俺にできるのは……。
 螺旋のように渦巻く思考へ溺れかけたその時、俺の手に、スマホの振動が伝わった。俯いていた顔をバッと上げ、スマホの画面に現れたメッセージを見る。
しかし、縋るように見つめた画面へ映ったその文字に……俺は顔を歪め、無意識に、着ているシャツの胸元を強く握りしめた。
 ――『……ごめん。』
――『ずっと考え続けてきたけれど、もう、俺には、ここから出る方法が分からないんだ。』
 それは、あいつがやっと伝えてくれた本当の言葉。
だけど、それは何よりも残酷なもので。
 ――『涙が止まらなくなってからずっと、この状態を誰かに伝えなきゃいけないって分かってた。けど、伝え方が、分からなかったんだ。こんな自分の状況を、どう伝えれば信じてもらえるのか分からなくて……何もできないまま、時間は過ぎちまった。』
 スマホを持つ俺の手が、微かに震える。
――『手遅れだって、分かってた。覚悟だってしてたのに……。何でだろうな、今更、一人で耐えきれなくなって……。お前に、零しちまったんだ。ごめん。本当に……ごめん。』

――『だから、本当は。ただ……聞いてくれるだけで、十分だったんだ。十分、すぎるくらいに。』

 あいつからのメッセージを読みながら、俺は、重い息を吐く。やりきれない想いが、身体の奥からとめどなく込みあがるのに、この状況を打ち破る方法を、何一つ考え付くことができない。
 あいつは、手遅れであることを知っていた。けれど、それでもなお、助けを求めずにはいられなかったのだ。迫りくる涙の水圧を感じながら……その恐怖に耐えきることができなくなった時、俺にほんの少し、その叫びを零してしまった。――ただ、零してしまっただけで。
 俺ができることなど……最初から、なかった?
「……っ……」
身体が、心が、重い。目の前にある部屋のドアに背を預け、ずるずると座り込む。自分の背から微かに聞こえるのは、揺れる、水の音。
 ……なんで、こんな風になるまで、誰にも助けを求めなかったんだ。一人きりで、止まることのないその涙を、流し続けたんだ。
 すぐそこにあいつがいるのに、届かないこの声がもどかしい。
 頭を抱え込んだ俺の膝の上で――スマホの画面にそっと、一つのメッセージが映し出された。
 ――『……話を、してもいいか。』
「……」
 暗くなっていく視界の中、小さく灯るような画面の光に……まだ、あいつは、伝えたいことがあるのではないかと。そう感じた俺は、再びスマホを手に取り、画面に指を滑らせる。
 ――『……どうした?』
 小さく呼吸をするような間の後、あいつからのメッセージが届いた。
 ――『こんな時に、何だと思うだろうけれど。』

――『小さい頃、俺、ヒーローものがすごく好きだったんだ。』

「……? 何、を……」
 唐突なあいつからの言葉に、俺は頭を抱えたまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。あいつからのメッセージは、続いた。
――『どんなに困難があっても、決してくじけず、それを乗り越えるたび強くなっていく。それは、常に傍で共に歩む、仲間たちの力も大きくて……。誰かと共に築く、真っ直ぐで眩しい正義に憧れた。』
 ――『小さい頃だけじゃない。俺はずっと、ヒーローに憧れてた。その正義を、見つめ続けていた。でも、今思うと、その理由は、ヒーローのようになりたかっただけじゃなくて……。俺はきっと、本当は、ヒーローみたいな存在に“会いたかった”んだ。』
 ――『正しいことを正しいと。尊いことを、尊いと。本当に美しいものを、美しいと――それを確かに示してくれる存在に、会いたかった。』
 溢れ出すようなあいつの言葉をなぞりながら、俺の中で、静かに生まれていく確信があった。この言葉の先にある、あいつの出した結論を――俺は、知っている……?
 ――『でも、もう、俺には分からないんだ。』

――『ヒーローが守り続けたその正義は、本当に、存在するのだろうか?』

 ひたり、と、自分の心臓に近付いてくる何かを感じた。手元で、スマホの画面が、小さく光り続ける。
 ――『ずっとずっと、それが何処にあるのか探して続けてきた。けれど……俺には、それが見つけられなかった。』
 この閉じられた部屋の中で、涙を流し続けるあいつが、何処にも届けられなかった言葉。移り変わっていく文字の奥に、滲みだすように見えるのは、あいつの涙だろうか。
 ――『この部屋は、今でも徐々に、開くすべを失っていく。』
――『止め方も分からない涙が、もう、天井まで届きそうで。』
――『部屋の蛍光灯すら、波打つ涙の水で駄目になって……暗くて、もう何も、何も見えない。』
 ――『ただ、在るということが分かりさえすれば、それだけでよかったんだ。でも……』

――『それすら分からないまま……ここで、俺は、終わる?』

「…………――――」
 最後の、その一文を映して。俺の手の中のスマホは、振動を止めた。
そうして訪れた、世界の全てが呼吸を止めたような静けさの中。あいつの零した言葉を受け止めた俺の内へ、静かに湧き上がっていく感情があった。
 ――これは、怒り、だ。
久しく、自分の中から失われてしまったと思っていた感情。あの日、あいつからメッセージを受け取って以来、時折現れるようになったそれ。
この感情の理由なんて分からない。そもそも、あいつに関わる自分の行動の全てが、明確な理由を何一つ持たない。けれど、生まれた感情だけはあまりにも確かで、抑えきれないほどに激しいものだった。
 あいつが、ずっと探し続けてきたもの。それが、確かに存在するということすら分からないまま……。
 あいつは、ここで、“終わる”?
「――――ふざけるな」
 俺は、身体にありったけの力を込め、もたれかかっていたドアから背を離すと、勢い良く立ち上がった。そして、強く目を閉じ……ゆっくりと、開いた。目線を落とし、自分の傍らに置いていた鞄をひっつかむと、その口を開け、中身を探る。
 ――その途中、手に何か冷たく触れるものがあった。それは、鞄の内ポケットのファスナーに付いた、キーホルダーのチェーンだった。
そのチェーンにぶら下がっていたのは、自分が幼い頃に、唯一我儘を言って買ってもらった……ヒーローの、キーホルダー。
 鞄の内側、決して人からは見えないその場所で。隠れて、自分を支えるように付いている――。
「…………ああ……」
 やっと、分かったような気がした。あの日から、自分の心臓を強く揺らしていたものが何だったのか。何故、俺が、あいつからのメッセージを受け取り続けて、ここにいるのか。
「だったら……なおさらだ」
 ――まだ、終わっていない。終わらせてなんかやらない。
祈るように、キーホルダーをぎゅっと握りしめた後、再び鞄を探った。
「……これなら、いける、か?」
 俺はどうにか、探していたものの目星を付ける。そして、あいつの最後のメッセージを映し続けるスマホの画面へ、一言打ち込み、送信した。
 ――『終わらせねえから、待ってろ。』
そして、深く呼吸をすると、俺はキッと眼差しを強め、顔を上げた。

§

 俺はまず、あいつの部屋の隣の住民の部屋へ行き、インターフォンを鳴らした。戸惑うような声でインターフォンに出たその人に、俺は素直に事情を話し、ベランダを通してくれるよう頼みこんだ。当然だが、声へ不信の色を浮かべるその人に、ほとんど勢いに任せて必死に頼み、頭を下げる。その勢いと気迫に押されたのか、警戒するような目をしながらも、その人は俺の頼みを聞き入れてくれた。手元には、いつでも連絡ができるようにか、スマホを握りしめている。何の罪もない人を怯えさせていることに胸は痛み、強引すぎるやり方であるとも思ったけれど、それでも俺には、やらなければならないことがあった。
 隣室のその人へ礼を伝え、部屋に上がると、部屋の奥にある大きな窓を開いてベランダへ出る。このアパートのベランダは、それぞれの階にあるもの全てが繋がっている形のものだ。それが、各部屋に合わせ、グレーの仕切り板で区切られている。
そして、その板は、緊急時は蹴り壊すことで避難経路を確保することが許されている。――俺は、躊躇せず、その壁を思い切り蹴り壊した。
突然の俺の行動に、窓から様子をうかがっていた隣室の人はしばらく呆然としていたが、すさまじい勢いで部屋の中へ戻っていった。通報、されてしまうかもしれないが……おそらくまだ、この辺りで電話は繋がらないだろう。あの人には申し訳ないが、少しだけ、時間がほしい。俺は、そう願いながら、割れた仕切り板の間を抜け、あいつの部屋のベランダへ入った。
あいつの部屋の前に立ち、その窓を見つめながら、静かに考える。
 ――こうして振り返れば、今までのことで、いくつも不自然なことがあった。
 その身に迫る涙の冷たさと水圧の中で、ほとんど衰弱しないまま、あいつが何日も耐え続けていること。溢れる涙の中で、ほとんど思うように動けないはずのあいつから、メッセージが送り続けられていること。この部屋での異変や、ドアの奥で聞こえる、揺れる涙の水の音に、周りが誰も気付かずにいたこと。……そうだ。

どこかで、分かっていたんだ。
涙に溢れたこの部屋を、本当に閉じているのは。

「……」
 鞄から、先程見つけた水筒を取り出す。まだほとんど中身が残っているせいもあり、手に持った瞬間、ずしりとなかなかの重さを感じた。かつて父が使っていた、古く重厚な鉄製の水筒が、今は頼もしく見える。目の前の窓は、強化ガラスのような大層なものを使ってはいないだろう。だから……これで、十分なはずだ。
 手にしたそれをしっかりと握りしめ、水圧で張り付いたカーテンで、中の見えないあいつの部屋の窓を見つめた。手が、無意識のうちに強張る。その一瞬に、かつてのあいつの言葉が、俺の頭をよぎった。
〈『ここは最上階だ。この部屋の窓から、この量の水が溢れ出したら。周りへの被害が――』〉
「――だから、何だ」

 もう、終わらせなくては、ならないんだ。

俺は……力を込めたその手を、思いっきり振りかぶった。
「そんなこと――知るかよ!!!」
 バリィィィン――――。
硝子の割れる音が、俺の耳に、世界に、響き渡る。
窓が割れたことで部屋から溢れ出した涙の奔流が、俺にとめどなく押し寄せる。すさまじい勢いで流れ続ける涙の波の中、俺はその目を決して閉じなかった。その先にいるあいつを、しっかり、見なければいけないと思ったから。
 ――初めからずっと、答えは俺の傍らに在った。
最初のメッセージが送られてきたあの日。あいつの文を読んだ時、俺は……そこに含まれた感情を、“知ってる”って。
だって、あいつは――。
 青く染まる視界の中で、徐々に部屋の内面が姿を現す。留められ続けた涙に全てが流され、ぽっかりと空いた空間の、その中央。


その場所にいたのは…………〈自分〉。


 その顔は、これでもかというほど雫に濡れ、涙を止まらず流し続ける真っ赤な両目は、驚きに開かれていた。

それは、ひどく、ひどく滑稽な顔だった。

その顔を見つめながら……俺は、〈自分〉に呼びかけた。
「いつまで泣いてんだ」
涙に濡れた眼差しと眼差しが、真っ直ぐにぶつかる。
「その涙を止まらなくしたものなんて、幾つも積もりすぎて忘れてんだろ」
その虚ろな目は、何もかもを映さない。だからこそ、俺はその目に向かい、自分の声が響くよう、強く、強く呼びかけた。
「だったら、もうとらわれてちゃ駄目なんだ。どんな方法を使ったって、留め続けた涙を吐き出さなきゃ、乗り越えらんねえんだ」
――お前は、本当に馬鹿だ。自分が憧れ、見つめ続けたものの存在を確かめようと目を凝らしすぎた果てに、色々なものが見えなくなってしまった。
そして、そのまま入り込んだこの部屋の中で……いつの間にか、ここを出るすべさえも、見失ってしまった。
「もう、出られないとか言ってんじゃねえよ」

「涙塞き止めてんのは、ドアでも、窓でも、部屋でもない。お前だろ」

外の世界へ繋がる電波を乱しているのも、きっと〈自分〉だ。それじゃあ、ここから出ることなんてできない。涙も、ずっと止まらない。
開くことのないこの部屋を作り上げたのは、きっと〈自分〉自身で。だからこそ、それを開けるきっかけを作ることができるのも、〈自分〉自身でしかないから。
「ドアぶっ壊してでも、声枯れるまで叫んででも、人様に迷惑かけんの承知で助けを求めるんでもいいから――いい加減、一人きりのこの場所から出ていけよ」
 ありったけの声で、叫び、伝える。
 ――お前は、分かってなかったんだ。
ヒーローだって、全てに一人きりで打ち勝っていくのではない。時には打ちのめされ、正義を貫くことのできない敵を前に挫けそうになる。けれど、それでも戦い続け、正義を貫き通せるのは、彼らが分かっているからだ。
一人きりで、戦い抜くことは出来ないと。
「お前ごときが、全てを一人でなんて乗り越えられない。だから、お前は、零しちまったんだ。抑えきれなかった感情を。悲しみも、苦しみも、悔しさも、不安も、恐怖も……全部が、止まらない涙になって、この部屋を埋め尽くした」

「そして、耐え切れなくなった部屋(こころ)が……現実を、手放したんだろう?」

 そして、現実から離れたこの世界で、お前はこの部屋に入りこんだ。せめて、止めどない感情を零し、誰かを傷つけたりしてしまわないよう部屋を閉じきって。
そんなお前に向き合うことが……今、俺のしなければいけないことだった。やっと、気付いた。でも、気付くだけじゃ駄目なんだ。
俺が、本当に、しなければいけないことは。
 目の前で膝を抱え、動くことのできないままの〈自分〉へ、俺は言った。
「お前は、戻らなきゃいけない」
 手離した、現実へ。この場所に、留まり続けることは許されないから。そして、何よりも――この場所では、〈自分〉の探し続けた“正義”なんて、ずっと見つけられないから。
 今ここでこいつをぶん殴って、強引に目を覚まさせ、現実に戻すことはできるだろう。でも、それでは駄目だ。〈自分〉の抱える恐れは拭えない。この部屋から本当の意味で出ていくためには、恐れを乗り越える覚悟をした〈自分〉自身が、その足を動かさなければならない。
けれど、〈自分〉の足は竦んでいる。また、外に出て、「自分の探し続けたものなど存在しない」と突きつけられることに怯えている。その恐怖が、この世界に入り込んだ俺の、現実に関する記憶を消し、お前を、自分とは全く別の存在として認識させていた。
――……でもな。今、俺は思うんだ。
 真っ直ぐに、目を決して逸らさず。俺は、〈自分〉に伝える。
「お前の抱えてきた恐怖の大きさは、誰よりも、知ってる。その恐怖を、一人きりで抱え続けてきたことも。でも、その恐怖に押しつぶされそうになりながらも、お前は――」
 ――俺は。
「ずっと正義の……ヒーローが守ってきたものの存在を、信じてきたんだろう?」
 もし、お前が、ここで信じることをやめちまったら。この世界で涙に溺れ、呼吸を止めることを選んでしまったら。今度こそ本当に……それは、消えてしまうような気がして。……だから。
「信じてきたならば、最後まで信じ抜けよ。途中で放り出すなんて、許されねえし、許さねえ。今までできたのなら、できるはずだ。――でも、それでも、恐れが拭えないのなら」
この部屋を出て、涙を振り払うための一歩が踏み出せないのなら。そんなお前の、その手を引く存在が、今は見つけられないというのなら。
「初めは、俺が、引っ張ってやる」

「――行こう。ヒーローなんかじゃねえけど。一緒に、行ってやるから」

 この手を、〈自分〉の手へと伸ばした。そして、強張ったその手を掴み、思い切り引き上げる。
その手を引かれるまま、自らの足で立ち上がった〈自分〉の手を強く引き――かつて、涙に満たされ、光の消えた部屋から、踏み出す。涙に濡れた〈自分〉の目に入り込む、もう二度と見ることは叶わないと思っていた、光。
自分をとらえ続けた部屋を背に、おずおずと歩み始めた〈俺〉の視界に広がったのは……あの日と同じ、憎たらしくもどこか、自分がずっと焦がれ続けたものを思わせる青だった。

§

――瞳が、開く。
仰向けになっているらしい俺の視界に映ったのは、先程まで見ていたはずの青ではなく、天井の無機質な白だった。ちらちらと揺れる蛍光灯の光が、妙に眩しく感じる。

ひどく、久しぶりに、光を見たような気がした。

「…………貴、明…………?」
 俺の耳に、微かな声が届く。それは、小さく震えた、母の声。
「……か、あ……さん……?」
 母を呼ぼうとした声は掠れ、喉は声を出すことを忘れかけていたかのように、上手く音を出すことができない。同様に、身体も上手く力を入れることができなかったが、どうにか頭だけはほんの少しだけ傾けられた。横たわる俺の横には点滴があるようで、そこから伸びる透明なチューブは、俺の腕の方へと繋がっている。そして、その瞬間、温かな何かが自分の腕に触れた。それが母の両手であることに、ゆっくりと気づく。俺の顔を覗き込み、その腕を握りしめた母の顔は、ひどくやつれていて……大きく見開かれたその目には、今にも零れそうなほどに涙が溜まっていた。
「貴明……! よかった……本当に……ほんと、に……」
 俺の手を取り、自分の両手で包むと、力が抜けてしまったのだろうか、母は俺の横たわるベットの傍にゆっくりと座り込んだ。俺の手に、零れ落ちたような冷たい感触が伝わる。それは……あの部屋から自分へと押し寄せた、波の感触に似て。
「だい……じょう……も、だい……ぶ……だか、ら……」
 上手く出すことのできない声で、母へと伝える。どうか、どうか、この言葉が届いてほしい。
十年前、父さんが亡くなってから今まで、俺の前では一度も見せることのなかった母の涙が、俺の手にとめどなく零れる。

 ごめん。本当に……ごめん。

 母さんを、一人残していくところだったんだな、俺は。本当に馬鹿で……どうしようもなかった。
こんな俺を見て……父さんは、何と言うのだろう。

 ――十年前、俺の父は、俺と母を残し、天国へと旅立った。
 父は、警察官だった。寡黙で、厳格で、多くを話す人ではなかったけれど、自らの仕事に誰よりも誇りを持って取り組んでいた人だった。そして、警察官としてだけではなく、一人の人間として、ひたすらに正義を見ている人だった。
 そんな父が、倒れ、病院へ運ばれたとの報せを受けたのは――俺が小学生だった頃の、ある夏の日だった。仕事による身体と精神の酷使が原因の過労で、その容態は、非常に厳しいものであると宣告された。元から体があまり強い人でないにも関わらず、父は、普段から自分の身をほとんど顧みずに働き続けていた。そんな、自分自身をも削っていくような仕事への取り組み方の先には、確かに、父の信じるものがあったのだろう。けれど、その信念は同時に、父自身を、取り返しのつかないところまでゆっくりと蝕んでしまっていた。
 父の容態は、回復の兆しを見せることないまま……一週間後、父は、静かに息を引き取った。

 小学生といっても、まだ幼かった当時の自分は、父が亡くなったという事実をしばらく理解しきれず……その事実と意味を俺が正しく理解できるようになったのは、中学に入ってからの事だった。父がいなくなったことを、日々の中で、強く実感するようになったのも。
 俺が幼い頃から、ひどく厳格で、決して曲がったことを許さない父だった。そんな父を、恐れてもいたが、それ以上に……俺はずっと、その背中に憧れていた。幼い頃の俺がヒーローものを好きになったのも、正義を貫くヒーローたちの中に、父の姿を見ていたからかもしれない。
 そんな父がいなくなったということを、日々の中で感じるたびに、大きすぎる喪失感と悲しみが、俺を襲った。それでも、母は悲しみなんて一つも見せず、気丈に振る舞いながら俺の傍にいてくれた。
――「父さんは、自分の正義を貫き通したの」。
そう、強く伝えてくれた母の言葉があったから。俺は、もがきながらも、必死にその悲しみを乗り越えていこうとした。
 けれど。母が、幾つもパートを掛け持ちしながら通わせてくれた中学校、高校での生活や、徐々に広がっていく人との繋がりの中で……俺はまた、新たな痛みを抱えるようになってしまった。
――それはきっと、周りの人にとっては、些細なこと。
ほんの小さな嘘。少しの怠惰。裏切りとも呼べないほどの、小さな裏切り。様々な不安から吐き出される、一時の心無い言葉。何となくの中で、誤魔化されていく不正。生きることに意味を見いだせないと嘆く、光を見失った瞳。正しいものが、必ずは守られない秩序。優しいものほど、深く傷をつけられていく、その均衡。
それらを見てしまうたび、感じてしまうたび、気付いてしまうたび、俺の心はまるで刃物に刺されたように痛み、泣き叫ぶような悲鳴を上げた。自分の目に否が応でも映る、日々の中の歪み。それを見るたび、俺には、父が守ってきたものが汚され、傷付けられていくように思えたのだ。父が守るものを……死ぬ間際まで守ってきたものを、何よりも尊いものであると感じていた自分は――それに、耐えきることが、できなくなっていった。
 母の応援もあり、奨学金を受け、アルバイトを掛け持つことでどうにか通えることになった大学でも、その痛みは続いた。誰かに吐き出してしまいたいと思ったこともあったが、自分の信じたいものを自分勝手に世界へ押し付けているだけだと言われるのが怖くて……誰にも、言えずにいた。相談を受けてくれる公的な機関があることも知ったが、自分の抱える痛みの伝え方が分からず、結局、連絡してみることもできなかった。
 そうやって、何処にも、誰にも伝えることができないまま、俺の中の痛みは積み重なっていって。ついに、内へ留めてはおけないほどまで積み重なった痛みや感情が溢れ出し、この呼吸を止めそうになったその時――俺は、意識を手放した。父の守った正義を探し続けた……その、自分を。
 現実の俺は意識を失い……眠り続ける中で、痛みのない世界での、痛みのない日々を繰り返し続けた。そして、あの時、あいつからのメッセージを受け取ったのだ。積み重なった痛みに、一人きりで耐えきれなくなった自分が、いつの間にか零してしまったメッセージを。
あの場所で、あいつと、あいつの閉じてしまった部屋と向き合って気付かされた。
自分が今まで感じ、これからも感じ続けるであろう痛みは、確かに大きく、悲しみに満ちている。けれど、俺は、それにもう立ち向かわなくちゃいけない。乗り越えなきゃいけない。
父が守り続けた正義が、確かにあったと信じたいのなら。それを、証明したいなら。自分を支え続けてくれた――母の、ためにも。
 俺の手を握る、熱い母の手を、懸命に握り返す。

――俺は、もう、離さない。

 そして……その一瞬、この耳に聞こえた声があった。

『――頼んだぞ、貴明。お前なら、大丈夫だから。』

その、懐かしい声の響きと、手に伝わる温もりを感じながら。
一人きりのあの部屋から溢れた涙が、俺の頬を、とめどなく伝っていった。


使用テーマ
・ファンタジー
・蛍光灯
・ヒーロー
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

ここから抜け出す鍵は

「ん……」
 目を覚ますと、切れかけの蛍光灯が目に飛び込んできた。
「……?」
 見慣れない光景に首を捻る。俺の部屋の天井は、こんなだっただろうか。
 寝起きで上手く機能しない頭を必死に回転させ、記憶との照合を試みる。
 ……やっぱり、違う。知らない天井だ。
 そう認識した瞬間、飛び上がるように上体を起こす。そして部屋を見回す。
 そこはコンクリートの壁に囲まれた、十畳ほどの空間だった。部屋には本棚やタンス、勉強机などが置かれ、簡易キッチンや冷蔵庫なんかもある。
 明らかに、俺の部屋ではない。実家暮らしの俺の部屋にキッチンや冷蔵庫なんてないし。昨日は確かに自分の部屋で眠りにつたはずだが、これは一体どういうことだろうか。おかげで目は覚めたが。
 俺が眠っていたのは、部屋の中央に敷かれた布団。これは俺の部屋の布団だ。左手にはこの部屋唯一の出入口と思われる扉が見え、右手には俺の布団の隣にぴったりと敷かれた布団の中で眠る女子の姿が見える。
「……………………ん?」
 ……今、なにかおかしなものが目に映ったような……。まだ寝ぼけてんのかな……。
 目をこすってから、もう一度右手を見る。
「……すぅ……すぅ……」
 隣の布団で、女子が、安らかな寝息を立てていた。
「……え、ええええええ⁉」
 目覚めたはずの頭が、混乱に陥る。え、何この状況⁉ 起きたら俺の部屋じゃないし、隣で女子寝てるし、寝起きの頭では処理しきれないんだが⁉
「……んぅ……うるさいなぁ……」
 俺の叫び声が原因か、気持ちよさそうに寝ていた女子が目を覚ます。動揺した俺は、とりあえず布団から飛び出して部屋の壁際まで距離を取る。素足ではコンクリートの床は冷たい。
「……はれ? ここは……?」
 布団から起き上がった女子が、きょろきょろと周囲を見回す。壁際の俺と目があった。
「…………えぇ⁉ き、きき、北上くん⁉ なな、なんで⁉」
 俺を見た女子が驚きの声を上げる。……なんで俺の事知って……。……あっ!
「…………も、もしかして、久慈さん……?」
「え? あ、うん、そうだけど…………お、覚えてくれてたんだ……」
 言葉の後半はよく聞こえなかったが、やっぱり彼女は高校のとき同じクラスだった久慈唯菜さんだった。高校の卒業式以来だから、約一年ぶりくらいか。髪が少し伸びていて、気付くのに少し時間がかかってしまった。
 ……そして彼女は、当時の俺の片想いの相手でもある。結局告白どころかろくに会話もできないまま卒業を迎えてしまい、せめて何か行動しておけばと、ずっと後悔していた。このままでは終われないので、もう一度会いたいなー、とは思っていたが、こんな状況での再会はノーサンキューだった。
「っていうか、ほんとなんで北上くんがここに⁉ というかそもそも一体ここはどこ⁉」
「お、落ち着いて久慈さん……」
 パニックに陥る久慈さんを見て冷静さを取り戻した俺は、この部屋唯一の出入口だと思われる扉を開けようと試みる。予想はしていたが、案の定開かない。扉に備え付けられたパネルでロックを解除しないと扉の鍵は開きそうにない。現時点では画面が真っ暗でどうしようもないのだが。出入口の向かいにある『TOILET』と書かれた扉も一応開けてみるが、中は表示通りトイレだった。
「……やっぱり、閉じ込められたか……」
 本当は、この部屋をパッと見回した瞬間から薄々勘付いてはいたが、できれば認めたくはなかった。こんなことをされる心当たりなんて全くないし。だが、状況から判断して認めざるを得ない。
 俺は久慈さんと共に、密室に閉じ込められた、と。
「え⁉ と、とじこめ……⁉ な、なんで⁉」
「それがわかれば苦労はしないんだけど……」
 どうやら久慈さんにも心当たりはないらしい。では一体、どこの誰がなんの目的でこんな事をしたのか。……考えたところで、今は結論が出そうにない。
「……はっ! そうか、これは私の夢だね⁉」
「現実逃避しないで、久慈さん……」
 一向に落ち着いてくれない久慈さんをなんとかするため、何か明るい材料を探す。目についたのは、簡易キッチンの横に設置された小型の冷蔵庫。近付いて開けてみると、中には何食分かの食材が入っていた。どうやら俺たちを飢え死にさせる意図はないらしい。キッチンやトイレまで備え付けられていることから考えるに、数日間この部屋で過ごせ、ということだろうか。
「……ん?」
 冷蔵庫に詰められた食材の上に、一枚の紙が置かれているのに気付く。取り出して広げてみると、そこにはこんな言葉が書かれていた。
『北上聡、久慈唯菜。君たちはこの部屋に閉じ込められた。ここから脱出したければ、部屋の中に仕掛けられた謎を全て解き、出入口のロックを解除しろ。冷蔵庫の中には君たちの六食分の食材が入っている。飢える前に脱出できることを祈っているよ。最初のヒントは布団の下だ」
 ……これは、いわゆる「リアル脱出ゲーム」というやつだろうか。アプリではよくやるが、まさかリアルに巻き込まれる側になろうとは……。
「久慈さん、これ……」
 とりあえず現状を把握してもらうために、久慈さんに冷蔵庫から出てきた紙を渡す。久慈さんがそれを読んでいる間に、俺は自分の寝ていた布団をたたむ。すると布団の下から何かの鍵が出てきた。
「……つまり、リアル脱出ゲームに巻き込まれた……ってこと?」
「そうみたい」
 紙を読み終えた久慈さんのまとめに、俺は先程入手した鍵を示しながら同意する。
「……ちょっと楽しそうとか思ってしまった私は罰当たりかな」
「……わからないでもない」
 脱出ゲームはアプリでよくやっていたから、こういう状況には多少憧れがあったりもしたし、閉じ込められたのが自分一人ではないということ、しかもそれが片想いの相手ということもあって、実は閉じ込められた危機感よりも、想い人と一緒に脱出ゲームができるわくわく感の方が強かったりする。
 ……とはいえ、飢え死にする危険性もある以上、楽しんでいるだけというわけにはいかない。冷蔵庫の中の食材が尽きる前に……具体的には二~三日以内に、必ずこの部屋から脱出して、こんなことをした理由を犯人から聞きださなければ。
「じゃあ、さっそくこのリアル脱出ゲームを始めようか。まずはこの鍵に対応する鍵穴なんだけど……」
 部屋の中をぐるりと見回す。ここから見える範囲で、出入口のパネルに一つ、タンスその一に一つ、勉強机に二つ、タンスその二に一つの、計五つの鍵穴がある。いきなり出入口の鍵ということはないはずなので、他の四つのどれかだろう。
「片っ端から差し込んでみようよ」
「だね」
 まずは、一番近くにあったタンスその一の鍵穴にさしこんでみる。ささらない。次いでその隣の勉強机の一つ目の鍵穴にさしこむ。今度はきちんとささった。鍵をまわし、引き出しを開ける。中には小さな箱と、一枚の紙が入っていた。箱には四ケタのダイヤル式ロックがかかっていて、紙には次のように書かれている。
『□□□□+□□□=□□□□ ヒント:MD』
「……えむでぃー、ってなに?」
「いや、俺もわかんない……何かの略語……?」
 ロックは数字四ケタのダイヤル式だし、四角に当てはまるのが数字なのは間違いない。ってことは、ヒントのMDも何かしらの数字に関連してるはず。
「略語……『未知の洞窟』とかかな」
「……ワクワクするけど、違うと思うな……」
「じゃあ、『ミミズ大行進』!」
「きもっ!」
「『マントヒヒ大行進』でどう⁉」
「生き物大行進シリーズやめて⁉」
「! ……『もう、だめだ』……」
「大行進シリーズでどれだけ粘る気だったの⁉」
 そして一応MD守ってるし。一ミリも当たってる気配ないけど。
「……『もも肉、大好き』」
「食べ物大好きシリーズも当然ダメだよ」
 そしてなぜもも肉チョイス。桃とかでもよかっただろ。
「! ……『ミスタード(ぐうううぅぅ)ツ』」
「……もしかして久慈さん、お腹へってる?」
「‼ 『も、もうっ、北上くんデリカシーないよっ』」
「いや、そんなときまでMD守らんでも……ってか、普通に俺もお腹空いたし。空腹状態じゃ解ける謎も解けないし、このへんで朝食にしようよ」
「……まあ、北上くんがそう言うなら」
 しぶしぶといった感じを装いつつ、久慈さんが大喜利をやめて冷蔵庫に向かう。まさか久慈さんがこんなにボケ倒す人だったとは。ちょっと意外だったけど、今まで知らなかった一面を知ることができたのは嬉しい。
 当の久慈さんはというと、冷蔵庫の中身を覗き込んでブツブツと何かを言っている。
「……この感じだと、作れるのはカレーとハンバーグと肉じゃがとシチューとカルボナーラとオムライス、ってところかなー……。っていうか、レンジもないのに冷凍ご飯かよ。……まあ、鍋もあるしなんとかなるとは思うけど……。でもこれ、どれもあんまり朝食向きじゃないなー……」
「……久慈さんって、料理得意?」
 独り言の内容からそんな気配を感じた俺は、そう尋ねてみる。
「んー、得意って程じゃないけど、一人暮らしだしそれなりにはできるよ」
「マジか! それはありがたい!」
 実家暮らしの俺はそういうのまったくできないので。最悪生野菜丸かじりも覚悟していたが、これなら安心だ。
「じゃあ、申し訳ないけど料理は頼めるかな?」
「あ、う、うんっ。頑張っちゃうよ!」
 腕まくりをした久慈さんが、冷蔵庫からいくつか材料を取り出してキッチンに立つ。……なんだか新婚みたいでちょっとドキドキしてきた。こんな状況で不謹慎なのは分かってるが、少しくらいは夢を見させてくれ。
 とうわけで、しばらく久慈さんをボーっと眺め続ける。本人は得意ではないといっていたが、その包丁さばきや動きの無駄の無さは普通に慣れている人のそれである。これでエプロンをつけていたら完璧なのだが、ただでさえこんなにいい思いをしているのにこれ以上の欲は言えない。エプロン姿はこんなたなぼたみたいな形じゃなくて、自力で見ろってことか。ハードルたけえぞおい。
 そのまま更にボーっと久慈さんを見ていたが、さすがに料理を任せっきりにして何もしないというのは気が引けてきたので、俺は俺でできることをする。すなわちMDの解明――ではなく、鍵がかかっていない引き出しのチェックだ。MDに関してはこのまま考えていても埒があかなそうだし、脱出ゲームの基本といえば『調べられるところはすべて調べる』だ。鍵がかかっていないから何も入っていないなんてことはなく、大抵はそういったところにも脱出の手がかりやヒントが隠されている。特にこの部屋の場合は引き出しが多いから、その可能性は大だ。
 というわけで、やはり手近なタンスその一から確認していく。このタンスは四段で、それぞれの段に二つずつの引き出し、計八つの引き出しがある。この構造はタンスその二も同じ。鍵穴がついているのは上から一段目の右側の引き出しで、それ以外には鍵がかかっている様子はない。
 まずは一段目の左側から開ける。ハズレ。二段目、三段目も空っぽっで、残すは一番下の段。右側の引き出しを開けると、何やら分厚い本が出てきた。タイトルは……。
「『平成二一年度 遠野第二小学校卒業アルバム』……?」
「え、私の学校のアルバム⁉」
 俺が本のタイトルを読み上げると、料理中だった久慈さんが勢いよく振り返った。
「え……。じゃ、じゃあ、この遠野第二小学校っていうのは……」
「うん。私が小学生の時に通ってた学校だよ。平成二十一年度ってことは、多分私が卒業したときのだと思うけど……でも、なんでそれがここに……?」
「さあ……? でも、ここにあるってことは、なにかしら脱出のヒントにはなってるんだろうね……」
 そして、一瞬こっちを振り返ったけど料理を焦がさないようにすぐに視線をキッチンに戻すあたり、久慈さんはマジで出来る嫁。
 卒業アルバムは朝ご飯が出来上がってから久慈さんと共に見ることにして、残った一番下の段の左の引き出しを開ける。中身は空。これだけ引き出しがあるのに、このタンスに入っていたのはこの卒業アルバムだけのようだ。
「北上くん、ご飯出来たよー」
 タンスその一が調べ終ったので、その隣の勉強机の引き出しを調べに行こうとしたことろで、久慈さんの料理が完成した。引き出しチェックは中断して、久慈さんの料理を頂くことにする。
「はい、朝食はオムライスだよ。朝からハンバーグとか肉じゃがよりはマシだと思うけど……」
「うむ、ナイスチョイス」
 正直、久慈さんの手料理なら朝からクソ重いのでも別に問題ないが。
「でもこれ、ご飯って確か冷凍されてたよね? レンジ無しでどうやって解凍したの?」
 ちょっと気になったので尋ねてみる。
「レンジ無しで解凍するときは、蒸すようにするのがいいんだよ。鍋に水をちょっと入れて、その鍋にご飯をいれたどんぶりを投入して、蓋して弱火で暖めるの」
「へ~」
 そんな方法があるのか。……実は何言ってるのかあんまりわかんなかったけど。
「って、チエリアンが言ってた」
「あー……便利だよね、知恵袋」
「うん。一人暮らしの見方だよ」
 そんな会話をしつつ、空腹が限界なのでスプーンを手に持つ。
「いただきます」
「ど、どうぞー」
 オムライスの端をすくい、まず一口。
「……ど、どうかな……?」
「……うん、文句なし。すごく美味しいよ」
「ほ、ホントっ?」
「ほんとほんと」
 お世辞とかひいき目抜きで普通に美味い。さっきは謙遜していたが、全然得意って言っていいレベルだと思う。
「じゃあ、私もいただきます」
 俺の感想に安心したのか、嬉しそうな顔で久慈さんもオムライスを食べ始める。スプーンを動かしながら、話題は先程見つけたアルバムに移る。
「うわー、懐かしー!」
 アルバムをパラパラとめくる久慈さんのテンションは高い。もう七年も前になるし、懐かしくてテンションが上がるのもわかる。
「久慈さんはどれ?」
 クラスの集合写真のページを眺める久慈さんに尋ねてみる。
「私は……あ、ここだよ」
 久慈さんが指差した先にいたのは、最前列でピースをする、小学六年生にしてはかなり小さな女の子だった。だが確かに、今の久慈さんの面影が少し見える。
「久慈さん、小さいね」
「うっ。さ、三月生まれだからしょうがないじゃんっ」
 三月生まれって関係あるのか……? まあ、同学年の四月生まれとは一年近に差があると考えれば、関係なくもないのか。
「じゃあ、身長が伸びたのは中学入ってからなんだ」
「うん。中学の間に二〇センチ伸びた」
「すごっ」
 男子でもそんな急激に伸びるやつはそうそういないぞ。
 さらにページをめくっていくと、生徒たちのプロフィールや作文が載っているページに入った。プロフィールのページには血液型や誕生日、好きな食べ物や趣味などが書かれていて、作文のテーマは将来の夢らしい。
 こんな子もいたなぁ、と懐かしみながら久慈さんがページをめくっていき、やがて久慈さんのページに辿り着く。血液型はA、誕生日は三月一四日、好きな食べ物は牛乳で趣味は木登り、将来の夢は「人より高い所に立つこと」だそうだ。
「……そうとう身長気にしてたんだね」
「……恥ずかしぃ……」
 両手で顔を覆う真っ赤な久慈さん可愛いなー、と思いつつ眺めながら、少し記憶を辿る。昨日は確か、三月一二日だった気がする。この部屋には時計もなければ俺たちの携帯もないので確認手段はないが、俺たちが丸一日眠っていたのでなければ今日は一三日のはずで、つまり明日が久慈さんの誕生日ということになる。せっかくだから祝ってあげたいのだが、こんな状況では何も用意できない。久慈さんも誕生日にこんなことに巻き込まれてしまって災難だろう。
 ……しかし、誕生日か。ヒントがMDではなくBDとかだったら、俺たちの誕生日の足し算でよさそうな感じもするんだが……。
 ……待てよ。DをDayだとするなら、MはMonthなんじゃないか? だとすればヒントのMDは月日という意味になって、人に関係する月日の代表といえば誕生日だから、結局これは俺たちの誕生日を足し算しろってことなんじゃないか? 俺は一〇月二四日生まれで、久慈さんが三月一四日生まれだから、四角の数とも合致する。これをそれぞれ四ケタと三ケタの数字として計算したら……一三三八か!
「久慈さん、一つ目解けた!」
「えっ? ほ、ホント⁉ でも、突然どうして⁉」
 箱に付けられたダイヤル回しながら、久慈さんに説明する。
「きっかけはそのアルバムに載ってた久慈さんの誕生日だよ。ヒントがMDじゃなくてBDだったら俺たちの誕生日を足し算すればいいんじゃないか、なんて思ってたんだけど、MDがそれぞれMonthとDayを表しているなら結局は同じことなんじゃないかと思ってね。だから今、それを試してる」
 多分ヒントをBDにしなかったのは、答えが数字でBDだとすぐにバースデイのことだと分かってしまうからだろう。俺もヒントがBDならもっと早く解けた自信がある。
「……っと、当たりみたいだ」
 ダイヤルを一三三八に合わせたら、見事にロックが解除された。
「すごい! すごいよ北上くん! 私なんかちっともそんなこと思いつかなかったよ!」
 後からバシバシと肩を叩きつつストレートに褒め言葉をぶつけてくる久慈さん。心の底からそう思っているのがひしひしと伝わってきてかなり恥ずかしい。
「ね、早く箱開けよっ」
 久慈さんに急かされて、ロックを解除したばかりの箱のふたを開ける。中には鍵が一つ入っているだけだった。まあ、これは予想の範囲内だ。
「じゃあ、今度はこの鍵が入る鍵穴を探そうか」
「だね。……でもその前に、朝ご飯食べ切っちゃおうか」
 ……そういえば朝食の途中だったな……。

 きっちり朝食を食べ終えて、皿洗いまで済ませた後。二つ目の鍵に合う鍵穴探しを開始する。この鍵がささったのはタンスその一の鍵穴。引き出しの中からはまたしても箱と紙が出てきた。違いは箱のロックの方式で、今回はパネル式でアルファベット三つを入力するらしい。紙に書かれた謎はこんな感じ。
『RYG=GIN RWR=PER
 GYR=MLI GWG=???』
 正直、さっぱり意味不明である。今回はヒントもないし。
「久慈さんはなにか分かる?」
 紙を久慈さんに見せると、久慈さんは首を九十度横に捻った。ピンとくるものはないようだ。
「うーん……とりあえず、まだ開けてない引き出しのチェックをするか……」
 先程の卒業アルバムのように、この謎のヒントになるものがどこかに隠れているかもしれない。
 というわけで、久慈さんと手分けをして引き出しを片っ端から開けていく。俺は勉強机を、久慈さんはタンスその二を。
「勉強机からは何も出てこないね……久慈さん、そっちはどう?」
「こっちも全然出てこないよー。出てきたのは一二色鉛筆と画用紙くらい」
「色鉛筆と画用紙……?」
 なんでそんなものが……いや、この部屋にある以上、先程のアルバムのように何かしら謎にかかわっているはずだ。今考えている謎とかかわりがあるかはわからんが。
「……あ、俺が使ってるのと同じやつだ」
 久慈さんに見せてもらった色鉛筆は、俺が普段絵を描くのに使っている色鉛筆とまったく同じモデルのものだった。
「北上くんって、絵描くの?」
「うん。まあ、趣味程度だから、あんまり上手くはないけどね」
 元々は小説を読んでいて頭に浮かんだイメージを形にしたくて描き始めたのがきっかけで、今では完全に趣味の一つになっている。
「いや、それでも絵が描けるなんてすごいよ。私なんか美術の成績ずっと二だったし」
「いや、ほんとに大したことないって」
 趣味で描いてるだけで、人に見せたこともないし。
「じー……」
 久慈さんが期待を込めた目でこちらを見てくる。……それは、あれですか、描けってことですか。……でも、考えてみれば明日は久慈さんの誕生日だし、この状況下で俺がプレゼントできそうなものってこれくらいしかないんじゃないだろうか。……いやまあ、俺の絵がプレゼントになるかどうかはさておいて。
「……せっかくだから、なにか描こうか? 明日は久慈さんの誕生日だし、俺の絵なんかで良ければ……」
「! 是非‼」
 食いつきが尋常じゃない。そんなに期待値を上げられても困るんだが……。
「じゃあ、久慈さんを描こうか」
「え、私⁉」
「うん。だってこの部屋、他に絵のモデルにできそうなものないし」
 誕生日にタンスの絵とかもらっても困るだろ?
「……それもそうだね。えっと、じゃあ、どんなポーズしてたらいいかな?」
「楽な姿勢でいいよ。なんなら、そこの本棚の漫画とか読んでてくれてもいいし」
「そうなの? じゃあそうするね」
 久慈さんは本棚からニ○コイの一巻を取りだし、畳んだ布団に腰掛けて読み始める。それを見ながら、俺は画用紙に色鉛筆を走らせ始める。時間に余裕があるわけではないので手早く、しかし人に贈るものなので丁寧に、ということを心がけて、久慈さんを描いていく。
 久慈さんがニセコ○の八巻を読み終えたあたりで、俺の絵の方も描きあがった。
「……よしっ、完成」
「あ、出来上がったの? 見せて見せてっ」
 八巻をさっさと本棚に戻し、久慈さんがこちらに駆けよってくる。
「え? や、えっと……せ、せっかくだし、見せるのは明日でもいいんじゃない? 明日が久慈さんの誕生日なわけだし」
 人に自分の絵を見せるのが怖くて、好きな人に本人の絵を見せるのが恥ずかしくて、ついそんな言葉が飛び出す。
「えーっ、明日までお預けー?」
 ……そんなに悲しそうな顔をされちゃうとなあ……。
「……ほんとに、大したモノじゃないよ?」
「大丈夫だって。私、北上くんが描いてくれたってだけで十分嬉しいんだから」
「久慈さん……」
 なんていい娘……! お世辞だって分かってても勘違いしそうになる。
「……えっと、こんな感じ……」
 覚悟を決め、久慈さんに絵を手渡す。
「おぉー! すごい上手いじゃん! ……でも、どこから桜? あと、私座ってたよね?」
 俺が描いたのは、桜の木の下で文庫本を読む久慈さんの絵である。木に寄り掛かって立ち読みをしている感じで、髪も今より少し短め。桜をはじめ久慈さんのポーズもモデルとはまったくかすっていない。
「この絵のタイトルは『卒業式の久慈さん』だよ。卒業式が終わった後に見た久慈さんを、思い出して描いたんだ」
「私がモデルしてた意味は⁉」
「……あ、あはは……」
 俺は普段頭の中のイメージを描き起こすやり方しかしてないので、写生はあまりやったことがない。だから今回も、いつもと同じやり方で描いたわけだ。なので、久慈さんがモデルをした意味は、実のところまるでなかった。ただ○セコイを読んでいただけである。
「笑って誤魔(ぐうううぅぅ)ないでよー!」
「…………えっと」
「そろそろお昼にしよう! 異存はないね⁉」
「アッハイ」
 絵を描いている間に結構な時間がたってしまったらしい。そろそろ謎解きも再開しなければ。……しかし、現状まったく手がかりがないからな……。この色鉛筆と画用紙がヒントになっている可能性もあるが、画用紙はホントにただの画用紙だし、色鉛筆だってPinkとかGreenとか、色を表す英語が刻まれてるくらいで……。…………。
「それだ!」
「わっ。きゅ、急に大きな声出してどうしたの?」
 ひらめいた瞬間思わず声を上げてしまい、キッチンで昼食の準備をしていた久慈さんがびっくりする。
「いや、二つ目の謎のヒントがつかめたんだ。もうちょっと考えてみるから、その間に昼食お願い」
「あ、うんっ。私はさっぱりだからそっちはよろしくっ」
 昼食の準備に戻る久慈さんに頷き返し、俺は改めて二つ目の謎が書かれた紙を手に取る。
『RYG=GIN RWR=PER
 GYR=MLI GWG=???』
 恐らく、この等式の左辺は色の頭文字を表している。一つ目のやつを例に取れば、RYGはそれぞれRed、Yellow、Greenの頭文字だろう。問題は、それが右辺とどう結びつくのかだ。この三色の混色とかなら、RYGとGYRは同じ結果にならなきゃいけないからこれは違うし……うーん……。
 ああもう、このGINとかPERって何だよ。ほんとに色と関係あんのか? そもそもどう読むんだ、これ。ギン? ペル? ……。……ペル……ペルー……あ、国旗か⁉
 確か、ペルーの国旗は左から赤白赤だったはず。Red、White、Redだから、左辺のRWRとも一致する。そうか、そういうことか!
 左辺は国旗の色を、右辺は国名コードを表していたんだ。これがフランスならBWR=FRAとなるんだろう。
 この法則に従えば、RYG=GINは……ギニア辺りだろうか。で、RWR=PERはペルー、GYR=MLIは……まあ、多分マリとかだろう。まあ、その辺の真偽はこの際どうでもいい。法則は判明してるんだから。
 重要なのは、GWG……左から緑白緑の国旗を持つ国の国名コードが何かということだ。多分それが、箱のロックの解除キーになっている。
 イメージしやすいように、画用紙にその国旗を描いてみる。……見たことはある気がするんだが、どこだか思い出せない。
「……ん? ナイジェリア?」
 料理を煮込んでいる間暇になったのか、キッチンを離れてこっちにやってきた久慈さんが画用紙の国旗を見てそう呟く。
「え? どういうこと?」
「だからそれ、ナイジェリアの国旗じゃないの?」
「……マジか!」
 これナイジェリアなのか!
「この夏暇すぎてずっと五輪見てたから、多分合ってると思うよ。サッカーで日本と対戦したりしてたし」
 なら、この国旗はナイジェリアで確定だろう。後は、ナイジェリアの国名コードだが……。
「久慈さん、ナイジェリアの国名コードってわかる?」
「国名コード……ってなに?」
「えっと、日本のJPNとかアメリカのUSAみたいに、その国を表す英語三文字のコードなんだけど」
 五輪を見てたなら、国旗とセットで国名コードも見ているはずなんだが。
「あー……なんだったかな……N……NGA、とかだったかな」
「NGAだね」
 箱のパネルにNGAと打ち込んでみる。パネルに『ロック解除』の文字が浮かんだ。
「よしっ、二つ目クリア!」
「え、ほんとっ? 私、役に立てた?」
「もちろん! 久慈さんがいなかったらここで詰んでたよ!」
 俺だけだったらナイジェリアも出てこなかったし、国名コードなんてなおさらわからなかった。久慈さんが五輪を見ててくれなかったらここで飢え死にが確定していただろう。
「え、えへへ~」
 照れながらキッチンに戻っていく久慈さんを見送り、ロックの解除された箱を開ける。中には先程同様鍵が一つ入っていた。
 久慈さんが鍋を見ている間に勉強机とタンスその二の鍵穴に入手した鍵をさしこんでみる。タンスその二の引き出しが解錠され、中から三度箱と紙が出てくる。今度の箱のロックは三ケタの数字のダイヤル式。紙の内容は以下の通り。
『五一七〇五八三四三六九二
 ヒント 一:二‐一‐四   二:三‐一六‐七
     三:五‐一六‐二  四:一‐一四‐一〇
     五:五‐一‐一   六:五‐二一‐五
     七:三‐一‐二   八:一‐一‐六
     九:四‐一一‐六  〇:六‐五‐六』
 ……意味わかんねー……。さっきの以上に意味不明なんだが。ヒントの一とか二とかが、上に書いてある一二ケタの数字に対応しているんだとは思うが、いかんせんヒントの内容がさっぱりわからない。一が二の一の四ってどういう意味だ……?
「お昼は肉じゃがだよー。で、三つ目はどう? 解けそう?」
「いや、さっぱり」
 昼食を持ってやってきた久慈さんに、三つ目の紙を見せる。
「……うぅ、目まいが……」
 そこまでか。
「まあ、これは一旦忘れて昼食にしよう。少し時間を空けたらなにかひらめくかもしれないし」
「……そうだね。じゃあ、召し上がれ~」
「うん。いただきます」
 手を合わせてから、まずはジャガイモを一口。……うん、美味い。俺と同い年のはずなのに、なんでこんなに料理できるんだろう。
「どうかな? お母さん直伝だから、大丈夫だとは思うんだけど」
「最高。いいお嫁さんになれると思います」
「ふぇっ⁉ あ、ああありがとう……」
 ……今、勢い余ってすごいこと言っちゃった気がする。
「「……………………」」
 気まずい空気が部屋の中に流れる。お互いに恥ずかしくて相手の顔が見られない。下を向いたまま、黙々と食事を進めていく。
「……えっと、久慈さんっていつ頃から料理してるの?」
 二人きりでいつまでも会話がないのは本当に気まずいので、なんとか話題を捻出して切り出す。一人暮らしと同時に始めたのでは、恐らくこんな美味しい料理は作れないと思うのだが。
「ふえ? あ、えっと……幼稚園のときくらいから、かな。お母さんの手伝いをしながら、少しずつ覚えていった感じ」
「はやっ」
 そんなに幼い頃から手伝っていたのなら、そりゃこんなにうまいのも納得だ。
「北上くんは料理しないの?」
「……レンチンとカップ麺なら」
「それは料理って言わないよ……」
 二人の間に会話が戻り、気まずい空気は霧散する。そのまま楽しく会話をしつつ昼食を食べ終え、一旦忘れていた三つ目の謎解きに取り掛かる。
「……はあ。見れば見るほど意味わかんないね、これ」
「ヒントがヒントになってないっていうか……ヒントのヒントが欲しい感じだね」
 全面同意。
「前の二つみたいに、ヒントになりそうなものがどっかに隠されてればよかったんだけど……」
 開けられる引き出しは、先程すべて開けきってしまった。あと調べていないのは……あの本棚くらいか。
 改めて本棚をしっかりと確認してみる。全部で六段になっていて、どの段にもびっしり本が入っているわけではなく、かなり空きスペースがある。一番上の段にはラノベが、二~五段目にはマンガが、一番下の段にはその他の辞書やら図鑑やら専門書やらが入っている。一番下の段以外の本は、ほとんど俺の部屋にもあるものばかりである。
「……あの本棚、一番下の段以外は私の部屋の本棚と本の配置までまったく一緒なんだけど。違和感なさ過ぎて今まで気付かなかったよ」
 マジかよ。……でもそうなると、俺たちを閉じ込めた犯人は久慈さんの部屋の本棚を知っている人物ということになる。ってことは、犯人は久慈さんの身近な人物……? ……まあ、犯人捜しは後でいいか。
「久慈さんの部屋の本棚とまったく同じっていうのも、なにか意味があるのかな……?」
「うーん……ありそうな気もするけど、考えてもよくわからないよ……」
 ……それもそうだな。結局三つ目の謎とかかわりがあるのかどうかもよくわからないし。
「……マンガでも読んで休憩するか。もしかしたらマンガの中に何かヒントがあるかもしれないし」
 こういうときは根を詰めても仕方がない。幸いペース的にはタイムリミットまで少し余裕があるし。
「賛成。実はさっき途中まで読んだ○セコイの続きがずっと気になってたんだ」
 言うや否や、久慈さんはニセ○イの九巻を取りだして読み始めた。さて、俺は何を読もう……あ、これ読んだことない。本棚から『政宗くんのリ○ンジ』というマンガを、そこにあった七巻まで一気に取りだして読み始める。
「「……………………」」
 しばらくは、お互いに無言でマンガを読み続ける時間が続く。一応、マンガを読む傍ら頭の片隅で謎について考えてもいたが、まあ解けない。マンガの中にヒントが、なんてことも当然ないし。
 何時間が経過したころだろうか。手元に持ってきたマンガを七巻まで読み終わり、そろそろ謎解きを再開しようか、と思いながらマンガを持って立ち上がる。このマンガ、結構面白かった。七巻も気になるところで終わったし、続きがでたら買いに行こうか。
 そんなことを考えつつ本棚の前まで来たところで、アレ? と首を捻る。この本、どこに入ってたっけ。確か、どこかの段の一番右に入ってた気がするんだが、どの段にも右側に空きスペースがあって判断できない。適当に空いてるところに入れてしまえばいいのかもしれないが、こういうのはきっちり元に戻したい性分だ。
「……ねえ久慈さん、これどこにあったか分かる?」
 そういえばこの本棚の本の配置は久慈さんの部屋のものと同じだったことを思い出し、久慈さんに尋ねる。
「ん? あ、政宗くんは五の二一」
「…………ごめん、どういう意味?」
 突然暗号みたいなの使われても……。
「あ、ごめんごめん、いつもの癖でつい。えっと、本棚の上から五段目の、左から二一冊目って意味だよ。私の部屋、本が多すぎて何がどこに何冊あるかすぐわかんなくなっちゃうから、こうやって番号つけて覚えてるの」
「……へ~」
 その覚え方逆に面倒じゃないかな、と思ったが、久慈さんは実際にそれで覚えられてるっぽいので、特に口出しはしないことにして、教えてもらった場所にマンガを戻す。えっと、上から五段目の左から二一冊目……五の二一……。……。
「…………これ、か……?」
「え? 何が?」
「三つ目の謎のヒント」
「……⁇ どゆこと⁇」
「えっと、つまり……」
 三つ目の謎が書かれた紙の、ヒントの六のところを指さして説明する。
「ここ、ヒントの六のところ、五‐二一‐五って書いてあるでしょ? で、久慈さん曰くこのマンガの収納場所は五の二一。……関係があるって考える方が自然じゃない?」
「……ホントだ! ……あ、でも、そうすると最後の五は?」
「うーん……例えば、タイトルの五文字目って意味で、同じようにして全部の数字を文字に変換したら、一番上の『五一七〇五八三四三六九二』が一つの文になる……とか?」
「北上くんすごい! きっとそれだよ! さっそく他の数字もやってみよう!」
 久慈さんが早く試そうと急かしてくる。まあ、試す価値のありそうな仮説だし、やってみるか。
「じゃあ、まずは一からだね。えっと、二の一の四文字目」
「『ニ○コイ』の四文字目だから、『イ』だよ」
「『イ』だね」
 ……メモ出来るものがねえ……。仕方ない、頭の中だけで頑張るか。
「次は二。三の一六の七文字目」
「『徒然チ○ドレン』の七文字目は『ン』だよ」
「次、三。五の一六の二文字目」
「『ニー○ェ先生』の二文字目は『ー』」
「四。一の一四の一〇文字目」
「『アウトブレ○クカンパニー』の一〇文字目は『レ』かな」
「五。五の一の一文字目」
「『トリ○ティセブン』だから『ト』だよ」
「六……は、さっきやったな」
「『政○くんのリベンジ』の五文字目だから『の』だね」
「じゃあ、次は七。三の一の二文字目だ」
「『ハレルヤオ○バードライブ』の二文字目は『レ』」
「八。一の一の六文字目」
「『さくら荘のペット○彼女』だから『ペ』」
「九。四の一一の六文字目」
「『そ○のおとしもの』だから『し』」
「ラスト。六の五の六文字目」
「『せかいのこっきずかん』の六文字目は『っ』だよ」
 ……ナイジェリアの国旗が分からなくても、この本見ればよかったのか……。いやまあ、それは今はいいや。ともかく、これですべての数字を文字に変換し終えた。あとは、これを『五一七〇五八三四三六九二』に当てはめれば……。
「…………トイレっトペーパーのしン、かな……?」
 全部脳内で処理しているので、正確性は微妙かもしれないが。
「トイレットペーパーの芯、って……」
 二人の視線が、部屋の端っこにあるトイレに向かう。
 トイレの扉を開け、中を確認する。中にあるトイレットペーパーはセットされている一ロールのみ。つまり、そのペーパーの芯に、三つ目の謎の答えが……。
 セットされていたペーパーを外し、芯の内側を確認する。……なにも書いてない。
「……えっと」
「……もしかして」
 二人で顔を見合わせる。まさか、ペーパーを使い切った先に答えが書いてあるというのか。それとも、俺の仮説が間違ってたのか。いやでも、こうしてしっかりした文になった以上、これで合ってるはずだ。ってことはやっぱり……。
「……やるか」
「……うん。実は一回やってみたかったんだ」
 というわけで、トイレットペーパーを再びセットし直し、それを久慈さんが勢いよく叩く。
「とお!」
 高速回転したペーパーは一気に紙を吐き出す。普段はもったいなくてできないが、誰もが一度はやってみたくなるやつである。
「せいっ」
 勢いが落ちてきたところで、今度は俺が叩く。ペーパーは再び高速回転し、かなりの勢いで減っていく。……うん、これは楽しい。
 交互に叩くのを繰り返すこと数度。ようやくすべての紙が吐き出され、芯だけが残る。その芯にはでかでかと「一一四」の三文字が書かれていた。
「これが、三つ目の謎の答えかな」
「多分ね」
 さっそくダイヤルを一一四に合わせる。ロックは解除され、箱の中から鍵が出てきた。
「よし。三つ目クリアだ」
「やったねっ! ……さて。それじゃあ」
「……うん、そうだね」
 鍵を一旦箱の中に戻すと、トイレの床にとっちらかったトイレットペーパーを見つめる。
「「戻すか……」」
 一度出し切ったペーパーを再び芯に巻き付けていく。ペーパーがなくなったら死活問題だからな。
「……このくらいでいいかな」
 数十分かけて、どうにか元の形に戻す。やや不格好だが、使うぶんには問題ないだろう。
「さて。これで四つ目の謎に入れるね」
「だね。今度は勉強机の鍵穴かな」
 現時点でまだ開いてない鍵穴は、勉強机の二つ目の鍵穴と、出入口のパネルの鍵穴。常識的に考えて出入口のパネルは最後の謎だろうから、次は勉強机の鍵穴で間違いないだろう。
 鍵を差し込み、まわす。開いた引き出しから出てきたのは、案の定箱と紙。ずっとこのパターンだったな。他にバリエーションはなかったのか。
 今度の箱のロックはパネル式で、アルファベット二文字を入力するタイプ。紙の内容はこちら。
『□、M、V、E、M、J、S,U、□、P ヒント:AS』
 二つ目、三つ目と比べたらかなりシンプルなものが来た。
「えーえす……一つ目のやつと似たような感じかな?」
「だろうな」
 このヒントを解読しないことには、どういう規則性でアルファベットが並んでいるのかいまいちわからない。
「うーん……『アンサースキル』かな」
「……それは黒猫だね」
 また久慈さんの大喜利コーナーが始まってしまった。
「じゃあ、『アクションスキル』」
「白猫になっただけだね」
 久慈さんは意外とソシャゲ―マーなのだろうか。
「なら、『アシストスキル』で」
「うん、一回スキルから離れようか」
「! 『ああっ、それを封じられるともう……!』」
「スキル系以外のネタないの⁉」
 ……いや、このパターンもネタの一つか。
「『安西先生……バスケが、したいです……』」
「スラ○ダンク……!」
 今度はマンガの名言シリーズだろうか。
「『あっ! これ進研ゼ○でやったところだ!』」
「こ、これは……マンガの、名言……?」
 確かによく見るけどさ……。
「『ああ勇者よ! 死んでしまうとはなさけない』」
「今度はド○クエ⁉ ……って、そのセリフ『ああ』じゃなくて『おお』じゃない?」
「‼ 『ああっ、ズルしたのがバレた……』」
「その『ああっ』っていうの便利だね。……っていうか、そろそろ大喜利やめて真面目に考えようよ」
 だんだん強引になってきてるし。
「ふぅ。今回もやりきった」
 久慈さんは今回もボケ倒せて満足なご様子。
「久慈さんってボケるの好きだよね」
「うん。なんか、ツッコミを入れらるるのが気持ちいいんだ」
「へ~」
 やっぱり、少し意外だ。久慈さんってもう少し大人しめの子だと思ってたから。まあ、だからといって幻滅するなんてことはまったくないんだが。
「さて、ASだよな」
 今度もなんかの英単語の略だろうか。まあ、そうだとしても現時点ではなにも思いつかないんだが。やはり、前の謎のようにヒントのヒントを探さなければ。
 しかし、いよいよ本当に探していない場所がない。引き出しはすべて開けてチェックしたし、本棚も先程の謎解きで使った。いやまあ、もう一度使う可能性もないことはないが、この謎とマンガが関係あるようには見えないし……。……そういえば、置いてあるのはマンガだけじゃなかったな。国旗図鑑みたいなのもあったし、もしかしたらこの謎のヒントもあるかもしれない。
 というわけで、改めて本棚の六段目のラインナップを眺めてみる。さっきの『せかいのこっきずかん』を始め、『独和辞典』や『化学式』、『天文学』など、かなりバラバラなジャンルの本が並んでいる。この中でASと関係ありそうなのは……どれだよ。
「久慈さん、あの中で気になる本ってどれかな」
 本棚の六段目を指さし、久慈さんに尋ねてみる。ここまでなんだかんだで謎を解くきっかけになってきたのは久慈さんだ。卒業アルバムとか、ナイジェリアとか、本の配置とか。だから今回も、久慈さんがきっかけになってくれるかもしれない。
「え? えっと……あ、あの『天文学』って本かな」
「天文学、好きなの?」
「うん。まあ、天文学っていうか、星を見るのが好きなんだけどね」
「そうなんだ」
 また一つ久慈さん情報を入手。……って、そうじゃない。久慈さんが興味を示した『天文学』を手に取り、開いてみる。どうやら小学生や中学生向けの天文学の入門書のようなものらしい。適当に開いたページでは、太陽系の惑星が図と共に紹介されている。……へー、惑星の名前って元はギリシャ神話の神様の名前なのか。例えば水星のマーキュリーなんかは商人や旅人の神メルクリウスからきてるし、金星のヴィーナスは愛や美の女神ヴェヌスが元らしい。……なんか、こういうのを知ると楽しくなってくるな。
 ……って、天文学に興味引かれている場合じゃない。誘惑の激しい天文学の本を一度置き、改めて謎の書かれた紙を見る。
『□、M、V、E、M、J、S,U、□、P ヒント:AS』
 ……いかん、さっきアレを読んだせいかMがメルクリウスに、Vがヴェヌスに思えて仕方がない。いやでも、ヴェヌスの次に紹介されてたのは火星のマルスでMだから、この謎とは関係が…………。
「アースか!」
「うおあっ。き、北上くん? またいきなりどうしたの?」
「元になった神様の名前じゃなくて、普通に惑星の英語名の頭文字だったんだ!」
「……ごめん、説明もう少し詳しく」
「あ、ごめん。謎が解けたと思ったら興奮しちゃって」
「え、解けたの⁉」
「多分」
 紙を見ながら、久慈さんへの説明も兼ねつつこの答えが正しいかどうか確認していく。
「このアルファベットの並びは、太陽系の惑星の英語名の頭文字を表してたんだ。MはMercury(水星)、VはVenus(金星)、EはEarth(地球)、二つ目のMはMars(火星)、JはJupiter(木星)、SはSaturn(土星)、UはUranus(天王星)、Pは太陽系から少し外れるけどPluto(冥王星)って感じでね」
「おお……! あっ。ということは、ヒントのASはAstronmy(天文学)とSolarsystem(太陽系)を表してたのかな?」
「多分、それを意図してたんじゃないかな」
 ヒントまったく無視で解いちゃったけどな。今回のヒントは少しわかりにくかった気がする。
「で、この法則に従えば、四角に入るアルファベットは、太陽と海王星の頭文字だから……」
「SunのSと、NeptuneのNだね」
 箱のパネルにSNと入力すると、パネルにはロック解除の文字が躍った。中からは例のごとく鍵。これが、おそらく出入口のパネルの鍵穴にささる鍵で、残る謎は出入口の一つ。ようやく、出口が見えてきた。
「……いよいよ、最後の謎、かな」
「……多分、ね」
 入手した最後の鍵を、出入口のパネルの鍵穴にさし、まわす。それがスイッチの代わりだったのか、今まで真っ暗だった出入口のパネルに光がともる。さあ来い、最後の謎。
『Q一+Q二+Q三+Q四=□□□□』
 パネルに映し出されたのは、そんな式。これは……。
「……今までの謎の答えの足し算、ってことかな……?」
「……まあ、そう考えるのが妥当だね」
 今までの謎の答えは……一つ目が一三三八で、二つ目はNGA、三つ目が一一四で四つ目がSN。答えは四ケタの数字だから……。
「このままじゃ計算できないね」
「NGAとSNを数字に変換しないと」
 まあ、どうしたらいいのかは見当もつかないが。ヒントもないし。
「うーん……考えてもわかんないし、とりあえず私は夕食を用意するね」
「あ、うん。よろしく」
 早々に諦めた久慈さんがキッチンへと向かう。そういえば、結構お腹が減っている。昼食からもうかなり時間が経過していたらしい。
 久慈さんが料理を進める間に、俺は最後の謎について考える。英語を数字に変換するにはどうしたらいいか。パッと思いついたのはアルファベット順だ。それに従って変換すると、NGAは一四七一、SNは一九一四って感じだろうか。で、これらを足し算したら……四八三七か?
 試しにパネルに四八三七と入力してみる。
『コードが違います』
「……まあ、違うか」
 さすがに最後の謎、そこまで単純ではなかったか。となると、別の変換方法を考えなければいけない。アルファベット順以外で英語を数字に……だめだ、何も思いつかない。ノーヒントで解くのは厳しい。
 ……ここは、久慈さんミラクルに賭けよう。実はさっきも天文学当ててるし。今回もきっと久慈さんが、この謎を解くきっかけを与えてくれるはず。
「ねえ、久慈さ――」
「ああっ、塩化ナトリウム入れ過ぎた!」
「……え、えん……?」
 久慈さんは料理に一体なにを入れようと……って、塩化ナトリウムって普通に塩じゃん。
「……なんでわざわざ化学式で言うの……?」
 無駄に文字数が増えた上にわかり辛くなってるし。
「あー、なんか、うちのお母さんがそう言っててね。気がついた時にはもう塩化ナトリウムで慣れちゃってて、咄嗟のときにはつい塩化ナトリウムが出ちゃうんだ」
「そ、そう……」
 なかなかアレなお母さんなんだね。
「って、それよりごめんね! 少しお塩入れ過ぎちゃった」
「え? あ、いや、そんなの気にしなくていいよ」
 料理してもらってるってだけで全然助かってるし。それなのに味に文句をつけるほどクズではない。
「ほんとにごめんね~。いつもならこんなヘマしないんだけど、少しボーっとしちゃって……」
「ボーっと?」
「うん。ほら、今解いてる謎が最後でしょ? これが解けたらやっとこの密室から脱出できるんだー、って思うのと同時に、これを解いたらこの脱出ゲームも終わっちゃうのかー、って思っちゃって。密室に閉じ込められはしたけど、北上くんといっぱい話したり、一緒に謎解いたりできて、すごく楽しかったから。だから、なんか終わっちゃうのが寂しいなー、って」
「……そっか」
 久慈さんもそう思っててくれてたのは、ちょっと……いや、かなり嬉しいかも。
「……でも、脱出した後だって話したり遊んだりは出来るよ」
「え……」
 俺の言葉に、久慈さんはポカンとした表情で固まった。
「……えっと、嫌、だった……?」
「! ぜ、全然! 全然嫌じゃない! むしろ北上くんからそんなことを言ってくれたのが嬉しすぎて固まってたっていうかっ……」
「そ、そうなんだ。よかった」
 俺と遊ぶのが嫌なんじゃなくて。もしそうだったら俺は立ち直れなかったかもしれない。
「じゃあ、こんな部屋はさっさと脱出して、今度は普通に遊びに行こうか」
「‼ う、うん! 絶対、絶対だよ⁉」
「もちろん」
 ……ちゃんと告白して、ちゃんと振られて諦めようと思っていた片想いだったけど。もしかしたら。そんな希望が、少しだけ見えてきた。……そうだよな。諦めるのは、もう少し足掻いてからでもいいよな。
 ……よしっ。そのためにも、こんな謎はさっさと解いてこの部屋から脱出しよう。
 改めて、最後の謎について考える。そういえば、さっきは久慈さんミラクルを期待して久慈さんに話しかけたんだった。塩化ナトリウムに遮られてしまったが。まさか久慈家では塩が化学式でやり取りされているとは思わなかった。調味料を化学式で言われると食欲が減衰する気がするんだが、久慈家には関係ないんだろうか。
 って、そんなこと気にしてる場合じゃない。その辺はここを脱出してから知っていけばいいんだ。今は謎解きである。
 なにかヒントはないのかと部屋の中を何度も探索する。今までの四つの謎にはすべてヒントがあったんだから、最後の謎にだってヒントがあるはずだ。しかし、何度探索してもヒントらしきものは出てこない。なにか情報があるとすれば本棚の六段目くらいだが、あそこは四つ目の謎のときに使ってしまっている。脱出ゲーム的に同じ場所にいくつもヒントを置くのはナンセンスだし、ヒントがあるなら別の場所だろう。
 ……いや待て。そういえば、久慈さんの記憶力のおかげで使いはしなかったが、あの本棚の六段目には二つ目の謎のヒントもあった。多分、俺も久慈さんもナイジェリアの国旗や国名コードがわからなかったときのために用意してたんだろう。だとしたら、最後の謎のヒントもあの本棚にある可能性はある……。
 再度、本棚の六段目に視線を向ける。……ダメだ、さっきの塩化ナトリウムのせいで『化学式』って本が目に入って仕方がない。自然と手が伸び、気付いたら手に取っていた。……まあ、これがヒントになっている可能性もなくはないし。というわけで『化学式』を開く。一ページ目にはこの手の本ではおなじみ、元素周期表が載っている。懐かしいな……無駄に全部暗記しようとしてる同級生とかいたっけ。……って、懐かしんでる場合じゃないんだって。NGAとSNを数字にする方法を考えないと…………。
「…………いや、まさか」
 本当に、またしても久慈さんミラクルなのか。
 もう一度、周期表を見る。NGAをNとGAにわけて、それぞれ窒素とガリウムだとするなら、NGAは原子番号に変換したら七三一。SNはそのまま錫で、五〇。これを、他の二つの謎の答えと足し算したら……二二三三。
 パネルに、震える指で二二三三と入力する。
『解除コードを承認しました』
「……マジかよ……」
 久慈さん、どんだけミラクル起こすの……。
 ……だがまあ、これでようやく脱出ゲーム終了――では、なかった。出入口のパネルが、次の文を表示する。
『では、続いて解除アクションを実行してください』
「……アク、ション……?」
 ちょっと待て、今のが最後の謎なんじゃなかったのか。
「……北上くん? どうしたの?」
 料理がひと段落したらしい久慈さんが出入口のパネル前にやってくる。
「……解除、あくしょん……? なにそれ?」
「さあ……? 最後の謎を解いたと思ったら、こんなのが表示されたんだ」
「あ、解けたんだ」
「うん。英語を原子番号に変換して足し算したんだ。答えは二二三三で、それは合ってたっぽいんだけど……」
「……計算過程はよくわかんないけど、とにかく謎は解いたんだね。じゃあ、その謎の答え……二二三三? と、この解除アクションも関係あるのかな」
「かもしれないね……」
 だが、二二三三が表すアクションってなんだよ。……あ、でも、三つ目の謎のときに数字を言葉に変換したよな。確かあのとき二は『ン』で、三は『ー』だったから、二二三三は『ンンーー』……これは絶対違うな。
「二二三三……どこかで見たような、聞いたような……」
「ほんと?」
 またしても久慈さんミラクル?
「う、うん。昔、お母さんに教えてもらったような気が…………あっ」
「思い出した?」
「……う、うん。でも、これは…………」
 そう言うと、久慈さんは顔を真っ赤にして俯いてしまった。……え、なに、二二三三って恥ずかしいことなの?
「……えっと、それで、二二三三ってなんなの?」
「……そ、それは…………うぅ、ダメ、言えないっ」
 今度は両手で顔を覆い、キッチンへと逃げていく。恥ずかしがりながらも火にかけたままのフライパンを忘れないその料理人魂は素晴らしいんだが……そこまで言うのに躊躇する行為なのか、二二三三……。

 夕食のハンバーグをつつく間も、久慈さんは頑として二二三三については答えようとしなかった。俺には見当もつかないし、久慈さんだけが頼りなのだが……。あ、余談だけど、別にハンバーグはしょっぱくなかった。
「……ごめんね。私が答えを教えれば、この部屋から脱出できるのはわかってるんだけど……」
 夕食を終えた後。久慈さんがそう謝ってきた。
「いや、まあ……言いにくいことみたいだし、まだ明日もあるから急がなくていいよ」
 尋ねる度に顔を真っ赤にされては、無理に聞き出そうとは思えない。明日の分の食材もあるし、これが多分本当に最後の謎だろうから、久慈さんの決心がついたときに教えてくれればそれでいい。
「……ありがとう。じゃあ、今日はもう寝よっか」
「……そうだね。今日は色々あって疲れたよ」
 朝起きたら知らない部屋だし、隣に片想いしてた子がいるし、その子と一緒に密室に閉じ込められて脱出ゲームすることになるし。そこそこ頭も使ったので、疲労感は大きい。
 畳んでおいた布団を広げる。あ、もちろん布団は離しました。
「じゃあ、電気消すよ?」
「うん。おやすみー」
「おやすみ」
 出入口のすぐ脇にあるスイッチを操作し、電気を消す。出入口のパネルが放つ光を頼りに自分の布団まで戻り、寝る体勢に入る。好きな子の隣で落ち着いて寝てられるかっ、なんて思っていたのだが、慣れない状況と頭脳労働による疲労が意外と大きかったのか、気付いたときには深い眠りに落ちていた。


 北上聡があっさり眠りについた一方で、久慈唯菜は布団を顔までまぶったまま寝られずにいた。
(北上くんが隣にいるから緊張して眠れないのもあるけど……それ以上に二二三三だよ~!)
 布団の中で悶える唯菜。唯菜は二二三三の意味を思い出して以降ずっとこんな調子だった。
(……でも、この部屋から脱出するためには、しないといけないんだよね……)
 こんな部屋はさっさと脱出して、今度は普通に遊びに行こうと約束してくれた聡の言葉を思い出す唯菜。その約束を果たすため、こんな部屋はさっさと脱出したいと思っているのは唯菜も同じだ。だがそのためには、二二三三をしなければならない。
(……北上くんとは遊びに行きたい。もっと仲良くなりたいっ。なんならホントは二二三三だってしたい! ……でも、この部屋から脱出するためなんて、そんな理由でするのは……絶対に、イヤ)
 なら、そうならないため久慈唯菜がするべきことは。取るべき行動は。
 唯菜は、聡からもらった一日早い誕生日プレゼントを眺める。せっかくモデルが目の前にいたのに、卒業式のときに見かけた唯菜を思い出して描いたという、その絵を。
(ここまで鮮明に思い出せるほど私を見てたなんて……そんなの私、勘違いしちゃうよ……?)
 そして、久慈唯菜は決意する。
(……まあ、こうやって勝算を見つけないと勇気も出せない自分が、少し情けなくはあるけど……でも、絶対に失敗したくないことだから)
 明日、高校時代から募らせてきた想いを伝えよう、と。


 翌朝……だと、思う。この部屋には窓もないので、正確な時間がわからないのだが。まあとにかく、一眠りした後。身体を起こして隣を見ると、なぜか久慈さんが布団の上に正座して待機していた。
「……えっと、どうしたの……?」
「……北上くんに、言いたいことがあって。最後の謎の答えの前に、聞いてくれるかな?」
「う、うん……」
 今まで見たことがないくらいに真剣な顔をする久慈さんにやや圧されつつ、なんとか頷く。
「……私、北上くんが好き」
 わずかに残っていた眠気が、一瞬で吹き飛んだ。
「高校のときから、ずっと好きだった。なにがきっかけだったかは、覚えてないけど、気がついたら目で追ってて、いつも北上くんのこと考えてた。でも、結局高校ではあんまりお話しできないまま卒業しちゃって、ずっと後悔してた。だから、今度会ったら絶対に言おうって決めてた。まさかこんな形で突然再会することになるとは思ってもいなかったから、すぐには言えなかったけど……一緒に謎解いて、いっぱい話して、やっぱりこの気持ちは本物だって確信したから。だから、ちゃんと言うよ。北上くんのことが、大好き」
 …………それって、俺とまったく同じ……。
「……できれば、今、返事が欲しいな」
「…………あ、ああ……」
 返事なんて、決まりきっている。
「…………俺も、久慈さんが好きだよ。高校のときからずっと。久慈さんと、なにもかも一緒」
 なんだよ、両想いどころか寸分違わず全部一緒じゃないか。こんなことなら、もっと早くに告白しておけば……なんて、それは結果論か。
「……ほんとに?」
「本当だよ」
「……ほんとにほんと?」
「本当に本当だよ」
 そんなに疑わんでも。
「ちょっとほっぺ引っ張って」
「どこまで疑い深いの、久慈さん……」
 少し呆れつつ、要望通り頬を引っ張る。
「……いひゃい」
「夢じゃないってわかった?」
「……うん」
「………………」
「………………」
 ……思ったよりも、顔が近い。頬に触れたままの手も離すタイミングを逃したし……。これ、どうしたらいいんだ……?
「…………ん」
 久慈さんが、目を閉じた。こ、これは……アレ、だよな……。
「…………」
 よく見ると、久慈さんは小さく震えている。緊張しているのか、怖いのか、あるいはその両方か。……って、そりゃそうだよな。よく考えたら告白にだって相当勇気が必要だっただろうし、今だってかなり勇気を振り絞ってくれているのだろう。その勇気に、きちんと応えなければ。
 同じように目を閉じて、ゆっくりと唇を重ねる。緊張で頭は真っ白だったが、その柔らかさだけはしっかりと感じた。
「「………………」」
 唇を離し、目を開けてから、なんとも言えない空気が流れる。嬉しいやら恥ずかしいやら。
 ――カシャン
 そんな空気を切り裂いたのは、まるでなにかのロックが外れるような音だった。
「……今のは……?」
「多分、アレじゃないかな」
 久慈さんが指差したのは、出入口のパネルだった。そこには、昨日とは違う文が映し出されている。
『解除アクションを承認しました。ロックを解除します』
「……じゃあ、解除アクションって……」
「うん。キス、だよ。北上くんはポケベルって知ってる?」
「ポケ……? いや、聞いたことないけど……」
「昔の携帯みたいなものなんだけどね。ポケベルでの文字入力は今の入力方式とは違ってて、例えば『い』って打ちたいときには、あ行のい段だから『一二』って打ち込んでたんだ」
「……あ、じゃあ、二二三三っていうのは……」
「最初の二二が、か行のい段で『き』、三三はさ行のう段で『す』ってこと。昔お母さんから聞いたことがあって、昨日の時点でわかってたんだけど……脱出のためなんて理由で北上くんとキスするのが嫌だったのと、普通に恥ずかしかったのもあって、言い出せなかったんだ。遅くなってごめんね」
「いや、そんな……」
 むしろそこまで俺のことを真剣に考えてくれてたんだと感動したくらいだ。
「気にしなくていいよ。俺もそんな理由で久慈さんとキスするのは、多分嫌だっただろうから。久慈さんお手柄」
「そう言ってもらえると嬉しいな」
 えへへ、と笑う久慈さんが可愛い。
「……さて。それじゃあ」
「……うん。脱出しようか」
 久慈さんと手を繋ぎ、出入口のノブに反対の手をかける。昨日とは違い、ノブは抵抗なくまわる。久慈さんと顔を見合わせてから、俺たちはそのドアの向こうへと一歩踏み出した。

 ――パンッ、パパンッ

「「「「脱出おめでとー‼」」」」
 そんな俺たちを出迎えたのは、大音量のクラッカーと四人の男女のそんな言葉。
「「…………はい?」」
 なんだ、この状況は。というか、よく見れば、四人のうち二人には見覚えがある。まぎれもなく俺の両親だ。
「父さんも母さんも、なんでここに……?」
「え、あっちの二人は北上くんの両親なの⁉ こっちの二人は私のお父さんとお母さんなんだけど!」
「マジで⁉」
 ようやく脱出したと思ったら俺たちの両親が出迎えるって、ホントこれどういう状況⁉
「状況のわかってない唯菜ちゃんたちのために、私が説明してあげよう!」
 混乱する俺たちにそう言ったのは、久慈さんのお母さんと思われる人物。あ、あれが例の塩化ナトリウムの人か。
「結論から言うと、これは唯菜ちゃんへの誕生日プレゼントなのです! あ、誕生日おめでとう!」
「あ、ありがとう……?」
 久慈さんのお母さん、テンション高いな……。
「でも、私の誕生日プレゼントってどういうこと?」
「いい質問です! ことは去年の三月、唯菜ちゃんの好きな人を若干強引に聞き出したことから始まるのです」
「……ああ、そういえばしつこく聞いてきたことがあったね」
 この二人の親子関係が気になって仕方ない件。
「それが北上聡くんだという情報を得た私は、そういえば大学の後輩に北上くんという人と結婚した人がいたこと、そしてその息子が聡くんだった気がすることを思い出したのです」
 まさかの繋がり!
「元後輩の現北上ちゃんに連絡を取った私は、北上ちゃんの息子の聡くんが娘の恋する聡くんだということ、そしてその聡くんが唯菜ちゃんに片想いしていることを知りました。そこで私は思ったのです。これは、北上ちゃんと共謀して二人をくっつけるしかない、と。そこから構想と部屋の用意に約一年。それがこの、脱出ゲームなのです!」
 バァン、という文字が背景に躍りそうな感じで言い放つ久慈母。うん、もうこの人のキャラはわかった。
「謎を解く度に二人の仲が深まっていって、最後の謎でゴールイン、という感じを演出してみたつもりだったんだけど、どうだったかな? ……って、言うまでもないか~」
 俺たちを見てニヤニヤする久慈母。……? って、そういえばずっと手繋ぎっぱなしだった!
 同じことに久慈さんも気付いたのか、同時にパッと手を離す。親の前でずっと手を繋ぎっぱなしだったかと思うと、かなり恥ずかしい……。
「まあ、誕生日プレゼントは大成功ってことだね。やったね北上ちゃん!」
「私は……っていうか、他の三人はみんな先輩に流されてただけで、ほとんど先輩が一人で暴走して全部やったみたいなもんだけど……まあ、息子が幸せになれそうでよかったかな」
「母さん……」
 確かに、久慈さんのお母さんの行動はちょっと……いやかなり行き過ぎていたと思うが、でもそのおかげでこうして久慈さんと付き合うことになったわけで。だったらやはり、この人には感謝するべきなのだろう。
「おおっ、さすが北上ちゃんはいいお母さんだね! じゃあ私も……唯菜ちゃん! 孫、早く見たいな!」
「もうお母さん黙ってて~!」
 ……やっぱり、前言撤回。この人多分、感謝した以上の気苦労が返ってくる。
「北上くんも、うちのお母さんのことは無視していいからね!」
「えー、唯菜ちゃんひどーい! 私だって義理の息子と仲良くしたいのにー!」
「お、お母さん!」
「あはは……」
 愉快極まりない久慈親子を眺めつつ、思う。今後もこの親子と付き合っていくのは大変そうだなー、と。母は娘の恋の成就のために娘とその想い人を密室に閉じ込めるような人だし、娘は娘でボケ倒してツッコまれるのが好きと、確実に母親の遺伝子を受け継いでいるし。
「……聡、あの人の相手は大変よ。覚悟しておいて」
「……できるだけ、頑張る」
「だ、大丈夫だよ北上くん! 私も一緒だし、障害は一緒に乗り越えていこうよ!」
「ちょっと唯菜ちゃん⁉ 今お母さんのこと障害って言わなかった⁉」
 ……でも、まあ。退屈はしないで済みそう、かな。
 久しぶりに見た、窓からのぞく青空は。
 これからの俺たちの未来を示すように、どこまでも澄み渡っていた。


使用テーマ
・蛍光灯
・もう一度会いたい
・「あっ! これ進研ゼミでやったところだ!」
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

「REFRAiN」

「 」
 
7時45分のアラーム。起床。ジーパンとワイシャツに着替える。洗面所で顔を洗い寝癖を直す。朝食。トーストとゆで卵と野菜ジュース。8時30分。家を出る。
通学、片道15分。
1限、英語。ユニット1の和訳。
2限、空きコマ。早めの昼食。わかめうどん。250円。
3限、西洋思想史。デカルト。
4限、国際政治。主権概念。
駅へ向かう。門を出て、そのまま道路を渡る。
クラクション。


 * * *


「 」

7時45分のアラーム。起床。ジーパンとワイシャツに着替える。洗面所で顔を洗い寝癖を直す。朝食。トーストとゆで卵と野菜ジュース。8時30分。家を出る。
通学、片道15分。
1限、生物学。ヒトの骨格。
2限、ドイツ語。挨拶文と数字。
3限、空きコマ。遅めの昼食。わかめうどん。250円。
4限、生命倫理学。臓器移植。
駅へ向かう。門を出て、そのまま道路を渡る。
クラクション。


 * * *


「 」

7時45分のアラーム。起床。ジーパンとワイシャツに着替える。洗面所で顔を洗い寝癖を直す。朝食。トーストとゆで卵と野菜ジュース。8時30分。家を出る。
通学、片道15分。
1限、空きコマ。間違えて登校した。2限の予習。
2限、科学基礎論。ディスカッション。
昼食。わかめうどん。250円。
3限、教育学概論。子ども概念の変遷。
4限、英語。リスニング。
駅へ向かう。門を出て、そのまま道路を渡る。
クラクション。
クラクションの後、サイレン。


 * * *


「 」

救急車のサイレンで起床。
4時36分。
かなり近い上に止まない。眠れない。泣く。泣きながら眠る。


 * * *


「 」

7時45分のアラーム。起きられない。9時30分にアラームをかけ直して起床。ジーパンとワイシャツに着替える。洗面所で顔を洗い寝癖を直す。朝食。トーストとゆで卵と野菜ジュース。10時15分。家を出る。
通学、片道15分。
2限、東洋哲学。荀子。
昼食。わかめうどん。250円。
3限、ドイツ語。自己紹介文。
4限、日本文学。古代中世文学史。
5限、ゼミ。論文を一本読んでくるように言われる。
図書館に行く。適当なところに座って論文を読む。
「私」という言葉が気にかかる。
目はそのまま文面を追い、適宜線を引きながら読み終える。
駅へ向かう。門を出て、そのまま道路を渡る。陽は既に落ちている。
クラクションは聞こえない。
帰宅、片道15分。読み終えた論文を半分ほど要約する。夕食、冷凍ご飯と沢庵と味噌汁。シャワーを浴びる。ショパンピアノ名曲集のCDを再生する。「私」という言葉が気にかかる。子守唄変ニ長調まで聞いてやめる。雨だれが聞きたかった。0時23分。就寝。


 * * *


「 」

7時45分のアラーム。起床。ジーパンとワイシャツに着替える。洗面所で顔を洗い寝癖を直す。朝食。トーストとゆで卵と野菜ジュース。「私」という言葉が気にかかる。レジュメの続きを少しやる。10時15分。家を出る。
通学、片道15分。
2限、宗教思想史。原始キリスト教。
昼食。わかめうどん。250円。「私」という言葉が気になる。違和感が消えない。何かがすっきりとしない。何か、収まりが悪い。
3限、フランス文化論。地域史。「私」という言葉が気になって仕方ない。
駅へ向かう。門を出て、そのまま道路を渡る。
クラクション。
クラクションが聞こえる。すぐそばに聞こえる。
車の一台も見当たらない横断歩道で。身体は何事もなく道路を横断していくのに、車が身体にぶつかり、身体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられ、歪む。その生々しい身体感覚は、明らかに今ここにあるものではないにも関わらず、身体に強く結びついて今ここに立ち現れている。
それは、私の記憶には全く合致しない。
ぼんやりとした空白の後の、サイレン。


 * * *


「 」

7時45分のアラーム。起床。ジーパンとワイシャツに着替える。洗面所で顔を洗い寝癖を直す。朝食。トーストとゆで卵と野菜ジュース。ゆで卵よりもスクランブルエッグが好きだった記憶がある。朝食はトーストとスープとコーヒーが基本だった記憶もある。手が止まらないので仕方なく卵をゆでた。8時30分。家を出る。
通学、片道15分。
1限、心理学基礎。人格心理学。
2限、情報倫理学。現代社会の情報技術。
昼食。わかめうどん。250円。たまには何か別のものを食べてもいい気がする。こってりとした背脂たっぷりのラーメンにおろしにんにくと胡椒を山程かけて食べたい。700円位かけたっていい。身体がわかめうどんを頼んでしまうので食べた。身体がわかめうどんを食べてしまうので為すに任せた。
3限、空きコマ。図書館で教育学に関する本を読む。中身はさっぱり分からない。そもそも、専門は認知心理学だった。教員免許の取得を考えたことはない。「私」という言葉が気になる。視線は勝手に文字を追い、時々小さく頷きながらページを繰っていく。
4限、ユーラシア文化論。ラーマーヤナ。
駅へ向かう。門を出て、そのまま道路を渡る。
クラクション。情景は勝手に浮かび上がる。呼び出してもいないのに現れて、消える。
この前読んだ論文のことを思い出す。「人間の心は脳内現象である」という一文。それを認識する主体は「私」。「私」という意識は脳内から出現する。脳は身体を制御する。身体の感覚は脳に伝達される。「私」、脳、身体。心と意識と感覚。深く関わるべき事柄。
ここにあるのは、何だ。
私は、今ここで思考する「私」は、誰だ。


 * * *


「 」

7時45分のアラーム。起床。登校のための準備が進んでいく。私の意志を置き去りにして、体の方だけが勝手に動いていく。洗面所の鏡の中に顔が映っている。視界の位置関係から、この身体に付いている顔なのだと分かる。知らない顔だ。歯は左上の奥歯から順に磨く癖があったはずなのに、右上の奥歯から磨き始める。左上から磨きたいのに、手が全くそれを受け付けない。「私」という言葉が気にかかる。「私」、脳、身体。その関係性。
どこかで断線しているのか。
脳からの制御なしに身体は動かない。ならば、動いている以上、脳と身体とは正常に機能し、私だけが、「私」だけが、それと独立して生きているのか。しかし、見ている。聞いている。嗅いでいる。味わっている。感じている。世界がそこにあり、肉体がそこにあることを私は感覚している。身体の感覚は「私」へ、伝わっている。けれど、身体は勝手に動いていく。まるで、小さな窓だけがある部屋に、「私」だけ閉じ込められているように。勝手に移りゆく世界を、ただ眺めている。全てが遠くにあるように見える。枠があるような感覚。紗幕が下りているような感覚。捉えどころのない広大な流れの中に閉じ込められて、私は為す術なく流され続けている。
私は、私の「私」はどこにあるのか。どこから来るのか。
この身体は誰のもので、この脳は誰に繋がるもので、この世界は何で出来ていて。
私の身体は、これではなくて。
それでもこの身体を通じて、私の「私」は世界の流れを認知している。
人というひとつの存在が普通こんなあり方をしないことを、私は覚えている。かつて、私は「私」と脳と身体とを有したひとつの存在だった。自らの意志で起床し、左上の奥歯から磨き、スクランブルエッグを作り、ラーメンにおろしにんにくと胡椒を山程かけて食べた。わかめうどんは嫌いではないが、毎日食べるほどではない。明らかに、この身体の制御者は私の「私」ではない。私の脳は、身体は、どこにあるのか。或いは、私が変容したのか。どちらかが激しく変様して、その親和性が限りなくゼロに近付いたのか。
分からなくなった。
それとも、分かるようになったのか。
それも、分からない。
クラクションが鳴っている。


 * * *


「 」

 眠っているのだという感覚。全身は弛緩し、呼吸は深く、規則的に繰り返されている。目を開けたいが、目は開かない。私の「私」がどこにもつながっていないからだ。私はここで完結し、誰のものかも分からない世界を享受している。今あるのは、無明と、柔らかな布団の感触、上下する胸の動き。微かに雨の音がする。世界を知覚し、思考し、そして、ただそれだけだ。何も出来ない。行為するということは、変化をもたらすという事だ。それがないなら、行為してはいない。私は考える。故に私はある。あるだけ。あるだけでは、ないのとそう変わらない。私はないに等しい。存在しないに等しい。それでも私はある。あるけれど、ないに等しい。誰も、私に向かって「ある」と言えない。
 7時45分のアラーム。
 つんざくような音に向かって腕が伸び、ボタンを押す。
 音が止む。
 緩く伸びをしながら、目を開ける。
 おはよう、と言いたくなった。

「 」
「ふあぁ……ぁ」

 大きなあくびがひとつ出た。私の気持ちはひとつも反映されていない、呑気極まりない調子のあくび。思わず笑ってしまった。笑い声は出ず、表情は微動だにしない。泣いた。涙は出ない。身体も脳も、それを表現しようとはしない。ジーパンとワイシャツに着替える。泣いている。それは表現されない。洗面所で顔を洗い寝癖を直す。朝食。トーストとゆで卵と野菜ジュース。スクランブルエッグが食べたい。ゆで卵を齧る。コーヒーが飲みたい。野菜ジュースを流し込む。8時30分。家を出る。
 1限、隣の席の学生が話しかけてくる。

「おはよう」
「 」
「うん、おはよう」

 笑顔を浮かべているのが分かる。教科書を引っ張り出すのを感じる。私を置き去りにして世界が流れていく。

「怪我はもう平気?」
「平気平気。ギプス取れてからはもう、普通に歩けてるよ」
「そっか」
「 」
「交差点とか、歩けてる?」

 クラクション。サイレン。稲妻のように一瞬閃き、どこかへ押し殺されて消える。

「……うん、歩けてるよ。普通に。てか、そんなに心配しなくたって大丈夫だって」
「」
「ふうん。そっか。それはよかった」

 フラッシュバック。
 この身体は、つい最近交通事故に遭った。分かる。しかし私の「私」が、この身体に接続しないまま、その内部にある。分からない。目の前の学生はこの身体の持ち主の知り合いらしい。分かる。しかしこの身体と接続できていない私は、この学生に対して何一つ行為できない。分からない。何が起こっている。私は確かに私というひとりの人間だった。記憶がある。今は、なんだ。これはなんなんだ。
 
「ところで、この講義って先週何やった?」
「レジュメ見る?」
「見る!助かった!」

 今、目の前の人間としゃべっているのは誰なんだ。
 私の「私」があるのはどこで、誰の見ている世界を「私」は見ているんだ。
 ここにあるのは、今ここに存在している身体と脳と「私」の複合体は、誰なんだ。私は誰なんだ。それは私の言葉ではない。それは私の行為ではない。この身体は、私のものではない。私のものではない身体の中に私の「私」が存在している状態を私の「私」が捕捉することによって私の自我は成立し、私はあるがないに等しい「私」のみの存在として私のものではない身体の感覚の下にある。分かる。分からない。あるようでない理解。あるのに現れない感情。
 それはあるのか。
 分からない。

「うん、ありがとう。なんとなく分かった」

 分からない。

「なんとなくって、どの辺がはっきりしないの?」

分からない。

「いや、大丈夫。自力で理解するから」

 出来ない。

「そう。何かあったら言ってね」

 出来ない。
 分からない、分からないことを伝えられない、何もできない、どうしようもない、ただここにあるだけの何かとしての私、それだけがここにある。
 聞いて。誰か聞いて。「私」という言葉が気になる。教えて。「私」という言葉が分からない。「私」が分からない。どこにあるの。何と繋がってるの。どうすればひとりの人間に戻れるの。どうすれば笑えるの。泣けるの。どうすれば。
 ねえ。

「 」
「……うん?」
「いや、何も言ってないけど?」

 助けて。

「 」


 * * *


「 」

 7時45分のアラーム。起床。

「 」



使用テーマ
・おろしにんにく
・ゆで卵
・ゾンビ
・真の「私」
・届かぬ「私」
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

ディザイア・イットセルフ

 きっかけは、とある少年が抱いた、小さな小さな疑問だったのです。
 その日、少年はお母さんに頼まれて、八百屋さんに買い物に出かけていました。
 その買い物自体は何も問題なく終わりました。むしろ、うまくいったと言ってもいいくらいです。少年は大根と玉葱とお芋を買いに行ったのですが、八百屋のおじさんは「偉いねえ」と言って、白菜をいくつかと、人参を何本かおまけしてくれたのです。やったあ、お母さんも喜ぶぞ。そう思いながら、少年は悠々と帰り道を歩いていました。
 その時です。少年の耳に、大きな大きな大人の声が聞こえたのです。
「お願いします! 助けてください!」
 どうしたのだろうと顔を上げると、大人の女の人が歩道に横たわっていて、その横に大人の男の人が座っていました。よく見ると、その男の人は左手に携帯電話を持っていました。傍には一台の車が止まっています。事故でしょうか。
 まもなく、少年の目の前に一台の車が止まりました。その車を見て、少年はあっ、、と思いました。その車が救急車だったからです。ちょっと前に、「はたらくくるま」の本に書いてあった、救急車そのものでした。
 救急車の中から何人か大人の人が降りてきました。そして、
「イシキはありますか?」
 と座っている男の人に話しかけていました。その男の人は、
「いいえ、イシキはありません」
 と答えていました。
 イシキ。少年にとってその言葉は聞きなれない言葉でした。いったいそれは何なのだろう、と思いましたが、その場で質問することは何となくダメなことな気がしました。だから、少年はそのまま家に帰ることにしました。
「ただいまー」
 家に着くと、少年はそう言いました。そう言うのが「まなー」だとお父さんに言われていたからです。ですが、少年は「まなー」とは何なのか、いまだによく分かっていません。
「おかえりなさい、早かったわね」
 お母さんが玄関まで出てきました。少年は手に持っていたレジ袋を渡しながら、
「八百屋のおじさんが白菜と人参をおまけしてくれたよ」
 とお母さんに伝えました。するとお母さんは笑顔になって、
「やった。これならメニューをもう少し増やせるわ。よくやったわ」
 と言いながら、少年の頭を撫でまわしました。
「さて、野菜を仕舞わないと」
 そう言って、お母さんはくるりと回り、キッチンの近くにある冷蔵庫に向かいました。しゃがみ込み、冷蔵庫の一番下を開けて、レジ袋から野菜を取り出して入れています。
「イシキって何なんだろう……」
 言おうと思って言ったわけではありません。ただ、ふっと口から出てきてしまったのでした。その言葉を、お母さんがしっかりと聞いていたのです。
「え、どうしたの、急に」
「え、あ、いや……」
 少年は言い淀んでしまいます。何と言っていいか、分からなくなってしまったからです。
「言えないの?」
「ええと、そういうわけじゃ……」
 少年は頑張って何か言おうとしますが、うまく考えを纏められません。そんな時、お母さんが言いました。
「まあ、いいけど。ただ、どうしても知りたいなら、山の上に物知りのおじいさんが住んでるから、その人の所に行くといいかも」
「おじいさん?」
「そう、おじいさん。この辺りでは、確か老師って呼ばれてたはずよ」
「へえ」
 少年は興味ないような返事をしましたが、心の中では何か光が見えた気がして、ワクワクしていました。お母さんは、そんな少年を見て、微笑んでいたのでした。
 その夜、少年はワクワクでなかなか眠れませんでした。

 次の日、少年は山を登り、老師に会いに行きました。といっても、山の斜面はそれほどきつくなく、少年でも楽に登れました。老師の家は、その山の頂上にありました。
 玄関のドアの前に立ち、深呼吸を何回かしました。インターホンのスイッチに何度も手を伸ばしかけて、何度も引っ込めました。少年は自分では気付いていませんでしたが、かなり緊張していました。何しろ、一人で知らない人の家に行くのは初めてだったのですから。
 再び少年がインターホンに手を伸ばしかけた、まさにその時でした。
 ガチャリ。
「どうか、しましたか?」
 うわあ、と声を出しそうになりましたが、何とか少年は堪えました。少年はもちろん、突然ドアが開いて、中にいた人から声をかけられたことにもびっくりしていました。しかし、もっとびっくりしたのは、中から出てきたおじいさんの姿でした。
 ――まん丸のお腹と、黄色いシャツと、黄色いズボンと、白い髪。
 白い髪が無ければ、そこはかとなくどこかで見たことある格好です。そう、少年はその格好に思わず笑いそうになってしまったのです。しかし、「人を見て笑ってはいけない」とお父さんに言われていたので、頑張って少年は堪えました。
「どうか、しましたか?」
 同じ調子でおじいさんが話しかけてきたので、少年は呼吸を整えて、言いました。
「あの、おじいさんが物知りだと聞いて」
 来たんです、と言おうとしたら、おじいさんが急に真顔になって言いました。
「はちみつがありませんね」
「え?」
 急に何を言っているのだろう、と少年は思いましたが、おじいさんは続けます。
「何か私に質問するなら、はちみつです。はちみつを、はちみつを、持ってきなさい」
 そう言って、おじいさんは扉を閉めてしまいました。

 それから、少年は家に帰って、お母さんに今日あったことを話しました。
「で、どうするの? はちみつ持ってもう一回行く?」
 お母さんがそう言うと、少年はすぐに答えました。
「うん。僕、あのおじいさんにもう一度会いたい。会って、イシキって何なのか、聞いてみたい」
すると、お母さんはキッチンからはちみつを壺のようなものに入れて持ってきてくれました。
「明日、これをもっていくといいわ。そうすれば、老師もきっとあなたの質問に答えてくれるはずよ」
 優しいお母さんです。心の中でありがとうと言いながら、ずっと気になっていたことを言いました。
「そういえば、あのおじいさん、何かプーさ――」
 そこまで言いかけましたが、お母さんが掌で少年の口を塞ぎに来たので、少年は声を出すことができなくなりました。
「ダメよ、それを言っちゃ」
 お母さんが真顔で言います。
「それは、絶対にいけないわ。巷には、彼のことをプー老師などと馬鹿にしている人もいるんだけど、それはダメ。それを言ってしまっては、この世の終わりよ。終末よ。本当のことを言ったら、人は怒られるの。怒られて、終末を迎えるの。分かるわよね。それは馬鹿のやること。あなたは馬鹿じゃないのだから、そんなことをやってはいけないわ。分かったわね?」
 そう早口で言われて、少年は、無言で頷くしかありませんでした。
 その夜、少年はドキドキでなかなか眠れませんでした。

 次の日、少年はお母さんから貰った壺に入ったはちみつを持って、再び山を登りました。
 玄関まで来ると、今日はインターホンを迷わずに押しました。すると、間髪入れずにプーろ――じゃなくて、老師が出てきました。今日も黄色いシャツとズボンに白髪、そしてまん丸のお腹。間違いなくあの黄色い熊的な生物にそっくりです。そんな老師は、開口一番、
「はちみつは持ってきましたか?」
 と言ったので、少年は壺を老師に渡しました。受け取るや否や、老師は人差し指で壺の中身を掬い、舐めました。
「うん、この感じ、いいですね。いいはちみつです」
 そうかよかった、と少年は思いました。これで、ずっと気になっていた「イシキ」についての話を聞けるからです。
「そういえば、昨日来た時から、あなたは何か知りたいことがある様子でしたね。いったい何が知りたいのですか?」
 少年の心臓がどくんと脈打ちます。ついに知りたい事が分かるのです。その興奮を努めて表に出さないようにしながら、少年は言いました。
「イシキっていったい何でしょうか」
「イシキ、ですか?」
「はい、一昨日、事故でイシキがどうこうって――」
 そこまで言って、少年の言葉は老師の言葉に遮られました。
「ジコに、イシキということは、もしかして、自己意識の話ですか。それは何かと言われれば、それは欲求そのものですよ」
 ジコイシキ。少年がまた知らない言葉が出てきました。少年が少し戸惑っていると、老師がどこからともなくペットボトルホルダーを取り出して、その中からペットボトルを取り出しました。
「たとえば、私が今、この物体を見て、これはペットボトルだと意識したとします。すると――」
 何か老師が説明してくれていますが、少年には難しくて全然分かりません。取り敢えず、イシキとはヨッキュウなんだ、ということだけ覚えておくことにしました。
「――という感じです。大丈夫、ですか」
「はい、ありがとうございます」
何もわかりませんでしたが、少年は元気いっぱいにそう答えました。
「そうですか。また何か分からないことがあったら、来てくださいね」
「はい」
「あ、はちみつも忘れずに持ってきてくださいね」
「はい」
 老師は笑顔で扉を閉めました。少年はお辞儀をして、山を下りていくことにしました。
 あの時、救急車の中から降りてきた人たちが「イシキはありますか」と言っていたのは、「ヨッキュウはありますか」という意味だったのか、と少年は思いました。次は、ヨッキュウとは何ですか、ということを質問しに行かないと、と思いました。
 またはちみつをお母さんに貰わなくてはなりません。そのために、少年は頑張って買い物のお手伝いとかをして、お母さんに褒められないと、と思いました。
 少年はランランと山を下りていきました。




使用テーマ
・もう一度会いたい
・終末
・ペットボトルホルダー
第三十一回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00

第三十一回さらし文学賞

第三十一回さらし文学賞

概要

 今回のさらしは、下記テーマ群のうちから三つ以上を自由に選択し、選択したテーマにそって作品を書く。

テーマ群
「式場」「ゆでたまご」「伝説」「意識高い系」「BL」「異能力」「ファンタジー」「異世界」「ヒーロー」「首の締め合い」「締め切り」「児童文学」「コズミックホラー」「学園モノ」「届かぬ○○」「おろしニンニク」「ヌードル」「真の○○」「ペットボトルホルダー」「躍動」「マシュマロ」「蛍光灯」「歌」「もう一度会いたい」「西友」「あっ!これ進研ゼミでやったところだ!」「終末」「ゾンビ」

<書式>
 掲載形式を考慮したうえで自由
<字数制限>
 なし
<応募制限>
 千葉大学文藝部員であれば誰でも応募可。一人に対しての応募数制限はなし。
<日程について>
 執筆期間:2016年8月12日(金) 23時59分まで
 投票期間:2016年8月20日(土) 23時59分まで
 結果発表:2016年8月24日(水)(合宿中)
      2016年8月28日(日)(ネット上)

<対象作品>

ディザイア・イットセルフ/ジャックパンダ
「REFRAiN」/宵闇
ここから抜け出す鍵は/古河聖
クライング・ヒーロー/うみねこ
ナナ/佐野浩史
《Z》OO/うみねこ
とりあえず書いてみてはいいが世界観が適当になり面倒になって、ただただ日常の会話劇になってしまった件について/孤月煢
求めてはいけない/柳
貴方に歌を/柚木舞
誘う幻、手を引く住処/雪白あくあ
冷房稼働中につき/くぐい
/そら
チョコちゃんの思い出日記/東白
ミヅモ/大江山時雨

全14作品

<結果発表>
1位 ここから抜け出す鍵は/古河聖
2位 «Z»OO/うみねこ
3位 チョコちゃんの思い出日記/東白
   ディザイア・イットセルフ/ジャックパンダ

さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2016.08.13(Sat) 12:00
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