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 電話がきたのは午前三時頃だった。

「おかあさんがね、死んだの」

 だから、かえってきて。ゆいちゃん。



 お通夜は本当にささやかだった。
 近所の集会所を借りて、夏帆と私とお坊さんの三人きりだったから、まるでい
つかのごっこ遊びのようだと思った。パイプ椅子が三脚と簡易机の上のおばさん
の遺影。今度は本当におばさんが死んでしまったけれど。白木の棺とその中の白
い百合が薄暗い蛍光灯の下で異様だった。
 夏帆は今度は泣かなかった。眉間にしわを寄せて、ただ黙っていた。
 私もただ黙っていた。俯けばうなじの傷が引き攣れてまだ痛むような気がした。

 お坊さんはお経だけ読むと、帰っていった。ほかに来る人も無いので大仰な告
別式はしないらしい。今夜この集会所で一晩泊まったら、明日はもう午後から焼
き場だ。
 夏帆は母親の棺の傍らに座って、じっとその顔を見つめたまま動かない。黒い
ワンピースの袖から覗く手は5年前より痩せて骨が浮き出している。かつていつ
でも赤く火照っていた頬も今は青白く、眼窩も心なしか落ち窪んでいるように見
える。
 5年間。この町を出てから夏帆とは一切連絡を取っていなかったけれど、私が
いないこの町で、夏帆はずっとあの薄暗い家でただおばさんのためだけに生きて
いたのだろうか。当たられて、けなされて、それでも?

「由依ちゃん、ご飯食べた?」

 唐突に夏帆が口を開いた。見つめすぎたかと思ったけれど、夏帆はまだ棺の中
を見つめていた。
「来るときの電車でおにぎり食べたからまだお腹空いてないよ」
「そう、よかった。ほんとはちゃんとお料理も頼んで、最後にお母さんと食べら
れたら一番良かったんだけどね」
 お金が足りなくって、と夏帆は苦笑いする。そして息を大きく吸い込んだかと
思うとうつむいたまま流れるように喋りだした。

「葬儀会社の人にね、電話したら30分で家まで来てカタログ見せてくれたの、朝
の5時なのに、よ。慣れてるのね。お通夜だけします、って言っても動じなくっ
てね。お棺選んだらすぐ大きいおじさんたちがやってきてお母さんをちゃんとし
てくれたの。それからお花はね、お母さんの好きだった百合がいいですって。ち
ょっと高くついたけどお母さんに最期にあげるものだからいいよね。ご飯はお母
さんは食べられないけど、お花はお母さんと煙になれるもの。それからね、」
「夏帆」
「それからね、集会所が良いですって言ったらちゃんと鍵借りてきてくれてね、
忍び込んでたあの頃の私たちに見せてあげたいね。でね、」
「夏帆」
「それでね、」

「ねえカホ」

 つい駆け寄って掴んでしまった手首は冷え切っていた。夏帆はゆっくりと顔を
上げた。
 丸い目が揺れる。私の目を見て、棺を振り返って、再びこちらを見た目は潤ん
でいた。
「ねえ、夏帆。ちょっと外に出よう」
 夏帆の手首に力を込める。
「え、でもお通夜だし」
「いいから」
「だめだよ」
 夏帆の声が尖った。
「由依ちゃん、これは遊びじゃなくて、本当のお葬式なんだよ?」
「じゃあ、どうして私なんか呼んだの」
 おばさんの死なんてこれっぽっちも悼めない私なんか。
 私の手をもう片方の手で開くように解くと夏帆は私に背を向けた。
「ごめん由依ちゃん、少し外に出ててよ」

 表は木に囲まれているせいか、湿って少し涼しかった。ベンチに腰掛けて足を
組む。
 黒いストッキングは今朝二本も爪に引っかけて駄目にした。スマートフォンに
表示された「カホ」の文字に初めは驚いて、でも出てしまった。久しぶりに聞く
声はかすれていて、それでいてやはり少し高い女の子らしい声で、けれどまさか
おばさんの訃報だとは思わなかった。
 夏帆のお母さん。
 厳しく古風な人で夏帆がほかの子供と遊ぶのにいい顔をしなかった。特に私は
市外からの転入生だったから、得体の知れない気持ちの悪い子だと思っていたら
しい。夏帆はそれでも私のことが大好きだったし、私も夏帆のことが大好きだっ
た。二人で作ったおそろいの白いスカートをはいて、近所の小さな商店で買った
おそろいの髪留めを付けて。私たちの世界は多分二人だけで完成していたし、一
生このままだと、どうしてか信じて疑わなかった。
 そして、私たちは見つかってしまった。夏帆に呼び出されたあの日、そこには
包丁を持ったおばさんがいた。
 今から考えるとおばさんは心の病気だったのだと思う。
 だからといって許せる訳ではなかった。怒り狂ったあのまなざしと、バケモノ、
と叫ぶ恐ろしい声を、いまだに思い出しては震える。怖くて、怖くて、恐怖のあ
まり私は高校卒業と同時に町を出た。夏帆を置いて。
 かつては確かに夏帆を守りたいと思っていた。ブラウスの隙間から見え隠れす
るあざを心から憎んでいたはずだった。二人でいつか自由になれると思っていた。

 どのくらい外にいればいいのか分からなかったけれど多分もういいな、と感じ
た。私たちはこういうところは感じ方が近いから。戻ってきた私に夏帆は笑った。
合っていたみたいだ。

「謝りたくて、呼んだの」
 白い指が棺から一輪、百合を取り上げた。
「あの日ね、私由依ちゃんと結婚式しようって思ってたの」
 うん、私もだよ。
 夏帆は一歩ずつゆっくりと近づいてくる。
「その前の日にお母さんのお葬式ごっこ、したでしょ?」
「でもお葬式が本物じゃなかったから結婚できなかった」
「お母さんが、ごめんね」

 沈黙が落ちた。なぜこの子が謝っているんだろう。一人ぼっちで苦しんでいた
のは夏帆の方なのに。痛みなんて無いみたいに、私の前ではひたすらに笑って。
心までこんなにボロボロになっても、へたくそに笑って。

「あんな人でもやっぱりお母さんだったからね、認めてほしかったんだけどね」
「でも、もう死んじゃったから」

「由依ちゃん、自由になってよ」

 夏帆は私の両手をつかむと百合を握らせ、その上から自分の手を重ねた。
「結婚はできない、由依ちゃんのこと死ぬほど好きだけど。だってもう、わかっ
たでしょう」

「お母さん一人に勝てない私たちなんだもの」

 私たちは手を重ねたまま泣き続けた。互いを抱きしめることもできずに泣き続
けた。
 喪服の黒だけが、ゆがんだ視界のなかで溶け合って流れて行った。



テーマ「薄墨」

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第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

翡翠の裔

 蟲師アニメ21話のその後を妄想した作品です。独自解釈を含む糞二次創作な
ので、そっと流してやってください。

 鬱蒼とした森の中を、境界を曖昧にさせながら走る一本のけもの道。
 盛夏の焼けるような日差しが木々の隙間から注ぎ、騒がしい蝉の鳴き声が響き
渡っていた。
 踏み固められた黒い土は乾き、そのところどころに岩が露出している。
そんな道中にガラス製の小瓶が一つ、転がっていた。
 誰かが落としていったのだろう。岩に当たり、底にひびが入っている。
 瓶の中には、緑色の塊が封じられていた。
 ひび割れから外に逃れようと不定形の身体を蠢かせている。
 粘菌の類にも見えるそれは、瓶から完全に這い出ると、日差しから逃れるよう
に移動を始めた。
 見た目に合わぬ敏捷さで、あっという間に樹木の根元に空いた洞に滑り込む。
 後には、壊れた空き瓶だけが残された。

  およそ遠しとされしもの
  下等で奇怪
  見慣れた動植物とはまるで違うと思しきもの達
  それら異形の一群を、人は古くから畏れを含み
  いつしか総じて「蟲」と呼んだ
  漆原友紀『蟲師』より

――弟の話をしよう。
 弟と言っても、血は繋がっていない。
 もう何年も前のことだ。猟師をしている父が、冬ごもりを終えてすぐの熊を狩
った。
 その時、近くで泣いている赤子を見つけたのだそうだ。
 父は大層驚いたらしい。多分、不気味にさえ思ったのではないか。
 しかし、母が私を産んでしばらくして他界していたこともあり、父はその赤子
を育てることにしたのだそうだ。
 どこから来たかも分からぬ、名無しの赤子。
 名付けたのは私らしい。まだほんの子供だったから、はっきりとは覚えていな
いのだが。
「この子はワタヒコって名前だよ、だってそう言ってるもん」
 そう主張する私を、父は馬鹿馬鹿しいと笑った。だが、父に他に良い案がある
わけでもない。
 こうして「渉彦」は私の家族になった。
 今も、渉彦は私に手を引かれて夕暮れ時の帰り路を歩いている。
「まったく、あんたもじっとしてないで反抗しなさい」
「無理だよ、姉ちゃん。あいつらの方は人数が多いし」
 もう何度目かのやり取りだ。
 私は足を止めて振り返った。渉彦の顔には、殴られて青黒い痣ができていた。
 もともと私の家は、狩猟を行っていることもあって里の人々との繋がりが弱い。
 ましてや渉彦は得体の知れない拾われっ子で、愛想も悪い。表だった言動はな
くとも、里の人々に煙たがれているのはなんとなく分かる。
 そんな大人たちを見た同年代の子供達から、渉彦は格好の標的にされていた。
 今日は二人で里に下りる用事があり、私が目を離した隙に連れていかれたのだ。
 そうやって散々に虐められていたのに、渉彦の反応は淡泊だった。
 眼窩には、翡翠のように緑がかった瞳の、ガラス玉のように無感情な目玉が、
潤むこともなく収まっている。
「このままじゃ、いつまでもやられっぱなしだよ?」
 里の連中が不気味だと囁くそれも、私には見慣れたものだ。躊躇なくのぞき込
む。
「あいつらだって、殺そうとしてくるわけじゃないよ」
 しかしこいつはピクリとも表情を動かさず、当然のようにそう返してきた。
 まるで自分の身が傷つくことを意に介していないかのような反応。
 私は呆れてしまって、半ば投げやりに言った。
「当たり前でしょ……。もう、次はせめて助けを呼ぶのよ」
 弟はこくり、と頷く。しかし、それが素直な承認の様には思えなかった。
 結局、この生意気な弟には何を言っても無駄なのかもしれない。
 この期に及んで、全く表情を変えない渉彦を見てそう思ってしまう。
 私はため息をひとつ、ついた。


 更に、数年が経った。
 今、家には私一人だ。父は山に狩りに出かけ、渉彦はそれを手伝って同行して
いる。
 渉彦はすくすくと成長し、背が私に追いつく日も近いだろう。
 対称的に、父は最近髪に白いものが混じり始めていた。そして私は、とうに子
供とは言えない年齢になっている。
 もうすぐ……
「そろそろご飯の準備をしなきゃ」
 益体のない物思いを切り上げて、そうつぶやく。
 普段と変わらず、台所に向かおうとした時だった。
「おい、開けろ!」
 突然、家の入口の戸が激しく叩かれ、父の切羽詰まった声が聞こえてきた。
 慌てて扉を開けると、よほど急いでいたのだろう。全身汗だくになった父が立
っていた。
 その背には、ぐったりとした様子の渉彦が背負われていた。
 表情を僅かにしかめ、だらだらと脂汗を流している。
「渉彦!?」
 殴られても表情一つ変えない子なのに。今まで見たことのない程に、弱ってい
た。
「早く医者を呼んで来い!」
 父は渉彦を寝床に寝かせながら、そう命じた。棒立ちだった私は我に返って、
お医者様のいる里に向かって駆け出した。
 夕暮れ時の里は、夕餉を煮炊きする匂いが漂って、どこかのんびりとした雰囲
気で包まれている。
 その中心を走る道を、指先に草履を引っ掛けて駆ける。
 息が荒くなり、乾いたのどから鉄さびのような味が登ってきた。
 里人たちは奇異の視線を向けては来たが、話しかけてはこない。
 ようやく、目的の家にたどり着いた。
 その後、すぐに駆けつけてくれたお医者様が、渉彦の脈や体温を測ったり、眼
球をのぞき込んだりと丁寧に診察をしてくれた。
 そして、父よりも一回り老いた顔に皺を寄せて、首を振る。
「どうですか、先生」
 父が恐る恐る尋ねると、お医者様は重々しく口を開き
「詳しいことは分かりませんが、大分悪いですな。これは。しばらくは持つと思
いますが、少なくとも私にはいかんとも」
 と言って、目を伏せた。
「そんな……」
 茫然としてしまって、それ以上の言葉が出てこない。
 父も口を引き結んで黙りこくっている。
 しばらく、重苦しい静寂の中に渉彦の弱く細い息遣いが響いた。
「痛み止めを処方しましょう。あとは、出来るだけ話しかけてあげるように」
 お医者様が口火を切って、幾ばくかの薬を渡してくれた。
「では、私はこれで。症状が重くなったら、すぐに呼びに来てください」
 薬の使用法を指示して、お医者様は帰っていった。
 残された私たちは、渉彦の身体を拭いてやり、夕食を作った。
「ほら、渉彦。食べられる?」
 お粥を匙に掬い、口元に運ぶ。
 薬が効いたのか、呼吸は比較的穏やかになっていた。むせることもなく食べら
れたようだ。
 それを見届けてから、隣の部屋で自分たちの分を食べ始める。
「俺たちのことは、気にしなくていい」
 突然、父が口を開いた。
「急にどうしたの、父さん」
「できれば、渉彦に俺の後を継いで、この家に居て欲しかったが。それは叶わな
いだろう。だが、お前が残る必要はない」
 有無を言わさぬ様子で、食事を再開しようとする。
「それじゃあ父さんたちはどうするのよ。これから一人で暮らしていくつもり?」
 父は再び手を止めて、
「何とかするさ」
――せっかく、良縁に恵まれたのだからな。
 と呟いた。
 そう、私は近々結納を控えていた。
 相手は里の人だが、他所の家に嫁入りすればそうそう実家の世話をすることも
出来なくなるだろう。
 この家には、老いた父一人が残されることになる。
 しかし碌な土地も持たないこの家を、私一人で支えるなど、どちらにせよ出来
ようがない。
 父はこれで話は終わりだとばかりに、黙々と食事を続けている。
 私が何も言えずに押し黙っていると、誰かが控えめに扉を叩く音がした。
「どちら様ですか?」
 戸の前で尋ねると、おずおずとした声が返ってきた。
「ごめん。夕方、君が医者を呼びに走ってたって噂を聞いたから」
 私の、婚約者の声だ。

「すまない、心配をかけてしまったようだ」
 家に迎え入れた彼に、父はそう言った。
「いえ、もうすぐ家族になる人のことですし」
 彼は恐縮した様子で答えた。
「それで、渉彦君の容態はどうですか?」
「いいとは言えないな。だが、君が心配することはない。それよりも、娘をお願
いします」
 父が頭を下げる。
「そんな、こちらこそ。私も出来るだけの手助けは」
 彼も慌てて返礼した。
「ありがたいことだ。今日は、渉彦に会っていきますか? あれも娘の結婚を喜
んでいましたから」
 そうだったのか。私にはそんな仕草は見せなかった気がするが。彼を紹介した
ときも、これといった反応は見せなかったはずである。
 もっとも、父がそう思っているだけかもしれないが。
「そうですね、ぜひ」
 彼がそう答えたので、二人で渉彦の寝る部屋に入った。
「渉彦、起きてる?」
 僅かに反応する気配がして、続いて体を起こそうと動き始めた。
「渉彦君、無理をしないでいいよ。寝たままで」
 彼が制止すると、諦めたようでおとなしくなる。
「義兄さん」
 弱々しい声が上がった。
「その呼び名は、ちょっと気が早いよ」
 彼は、少し気恥ずかしそうに笑った。
「渉彦、どこか痛いところある?」
「大丈夫だよ、姉さん。随分楽になった。それよか、どうして義兄さんがいるの?

 普段通りの、感情に乏しい目がこちらを見た。なんとなく安心してしまう。
「お医者様を呼んだのを知ったらしくてね。来てくれたんだよ」
「そうなんだ。ありがとう」
 渉彦は彼の方に視線を移す。
「いや、これくらいどうってことないよ」
 呼び名についてはもう指摘しなかった。
「そろそろ帰ろうかな」
 いくつか言葉を交わしてから、彼はそう言った。
「泊まって行かないの?」
 渉彦が尋ねた。確かに、随分夜も更けて、外は真っ暗だ。
「いや、遠慮しとくよ。いろいろと忙しいし。じゃあ、またね」
「うん」
 彼が立ち上がる。
「苦しくなったら呼ぶのよ、薬あげるから」
「分かった」
 私は彼と一緒に部屋を出た。立ち上がろうとする父を制して、家の前の道まで
送っていく。
 家の外に出ると、提灯の明かりを持った彼が尋ねてきた。
「実際のところ、どうなんだ? 渉彦君は」
「かなり、悪いみたい」
 つい、俯いてしまう。
「そうか……。あんまり思い詰めないようにな。お義父さんのこともあるし」
「うん」
 気のない返事をしてしまった。
「元気出してくれよ。普通に話も出来ていたじゃないか」
「うん」
「なあ、もう。そんなに泣かないでくれよ」
「……うん」
 いつの間にか、熱い雫が頬を流れていた。彼は戸惑いながら、私を抱きしめた。
「ごめんなさい。ずっと、一緒だったから」
「ああ、昔から君は弟のことを大切にしてた」
 そう言って、優しく頭を撫でてくれた。けれど、彼の着物に染みを作るほどに
涙はあふれてくる。
「こんなこと言うと、機嫌悪くするかもしれないけど。」
 懐かしむような声が、頭の上から聞こえる。
「最初に渉彦君を見た時は、本当はちょっと怖かった。全然顔が動かなかったか
らさ。けど君に悪く思われたくなくて、黙ってた」
 少し申し訳なさそうな口調が混じっていた。しかし、驚きはしない。
「……知ってたよ。さっきだって、目線があってなかったし、固かった」
 逆に、彼の方が意外そうな声を上げた。
「そんなに分かりやすかったかな」
「うん、すごく」
 しかし、なぜ今そんな話をするのだろうか。
「参ったな。いや、良かったのかも」
 やっと私も落ち着いてきて、しゃくりあげながらも彼の話を聞く。
「ともかく、最初はそんな風に思っていたんだけど。渉彦君を世話している君は
本当に楽しそうだったからさ。いい姉弟だと思って」
「よくわからないよ」
 ただ、私を元気づけようとしているのは分かった。
「ごめん、俺もなんでこんな話しをしだしたか分からなくなった。でも、あのさ、
これからも俺は一緒だから、きっと大丈夫だ」
「……うん、そうだね」
 私は彼からそっと離れた。まだ目は赤くてひどい顔だろうけど、幸い今は真夜
中だ。きっとはっきりとは見えていないだろう。
「じゃあ、また」
 私はそう言って手を振った。彼は地面に置いていた明かりを持って、里の方へ
去っていった。
 その光が見えなくなるまで、待とうと決めた。
 そして、そろそろ家に入ろうかと思った時。
 山の方から、一つの明かりが降りてくるのが見えた。
 私は怖くなって、急いで家の中に入った。
 しかし、暫く経つと戸の外から聞き知らぬ声が聞こえてきた。
「蟲師のギンコと申します。どうか、一晩宿を貸してほしい」

「まさか、こんな所で出会うとはな」
 渉彦が寝かせられている部屋に、一人の男が座っていた。
 この地では珍しい洋装を纏い、白い頭髪と碧眼を持っている。
 先程、ギンコと名乗っていた男だ。
「会いたくなかった」
 渉彦は、にべもなく切り捨てた。
 今、この部屋は二人きりだ。蟲師を名乗ったギンコが、渉彦の治療を申し出た
のだった。
「そう言うなよ」
 ギンコは苦笑いして、煙草をふかしている。
「それで、なぜお前はそれほど成長している。とっくに寿命は終わっているはず
だ」
 一転して、鋭い目つきが渉彦を見据えた。
「僕にも分からない。いつの間にか、僕はこの姿になっていた」
 澱みなく渉彦は答えた。
「確かに通常のヒトタケとは異なるようだな。しかし、お前が人を食う綿吐だと
いう事実は変わらない」
 綿吐――ヒトの胎内で胎児を食らい、本体が産まれると床下などに隠れ、子に成
りすましたヒトタケを宿主のもとに送り込む。そして成長したヒトタケが自らの
種をばら撒く蟲。
 その本体は、緑色のドロドロとした塊だという。
『渉彦』は、それらの一つだ。その容姿は、以前寄生した夫婦に似せたものに過
ぎない。
「お前は人の敵だ。生かしてはおけない」
 緊迫した空気が流れる。
「僕に、種をまく術はない。お前のせいだ」
 渉彦は、かつて自分を蟲師として殺そうとした相手を糾弾した。
「俺のせい?」
「ああ。そうだ。お前が長いこと閉じ込めていたおかげで、種は弱っていた。そ
の上、山奥に落とされたせいで次のヒトも見つからなかった。なんとか近くの雌
熊の胎内に入ったがこのざまだ。僕はおかしくなってしまった」
 そこには、明確な怨嗟が含まれていた。
「僕は熊にはなれなかった。それどころか、元のカタチにすらも。生まれ出た時
からこの姿で、種の残し方も分からない」
 自らの種を残す事。それは、綿吐にとってもっとも大事なことなのに。
 それを阻まれたことに、怒りを感じていた。
「それが本当なら、お前にとっては一番の苦痛だろうな。だが、言っただろう。
どんなことがあろうとも、お前にこれ以上人を食わせるわけにはいかないと」
 しかし、ギンコは断言する。
 どんなに人に似せていても、結局のところ綿吐は人を襲う害蟲だ。その願いを
聞くことなど、出来はしない。
「下手な知恵をつけたな。以前のお前なら、人以外に寄生しようなんざ考えなか
ったはずだ」
 そう、静かに言い放つ。
「確かに僕は失敗した。本当の自分を、忘れてしまった」
 渉彦は悔しそうに述べてから、尋ねた。
「お前は、僕を殺すのか」
「いや。その様子だとどうやら、本当に種を残すことはできないようだからな。
寿命まで生きるといいさ」
 種をばら撒くヒトタケは、成熟すると体表に緑色の染みが現れる。しかし、渉
彦の身体には見当たらない。
「……ああ、そうするよ」
 渉彦は目を閉じた。それを見守っていたギンコが、思い出したように問うた。
「なあ、最後に聞いておきたいんだが、なぜ『ワタヒコ』って名前に拘ったんだ?

 アキという女性のつけた、名前だった。
「……さあな。もう、覚えてもいない」
 渉彦はどうでもいいように、答えた。
 それで、話は終わり。ギンコは渉彦の父親と姉に、自分では治療をできない事
を詫び、早朝には発って行った。

 その後、渉彦は日に日に衰弱していった。そして、姉が祝言を挙げた翌日。
 失踪した。
 すでに立てないほどの状態だったにも関わらず、忽然と姿を消したのだ。
 父親と姉は数日周辺を探し回ったが、見つかることはなかった。
――数か月後、姉が妊娠していると診断された

 昏く、狭いその場所はどろりとした液体に満たされていた。
 その、分厚くなった壁に、非常に小さな球状の塊が付着している。
 いくつもの細胞の集まった胚は、ヒトの一番初めの姿だ。
 それに、伸縮する体で液体内を泳ぎ、近づくものがあった。
 かつてワタヒコと呼ばれていた、綿吐だった。
(死の間際にこうしてもとに戻り、入り込むことが出来た)
 綿吐は思考の中でほくそ笑んだ。
(あの人間に見つかった時は殺されると思ったが、なんとかやりおおせた。われ
われの勝利だ)
 嘘はついていない。あの時の渉彦は本当に種を残す術を失くしていたのだ。
 しかし、こうも思っていた。自らが死滅に直面したとき、本来の姿を取り戻せ
るのではないかと。
 そして、種をまたいで寄生したことも、原因の一つではあっても本質ではない。
 綿吐は、壁の胚に腕を伸ばし、取り込んでいく。
 綿吐が両親に面影の似たヒトタケを作り出せるのは、恐らく宿主の子供を食う
からだ。
 親から子へ受け継がれるものの本質を奪い取り、それに基づいてヒトタケを作
成するのだろう。
(前回は、それに囚われていた。取り込んだはずのものに影響されて、自分自身
を作り変えてしまった。失敗した)
 いくら作り変えたところで、綿吐は人ではない。不完全な身体はその本質を維
持できず、崩壊した。
(今度こそ、完全な綿吐に)
 一つの細胞が溶け落ちて吸収される。
 綿吐はこの子どもの本質的な部分を読み取り……絶望した。
 綿吐の本能が、獲物に致命的な欠陥があることを示していた。
 これでは、ヒトタケを作れない。
(まだ残っているワタヒコのものと混ぜ合わせて……いや、無理だ。間に合わない)
 綿吐には時間がなかった。何しろ一度は死滅しかけているのだ。
 さらに、新たに得たものを馴染ませる時間も必要だった。
(死ぬ、のか)
 すでに体は壊れつつある。あと数分で崩れ去るだろう。
 綿吐はふと、姉の顔を思い出した。世話好きな彼女は、要求しなくても必要な
ものを与えた。おかげで、表情を整える面倒をせずに済んだのだった。
(本当に、都合が良かった。以前寄生した女も、正体を知っても殺さなかった)
 そして、自分を封じた人間の問が浮かぶ。
『なぜ、ワタヒコの名に拘るのか』
(忘れて、しまったな)
 それも、嘘ではなかった。
(細胞一つ一つ、個別に欠損部分を補填すれば、可能性はある、か)
 綿吐は、胚の細胞すべてに腕を伸ばし始めた。


「ねえ、この子の名前、どうしようか」
 とある民家の縁側に、赤子を抱いた母親が座っている。
「ゆっくり考えればいいさ。それより、体は大丈夫か?」
 家の中には、父親が佇んでいた。
「うん。すっかり」
 母親は微笑んで、しかしほんの少しだけ寂しそうな様子だった。
「本当に、この子だけでも無事に生まれてきてくれてよかった」
「ああ、きっと、もう一人が助けてくれたのさ」
 父親が、妻の肩を後ろから抱いた。
「そう、ね。それにしても、この子……」
「どうした?」
 母親は子の顔をじっと見つめてから、首を振った。
「やっぱり気のせいみたい」
 そう言って、笑った。
 赤ん坊の瞳が一瞬、翡翠色の光を反射したような、そんな気がしたのだと。

 終わり



テーマ「翡翠」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

集え、遥かなる山の上

 誰が言ったか、その山は俗に「遥かなる山」とか呼ばれているのである。
 しかし、外から見た限りでは、特に何がすごいこともない、ただ木が繁茂している、普通の山である。
 そんな遥かなる山の中に、今日は二人の男がいたのである。
「ふうー……暑い……」
 この男は、ただ連れてこられただけである。ちなみにこの男は裸眼だ。そして、誰に連れてこられたかといえばそれは、この男の遥か前方を歩いている男に、である。そっちは眼鏡だ。
『おーい! 遅いぞ!』
 暑くて今にもへばってしまいそうな裸眼の男は、遥か前方から降りかかってくるその暢気な声に、ブチギレそうに――なったものの、今しがた横目に見えた看板の文字列があまりにも強烈すぎて、怒気はすぐにどこかへ吹っ飛んでいった。布団のように鮮やかに、吹っ飛んでいった。
 というかこの男、自分がブチギレそうになっていたことなど、刹那の後に忘れてしまっていたのだ。何故かっていえばそれは、やはり横目に見えた、看板の上を踊る単語が強烈だったせいだろう。
 どのくらい強烈だったかといえば、男が歩くことを忘れるくらいには、強烈だったのだろう。男の前方から、眼鏡の男が駆け寄ってきた。
『おい、何そんなところで立ち止まってるんだ?』
「いやさ、あの看板が――」
『お前な、イジボウ工房はもう目の前なんだぜ?』
 超絶きらきらした目で「イジボウ」と眼鏡の男を見て、向き合っている男は盛大に溜息を吐く。異次元の包丁、通称イジボウが欲しいと言って、今しがた目をきらきらさせた男は、今盛大に溜息を吐いた男を引き連れて、遥かなる山を登っているのであった。というのは、世界でただ一人イジボウを作っている職人の工房が、遥かなる山の上にあるからであった。
「いやでも、あの看板、気になるだろ」
『うん?』
 そういって二人が見つめる先には、「異次元の遊園地、この先五メートル」ともこもこした字体で書かれた看板が宙ぶらりんになっていた。
『なっ……あれは、まさか、異次元の遊園地への案内板じゃないか!』
「うん、見れば分かるな」
 瞬間、男は眼鏡の男の平手打ちを頭にモロに食らった。
「痛っ! 何するんだ!」
『ちょっとお前、異次元の遊園地――通称イジユウの凄さを知らないだろ』
「知らないよ」
『聞き捨てならないな! ちょっとこっちに来い!』
「……えっ!?」
 そうして、眼鏡の男は茫然としている裸眼の男の手を引っ掴んで歩き出した。この時点で、眼鏡の男の行動目標は「イジボウの工房へ行く」から「こいつに異次元の遊園地の凄さを理解させる」に変貌したのであった。
 そして、イジユウはすぐに二人の目の前に現れた。
 まず、裸眼の男はその遊園地の入口に付けられた看板に驚愕した。
「おい、看板にイジユウとしか書いてないんだが」
『まあそりゃあ、皆異次元の遊園地の略がイジユウだって知ってるからな。あんな長ったらしい正式名称を書いてやる必要はないのさ』
「皆さんご存知イジユウみたいに言うな! 今日初めて知ったわ、異次元の遊園地なんて!」
『実際、皆さん知ってるんだからしょうがないだろ。君ねえ、無知は罪だぜ』
「シンプルにうざいな」
 言葉でこそうざいとは言ったものの、裸眼の男は眼鏡の男に対して何も感情を抱いてはいない。彼にとっては、この程度のやりとりはもう慣れたものと化していた。まあ、この程度には慣れておかないと色々もたない、ということだ。
「それよりもさあ、看板の、イジユウの字の上の部分にさ」
『おう?』
「小さく、異次元のユデタマゴ同好会プレゼンツって書いてあるよな」
『そりゃあ、そうだろうな』
「え?」
『異次元の遊園地ってのは、異次元のユデタマゴ同好会――通称イジユデ同好会が、異次元のニワトリと異次元のタマゴの凄さを世に伝えるために造った遊園地だからな』
「な、何だって……って、肝心の異次元のユデタマゴの宣伝はしないのか」
『それは、別に異次元のユデタマゴ博物館ってのがあって、そっちでやってるな』
 ここまで聞いて、裸眼の男は軽く頭痛がする思いだった。というか実際、頭の中がこんがらがっていて、頭は痛かった。
 裸眼の男の頭が痛んでいる間に、イジユウの受付ゲートから一人のお姉さんが二人の男の元へ駆け寄ってきていた。裸眼の男はふと目を上げた。駆けてきているお姉さんは、一瞬不思議そうな表情を浮かべた後、一気に顔面蒼白になっていった様子が、裸眼の男には見て取れた。
 お姉さんは二人の男の元へたどり着くと、眼鏡の男に視線を投げながら、こう叫んだ。
「ぶ、ブチョウ!?」
 男の頭にまた一つ、疑問符が生まれる。隣に立つこの眼鏡の男を、部長と呼んだか。
『やあ、久しぶりだね』
 澄ました顔で応対する眼鏡の男を見て、ますます訳が分からなくなっていく裸眼の男。
「え、部長って何さ」
『知らない』
「……えっ!?」
『多分、イジユデ同好会の部長さんと勘違いしてるんだと思う』
「はあ、なるほど」
『ただあの人、年齢が七十超えてるから、間違える要素が無い、気がする』
 またも裸眼の男は頭痛に襲われる。さっきから何なんだという思いからである。
『だがまあ、この状況は利用できるぞ。お前も、今日は俺のことを部長と呼べ』
「は、はあ……」
 部長と呼べ、と言った時の眼鏡の男の目があまりにも真剣なものであるように見えたためか、裸眼の男はとりあえずといった様子で頷いた。
『あと、ジャックパンダにも頼んでくらあ。今日は俺のことを部長と呼べ、ってな』
「……えっと、その人って作者さんだよな? お前のそんな頼み、聞いてくれるのか?」
『大丈夫だ。あいつはいい女だからな』
「は? ジャックパンダさんは男だろ?」
『男だけど、いい女なんだよ……!』
「訳が分からん」
 という会話をしている間に、お姉さんは部長の方に視線を合わせていた。
「本当に直したな、ジャックパンダさん」
『だろ、やっぱりあいつはいい女ってことだな……!』
「ごめんそれはちょっと意味が分からない」
 お姉さんは、部長に向けて言葉を投げる。
「ええと、本日はどのような御用で?」
『えっと、今日はこの人にイジユウの中を案内してあげたいんだ』
 その言葉を聞いた瞬間、お姉さんの表情がぱあっと明るくなる。
「あら、そうでしたか。でしたら、すぐにでもお入りください」
『そうか、ありがとう。ええと、入園料はいくらだったかな?』
「いえいえ、部長からお代をいただくなんて、滅相もない」
『いや、それは悪――』
「お二人合わせて十万円になります」
『お、おう』
 食い気味だったな、と男は思った。まだ部長が台詞を言い終わらない内に額を言って来たな、今。しかも、その金額にびっくりだ。どこかの夢の国もびっくりするだろう。
 特に疑問をもつ様子もなく部長が十万円を支払い、二人は何だかんだでイジユウの中へ入った。そこで男は部長に疑問をぶつける。
「なあ、ここ高くない?」
『そりゃまあ、異次元の遊園地だからな。異次元だったら高くなるのは当たり前だろ』
「それ、騙されてるんじゃ……?」
『阿呆、イジユデ同好会はそんな悪徳商売しねえよっ!』
 突然部長が叫び出す。
『しねえんっ……だよおっ……!』
「あ、ああ、俺が悪かったって。済まない、変なこと言った――」
『ぶえっくしょい! え、今何か言った?』
 急に叫び出した部長に訳が分からないながらも謝ろうとして、顔を見事に露骨にひきつらせた男。
 そして男は、何気なく園内を見回し、本日何度目か分からない驚きを覚えた。何故なら、遊園地というにはあまりにもがらあんとした園内の様子だったからだ。
 アトラクションとして確認できるのは、ジェットコースターらしきもの、メリーゴーランドらしきもの、観覧車らしきもの、その三つのみであった。そこには食べ物が売っている様子さえなく、それ故か人もまばらだった。
「え、えっと、アトラクションが三つしかないですが……」
『ああ、そりゃあ、この遊園地は異次元のニワトリと異次元のタマゴの宣伝のための遊園地だからな。そのための最低限の設備しか置いてないのさ』
 そのせいで人が来てないんじゃあ宣伝も何もあったもんじゃないだろう、と思ったが、その言葉はそっと胸に仕舞った男であった。きっと異次元の遊園地の「異次元」とは、遊園地なのに異次元なレベルでアトラクションが少ないってことだな、とか自己解釈さえ始めていた男であった。
『とりあえず、まずはジェットコースターからだな』
「お、おう?」
 もちろん行列なんて出来ているわけがないので、すぐ乗れた。二人は一番前の席に乗りこんだ。後ろには、一人お爺ちゃんがいるのみだった。
 コースターが、音を立てて坂を上っていく。普通のジェットコースターじゃないか、と男は思った。だが、コースターが坂のてっぺんまで上って、降り始めようという、正にその瞬間。
「こっこおおおおおおおおお!」
 二人の後ろに乗っていたお爺ちゃんがそんな叫び声を上げたのだった。
 男は唖然として、降り始めた時に「わあ」とか「きゃあ」とか叫ぶことを忘れた。それほどまでにお爺ちゃんの叫び声が頭を勢いよくと殴りつけてきたのだ。ちなみに、部長も「こっこおお」と叫んでいたのには男は気付かなかった。もちろん部長の声は、お爺ちゃんほど大声ではなかった。
 ジェットコースターから二人が降りた、そのすぐあと。
「え、何、あの、こっこおとかいう叫び声」
 未だ混乱中という様子で、男は部長に尋ねた。
『ああ、あれは、異次元のニワトリの鳴き声だ。イジユウのコースターでは、叫ぶときには必ずこっこおと叫ぶのが慣習なんだぜ?』
「何だその慣習。ちょっと怖いわ」
『まあ確かに、あのお爺ちゃんの叫び方は尊敬に値するレベルだったな……。あれこそ、真のイジユデ同好会の同志だぜ!』
「へ、へえ……?」
『とか言ってる間に、着いたぞ。メリーゴーランドだ』
「あ、ああ……ああ?」
 男は、そのアトラクションを見て、開いた口が一分くらい塞がらなかった。だって、普通、メリーゴーランドといって想像するのは、プラスチックの煌びやかな馬がいくつもあって、それに乗ってぐるぐる回るものだろうからだ。それに対して、ここは――。
「何でニワトリのメリーゴーランドなんだよっ!」
『阿呆か、あれが異次元のニワトリの尊き御姿じゃねえか!』
「そんなもんどこで分かるって――」
『見な』
 そういって部長は、ニワトリの頭の上の部分を指す。
『とさかが、虹色と金色が混ざったような色をしているだろう?』
「え?」
 男は改めてまじまじと並んでいるニワトリのとさかの部分を見てみる。確かに、それは独特な色をしていたが、どんな色か、までは理解できなかった。いやそもそも、虹色と金色が混ざったような色ってどんな色だ、とさえ思った。
『あのとさかが、異次元のニワトリの目印さ。乗っていくか?』
「いや、何か、いいや」
 この年にもなってメリーゴーランドは、と思ってのことだったが。
『そうか。俺は乗ってくぜ』
「……え?」
 部長は迷いなくずかずかとニワトリに跨り、こっこお、こっこお、こおおこおおとリズミカルに叫びながらぐるぐるその場を三周して戻ってきた。
『ふう、楽しかったぜ。やっぱ、異次元のニワトリの背中から眺める景色は最高だな』
「……そうか、そりゃあよかったな」
 もう何も気にしないことにした男は、さっさか歩いていく。最後のアトラクションである観覧車は、でかでかとイジユウの敷地にそびえていたので、男でも場所がすぐに分かった。いやそもそも、三つしかアトラクションのない遊園地なんて、簡単にそれぞれのアトラクションの位置が分かりそうなものではあるが、それはともかく。
「さて、観覧車なんだが……何だあれ?」
 到着するなり、男は部長に質問を投げつけた。その観覧車が、いわゆる卵型の物体をそこかしこにぶら下げていたからだ。
『この観覧車のゴンドラは、異次元のタマゴをモチーフにしているんだ。形があんな卵型なのは、それが理由さ』
「そうか」
 だんだんこの遊園地について分かってきた気がしなくもない男はさっさとこの遊園地から出ようと、もともとこの遊園地のファンだった部長は、うきうきした気分で、それぞれ違う思いを胸に、スタッフの誘導に従ってゴンドラの中に乗り込む。
 その瞬間、男は絶句した。
 ゴンドラの中の、椅子やら壁やら窓のサッシやらが、おかしな色で塗り固められていたからである。その男の様子を、部長はにこにこしながら眺めていた。普段見慣れない色が視界一杯に入ってきたせいか、男は少し気持ち悪くなってきた。
『どうだ、虹色と銀色が混ざったような色で塗り固められた内装は。美しいだろう?』
 微塵も美しいなどとは思わなかった男だったが、視線で部長に話の先を促す。
『この色は、異次元のタマゴの中身の色なんだ。異次元のタマゴには、普通の卵でいうところの黄身と白身の区別みたいなものはなくてね。異次元のタマゴの中身は、この色一色なのさ』
「えっ、中身が虹色と銀色……?」
 とさかが虹色と金色が混ざったような色で、中身が虹色と銀色が混ざったような色で。異次元のニワトリというのは、随分ゴージャスな雰囲気の色遣いをしているのだなあと、男は思った。ただし、実際にそんな卵を目にしたら、食欲が湧くかは正直微妙であった。
『お前、何ひきつった顔してるんだ』
「えっ、いやあ……すごい色使いなんだなって思って」
『おっ、そうか、分かってくれるか!』
「えっ、いや別にそう言うわけでは」
 男の言葉には耳を貸さず、部長は両手で男の左手を握ると、ぶんぶんと上下に激しく揺らした。
『おめでとう、この色の良さが分かる君は、我々イジユデ同好会の同志だ!』
「えっと……」
『同志になった祝いに一つ、いきますか』
「え?」
 部長が、大きく息を吸う。そして限界まで息を吸ったところで息を止め、ゴンドラの窓に向かって、叫んだ。
『こっこおおおおおおおおお!』
 あまりの光景に男が絶句していると、部長が視線を男に一瞬走らせた。
『何やってんの、お前もやらないと!』
「えっ!?」
『当たり前でしょ、君が同志になった祝いなんだから』
 同志になった覚えなんて、これっぽっちもないんだけどなあと思いながら。それでも、こんな日々も何かいいなと思いながら。
『さあ、いくぞ!』
「はいはい」
 二人分の声が、そのゴンドラの中で木霊した。

   ×   ×   ×

「見込みある若造、ですか?」
 イジユウの受付ゲートで、受付のお姉さんと一人のお爺ちゃんが会話をしている。彼は、さっき部長たちがジェットコースターに乗っていた時、その後ろで思いっきり叫んでいた、正にその人である。
「ああ、あの若造は見込みがある。イジユウのことも、よく知っていたようじゃ」
「そう、ですか……」
「だから、というわけではないんじゃが……あの若造らは、きっとこの後イジボウ工房へ向かうじゃろう」
「まあ、遥かなる山に来たってことは、そうでしょうね」
「工房に取り次いでくれ。手厚く迎えよ、とな」
「……!」
 受付のお姉さんは、絶句した。彼女の目の前にいる人物が、これほどまでに他人を評価し、あまつさえ工房の人たちに「来客を手厚く迎えよ」などと頼むのは、なかなかあることではない。つまりは。
「それほどまでに、見込みがある、ということですか」
 眼鏡に右手を添えながら、受付のお姉さんはお爺ちゃんに問う。その問いに、お爺ちゃんは頷きのみを返した。
「分かり……ました」
「ああ、頼んだぞ」
 ふぉっふぉっふぉ、といかにもな笑い声を上げながら、お爺ちゃんはその場を去ってゆく。受付のお姉さんは、小さくなってゆくその背中に小さく語りかけた。
「一体何を考えているのですか……会長」



テーマ「イジタマの中身の色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

春の夜

 また春が来てしまった。緑が芽吹き、匂い立つ春が。今にも崩れてしまいそうな石橋の上、でぼうっとそんなことを思う。きらきらと輝く水面を眺めていると、世界にはまるで日差しが降り注ぐ明るい昼しか存在していないように思えて、笑ってしまう。私の世界は、白井と出会ったあの日からずっと夜のままなのに。
「こんなところにいたのか松葉、探してたんだぞ」
 後ろから突然声をかけられて、はっと我に返る。振り返るとそこには祐介が呆れた顔をして立っていた。
「十四時に待ち合わせのはずだったろう、なのにいつまで経っても来ないから、またどっかで道草食ってるんだと思って」
 ぼやくような口調で祐介が言う。時計を見ると、長針は優に頂点を過ぎ去っていた。
「ごめん、こんな時間だとは思ってなかったの。少し早く着きそうだったから時間を潰すつもりだったんだけど、思ったより時間が経っていたみたい」
「まあいいさ、お前がそうなのはいつものことだしいい加減俺も慣れたよ。早く行こうぜ。映画、始まっちゃうよ」
 祐介は優しそうに笑いながら、振り返って歩き出す。栗色のゆるくパーマのかかった髪は、白井のそれとは似ても似つかない。祐介は、白井とはまるで正反対の男だ。日焼け止めでも塗っているのか、肌は病的に白く、服もおしゃれなものを上手に着こなしている。
 私が祐介とつきあい始めてから、もう四ヶ月が経つ。彼は白井のことを知らない。私が白井に身も世もなく恋をし、身を窶したことも、私がその恋を永遠に失ったことも、もちろん知らない。
 私が白井と出会ったのは二年前の春だ。彼は名前とは裏腹に、真っ黒な男だった。すりたての墨のような黒髪に、よく焼けた小麦色の肌をしていて、飲み込まれるような黒さの服でいつも全身を包み込んでいた。私が今でも夜に縛り付けられているのは、きっと彼が、黒々とした彼の姿が、あまりにも夜に似ていたからだろう。最後に彼と会ったあの日、彼は月明かりの下、若草が萌える河川敷で一人、何よりも濃い闇を生み出していた。私にとって彼は春の夜の象徴であり、あの風景は楔となって私を春に縛り付けている。
 
 映画はひどく退屈なラブロマンスだった。私と祐介は基本的に趣味が合わない。以前も彼が好きだというバンドのライブに一緒に行ったのだけれど、私にはただヒステリックに騒音をまき散らしているようにしか聞こえず辟易してしまった。
「面白かったね、ラストシーンで思わず泣いちゃったよ、俺」
 笑ってしまいそうになるほど陳腐な感想を述べる祐介。適当に相槌をうちながら、私はもう帰りのことについて考えていた。できれば夜になる前には家に帰ってしまいたかった。春の夜に白井以外の男と二人でいるのは、酷く背徳的なことのような気がしたのだ。夕暮れの並木道を退屈そうな顔をして歩く。私の足どりが重たくなるのに気づいた祐介が不機嫌そうな顔をする。
「また帰りたそうな顔してる。そんなに退屈なの?」
「ごめん、今日はなんか疲れちゃったし解散にしない? 明日も早いし、帰って休みたいなあって」
 彼に嘘を吐くのは何度目だろう。背徳感なんてものを気にしながら、私は誠実とはほど遠い場所にいる。今にも泣き出しそうな気配を漂わせながら祐介が口を開く。
「最近おかしいよ、松葉。さっきだって俺の話、全然聞いてなかったろ。こうやって遊んでてもずっと上の空だし、すぐに家に帰ろうとするし。何か俺に隠してるんじゃないのか――」
 また始まった、彼の悪い癖だ。自分の思う通り行かなくなると、すぐに癇癪を起こして問い詰めてくる。私は何も答えずに歩き続ける。きっと答えられないし、応えられないから。
「何かあるんならはっきり言ってくれよ。それともお前、まさか、浮気なんてしてるんじゃないだろうな」
「浮気? まさかそんなはずないじゃない」   
 思わず振り返って、声を荒げて反論してしまう。ある意味浮気より残酷かもしれない、と密かに思う。彼が白井のことを知ったらどう思うだろうか。泣き出すだろうか。狂ったように暴れ出すだろうか。泣いてしまえばいいのだ、こんな奴。私は別に祐介が嫌いじゃなかった。ただ好きでもない、それだけの話だ。私と彼ではこれ以上先には進めないだろう。行き止まりだ。私はあの夜から抜け出せないのだから。
「じゃあなんなんだよ、最近の態度の変わり様は。どう説明できるんだよ」
 それは春のせいだ、なんてことはとても言えなかった。これは私の問題であって、彼には関係のないことだ。ただ彼が気にしているのは、その関係のないことのように思われた。
「私はいつも通りよ、あなたが気にしすぎなんじゃないの。つきあいが長くなれば、そりゃあ態度も少しは変わってくるものじゃない」
「そりゃそうかもしれないけどさ。そういうことじゃなくて、なんかもっと、根本的な何かが違ってる気がするんだよ」
 心がざらりとした。胸の奥深くを透かし見られたような気がして、とっさに口走ってしまった。
「わからない、私にはそんなつもりはなかったもの。もしそう感じるんだとしたら、きっと私たち、もう――」
 気づいたときにはもう遅かった。祐介の顔色がみるみる変わっていく。初めはりんごのように真っ赤に、そして徐々におしろいを塗ったみたいに真っ白に。
 私は立ち尽くす祐介に背を向け、逃げ出すかのように早足で歩き出した。心がどんどんざらついていく。彼はきっと追いかけてこないだろう。臆病者なのだ、あの男は。そんなところまで白井とは違うんだな、といらだちを覚える。何もかもが白井とは違う男。重なる部分がほとんどないからこそ、彼は不在者の輪郭をよりはっきりと意識させてしまう。嘘みたいな色の夕暮れの中をずんずん進みながら、頭の中で二人の男を見比べてみる。真っ黒な白井。真っ白な祐介。寡黙な白井。饒舌な祐介。決して私を愛さなかった白井。決して私に愛されなかった祐介。二人の間で似通っていることは、私がいなくても生きていけるだろうということだけだった。
 
 いつの間にか頭の中は白井のことでいっぱいになっていた。私は白井の本当の名前すら知らない。ただ彼がそう名乗ったからそう呼んでいただけだ。彼と会えるのは夜中の河川敷だけだった。初めて彼を見つけたあの夜から、私は彼に惹かれていた。二年も前の話だ。私はまだ若く、未熟で、ひどく不機嫌な心を持っていた。だからこそ、退屈な日々を打ち壊してくれそうな存在に溺れていたのかもしれない。毎晩のように家を抜け出し、夜の河原へと駆けていく。真っ暗な闇夜の中で、特に黒く歪んで見える白井の姿を探し出し、他愛ないことを話した。白井は自分から口を開くことは少なかったが、じっと私の話を聞いてくれた。彼がどこに住んでいるのか、こんな夜中に 河川敷で毎晩何をしているのか、私は何も知らなかった。それでもよかった。私は溺れていたかったのだ、幸せな非日常に。直視するのはあまりに眩しすぎる現実から目を逸らして、春の夜に深く沈んでいくのが心地よかった。
 今でも最後に彼と会った日のことをはっきりと思い出せる。ほんの少しだけ欠けた月の下で、彼はいつものように淀んだ黒さでそこにいた。萌える若草の間を抜けた春風が、私たちに覆い被さる。言うべきではなかった。好き、だなんて陳腐な言葉を。聞くべきではなかった。ありがとう、だなんて残酷な返事を。泣きそうなくらい月が綺麗だったので、私はきっと何か勘違いをしてしまったのだろう。ただ溺れていられればそれでよかったのに、春の夜の深淵に手を伸ばしてしまった。届きやしないと、わかっていたはずなのに。
 本当はあの日、未熟な私の春は小さな絶望と共に終わるべきだったのだろう。それなのに私は、絶望から逃げ出してしまった。怖かったのだ。エンドロールが流れ始めてしまうのが。春の夜を終わらせたくない一心で、必死でその場から逃げ出した。卑怯者だ、好きな漫画の最終巻だけ読まなければ、いつまでも物語は続いていくと思っていたのだ。ハッピーエンドを望むあまり、それ以外のエンディングを放棄してしまった。その罰が今の私だ。私は永遠にあの夜に囚われている。再開なんて選択肢はない。もう二度と白井が春の河原に現れることはなかった。

 ふと我に返ると、知らない住宅街を歩いていた。祐介の姿はどこにもない。もう二度と彼と会うこともないかもしれない。後悔はなかった。我ながら酷い話だ。祐介は結局弄ばれただけだった。傷を負った女が、傷をふさぐのに躍起になって、向けられた好意を利用したのだ。自分のことでなければ、どれだけ最低な女なんだと罵っていたことだろう。淡く春の夕闇が漂う街で、ごめんね、なんて独り言ちる。卑怯者だ。結局私はまた逃げ出しただけ。きっとこれから先も、私は色んな人と出会うし、色んな人と並んで歩くだろう。そのたびに私はあの夜を思い出す。絶望的な罰だ。詰まるところ、どこまで進んでも私はあの日に引き戻されてしまう。続きの頁のないあの春の 夜に。
 なにはともあれ家に帰る必要があった。どっぷりと日が暮れゆく街を一人歩く。ぽつりぽつりと家の窓から明かりが溢れ始めていた。元々やってきた方向へ引き返していくと、見覚えのある道にようやく戻ってくることができた。やっと家に帰れそうだ、と安堵して歩き出すと、目の前に不意に男の影が現れる。それがもう二度と会うことはないだろうと覚悟したばかりの祐介だと気づくまでには、少し時間がかかった。
「やっとみつけた。どんどん進んで行っちゃうもんだから見失っちゃってさ」
 いつもと同じ優しそうな笑顔で祐介は言う。心なしか瞳が潤んでいるように見えた。
「あのさ、さっきのは俺が悪かったよ。ごめん、考えなしに酷いこと言って」
 はにかむように祐介が言う。私はどうしたらいいのかわからなくなって、泣き出してしまった。なにが悲しかったのか。それともなにがうれしかったのか。私にはわからなかった。
「泣くことないだろ、ほら、ハンカチ」
「ごめん、ありがとう」
 声にならない声で返事をしながら、若草色のハンカチを受け取る、顔に当てるとそれは春の匂いがした。あの春の夜を思い出す。その罰ですら、私の罪なのではないか。罰を言い訳にして、過去に依存し、心地よい停滞を貪る罪。私はきっとエンドロールに縋り付いていただけなのだ。私にもきっと祐介を愛することができる。白井を愛したのと同じように。春の夜の空を見上げると、ほんの少しだけ欠けた月が、泣きそうなほど綺麗な顔で佇んでいた。



テーマ「若草色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00

ツユクサの約束

 あの時もちょうど、こんな空の色をしていた。夕暮れが去った後、夜がやってくるまでのほんの一瞬だけ現れる、明るいけれどもどこか靄がかかったような薄青色。
 宙に向かって覚えたての煙草をくゆらせながら、僕はネクタイを緩めた。盆の日差しをたっぷり蓄えた喪服たちはその程度で大人しくなってはくれなかったけれども、胸元にゆるりと風が流れ込んできた。六年前のあの日よりも、今日はずっと過ごしやすい。
 今日はタマの七回忌だった。マンションのお隣さんだった彼女はなんとも表情の乏しい少女で、喜怒哀楽表現の激しかった僕と足して二で割れば丁度いいのに、と親たちはよく言っていた。正反対故か馬の合った僕たちはよく一緒に遊んでいたが、タマは当時の僕にはよくわからない難しい名前の病気を患って、入退院を繰り返したのちにたった十四歳で居なくなってしまった。

亡くなる前日、タマはお見舞いに来た僕を散歩に連れ出した。陽炎が立ち上るアスファルトの上を、病院の外壁が途切れるところまで並んで歩く間、終始しゃべり倒す俺に対してタマはこくり、こくりと相槌を打つだけだった。いつもそんな調子だったから気にもとめなかったけれども。
『見て、フジマル』
 ほんの百メートルほどの距離をゆっくり時間をかけてのろのろ歩き、それでも遂に病院の端まで来てしまったとき、タマがしゃがみ込んで僕を誘った。彼女の足下には、うなだれた花が一輪。
 空の色と同じだね、と僕が言った。もう夜が来るね、と見上げてタマが返した。
『この花ね、ツユクサっていうの。知ってる?』
『ううん、初めて聞いた』
 彼女はその小さな手で、小さな小さな花を摘み取ると僕に差し出した。ツユクサは夏のけだるげな風に揺られて、僕の手の中で小さく震えた。
『それ、あげる』
 真っ白なワンピースをはためかせて立ち上がったタマは、少しだけ口の端をゆがめて僕に笑いかけた。テレビでお笑い芸人がどんなに面白いことを言っても無表情で手をたたくだけの彼女が笑うなんて珍しすぎて、思わずどうしたのと尋ねた。
『タマ、笑ってる。変だよ』
『私だって笑うよ。ばーか』
 たちまちいつもの仏頂面に戻り、そろそろ戻らなきゃ、とタマは踵を返した。
『じゃあね、また明日』
『大事にしなくていいから』
『え?』
『その花、大事にしなくていいから。じゃあね、フジマル』
 タマはそう言って、振り返らずに病院に戻っていった。
 その日の晩に彼女の容態は急変し、次の日まで保たなかったのだという。夜が明けて僕がその話を聞いた頃には、ツユクサは既に萎れてしまっていた。

 そのときの花は、押し花のしおりにして財布に入れてある。我ながら女々しいとは思ったが、タマとの最期の思い出だからとっておきたかった。
『大事にしなくていいから』
 どうしてタマがあんなことを言ったのか、聞きそびれてしまった。大切にする間もなく萎れてしまったこの花は、どことなくタマに似ていたような気がするけれども。
「フジマル」
 ふと誰かに名前を呼ばれた気がして振り返ったけれども、背後にはアスファルトの路面が延々と続いているだけだ。どこか懐かしいような、それでいて泣きたくなるような、そんな声だ。
「ふーじまる、こっちこっち」
 今度は正面から。バッと目線を戻すと、そこにはツユクサのような薄青色のワンピースから真っ白な手足をニョッキリと出した、小さな女の子が立っていた。六年間忘れられなかった、何度も何度も何度も何度も会いたいと願って会えなかったその少女は、昔と変わらないぷっくりと膨らんだ唇を開いた。
「おひさしぶりです、珠(たま)緒(お)です」
「……タマ」
 紛れもなくタマだ。珠緒というのは彼女の本名で、顔がまん丸で真っ白で、白玉みたいだからタマと呼んでいた。
 しかしありえない。タマは死んだんだ。六年前の今日、確かに息を引き取った。僕は葬式で棺桶の中に花を添えたし、骨になったタマを拾って壺に入れた。なのにどうして、六年前と同じ姿で、どうしてここに。
 思わず手を伸ばして、少女の頬をつねった。肌はなめらかで心地よく、ほっぺたを引っ張ると餅のように伸びた。触れる。あの時のタマと同じ感触だ。続いて自分の頬も思いっきりつねる。痛い。夢じゃない。
「大丈夫、ちゃんと死んでるよ」
 僕の胸中を見透かしたかのように、ニコリともせず彼女は言った。
「今日、私の七周年だったでしょ?」
「七回忌だろ」
「そう、それそれ。だからひさしぶりにフジマルと会いたいなって思って」
「……なんだよ、それ」
 俺がどれだけ会いたいと願っても、一度だって会いに来なかったくせに。
 タマは僕を見上げて、おっきくなったね、と呟いた。当時はほとんど身長差のなかった僕たちだが、今ではタマの頭は僕の肩にも届かない。六年前から時間が止まったままなのだ。
「そうだ、おじさんとおばさんにも知らせなきゃ。多分まだ家で片付けしてるだろうから」
「パパとママ、元気?」
「ああ、元気だよ。さっきは『あの子ったらちゃっかりお盆の初日に亡くなったから、いろいろと纏めてできて楽だわあ』なんて言ってた」
「あの人たちらしいや」
 タマはぼそっと呟いた。
手を引いてタマの家まで連れて行こうとすると、ぺちっと可愛らしい音を立てて僕の手をたたかれた。ふるふると首を振って、か細い声で言う。
「行けないの」
「どうして」
「私が会いに来たのは、フジマルだから」
 彼女のワンピースが空とひとつになって、白く浮かび上がる顔が本当に幽霊みたいだなあ、とぼんやり思った。

 ちょっと話そうか。そう言って彼女は、よっこいしょとかけ声をしながら、土や草がつくのも気にとめず道ばたに腰掛けた。釣られて僕も腰を下ろす。お盆特有の生暖かく気だるい空気が纏った青臭い草の香りに、思わず顔をしかめた。
「どうだった? 私の居ない六年間は」
「そういう言い方、やめろよ」
 思わずきつい口調になると、タマは素直にごめんと頭を下げた。同い年だったはずなのに、自分より一回りも二回りも年下の女の子に頭を下げさせているこの光景はなんだか胸がズキズキする。
「僕は……寂しかったよ、タマが居なくなって。タマほど気の合う友達なんてできなかったし」
「あ、四つ葉のクローバー」
「おい、話聞けよ」
 自分から聞いておきながらさほど興味はなかったのか、タマはぷちんとクローバーを摘み取り、そして何故か四枚ある葉のうちひとつを取ってしまった。
「四って、死を連想させるから嫌だと思わない?」
 そう言って、無理矢理三つ葉にしたクローバーをぽいっと投げ捨てた。タマのその発想が嫌だと思ったけれども、何も言わなかった。するとタマは僕の眉間を、親指でぐいっと押さえつけてきた。
「眉間にしわ。フジマルはすぐ顔に出るね」
「タマが顔に出なさすぎるだけだから」
「うん、ごめん」
「別に、謝られるようなことじゃないから。……タマはさ、何してたの? この六年間」
「そうだね……ずっとふわふわ、かな」
「ふわふわ?」
 タマは立ち上がって、僕の周りをゆらゆらと揺れながら歩いた。そういえば最期にあった日は真っ白なワンピースを着ていたし、タマはこんなワンピースを持っていただろうか。ひらひらはためく布には草のかけらも土くずもついていない。僕は自分のおしりをぱんぱんとはたいて立ち上がった。
「こうやってね、フジマルの周りをつかず離れず、ずーっと見てたの」
「……なんで?」
「なんでだろうね。トイレの中まで丸見えだったよ」
「嘘だろ?」
「嘘だよ、ばーか」
 そう言って彼女は鼻をふんと鳴らした。僕はその白いおでこにデコピンをしてやったけれども、ちっとも赤くなんかならなかった。
「なあ、タマ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「……なんのこと?」
「おまえが大して面白くもない冗談を言うときは、言いたくても言えないことがあるときって決まってるんだよ」
「別に、そういうんじゃないけど」
「幼馴染み舐めんな、六年ぶりだからわからないとでも思ったか」
 タマはしばらくの間何も言わなかった。日は既に隠れていたけれども、夏の暑さはしつこく僕にまとわりついて、僕の首筋にいくつもの滝を作った。タマは汗一つ書かず眉一つ動かさず、僕の顎から落ちた汗が草の上で砕けるのをじっと眺めていた。
「ねえ、フジマル」
「ん?」
「私が何で今更フジマルの前に現れたか、わかる?」
 タマはそう言って、僕の尻ポケットから財布をスッと抜き出して、しおりを取り出した。
「大事にしなくていいって言ったのに」
「大事にするに決まってるだろ!」
 タマから最期にもらった思い出なのに。こんなに小さくても、萎れていても、タマを思い出す縁だったのに。捨てられる訳なんてないのに。
 半ばひったくるようにしおりを取り返し胸ポケットに入れると、タマは返してと言いながら再び奪おうとしてきた。返しても何もこれは僕のだ。
「タマが僕にくれたんじゃないか! だから大事にしてたのに」
「大事にしちゃだめなの!」
 ビクッとして一歩後ずさると、僕の足下で蛙が抗議をするように一声あげて跳ねていった。タマが声を荒らげるのを、初めて聞いたかもしれない。肩で息をしている彼女の唇は、わなわなと震えていた。
「フジマルのことだから、どうせツユクサのことなんて何にも調べてないんでしょう」
「……どういうこと?」
「忘れて欲しかったの」
 タマはうつむいて僕の胸を力なくたたいた。緩く握ったこぶしは本当に小さくて、とすんと軽い音を立てて滑り落ちていった。
「ツユクサはね、昔染料として使われていたの。きれいな青が出るからね。でもツユクサを使って染めた着物はすぐ水で色落ちしちゃうから、心移りや儚さを表すんだって。だから、だから……私のことなんてさっさと忘れて、私との思い出なんてさっさと捨ててって意味だったの!」
「んなことわかるわけないだろ! 中学生だったんだぞ!」
「それはフジマルが馬鹿だからでしょ!」
 とすん、とすんとたたき続けるタマの薄い肩が小さく震えているのが痛々しかった。タマを右腕で抱き寄せると、片腕で身体全体をすっぽりと抱えられるほど小柄で、驚くほどひんやりとしていた。
「ごめん」
「……言えなかったの」
「うん」
「本当は覚えていて欲しかったの」
「うん」
「でも、忘れられなきゃ駄目なの」
「なんで?」
「そうしなきゃ、フジマルは前に進めないでしょ?」
 空いた左腕で頭を撫でると、タマは盛大に僕のワイシャツで鼻をかんだ。派手な音がした割に、シャツがしめったり粘液まみれになる感触はなかった。それがいやに腹が立った。
「毎年命日にはお墓参りに来るし、捨てて欲しかったツユクサは大事に持ってくれちゃってるし、しょっちゅう私の夢見て泣いてるし」
「待って、最後のはしてないんだけど」
「ほんとに?」
「……たまにだけだから」
 タマは僕を恨めしげににらみつけて、唇だけでばーかと言った。そっと指で涙をすくい上げると、また新たな大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「私が、どんな思いで」
「うん」
「あの日、フジマルに言ったか……っ」
「うん」
「死んだ人のことなんか、いつまでも引きずらないで。私のことなんか忘れて明るく暮らしてよ。もう二十歳でしょ。大人になったんだから、踏ん切りつけてよ。……私、心配で成仏もできないんだよ」
「ん、ごめんな」
 とんとんとあやすように背中をたたいていると、タマはだいぶ落ち着いてきたようで、ゆっくり息をしながら僕の胸から顔を離した。涙と鼻水でぐずぐずになっていたけれども、いつもの無表情に戻ってしまっていて、なんだかちょっと惜しい気がした。
「だから、ちゃんとお別れしよう、フジマル」
いつの間にか空は藍色へと移りつつあって、僕の影が姿を朧にしていく。タマの足下に、影はない。
「夜が明けたら、フジマルはもう私のことなんか忘れるの。新しい友達を作って、彼女とかも作っちゃったりするのかな、とにかく前へ進むの。過去なんか振り返らなくていいから。フジマルが幸せになるのが、私の幸せ」
「……嫌だと言ったら?」
 タマは何も答えなかった。ただ無表情のまま僕を見つめ返した。こうなったらタマは頑固だ、てこでも意志を曲げようとしない。
「……わかったよ。タマがそうしろって言うなら、そうする。だけどお願い、これだけ持たせて」
 僕はポケットの上からしおりを押さえた。押し花にしたツユクサは、色落ちすることなくずっと僕に寄り添い続けてきた。だからこれからも、きっと。
「忘れないで、タマ。僕が忘れても、君は僕のことを」
 タマは、六年前のあの人同じように、ほんの少しだけ笑った。


 ふと気がつくと、僕は道ばたで立ち尽くしていた。やけに暑苦しい喪服のような格好で、その上汗だくで気持ち悪いことこの上ない。汗をぬぐおうとハンカチを探してポケットをまさぐっていたとき、胸元でカサリと小さな音がした。見ると、薄青色の小さな押し花のしおりがほんのりと熱を持って入っていた。
 なんだったかな、この花の名前は。知っているはずなんだけれども、喉元まで出かかっているようでどうしても思い出せない。まあ、思い出せないと言うことはその程度のものだったということなのだろう。
 さあっと一陣の風が吹き抜けて、僕の手からしおりを攫っていった。慌てて宙に手を伸ばすと、山の端から一筋の光が差し込んできた。
 朝はきっと、もうすぐそこまできている。



テーマ「つゆくさ色」

第三十三回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2017.08.08(Tue) 00:00
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