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知ったかぶり

しったかぶり

「たまごやき?なんだぁそれ?」
それがことのはじまりであった。誰からともなくその問いは投げかけられた。
いつもは喧噪で溢れている広場であったが、その問いが投げかけられた時だけは異様なまでに静まり返った。
「たまごやき?」
「タマゴヤキ?」
「多魔御夜鬼?」
「TAMAGOYAKI?」

 広場に集まる人々にそれは一気に伝わった。しかし、皆一様に首をかしげるばかり。だからと言って、誰も素直にそれが何かとは聞こうとしなかった。
円形の広場がクエスチョンマークで飽和状態になった。
そのとき、一人が口を開いた。
「ええ。それはタマゴヤ=キのことを言ってるのでしょう」
言い終わるやいなや、メガネをくいっと直したその青年。いかにもインテリといった風だ。口元は自信ありげに、にやにやとしている。
人々は一斉に彼へ視線を向かわせた。
「失礼。それは何でしたっけね?」
上品なスーツに身を包んだ初老の男性が広場の人々の意見を代弁した。
人々は紳士の言葉にうんうんと頷く。
「そうですねぇ」と、青年は顎をさすりながら勿体ぶる。
にやにやとした口元はそのままである。
「そこまで大変なものなのですか?」
紳士は声色を低くして青年に再度問いかける。
「いやいや。何ていいましょうかね。これを知らないと、我がN国民としての常識がないというか。いやはや、もはや他の国のスパイとも言えてしまうと思うんです。ですから、もう皆さんご存知かと思ってね」
「つまりは、どういうことです?」
「タマゴヤ=キを知ってることは当たり前のこと、ということです」
広場は二度目の静寂を迎えた。
青年の口元はにやにやと、紳士の顔は引きつっている。
人々の口は真一文字に引き結ばれている。


とんだはったりであったのだ。
メガネを直しながら青年は、つい一時間前のことを思い出していた。
――まんまと騙されたのだ、あの女に。しかも、騙し方が最悪だった。よりによってあんな嘘をつかれるとは思わなかった。
ちくしょうめ。にっちもさっちも行ったもんじゃない。

一時間経ってなお、青年はまだ納得しきれていなかった。そんな煮えたぎるような感情を抱えて、偶然にも足を踏み入れたのがこの広場であった。
でまかせは口からすらすらと出てきた。
どうせばれても、誰も不幸になることはない楽しい嘘のはずであった。


「それは、あの伝説のタマゴヤ=キのことじゃなくて?」
二度目の静寂をやぶったのは、中年の女性の声だった。
「ええ。その通りです」
青年は自信に充ち溢れて言葉を放った。
――お、よくいるよな。こうやってホラ話を本気にするやつ。まったくいい気なもんさ。
中年の女性は我が意を得たりと言わんばかりの顔で、言葉を続ける。
「やっぱりそうだったのね。幼いころから祖母に何度も何度も聞かされてきたもの。忘れるはずないわ。やっぱりあれのことね」

「あのう、“伝説の”ってことは伝承の類ですかね」
盛り上がる二人の間に、恐る恐ると紳士は割って入った。
人々は固唾を飲んでその様子を見守った。
「あら、まだ分かりませんこと?あなた見かけのわりにものを知らないのね」
さんざんな言われようである。紳士は口をつぐみ、数十秒間目を閉じた。
そして、再度、目を開いたとき、はまるで埋蔵金を掘り出したような表情であった。
「ああ!そうでしたそうでした。思い出しましたよ。最近年のせいか、忘れっぽくてね。あのタマゴヤ=キですね」
「あらやっとお分かりになったの。年をとるって恐ろしいわね」
「何もそこまで言うことないじゃありませんか。誰もが好きでものを忘れるわけではないんですから」
と言って青年はまたもメガネをくいっとあげた。
――ふん、分かるはずないのに。このじじい、知ったかぶりしてやがる。その証拠にこいつらは、誰も具体的に何かを言ってやしない。
内心ではひどく毒突きながらも、青年の口元は変わらずだった。
「いやはや、まったくその通りですよ。区長と名乗るのが恥ずかしくなってきました」
はははと、背広を正しつつ紳士は笑った。
困ったのは広場の人々だ。互いが互いをうかがって、ばちばちと視線がぶつかる。盛り上がる三人との温度差は大きい。それは至極当然と言えば当然のことであった。

「わしもそれ知っておるよ」
白髪で頭が真っ白になった老人が声を上げた。しわしわになった顔をもごもごと動かして、言葉を紡ぐ。
「間違いない。ひいじいさんからの言い伝えじゃからな」
「そうでしょう。あなたのような方が知っているなら間違いないでしょう」
――しめしめ、ここまでくると愉快になってきたぞ。人間なんてチョロいもんだな。俺はこいつらに合わせるだけでいいんだ。
ここまで青年の思惑は、彼が考えた以上に上手くいっていた。
しかし、ここで予想外のことが起こった。
「そう、タマゴヤ=キが活躍したのは今から××年も前のことだったかな。偉大なるタマゴヤ=キは――」
老人はそれについて蕩々と語りはじめたのだ。ひどく具体的であった。
――待て待て。知ったかぶりじゃなかったのか?おかしなことになってきたぞ。

老人の周りには一人、二人と話を聞くものが出てきて、終いには広場の全員が話を聞いていた。
「ああ!この話聞いたことあったなあ」
「なつかしいわね」
「俺も――」
「あたしも知ってた!」
話が終わる頃には、皆がそれを知っていた。
――何だって言うんだ。こいつら、さっきまでは何も分かってなかったじゃないか。全部俺の嘘っぱちのはずだったんじゃなかったのか?

青年の混乱をよそに、意気揚々と人々はそれについて話し始めた。それを知らない人はもういなくなって、広場には喧噪が戻ってきていた。
――もうこうなったら知ったかぶりを決め込むだけだ。そうだ、そうすれば、時間が解決してくれる。俺は悪いことなんかしちゃいない。あいつらが勝手に勘違いしたんだ。
青年は自分に言い聞かせて何とか落ち着こうとした。実際、広場ではこの話はもう済んだことになるはずだった。

しかし、広場には三度目の沈黙が訪れた。
「たまごやきって卵焼きのことですよね?にわとりの卵に砂糖とかだし汁を加えて、焼くっていう料理のことですよね」
特にこれといって記述することもない、平凡と形容するのが相応しい黒髪の青年が口を開いた。
その青年は、ちょっと前に広場に入ってきたばかりだった。
 人々の視線は一斉に彼へ向けられた。
――ああ、なんて間が悪い男なんだ。そろそろ俺の嘘がばれるのも時間の問題か?ええい、こいつさえ来なければ。
だが、ことの成り行きはおかしな方向へ進んだ。

「おにいちゃんなにいってるの?うそついちゃだめだよ!」
十歳かそこらの少女の声が、広場に響いた。
指摘された黒髪の青年はぽかんと口を開けている。まさか嘘つき呼ばわりされるとは思わなかったらしい。
それがきっかけになった
「うそつきだ」
「嘘つき」
「きっとあいつは知ったかぶりしてるに違いない」
人々の視線はひどく冷たいものになっていた。
――それはお前らだろう!一体何だって言うんだ。これだからバカはいやなんだ!
じりじりと人々は黒髪の青年に詰め寄る。
――おいおい。やつら何をしようってんだ。あ、やつらの中には石を握っているのもいやがる。まずいことになったぞ。俺のはったりはいつから本当になった?
「まあまあ。さすがにそこまで邪険にすることはないじゃないですか」
――流血沙汰なんてまっぴらごめんだ。
「あら、あなたが言ったんじゃないのよ。知らなければスパイも同然って」
中年の女性が反論した。
――ちくしょう。何でたってあんなこと口走ったんだ。それを真に受ける方もどうかしてやがる。はったりだったんだ。嘘なんだ。うそうそうそうそ。
ずり落ちるメガネを直しながら、青年は悲嘆にくれる。
ある考えを思いついた。
「タマゴヤ=キなんて僕のはったりだったんです!」
大声でメガネの青年は喚いた。

「そうやってあの人をかばうことなんてないんだよ、若いの。あんな無知なやつは痛い目にあったぐらいがちょうどいいんだ」
老人がたしなめた。メガネの青年の叫びは誰の耳にも入っていない。

――ああ、誰もおれの話なんてききやしない。おれは今、真実を言ったんだ。それなのに、それなのに!こいつらときたら!
――だが、待てよ。おれのはったりは真実じゃないと、どうして言えるんだ?嘘だってどうやって証明すればいいんだ?どこから嘘になった?どこから本当になった?
――そうだとしたら、おれが今まで嘘と思っていたことは?今まで本当と思っていたことは?知ったかぶりをしていたのは、おれの方なんじゃないか?だとしたら、だとしたら、あいつは――。


メガネの青年が広場から走り去るのと、広場で石が飛び交うのは同時くらいであった。
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第三十回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2015.08.16(Sun) 15:12

感情の卵

感情の卵


物には情景が宿る。
 それは別に何でもいい。何なら消しゴムでもハンガーでも、ペットボトルの蓋でもいい。大事なのは状況とタイミングだけだ。それは思ったよりも強い引力で、俺の感情と結びつきたがる。

「ろんちゃん」
 ささやかで繊細な声が、とろんと閉じかけていた俺の瞼をちょんと引っ張り上げる。ここで返事をしないと、飯山はまたしばらく俺を放っておくだろう。飯山のさりげないやさしさと引き換えに、俺は出来立ての昼食を食べ損ねてしまうことになる。
「ん」
「ごはんだよ」
「ん」
 もぞりと肩を震わせて、俺は体を無理やりに起こす。
 それが三日前の話だ。つまり、あいつはもう二日、俺と連絡を絶っていることになる。
 飯山と喧嘩した。ほんの些細なことでだ。こういう時、基本的に原因は俺にある。飯山は声を荒げることはないけれど、つんとどこか冷たい目をして俺の前から姿を消す。もちろん、謝るのは俺からだ。飯山は主張したがらないタイプだけれど、都合のいい奴に成り下がる人間では決してない。
「もう五時かよ……」
 携帯を放り投げて体を起こすと、ぎしぎしと肩のあたりが痛んだ。姿勢が悪かったのだろう。所構わず眠ってしまうのは、俺の悪い癖だ。
 クーラーをつけたままで寝入ってしまったからか、頭が妙に重い。それと相まって、飯山の寂しそうに震える睫が思い返されて胸が痛んだ。
 額に手をついてため息をついたとき、腹がぐるるると情けない音を立てた。悲しい顔になるのをこらえられないまま、俺は立ち上がる。
 怠惰な夏は魔物だ。すべてのことに対するやる気を失わせてしまう。おかげで、飯山に頼り切っていた食生活も、案の定惨憺たるものになっていた。
 二日ぶりに開いた冷蔵庫、その換算とした光景の中で、場違いに家庭的な色合いが目についた。
「んだよ、言っとけよなあ……。まだ食えんのかなこれ」
 西友で適当に見繕った皿の上に、四つに切った一口サイズの黄色いものが載っている。薄い生地状に伸ばしたものを、器用にくるくると巻いてある。見た目はきれいなものだが、原材料が原材料なだけに若干の不安がつきまとう。なんていったって夏、である。冷蔵庫の中ならばまだ許容範囲だろうか。
 サランラップを取り払って、冷えた皿を電子レンジに放り込む。
 簡単に温めなおしていると、不意に覚えのある香りが鼻をついた。蝉の声が妙にうるさくがなっていて、思わず後ろを振り返った。
 ぎい、と、ゆがんだ音が聞こえた気がした。
 つう、と、頬を一筋の汗が滑り落ちる。
 こみ上げる良くない思い出を振り切るように、クーラーをつけようと一歩踏み出した。リモコンの横に置いてある卓上カレンダーに目が留まる。飯山が「曜日感覚を忘れないように」と買ってきたものだった。
 八月十四日。
 知らない内に盆に入っていた。俺はナスもキュウリも置いていないけれど、それでも死人は帰って来るものなのだろうか。

 当時二人きりで暮らしていた母が死んだのは、七年前の秋のことだ。
 二学期が始まって一週間も経たないある朝、俺が目を覚ますと、家の中は何とも妙な静けさに包まれていた。リビングの他に二つ狭い部屋があるだけの、ぼろい町営住宅が、あの時は何だかやけに広く感じられたのを覚えている。
 リビングに行ったけれど誰もいなかった。首を傾げながら、俺は母さんの名前を呼ぶ。ちょうどその時一台の大型トラックがアパートの前を通り過ぎて行って、がたがたと小さな地震が起きた。
 ぎい、と、背後で何かが軋む音が聞こえた。
 母さんの部屋のある方だ。
 何だよ、母さんいるの? 開けるよ、と俺はドアノブを回す。
 露わになった部屋を前に、僕はゆっくりと目線を上にやった。
 確かに、そこに母さんの体はあった。でも、俺の知っている母さんは静かに、とても静かに、さよならすら言わずにこの世界からいなくなってしまっていた。
 葬式の席で、俺は母さんの同僚から、職場で母さんがひどいいじめを受けていたことを聞いた。あの狭い住宅で笑顔を振りまいていた母さんからは、想像もつかない話だった。
 同僚の彼は泣いていた。事情を知っていたのに母さんを救えなかった自分を、随分と責めているようだった。
 母さんには人徳があったようで、葬式に参加していた人のほとんどが心の底から悲しそうに涙を流していた。
 まだ中学一年だった俺は、隣の県の親戚の家に引き取られることになった。幼いころに何度か遊びに行ったばかりの住み慣れぬ家に挨拶をしに行き、悲痛な面持ちをした叔父さんに肩を抱かれても、俺はまだ泣けなかった。
 従兄弟たちが陰で、あいつは薄情者だと囁いているのを聞いた。俺だって内心でずっと焦っていた。自分が何を感じていて、本当はどんな風に振舞えばいいのかが分からなかった。
 ようやく様々な手続きが終わり、転校の挨拶もかねて中学に登校した時、他の生徒たちはそれぞれの憐れみの感情でもって俺に駆け寄ってきた。
大丈夫かとか、俺がいるぞとか、なんかあったらいつでも言えとか。自分と他人との関係性は窮地に陥ったとき初めて分かるだとか聞くけれど、彼らの一つ一つの言葉が純粋に嬉しかったし、幸いだと思った。
だけどやっぱり俺は泣けなかった。
その日の昼食までは。
俺がそれまで通っていた中学には給食がなかった。俺が弁当を広げたとき、向かいに座っていた奴が静かに目を見開いたのが分かった。給食を食べるときには、近くの人と班をつくらなければならないことになっていたのだ。
なんてことはない。今まで母さんが弁当を作ってくれていたのだが、その母さんがいなくなった今、情けないことに炊事は母さんに任せきりにしていた俺に出来るのは、コンビニ弁当を買ってくることだけだったのだ。
ハンバーグの焦げ目が何だか偽物っぽく思えて、俺は思わずため息をついた。
おぼろげな記憶によれば、確かその時の班は俺を含めて二人だけだった。クラスの人数の関係だ。担任の配慮のなさのせいで、そういうことになっていた。名前は思い出せない。確か、二学期の始業式の日にやってきた転校生だったように思う。大人しくて、なんだかか弱い印象ばかり残る奴だった。
だが、その時の俺にとっては都合がよかった。下手に友達と同じ班だったら、気を遣ってしまったに違いないからだ。結局、世話焼きの友人が何人か俺のところへやってくることになったけれど。
「あれ、ろんちゃん、それコンビニのやつ?」
「量少ねえな。そんなんで足りんのかよ」
「俺のグラタン、やろっか」
「あ、じゃあ、オレも蜜柑やるよ」
「ほら、これ」
「ブロッコリーはお前が食べたくないだけじゃね? 押し付けてんなよ」
 とまあ、何だか変なプレゼント会が始まってしまった。転校前というのも大いに影響していたのだろう。断るのも面倒なので、俺は「ありがとー!」と笑顔で受け取ることにした。
 騒ぎが収まり、手作りのものと出来合いのもの、洋風のものと和風のものなんかが入り混じって混沌としている弁当を前に、俺は一息ついた。
「よかったなあ、穴吹!」
 先生が不意に前方から声を投げてきて、俺は咄嗟にそちらを向いた。
「はあ……」
「みんなからの贈り物だ。ありがたくいただけよ!」
 そこで、先生がなぜか少し驚いたような顔をした。けれどすぐに、びっくりするくらい優しい表情になる。
「え?」
 よく分からなくて首を傾げると、先生は「さ、早く食べろ。昼食の時間はもうすぐ終わるんだぞ」と言った。
 仕方なく向きなおると、向かいの席のやつがじっと弁当を見つめていた。ほとんど話をしたことのないやつだったが、俺はにこりと笑いかけた。
「すげーよな。ま、このピーマンとか嫌いなやつだったんだろうけど」
 そいつは何も言わなかったが、俺は構わずひょいひょいと弁当の中身を平らげ始めた。
 卵焼きを口にしたときに、それは突然訪れた。
 それは、涙のような味がした。出汁がきいていたけれど、それだけじゃない。海苔が入れられていたみたいだ。かすかな海の香りが広がり、もうどこにもない母さんの声が脳裏に響いた。
 今でも、そんな馬鹿な、と、思う。でも、考えてみれば仕方のないことだったんだと、必死に言い聞かせている。
 母さんの得意料理は卵焼きだった。この卵焼きとはまた随分と異なっていたけれど。海苔は入っていなかったし、確か、出汁ではなく砂糖やみりんを入れて甘くしていたのだ。
 ああ、嫌だなどうしてこんな時に、と俺は唇をかみしめた。母さんが死んでから初めて、こらえきれないような感情を抱いていた。
 じわり、視界が滲んだ。
 視線を感じて前を向くと、転校生がおろおろした表情で俺をのぞき込んでいた。
「どうしたの。不味かった?」
 何だか不安そうな声に、俺は首を横に振った。
「めちゃくちゃ美味いよ。泣くかも、……はは」
 冗談めかして、一生懸命に笑顔を浮かべたことを覚えている。
 その日帰宅してから、俺は夜通し泣いた。胸のつっかえが取れ、ふちに触れると痛む穴の存在を受け入れることで、すごくすっきりとした気持ちになれた。
あの卵焼きがコンビニ弁当のものではないことだけは確かだったが、誰がくれたのかは分からないままだった。弁当におかずが入れられる瞬間を逐一見ていた訳でもなければ、誰がどれを入れたのか確認出来ていたわけでもなかったからだ。
 もうあれから、七年もたつのだ。
 このあいだ飯山に好きな食べ物を訊かれた時、俺は何て答えたのだっけ。
 ああそうだ、何だかひねくれた返事だった。
「卵焼きかな。でも、苦手な食べ物も卵焼きだ。母さんの得意な料理だったんだよ」
 あんまり参考にならない答えをありがとう、と、俺の家の事情をすでに知っている飯山は困ったような笑い声を上げた。その華奢だけれどしなやかな背中を思い出しながら、温まった卵焼きに箸を突き立てる。
 これをあいつが焼いているときは、まだ暗雲はその片鱗すら見せていなかった。蝉の声にわずかに微笑みながら、飯山はつぶやくように「もうすぐお盆だね」ともらしていたのだ。
 ああ参ったな、どのタイミングで連絡を入れよう、と考え込みながら、卵焼きを口に放り込んだ。自分が悪い喧嘩の仲直りを始めるときは、いつだって臆病になってしまう。俺の悪いところは、臆病になるあまり感情を押えこんでしまう点だ、と、飯山に以前指摘されたことを思い出す。
 ふわりと、かすかな海の香りが広がった。
 その瞬間、転校生の顔が妙にはっきりと浮かび上がってきた。さらさらとした綺麗な黒髪、大きな目、細い鼻梁……その一つ一つを、妙に明瞭に思い出すことが出来た。
 何故ってそれは、ここのところ俺が思い浮かべてばっかりいる奴の顔だからだ。
 俺は携帯を取り出して、飯山の番号に電話をかけた。あいつは実家暮らしだから、遠くにはいないだろう。俺は中学まで暮らしたこの街が忘れられなくて、大学を機に一人暮らしをしている。
 あいつが転校してきたばっかりだった頃、俺は同じ班だったそいつの名前を尋ねた。ちょうど始業式の日に熱を出していて、人づてに聞いた苗字しか知らなかったのだ。
『俺は米谷理久郎。ろんちゃんとかって呼ばれてるよ。お前、下の名前は?』
 記憶の中のあいつが、形の良い唇を開く。
 飯山と大学に入ってから初めて出会ったとき、名乗った俺に、「じゃあろんちゃんって呼んでいい?」と笑った顔を思い出した。
 どちらの時も、ああこいつ、何だか澄ましているけど笑うとかわいいんだな、と思ったのだ。
 これは無視されているかなあ、と不安になるくらいには続いていたコール音が、ぴたりとやんだ。
 小さな息づかいが聞こえる。
「薫? えっと、なんていうか……卵焼き、ありがとな。美味かったよ。あ、それと、こないだは本当にごめん。俺が悪かったです」
 ろんちゃんって変なあだな、って笑った幼いあいつの顔が、耳元の優しい笑い声に呼び起こされた。
第三十回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2015.08.16(Sun) 15:11

玉子焼き

幸か不幸か

「……玉子焼き食べたい」
 夏になろうとして外では不快な程に気温が上がる中、クーラーのよく効いた自室でベッドに寝転がり、視線は携帯用ゲーム機から逸らすことなく私は言った。同じ部屋で、ベッドに寄りかかりながら男性向けファッション誌を読んでいた彼はへ?と言ってから黙り、少し考えているのか暫く反応を示さなかったが、ステージクリアの効果音が鳴る中私が彼へと目を向けると、彼もまた目線をこちらに向けた。
「……晩御飯に玉子焼き?」
「あー、それは考えてなかった」
「ただの思い付きってことか」
彼の言葉に短くうん、とだけ返すと彼は何も言わず右手を口元に当て俯いた。それから三秒静止した後、ふーっと長く息を吐き出して雑誌を閉じた。それから体を右にひねり雑誌を傍らに置き、こちらに視線を戻す。
「じゃあ何か考えるよ」
 言うなり彼は立ち上がり私に背を向ける。そして二歩半歩いて部屋の扉を開けると、クーラーの効かない廊下の生暖かい空気が部屋に漏れ出た。彼は待ってて、と言いながら扉を閉める。生暖かさは部屋の空気とまじりあって消え、部屋にはクーラーの作動音だけが響いていた。多分夕飯を作りに台所へ向かったのだろう。
 部屋に取り残された私はゲームを続ける気にもなれずゲーム機の電源を切った。ベッドから起き上がり彼の読んでいた雑誌を拾い上げてパラパラと捲る。
━━きっと今までの彼女たちはこんなものにも踊らされてきたのだろうな。
そう考えて優越を感じた。その辺の可愛い女の子ではできないそれは、用事さえなければ部屋でずっとゲームをしているような私には容易いことなのだから。本当に愚かでかわいそうな女たちだった。彼の、過去の女たち。
特に見たいものがあるでもない雑誌を閉じ、元の位置に戻す。腕はそう動いていたが私の思考は彼女たちを蔑んだままだった。私はそのまま彼女たちの愚行について、彼から聞いた時の事を思い出していた。

「……また、振られた」
「そう」
「……なんでいつもこうなっちゃうのかな」
「さあ、ね」
 私は半ば答えの分かっている問いに曖昧な返事を返して、グーっとビールを煽った。そのさびれた居酒屋はいつ来ても空いていて、うるさい客もいなかった。だから酒の力のいる、でも誰かに話したくて仕方ない話があるときにはここに連れてくるというのが二人の間の決まりで、その日は珍しく人が多かったからかカウンター席に通されていた。その時は春の盛り、入学や進級の騒がしさが少し落ち着いたころで、別れの季節というには少し遅い時期だったように思う。
「で、今回は何したのさ」
「悪いことしてないはずなんだけどなあ……」
「それでも、振られたのは和弘でしょ」
 そう言いながら空になったジョッキをテーブルに置いて隣に座る和弘の方を見た。彼は驚いたように目を見開いて、すぐさま機嫌悪そうに目を逸らした。目線をそのままにビールに手を伸ばしながら言う。
「でも、彼女のことちゃんと好きだったし、ちゃんと言ってたのに」
 ━━だからでしょ。
 そう直接言うのも躊躇われ、かといってうまい言い方もわからない。結局私は数秒黙した後、溜息を吐きたくなったのもなんとか抑えて、うん、とだけ答えることにした。沈黙を意外に思ったのかこちらを見ていた和弘は、その曖昧な返事を聞いて目線を外し、ぽつぽつと語りだした。
「えーと、彼女……いや元彼女、菜月って言うんだけど、すっごい可愛い子でさ、笑うときはふわふわしてて目元が優しくて、それですっごい品がよかったんだよね。でも普通に仲良くしてくれるし、なんかこう、一緒にいたいなーって思ったんだ」
「それ、前にも何回か聞いた気がするんだけど?」
「えー……好きだったら一緒にいたいって思うじゃん?」
「あー、うん。そうねえ。あっ、おつまみ追加とビールおかわり頼んでいいかな」
「……あの、さ。俺の話聞いてるよね?」
「聞いてる聞いてる。ここから先の話のお供にするために頼むんじゃん」
「あ、うん……」
 少々不満げな和弘を横目に店員を呼び、注文を済ませる。ビールと枝豆とチーズ。枝豆が私用でチーズが和弘用だ。店員が離れていったのを確認してから和弘に話の続きを促した。
「それで?」
「あー、うん。それで、会ったのが後期始まってからだから会って……二か月ぐらいかな?友達に誘われて書道サークル入った話したじゃん?で、それで入ってから会って、で、そこから二か月ぐらいで、俺が告白したんだ。もっと一緒にいたいから、付き合ってくださいって。そしたら菜月もすっごい嬉しそうにさ、私でよければ喜んで、って言ってくれて。それで付き合い始めたわけ」
「まあ、そこまでもいつも通りよね」
「いつも通り言うなし……」
「でもいっつもそこまでは順調じゃん」
「まあ、うん、そうだけどさ」
「逆にへましてないイケメンがここまで順調にいけなかったらこの世の希望が消えるわ」
「だよね? 俺優良物件だよね!?」
「何故か付き合ってからは半年以上長続きしないし振られる事故物件だけどねー」
「それを言うなよ」
 もうやだー、と拗ねているのか嘆いているのかよくわからない声色で和弘は言う。こういうところが本当に中学時代から変わらない。何か言葉をかけようか思案していたところで、店員が来た。明るい声で、にこやかな表情でビールの並々入ったジョッキと適当な皿に入れられた枝豆を置いてから、注意深く洒落た皿を置いた。もちろん洒落た皿の中にあるのはチーズである。
「ほらチーズ来たよ」
「……食べる」
 こちらを向いたときには不満げかつ恨めしげな表情をしていたが、チーズを口に含んでからは多少拗ねている程度に落ち着いた。
「で、菜月ちゃんだっけ? その子と付き合ってからどうしたの?」
 私がそう言うと和弘はまた不満げな顔に戻った。
「……いつも通り」
「なるほどねえ」
 私の気のない返事を聞くと和弘はチーズの皿を睨みながら言葉を吐いた。
「最初の一ヶ月はそりゃもう幸せだったさ。そりゃあもう。でも一か月過ぎると……私なんかいらないんでしょーとか私じゃなくてもいいんだーとか大事にしてないみたいに言われてさ、あんなに大事にしてたのも好きだったのも全部無かったみたいに言われてさ、それでもう何回目だーって腹立ってたから別れる! って言われたときそのまま別れちゃった」
 和弘は眉をひそめて不快そうな顔をしていたが、その瞳は潤んでいた。決して手放したくはなかったし、大事だったし、好きだった、けれど勝手に離れたのを追えるほどの熱意と執着はなかった、そういうことなのだろう。だから簡単には割り切れないし悔しくて仕方ない。幾度も繰り返しているこれは、そういうことなのだと、胸の内にぼんやりとあった憶測や記憶の中の和弘の表情が、一つに結ばれるような感覚がした。つまり、私はこの時はじめて、和弘が彼女と別れた時の心情を完全に理解できたのだった。
「……はあ、なるほどねえ」
「あんなに大事にしてたのに、好きだって言ってたしすごい好きだったのに、なんでわかんないのかな」
 瞳は潤んだままで、涙が零れ落ちることはなく、ただ眉間のしわがさっきよりも深くなっていた。
「……彼女の為に料理を振る舞って、色んな場所に行って、彼女から何かしてもらったらその分彼女をもてなして?」
「うん」
「……あっそう」
 ━━和弘は、こういう馬鹿だ。
 私が思うに、和弘は自分の価値を分かっていないのだ。但しイケメンに限る、なんて言葉があるように、イケメンはその存在だけで価値がある、そんな人種だ。和弘もこれに該当する顔立ちの良さを持っていると思う。少なからず和弘が受けてきた扱いはイケメンのそれだったし和弘もそれらしく振る舞っていたはずだ。ところが色恋沙汰になると、和弘は自信のない平凡顔の奴と同じ行動をとる。相手に尽くして、相手から良くしてもらえばその分また相手に尽くすのだ。それは多分多くの女が自覚的なイケメンに求めているものではない。自覚的なイケメンに求められるのは上手にもてあそんで上手に手放して上手に遊ばせてくれることだ。他は知らないが、少なからず和弘に求められてきたのは、これだ。和弘はこれを知らない。そして和弘がずっとこんな恋愛ばかりしていたのはおそらく、和弘が彼女たちに求めていたものが可愛いことに自覚的な女性たちと噛み合わなかったからだろう。彼女たちの女としてのプライドの高さではきっと、それは為しえないしそもそも気づかない。和弘が自分の彼女に求めるものはきっとそういったものだ。
 ただ、それだけのすれ違いを何度も繰り返している。だから和弘は、馬鹿だ。
「本当に、和弘は馬鹿だね」
「うるせえ、拗ねるぞ」
「はいはい」
 そう言うと本当に拗ねているのか和弘は私から完全に顔を背けた。私に見えるのは、ワックスで毛束をいくつか跳ねさせた彼の後頭部だけだ。こういうことをするから私をつけあがらせるのだと言いたくなって、言葉を飲み込んだ。が、そこから意識を逸らそうと発した言葉がよくなかった。
「だあれも、和弘のお姫様にはなってくれないねえ」
「……まったくだ」
 ━━しまった、気づかせた。
 とっさに逃げ道を探すも見当たらない。そうだ。和弘が彼女たちに求めていたのは彼のお姫様であること、彼を彼女の王子様に仕立てることだ。その辺の少女漫画よりずっと純情で純粋で、それでいて男臭い欲望だと私は思っている。要は彼女の中で絶対的な男でありたいということなのだから、ひどく支配的と言っていいのではなかろうか。方法はずいぶんと優しいけれど。だからずっとすれ違ってきた。女としての役割も全部奪われて和弘を絶対的に好きでいる事は、多分彼女たちでは難しかっただろうから。だから今まですれ違ってきたというのに、気づいてしまったら。
 私は頭をもたげた危機感に耐えられず、和弘を繋ぎとめる言葉を言わなければと思った。それしかなかった。
「私が、なってあげよっか」
 ━━言ってしまった。もう戻れない。言ってしまったのだ。
「ほら、一緒にいたいなんて思わなくても今までずっと一緒だったし、上手くいくかもよ?」
 こうなったら自棄だ。ぶつけられるだけの言葉をぶつけてやる。それしかない。ああ、女がビールジョッキでなんて飲むものではなかったかもしれない。頭がもううまく回らない。
「いや、お前さ」
 和弘の落ち着いた声が聞こえた。相変わらず和弘は後頭部しか私に見せていない。さっきまで和弘の方が必死だったのに、一体何故だ。私がとちったのか。なら仕方ないな。で、
「何さ」
「お前さ、その、俺と付き合おうって? そう言ってる?」
「まあ、うん。そうだね」
「あのさあ」
 だから一体何だ!やっぱり後頭部しか見えないし!
「俺のこと好きなの?」
「好きだよ」
 自棄だ。完璧に自棄である。言葉を放てば今まで後頭部しか見えてなかった和弘がちょっとだけこっち向いた、と思ったらしっかりこちらを向いた。そのままじーっと目を覗かれる。いったい何なのだと思いながらも和弘の目を覗き返す。私は、負けず嫌いである。和弘の目は潤んで、薄暗い居酒屋を背景にして私を映していた。顔色も表情もよくわからないが、その姿は普段大学以外では引きこもっているにしては意外と女らしさがあった。
 ゆうに十秒はそうしていたのではないかというほどの時間が経って、和弘が口を開いた。
「いいよ」
「ほ?」
「付き合っても、いいよ」
 和弘の表情は今まで見た中で一番苦く、それでいて優しいものだった。ああ、これはすぐ別れると思われているな、と思ったけれど、それでもよかった。私がいかに彼を分かっているか、思い知らせてやればいいだけだろうから。

「瑞樹」
 気が付くと、遠くから彼の声がした。あれから一年ちょっと、未だに和弘とは別れていない。彼女たちは本当に馬鹿だったなあ、と優越感に浸りつつベッドに背中から飛び込むともう一度彼の声がした。
「瑞樹―? 晩御飯できたんだけど」
 確かに声が台所の方からすることに気づいて、彼に夕食を任せていたことも私が夕食に玉子焼きなんて言う無茶ぶりをしたことも思い出した。
「はいはーい! 今行くー」
 そう返事して、クーラーのリモコンを持ちながらベッドから起き上がりクーラーの電源を落としてから振り返ってリモコンをベッドに投げた。それから三歩、部屋のドアを開けると電気を消し廊下へ滑り出て、ドアを閉める。こういう動作が淀みなくできるようになったのは彼と付き合ってからのように思えて、口角が上がるのを感じた。
 台所では彼が皿の近くに箸を置いているところだった。肝心の皿は一人二枚、卵焼きの乗った長方形の皿と、冷やし中華の乗った丸い大皿だった。
「これは」
「ああ、瑞樹暑いとき麺類ぐらいしかちゃんと食べないでしょ?それで、っていうのと、冷やし中華なら錦糸卵なくす代わりに玉子焼きっていうのも言い訳としてありかなあ、って思って」
「なるほど」
 確かに冷やし中華の麺の上に載っているのは細切りのきゅうりとハム、それからもやしにトマトにカニカマで、錦糸卵はなかった。そして何だかんだこちらの体調まで把握して麺類を選ぶあたりが彼らしい。
「嬉しい、ありがとう」
そう言いながら着席すると彼も満足げに笑って私の向かいの席に座る。
「どういたしまして」
 そう笑う彼の顔に陰りも苦さもない。ただただ甘く優しく幼い、王子様みたいな表情だ。ああ、私は自分に向けられるこの表情が一等好きだ。思わず見つめていると普通の大学生らしい表情で卵焼き冷めるぞ、と言われた。その落差を少し微笑ましく思いながら、手を合わせていただきます、としっかり発声した。どうぞ召し上がれ、と彼がさっきの表情に戻って言った。
 お互いが曇りなく相手の好意を享受できることは、こんなにも幸せで、満たされるものなのかと、出汁たっぷりの卵焼きを頬張りながら感じた。
第三十回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2015.08.16(Sun) 15:10

最終版玉子焼き

  玉子焼き

 卵は火を通したら玉子になる。
 だから、卵焼きじゃなくて玉子焼き。
 そう、教えてくれたのは君だったろうか。



 もうそろそろ、この生活にも慣れてきた。僕は、いつものように部室に顔を出す。
「お疲れ様です。」
 部室に入るときも、そこから出るときも、必ずこの挨拶が用いられる。僕の高校までの文化圏には無い習慣で、酷く戸惑った事を覚えている。それでも、僕はもう慣れてしまった。自然にその言葉が漏れ出る。この時程自分の無能さ……つまり、脳の停止加減を痛感する事は無い。だって、そう思う事ですら、もうルーティーンに組み込まれている。
 馬鹿みたいに暑かった夏も、もういなくなってしまう。考えてみれば不思議だ。毎年この時期になると、あんなに消えろと思っていた奴が、綺麗さっぱりいなくなる。残滓すら残さず、後を濁さず。幾分か過ごしやすい優しさの後で、夏の反動だろうか、馬鹿みたいに寒い冬がやってくるのだ。正直、足して2で割ってほしい。つまり、何が言いたいかというと、良い加減この扇風機は仕舞ってしまうべきなのだ。仕舞ってしまうというのも中々に奇妙な表現だが、まぁそういう事だ。仕舞うのだ。
「先輩」
 と僕は話し掛ける。
「この扇風機、もう仕舞っちゃって良いですよね?」
 返事はない。
 この空間に先輩と呼ばれるべき人は3人いる。別に僕が独り言を言っているわけでは無い。ただ、3人のうちの誰が話しかけられたのか、分からないでいるのだろう。僕でさえ。これはただ、間を持たせるためだけの問いだ。その内容にさして意味はない。扇風機の一台や二台、大した邪魔にはならないし。
 因みに――いや、何に因んだ訳でもないが――僕の所属するこのサークルは映画研究会。略して映研。実用英語技能検定とはなんの因果も関係もない。当然。徒然に映画のDVDの置いてある棚を流し見ている。よくもまぁこんなに面白くなさそうな映画ばかり集められるものだ。映画初心者の僕たちに、これを参考にしてどうしろと? 違うな。ド素人の僕たちにどうしろと? こっちが正解か。馬鹿みたい。
 そう言えば、最近映画を観ていないことに気付いた。映画を観ない映研とはこれ如何に。因みに撮ってもいない。部員はとってもいない。幽霊部員ならいっぱいいる。何その曰く付き物件。たとえ巫山戯ていたとしても、映画に触れていない理由などすぐに分かった。何を隠そう、僕と彼女はこの場所で出会ったのだ。とてもとても美味しい玉子焼きの、彼女。



 何を隠そうなんて言ったものの、そも彼女については、さっき初めて話題にしたような気もする。隠す気まんまんだった。事の始まりは春、期待と希望に満ちた目で新入生が入って来る季節である。彼女は部室に入って来ると、ちょっと困ったような顔で笑った。
「あの……ここ、映画研究会の部室であってますか……?」
 透き通った声だ。いや、声に色なんか無い。……本当に無いのか? 声は空気の振動だし、色は電磁波で両方波だ。つまり、透明な声というのは可聴領域の振動数全てを含んだ合成波なのか。納得。んな訳無い。
「……い、いや……僕も新入生なんで……」
 恥ずかしい。初対面の可愛い女の子のまえでアガってしまって、声が干涸らびてしまうだなんて本当に恥ずかしい。第一印象は大事だ、寧ろ第一印象以上に大事なものなどこの世には無い、とあれ程念じていたのにこの様だ。こんなサークル辞めてやる。そして晴れてバイト戦士となるのだ。まだここが映研の部室かどうか知らないけど。
「あっ! そうなんですか! これからよろしくお願いしますねー」
 天使かよ……。眉一つ顰めず、目一つ逸らさず、いたって自然に可愛い。違った。違わないけど。いたって自然に返事をしてくれた。マジでこいつ天使かよ。大事な事なので二回言わざるを得ない。ついこの間まで男子校に通っていた身としては、微笑まれただけで惚れてしまわずにはいられないというのに、こんな対応されたらもう結婚だな。と、本気で勘違ってしまう前に、この状況をなんとかしなければ。具体的には、知らない女の子と二人で知らない部屋にいるこの状況を。解決の優先度はどちらが上だろうか。



 結果から言えば、そこはマジックサークルの部室だった。何故だ。直後にやって来たマジックサークルの先輩に映研まで連れて行ってもらった。
「不思議だねー二人揃ってマジックサークルと間違えるなんてさー」
 ケタケタと笑う彼女。一切の嫌味を感じさせない、自然体の愛敬がきっとそこには有るのだろう。体が細かく震えるのに対応して、彼女のポニーテールも右に左に跳ね回る。映研に入りたいという割には、中々活動的な見た目だなと思う。ただの偏見だ。でも、それこそサッカー部のマネージャーとかの方がよっぽど似合っている。映研だなんて名前からして根暗地味オタクの集まりだと思っていたのだが、なかなかの青春が送れそうな気配だ。まずは、いまのうちに懸垂の練習をしておくべきだろうか。大学生にもなって何を言っているんだか。ドリアン100%って感じだ。誰が得するんだ。
 さて、僕らが入った本物の部室は、正に映画研究会という名にふさわしいそれだった。棚に並べられた無数の映画、何かしらの設定資料集、映画ファン御用達の月刊誌、DVDドライバ……にビデオデッキまである。隣の彼女も目を輝かせていた。むさ苦しくて陰鬱そうな先輩方も、女子部員は珍しいのか、かなりの興奮度だった。具体的には、鼻息の荒さで言葉が意味を成していなかった。そんなキモオタ共にも、微笑みをもって接してくれるこの娘はマジ慈愛の女神。惚れ直した。



 そこで僕はやっと気付いたのだった。天啓は自らの思考。この時程、自分を褒めてやりたいと思った事はない。つまり、驚くべき事に、僕は彼女に恋していたのだった。出逢って1時間足らずで。要は一目惚れって奴だ。僕の最も嫌悪した……最もは流石に言いすぎた。自宅からの最寄駅に留まらない快速電車の次くらいに嫌いなアレだ。まさか、この僕が一目惚れるなんて。非の打ちようも無いからなぁ……まぁ、それも仕方の無いことか。誰からも嫌われる奴がいるのなら、誰からも好かれる奴がいてもなんらおかしくは無い。ただ、僕と住む世界が違い過ぎていて、今まで会わなかっただけなのだろう。
 彼女は脚本を書いていた。自分の言葉を映像にしたいのだと語ってくれた。自己紹介の場で。カメラワークを学びたい僕は、一も二もなく血眼で提案した。
「僕のカメラで君の脚本を映画にしてみないか?」
 こうして、僕らの青春が始まった。



 一限ダルい。五月病である。大学生にのみ許されたこの文章を、僕は週に一度しか使わない。大学最高って感じ。高校の時とは講義の楽さも自由さも全然違う。テストも過去問入手で完璧だ。嗚呼、なんと素晴らしきかな大学生活。詰まる所、僕は殆どの時間をバイトと趣味に費やせるのだった。文系最高! 文学部最高!  空きコマ、所謂授業の入っていない時間には、部室に行って映画を見、放課後はアルバイトでカメラを買うお金を貯めていた。彼女の脚本が出来上がるまで、僕にできる事は、カメラワークの練習位しか無かった。どうやったら彼女を美しく撮れるか、どうやったら、彼女のアイデアを完璧以上に形にできるか。一心不乱に相手の望みを叶えたいだなんて、まるで思春期の男の子だ。でも、成熟しきっていなくても、この感情はきっと間違いじゃない。彼女の喜ぶ顔を見る事だけが、僕の喜びなのだから。ふと、視線を感じた。右斜め前からだ。この授業は教養科目で、文学部の友達は誰もいないし、学部の違う知り合いなんて一人しかいない。そう。彼女だ。少し離れた所にいる彼女は携帯を掲げ、少し悪戯っぽく笑った。これはきっと、携帯を見ろという意味だろう。案の定、新着のメッセージが一件あった。
「映画のことで相談が……放課後、図書館で待ってるね」
 絵文字の無い簡素な文だが、冷たさは感じなかった。直ぐに新しい一文が届く。
「ボーッとしてないで、ちゃんと講義も聴くように! 笑」
 怒られてしまった。でもそれは無理な話だ。放課後の図書館だなんて言う甘美な響きに、退屈な授業如きが勝てるはず無い。僕の頭の中では既に始まっている。シミュレーションが。つまり妄想である。哀しい。



 彼女は僕より先に来ていた。僕を見つけるとにっこりと微笑む。その笑顔は反則だ。しかし、僕は彼女を見かける度に、この話をしているように思う。ちょっと諄いか。実物はいつまででも見てられるのにね。今のは流石に気持ち悪いな。彼女は口に手を遣り、シーッと僕を制する。いや、それ位は弁えている。彼女が手元の紙に何か書き付けるのを、僕はただただ見ていた。しかし、それが地図だと気付くのに、そう時間はかからなかった。今から、そこへ向かうらしい。
 大学最寄りの駅を挟んで、大学と反対側にある喫茶店だ。静かな店内には、テンポの遅いジャズが流れていて、高級そうな場でよくみるような、風車みたいな換気扇みたいなアレが回っている。何処でこんなお洒落な店を見つけるのだろうか。不思議だ。新入生歓迎パーティーの女子会なるもので教えて貰ったらしい。僕もお洒落なカフェで男子会したかったです。嘘です。道中、彼女から聞いた情報によると、ここではパンケーキだかシフォンケーキだかカップケーキだかが美味しいらしい。いや、パンケーキとか明らかにパンだろ。ケーキではないだろ。とか思ったり。苺の無いケーキが最早パンなら、苺の載ったパンケーキは一体何だ!? パンケーキだ。当たり前。
 未だ本題には入らない。ウェイトレスさんに中断されたくないのだろう。つまり、それほどには重大な話なのだ。心の準備をしておかねばなるまい。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー。何が産まれるんだ。本当に取り留めの無いことだけを話して行く。高校時代の部活の話。好きな芸能人の話。好きな食べ物の話。それに、彼女の高校の時のあだ名が「ゆめたま」だったこととか。既に「ゆめちゃん」なる人物が居たかららしい。「ゆめしゃん」と「ゆめのしん」と「ゆめたま」の三択だったとか。でも「ゆめたまは恥ずかしいから、ゆめって呼んで」って言われてしまった。これはとりとめなくないか。
 そんなこんなで、僕のコーヒーと彼女の紅茶、それと二人分のケーキが運ばれてきた。可愛いウェイトレスさんだ。まぁ、僕の目の前にいる君の方が可愛いけどね。酷いな。彼氏気取り所の騒ぎじゃない。ストーカー気取りって感じだ。なにそれ只のストーカーじゃん。僕が頼んだのは定番のブレンドコーヒーに、定番のパンケーキ。ザ・普通って感じだ。なんだか税抜き100円くらいで売ってそう。たまに200円のとかあったりね。彼女の前だからと、一口目はブラックで飲んでみるものの、やはり無理だった。風呂上がりの珈琲牛乳は最高。つまりはそういうことだ。それでも彼女は笑っていた。やったぜ。あれ? これってもしかして馬鹿にされてる?
 美味しそうにもぐもぐ食べるゆめたま。頬が伸びきっている。美味しそう。なに言ってんだ。ああも美味しそうに食事しているのを見ると、やっぱり紅茶にしておけば……いや、それならメロンソーダだな。ガキか。半分程食べ進んだ所で、彼女が不意にこちらを見上げる。上目遣いって奴だ。まだ口はもぐもぐしているし。
「映画、そろそろ撮り始めようと思うの」
 11月の大学祭に間に合わせるには、もうそろそろ始めなければならない。この7月はロケ地決定、8月9月の夏休みを撮影に充て、9月後半から10月いっぱいで編集を終わらせる。くらいのスケジュールでかつかつって感じだろう。うちの大学祭はミスコン・ミスターコンが有名で、人もそれなりに集まるのだ。下手な失敗は廃部の可能性もある。
「……だから」彼女は言葉を続ける。
「シナリオ……読んでみてくれない?」
 これが本題か。なるほど、彼女はまだ誰かに自分のシナリオを見せた事がないのだろう。それで緊張していた……という訳だ。
 ザッと流し読んだが、新大学一年生が、勉強やら、部活やら、恋やらに一生懸命頑張るような青春物語だった。うん! 大丈夫大丈夫! ってか最強のチャンスである。最強のチャンスって何だ。まぁそんな事はどうでもいい。マジ絶好。二人でロケ地探しデートすらワンチャンある。ワンチャンとは、One Chanceつまり、有意な可能性がある事を示す大学生語である。どうでもいい。取り敢えず、これが鰹漁なら一本釣られてた位の勢いで喰いつく。
「うん……いいと思う。えっと、緩急のつけ方とか、上手いし……そう、だからロケ地とか決めた方がさ、良いよね。多分」
「そう! 私もいま言おうと思ってたの。もういくつか候補はあるから、そこの下見に付いてきてくれない? お願いっ!」
 いや、まさか本当にワンチャンあるとはな。



 というわけで次の日から始まった、僕とゆめの夢の生活。主観的にも浮かれ過ぎだと思う。先ず最初は図書館。シナリオ上で一番最初に配置されたイベントである。ヒロインが届かない本を取ろうとして出会う二人。どこにでもあるストーリーだと思う。真新しさも、クリエイテビティもない。それでも、僕は彼女を応援したいのだ。我が大学は残念ながらレベルが低く、放課後の図書館には誰もいない。勉強熱心な生徒など誰も。
 夕景の中、彼女は本棚に手を伸ばす。爪先立ちで震える足元。揺れるポニーテール。僕は背後から彼女に近づく。丁度顎の下辺りで黒い髪がピョンピョンと跳ねている。その度に、石鹸の香りが漂ってくる。我ながら変態チックだ。形容詞化するなら変態ックの方が正しいと思うのだが、如何だろうか? 現実逃避。顔が近い。体も。体温がダイレクトに伝わって来る。嘘吐いた。直接触れてはないので、インダイレクトに伝わって来る。どちらにしろ暖かい事に違いは無い。石鹸の匂いに隠された、ゆめ本来のそれも……。僕は手を伸ばす。白くて細い腕の後ろから、その星のような掌が漂う先へ。何かを掴んだ。一冊の本。多分、そうだ。手の感覚だけしかない。視界は既に眩んでいる。あまりにも狭すぎる視野は、彼女以外何も捉えられない。平衡感覚もない。意識すらも。彼女以外、何も無い。瞬間、崩落する。正常化する意識。視界が開ける。足が大地を踏んでいるのをしかと感じる。なに、単に僕の手が滑って手元の本を彼女の頭の上に落としてしまっただけだ。……最悪。
「きゃっ! いった〜い」
「あっ……その、ご、ごめん! 大丈夫?」
「もう! ちゃんと気を付けてよねっ!」
 ヤバい、爪先立ちで怒るの凄い可愛い。永遠に怒らせてたいくらい可愛い。駄目だコイツ。僕だった。今夜は眠れそうに無い。



 次のロケ地は特に厳選する必要もなさそうなので、地元で適当に見つけた。日曜、デート日和のピーカンカン。もう今時の若者はピーカンカンなんて言わないのかな。や、僕も今時の若者なんだけどね。当然、気合いも溜まるってもんだ。次のターン、急所に攻撃が当たりそうな気がする。いや当てちゃダメだろ。
 目的地はゲームセンター。学生定番のデートスポットである。ここで僕の中学時代に鍛え上げた格ゲースキルを見せつけてやるぜ。小足見てから、必殺技余裕ですから。見栄張った。当然古参にボコボコにされた。嗚呼無情。まぁでも、彼女が後ろで応援してくれたから良しとしよう。オラ、元気が漲ってきたぞ。
 ふと、彼女が明後日の方向を見ていることに気付いた。どうやって彼女は明後日の方向を知ったのだろう、僕は明日の事さえ分からないのに。なんだこの凄く良いこと言えた感。彼女の視線の先にはデートの定番、UFOキャッチャーがあった。だから、僕は彼女にこう聞くのだ。
「どうした? 何か欲しいものでもあった?」
 はい、ここまでテンプレ。なんの捻りもない不毛な会話。それでも、僕はこれを楽しんでいる。
「あのぬいぐるみちゃん可愛い~」
 君の方が可愛い~。僕は気持ち悪いが。誰得無駄情報。無論、僕は全力でそのぬいぐるみを取りに行く。あと、やっぱり女の子の可愛いは大して可愛くない。どうにかこうにか青と緑色のデフォルメされたウミウシを捕ることが出来た。……ウミウシッ!? 本当、世の中なにが流行るかわからないなぁ……。流行ってるのかどうかもわからないけどね。飛んで行った僕の野口さん……この表現も数年後には使われなくなるのだろうか。次は誰が飛んで行くのだろう。大隈重信とか? 諭吉さんとどっちが高価かで争いそう。大学的な意味で。彼女はそのぬいぐるみに頬ずりして喜んでいる。僕も頬ずられたい。ちゃっちゃと行こう。今日のプランは、学生らしいフットワークの軽さが大事な奴だ。きっとね。
 次はプリクラ。朝の女児向けアニメみたいだ。プリティでクラクラ。ふったりっで、プリクラー。何んだこのやけに魅惑的な響き。ロリコンになりそう。まーっくーすはーっ。紙面上だと分かりづらい。あれだよ、別に毎週見てるから詳しい分けじゃないから。小さい頃に見てただけだから。聞く所によると、最近のプリクラは目が大きくなったり、脚が長くなったり、色が白くなったり、Ph○t○sh○pも真っ青な補正が掛かるらしい。真っ白になるのに。っていうか、補正とかいいつつ明らかに正しくなくなってるんですが、それは。あれか、可愛いは正義って奴か。こわい。人間怖い。僕的には、補正無し現物の方がよっぽど可愛いと思います。が、まぁ多分そういう事ではないのだろう。色々なフレームやら補正度やらを慣れた手つきで変更していく彼女。前の彼氏とでも来たのだろうか。shi妬!! ……今のは嫉妬とクソッタレを掛けた高度なギャグです。高度な、ギャグです。イイネ? 
 ま、それはともかく、プリクラ機(今時の若者はコレをなんと呼ぶのだろう。いや、昔の人が何て呼んでたかとか知らないけど。)の中で、合法的にひっついたり、くっついたり、ぴったりした。大体密着してた。こんな所にユートピアが。囲い込み政策最高!柔らかかったです。あ、ほら。えーっと、羊とか、ね。
「君ってUFOキャッチャー上手いんだね! びっくりしちゃった」
「高校時代は暇だったから……よくゲーセン行ってたし……」
 こんな感じで、最後はファストフード店で今日は楽しかったね的会話を済ます。実に充実した一日だった。うんうん、いい調子だ。



 うんうん、いい銚子だ。まだ着いてないけど。七月も終わりに近づいた今日、二人で行くのは千葉県東端の銚子だ。学校帰りのゲームセンターで仲を深めた二人は、初めてきちんとしたデートをする。海までドライブ。そういう設定だ。だが、まぁ僕は残念ながら免許を取っていないので、公共交通機関で移動することになった。なんでわざわざ銚子なんかに……。電車に揺られ、バスに乗る。車窓はずっと緑だ。植わってるのがネギか稲か程度の差しかない。
「……」
「……」
 最初の方は楽しくお喋りしていたけれど、段々会話も続かなくなってしまった。でも、その沈黙も心地よい。誰もいない孤独な沈黙と、気の置けない静寂では無音の質が違う。そう感じる。安心して喋らないでいられる空間が、ここにはあった。そもそも電車の中で騒ぐなという話ではあるのだが。
 木陰と木漏れ日が断続的に現れる。目がチカチカする。このままどこかに連れて行かれそうなほど。不意に、切れ間なく続く森が開けて、同時に眩い光が差し込む。上からは白く、下からは青く……そう、海だ。太平洋である。長い長い崖と、白い灯台、そして世界の果てが見えた。と言うよりは寧ろ、それしか見えなかった。潮の香りがする。日焼け止め忘れた。
 二人してポケーっと海を眺める。なぜなら砂浜じゃないから。本当、なんで銚子なんかにしたんだ。あぁ、頭空っぽになる。脳みそが太陽光で置換されてる感覚。これをカメラで、どうやったら伝えられるのだろう。
「ねぇ」
 どれ位時間が経ったのだろう。5分くらいだったかもしれないし、30分くらいだったかもしれない。それくらい海に見惚れていた。彼女の声で、僕は現実に呼び戻された。どうしたのだろう。
「あのさ……お弁当作ってきたんだけど……食べる?」
「えっ……??」
 一瞬。否、かなりの時間、理解出来ずにいた。脳が活動を拒否したのやもしれぬ。それほどに衝撃的だった。僕はご飯について何も考えていなかったのだとね……いや、この一文は嘘だ。本当は、彼女が指に絆創膏をしていなかったからだ。嘘だろ? 漫画だったら絶対わざとらしく五本の指全部にベタベタ貼っているのに……。彼女が重そうな鞄から取り出したのは、2つの可愛いお弁当箱だ。水色のが僕ので、桃色のが彼女のだろう。彼女が僕の顔をのぞきこむ。早く開けろと、恐る恐る催促しているのだ。可愛い。分かった、一思いに楽にしてやるよ……なんの話だ。ぱかっと開ける。米だ。そして、ウィンナー、ブロッコリー、パプリカと肉をなんか炒めた奴……。兎に角美味しそうだ。彩り鮮やかで、なんかキラキラしている錯覚すらある。残念なのはそれを表現しきれない僕。本当に文学部なのか?
「玉子焼き……喫茶店で好きって聞いたから……」
 自信無さそうに彼女は呟く。覚えていてくれたのか、僕の好物が玉子焼きだって事を。しかし実際、彼女の玉子焼きは黄色にツヤツヤと輝いていて、とても美味しそうに見えた。箸を持つ。二本の棒きれが、黄金の塊に伸びる。柔らかい感触。箸が玉子に沈むのを知覚した。直ぐに壊れてしまいそうな、崩れてしまいそうな危うさと、それでも掴み取ってしまいたい心地よさ。それは、まるで女の子のようだった。女の子を触ったことなんて無いけど。
 まぁ、そんな事はどうでもいい。上腕の筋群が収縮する。肘関節が屈曲する。五指は二本の細い棒を固定し、結果として挟まれている玉子は僕の眼前にある。いい香りだ。匂いを言語化するのは非常に難しい。僕らは言語でしか意思疎通できないというのに。終に、その玉子は僕の口に辿り着いた。唇に触れる。口の中へ。甘い薫りと、卵の味が口いっぱいに広がる。嗚呼、蕩けそうだ。噛まずとも解れて、解けて、消えてしまう。僕が無言でいたからだろう。僕が咀嚼を終えたところで、彼女が覗き込んできた。女神かよ。噛んだ。びっくりした、だった。
「すごく……美味しい。こんなに美味しいの食べたことない……」
 率直な感想を述べる。いや、だって海を眺めながら彼女の作ったお弁当を食べるとか、控えめに言っても幸せすぎるでしょ。彼女の顔がパァーっと綻ぶ。玉子うめぇ。
「じゃ、また今度作ってあげるね!」
 そうして晴れ晴れした顔の彼女は、レシピを調べる間に入手したであろう卵蘊蓄を語り出した。素材の状態の〝たまご〟を〝卵〟と書き、調理後に〝たまご〟を〝玉子〟と書く、とか。流石ゆめたま、というと「その呼び方はメッ」なんて言って少しむくれていた。帰りの旅程も当然、電車とバスを複数回乗り継ぐ。海風に当てられた僕らは疲れ切っていた。やはり太陽は核融合からではなくて、人間からエネルギーを創出してるのではないだろうか。ないな。
 車窓から沈む夕日が見える。窓際に座る彼女の横顔が、鮮烈なオレンジにとても映えていた。目を閉じたまま少し俯いたその姿勢は、憂える深窓の令嬢そのものだ。睫毛超なげぇのな。ふらり。と、影が傾く。強烈な赤い閃光に焼かれる。夕陽を遮っていた彼女の頭が動いたのだ。ふわり。鼻腔に磯の香りが充満する。彼女のあたまが、ぼくのかたに……。願わくば、このまま、家に着くまで。



 平日だって、僕らは暇なわけじゃない。仮に空きコマがあったとしても、講義が週12コマしか無かったとしても、バイトに、サークルに、やる事は沢山あるのだ。というわけで、僕は映研に来ている。カメラワークの教材を眺めつつ、垂れ流されている映画を聞き流す。あー忙しーなー。大変だなー。ゆめは来ないのかなー。はっ!? つい本音が。髪の毛ボッサボサで眼鏡かけた先輩方のコアい映画談義にまるでついていけない僕は、ついつい手元の携帯端末を触ってしまうのだ。どのSNSでも大した話はない。こういう時に限って、誰もいないのだ。実に使えない奴らである。
「……ぃ、おーい、大丈夫かー」
 遠くから呼ばれた気がした。意識が何処かへ飛んでいたようだが、縁起の悪い先輩の顔を見たら、一発で現世に戻ってこれた。ナイス。
「なんか顔も赤くて熱っぽいし、保健センターでも行ってくれば?」
 38度ありました。熱を測った瞬間から、急に体調が悪くなるのは何故だろう。田舎から出てきた一人暮らしだと、看病してくれる人がいなくて辛いって言うのは本当だったんだなぁ……。でも家が近くてよかった。帰宅途中に倒れてたかもしれない……。覚えている中で最後の思考はそれだった。

 暗転。

 沈殿。

 僕は浮遊している。彼女は僕に笑いかける。ここは真っ白で四角い部屋。簡素で何もない。壁に写った彼女の影は、首を絞めている。誰の? 僕の影だ。違う。形が変わる。先輩? 首を絞める手に力が籠もる。息苦しくなってきた。彼女は笑いかける。ニッコリと垂れた目尻が段々と内向きにぐるぐるぐるぐるグるぐルグルぐルぐるグるグルグルグルグル内側に巻き込んで世界が回って色彩が混ざってすべて汚い黒になる。

 暗転。

 浮上。

 カシャカシャと音が聞こえる。ビニールが擦れる音。でも、僕は一人暮らしだ……。不審に思って目を開ける。いや、そうではないかもしれない。寝起きの頭では不審かどうかなんて判定できない筈だ。僕はただ音に反応して半ば反射的に目を開けただけなのかもしれない。うーん、実に哲学。哲学科からすごく怒られそう。うん、頭が冴えた。当然、誰もいない。眼前には天井しかない。……おなか空いたな。しかし、身体を動かそうにも、腕も足も動かない。かなり体力を使ったようだ。辛うじて首が動くだけ。そうやって体を確かめていると、ボトッと頭上から何が落ちた。首を軋ませながら、落ちたそれを確認する。タオルだ。濡れタオル。濡れタオル? 誰が置いてくれたのだろう。いや、誰が置いてくれたのだろうじゃねぇよ! おかしいだろ、普通におかしい。だって僕は家に帰って来てすぐに寝たし、家には誰もいないし入れないはずだ。僕が鍵さえかけていれば。マジかよ。鍵掛けてねぇじゃん。意識朦朧としてて覚えてないけど。ってことは……?  ドタドタと台所の方から足音がする。
「あ! 起きたんだ!」
 彼女だ。白いエプロンと黒髪ポニーテールとのコントラストが眩しい。目があああぁぁぁ目があああああぁぁぁぁあ! あ、テンション上げたら熱上がってきた。クールダウン。
「なんでうちに? 住所教えてないと思うんだけど……」
「部員名簿って覚えてる?」
 確か、最初に書かされた奴だ。名前と住所とが書いてあるリスト。
「もうすぐお粥が出来るから、ちゃーんと寝とくんだぞ! 」
 彼女はトテトテと台所に向かう。あ、部屋を綺麗にしないと。あ、体動かないんだった。にしても、本当に体ってこんなに動かないんだな……もしかして金縛り?
「出来たよー」
 良い匂いが漂い、それが姿を見せる……お粥と……これは玉子焼き?
「食欲ないと思ったから……好きな物なら食べらるかなーと思って……」
 君の作った料理ってだけで食欲MAXなんだよなぁ……。なぜだろう、彼女は先ほどからモジモジしていて、中々僕に蓮華を渡してくれない。お預け? 何そのプレイ、興奮する。嘘です。嘘吐きました。嘘じゃないです。彼女は徐に蓮華を取ると、お粥の一部と玉子焼きをそれにのせ、僕に差し出した。
「あ、あーん」
 ……顔が赤い。夕暮れだろうか? そんなわけない。
「た、食べないの!? 食べるんなら早く……食べてよ……」
 居心地悪そうに擦り合わせる両の太ももが眩しい。はっ!? 僕はこんな事を考える為に彼女を呼んだんじゃない。煩悩よ滅せよ! よく考えたらそもそも呼んですらなかった。混乱している。
「あーん」
 大口を開けて、雛鳥のように待機する。彼女の陶器のように白くて華奢な腕が、陶器のように白くて華奢な蓮華を持って、陶器のように白くて華奢なお粥を運ぶ。三分の一は嘘。頬張る。相変わらず美味しい。いっその事、映画のストーリーを青春ものから料理ものに変えればいいんじゃないかと思うくらい美味しい。いや、映画を見てる人はこれを味わえないのか……可哀想に(笑)。約束された勝利の玉子焼きは、やはり口いっぱいに芳醇な卵の香りを拡げる。ところで、芳醇ってどういう意味だろう。結構みんな、なんとなくで使ってるよね。え? 違う? あ、そう。口の中で解けて、舌の上で解れて、まさに輪転する勝利の玉子焼きの名に相応しい。玉子焼きが主食で、お粥が主菜なのかと錯覚してた。
「どうかな? ちゃんと美味しい?」
「ゆめちゃんのご飯食べたら、なんだか元気になった気がする……うん」
 計ってみたら、本当に熱が引いていた。凄い。
「……もう、大丈夫。後片付けは僕がやっておくから……」
「無理しないで? さっきまで立てなかったんだから! 寝るまでここにいてあげるから、ね」
 彼女が僕の手を取る。冷たい。僕はすぐに眠りに落ちて行った。先ほどまでのとは違う、心地よい眠りの先に……。



 起床。快眠である。熱も下がっているし、手足も動く。おまけに部屋も片付いていた。申し訳ない。お詫びに何かしたいな。……映画とかどうだろうか? 映研だし、適当に口実付けて誘える気がする。うん、そうしよう。誘えるかどうかは僕のコミュ力に掛かっている。頑張れ、僕。そんなこんなで一週間が経とうとしている。ロケ地もシチュエーションもトントン拍子に決まっていき、残るところは撮影だけになってしまった。早い。流石僕、よく頑張った。違う。
「いやーそろそろ準備も終わっちゃうねー」
 彼女がパイプ椅子の上で伸びをする。しなやかな肢体は猫を思わせる。……うん、やっぱ夏って良いよね。薄着的な意味で。慌てて目をそらす。不審だ。不謹慎だ。謹慎では無いのだから、謹慎処分を受けてない人はみな不謹慎だ。なにが言いたかったのか。特になにも無い。
「あ……あのさ、勉強がてらさ、映画でも見に行かない? ほ、ほら、参考にもなるしっ! 映画の!」
 どう……だろうか……。あまり綺麗な流れとは言えないが、そんなに気持ちの悪い誘い方ではなかったと思いたいっていうか、信じなきゃやってらんない
 よこんな世界。けっ! やさぐれた。優グレた? グレてるのに優しい! わお! 斬新! 勢いだけで押し切るスタイル。
「ほら、この前看病してくれたお礼に……どうかな?」
 ドキドキする。心臓が爆発しそうだ。ボンッ!あ、本当に爆発した。爆ぜろ冠状動脈! 弾けろ左心室!! バニッシュメント・ディス・心不全!! 中二病っていうより、成人病だった。よっ!  大人!!
「ん……なに、見に行こうか?」
 彼女は淡く頷く。
 や っ た ぜ 。
「来週の日曜日でいい?」
「うん。楽しみにしておく。」
 もう、幾度も二人で出掛けているけれど、ちゃんとしたデートは今日が初めて……デート!? デートか……デートなのか? ……いや、男女が二人で行動すると言ったら、それはもうデートと呼ばずしてなんと呼ぶ? 途端に緊張してきた。錫の鍍金が施されそう。それはブリキだ。まぁそもそも僕は鉄じゃない。鍍金するのは金属ではなく布の服。うわっ、私の防御力……低すぎ!?  戯れ言はさて置き、僕は久しぶりに洋服屋で服を買うことにした。初めてのデートだしね、おめかし大事。……しかし、いままでまともにお洒落なんてした事ないし、どんな店に行けば良いのかもわからん。デートに行くから新しく服買いたい、なんて友達には言えないしな……。ま、どうにかなるだろ。とりあえず、近所の安さが売りの量販店に行く。オシャレしたいとは思うものの、そもそもオシャレな服を売っている店には、オシャレな服じゃないと行けないというジレンマ。卵が先か、鶏が先か。オシャレをするのが先か、オシャレをするために服を買うのが先か。名言にするには長すぎた。
 適当な服を引っ掛けて家を出る。大通りを、胸を張って歩く。先人は言っていた。背筋を伸ばし、自信を持って歩くことが、一番のオシャレだ、と。そう、大事なのは思い込み。プラシーボ効果。だから僕は自分に言い聞かせる。私は可愛い、私は可愛い。惜しい。ちょっと違った。
 それにしても暑い。時すでに8月。クーラーの効いた部屋に籠もりたい季節である。「あちぃ」と呟きたくなる気持ちを抑え、とにかく一番近い服屋を目指す。目指しまくる。目刺捲る? 内臓が露わに! ……自分で言ってて腹が立ってきた。お前の内臓も引きずり出してやろうか。曲がり角を曲がると、太陽が僕の背後に移動した。眩しかったから下を向いていたが、これで上を向いて歩ける。涙がこぼれないように。あ、僕ドライアイだった。好きな防衛機制は昇華です、みたいな。ドライアイスだけに。
「うわっ涼しい」と、店に入る時つい口に出してしまった。仕方ないよね。外暑いんだもん。自分にどんな服が似合うとか分からないけど、まぁ適当に選べばいいだろ(自宅でファッション雑誌をそれなりに読み込んできたなんて、口が裂けても言えない)仮に口が裂けたとしても、そのときは痛みで何も言えないだろうが、とは使い古された文句だろうか。
 それにしても、どうしてこうアパレル店員とかいう種族は馴れ馴れしく話しかけてくるのだろう。僕は初対面の人が苦手なので、わけもなく「あっ……えーと……はい……」とかいう機械になっている。つらい。服なんて買いに来るんじゃなかった。こうして現実逃避に時間と脳みそを割いている所為か、中々いい服が見つからない。言い訳はすぐ見つかるけどね。ってか、店員さん、明らかに似合わない服を持ってくるのやめて貰えませんか……? そんなにこやかな笑顔されても、僕は惑わされないよ! やっぱりこういう店って誰かと来るべきなんだな……そしてゆめちゃんに服を見繕って貰う……これじゃ本末転倒だ。



 運命の日。大げさだ。しかし僕の心拍数から鑑みるに、今日を運命の日といっても差し支えはないだろう。心臓に負担かけ過ぎて突然死しそうだ。これじゃ命運の日だ。どっちかと言えばね。待ち合わせは映画館に隣接する駅の改札をでたところ。僕はいま、そこの柱に寄っ掛かっている。この改札前の空間、なんて言う名前なんだろう。今世紀最大にどうでも良い。2時間もいたら少し愛着が湧いてきたなんていう訳では絶対にない。べ、別に楽しみにしてて待ちきれなかったって訳じゃ無いんだからね! 結局待ってるし。あ、彼女が改札を通ってやってくる。
「ごめんっ! 待った?」
 おお、見事なまでのテンプレ台詞。
「いや、いま来た所」
 ほら、日本語って時制に厳しくないからさ、「今」って単語に1時間や2時間くらい幅があるって可能性だって無きにしも無いじゃん? 無いのかよ。映画は無難に、全世界興行収入1位! とか、いつも通りの宣伝文句を掲げるハリウッドの有名アクションもの。なんだかんだ面白いからね。流石聖林。スポーツ漫画の高校名にありそうだ。聖林高校。地区大会だったら確実にシード校。
「えっ……この席って……」
 ここは最後列、最奥に設置された、二人がけの席。そう、いわゆるカップルシートって奴だ。
「席、此処しか予約できなくてさ……」
 ……大丈夫だったろうか。気持ち悪がられたりとかしたら、それこそ死ねる。
「……そっか。…………座らないの? 始まっちゃうよ?」
 彼女は奥側の席に座り、通路側の空いている方をポンポンと叩く。
「そうだね。」
 これでも映研には不純な動機なくして入った身だ。映画を見るときは集中して見るタイプだし、注意が他に逸れる事なんて今まで一度もなかった。それでも、身を乗り出して、目を輝かせて、ワクワクしハラハラしている様子を横目で覗き込まないわけにはいかなかった。薄暗いなか、スクリーンの仄かな明かりに照らされる、興奮した横顔を見るだけで、満たされてしまうのだから。……なんだろう。映画を見に来た、というより、映画を見る君を見に来た、という方がしっくりくる。映画自体は面白そうだし、今度は一人でじっくり〝映画を見〟ることにするかな。終わった後はもちろん論評会だろう。映画館のすぐ側には有名なカフェがあるし、そこで話すことにしよう、とこの後の算段を反芻したり、彼女にバレないように横顔を盗み見たり、突然の爆音(どうやら劇中で爆発シーンがあったらしい)に驚いていたら、いつのまにか2時間が過ぎていた。
 予定通り、彼女とオシャレ系カフェで感想だのなんだのを言い合う。ふと思ったんだけど、オシャレじゃないカフェってあんのかな? あの俳優のあのシーン、〝間〟 の演技が良かった、やら、爆風に巻き込まれるシーンのカメラが良かったやら、実に映画研究会らしい真面目な会になった。意外とね。
「ところでさ……」彼女が切り出す。
「そろそろ撮影し始めた方が良いよね?」
「そう……だね、余裕を持って進めたいなら、もう始めるべきだと思う」
「…………主人公の俳優、私が選んじゃってもいい?」
 …………? 主人公の俳優? 主人公? ……そうだ、そう。物語にはヒーローとヒロインが必要だ。僕は?カメラマン。じゃあ他の誰かが主人公をやるのは自明だ。言わずとも明らかだ。明白だ。そんなの言われる前から分かっていたはずだろう? なのに、どうして今更こんなに動揺している? ……動揺している? 違う。僕は……目を逸らしていたことに直面しているだけだ。相対しているだけだ。動揺ではない、これは拒絶だ。知ってはいた、知りたくなかった。考えたくなかった。思いたくなかった。頭の中に無かった。〝無くしていた〟。抑圧されたそれが持ち出されたのだ。僕はいま必死に逃げている、拒んでいる。
「……大丈夫。見つけ次第、連絡して。そしたら……すぐに、撮影を始めよう」
 絞り出す。思想とは異なった声を。捻り出す。感情とは矛盾した言葉を。理性で感情を絞め殺す。そうでもしないと、呼吸が出来ない。窒息しそうだ。窒息死しそうだ。
「良かった! 大丈夫、もう相手は見つけてあるの!」彼女の双眸が輝く。
「その……私の……彼氏なんだけど」彼女の相貌が輝く。
 見ていられない、見たくない。惨状。酷たらしい殺され方だ。僕は何を期待していたのか。何故期待してしまっていたのか。彼女は、もうとっくに決めていたんじゃないか。僕のことなんて眼中にない。僕の事なんて視界にない。僕は道具だ。彼女にとって、僕は、望みを形にする、道具。
 ああ、どうして僕にあんなに慈悲を掛けたのか、慈愛を注いだのか。彼女のコミュニケーションの在り方がそも、ああなのだ。誰にでも等しく、誰にでも優しい。僕はそれを、ただ特別なのだと勘違いしていただけ。僕の知る文化にその形が無かっただけ。これは不幸な事故だ。こうやって幾ら自分を説得しても、意味の無いことだなんて分かっている。理論と感情で、うまく折り合いが付かない。
 ……嬉しそうだ。いつもより、ずっと、ずっと。分かってしまう。分かりたくない。僕の脳がそれを結論づける、僕に理解させる。そこに、共感できてしまう。文系が故の定めか、数学大好き理系人間だったらこんな事にはならないのか。そんな事はないと知っていても、救いを求めずにはいられない。多数のもしもを。数多のifを。幾多の可能性を。あり得た未来を。ありえない現実を。
「最初の撮影って、すっっっっごく重要でしょ?」
 無慈悲だ。
「だから、」
 神は無慈悲だ。
「一番最初に、一番大事なシーンを撮りたいの!」
 残酷だ。
「クライマックスの、」
 夢はいつか醒める。
「遊園地で」
 嬉しくて、楽しくて、幸せだった夢は。
「告白するシーンなんだけど」
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやダいやダイやだいヤだイヤダイヤダ!!
「手伝ってくれるよね?」
 天使の宣告。
「うん……もちろん」
 そして、僕はそれを受け入れた。

 砂糖の沢山はいったフラッペも、カフェで飲むからか、濃いコーヒーの味しかしなかった。



 地獄の幕開けだ。夏休み。気温が高い。湿度が高い。急上昇する不快指数。はしゃぎまわるガキ。ベタベタと気持ちの悪いカップル。そして僕。地獄絵図だ。彼女以外は。彼女は遊園地に数いる客の中でも一際輝いている。ちなみに、この地元密着型の遊園地は、僕らが地元の大学の学生だと伝えると、快く使わせてくれた。やはり、持つべきものはOBである。
「やぁ、君が例のカメラマン君かい? いつもゆめから話を聞いてるよ」
 そして、さっきから僕が頑張って視界から外していた、このいけ好かないイケメンこそが、今作の主人公である。いけ好かないイケメンって……ダメだ頭が回らない。いままでみたいに上手いこと言えない……よく考えたら、いままでも別に上手いこと言えてないし、いつも通りなだけだった。
「あ……そう、ですか」
 僕はこれくらいの返事しかできない。欠陥だ。強者の存在は僕に、自身の欠陥を意識させる。違う。肥大した自意識がそう感じているだけだ。負い目を感じているだけだ、引け目が有るだけだ。継ぎ接ぎだらけの、縫い目だらけの自意識過剰だ。思い出す。僕はただのいじめられっ子だった。虚構に逃げ込み、空想に閉じこもり、挙げ句、映画の華に魅せられた弱者だった。それが、何を大学に入ったから変わるとでも思ったのか。信じ込んだのか。それはどう考えても、〝映画のワンシーン〟でしかない。ここは現実だ。醜い現実だ。いや、醜いのは僕なのだが。
「それじゃあ撮影! お願いね!」
 二人は手を組んで歩き出す。正直、手が震えて撮影どころじゃなくなってしまうかと懸念していた。人間、頑張ればなんとでもなるものだ。嘘、手ぶれ補正機能って凄い。
 いちゃいちゃしているのを見せつけられる。それでも、撮らなければ、撮らなければいけない。逃げ出したい。布団にくるまっていたい。何も考えずに、永遠に。メリーゴーランドで馬が高すぎて上れない困った顔も、ジェットコースターで大声だしてはしゃぐ顔も、コーヒーカップでものすごい勢いで回転させる笑顔も、お化け屋敷で怖がる顔も、すべて彼のモノなのだ。あの空間は彼と、そして彼女のものだ。そこに僕はいない。僕は客観だ。眺めることしかできない。喉から手が出て、その指を咥えて見つめることしか。だから、ただ撮り続ける。無言で、無音で、無表情で、無心で。無垢な二人を。
「最後は観覧車ね」
 僕も、乗り込むのか。あの空間に。狭い空間にカップルが二人。そして僕。首を吊りたい。どこでもいい。だれか僕を轢いてくれ。観覧車の小部屋が真空になっても良いな。早くしないと。誰か。誰か。

 ゴンドラが上昇し始める。
 《これは映画》
 二人は無言で見つめ合う。
 《これは演出》
 熱い抱擁を。
 《これは虚構》
 頂上にさしかかる。
 《これは偽物》
 視線が絡み付き合う。
 《これは贋作》
 ゆっくりと、二人の唇が重なり合う。
 《これは空想》
 ぼくは克明に記録する。
 《これは悪夢》
 違う、ぼくはここにいない。
 《これは妄想》
 ここにあるのはただの〝客観〟。
 《これは非現実》
 ぼくはぼくじゃない。
 《これは幻覚》
 記録するだけの機械。
 《これは大嘘》
 衣擦れの音も、交わされる粘液の音も、荒い呼吸音も、漏れ出る嬌声も、湿った空気も、甘ったるい匂いも、熱気だって、全部そう。
 明日になれば、明日にさえなれば。



 小鳥のさえずりと、柔らかな陽の光で目を覚ます。まるで漫画のようだ。一人暮らしの朝は早い。
 朝食はいつもコーヒーとトースト、そして玉子焼きと決めている。コーヒーの良い香りが漂ってくる。昔の僕とは違い、もうブラックコーヒーを嗜めるし、寧ろ最近はブラックばかり飲んでいる。
 ――繰り返します。8月7日、○○市にて、課外活動中の大学生2名が失踪した事件について――
 男女失踪事件なんていう物騒なニュースをうるさく騒ぎ立てる、耳障りなテレビを消す。
 席に着き、ジャズミュージックを流しながら静かに新聞を読んでいると、リンッとトースターが鳴き、パンがポップアップする。焦げ目も良い感じ。
 あとは、玉子焼きができあがれば完成だ。冷蔵庫から玉子を一つ取り出し、弱火でじっくりと焼き上げる。これこそが、ゆめの玉子焼き。香ばしい薫りが漂い、僕の鼻腔を緩やかに刺激する。感じるのは、青春にも似た甘酸っぱさと、春を思わせるような穏やかさ。その薫りから連想させられる、頭が勝手に想像し始める。きっと乙女の柔肌のように蕩ける舌触りなのだろう。早く食べたい。口に入れたい。消化され、吸収され、そうして僕の一部と成る。嗚呼、この玉子焼きはどんな味がするのか。いや、僕は知っているはずだ。あの玉子焼きの味がするに違いない。だって、文字通り、君の手料理なのだから。あの日のように。いつものように。

 夢野玉子。

 僕の愛した貴女よ。


(了)
第三十回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2015.08.16(Sun) 15:09

車内恋愛

 車内恋愛

 白鳥公康は、田舎からローカル線で一時間、さらに駅から自転車で二十分の学校にわざわざ通う高校生である。理由は、なんとなく地元進学が嫌だったからだ。
 その公康は、行きも帰りも毎日同じ電車に乗っている。というのも、ローカル線ゆえに一時間に一本しか電車がないからである。行きなんかはその電車の一本前だと学校で待ちぼうけ、一本後だと遅刻確定という、それに乗るしかない状態だ。
 色々と大変な生活を送る公康だが、そんな中、一つの楽しみを見つけた。それが、帰りの電車である。……何を言っているかわからない? まあこれから説明するから安心してほしい。
 公康は部活に所属していない。そのため、授業が終わると駅に直行し、高校最寄駅五時始発の電車で毎日帰っている。この五時始発の電車が、実は利用者が毎日公康しかいないのである。座席に寝っ転がって爆睡しようが、四人掛けのボックス席で一人カラオケ大会してようが、気に入らないことに延々愚痴をこぼし続けようが、注意する人、迷惑を被る人は皆無なのである。
 ローカル線なので、元々利用客が多くないということも一因ではある。それに加えて、公康と同じ田舎から彼の通う高校と同じ町に働きに出てきている人たちが、行きの電車には同乗しているが、帰りの時間が彼らと公康で違うという事情があるため、こういった奇跡のような状況が生まれたのだ。
 だからこの電車は公康のオールウェイズ貸し切り状態だった。この空間で、日々のストレスを適度に発散していた。おかげで、大変な高校生活の一年目をどうにか乗り切ったのだ。乗り切ったのだが……。

「……ん?」
「はい?」
 高校二年目が始業した翌日。今年度一発目の授業をこなした公康は、いつも通り五時始発の電車に乗り込んだわけだが、そこには既に先客がいた。公康と同じ高校の制服に身を包み、ボックス席に腰掛けた少女だ。
「……えっと、もしかすると先輩でしょうか?」
 想定外の事態に思わず少女を見つめていた公康に、少女が声をかけた。
「……そういうお前は、後輩か?」
「あ、はい。一年の珠江蘭子です」
「一年生か……あ、俺は二年の白鳥公康な」
「あ、やっぱり先輩でしたか。えっと、こんにちは」
「あ、ああ」
 少女――蘭子の挨拶に、公康はやや雑に返す。
 新入生のなかに、彼と同じようにこの電車を利用して通学する人が現れる可能性はもちろんある。それは公康も分かっていた。分かってはいたが、その可能性はかなり低いと思っていた。あのローカル線で通う生徒なんて十年ぶりだぞ、と去年の担任に言われていたから。十年に一度が二年連続で起こることはそうそうないだろうと高を括っていたから。だから蘭子の登場に、公康はそこそこ動揺していた。
「……なあ、後輩」
「……はい?」
 だから、その呼び方はどうなの、とかツッコんではいけない。
「どこから通ってるんだ?」
「えっと、境村ですけど……」
「……一緒か」
 補足すると境村は、このローカル線のもう一つの終点、堺駅や公康の実家がある村である。
「先輩も境村出身なんですか?」
「……まあ、な」
 肯定しつつ、公康はボックス席の、蘭子の斜向かいに腰をおろす。
「じゃあ、去年境中から境高に進学しなかった唯一の生徒って先輩だったんですね」
 境村には小、中、高と一つずつ学校があり、村人はほぼ百パーセントここに通う。家からの近さ、学力レベルからいっても、それが無難かつベストな選択なのである。だが、ごくまれにそうしないもの好きもいたりする。それが去年の公康であり、今年の蘭子なのである。
「……え、下級生にも知れ渡ってんの?」
「まあ、十年ぶりの珍事でしたからね」
「珍事って……お前も同じだろうが」
「ブーメランっ!」
 ぐはぁ、と言いつつ胸を押さえる蘭子。見事なオーバーリアクション。
「ところで、先輩はどうして境高に行かなかったんですか?」
 心を痛めた仕草をやめ、蘭子が尋ねる。切り替えがはやい。
「……なんとなく、地元進学するのが嫌だったんだ」
「……もしかして先輩、友達いないんですか?」
「後輩。オブラートって知ってるか?」
「ほえ?」
「……はぁ。そういう後輩はどうなんだ?」
 知らなかったらしい蘭子に溜息を吐き、公康は尋ねる。
「私ですか? 私は、この高校の指定校推薦狙いです」
「……意外にちゃんとしてた」
「意外にってなんですかっ!」
 衝撃を受ける公康に、蘭子は叫んだ。
 ちょうどそのタイミングで電車のドアが閉まり、動き出す。
「……あれ? 乗客って私たちだけですか?」
「平日のこの時間はいつもこうだぞ」
「へー。じゃあ、昨年は先輩ひとりだったんですか?」
「ああ。だから、爆睡したり熱唱したり愚痴ったりしてた」
「自由過ぎるっ!」
 よく叫ぶ後輩だな、と公康は思った。
「だが、通学片道一時間半って、結構大変だろ? そうでもしなきゃやってられん」
「ならなんとなくでこんな遠くの学校に行かなければ……と反論してやりたいですけど、それは心の内に秘めておきます」
「ダダ漏れだぞ」
 さっきからちょいちょい先輩に辛辣な蘭子。
「……読書とかゲームでもよかったんじゃないですか?」
 公康の指摘スルーで蘭子は話を続けた。蘭子が男子だったら公康は間違いなくブチ切れている。だが蘭子は女子なので耐えた。
「……電車内でやると酔う」
「あー……」
 公康は三半規管がアホみたいに弱い。三回転で目をまわす。
「……まあ、その時間のつぶし方も後輩の登場によって難しくなったわけだが」
「私のせいですかっ⁉ 」
「うん」
「そこは否定してくださいよ!」
 ここぞとばかりにやり返した公康に、蘭子は「ひどい先輩だー」と膨れる。だが、本気で怒っている様子ではない。
「まあ、冗談はさておき」
「まったく。初対面の後輩をいじめないでください」
「すまんすまん。で、後輩はなにか部活とか入る予定はあるのか?」
「……先輩。もしかしなくてもこの時間の電車から私を追い出そうとしてます?」
「……ソンナワケナイダロ」
「急に片言!」
 どうも公康は後輩をからかいたくなる性分らしい。
「……はあ。私は村の塾に通う予定なので、部活に入る気はありませんよ」
「なるほど」
 少なくとも今後一年、公康と蘭子が二人きりで下校することが確定した瞬間だった。
「つまり、先輩と私は今年一年、毎日二人きりで下校というわけですね」
「それはさっき地の文で説明したぞ?」
「地の文⁉ 」
※メタ発言は控えてください。
「って、そんなことはどうでもいいんですよ。で、どうです? これから毎日可愛い後輩と二人きりで下校ですよ? ドキドキします?」
「……そんなわけないだろ(裏声)」
「そんな裏返った声で言われても信用ゼロですけど」
 冷たい視線が公康を貫く。公康はあえてその瞳を正面から見つめ返した。
「……なっ、なんで無言で見つめ返してくるんですかっ? 応対に困るのでなにか言ってくださいよ~」
 十秒で蘭子が頬をほんのり赤くして目を逸らした。仕返しに成功した公康は「ふぅ」と一息つく。
「ったく。先輩をからかうな」
「すみません。でもほら、先輩に彼女さんとかいたら、なんか申し訳ないじゃないですか」
「そんなのはいないから安心しろ」
「即答ですね⁉ 」
 悲しくないんですか、と蘭子が叫ぶ。
「……いいか、後輩。友人もできないやつに恋人は無理だ」
「より悲しい⁉ 」
「だって、知り合いのいない学校に遠方から単身乗り込んで、朝は一人で登校、業間や昼は既に出来上がっている地元グループになじめず一人で過ごし、放課後は部活もせず一人で直帰だぞ? どうやったら友人なんてできるんだ?」
「や、やめてくださいっ! 嫌な未来予想図が見えてしまうそうです!」
 蘭子が頭を抱えていやいやと首を振る。
「まあ、そういうわけだから変な遠慮はいらん。あと先輩からのアドバイスだが、あの学校で俺たち遠方組が友人を作ろうと思ったら、チャンスは一年の今しかないぞ。時が経てば経つほど難易度があがる」
 と、経験者は語る。
「……先輩が言うと重みが半端ないですね……。肝に銘じておきます」
 明日から頑張ろうと心に誓う蘭子だった。

「先輩。うちの学校の学食ってどんな感じですか?」
 現時点で二人の共通点は学校と地元ぐらいしかないので、自然と話題はそのあたりになる。
「利用率は高いな。コスパは悪くないし、席もそれなりにある。が、その席が全部埋まるくらいには客がいるから、一人で行くと他の人と相席になって、かなり気まずい思いをすることになる」
「……実体験ですか?」
「そんなわけないだろ(汗)」
「(汗)って自分で口に出す人、初めて見ました……」
 誤魔化す気の全くない公康の発言に、蘭子は軽く戦慄した。
「……ええとつまり、先輩は学食を利用したくないわけですよね? ということはお弁当派ですか?」
「おう。一応自作してるぞ」
「…………ヱ?」
「……なに、その、まるで信じがたいものを目にしたかのようなリアクション」
「……またまたー。冷食をチン、ってオチなんでしょう?」
「ちゃんと食材から作ってるっつーの。現実を見ろ」
「嫌です! こんな人のことからかってばっかりのぼっちの先輩が私より料理できるなんて信じません!」
 蘭子は錯乱している。
「……その失礼極まりない発言は聞かなかったことにしてやるから、とにかく落ち着け」
「うぅ~。なんか、女として負けた気がします……」
「大げさだな……」
 ガックリという音が聞こえてきそうなほど肩を落とす蘭子。彼女の料理スキルについては最早言及するまでもないだろう。
「……ええい、もう料理の話は終わりです! 別の話しましょう!」
「別の話っつってもな……何かあるか?」
「え? う、うーん…………ご、ご趣味は」
「見合いか」
「あうちっ」
 あまりにベッタベタな返しだったので、公康も思わず手が出た(えっちぃ意味でなく)。
「その注釈はいらんだろ」
「……先輩? 急に何を……?」
「いや、地の文がな」
「また地の文⁉ 」
※だからメタ発言すんな。
「……えーと、俺の趣味だったか」
「あ、続けるんですね」
「他に話題も思いつかないしな。俺の趣味は……あんまないな。強いて言うなら、一人特殊しりとりとか」
「…………なんですか、それ。ぼっちの奥義か何かですか?」
「ちげーよ」
 蘭子のなかで『公康=ぼっち』という公式が成立しつつある。
「昨年、電車の中で暇潰しにやってたんだよ。歴史用語とかカタカナ語とか会話文とか、使えるワードを縛ってしりとりするんだ」
「……一人でやってて楽しかったですか?」
「きいてくれるな」
「あっ……」
 遠い目をする公康に、蘭子が何かを察した。公式が成立した。
「……そういう後輩はどうなんだ?」
「私ですか? そうですね……じゃあ先輩、当ててみてくださいよ」
「………………」
 面倒くせぇ、と思った公康だが、答えないと話が先に進みそうにないので、文句は呑み込むことにした。
「アキカン拾い」
「……偉いかもしれませんが、趣味レベルとなるとちょっとやばいですね。違います」
「人間観察」
「それが趣味だって言っちゃう人は中二病ですっ」
「目が……疼いてやがるぜ……! ごっこ」
「中二病から離れてください!」
「魔王群進撃に備えた脳内シミュレート」
「いい加減にしてくださいっ!」
「ンジャメナ研究」
「ンジャメナって何ですか⁉ 」
 チャド共和国の首都である。
「崖に犯人を追いつめる」
「火サス⁉  って、真面目に考えてくださいよっ!」
「さてここで問題。今俺が挙げた六つの回答の頭文字をつなぐと?」
「えっ? え、えーと、アキカン拾いに、人間観察に…………ハッ! アニメ、マンガ……!」
「そう。それがお前の趣味だ、後輩」
 蘭子の顔にズビシッと人差し指を突き付け、ドヤ顔をきめる公康。なかなかにうざい。
「せっ、正解ですっ! どうしてわかったんですかっ?」
「第六感。……とか言ってみたいが、実際は後輩の鞄にその手のバッジがいくつもついてたから一目瞭然だった。でも、一発で当ててしまっても面白くないので、少し工夫を凝らしてみた」
「答え丸出しでした!」
 あうちっ、と額に手を当てる蘭子を見て、公康は「もしや、コイツ……ドジっ子?」とか思った。

 そんな愉快な出会いから、あっという間に三か月が経過し、季節は夏、長期休暇目前。あれから三か月間ほぼ毎日、帰りの電車の中で一時間二人きりという時間を過ごした二人の仲は、急速に縮まっていた。
「さて、今日で一学期が終わって明日から夏休み……つまり後輩の入学からもう三か月たったわけだ。友人は出来たか?」
「……せ、先輩は私の友人ですよねっ?」
「おい……」
 らんこは、ゆうじんづくりに、しっぱいした。
「だって仕方ないんですよ! 私にはあのギャルい空間に入って行くことはできません!」
「ギャルいて……」
「あれと友人になるくらいなら、私はぼっちでいいです! 私には先輩がいますし!」
「……お、おう……」
 ここ三ヶ月で判明したのは、蘭子がドジというより天然だということだ。今のように意図せず公康の心を揺さぶること数度、親族以外の女子耐性が皆無の公康の心はあっさり陥落されかけていた。
(やばいな……天然だってわかってるのに勘違いしそうになる……)
「……ん? どうかしましたか、先輩?」
 急に頭を抱えだした公康の顔を、蘭子が心配そうにのぞき込む。近い。
「っ! だ、大丈夫! 大丈夫だから!」
 またしても蘭子の天然にやられた公康は、露骨に話をそらしにかかる。
「とっ、ところで! うちの高校は夏休みの間も週二ペースで午前だけの課外授業をやるわけだが、昼はどうするんだ?」
「課外授業? ……ああ、そういえばそんな面倒なのありましたね」
 おい指定校推薦狙い。
「先輩はどこで食べるんですか?」
「そりゃもちろんここだが」
「……やっぱりですか」
「おう。教室内や学食で食っていくやつらが多いからな。ここが一番だ」
「じゃあ私もここで食べますね」
 ぼっち化の激しい蘭子の即答に、公康はふと疑問を覚える。
「……そういえば、お前って結局弁当派なのか?」
「はい。学食は一回行って懲りました」
「……そ、そうか」
 かつての自分と同じ道を歩みつつある後輩に、公康は複雑な気分になった。
「……でもお前確か、料理できないんじゃ――」
「冷凍食品って最強ですよねっ!」
「……あー、そ、そうだな……」
 もはや何も言うまい。
「……な、なんですかその、ダメな子を見つめるような妙に優しい視線は。別にいいじゃないですか、料理なんかできなくても」
「いや、まあ……でも、できたほうがいいとは思うぞ。変に凝ったりアレンジしたりしなければそう難しくないし」
「塩と砂糖の区別がつかない私でも?」
「ごめん、前言撤回」
「ひどい!」
 いや、塩と砂糖くらいわかれよ、高校生。
「……うぅ、やっぱり私は一生料理できないままなんですね……」
「一生って……少しくらいやろうとする努力をしろよ」
「……じゃあ、私が料理作ったら試食とかしてくれますか?」
「……………………おう」
 一瞬『塩と砂糖の区別ができない人の料理=デンジャー』という公式が公康の脳裏をよぎったが、ここでノーと答えると後輩の心が完全に折れそうだったので、長い葛藤の末覚悟を決め、イエスと回答した。
「ホントですかっ? じゃあ早速最初の課外授業の日、自力でお弁当作ってみるので試食してくださいっ!」
「……お、おう……」
 胃薬どこにあったっけな、と遠い目になる公康だった。

 数日後、課外授業の日。午前中のみの授業を終えた公康は、戦地に赴く兵士のような心持で校舎を後にし、駐輪場で蘭子と待ち合わせ(駅利用者がこの二人だけなので、いつの間にか自然とこうなった)、駄弁りながら駅へ移動し、今日も今日とて無人のローカル線に乗り込む。夏休みの昼間もスカスカなのは去年に公康がリサーチ済み。
「さて。じゃあお昼ですね」
「……(ぺこり、ぺこり、ぱん、ぱん、ぺこり)……おう」
「……あの、先輩? どうして今、神頼みを……?」
「気にするな」
「……そこまで信用ないですか、私の料理スキル……」
「そんなわけないだろ(にっこり)」
「……その爽やかな笑顔が逆に怪しいですけど、まあいいでしょう。ではさっそく、お弁当タイムです!」
 蘭子がいそいそと鞄から弁当箱を取りだす。公康も胃薬の所在を確認しつつ弁当箱を取りだす。
「じゃあ、私のお弁当からお披露目しますね。えいっ」
「…………………………」
「どっ、どうですか……?」
 その言葉に、フリーズしていた公康の思考が再起動する。そして改めて、自分の思考が停止した原因を確認する。弁当箱の半分には、白米が入っている。それはいい。問題は残り半分。玉子焼き……のような黒い何かに、鶏の唐揚げ……に似た黒い何かに、ポテトサラダ……だと思われる黒い何かに、林檎……だったはずの黒い何かと、とにかく黒い。学園都市第二位とタメをはれるレベルの暗黒物質感。そりゃ思考停止もする。
「……し、白と黒のコントラストが綺麗だな……?」
「どんな感想ですかっ! しかも疑問形!」
「そりゃこんな感想にもなるわ何だこの白黒弁当! ある程度覚悟はしてたが、予想の斜め上すぎだ!」
「でも、今朝五時に起きて頑張ったんですよ! とりあえず食べてみてください!」
「…………お、おぅ」
 見た目が悪くても味が……、という砂粒みたいな希望に賭け、公康は自分の弁当箱から箸を取りだすと、震えながら玉子焼き(仮)を掴み、目をつぶって口に入れる。
「……………………マズい」
 焦げていて苦い、というレベルではなかった。おおよそ卵を調理して出てくるはずがない味が出ている。この子は玉子焼きをまともに焦がすことすら出来ないのか、と公康は戦慄した。
「そうですか? お父さんは『気絶するほどおいしい』って言って、本当に気絶するくらい喜んでくれたんですけど」
 ……南無三。でも娘の間違いは指摘してやれ。おかげで被害者が一人増えたぞこの野郎、と見たこともない後輩の父を恨む被害者その二。
「じゃあ、次は唐揚げですね」
 玉子焼きでアレなら唐揚げは……、と思いつつ唐揚げ(推)を箸で掴み、口に入れる勇者公康。
「……ぐはっ」
「ダメージ判定⁉ 」
 思わず架空のHPゲージが削れるほどの強烈なマズさだった。
「……なぜ、玉子焼きもまともに焦がせないやつが揚げ物に……」
 尋ねる公康の声は、それが人生最後の言葉になってしまいそうなほど弱々しい。
「お弁当の定番かと思いまして。それにお母さんは(以下お父さんに同じ)」
 ……娘に甘すぎだろ、ご両親。
「つ、次はポテサラですっ!」
 両親には褒められた料理の反応があまり芳しくなく、若干焦った蘭子がポテサラ(闇)を公康の口に突っ込む。
「……アババババババババババババ」
「先輩が壊れた⁉ 」
「何だこれ本当にポテサラか⁉  ポテトの味が一切しないただの劇物じゃねえか! 一瞬不思議な川が見えたわ! というかそもそもどうやったらポテサラが黒くなる⁉ 」
 公康爆発。
「でっ、でも兄は(以下同文)」
 今お前の家どうなってんの? ねえどうなってんの⁉  と叫びたい公康だが、さっき叫びすぎて息切れしていたのでつっこめない。
「じゃ、じゃあ林檎なら! むいて切っただけですから!」
 それだけで林檎が黒くなってたまるか! と叫びたい公康だが、小中高万年帰宅部は息切れからの回復が遅い。その隙に林檎(魔)が投入される。
 公康はビッグ・バンを幻視した。
「……せ、先輩? 大丈夫ですか?」
 蘭子の質問に、力なく首を横に振る公康。
「すっ、すいません。でも、妹は――」
「後輩」
 既に三度も聞いているその言葉を、公康が遮る。
「お前、もう料理するな」
「ばっさり! ひどいです!」
「いや、だって……このままだと家庭崩壊(物理)だぞ?」
「そこまで⁉ 」
 二度とこの子に料理をさせてはいけないと誓う公康だった。

 季節は巡り、体育祭や文化祭などイベント満載の秋……を通り越して冬。秋を飛ばした理由? そりゃ、万年帰宅部で運動神経の欠片もないこの二人の体育祭とか、ぼっちエリートのこの二人の文化祭とかに、語るエピソードが果たしてあるだろうか、いやない(反語)。
 というわけで冬。十二月も終盤に差し掛かった二十四日。街中にアレが大量発生する、これまた公康と蘭子には全く無関係のイベントの日である。
「先輩先輩。せーの」
「「リア充○ねばいいのに!」」
 本日の電車のなかはいつもより殺伐としている。そして言うまでもないことかもしれないが、この四か月で二人の仲はますますよくなっている。それはもう「お前らもリア充だろうが」とツッコみたくなるレベル。
「まったく。世のカポーは何考えてるんですかね。クリスマスは本来、家族と一緒に過ごす日なんですよ?」
「そうだな。なぜか日本人は恋人と過ごす日だと勘違いしている奴が多いな。滅びればいいのに」
 いつにもまして二人の愚痴が止まらない。
「まったくです。子どものときのように、家族でチキンとかケーキとか食べて、サタンの襲撃に備えてればいいんですよ」
 なにやら不穏な単語が混じった。
「……えっと、言い間違いだよな?」
「はい?」
「いやだから、サタンじゃなくてサンタだろ?」
「……なんですか、それ?」
 どうも二人の会話がかみ合っていない。
「クリスマスといえば、サンタクロースが子どもにプレゼントを配る、だろ?」
「何言ってるんですか! クリスマスにはサタン=クルーズと言う魔王が襲撃しに来て、その襲撃に耐え抜いた子どもだけがプレゼントをもらえる、ですよ!」
「お前んちの教育どうなってんの⁉ 」
 夏休みの料理の件と言い、珠江家はどこか一般家庭とずれている節がある。
「にしても、やっぱりクリスマスって嫌ですねー。ちょっと都会な高校に出てきて、改めてそう思いました」
「あー……。うちの学校のやつら、なんかクラスメイトで集まってパーティしたりすんだよな」
「そう、そうなんですよ! 私のクラスでも『クリパしようぜー!』『きゃー、やるやるー!』みたいな感じになってました。しかも『あ、カップル成立したら抜けていいからねー』『きゃーもう、えっちー!』とか言ってました。……それクリパじゃないよ! もはや合コンだよ! 朽ち果てろー!」
「落ち着け、後輩」
 蘭子、情緒不安定。
「でもって申し訳程度に『あ、珠江さん来る?』とか聞いてくるんですよっ? 来られても困るくせに! なので『年上の男の人と過ごす予定なので遠慮します♪』と盛大に見栄張ってきました(キリッ)」
「をい」
「嘘はついてないですよ? 年上の男の人(先輩)と過ごす(同じ電車で帰る)予定なのは本当でしたし」
「いや、それはそうだが……まあ、リア充相手ならいいか」
「ですですっ」
 リア充にはとことん冷たい二人である。
「……ちなみに先輩は、今日のご予定はどうなんですか?」
「どうって……家でのんびりする予定だが」
「さすがぼっち先輩!」
「さすがって何だ。あとぼっち言うな」
 蘭子もだいぶ遠慮がなくなってきた。
「そういう後輩はどうなんだ?」
「私ですか? 私は普通に家族とサタンの襲撃に備える予定ですけど」
「普通じゃねえ……」
 こうして二人には無縁の聖夜は過ぎていく。

 そして年明け、二月。似たようなイベントが再びやってくる。
「後輩後輩。せーの」
「「バレンタイン○すべし!」」
 というわけで二月十四日、言わずと知れたバレンタインデーである。
「まったく、何なんですかリア充のバレンタインって! 前日に急に召集かかったと思ったら『今から男子全員にチョコ作るので、女子みんなから材料費徴収しまーす』ってふざけないでくださいよっ! そういうのは仲間内で勝手にやってくださいよ無関係の人を無理やり巻き込まないでくださいよ! しかもあっちが勝手に強制したくせに私が財政難を理由に断ったら白い目で見られるんですよ⁉  まじで意味が分かりません! そして今日! 男子に配るときにわざわざ『珠江さん以外のみんなで作ったんだよぉ』とか言うんですよ⁉  これいじめですよね⁉  いじめ認定してもいいですよね⁉ 」
「…………あー、うん。そうだな」
 この日に男子の俺より不満言うって……、とか思った公康だが、蘭子がだいぶ荒れていたので口には出さなかった。
「ほんと、リア充……というか、都会の女子って怖いですよね。今まで私のことなんかまともに認識もしたことなかったくせに、たった一度彼女たちの方針に背いただけでこれですよ。それもこれも、全てはバレンタインという、女子が男子にチョコをあげるというイベントが悪いんです! 消えてなくなれ!」
 蘭子の不満が凄すぎて、公康は自分の不満(チョコをもらった数を自慢するリア充うぜえとか)がどうでもよくなってきた。
「あ、そうだ先輩。チョコあげます」
 公康はずっこけそうになった。
「ちょ、おま、どの流れで渡そうとしてんだよ!」
「え? どこかおかしかったですか?」
「おかしいとこだらけだわ!」
 バレンタインへの壮絶な不満→消えろ!→あ、先輩チョコあげます。どう考えてもおかしい。
「まあ、細かいことは置いといて、とりあえず受け取ってください。頑張って作ったので」
「お、おう……って、え?」
 思いのほか真剣な蘭子の表情に思わず差し出された包みを受け取った公康が、一瞬遅れて蘭子の発言の意味に辿り着く。
「お前、今……作ったって」
「はい。手作りですよ……って先輩っ! 電車の窓を開けて何する気ですか! やめてくださいっ!」
「だってお前、後輩の手作りって……黒い思い出しかないぞ」
「だ、大丈夫ですっ。今回はお母さんと猛特訓したので。私に気を遣わずにストレートな感想を言ってもらうようにもしましたし、一月から準備もしてたので、絶対大丈夫なはずです!」
「後輩……」
 真剣な表情でそう語る蘭子に、いよいよ自分の心が陥落されてしまったことを公康は感じていた。
「ほ、ほら。なんか恥ずかしいのではやく食べてくださいよ」
「あ、ああ」
 妙な空気の中、公康は包装を解き、少々形の歪な、しかし努力の影が見えるそれを口に入れる。
「……ど、どう、ですか……?」
「……普通に食える」
「本当ですか⁉  やった! ……ってこれ、喜んでいいんですかね?」
「いや、マジで凄いと思うぞ。正直、あの暗黒クッキングがここまで改善されるとは思ってなかった。すげー頑張ったよ、後輩は」
「先輩……!」
「これなら、他の料理の上達もすぐかもしれないな」
「……ひゅ、ひゅ~ひゅるひゅ~」
「……何、その、ヘッタクソな口笛」
「……えっと、そのー……1つの料理を普通に食べられるレベルにするのにこれだけ苦労したので、他の料理はもう少し後でも……とか?」
「…………はぁ」
「無言で溜息つくのはやめてくださいよ!」
 後輩の料理スキル改善はまだまだ先か、と思うのと同時、自覚してしまった自分の気持ちをどうしたものかと、公康は車窓を眺めながらしばし物思いにふけった。

 三月下旬。公康の高校二年目、そして蘭子の高校一年目が終了した。学校に来るのも今年度は今日が最後。来年度、次に学校に来るときには公康は三年、蘭子は二年になっている。そして新入生として公康の妹が同じ高校に通うことが決まっていた。それはつまり、公康と蘭子が二人きりで下校するのも今日が最後であるということを意味していた。
「先輩と二人きりも、今日で最後ですね」
「……そうだな。来年からはうちの妹が加わるし」
「どんな妹さんですか? 可愛いですか?」
「後輩よりはな」
「なるほど、身内びいきですね」
「おう」
「否定しない、だと⁉ 」
 公康は少しシスコンのきらいがある。
「まあ、そんな先輩のシスコンっぷりは置いといてですね。今日は私と先輩が二人きりの最後の日ということで、記念に何かしましょう」
「何かって何だよ。あとシスコンではない」
「それをこれから考えるんですよ。例えばほら、先輩のぼっち奥義・一人特殊しりとりを二人でやってみるとか」
「……それで記念になるのか? あとぼっち奥義ではない。というかそもそもぼっちではない」
「なりますって。出会ったころに話に出てきただけでやったことはなかったですし。とりあえずやってみましょう!」
「……あの、さっきから俺の訂正、ちゃんと届いてる?」
「届いてません」
「おいこら」
 意図的に無視している蘭子だった。
「さて。まずは縛りを決めましょうか。先輩的にはどの縛りルールが一番面白かったですか?」
「ダントツで会話文縛りだな」
「ダントツなんですか……で、その会話文縛りってどんなルールなんですか?」
「文字通り、会話文のみでしりとりするってことだ。会話文の長さは自由で、途中で句読点が入っても問題なし。で、先に会話を続けられなくなった人の負け。ただし、負けた人の前の人が、自分の答えへの返しを例示できない場合はその人の負けだ。例えば『林檎食べる?』と俺が答えて、後輩がそれに返せなかった場合、俺が『林檎食べる?』に続く、『る』から始まる文を例示できなかったら俺の負けってことだ。ラ行は自分の首を絞める可能性もあるから注意だな」
「先輩が凄く熱弁してます……しかも、今まで一人でしかやったことないはずなのに何故か対人戦のルールまで完璧……」
「おいそこ、うるさいぞ」
 ぼっちとはそういう種族なのである。
「……ま、まあ、ルールは大体把握しました。じゃあ早速やりましょう! ちなみにこれ、やっぱりしりとりの『り』から始めるパターンですか?」
「いや、さっきも言ったようにラ行からは文が作りにくいから、先攻の人が自由に決めていいルールだ。今回は初心者のお前に先攻を譲ってやろう」
「……その微妙な余裕がむかつきますが、まあありがたく受け取っておきましょう。では、スタートです!」
 こうして、二人での最後の下校記念(?)の会話文しりとりの火蓋が切られた。
「先輩と出会ってから、もうすぐ一年ですね。私まさか、先輩とここまで親しくなるとは思ってませんでした」
「……確かに。俺も、後輩女子とここまで仲良くなれるなんて想像もしてなかったな」
「何でですかね? 意外と似た者同士だったからですかね?」
「ネズミとマウスくらい?」
「いや、まったく一緒ですから、それ! 言語を変えただけですよ!」
「……よくわかったな」
「なんでこの程度で驚いてるんですかっ。……って、話がそれました」
「多分、俺のせいだな」
「なら話を変な方向に持っていかないでください! と、とにかく。……私は先輩と仲良くなれたこと、すごく嬉しく思います。おかげで毎日楽しいですし」
「……親しくなれたのは、俺も嬉しいよ。おかげで毎日退屈せずに済んでる。ありがとな」
「……なっ、何ですか急に。調子が狂うのでやめてくださいよ、そういう不意打ち。恥ずかしいですし」
「……しっかり言葉にしなきゃダメだろ、こういうことは。……思ってるだけじゃ、ダメなんだ」
「だ、だから、何で急に真面目になってるんですか先輩はっ。ほんと、調子狂うな……」
「何だ? 俺が悪いのか?」
「完全に先輩のせいですっ」
「……す、すまない……」
「いや、だからどうして……って、このままだと不毛ですね。今日の先輩はそういうものだとして、話を進めますね。……実は今日は、先輩に言いたいことがあったんですよ」
「よし、言ってみたまえ」
「偉そうですね……。えっと、じゃ、じゃあ、言いますよ? じ、準備はいいですか?」
「……構わないよ」
「……よ、よし…………すぅ…………はぁ………………………せ、先輩っ! わ、私、先輩のことが好きですっ! もしよかったら、私と付き合ってくださいっ!」
「………………いや、あの、えっと…………まじ?」
「じ、冗談なんかでこんなこと言わないですよっ! 本気ですっ!」
「…………凄いな、後輩は。自分の気持ちをきちんと言えて。俺なんか、言葉にしなきゃだめだ、思ってるだけじゃだめだとか言っときながら、一番大事なことを言葉にする勇気も出せなかったのに。ダメな先輩だよ、ほんと」
「と、とんでもない! 私だって、先輩のその言葉でようやく勇気を出せたんですから、私がきちんと気持ちを伝えられたのは先輩のおかげです! だから先輩はダメじゃないです!」
「……すまんな、後輩にフォローまでさせて。それで、えっと……返事、だよな……」
「……な、なんだか知りたいような、怖いような…………でも、お願いします。私は今以上に、先輩と仲良くなりたい」
「……いいよ。俺も、後輩のことが好きだ。本当は先輩の俺から言うべきだったし、そのつもりでもいたんだがな……まあ、こんな言い訳はいいか。こちらこそ、こんな俺でよければ付き合ってください」
「…………い、いやった―――‼  こ、これ、夢じゃないですよね⁉  現実ですよね⁉  せ、先輩、ちょっとほっぺつねってみてください!」
「……いいけど……ほい」
「……いひゃいれす」
「すなわち、現実ってことだ。安心して喜べ」
「はいっ! ……って、あ」
「途切れたな……でも、この続きで『べ』から始まる文なんて思いつかないから、俺の負けだな」
「つまり、しりとりの勝負も恋の勝負も私の勝利ですね!」
「……そうだな」
 最上の笑みを浮かべる蘭子に、公康も笑顔で応じる。こいつには一生敵わないな、と。

「さて。では、来年度……約二週間後に迫った、先輩の妹さんへの挨拶を考えましょう」
「……別に普通でいいと思うが」
「何を言いますか! 先輩の妹さん……つまり、将来の義妹、あるいは小姑への初めての挨拶ということですよ⁉  油断はできません!」
 結婚前提かよ、とか思った公康だが、自分も若干そのつもりだったし、何より恥ずかしかったので特にツッコみはしなかった。
「さっきはシスコンのお兄ちゃんに流されましたが、もう一度確認しておきましょう。先輩の妹さんって、どんな人ですか?」
「んー……俺が言うのもあれだが、若干ブラコンだな。俺が絡むと少し面倒な子になる。そうでなければ基本的にいい子……らしい。あと、俺は別にシスコンではないと何度も言っている」
「そうですよね、先輩が好きなのは私ですもんね」
「くっ……そうやって拾われるのも困りもんだな……恥ずかしい」
 否定するのを諦めるという選択肢はないらしい。
「……でも、ブラコンの妹さんですか……手強そうですね。先制パンチでもかましましょうか」
「……嫌な予感しかしないが……言ってみろ」
「妹さんの目の前で先輩とちゅー」
「一生埋まらない溝ができるぞ」
 あと、そんなことになったら公康が恥ずか死ぬ。
「やっぱりそう思います? じゃあやめときます。それに、そういうことは人前でやるべきことじゃないですよね。どこぞのリア充どもと同じになってしまいますし」
 恋人ができてもリア充批判に陰りが見えない蘭子。
「そうだな。アレと同じにはなりたくない」
 本人たちも言っていたがこの二人、かなり似た者同士である。
「他に何か、ブラコン妹さんの優位に立てそうなことってないですか?」
「なぜ優位に立とうとしている……まあ、そうだな……あ、あいつ料理苦手だな。料理できるだけでかなり尊敬され……ごめん、なんでもない」
「そこまで言ったら最後まで言い切ってくださいよっ!」
 まともにチョコが作れるようになって一か月、もちろん蘭子の料理スキルは進歩していない。
「うるさいですよっ!」
「おお、ついに後輩にも地の文が感じられるようになったか」
※だからメタ発言やめろっつってんだろうが!
「でも、あいつの弱点ってそれくらいだしな……」
「うぅ……じ、じゃあ先輩、私が教えてって言ったら、料理教えてくれます……?」
 上目遣いでそう尋ねる蘭子の破壊力はすさまじい。
「っ……そ、そりゃ、俺にできる範囲でなら教えるが……」
「ホントですか⁉  じゃあ、春休みは毎日料理の特訓しましょう! 私の家で!」
「ま、毎日っ? しかもお前の家って……」
 実は休み中も会う口実が欲しかっただけの蘭子の提案に、公康が戸惑う。蘭子の家と言えば、彼女にダダ甘の両親や兄妹がいるのである。そんな家に彼氏として訪れればどうなるか、火を見るより明らかである。サタンに襲撃されるかもしれない。
「というわけで、さっそく今日からお願いします、先生!」
「きょ、今日からっ? さ、さすがに心の準備が整っていないんだが……」
「大丈夫ですよ。私の家族、かなり優しいので」
 それはお前にだけだよ! と心で叫ぶ公康。
「今日はとりあえず、玉子焼きからレクチャーお願いします」
「…………はぁ」
 すっかりやる気満々の蘭子に、公康は色々と諦めた。
「……じゃあ、まずは玉子焼きを普通に焦がせるところを目指すか」
「目標低すぎないですかっ⁉  私、どれだけ信用ないんですかっ⁉ 」
 こうして愉快なやりとりをしながら、電車の中から始まった二人の物語は、どこまでも走り続けていく。二人で描いていく線路を、どこまでも、どこまでも。
第三十回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2015.08.16(Sun) 15:08
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