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第三十四回さらし文学賞

第三十四回さらし文学賞

概要

 さらし文学賞とは、テーマに沿って書いた作品を、筆者を伏せて作品を公開し、部員の投票により作品の順位を決めるものです。

テーマ
・「今日の〇〇」

<書式>
 自由

<制限字数>
 なし

<応募制限>
 なし

<日程について>
 <執筆期限> 2018年1月8日(月) 23:59
 <投票期限> 2018年1月22日(月) 23:59

<対象作品>
金平糖 柳
襲来 ジャックパンダ
細波のララバイ ジャックパンダ
今日のノルマ 呉巻奈子
今日野さんの事件簿 紗々羅紗羅紗羅
Hypno-Drop-Trip 大江山時雨
こつん 田中智章
Lavender 燕
緑の双子 うみねこ

全13作品

<結果発表>

1位タイ
 Hypno-Drop-Trip 大江山時雨

3位タイ
 襲来 ジャックパンダ
 緑の双子 うみねこ
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さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 08:15

緑の双子

 その日の海風は強くて、目までかかる自分の長い前髪は大きく吹き上げられた。開けた視界に入ったのは、目に痛いほど青い海を背景に立つ、二人。
 〝緑〟。
 目の前に立つ表情の無い少年と、彼に支えられ、花の咲くような笑顔を浮かべた彼より少し背の高い少女を見て、俺が最初に思ったのはそれだった。
 少年の右手指先から肘にかけてと、少女の首筋と白いワンピースから伸びた細い足の左足首から太股の肌に広がる、鮮やかな緑。そこへ、血管に似た葉脈が複雑な模様を描き広がっている。
これが、事前にこちらへ届いた資料にもあった、彼らの症状の一部。実際に目にするのは、この時が初めてだった。まずは現在の進行具合を確認する必要があるだろう。考えを整理した俺は、互いにその表情を動かさない目の前の二人へ、初めて声を掛けた。
「……名前は?」
 俺の問いに、少年の方が小さく首を傾げる。そして、抑揚の乏しい静かな声で言った。
「この場所へ送られるにあたり、番号が与えられました。姓名共に、意味は失われたものと考えていたのですが」
 ……ガキのくせに、冷めた考えだな。少年の言葉にそう思いながら、俺は頭の後ろで両手を組むと、凝り固まった身体を伸ばすため背を反らしながら答える。
「んんー……ああ、そーだな。確かに、ここでは名前に意味はない。ないが、俺はいつも担当する患者は名前で覚えるんだ。何か番号って覚えづらいだろう? お前らは、ああっと――B、13なんとか! ……だっけ? そんなの呼び辛いし」
 欠伸を噛み殺しながら答える俺の答えに少年はしばらく黙っていたが、納得したのかするのを諦めたのか、それ以上理由を聞き返してくることはなかった。そんな少年の隣で、彼に支えられ、足を引き摺った少女が、突然こちらへと身体を乗り出すと大きく笑って言った。
「なまえ、わたしは、ディム。このこ、セオ!」
 自身と少年を順に指さし、少女は嬉しそうに笑う。特に、少年の名を教える時は一層目を輝かせて笑った。少年は、支えた少女が急に大きく動いても表情を少しも変えず彼女をしっかりと支えたまま、そっと彼女の言葉に付け加えた。
「僕達は双子ですが、出生順からディムが姉、僕が弟となっています。その他の情報は先立って送付された資料に。今は」
「ねえ、センセーの、なまえは?」
 セオの言葉をふわりと遮って、ディムは突然そう言った。予想外の問いに、俺は一瞬面くらって、言葉が出せなくなる。にこにこと俺を見つめるディムに、隣に立つセオは、静かな声で嗜めるように囁いた。
「――姉さん。彼は、この島の〝施設〟の診療医兼研究者だ。番号で呼ばれることはないせよ、この島で生きている以上、僕らと同じく名前の意味を失っている。だから、彼のことはただ、センセイと呼べばいいんだよ」
 セオの声は、凪いだ水面の如く微かな揺れも感情の色も持たず、ただ、その響きは唯一、ディムだけに真っ直ぐ向けられていた。彼の言葉を受け取ったディムは、不思議そうな目をして首を傾げると、俺を見つめて尋ねた。
「センセー……。センセイ、なまえ、ない?」
 真っ直ぐな目で俺を見つめるディムの声が、不安定に揺れる。そうして向けられた、その一点の曇りもない瞳に、自分の顔が映っていた。
怠惰に伸ばしたまま放置している黒い髪と、手入れする気もない無精髭。こうなる前の、ここに来る前の自分は、何と呼ばれていただろう。記憶は、今はもうひどく曖昧な形でしか残っていない。しかし、それでいいのだ。それをもう、思い起こす必要は、ない。そう思うから、俺は彼女へと正直に答えた。
「名前は……忘れちまった。残念ながら、もう覚えてねーなあ……」
 俺の、そんな言葉を受け取った瞬間だった。
ディムの表情が、みるみるうちに悲しみで歪み、先程までの花の咲くような笑顔が幻想のように消えていったのだ。
それとは対照に、欠片も表情を変えないセオの隣で、俯いたディムは小さな声で呟く。
「センセイ……忘れちゃった……?」
今にも泣きだしてしまいそうなその表情に、罪悪感にも似たような焦りが徐々に胸の奥へ湧き上がってくる。
……何故俺が、こんな感情にならなきゃいかんのだ。そう思いながらも、留まることなくその表情を悲哀に曇らせていくディムと、その傍らで戸惑いも、何を責めることもせずに瞳を伏せているセオを前に、自分の精神がじりじりと削られていく。ついに、その場の空気に耐え切れなくなった俺は、観念し、ぼそりと呟いた。
「まあ……此処に来て、勝手に付けられた呼称ならある、が」
 ぱっと顔を上げたディムへ、俺は決意が揺らがぬうちにと、少しの間も置かずに呟いた。
「――……ペルレ」
「ペルレ」
 か細い声で告げた俺の名前を、ディムが素直に繰り返す。
「よく、分からない名前だろう?」
 俺は、きまずさやら気恥ずかしさやらを誤魔化すように、鼻で笑いながらそう言った。しかし、そんな俺の耳に聞こえたのは、予想を鮮やかに裏切る二人の声だった。
「……いえ。確かに、あなたを表した名だと考えます」
「ぺルレ! きれーな、なまえ!」
 表情は微塵も動かさないまま、けれど予期せぬ肯定の言葉を返したセオと、ぺルレ、ぺルレと嬉しそうに繰り返すディムをぽかんとした表情で見つめながら、俺は呟いた。
「……お前ら……変なガキだな」
「?」
 嬉しそうに微笑みながら、きょとんと首を傾げるペルレの隣で、セオが静かに言った。
「そうであることを求めているのは、この場所とあなた方なのではないですか」
 セオのその言葉に、俺は小さく瞼を伏せた。
「……さあ、どうだろうな」
 そう俺が呟いたその瞬間、海の方から、爆音とともに強い風が押し寄せた。いつもの通り、船が自動爆破された音だ。 患者たちを運んだ船の、決められた末路。
そうしてここは、この海に一つきりの存在に戻る。
 世界と自分たちを切り離すその音が、目の前にいる双子たちとのやり取りに、まるで白昼夢を見るようだった俺の目を覚ましたような気がした。そうだ――俺の、この場所での役割は。
俺は、羽織った白衣の裾を翻し、二人へ背を向けると、小さく振り返って二人へと呼びかけた。
「……そろそろ行こう。まずは、症状の確認からだ」

***

 二人を引き連れ、小さいこの島の中央にたった一つ建てられた建物へ向かう。その璧は貝のように白く、この日も島へ注ぐ太陽の光を容赦なく反射していた。その眩しさに目を細めながら、石畳の上を、二人の患者を引き連れて歩いていく。自分の後ろを歩く彼らをちらりと振り向き窺うと、長さだけが異なる金の髪を太陽の光で柔らかに輝かせる彼らの歩く姿が目に映った。双子なだけあって、性別は違えどもその見た目こそはそっくりと言って差し支えない。しかし、二人を目に映した瞬間の人々は、彼らを似ている、とは感じ辛いかもしれないと思う。
 積み重なって彼らを作りあげるその小さな歪さの理由は、きっと彼らの〝表情〟にある。
「……セオ! ほら、うみ! うみ、きれいね!」
 太陽の光を受け海面を眺めながら無邪気に笑うディムの表情は、事前に受け取った書類によればもう十代半ばとなるその年齢にしては、あまりに無垢で明瞭だ。幼い、とも言える。そんな彼女に対し、彼女を支えつつ前だけを見つめて粛々と歩を進めるセオは、ディムよりも年下の少年でありながら、その白磁のように静謐な面持ちを崩すことは一切ない。その表情の動きの無さは、どこかこちらに微かな戦慄を覚えさせるほどで。
「……船の中では、見えなかったからね」
 この職業の性分だろうか、二人を既に視診するかのように目に映していた自分の意識は、そっと呟かれたセオの声に覚まされる。セオの声に、やはり色は感じられない。その無色さを彩るような鮮やかな声色で、ディムは答える。
「うん! おふねのなかも、まえのおうちも、ずっとおそとなんにもみえなかったから……うれしい!」
「――……」
 ああ、そうか。俺は、二人のやり取りにそっと息を零して小さく俯く。二人がいたはずのあの場所は、そういった所だった。それは、小さく残る俺の記憶にも未だ刻まれている。

 塗りつぶされたような、白。申し訳程度に置かれたひとつの緑。薄弱な空気。分断された、人々の生きる音――。

「セン、セイ!」
「……っ?!」
 急に重みを増した背中に、息を飲んで振り返る。そこには、自分に突進したらしいディムがこちらを見上げる顔があった。
「ここから、はいる?」
 ディムに指さされて前を見れば、いつの間にか施設の玄関前へ辿り着いていたらしい。どれだけ意識を飛ばしていたというのか。俺は内心の動揺を静めながら、彼らへと答える。
「え……あ、ああ、すまん、ここが入り口だ。施設への普段の出入りは基本ここからしてくれ。一応、外出する際には俺か施設の職員に一声はかけるように。……少し、窮屈かもしれないが」
「問題ありません。前施設ではこちらからの入出要請は不可能でしたから、ここでもそのような対応かと思っていたのですが。考えれば、孤島であるこの環境ではまた対応が異なるのも理解はできます。――姉さん、ここでは、外に出ることができるらしい」
「えっ……おでかけ、していいの?! セオ!」
「……うん。でも、施設の人に声を掛けてから、だけれど」
「わあ……! じゃあ、いっぱいいっぱい、おそとにもいこうね!」
 心から嬉しそうに笑うディムの両手に自らの手を握られたまま、セオは小さく頷く。けれどやはり、その表情に変化はない。彼らの様子を横目で眺めながら、俺はその緊張感のない会話の内容にため息をつき、彼らに忠告する。
「外に行くのはいいが、はしゃぎすぎて海に落ちたりすんなよー。確か昔、初めて見た海にテンション上げすぎて、いい年して海に落ちて死にかけた施設職員が一人……」
「何で来たばっかりの子たちにその話をしてしまうんだいペルレ?!」
 突如玄関の方から響いた弱々しい抗議の声に、俺と双子が一斉に顔を向ける。そこには、玄関の前で仁王立ちをしてこちらを涙目で睨み付ける茶髪の優男がいた。
「おお、エリオ。そーいや、こいつらの通信担当お前だったな」
「何あっさり話を流してるんだよ君は! 何もこんなに早く僕の黒歴史を暴露しなくたって、患者との円滑なコミュニケーションは取れるんじゃない?!」
「おー、すまんなー」
「謝る気皆無!」
 目の前でキャンキャンと吠える同期の同僚を軽く受け流し、俺はキョトンとした表情でエリオを見つめるディムと相変わらず無表情のセオに声を掛ける。
「まー後でちゃんと紹介するが、こいつはここの通信士で、俺と同様お前たちの担当になる。お前たちの情報を〝陸側〟とやり取りしてたのはこいつってことだ」
「ああ、ディムと、セオだね! 初めまして。僕はエリオ。この施設で通信……」
「おらー、入り口のロック解除したから、早く入んねえと閉まるぞー」
「えっ!? あっ、ちょっ、ペルレ! 僕の自己紹介まだ途中なんだけど?!」
「――エリオ。おぼえた!」
「姉さん、ドアが閉まるらしいから入ろう」
「はーい!」
 エリオの叫びを聞かなかったふりをして施設へと入って行った俺に、エリオを軽く一瞥しただけのセオと、彼に促されたディムが続く。
「あっ! ちょっと待って! 閉めないで! ここのロック、解除めんどくさいからー!」
 ……本当に、こいつら賑やかだな。そう思いながら俺は、呆れと僅かなむず痒さを感じつつ、施設の中へと足を進めていった。

***

 ――『新世紀症最終研究施設』。俺達の働くこの場所は、そう呼ばれる。2×××年、新世紀を迎えたこの世界で、人類は突如現れたひとつの問題に直面した。
前例のない奇妙な病例――通称、【新世紀症】の発生・拡大である。
〝飛躍〟という言葉などではもはやそぐわないまでの人類の爆発的な進歩は、前世期の間留まることを知らず、我々人類の生活に潤沢を与え続けてきた。しかし一方で、世界を構成する人類外のあらゆるものを、じわりじわりと侵食していった。
――我々の生きるこの星の〝環境〟を守らねばならない。
そう、ようやく口にし出したのは、一体この世界の誰であったのか。しかしその叫びは、あまりに決定的に、致命的に――遅かった。
人類の輝かしい〝飛翔〟の傍らで傷を受け続けたこの星の環境は、すでにその身へ貯めこまれた毒素を抑え込むことが叶わなくなった。そうして、放たれた毒の矛先を……自らを此処までに追いやった人類へと向けたのだ。
 皮肉なことに、人類が受けた毒は、これまで自分たち以外の存在を何の力も持たない無力な者の顔をしながら穏やかに蹂躙することで得た、叡智や資源では癒すことが叶わず。無論――人類は、大混乱の渦に叩き込まれていった。
 ……それでも、なお、ひたすらに一方的な不利を受け続けることをよしとしない人類の在り方は、流石、特出した力も持たずとも生物界の頂点に君臨しただけの事はあるか。
 人類は、これまでに水面下で続けてきた諍いを全世界で一時休止し、互いの持つ財産の多くを懸け、世界に全七カ所の特定施設を設置した。感染ルートの知れない【新世紀症】患者の隔離、及び対策のための研究、それらの結果を用いた集中治療を行うことがこれらの施設の目的である。七つの施設はそれぞれに患者の症状の進行度、発生原因分析の重要性、などによって【新世紀症】認定された患者をレベル分けし、段階を踏んで患者を収容、また移転させていく。そして、自分達のいるこの孤島――ある大国と大国の領海境界線上に存在するこの島に建設されたこの施設こそ、それらのルートの最終に置かれた、第七の施設。
 まさに、最終――新世紀症患者の最果ての地が、この場所であるのだ。
 そうした思考の最中、無意識の内に伸ばした手が、そっと自らの瞼へと触れる。
「……――」
 その時、部屋にノックの音が響いた。俺はデスクに置いていた書類を小さく整え、扉の向こうへと声を掛ける。
「律儀だなーお前さんは。……どうぞ、入ってくれ」
 その言葉に答えるよう、診察室のドアが開かれる。そこには、変わらずその表情に微かな色すら浮かべないままのセオと、彼に支えられ、朗らかに笑うディムが立っていた。
つい数時間前、本施設に入るにあたって、彼らの現状に関する基本データを取るための精密検査を受けてもらった。その結果と今後の治療の方針を伝えるため、彼らを呼んだのだ。
「ん。とりあえず、そこの椅子に……っと、一つしかないんだった……。悪い、余ってる椅子……」
「……いえ、特に必要は。姉さん、座ってくれる?」
「ん? うん、わかった!」
 俺の言葉を遮り、ディムへ一つしかない椅子へと座るよう促したセオは、そのまま自然と彼女の背の近くに立った。俺は何かを言いかけたが、それはおそらくこれまでも繰り返されてきたことなのだろうと感じ、口を噤んだ。
 改めて、俺は、二人に話し始める。
「先ほど受けてもらった検査の結果が出た。これを基に、簡単にお前たちの症状についての確認と、今後の治療の方針を伝える」
 あまり事態を把握していないのか、ディムは変わらずにこにことこちらを見つめている。その後ろに立つセオは、俺の言葉に小さく頷くと静かな声で言った。
「はい。姉さんへは、後に僕から改めて内容を伝えるつもりですが、問題はありますか」
「……いいや。宜しく頼む。では、まず、お前たちの症状について。お前たちは、互いに共通して、二つの症状を抱えている。一つは、後天的な『緑化症』。もう一つは、先天的な『情知分裂症』。間違いないか」
 セオは、俺の問いに頷く。その様子を見た俺は、話を続けた。
「この二つの症状は、【新世紀症】の中でも、極めて症例が少ない。その分、この施設ですら、それほど確かな情報を持っているわけではない。そんな中でも、最低限判明している事柄から話していこう。これまでの施設で伝えられてきたことと重なるかもしれないが」
 俺は、一度大きく息を吐く。そして、再び口を開いた。
「――まず、『緑化症』。こちらは症状として、身体をめぐる血管から皮膚へと徐々に緑化し、最終的には全身に転移する。現れる植物の特徴、進行のペース、侵食されていく部位については患者ごとに大きな差が見られると聞く。お前たちの侵食部位についても確認させてもらったが、一卵性双生児であるお前たちの間にも、かなりの差がある。そのため、今後の治療においても各自少々異なったアプローチをしていかざるを得ない」
 俺の言葉に、真っ直ぐな眼差しを向けるディムの背で、セオの口元が微かに歪んだような錯覚を起こした自分の目を眇める。しかし、改めて見た彼の表情に動きはない。本当に錯覚、か。
「もう一つ――『情知分裂症』。こっちは、先天的にお前たちが持って生まれたもの、か。一卵性双生児のみに発症が確認されている、極めて症例の少ない【新世紀症】。端的に言わせてもらうと、一卵性双生児のそれぞれに、知能・感情が著しく偏った状態で生まれる症例――加えて、各能力の成長スピードにも大きく差が生まれる。お前たちの場合、ディムに感情、セオに知能の成長の偏りが見られていると推察する」
「ん! わたしとセオ、いっしょでひとつ……ね?」
 明るく頷きながら、セオの方を振り返るディム。その表情に眼差しを落としながら、ディムへと小さく頷いたセオは口を開いた。
「自分たちの症状については、今話していただいた内容でおおむね間違いありません。これまでの自分たちの体感や、前施設で伝えられてきた内容とも一致します。おそらく、僕たちの症状に関しては、この場所であっても持て余すものではあると思いますが」
 セオの言葉に、俺は小さく眼差しを伏せた。こいつの言葉は、正しい。この双子の抱える症状は、現時点で俺たちが把握しているデータが、あまりに少ない。しかしそれは、彼らに限ったことではなく……この施設へと辿り着いた患者たちのおおよそに当てはまることだった。俺は、目の前の二人に気付かれぬよう口内でそっと唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……ああ。『情知分裂症』、こちらについては症状の根源を改善していくことは残念ながら不可能に近い。それは、『緑化症』についてもそう変わらないというのが正直な見解だ。よって、今後の治療では、お前たちから収集していくデータの分析と並行し、それぞれの症状の進行スピードを少しでも退行させるための薬物治療と、各自通常値よりも成長の遅れている能力を伸ばしていくためのカウンセリング治療を中心に行っていくことになるだろう。早速だが、今晩からこちらが開発した『緑化症』対策の薬を服用してもらいたい。内外共にアプローチを行いたいため、皮膚の侵食を抑える軟膏もこちらから出しておく。具体的な今後の計画については、後ほど追って連絡しよう」
 何とか、今後の治療について簡単な説明を終えた俺の前で、ディムがふいに表情を曇らせた。
「……おくすり? うー……つめたい、やだ……」
 じわりと、その大きな瞳へ涙すら滲ませていくディムの様子に、俺はまたもや大きくたじろいでしまう。そんな情けない俺の前で、セオはディムの背中へ彼女を支えるよう静かに手を当てると、ディムへ言った。
「大丈夫。僕も、同じだから。姉さん」
「んん……セオ、も?」
「うん」
「……。じゃあ、がん、ばる……」
 二人の間で交わされる言葉の中は、これまでの何かをこちらへと感じさせるものがあった。それはきっとこの二人だけのもので、しかしそれが、何よりこの二人を二人たらしめたのだろう。俺は二人に真っ直ぐ身体を向け、言い残したことを伝える。
「初めの一回だけは、塗る箇所の指示もしたい。夕飯の後で部屋に届けるから、九時頃は部屋にいてくれ。――話は以上。……夕飯は七時からだな。どこで食べるか、希望は?」
 俺の言葉に、セオが小さく首を傾げた。
「……食事は、感染等の危険性を考えても各自の部屋で行うよう定められてはいるのが、これまでの施設での常でしたが」
「ああ? ……まあ、いい意味でも悪い意味でも、此処は〝最果て〟だ。職員にも、俺含め訳ありのやつしかいない。感染なんてもの、最初から配慮されてないから、此処はあらゆることに関して相当自由だ。それだけが、この場所のいいところだからなァ」
俺は自嘲気味にそう二人に告げ、諦めたように笑う。
そんな俺の前で少し思案した後、セオは答えた。
「……本日は、ひとまず自室で。姉さんに意向を聞いた後、再度希望を伝えます」
「ごはん、たのしみ!」
「分かった、こちらから伝えておく」
その後、少しして、二人は診察室を後にした。

 部屋のプレートを目に映しながら廊下を歩いていた俺は、頭に入れた二人を指し示す記号と番号の羅列を視界の端に確認し、のろのろと動かしていた足を止めた。
「……」
「――はあい! ……センセー?」
 真白いドアをノックした途端に帰って来た元気の良い声に、俺は思わず苦笑する。此処で、このような声色の声を聞いたのはどれほどぶりか。俺は、ロックの無いドアの取っ手を握った手に力を込め、スライドして開いた。
「やっぱり、センセイだ!」
「時間通り、ですね」
 そこには、ベッドの上に座って笑うディムと、ベッドの傍らの椅子に腰かけ、こちらを一瞥したセオがいた。
「おう、秒までぴったりだ。完璧だろ」
 軽口を叩く俺に、セオは対して反応するでもなく黙ってしまう。その反応に、俺は仕方なく、本来の目的を果たすため、二人に持参した幾つかの薬を手渡し、一つ一つの効能と服用時間・回数について説明をしていった。全ての説明が済んだ後、最後に残った軟膏について話す。
「これは、緑化の進行を……まあ、気休め程度ではあるが、遅らせる効果がある。二人とも背へ少し緑化が見られるから、そこに関しては塗りづらいかもしれないが……」
「以前からですので、その点に問題はありません」
「……そうか。ならば、今回だけ、塗る箇所の指示をするから覚えて実際に塗って見てくれ。現時点で緑化が見られる箇所だけでなく、今後緑化の可能性が考えられる箇所にも、事前治療の観点から忘れず塗ってもらいたいからな」
 俺の説明に特段自分の考えと異なる点はなかったのか、セオは素直に頷いた。ディムへの説明も、ある程度済ませているのだろう。俺は、二人へ指示を始めていく。それぞれの軟膏を塗るべき箇所を指示していき、セオの腕への説明で終わりを迎えた。
「……最後に、セオの右腕。現在手については甲のみに緑化が見られるが、今後掌へと侵食する可能性が高い。そちらにも忘れず塗ってくれ」
 俺の指示をすべて聞き終えた後、セオは自らの腕をそっと持ち上げる。そしてすぐ、ベッドの上にいたディムがセオに身体を寄せ、手にしていた低い円柱型の容器に入った軟膏を自らの指に掬うと、その指をセオの右手へと伸ばした。
「……?」
 二人の動きに僅か、思考が止まった俺の前で、ディムはその指先をセオの右手の甲に滑らせた。そのまま、その白い指先は、弟の掌を包んでいく。その動きに、真っ直ぐ落とされる彼女と彼の眼差し。同じ薄緑色に染まった、二人のその瞳は、互いに凪いだ波のようだった。
 初めてその光景を目にした自分は、少したじろいでしまう。しかしそれは、彼らにとって、日々変化する互いの緑化を把握する意味もあるのかもしれないとふいに考えた。セオへと指示した場所すべてへディムの指によって軟膏が塗られた後、今度はディムがセオにその身を委ね、セオの指が緑に彩られたその肌へと滑っていく。
その時、ディムがそっと呟いた。
「……おくすり。つめたいから、きらいだったけど……」
 にっこりと笑いながら、ディムが言う。
「あたらしいおくすり……あたたかい、ね」
「……」
 セオは、頷いた。その眼差しはどこか、小さく和らいでいるように見えた。彼女の言葉に対して、俺は意識せずともどこかぶっきらぼうになってしまう声で、静かに呟く。
「……少し、温感成分が入っているからだろう。この施設は潮風に当てられていることもあって、比較的涼しいことが多いから……患者の体温調節の意味もある」
 先程の診察室での会話の後、調合に少し変化を加えたことは、緊急であったこともあって無許可だが……まあ、これくらいはいいだろう。今言った言葉にも、特に嘘はないし。
 誰に対するものかも分からない弁解を心中で繰り返す俺を見る、セオの目に宿った微かな驚きのような色は……きっと、俺の気のせいだろう。
「ありがとう、センセイ!」
 そう言って笑うディムから、黙ったまま、俺は思わずそっと顔を反らしてしまう。
 セオは、何も言わないまま、それでも軟膏の乗る自らの指先をじっと見つめたまま……ディムの肌に指を滑らせていった。

 彼らの足に、腕に、首筋に滑るその指は、互いの存在自体を慈しむような柔らかさを持っているように見える。
 ――その温もりを、きっと、彼らは互い以外の人間に与えられてこなかったのではないか。
 ふいに、そんな想いが、二人を見つめる俺の頭をよぎっていった。

***

 この施設へ、その身体に緑を宿す双子が来て、数週間が経った。初日に伝えた治療の計画に沿って、彼らの症状の進行データに基づいた治療が日々進められている。彼らも治療への抵抗はほとんどないようで、年齢にしては少し不自然なほど落ち着いた様子で、施設による治療を受けていた。
 そんな中、以前までの施設との違いに少々戸惑いを見せるセオの傍ら、新しく見る物、許されることの多いこの島で、ディムの瞳と表情は常に輝きを失わない。
 この日も、結局ディムの要望で何故か俺の研究室で取ることになった朝食を済ませた後、ディムが少し興奮した様子でテーブルの上へ身を乗り出し、セオと、俺と、何故かここで共に朝食をとることになったエリオへ提案してきた。
「てんき、いい! きょう、うみいく!」
 ここ数日ハマりこんだように繰り返されるその提案に、俺は珈琲のカップへ近づけていた唇を離し、じっとりとした眼差しでディムを見上げた。
「お前、ここのところ天気がよけりゃ毎日それじゃねえか。海なんか行っても、泳げないお前らじゃそんなにすることもなし、流石に飽きねえか、そろそろ?」
「んんー? たのしいよ? うみ!」
 首を傾げながら、無邪気に笑うディムの隣で、セオは無言のまま食事を続けている。すると、苦い顔を浮かべる俺の隣から、お気楽な声が響いた。
「いいじゃない。朝の診察はもう済んでるし、今日の本治療は午後からだ。本当、今日は空も快晴で外出日和だし!」
「……エリオ、お前、他人事だと思って……」
「僕だって、行けることならディムとセオと海行って遊びたいんだよ?! けど、ここ数日は通信の数が酷く多いせいで、通信部は手が離せなくて……。何でこんな天気のいい日に、むさくるしい研究者たちのデータ報告なんて聞かなきゃいけない……」
「食事中に仕事の愚痴はやめろ。飯がまずくなる」
「ひどくないかい?!」
 連日の疲れのせいか、確かにその気の抜けた顔を青白く染めている同僚から視線を外し、先程からこちらに注がれ続けている強い視線の方へちらりと目を向ける。
「……センセイ、うみ、だめ?」
 ひどく悲しそうな表情でこちらをじっと見つめ、肩を落とすディムの様子に、俺は内心大きなため息を吐く。……だから、なんで俺が、こんな視線を向けられなきゃならないんだ……。
 俺は担当医としての決意を持ってディムへ向き直ると、しっかりとした口調で彼女へ告げる。
「いいか、ディム。お前らの緑化は、何が原因で進行するか分からないんだ。お前は脚が長く侵食されてきたせいで歩くことも少し苦労しているのに、泳ぐことはもっと難しいだろう? 海を眺めてそれで楽しいなら、それについては勝手にすればいいが。お前、そのうち海に入りたいとか言い出しそう……」
「んー、あ! そうだ!」
 俺の真剣な話を大きな声で遮り、成人男性とは信じがたい純粋そのものの笑顔でエリオは言った。
「ペルレ、二人を担いで海に入ってあげたらどう?」
「――はあ?!」
 あまりにもあっさりと告げられた想定外の提案に、俺はすっとんきょうな叫び声をあげる。
「お前、何言……」
「施設の南方面にある浅瀬ならそんなに深さはないし、ペルレ、案外力あるし。海水に肌が触れることを避けさせたいなら、高く持ち上げれば問題なし!」
「大ありだ! だいたい、何で俺がそんなこと」
「うみ、はいれる? はいれるの?!」
 エリオの無責任な提案の内容を理解してしまったらしいディムは、途端にはしゃぎ出す。セオは……相変わらず、食事を続けたままだ。くそう、お前何でそう冷静なんだ……。
 視線へ尋常ならざる憎しみを込めてエリオを睨み付けるも、どこ吹く風という様にエリオは俺の視線にまるで気付いていないかの如く、穏やかに微笑んでいる。
「っ……はあ……。ああもう、しかたねえなあ……」
 俺はがっくりと肩を下ろし、観念する。これ以上、ディムの期待に満ちた視線を真っ向から受け続けては何だか狂ってしまいそうだ。
 俺は、この双子が来てから何度落としたともしれないため息を、盛大に吐いた。

「うみ! うみー!」
 目の前に広がる、普段と変わり映えしない青の波紋を、ディムは煌めく光を宿した目で見つめながら叫ぶ。
 変わらず彼女を傍らで支えるセオの揺らぐことない瞳は、まるでそのまま海の色へと染まり切ってしまいそうですらある。
 その隣で物憂げな気分を隠すことなく表情を曇らせていた俺に、セオはこちらを小さく見上げ、どこか澱む口調で言った。
「……――任せて、よいですか」
 その言葉に含まれた感情は、あまりに淡く小さい欠片のようなもので、しかし俺はその感情が少し分かるような気がした。
 それは、きっと、〝遠慮〟と〝躊躇い〟。
 彼女の意思に沿い、その願いを叶えるため、俺へ彼女を任せること。彼女と繋がれた、自らのその手を離すこと。
それが分かってしまったからこそ……今度こそ俺は、沈むばかりだった己の心に活を入れ、ある決意をした。
「……ディム! セオ!」
 己を奮い立たせるよう、無理して声を張って、俺は二人に呼びかける。
 予想外の俺の声に、僅かに肩を震わせたセオと大きな瞳でこちらを見上げたディムに、俺は言った。
「お前ら、まとめて担いでやる。こっちに来い」
「……は……?」
 微塵も動きはしない表情を、さらに固まらせたセオの隣、ディムが今にも跳ねそうな勢いで、こちらに向かって問いかけた。
「いっしょ? セオも、いっしょにはいれる!?」
 その問いに、俺は頷く。そして、セオが抵抗するより早く、二人の身を両腕で抱えた。幸い、身長もそれほど高くなく、一般的な同年代の子どもと比べて細身である二人は、多少無理をすれば同時に抱えることもできないことはなさそうだ。
「っ……お、下ろしてください。海に入りたいというのは姉さんの望みであって、僕の望みでは……」
 流石にこのようなことは想定外であったのだろう、弱々しい声で訴えかけるセオの不安を吹き飛ばすよう、鼻で笑いながら俺はセオに答えた。
「気にすんな! もうここまで来たら道連れだ! それより、しっかりつかまってねえと、落ちたところで俺は助けも何もしないからな!」
 そうして俺は、自分の腕が限界を迎える前にと、脚に力を込めて海の中へと入って行った。二人の身へ可能な限り海水がかからないよう、細心の注意を払いながら波間を行く。そうして海の中を進んでいく度、脇からは空気へ光を散らしたような歓声が上がった。
「わあっ! うみ! なか! きれいね、セオ!」
 きゃーっと嬉しそうに歓声を上げながら、時折自分達へと押し寄せる波と水飛沫に、ディムは笑い声を響かせる。
 一方傍らで固まったまま一言も声を漏らさないセオを伺い見れば、目を見張るようにして、自分達の周りの景色をその目に映していた。もしかすると怖いのか、そう思って少し心配になったが、その目に僅か、ディムに似た光が宿っているのに気付き安堵する。
 そのまま、俺の腕に限界が訪れるまでのあまりにも短い時間ではあったものの、俺達は海の中で波打つ青と戯れた。こうして無邪気に遊ぶ患者など、この場所ではほとんどいない。そのせいか、きっと数分だっただろうその時間が……とても、とても、失い難いものであるような気がした。その後、震える脚と腕で何とか浜辺へと戻り、二人を陸へ下ろす。そして、俺自身は、倒れ込むように砂浜へと寝転んだ。
「っ、あー! つっ……かれた!!!」
 身体中の悲鳴を代弁する様に叫び声をあげれば、隣でこちらを見下ろしたセオが、冷ややかな目で俺を見つめる。
「ですから、僕は望んでいないと。平均より筋力があるとして、十代の子ども二名を海水につけることなく担ぎ続けるのは無理があることは明白です」
「かー! かわいくねえなあお前は! さっきはちょっと楽しんでただろうが!」
 そう言い返してやると、セオは、どこかきまり悪そうに顔をそむけた。あながち、間違いでもなかったのだろうか。
 その時……ふと、俺の耳に、軽やかな音色が届いた。
 音色の響いたほうを見れば……そこには、先程からはちきれんばかりの表情で笑っていたディムが、空を仰いでのびやかに声を響かせている姿があった。
「歌っ、て……――?」
 そうして耳に届く柔らかな歌声は、潮風とまがうほど自然で、何にもとらわれることなく快晴の空へと吸い込まれていく。
 美しい。そう、素直に感じた。
 先程まで、素直とは言い難い態度を取っていたセオも、いつの間にか口を噤み、その歌声を聴いている。そして、最後と思わしきフレーズを歌い終えた後……ディムは満足したように微笑み、一つゆっくりと息を吐いた。俺は、そんな彼女へ無意識の内に問うていた。
「――好きな、歌なのか?」
 俺の問いかけに振り向くと、ディムはその笑顔を一層に柔らかくして、大きく頷いた。
「うん! ……むかし、かあさまがうたっていて。とうさまも、だいすきだったって!」
 その答えに、背中にいるセオが、ほんの僅か息をつめたのを感じた。俺の胸中に、つきりとした痛みが生まれる。
「そうか。とても……いい歌だ」
 心のままそう告げれば、ディムは、心から幸福そうに微笑んだ。
 そうして、その日は午前中いっぱいを使って海の側で過ごした後……海へ共に行けなかったエリオの愚痴やら羨望の言葉やらを滝の様に受けつつ、日は流れていった。

***

 それからの日々の中で、何故か俺達はたびたび海へと訪れ、そこで時間を過ごすことが多くなった。海の中へと入ることはあの日限りではあったものの、海に向かうことに関して、俺もセオも、以前の様に躊躇うことは少なくなっていった。
 それはおそらく……この場所であの双子と出会って以来、俺とセオが、一つの近しい予感を抱いていたからであったのだと思う。

 自身の研究室のデスク前で、体重をかけるように椅子へ座ったまま。ここ数週間のデータの推移を見つめ……俺は、深く重い息を吐いた。
 予期していたその変化は、それでもなお、こうして形として目の前に叩き付けられた時、自分の精神をじりじりと燃やしていく。それは――弱々しい篝火の如く鈍く、何かを消していくような痛みで。
 その時、部屋に響いたノックの音に、俺はゆっくりと身を起こす。
「――どうぞ」
 かけた声に応じるよう開かれた扉の向こうには、セオがこちらを見据えたまま、一人きりで立っていた。
「入ってくれて構わない。むしろ、今、こちらから呼ぼうかと考えていたところだ」
 俺の言葉に特に答えることはないまま、セオは研究室へと静かに入った。そして、俺の前に置かれた小さな椅子へ少しためらいがちに腰を下ろし、こちらへ真っ直ぐにその平静な眼差しを向ける。俺が口を開くより少し先……セオは、その小さな唇を開いた。

「――姉さんの緑化の進行度は、どの程度早くなっていますか」

「……気付いて、いるよな。当然」
 俺の言葉に、セオは小さく頷く。そして、セオは静かな声で話した。
「『緑化症』が発症した初期の段階から……僕たちの緑化の進行スピードには、ある程度の差が存在していました。この島へ来たときの状態からも分かる通り、僕と比較して姉さんの緑化は進行スピードが速い。それは、知能と比して身体的な成長の早い姉さんの体質上、ある意味では当然の帰結でした。それが、ここ数日で、さらに加速している」
 セオの言葉に、俺はゆっくりと頷く。
「データ上も、そのような結果が出ている。もっとも、データなんぞ見なくとも、毎日の視診だけでその事実だけならば明白に分かっていた。想定上の変化とはいえ……この加速度は、極めて異例と言わざるを得ない。おそらく、緑化の転移場所が、いずれかの中枢機関に広がったと考えられる。早急な対応が必要だ」
 そう、セオに伝える脳の思考とは反して、俺の胸中でうずいていたのは、真実に近い偽りを述べる自分への強い憤りだった。そんな俺に気付いているのか否か、セオはその声に小さな緊張を滲ませ、俺に問うた。
「――もし、このまま緑化が進んでいった後。姉さんは、どういった状態になりますか」
 それでもなお、震えなどは微塵も零さないセオに、俺は担当医として、研究者として……正直に答えた。
「これまでのデータから分析と予測した結果、幸い、ディムのケースでは脳への直接の侵食はしばらく後のことになると想定できる。しかし、その間も緑化の進む他の気管は、その侵食に耐えられない。脳の動きを残したまま……侵食が完全化した部位から、ディム自身の自由は利かなくなっていく。言えば――植物状態に、極めて近い」
答えながら、胸中で激情が抑えきれない。皮肉にしたって、趣味が悪過ぎる。こんな……こんなとき、俺は何故――。

何を、変えることもできないのか?

「――そうですか」
 セオは、それだけを答えた。手にしたデータに視線を落とし、微かに震える手を抑えることで精一杯の俺に、少しの沈黙の後、セオは静かに問いかけた。

「悔いて、いるのですか」

 その問いに、俺は思わず顔を上げる。
 セオは、前髪に隠れた瞳を見張る俺の前で……こちらの目を真っ直ぐに見据えるような澄んだ眼差しで、俺に告げた。

「姉さんの望みに沿って下した、あなたの判断を。僕は、間違ったものとは考えていません」

 その言葉に、息を飲む。
 何故、気付いたのか。自分の胸中から消えない、この悔恨を。

連れてなど、行かなければよかったのではないか。
 その願いを、制することこそが、自分の役割だったのではなかったのか。

 そんな、どうしようもない……どうしようもない、悔恨。
 それを、セオの告げた一言は、そっと解いていくような気がして。それは、許されるのか。本当に、自分は。
 許されて、良いのだろうか――?
「尋ねたかったことは、すべて答えをいただきました。……では、僕はここで。失礼します」
 セオは椅子から立ち、自らも鮮やかな緑へと染まりつつあるその手で、部屋のドアの取っ手をつかむとゆっくりと引いた。
 そうして消えていった双子の片割れの背の影をいつまでも目に映しながら、俺は、いつまでも自分へと問い続けていた。

その日から数日して――緑化の進行は、ついに、ディムの首元から頬へと広がっていった。それに伴い、治療にも強い薬が投与されるようになり、ディムの治療に掛けられる時間も日に日に長さを増していった。
少しずつ、顔へと侵食を広げるその緑は、これまでは生活の中の至る所で咲いていたディムの笑顔を、少し動かなくしていった。 
対であるような二人の内、ディムだけが持っていたその聖域が――少しずつ、緑に染まってゆく。
その果てに待つ結末はきっと、セオにとって、唯一の片割れを失うことでもあり、自分の感情を失うことと同義だ。
 そのあまりにも残酷な変化に、セオはなおも表情を大きく動かすことはないまま、しかし、その声音に小さく影を落とすようになった。それは……今までの自分であれば、おそらく見落としてしまっていたほどの微かな変化。
 その日、二人の自室で就寝前の診察を行った俺は、薬の影響もあってか少し早目に寝付いてしまったディムの傍らで、ぽつりと零されたセオの言葉を聞いた。
「かつて僕たちの周りにいた人間達は、皆、姉さんが僕に依存し続けているのだと言いました。けれど、それは違う。依存という言葉が指し示すのが、それに頼り、自らを存在させるということなのなら……僕らは、互いが、そうだった」
「僕は姉さんに依存し、姉さんは僕に依存する。片割れなのだから、それは自然だった。僕たちはそうやって生まれ、そうやって生きてきた結果として、今此処で呼吸をしている」
 生きるため。その最上の目的のために、互いにすべてを与え続けてきた。
 その時ふと、微睡みと現実の狭間でほんの少し意識を覚ましたディムが、セオを見上げ、柔らかに微笑んだ。
「ん……せお。……だいすき、よ」
 そう呟いたディムの声は、唯一人セオに向かい、どこまでも真っ直ぐに響いた。
「僕も同じだよ、姉さん」
 迷うことなく、セオは答えた。それはきっと、もう幾度も、幾度も繰り返し交わされた言葉なのだろう。
 俺は、二人を共に染め上げていくその残酷なまでに美しき緑に、迷うばかりの眼差しを落としていた。

***

 今朝取ったディムの状態データを見つめながら、夜の影に満たされる研究室の中で、俺は僅かな机上ライトの光のもと、ぼんやりとしたままの思考を巡らせていた。
 そうしてふと、書類に落としていた眼差しを上げる。するとその視線の先に、画面へ映った自らの顔を認めた。日頃患者たちの膨大なデータを示すその黒い画面に映った、髪の間から覗く自らの瞳。――――すべてが〝白い〟、その双眸。

俺の目は――生まれた時から、〝白〟かった。

ディムとセオは、二人がこの島へ来たその時に、海風に吹かれた長い前髪の奥に在ったこの目を見ている。持つべき場所に色を持たない、悍ましい瞳。
その虚ろな白に呼び起こされるのは――あまりに空虚な、記憶。

 ――生まれた時からこの瞳を持っていた自分は、自分の周囲で生きていた大半の人間から、異物へ向けるような視線をぶつけられてきた。そうやって気味悪がられるのは、俺だけに留まらず、そんな俺を生み、育てる両親へもその害が波及していくのに、そう時間はかからなかった。それでも初め、両親は俺を擁護した。それはただの体質であり、特徴であり、恥じることは何もないと。
しかし、幾人かの研究者たちの主張を発端に、その原因を環境汚染と疑われ始めた【新世紀症】の出現により、自分たちへと向けられる害の内容と質が変わった頃から、両親の様子にも変化が見られ始めた。
他者への感染の可能性。環境汚染という繊細な国際問題に深く関わる疑いが持たれた、あらゆる国にとって厄介でしかない存在。
あの時実際に受けた害の数々など、一つとして思い出したくはない。否――もう、記憶にないのだ。耐え切れなくなった精神が抹殺したのか、記憶を司る脳の一部が損傷でもしたのか……確かなことは知れないが、その記憶は既に、自分の中から消え去っている。
両親とは、次第に疎遠になっていった。そして、中等学校を出てすぐ家を出た俺は、ともすれば憎悪にも似た一つの決意を胸に、決死の勉学の末、高等学校を卒業後医学部へと進学した。
自国の飛び級制度を利用し、大学院まで最短の年数で飛び級を重ねた俺は、自らの抱える奇病と環境汚染の関係について、睡眠を最大まで削り、研究を進めた。そして――かつて数名の研究者がその原因の可能性について言及した【新世紀症】について、発症の原因が過ぎた環境汚染であることを、明白に突き止めたのだ。
そして、自分の持つこの特異が、『白眼症』と呼ばれる【新世紀症】の一つであることを知った俺は。国が引き起こし、その対応を怠った環境汚染の被害者であることを理由に――国へと、訴訟を起こしたのである。
数々の国がその内容に騒めき、自らと同じく【新世紀症】で苦しむ患者たちの期待を一身に背負った裁判であったが……初審は、認めがたい、こちら側の〝敗訴〟であった。
その後も自らの研究による僅かな財や、全国からの【新世紀症】患者たちの支援により、俺は控訴をしていった。
しかし、結果は二審、三審と進んでも、結果を覆すことは叶わず。それでもなお、変わらず支援を続けてくれる人々もいたが、自らの手元にある裁判へとかけられる資金はほとんど底をついていた。そして、何よりも……自身の精神が限界を迎えていることに、自分の心が一番気付いてしまっていた。
そんな中で、我が国で行うことのできる最終の控訴を前に――俺は、国から、一つの提案を突き付けられた。
〈ここで控訴を取り下げれば――この裁判に関して君と君の親族がこの先受けていくであろう風評被害や攻撃から国がすべてを保護し、その上で君に、国から新たな仕事を与える〉。
そうして俺に提示された職こそ――この最果ての施設での、治療医兼研究者の立場だったのだ。
 国の提案に含まれた意図は、あまりに分かりやすかった。
――『これ以上、【新世紀症】について騒ぐことは許さない』。
 しかし、俺はそれを知ってなお……結果として、その意図ごと、この道を選んだ。それは、自分の手で自分と同じ苦しみを抱える【新世紀症】患者を少しでも救いたい、誰もがその危険性から向かうことを躊躇うその場所へ赴き、自分の小さな力であっても捧げたい……そんな、もっともらしい想いで誤魔化した、あまりに泥臭く、誇りの欠片もない叫びのためだった。
 ――――生きたい。こんなところで死んでやるなんて、それは、それだけは、許すことは出来ない……!
 そうして、国同士の領海境界線上に在る島へ建てられたこの施設へ送られた自分は、いつしか、抗うということを捨てた。
 この場所は、患者の訪れる最果ての地だ。そして、それと同時に……職員たちにとってもまた、最後の地であることに変わりはない。
 国は、世界は、現在もなお【新世紀症】に対する決定的な対応策を見いだせていない。あまりにも人類の医学の常識を超越したその症例は、改善の方法もろくに見つけることもできないまま、俺たちは患者を失っていくのをただ見ていることしか出来ないのが、自分たちの生きる現在の世界の最低な真実だ。
そんな、あまりに歪んでしまった――国という、世界という存在を前にして、俺という一人の人間はあまりにも無力で。こうして今も、暗闇の中、事実を事実として眺めることしか出来ずにいる。
 ――ふいに、デスク上で光を放つ携帯端末の画面。届いているのは、国の政府からの伝達だろう。そして、そこに記されているはずの内容を、自分は嫌というほど知っている。
 この場所で生きる限り、自分達は、暗に示され続けているのだ。

 ――――『その死を、有効活用せよ』。

「……分かってるさ」
俺は、耐え切れず声を零すように呟く。
それが、どれだけ人でなしの思考であろうと……此処で、患者たちの死や抱える苦しみ透過しながら貯蓄され続けるデータが、いつかの未来へと繋がっていくことなど。
 けれど。けれど、それは。その、〝諦め〟と何ら変わりない選択は。
 静かに呟き、俺は深い息を零すと、項垂れるように椅子の上で抱えた自らの膝の間に顔を埋めた。

 ここで幾度、自分はその死を見送った?

 かつて、自分が望んだのは、何だった?

 今日の昼、訪れた二人の自室で、交代で治療の番を待っていたセオと交わした会話を思い返す。
 セオは、先程までディムの眠っていたベッドへと視線を落とし、明白な口調で言った。
『此処へ来る前……姉さんと、もう一度だけ自分たちの病について話をしました。いや――僕たちの持つこれは、病ですらない。僕たちは、ただ、還ろうとしているだけです。かつては誰もがそうであったはずの、この星の一部へ』

『還ろうと、しているだけ』

 そう呟いたセオの声が、今も頭の中に、幾度となく響く。
『僕たちがここへ来ることを決断したのは、ただ、自分たちが最後まで生きていくことのできる場所を探していたからです。これまでの場所では不可能だと考えた。環境の行く末や、国の思惑など、一切関係はない』
『――僕たちの両親は、僕らが生まれてすぐ、『情知分裂症』のみが明白に発症していた頃までは、どちらも僕たちを家族と見なしていた。けれど、『緑化症』が発症した頃から……両親の目は、自らの娘と、息子を見るそれではなくなっていった』
 その言葉に……俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
あまりに、似ていた。彼らと自分。ただ生きるため、此処に辿り着いた、その存在が辿って来たもの。
「両親が僕たちを施設に預けたのは、まだ、姉さんが自身の感情を伝える言葉をほとんど得ていない頃でした。だからでしょうか、今でも姉さんは、おそらく両親から手離された事実を把握しきれていない」
 けれど、と、セオは呟いた。
「それでも――その後、共に僕たちは、施設の中で生き続けました。何より、姉さんが生きたいと願い。僕自身が、生きたいと願ったから。そうして僕たちは、自らの意思で、此処へ辿り着いたんです」
 セオが、誇り高く告げたその言葉に、俺は、何かを覚まされたような気がした。

俺自身も、そうだったのだ。
ただ、自分のままで生きていく場所がほしいと。

 けれど、あの場所で、それはもう叶わないと知った。だからこそ……此処へ来てしまった。
 それなのに、俺は此処でも、自分のままで生きることに躊躇って。

そんな俺に、初めて会ったあの日――海風が見せたこの悍ましい瞳を見た二人は言ったのだ。

『いえ。あなたを確かに表した名だと考えます』
『ぺルレ! きれーななまえ!』

 それは、在りし日に、真っ直ぐすぎる声で告げられた言葉にも似て。

『まるで、真珠(ペルレ)だ。綺麗だね』

『――君、名前を忘れたって言ったね? よし、僕は今日から君をペルレと呼ぶ! どう、いい名前だろう?』

 そんな言葉に与えられた煌きが、今も、この胸に消えない。
 けれど、闘うことを捨て去ったあの日から……俺は、捨ててしまったその闘い方を、この手に戻せずにいて。
「……ディム。セオ」
 存在を確かめるように呟いた声は、夜の虚空の中へ、頼りなく消えていった。

***

 昨晩、異常な発熱を起こしたディムへの緊急対応に夜通しで当たっていた俺は、一時的ではあるがようやくその容態が安定したことを確認した後、まだ朝日の滲む南方の海岸へと足を向けていた。早朝ということもあり、流石に人影はないだろうと踏んでいた矢先、見慣れた茶髪の背中を見つけ、眉を顰める。
「……何でいんだ、お前」
「後から来た人に、文句言われたくないね」
 減らず口を叩く同僚の隣に立ち、薄藍に染まる穏やかな海面を目に映した。かつてのあの日、ここで大騒ぎしたことが何とも現実に感じられない。
 思わず表情を曇らせた俺の横で、エリオがそっと言った。
「――ディムと、セオの事だね」
 俺は、その言葉に答えないまま、変わらず海面を見つめていた。その傍らで、同じく海面を瞳に映しながら、エリオは言葉を続けた。
「二人について、僕も考えない時はない。誰よりも二人だけで生き、二人であることが呼吸の原動であったからこそ、あの子たちはあれ程までに強く……そして、どちらかの欠落がすべてを滅ぼすほどに、弱い。その強さと弱さを恐れているのは、きっと君だけではないよ。この施設の職員、皆がそうだろう。けれどね、ペルレ。僕は最近、少し考えていたことがあるんだ」

「ずっと共に生きるもう一人がいたことは、人間として、彼らは最上に幸福であったと言えるのかもしれない、って」

 振り向いた視線の先で、エリオは、悲しみと優しさを同時に湛えた、器用な表情で微笑んだ。
「……ペルレ。これは、僕の受信したデータにあった情報だ。セオは、初めの施設に入ってしばらくが経った頃から、自分達に関して、一つの記録を付けているらしい。以前それについて本人にそれとなく尋ねた時、見られても特段支障はないってきっぱり言われたから、他人に見られることをそれほど拒んでいるわけではないのだろう」
 そして、エリオは一つ息を吸い込み、あの日の様に俺へ提案をした。
「許可をもらって、読んでみたらどうかな。……大丈夫、これも、診察の重要な一環だよ。それに君なら、セオの大切なものを、踏みにじることにはきっとならない」
 その言葉に対する俺の答えを聞く間もなく、エリオはこちらに背を向けると、一度振り返り、のんびりとした口調で言った。
「じゃあ、僕は行くね。あんまり海辺にいると、またあの時みたいになりかねないし」
 そんな言葉を残して去って行った同僚の背中を見つめたまま、俺は彼にされた提案を思い返す。
「――記録、か……」
 そうして浜辺へ立ち尽くしたまま、空気を満たす波音の中でしばらくの間思案を繰り返した後――俺は海の側から離れた。
ようやく心に決めた、一つの場所へと向かって。

***

 この数か月で、幾度となく立った真白いドアの前に再び立つ。そして……その扉を、ノックした。
「……はい。どうぞ」
 聞きなれた静かな声に従い、俺はドアをゆっくりと開けてそこにいる二人の姿を目に映す。
 午前の治療を終えたディムは、発熱の疲れもあり、目は覚ましているもののベットで横になっている。その布団から出された片腕は、かつての白い肌を埋め尽くす緑で彩られている。血管状の葉脈は既に所々小さな蕾を付けており、細い手首の辺りには幾つかの白い花弁が開いていた。もう、感覚はほとんどないはずだ。自分に気付き、嬉しそうに細められた瞳は片方のみで、彼女の鮮やかな表情を表していたその顔は、既に半分が緑化し、その機能を失っていた。――ここ数日の容態の急変と、身体の約七割を侵食しつつある緑化の程度からしても、担当医としての自分と施設は共に、常に予断を許さない状況であり、彼女の至る〝眠り〟への時間はもうそれほど残されていないだろうと判断してい た。しかし、そのような状況に置かれてもなお、彼女の示す感情は僅かにも曇ることのないほど鮮やかなままで、今も見る者に光を与える。俺は、そんな彼女へ微笑みを返すと、彼女の傍らでその手に自らの手を重ね続ける少年へと声を掛けた。
「――セオ。突然で悪いが、お前さんに、頼みたいことがある」
 いささか急な俺の懇願に、セオは変わらぬ平静な表情のまま、こちらを窺うように尋ねた。
「……記録、でしょうか」
 どこかで、予期があったのだろう。セオのその言葉に、俺はしっかりと頷いた。
「お前が許してくれるならば。それを、俺に、読ませてくれないか」
 そうして俺は、セオへ、真っ直ぐに頭を下げた。
 俺の前で、セオの声が響く。
「これに、あなたが頭を下げるような意味はあるのでしょうか」
 そういった彼の足下に置かれた鞄から、一冊のノートが持ち上げられる。俺は、静かに頭を上げ……セオを見つめ、言った。
「――お前たちと。俺自身が生きていくための……闘い方を、見つけたいんだ」
 その言葉を聞いたセオの瞳が、微かに開かれる。
 そして、少しの後――セオは重ねていた手で一度ディムの手をぎゅっと握りしめた後、椅子から立ち上がると、俺にノートを差し出した。
「この記録が、あなたの求める答えを導くかは、正直言って分かりません。けれど、ほんの少しでも……姉さんの願いに繋がるなら、僕は」
 そう言ったセオの伸ばした手は、自らも以前より多くの肌をその緑へと染めていた。それでもなお、彼の在り方は、きっと何一つ変わらない。
「――……ああ。本当に、感謝する」
 俺は再度深く頭を下げると、手にしたノートを丁寧に抱え、二人の部屋を後にした。

 昼下がりの、まだ柔らかな陽の残る研究室の中で、俺はデスク前の椅子に腰かけた。
「……――――」
 手元にあるのは、双子の片割れが自分に託した、彼らの記録。
 俺は、その頁を、開いた。
 その瞬間……目に入ったのは、広い白の中へ浮かぶように記された短い一文。


【――今日の幸せを知る。】


 その頁の裏に透けた文字を追う様に、俺は頁をめくる。

【二人以外のすべてを失ったあの日、姉さんと唯一つ誓った言葉だ。忘れないよう、此処へ記しておきたい。自分の記憶の精密さは、事柄に関するものは同年代の他者と比べて比較的強固であるものの、情動に関するものは酷く希薄であることを自覚している。この記録は、そういった自身の記憶を補うためのものでもある。今後も、本記録を可能な限り続けていく所存だ。】

 そして、続く頁に綴られていた小さく几帳面な文字は、此処に来るまでの施設で受けた〝治療〟の内容、担当医の言動に対する分析、自分の得た情報の内ディムに伝えるべき重要なこと、ディムと自分の容態や、自らの身体の感覚等を事細かに記していた。
 そこに在ったのは、紛れもない、〝二人が生きる〟ことへの強き執着と希望。俺が、自分の願いと共に、今一番守りたいそれ。
――そうして捲っていった頁の先、ついに彼らがこの場所へと訪れた日の記録を見つけた。

【○月○日 最終施設へ到着。担当医、担当通信士と接触。姉さんの状態は比較的安定しており、彼らへの印象も良好であるようだ。自分に関しては、これまで同様際立った感情の変化は感じられない。ただ、この場所はこれまでの施設とは異なる点が非常に多いことが判明した。それを知った後、若干心中に残ったこれは、〝戸惑い〟、と呼ぶものだろうか。しかし、姉さんや自分にとって、現状では特に害のある変化ではない。姉さんに関してならば、比較的良い変化とも言えよう。この場所こそは、僕たちの生きていく場となりうるのだろうか。今後も分析を続ける。】

【●月●日 本日は朝の診断の後、姉さんの希望に沿って施設南方の海へ担当医と共に向かった。海に入りたいという姉さんの希望を叶えるため尽力してくれたことは感謝しているものの、自分に関してはそのような希望は一切示さなかったにも関わらず、担当医は自分も姉さんと共に担ぎ上げ、海へと入って行った。正直、意図が全くつかめない。緑化進行への僅かながらの影響の可能性を把握していてなお、このような行動に出たのは、やはり自分に欠如する〝感情〟というものが確たる理由として彼の中に存在したためだろうか。それを理解しきることは、自分にとって大変難しい。しかし……あの時。姉さんと共に、波間を進んでいった時。自分の中に僅かながら生まれた、普段あまり持つこと のないあの思考は――人のそれより極めて少ない自分の、〝感情〟の一片であったのかもしれない。】

 ――その後の頁にも記され続けた、この場所で過ごす日々の中で二人の得ていった考えや感情、その変化、揺らぎ。
 それらは二人ではない自分でも明確に分かるほど、この場所を自分たちの〝生きる場所〟として受け入れていった彼らの、此処で得た多くの光に満ちていた。それは、ディムの緑化進行が急速に進み始めた後も、いっぺんも変わることなく続いていて。
 自分が、結局は何も救うことなんて出来ないままでいると思っていた、この場所を。
彼らは――自分たちの最上の願いを叶える場所として、選び取ってくれていた?
 胸中で、自分の抱えるすべての恐れや罪悪を解き放っていくような、溢れる光を感じながら……俺は、最も新しく書き加えられた、その頁に書かれた文を目にした。

【〝感情〟という、本来人間が持つべき能力が著しく欠落していると判断される自分ではあるが。感覚、というのだろうか。そういった酷く曖昧なもので、けれど一つだけ、確かに確信していることがある。こうして記憶に在る今、此処に記しておこうと思う。】





【あの日、姉さんと誓った僕の幸せは。いつも、隣にあった。】





「…………――――」

 世界のすべてが止まった、その瞬間。
部屋に響いた――――アラームの音。

 ノートから手を離した俺は、その音の示す先へ、走り出した。

***

 ――いつの日であったか、施設に来てそれほど経っていない頃のディムに聞いたことがある。
『ディム、お前……なんだか、眠る前やけに嬉しそうだよなあ。――眠るの、好きか?』
『うん!』
 今とは違う、何にも止められることのないその笑顔で、ディムは迷いなく答えた。
『ねむると、あしたがきて、そのあしたのなかにはセオがいるから。あっ、いまはセンセイも! エリオも! だから……』


『だから、あしたは、とってもきれい』


「っ……ディム!!!」
 これまでノックを欠かすことのなかった部屋のドアを力任せに開けると、既に幾名かの施設職員がディムの容態急変の対応に当たっていた。
「セン、セ……イ」
 ベッドの上でその顔を消えてしまいそうなほど白く染めながら、それでもなおディムは、周りの職員たちや俺へと微笑みを向けるよう、もう力も上手く入れられないであろうその顔を動かそうとしていた。
 その傍ら、この数日間、変わることなくその場所で彼女の手に自らの手を重ね続けたセオが、これまでと変わらぬ平静な表情のまま、ほんの僅か彼女自身の色を残す指先を握りしめていた。しかし、強く姉の手を握るその指先は、彼女の顔と変わらないほどに白く色を失っている。その光景に、俺は一瞬、立ち尽くしてしまう。
 しかし、先程まで自らが目にしていたセオの文がこの身へ示してくれた答えに、力を失いかける身体を奮い立たせる。そして、対応に当たる職員たちに交じり、ディムの容態を確認していった。
 ベッド脇の機器の画面に流れ続けるデータは、ディムの決定的な衰弱を明白に示している。今この状態となって自分たち医師ができることは、患者の迎える〝眠り〟への安寧な導きと、その後、確かに有効な治療法が発見されるまでの患者の身体を適切に保存するための準備のみであることを、俺は誰より分かっていた。しかしそれは〝理解〟であり、〝納得〟とは決定的に違う。
 現状で可能な範囲の対応を行いつつ――俺は、まだ、彼女の笑顔を失った後の自身の闘い方を、どこか決意しきれないままでいた。
 その時……ひとつの、声が聞こえた。
この島に来て以来、色を失いつつあった自分の毎日を、眩しく彩り続けたその声が。

「セン、セ……」

 思わず手を止め、振り返った俺に、ディムはもうほとんど自分の意思で動かすことのできない声帯を懸命に震わせ、真っ直ぐに俺を見て言った。

「……うみ、たのし、った……ね。センセ、セオといれてく……たの……はじめて、で、わたし」

「あり、がと……うれし、かったの。だか、ら」


「じぶん、のこと……ちゃんとぎゅ……て、して、あげてね……?センセー……」


「……ディ、ム……――――」

 ――――この子は。気付いて、いたのだろうか。
 俺が、ずっと、抱え続けてきてしまったもの。
 自分の生を愛せない、その痛みを。
 じわりと、柔らかな熱を持っていく思考の傍らで、ディムへ繋がれた機器の微かな警告音は高さを増していく。しかし、その残酷な転調を止めるすべを、俺たち人類は今、誰一人として持たない。これまでもそうだった。それが、それこそが――俺は、何よりも、許せなかったのに。
君は、許すのか。
こんな人類を。――こんな、俺を。
 君と、君を誰より愛する人を――こんなにも長く側にいた末に、今はまだ救うことすら出来ないのに。

 それでも。君はきっと、その誰より鮮やかな表情で……俺たちに、この世界に、微笑むんだろう。
 ――――それならば。
 これからの俺が、もう一度闘うべきものは、きっと。

 再びの警告音。震える指先で、機器を調節していく。一時と信じる彼女の眠りを、ほんの少しでも穏やかなものへ導くよう。
 そうして、ディムの瞼は徐々に、花が開かれたその花弁を蕾へ戻すよう、やわらかに閉じられ始める。おそらく、もう彼女の身体からは、彼女の意思で力の籠められる場所はすべて失われつつあるのだろう。
 その力無き右手を、セオは、永久の様に強く握りしめていた。
 少年の表情は、動かない。その力を込めた手に、小さな肩に、微かな震えを宿すこともない。しかし、ディムだけを真っ直ぐに見つめるその瞳だけは……壮絶なまでの青い光を、彼の眼差しに散らしていた。
 最終警告を知らせる、アラームの甲高い音が部屋中に響く。その中でなお、セオの感覚のすべては、ディムだけに向けられているように見えた。

 その時。

 動かなくなったはずのディムの左手が、ふるりと持ち上げられたのだ。その指先が、セオの頬にそっと触れる。
 もう自らの意思で表情を浮かべることの出来ないはずのその顔が、ゆっくりと、動いて。
 ディムは――――笑った。

 かつて、弟と俺の隣で歌った、その声で。
 彼女は、弟に、言った。



「ただいま、せお」



「――――――おかえり、ディム」



 ねえ、これは、終わりなんかじゃない。だから、大丈夫。

「ずっと、一緒に行くよ」

 囁いたセオの頬から、雫が零れ落ちた。 それは、彼がこれまでの生の中で手にした、最大の感情の欠片。

 片割れの一人が眠るとき、二人は、一つに戻れたのだろうか。

 そうして、緑の双子の片割れである少女は、柔らかな眠りについていった――――。

***

あの日から、数日が経った。
 彼女の眠る面会室へ足を入れると、そこには既に、小さな少年の背中があった。
 陽の当たるベッドの上で、自らの緑とその周りに敷き詰められた可憐な花々に抱かれながら、彼女は幸福な表情で瞼を閉じている。
 少年は、可憐な花に抱かれたその頬に、柔らかく指を伸ばした。その横顔に浮かぶのは、ぎこちないながらも、瞳の奥に暖かな光を湛えた淡い微笑みだ。
「――おはよう、姉さん」
 そうして静かに落とされた声は、以前の様な無色ではない。
「おはよう、ディム、セオ」
 俺が欠けた声に、勢いよくこちらへと振り返ってほんの微かに瞳を大きくしたセオは、すぐにその表情をかつてのような平静そのものの顔へ戻すと、少し抗議を含んだ目でこちらを見遣った。
「……いたのであれば、もう少し早く声を掛けることもできたのではないですか」
 その言葉に、俺は笑いながら答えた。
「俺としては、極めて適切なタイミングで声を掛けたつもりだったんだが」
「……」
 ディムへの挨拶を聞かれたことが気恥ずかしかったのか、セオは耳をほんの少し赤く染めたまま、それを誤魔化すように普段と比べて少々強い口調でこちらへと尋ねてくる。
「それより、あなたがこうしてわざわざ僕の元に来たということは、何か事柄を伝える目的があったのでは?」
「お前は、ほんとに察しがいいな……」
 セオの変わらず鋭い指摘を受け、俺は彼へ伝えようとしていた内容を告げた。
「今朝、〝陸側〟の方から、正式に連絡が入った。現在の【新世紀症】に関する情報システムを大々的に再構築する案が、世界各国の参加する会議で数日中に立案される」
 俺の言葉に、セオの瞳が大きく見開かれる。その反応を確かめつつ、俺は話を続けた。
「以前から、【新世紀症】患者に関するデータのやり取りが、陸側の一方的かつ鈍重であることに危機感と苛立ちは感じていたんだ。そもそも、僅かながらも年々確実に増加している【新世紀症】患者に対しての情報提供の機会もあまりに少なく、内容も貧弱だ。これは、現状の情報システムが非効率極まりない体制であることと、国のお偉いさんらがどうでもいいことにがんじがらめになっていつまでも様々な決断を先送りにしていることに原因がある。そのことについて、正式な文書で本施設の名を借り、代表してあちらへと送り付けた。初めは渋っていたやつらも、そのままの態度を続けるようであればこちらからの情報提供を一切断つという意思を示した途端、あっさりと態度を翻してきやがっ てな……。昨日までに立案内容をまとめさせ、それが完了したって知らせが今朝届いたとこだ」
 鼻高々に話していた俺に、セオが静かな声で尋ねる。
「その通信の担当、エリオさんでしょう」
「…………うん、まあ」
「そうだとすると、今回の抗議に関しては、エリオさんに最も、そして多大なる負荷がかけられたように思えてならないのですが」
「……今度、世界の美しい海を集めた写真集とか送ろうと思う」
 素直にエリオへの感謝を認めた俺に、セオは、それまでとその眼差しを少し変え、口を開いた。
「……僕からも、一つ、あなたにお話があります」
その声色に、こちらも態度を改め、彼を真っ直ぐに見つめ返す。そしてセオは、確かな決意を湛えた声で、俺に言った。

「――研究を、したいのです。僕たちの病の研究を、自分自身で」

「……セオ……」
「自分たちの病を、治すためだけに研究に取り組みたいのではありません。この病について、知りたい。この、僕たちの〝緑〟の事を」
 そう言ったセオは、ほんの少し躊躇うように言葉を切った後――こちらを見上げ、姉と同じ真っ直ぐな瞳で、俺に伝えた。

「もしかすると……こうして人体を染めていくその色素のみを、特定の部位へと移す方法だってあるかもしれない。それは――もしかすれば、〝瞳〟にだって」

「……瞳、に……――」

この瞳に、〝緑〟を。
二人と同じ――――その、色に。

「……悪く、ないかもな」

 その緑は、気高く、美しい。
彼らと同じ色を持った自分の瞳は、この世界を、どう映すのだろう?

――『センセイ、いっしょ! うれしい!』

 弟と自分の立つその傍らで、すべての人々へと示された屈託のないその表情の如く色とりどりの花へ包まれたベッドで眠る君は、そんな自分の瞳を見た時、そう言って鮮やかな笑顔を見せてくれるだろうか。そう考えた瞬間、脳裏によみがえった彼女の花咲くような笑顔と澄んだその声に、俺は淡く微笑んだ。
「……あ! 二人ともここにいた! 昼食の準備できたらしいから、もう少ししたらおいでー!」
 部屋の前の廊下を偶然通りかかったらしいエリオが、部屋の入り口から顔を覗かせ、こちらへと呼びかけている。
「おー、今行く!」
 その変わらずのんびりした声に答え、セオのほうを見遣れば、彼も小さく頷いた。
 天頂へともうじき辿り着く陽の光が、快晴の空と共に、ディムとセオ、そして自分のいる部屋へと真っ直ぐに差し込む。
 放たれた窓から柔らかに吹き込んだあの日と同じ海風が、軽くなった自分の前髪を軽やかにさらっていった。


テーマ:「今日の幸せを知る」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:55

Lavender

『今日の夜うちに来る?』
『晩御飯、何』
『豆乳鍋にしようかなって』
『了解』
 砂織からの返信はいつも簡潔で、早い。私はちんたらと返事を待たせるタイプだから、そんな彼女が羨ましかった。買い出しに行こう。白菜、大根、にんじん、ネギはうちにあるから、あとは豆乳とつみれ。それに豚バラも安かったら嬉しいな。あっ、お米も炊いておかなきゃ。確か冷やご飯のストックを切らしちゃっていたはず。豆乳鍋のシメに、雑炊は欠かせないよね。

「はい、じゃあ今日はここまで。解散!」
 会長がパンと手を叩くと、一気に緊張の糸が切れみんながふうと息を吐いた。私と砂織の所属する演劇同好会は毎週金曜に通し稽古を行っており、その後二人で我が家に向かい晩ご飯を食べるのが恒例だ。元々家が近いのだけど、数ヶ月前たまたまスーパーで出会った彼女は脂っこいお総菜ばかり買い上げていて、見かねた私が自宅に招いたのが始まりだった気がする。
「詩穂ちゃん」
 砂織を探してきょろきょろしていた私に声をかけたのは、彼女ではなく先輩の悠翔さんだった。人なつっこい笑みとふわふわの猫っ毛がトレンドマークで、地味で目立たない私なんかにも優しくしてくれる素敵な人だ。
「この後、暇? 良かったらみんなでご飯行かないかなって」
「悪いけど、今日は二人で用があるんで」
 悠翔さんと私の間に割って入るようにしてやってきた砂織は、息を切らせて言った。悠翔さんは、残念とさほどがっかりした風も無く手を振って離れていった。
「別に良いのに、みんなとご飯食べに行っても」
「でもあんた、もう食材買ってるんでしょ」
「そうだけど、そんなのどうとでもなるよ」
「いいの。私大人数で食事するの苦手だし」
 砂織が早く行こうと手を引っ張るので、私は慌てて荷物を纏めた。

「ねえ、もういいでしょ」
「まだ早い! もうちょっと待って」
 お腹空いたーと騒ぐ彼女を横目に、私はじっと鍋と見つめ合っている。もう少し、まだ食べ頃じゃ無い。じっくりコトコト火にかけた鍋はどんどん良い匂いを増していき、私のお腹ももう我慢の限界が近い。その時鍋ぶたの端からふつりと泡が吹き出てきた。沸騰してる、今だ!
 ふたを開けた瞬間、もわわっと蒸気が溢れだして、私の眼鏡を一瞬で曇らせた。慌てて外すと、パッと顔を明るくした砂織が箸を構えているところだった。慌てて菜箸で鍋の中をチェックする。ネギはくたくたに煮えているし、白菜は芯までトロトロだ。にんじんを刺すとスッと箸が通る。うん、もう大丈夫。お玉で優しくすくって彼女のお皿に盛り付ける。
「いただきます」
 そう言うやいなや砂織は大きな口を開けて具材をかき込んでいった。何度見てもその豪快な食べっぷりはすがすがしくて好きだ。負けじと私もたっぷりよそって頬張った。豚バラの甘さがまろやかな豆乳とあいまって、もう、最高。
「あつっ」
「どうしたの、大丈夫?」
 見ると砂織はつみれを咥えて涙目になっていた。こいつが意外にやっかいで、表面温度は下がって大丈夫と思ってかぶりつくと中がアツアツのままなのだ。通称つみれトラップ。きっと私しか呼んでいる人はいないだろうけど。
「はいお茶。そんな慌てて食べなくても逃げないよ」
「ありがと。わかってるけど、お腹減ってるからつい」
 フーフーと執拗に息を吹きかけるその姿がなんだかおかしくて笑ってしまった。こうしちゃいられない、私も食べないと。砂織はかなりハイペースでどんどん食べていくので、鍋みたいに一緒につつく料理だと気づいたら自分の分が無くなっていた、なんてことになりかねない。
 食べ盛りの女子大生二人がかりで、小さな鍋はあっという間に中身を消してしまった。残った汁に軽く洗ったご飯を投入し、ふたをして再びしばらく待つ。ある程度お腹が膨れた砂織も、今度は静かに待機している。
「はい、出来た!」
 白いご飯と白い豆乳。真っ白でふわふわで、幸せな雑炊の完成だ。れんげですくってたっぷり頬張ると、思わずほうとため息が出た。砂織も恍惚とした表情を浮かべている。お米の間にふわとろの湯葉が絡まってたまらなく美味しい。このために市販の鍋の素を使わずに豆乳を買ったんだ。成分無調整のものを使うのがポイント。
「うちじゃシメに雑炊じゃなくって、最初からうどんを入れて一緒に食べるんだ
よね。だから、なんか新鮮」
「え、それはそれで美味しそう。絶対うどんと合うよね」
「雑炊も美味しいけど、うどんもいいよ」
「今度やってみようっと」
はふはふもりもり食べていくと、雑炊もあっという間に完食してしまった。冬はやっぱり鍋が好きだ。洗い物は少なくてすむし、具材を切って適当に煮込むだけでお手軽に完成するし、なにより美味しくてあったまる。こたつに、卓上コンロに、土鍋。冬の三種の神器だ。
「ほい、デザート」
「わっありがとう! 紅茶淹れるね」
 私が頑なにご飯代を受け取らないせいで、砂織は代金代わりに手土産を持ってきてくれるようになった。それはデザートだったりお酒だったり日によってまちまちだけど、今日はどうやらクッキーらしかった。私はアッサムティーを淹れてそわそわしながら戻った。砂織が持ってきてくれるものには、外れが無い。
「お待ちどおさま」
 砂織は既にオシャレな箱を開けてクッキーを取り出していた。うっすら紫がかった点々がアクセントのそれは、甘い匂いをほんのりと漂わせている。
「良い匂い……」
「でしょ? ラズベリーのクッキーなの」
「へえ、初めて見た」
 ラズベリーの紅茶は一度飲んだことがあるものの、クッキーもあるなんて知らなかった。一口囓ると、ふわりとした甘さの中にパッと広がる華やかなラズベリーがすがすがしい。これは紅茶に合う。あまあまのミルクティーも好きだけど、ストレートにして正解だった。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした。大丈夫? 足りた?」
「ん、大丈夫。ありがと」
 満足げに頷くと、砂織はスマホを開いた。私も食器を下げると、昼間買ったマンガを手に取った。ご飯を食べ終わった後、私たちは特に会話をするでも無く各々好きなことをして過ごしている。別に話さなくたって寂しくないし、互いに干渉しすぎないこの適度な距離感が私は好きだ。こうしてゆったり過ごす夜は、悪くない。明日の私に洗い物を押しつけていることを除いては。
「あ、そろそろ帰るね」
 砂織は決まって、日付が変わる頃になると帰ってしまう。何度か泊まっていけばと提案したことはあるが、彼女が頷いた日は無かったので諦めた。
「砂織、手袋忘れてる」
「あ、ほんとだ」
「もう、外寒いんだからしっかりあったかい格好しなきゃ駄目だよ」
「はいはい、おかんかあんたは」
 そういって彼女は目をキュッと細めて笑った。猫のように大きくて釣り目気味な砂織の目は、笑うと柔らかい印象になって可愛い。少しオーバーに引かれたアイラインが魅惑的にゆがむ。
「じゃね、お邪魔しました」
 彼女が帰った後の部屋は少し寒くて、私はいつもそそくさとこたつにもぐりこむのだった。


『砂織―、今日の晩御飯が思いつきません。決めてください』
『えー、別に何でも良いんだけどなあ……』
『なんでもいいが一番困るの!』
『じゃあ、肉』
『食材じゃなくて料理名!』
『だから何でも良いってば』
 たまにこういうことがある。考えても考えても晩御飯のメニューが思いつかない。悩みに悩んだ末、スーパーで安く売っているものにしようと先送りにする。スーパーに向かったところ、豚ロースが特売だった。一〇〇グラム八八円。そんなに肉が食べたいなら肉々しい料理にしてやろう。今晩のメニューはトンテキに決定した。
 豚肉の筋を切って下ごしらえをし、味噌やコチュジャン、その他諸々を混ぜた
タレの中に漬け込む。冷蔵庫に突っ込んでしばし放置。後は夜に焼くだけで、ウマ辛トンテキの完成だ。金曜は全休でサークルの練習があるのみなので、日中こうしてゆったりと晩御飯の準備が出来るのは嬉しい。もっとも、時間があったところでたいしたものは作れないけど。

 舞台の上の砂織は、何者も寄せ付けないオーラを放っている、と私は勝手に思っている。中学から演劇をやっていたというだけのことはあって、一年生だてらに先輩方と互角、いやそれ以上の演技力で誰をも魅了する。スポットライトは彼女のためだけに輝いて、観客もキャストも皆彼女に賞賛の拍手を惜しみなく浴びせた。たかが練習でも、舞台は彼女の独壇場だった。
「今日もすごいね、砂織ちゃん」
 いつの間にか悠翔さんが隣に来ていた。彼は砂織と同じ役者だけど、私は彼らとは違い裏方のスタッフだ。ステージに立つ役者の人たちは私たち裏方とはちょっと壁みたいなものがあって苦手だけど、砂織も悠翔さんもそんなの気にせず話しかけてくれる優しい人たちだ。
「ほんと、すごいですよね。スターって言葉は砂織のためにあるみたい」
「あとは協調性がもうちょっとあればいいんだけどなあ」
 そう言って悠翔さんが苦笑する。ステージの上では、先輩に飛ばされた指摘に対して砂織が噛みついている最中だった。
「俺なんか特に嫌われてるみたいだし」
「悠翔さんが? 砂織にですか?」
「うん、あの子俺に対して当たりがキツい気がするんだよなあ。って、詩穂ちゃん以外には大体キツいみたいだけど」
 確かに砂織は目つきが悪いし、ぶっきらぼうで愛想が無いし、先輩にも容赦なく反抗するかわいげの無い人に見える。私も話すようになるまでは、正直ちょっと怖かった。でも実際に話してみると、彼女はコロコロ表情を変えるし、本当に美味しそうにご飯を食べてくれる可愛い人だ。怖いやつだと誤解をされるのは、ちょっと悲しい。
「砂織、すっごく良い子なんです。誤解しないであげてください」
「大丈夫、わかってるよ。そうじゃなきゃ詩穂ちゃんが友達にならないもんね」
「とも、だち」
 違うの? と悠翔さんが眉を上げた。私は小首をかしげた。改めて考えたら、わからなくなってしまった。
「私、砂織と友達なんでしょうか」
「俺の目には仲良しに見えたけど、実はそうでもないの?」
「そういうわけでは無いんですが……、何をもって友達と呼べるのかなあって」
 うーん、と悠翔さんは腕を組んでうなった。
「そう言われると困るなあ。あっ、休日でもわざわざ待ち合わせて買い物に行くとかじゃない? ただの知り合いならしないでしょ」
「私、砂織と外出したことありません……」
 よくよく考えると、サークル以外で砂織と会うのは我が家でご飯を食べるときだけだ。一緒に洋服を買いに行ったり、オシャレなカフェでお茶したり、なんてことは考えたことがないわけじゃないけど、誘って断られるのも傷つくなあと思いノータッチでいた。
「あとはほら、お互い呼び捨てしあうとか!」
「……私、砂織に名前で呼ばれたこと無いです」
あからさまにしょぼんとした私を気遣って、悠翔さんはあめ玉をくれた。あやし方が幼稚園児相手だ。なんだか笑顔になった。
「じゃあさ、明日俺とお茶しない? どうせなら映画とかも見てさ、一緒に遊ぼうよ」
「私と、ですか」
「そう、詩穂ちゃんと。俺、前から詩穂ちゃんともっと仲良くなりたいと思ってたんだよね。用事ある?」
「いえ、大丈夫ですけど……」
「よし、決まりね。じゃあ一〇時に駅の改札で」
 爽やかに手を振って去って行った悠翔さんと入れ替わりで、汗だくの砂織が駆けてきた。
「お疲れ様。はい、タオル」
「ありがと。今日はもう上がって良いってさ」
「やった、じゃあ着替えて早くご飯食べよっか」
 砂織の毛先からしたたる汗が色白の鎖骨に落ちて、なんだかとっても色っぽかった。

 家に帰ると、丁度良い具合に炊飯器がピーピーと炊きたてを知らせた。私は日本中の人に伝えたい、炊きたてのお米がいかに素晴らしいかを。まずふたを開ける前から立ち上る蒸気がふわんと甘い香りでたまらない。そう、お米は甘いのだ。
それを知らない人があまりに多すぎる。曇ってしまった眼鏡を外しふたをカパッと開けると、蒸気のカーテンの中から光り輝くご飯粒が姿を現す。そこにそっとしゃもじを差し入れて、一粒一粒を潰さないように優しく混ぜていく。その度にふわっと揺れる匂いを堪能するのが、食いしん坊としてはたまらない至福のひとときだ。
冷蔵庫から取り出したトンテキを、油を引いたフライパンに入れ火にかけた。焼いている間に、キャベツを千切りにする。ぶきっちょな私は細く刻むことがなかなか出来なくて、これじゃせいぜい百切りだよなんて思いながら泣く泣くお皿に盛り付けた。千切りは失敗した後のリカバリーがきかないから嫌い。変に手を加えるとみじん切りになっちゃう。フライパンがじゅうじゅうと美味しそうな音を立てている。でもまだ早いかな。冷蔵庫から豆腐を取り出して切り、かつおぶしをちょんと乗っけて冷や奴の完成。ここでやっと火を止めて肉を取り出す。まな板の上でちょっと冷まして中まで火を通し、スッと包丁を入れた。よし、手抜きだけど美味しいからいいでしょ定食、完成!
ご飯を運ぶと彼女は本に夢中だったようで、ごめん後ちょっとだからと顔を上げようとしない。冷めないうちに食べなよと伝えて、私は先に食べちゃうことにした。
「お、めっちゃあからさまに肉だね。いただきます」
「だって、砂織が肉食べたいって言ったんじゃん」
 程なくして本を置きトンテキにかぶりつく彼女の顔はやっぱり可愛くて、私だけが知っているんだと思うとちょっと嬉しくなった。
「なににやけてんの」
「んー、今日悠翔さんが砂織怖いって話してて。でもそんなことないよなあって」
 彼の名前を出した途端、砂織がちょっと眉をひそめた。
「あれ、もしかして悠翔さんが嫌いだった?」
「別に、そういうわけじゃないけど」
「ならもうちょっとどうにかしなよ。砂織に嫌われてるんじゃないかって気にしてたよ」
 ふうんと気のない返事をして、砂織は冷や奴を箸でぷちんと切った。しまった醤油を出し忘れたと思ったけど、彼女は気にせずもぐもぐと味わっている。いいんだ、醤油の無い冷や奴でも。自分用に今更取ってくるわけにもいかず、私もそ
のまま食べることにした。うう、味が物足りない。そしてかつおぶしがめちゃくちゃ口の中にひっつく。
「別に良いよ、他の人に何言われようが」
「私が良くないよ、砂織見た目ほど怖くないのに」
「生意気言うのはこの口か」
 砂織がにやけながらズボッと切れていない千切りキャベツを私の口に突っ込んだ。思いの外長くて口の端から垂れ下がってしまった。なんでこんなに繋がってるんだ、もはや才能かな? とりあえずもぐもぐしていると、砂織はトンテキをつまみながら話を続けた。
「ほかには何話してたの。ずいぶんと仲が良さそうだったけど」
「明日一緒に映画見に行こうって誘われちゃった」
 砂織の箸がピタリと止まった。一緒に行く? と誘ってみたけど、無言でふるふると首を振られた。ほらね、やっぱり。わかってはいたけど、少し落ち込む。食事を再開した彼女は、いつの間にか私よりも早く食べ終わってしまった。
 今日の手土産は入浴剤で、ありがたく今度使わせてもらうことにした。砂織はさっき読み終わったはずの本を開いて、一から読み直し始めた。
「そんなに面白い? その話」
「すっごくお気に入り。もう五回は読んでるんだけどね」
「じゃあ私も読んでみたいな」
「いいよ、貸したげる。今日置いて帰るね」
「やったあ」
 テレビをつけると、芸能人の名前特集なんてものが流れていた。特に面白くも無いけどなんとなく眺めていると、そういえば、と砂織が口を開いた。
「私の名前さ、変わってるでしょ」
「確かに、あんまりその漢字はあてないよね」
「実はこれ、出生届にお父さんが書き間違えちゃったんだよね。本当はさんずいのオーソドックスなやつだったんだけど」
「なにそれ、変更できなかったの?」
 残念ながら、と砂織は肩をすくめた。
「昔は確かに嫌だったけどね。でも、最近じゃちょっと気に入り始めたかな」
「どうして?」
「私に似合ってるじゃん」
 砂を織る。そう書く彼女の名前が似合ってるっていうのがわからなくてじっと見つめていると、微かに花の香りが漂ってきたような気がした。さっきまでは食事の匂いにかき消されてわからなかったけど、ゆっくり意識して息を吸い込んでみると、それは砂織の方から来ているようだった。
「あれ、香水つけてる?」
「お、当たり。良く気づいたね」
「いつもと違う匂いがするんだもん」
 注意しないと嗅ぎ分けることが出来ないほど微かで、それでいて一度気づくと惹きつけて止まない、そんな不思議な香りだった。
「ラベンダーの香水なの」
「へえ、こんな香りがするんだ。この間食べたクッキーとはまた違う感じだね」
「ね、面白いでしょ」
 そう言って彼女が笑うと、八重歯がちろりとのぞいた。見る度に、唇とこすれて口内炎が出来ないかなあなんて少し心配になる。余計なお世話かな。
「正直、ラベンダーってトイレの芳香剤のイメージだったから意外」
「あんたサイテーだね。人の香水を言うに事欠いてトイレの芳香剤呼ばわりって」
「冗談だよ!」
 オタオタする私を砂織はニヤニヤと眺めて、私にでこぴんを食らわせた。


「で、これがその時出来た傷なんですよ。砂織爪伸ばしてるから引っかかれたみたいになっちゃって。ひどくないですか?」
「ははっ、仲が良さそうでいいじゃんか」
 翌日、私は約束通り悠翔さんと映画を見に行ってそのままカフェへと向かった。映画はお約束展開のラブロマンスで、途中から完全に先が読めてしまい正直つまんなかったけど、悠翔さんはいたく感動したらしく瞳を潤ませていた。
「詩穂ちゃん、砂織ちゃんの話ばっかりだね」
「そうですか?」
「そうだよ、自覚無いの?」
 自覚が無いわけでは無いが、悠翔さんと共通の話題となると必然的にサークル関係になってしまうだけだ。そして私は、砂織以外とはあまり話さないわけで。ほかの話を一生懸命考えたけど思いつかなくて、誤魔化すようにコーヒーをすすった。薄くて酸味が強い、苦手なタイプだ。
「なんで、悠翔さんは今日私を誘ってくださったんですか」
 話すことも無い、私なんかといて楽しいんだろうか。そもそも何故私と映画を見に行ったのかがわからない。そう言うと悠翔さんは、ちょっとため息をついて顔を背けた。向けられた耳が真っ赤になっている。
「あー……なんていうか、もっと詩穂ちゃんと仲良くなりたかったから、かな」
「はあ」
 わけがわからずぽかんとしていると悠翔さんは、やっぱ遠回しじゃ伝わんないか、と頭をかいた。ふわふわの毛先がぴょこぴょこと跳ねて揺れる。
「俺、詩穂ちゃんが好きだよ」
 あまりの衝撃に何も言葉が出てこなかった。悠翔さんは私の目をまっすぐ見て、君の笑顔に惹かれた、気づいたら目で追うようになっていた、なんてことを早口で述べた。
「急にこんなこと言って混乱させたと思うし、俺のこと全然知らないと思うから、返事は急がないよ。ゆっくる時間をかけてもっと仲良くなって、お互いのことを知って、それから判断して欲しいんだ」
 そう言って颯爽と私の分までお会計を済ませてくれた彼はとってもスマートで、私はどうしていいかわからなかった。


「ねえ、ねえちょっと、焦げてるってば!」
 砂織の大声でハッとすると、グツグツ煮込んでいたはずのミートソースは黒い煙を上げて焦げ付いていた。慌てて火を止めると、今度は隣の寸胴がブワッと泡を吹き出した。そうだ、パスタも茹でてたの忘れてた。どのくらい放置していたのだろう。麺はぶよぶよでソースは焦げ臭い。とてもじゃないが食べられたもんじゃなくなってしまった。
「ごめんなさい……」
「謝ることじゃないよ。それより大丈夫? なんかおかしいよ、あんた」
 悠翔さんの告白は一週間経っても私の耳にこびりついていて、今週は何をやっても上の空だ。仕方が無いから二人してコンビニに出向き、お弁当を買ってきてチンした。今時のコンビニ弁当はなかなかにハイクオリティで、毎日ご飯を作っているのがなんだか馬鹿らしくなってしまう。それでも砂織は、あんたのご飯の方が好きだな、なんて言ってくれるからにやけてしまう。
「で、何かあったの」
 食後のコーヒーをすすりながら、彼女は言った。たった百円でコーヒーを提供するコンビニはすごい。私もちょっとぬるくなったカフェオレをこくりと飲んだ。ほどよい甘さが浮ついた気持ちを大人しくしてくれた。
「実は、悠翔さんに告白されたの」
 砂織が空になったカップを叩きつけるようにしてテーブルに置いた。そうして私の方を見ずに、それでどうしたの、と小さな声で尋ねた。
「まだ返事はして無くて、迷ってるんだけど……受けようと思う」 
「どうして」
 砂織の声は微かに震えていた。
「どうしてって、断る理由もないし……。少しずつ仲良くなってお互いを知ろうって言われて、嬉しかったの、私」
「そう、あんたは告白されたら誰でもオッケーするような人なんだ」
「そういうわけじゃないけど」
「……帰る」
 砂織は急に立ち上がって、大股で玄関に向かっていった。
「ちょっと、砂織」
「なに」
「なにって、なんでそんなに怒って」
「別に怒ってない」
「怒ってないならこっち見て、砂織、砂織!」
 無理矢理引き留めて振り返らせると、砂織は涙目で私を睨んだ。目力に思わずひるんだすきに手を振り払われた。
「……もう、来ないから」
「なんで、そんなこと言うの」
「だって、彼氏が出来るんでしょ。私なんて要らないじゃん」
「どうして? ね、私たち友達だよね」
「あんたのこと友達だなんて思ってない」
 震える声で砂織は言った。私は頭をがつんと殴られたかのような衝撃に襲われて、視界がぐわんぐわんした。ねえ悠翔さん、やっぱり駄目じゃないですか。私、砂織と友達じゃ無いって。頭の中に靄がかかってるみたいに思考が重い。急に冷たくなった彼女が理解できなくて、わからなくて、少し怖い。でも涙目の端で滲むアイラインが、私に一つの推測を与えた。
「もしかして……砂織、悠翔さんのこと好きだったの」
「違う!」
 彼女は自分の大声にびっくりしたように肩を震わせて、そして小さな声でそうじゃないのと言った。
「砂織、こっち向いて」
「……やだ」
「砂織」
 そっと袖を引っ張ると、彼女が赤い目をしてやっとこっちを向いた。どうしてあなたが泣くの。わからなくて私まで涙が出てきた。砂織が私の頬に手を伸ばしかけて、何かを逡巡したようにピクッと指を震わせて、そして腕を下ろした。
「詩穂」
 絞り出すようなその声はか細く震えていて、ともすれば私の嗚咽にかき消されてしまいそうだった。
「……砂織、初めて名前呼んでくれたね」
「ごめん」
「砂織!」
 もう彼女は振り向いてくれなかった。玄関のドアが閉まる直前、ごめんねと、もう一度だけ聞こえた気がした。

 ふらふらと部屋に戻ると、まだラベンダーの香りが漂っていて、彼女がそこにいるみたいで、また涙が溢れてきた。
 すとんと腰を下ろし、本棚に置かれたままとなっていた彼女の本を手に取った。まだ途中までしか呼んでいないけれども、これを返す機会もなくなってしまった。余命幾ばくも無いヒロインが、主人公の男の子と少しずつ距離を深める、そんな話。ぱらぱらと読み進めていると、ある一文が目に止まった。
『君が呼ぶ私の名前に意味がつくのが、私を君の中の誰かにするのが怖かった』
 死にゆくヒロインが、主人公の名前を呼ばなかった理由。ああ駄目だなと、嗚咽が止まらなくなった。
 砂織に初めて名前を呼ばれて、詩穂って彼女の声で呼ばれて、本当は少し彼女の特別になれた気がした。でも違ったんだ。きっと名前を呼んでくれなかったときの方が私は彼女の中で特別で、さっき私はどうでもいい存在になってしまった
んだ。名前を呼んでも意味を持たないから、だから名前で呼ぶようになったんだ。そう思うとどうしようもなく苦しかった。
 私たちの関係は友達と呼ぶには少し歪で、ほかの名前を付けるにはあまりにも遠すぎた。どうして砂織が私の元から去ってしまったのかわからない。私がわからないからこそ、去ってしまったんだろう。
 耐えきれなくなって携帯を取り出し、悠翔さんに電話をした。
『もしもし、詩穂ちゃん、どうしたの?』
 いとも簡単に私を呼ぶ悠翔さん。震える声で絞り出すように名前を口にした砂織。
「悠翔さん……会いたいです」
 部屋に満たされたラベンダーの香り。私の嗚咽に合わせて、ふわりと揺らめいて消えない。

テーマ:「今日の晩ご飯」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:52

きょうのころしかた

 いつだってそうだ。僕はいつだって、何も満足にこなせやしない。こんな簡単
な、自分の幕引きすらしくじってしまう。
 病院のシーツはどこまでも冷たい色をしている。穢れを嫌うように、四方の壁
もカーテンも何もかも僕を拒絶する白だ。ここは息が詰まる。いや、何処に居た
って息が出来ないのは、今に始まったことじゃない。
 ワンルームの狭いぼろアパートは、思っていたよりずっと通気性が良かったら
しい。七輪を買って、練炭を用意して、全ての窓に目張りをして、用を足して、
火を付けて、いつもより多めに睡眠薬を飲んで、壁により掛かって、目を閉じて。
これでやっと終われると思っていた。ようやく終われると思っていた。けれども
愚かな僕は玄関の郵便受けに目張りを忘れていたようで、そこから漏れ出た異臭
に気づいた隣人があわやガス漏れかと通報したらしい、といった内容を見舞いに
来た大家は目も合わせずに告げた。
「またこういうことあったらね、困るんですよ。年の変わり目で申し訳ないんで
すけどね、月末までには出てってもらえるかしら」
 僕は彼女が持ってきた色鮮やかな果物を見ながら、かすれた声ではいと答える
しかなかった。大家は去り際に小さな声で何かを言い、ぺこりと頭を下げてドア
を閉めた。
 ああ、息が詰まる。

 それからの数日はよく覚えていない。見ず知らずの人たちが入れ替わり立ち替
わり訪れては、やれ検査だのカウンセリングだのと称し僕をつつき回して出て行
った。幸いにも発見が早かったため、何の後遺症も残っていないようですと白衣
のおじさんが笑いかけてきたのを覚えている。何が可笑しい。思い出しただけで
むかむか来て、小石をザッと蹴飛ばした。てんてんと側溝に向かって跳ねていっ
たそいつは、夕闇に紛れてすぐ見えなくなった。
 病院からアパートまでは電車で二駅の距離があったけれども、歩いて帰ること
にした。人混みに行きたくなかった。誰とも会いたくなかった。向こうにしては
ただすれ違うだけの僕なんて何の気にもならないんだろうが、他人は見ているだ
けで惨めになる。人通りのなさそうな街灯の少ない小道を、ゆっくり、ただゆっ
くりと歩いて帰った。道すがら、退院おめでとうと笑って肩を叩いた病院の人た
ちを思い出した。みんな卑怯なくらい僕に優しかった。それはきっと僕が、見ず
知らずの可哀想な人だからだ。大家のほかには誰の見舞いも来ない、孤独で可哀
想な人。何のめでたいこともない、それなのにみんな嬉しそうな顔で拍手してく
れた。これからもしばらくは通うんだよと、一週間分の薬を手土産に。
 随分ちんたらと歩いていたおかげで、家に着いた頃にはとっぷりと日が暮れて
いた。澄み切った冬空に、気持ち悪いくらい白い息が溶けていく。そういえば今
年はまだ雪を見ていなかったな、なんて考えた自分が馬鹿みたいでひとり笑った。
雪なんて見る気があったなら、今頃僕は。
「あの」
 振り向くと、すぐそばまで小さな女が走ってきた。僕もそんなに背が高い方で
はないが、彼女の頭は僕の肩に届くほどしかない。しかもよく見るとハイヒール
を履いている。コツコツと硬質な音を立てて近づくその人は、記憶が正しければ
隣室の住人だ。話したことはおろか、ろくに挨拶さえ交わしたことはなかったが。
「先日はどうも」
 僕の嫌味にも動じず、彼女は僕のことをじっと見つめた。長い前髪の下で小さ
な目が瞬きもせず僕を映す。なんとも嫌な顔をしているなと、我ながら思った。
その瞳がフッと陰り、前髪がさらりと揺れた。
「先日は、余計なことをしてしまい大変申し訳ありませんでした」
「いやそんな、別に」
 今時珍しく、随分と綺麗にお辞儀をする子だ。そんな丁寧に謝られると、僕の
方が困ってしまう。なんと返して良いかわからず、貼り付けたような笑みで目を
そらした。
「謝るようなことじゃないでしょ。人として正しいことをしたわけだし」
「人として正しいことが」
 顔を上げた彼女は何故か笑っていて、僕の吐く息の下で揺らめいた。
「その人にとって必要なことだとは限らないでしょう」
 立ち話もなんですし、お茶でもどうですか。そう言って彼女は、僕を自室へと
招き入れた。

 彼女の部屋は僕と同じ間取りのはずだが、立ち並ぶ棚のせいで一段と狭く感じ
られた。洋服ダンスが一つ、本棚が二つ、そして最後の棚には大小様々な酒瓶が
無造作に置かれていた。
「すみません、色気の欠片もない部屋で」
 バイトでバーテンダーをやってるんです、と彼女は笑った。それにしたって、
自宅に店並の種類を揃える必要はなかっただろうに。
「折角だから何かお作りしましょうか。大方何でも揃っているので、お好きなも
のをお出しできますよ」
「そうだなあ。お酒はそんなに詳しくないから、適当に頼むよ」
 僕がそう言うと、彼女は棚から数本ひっつかんで台所に向かった。そのうちガ
ガガガとやけに耳につく音がした。残された僕はとりあえず部屋の中央に鎮座す
る炬燵に入って、テーブルの上にあるマグカップにいけられた小さな花でも眺め
ることにした。
「エリカっていうんです」
 戻ってきた彼女は、茜色の液体をたたえたゴブレットをついと差し出した。
「君の名前?」
「違いますよ、その花。マスターが軒先で育てていたの、綺麗だからもらっちゃ
った」
「ふうん、じゃ、こっちは」
「これはテキーラ・サンセット。夕暮れみたいな色がお気に入りなんです」
 確かに帰り道と同じ色をしていた。冬はあっという間に夕方が過ぎて夜が来る
から、寂しくて嫌いだ。思えば秋も冬に侵食されてすぐ終わってしまう。欲張り
な季節だ、寒さばかりつのらせて。
 キン、と乾杯の音が部屋に響いた。酒を飲むのは久しぶりな気がする。気持ち
よく酔えない体質なので、元から好んで飲む方ではない。試しに一口ふくむと、
一瞬で舌がキュッと縮み上がった。
「この季節にフローズンは無いだろ……」
「いいじゃないですか、飲みたかったんですから」
 ちびちびと舐めるように消費する僕とは対照的に、彼女はグイッと一気にグラ
スを空け棚に手を伸ばした。今飲んだものもそれなりに度数があっただろう、顔
は真っ赤で瞳も潤んでいる。しかし今度は巷で噂の缶チューハイを飲む気らしい。
どうかしている。
「それで、何の用」
「なにがですか?」
「僕をわざわざ部屋に呼んだ理由」
「そうですね、用ってほどのものは無いんです。ただ少しお話ししてみたかった
だけで」
「はあ」
 何がおかしいのか、彼女はアハッと大きく口を開けて笑った。少し低めで、聞
き心地の良い声をしている。
 しかめっ面をしている僕を見て勘違いしたのか、彼女は申し訳なさそうに肩を
落とした。
「もしかしてお口に合いませんでしたか、すみません」
「いや、ただ冷たくて飲みにくいだけ。結構好きだよ」
「良かった。普段はあまり飲まれないんですか」
「そうだね、気が向いたときだけ。君は見たところ好きそうだけど」
「好きと言えば、好きなんでしょうね」
 他人事のように言って彼女はまた笑った。先ほどとは打って変わって、疲れた
ような笑みだった。
「お酒を飲むと、何も考えずにスッと眠れるんです。だからよく飲んでるんです」
 プシュッと小気味よい音を立ててプルタブが起立する。彼女は口を付けずに、
缶を持ち上げてゆらゆらと回した。伏せた瞼の上で、蛍光灯を反射して黒っぽい
アイシャドウが煌めく。星屑みたいだ。
「ねえ」
 彼女のぽってりと厚い唇は、瞼と違いほとんど紅を落とした後のようでくすん
でいた。
「練炭自殺って、どうでしたか」
「どう、とは」
 全く予期していなかった方向から飛んできた質問に馬鹿になった僕は、間抜け
な顔でオウムよりも拙く返した。彼女は三度笑った。良く笑う女だ。
「そのまんまですよ。準備の大変さとか、死ぬ前の苦しみとか、あと」
 彼女の真っ黒な瞳が僕を射貫いた。小さく息を吸う音が聞こえた。
「死に損なった、気分とか」
 彼女はもう笑っていなかった。
「君は、死にたいの」
 やっとのことでそれだけ絞り出した僕を、彼女はじっと見ていた。
「日課なんです、死に方について調べるのが。でもどれも実行に移せなくて。飛
び降りたら痛いんだろうなとか、電車に撥ねられたら乗客に迷惑がかかるんだろ
うなとか、色々考えていたら何も出来なくって。馬鹿みたいですよね」
 彼女はまた笑った。その自嘲気味な笑みは今までのどの表情とも違っていて、
それがなんだか興味深かった。
「もううんざりなんです。毎晩何も出来ずにぼんやりと机の前に座っているだけ
で、眠ることすら出来なくて、ぼうっと何を考えるわけでもなく夜を浪費して、
閉め忘れたカーテンの間からこぼれ落ちる朝日を見て、ああ今日もまた死ねなか
ったって、そう思いながら泣いて。そんな毎日の繰り返しで」
 震える声で彼女は言った。自分を見ているようだと、そう思った。
 わかる、わかるよ。眠れない夜の辛さも、それでもやってくる朝の恐怖も。世
界でたったひとりになった気分で、ただごうごうと吹きすさぶ風の音を聞きなが
らベッドで自分を抱きしめて目を閉じて。でも瞼の裏に思い出したくも無いこと
ばかり浮かび上がってくるから仕方なく目を開けたら、そこには当然だけど誰も
居なくて、どうしようもなく孤独で。眠れ、眠れと思えば思うほど意識は冴え渡
って、誰か助けてくれよと唱えてみるけれども、助けてくれる当てなんか何処に
も無くて。そうして白んでいく夜空を見送って思うんだ。今日もまだ生きていて
ごめんなさいって、誰に言うでも無く。
 それでもやっと死ぬ決意が出来て、実行にまで移せたのに、それなのに。
 去り際に呟いた大家の言葉がよみがえった。
「ほんとは誰かに見つけて止めて欲しかったんじゃないの」
 違う、違うんだ。僕は本当に死ぬ気で、実行に移すまでどれだけの労力を要し
て、どれだけの決意が必要だったと。お前なんかにはわからないだろうけれども、
僕は本気で。それでも死にきれなくて。死にたくて死にたくて、でも、死ねない。
そんな自分が、世界で一番嫌いで。
「私は死ぬ勇気すら無い、弱い、弱い人間なんです。でもあなたは違った。ちゃ
んと死のうとしてた。私には出来なかったことを、ひとりで成し遂げようとして
た」
 羨ましい。微かな声でそう言って、彼女が机に突っ伏した。羨ましいんです。
もう一度呟いた。泣いているのかと思ったけれど、一呼吸置いて顔を上げたとき、
彼女のほおは乾いたままだった。
「ねえ、どうしたら死ねるんですか。どうやったら死ぬ決意が出来るんですか。
教えてください。ひとりじゃ死ねないんです。死なせてください。どうか、お願
いします……」
 彼女は深々と頭を下げた。肩からカラスのように真っ黒な髪が一房、胸へとこ
ぼれ落ちた。こちらに向けられた小さなつむじを、僕はじっと見ていた。
「結論から言うと」
 ゴブレットに結露した水滴が滑り落ちて、机の上に小さな水たまりを作った。
そこに映った天井は真っ白で、彼女の髪や瞳とは対照的で、この部屋から浮いて
見えた。僕と一緒だ。拒絶されている。この部屋から、この世界から、生きるこ
とから。
「練炭自殺はおすすめできない。なんせガス漏れと間違えられて隣人に通報され
かねないからね」
 おずおずと顔を上げた彼女は眉をひそめて、訝しそうにこちらを伺っている。
僕は精一杯綺麗に笑って見せた。しばらく笑っていなかったから、上手く出来て
いるかどうかわからないけれども。
「手伝ってあげるよ、君のこと。君の死に方を、一緒に探そう」
 僕の決意なんて、死に損なった時点で何の意味も無くなってしまった。また僕
も一から死に直さねばならない。もう一度死ぬ決意を、彼女の隣でなら出来るん
じゃないかと、何の根拠もなくそう思ったんだ。
 こうして僕らは共犯者になった。自分自身を殺すという、馬鹿みたいな殺人の
共犯者に。


「中三の時、卒論で『自殺とは殺人か』ってテーマを扱ったんです。途中で先生
からの圧力に屈しちゃったから方向転換しちゃったんですけど」
「中学で卒論なんてやるんだ」
「うちは中高一貫校だったので、高校入試の代わりに卒論、みたいな扱いだった
んですよね」
 数日後、再び彼女の部屋を訪れた。自殺を試みる前に携帯を処分してしまった
僕が彼女とのコンタクトに用いたのは、部屋の壁を叩くという古典的な方法だっ
た。僕はトントンと壁を二度ノックする。彼女の部屋から、コンッと一度だけノ
ック音が返ってくる。それからのそのそと玄関を開けて、彼女の部屋に向かうわ
けだ。
 今日のカクテルはモヒートというらしい。ミントの香りがツンと鼻を刺し、正
直あまり好きではない。だが透明な液体の中をふわふわとミントやライムが泳ぐ
様子を眺めるのは、悪くなかった。
「で、結果はどうだったの」
「刑法第一九九条には『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役
に処する』とあるだけで、その『人』が他者であるという明言は無いんです。死
んじゃった人を死刑にも懲役にも出来ないからか、現状何も罰せられることはな
いみたいですが」
「それじゃ、僕は殺人未遂に問われてもおかしくないわけだ」
 確かに、と彼女は口の端を歪めた。
「過去の文献とか調べるともっと面白いですよ。ヨーロッパでは自殺者に対する
刑罰が過去存在したんです」
「へえ、一体何を」
「親族の財産没収が一番わかりやすいでしょうか。自分以外にダメージが行くタ
イプの処罰ですね。後は手と身体を別々に埋葬するとか、死体を市中轢き回しに
かけるとか、死体を傷つけるタイプ」
「ああ、その辺は宗教観が出てるのか」
「そうなんですよ」
 キリスト教の終末思想。神が地上に降りてきて、全ての死者を復活させてくれ
るという教えがあるらしく、彼らは死体の土葬にこだわっていたと聞いたことが
ある。僕も彼女も苦笑した。死で終わりじゃ無いというならば、僕らの救いなん
て何処にあるというのか。
「実際に私、同級生相手にアンケートを行ったんです。『これらの刑罰が現代社
会で執行された場合、自殺者は減少すると思いますか』って。答えはNOが大半
を占めていました」
「理由は?」
「『死後何をされても自分には関係ないから』」
「ふうん、そう」
 それはきっと。
「きっと、自殺するなんて考えてみたこと無いんだろうなあって、そう思いまし
た」
 ヘラリと笑って彼女はグラスを傾けた。僕も同じ考えだ。死ぬのは怖いが、死
んだ後のことだって考えたら怖いさ。だから簡単に死ねないんじゃないか。
「その時のことをなんとなく思い出したから、今日は首吊り自殺について調べて
たんですよ。日本の死刑って絞首刑ですし、割とポピュラーじゃないですか」
「どうだった?」
「……ちょっと、きついなあって」
 彼女は人差し指にクルクルと髪を巻き付けた。一見するとふざけているように
も甘えのようにもとれるその言葉が、僕には泣きたいくらいよくわかった。
 自分でも調べたことがあるが、首吊りは運が悪ければ数分は意識が途切れない
という。しかも死体は涎や糞尿を垂れ流す。死んですら恥を晒さねばならないと
いうのは耐えがたい苦痛だ。死んだ上で更に人から疎まれることは避けねばなら
ない。なるべく死んだ後でも人様に迷惑をかけぬように、死んでいても少しは人
間らしくあるように。そう考えると僕らがとれる手段というのは驚くほど少ない。
何も知らない他人は、そうやって死なない言い訳を探しているだけだと思うだろ
うか。
 彼女が死に方を探すのは何周目だろうか。きっと首吊りだって何度も調べて、
これじゃ死ねないと泣いて、その度に嘆息と共に明けていく夜を見送ったのだろ
う。それでもどう死んだら良いかわからず、また同じことを繰り返すのだ。
「君は、僕の鏡みたいだな」
 漏らすつもりの無かったその言葉は、彼女をちょっと驚いた顔にさせた。放置
されたグラスで、氷がカランと涼やかな音を立てて崩れた。その上に彼女が乱反
射する。変な顔で笑った。ミントが泳ぐ。
「私、あなたのそういうとこ嫌いです」
 彼女はおもむろに立ち上がって窓を開けた。ヒュウと入ってきた不躾な風が彼
女の髪をなぶって暴れる。夜の闇よりも深い色をしてたなびくそれは、なんだか
とても綺麗でため息が出た。
 彼女はそのままベランダに足を垂らし、寒い寒いと言いながらグラスを傾けた。
僕はそんな彼女を見ながら、ミントの香りに顔をしかめた。この空間はひどく居
心地が良くて、それが少しだけ怖かった。


 それから数度、彼女との奇妙な飲み会を重ねた。僕が呼び出すのも彼女に呼び
出されるのも決まって夜更けで、僕らは夜空を肴にグラスを空にした。彼女の死
に方は、まだ見つかっていない。
 何があるというわけでも無いのに早朝目覚めてしまい、やることもなく、さり
とてもう一度寝る気にもなれず無性にいらついた。朝食でも作ろうかと冷蔵庫を
開けるも、ろくな食材が入っていない。どうしたものかと悩んでいると、隣室か
ら微かな物音が聞こえてきた。どうやら彼女も目を覚ましたらしい。
 彼女は毎朝きちんと起きて大学に通い、その後バーでバイトを済まし夜更けに
帰宅する。僕の方は日がな一日何をするでも無く、家でただ時間を空費している。
大学もバイトも僕が既に諦めてしまったもので、あの空間は他者との摩擦で自分
が少しずつ削れていくような感覚に襲われてしまう。それを未だ続けている彼女
は本当にすごいと尊敬しているが、同時に心配になる。僕なんかが心配する権利
なんて、きっと無いのだろうが。
 ガチャリと玄関の開く音がした。彼女が世界と戦いに出る。いってらっしゃい。
僕は再びゴロリとベッドに寝そべった。しかし眠気はやってこない。寝返りを打
つと本棚が目にとまった。元々小説が好きだったのでそれなりの数の蔵書はある
ものの、最近は手に取ることすら稀になった。読んでも内容が頭に入ってこない
し、何より本を開くことすら億劫なのだ。一時はあんなに情熱を傾けていたもの
が、今は僕の首を絞める。好きだったはずのものにどんどん興味を無くしていく。
僕を形作っていたはずのものが、少しずつ失われていく。
 沈黙が耳元でうるさい。鬱陶しくなってテレビをつけた。そこから流れ出る知
らない人の声にほっとする。内容は欠片も興味が無かったけれども、しばらくぼ
んやりと眺め続けていた。
 僕の一日はもう随分と長い間こんな感じだ。生産性は皆無で、意義も目的も見
つからなくて、ひたすら苦痛に耐えながら時間が過ぎるのを待つだけだ。眠くな
ったら寝る。時折思い出したようにご飯を食べる。眠れない夜を嘆いて泣く。た
だそれだけの毎日。最近はここに彼女と酒盛りをする時間が加わって、それが唯
一と言って良いほどの楽しみだ。
 日が沈んで少し経った頃、飲まず食わずで放置していた腹が耐えかねてクウと
か細い悲鳴を上げた。材料を買ってきちんと飯を作る気分にもなれなかったので、
適当にコンビニにでも買い出しに行くかと重い腰を上げる。固いコートを鎧のよ
うに着込んで外に出ると、突き刺すような風が吹き抜けていった。空気は何処ま
でも透き通って冷たい。コートの前をしっかりとあわせて、のろのろとコンビニ
へと向かっていった。
 そこかしこで街路樹が綺麗なイルミネーションでおめかししている。葉をすっ
かり落としてしまっても活用できてお前はいいよな、と当てつけがましいことを
考えながらコンビニに着くと、店員は間抜けな面をしてサンタ帽を被っていた。
「今だけ、チキン二個お買い上げのお客様は恋人割りが適用されまーす」
 吐き気がする。そういえば今日はクリスマスイブだ。誰かと共に過ごすことが
前提の行事は死にたさを加速させる。どうせ僕はひとりだと、惨めな気持ちばか
りが募っていく。サラダとおにぎりと炭酸水と、当てつけのようにチキンを二つ
買った。
「あざっしたー」
 ひとりでお得に二個食べてやるよ、ざまあみろ。店員の間抜け面に内心で中指
を立てながら、逃げるように家路を急いだ。すれ違う奴らはカップルだったり家
族連れだったり、皆幸せそうな顔をして手を繋ぎ合っている。くそ食らえだ。冬
の冷え切った空気が肺を刺す。息が出来ない。子供の耳障りな笑い声が鼓膜にま
とわりついて離れない。イルミネーションがぼやける。惨めだ。とんでもなく惨
めだ。何故僕はこんな世界で生きているのだろう。ひゅっと喉が鳴る。早足で家
に飛び込んで鍵をかけた。僕の家は相変わらず静寂で満たされていて、やっと息
がつけた。
 歩いている間にぬるくなったチキンは拷問でしかなく、その安っぽい脂ぎった
味わいはどうしようもなく気持ち悪かった。二個目にさしかかってすぐ耐えきれ
ずトイレに駆け込んだ。むせた拍子に胃液が鼻まで来て思わず涙が出た。炭酸水
で口をゆすぐ。喉の奥でシュワシュワとはじけた。またえずいて酸っぱい液体を
吐きだした。大して食べてないからもう空っぽだというのに、胃は更に何かを絞
りだそうと捻れる。ジングルベル、ジングルベル。サンタクロースなんてもんが
本当に居るのなら、プレゼントにどうか、僕を。
 ドンドンッと荒々しい音がして我に返った。トイレからゆっくり部屋に戻ると、
もう一度、今度は少し弱めにまたドンドンと壁が鳴った。いつの間に帰ったのだ
ろう、彼女が呼んでいる。コツンと微かな返事をして、彼女の部屋へと向かった。

 彼女は既に真っ赤な顔で、その横には空き缶が二本転がっていた。それでは飽
き足らず、またなにやらグラスに注ぎ入れて作っている。
「今日は、何?」
「シャンディガフです。ビールとジンジャーエールの」
 こんな日にビールか、と苦笑すると、こんな日だからこそです、と彼女はニコ
リともせずに返した。テーブルの隅に寄せられたエリカは、すっかり枯れて土気
色をしていた。
「対局なもの、飲みたくって」
 強めの炭酸が荒れた喉を容赦なく刺激する。無理矢理飲み干すと、同じように
一気に消費した彼女が二杯目を作ってくれた。そして、クリスマスイブだからマ
スターが持たせてくれたんですと小ぶりなケーキを切り分けた。
「何かあったの」
 甘めのショートケーキは驚くほどシャンディガフと合わなくって、面白い味わ
いを生み出していた。彼女はフォークでケーキを突き回すばかりで、口をつけよ
うとしない。
「特に何にも無いですよ。ただいつも通り、いつも通り馬鹿みたいな一日でした」
 甘ったるいクリームをカクテルで流し込む。彼女のケーキはすっかりグシャグ
シャになって、そこで初めてイチゴに手を伸ばした。
「うち、最近新しいバイトの子が入ったんです。私より年下なんですけど、気立
てが良くて明るい子で。本当に良い子なんですけど。でも今日マスターがその子
に話してるとこを聞いちゃったんです。『もうあいつと同じくらい上手になった
んじゃないか』って」
 二年続けてるんです。そう言って彼女は頬杖をついた。
「確かに私不器用で、言われたことも満足に出来ないことが多いんですけど、で
も私なりに一生懸命頑張っていて。二年間必死で、ひたすら練習して。それでや
っとここまで出来るようになったのに。あの子はそんなのお構いなしに軽々出来
るようになって。それがなんだか、無性に悔しくって。
……でもいつものことなんです。こんなの、良くあることですから。私本当に、何
やっても駄目な人間なので」
シャクリと囓られたイチゴは、真っ赤な見た目と対照で純白な中身を晒した。彼
女は酸っぱいと顔を歪めた。
努力は簡単に人を裏切る。僕らは持ち前の見た目だとか器用さだとか、いろんな
ところで生まれつき差をつけられていて、それはどんなに頑張ったところで埋ま
るものでは無い。人は皆平等だなんて理想論が間違っていることに気づいてしま
ったら、もうどうしようもないのだ。それでも頑張れと人は気安く言うけれども、
努力に裏切られ続けても努力し続けられるほど、僕は強くは無かった。成果の出
ない努力への恨みは、緩やかに心臓の周りを取り囲んで鉛の海に沈めた。
「それに街はクリスマスムードで満ちあふれてて、でも私は一緒にクリスマスを
祝う人も居なくって。なんだかやるせないなあって、ここでトラックの前にでも
飛び出して全部ぶち壊してやろうかって、そんなことを思いながら、でも何も出
来ないまま、家に帰ってきちゃって。それで、ひとりで過ごすのがちょっとしん
どくって。ごめんなさい」
 多分、僕らは人より少し、脆くできている。白んでいく夜空だとか、雨の降り
続く帰り道だとか、落ち葉の敷き詰められた校舎裏だとか、そんな当たり前なこ
とにすらひび割れて死にたくなる。だけど死ぬ勇気なんて無いから仕方なく明日
も生きるだけだ。殺せなかった今日が、嘲笑いながら明日を連れてくる。
 彼女は本当に僕と似ている。今まで誰にも相談できなかったこと、死にたいこ
と、死ねなかったこと、傷だらけでそれでも生きていくのが辛いこと、ひとりが
怖いこと。誰かにわかってもらえるなんて思っていなかったから、胸の内に押し
こめて、隠して、閉じ込めてきた感情。それが今、僕の目の前に居ると、そう思
った。
 彼女が死にたい理由を、僕は知らない。僕が死にたい理由も、彼女は知らない。
それは僕らの間で大事なことが、何故死にたいかではなく『死にたいと思った』
この一点だからだ。彼女の名前すら知らない。僕の名前を呼ばれたことも無い。
それでも僕が彼女の理解者たり得て、彼女なら僕をわかってくれると感じるのは、
傲慢だろうか。
「でも僕は、美味しいと思うけどね」
 おかわりと空のグラスを差し出すと、彼女は「やっぱり嫌い」と言って笑った。
嫌いと言われて傷つかないわけではないが、痛みになれきった僕はそうかいと軽
く受け流した。何度嫌いと言われても、不思議と彼女を嫌う気持ちは起こらなか
った。
「クリスマスをやり過ごしたところで、今度は年越しとお正月がやってくるんで
すよね。また出費がかさむなあ」
 シフト増やさなきゃ、とため息をつく彼女を見て、僕は必死に自分の口座残高
を振り返った。奨学金とわずかな貯蓄を食い潰しながら過ごしているせいで、も
ういくらも入っていないはずだ。元より死ぬつもりだったのだからお金など必要
なかったわけで。
「引っ越しのこと忘れてた……」
「え、引っ越すんですか」
「あんなことしたからね、大家から今月中に出て行けって言われてたんだけどす
っかり忘れてた」
 これはもう年末までに死ぬしか無い、時間制限がつけばいかな僕でもなんとか
出来るのではないか、なんてことをしかめっ面で考えていると、彼女はのんきに
欠伸をした。
「じゃ、うちに来れば良いじゃないですか。二人だと流石に狭くは感じると思い
ますけど、なんとかなるでしょう」
「僕が良くても君はそれで良いわけ」
「駄目だったら最初から提案しませんよ。一緒に年越ししましょ」
「……考えとくよ」
「そうと決まれば早速今晩、試しに泊まってみましょうか」
 嫁入り前の娘が、危機感というものは無いのだろうか。複雑な気持ちを抱えな
がら、お風呂へと向かう彼女を見送った。

 客人を床で寝かすわけにはと主張する彼女と、家主を差し置いてベッドを占領
するのははばかられると狼狽える僕との争いは、二人してベッドに寝るというお
かしなところで決着を迎えた。案の定シングルベッドに大人二人が寝そべるとか
なり窮屈で、風呂上がりの彼女からシャンプーの香りがふんわりと漂い居心地悪
いことこの上ない。
「一つだけプレゼント代わりに教えてあげようか、綺麗な死に方」
 明かりを落とした部屋は、彼女の呼吸が良く聞こえた。気まずさを打ち消すよ
うにそう言うと、彼女は小さく頷いた。
「部屋いっぱいに百合の花を敷き詰めて、その中で眠るんだ。百合に含まれるア
ルカロイドって毒には心筋弛緩作用があるから、寝ている間に心臓が動かなくな
って安らかに死ねるってわけ」
 素敵ですね、と彼女が息だけで言って笑った。百合の棺桶に埋もれて眠る彼女。
僕らを拒絶する純白。
「だけどそうも上手くいかないのが世の常というもので。残念ながらどんなに多
くの百合を集めても、致死量のアルカロイドを吸うほどにはならないんだってさ」
「そんなことだろうと思いました」
 僕らは互いにお休みを言い、向かい合って目を閉じた。

 どのくらい経っただろうか。誰かの気配が同じ布団の中にあるなんて久しぶり
で、どうしても眠りにつくことが出来なかった。彼女の呼吸だけが静かに部屋を
満たしている。もう寝てしまっただろうか、なんて考えてた丁度その時、彼女が
もぞりと動いた。
僕を嫌いだと罵ったその口から、ため息のような吐息が聞こえる。彼女は僕の首
に手を回しほおをすり寄せた。その柔らかさが彼女の脆さを表わしているようで
ハッとした。そして僕の頭を、触れるか触れないかくらいの微かな力でそっと撫
でた。僕のことが嫌いなくせに、なんで、そんな壊れ物でも触るように。首に回
された腕にキュッと力が入った。それでも頭を撫でる手は優しいままだった。彼
女が僕の肩に顎を乗せた。耳に息がかかって、背筋を甘やかな痺れが駆け上がる。
赤ん坊のように僕に縋る彼女が、とても愛しいと思った。
 耳の裏で心臓が爆音のまま鳴り止まない。だらしなく伸ばした手は手汗でびっ
ちょりで、彼女がそれに気づきませんようにと願った。それなのに何故か彼女は
僕の左手に自分の手を絡めてきて、やっぱりそっと握った。自分で自分が気持ち
悪くて逃げ出したかったけれども、彼女は手を離さなかった。小さな手だ。握り
返したいと思った。でも僕は目を開けることさえ出来ずにいた。
 気づいてしまった、彼女のせいで。彼女がこんなことをするから。僕は僕が彼
女を想う気持ちが、鳴り止まない心臓の理由が、どういったものなのか気づいて
しまった。それはあまりにも唐突な発見で、自分自身ですら動揺しどうしていい
かわからなくなってしまった。彼女の背に腕を回して潰れるくらいきつく抱きし
めたい。彼女の小さな頭を撫でて、側に居るよと伝えたい。でもきっと、今目を
開けただけで彼女は離れてしまうと、そう思った。
 彼女は僕が嫌いだ、何度もそう言われた。なのにどうしてこんなことになって
いるかは知らないけれども。これは僕が寝ていると思い込んでいるからしている
ことであって、多分起きていることに気づいたら逃げてしまうだろう。そう思う
と動けなかった。彼女がどんなに僕のことが嫌いでも、それでも僕は。
 それは彼女の望む感情ではないであろうものになってしまったことも、痛いく
らいにわかっていた。彼女が僕と居るのは、僕が彼女を死なせてあげられると思
っているからだ。だけどもう、無理だ。気づいてしまったんだ。触れた手の小さ
さだとか、寄せられたほおの柔らかさだとかが、気づきたくなかった感情を否応
なしに自覚させた。僕にはもう君を死なせてあげることが出来ない。全部、君の
せいだ。
こんな気持ち悪い感情を抱えたまま抱き合っているのは罪悪感がつのって、寝返
りを打つふりをして彼女に背を向けた。一瞬離れた腕は、それでもまた背中から
前へと回ってきて僕を抱き寄せた。不意に涙が出そうになって下唇を噛みしめた。
そんな僕を知らずにくっついている彼女の体温が服の上からでもよくわかった。
誰かの熱に触れたのは、いつぶりだろうか。
それから不自然にならないよう何度か寝返りを打ったけれども、彼女はその度ま
た僕に身を寄せた。抱きしめ返したいと思ったけれども、出来なかった。このま
ま朝なんて来なければ、僕が目覚めなければ、ずっとこうしていられるんじゃな
いかと、彼女の腕の中で馬鹿みたいにそう思った。
だけど明けない夜なんてものは無くて、カーテン越しに空が白んでいって、彼女
のスマホがコケコッコーと雄叫びを上げた。随分と原始的なアラーム音だなとぼ
んやり思った。彼女は僕からするりと離れて、起き上がると僕を揺さぶった。さ
も今起きましたみたいな顔をして欠伸する僕の隣で、彼女は白々しく、良く寝た
と呟いた。一晩中眠れなかったくせに、君も、僕も。だけど朝日に照らされたそ
の横顔に涙の筋がなかったから、少しだけほっとした。


翌日、今度は僕の方から彼女の部屋を訪ねた。初めてカクテルをリクエストする
と、彼女はビクリと肩を震わせた。
「どうして、そのカクテルを」
「いや、昔好きだった漫画の合図だったからなんとなく知っててさ。実際は飲ん
だこと無かったから、どうだろうと思って」
「ああ、駅前の掲示板に書いてってやつですか」
「そうそう」
 彼女はホッとしたように息をついて、棚からホワイトラムを取り出した。
「確か合図としてだけじゃなくて、最初の方実際に主人公が飲んでたんですよね」
「あれ、そうだっけ。もうそこまで覚えてないや」
「私もうろ覚えですが」
 出来上がったのは乳白色のカクテルで、ほのかな甘みの後にすっきりと爽やか
な酸味が残る。かなり好みの味だ。美味しいと呟くと彼女は満足げに頷いた。
「ごめん、ちょっと煙草買ってくる」
 カクテルを飲み干して少ししてから、僕はそう言って立ち上がった。彼女は怪
訝そうな顔をしたけれども、いってらっしゃいと言い手を振ってくれた。
 玄関で靴を履き、やっぱり名残惜しくなって振り返った。彼女がなにやらほか
のカクテルを作り始めているであろう後ろ姿しか見えなかった。
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
 彼女は手を止めた。
「君はさ、僕のどこが嫌いなの」
「そういうとこです」
 そう言って彼女はフフッと笑った。後ろを向いたままだったから、どんな表情
をしているかまではわからなかった。僕はじゃあねと言ってドアを開けた。

 外はびっくりするくらい寒くて、凍える両手に白い息を吹きかけた。どこへと
もなくふらふらと歩く。僕は煙草を吸わない。彼女も嘘だと気づいていて、でも
何も言わなかった。引き留められていたなら、僕はあそこに居座り続けることが
出来ただろうか。
 自分で去ったというのに、後悔の波が押し寄せてきた。でもきっと僕はもう彼
女に必要とされることは出来ないから。彼女を死なせることは出来ない。それな
らばもう、僕は彼女の側に居られない。ひどく居心地が良くて、まるで彼女の隣
が自分の居場所であるかのように錯覚してしまう。けれどもそれは、僕が彼女に
自分を押しつけているだけで、言い換えればただの依存で。
わかって欲しい、側に居て欲しい、孤独を埋めて欲しい、生かして欲しい、愛し
て欲しい。そうしてみっともなく彼女の重荷になるくらいなら、これ以上嫌われ
るくらいなら、それなら僕はひとりでいい。僕も彼女も、出会う前の状態に戻る
だけだ。ひとりで延々と死を探す度に出るだけだ。ああそうだ、死ぬ時なんて皆
ひとりでなければならない。死とは本来孤独なものだ。
 ひやりと、鼻の頭に何かが止まった。見上げると、ひらひらと雪が舞い降りて
僕の肩や腕に降り注ぎ小さな染みをいくつも作った。今夜は積もるだろうか。積
もって欲しい。その真っ白な雪の絨毯の下に、僕の足跡なんか覆い隠して。
 道先に小さな灯りが見えた。近づくとそれは花屋で、軒先の花々を雪から守ろ
うと移動している最中だった。
 そうだ、彼女に花を贈ろう。死ねない百合を。荒野で孤独に耐えるエリカは、
もう枯れてしまっていたから。さっき飲んだカクテルが僕の中で熱を持っている。
腹の中から白に呑まれそうだ。雪が勢いを増した。僕も雪のように溶けてしまえ
たら良かったのに。
 彼女は僕がいなくても死ねるだろうか。僕は彼女を知ってしまったのに死ねる
だろうか。そう簡単に死ねやしないよと、泣きながら明日も生きていくのだろう
か。望んでも良いのなら、彼女と共に生きる未来も、きっとどこかにあって。傷
を舐め合いながら互いに身を寄せて眠る、そんな夜を夢見て。けれどもそれは彼
女の望む明日の形では無いのだ。僕は今日を殺せない。でも、彼女と明日を見る
ことも出来ない。
 ふと、一緒に年越ししようと誘われていたことを思い出した。彼女は嘘つき、
嫌いだといって僕を罵るだろうか。それとも、最初から約束ですら無かったこん
なこと、忘れてしまっているだろうか。
 包んでもらった百合の花は本当に花弁の先まで真っ白で、むせかえるような甘
ったるい匂いを振りまいていた。花粉にも微妙に含まれるというアルカロイド。
彼女はこれを吸って何を思うだろうか。あの晩鳴り響いていた自分の心臓をまだ
覚えている。死にたかったはずなのに身体は元気だなと、そうさせた彼女が恨め
しくてちょっと鼻をすすった。
XYZ、もう後は無いという意味のカクテル。別れを告げたのは自分なのに、そ
れなのにこうも涙が溢れて止まらないのは、どうして。

テーマ:「今日の殺し方/今日のカクテル」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:49

あふれるもの、満たすもの

「永井くん」
「ん?」
「僕、席探してくる」
「うん」
 頷いてみせると、紗綾はブーツの音をこつこつと残しながら去っていった。席を探してから買おうと思うのに、いつも忘れてしまうのはどうしてだろう。
「はい、ツナレタスでーす」
 ピンクのエプロンをしたいつもの店員が、同じ色の包装紙に包んだクレープを金属のスタンドにすぽっとはめた。今日のはちょっとツナが多いような気がする。
「お後少々お待ちくださいね」
 ニッコリと笑った店員の女性に会釈して、僕はじっとクレープの焼かれる光景を眺めていた。くるり、と広げられるクレープの生地を眺めるのは何となく面白い。さっきの映画で紗綾が随分と泣いていたことを思い出す。比較的子供向けのファンタジー映画で、僕としては特に泣くところもなかったけれど、紗綾はもうずっと目元にハンカチを当てっぱなしだった。果たしてあの映画の何割を紗綾は見たのだろう。これが意外にも覚えているから不思議だ。五秒に一度は洟をすするような有様だったのに、後から聞くとかなり細かいところまで覚えていて驚く。泣いていれば頭の中はいっぱいいっぱいにならないから、むしろ冷静に見られるのだといつだか紗綾は言ったことがある。初めて言ったのはいつだったろう。あまりに何度も聞いたものだから、いつだったか忘れてしまった。



 紗綾は本当によく泣く。
 声もなく、顔も歪ませることなく、時には微笑みさえ浮かべながら、泣く。ほろり、ほろりと、頬に涙の筋がつく。雫は顎の先へ伝い、胸元に流線型の染みを作る。そうやって紗綾は泣く。前触れもなく唐突に、欠伸をするほどの自然さで。
 何でもないのに泣いてるわけじゃないんだよ、と紗綾は言った。高校二年の時だったと思う。いつものようにショッピングモールの映画館で映画を見た後、これもいつものように、フードコートでクレープを食べながら。紗綾はよく食べる。ツナとレタスのクレープを食べて、それからバナナとキャラメルにホイップをこれでもかと乗せたクレープを食べていた。僕はいちごとチーズケーキの入ったのをひとつだけ。それでも僕らの食べ終わるタイミングはほとんど同時で、どこか負けたような気分になったのを覚えている。その時に紗綾はツナのクレープを食べながら何か、どうでもいい、他愛ない話をしていたのだ。そして喋りながら、唐突に泣いた。そうして泣きながら紗綾は話し続け、その一つめのクレープを食べ終え、残った包み紙をくしゃりと握りこんで言い訳のように言ったのだった。
「何でもないのに泣いてるわけじゃないんだよ」
 鞄からタオルハンカチを取り出して目元を拭う。紗綾がまだメイクというものをしない頃だった。
「ごめん永井くん、ティッシュ持ってないかな」
「使い切ったの?」
「いや忘れた」
「珍しいね」
 言いながらポケットティッシュの使いかけを引っ張り出すと、ありがとう、と言うなり周りが振り返るほど盛大に鼻をかんだ。もう何度か鼻をかんでからティッシュを丸めて、ついでに次のティッシュで口元を拭いて、仕上げにハンカチで頬を拭いた。
「何だっけ」
「何でもないのに泣いてるわけじゃない、って」
「ああ、うん。そう。心の容量が小さいんだ。多分。普通の人がお風呂の浴槽くらいなら、僕のは多分洗面桶くらい。……ああ、洗面桶って、あれね。柄のついてるやつじゃなくて、平たくて浅いやつ。タオルを浸すやつ」
「うん。わかるよ」
「そう?」
「タオルを浸すやつでしょ」
「うん。そう。それ。だから、お湯が溢れやすい」
 紗綾はもうひとつのクレープを両手に持って、大きく一口頬張った。これでもかと整った歯型が残る。ほとんど表情を動かすことのない紗綾の、目尻と頬とが僅かに緩んでいた。一番上のホイップが、かかったキャラメルソース共々紗綾の口に吸い込まれていく。
「……何の話だっけ」
「浴槽と風呂桶の話」
「ああ。そうか」
「そうだよ。器の大きさの話」
「うん。そう。僕の器は小さいの。その小さい器の奥から感情が沸いてきてる。喜びもそうだし、悲しみもそう。あとなんかもっと、掴みにくいものもある。重たくて透明で、とろっとした……葛湯みたいな。葛湯分かる?」
「知らない。何それ」
「あー。そう。じゃあ今度家で作ろう」
 言ってから紗綾が真顔のままクレープにかぶりつき、口の横にクリームをつけたのを覚えている。口の端のほくろの、その少し上だ。

 紗綾はそのことを覚えていて、映画を見たその次の次の週くらいに、紗綾の家で葛湯を飲んだ。紗綾の父は働きに出て不在で、一緒に住んでいる父方の、ミヨさんという名のおばあちゃんがそれを作ってくれた。ミヨさんは二年前に亡くなったけれど、あの時葛湯の入ったコップを差し出した細い手はよく覚えている。紗綾は変な子だけどこれからもよろしくね、と僕の手を握った、その手のひらは見た目に反してふっくらと柔らかかった。その時も紗綾は泣いた。恥ずかしかったのかもしれない。板の間には立派な仏壇があって、そこにもミヨさんは葛湯を上げていた。あそこにいるのはおじいちゃんかと僕は訊いた。母さんもいるよ、と紗綾は言った。紗綾の母はお産の時に亡くなったのだと聞いた。
「これだけ医療が発達したって、人は死ぬ時は死ぬんだなって思った。呆気なく。誰だって、勿論、いつそうなるのかは分からないけど。でも、死ぬ時っていうのがあるんだ。多分」
 紗綾は泣きながらそう言って、葛湯をふうふうと冷まして口に含んだ。
「ねえ」
「何」
「……その涙は、葛湯?」
「ん?」
「その、今溢れ出しているのは、葛湯なのって」
 紗綾は一瞬動きを止めて考え込み、僅かばかり首をかしげた。
「……どうかな。葛湯かもしれないけど。もっと、甘くないものかな。レモネード、とか」
「酸っぱい?」
「ん。そう。酸っぱい。酸っぱくて、あと、ちょっとうわあってなるくらい、苦い」
「全然葛湯じゃないね」
「そう、確かに。葛湯じゃない」
 紗綾はそう言って笑った。珍しく、本当にはっきりと微笑んだ。あまりにもあたたかいあの微笑みは、思い出すだけで心が震える。紗綾のその顔に、僕は、不思議と満足しなかった。
 もっとだ、と誰かが囁いているような気がした。その声は少しずつ大きくなっていって、紗綾の話しかけてくる声をかき消してしまいそうなくらい大きくなった。もっとだ。もっとだ。紗綾はもっと笑える。もっと、腹の底から、涙が出るほど笑うことができる。
 紗綾のおばあちゃんがとてもよく笑う人だったからかもしれない。
 ははは、と笑いこそしなかったものの、ミヨさんはいつも微笑んで、笑うときには口元に手を当てて、肩を揺らすようにして笑うような人だった。少し背中の曲がった姿は昔の美人画のようで、真っ白な髪は柔らかく波打っていた。綺麗な人だった。肺炎になって入院して少し痩せてしまって、それでもやはりミヨさんは綺麗だった。食欲がない、食べられない、と言いながら、温かい緑茶と葛湯だけは微量ながらも最後まで口にしていた。時折、葛粉を買っていってミヨさんの病室で作っていた。黒糖を入れるのがミソなの、とミヨさんが言うから、瓶に入れた黒糖を病室の引き出しに入れておいて、ミヨさんと僕らの分のコップを置いて、スプーンを置いてと、そうこうしているうちに葛湯セットがそこに出来上がってしまったのだった。
 ミヨさんはよく喋る人ではなかった。僕らは病室へ行って、ぽつり、ぽつり、話をした。ミヨさんはそれを静かに聞いていて、時折相槌を打ったり、質問をしたり、少し感想を言ったりした。全体にミヨさんは聞き上手だったのだ。おかげで僕も聞き上手になった。紗綾はそうでもなかった。
「真剣に聞かないのがコツなの」
 くすくすと、ミヨさんは笑って言った。その日、紗綾は大学で遅くまで講義に出なければならなくて、そこへ行ったのは僕だけだった。ひとりでミヨさんの病室へ行くことは、僕の中で当たり前の行為になっていた。斜めに起こしたベッドを背もたれに、ミヨさんはあの細い手を緑茶入りの湯呑みで温めていた。笑うと少し、水面が揺れた。
「真剣に聞くとね、自分の方で言いたいことが出てきちゃうのよ。あの子なんかそう。ちゃんと聞くから、それはどういうことなのとか、自分はそう思わないとか、色々言いたくなっちゃうのね。でも、話している人は自分の言いたいことがあるわけでしょう。オチのようなもの。そこに辿りつく前に別の話をしてしまうと、不完全燃焼になってしまう」
「分かります」
「そう?」
「はい。紗綾とミヨさんの話を聞いてると、特に」
「まあ。でも、そうね。分かりやすいでしょうね。不思議と私に似なかったのよ、あの子は。お母さん譲りかしら」
 ふふ、とミヨさんは笑った。それから、徐に身体を起こそうとして、僕は湯呑をサイドボードへ逃がしてからその背中を支えた。骨の浮き上がった背中だった。しっかりと起き上がると、ミヨさんの息は僅かに上がっていた。
「ごめんなさいね。家族でもないのに」
「でも、家族みたいなものですよ。僕にとっては」
「あら、ずるい言い方」
 少し笑ってから、ミヨさんはふと真剣な顔をして、僕をまっすぐに見た。すっと、僕の背筋が伸びた。畳の上なら正座していたかもしれない。
「大紀さん。あなた、紗綾がちゃんと笑ったところを見たことがある?」
 ずっと気にしてきていたことを、ミヨさんは知っていたのかもしれないと思った。
「微笑んだところくらいなら、ありますけど」
「声を上げて笑ったところは?」
「それは、全く。見たことないです」
「……そう」
 悲しげな、寂しそうな微笑みを浮かべて、ミヨさんは言った。
「あの子ね、昔はあんなに泣く子じゃなかったの。中学校の三年生くらいまでは、本当に普通の子だった。よく笑ったし、むしろ泣くところなんて見たこともなかった」
 湯呑の中の水面を見つめて、ミヨさんは呟くように言葉を重ねた。
「……何かがあったんだと思うのよ。きっと。でも、何かがあったんだとは思うんだけど、あの子はそれを口にするタイプではないから……だから、言わないようにしてきたの。私は。どうして泣くのとか、何かあったのとか、そういうことは聞かないようにしてきた。でも、それがいいことだったのかどうか、今となってはわからない……」
 僅かに歪んで丸くなった背中が小さかった。
「逆にあの子を苦しめてきたんだとしたら、千紗さんに申し訳が立たないわ。でも、きっとそうなのね。あの子は泣くもの。……苦しいのよ。聞けばよかったの。もっと早くに」
「葛湯なんです」
 その台詞は、本当に唐突に僕の中から転げ落ちたのだった。
「……葛湯?」
「葛湯、です」
 思わずこちらを見たミヨさんに、僕は訳も分からず微笑みかけた。言葉の方が勝手に飛び出してしまったのだ。突然飛び出した台詞の、その糸を手繰ってゆく。
「その、あの涙が葛湯なんです。つまり……心の中に湧き上がる感情が、上手く処理しきれないまま、そのまま涙になるんだそうです。それで、処理できれば言葉になったり、表情になったり、行動になったりするところを、紗綾は上手く処理しきれなくて、だから言葉や表情は動かないのに涙が出るんだ、って」
「……あの子が言ったの?」
「そうです。それで、湧き上がる感情にも色々あって、嬉しかったり、悲しかったり、もっと判別のつかないようなのもあって。その判別のつかない感情を、紗綾は葛湯のようだって言いました。重たくて透明で、とろっとしてるって。そういう、とにかくそういうものが溢れると、涙になるんだそうです。だから、つまり……」
「あの子は、辛くて泣いているのではないのね?」
「そうです。悲しくて泣いている時もあるかもしれませんけど、嬉しくて泣くときもあるし、楽しくて泣くときもあるみたいです。時々は、葛湯でも」
「……そう」
 にっこりと、ミヨさんは笑った。
「そうだったのね」
 紗綾は泣くばかりで笑わないけれど、ミヨさんは笑うばかりで泣かなかった。きっと今泣いているのだと思った。紗綾が泣くときの何度かに一度は笑っているのだし、ミヨさんが笑っているときの何度かに一度は、内心で涙を流しているのかもしれない。紗綾はミヨさんの分まで泣き、ミヨさんは紗綾の分まで笑う。そういう風にバランスが取れているのかもしれない。
「紗綾はミヨさんに似てると思います」
 そう言うと、ミヨさんは一瞬驚いたあと、面白がるように笑った。
「あら。どこが?」
「……あり方、というか、生き方というか」
「そうかしら」
「僕はそう思います」
「そうなの。……なんだか不思議だわ」
 うふふ、とミヨさんは笑い、僕を真っ直ぐに見つめた。口の端に小さなほくろのあるのを不思議と覚えている。紗綾にもあるそのほくろは、偶然ながら僕にもある。ただ、左右は反対だ。そのほくろをきゅっと持ち上げるようにして、ミヨさんは笑った。
「あのね。私が欲しいと思ってきて、結局手に入らなかったものがあるの」
「……それは、なんですか?」
「油断よ」
 あっさりと言って、ミヨさんは湯呑のお茶で口を湿した。
「……大紀さん」
「はい」
「もしこの先もあの子と生きていくのなら、お願いしたいの」
 はい、と言いかけて、反射的にそれを飲み込む。
「……紗綾が僕を選んでくれるなら」
「選ぶわ。絶対。天国に近づくと神様の声がよく聞こえるものよ」
 そう口にする表情は実に穏やかだった。最期の、棺の中に横たわっていた姿も、この時と同じ安らぎを湛えて見えた。蓮の浮かぶ池のような、揺らぎのない静けさ。
「大紀さん、あの子をどうにかして油断させてあげて。私はもう先が長くないだろうけど、紗綾はまだまだ生きる。悲しいことに、生きることは油断ならないものだから」
 ミヨさんが眉間にシワを寄せたのは、僕の知る限りこれが最初で最後だった。
「紗綾をお願いね」
 そのひと月後にミヨさんは亡くなった。暖かな春の昼下がりだった。



 かたかたと金属の触れ合う音がする。クレープ用のホルダーだな、と思う。
「はいこちら、シナモンアップルスペシャルと、チョコバナナホイップでーす」
「あ、すいません。それ二つ用のに入れてもらえますか」
「大丈夫ですよー。あっ、三つ用のもありますけど、二つ用でよろしいですか?」
「二つ用で。大丈夫です」
「はあい、かしこまりました」
 どうぞ、と差し出されたクレープを、左手に二つ、右手に一つ。途端に手元から甘い匂いが立ち上がって、こっそりとそれを吸い込むと幸せが胸に広がるような気がした。ありがとうございました、と言う声を聞きながら振り返るとそこはかなりの人混みで、紗綾の姿は見つけられなかった。今日の紗綾の服は地味だ。キャラメルの色のコート、ジーンズにショートブーツとなるとなかなか沢山いる。どうにか片手に束ねて携帯を確認しても、連絡は来ていなかった。席が決まったら何か連絡をくれるだろう。変に動くよりはじっとしている方がいい。そういえばあの日もツナのクレープを食べてたな、と思う。紗綾はこれが好きだ。ミヨさんにクレープの話をしたときは、ちょっと不健康そうね、と困り顔で笑っていたけれど。
 ミヨさんがクレープを食べたことがあるのか、結局聞かずじまいだった。



「おばあちゃんが死んだ」
 あの日、紗綾の声はいつになく平坦だった。それでも、電話の向こうの紗綾が泣いているのだろうということは僕にも推測された。普段からいつも泣いている紗綾だ。こんな時に泣かないような人間ではないと思った。
「体は家に戻すから、今日は病院に寄らないで。もし来るならうちに来て」
「行っても大丈夫?」
「大丈夫。父さんも呼んでいいって言ってる」
「何か買っていこうか」
「……ううん。大丈夫。気にしないで」
「分かった」
 電話は一方的に切れた。普段なら、じゃあ切るね、と僕が切る。電話をしているのも億劫だったのかもしれなかった。僕は講義の残りをなかったことにして大学を出た。それは本当に爽やかな、うららかすぎる春の日だった。死ということと一番程遠い空間なんじゃないかと思った。あの時には浮かばなかったけれど、誰にだって死ぬ時というものがあるのだ、という紗綾の言葉を僕は思い出さずにいられない。ミヨさんの死ぬ時というのがあのうららかな昼だったことを、僕は少しだけ嬉しいように感じた。夜中にひっそりと死ぬというのは、ミヨさんらしくない。明るく暖かな空気の中でふっと息をついて死んでいく、そういうのが彼女には似合っていると思った。
 現実味がなかったのは紗綾の家に着くまでの話だった。
「ありがとう。入って」
 玄関の扉を開けた紗綾が一分の隙もなくアイメイクを保っていることに気付いたとき、ようやく僕にも非常事態なのだという実感が沸いてきたのだった。僕は初めて紗綾に関する推測を外した。泣いていなかった。表情も、声のトーンも、何一つ崩さないまま、紗綾は僕をダイニングキッチンへ通した。葛湯を飲んだ日当たりのいい板の間と打って変わって、そこは薄暗く、少し肌寒いような感じさえした。四人がけのテーブルの、左奥の椅子に紗綾のお父さんが座っていた。恐ろしく遠い目をして。
「父さん」
 紗綾が呼びかけると、首から上だけを動かしてこちらを向いた。あの目が僕を見ていたのかどうか、今でも確信が持てない。ネクタイすら緩めないままのお父さんは、椅子を引いて立ち上がった。随分と背が高かった。
「紗綾さんの友達の、永井大紀です」
「大丈夫。紗綾から聞いてます」
 疲れた顔でお父さんは笑い、ありがとう、と頭を下げた。僅かに白髪が混じっていた。
「母の病室に通ってくれてたんだってね?」
「ええ」
「そう。母が随分と喜んでいたよ。紗綾はとてもいい子を選んだって」
 紗綾をちらりと見ると、ふいとそっぽを向いていた。聞こえていないかのようだった。
「そうなんですか?」
「うん。ま、とにかくいっぺん会ってあげてくれないかな。部屋は廊下の突き当たりの右手だから」
「僕が一緒に行く」
「うん。それがいい」
「来て」
 紗綾は自然に僕の手首を取って、ミヨさんの部屋へと引っ張っていった。それは決して無理な力のかけ方ではなかったけれど、手首を握る力はあまりにもしっかりとしていて、少しの震えも見せなかった。
「紗綾」
「何」
 ここまで頑なな、鉄板のような返事をされたことはなかったと思う。紗綾は振り返らなかった。紗綾が僕と目を合わせようとしなかったのは、それをあからさまに拒んだのは、この日が最初で最後だったろう。
「大丈夫なの」
「何が?」
「何がって」
 何が、と僕の頭の中でそれは反響した。何が?
「僕なら全然。父さんの方が滅入ってるくらい」
 録音された音声のようだった。いつもの静かさとは違う、ぎゅっと抑え込んだような強張り。
「父さん、母さんもおじいちゃんもいなくておばあちゃんだけだったから。あれで結構参ってるんだよ」
「うん。そんな感じはする」
「そう。……はい、ここ」
 紗綾はそう言って襖を開けた。冷え切った空気が足元をするりと抜けていった。入った途端、線香の匂いが体を取り巻く。
 部屋の左手に置かれたベッドに、ミヨさんは眠っていた。
「柩は部屋に入れられないから、体だけだけど」
「うん」
 淡々と言う紗綾の声を背中に聞きながら、僕はミヨさんの枕元に立った。冷たい空気の中に立って、見慣れたその顔を見下ろして、ああ死体だ、と僕は思った。眠っているようだ、という表現が脳裏を過る。確かに眠っているように見えなくもなかった。でも、それは明らかに死体で、閉じた目元も口元も恐ろしいくらいに乾ききって、何度も笑い顔で見た多くの皺はどれも凍りついたように動かなくて、ああそうかミヨさんは死んだのだと、僕はそこで初めて実感した。腑に落ちたのだ。紗綾の崩れていないアイメイクを見て感じた緊張が、ミヨさんの僅かに開いて乾ききった口元から僕の全身を締め上げるようだった。それでも、ミヨさんの表情は静かなものだと僕は思った。
 そう思いたかっただけなのかもしれない。
 今思えばそれは、多分表情と呼ばれるものではなかった。人間としての本質的な部分が抜け落ちた、冷え切った肉体だけの抜け殻で、悲しいくらいに何もない物体だった。首の下に置かれた保冷剤の、綿に包まれたような端が覗いていた。その、場違いな白髪のような繊維の絡みを、今でも思い出す。乱れ。絡まって凍りついたもの。最後の最後まで髪に櫛を通していたミヨさんに、それは余りにも似合わなかった。
 すとんと音を立てたのは、紗綾が閉めた襖だった。
「……本当に亡くなったんだ」
「寝てるみたいでしょ」
 視界の外から紗綾が言った。押さえ込んで無理やりに蓋をした声で。
「そうかな」
「苦しまなかったんだと思うけど」
「うん。そんな感じはする」
 そうだろうか、とどこかで思った。本当に苦しまなかったかどうかなんて、分からない。
「そう?」
 実際どうだったのだろう?
「うん」
 未だに僕には分からない。でも、あれほど笑顔を絶やさなかったミヨさんなら、たとえ苦しかったとしても、それを飲み込んでしまうかもしれない。
 ――生きることは油断ならないものだから。
「そっか」
 紗綾は小さくため息をついた。空調の関係なのか、ミヨさんの真っ白な前髪が微かに揺れた。生きることは、油断ならない。ミヨさんはやっと油断したのかもしれなかった。全てを捨て去って抜け殻になって、紗綾のもとを去って。もしかするとそれは、油断したからなのかもしれない。
「紗綾」
「何」
 振り返れば紗綾はやはりふいとそっぽを向いていた。ミヨさんと同じ。蓮の浮かぶ池のような、揺らぎのない静けさ。重たい水の底に、紗綾は自分自身を押し殺している。
「紗綾は、死なないよね」
「……どうかな」
 紗綾は更に遠くを見つめるような目をした。
「人は死ぬときには死ぬものだよ。母さんもおばあちゃんもそうだったし。僕だって死ぬときには死ぬよ」
「今この瞬間でも?」
「今この瞬間でも」
 珍しく、ほとんど初めてというくらいに、紗綾はため息をついて笑った。
「まあ、できれば父さんの後がいいな」
 その時の悲しい微笑。これほど強く思ったときはない。
 紗綾は、今、泣いている。
「紗綾」
「何」
「ハグしたら怒る?」
「え?」
 一瞬紗綾はこちらを見て、またすぐに視線を逸らした。ぎゅっと、歯を食いしばっているのが分かる。真っ黒な瞳が、不規則に揺れ動く。
「……先にお線香あげて。おばあちゃんに」
 つっけんどんに紗綾は言った。その頬の赤さは、嫌でもミヨさんの冷え切った頬を想起させる。
「……ああ」
 口元がふっと緩んでいくのが自分でも分かった。
「そうだね。忘れてた」
 紫色の座布団は柔らかく、永遠に座っていられそうな気がした。線香の先をライターで炙って立てる。波紋のように広がるおりんの音の中で手を合わせ、目を閉じる。
 ミヨさんに何を言っていいものか、僕は分からなかった。安らかに、というのも無責任な気がするし、かといって他に言うべきことも見つけられない。それを探すうちに、ミヨさんの笑顔ばかりが、暗闇の中に何度も現れては消えた。もしかしてミヨさんの側に伝えたいことがあるのではないかと、僕は耳を澄まして待っていた。でも、いくら待ってもミヨさんの生きて笑っていた姿が浮かぶばかりで、その姿は僕に何一つ語りはしなかった。そうか、死んでいるのか、と僕はまた思った。ミヨさんはもう何も語れないのだった。今ここに浮かぶものが、今あるミヨさんの全てだった。
「……聞こえないや」
 ゆっくりと、僕は目を開いた。線香の先から立ち上る煙が柔らかく渦を巻いていた。
「何が」
「いや、何でもない……聞こえなくていいんだ」
 奇妙な可笑しさが湧き上がってきて僕は僅かに笑った。紗綾がゆっくりと僕の背後へ歩いてくるのを、どこか遠くに聞いていた。溢れそうになった涙を押し止めると、紗綾の両手が僕の肩に置かれた。止めたはずの雫は頬の上を転げ落ちた。
「紗綾」
「何」
「お線香あげたよ」
「そうだね」
 僕は振り返った。紗綾は膝立ちのまま、両腕をすとんと脇に垂らしていた。相変わらず、ふいとそっぽを向いたまま。泣き顔を見られなくてよかったかもしれないと、少し思う。
「いい?」
「うん」
 その頼りなげな上半身を引き寄せるように、僕は紗綾を抱きしめた。紗綾の唇が僕の肩に埋められる。恐る恐る、紗綾の両腕が僕の背に回る。添えるように触れている手は、思っていたよりも小さいような気がした。
「紗綾」
「うん」
 微かに頷いた紗綾の声は直接体の中に響くようだった。
「ミヨさんが、僕に言ったことがあるんだ」
「……なんて」
「欲しくても、どうしても手に入らなかったものがあるって」
「そう」
「それを、紗綾にあげてくれって」
「何を。くれるの」
「……油断」
 声が震えて、落ちた涙が紗綾の首筋に伝った。紗綾の腕がきゅっと僕を締め上げる。
「紗綾」
 締め付ける腕にますます力がこもっていく。
「紗綾。だから……」
 ミヨさん、紗綾を助けてあげてください。
「ちゃんと、泣いて、いいんだ」
 背中に触れる手のひらが、僕の服をぎゅうっと、痛いくらいに掴んで。
 そして。
「……そっかぁ……」
 紗綾は初めて、吼えるように声を上げて、泣いた。

 あの日から、と思う。あの日から紗綾は泣くようになった。もう少し正確に言うのなら、ミヨさんの葬儀の何日か後に紗綾の母の墓参りに行ってからだ。母さんのために泣いてあげたかったんだ、と墓の前に立って紗綾は泣いた。母さんのために泣いてあげられなかったんだってこと、長いあいだ気付けなかった。
「それは、母さんがいないのは寂しかったよ。どうして僕には母さんがいないんだろうって思ってた。でも、それは自分のことでしょう。死なれた僕のこと。死んでしまった母さんのことを僕は考えてなかったんだ。自分勝手だよ」
 そうかな、と言えば、そうだよ、と紗綾は暗さを含みつつも微笑んだ。紗綾が笑うようになったのも、あの日を境にだった。いくらかの沈黙のあとで、その暗さは少しずつ晴れていく。でもいいんだ、と紗綾は小さく言った。ちゃんとどこかでバランスが取れるようになってるんだよ。永井くんが僕に付き合って、こんなところまで来てくれたように――。



「永井くん」
 手の中の三つのクレープは、ずっしりと重く温かい。視線を上げれば、プラスチックのお盆に紙コップを二つ載せた紗綾が手を振っていた。少し張った声でも届くくらい近いテーブルだった。日曜のフードコートで空いた席を見つけるのはなかなか難しいはずなのに、紗綾はいとも簡単にそれを見つけてしまう。走ってくる子供に気をつけながら近づいて、テーブルにクレープを置く。紗綾の手には、見慣れたタオルハンカチが握られている。
「また泣いちゃったの?」
「そう。いつもの」
 すん、と洟をすすって、紗綾はハンカチの先ですくい取るように涙を拭いた。しっかりしたアイメイクは崩れていないものの、頬のファンデーションには涙の跡がついていた。
「紗綾」
「何?」
「葛湯が飲みたいんだ」
「今? クレープを前にして?」
「そう」
「変なの」
 紗綾は困ったように眉根を寄せて笑い、また涙を拭いた。
「その涙は葛湯?」
「違うよ」
 いつもと同じ。先にツナのクレープを手に取り、大きく頬張る。
「じゃあ、その涙は何?」
 もぐもぐと咀嚼する紗綾の口元に、ほくろ。
 ああ、やっぱり、葛湯が飲みたい。
「ん」
 紗綾はごくりとクレープを飲み込んで、そして、ほくろを釣り上げるように笑った。

「……秘密」

テーマ:「今日の涙」
第三十四回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2018.01.09(Tue) 07:00
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