FC2ブログ
« 2020 . 10 »    1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

息吹

 人間というものは、死なずして幽霊になれるらしい。  窓側から二番目の列の最後尾、大学受験を来年に控えているとは思えない重さの鞄を机に置いて、私は動揺を必死に飲み込んだ。普段は登校すると、隣の席の友人―花田美緒と、席こそ廊下側と遠いが同じく友人の丸山瀬那がふたり、教室の特等席二席を占領してじゃれている。しかし今日は、否、今日からは、どうやら普段通りではないらしい。瀬那の席の方に視線をやると、いつも通りの時間に登校していたふたりは私に一切目を向けずに、いつも通りにじゃれている。唯一いつも通りではない私だけが、ひとり静かに椅子を引いた。  昨日まで仲が良かったはずの友人たちが今日からは見ず知らずの人。女子の間では、少なからずあることだ。きっと、昨日の私の言動の何かがふたりの癇に障ったのだろう。理不尽だが、受け入れるしかない。  自分に繰り返し繰り返し言い聞かせても、当てつけのように教室の反対側から響く明るい声が耳に刺さり、いたたまれなくなる。顔は机の上の鞄に向けたまま、そっと目だけでふたりのほうを見ると、私の方をひそひそと覗いて嗤っていた。どく、と心臓が撥ねる。この状況は、私の気のせいではない。私は、ふたりに。 心臓が早鐘のように暴れ、頭からじわじわと熱が引いていく。ふたりの意思を知った上で教室にいるのは、辛い。足音も、気配も、何もかもを忍ばせて、私は座ったばかりの椅子から腰を上げた。  教室の外の廊下は窓が開け放たれていて、夏とも秋とも言い難い、しかし朝らしいさわやかな風が廊下に流れ込んでいる。まだ平静を取り戻せない心には、それすらも痛かった。行く当てもなく飛び出してきてしまったうえ、他のクラスに特別友達がいる訳でもない。始業前の時間を潰せる場所と言えば、ひとつしか心当たりが無かった。  授業の調べ学習以外で立ち入ったことがない、学校で一番暗い場所にある図書室。他の特別教室とも大差ない造りであるにもかかわらず、どこか圧迫感を感じさせるそれに、私は手をかけた。古くなっているのか、蝶番がぎいぎいと嫌な音をたてる。音が図書室の中に響いて船客たちに嫌な顔をされるだろうか、と不安になったが、予想に反して先客は見当たらなかった。ほ、と胸をなでおろして室内に入ると、古い本らしい埃っぽい臭いが鼻についた。普段から本を読む習慣がない私にとっては完全アウェーのここも、人がいないという一点で今は天国のようだ。せっかくなら、と本棚の間をなんとなく歩き回る。教科書にも載るような文豪の作品に、名前だけは私も知っている現代作家の作品、高校生が読むのかと首を傾げたくなる専門書や新書。つまらない場所と決めてかかっていたが、こうして見ると存外に面白い。それでも、実際に本を手にとって読んでみようという気にはならなかった。 何十もの本棚の間を練り歩くと、部屋の最奥にあたる場所に3人掛けのソファを見つけた。3人掛けなら美緒と瀬那とくつろげるな、と思ったところで胸の奥がつきんと鋭く痛む。習慣付いた思考というのは、そう簡単に離れるものではない。動く頭を無理矢理に押しとどめて私はそのまま顔面からソファに倒れ込み、大きなため息をついた。合皮のソファは、本棚と同じく埃臭い。 「なぁーにがいけなかったのよ……」 悪いことは考え込んでも仕方がない。それでも、考えずにはいられず、もどかしさを晴らすように足をばたつかせる。私は昨日の自分の言動をひとつひとつ頭の中でなぞった。  昨日の朝は普通だった。いつも通り私と美緒の席のところに瀬那が出張ってきていて、ふたりに遅れて登校した私をなんの引っ掛かりも感じさせず迎え入れてくれた。その後の授業中も、その合間の休み時間も、特にトラブルはなかったはず。ならば気に障ったのは―  「ねぇ、すみませんが」 ぼす、と頭上でクッションが音をたてた。とっさに身体をよじって天井を向くと、行儀よく制服を着こなした、目つきの悪い女子生徒が立っていた。女子生徒は背もたれのクッションにめり込ませた拳を引き抜くと、それを同じところにもう一度振り下ろした。 「ここは自習や読書をする生徒向けの場であって、寝転ぶ場所でも、ましてや独り言や大きな物音が許容される場所ではないんですよ」 出ていけ、と言いたいのがありありとわかる声色に、思わず身体がぎゅ、と縮こまる。 「ご……ごめんなさい、誰もいないと思って」 私と同じ色のタイを付けた胸元に向かって、言い訳がましい謝罪をする。学年によって分けられているタイの色が同じということは同学年だろうが、敬語を崩すのは憚られた。 「まあ、司書の先生の部屋を借りてたので、気付かないのも無理はありませんけど」 女子生徒はそのまま踵を返した。 「静かにしているなら、朝の利用者が少ないうちくらいは目をつむります。 ……鏡を見たほうがいいですよ」 鏡を見たほうが良いとは、という私の疑問を放置して、女子生徒は入り口の方向へ去っていった。先程言っていた通り、司書の部屋へ戻るのだろう。私はなんとなく、ブレザーに入れたままのポケットミラーを引っ張り出した。 「うわ……」 彼女の指示通りに自分の顔を見ると、酷い色をしていた。チークがいらないのが自慢の血色がいい頬も、口紅要らずの唇も見る影がない。今のそこは青白く、血の気が引いていた。刺々しい雰囲気を隠そうともしなかった彼女ですら気遣いを見せたのも頷ける色だ。  ふたりとの関係が崩れたのが、私はそんなに苦しかったのか。  美緒と瀬那のふたりに出会ったのは去年の春、高校に入学したときだ。同じクラスで席が近かった瀬那とまず仲良くなり、瀬那と同じ中学だった美緒とは瀬那伝いに仲良くなった。趣味がほどほどに合い、勉強や部活は手を抜く格好をよしとした者同士、気が合ったのだ。環境が変わったことで気張っている同級生が多い中、ふたりのそういうゆるさが私には心地よかった。放課後は必ず3人で寄り道をしたし、テスト期間に勉強のため設けられた猶予で普段は行けない距離の場所へ遊びに行ったりもした。楽をして、ずるをして、今が楽しければそれでいい。ふたりといるとそう思わせてくれたという一点でずるずると付き合いを続けていた自分が、多分私の中にはいる。そういう私を、見抜かれてしまったのだろうか。  ふぅ、とゆっくり息を抜くと、登校してから入れっぱなしだった力がやっと身体から抜けた。朝のホームルームが始まるまではまだ間がある。さっきの彼女も朝なら目をつむると言ってくれたことだ、顔色が戻るまで休んでから教室に戻っても良いだろう。私は、深呼吸を何度か繰り返しながら目を閉じた。 *  少し休むだけのつもりが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ぼうっとする頭であたりを見渡すと、眠る前と同じで人の姿は見当たらなかった。まだホームルームの前か、と腕時計で時間を確かめる。 「…………寝過ごしてる」 現在時刻、9時30分。授業の開始時刻は8時50分、終了時刻は9時40分だ。授業丸々一時間分ほど寝過ごしてしまったことになる。 「やらかしたな……」 今から教室に行っても間に合わない。ゆっくりと歩いて、五時間目が終わったところで教室に入ろう。  再びポケットミラーで顔色を確認すると、いくらか血色が戻っている。この顔色なら見た人をぎょっとさせることはないだろう。私はゆっくりとソファから腰を上げた。  蝶番が軋まないようにそっとドアを押し開く。授業中ということもあって、図書室の外は静まり返っている。もう一度時計を見ると、5分進んで45分を指し示していた。隣の席に美緒がいるのが気が重くて仕方がないが、いつまでも図書室に籠るわけにはいかない。図書室のドアと同じように静かに、けれど来たときよりは存在感を持たせた足音で廊下を歩く。自分の教室が見えたころ、1時間目終了を告げるチャイムが鳴った。ガタガタと椅子を引く音が廊下にまで響くのを待って引き戸に手をかけると、私が引くより数瞬早くドアが開く。 「おっと、お前どうしたんだよ、俺の授業を休むとは」 声には出さず、心の中で呻く。出くわしたのは1時間目の担当、数学の城田先生だった。 「いやぁ、ちょっと体調悪くって……」 「そうか。……花田と丸山に聞いても知らないっていうから、どうしたのかと思ったぞ」 無意識に肩に力が入る。 「季節の変わり目だから体調には気をつけろよ。保健室に行くときは必ず誰かに声を掛けるように」 「……はい」 元から重かった気がさらに重くなる。城田先生とすれ違うように教室に入ると、いつも通りの光景が広がっていた。 授業をひとつ休むと視線が集まりやすいものだし、美緒と瀬那以外にも仲のいい友人は何人かいるから、針の筵にはならないだろう。私が前向きに捻り出した楽観的な希望は、教室に入って数十秒で打ち砕かれる。 視線が、ない。私に向けられる視線が、ひとつもないのだ。 いつも通りの光景であることには変わりない。次の授業まで寝て過ごすひと、友達と話すひと、授業の復習や予習をするひと、それぞれがいつも通りに過ごしている。ただ、入ってきた私が見えていないようにふるまっていることを除いて。わざと仲がいい人の席の近くを通るように自分の席を目指したが、だれもかれも、声を掛けるどころか私に視線を向けることすらしない。以前体調不良で保健室で休んだ後は皆優しく声を掛けて、気遣ってくれたのに、そのひとたちと今私がすれ違った人たちは同一人物なのかと疑いたくなる。本当に自分が見えていないのか、と思いたくなるような態度だ。 私は、ソファで寝ている間に死んでしまったのだろうか。死んでしまった身体を置いて、幽霊になってひとり歩きでもしているのだろうか。むしろそうだと言って欲しいとさえ、願ってしまった。 自分の席に戻っても、それは変わらなかった。隣の席の美緒も、美緒とじゃれている瀬那も、もはや朝のように私を盗み見ることすらせず、歓談を続けている。なんで、どうして、と、1時間半前と同じような疑問が頭の中を駆け巡った。何がどうしてこうなったのか、自分の何がいけなかったのか。記憶の棚をひっくり返しても、ただ頭が混乱して、目のあたりがじわじわと熱くなるだけだった。 机の上の鞄は、置いたときと同じ様子で座っていた。最後の望みをかけてふたりに声を掛けてみようかとも思ったが、胃がキリキリと痛んでそれだけはやめておけと警鐘を鳴らし、頭は締め付けられるような痛みを発して警告している。 もう2度と、ふたりと以前のような関係に戻ることは出来ない。 直感がもたらした確信が、身体の全部を使って私の自我に訴えかけていた。 キリキリする胃が一段と強く痛みを発した瞬間、ぷつんと何かが切れた気がした。鞄をひっつかみ、私は教室を飛び出した。それすらも、だれも見ることはしなかった。本当に、私はこの教室に存在していないかのようだった。  人間は、死なずして幽霊になれる。  教室を飛び出した勢いそのまま、廊下を走った。もうあと数分で授業が始まる時間だからか人影はまばらで、運動神経がそう良いわけではない私でも誰かにぶつかりはしない。  走り出したはいいがどこへ行こう。とにかく今は学校にいたくない。となると近くのショッピングセンターや公共施設に入り浸るか家に帰るかだが、今日に限って自宅の鍵を忘れ、家族は昼間家を留守にしている。高校の制服を着たままでも長時間居られる場所はどこにあるだろうか。階段を駆け下り、上靴を下駄箱に叩き込みながら考える。ローファーに履き替えようと屈んだ瞬間、ある場所の存在を思い出した。ローファーの踵側に靴ベラ替わりの人差し指を差し込んでつま先を合わせ、私は地面を蹴った。  私は生きていると、叫びたくなった。 *  自動ドアをくぐった途端、ひやりとした空気が肌を撫でる。秋口とはいえ、暑い日も少なくない。それに合わせた空調は、教室からずっと走り続けた私の汗を程よく冷やしてくれた。  思い付いたのは、高校近くの市立図書館だった。それなりの規模があるので読書席も多く、館員の目につかない場所も少なくない。高校生が制服のままいても、そもそも人目につかなければ良いし、図書館であれば勉強しに来たとごまかすことも出来る。今身を寄せるには最適の場所だろう。ヤングアダルトの棚から適当に本を数冊抜き出し、私は奥まった場所にある読書席に陣取った。  入ったばかりのときは心地よく感じた冷房も、長時間当たるとなるとなかなかに身体が冷える。適当にスマホを見、人が通りがかったら本を読んでいるふりをする、というのを繰り返していると、身体を震わせる頃には、入館して一時間と少しが経っていた。時刻は11時半に差し掛かるところだったが、朝から気持ちが忙しかったせいか、空腹はそれほど感じない。食べられないわけではなさそうなので昼食を摂りに行ってもいいが、その間に席を取られるのも、行った先で誰かに見つかるのも癪だ。であれば居座り続けたほうが良いだろう。 それにしても、と腕をさすると、冷たくなっている。冷房が直撃する席は居座るには向かないだろう。せめて風の当たらない席はないかとあたりを軽く見渡すと、窓際の席が空いていた。天井を見るとそのあたりにはエアコンはない。加えて、柔らかい秋の日差しが程よく差し込んでいる。決まりだ、と私はほんと荷物を抱えて十数歩の距離を移動した。 がたりと椅子を引いて座り込むと、予想通りぽかぽかとあたたかい。それでいて暑くはないので、居座るには最高の場所だ。たったそれだけのことで気分が上向くのがなんとも子供っぽいが、今はそれも良しとする。 そのままスマホをいじり適当に本を読み、30分ほどたったころ、私は強い眠気に襲われた。背中を温める日差しに、眠気を誘い出されたのだ。どうせやることもなく、ただ時間が過ぎるのを待つだけなのだから、寝て過ごしたって何の差し仕えもない。それどころか、寝てしまえばふとした瞬間に今日の出来事が頭をよぎることもない。このまま、眠気に身を任せてしまおう、と、私は本を閉じて机に突っ伏した。 * 「……ねぇ、ねぇ」 がくがくと身体が揺すられる。その動きで起こされて、私は目を覚ました。学校ならまだしも図書館で誰かに肩をゆすぶられるとは。目をこすりながら顔を上げると、そこには知った顔がいた。 「あなた、随分と本の近くで寝るのが好きなんですね」 「あ、朝の……」 目つきの悪い、あの女子生徒だ。寝こけていたとはいえ、今は特に迷惑行為をしていないからだろうか、朝の様な刺々しい雰囲気は仕舞っているらしく、幾分話しやすそうな雰囲気である。 「図書館は寝る場所ではないです。本を読むなり勉強するなり、場に合った行動をとった方がいいですよ」 「あはは……ごめんなさい、つい日差しが気持ちよくて」 「日差し?」 女子生徒は首を傾げ、私の背後を指さした。 「日差しなんて、数時間前に消えましたよ」 「えっ!?」 思わず大声が出ると、女子生徒の目がぎっ、ときつくなる。慌てて口を塞ぐと、彼女は息を吐いた。 「何時間寝ていたんですか。もうそろそろ閉館の時間ですよ」 時計は彼女が言う通り、閉館時間の8時の15分前を指している。寝てしまったのが12時ごろだったはずだから、7直に場寝てしまったようだ。やば、と私が頭を抱えると、女子生徒は今度は呆れたように息を吐いた。 「なにはともあれ、帰り支度をしたほうがいいです。このままでは館の人の迷惑になりますから」 「確かに……起こしてくれてありがとう」 机の上に出ていた私物はスマホだけだ。それをブレザーのポケットに押し込み、本を纏めて立ち上がる。ふと女子生徒のほうを見ると、彼女も本を持っていることに気が付いた。 「あなたは本を借りに来てたんですか?何借りたの?」 「……これですけど」 雑談などしたくない、という雰囲気がびしびしと伝わってくる。それでも二度の邂逅を果たした彼女に対する興味を捨てきれず、私は身を乗り出した。 「あ、この小説知ってる!獣医さんのお話だよね。中学の頃何回も読んだなぁ」 「この小説、好きなんです。この本を読んで、獣医に憧れて」 「私も同じ……だったなぁ」 思わず言葉が尻すぼむ。 「だった?」 「……今は別に、獣医目指してないの。獣医は、中学生のころの夢」 「なぜです」 「……高校受験で失敗したから」  嫌な記憶が蘇る。中学生の頃、彼女が持っている小説を読んで私は獣医を目指すことを決意した。いろいろと本を読んで独学で知識を身に着け、獣医の資格を得るためには何をすればよいか、徹底的に調べ上げ、そのための進学コースも計画した。日々勉強に勉強を重ね、高校受験に備え、模試のたびに一喜一憂しながら必死に努力して―目指していた県下1の進学校に落ちたのだ。自分が組み立てた計画のスタート地点で、見事に躓いてしまった。それだけのことだったが、私の心を折るには十分だったのだ。  努力は苦しい。努力は結実しなかった。結実しないなら、何もかもやめてしまえ。  そうして始まったのが、滑り止めで入った今の高校での、美緒と瀬那との日々だった。楽なほうへ、ずるずると流れる、楽な日々だった。  詳細を出会ったばかりの彼女に語るのは憚られて、私は口を閉ざした。 「……高校で失敗したって、獣医の資格を取るのに必要なのは大学での学びでしょう。大学だって、一度落ちてもまた受験は出来る。失敗は取り返せる」 落ちた私の歩調を気遣うことなく、彼女はすたすたと前を行く。 「朝より顔色は良くなったけど、本当に良くなるためには、あなたは捨てなきゃいけないものがあるみたい」 肩越しに私を見てそう言い残すと、彼女はそのまま歩き去っていった。 彼女を追わなくてはいけない。心の底から湧き上がる衝動が身体を突き動かした。ヤングアダルトの棚に持っていた本を戻し、早足で彼女が向かったほうへと歩みを進める。しかし彼女はずいぶんと足が早かったらしい、図書館の出口にはもう既に彼女の姿はなかった。 数時間前に消えたという太陽の代わりに、澄んだ空気に星が光っている。 *  心臓がばくばくと脈打っている。  いつもより早い時間、美緒や瀬那が登校する前の時間に私は教室に入った。それでも何人かはもう既に登校していて、本を読んだり勉強したりと、めいめいにやりたいことをやっている。勢い良くドアを開けた私の方を見る人はやはり昨日と同じくいなかったが、お構いなしに私は自分の机に向かった。背負っていた鞄を置くと、重みがある音が鳴る。  昨日の彼女との話がきっかけになったのは確かだ。でも、いつかはやらなきゃ、このままではいけないと叫んでいる小さな私も、確かに心の中にはいたのだ。それが急に大きくなって、美緒や瀬那と過ごす日々に逃げ込んでいた私が、今は幽霊のように存在感を消している。  長い髪を雑に一本に括り、私は席についた。時間が来てふたりが登校すれば、きっと昨日のように私のことは見向きもしないだろう。私は今日もきっと、昨日と同じようにクラスの中にいないような存在になる。皆が私をそうするというなら、私は私で好きにやってやる。死なずして幽霊になった私は、一度死んだのだ。生き返るからには、違う自分を選んだっていいだろう。  まずは前回の模試の復習から、と取り出したクリアファイルには、あの小説のしおりが挟まっていた。
スポンサーサイト



第三十九回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2020.09.20(Sun) 00:00

魂魄置換装置

 30年前、幽霊の存在が確認された。  20年前、幽霊が肉体を離れた人の思念体であると判明した。  10年前、肉体はその霊の入れ物でしかないということが明らかになった。  5年前、霊の置換手術に成功。  3年前、肉体の売買市場解禁。  3日前、僕は自分の体を出品した。  小学6年生の夏だったと思う。僕は彼女に呼び出された。呼び出されたと言っても学校で「放課後町外れの公園で待ってて」と一方的に言われただけであったが。  小学生の段階では、男の子よりも女の子の方の成長が早い。それは心も同様で、こと恋愛においては、小学6年生の男児には刺激が強すぎて、タブー視される傾向があった。  だから周りからのヤジには「そんなんじゃねぇ!」とお決まりの返しをしながらも、内心は割れんばかりにドキドキしていた。  学校が終わると一目散に公園へと向かった。出来れば追っ手となったクラスの友達を振り切るために。  結局振り切れなかったクラスメイトにのぞき見られながら、僕は彼女のことを待った。  1時間が経ち。 2時間が経ち。 3時間が経ったが、彼女は一向に現れなかった。 すでにのぞき見の好きな連中は皆帰ってしまっていた。時間にすれば18時近くになっている。小学生に取ってみれば18時という時間は一つの目安で、遊びに行ったときも、この時間になると皆帰宅の準備をし始めることが暗黙の了解となっていた。 さすがに僕もしびれを切らしてしまって、何度も振り返りながら帰路についた。 彼女が来なかった理由は、翌日の学校で明らかになった。 クラスの担任から彼女が交通事故に遭ったことを聞かされたのだ。 遺品の鞄の中からは僕宛のラブレターが見つかった。 彼女の葬式でもらったそれは、今も机の引き出しの中にしまってある。 こんな僕がもう一度彼女との再会を望んだとしても無理からぬところであろう。 3日前に成人を迎え、市場への出品規定を満たすと僕はすぐに自分の体を出品した。 生まれた子どもの人権を守るために、肉体の出品には成人以上という規定がなされている。そもそも「肉体を出品したい者などいるのか」と思われるかも知れないが、自分の命と引き換えでも子どもにお金を残してやりたいと考える親は一定数存在する。また、この動きを抑止するには、若者を犠牲にしてでも生きたいと願う老人が多すぎた。 いずれにせよ僕にとって都合が良いことには間違いない。 出品後はすぐに落札された。 平均よりも若干整った顔立ちと、平均以上の身長。最年少の20歳ということもあって、かなりの値が付き、30代前半なら男女1組を買うことが出来る金額になった。 すでにお金は入金済みで、彼女と僕の2人分の肉体も予約してある。後は彼女を連れ戻すだけだ。 僕と同じようなことを考える人はかなりいて、そのための存在確認システムやメッセージ機能も完備されつつある。 彼女にはあの公園で待っていてくれるように伝えてある。何しろ思念体には輪郭がないので、こうでもしなければ彼女の存在を認識することもできない。経験者によると第六感的なものでそこに誰かがいることは理解でき、意思疎通も出来るそうなのだが、僕自身は経験したことがないので保険をかけたとしても彼女は許してくれるだろう。 現在僕は思念体置換装置の中にいて、落札相手との思念体の交換を待っている状態にある。ものの数分で僕の思念体はこの体からはじき出され、現世をさまよう幽霊の1つとなるだろう。戻ってくる手はずが整っているとはいえ黄泉の国に旅立つわけであるから、恐怖が全くないと言えば嘘になる。だから僕は覚悟を決めるために固く目を閉じ、じっとそのときを待った。 死は一瞬のうちに訪れるとはよく言うが、本当にその通りなのだと初めて知った。肉体を離れる瞬間には何も感じず、ただ辺りを見回したときに自分の体が見えて、自分が幽霊になったことを実感した。 景色は肉体にあったときと同じように見えているが、自分の体が視界に入らないことに違和感を覚えた。今までは肩なり手足なりが視界の一部に映り込んでいたが、それが無いとなると途端に奇妙な感じになる。 移動は今まで通り前に進もうと思えば移動できた。ただ足を動かす感覚が伴わないので、初めのうちは世界の方が動いているような感覚を覚えて酔いそうになった。 思念体ということで壁を抜けられるおかげで、車や電車を使えない割には早く公園へ着くことが出来た。 幽霊とは言っても、要は現実世界の中で実体を伴わない存在になったというだけで、目の前では今まで通りの生活を営む人が通り過ぎていった。うっかりすると人の中を通ってしまいその断面図を見てしまうので、できるだけ人は避けながら移動した。 公園にはすでに先客がいるようで、霊が一人そこにいるのを感じた。 しかし、輪郭がないためそれが彼女かどうかは分からないので、本人確認から始めることとなった。 「──? 」 8年ぶりに会うとはいっても敬語は変だと思い、また「ちゃん」や「さん」をつけるのも違うように思った結果、名前だけを尋ねるどストレートな質問になってしまった。 彼女は、おそらくこちらを振り返ったのであろうわずかな間隔の後「うん」と返してきた。 8年前と全く同じ声に女の子は声変わりしないことを改めて実感し、逆に声変わりしてしまった自分に気づいてもらえないのではないかと思って、大変にデリカシーに欠けることを口走ってしまった。 「……ラブレター読んだよ」 「……最低……」 わずかな沈黙の後、彼女は不快感をあらわにした。何しろ顔が見えないものだから、彼女の怒りがどの程度のものなのか判断が付かず、僕は「ごめん……」と言って押し黙ってしまった。 また沈黙があった後、彼女はあきれたように切り出してくれた。 「8年前から変わってないよね」 一瞬何のことだか分からなかった。しかし、きっとこの公園のことを指しているのだろうと思って、「そうだね」と肯定した。経年劣化や季節による色彩の違いはあれど、この公園の遊具はどれも8年前の待ち合わせの時から変わっていない。だから「きっとお金がないからだよ」と付け加えた僕の言葉を受けて、彼女は怪訝そうに「君のことだよ?」と言い返してきた。 「彼女無し。キスも当然したこと無し。セックスなんてもっとしたこと無し。そのくせ性欲だけはいっちょ前だから、そういう本は辞典の裏に隠してある──」 急に語られる赤裸々な告白に一瞬驚いてしまったが、それが誰のことだかわかり慌てて止めようとする僕をよそに、彼女は語りをやめなかった。 「──平均よりも若干成績が良かったから冒険して身の丈に合わない大学を受けるも不合格で、後期に受けた地元の大学に入学──」 話題がそっち系からシフトしたことに安堵しながら、なおも止めようとする僕を無視して彼女は語り続ける。 「──事前にあーだこーだと考えながらも、いざ本番では間が悪い所なんか小学生の頃のまんま。‥‥本当、変わってないよね‥‥」 すでに止めることを諦めていた僕は、彼女の語りが一通り終わったのを確認してから、最も聞きたかったことを若干の怒気を匂わせながら尋ねた。 「‥‥どうして知っているの?」 彼女は悪びれる様子もなく答えた。 「君こそ知ってる? 死者ってめちゃくちゃ暇なんだよ? 食欲も睡眠欲も性欲もないし、そもそもできることがほとんど無いから、他人の生活を盗み見ることくらいしかすることがないの」 当然のことだった。肉体を購入できる裕福な家庭ならいざ知らず、僕や彼女のような一般的な家庭では肉体を買うことなど到底出来ない。だからこそ僕は自分の体を売りに出したのだが、その間彼女は暇を持て余したのだろう。なにせ、8年も待たせたのだから。ただ、その暇を埋める観察対象に僕が選ばれたことには、気恥ずかしさのようなものを感じずにはいられなかった。 「だから、君がなぜここに来たのかも知っているよ」 これも自明だった。僕のことを見てきたのなら、当然僕がここに来た目的も知っているはずだった。だからこそ、彼女の次の言葉は意外だった。 「でも、私はいかない」 「どうして!?」 僕のことを見ていたのなら、彼女は僕に対して未練を感じているはずだった。だからこそ、この話になったとき、僕は当然に彼女の肯定的な返事を予期していた。 「きっと私の手紙が君の人生を制限していたんだと思う。死者の言葉は生者のものよりも重いから‥‥」 「‥‥‥」 そう思う節がなかったわけではない。事実僕は、彼女以外の女性と関係を築くことに罪悪感を抱いていた。彼女に対する裏切りにならないかと。つまり、あのラブレターは僕から彼女以外の選択肢を奪っていたのだろう。でも僕はそれでも良いと思っていた。僕が一番愛しているのは彼女だし、そうであるならば何も問題にならない。それに、これは少し卑怯だが、彼女がそこまで知っているならその責任を取るべきだろうとも思う。そして、そう言いかけようとした矢先、彼女に先手を取られてしまった。 「‥‥でも、死者が生者に迷惑をかけちゃいけないよ‥‥」 結局の所これが全てだった。完全な詰みだった。つまるところ、彼女は死を受入れた。そして、受入れているがために他人の生を奪ってまでも生きたいと思わなかったのだろう。いや、そもそもこんな演繹的考えに寄らずとも、彼女は本能的に他人の生を奪うことを悪と断じていたのかもしれない。そして、こんな彼女だからこそ僕は惚れたのだとしたら、何も言うことは出来なかった。 しばらくお互いに何も言わなかった。何も言わず、お互いの存在を感じ続けた。肉体を伴っていれば、きっと僕は涙を流していただろう。悲しみでも後悔でもない、諦めの涙を。 落ち着いてから、僕は最後の質問をした。彼女には残酷だが、それでも聞いておかなくてはならない最後の質問を。 「‥‥君じゃなくても良いのかな‥‥?」 これ以上無いほどに残酷な問いだった。僕は恋をしても良いのか? そのために君を忘れてもいいのか? 自分が次へと進むための限り無くクズに近い質問だった。 それでも、彼女の『死者が生者に迷惑かけちゃいけない』という言葉の真意、覚悟を問うためにしなくてはならない質問だった。 僕はじっと彼女の答えを待った。肉体があったなら、ちぎれんばかりに唇をかみしめていただろう。 彼女は平静を装いながら、それでも所々震ええしまう声で言った。 「‥‥是非してください。‥‥恋をして、結婚して、子どもを作って、その子の元気な顔を私に見せてください‥‥!」 彼女はこの後泣いてしまうだろう声で言った。僕の門出を祝うように、涙をこらえた声で。 走り寄って、彼女を抱きしめたかった。でも、それはもう僕の役目ではないし、そもそも不可能だった。 あれからどのくらい経っただろう。僕は一度は手放したが、なぜか再度出品されていた元の体を買い戻し、人生を再スタートしていた。手に職をつけ、交際している女性もいる。僕は、彼女に捧げた20年間を取り戻すように一つ一つ積み重ねていた。それが彼女の決意に報いる唯一の方法だと信じて。 彼女のラブレターは今も机の引き出しでほこりをかぶっている。
第三十九回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2020.09.20(Sun) 00:00

救世手

 人がほとんど現れない屋上は、一人になりたいときにはちょうど良かった。校舎は補強したとか何かで比較的新しい設備なのに屋上だけはなぜか古いままで、手すりなんかは今にも崩れそうな箇所もある。前は昼休みにここでサッカーに興じる男子生徒もいたらしいが、今はそんなことはとてもできない。  膝の上に弁当を広げる。涼しい風が髪を撫でており、本来はその風を感じて、といった女子高生らしい昼休みになるのだろうが、とてもそんな余裕はなかった。  もう、限界だった。俯いてご飯を口に運ぶ。いつもは教室で何人かの友人とお昼を囲むのだが、今日はもう一人になりたかった。恐怖で荒ぶる心を必死に押さえ込む。  一心不乱に箸を運んでいたので、頭上に差した影に気がつかなかった。「小泉さん……?」と言う遠慮がちな声に顔を上げると、同じ制服を着た女子生徒が心配そうに覗きこんでいた。クラスの中でも特に誰と話しているというようなことはなく、いつも一人でいるような印象がある。私も声をかけられたのはこれが初めてだったと思う。 「……結城さん……?」  結城さん――確か名前は玲奈さん――は「隣、いいかな?」と微笑んだ。「嫌だ」と断ることもできず、曖昧に許可を出すと、彼女は花が咲いたような顔でいそいそとお弁当を広げ始めた。そのまま食べ始めるのかと思ったら、彼女は箸を弁当箱の端に付けたまま、何かを考え込む表情を見せた。 「あの、どうしたの?」  彼女はしばらくもごもごと口を動かしていたが、やがて意を決したように「あのねっ」とこちらを見た。 「勘違いだったら申し訳ないんだけど、小泉さん何かあった?」 「……そんなことないよ? 何で?」 「何かいつもと違う気がして」  彼女ははにかんで言った。「小泉さんっていつも笑顔で誰にでも優しくて、私密かに憧れていたんだよね。クラスでは影が薄くて全然人と喋らない私だけど、いつかは小泉さんみたいになれたらいいなって」 「そうかな? 全然そんなことないんだけど」 「ううん。そんなことあるよ。……でもね、最近の小泉さんは何か小泉さんらしくない感じがして……。何か笑顔も無理してるのかなって思ったの。そしたら今日、お昼のときに思い詰めた顔で一人で教室出て行ったから」  無理してる。その事実を外から突きつけられたことで思わず箸の動きが止まった。卵焼きが湿っぽい味になる。結城さんの優しい声がスッと耳に入ってくる。 「何か、つらいことがあった?」  私の中で何かがほぐれた。視界がじわっと滲み、気がついたときには涙が止まらなかった。卵焼きを苦労して飲み込むながら乱暴に手で頬の筋を拭う。 「我慢しなくていいよ。誰にも言わないから」  その言葉に喉から細い嗚咽が漏れた。今まで耐えて耐えて、自分の中に押し込んでいたものが一気に溢れ出てくるようだった。  私の嗚咽が収まるのを待って、結城さんは遠慮がちに「良かったら話聞くよ?」と声をかけた。少し躊躇い、「変な話だけど、信じる?」と訊くと、結城さんはもちろんと言うように頷いた。その優しい笑顔に「あのね……」と口を開く。今まで溜まっていたものを誰かに聞いてほしかった。 *  小さい頃から幽霊が見える体質だった。心霊スポットに限らず、あちこちにいる幽霊が見えるのだ。道端や横断歩道など、至るところにいる幽霊たちは自分たちの存在が見えていると分かると、一様にこちらに話しかけようとしてくる。生きている人間にはない薄さを持った彼らは私にとって恐怖でしかなかった。  それでも最初は皆にも見えているものだと思っていて、世の中には不思議な人たちもいるものだと思っていた。しかし、一度道端に蹲っていた人を「お母さん、あの人具合悪そう……」と指差したとき、母が青ざめて私の指を押さえた。どうして母がそんなに怖い顔をしているのか訳が分からずにただ手を引かれるままに歩いた。  家に帰ってから母は長いこと誰かと電話をしていた。少しヒステリックに相手を問い詰めていた母を不安げに見つめていたことを覚えている。母はその電話を切ったあと、動揺を抑えた顔で私が幽霊が見える体質であること、彼らの多くは体が透けて見えるので、それで普通の人間と区別することができること、決して彼らと話をしてはいけないことを真剣な表情で語った。実は母の昔の友だちに同じような人がいるらしく、その人から詳しく話を聞いたらしい。 「……良くないこと……って?」 「……死の世界に、引き込まれてしまう、って」  泣き出してしまった私を母は「大丈夫。話さなければいいの。大丈夫」と抱きしめてくれたが、そう簡単に恐怖が消える訳ではなかった。昼はビクビクしながら歩き、夜は怖い夢を見る毎日になった。  見える幽霊の数は年々増えていき、小学校高学年になる頃には、行くところどこにでもいるようになった。教室で友だちと話しているときに後ろにいるということも珍しくなくなり、恐怖で顔が固まる日々だった。そうなると皆、私を不審に思うようになり、「菜生ちゃんってちょっとおかしいよね」と言われるようになってしまった。友だちが離れていく事実も怖く、余計に泣く日々になった。母に相談しようかとも思ったが、そんなことも言うと心配しすぎる程心配するのは目に見えていたので、結局何も言わなかった。  唯一話をすることができたのは、母方の祖母だった。私は典型的なおばあちゃんっ子で夏休みや冬休みの度に駄々をこねてまで連れて行ってもらっていた。祖母と私は年の離れた友だちのような関係で、泊まった際には一つの布団に一緒に入って眠った。私は祖母に学校や友だちの話をして、祖母は昔話や童話などをたくさん話してくれた。  幽霊が見える話をすると祖母はしばらく黙って抱きしめてくれた。それから「菜生ちゃんのことはおばあちゃんが守るから大丈夫よ」と言って、背中をトントンと叩いてくれた。そのときだけ私は恐怖を忘れることができていた。  ある年の夏、祖母は悪戯っぽい顔で私を呼んだ。すぐに飛んでいくと祖母は後ろ手に回していた手を広げて見せた。 「これ、お守り?」 「そう。おばあちゃんの手作り。菜生ちゃんが幽霊とか見て怖くならないようにパワー込めたんだよー」 「そうなの?」 「おばあちゃん、いつも菜生ちゃんと一緒にいられる訳じゃないからねぇ。ちょっとでも力になるといいんだけど」  私は祖母に抱きつき、何度も「ありがとう」を言った。幽霊たちにずっと一人で戦わなくてはいけないと思っていた私に、祖母の手作りのお守りは何よりも安心できるものだった。  理由は分からないが、それはただの気休めではなく、本当に効果のあるものだった。不思議と幽霊は見えなくなり、私は心置きなく日々を過ごすことができるようになった。私は祖母に心から感謝した。本当にパワーがあることに疑問を持ち、何度か理由を訊いたが、祖母は「それは秘密、だよ」と笑うだけで結局教えてくれなかった。  そんな祖母が少し前に亡くなった。私が中学生になった年から入院していた祖母の体は一進一退の様子を見せていた。祖母はほんわかしているように見えてとても強い人だったので、絶対に良くなると信じていた。しかしそんな願いも空しく、去年の暮れ頃から急に体調が悪くなり、数ヶ月後には息を引き取った。  私の自宅の近くの病院に入院していたので、少なくとも週に一回はお見舞いに行っていた。病床でも私が来ると起き上がってニコニコと話を聞いてくれた祖母はいつも私を気にかけてくれた。 「菜生ちゃん、最近は大丈夫? 幽霊、見てない?」 「大丈夫だよ、おばあちゃん。おばあちゃんのお守りあるし。それに私もう高校生だよ? いろいろ上手くやれるようになってるって」  お守りはもらって以来常に身につけるようにしている。 「そうかい? お守り、まだ効いてるんだね……。良かった……」 「そうそう。だから、心配しないで」  そんな会話をしたのも、すごく遠くのことに感じる。祖母が亡くなったことによって、私の心の真ん中に大きな穴が開いてしまった。  それだけでも精神的に負荷が掛かっているのに、さらに新たな問題が浮上した。再び幽霊が見えるようになったのだ。その数は小学校高学年のときに見えていたものの比ではなかった。酷いときには教室に入ったときにクラスメイトの数と幽霊の数が大体同じこともあった。さらに厄介なことに、人間と幽霊の区別が付きにくく――体が透けない例外的な幽霊もいるらしい――なってしまった。  友人たちには知られないようにしていたが、簡単ではなくなった。廊下ですれ違った人が格好良く、思わず見惚れてしまったとき、周囲に「菜生、何もないトコボーッと見て、どうしたの?」と言われた。「今、すれ違った人、いたよね……?」と確認しても皆「誰ともすれ違ってないよ」と首を捻るばかりだった。それから誰と話すときにも彼らが人間なのか幽霊なのかを判断していかなければならなくなり、その恐怖を隠しきることはできなかった。  不審そうな顔をするクラスメイトたち。周りに溢れ出る幽霊たち。私を守ってくれるおばあちゃんはいない。高校生になって少しは成長したと思っていたが、恐怖は小学生から少しも変わっていなかった。  友人たちが困ったような顔で離れていくのが嫌だ。もうおばあちゃんを頼ることができないのが嫌だ。一人でこの恐怖に耐えなければならないのが嫌だ。毎日毎分毎秒幽霊の姿を恐れながら過ごすのが嫌だ。  もう逃げたい。逃げたい。逃げ出してしまいたい――。 *  私の話を結城さんは静かに聞いていた。 「ごめんね、こんな意味分かんない話……」 「ううん、全然。寧ろあんまり話したことない私に話してくれて嬉しかった」  結城さんがニコリと笑う。「少しは楽になった?」 「うん。ありがとう」 「それでね、私も小泉さんに言いたいことがあるんだけど……」 「ん? 何?」 「私ね、幽霊を近づかせない力があるの」 「え、結城さんも見えるの?」  驚いて結城さんを見ると、彼女は照れくさそうに笑った。「お祓い、とかそういうのじゃないんだけどね」 「ちょっと周りを見てみて」と言われて屋上を見渡すと、校内の人はもちろん、幽霊も誰一人としていない。 「ね? 私たち以外に誰も、他の幽霊もいないでしょ? これ、私の力らしいの」 「え、すごい……。すごいよ、結城さん!」  思わず身を乗り出す。すごく嬉しかった。誰にも頼れないと思っていたのに、クラスにこんなに心強い味方がいたなんて。祖母のときと同じくらい、もしかしたらそれ以上に強い安心感を得た気がした。強ばった頬が緩み、笑みが広がっていくのが分かった。もう幽霊に怯える必要もないんだ。 「ふふふ。だからね、小泉さんは何も心配しなくていいの」 「良かった……! ホントにありがとう!」  彼女はニコリと笑って頷くと、「行きましょう。皆待ってるよ」と手を差し伸べた。  その手を取って彼女と共に歩き出す。それまでの恐怖から解放されて安心したためか、フウッと眠気が襲ってきた。昼休みのおわりを告げる予鈴が遠くに聞こえる。次の授業は日本史だっけ。これは授業中に寝てしまいそう。あの先生の声子守歌みたいだし……。  前方に古い手すりが見えてきた。結城さんのヒンヤリした手が私の手を引いていく。  耳元で風がヒュウッと鳴った。
第三十九回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2020.09.20(Sun) 00:00

イザヤ・ザ・ポラリス

1  わたしたちが命を終えると、その魂が燃えて夜空へ浮かび上がります。夜空に輝くあのまぶしい光たちの一つ一つは、ご先祖様の魂に他なりません。 2  イザヤとエレナは物心つく前からの友人で、夏休みになってからはいつも朝から晩まで村の真ん中を通る川で遊んでいました。イザヤの黒い髪とエレナの白い髪が村人の目に留まるようになり、彼らはモノクロの子どもと呼ばれるようになりました。  二人は毎朝歯磨きをしてから川の上の小さな橋で会うのが日課でした。その日も、イザヤはエレナがやってくるのを待っていました。彼女はきまって15分ほど遅れてくるのです。  イザヤは今か今かとうずうずして橋の上でぐるぐる回っていました。回っているうちに回っていることに夢中になってしまい、エレナが橋にやってきたときには目をまわしてその場で倒れてしまいました。 「遅くなってごめんね」  エレナが謝ってもイザヤは答えることができそうにありません。  「なぜそんなになるまで回っていたの?」  エレナがイザヤの顔を覗き込んで聞くと、彼はぱっと目を開きました。 「早く伝えたくてたまらなかったんだ。あぁエレナ、なんで君はいつも来るのが遅いんだ」  イザヤは大声で言います。エレナは彼に手を差し伸べながら聞きました。 「何を伝えたいの?」 「今夜だよ。僕たちはついに見ることができるのさ。今日の夜、ちょうど零時に流れ星が現れるんだ。今日の新聞にそう書いてあったのをみたよ」  イザヤはエレナの手を借りて立ち上がると跳ね始めます。笑顔で熱弁する彼を見たエレナは、流れ星が何のことかわからないけれどそれはきっととても素敵でおもしろいもなのだと思いました。 「その流れ星を見に行くの?」 「君も行くんだよ。今日の夜、零時より少し前にここに集まるんだ」  エレナは突然のことに驚きましたが、イザヤと遊ぶ時間が増えたのだと思い喜びました。そうして二人はいつものように川に沿って走り、時折休んで綺麗な石を探して、しかしまたすぐに走り出してを繰り返しました。  日が暮れてエレナが帰るとき、イザヤは念を押すように言いました。 「今日の夜、零時ちょっと前にここに来るんだよ。いいかい、零時ちょうどじゃあ遅いんだからね」 「わかった、絶対にここに来る」 「絶対だからね」  イザヤはエレナと鼻がぶつかりそうなほど顔を近づけて言って、そして少し笑ったかと思うとすぐに走り出していきました。彼女はイザヤの背中が見えなくなるまでただひたすら手を振り続けていました。  エレナが家に帰ると、お父さんが台所に立っていました。 「おかえり。またイザヤくんと遊んできたのかい」 「そうなの。そんなことよりお父さん、今日の新聞見てもいい?」  お父さんは不思議そうな顔をしましたが、すぐに納得した顔になりました。 「イザヤに何を教わったんだい?」 「それは」  言いかけて、エレナは口に手を当てました。 「どうしたの?」 「ないしょ」  お父さんに流れ星のことを言ってしまうと零時の約束に行けなくなるかもしれないと考えて、エレナは何も言いませんでした。  お父さんはエレナを見て微笑み、そっと暖炉の横を指さしました。お父さんは読み終わった新聞をいつもそこに置いているのです。  新聞を床に広げたエレナは、流れ星、流れ星、そう呟きながら新聞をじっくりと見始めました。一枚めくって、流れ星、流れ星。また一枚めくって、流れ星、流れ星。彼女は夢中で流れ星を探していました。  その晩、零時から少し前に、エレナはお父さんがベッドで寝ているかそろりと見に行きました。そして、物音を立てずに自分の部屋に戻った彼女は、机の脚に括り付けたロープを窓から投げて、それをつたってするりと降りていきました。  あたりは暗いけれど、いつも外で遊んでいるエレナはどう行けばあの橋に着くかわかっていました。彼女は一刻も早くイザヤに会いたので、周りも見渡さずにただ前を向いて走りました。  イザヤはお気に入りのフードの付いた黒い外套をつけていましたが、エレナにはそれが彼だとわかりました。橋の真ん中で倒れている子供はイザヤしかいません。 「あなたはいつも回りながらわたしのことを待っているのね」  エレナがイザヤを見下ろして言うと、イザヤは目を大きく開きました。 「なんでそれを知っているんだ」 「いつも倒れているから」 「でも、今日は違うんだ」  イザヤは倒れたまま笑って言います。 「何が違うの」 「この星空だよ。エレナ、見ろよ」  イザヤが空を指差して言います。 「あの光の粒たちだ。一つ一つ、違う大きさ、違う輝きなのに、どれを見ても綺麗だ。ただそこにあるだけでお互いの光を邪魔することなくそこにいるんだ。彼らはきっとあそこにいて輝くのが一番いいんだろう。あの位置、あの角度で一番すてきにみえるんだ」  エレナは、彼の目に星が映っているのを見ました。 「そんなにすごいの?」 「そりゃあ、もう」  エレナは顔を上げて夜空を見ました。夜は暗くてそこにビー玉をまき散らしたように星たちが浮かんでいることは彼女にとって当然のことで、改めてこの空を見て感動することはありませんでした。 「そうだ、こんなことをしている場合じゃないんだ」  そう言って起き上がるイザヤにエレナは手を貸しました。 「エレナ、天文台へ行こう」 「てんぼうだい?」  イザヤの指さす山頂を見て、エレナは首をかしげます。 「そう、天文台。星がとってもきれいに見れる場所なんだ」 「ここより?」 「ここよりずっとさ。早く行こう」  イザヤに手を引かれて、エレナは走り出しました。  そしていつも、ここで目が覚めるのです。  彼女はベッドから起き上がると目をぬぐいました。カーテンの間から差す日光が眩しいので、近くにあった杖でカーテンを閉めます。  彼女が目を時計に移すと、針は正午を指していました。部屋の扉を開けると目の前にパンと水、そしてメモが置いてありました。メモにもパンにも目もくれず、彼女はコップだけ手に取り部屋に戻りました。 3  日が沈むころ、エレナのお父さんが部屋の扉を軽く叩きました。 「起きてるかい?」  エレナは答えません。 「メモ、見たかい? 今日はセイヤ祭なんだ」  返事はありません。お父さんはため息をつこうとして、堪えました。 「おまえがとっても辛い思いをしていることは知っている。だけど、今日行かなかったら一生後悔するんだぞ」  扉の向こうからは何もきこえません。彼は祈るように扉に手をつきながら続けます。 「あと30分で行くから、ちゃんと着替えておいて」  お父さんはそう言うと、扉の前から離れていきました。  車の中で二人は何も話しませんでした。エレナは、子供のころから代わり映えしない村が、ゆっくり遠ざかっていくのをただ眺めていました。  セイヤ祭は村から車で30分ほどの海沿いの町で行われる祭です。この辺り一帯の集落の人間は、ネオンの光に照らされスピーカーから流れるポップな音楽で騒いでいるのです。  車から降りたエレナはお父さんに手を引かれて町の中へと歩いていきました。周りはずっと人だらけで、背の低いエレナは近くの屋台が何を売っているのか見えません。しかし、エレナは周囲をきょろきょろと見まわしながら歩き続けました。  しばらくして、もう海の近くまで来たあたりでお父さんは立ち止まりました。 「さぁ、ついたぞ」  エレナはずっと周りの人たちばっかり見ていたので、彼女らがテントの前に着いたことに気付いていませんでした。  とても大きなテントで、看板には「送り船」と書かれています。 「こんばんは、親族の方ですか?」  スーツを着た男がお父さんに話しかけます。縦長の頭に髪がまっすぐ上に生えているので、エレナはネギのような男だと思いました。 「あら、エレナじゃない。来てくれたのね」  テントの中から、太った女性が出てきました。 「お久しぶりです、おばさん」 「そうね。さぁ、中に入って」  彼女に連れられて、エレナたちはテントの中のテーブルに案内されました。そこにはひどい隈をしたおじさんが手を組んでいました。  周りを見渡すと他のテーブルに着いた人たちがまばらにいて、ある人は談笑し、ある人は肩を寄せ合って泣き、ある人は十字架を持って祈りを捧げていました。  お父さんとおばさんたちは席に着くなり何か難しい話をしており、エレナはただぼうっとその様子を眺めていました。 「お暇かな?」  後ろから声がしました。エレナが振り向くと、メガネをかけたお姉さんが立っていました。彼女はエレナの前にやきそばを置き、隣に座って言います。お姉さんはたこ焼きのトレイを手にしています。 「大人が子供放って世間話しちゃあ、たまったもんじゃないね」  彼女はそう言いながら、たこ焼きをぽんぽん口に入れていき、すぐに食べ終えてしまいました。 「お嬢ちゃん、食べないの?」  テーブルに肘をつき、お姉さんは言います。エレナはただ口をへの字にして黙っているので、お姉さんは少女の頭を撫でました。 「おーい、マヤ。どこだ」 「はーい」  さっき入り口にいた、あのネギ頭のおじさんがテントに入ってきました。 「もう行くね。それ、ちゃんと食べるんだよ」 マヤと呼ばれたお姉さんは、そのまま席を離れていきました。 「それでは皆さん、時間となりました」  ネギおじさんの声が響き、テントの中は急に静かになりました。 「これから海へ向かいます。皆様、お荷物の準備をお願いします」  一行は砂浜までトボトボと歩き続けます。その姿を後ろから沢山の人たちが見てくるので、エレナは彼らを睨みつけました。 海辺まで来るとそこには16艘の小舟が等間隔に並んでいました。小舟を前にして一行は立ち止まり、ネギ頭の男とマヤを囲うように並びました。 マヤが喋り始めます。 「わたしたちが命を終えると、その魂が燃えて夜空へ浮かび上がります。夜空に輝くあのまぶしい光たちの一つ一つは、ご先祖様の魂に他なりません。今日、わたしたちは新たな星となった者たちを悼むため、彼らに向けて舟を送ります」  先ほど話しかけられたときとは打って変わって、ゆっくりと言い聞かせるように語る彼女を見て、エレナは少し驚き肩を落としました。 「それでは、舟に荷物をお願いします」  彼女が言い終わると一行はゆっくりと小舟の方に向かいました。エレナもお父さんに手を引かれて歩きます。 「お父さん、荷物って?」 「みんな、何も持たずに星となってしまうからね。彼らが生前大切にしていたものを、その星に向けて送ってやるのさ」  嘘だ、彼女はそう思いました。 4  モノクロの二人は、流れ星を観に橋の上から冒険に出かけました。30分は山の中を歩き続け、もうエレナはヘトヘトでした。月明かりは彼らの道を照らすにはあまりにも弱々しく、風の音も動物の鳴き声も聞こえず、そこには二人の歩く音と呼吸の音だけでした。 「これ、本当に、方向、合っているの?」 「だい、じょうぶ。きっと、だいじょうぶ、だから」  イザヤはずっと空を見上げながら歩いています。歩きながら流星群を観ようとしているのだろうか、とエレナは考えました。彼女はいつの間にか下を向いて歩いていました。  彼女も上を見上げると、先ほど橋の上で見たような星空が浮かんでいます。何もない漆黒から彼女を守るように、光の粒が浮かんでいました。先ほど見たときとは違って、エレナはこの星空が恐ろしくなってきました。  今彼女が歩いているこの地球にも、この星空にも、彼女以外のすべてが消え去ってしまったような感覚に陥りました。星と星のわずかな黒い隙間を覗き込めば最後、エレナはその中に吸い込まれて消えてしまうように思いました。  エレナはイザヤの外套を掴みました。するとイザヤは振り返り、エレナの肩に手を置きます。 「イザヤ?」 「エレナ、着いたよ」  イザヤの指さす先には、小さな灯りがついた塔が立っていました。壁はひび割れ、周りには蔦が覆っています。中の光は窓だけでなくひび割れた部分からもうっすらと漏れだしていました。周りの木々は塔から一定の距離を置いて塔を囲んでいます。 エレナは、この塔がこんなにも目立つのにどうして山中では気づかなかったのだろうと思いました。  塔に入ると、星座の早見表が壁に貼り付けられており、その横から塔の内側をぐるぐると回る階段がありました。灯の下の机には受付と書かれており、その上には双眼鏡が置かれていて、その横に星座や星に関する書物が積まれていて、どうやらここがイザヤの言う天文台らしいのです。 「やっぱり正しかったのか……」 イザヤが呟きました。 「え?」 「エレナ、僕たちは先人たちと同じ旅をしていたんだ」  彼は目を輝かせて言い、双眼鏡を二つ掴ん階段を駆け上りました。  エレナも続いて上ると、塔の屋上にたどり着きました。イザヤは彼女に双眼鏡を手渡し、寝転がりました。エレナも彼に倣って寝転がり、空を眺めました。  塔の上は風が吹き、灯りもありません。暗闇の中、彼らが見ることのできる光は空にだけあるのです。少女は途端に恐ろしくなり、イザヤの方を見ました。  少年は無言で空を見上げています。きっと彼は星の大きさだとか角度だとかそういったものに夢中になっているのだと、エレナは思いました。 「ねぇ、イザヤ」  エレナはイザヤの手を握りました。 「エレナ、見ろ!」  イザヤは空を指さしました。つられてエレナも顔をあげます。 空に、光の線が走りました。彼女が瞬きをするとそれは消え、また別のところから光線が走りました。空のあちこちで光が流れては消え、流れては消えていきました。 「これが流れ星だ」  イザヤが呟きました。  流れ星は夜空を駆け巡り、星と星の狭間の闇を埋め尽くすほどでした。 「すっ、ごい」  彼女の口からこぼれるように声が出ました。 「ほんとうに、すごい……」  光の線はみるみる数を減らしていきます。エレナは花火を見終わる時のような何とも言えない寂しさを感じていました。 「エレナ」 エレナが顔を横に向けると、イザヤが彼女の顔を見ていました。 「流れ星に願い事をしよう」 「願い事?」 「流れ星が流れ終える前に願い事を三回唱えると、その願いが叶うらしい。この前読んだ図鑑に書いてあったんだ」  星空に、もう流れ星はほとんどいませんでした。  エレナは目を細めて、空のあちこちを探して、そうしてみつけた光線見ながら、口の中で願い事を三回唱えました。願いながら、彼女はイザヤの手を強く握っていました。三回目は間に合いませんでしたが、彼女はそれでも願い事が叶うような気がしました。  少女はそのまま夜空を眺めていると、輝きの強い星と弱い星、それに星と呼ぶべきなのかわからない光の雲が、空いっぱいに広がっているのに気づきました。そして、さっき彼女が怖くなった、光と光の狭間にある闇も、その奥に幽かな輝きがあるのだと悟りました。 「ねぇイザヤ、なんてお願いした?」  エレナがイザヤの顔を見ながら尋ねます。 「僕は、北極星になりたい」 5  その舟には「IZAIA」と刻まれていました。  イザヤの両親が舟をタオルで掃除した後、そりに載せられた荷物を舟に置き始めました。星座図鑑だったりシャツやズボン、学校の生徒からの手紙が詰まった箱とそして彼のお気に入りだった外套を、二人は一つ一つ抱きしめてから舟に載せていきます。エレナはただそれを眺めていました。 「エレナ、手紙は書いたかい?」  お父さんがエレナに尋ねます。  彼女は下を向いて何も言いません。 「いいのよ。今すぐじゃなくても。きっと想いは届くから」  イザヤのお母さんが微笑むと、エレナは下を向いたまま震える声で言いました。 「想いって、なんですか」 「エレナ?」  お父さんがエレナの肩を掴みます。彼女の両手は強く握りしめられていました。 「なんでそんなに嬉しそうに荷物つめてるんですか」  イザヤの両親も、お父さんも、エレナをただ見つめていました。 「ふざけるなよ、勝手に納得して勝手にイザヤの物海に捨てて。わたしだって、わたしだって……」  そこまで言って、彼女は唇を噛みました。口から血が垂れて彼女の首元まで流れていきました。  数秒間黙り、そしてエレナは顔を上げて叫びました。 「イザヤのこと忘れてまで楽になりたいのなら勝手にしろ!」  エレナは、そのまま舟の上の外套を掴んで走り出しました。三か月も引き籠っていたからか、それとも砂が彼女の足を引き留めたのか、その足取りはどこか危うげでした。 「お嬢ちゃん?」 「待て、マヤ!」  背後の声も気にせず砂浜を走り抜け、人混みをかきわけて、エレナはただひたすら走り続けました。外套が手から滑り落ちそうになるたびに、彼女は両手でそれをすくって抱きかかえました。  必死になって走りつづけ、そこがどこなのかわからなくなった時、彼女は様々な色の光が流れていくのを目にしました。彼女は目を閉じました。  そうして、十歩、十五歩、前のめりになって駆けたところで、彼女の体が宙に浮きました。 「お嬢ちゃん!」  空中で後ろから誰かに抱きしめられ、そのまま落下しました。エレナは、それがイザヤであるような気がしました。  エレナをかばうようにその人は地面と激突して、エレナは転がりました。彼女が目を開くと、そこに電車が停まっています。ここはこの町の駅のようでした。  ジリジリジリと、駅のベルが鳴ります。エレナは車両に入りました。 「それでは、発車いたします」  ライトが弱いせいで薄暗い、誰もいないがらんとした車内にアナウンスが流れます。エレナがライトの真下にある席に座ると同時、マヤが電車に飛び乗りました。 「いた、お嬢ちゃん……」  マヤはエレナの正面に腰掛けると、顔を下げて大きく息を吐きました。 「お嬢ちゃんての、やめてください」 「やっと、口きいてくれたね」  マヤは顔をあげてエレナに笑顔を見せました。メガネがずれ落ちましたが、マヤはそれを拾おうとはしませんでした。 「何しに来たんですか」 「なにって、心配だから来たんだよ」 「これを取り戻しに来たんでしょう」  エレナが拗ねるように言うと、マヤは首を振りました。そして、エレナの髪を撫でながら言いました。 「わたしはマヤよ。あなたの名前を教えてくれるかな」 「……エレナ」 「そう。エレナちゃん、わたしはあのお祭り、実は嫌いなのよ」  驚いてエレナがマヤの顔を見ると、二人の目が合いました。 「そんなはずない、だってさっきも星の先祖様の話をしていたじゃない」 「あんなの仕事よ、仕事。パパに言われて仕方なくやらされてるのよ。やってればいつかわかる、だなんて言って。あのネギ頭のオヤジよ。あいつ名前までネギネギっていうんだよ。ネギオヤジめ」  マヤはそう言って深いため息をつきます。エレナはテントの入り口にいた人物のことだろうと思いました。 「ねぇ、このあとどうするつもりなの?」  マヤの質問に、エレナは黙るしかありませんでした。下を向いて、ただイザヤのコートを抱きしめました。 「そのコートの持ち主って、どんな人なの?」  その質問にも、エレナは黙りました。 「そう」  マヤはエレナの頭を撫でました。 「マヤ、さんはどうして――」 「マヤでいいよ」 「……マヤはどうして来たの」 「そうね、どうしてかしらね」  エレナは、イザヤのコートに顔をうずめました。  満点の星空の下、二人を乗せた電車はガタゴトと音をたてながら海からとおざかっていきました。 6  時間が経って、星が流れなくなって、それでも二人は塔の上に寝ていました。  エレナは、もうこの星空が恐ろしくなんてありませんでした。 「ねぇイザヤ、北極星ってなに?」 「ポラリスって星さ」 「ぽらりす」 「そう。ずうっと北の空に浮かび続けている星さ。あそこにおおぐま座が見えるかい? あれの背中からしっぽまでの星を北斗七星といって、そこからさらにこう伸ばしていったあれが、そう、それがポラリスだ。大昔から、幾人もの人があの星を目印にこの地球を旅してきたんだ。今夜だって、僕らはあの星をめがけて歩き続けていたんだよ」  エレナは、昔の人はどうしてコンパスや太陽の向きで方角を知ろうとしなかったのか聞きました。 「どっちも、夜だと暗くて見れないじゃないか」  イザヤは上を見続けています。 「誰もいない、方角もわからない暗闇の中で、旅人たちが頼れる光はきっと、月や星の光だけだったんだろうな」  焚火やライトの灯りは無かったのか、とまではエレナは聞きませんでした。星を眺めるイザヤの目は、いつものように輝いていたのです。  あれから今日まで、エレナはこの塔に来ることはありませんでした。イザヤが星の話をするたびに彼女は同じ景色を見たいと思うのですが、暗闇の中山を登っていたのであの灯台がどこにあるかわからなかったのです。  地図にも載っていないこの場所をイザヤはどうやって知ったのか、エレナは気になりました。  二人で流れ星を見たあの日から、いろんなことが変わっていきました。  イザヤは、星の勉強をし始めました。二人の遊び場は橋の上からあの天文台へと変わり、エレナはただイザヤが星の本を読んだり、ときたま絵を描いているのを横から眺めていました。そうして、お昼すぎにはおうちに帰るようになりました。  エレナは、イザヤとまえみたいに遊びたいと思っていましたが、彼の真剣なまなざしを見てるとそれを言うのもはばかられました。彼女は、物知りのイザヤがどうやって色んなことを知っているのか分かった気がしました。  夏休みが終わって学校が始まってからも、イザヤの様子は変わりません。毎日図書館に通い詰めて星の本を読み、たまに二人が遊んでいた橋に向かっても何かをスケッチしてばかりでした。 「やいイザヤ。がり勉の次は落書きかよ」  クラスのいじめっ子にからかわれても、イザヤは気にしませんでした。エレナは彼らに言い返そうとしましたが、何も言葉が見つかりませんでした。  ある日、図書館でエレナは尋ねました。 「どうしてそんなに勉強しているの?」 「僕はまだ旅の途中なんだ」 「旅って?」 「北極星を目指す旅さ」  エレナはとうとうそれがわかりませんでした。  日が経ち、かれらは中学校に進学しました。エレナは友達が増えクラブ活動に精を出すようになり、イザヤは相変わらず絵を描くか星の本を読んでいるので、二人は次第に会わなくなりました。  ある日、エレナが美術室の扉を覗くとイザヤを見つけました。  夕日の差す薄暗い部屋に一人、彼は真剣なまなざしで何かのデッサンをしているようでした。窓から流れ込んだ風の音と風に揺らされた草木の擦れる音、そして画用紙をなぞる鉛筆の音だけがかすかに聞こえ、エレナは流れ星の夜を思い出していました。  そうしてしばらく眺めていると、イザヤが言いました。 「エレナ、入って来いよ」  エレナは一瞬心臓が跳ねそうになりましたが、深呼吸して扉を開きました。扉が大きな音を立てるので、彼女は教室に入るとゆっくり扉を閉めました。 彼はエレナの方を見ずに、鉛筆を動かし続けます。 「久しぶりだね」  イザヤが言いました。 「うん」 「最近、どう?」 「ふつう」 「そう」 「イザヤは、相変わらず絵を描いてるんだね」 「奥が深いんだ。美しいだけじゃない、もっと偉大な……道しるべってやつだよ」  そう言うと、イザヤは手を止めてエレナの方を向きました。  少年だったあの頃よりも少しやせた顔で、しかし同じ笑顔が彼女を見ていました。 「北極星?」 「そうさ」 イザヤは、彼の前の机を指さして言います。 「エレナ、モデルになってよ」  彼女は断りませんでした。    エレナは机に座り窓の外を眺めるように指示されて、そのとおりにしました。しばらくイザヤが難しい顔で彼女のまわりをぐるぐるとまわり一言、髪を縛るリボンが邪魔だというので彼に手渡しました。  たまに彼女がイザヤの方を向くと、彼は笑いながら絵にならないだろと言いました。 「ねぇイザヤ」 「なんだい」 「北極星ってなに?」 「ポラリスって星さ」 「ごまかさないで」 「星の先祖様のお話は知っているだろう」  彼は鉛筆の先を見ながら話します。 「僕たちは死ぬとその魂が燃えて星になる。夜空に浮かぶ幾千もの星はかつてこの地に立っていた生き物の魂なんだ」  エレナは思わずイザヤの方を見ました。 「イザヤは、死にたいってこと?」 「まさか」  もう風の音は聞こえません。何も聞こえません。 「まだ死ねないよ」  まだ死ねない。まだ。  エレナは途端に不安になりました。 「その話はいつから知っていたの?」 「だいぶ前かなぁ……星の本で読んだ話で、何度も読み返したよ」 「流れ星のときも?」 「そう、あのころからだよ」 「あなた、死んだ人の魂が並んでいるのが美しいって思ったの?」 「まさにその通りだよ。エレナ、君もそう思うのかい?」 「……わたし、あなたのことがわからないわ」  エレナは顔を伏せました。 「あの星空を見て、星の先祖様のお話を思い出して、そして気づいたんだ。美しいものには、それ以上の意味がある。たとえば、星がきれいに光るのはそれに見合うだけの魂がそこにあるからなんだ。星座は彼らの関係性だ。幾人もの星が連なってより美しい図形を描いている。素敵じゃないか」  イザヤは楽しそうに語ります。  エレナは、なんと返せばよいかわからなくなりました。 「僕は北極星になりたいのさ」  イザヤがあの展望台から落下して死んだのは、その翌日のことでした。 7  20分くらい経って電車から街の灯りが見えなくなり、辺りは真っ暗になっていました。車内は電車が線路を走る音だけが響き続け、揺れるたびにライトが点滅します。 スピーカーからアナウンスが流れるとエレナは顔を上げました。 マヤは窓の外を眺めていました。 「どうしたの?」 「次の駅はわたしの町なの」 「ふうん」 「イザヤも住んでた」 「イザヤ?」 「これの持ち主」  エレナはコートを広げました。 「イザヤって、あのイザヤくん?」 「知っているの?」 「コンクールで受賞していたじゃない。彼の絵がわたしの町の美術館に展示されて、それで知ったの。実はそこで会ったのよ」  エレナは驚きました。イザヤと会わなくなって彼が放課後や休日にどういう生活をしているかわからなかったのですが、以前のように引き籠って本を読んでいたり絵を描いているものだと思っていたのです。  彼を知る人物がいたことも、エレナには意外でした。 「そっか、あなたがイザヤくんの友達だったんだね」  友達だった。 彼女がどれほど二人の関係を知っているか、エレナは考えたくありませんでした。 「エレナちゃん、立って」  マヤが言いました。 「なに?」 「そのコート羽織ってみようよ」  マヤに言われるがまま、エレナはイザヤのコートを着せられました。 「うん、似合ってる」  窓にはエレナの姿が映っていました。外は未だ闇に包まれ白髪の少女の顔だけが目立ち、首から下も黒いコートを身に着けているので、エレナの目にはまるで幽霊のように見えました。  ポケットに手を突っ込むと、紙きれが入っていました。 『Polaris』  エレナはマヤを見ました。 「ねぇマヤ」 「どうしたの」 「イザヤと星について話したことある?」 「ううん、そんな話したことない」 「そう」  エレナは目を伏せます。 「イザヤくんは星が好きだったの?」  マヤはしゃがんでエレナに話しかけます。 「わからない」  電車が減速を始めました。駅や町の灯りがいつのまにか窓から入ってきています。 「わたし、イザヤのことがわからないの」  電車が大きな音を立てて停車しました。アナウンスが流れ、扉が開きます。 「教えて、イザヤ」 エレナは走り出しました。  階段を上ると街灯に照らされた道をたどっていきます。町の人はほとんどセイヤ祭に出向いているので、建物はみな真っ暗です。それでも彼と遊び回っていたことを思い出すと、どの方向へ向かえばよいかわかりました。  川沿いの道ではせせらぎの音と彼女らの呼吸と足音だけが鳴ります。橋を渡ってしばらく走り続けていると、二人は山の中にいました。 「エレナちゃん、ここ、どこ?」  マヤは息を切らしていました。膝に手をついて、ぜぇぜぇと息をしています。  エレナは、マヤの前で立っていました。 「天文台にいかなくちゃいけないの」 「こんな場所にあるの?」 「そこで彼は死んだから。でも、たどり着いたことがないの」 「ちょっと、どういうつもり?」  マヤはエレナの肩をつかみました。 「死んじゃ駄目よ。周りがどうなったって、あなたはあなたの人生があるじゃない」  彼女の目がとても必死なのが、暗闇の中でもわかりました。彼女が本当に自分のことを心配してくれているのだと、エレナは思いました。 「ちがうの。イザヤのことを知らなくちゃいけないの。いままでずっと何考えているのかわからなかったけど、それでも忘れられたくないと思うから。わたしがイザヤをわかってあげなきゃ、他のみんなは忘れちゃうから」  エレナは微笑みました。 「そう、それならいいけど、でも」 「だいじょうぶ」 「でもたどり着いたことないんでしょ」 「たぶんだいじょうぶ」  エレナは空を見上げながら歩きだしました。マヤはその隣に立って、手をつなぎました。 「エレナちゃん、イザヤくんから聞いてたよりだいぶ無茶する子なんだね」 「え」 「イザヤ君、あなたのこと振り回しすぎて愛想つかされちゃったって落ち込んでたのよ」 「そう、なの」 「でもあなたがこんなにイザヤくんのこと大事に思っていたって知ったら喜ぶだろうね」 「でも、もう死んでるじゃない」  エレナの声は震えていました。 「ごめん、そんなつもりじゃ」 「イザヤがたくさん教えてくれたのに。流れ星が実は大気圏で燃える隕石だとか、すごい望遠鏡だと幾万もの星が集まってできた星団が見えるだとか。川でも遊び方も、この町の遊び場も。ぜんぶイザヤがくれたものなのに」  エレナは歩きながらしゃべり続けます。 「わたしはイザヤに何もしてあげれなかった。わかってあげれなかった。ずっと一人で絵を描いて本を読んでて、わたしが邪魔なんだって思ってた」  マヤは何も言わず、エレナにハンカチを差し出しました。 「だから行かなきゃいけないの」 「そうだね」  二人は歩き続けます。周りに人工の灯りはありませんが、月明かりが彼女らの道を照らしました。 「あの天文台、一度だけ行ったことがあるの」 「そうなの?」 「イザヤが連れてきてくれたの。たどり着いたのはその時だけ。イザヤはずうっと星を見ていて、わたしのことを気にかけてないって思ってた」 「じゃあさ、わたしたちも上見ながら歩こうよ」 「え」 「イザヤくんがそうやって歩いていたのって、何か理由があるんじゃないなかな。ほれ」  マヤはエレナの首を上に向けました。 「手つないでてあげるから」  そういってマヤも上を見上げました。二人して顔をあげていたら手をつないでいても転ぶのではないか、とは言いませんでした。 「わたし星座とかわかんないのよねー。大三角形ってどれかしら」 「わたし、少し知ってる」 「え、どれどれ?」  エレナは少し立ち止まって夜空を眺めます。きょろきょろと見る角度を変えて、そうしてある方向を指さしました。 「あっちの方向に、並んでいる強い光の星があるでしょ。あれが北斗七星。こぐま座のせなかからしっぽの部分なの」  ひしゃくのように並んでいる星を指でなぞり、そこから一直線にある別の星に行きつきます。 「ひしゃくの先を追っていくとまた別の星にたどり着く。あの星が北極星。ポラリスっていう二等星」 「すごい」 「イザヤはこの星が好きだったの」 「そうなんだ」 「うん。天文台に行くときも、北極星の話ばかりしていて……」  エレナはそこまで言って気づきました。 「イザヤは北極星を目指して歩いていたんだ」  壁はひび割れて中の光が漏れ、それに伝うように蔦が張り付いています。数年ぶりに訪れたその塔は、かつて訪れたときと一切変わっていませんでした。 「こんな塔があったんだ……」  マヤさんは口を開けたまま目の前の建物を眺めています。 「なんで気づかなかったんだろう」 「わたしもそう思う」  二人は塔の中へと足を進めます。  壁に貼り付けられた星座早見表、灯りの下の机には双眼鏡と山のように積まれた星の本、エレナが流れ星を見た時を鮮明に思い出すほどにそこは当時とそっくりでした。しかし、おそらくイザヤが持ち込んだであろう本があまりにも多く机の上に収まりきらなかったのか、机の奥に本がぎゅうぎゅうに詰め込まれた本棚が設置されていました。  マヤはしばらくきょろきょろして、そのうち机の裏の本棚を漁り始めました。 「ねぇ、しばらくこの部屋を見ていてもいいかな」 「じゃあわたしは上に行っているから」  エレナは机の横に掛けてあった懐中電灯を手に階段を上っていきました。   8 「また今度続きを描かせてくれ」  あの日、イザヤはエレナの絵を完成させずに帰りました。エレナはクラブ活動に合流し、日が暮れても学校に居残りました。まだ帰っていないのかと友人と共に怒られて渋々帰路に就いたわけです。  橋の上で友人と別れたとき、エレナは山に登るイザヤを見かけました。また星空を見に行ったのだろうと思った反面、自分を誘ってくれないものかと寂しくも思いました。 「あなたはいつも回りながらわたしのことを待っているのね」 「あの光の粒たちだ。一つ一つ、違う大きさ、違う輝きなのに、どれを見ても綺麗だ。ただそこにあるだけでお互いの光を邪魔することなくそこにいるんだ。彼らはきっとあそこにいて輝くのが一番いいんだろう。あの位置、あの角度で一番すてきにみえるんだ」 「これ、本当に、方向、合っているの?」 「これが流れ星だ」 「ねぇイザヤ、なんてお願いした?」 「僕は、北極星になりたい」 「ねぇイザヤ、北極星ってなに?」 「誰もいない、方角もわからない暗闇の中で、旅人たちが頼れる光はきっと、月や星の光だけだったんだろうな」 「イザヤは、死にたいってこと?」 「僕は北極星になりたいのさ」 「みなさんの大切な友、イザヤ君が昨晩山の中で亡くなっているのが見つかりました。高いところから落ちて頭を強く打ったとのことです。イザヤ君は成績も良く絵の才能もあり皆の良き規範として活躍していた優秀な生徒であり、彼とこうした形で別れてしまうのはとても悲しいことであります。皆さんどうか、彼のことを忘れないであげてください。また、この時期は暗くなるのが早いため、山に入るのを控えてください。最後に、彼と親しかった者はこのあと校長室にまで来てください」 「エレナちゃん、顔色悪いけど大丈夫? 保健室に行く?」 「エレナさん、イザヤ君とは幼馴染だったね。実は彼が昨日美術室で君の絵を描いていたみたいでね。もしかして、君はモデルとしてそこにいたんじゃないかな。イザヤ君から何か話を聞いていないかい」 「だまっていたら何もわからないよ。イザヤ君と何かあったのかい? 僕たちはただ、彼のことをわかってあげたいだけなんだよ」 「辛いなら学校に行かなくてもいいんだぞ。ゆっくり休んで、気持ちを落ち着けるのに時間を使ってもいいんだ。大切なのはこれからをどう生きるかなんだからね」 「ごめんねこんなつらいときに。わたしたち、今度のセイヤ祭でイザヤの荷物を送ろうと思うの。いつまでも息子のことで暗くなっていたら、あの子も悲しむと思うのよ。エレナちゃんも来てくれないかな」 「おまえがとっても辛い思いをしていることは知っている。だけど、今日行かなかったら一生後悔するんだぞ」 「イザヤのこと忘れてまで楽になりたいのなら勝手にしろ!」  エレナは塔の上に寝ていました。腕や足をめいっぱい広げても、隣には誰もいないのでぶつかりません。 「あそこに見えるのがおおぐま座。その背中からしっぽまでを北斗七星。それをさらに伸ばしていくと、そこにあるのが北極星」  指で星空をなぞりながら呟きます 「イザヤ、あなたは北極星を目指してずうっと走っていたけど、わたしはなにを目指して歩いていけばいいのかな」  エレナは腕を下ろしました。 「あなたはどの星なの」 「さーてね」  頭の上から声がして、エレナは飛び上がりました。 「マヤさん!」 「可愛い顔するじゃない」  マヤはいつの間にか階段を上ってエレナの傍に来ていたのです。さっきの独り言をきかれていたことに恥ずかしくなり、エレナの顔は真っ赤になりました。 「ここからだとまた綺麗に見えるのね」 「はい」 「ここで死んだんだ」 「はい」  マヤは懐中電灯のスイッチをつけて、周囲の森を照らしました。 「こんな山奥に、誰もたどり着かないような場所があったんだね。まるで天国だ」 「死んだら星空に浮かぶって話はどうしたんですか」 「わたしは信じてないもん」  マヤは唇をツンと尖らせて言いました。 「でも、エレナちゃんもイザヤくんも、今もお互いのことをちゃんと大事に想ってるってことは変わらないんじゃないかな」 「そうだといいんですけどね」 「きっとそうだよ」  マヤはエレナの肩に手を回しました。彼女の懐中電灯は森の中のあらぬ方向を光らせています。 「あっ!」  エレナはその光の中に、一本のリボンを見つけました。 「エレナ?」  マヤが声をかける間もなく彼女は塔を駆け下ります。  塔を出ると辺りはすぐに暗くなり、ほとんど何も見えなくなってしまいました。それでも一瞬の記憶を頼りに走ります。地面は蔦や根が這い回り、エレナは足を取られそうになりました。 聞こえるのは少女の吐息、枝葉を踏む音、風の音。月明かりにうっすらとだけ照らされる獣道。 エレナがついに転んだところで、彼女を白い光が包みました。 あぁついにわたしは天に召されてしまうのかと彼女は思いましたが、すぐにそれが懐中電灯の光であることに気が付きました。 「エレナちゃん! 危ないからすぐ戻りな!」  塔の方からマヤの声が聞こえます。  エレナはゆっくりと立ち上がり、光の方を見上げたところで木にひっかかっている一本のリボンを見つけました。その木の根元には、やや小さな木箱が置かれていました。  エレナは木箱を開きます。 中に入っていたのは一冊のノートでした。  塔に戻ったエレナはノートを見るために机上の本の山をどかそうとしました。アルバムらしき本が開かれており、そのページには二人の男女が仲良さげに笑っている写真が挟まれていました。エレナはアルバム以外を机から落とし、ノートを広げました。  星座についてまとめたメモ、名前の付いた星に関する詳細、星と星の距離を測るための計算式、そういったことがこのノートのいたるところに散らばっていました。エレナは一枚一枚じっくりとその内容に目を通していき、とあるページで目を見開きました。 『北極星はある特定の一つの星ではない。およそ2000年ごとに別の星が北極星に成り代わり、およそ25800年を周期に元の星が北極星になる』 「エレナちゃん、このノートの内容わかるの?」  読む手が止まったからか、マヤがエレナを抱きながら聞きました。 「ううん。難しいことばっかり書いてある」 「これをイザヤくんが残したんだ……」 「どうだろう」  エレナにはわかりません。  彼が本当に死ぬつもりでこの本を残したのでしょうか。イザヤは本当にこの塔から飛び降りたのでしょうか。 「まさか本当に北極星に成り代わろうなんて、そんなこと考えるのかな」 「イザヤくんがそんなことを言っていたの?」 「どうだろう」 エレナはノートを閉じて立ち上がりました。 「わたし、星の勉強してみる。イザヤが何に憧れて、何を目指していたか知りたいから」  そう言うと、彼女は塔の出口に歩いていきました。  夢中でノートを読んでいたからか、塔の外はうっすらと明るくなっていました。まだ陽は出ていませんが、星はほとんど見えません。 「イザヤを見つけなきゃ」  エレナはそう呟きます。  二人は朝焼けを眺めながら、山を下りて行きました。
第三十九回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2020.09.20(Sun) 00:00

調査報告書

映像1《動画サイトYより引用》  子猫(サバトラ雌・3ヶ月)がカーテンにじゃれている様子が30秒ほど続く。撮影者が名前を呼びかけ、ゆっくりと子猫に近づく。子猫は一瞬動きを止め、撮影者の手に前触れなく猫パンチをする。撮影者はスマートフォンを取り落とし、3秒ほど部屋の天井が映って映像が終了する。天井が映った際、画面の左下部分に人の顔のような黒い影が確認できる。影は徐々に薄くなり、映像終了時点ではほとんど見えなくなっている。この映像の投稿者には取材を拒否されたため、現場検証は困難であると思われる。 映像2《動画サイトNより引用》  天井付近から6畳の和室全体を俯瞰で映している。猫(ロシアンブルー雄・9歳)が部屋の真ん中に座り、黙って押し入れの方を注視したまま動かず3分ほど経過する。飼い主がカメラ下の襖から部屋に入ってきて猫を抱き上げ、映像は終了する。肉眼では特に不審な点は見られないが、画像処理の結果、押し入れの前に白い服を着た長髪の女が浮かんでいることが確認できた。飼い主が部屋に入ってきた瞬間に女は消え、猫も抵抗せず抱き上げられている。動画サイトに残っているこの映像は無断転載されたものであり、オリジナルのアカウントは既に削除されているため、現場検証は困難であると思われる。 映像3《SNSサイトTより引用》  太った猫(マンチカン雄・4歳)がソファからキャットタワーへ飛び移ろうとして失敗する様子のスロー映像である。映像開始から終了まで、ソファの下の隙間に人間の目のようなものが映っている。SNSではオカルト映像として話題になり、後にお祓いをしてもらったという投稿があった。投稿者によれば、その後映像に何か異常なものが映ることはないという。 実験《猫がいる空間の観察》 方法:猫カフェM協力のもと、20匹の猫をウィークリーマンションの一室にて1週間飼育する。室内には4台のカメラを設置しており、死角を排除した状態で24時間体勢で監視する。 結果:映像に不審なものは一切映らなかった。 考察:この実験によって「猫がいる全ての空間に幽霊がいるわけではない」ということが明確となった。しかし、実験としては大変大がかりであり、費用がかさんだ割に思うような結果が得られなかったことが反省点としてあげられる。予算の関係上、以後いかなる実験も実施しないことにする。 聞き取り1《猫専門家N氏とオカルト専門家Y氏への聞き取り》 ――資料を見てどのように感じたか。 N:いやあ、やっぱりネコちゃんはすごいですね。幽霊がいるって言われても、ネコちゃんの可愛さの方が勝っちゃうわけですから。 Y:私としては、少し物足りない感じはしますね。もう少し骨のある映像が見られると思ったんですがね。 ――(Y氏に対して)物足りないとはどのような意味か。 Y:どのようなも何も、なんかネタがちっちゃいんですよ。映像に残るような幽霊って、基本的に映ろうと思って映ってるもんなんです。アピールしたいんですよ、自分の存在を。でも、なんだかこの映像に映ってるやつは……。うーん。 N:ネコちゃんに遠慮してるみたいですよね(笑)。 Y:遠慮というか、まあ、映り込みみたいな感じには見えますね。 ――猫と幽霊にどのような関係があると思うか。 N:関係はないと思います。たまたまそこにいるだけなんじゃないかな。できれば、ネコちゃんたちには近づいてこないでほしいですね。 Y:直接の関係があるとは言い切れないですけど、否定もできないかな、とは思います。私たちの仕事は「否定できない」ところから新しいものを見つけることなので。 N:え、でも、私は毎日ネコちゃんと暮らしてますけど、幽霊を見たことはないですよ。 Y:まあ、そういうこともあると思います。 N:じゃあ関係ないってことでしょ。嫌なんですよ、そういう嘘。 Y:嘘ってことはないですよ。 N:なんでそんなに動揺してるんですか? 嘘ついてる自覚、あるんじゃないですか? ――少し落ち着いてほしい。 Y:(筆者の名前を呼びかける)、一刻も早くこの人をつまみ出してください。こんなに失礼な人は初めてだ。 N:私は思ったことを言っただけです。 Y:SNSで偉そうにしたところで、人気なのはあなたじゃなくて猫ですから。勘違いするなよ。 N:はあ? あんたなんかただの詐欺師でしょ! Y:何だと、この×××(放送禁止用語)が! (以下、罵詈雑言の応酬が続く) 聞き取り2《猫語翻訳機を用いた聞き取り》 ○三毛雌・3歳 ――幽霊を見たことはあるか。 「知らないニャン」 ――幽霊そのものを知らないということか。 「知らないニャン」 (以下、何を聞いても同じ回答が続く) ○アメリカンショートヘア雄・10歳 ――取材をしても良いか。 「嫌だニャン」 (以下、沈黙) ○黒雌・4歳 ――幽霊を見たことはあるか。 「あるニャン」 ――どのような場面で見たか。 「うちに来てほしいニャン」 ――それはあなたの飼われている家で見たということか。 「そうだニャン」 ――幽霊とは何だと思うか。 「知らないニャン」 ――幽霊に対して恐怖は感じるか。 「怖くなんかないニャン」 ――それは何故か。 「あいつら見てるだけニャン」 追記  元来この調査では、かねてより筆者が主張してきた「猫と幽霊の相関」について証明することを目的としてきた。しかし、筆者が集めた資料からは「猫がいる空間に幽霊がいる場合もある」ことが読み取れるのみで、主張の明確な裏付けとなる資料はほとんどない。筆者の努力不足もあるが、幽霊に関する確かな資料が著しく少ないということは理由として大きい。  調査に行き詰まる中で、筆者はある現場に遭遇した。ここにその顛末を詳しく書き記すことは控えるが、一種のオカルト的な事例である。筆者はその事例を音声資料とし、それをもってこの調査の結論とすべきではないかと感じている。筆者としては、もうオカルト的なことに関係したくない。結果的に恐怖に屈してしまったことは大変遺憾であるが、恐らくこれ以上に有益な資料は入手不可能である。  以上の理由より、調査はこの追記を書いている現時点で終了とする。次に添付する音声資料を参照のこと。 音声《筆者宅にて録音》  ひどいノイズの中、男性が猫に話しかける音声が10秒ほど続く。男性の悲鳴が遠くで聞こえた後、低い女性の声が聞こえて音声が途切れる。ノイズによって女性の声は聞き取りづらくなっているが、恐らく「ねこがすきなだけ」「ねこをみてるだけ」という言葉を繰り返している。
第三十九回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2020.09.20(Sun) 00:00
copyright © 千葉大文藝部活動情報 all rights reserved.