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夏の栞

「こんなところにチョコチップが落ちてる」

そう言ってヨハンが拾い上げたテーブル上の小さな塊は、よく見てみると別の物だった。

「先輩、それスイカの種ですよ」

「本当だ。なんだ、スイカの種かよ」

ちぇ、と小さく舌打ちをしてそれを近くのゴミ箱に捨てると、その様子を見ていたソンが再び「先輩」と声をかけた。

「チョコチップだったら食べてたんですか?」

…………

 

「こんな原稿、どこに出すの」

 八月中旬。窓を閉めていても外からはセミの鳴き声が耳に入ってくる。

 溢れるほどの時間を持て余していた僕は、なんとなく兄の部屋に入って、彼の机の上に無造作に置かれている紙になんとなく目を落としていた。

 兄はベッドの上で転がっていたけれど、瞼はしっかり開けて僕の行動を見ているようだった。そして僕の問いかけに少し考えているようだった。

「……どこにも出さない。閃いたと思ったけど、くだらなすぎたから」

「ふうん」

「ていうか、勝手に見るな」

 だるそうに近付いてきては僕の手にあった原稿用紙を取り上げ、兄はまたベッドに転がってしまう。

「せっかく何の用事もないんだから、どこか出かければ」

「何の用事もない日くらい家にいさせてくれよ」

 それから兄は、僕が声をかけても何の返事も返してくれなくなった。

 確かに僕の兄――佑樹という名前だ――は八月に入ってから昨日まで毎日何かしらの事情で帰りが遅かった。恐らくアルバイトか何かだろう。

 そんな兄の趣味と言えば、散らかった机に向かって自分の創作小説を原稿用紙に書きなぐることで、形にまとまったものはどこかの文学賞に応募したりもしているようだった。背中を丸めてペンを走らせる兄は僕から見てとても生き生きしていたけれど、そんな趣味に打ち込む元気すらも残っていないらしい。

 いつも兄の方からちょっかいをかけてくるくらいなのに、こんなにぐったりしているということは相当疲れているようなので、僕は素直に部屋を出ようとした。

 けれども、たまたま目に入った物が気になった。それは机上のペン入れの中で、他の鉛筆たちに隠れるように控えめに立っていた。

 

 ピンク色の、可愛らしい動物のキャラクターが描かれたボールペン。年季が入っていて、ところどころ黒ずんでいる。

 興味本位でそれを手に取り、近くにあった原稿用紙に何か書こうとしたけれど、紙が小さく凹んだだけで色は出なかった。

「あれ、このペン。もうインクが出ないみたいだけど?」

「あぁ、それは今使ってないから。元の場所に戻せ」

 僕を無視していた兄が、こちらを見た瞬間慌てた様子でそう言った。

「こんな女物のボールペン、持ってたんだ。どこで貰ったの?」

 しかし僕がそんな疑問を投げかけると、彼は神妙な面持ちでいきなり長々と話を始めた。

 別に僕がしつこく問い詰めたわけでも、兄がうっかり墓穴を掘ったわけでもない。兄は突然自らの過去を露わにしたのだ。

 

 要約すると、これは中学時代に隣の席だった女の子が、ボールペンを忘れた兄に貸してくれた物らしい。その子が実は兄の片思い相手で、借りたままずっと持っていた、ということだった。そしてこのボールペンのインクが無くなった時に告白しよう、なんて思っていたけれど、それが実現したときには既にその女の子には彼氏がいたという内容だった。

 僕は少しずつ弱弱しい声色になっていく兄の様子とその口から聞かされる内容に何度も吹き出しそうになったが、どうにか無表情でその話を聞いていた。

 

「なるほど。このボールペンのインクとともに兄さんの恋も消え去ってしまったってわけね」

 いつもは僕の言葉ひとつひとつに何かと文句を返してくる兄が一言も言い返してこない。

 どうやら当時のことを思い出してセンチメンタルな気分の波にのまれてしまっているみたいだ。

「……どうしてこの話を僕にしてくれたの」

「知らない。暑さと疲れで頭がおかしくなってるんだと思う」

「そうだよねえ。まさか兄さんの口からこんな甘酸っぱい話が聞けるとはねえ」

 また兄は黙ってしまったので、なんとか僕は励まそうと口を開いた。

「それ、小説にすればいいじゃん」

「馬鹿。しないよ。もういいから、どっか行って」

 

 結局は強引に部屋を追い出され、廊下に出た瞬間夏の暑さに引き戻される。

 そこで僕は母親からお使いを頼まれていたことを思い出した。呑気に兄の部屋で地味な恋バナなど聞いている場合ではなかったのだ。

 急いで出かける準備を整え、少し小さくなってしまったサンダルになんとか足を入れる。

 

 替え芯でも買いに行ってあげようか、なんて思いながら、僕は少し笑ってしまった。

 

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第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:36

non fiction

 物書きには2種類の人間がいる。
 
自分の理想を小説の中で繰り広げる者と、自分を小説内でさらけ出すことでしか書けない者だ。
 
 私は明らかに後者の人間だ。ファンタジーを書けば妖精がぎこちなく宙を舞い、ミステリーを書けば探偵が首をかしげながら謎解きに臨む。
私には、自身が経験したことのない物語が書けなかった。空想の物語が思いつかないわけではないのに、不思議と筆は進まず、ようやっと書き上がったものも読むに堪えうる出来ではなかった。
 
 
「小説家としては大いに欠陥品だね、君」
 
 部長は悠々と机に腰掛け、外国人のように芝居がかった仕草で肩をすくめた。部室には私と部長しかいないから、マナーの悪さを咎める人もいない。端の欠けた机は頑丈さだけが取り柄だから、細身の部長が乗ったところでびくともしなかった。
 
「別に、得意なジャンルを書けば良いだけの話ですから」
「そうはいっても、小説を書くのにフィクションが書けないとは、矛盾ではないかね」
「うるさいなあ」
「うるさいとはなんだね、先輩に向かって」
 
 私が文藝同好会に入部したとき、部長は既に部長ではなかった。数代前には実際に部長をしていたらしいが、その座を退いてからも周囲は部長と呼ぶのを辞めなかったらしい。部長が留年の末院生となり、彼女を名前で呼ぶ先輩がいなくなった今、私もふと彼女の本名が思い出せなくなる。
 そもそも、同好会のトップといえば会長だろう。何故彼女だけ部長と呼ばれているのだろうか。
 
「君の作品はね、面白いさ。そこは評価しよう」
「はあ、ありがとうございます」
「君のどこまでもリアリティを追求した小説は、私には書けんものだからな。自身の生々しい感情を書いているだけあって、体温があるのだよ。非常に好ましく想うよ。だがね」
 
 もう7月に入ったというのに、窓の外ではしとしとと雨が止まない。湿度を上げてまわるかのように降っては止み、降っては止みを繰り返す雨の鬱陶しさに、少しイライラした。
 
「君、恋を知らんだろう」
「別に良いでしょう」
「いかんな。恋はいかなる物語にもつきものだというのに」
「私の物語に、恋はつきものではありませんから」
「そんなことはないさ。君、恋とは生きている限り避けては通れんものだよ。なんせ遺伝子が恋をしろと叫んでいるのだからな!」
 
 狭い部室でクルクルと舞い、軋む音だけは立派なソファに向こうずねをぶつけた部長は、低く呻いてうずくまった。酔っ払いと見紛うような痴態だが、この人は常に自分に酔っているから、あながち間違いでもない。
  涙目になった部長に軽く溜息をついて、右手を差し出す。容赦なく体重をかけて立ち上がり、部長はぱんぱんとスカートの埃を払った。そろそろ大掃除をしないと、最近この部屋は少し埃っぽい。クーラーをつけっぱなしで、窓を開ける機会が減ったからだろうか。
 我々はなんのために生きているのだと思う、と何事もなかったかのように言葉が続けられた。
 
「生物とは遺伝子を後世に繋げるためにある、とかの人は言った。おかしいとは思わんかね。我々の肉体が遺伝子の箱船だというのなら、何故惚れた腫れたの面倒なプロセスを踏まねば子作りができんのだ? 数多の他種同様、発情期に強そうな相手を捕まえて交尾すれば良いではないか」
「やろうと思えば、恋愛感情抜きだっていくらでも」
「野暮な茶々は止せ。要するにだな。人間とは、恋愛感情などというあやふやなもので子孫を残そうとするおかしな生物なのだよ。見目が悪く、屈強な肉体も持たないものであっても、伴侶を持ち子をなすことが出来る」
 
 おかしいとは思わんかね。部長は繰り返した。
 
「なあ、我らは何故感情を持って生まれたのであろうな。そんなものがなければ、小説などというまやかしを書こうという気にもならんかったろうに」
「そうかもしれませんね」
「そして君の小説には、愛が足りんのだよ」
「愛」
 
 思わず笑ってしまったが、部長はいたって真面目な顔で、愛さ、と繰り返した。愛が足りない小説。愛が足りない、私。
 
「君の小説はね、感情が剥き出しでさらされている分、熱のない部分がよくわかるのだよ。ちんまりと挟まった色恋沙汰のシーンはいつも、体温がない。つまらんのさ」
 
 私の舌打ちなど気にも留めず、部長は嫌みったらしく私の頭を撫でた。
 見透かされたようで癪だが、確かに恋愛とは縁遠い人生を送ってきた。他者から愛されるような容姿をしているわけでもなく、愛敬を振りまけるほど器用でもない。仲の良い異性など数えるほどしかいなかったし、彼らに対して特別な感情を抱くこともなかった。恋愛小説や漫画は嫌いではないが、主人公たちが恋に振り回されるさまは、どこか滑稽にすら感じられた。
 私が書く小説のは恋愛を主に取り上げたものではなかったが、話に華を添えるために恋愛ほど適しているものはない。彩りに使うパセリのように、味に差し障りない程度恋愛シーンを加えたつもりだったが、それでは駄目だと、この人は言うのか。
 
「命短し、恋せよ乙女、さ」
「……そんなこと言われたって、やろうと思って出来るものでもないですよ」
 
 深呼吸をして冷静さを取り戻した私を見て不満げに鼻を鳴らし、部長は手品のように私のスマホを取り出して、何やら操作し始めた。
 
「ちょっと、どうやってロック解除したんですか」
「なに、以前ちょこっと指紋を登録させてもらっていただけさ」
「いつの間に……」
 
 我が物顔でスマホを操って、部長は鼻歌交じりにご機嫌だ。人を振り回すことを至上の喜びとするかのように、こういうときは嬉々とした表情をするのだから、いただけない。いかにも文藝同好会然としたおさげの黒髪をるんるんと揺らしながら、部長はスマホを投げて返した。最近ちょっと容量が怪しくなってきた愛機は、日記のアプリを追加され気怠そうにフリーズしている。
 
「なんですか、これ」
「見ての通りだが。君には恋する乙女になってもらう」
「だから無理ですってば」
「仮にも物書きの端くれを自称するものが、恋のひとつも装えなくてどうする」
 
 言い返すのも面倒になって、スマホの電源を落とした。冷えすぎた部屋で、私のスマホだけが熱くひりつく。そろそろ、新しい機種に変えた方がいいのかもしれない。
 
 
 恋か、と呟きながら、ぼすんとベッドに寝転んだ。夜だというのに、開け放した窓からは昼間の熱に爛れた風しかやってこない。パーツを無くしたから羽をガムテープで固定している扇風機は、それ故弱回転しかさせられないでいる。エアコンをつけるべきか悩んだけれども、今月買った本の数を思い出し、やめにした。
 恋とはなんだろう。そのあまりに愚かで暴力的な力を、私は知らない。周囲の人間が続々と恋に落ち、破れ、あるいは成就し、たかが一人を相手に一喜一憂するさまを、ただ傍観していただけだ。どんな恋愛小説を読んでも、その感情が私のものになることはなかった。
 コンプレックス、と呼べるほど大したものではない。ただ、誰からも愛されないことが、誰のことも愛せない私が、時たま酷く空虚に思えてしまう。
 そもそも世の人々は、どうやって好きになり、好きになってもらうのだろうか。私のように、醜く、愛される要素のない女は、どうすれば良いのだろうか。
姿見と向かい合いながら、クレンジングを手に取り、塗りたくった化粧を落とす。昔から自分の容姿が嫌いだった。重たい一重まぶたも、分厚いたらこ唇も、存在感のある団子っ鼻も、丸くパンパンに膨らんだ顔も、だらしなくたるんだ身体も、何もかも全て。化粧を覚えて少しは見られる顔になったけれども、長年抱えてきた劣等感はそう簡単に消えない。
私なんかが恋をしたところで、好きになられた人が可哀想でしょう?
 
 装いたまえよ、と部長は言った。特別な一人に恋い焦がれる哀れな女子大生を装いたまえ。さすればその気持ちが、いつしか装うだけのものではなくなる、かもしれぬ。などと無責任なことを。
 
 部長の言い方はムカつくが、恋を手に入れることは、確かに私の執筆活動にプラスとなるだろう。こんなことをしていれば、無意識に封じてきた心が本当に起きてくるのかは、わからないが。
 
 相手のイメージが大切なのだよ。部長は言った。具体的なイメージが出来なければ、恋心など生まれはせん。実際に仲の良いやつを相手に据えると良いだろう。そやつに恋をしていると思い込み、振る舞うのだよ。
 
 迷うほどの知り合いもいなかったので、とりあえず同好会の同期を思い浮かべることにした。3年生は私と彼しかいないので、必然的に話す機会は少なくなかった。口数の少ない者同士、さほど交わす言葉は多くなかったのだけれども。
友人をこんなことに使うのもなあ、と一抹の罪悪感を覚えたが、バレなければ大丈夫だろうと気を取り直し、スマホと向かい合う。何を書けば良いのだろうか。これまで読んだ数々の小説を必死に思い出し、なんとか記入を終えた。
 
79日 晴れのち雨
 今年の梅雨は長いなあ。うっかり傘を忘れてきちゃったから、朝だけ晴れるのはやめてくれないかな。
 今日は彼に会えなかったから、夢では会えるといいな』
 
 頭の悪そうな文章だなと思ったけれども、推敲する気力も無く、布団をベッドの下に放り投げて、夜の熱にうなされながら、寝た。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 授業が早く終わったので、バイトまでの暇つぶしに部室へ顔を出すと、珍しく部室の主である部長の姿はなく、代わりに彼が静かに本を読んでいた。いつもは効きの悪い冷房が、今日は珍しく仕事をしている。
 
「久しぶり、副会長」
「その呼び方やめてってば、会長」
 
 彼は私とのジャンケンに負けて会長を押しつけられたことを、未だに根に持っている。仕方ないじゃないか、2人しかいないのだから。
 改めてまじまじと彼の容姿を見てみると、これが部長の言う「恋愛感情なくば選ばれることのない」異性なのだなと思った。運動嫌いで痩せて白い肌をしていて、全体的に線が細い。弱そう、という言葉がこれほどしっくりくる人もそういないだろう。子孫をなす前に死にそうだ。
 
「なに」
「ううん、なんでも」
 
 ちなみに、性格も特別良くはない。悪い人ではないが、とことん愛想が欠けている。私が言えることでもないのだが。
 
 彼はそれ以上会話を続ける気もなさそうに、本に視線を落とした。最近読んだばかりのお気に入り作家の作品だったため、もう一度声をかけようとしたが、同じ本好きとして読書の時間を邪魔されるほどいらつくこともないなと思い、隣の椅子に腰を下ろした。
本棚から日に焼けた1冊を取り出し、手に取る。ミステリー作家が珍しく恋愛をテーマに書いた短編集だった。ミステリーは面白かったがこちらのジャンルは不得手そうだなと思ったものの、なんとなくそのまま読み進めることにした。
 
 コチコチという時計の針音と、どちらかがパラリとページをめくる音だけが、しばらく部室を満たしていた。
短編集は思いの外グイグイと私を引き込んだ。ゴテゴテと甘く飾り立てた恋愛小説ではなく、あくまで淡々と、ただ日常の姿をありのままに書き表す描写が、この作家らしくて好ましかった。どこにでもありそうな、手を伸ばせば届きそうな、目の眩むほどの目映さはないがどこか憧れるような、そんな恋物語だった。
 いつか私もこんな風に、ただ一人が隣にいてくれることを願うようになるのだろうか。静かにページをめくる彼をチラリと見やる。華奢な身体に似つかわず、手は大きくゴツゴツと節くれだっていた。小さい頃兄の真似をして、指をポキポキならしまくった影響だと言っていた。いつも仏頂面な彼にもそんな子供時代があったのかと、吹き出したのを覚えている。
 
 心地良く揺蕩っていた沈黙を破って、遠慮がちにスマホが震えた。本を閉じて取り上げると、バイト先の塾の生徒から、体調不良で休むという連絡が入っていた。どうせ休むなら、もう少し早くに言ってくれれば、色々できることもあったのにと嘆息する。帰ろうかとしばし悩んだけれども、彼の熱が伝わるか伝わらないかのこの距離感で並んで座っていることがなんだか惜しくなって、もう一度本を開いた。今日はこの1冊を読み終えることにしよう。
 
 
 次に顔を上げたときにはすっかり日が傾いていて、ずっと下を向いていたせいか首がやけに痛かった。頭をぐるりと1回転させて伸びをすると、隣で彼が、読み終わったの、と問いかけた。
 
「うん。そっちも?」
「うん」
 
 見ると彼はとうに本をしまっており、帰り支度を済ませていた。私が読み終わるまで待っていてくれたのだろうか。そういえば、よく冷えていた部屋はいつの間にか少しぬるくなっている。少し意識してみると、案外良いところが見つかるもんだなと感心しつつ、立ち上がった。
 
「このあと暇? ご飯行こうよ」
「あ、それで待っててくれたの」
「そう。バイト?」
「ううん、なくなったから平気」
 
 いつもやかましい部長が先導するから、彼と2人で食事に行くのは珍しく感じられた。そうか、普通の女の子はこういうところでときめくのかと、頭の中で小さな私が冷静に見ていた。彼が自ら誘ってくれたのは、よこしまな気持ち抜きに、嬉しかった。
 
710日 雨
 今日は2人きりになれたから、ドキドキしちゃった……。
 さりげなく優しいとことか、やっぱり好き!
 ご飯食べてるとこ、可愛かったなあ』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 毎月第3水曜日昼休みの部室は、部会のために押し寄せた部員ですし詰め状態だ。と言っても、協調性に欠ける文藝会員が全員集まることはまずない。後輩はある程度真面目に顔を出しているが、4年生以上はほとんどいなかった。
 
「じゃ、部会始めます」
 
 会長の彼は、周りが騒がしいままでもお構いなしに始めた。
 
「えーと、今月末が原稿の締め切りです。2359分までしか受け付けないので、早めに提出してください」
 
 げー、とあちこちから溜息が聞こえる。かくいう私も、すっかり忘れていてまだ手をつけていない。どうしたものかと眉をひそめていると、袖をクイクイと引っ張られた。
 
「先輩」
 
 ひとつ下の後輩は、椅子に座ったまま私を見上げた。この同好会には珍しく、真っ黒に日焼けした肌が特徴的な青年だ。
 
「進捗、どうですか?」
「ゼロ。そっちは?」
「実は、大体書き上がってるんですよね」
「へえ、偉い」
「放課後、時間ありますか? よかったら校正して欲しくて」
「あー……うん、いいよ」
「じゃ、またあとで」
 
 部会終わります、の合図と共に、やれやれと出て行く会員たちに押し流されながら、後輩は手を振って去って行った。あとに残ったのは、私と彼と、相変わらず机の上で悠々としているあの人だけだ。安請け合いしたことを早速後悔しながら、手近な椅子に腰を下ろした。後輩の作品は何度か読んだが、正直なところ好みの文章ではない。それに、2人で出かけるほど仲良くもない。部長にでもついてきてもらおうか。いや、彼女は話をなんでもややこしくするのが得意だから、やめておこう。
 
「部長、降りてください。行儀が悪いっていつも言ってるじゃないですか」
「そう言わずともよかろう、公の場でもあるまいに。相変わらず融通が利かん男だな」
 
 彼はいらだたしげにドスンとソファに腰掛けた。部長と話すときの彼はいつも冷静さを欠いていて、私の前ではあまり見せない表情だから、少し羨ましく思う。
 部長は盛大に欠伸をして、籠バッグからまん丸のおにぎりを取り出した。彼は売店のパンをレンジにかけ、私は冷蔵庫にしまったお弁当を探した。夏場、冷蔵庫でお弁当を保管しておけるのはありがたい。
 いただきます、と3人で手を合わせ食事を始めた。部長は見かけによらずよく食べるので、大きなおにぎりをすぐさま平らげて2個目に取りかかった。彼はパンを温めすぎたようで、なかなかかぶりつけずもどかしそうにしている。クスリと笑って、私も自分の弁当に箸を伸ばした。冷え切ったご飯がモソモソで、少し悲しくなる。食中毒対策に仕方ないとはいえ、やはりご飯は熱々に限る。
 
「チンしたら? 弁当」
「ううん、大丈夫」
 
 彼との会話はやはり長続きせずに終了した。それが嫌なわけではないが、今日の日記はどうしようかなあと顔をしかめていると、もう3個目のラップをゴミ箱に入れながら、部長が私に言った。
 
「そういえば君、日記はどうなったんだい」
「ちょっと、急にその話は」
「なに、日記とか書いてんの」
「彼女に恋をさせようと思ってね。仮想相手は見つかったかい?」
「仮想相手?」
 
 彼が自分の話に乗ってきたのが嬉しかったのか、部長はノリノリで先日の話を繰り返した。相手を伝えてなくて良かった、とこっそり胸をなで下ろす。あなたを想って日記を書いています、なんて、本人に知られたらお笑いぐさだ。
 
 部長は、小説内を自在に操れる典型的な前者の人間だ。人語を理解する宇宙人の家にも、ヌルリと生暖かい鯨の胃の中にも、火を噴いて飛び回るドラゴンの背中にも、部長の物語は連れて行ってくれる。彼女の小説はどこまでも伸びやかで、夢や希望という陳腐な言葉がよく似合う光を放っている。自由な発想力が豊かな語彙力で支えられ、構成は大胆なのに紡がれる言葉のひとつひとつはハッとするほど繊細で、彼女の小説を読む度に、思わずほうと溜息が漏れる——初めて読んだときは、こんな奇人変人の代表者みたいな人が作者だと、信じたくなかったものだ。
 
「丁度いい、君もやりたまえよ」
「え、なんで俺まで」
「君も彼女と同じだろう? 自身の経験しか書くことの出来ない作家だ」
 
 確かに、と小さく呟いた。彼も恐らく、私と同じく後者の人間だ。小説の舞台は夕暮れに包まれた大学だったり、夜の静けさを纏った遊園地だったり、朝焼けに照らされた繁華街だったり、いつも身近な場所だ。大きく違うのは、彼が書くのはいつも恋愛を扱った物語だということ。
 
「俺のは、傷口から染み出た膿みたいなものですから」
「膿か、言い得て妙だな」
 
 彼がフッと鼻で笑う。その表情、どこか遠くに焦がれるような、何かを諦めたような、その切なげな顔を言い表すことの出来る言葉が私の中にないことに、無性に腹が立った。
 
「考えてもみたまえ。無から有を、0から物語を紡ぎ出すのが我ら小説家であるというのに、君らのような人種は作中で自身を切り売りするしか出来ないのだろう?」
「それの何がダメなんですか」
「重すぎるのだよ、代償が」
 
 私には訳がわからなかったけれども、彼は苦々しげに口をつぐみ部長を睨んだ。部長は後輩の不敬な態度を気にするそぶりもない。仰々しく脚を組み替える仕草が、妙に板についている。どこぞの文豪にかぶれたような口調や仕草が最初は鼻についたが、今ではすっかり慣れてしまった。
 彼はそのまま、不機嫌そうに部屋を出て行った。残された私はどうしたものかと部長を見上げると、彼女はバッグを漁ってこんにゃくゼリーを取り出し、私にもひとつ投げてよこした。ありがとうございますと言って口に入れると、まわりはふにゃりとぬくもっていたが、芯は凍ってシャリシャリしており、その舌触りの差が面白かった。保冷剤代わりにでも凍らせておいたのだろうか。
 しばらく無言でもぐもぐとしていたが、部長は唐突に口を開いた。
 
「断言しよう。いつか君は書けなくなる、絶対に」
「どうしてですか」
「自分の経験したことしか書けないからだ」
「今は問題なく書けているじゃないですか」
「では聞くが、君の書きたいものはなんだね」
「書きたいもの、ですか」
「そうだ」
 言葉に詰まった私を見て、部長は面白そうに目を細めた。
 
 書きたいもの。しばらく考えたこともなかった。確かに小説を書き始めた頃は、うちの犬をモデルにした作品を書きたいだとか、素敵な青春学園ものを書きたいだとか、何かしら目的を持ってパソコンの前にいたような気がする。少し大人になってからは、好きなキャラの二次創作に興じたこともあった。推しにこんなデートをして欲しいだとか、推しと推しにこうなって欲しいだとか、毎度テーマを決めて書いていた。
しかし、今は。
 
「……今は、書きたいものを書く、というよりも、何かに突き動かされて書いている感じですね」
「ほう?」
「えっと、上手く説明できないんですけど。なんというか、私はこの感情を、この出来事を、小説にしなきゃいけないって思うというか」
「なるほどなるほど」
 
 だから駄目だというのだよ、と言いながら、部長はひょいと机から降りた。くるぶしまであるスカートのひだがふわりと広がる。彼女はそのままツカツカと私に歩み寄り、ずいと顔を寄せた。近すぎて焦点が合わないなあと思ったけれども、部長はいつだって人の話をろくに聞かないから、黙っていた。
 
「それはね、君。いつの日か言葉に出来ない感情を得たときに、絶望するしかなくなるのだよ」
「はあ、そうですか」
「何故そんな顔をするのだね」
「……言葉に出来ない感情というのは、物書きにとって甘えだと思います。そのような感情だからこそ、言語化し、作品に昇華し、読者と共有するのが、物書きの使命でしょう?」
「お子ちゃまめ」
 
 思わずムッとした私を見て、理想を語るだけなら猿でも出来ると、部長はせせら笑って顔を離した。大きな窓から差し込んだ西日に照らされた部長は、悪役のように逆光がよく似合っていた。先程までの雨が嘘のようだ。
 
「今にわかるさ。恋とはね、物語における最大のエッセンスであり、表現者における最大の敵だよ」
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 後輩に呼び出されたのは、駅前の静かなカフェだった。締め切り前たまにここで執筆を進めていたが、次から利用するのは辞めようと、ひっそり思った。
 
「どうですかね、俺の話」
「……うん、いいんじゃないかな」
 
 ほんとですか、と屈託なく笑う彼を見て、なんだかむずむずした。この子のことは嫌いではないし、良い子だとは思う(小説は好きになれないが)のだが、どうにも居心地が悪い。中高と部活に所属していなかったので、後輩という存在が、不慣れなだけかもしれないが。
 それにしても、見れば見るほどコメントに困る小説だ。設定はありきたり、文章にクセはないが特徴もない。どこかで見たお話の寄せ集めのような表現は、没個性的で面白みに欠ける。しかしどこをどう直せば、と具体的にどうアドバイスすればいいのか、私にはわからなかった。多分、作者を変えるのが1番早い。
 
「俺、先輩の小説がいいなって思って、このサークルに入ったんです。だから先輩に褒めて貰えるの、すっごく嬉しくって」
「……そう、ありがとう」
「先輩の小説って、なんだろ、作中の人物になりきれるんですよね。感情がダイレクトに伝わってきて、気づいたら俺、泣いちゃってたんです、初めて読んだとき。俺もそういうの書きたいなって思いました」
「ふうん」
 
 良い子だな、と改めて思った。臆面もなくこういうことを言うのは、私には出来ない。なんだかきまりが悪くて、そっと座り直した。
 会話が終了し、気まずい空気が流れる。もっと気の利いた返事をするべきだったなと後悔したが、今更どうにもならない。新しい会話も思いつかず、お茶を濁すようにストローを咥えた。このカフェのコーヒーは深煎りで、ちょっと苦すぎるくらいの味が私は好きだ。
 後輩はアメリカンコーヒーにミルクとガムシロップをひとつずつ落とし、ガチャガチャとおおざっぱにかき混ぜた。氷がグラスにぶつかって軋む。頭の痛くなる音だ。
 
「……あの!」
「はい」
「今度、先輩をモデルに小説を書きたいんです」
「……はあ」
 
 突然の申し出に顔を上げると、後輩と目が合った。何故か狼狽えて目線を外し、彼はええと、と言葉を探した。
 よくわからない子だ。私の小説をそこまで好きだと言ってくれる理由もわからないし、私のような女を小説のモデルにしたい理由もわからない。そのまっすぐさの下に何が隠されているのだろうと疑ってしまうのは、私がひねくれているからだろうか。
 
「えっと、先輩とまたこうやってご飯行ったり飲み行ったり、あと休日一緒に出かけたりして、近くでいられたらなって、思うんですけど」
「……それ、本当に小説に必要?」
「じゃなくて、ええっと、つまりですね」
 
 彼は頭をわしゃわしゃとかきむしって俯いた。食事の場でそういう行為はなあと思ったけれども、指摘するのも無粋だろうと思い、喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。
 
「彼氏彼女みたいなことがしたいなってことなんですけど、どうですか」
「……はぁ」
 
 思わず出た気の抜けた声が出てビックリした。後輩は顔を上げない。まさか一世一代の告白にこんな間抜けな返事が返ってくるとは思わなかったのだろう。申し訳ないことをしたなと、他人事のように思う。そもそもこれは、告白なのだろうか。
 中学生の頃の嫌な思い出が蘇る。校舎裏に呼び出され、付き合ってくれと手を出された。その男子の後ろで、物陰から幾つもの頭が見え隠れしていた。お遊びだった。私は罰ゲームに使われたのだった。隠れ方がお粗末だよと指摘したら、告白してきた男子はホッとしたように胸をなで下ろし、悪い悪いと、少しも悪びれずに仲間の元へ帰って行った。あの忌まわしい、思い出したくもない、思い出。
 
「先輩?」
 
 おずおずと後輩が顔を上げる。慌ててごめんと謝って、コーヒーを1口啜った。氷が溶けて、苦みが少し薄まっている。
 
「あの、返事、急ぎませんから」
「……うん」
「すみません、急にこんなこと」
「ううん、えっと、私こそ、上手く返事できなくてごめん」
 
 場は再び、気まずい沈黙に支配された。告白された経験なんてないから、こういうとき、どうしたらいいのかわからない。
 
「……あのさ」
「はい」
「私の、どこが好きなの? なんで好きなの?」
 
 それは純粋な疑問だった。私が好きになれない私のどこを見て、この子は好きだと言ってくれるのだろうか。
 
「まず小説を読んで、気になったんですけど。実際に先輩と話してみて、笑顔が可愛いなって思ったんです。あと、芯の通ったというか、人に媚びない姿勢とかも、いいと思いました」
「……そっか」
 
 違う、と思った。違う、それは私じゃない。笑ったときの私の顔では、元々小粒の目が更に小さく肉に襞に埋もれてしまう。大きな口からは歯茎が露わになって下品だ。人に媚びないとかいう姿勢も、ただ人と話すのが苦手だから、迎合することすら出来ていないだけだ。人に合わせるのが下手なだけだ。
 私は、君から見た私は、誰?
 
 
 返事を宙ぶらりんにして、カフェを出た。後輩は気まずそうに、一目散に駅へと退散していった。私は少し散歩でもして帰ろうかと、家路から少し外れたルートへ向かった。
 空はまたどんよりと雲に覆われて、少しずつ泣き始めた。カバンから折りたたみ傘を取り出し、パッと開く。サンダルを履いているから足下の防御力がゼロだ。ぐじゅぐじゅになったつま先が滑る。回り道は早々に切り上げた方が良さそうだ。
 街灯を反射して煌めく雨粒を踏みつぶしながら、とぼとぼと歩く。雨はさほど強くならず、気温は下げないまま不快指数だけを上昇させる。やってられっか、と茹だった夜道で独りごちる。感情の整理がつかない。
 小説が書きたい。
 
 細い路地を曲がると、見慣れたひょろっとした後ろ姿がしょぼくれて水をしたたらせていた。慌てて追いかけて肩を叩くとそれはやはり彼で、傘忘れたんだよね、と前髪の雫を払った。
 私が傘を傾けて招き入れると、彼はヒョイと私の手からそれを奪い、持ち上げた。ありがとう、と言うと、こちらこそ、と淡々と返される。なんだかくすぐったくなって、出来たての水たまりを蹴っ飛ばした。
 小さな折りたたみ傘は2人で入るには狭すぎて、ギリギリまでくっついていても肩がはみ出てしまう。右肩から伝わってきた彼の熱は、全身に巡って左肩で冷やされていく。部室で椅子を並べているときよりもはるかに近い、たった5センチの距離に彼はいた。意識すると途端に気恥ずかしくなって、顔が見られなくなってしまう。
 肩を濡らしながら、私たちはのろのろと歩を進めた。お互いの歩調がわからないから、ゆっくりでなければ傘から飛び出てしまうのではと、そう思ってスピードを上げられなかった。お互い無言だったけれども、雨がずっと楽しそうに歌っていたから、静寂を気にする必要はなかった。
 ずるり、と足が滑って、バランスを崩した。前につんのめりかけたけれども、彼が慌てて右手首を掴む。すんでのところで身体は止まり、服を泥だらけにせずに済んだ。
 
「……危なかった。ありがとう」
「セーフ」
 
 彼が笑った。
 サンダルって滑りやすそうだよな、と足下を見られる。無駄毛の処理はきちんとしていただろうか、と恥ずかしくなる。どうせこの暗さでは、わかりっこないだろうに。
 小説が書きたい。今すぐ家に帰って、小説が書きたい。
 
 彼の足取りにあわせているうちに、いつの間にか我が家の前にたどり着いていた。ずぶ濡れの彼を家に上げて服を乾かすべきだろうか。いや、そこまでするとかえって気を遣わせてしまう。
 
「ごめん、送ってもらって。家、こっちじゃなかったよね」
「傘入れてもらってるしね」
「それ、そのまま持って帰って。今度返してもらえればいいから」
「うん、ありがとう」
 
 私の傘は彼一人でも小さかったようで、右肩が濡れ続けていた。家から普通の傘を取ってこようかと思ったけれども、彼はすぐに角を曲がって、見えなくなってしまった。
 
717日 雨のち晴れのち雨
 天気が安定しない。
 彼に傘を貸した。2人で傘に入った。ただそれだけ。』
 
 後輩のことも書くべきか悩んだけれども、これは彼への日記だから、相応しくないような気がした。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
「ほう、告白ねえ」
「他の人には言わないでくださいね」
「随分と信用がないものだな」
 
 胡散臭さ全開のこの人に言ってしまったことを、少し後悔した。誰でも良いから聞いて欲しかったのだけれど、こういうとき話し相手になってくれる友人もそういない。いつでも暇そうにしているうえに後輩のことも知っている部長は、いわば『丁度いい』相手だった。
 窓枠が歪んで閉まらないから、今日も部室はじっとりと湿気がのさばっている。私は寝不足で重く垂れ下がる瞼をこじ開けながら、昨日のカフェでの顛末を、淡々と語った。帰り道での出来事は、なんとなく、言えなかった。
 
「で、君はどうしたいんだね」
「……それが、わからないんです」
「ほう?」
「断る理由もなければ、承諾する理由もないというか」
「そこまであいつと親しい風にも見えんかったしなあ」
「ですよねえ」
「そして、そこまで君が興味あるようにも見えんな」
「……ですよねえ」
 
 正直な話、いいよというのもごめんというのも、とても億劫だった。そこまで後輩の感情や思考の労力を割かねばならないのが面倒で、深々と溜息をつく。好きだとも付き合ってとも言われなかったのが、喉の奥で小骨のように引っかかっている。私は、なんと答えるのが正解なのだろう。
 ま、いいんじゃないか、と無責任に言って、部長は野菜ジュースのパックを一気に飲み干した。ずぞぞぞっとマナー違反の啜り音が、ちょっと小気味よい。
 
「ほれ、付き合ってみれば、作品の肥やしになる」
「……そんな理由でOKするのは、いいんですか」
「そんなこと知らんわ。愛する女の役に立てれば幸せなんじゃあないか。それに」
 
 はは、と部長は口を開けた。野菜ジュースはトマトベースだったのだろう、口の中が吸血鬼みたいだ。
 
「君は、書かんと生きていけん人種だからなあ」
「……そう、ですね」
 
 私は決意が鈍らないうちにスマホを取り出して、後輩にメッセージを送った。少し待ってみたけれども、既読はつかなかった。おめでとう、と部長が言った。こんなもんか、と私は思った。好きでもない男と付き合うことは、案外抵抗がないんだなと、虚しくなった。
 昨日書きかけの小説が待っている。早く家に帰りたいのに、今日は深夜までバイトがある。早く、早く小説を書かなければ。
 
 
 はやる気持ちとは裏腹に、身体は疲労のピークに達していた。バイトから帰ってパソコンを開いたところまでは覚えていたのだが、瞬きひとつに3時間もかかっていたようだ。
 突っ伏していた床から起き上がると、寝違えたのか首が痛む。仰向けならば楽なので、今日はもう執筆を諦めて本を読むことにした。部誌のバックナンバーを取り出して、パラパラとめくる。丁度彼の作品で手が止まった。去年のこの頃、梅雨と紫陽花を題材に書かれた作品だった。
 彼は私と同じ人種だ。私たちはインク切れのペンしか手に出来ない物書きだ。想像力という名のインクが枯れ果て、それでもなお書くことしか出来ない物書きだ。私は血を、彼は膿を、それぞれインク代わりに無理矢理流し込んで小説を書く。私が彼の作品を好ましく思うのはきっと、彼の小説から私と同じ匂いがするからだろう。
 ひとつ、またひとつと彼の小説を読み進める。雨の日の物語、海辺の物語、校舎裏の物語、病人の物語。どこまでが彼の膿で、どこからが絞り出したフィクションという名のインクなのだろうか。
 
 ああ、そうか。ストンと腑に落ちた。後輩の小説が苦手な理由も、きっとこれなのだろう。彼の小説は、書き手の顔が見えない。寄せ集めの、借りてきた言葉の継ぎ接ぎだから。わからなくて、理解できない。それが彼自身にも表れているのか。彼の好き側からなかったのは、彼が私にくれた言葉に、体温がなかったからなのだろうか。
 それとも私に、受け取る気がなかっただけなのだろうか。
 
 最後の1冊を手に取る。私たちが入部して、初めて書いた小説が掲載されているものだ。彼が書いたのは、高校生の話だった。陰気な男子生徒が、明るくてクラスの人気者だった女の子に恋をして、しかし少女には好きな男子がいて、その子の恋の成就を手伝うという、主人公キャラよろしく陰気で悲しいお話。題材自体は珍しいものではなかったが、その真に迫る描写が鮮やかで、私は何度も読み返した。
 ふと、少女の描写を振り返る。彼の話にはよく、主人公と同世代の女の子が出てきた。それは高校生だったり大学生だったりOLだったり、はたまたロングヘアだったりショートヘアだったり、話によって様々だったが、よく見ると共通点があった。皆、口を大きく開けて笑う子だった。
 これがきっと、彼の膿が染み出す傷を作った女なのだなと理解するのに、時間はかからなかった。
 
『何度も何度も手を洗った。それなのにあなたの熱が、手にまとわりついて離れない。
 これはなんだろう。私はどうしてしまったのだろう。心臓に靄がかかったかのように苦しい。深呼吸を幾度となく繰り返したのに、靄は出て行ってくれない。
 ただ手を繋いだだけだ。ただそれだけだ。それなのに私はどうしてしまったのだろう。わけもわからずにぼろぼろと涙が溢れてくる。こんな感情は知らない。こんな感情に、名前を付けてはならない。
 あなたは一体私に何をしたの。手をきつく握りしめて問いかける。苦しい。吐きそうだ。
 瞼の裏で、あなたが笑う。消えない。眠れない。夜が明ける。
 お願い、私に笑わないで』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 デートしよう、と後輩に呼び出されて、珍しく午前中から活動を始めた。冷房をけちって寝ていたせいで、起き抜けから滝のように汗が流れている。待ち合わせまでそう時間があるわけではなかったが、とりあえずシャワーを浴びに浴室へ向かった。
 案の定髪を乾かしているうちに家を出る時間が迫ってきて、私は「ごめん、遅れそう」とだけ連絡をした。どのくらい遅れる、などと指定すると、たいていその時間を過ぎてしまうのは、どうしてだろうか。
 夏の日差しは容赦なく肌を炙り、日焼け止め越しでも強力な紫外線がジリジリと痛い。こんな暑い日にどうして外で待ち合わせなのだろうと、肺に溜まった熱い空気を吐き出した。彼は爽やかなシャツを輝かせて待っていた。
 
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫! 俺のためにオシャレしてくれたって思うと、嬉しい」
 
 どこぞの少女漫画で習ったような歯の浮く台詞を並べて、後輩はニカっと笑った。気づけば敬語が外れており、とやかく言うつもりはないものの、付き合うってこういうことか、と釈然としないまま彼のあとをついて行った。
 
 最初は映画、そのあとはオシャレなカフェでランチ、猫カフェを経て少し早めのディナー。いかにも女ウケが良さそうな健康志向のレストランは、きっと一生懸命選んでくれたのだろうなと思うと、申し訳なかった。違うのだ。私が好きなものは、部室で静かに本を読む時間と、その後適当に食べる定食の味だ。こじゃれたフォーに乗っているパクチーは苦手で、でもそれを表に出すのは先輩としてどうかと思い、必死に平静を装った。
 
「今日は、ありがとうございました!」
「こちらこそ、色々調べてプラン作ってくれたみたいで、ありがとう」
 
 後輩は白い歯を見せて笑った。浅黒い肌との対比が綺麗で眩しい。じゃあ、と駅の改札をくぐろうとしたその時、右腕をグイッと力強く掴まれた。視界が、彼で埋まる。
 
「……すみません」
「どうして、謝るの」
 
 謝るくらいなら最初からやるなよという気持ちと、ちゃんと返してあげられなくてごめんという気持ちが、喉の奥で渦巻いてえずく。今度こそ改札をくぐり抜け、早足で階段を下り、熱風がとぐろを巻くホームへと降り立った。丁度到着した電車から降りてきた人々にもみくちゃにされながら、必死でスマホを探し、電話をかけた。
 
「部長」
『なんだね、藪から棒に』
「私の小説、読んでください」
『今からかい?』
「今すぐに。あっ、でもまだ書きかけで」
『なに、構わんさ。30分後に部室で良いかい?』
「はい、お願いします」
 
 無我夢中で電話を切り、そこでやっと、足を止めた。発熱したスマホは、電源を切って温度を下げるようにと警告画面が出ている。上手く感情が整理できない。昔からそうだ。私は小説を介さねば自身の感情が説明できなかった。それはきっと、思い出の中の私のように、傷つかず冷静でいられるようにという自己防衛だったのだろう。
 唇を拭った。手の甲に紅がみっともなく伸びる。ホームに黄色いラインの入った電車が滑り込んできた。小説が書きたい。スマホからで構わない。続きが書きたい。今すぐに。血が乾く前に。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 私が部室に飛び込むと、部長は既に定位置に陣取っていた。見せたまえ、と鷹揚に手を広げるので、勢いに任せ中盤まで書き上げた小説を、スマホごと手渡した。あついな、と部長は言った。私はエアコンのスイッチを入れ、ソファに腰掛けて、大きく息を吐いた。
 
「あついな」
「温度、下げますか」
「そうではない。熱のある良い小説だと言っている」
「どうも」
「私はね、これを読んで長年の疑問が晴れたよ。君の小説がなぜ体温を持っているのか」
「え?」
 
 舞台役者のように狭い部室を歩き回りながら、部長はスカートをなびかせた。今日は珍しく髪を結んでいないから、いつもより表情が見えにくい。私はソファに座り直して息を吐いた。コツコツと、ピンヒールの音がこだまする。
 
「君の小説はだね、キャラに名前がついていないのだよ。一人称の語り手と、彼と、彼女と、あの人と、私と、あなた。それがどうにも気にくわなくてな」
「気にくわない、ですか」
「わかりづらいだろう。そして混乱を避けるために登場人物は少なく、物語は浅くなる。そう思っていたのだよ。
 だが君の物語は基本的に、『私』と『あなた』を中心に完結していた。なるほど、君が『私』であり、誰か『あなた』との思い出をフィクションの幕で包んだものが、君の小説であるわけだ」
 
 君の狭い興味が功を奏したわけだ、と部長は笑う。自分の小説を客観的に分析される気恥ずかしさで、私は俯いた。
 
「それにしても、最後の描写はなんだね。余りにもお粗末なキスだな。これだから生娘の実体を伴わない表現はいかん」
「えっと、それは……」
「なに、したのか」
 
 しました、と私は俯いたまま答えた。唇にそっと触れる。初めてのキス。初めての彼氏。初めての。それなのに——なんの感慨もなかった。
 私はなんと愚かな女だろうと思った。好きでもない男と付き合って、好きでもない男とキスをして、そして思い浮かべるのは別の男だ。なんと不合理で、残虐で、愚かな女だろう。
 頬にそっと手が添えられた。そのままそっと唇が重ねられる。上書きだ、と言って部長は笑う。ぽかんとする私の鼻を、形の良い爪でピンと弾いた。
 
「キスなんてそんなものだよ、小娘」
「……部長」
「良いのだよ、愛しい男とするもの以外全ては取るに足らんのだ。それを何も感じぬからと気に病む必要などどこにもない」
 
 心を動かされる相手なぞ1人で十分だ。部長は剛胆に笑い飛ばした。私も笑った。そうだ、私に必要なのはただ、あの人に小説を読ませることだ。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
『心臓が早鐘のように高鳴る。押しつぶされそうなほど苦しくて、なんとか沈めようと深く息を吸う。
 彼は私の少し前を歩いて、こちらを見ない。軽く袖を引くと、なに、と言いながら私を見下ろした。
 手に汗がじわりと滲む。心臓がいよいよ口から飛びださんばかりに暴れ回る。私は最善の一言を探したけれども、何も言葉が出ない。何か、何か言わなきゃ。何か。
 ——視界が、フッと暗くなった』
 
「どう、かな。これ」
 
 傘を返して欲しいからと彼を呼び出し、ついでに書き上げた小説を校正してと押しつけた。この小説はラブレターだ。宛所のないフリをして、あなたにしか開けられない封をした。
 彼はしばらく無言だった。無言でもう一周小説を読んだ。そしてトントンと紙の束をただし、机に置いた。
 
「……いいんじゃないかな」
「えっ」
「だから、いいと思うよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
 
 彼は、私と目を合わせようとしなかった。それは私と同じ感想だった。後輩の小説を読んだときと同じ、理解できないものを前に、お茶を濁す感想。
 間違った。間違った。間違った。後悔がどっと押し寄せる。こんなはずじゃなかった。小説になんてしなければよかった。直接言っていれば、もっと。今からでも言おうか。いや違う。違う。
 そもそも、私なんかが受け入れられるって、どうして。
 
「……ごめん、もう行くね」
 
 こんなにアッサリと終わってしまうのだろうか。私が心血注いで書き上げたこの小説は、この想いは、この物語は、ここで終わりを迎えるのか。こんなにも唐突に。
 何も言わない私を置いて、彼は部屋を出た。後に残された私は、小説を手に取り、ぎゅっと握りしめた。
 
 ごめんなさい。ああ、『私』は私ではなく、『あなた』はあなたではない。だからどうか、行かないで欲しい。私は何も言わないから。だから。どうか。だから。
 
 
 部長の言っていた意味が、良くわかった。私のペンは、折れてしまった。注ぎすぎた血が溢れて、もう何も書けない。書きたい言葉だけが溢れて、こぼれて、消えていく。
 あの日私を笑った男子の声がこだまする。小説を書かなければ。書かなければ、私の思いはどこに行くのだろう。
 
 幸せな話が書けないでいる。
 物語の中の名もない私は、今日も独りで泣いている。
 物書きには2種類の人間がいる。
 
自分の理想を小説の中で繰り広げる者と、自分を小説内でさらけ出すことでしか書けない者だ。
 
 私は明らかに後者の人間だ。ファンタジーを書けば妖精がぎこちなく宙を舞い、ミステリーを書けば探偵が首をかしげながら謎解きに臨む。
私には、自身が経験したことのない物語が書けなかった。空想の物語が思いつかないわけではないのに、不思議と筆は進まず、ようやっと書き上がったものも読むに堪えうる出来ではなかった。
 
 
「小説家としては大いに欠陥品だね、君」
 
 部長は悠々と机に腰掛け、外国人のように芝居がかった仕草で肩をすくめた。部室には私と部長しかいないから、マナーの悪さを咎める人もいない。端の欠けた机は頑丈さだけが取り柄だから、細身の部長が乗ったところでびくともしなかった。
 
「別に、得意なジャンルを書けば良いだけの話ですから」
「そうはいっても、小説を書くのにフィクションが書けないとは、矛盾ではないかね」
「うるさいなあ」
「うるさいとはなんだね、先輩に向かって」
 
 私が文藝同好会に入部したとき、部長は既に部長ではなかった。数代前には実際に部長をしていたらしいが、その座を退いてからも周囲は部長と呼ぶのを辞めなかったらしい。部長が留年の末院生となり、彼女を名前で呼ぶ先輩がいなくなった今、私もふと彼女の本名が思い出せなくなる。
 そもそも、同好会のトップといえば会長だろう。何故彼女だけ部長と呼ばれているのだろうか。
 
「君の作品はね、面白いさ。そこは評価しよう」
「はあ、ありがとうございます」
「君のどこまでもリアリティを追求した小説は、私には書けんものだからな。自身の生々しい感情を書いているだけあって、体温があるのだよ。非常に好ましく想うよ。だがね」
 
 もう7月に入ったというのに、窓の外ではしとしとと雨が止まない。湿度を上げてまわるかのように降っては止み、降っては止みを繰り返す雨の鬱陶しさに、少しイライラした。
 
「君、恋を知らんだろう」
「別に良いでしょう」
「いかんな。恋はいかなる物語にもつきものだというのに」
「私の物語に、恋はつきものではありませんから」
「そんなことはないさ。君、恋とは生きている限り避けては通れんものだよ。なんせ遺伝子が恋をしろと叫んでいるのだからな!」
 
 狭い部室でクルクルと舞い、軋む音だけは立派なソファに向こうずねをぶつけた部長は、低く呻いてうずくまった。酔っ払いと見紛うような痴態だが、この人は常に自分に酔っているから、あながち間違いでもない。
  涙目になった部長に軽く溜息をついて、右手を差し出す。容赦なく体重をかけて立ち上がり、部長はぱんぱんとスカートの埃を払った。そろそろ大掃除をしないと、最近この部屋は少し埃っぽい。クーラーをつけっぱなしで、窓を開ける機会が減ったからだろうか。
 我々はなんのために生きているのだと思う、と何事もなかったかのように言葉が続けられた。
 
「生物とは遺伝子を後世に繋げるためにある、とかの人は言った。おかしいとは思わんかね。我々の肉体が遺伝子の箱船だというのなら、何故惚れた腫れたの面倒なプロセスを踏まねば子作りができんのだ? 数多の他種同様、発情期に強そうな相手を捕まえて交尾すれば良いではないか」
「やろうと思えば、恋愛感情抜きだっていくらでも」
「野暮な茶々は止せ。要するにだな。人間とは、恋愛感情などというあやふやなもので子孫を残そうとするおかしな生物なのだよ。見目が悪く、屈強な肉体も持たないものであっても、伴侶を持ち子をなすことが出来る」
 
 おかしいとは思わんかね。部長は繰り返した。
 
「なあ、我らは何故感情を持って生まれたのであろうな。そんなものがなければ、小説などというまやかしを書こうという気にもならんかったろうに」
「そうかもしれませんね」
「そして君の小説には、愛が足りんのだよ」
「愛」
 
 思わず笑ってしまったが、部長はいたって真面目な顔で、愛さ、と繰り返した。愛が足りない小説。愛が足りない、私。
 
「君の小説はね、感情が剥き出しでさらされている分、熱のない部分がよくわかるのだよ。ちんまりと挟まった色恋沙汰のシーンはいつも、体温がない。つまらんのさ」
 
 私の舌打ちなど気にも留めず、部長は嫌みったらしく私の頭を撫でた。
 見透かされたようで癪だが、確かに恋愛とは縁遠い人生を送ってきた。他者から愛されるような容姿をしているわけでもなく、愛敬を振りまけるほど器用でもない。仲の良い異性など数えるほどしかいなかったし、彼らに対して特別な感情を抱くこともなかった。恋愛小説や漫画は嫌いではないが、主人公たちが恋に振り回されるさまは、どこか滑稽にすら感じられた。
 私が書く小説のは恋愛を主に取り上げたものではなかったが、話に華を添えるために恋愛ほど適しているものはない。彩りに使うパセリのように、味に差し障りない程度恋愛シーンを加えたつもりだったが、それでは駄目だと、この人は言うのか。
 
「命短し、恋せよ乙女、さ」
「……そんなこと言われたって、やろうと思って出来るものでもないですよ」
 
 深呼吸をして冷静さを取り戻した私を見て不満げに鼻を鳴らし、部長は手品のように私のスマホを取り出して、何やら操作し始めた。
 
「ちょっと、どうやってロック解除したんですか」
「なに、以前ちょこっと指紋を登録させてもらっていただけさ」
「いつの間に……」
 
 我が物顔でスマホを操って、部長は鼻歌交じりにご機嫌だ。人を振り回すことを至上の喜びとするかのように、こういうときは嬉々とした表情をするのだから、いただけない。いかにも文藝同好会然としたおさげの黒髪をるんるんと揺らしながら、部長はスマホを投げて返した。最近ちょっと容量が怪しくなってきた愛機は、日記のアプリを追加され気怠そうにフリーズしている。
 
「なんですか、これ」
「見ての通りだが。君には恋する乙女になってもらう」
「だから無理ですってば」
「仮にも物書きの端くれを自称するものが、恋のひとつも装えなくてどうする」
 
 言い返すのも面倒になって、スマホの電源を落とした。冷えすぎた部屋で、私のスマホだけが熱くひりつく。そろそろ、新しい機種に変えた方がいいのかもしれない。
 
 
 恋か、と呟きながら、ぼすんとベッドに寝転んだ。夜だというのに、開け放した窓からは昼間の熱に爛れた風しかやってこない。パーツを無くしたから羽をガムテープで固定している扇風機は、それ故弱回転しかさせられないでいる。エアコンをつけるべきか悩んだけれども、今月買った本の数を思い出し、やめにした。
 恋とはなんだろう。そのあまりに愚かで暴力的な力を、私は知らない。周囲の人間が続々と恋に落ち、破れ、あるいは成就し、たかが一人を相手に一喜一憂するさまを、ただ傍観していただけだ。どんな恋愛小説を読んでも、その感情が私のものになることはなかった。
 コンプレックス、と呼べるほど大したものではない。ただ、誰からも愛されないことが、誰のことも愛せない私が、時たま酷く空虚に思えてしまう。
 そもそも世の人々は、どうやって好きになり、好きになってもらうのだろうか。私のように、醜く、愛される要素のない女は、どうすれば良いのだろうか。
姿見と向かい合いながら、クレンジングを手に取り、塗りたくった化粧を落とす。昔から自分の容姿が嫌いだった。重たい一重まぶたも、分厚いたらこ唇も、存在感のある団子っ鼻も、丸くパンパンに膨らんだ顔も、だらしなくたるんだ身体も、何もかも全て。化粧を覚えて少しは見られる顔になったけれども、長年抱えてきた劣等感はそう簡単に消えない。
私なんかが恋をしたところで、好きになられた人が可哀想でしょう?
 
 装いたまえよ、と部長は言った。特別な一人に恋い焦がれる哀れな女子大生を装いたまえ。さすればその気持ちが、いつしか装うだけのものではなくなる、かもしれぬ。などと無責任なことを。
 
 部長の言い方はムカつくが、恋を手に入れることは、確かに私の執筆活動にプラスとなるだろう。こんなことをしていれば、無意識に封じてきた心が本当に起きてくるのかは、わからないが。
 
 相手のイメージが大切なのだよ。部長は言った。具体的なイメージが出来なければ、恋心など生まれはせん。実際に仲の良いやつを相手に据えると良いだろう。そやつに恋をしていると思い込み、振る舞うのだよ。
 
 迷うほどの知り合いもいなかったので、とりあえず同好会の同期を思い浮かべることにした。3年生は私と彼しかいないので、必然的に話す機会は少なくなかった。口数の少ない者同士、さほど交わす言葉は多くなかったのだけれども。
友人をこんなことに使うのもなあ、と一抹の罪悪感を覚えたが、バレなければ大丈夫だろうと気を取り直し、スマホと向かい合う。何を書けば良いのだろうか。これまで読んだ数々の小説を必死に思い出し、なんとか記入を終えた。
 
79日 晴れのち雨
 今年の梅雨は長いなあ。うっかり傘を忘れてきちゃったから、朝だけ晴れるのはやめてくれないかな。
 今日は彼に会えなかったから、夢では会えるといいな』
 
 頭の悪そうな文章だなと思ったけれども、推敲する気力も無く、布団をベッドの下に放り投げて、夜の熱にうなされながら、寝た。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 授業が早く終わったので、バイトまでの暇つぶしに部室へ顔を出すと、珍しく部室の主である部長の姿はなく、代わりに彼が静かに本を読んでいた。いつもは効きの悪い冷房が、今日は珍しく仕事をしている。
 
「久しぶり、副会長」
「その呼び方やめてってば、会長」
 
 彼は私とのジャンケンに負けて会長を押しつけられたことを、未だに根に持っている。仕方ないじゃないか、2人しかいないのだから。
 改めてまじまじと彼の容姿を見てみると、これが部長の言う「恋愛感情なくば選ばれることのない」異性なのだなと思った。運動嫌いで痩せて白い肌をしていて、全体的に線が細い。弱そう、という言葉がこれほどしっくりくる人もそういないだろう。子孫をなす前に死にそうだ。
 
「なに」
「ううん、なんでも」
 
 ちなみに、性格も特別良くはない。悪い人ではないが、とことん愛想が欠けている。私が言えることでもないのだが。
 
 彼はそれ以上会話を続ける気もなさそうに、本に視線を落とした。最近読んだばかりのお気に入り作家の作品だったため、もう一度声をかけようとしたが、同じ本好きとして読書の時間を邪魔されるほどいらつくこともないなと思い、隣の椅子に腰を下ろした。
本棚から日に焼けた1冊を取り出し、手に取る。ミステリー作家が珍しく恋愛をテーマに書いた短編集だった。ミステリーは面白かったがこちらのジャンルは不得手そうだなと思ったものの、なんとなくそのまま読み進めることにした。
 
 コチコチという時計の針音と、どちらかがパラリとページをめくる音だけが、しばらく部室を満たしていた。
短編集は思いの外グイグイと私を引き込んだ。ゴテゴテと甘く飾り立てた恋愛小説ではなく、あくまで淡々と、ただ日常の姿をありのままに書き表す描写が、この作家らしくて好ましかった。どこにでもありそうな、手を伸ばせば届きそうな、目の眩むほどの目映さはないがどこか憧れるような、そんな恋物語だった。
 いつか私もこんな風に、ただ一人が隣にいてくれることを願うようになるのだろうか。静かにページをめくる彼をチラリと見やる。華奢な身体に似つかわず、手は大きくゴツゴツと節くれだっていた。小さい頃兄の真似をして、指をポキポキならしまくった影響だと言っていた。いつも仏頂面な彼にもそんな子供時代があったのかと、吹き出したのを覚えている。
 
 心地良く揺蕩っていた沈黙を破って、遠慮がちにスマホが震えた。本を閉じて取り上げると、バイト先の塾の生徒から、体調不良で休むという連絡が入っていた。どうせ休むなら、もう少し早くに言ってくれれば、色々できることもあったのにと嘆息する。帰ろうかとしばし悩んだけれども、彼の熱が伝わるか伝わらないかのこの距離感で並んで座っていることがなんだか惜しくなって、もう一度本を開いた。今日はこの1冊を読み終えることにしよう。
 
 
 次に顔を上げたときにはすっかり日が傾いていて、ずっと下を向いていたせいか首がやけに痛かった。頭をぐるりと1回転させて伸びをすると、隣で彼が、読み終わったの、と問いかけた。
 
「うん。そっちも?」
「うん」
 
 見ると彼はとうに本をしまっており、帰り支度を済ませていた。私が読み終わるまで待っていてくれたのだろうか。そういえば、よく冷えていた部屋はいつの間にか少しぬるくなっている。少し意識してみると、案外良いところが見つかるもんだなと感心しつつ、立ち上がった。
 
「このあと暇? ご飯行こうよ」
「あ、それで待っててくれたの」
「そう。バイト?」
「ううん、なくなったから平気」
 
 いつもやかましい部長が先導するから、彼と2人で食事に行くのは珍しく感じられた。そうか、普通の女の子はこういうところでときめくのかと、頭の中で小さな私が冷静に見ていた。彼が自ら誘ってくれたのは、よこしまな気持ち抜きに、嬉しかった。
 
710日 雨
 今日は2人きりになれたから、ドキドキしちゃった……。
 さりげなく優しいとことか、やっぱり好き!
 ご飯食べてるとこ、可愛かったなあ』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 毎月第3水曜日昼休みの部室は、部会のために押し寄せた部員ですし詰め状態だ。と言っても、協調性に欠ける文藝会員が全員集まることはまずない。後輩はある程度真面目に顔を出しているが、4年生以上はほとんどいなかった。
 
「じゃ、部会始めます」
 
 会長の彼は、周りが騒がしいままでもお構いなしに始めた。
 
「えーと、今月末が原稿の締め切りです。2359分までしか受け付けないので、早めに提出してください」
 
 げー、とあちこちから溜息が聞こえる。かくいう私も、すっかり忘れていてまだ手をつけていない。どうしたものかと眉をひそめていると、袖をクイクイと引っ張られた。
 
「先輩」
 
 ひとつ下の後輩は、椅子に座ったまま私を見上げた。この同好会には珍しく、真っ黒に日焼けした肌が特徴的な青年だ。
 
「進捗、どうですか?」
「ゼロ。そっちは?」
「実は、大体書き上がってるんですよね」
「へえ、偉い」
「放課後、時間ありますか? よかったら校正して欲しくて」
「あー……うん、いいよ」
「じゃ、またあとで」
 
 部会終わります、の合図と共に、やれやれと出て行く会員たちに押し流されながら、後輩は手を振って去って行った。あとに残ったのは、私と彼と、相変わらず机の上で悠々としているあの人だけだ。安請け合いしたことを早速後悔しながら、手近な椅子に腰を下ろした。後輩の作品は何度か読んだが、正直なところ好みの文章ではない。それに、2人で出かけるほど仲良くもない。部長にでもついてきてもらおうか。いや、彼女は話をなんでもややこしくするのが得意だから、やめておこう。
 
「部長、降りてください。行儀が悪いっていつも言ってるじゃないですか」
「そう言わずともよかろう、公の場でもあるまいに。相変わらず融通が利かん男だな」
 
 彼はいらだたしげにドスンとソファに腰掛けた。部長と話すときの彼はいつも冷静さを欠いていて、私の前ではあまり見せない表情だから、少し羨ましく思う。
 部長は盛大に欠伸をして、籠バッグからまん丸のおにぎりを取り出した。彼は売店のパンをレンジにかけ、私は冷蔵庫にしまったお弁当を探した。夏場、冷蔵庫でお弁当を保管しておけるのはありがたい。
 いただきます、と3人で手を合わせ食事を始めた。部長は見かけによらずよく食べるので、大きなおにぎりをすぐさま平らげて2個目に取りかかった。彼はパンを温めすぎたようで、なかなかかぶりつけずもどかしそうにしている。クスリと笑って、私も自分の弁当に箸を伸ばした。冷え切ったご飯がモソモソで、少し悲しくなる。食中毒対策に仕方ないとはいえ、やはりご飯は熱々に限る。
 
「チンしたら? 弁当」
「ううん、大丈夫」
 
 彼との会話はやはり長続きせずに終了した。それが嫌なわけではないが、今日の日記はどうしようかなあと顔をしかめていると、もう3個目のラップをゴミ箱に入れながら、部長が私に言った。
 
「そういえば君、日記はどうなったんだい」
「ちょっと、急にその話は」
「なに、日記とか書いてんの」
「彼女に恋をさせようと思ってね。仮想相手は見つかったかい?」
「仮想相手?」
 
 彼が自分の話に乗ってきたのが嬉しかったのか、部長はノリノリで先日の話を繰り返した。相手を伝えてなくて良かった、とこっそり胸をなで下ろす。あなたを想って日記を書いています、なんて、本人に知られたらお笑いぐさだ。
 
 部長は、小説内を自在に操れる典型的な前者の人間だ。人語を理解する宇宙人の家にも、ヌルリと生暖かい鯨の胃の中にも、火を噴いて飛び回るドラゴンの背中にも、部長の物語は連れて行ってくれる。彼女の小説はどこまでも伸びやかで、夢や希望という陳腐な言葉がよく似合う光を放っている。自由な発想力が豊かな語彙力で支えられ、構成は大胆なのに紡がれる言葉のひとつひとつはハッとするほど繊細で、彼女の小説を読む度に、思わずほうと溜息が漏れる——初めて読んだときは、こんな奇人変人の代表者みたいな人が作者だと、信じたくなかったものだ。
 
「丁度いい、君もやりたまえよ」
「え、なんで俺まで」
「君も彼女と同じだろう? 自身の経験しか書くことの出来ない作家だ」
 
 確かに、と小さく呟いた。彼も恐らく、私と同じく後者の人間だ。小説の舞台は夕暮れに包まれた大学だったり、夜の静けさを纏った遊園地だったり、朝焼けに照らされた繁華街だったり、いつも身近な場所だ。大きく違うのは、彼が書くのはいつも恋愛を扱った物語だということ。
 
「俺のは、傷口から染み出た膿みたいなものですから」
「膿か、言い得て妙だな」
 
 彼がフッと鼻で笑う。その表情、どこか遠くに焦がれるような、何かを諦めたような、その切なげな顔を言い表すことの出来る言葉が私の中にないことに、無性に腹が立った。
 
「考えてもみたまえ。無から有を、0から物語を紡ぎ出すのが我ら小説家であるというのに、君らのような人種は作中で自身を切り売りするしか出来ないのだろう?」
「それの何がダメなんですか」
「重すぎるのだよ、代償が」
 
 私には訳がわからなかったけれども、彼は苦々しげに口をつぐみ部長を睨んだ。部長は後輩の不敬な態度を気にするそぶりもない。仰々しく脚を組み替える仕草が、妙に板についている。どこぞの文豪にかぶれたような口調や仕草が最初は鼻についたが、今ではすっかり慣れてしまった。
 彼はそのまま、不機嫌そうに部屋を出て行った。残された私はどうしたものかと部長を見上げると、彼女はバッグを漁ってこんにゃくゼリーを取り出し、私にもひとつ投げてよこした。ありがとうございますと言って口に入れると、まわりはふにゃりとぬくもっていたが、芯は凍ってシャリシャリしており、その舌触りの差が面白かった。保冷剤代わりにでも凍らせておいたのだろうか。
 しばらく無言でもぐもぐとしていたが、部長は唐突に口を開いた。
 
「断言しよう。いつか君は書けなくなる、絶対に」
「どうしてですか」
「自分の経験したことしか書けないからだ」
「今は問題なく書けているじゃないですか」
「では聞くが、君の書きたいものはなんだね」
「書きたいもの、ですか」
「そうだ」
 言葉に詰まった私を見て、部長は面白そうに目を細めた。
 
 書きたいもの。しばらく考えたこともなかった。確かに小説を書き始めた頃は、うちの犬をモデルにした作品を書きたいだとか、素敵な青春学園ものを書きたいだとか、何かしら目的を持ってパソコンの前にいたような気がする。少し大人になってからは、好きなキャラの二次創作に興じたこともあった。推しにこんなデートをして欲しいだとか、推しと推しにこうなって欲しいだとか、毎度テーマを決めて書いていた。
しかし、今は。
 
「……今は、書きたいものを書く、というよりも、何かに突き動かされて書いている感じですね」
「ほう?」
「えっと、上手く説明できないんですけど。なんというか、私はこの感情を、この出来事を、小説にしなきゃいけないって思うというか」
「なるほどなるほど」
 
 だから駄目だというのだよ、と言いながら、部長はひょいと机から降りた。くるぶしまであるスカートのひだがふわりと広がる。彼女はそのままツカツカと私に歩み寄り、ずいと顔を寄せた。近すぎて焦点が合わないなあと思ったけれども、部長はいつだって人の話をろくに聞かないから、黙っていた。
 
「それはね、君。いつの日か言葉に出来ない感情を得たときに、絶望するしかなくなるのだよ」
「はあ、そうですか」
「何故そんな顔をするのだね」
「……言葉に出来ない感情というのは、物書きにとって甘えだと思います。そのような感情だからこそ、言語化し、作品に昇華し、読者と共有するのが、物書きの使命でしょう?」
「お子ちゃまめ」
 
 思わずムッとした私を見て、理想を語るだけなら猿でも出来ると、部長はせせら笑って顔を離した。大きな窓から差し込んだ西日に照らされた部長は、悪役のように逆光がよく似合っていた。先程までの雨が嘘のようだ。
 
「今にわかるさ。恋とはね、物語における最大のエッセンスであり、表現者における最大の敵だよ」
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 後輩に呼び出されたのは、駅前の静かなカフェだった。締め切り前たまにここで執筆を進めていたが、次から利用するのは辞めようと、ひっそり思った。
 
「どうですかね、俺の話」
「……うん、いいんじゃないかな」
 
 ほんとですか、と屈託なく笑う彼を見て、なんだかむずむずした。この子のことは嫌いではないし、良い子だとは思う(小説は好きになれないが)のだが、どうにも居心地が悪い。中高と部活に所属していなかったので、後輩という存在が、不慣れなだけかもしれないが。
 それにしても、見れば見るほどコメントに困る小説だ。設定はありきたり、文章にクセはないが特徴もない。どこかで見たお話の寄せ集めのような表現は、没個性的で面白みに欠ける。しかしどこをどう直せば、と具体的にどうアドバイスすればいいのか、私にはわからなかった。多分、作者を変えるのが1番早い。
 
「俺、先輩の小説がいいなって思って、このサークルに入ったんです。だから先輩に褒めて貰えるの、すっごく嬉しくって」
「……そう、ありがとう」
「先輩の小説って、なんだろ、作中の人物になりきれるんですよね。感情がダイレクトに伝わってきて、気づいたら俺、泣いちゃってたんです、初めて読んだとき。俺もそういうの書きたいなって思いました」
「ふうん」
 
 良い子だな、と改めて思った。臆面もなくこういうことを言うのは、私には出来ない。なんだかきまりが悪くて、そっと座り直した。
 会話が終了し、気まずい空気が流れる。もっと気の利いた返事をするべきだったなと後悔したが、今更どうにもならない。新しい会話も思いつかず、お茶を濁すようにストローを咥えた。このカフェのコーヒーは深煎りで、ちょっと苦すぎるくらいの味が私は好きだ。
 後輩はアメリカンコーヒーにミルクとガムシロップをひとつずつ落とし、ガチャガチャとおおざっぱにかき混ぜた。氷がグラスにぶつかって軋む。頭の痛くなる音だ。
 
「……あの!」
「はい」
「今度、先輩をモデルに小説を書きたいんです」
「……はあ」
 
 突然の申し出に顔を上げると、後輩と目が合った。何故か狼狽えて目線を外し、彼はええと、と言葉を探した。
 よくわからない子だ。私の小説をそこまで好きだと言ってくれる理由もわからないし、私のような女を小説のモデルにしたい理由もわからない。そのまっすぐさの下に何が隠されているのだろうと疑ってしまうのは、私がひねくれているからだろうか。
 
「えっと、先輩とまたこうやってご飯行ったり飲み行ったり、あと休日一緒に出かけたりして、近くでいられたらなって、思うんですけど」
「……それ、本当に小説に必要?」
「じゃなくて、ええっと、つまりですね」
 
 彼は頭をわしゃわしゃとかきむしって俯いた。食事の場でそういう行為はなあと思ったけれども、指摘するのも無粋だろうと思い、喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。
 
「彼氏彼女みたいなことがしたいなってことなんですけど、どうですか」
「……はぁ」
 
 思わず出た気の抜けた声が出てビックリした。後輩は顔を上げない。まさか一世一代の告白にこんな間抜けな返事が返ってくるとは思わなかったのだろう。申し訳ないことをしたなと、他人事のように思う。そもそもこれは、告白なのだろうか。
 中学生の頃の嫌な思い出が蘇る。校舎裏に呼び出され、付き合ってくれと手を出された。その男子の後ろで、物陰から幾つもの頭が見え隠れしていた。お遊びだった。私は罰ゲームに使われたのだった。隠れ方がお粗末だよと指摘したら、告白してきた男子はホッとしたように胸をなで下ろし、悪い悪いと、少しも悪びれずに仲間の元へ帰って行った。あの忌まわしい、思い出したくもない、思い出。
 
「先輩?」
 
 おずおずと後輩が顔を上げる。慌ててごめんと謝って、コーヒーを1口啜った。氷が溶けて、苦みが少し薄まっている。
 
「あの、返事、急ぎませんから」
「……うん」
「すみません、急にこんなこと」
「ううん、えっと、私こそ、上手く返事できなくてごめん」
 
 場は再び、気まずい沈黙に支配された。告白された経験なんてないから、こういうとき、どうしたらいいのかわからない。
 
「……あのさ」
「はい」
「私の、どこが好きなの? なんで好きなの?」
 
 それは純粋な疑問だった。私が好きになれない私のどこを見て、この子は好きだと言ってくれるのだろうか。
 
「まず小説を読んで、気になったんですけど。実際に先輩と話してみて、笑顔が可愛いなって思ったんです。あと、芯の通ったというか、人に媚びない姿勢とかも、いいと思いました」
「……そっか」
 
 違う、と思った。違う、それは私じゃない。笑ったときの私の顔では、元々小粒の目が更に小さく肉に襞に埋もれてしまう。大きな口からは歯茎が露わになって下品だ。人に媚びないとかいう姿勢も、ただ人と話すのが苦手だから、迎合することすら出来ていないだけだ。人に合わせるのが下手なだけだ。
 私は、君から見た私は、誰?
 
 
 返事を宙ぶらりんにして、カフェを出た。後輩は気まずそうに、一目散に駅へと退散していった。私は少し散歩でもして帰ろうかと、家路から少し外れたルートへ向かった。
 空はまたどんよりと雲に覆われて、少しずつ泣き始めた。カバンから折りたたみ傘を取り出し、パッと開く。サンダルを履いているから足下の防御力がゼロだ。ぐじゅぐじゅになったつま先が滑る。回り道は早々に切り上げた方が良さそうだ。
 街灯を反射して煌めく雨粒を踏みつぶしながら、とぼとぼと歩く。雨はさほど強くならず、気温は下げないまま不快指数だけを上昇させる。やってられっか、と茹だった夜道で独りごちる。感情の整理がつかない。
 小説が書きたい。
 
 細い路地を曲がると、見慣れたひょろっとした後ろ姿がしょぼくれて水をしたたらせていた。慌てて追いかけて肩を叩くとそれはやはり彼で、傘忘れたんだよね、と前髪の雫を払った。
 私が傘を傾けて招き入れると、彼はヒョイと私の手からそれを奪い、持ち上げた。ありがとう、と言うと、こちらこそ、と淡々と返される。なんだかくすぐったくなって、出来たての水たまりを蹴っ飛ばした。
 小さな折りたたみ傘は2人で入るには狭すぎて、ギリギリまでくっついていても肩がはみ出てしまう。右肩から伝わってきた彼の熱は、全身に巡って左肩で冷やされていく。部室で椅子を並べているときよりもはるかに近い、たった5センチの距離に彼はいた。意識すると途端に気恥ずかしくなって、顔が見られなくなってしまう。
 肩を濡らしながら、私たちはのろのろと歩を進めた。お互いの歩調がわからないから、ゆっくりでなければ傘から飛び出てしまうのではと、そう思ってスピードを上げられなかった。お互い無言だったけれども、雨がずっと楽しそうに歌っていたから、静寂を気にする必要はなかった。
 ずるり、と足が滑って、バランスを崩した。前につんのめりかけたけれども、彼が慌てて右手首を掴む。すんでのところで身体は止まり、服を泥だらけにせずに済んだ。
 
「……危なかった。ありがとう」
「セーフ」
 
 彼が笑った。
 サンダルって滑りやすそうだよな、と足下を見られる。無駄毛の処理はきちんとしていただろうか、と恥ずかしくなる。どうせこの暗さでは、わかりっこないだろうに。
 小説が書きたい。今すぐ家に帰って、小説が書きたい。
 
 彼の足取りにあわせているうちに、いつの間にか我が家の前にたどり着いていた。ずぶ濡れの彼を家に上げて服を乾かすべきだろうか。いや、そこまでするとかえって気を遣わせてしまう。
 
「ごめん、送ってもらって。家、こっちじゃなかったよね」
「傘入れてもらってるしね」
「それ、そのまま持って帰って。今度返してもらえればいいから」
「うん、ありがとう」
 
 私の傘は彼一人でも小さかったようで、右肩が濡れ続けていた。家から普通の傘を取ってこようかと思ったけれども、彼はすぐに角を曲がって、見えなくなってしまった。
 
717日 雨のち晴れのち雨
 天気が安定しない。
 彼に傘を貸した。2人で傘に入った。ただそれだけ。』
 
 後輩のことも書くべきか悩んだけれども、これは彼への日記だから、相応しくないような気がした。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
「ほう、告白ねえ」
「他の人には言わないでくださいね」
「随分と信用がないものだな」
 
 胡散臭さ全開のこの人に言ってしまったことを、少し後悔した。誰でも良いから聞いて欲しかったのだけれど、こういうとき話し相手になってくれる友人もそういない。いつでも暇そうにしているうえに後輩のことも知っている部長は、いわば『丁度いい』相手だった。
 窓枠が歪んで閉まらないから、今日も部室はじっとりと湿気がのさばっている。私は寝不足で重く垂れ下がる瞼をこじ開けながら、昨日のカフェでの顛末を、淡々と語った。帰り道での出来事は、なんとなく、言えなかった。
 
「で、君はどうしたいんだね」
「……それが、わからないんです」
「ほう?」
「断る理由もなければ、承諾する理由もないというか」
「そこまであいつと親しい風にも見えんかったしなあ」
「ですよねえ」
「そして、そこまで君が興味あるようにも見えんな」
「……ですよねえ」
 
 正直な話、いいよというのもごめんというのも、とても億劫だった。そこまで後輩の感情や思考の労力を割かねばならないのが面倒で、深々と溜息をつく。好きだとも付き合ってとも言われなかったのが、喉の奥で小骨のように引っかかっている。私は、なんと答えるのが正解なのだろう。
 ま、いいんじゃないか、と無責任に言って、部長は野菜ジュースのパックを一気に飲み干した。ずぞぞぞっとマナー違反の啜り音が、ちょっと小気味よい。
 
「ほれ、付き合ってみれば、作品の肥やしになる」
「……そんな理由でOKするのは、いいんですか」
「そんなこと知らんわ。愛する女の役に立てれば幸せなんじゃあないか。それに」
 
 はは、と部長は口を開けた。野菜ジュースはトマトベースだったのだろう、口の中が吸血鬼みたいだ。
 
「君は、書かんと生きていけん人種だからなあ」
「……そう、ですね」
 
 私は決意が鈍らないうちにスマホを取り出して、後輩にメッセージを送った。少し待ってみたけれども、既読はつかなかった。おめでとう、と部長が言った。こんなもんか、と私は思った。好きでもない男と付き合うことは、案外抵抗がないんだなと、虚しくなった。
 昨日書きかけの小説が待っている。早く家に帰りたいのに、今日は深夜までバイトがある。早く、早く小説を書かなければ。
 
 
 はやる気持ちとは裏腹に、身体は疲労のピークに達していた。バイトから帰ってパソコンを開いたところまでは覚えていたのだが、瞬きひとつに3時間もかかっていたようだ。
 突っ伏していた床から起き上がると、寝違えたのか首が痛む。仰向けならば楽なので、今日はもう執筆を諦めて本を読むことにした。部誌のバックナンバーを取り出して、パラパラとめくる。丁度彼の作品で手が止まった。去年のこの頃、梅雨と紫陽花を題材に書かれた作品だった。
 彼は私と同じ人種だ。私たちはインク切れのペンしか手に出来ない物書きだ。想像力という名のインクが枯れ果て、それでもなお書くことしか出来ない物書きだ。私は血を、彼は膿を、それぞれインク代わりに無理矢理流し込んで小説を書く。私が彼の作品を好ましく思うのはきっと、彼の小説から私と同じ匂いがするからだろう。
 ひとつ、またひとつと彼の小説を読み進める。雨の日の物語、海辺の物語、校舎裏の物語、病人の物語。どこまでが彼の膿で、どこからが絞り出したフィクションという名のインクなのだろうか。
 
 ああ、そうか。ストンと腑に落ちた。後輩の小説が苦手な理由も、きっとこれなのだろう。彼の小説は、書き手の顔が見えない。寄せ集めの、借りてきた言葉の継ぎ接ぎだから。わからなくて、理解できない。それが彼自身にも表れているのか。彼の好き側からなかったのは、彼が私にくれた言葉に、体温がなかったからなのだろうか。
 それとも私に、受け取る気がなかっただけなのだろうか。
 
 最後の1冊を手に取る。私たちが入部して、初めて書いた小説が掲載されているものだ。彼が書いたのは、高校生の話だった。陰気な男子生徒が、明るくてクラスの人気者だった女の子に恋をして、しかし少女には好きな男子がいて、その子の恋の成就を手伝うという、主人公キャラよろしく陰気で悲しいお話。題材自体は珍しいものではなかったが、その真に迫る描写が鮮やかで、私は何度も読み返した。
 ふと、少女の描写を振り返る。彼の話にはよく、主人公と同世代の女の子が出てきた。それは高校生だったり大学生だったりOLだったり、はたまたロングヘアだったりショートヘアだったり、話によって様々だったが、よく見ると共通点があった。皆、口を大きく開けて笑う子だった。
 これがきっと、彼の膿が染み出す傷を作った女なのだなと理解するのに、時間はかからなかった。
 
『何度も何度も手を洗った。それなのにあなたの熱が、手にまとわりついて離れない。
 これはなんだろう。私はどうしてしまったのだろう。心臓に靄がかかったかのように苦しい。深呼吸を幾度となく繰り返したのに、靄は出て行ってくれない。
 ただ手を繋いだだけだ。ただそれだけだ。それなのに私はどうしてしまったのだろう。わけもわからずにぼろぼろと涙が溢れてくる。こんな感情は知らない。こんな感情に、名前を付けてはならない。
 あなたは一体私に何をしたの。手をきつく握りしめて問いかける。苦しい。吐きそうだ。
 瞼の裏で、あなたが笑う。消えない。眠れない。夜が明ける。
 お願い、私に笑わないで』
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 デートしよう、と後輩に呼び出されて、珍しく午前中から活動を始めた。冷房をけちって寝ていたせいで、起き抜けから滝のように汗が流れている。待ち合わせまでそう時間があるわけではなかったが、とりあえずシャワーを浴びに浴室へ向かった。
 案の定髪を乾かしているうちに家を出る時間が迫ってきて、私は「ごめん、遅れそう」とだけ連絡をした。どのくらい遅れる、などと指定すると、たいていその時間を過ぎてしまうのは、どうしてだろうか。
 夏の日差しは容赦なく肌を炙り、日焼け止め越しでも強力な紫外線がジリジリと痛い。こんな暑い日にどうして外で待ち合わせなのだろうと、肺に溜まった熱い空気を吐き出した。彼は爽やかなシャツを輝かせて待っていた。
 
「ごめん、遅くなった」
「大丈夫! 俺のためにオシャレしてくれたって思うと、嬉しい」
 
 どこぞの少女漫画で習ったような歯の浮く台詞を並べて、後輩はニカっと笑った。気づけば敬語が外れており、とやかく言うつもりはないものの、付き合うってこういうことか、と釈然としないまま彼のあとをついて行った。
 
 最初は映画、そのあとはオシャレなカフェでランチ、猫カフェを経て少し早めのディナー。いかにも女ウケが良さそうな健康志向のレストランは、きっと一生懸命選んでくれたのだろうなと思うと、申し訳なかった。違うのだ。私が好きなものは、部室で静かに本を読む時間と、その後適当に食べる定食の味だ。こじゃれたフォーに乗っているパクチーは苦手で、でもそれを表に出すのは先輩としてどうかと思い、必死に平静を装った。
 
「今日は、ありがとうございました!」
「こちらこそ、色々調べてプラン作ってくれたみたいで、ありがとう」
 
 後輩は白い歯を見せて笑った。浅黒い肌との対比が綺麗で眩しい。じゃあ、と駅の改札をくぐろうとしたその時、右腕をグイッと力強く掴まれた。視界が、彼で埋まる。
 
「……すみません」
「どうして、謝るの」
 
 謝るくらいなら最初からやるなよという気持ちと、ちゃんと返してあげられなくてごめんという気持ちが、喉の奥で渦巻いてえずく。今度こそ改札をくぐり抜け、早足で階段を下り、熱風がとぐろを巻くホームへと降り立った。丁度到着した電車から降りてきた人々にもみくちゃにされながら、必死でスマホを探し、電話をかけた。
 
「部長」
『なんだね、藪から棒に』
「私の小説、読んでください」
『今からかい?』
「今すぐに。あっ、でもまだ書きかけで」
『なに、構わんさ。30分後に部室で良いかい?』
「はい、お願いします」
 
 無我夢中で電話を切り、そこでやっと、足を止めた。発熱したスマホは、電源を切って温度を下げるようにと警告画面が出ている。上手く感情が整理できない。昔からそうだ。私は小説を介さねば自身の感情が説明できなかった。それはきっと、思い出の中の私のように、傷つかず冷静でいられるようにという自己防衛だったのだろう。
 唇を拭った。手の甲に紅がみっともなく伸びる。ホームに黄色いラインの入った電車が滑り込んできた。小説が書きたい。スマホからで構わない。続きが書きたい。今すぐに。血が乾く前に。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
 私が部室に飛び込むと、部長は既に定位置に陣取っていた。見せたまえ、と鷹揚に手を広げるので、勢いに任せ中盤まで書き上げた小説を、スマホごと手渡した。あついな、と部長は言った。私はエアコンのスイッチを入れ、ソファに腰掛けて、大きく息を吐いた。
 
「あついな」
「温度、下げますか」
「そうではない。熱のある良い小説だと言っている」
「どうも」
「私はね、これを読んで長年の疑問が晴れたよ。君の小説がなぜ体温を持っているのか」
「え?」
 
 舞台役者のように狭い部室を歩き回りながら、部長はスカートをなびかせた。今日は珍しく髪を結んでいないから、いつもより表情が見えにくい。私はソファに座り直して息を吐いた。コツコツと、ピンヒールの音がこだまする。
 
「君の小説はだね、キャラに名前がついていないのだよ。一人称の語り手と、彼と、彼女と、あの人と、私と、あなた。それがどうにも気にくわなくてな」
「気にくわない、ですか」
「わかりづらいだろう。そして混乱を避けるために登場人物は少なく、物語は浅くなる。そう思っていたのだよ。
 だが君の物語は基本的に、『私』と『あなた』を中心に完結していた。なるほど、君が『私』であり、誰か『あなた』との思い出をフィクションの幕で包んだものが、君の小説であるわけだ」
 
 君の狭い興味が功を奏したわけだ、と部長は笑う。自分の小説を客観的に分析される気恥ずかしさで、私は俯いた。
 
「それにしても、最後の描写はなんだね。余りにもお粗末なキスだな。これだから生娘の実体を伴わない表現はいかん」
「えっと、それは……」
「なに、したのか」
 
 しました、と私は俯いたまま答えた。唇にそっと触れる。初めてのキス。初めての彼氏。初めての。それなのに——なんの感慨もなかった。
 私はなんと愚かな女だろうと思った。好きでもない男と付き合って、好きでもない男とキスをして、そして思い浮かべるのは別の男だ。なんと不合理で、残虐で、愚かな女だろう。
 頬にそっと手が添えられた。そのままそっと唇が重ねられる。上書きだ、と言って部長は笑う。ぽかんとする私の鼻を、形の良い爪でピンと弾いた。
 
「キスなんてそんなものだよ、小娘」
「……部長」
「良いのだよ、愛しい男とするもの以外全ては取るに足らんのだ。それを何も感じぬからと気に病む必要などどこにもない」
 
 心を動かされる相手なぞ1人で十分だ。部長は剛胆に笑い飛ばした。私も笑った。そうだ、私に必要なのはただ、あの人に小説を読ませることだ。
 
 
   ◇◇◇◇
 
 
『心臓が早鐘のように高鳴る。押しつぶされそうなほど苦しくて、なんとか沈めようと深く息を吸う。
 彼は私の少し前を歩いて、こちらを見ない。軽く袖を引くと、なに、と言いながら私を見下ろした。
 手に汗がじわりと滲む。心臓がいよいよ口から飛びださんばかりに暴れ回る。私は最善の一言を探したけれども、何も言葉が出ない。何か、何か言わなきゃ。何か。
 ——視界が、フッと暗くなった』
 
「どう、かな。これ」
 
 傘を返して欲しいからと彼を呼び出し、ついでに書き上げた小説を校正してと押しつけた。この小説はラブレターだ。宛所のないフリをして、あなたにしか開けられない封をした。
 彼はしばらく無言だった。無言でもう一周小説を読んだ。そしてトントンと紙の束をただし、机に置いた。
 
「……いいんじゃないかな」
「えっ」
「だから、いいと思うよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
 
 彼は、私と目を合わせようとしなかった。それは私と同じ感想だった。後輩の小説を読んだときと同じ、理解できないものを前に、お茶を濁す感想。
 間違った。間違った。間違った。後悔がどっと押し寄せる。こんなはずじゃなかった。小説になんてしなければよかった。直接言っていれば、もっと。今からでも言おうか。いや違う。違う。
 そもそも、私なんかが受け入れられるって、どうして。
 
「……ごめん、もう行くね」
 
 こんなにアッサリと終わってしまうのだろうか。私が心血注いで書き上げたこの小説は、この想いは、この物語は、ここで終わりを迎えるのか。こんなにも唐突に。
 何も言わない私を置いて、彼は部屋を出た。後に残された私は、小説を手に取り、ぎゅっと握りしめた。
 
 ごめんなさい。ああ、『私』は私ではなく、『あなた』はあなたではない。だからどうか、行かないで欲しい。私は何も言わないから。だから。どうか。だから。
 
 
 部長の言っていた意味が、良くわかった。私のペンは、折れてしまった。注ぎすぎた血が溢れて、もう何も書けない。書きたい言葉だけが溢れて、こぼれて、消えていく。
 あの日私を笑った男子の声がこだまする。小説を書かなければ。書かなければ、私の思いはどこに行くのだろう。
 
 幸せな話が書けないでいる。
 物語の中の名もない私は、今日も独りで泣いている。
第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:35

SHINOBISM

 令和——。日本の新たな元号として制定されたそれは、「万葉集」の梅花の歌、三十二首の序文「時、初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」を出典としている。
「揃ったか」
 頭目の甲賀勘八郎が地面を震わせるような低い声で言った。ここは甲賀の里と伊賀の里の中央に位置する山の中、大自然に囲まれた木造の小屋だ。そこに彼ら甲賀の忍4人は集められていた。腕を組んで部屋の中央に立つ勘八郎と、それを囲むようにして跪く4つの黒い影。並ぶ忍装束は宵闇に紛れ、気配すら感じさせない。
「いよいよ今夜だ。平成最後の合戦では辛酸を嘗めさせられたが、今回はそうはいかせん。今年こそは伊賀の奴らに一泡吹かせてやろうじゃないか」
 勘八郎はそう言って、小屋の扉を開け放った。朧月が小屋を照らし、忍装束を纏った5人の輪郭はぼんやりとだがようやく露わになる。顔まで覆われているせいで表情は見えないが、誰もがその眼を爛々と輝かせ、開戦を今か今かと待ち望んでいた。
 そう、今宵は遥か昔、江戸の頃から続く忍たちの力比べ、「忍者合戦」の令和最初の回が執り行われることとなっていた。忍者合戦とは、伊賀、甲賀両方の里から実力のある忍が5人ずつ出陣し、勝ち抜き戦でその技を競い合う戦である。本来であれば10年に1度しか行われないこの合戦だが、元号が変わった年にだけ特別にその区切りを無視して開かれる。忍者というのはかなり体力のいる職業であり、同じ人間が10年後の合戦に続けて参加することは当然ながら難しい。——2015年に行われた15回目の合戦、平成最後の忍者大合戦として今でも語り継がれているその合戦では、現頭目の勘八郎も出陣し、得意の土遁の術と卓越した苦無捌きで伊賀の里の代表を3人も破る快挙を成し遂げたが、伊賀の現頭目である伊賀蟹蔵の水遁の術の前に敗れ去り、そのまま合戦も敗北していた。本来ならば再び術を交えることは難しかった2人であるが、今回元号が変わったことによって奇跡的に衰えぬ身体のまま再び相見えることとなったのであった。
 勘八郎は頭目である。彼は甲賀の長として、合戦の勝利を第一とせねばならない。この合戦に勝てば、次の合戦までの間甲賀の里は、伊賀は元よりのこと他の里からも一目置かれる存在となる。昨今、忍を必要とする人々も段々と減ってきており、たまに声がかかったかと思えばやれテーマパークの忍者ショーだの忍術体験会だのの依頼ばかりで、伝統と格式を重んじる忍にとっては辛いものがあった。しかし合戦に勝った里は、その強さを国から認められ、ボディーガードなどの依頼を受けることも増える。里の発展と皆の生活のためには、何よりも合戦で勝つことが大切なのである。……しかしながら、勘八郎は頭目である以前に一人の男であり、忍であった。彼には雪辱を果たさなければならない相手がいる。蟹蔵の性格を考えれば、恐らく自らが大将として出陣してくるだろう。戦術の上ならば、勘八郎も大将となり、体力を温存しておくべきだ。しかし、彼は甲賀の代表たちの実力をよく知っていた。今年の甲賀は平成最後の合戦の時とはひと味もふた味も違う。秘密兵器も用意した。彼が危惧していたのは、自分の出る幕もなく合戦に勝ってしまうことだった。無論、伊賀の代表も精鋭揃いではあることだろう。しかし甲賀の秘密兵器、あれが良くなかった。あれが上手く働けば、大将の出番など到底ありはしないだろう。男勘八郎32歳は、里と己の狭間で揺れていた。
 月影の中でなにやら物思いにふけるような表情を見せる頭目を、後ろから見つめる男がいた。彼の名は鵜飼双六。甲賀の代表5人の中では最も若く、まだ20歳前の少年である。彼もまた、今回の合戦において1つの悩みを抱えていた。伊賀の里の代表の1人である、百地難波。彼と双六は旧知の仲であった。伊賀と甲賀は世間では抗争のイメージが強く根付いているが、実際のところその関係は極めて良好である。特に双六や難波のような若い世代は、親同士の仲が良いこともあって、物心ついた頃から共に野山を駆け回り修行をするような中であることも珍しくはなかった。幼馴染といっても良いだろう難波と本気で争わなければならないことに、双六は抵抗を覚えていた。合戦は模擬試合とはいえお互いの術を本気でぶつけ合う。大怪我を負うことも少なくはなく、現に頭目の勘八郎は、平成最後の合戦で負った傷が癒えるまでに半年を費やしている。それほど危険な合戦なのだ。双六は瞼を閉じ、難波の顔を思い浮かべた。彼の記憶の難波はいつも挑戦的な笑顔を浮かべており、それは寡黙な双六とは対照的な難波の軟派な性格を良く表していた。共に修行を積んできた10年余を思う。決して、負けるわけにはいかない。それでも、双六は難波を傷つけたくなかった。それは彼の優しさ故だ。虫も殺せぬ双六に、今回の合戦は些か酷なものであった。拳を固く握り、天上の月を見上げる双六。
「そろそろ行くぞ」
 勘八郎が厳しい表情で告げる。合戦の地はこの山中のさらに奥深く、山頂に近い場所である。
「……はい、頭目」
 双六は、覚悟を決める。難波の実力は良くわかっていた。加減をして勝てる相手では到底ない。里のため、そして己の沽券のために。双六に瞳に、最早迷いはなかった。
 
 一方、山頂を挟んで反対側、伊賀の里に近い場所にある山小屋。そこで難波は己の忍刀を丹念に磨いていた。小屋の中には、伊賀頭目の蟹蔵の姿も見える。
「……頭目。俺は、本当に戦うべきなのでしょうか」
 難波がぽつりと独り言のように呟く。彼もまた、迷いがあった。
「……難波。俺が前回の合戦にも出ていたことは知っているな」
「はい。頭目の怒涛の4人抜きは今でも語り草ですからね」
 前の合戦で伊賀は、甲賀側の先鋒であった勘八郎に立て続けに中堅までの3人を破られたが、副将であった蟹蔵が逆に怒涛の4人抜きを果たし、大将まで引きずり出したのであった。
「俺が倒した忍の中には、俺の幼馴染もいたんだ。……小さい頃からずっと一緒だった。里は違えども、俺たちは確かに親友だった。だが、奴は死んだ。俺の放った水遁の術に耐えきれず、そのまま山道を濁流に流されていって……」
 蟹蔵は立ち上がると、小屋の戸に手を掛け、勢いよく開いた。小屋の中は月明かりに満たされる。そのまま蟹蔵は続けた。
「……俺は今でも奴を夢に見るよ。奴の伸ばした手が、あの表情が、今でも記憶に残っている。……戦とは、そういうものだ。忍とは、そういうものだ」
 ゆっくりと、難波の方へ向き直る蟹蔵。その表情は、難波からは逆光で見ることができなかった。
「お前がもし忍を辞めたいのなら、俺は止めない。好きにするといい。誰も責めやしないさ。……だが、それでもまだ忍でありたいならば、お前は今日を乗り越えていかねばならぬ。情けは捨てるのが、身のためだ」
 蟹蔵はそのまま小屋の外へ消えていった。小屋には1人、難波だけが残される。唇を噛みしめる難波。その表情からは、未だ迷いは消えていなかった。
「俺だって……」
 吐き捨てるような呟き。覚悟はしていたつもりだった。この合戦のためにこれまで修行してきたと言っても過言ではない。百地難波は、伊賀忍術の祖と言われる百地家の末裔であった。彼にとって、世界とは忍の道でしかなかった。無論、蟹蔵がそれを知らぬわけはない。知っているからこそ、あのような物言いをしたのであろう。難波は望んで忍になったわけではない。それ故に、彼は苦悩していた。
「難波くん、大丈夫?」
 先程から小屋の戸口から覗き込むようにしていた少女が、難波の様子を見かねて声をかけた。彼女の名は竜子。伊賀の女忍者であり、また難波とは恋仲であった。竜子は度々難波から忍であることへの苦悩について聞かされていた。彼の気持ちをよく知るからこそ、彼女は今回の合戦に対して不安な気持ちを抱いていた。勝ったとしても負けたとしても、難波は深く傷つくことになるだろう。ましてや、甲賀には難波の幼馴染の双六がいるのだ。2人が争う姿を、竜子は見たくなかった。しかしそんなことを難波に直接言えるはずがない。だから——。
「あのね、難波くん。今日、私を先鋒にしてくれるよう、頭目にお願いしたの。だから、難波くん、応援しててね」
 だから、彼女は自ら先鋒を選んだ。自分が甲賀の忍全てを、双六さえも倒してしまえば、難波は戦わずにすむ。そうすれば、彼はもうこれ以上苦しまずにすむはずだ。もちろん、彼女の本当の目的は誰も知らない。彼女はただ、私が最初に出たいとだけ頭目に伝えた。誰にも知られてはならない。もし難波が知れば、彼のプライドは大いに傷つくだろう。彼が望んだわけではなくとも、それでも彼は忍なのだ。忍とは、耐え忍ぶこと。彼がいかに苦しんでいようとも、忍であるからには、それに耐えねばならない。
「竜子が先鋒なのか。こりゃ俺の出番はないかもな、はは。……頼むよ、竜子」
「うん。だから……、どうか、無理しないでね」
 見つめ合う2人。いつの間にやら戻ってきていた頭目が声をかけるまで、2人はしばらくそのままだった。
 
 朧月がちょうど頭上に昇る頃、甲賀と伊賀、双方の忍たちは山頂近くの広場に向かい合って並んでいた。
「いよいよ始まりますね。実況は私平石が務めさせていただきます。解説には、前合戦で伊賀の大将として活躍されていた服部正則さんに来ていただきました。よろしくお願いします」
「うむ……!」
 広場には忍達以外にも人の姿が見えた。この合戦は一部の界隈でカルト的な人気を博しており、某大手動画サイトなどで配信も行われている。そのため、スポーツ中継のように戦いの実況、解説を行う者や、撮影、配信を行うカメラマンなど、おおよそ忍者合戦には不似合いな面子も集まっているのであった。向かい合う忍達を臨むように用意された実況・解説席。実況席にはe-sports等の実況で有名な平石祐佑が、解説席には前合戦で火遁、土遁などありとあらゆる遁術を使いこなし、圧倒的な実力を見せつけた忍、服部正則がそれぞれ着席し、合戦の開始を今か今かと待っていた。
「伊賀、甲賀からそれぞれ選ばれし5人。彼らが鎬を削り、忍者の頂点を決める戦いの聖地へようこそ。第16回忍者合戦――開幕!!」
 スペシャルアンバサダーの三重県知事が号令をかけるのとほぼ同時に、両里の忍達が割れんばかりの歓声を上げる。いよいよ合戦が始まった。
「まずは初戦、先鋒同士の戦いです。解説の服部さん、どのような忍が先鋒を任されることが多いのでしょうか?」
「うむ……!」
「これまでのデータによると、先鋒は試合の流れを掴める動きの速い選手が置かれることが多いようですね。ありがとうございます」
 実況・解説席では、すでに始まっている配信に合わせてトークが繰り広げられている。そう、忍者合戦とは忍達の命運と沽券をかけた戦いであるのと同時に、大衆にとってのエンターテインメントでもあるのだ。動画配信サービスでの同時接続数は既に1万人に達している。大勢がパソコンやスマートフォンの前で合戦の様子を見守っていた。
「これより第1試合を行います。伊賀、甲賀、それぞれの先鋒、前へ!!」
「それじゃあ、行ってくるよ。ちゃんと見ててね、難波くん」
 竜子は難波の手をとると、祈るようにして言った。彼女の両の手が、その小さな肩が、怯えるように震えているのが、難波にもはっきりと伝わる。
「ああ、俺は竜子を信じてるよ。竜子の実力は俺が誰より知ってる。負けるはずないさ」
 難波の言葉は嘘ではなかった。彼は彼女がどれだけ努力してきたのか、どれだけ辛い思いをし、どれだけの血と汗と涙を流してきたのかを知っていた。彼女の腕は最早そこいらの男に劣るようなものではなかった。彼女の戦う姿はその名の通り竜のように猛々しく、平時の花のように可憐な姿からは想像もできないほどだ。難波はここ数年、彼女が誰かに不覚をとる姿を見ていない。そんな彼女だからこそ、彼は心の底から勝利を信じて疑わなかった。
「伊賀の里より、先鋒、竜子、参ります」
 柿渋の装束を身に纏い、名乗りを上げる竜子。一度忍装束を纏えば、そこに怯える少女の姿はすでに無い。仲間達の怒号のような声援を背に受け、竜子は戦場に立った。その背中を、難波は信頼を込めて見つめる。大丈夫、負けるはずがない。彼女なら、きっと――。
 ――そのとき、大地が嘶いた。
 先ほどまでどこに隠れていたのか。甲賀の人並みを掻き分けて、聳え立つ巨大な影。白んだ月影に照らされ、在ってはならない異形がそこに立っていた。黒々とした巌のような体躯。身長は目算で2.5mはあるだろうか。到底忍とは思えない巨体は、一歩踏み出すだけで地面を震わせ、空気を軋ませていた。
「……甲賀の里より、先鋒、金剛寺呂美雄だ」
 伏し目がちに勘八郎が告げる。それが広場に立ちはだかる異形の名であった。忍装束の隙間から覗く瞳は、人間のものとは思えない。
「服部さん、あれは……?」
「うむ……!」
 服部の言うとおり、彼こそが甲賀の秘密兵器であった。禁術によって改造を施したその体は、もはや人の限界を超えていた。合戦に禁じ手はない。各々のモラルに委ねられているそれを、甲賀の里はギリギリのところで破ろうとしていた。
 雄叫びを上げる金剛寺。その悲鳴のような叫びは、竜子から戦意を奪い去るには充分すぎた。
 竜子の背中越しに、伊賀の忍達に絶望が伝わる。ソレが明らかに異質であることは、場にいる誰もが理解できた。伊賀だけでなく、甲賀の里にも焦りと同様の色が見えた。おそらくは全員に彼の存在が伝えられていたわけではないのだろう。誰一人、声を上げることができない。金剛寺の雄叫びで世界から全ての音が掻き消されたかのようだった。果たして、金剛寺に理性は残っているのか。その姿は人よりもむしろ野獣に近い。
「し、試合開始ィィィ!」
 呆然としていた司会がやっと我に返り、試合開始の号令を掛ける。その刹那、金剛寺の巨体が姿を眩ませた。狼狽えた竜子が辺りを見回し、金剛寺の姿を捜す。忍であれば、土遁や水遁で姿を隠すのは得手である。しかし金剛寺の消失は、遁術を使ったにしてはあまりにも早すぎた。
「服部さん、これは一体どんな術を……、え?」
 服部は空を見上げていた。会場の人々もそれに気づき、同じように天を仰ぐ。いつの間にか空を覆う薄い雲は無くなり、澄んだ夜空が広がっている。――そこに。
「そんな……」
「あれってまさか……?」
「おい、嘘だよな?」
 ざわめく忍達。見上げた空には、爛々と輝く月とは別に、もう一つの影。まるで凶つ星のように、ソレはそこに在った。その身ひとつで宙に舞い上がった黒の巨人は、隕石のような勢いで大気を切り裂き、竜子めがけて落下する。その巨体からは想像もつかないほどの身軽さだった。
 竜子が息を呑む。躱せる速度の落下ではなかった。すんでのところで身を捩り直撃を避けようとするが、金剛寺の落下の衝撃は予想を遙かに凌駕していた。空気が震える。ただ飛び上がり、落ちる。それだけの動作で、広場には大きなクレーターができていた。
 肩を押さえ蹲る竜子。躱しきれなかった衝撃波による負傷で、腕が上がらなくなっていた。無防備な姿を晒す竜子に、金剛寺がゆっくりと歩み寄る。
「竜子!」
 叫ぶ難波。これが忍のやることか、と彼の頭の中は怒りと混乱で満ちていた。忍者合戦は、礼節と伝統を重んじる忍達が磨いた技を競い合う、言うならば忍のオリンピック的行事なのだ。それなのに、今目の前で繰り広げられているのは何か。礼節とはほど遠い、ケダモノによる虐殺だった。こんなことが、こんなことが許されてなるものか。
「勘八郎、貴様……!」
 勝てばそれでいいのか、と抗議するように勘八郎をにらみつける。一方勘八郎は、憂鬱そうな顔で溜息をついていた。……元々、この秘策は彼が思いついたものではなかった。恐らく次の頭目になるだろう副将の骨川、彼が合戦の数日前に突然持ち込んだ計画だ。無論、勘八郎は乗り気ではなかった。しかしながら、甲賀の里の実権を握っているのは、知力と若さを備え持った骨川である。彼が白と言えば、烏さえも白になってしまうのが今の甲賀だ。勘八郎にもはや以前のような力は無かった。それ故に、この秘密兵器も受け入れるほかなかったのである。
 金剛寺が背の刀を抜いた。凶刃が竜子に迫る。振り下ろされる忍者刀は、瀑布のごとき勢いで竜子の首筋を狙う。大地をも殺しかねない一撃は、しかしすんでのところで、竜子の首には届かなかった。
「……頭目」
 激しく鍔迫る音。竜子と金剛寺の間で凶刃を受け止めたのは、伊賀頭目、蟹蔵だった。
「いくら禁じ手がないって言っても、こいつは少しばかり度が過ぎるんじゃないかい、甲賀さんよ」
 金剛寺の一撃をいなすと、蟹蔵は勘八郎に向き直りきつい語調で詰め寄った。もちろん、合戦の形式で見ればルール違反である。しかし――。
「そっちがそこまでやるっていうなら、こっちもそれなりにやらせてもらうぞ。なんせ禁じ手なしだからな」
 両里の忍がざわつく。いくら勝つためとは言え、甲賀の策は確かにやりすぎだろう、と皆が感じていたのだ。
「これはどうなるのでしょうか、服部さん」
「うむ――」
「やはりこれは、そうでしょうね」
 うなずく服部と平石。司会が叫ぶ。
「たった今、今回の合戦は特例として、勝ち抜き形式ではなく総力戦にすると運営からの通達がありました! よって合戦は続行とします!」
 忍達から割れんばかりの歓声が上がる。と同時に、難波が弾丸のように飛び出し、勘八郎に向けて刀を振りかざした。しかしその特攻は、横から飛んできた火球によって阻まれる。
「双六、貴様ッ……!」
「すまないな難波、俺たちも負けるわけにはいかないんだ」
 難波の対面に立ちはだかる双六。火球は彼の得意とする火遁の術によって繰り出されたものであった。その技に加減はなかった。双六は殺すつもりで来ている。難波の背筋に悪寒が走った。――俺も、殺すつもりでやらねばならない。
「俺たちの戦績、覚えてるか? 双六」
「俺の4502勝4322敗だ。そうだろう?」
「良く覚えてるな。でも最後に勝つのは俺だぜ。……俺だかんね」
 高く飛び上がる難波。双六もそれをまた空中で迎え撃つ。月影に照らされ、二人の刀が交差した。
 その後ろでは、蟹蔵が一人で金剛寺を押さえ込んでいた。力任せに振るわれる金剛寺の刀が瀑布であるならば、蟹蔵の太刀筋は旋風だった。台風の金剛寺の猛撃を、いなし、払い、打ち落とす。間断なく広がる無数の剣戟、鋼の嵐を、刀一つで押さえ込む。間合いの差、膂力の差、体力の差、その全てを己が技量で凌駕するその姿は、まさに頭目であった。
 その様子を、不敵な笑みを浮かべて静観する男がいた。彼こそが骨川。黒の凶人をこの合戦に送り込んだ張本人である。彼の真の狙いはここにあった。混乱する戦場で、伊賀の忍たちを足止めさせる。そこに彼の渾身の遁術をたたき込めば――。高笑いをする骨川。忍達が気づいたときにはもう遅かった。
「時は満ちました。見なさい、これが私の――!!」
 両手を天に掲げる骨川。刹那、光が迸
 
§
 
「あ、しまった」
 はぁ、と大げさに溜息を吐く。私としたことが、ペンのインクを切らすだなんて失態を犯すとは。
「お母さん、駅前の世界堂って何時まで開いてたっけ?」
「お母さんに聞かないでよ、あんたいつも学校帰りに寄ってるんだから明日でいいんじゃないの?」
「明日が締め切りなんだよぉ、また原稿落として部長にどやされちゃうよ」
 やれやれ、と私は新聞のインクを煮たような味のするコーヒーを啜った。ラジオからはビートルズのビコウズが流れていた。私は頭を振った。まずはインクをどうするべきかを考えよう。原稿の完成はその後でも遅くない。物事は順序を間違えるとろくなことにならないと、私はうすうす気がつき始めていた。
「あ、世界堂、9時までだって」
「あと30分しかないじゃない。ちょっと急いで行ってくるね」
 私は急いでコートを着込む。まるで昆虫が変身をしていくように。玄関の扉を開けると、凍てつく白銀の荒野が広がっていた。雪だ、と私は呟いた。恐ろしく静かな雪だった。小さな砂糖菓子のような雪が一面に広がる。彼らはまるで溶け去ることを拒否しているみたいだった。そっと目を閉じるような、ひそやかな雪だ。
 人間というのは大別するとだいたい二つのタイプにわかれる。つまり小説を書く人間と書かない人間である。別に前者が読書好きで語彙力があって承認欲求が強くて後者がその逆で、とかいうわけでもなく、ただ物語を作りたいかどうかという単純な次元の話である。そして私は前者だ。しかしどういうわけか、私は純文学を書いているつもりなのに、周りからするとそうではないようだ。やれやれ。
 私はビーチ・ボーイズの「アイ・ゲット・アラウンド」を数小節分、鼻歌で歌った。冬の町で雪がそれ以外の全ての音を吸いこんでいた。まるで宇宙の中に私一人だけがとり残されたような気分だった。母は言う。私は小説家になってもいいし、ならなくてもいい。大学に行こうがそのまま働こうが、私が何をしようと私の自由だ、と。ただ、私は思う。ここから先は未知の領域だ。地図はない。道の先に何が待ち受けているかわからないし、見当もつかない。せめて私は私の夢に地図を持ちたかった。今書いている小説はそのためになるかも知れない。それはまるで暗い森を一人彷徨うときの松明のように。
 世界堂でお気に入りの万年筆のインクを手に取る。私は必ずこのインクと万年筆で小説を書くと決めていた。とるに足らないルールだ。でもそれを決めたときの私には、それがすごく大事なことに思えた。風の中でマッチの火を消さないみたいに大事なことに。
 早く帰って続きを書こう。せっかく筆がのっていた所だったのに。冷凍された死体のように凍り付いた町をいそいそと歩く。本当は知っている。完璧な小説なんて存在しないことを。完璧な絶望が存在しないように。それでも私は、ありもしない完璧を探すのだろう。砂浜に水を撒くような途方もない作業だ。それでもいいさ。堪え忍ぶのが、忍か。やれやれ。
 固くもなく、べっとりと湿ってもいない雪が降り始めたが、その殆どは、ゆっくりと空から舞い降り、積もる前に溶けた。インクは手に入れた。次は私の書く小説について考える番だ。間違えないように、松明が消えないように。
 

第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:35

空ろな涙

 握りこんでいたボールペンのインクが切れたのが契機だった。そこが限界だった。耐えていた、文字にすることすら控えていた何かの。

「私、帰りますね」

 言いながらペンをぱちん、と閉める。ぬるくなってしまったカフェオレの水面がかすかに円を描く。話していた相手ははたと沈黙する。

「どうして」

 彼は問う。困惑に満ちた声。

「どうしてって、帰りたいからですよ。もっと詳細に言うのであれば、今の私はあなたの話を冷静に聞いていられるような状態じゃないからです。仕方のないことでしょう?」

「怒ってるの?」

 吐きたくもない溜息を吐きたくなってしまう。わざとらしすぎるからしないけれど。

「それがうまく伝えられないから帰るんです。私は今感情が不安定でぐちゃっとしていて、自分でもよくわからないんです。だから、この感情を伝える機会を別に設けたいと思っています。そしてあなたが近くにいると冷静に伝えるべき言葉を考えられない」

「……逃げるの?」

 なんでそうなるんだろう。

「逃げないために物理的な距離をとるのだということをお伝えしたつもりだったのですが?」

「…………」

 ごめんなさい、今のは語気が強すぎたかもしれない。でも、私にも自分がこれくらい怒ってみせていいのかわからないから、対応は保留で。

「では、また今度」

 ひとまず、しばらく離れたいんです。落ち着いたら連絡するかもしれないけれど、今の私には何も判断を任せたくありません。

 席を立ち、彼のために取っていたメモを差し出す。不可解だ、という表情のまま彼はそれでも立ち上がることはせずにメモを受け取った。その顔の中に、二割ほどの拒否感があることには、彼自身気付いているのだろうか。私が初めてこんな風に、距離を置こうとしていることに対する拒否感が。

 ふられてしまうのは私のほうかもしれないな。

 そうなってしまうことにそれほど拒否感を持てずにいながら、冷房の効きすぎたカフェを後にする。

 

 特に何かされた、というわけではない。問題があるのであれば、それはきっと、私のまとう空気と彼のまとう空気が違うということだけだ。お互いの普通が噛み合っていなかったという、ただそれだけ。あまりに違いすぎたならきっとお互いに歩み寄ろうとできた。私は、そしてきっと彼も、その歩み寄りを怠っていた。

「普通」

 なんて厄介な言葉だろう。

 駅前の横断歩道で信号待ちをしながら、カフェオレ代を払い忘れてしまったことに、今更のように気付く。

 

 *

 

 暑さのあまり、最寄り駅と家の間にある図書館に逃げ込んだ。緩慢な動きをする自動ドアが開くと書架のあるスペースほどではないがロビーから冷房の空気が流れだしてくる。涼しい空気でようやく一息つくことができる。

 ロビーの奥にある休息スペースに入る。給水器と並んだ紙コップの自販機で、少し迷ってから砂糖抜きでアイスカフェオレを買う。小さく砕かれた氷がジャラジャラとコップに投げ込まれ、曖昧な色の液体がだらだらと流し込まれていく。

 今頃彼はどうしているだろうか、まだあのカフェでココアを飲んでいるのだろうか。そうやって、自然に考えてしまうあたり、私は彼を好きでいられているのだろうと気づく。本当に私がきちんとその感情を持てているのかどうかと、彼にとってその「好き」で足りているのかどうかは別にして。

 機械からぞんざいに差し出されたカフェオレを受け取って、ロビーのソファに腰掛ける。一口飲むと、砂糖抜きのはずなのに妙に甘い。ソファ脇の窓枠に紙コップを置いて、駅で購入した新しいボールペンとノートを取り出す。いつもと同じボールペンの本体の中を、いつもと違うブルーブラックのインクが満たしている。ノートの適当なページを開いて、日付を書き込む。慣れた作業に、いつもより青い、黒。決して不快ではない違和感。そのままペン先を滑らせていく。

 私が書き物をするのは、自分の感情を整理したいときに限る。記憶のために書くことはない。必要がないからだ。私の頭の中は常に記憶の情報で、どこにも流れていかないまま溢れている。物事を人より忘れにくい、ということに気づいたのは中学生の時だった。それまでは、なんで人々はこんなにも嘘を言うのだろうと不思議に思っていた。それが何気ないきっかけで「あぁ、この人たちはわざと本当でないことを言っているのではない、間違ったことを信じていて、本当だと信じていることを伝えようとしているだけなのだ」ということに気づいたのだった。そして、ほとんど同時期にこうも思った。「でも、本当にそうやって簡単に忘れられるのなら、この人たちの世界はどんなにキラキラと輝いているのだろう」

 するするとペン先は滑り続ける。内容なんて何も考えずに、ただただ自分が思っていること、流れてきては留まり続ける記憶の破片をただただ書き連ねてゆく。

 

 忘れられたら、どんなに、

 

「みずき」

 

 耳殻が揺れた。ペンが、一瞬だけ止まって、その直後には、そのことすらも記述していく。今揺れたのは、違う、これは、あの時の感覚であり記憶だ。だって今、彼はここにいない。いたとしても、私の前で彼女の名前を呼ぶことなんて、きっとしない。

 強く打ち消すように目を瞑る。そうしたところで、さっき記憶が耳殻を揺らしたことは忘れられずに、まざまざと残っていて、そのうえで瞼が強く閉じられる感覚が、眼球にかかる圧が、同じようにまざまざと感じられてしまうだけ。どうしようもない。引かれてしまったボールペンの線のように、ぼやけも滲みもせず、強く、ひどくはっきりとそこにあり続ける。はっ、と息を吐きながら目を開いて、書き続ける。もうほとんど発作のような、記述、記述、記述記述記述────。

 

「みずき」

 声。彼の声。その声が、眠りの中でゆるく濡れた声が、思い出の中の彼女を呼んだ声が、彼が彼女を忘れていないという事実が、耳から離れない。

 けれど涙は流せない、だからインクも滲めない。ただただひたすらに、真っ白な紙を決定的な「それ以外」に、染めていくだけ。

 私は泣けない。泣いたって忘れることはできないから、それによって感情に変化が起こることがないから。泣いても泣いても、その先にあるものは不変という絶望だけだから。

 私は何も零せない。涙も、感情も記憶も、嫌いになりそうなものでさえ、過去の好きが響いて、そこから離れられない。

 ノートに今思っていることを書いたって、整理なんてされない。視覚化されたって、今は何の意味もない。少し後の私が、根気よく過去のノートと今のノートを見比べて、今から過去を引き算して、ようやく「今」の、その時の私にとってはもう過去の自分の感情を推理する。ノートに感情を書き連ねている“今”の私は、むしろぐちゃぐちゃで、片付けをしようとしたのに何もかもを乱暴に引き出してきては床にぶちまけるように、記憶の洪水を起こして止められない。せっせと手を喉に突っ込んで吐き零すだけの、心臓にナイフを突き刺して血を抜くだけの、乱暴で非効率な解体作業だ。解剖ができたらよっぽど気持ちがいいだろうに。どんどん自分の整合性が取れなくなっていく。なんでこんなことになったのかも、何を考えていたのかも、膨大な、記憶の中で何度も反芻されて、淀んで腐りきった感情の中に沈み、溢れないままに緩やかに渦を巻き、満ちていく。

 

 *

 

「みずき」

 声。彼の声。その声が、眠りの中でゆるく濡れた声が、思い出の中の誰かを呼んだ声が、耳から離れない。その声に、自分の声を重ねる。

「きらい」

 声に出して、呟いてしまう。「き」の音が掠れてしまう。

 彼のことは好きだ、嫌いになって別れを切り出すことなんて、少なくとも今はできない。

「きらいよ、きらい。すき、な、あなた」

 好きだ、好きな人だ。きらいな、好きな、人。

 そういうところ嫌いって、簡単に言ってしまえたらどんなにいいだろう。

 

 きらい、すき、きらい、きらい、きらい、

 

 私にしたのと同じように、彼はきっと彼女を愛した。その彼が好きな私は、けれど、その彼がきらいだ。

 今の私が、純然に十全に、“今の私”であればいい。過去の好きを忘れられたのならこんなに悩むこともきっとなかった。こんなに、「本当に今の私は彼が好きなのかどうか」なんて。そんなこと、悩むようなことじゃなかった、きっと。

 

 とうに記述できる気力も内容もなくなっていた。疲れ切って目を閉じていると、閉館のチャイムが鳴る。あぁそうか、ここもじき閉まる。夕方になって涼しい風が出てきただろうし、そろそろ帰らなければ。

 ぬるくなってしまったカフェオレを飲み干す。一口目がやたら薄かったのは氷が解けたからで、紙コップをごみ箱に捨てて図書館を出る。何も考えないために音楽プレイヤーのボリュームを最大にして、ただひたすらに家までの道を歩く。果てのないロンドが、頭の中でぐるぐると回る。

 家に着くと、本棚の上に載せているクラフト紙製の箱に手を伸ばした。そこにカバンの奥にしまっていた、用済みのボールペンを入れる。箱の中は掠れてしまったボールペンがいっぱいに溜まっている。何も零せない私の、それでも無理やりに零そうとしてきた痕跡。真っ黒なインクを流して、空っぽに満たされた本体たち。そこに、青みを帯びた真新しいボールペンも投げ入れる。壊れてインクが零れてしまえばよかったのに、なんて思いながら、その様子を眺めて、また箱を本棚の上にしまう。何もかもを吐き出して空ろになった自分たちを連想する。あとどれだけ、こうすれば。

 青いインクが、思考の表面だけでも、流れていけばいいのに。


 眠ってしまおう、起きて、吐き出したものを細かく分析すれば、私が何を伝えるべきなのかわかるはずだ。そうしたら彼に連絡をとって、話をしよう。

 あの日零れた彼女の名前は、私の中に秘めたまま。

第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:34

近未来の下町ラーメン屋の経営戦略

 効き過ぎた冷房の吐く冷気が室温との差によって目に見えるほど白く、窓には、店の内外の気温差によって生まれた結露がびっしりと張り付いていた。店内は、店自慢の鰹出汁の匂いで満たされていて、はねた油が床に飛び散り、踏みしめる靴を捕まえていた。油に捕まえられる靴は二人分だけで、店長とバイトの他に、客の姿はなかった。

 店長は、電子書籍化の流れによって数年前に廃刊した新聞をどこからか取り出してそこにあるクロスワードパズルを解いていて、バイトは、使われていないテーブルをもう何度も拭き直していた。

 店内には、客がいないためか重い沈黙が漂っていて、聞こえるのは、冷房の音か大釜のお湯が沸騰する音くらいだった。

「店長、ヤバイですよ」

 先に沈黙を破ったのはバイトだった。それは、長い沈黙に耐えかねた言葉ではなく、真剣にこの店の先を思っての言葉だった。

「……おまえもそう思うか」

 店長は、読んでいた新聞を半分に折りたたみ、インクの切れかけたペンを大事そうにペン立てに立てながら、顎の筋肉をほぐすように大きく口を使って言った。

「ええ、だって、もう昼の12時を過ぎてるのに、誰も来ないじゃないですか」

 バイトの言葉は本当で、時計の針は12時半を指しているのに、店内には客の姿はなかった。これは、今日に限ったことではなく、ここ最近ずっとのことだった。

「……時代だろうなぁ」

 店長は、ここ最近使い続けている言葉を口にした。それは、決して的外れな言葉ではなく、ロボットを人の代わりに雇用する世の中の風潮を考えれば、バイトとして人を雇うこの店のやり方は、時代遅れと揶揄されても仕方の無いことと言えた。

 しかし、今回は、バイトは食い下がった。

「昨日も同じこと言ってはぐらかしたじゃないですか。もうそろそろ、真剣に考えましょうよ!」

 バイトの言葉に、ついに観念したように店長はバイトに向き直った。

「……そうだな。何かアイデアはあるか?」

 試すような店長の言葉に、ずるいと内心思いながらも、言い出したのは自分だからなと思い直して、バイトは客を呼び込むためのアイデアを考え始めた。

「……やっぱり、ネットで宣伝するのが一番ですかね」

 少し考える時間を空けてから、バイトは集客術の基本とも言えるようなアイデアを口にした。世の中の全ての人々が常時ネットワークにつないでいるよな時代なのだから、ネットでの宣伝は店の存在を知ってもらうために最も効果的な方法と言えた。しかし、このような時代では、ネットの重要度は想像を絶するほど高く、それ故ネットに場所取りをするには眼が飛び出るほどの金額が必要だった。当然、業績の悪い下町のラーメン屋には払えるわけもなく、店長の答えは決まっていた。

「……金がないから無理だろうなぁ………。何か他に金のかからないような方法はないのか?」

完全にバイト頼りな店長の発言に、不満を感じながらも、バイトは次のアイデアを考え始めた。

(お金をかけないということだから、変えられるのは接客くらいで、接客に人を使っているのはウチ位のものだから……)

「他店にできない接客をすればいいんじゃないですかね!」

 バイトは、長考の末、ひらめいたように手を打って店長に告げた。

「ほら、他の店って皆安い給料でロボットに接客をさせているでしょ? だから、ウチは人が接客をするからこそできることで勝負するんです!」

 自慢げに説明するバイトとは対照的に、理解の追いつかない店長は「例えばどういった接客なんだ?」と先を続けさせた。

「そうですね、例えば……、客の注文を断っていくとか!」

 未だ渋い顔をしている店長に、バイトは順を追って説明していく。

「いいですか、ロボットは基本的に人の命令には服従しかしません。なんてったって、人に仕えるために作られたんですから。だから、他店の接客ロボットも絶対にお客さんの命令に従います。そこで、その逆をしていくんです! 例えば、味噌ラーメンを頼まれれば、醤油ラーメンを提供するみたいな。きっと斬新だって思ってくれる人がいますよ!」

「そんなものか?」

「そうですよ! どうせ失敗したって、もともと人は来ないんだし」

 興奮のあまり失言にも気づかないバイトの熱意に押され、店長も「……やってみるか」とその気になりつつあった。

「しかしなぁ、下町人情一筋でここまでやってきた俺にお客さんの注文を断ることができるかなぁ?」

 そう苦悶する店長に、またしてもバイトが手を打った。

「じゃあ、俺は客の注文をリジェクトする冷たい接客するんで、店長は客と俺をフォローするような暖かい接客をしてください。確か、店長ってそういうのが流行ってた時代の全盛期の人じゃなかったですか?」

「ああ、あれか、ツンデレだろ?流行ってたよ。…………あんたなんか別に好きじゃないんだからね!」

「古いっすねー! でもそんな感じです!」

「このラーメン、あんたのために作ってる訳じゃないんだからね!」

「事実ですねー! でもいいっす! 行けますよ!」

 そんなこんなで盛り上がった二人はその日の内に店の名前を「ツンデレラーメン」に改名して、翌日からツンデレ接客を始めた。

 

 

 改名してから2日後、二人は、相変わらず客のいない店内で盛大にため息をつくこととなった。

 何があったかと言えば、店の名前の珍しさに来訪した客を、まずバイトが「何しに来たの?」と出迎えた。面食らった客が引き返そうとすると、店長が「あんなこと言ってるけど、実はあんたが来てくれてうれしいんだよ」とウィンクをして引き留めた。何とか持ちこたえた客が注文をお願いすると、やってきたバイトが「なんか用?」と客を突き放し、終いには、「自分で頼めば?」と言って去って行った。それでも何とか注文した客に、店長が「あんなやつだけどね、根はいいやつなんですよ。これ、チャーシューおまけね」と言ってウィンクした。食べ終わって客が会計をしようと思うと、レジに座っていたバイトは3度呼ばれてやっと振り返った。そして、客がお札を出して、おつりをもらおうとしようものなら、「チッ」っとこれ見よがしに舌打ちをして、お金を受け取った。それから、おつりを渡すために数分の押し問答があり、ついに折れた客が会計を後にし、店を出て行こうとすると、店長が駆けてきて、「またのご来店を、お待ちしてるんだから!」と盛大に見送った。

 店のレビューは、瞬く間に真っ黒に染まり、「バイトの接客が最悪」「御年50の店長がデレてくる」などの悪評で埋め尽くされることとなった。

 もう何度目か分からないため息の後、沈黙に耐えかねたバイトが口を開いた。

「店長……申し訳ありませんでした……。甘んじて、くびちょんぱ受け入れます……」

 力ないバイトの言葉に、店長も力なく答えた。

「……いや、最終的に決めたのは俺だし、クビにはしないよ……、……まあ、クビにはしないけど、店の方が潰れるから、結局同じことかな……」

 店長のこの言葉に、バイトは、消えるくらいに小さくなった背中をより一層小さくした。

 店長は、真っ黒に染まったレビューを見ながら、一人しか来ていないのにどうしてこんなにレビューが多いのだろうなどと考えてはため息を吐き続けた。

 ネットが浸透したこの世の中では、レビューは絶対で、全ての人がそれを基準に店を選んでいると言っても過言ではない。そんなレビューが真っ黒に染まってしまったなら、誰もこんな店を好んで選ぶことは無いと言えた。

 店長が「人のバイトを雇う分、ラーメン一杯が高い」「ロボットに接客させた方がまだまし」などの悪評ばかりのレビューをスライドさせながら無感情に眺めていると、その中に興味深いレビューを見つけた。

──「人の行くところではない」。

言葉としては、店の運命を断つようなその言葉だったが、何か違和感を覚えた店長は、しばらくの間熟考し、次の瞬間、大きく手をたたいて、思わずそのアイデアを口に出した。

「人がだめなら、人以外を顧客にすればいいじゃないか!」

 

 

 その日から、「ツンデレラーメン」は「ロボットラーメン」と店名を改めて、油10倍!の売り文句の元、ロボット向けのラーメン屋としてリニューアルオープンした。

 売れ行きは上々で、今まで食べ物を味わったことがなかったロボットが、続々と集まってくるようになり、店長とバイトはロボットのラーメンを作ることで、忙しくさせてもらえることとなった。いつしか業績も持ち直し、バイトの数も増え、店はロボット専門ラーメン店として、広いシェアを獲得するまでになった。

 「ロボットラーメン」は、初めてロボット向けという新しいサービスを生み出した店として、たくさんのロボットたちに利用され、仕われることとなった。

第三十七回さらし文学賞 | CM(0) | TB(0) 2019.08.14(Wed) 04:34
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